帝都防衛  土田宏成  2017.11.20.

2017.11.20. 帝都防衛 戦争・災害・テロ

著者 土田宏成 1970年千葉県生まれ。94年東大文卒。00年東大大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。現在、神田外大外国語学部国際コミュニケーション学科教授。同大日本研究所所長。博士(文学)

発行日           2017.9.1. 第1刷発行
発行所           2017.11.20.吉川弘文館(歴史文化ライブラリー)

近代東京の安全を脅かしたものは何だったのか。
明治から昭和の敗戦までを分析し、対外戦争、関東大震災、二・二六事件など時代に要請された防衛課題を探る。
帝都がいかに守られてきたかを検討しその社会的影響に迫る

江戸の防衛施設だった「お台場」――プロローグ
台場とは砲台のこと。1853年黒船来航の際オランダの技術を用いて作られた最先端の軍事施設だが、1855年安政の大地震により台場も一部崩壊
現在は第3と第6台場のみ保存
本書のテーマは、近代日本の帝都東京は、何からどのように守られてきたか
近代東京を襲った人為と自然の災害とそれらへの対処を検討し、さらにその社会的影響を論じる

日露戦争までの帝都防衛
l  帝都防衛態勢の形成
当初東京の軍事施設は政府そのものを防衛するため、政府機関の集中する皇居周辺に配置
薩長土の軍隊を御親兵(ごしんぺい)として政府の管轄下に入れ、各藩の軍隊を解体し、4つの鎮台に組み入れ。72年に御親兵は近衛兵と改称、73年の徴兵令で全国6鎮台に配属
外敵からの首都防衛については、東京湾への外敵侵入を防ぐため湾口に砲台を建設,最初が80年の観音崎、81年の富津海堡、海軍根拠地として建設されたのが横須賀鎮守府
74年東京警視庁設置、同時に軍事警察である憲兵制度創設
2次大戦前は、警察が消防も管轄
88年 鎮台制から師団制に ⇒ 皇居周辺から外側に移転
1894年 日清戦争 ⇒ 近代日本で最初の本格的な対外戦争であり、東京湾要塞の戦備を進めようとしたが、弾薬類にも事欠く有様
95年に防務条例が公布され、開戦半年後に初めて本土の重要拠点を防衛するための方法が正式に定められた ⇒ 戦後は軍拡により帝都防衛の軍備も拡充
東京防禦総督が置かれ、天皇に直隷して東京防御に当たるとともに、東京の「衛戍(陸軍軍隊が恒常的に一地に駐屯し、駐屯地の警備や軍隊の秩序などの監視、軍施設の保護に当たること)」勤務も統轄
陸海軍の勢力争いから1901年東京防五禦は陸軍、東京湾防禦は海軍という地域分担確立

l  日露戦争時の帝都防衛
1904年日露開戦で帝都防衛態勢の強化
ウラジオストック艦隊の太平洋進出に脅かされ漁船に若干の被害があったが、日本艦隊による撃破によって脅威は取り除かれる
講和条件に不満を爆発させた日比谷焼打ち事件の際に、東京衛戍総督が重要な役割を果たす ⇒ 緊急勅令により一部地域に戒厳令の一部規定を適用。1カ月弱で民心は鎮静化、3カ月後には戒厳廃止。死傷者は500人を超えたが、軍隊による銃剣の使用はなかった

日露戦後の帝都防衛
l  都市暴動への治安出動
東京の治安を脅かすものは国内問題 ⇒ 06年電車賃値上げ反対運動に伴う暴動、13年第1次護憲運動に伴う暴動、14年シーメンス事件に伴う暴動、18年米騒動
火災対策では、1899年鉄管が使われ、浄水施設も備えた水道完成、消火栓整備
地震対策では、1891年の巨大濃尾地震の被害を機に本格的な調査・研究が始まる
1894年東京で直下型地震(死者24)、庄内地震(死者726)96年三陸地震津波(死者22千人)、陸羽地震(死者209)
水害対策では、荒川の洪水が続き、東京で最も警戒を要する自然災害となっていた

l  災害出動
1907年台風による水害 ⇒ 利根川、荒川、多摩川が氾濫。被災者8万人
1910年台風による水害 ⇒ 関東、宮城県中心に全国で死者1359人、被災52万戸
これを契機に中川放水路開鑿、完成は23
災害時の救護を主体とした軍隊の活動については規定がなく、濃尾地震では現地指揮官の判断により行われた
1907年の水害では、東京府知事が陸軍大臣に対し近衛工兵隊の派遣を要請
1910年衛戍条例に災害時の出動を明記
暴動対応と災害出動が同時並行的に行われた

l  関東大震災前の帝都防衛態勢
在郷軍人会や青年団の災害時における組織的な活動もあって、衛戍総督の存在が不必要となり20年に廃止
東京湾口の防備は整ったが、航空機による攻撃への防禦という新たな問題発生
防空活動の1つに灯火管制 ⇒ 21年に実施しようとしたが治安上の問題が優先され実施に至らず
日本における航空兵器の研究は、07年の気球から始まり、陸海軍合同で進む
1919年フランスの航空団を招き、航空技術の取入れに走る ⇒ 首都圏にも飛行場が設けられ海軍は霞ケ浦に、陸軍は立川に建設
非常災害地策としては、1917年の台風による水害の教訓をもとに、災害時における特別体制を作っての救済の実効を上げようとした ⇒ 府役所、市役所ごとに規定
1905年雑誌『太陽』の「学芸」欄に帝大助教授今村明恒(あきつね)が、「地震による損害を軽減する簡法」を掲載、大地震の襲来とそれによる被害の可能性を論じ、震災予防に関する研究成果を実際に役立てることを提唱したが、翌年の丙午の年に新聞がセンセーショナルに取り上げたために、大衆に不安が広まり、今村の説を「浮説」と却下し騒ぎを鎮静化
1915年千葉県を震源とする群発地震の発生で大地震の前兆との不安が広がるが、社会の安定を優先し、地震対策の必要性は否定された

巨大地震の襲来とその影響
l  関東大震災
23年の関東大震災は、地震に加えて火災によって被害が拡大、丸2日燃え続け東京市の40%が焼失。死者・不明は105千のうち90%が火災によるもの
政権交代の最中で山本権兵衛の新内閣が発足したのは翌2日、東京衛戍司令官も出張中で対応が遅れた ⇒ 臨時首相の内田康哉が非常徴発令を施行、さらに朝鮮人暴動の流言拡大による混乱収拾のため、被災地に戒厳令の一部適用を決定、関東戒厳司令部設置
教訓として軍官民一体となった防衛態勢の構築を模索 ⇒ 東京警備司令部設置
復興優先で、将来の災害対策は後手に

l  関東大震災後の都市防衛
1928年大阪市にて日本初めての都市防空演習実施
30年東京非常変災要務規約成立 ⇒ 非常変災時における行政諸機関の連携と役割分担、市民の組織的動員などを規定
同年国民防空協会設立

テロ・クーデターと戦争の時代へ
l  滿洲事変と関東防空演習
30年浜口雄幸狙撃
313月事件 ⇒ 政治の混乱から宇垣陸相を担いだクーデターが発覚、未遂
3110月事件、32年血盟団事件
32年五・一五事件 ⇒ 軍の青年将校と民間右翼によるテロ事件
33年警視庁に特別警備隊発足
防空対策としては32年防護団結成
戦時の到来により、「非常変災」は空襲に、その対策は防空に収斂
防空演習の重点項目として、灯火管制と共に市民による焼夷弾に対する消防訓練が加わる

l  二・二六事件と日中戦争
35年防衛司令部令公布 ⇒ 東京、大阪、小倉に司令部設置、陸軍内に地域の防衛を扱う機関が発足
36年二・二六事件 ⇒ 戒厳令の一部適用で決起部隊を鎮圧
36年家庭防火群成立 ⇒ 焼夷弾による火災対策として520戸による防火ブロックを形成し市民が協力して防火に当たることを義務付け
37年防空法成立 ⇒ 陸海軍以外の者が行う防空=国民防空を規定

日米戦争
l  日米開戦
時局防衛必携、防空旅団司令部編成
42418日ドーリットル空襲 ⇒ 外敵による初の襲撃で衝撃と混乱から、帝都防衛態勢を強化

l  東京都の誕生
43年東京府と市を統合し、東京都誕生
国民防空態勢の再検討 ⇒ 公共待避所の整備と防空壕の設置推奨

l  疎開
43年防空総本部設置 ⇒ 東京には帝都防空本部設置。建物疎開の地区指定が行われ、住宅密集地内の小空地確保を目的に55千戸の除去を目途とした
建物疎開 ⇒ 天下御免で市街地のぶち壊し
人員疎開 ⇒ 当初は「勧奨」、443月閣議決定からは半強制

帝都空襲
l  本格的な空襲の始まり
449月 帝都における「国民防空」の一元化実現
11月マリアナ基地からのB29の東京来襲開始 ⇒ 高高度で飛来する米軍機に対し、日本軍機は高高度での性能が落ちるために機銃などの武装まで取り外して軽量化し、体当たり以外に攻撃方法がない航空機を「震天(しんてん)隊」と称して飛ばして牽制

l  東京大空襲
45127日銀座中心地域、2月には艦載機による関東地方への爆撃、目標は飛行場                                                                                                                                                                                                                                                219日米軍の硫黄島への上陸開始
310日東京大空襲 ⇒ 避難は認めたが、焼夷弾に対する市民による初期防火という原則を変えることはなかった
413日陸軍造兵廠を目標、15日南部市街地、524,25日罹災22万戸

l  本土決戦における帝都防衛
454月本土決戦に備えた「決号作戦」策定
525日の空襲では皇居も焼け、皇居の地下防空施設の補強工事開始
皇土保衛に「帝都固守」が含まれ、東京防衛軍の戦闘序列が決まる
820日灯火管制解除、22日防空そのものが終止

帝都防衛の終焉――エピローグ
その時々における政治と外交・安全保障・経済・社会のありようがよく現れている
1015日をもって内地部隊の復員完了
占領統治下の非軍事化、民主化政策により、従来の防衛態勢は解体、警視庁は存在したが、中央集権的な警察制度は改められ、48年には警察から消防が独立、50年警察予備隊創設
戦後の新しい防衛態勢の構築が始まるが、戦後のそれは「帝都防衛」ではなく「首都防衛」として改めて論じられるべき



帝都防衛 土田宏成著 近代の東京をどう守ったか
2017/10/7付 日経
 明治から第2次大戦に敗戦するまで、近代日本の帝都東京はどのように守られてきたか。戦争、暴動などの人為的な被害だけでなく、地震や洪水といった自然災害を含めて考察した。
明治新政府にとって東京の治安維持は重要課題だった。徴兵令の発布、東京湾口への砲台の設置、警視庁発足など次々と打ち出す施策は、外敵とともに、国内の反乱勢力を抑える狙いがあった。軍隊と警察の両方の性質をもつ憲兵制度の創設は、盛り上がりをみせた自由民権運動に対抗する措置でもあった。
 日清、日露戦争に勝って外敵の脅威が減ると、帝都防衛は暴動への対応に重点を移す。だが、死傷者が増えると、政府への批判は強まる。政府は武器使用について悩み続けたようだ。
 東京は関東大震災で大規模火災の恐怖を経験する。空襲を受けた場合、木造建築の多い日本の都市はどうなるか。軍官民は一体となって防空演習を繰り返し、消火能力を高めたが、第2次大戦で米軍が行った焼夷(しょうい)弾による無差別爆撃に対しては無力だった。
 本書の分析から東京が河川の氾濫から空襲まで実に多くの被害をくぐり抜けてきたことがわかる。東京大空襲で焼ける下町の様子にみとれる伊藤整の日記を盛り込むなど、臨場感をもたせる工夫もみられる。(吉川弘文館・1700円)


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