言葉の海へ  高田宏  2017.11.5.

2017.11.5. 言葉の海へ

著者 高田宏 19322015編集者・作家、随筆家京都市出身で石川県加賀市育ち。石川県立大聖寺高等学校京都大学文学部仏文学科卒業。光文社アジア経済研究所で雑誌編集を経て、1964から11年間エッソ石油(現・JXTGエネルギー)広報部でPR『エナジー』を編集。大学時代の友人の小松左京や、梅棹忠夫などの京大人文研のメンバーに多く執筆を依頼し、PR誌を越えた雑誌として評価された。1975に退社し、83年より文筆専業に専念となる。代表作に『島焼け』などの歴史小説をはじめ、樹木・森・島・旅・雪などの自然、猫などをテーマに随筆・評論・紀行など著書百冊ある。その他には日本ペンクラブ理事、石川県九谷焼美術館館長、深田久弥山の文化館館長をそれぞれ務め、また元将棋ペンクラブ会長である。
小諸・藤村文学賞ゆきのまち幻想文学賞の審査員も務めていた。
1978に『言葉の海へ』(言語学者・大槻文彦の評伝)で大佛次郎賞亀井勝一郎賞
1990に『木に会う』で読売文学賞

発行日           1998.4.15. 第1刷発行                
発行所           岩波書店(同時代ライブラリー)

初出 19787月発行。84年文庫版が底本

国語の統一は、1国の独立の基礎、近代国家には近代国語辞典がいる――『言海』は大槻文彦が、玄沢、磐渓と続く一族の学問と、明治という時代の要請を一身に受けて明治24年に完成させた。子を失い、妻に先立たれ、なお17年間を近代国語辞典完成に打ち込む苦節の生涯を描く感動の伝記文学。大佛次郎賞、亀井勝一郎賞受賞

序章
M23年 妻が腸チフスでベルツに診察してもらうが死去。直前に1歳の娘も死去
M24年『言海』刊行
近代国家には近代国語辞書が必要。1国の国語の統一は、独立の基礎であり標識。それ無くして1民族たることを証することはできないし、同胞一体の公義感覚は持てない
ウェブスターの英語辞書、リトレのフランス語辞書に匹敵するものが要る
敷島ややまと言葉の海にして拾ひし玉はみがかれにけり 後京極
これが『言海』の書名の由来であり、文彦の自負

第1章        芝紅葉館明治24年初夏――大津事件、重なり合う3つの円、言海記念祝賀会
M24年 ロシアがチェリャビンスクからシベリア鉄道建設に着手、東漸策開始。ウラジオストックでの起工式に出席した皇太子が訪日、大津事件となる
M22年『言海』の第2冊出版 ⇒ 条約改正のための大きな力となるべく完成を急ぐ
この国が半国家であることの悲しみが、大槻という人間と『言海』という辞書の根にある
祖父玄沢は、杉田玄白、前野良沢の仕事を引き継いで、日本に蘭学を根付かせた
父磐渓は、西洋を深く識った漢学者で、早くから開国論を唱えた
M24年の『言海』出版祝賀会に集まった各界の名士は、条約改正への関心、反藩閥の心情、洋学を背景にした国家意識の3点で共通
福澤諭吉は、大槻の家とも縁が深いが、伊藤博文の次に名前が掲載されたため、貴顕の尾につくのはできないとして出席もスピーチも取りやめになった。文彦が『言海』を持参すると、いいものが出来たと言いながら58歳でイロハ順の染み付いた福澤は50音順であることに眉を顰め、寄席の下足札が50音順でいけるかと言った。福澤の変革を拒もうとする保守性が出ており、『言海』は新しすぎたし、日本普通語辞書がこの国で持ち得る意味に思いが及ばなかった
1国の辞書の成立は、国家意識や民族意識の確立と結ぶものであり、明治国家の大事業だったが、間もなく個人の仕事に転じ、大槻1人が17年を費やして完成させた
明治前期は次々と新語が生まれた時代。取捨選択は難問 ⇒ 自転車、馬車、ペケ、すばらしは採択、腰弁当とすてきは後に採択したが、園遊会は最後まで不採用
『言海』と並行して『広日本文典』の著述に注力、骨格は出来上がっており、「語法指南(日本文典摘録)」として『言海』の巻頭79ページにわたって掲載
国語の消長は、国の盛衰に関し、国語の純、駁、正、訛りは名教(道徳)に関し、元気に関し、国光に関するものであり、世に主張していかなければならない
日本語は、外国語と比較しても大いに勝る所あり、学者の工夫を積めば漢文をも凌駕し、洋学をも圧倒する
文彦にとって、国の独立、国の盛衰、国の道徳が最大関心事であった
『言海』の草稿は文部省の西村茂樹編輯局長に上げられていたが、なぜか後任の伊沢修二が2年握ったままになっていた ⇒ 祝宴に伊澤の名がないのとなにか関係?

第2章        洋学の血――異国船、祖父玄沢、父磐渓、海防論、洋書調所
1847年仙台藩江戸住まいの儒学者磐渓の3男として木挽町に生まれる。実名清復(きよしげ、冬至生まれで一陽来復からとった名)、通称復三郎。文部省出仕の際文彦と改称
祖父玄沢が、磐渓に洋学を継がせるために漢学を学ばせたため、外国の事情にも精通
異国船の来襲に対し無策の幕府に不満で、「開国論」を唱える
祖父は日本の蘭学史そのものを生きた人。長崎遊学前後に著した『蘭学階梯』は、オランダ語学習の入門必読の書として日本蘭学発展の原動力となった
父磐渓は、玄沢の末子。昌平黌に学び詩文の才を伸ばす。若い頃『日本外史』完成間近の頼山陽に会って同書を批判し山陽を怒らせたという
62年文彦は洋書調所(旧蕃書調所:洋学のための幕府の機関、後に開成所と改称)に入学

第3章        父祖の地――仙台帰住、磐井の激流、友
仙台に帰り藩校の教師となるが、洋学を収めるために横浜に出る
仙台在住の4年間に得た友が、後年『言海』の稿本を文部省(当時の編輯局長が伊沢修二)から下賜されて、私費で出版することになったとき、不足の資金を供出してくれた

第4章        戊辰の父と子――英学修業、京へ、奥羽戊辰戦争、嘆願
江戸の仙台中屋敷には高橋是清少年もいた
横浜では町人に身をやつし、宣教師から英語を学ぶ一方、宣教師の発行する日本語新聞の日本人編輯員として働く
大政奉還・王政復古と同時に京へ上るが、伊達藩は動かず
薩長による奥州鎮撫使派遣に対し31藩による奥羽越同盟を立ち上げ、朝廷に建白するも受け入れられず、朝敵となったために降伏
父は捕らえられ、藩外に逃亡した文彦兄弟は父の身代わりになるべく仙台に出頭。死を賭した嘆願が実って父は終身刑となり、さらに病気を理由に放免

第5章     遂げずばやまじ――辺境を論ず、独立たる標識、日本辞書編纂の命、言葉に賭ける
奥羽の人々にははっきりした北辺への感覚が流れている。その感覚は同時に外国への感覚であり、それがこの土地から多くの洋学者を生み出す。彼らは単に外国の技芸学術の習得に留まらず、国際関係への関心と国防への熱い思いを誰もが持っていた。蝦夷地が目前にあったからで、そのことが「日本」を嗅ぎ取らせていた。北辺の蝦夷地の重要性を知り、その開拓に志す慷慨の士の第1は林子平、その後近藤重蔵、間宮林蔵であり、大槻玄沢も若干の書を残したが、磐渓が藩主に開拓策を建議し、文彦がそれを継ぐ
ロシアが北に幡屈して我が隙を窺っているのを考えるからこその国防論
領土の確定に示された心は、言葉にも向けられる
我国の称号は日本(ニッポン)であって、決して「ジャパン/ヤッパン」ではない ⇒ 「ジャパン」は外国人が訛称しているだけのことで、それを改めないのは反って不見識
自らの土地のものを創り出さないでは、他の土地の人たちと肩を並べて付き合えるわけがない ⇒ 日本文法と日本辞書こそこの国に育てなくてはならない、それ無くして欧米人と付き合うのは不見識であり、恥ずべき事
外国を識る人間、自藩意識から抜け出している人間が必要
一つの集まりが大蔵省で、大隈重信、伊藤博文、井上馨、五代友厚、細川潤次郎、渋沢栄一、前島密
もう一つが蕃所調所以来の幕府洋学者群で、福澤諭吉、加藤弘之、箕作秋坪、箕作麟祥、西周、神田孝平らの大学南校を拠点とした動き ⇒ 1871年文部省創設に吸収
文彦は後者の一員となってゆくが、英語を知るほどに、日本文法の創定を思い立たせ、文法の世界各国の比較考究に没頭
日本語の語法の学の始まりを強いて探せば、平安末に束脩(入門の際の贈物)を持参して師に就いて歌文を学ぶようになった頃、師弟の授受に起こったことのよう。藤原基俊の著と伝えられる『悦目抄(えつもくしょう)』や、下って『定家仮名遣い(ていかかなづかい)』が当時の師弟の様を伝えている。鎌倉室町を通じて宮廷歌人らが一応は語法を伝えてきた
江戸開府以降は、まず契沖が梵音学から漢字音を考え、万葉集の真名の音に及んで、古仮名遣法を発見、その『和字正濫鈔(わじしょうらんしょう)』では動詞の活用にも言及
その後、谷川士清(ことすが)の『和訓栞(わくんのしおり)』が音韻活用を論じ、富士谷成章(ふじたになりあき)の『かざし抄』『あゆひ抄』が品詞を4別し、動詞の正変活用に分け入っている
本居宣長の『てにをは紐鏡(ひもかがみ)』『詞玉緒(ことばのたまのお)』で係結(かかりむすび)の法などが定まり、その子で失明した春庭(はるにわ)は『詞八衢(ことばのやちまた)』『詞通路(ことばのかよいじ)』で活用と自他を一定した
富士谷あたりから日本文典の形が整ってくるが、もともとが「歌学家一流の高尚なる専門」の事柄に属していたために、西洋文法に比べると一国の国語文法としてはあまりにも欠陥が多く、文法が科学になっていない
国際的な交流の始まりと共に、互いにその国語を知らなければ分かり合えない
72年文彦は文部省8等出仕 ⇒ 13等ある中の中間で軍では中尉に相当。文部省は前年設立で、大木喬任が文部卿で、教科書の編纂と洋書の翻訳に注力、文彦も兄修二と共に編書課に配属され洋学の牽引集団の一員となる
文彦の担当は英和辞典の編輯 ⇒ 洋学者には和漢の書に通じない者が多く、翻訳した文章を漢学者に修正(「校正」と呼んだ)させないとそのままでは使えなかったため、文彦のように英学と漢学の両方に通じて者でないと辞書の編者にはなれない
19世紀欧米諸国のナショナリズムの展開で国家意識が明瞭にされ、各国に国語大辞書を生み出させている ⇒ ドイツではグリム兄弟が『ドイツ語大辞典』を刊行中、フランスではリトレの『フランス語辞典』が終巻を迎え、アメリカでは『ウェブスター英語大辞典』の改訂が進められている。イギリスではジョンソン博士の英語辞書が批判され、『オクスフォード英語辞典』編纂の企画が熟す
英和辞書の編纂のためにまず辞書の歴史を調べると、欧米の国語辞書と国家意識との結び付き、辞書と文法との結び付きが映り、辞書編纂者は「語の批評家」ではなく「語の歴史家」でなければならないという考えに共感、後の『言海』で「語原」を重視する編纂方針の基となる。辞書は文法の規定によって作られるべきものとした
文彦は、英和辞書完成を待たずに、新設の師範学校に転任し、授業の傍ら教科書の編輯に従事したが、間もなく大阪と仙台にも学校が設立され、宮城師範学校長へ転出
75年編書課に戻り、日本の国語辞書編纂を拝命 ⇒ 後押しをしてくれたのは文部省報告課長の西村茂樹で、彼の命がなければ始動は難しかった
文彦には、立身も名声も義理も体面もなく、すべてを犠牲にしてもこの国の言葉に生涯を賭ける気であった、遂げずばやまじ、を決めていた
この年29歳で修二が隠居した後の家督を継ぐ

第6章        盤根錯節――編纂者として、論陣、日本文法の創定、父の死、渡英を断念、国語の改革、言海刊行
明治政府は富国強兵の根本に教育を置き、政府指導の国民の開化に乗り出す ⇒ 72年学制発布:必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す。全国を8大学区、1大学区を32中学区、1中学区を210小学区に分け各区に学校を置く
西村課長の重点目標は6
  教科書の文法と言葉/仮名遣いを一定する
  学術の言葉と外国の地名・人名を一定する
  日本の歴史を直す
  字引の作成
  学術用語集(エンサイクロペヂヤ)の作成
  大学校の教授を日本語でするための書の作成
辞書に不可欠の5
  発音(Pronunciation)
  語別(Parts of speech) ⇒ 品詞の別を記載
  語原(derivation)
  語釈(definition) ⇒ 語の意義を釈()き示すことで、辞書の本文に当たる
  出典(reference)
雅俗死活の別を確立したうえで、古今の日本語を見極め、選ばなければならない
外国語であっても日本語の日常語となっていればすべて採択すべきである一方、訳語からくる新造語については一定の時を待たねばならないものも多い
言葉の海に埋もれて櫂緒(かじお)絶えて ⇒ 語の採集は辞書編纂のほんの一部
文法の制定こそ、辞書編纂の第1歩 ⇒ 辞書は文法の規定によって作られるべきもの
辞書に完成はあり得ないとは言うものの、数多くの疑問が残り、特に語原については今は宿題としなければならない場合が多く、語原がはっきりしないと仮名遣いも決められない
「どぢやう(泥鰌)」は、土長の音をあてたとあるが、なぜ「土長」なのか、は不明で、「ぢ」については日常の発音に「じ」と「ぢ」の区別を残している土佐人に発音してもらって「ぢ」と決め、「とちやう(斗帳)」の次で「どちゃく(土着)」の前に入れたが気がかりが残る ⇒ 40年後文彦の死後に出版された『大言海』では「どぢョう」としているのは、文彦が後に国学者の本を読んでいた際、なかに「泥鰌、泥津魚(ドロツヲ)の義なるべし」とあるのに気づき、泥鰌はそもそも本邦に開闢以来いる魚であり、それであれば和語であるのが当然、和語なら「津」は「の」の意があり古語であれば首音を濁らないのが通例なので古くは「とろつうを」で、後になって首音の「と」が濁り「ろ」が略され「つ」が濁り「うを」が「を」と略されて最後に「どぢょう」となったに違いない。元来「泥」は盪(とろ)けたる意で清音だったが水()を冠(かむ)らせて血みどろ、汗みどろのように連声(れんじょう)で「みどろ」ともちいるようになり、やがて「み」なしでも「どろ」と発音するようになったもの。「をろがむ(拝む)」が「をがむ」となり、「こころもち(心持)」が「ここち」となるように「ろ」が略される。「厳之霊(イカツチ)()を「いかづち」と濁るように、「つ」は「づ」と濁りやすい。「うを」が「を」となるのは自然である。以上からこの魚の名は「泥之魚(トロツウヲ)」であり、それが「どろづを」「どづを」を転じて「どぢょう」となったことに確信をもって、『大言海』では「とちュう(途中)」の次にこの語を置いた
ロンドンにいた親しい先輩から渡英を勧められ家を売って資金を作るまでしたが、辞書編纂を途中で投げ出すことが出来ずに断念
文彦は生涯、つくりものの文芸を蔑視、実地を踏んだ手堅い論証に敬意を払った。30日の休みを取って伊香保、四万、草津に遊んだが、その際の紀行『上毛温泉遊記』でも自分で見たことを事細かく記述、数字と人名・地名等の固有名詞が行列する
事実と論証とを尚(たっと)び、恋歌などはたわ言で、情欲ばかりでなく喜怒哀楽をも抑制するのが人間で、それらを無制限に発していては人間社会の節度がなくなる。情のゆくままに行動して、自らを抑制する能力のないのは、小児と禽獣
「文」は「実」でなければならず、「用」でなければならない
81年文部省内に編輯局が設置され、文彦はそこの文部1等属に任命、業務は不変
辞書作りは、明治国家の文化作りでもあった ⇒ 先ずは文法、次いで国語の改革
国語科はともすると、我が国は「言霊(ことだま)のさきはふ国」として、他国の言語を蔑視しているが、冷静に諸言語を比較もしないで井の中の蛙に過ぎない
万国原語のうち優等は梵語、次いでラテン語・フランス語、さらにはドイツ語
日本語は、単複数を分かつ一定の規定がない等の欠陥はあるが、冠詞がなく、性や人称のないところは簡単であり、殊にテニヲハと助動詞の語尾変化とで他の言語に勝っている。字母も4,50で、綴字も英仏などより遥かに面倒がない。ただ「漢字を混用する」ことと「言文両途なる」ことは日本語の大瑕瑾
現在、欧州各国の公文が仏文となっているのは、ルイ13世時代にいち早く文法を改善させ、教育を徹底したことから、語法語格の端厳なことから、条約書などの公文に適していることが認められた結果
国学冷視は洋学者に多く、学もあり説もあり、口では善く弁ずることが出来ながら、それを文に作れないのは、筆の先の啞(おし)で、自国の普通文を書けないことなどあり得ない
何より求められるべきは「言文一致」であり、漢字混用からの脱出
仮名の運動から始まる国語国字問題への関心と論議は、1900年にはとうとう政府の事業として国語調査会を設立、文部省が文彦、上田万年、三宅雪嶺他の委員に「国語の将来についての大方針」の審議を委嘱(国語審議会の前身)
84年草稿完成と同時に幕府書院番頭だった内藤甲斐守の娘を娶る ⇒ 14歳年下だが、自分の全てを語って聞かせ、外へも一緒に連れ出すとともに、仕事も捗る
稿本は文部省内で記録課長物集(もずめ)高見の許に保管されたまま、86年文彦は非職(有給で待機) ⇒ 辞書編纂は完成したが、出版の話もなく何の仕事もない
8688年第一高等中学高教諭に任命
伊沢修二から、自費で刊行するなら稿本を下賜するとの話 ⇒ 周囲の協力を得て資金を工面するが、稿本を見ると印刷前に校訂したい箇所が山積でほぼ全面改訂するとともに、特製の仮名活字は、仮名1字毎に寸法が異なり、各種の符号など70余通りもあって植字が困難を極め、さらには母型にない難字は新しく木型から作らねばならない
90年原稿の「ゆ」の部の訂正中に、1年未満の次女が風邪から結核性脳膜炎で夭折
同年直後の「ろ」の部に来た時に妻が不帰の人に
翌月の91年原稿訂正終了、編輯拝命から17年を経て『言海』の刊行が終了
その間、辞書がいくつか刊行 ⇒ 85年近藤真琴の『ことばのその』、88年物集高見の『ことばのはやし』、8889年に高橋五郎の『いろは辞典』
2書は国学者の手になるもので平がな分かち書きを主にしているが従来の官撰辞書と同じく雅語辞書に過ぎず、3番目は翻訳家による辞書で挿絵入り横組み、対訳英語も載せているが以前からの節用集と似て言葉の言い換えを並べたもの
『言海』の翌年、山田美妙が『日本大辞典』を刊行、各語にアクセントを付し、『言海』にアクセント表記のないことを難じたが、所詮は小説家美妙の勝手な饒舌であふれた読み物であり、各所で『言海』の語釈を難じてもいるが、近代国語辞典としての方法論と計画を持っていないし、アクセントにしてもまだ標準アクセントを定める時期が熟していない
定価6円と高価だが陸続として売れ、中身もそれに耐え、版元をいろいろ変えながら1949年の紙型焼失まで60年近く、700近い刷版を重ねる

終章
やがて宮中からも賞讃のご沙汰書を得、次版からは巻頭に朱で刷った
92年再婚
晩年は心が仙台とその旧領に剥き、宮城県尋常中学校長などを兼ねて岩手宮城の教育に力を貸し、その地の災害に金銭を寄付し、旧仙台領出身者への育英事業を続け、著述でも終生仙台への心の傾きを筆にする
正史とされる水戸の『大日本史』に奥羽伊達家7代目が賊とされている誤りを正し冤をそそいだり、『伊達騒動実録』では歌舞伎、講談等で流布している伊達騒動の話に不愉快で、世の妄伝を正したりしたが、後者の完成は190963歳の時
文法の整備は続き、『広日本文典』の改訂、普及書の刊行など、言文一致と仮名書きの主張も続く
12年冨山房から増補改訂の勧めがあり取り掛かる ⇒ 途中肺炎に罹患、転地療養などを経て、28年瞑目。さ行まで成稿となっていたあとを兄や弟子が受け継ぎ32年「さ」までの第1巻を出版、第4巻が35年に、37年に索引が刊行された




2017.10.27. 朝日
(天声人語)新語を拾う
 近代的な国語辞典の草分けである『言海』は、起草から完成まで16年を要した。ほぼ単独で成し遂げた大槻文彦にとっての難問は、新しい語のうち、どれを載せ、どれを捨てるかであった。仕事を進めた明治前期は次々と新語が生まれた時代だった大槻の評伝『言葉の海へ』(高田宏著)によると「自転車」「ペケ」「すばらし」などが採用され「園遊会」「すてき」は見送られた。ペケの意味は「横浜居留地ニ行ハルル訛語(カゴ)、『可(ヨ)カラズ』トイフ意ヲナス」。外国との接点から広がった様子が伝わってくる新語を選ぶ苦労は今も変わらないようだ。10年ぶりに改訂される広辞苑では「安全神話」「婚活」「ちゃらい」などが載ることになった。一方で「つんでれ」「ググる」は落選した。当落線上に多くの語があったのだろう「やばい」の説明には「のめり込みそうである」が加わった。危ないわけではなく、好ましいことが起きたときに若者が連呼するようになって数年がたつ。感嘆詞のように使われている気がするが、さて広辞苑の解釈は定着するか今回の改訂版で予定される発行部数は、ピーク時の10分の1にとどまるという。無料で何でも検索でき、辞書が売れない時代である。電子版の売り上げも、紙の穴埋めには遠いという。言葉の変化にあわせて改訂が続けられるのか、少し心配になる言「海」、大辞「林」、大辞「泉」。辞書の名には自然の広がりや深さがある。荒れずに朽ちずに言葉を守り続けられるか。

春秋
2017/10/27付 日本経済新聞 朝刊
 「やばい」の語源は「やば」だという。不都合なことや危険なさまをあらわす言葉として江戸時代から使われていて、広辞苑によれば「東海道中膝栗毛」にも用例があるそうだ。これが形容詞化して「やばい」になったようだが、肝心の「やば」が何なのかは謎らしい。
江戸っ子作家の正岡容がまとめた「明治東京風俗語事典」では、「やばい」の意味がずいぶん具体的だ。いわく「犯人が警察の探査がきびしく身辺が危いこと」。たぶん、もとになった「やば」もやくざ者の隠語のたぐいだろう。そういうルーツのためか、いまでも「やばい」にはどこか物騒で、まがまがしい響きがある。
なのに不思議なもので、いつからか正反対の意味の「やばい」が登場した。若者が好物をほおばって「これヤバいっす」というやつだ。かの広辞苑も、来年発売の第7版から「のめり込みそうである」との記述を加えるという。新語の扱いには慎重な広辞苑だが、さすがにそろそろ認めないとやばい、と見定めたのだろう。
これで肯定的なほうの「やばい」も晴れて市民権を得そうである。ただ、本来の意味も健在だからややこしい。シニア世代が「安倍1強はやばい」と言えば、自民党支持が多いとされる若い人たちが「そう、安倍さんてヤバい」と勘違いの同意をしてしまう……などということがないとも限らぬ。日本語がまた難しくなる。


Wikipedia
大槻 文彦(おおつき ふみひこ、弘化4111518471222 - 1928昭和3年)217)は、日本国語学者明六社会員。帝国学士院会員。本名は清復、通称は復三郎、は復軒。
人物[編集]
日本初の近代的国語辞典言海』の編纂者として著名で、宮城師範学校(現・宮城教育大学)校長、宮城県尋常中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)校長、国語調査委員会主査委員などを歴任し、教育勅語が発布された際にいち早く文法の誤りを指摘したことでも有名である。
経歴[編集]
儒学者・大槻磐渓の三男として江戸木挽町に生まれる。兄に漢学者の大槻如電、祖父に蘭学者大槻玄沢がいる。幕末には、仙台藩密偵として鳥羽・伏見の戦いに参戦してもいる。戊辰戦争後に旧幕府側に付き奥羽越列藩同盟を提唱した父の磐渓が戦犯となった際には、兄の如電とともに助命運動に奔走した。
開成所仙台藩校養賢堂英学数学蘭学を修めたのち、大学南校を経て、1872文部省に入省。1875に、当時の文部省報告課長・西村茂樹から国語辞書の編纂を命じられ、1886に『言海』を成立、その後校正を加えつつ、1889515から1891422にかけて自費刊行した。その後、増補改訂版である『大言海』の執筆に移るが、完成を見ることなく増補途中の1928217に自宅で肺炎のため[1]死去した。なお編著『伊達騒動実録』は伊達騒動の基本資料となっている。
『言海』の出版とその意義[編集]
『言海』執筆の過程で、日本語の文法を、英語に即して体系づけてしまったことは大きな副産物といえるが、日本語の本態を抑圧したという問題を孕む。『言海』の巻頭に掲げられた「語法指南」は、これを目的に『言海』を求める人もいるほど日本語の文法学の発展に寄与し、後に『広日本文典』として独立して出版された。
19世紀20世紀にかけて、などの、いわゆる「列強」と呼ばれる各国では、国語の統一運動と、その集大成としての辞書作りが行われた。具体例を挙げるなら、英の『オックスフォード英語辞典』、米の『ウェブスター大辞典』、仏のエミール・リトレ英語版)による『フランス語辞典』、独のグリム兄弟による『ドイツ語辞典』などがある。『言海』の編纂も、そうした世界史的な流れの一環としてみることができる。
『言海』完成祝賀会[編集]
1891623、文彦の仙台藩時代の先輩にあたる富田鉄之助が、芝公園紅葉館で主催した『言海』完成祝賀会には、時の内閣総理大臣伊藤博文をはじめとし、山田顕大木喬任榎本武揚谷干城勝海舟土方久元加藤弘之津田真道陸羯南矢野龍渓ら、錚錚たるメンバーが出席した。
なお、父・磐渓以来大槻家と親交のあった福澤諭吉も招待されたが、次第書(祝賀会プログラム)で自分の名が、伊藤の下にあるのを見て「私は伊藤の尾につくのはいやだ。学者の立場から政治家と伍をなすのを好まぬ」と、出席を辞退したという逸話がある[2]
著書[編集]
言海1889 - 1891、全4冊) 新版.ちくま学芸文庫1
広日本文典(1897
広日本文典別記(1897
復軒雑纂(1902)、平凡社東洋文庫(全3巻予定)、2002年に第1巻「国語学・国語国字問題編」のみ刊
口語法(1916
口語法別記(1917
大言海(1932 - 1937、全5冊、文彦の没後完成) 新版一冊本で冨山房
脚注[編集]
^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)67
^ 高田宏『言葉の海へ』、第1章の冒頭参照
参考文献[編集]
犬飼守薫 『近代国語辞書編纂史の基礎的研究 「大言海」への道』 風間書房、19993月。ISBN 4-7599-11243
早川勇 『ウェブスター辞書と明治の知識人』 春風社、200711月。 「十三 大槻文彦の『言海』とウェブスター辞書」。
『ビデオ ことばのうみへ 大槻文彦と「大言海」』 紀田順一郎監修、紀伊國屋書店19963月。
高田宏 『言葉の海へ 大槻文彦伝』 新潮社19787月。 5大佛次郎賞・第10亀井勝一郎賞受賞。
高田宏 『言葉の海へ』 新潮社〈新潮文庫〉、19842月。
高田宏 『言葉の海へ』 岩波書店〈同時代ライブラリー〉、19984月。ISBN 4-00-2603415
高田宏 『言葉の海へ』 洋泉社MC新書〉、200710月。ISBN 4-86248-1663
大島英介 『遂げずばやまじ 日本の近代化に尽くした大槻三賢人』 岩手日報社200810月。ISBN 4-87201-3913
田澤耕 『〈辞書屋〉列伝 言葉に憑かれた人びと』 中公新書2014 ISBN 978-4-12-102251-6.


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