世界の技術を支配するベル研究所の興亡  John Gartner  2017.2.23.

2017.2.23. 世界の技術を支配するベル研究所の興亡
The Idea Factory Bell Labs and the Great Age of American Innovation

著者 John Gartner ベル研究所が黄金時代に本拠地を構えていたニュージャージー州マレーヒル近隣で育つ。コーネル大卒後、0411年ニューヨーク・タイムズ・マガジン誌(ニューヨーク・タイムズ紙の日曜版別冊)の記者として科学、ビジネス、社会、経済の記事を担当。10年かけて書き上げた本作品にてデビュー。発売されるなり、『スティーブ・ジョブズ』の評伝作家ウォルター・アイザックソンから、「現代における最も重要なテーマ〈何がイノベーションを起こすのか〉についての見事な探求がなされている」と絶賛される。また、ニューヨーク・タイムズ紙の名物書評家ミチコ・カクタニ(1983年からタイムズ紙の書評欄を担当)による「2012年のベスト10冊」にもランクイン。同紙ベストセラーに選出された。ほかにもウォール・ストリート・ジャーナル紙やエコノミスト誌、ビジネスウィーク誌、ワイヤード誌といった主要紙誌の書評を席巻、高い評価を得ている

翻訳 土方奈美 翻訳家。米国公認会計士。日本経済新聞を経て、08年より翻訳家として独立。経済、金融分野を主に手掛ける。

解説 成毛眞 HONZ代表。インスパイア取締役代表

発行日           2013.6.30. 第1
発行所           文藝春秋

巨大独占資本AT&Tによる庇護の下、ノーベル賞級の科学者たちを全米から招集。人類の知を一変させるイノベーションを引き起こした
ベル研究所が作り出した今日のわたしたち
n  携帯電話の原型となった蜂の巣型移動体通信網の発明
n  パソコン、タブレットを動かすトランジスタの発明
n  GPSを可能にした通信衛星の開発
n  今日の全ての情報処理、伝達のもとになったデジタル情報理論
n  太平洋戦争で日本を破ることになったレーダー


プロローグ アイディアはどこで生まれるか
本書は、ベル電話研究所(通称、ベル研究所)を舞台にした数人の男たちの活躍を通じて、近代コミュニケーションの起源に迫ろうとしている。だが、それ以上に重要なテーマはイノベーションの起源――それがいかにして、なぜ、そして誰によって生み出されるのか。イノベーションが科学者、技術者、企業経営者のみならず、我々すべての人間にとって重要である理由も考察
具体的には、1930年代後半から70年代半ばまでのベル研究所の日常を描く。アメリカ中の秀才がシリコンバレーに押し寄せるようになるまでの数十年、彼らが目指したのはニュージャージー州だった
絶頂期の60年代末には、1200人ほどの博士保有者を含む15千人がいた。アメリカの知的ユートピアであり、未来はそこから生まれた。20世紀の大半を通じて、ベル研究所は科学の世界で最も革新的な組織であり続けた
元々は、世界中の通信網を構築しようとしていたAT&Tの研究開発を支援するために設立され、70年代末には通信システムを完成させたのはベル研究所の功績
過去60年で我々の技術力は大きく進歩したが、イノベーションの原理はさほど変わっていない。ベル研究所のノウハウ――厄介な問題を理解し、解決策につながりそうなアイディアを集め、想像を超えるほど大規模なシステムの部品として使えるような製品に仕立て上げる仕組み――は、解決不可能と思われる課題(情報の氾濫、伝染病の蔓延、気候変動など)が山積する今日、特に検討する価値がある

第1部        天才たちのイノベーション
第1章        主役は科学者たちだった――――20世紀初めの電話産業界、活躍したのは、昔ながらの技術屋ではなく、科学者だ。物理学者マービン・ケリーらは真空管の改良に励み、一大事業へ挑む
ミズーリ州出身のマービン・ケリー(1894)は、アメリカ人の独創性と起業家精神を体現する国民的英雄とされたエジソンに憧れ、ミズーリ鉱業学校から23年にノーベル物理学賞となったミリカンのいるシカゴを目指す。ミリカンはその後カリフォルニア工科大学をアメリカ最高の科学教育機関に育て上げ、最も優秀な弟子を次々とAT&Tに送り込む
ベルの特許切れで、AT&Tの独占に懸念が生じ始めたころ社長になったのがベイル。政府が電話システムの独占に好意的なことを見抜いて、政府の許可のもとに独立系電話会社を傘下に収めると同時に、自らのシステムの改善に向けた技術者集団を作って単一システムによるユニバーサルサービスを目指す
技術面での最大の問題は通話可能距離 ⇒ 1915年のサンフランシスコ万博のために、13万本の木柱をつないだ大陸間横断の電話線を敷く
ミリカンの弟子の中から、16年にはハービー・フレッチャーが、17年にはケリーがベル研究所にスカウトされる

第2章        トップレベルの頭脳をスカウトする――1925年、NYにて正式発足。所是は、数十年先を見越した基礎研究。大恐慌末期、真空管研究グループの名声の下、全米から優秀な新入社員を集める
AT&Tの技術部門と、同社傘下の地域電話会社の設備関係の製造部門だったウェスタン・エレクトリックの技術部門が合体して1925年両社の折半出資によりベル電話研究所設立
人間のコミュニケーションに関係のある事なら何でも研究対象
学際的な集団としての科学者が、個人若しくは少人数のチームより優れていることを証明
真空管グループを率いたのがケリー
大恐慌で電話契約者が激減、海底ケーブル敷設の夢も無期限停止状態に追い込まれる中、真空管の性能を飛躍的に向上させることに成功
このころスカウトされた人材には、MITからショックレーとフィックス、カルテックからはウールリッジ、ピアースとべーカー、タウンズ
入社の最初に、将来的に自分が取得する特許に関するすべての権利を研究所に譲渡するよう求められた

第3章        産業界の巨人AT&Tの膝元で――電話システム強靭化のために繰り返される終わりなき実験。だが、理論物理の天才ショックレーは、真空管に代わる野心的なあるアイディアを思いつく
大恐慌は結果的に、科学知識の蓄積に寄与した部分もあった ⇒ ベル研究所も勤務時間の短縮に追い込まれた結果、若手研究者が空き時間にコロンビア大の講義を受けたり、互いの知識を深めようと社内で勉強会を始めたりしていた
ベル研究所の仕事は、2人の人間が世界中のどこにいようと、相手が目の前にいるようなはっきりとした会話ができるようにすること、それも経済的かつ効率的にできるようにする設備を考案し、開発すること
当時の通信システムで最大の懸案は、継電器と真空管で、いずれも壊れやすく消費電力が大きく、かつ大量の熱を放出する
カルテックからMITに行ったショックレー(1910)が、ケリーに触発されて新たな開発に挑むが失敗、第2次大戦で中断

第4章        戦争は発明の母である――戦争協力によりベル研の技術は飛躍的に進歩。ショックレーの助言でUボートは撃沈、ジム・フィクスによるレーダーは米国を勝利に導く
40年半ばには、軍事用電子機器の開発のため、ベル研究所は研究をストップ
ショックレーとフィクスが研究したのはウランの兵器への応用だったが、成果は原子炉の作り方を考案
ショックレーは、レーダーという新技術の応用法も開発
科学的研究は未知なるものの探求であり、優れた発見は国や国境といった枠組を超えて伝播、科学者の業績は国際会議や共同研究によって幅広く共有され、議論され、発展していった。一方で、技術とは、社会に影響を与える問題に科学を応用する行為で、科学という人類共通の水源を使って、自らの属する産業や国家に役立つものを創るのが技術者
戦争が強力な発明の推進力となる ⇒ 膨大な資金がベル研究所にも流れ込み、戦車用の無線設備、酸素マスクをかぶったパイロット用の通信システム、機密文書の暗号化機械等の受注をこなし、出征した男性の代わりに女性を採用、さらにはAT&T上層部に根強く受け継がれてきた反ユダヤ主義を排し、初めてユダヤ人を採用
フィスクのレーダー開発 ⇒ 戦争の大きな勝因。原爆の20億ドルより多い30億ドルを投じている。契機となったのは、30年代に海軍研究試験所で、発信器から空中の航空機に無線周波パルスを送るとその一部が跳ね返ってくるのに気づいたことで、37年海軍がベル研究所にレーダー技術の改良に協力を求める
イギリスでは既に使われており、マグネトロン(空洞磁電管)と呼ばれる真空管に代わる技術を用いた高性能のレーダー ⇒ フィスクがMITと共同で開発を担当、ウェスタン・エレクトリックで製造されたレーダーによってUボートが次々に撃沈された
終戦を見据えて、戦後に爆発的な成長が見込めるエレクトロニクス業界でいかに生きるべきかの議論が始まり、戦争に駆り出されていた元の研究者たちを呼び戻した

第5章        シリコンか、ゲルマニウムか――半導体にふさわしいのはシリコンか、それともゲルマニウムか。物理学者が描いた設計図に沿う新素材を開発するべく、化学者と技術者たちも奮闘
42年、ニュージャージー州マレーヒルに本拠を移転 ⇒ ケリーが目指したのは、学際的なグループを作り上げることによって、新たな電子工学技術に挑戦すること
45年、ショックレーを頭にソリッドステート(電子回路・部品)関連の研究開始 ⇒ 通信システムのための新しい部品の開発プロジェクト。才能ある冶金学者によってもたらされた材料の革命が大きく寄与。特に関心を持ったのはシリコンだが、それに先立って物理学者は、半導体の多くはそれぞれの基本的な原子構造に応じて特異な行動を示すことを突き止めていた。20世紀初頭、半導体は温度が上昇すると導体とは正反対に伝導性が高まることを発見。半導体の中には光に当てると電流を発生させるものがあり、中でも魅力的だったのは、電気信号を一方向だけに流す整流の機能があったこと(交流を直流に転換できる)
シリコンの純度を高めることにより、飛躍的に伝導性が向上することを発見
希少金属では、ゲルマニウムもあったが、軍が保管している僅かな量しかなかった

第6章        トランジスタの発明――二人の若手がトランジスタの発明に成功。嫉妬に燃えるショックレーは部下の手柄を横取りしようと画策。これはベル研では掟破りの行為だった
47年末、グループの2人の若い科学者バーディーンとブラッテンが突然ある実験から顕著な増幅効果を発見、トランジスタと名付けられた ⇒ 2つの点と基板という3つの構成要素を持ち、相互コンダクタンスtransconductanceもしくは伝送transferという言葉とバリスタ(2つの電極を持つ電子部品)を組み合わせた略語
特許は取ったものの、トランジスタの価値が高いだけに、1社で独占することは規制当局がAT&Tの公共性を疑い、独占体制を見直すきっけかけになりかねないことを恐れ、486月に特許出願と同時に技術の詳細を公開 ⇒ 最先端の冶金学、量子物理学、電子工学の知識が必要だったので、理解できたのは一握りの固体物理学者だけ
グループヘッドのショックレーは、自分が重要な発明に関与していないことに嫉妬、研究所の掟を破って、2人の点接触型の構想をもとに、より優れた性能を持つ接合型トランジスタの構想を発表 ⇒ 相手の社会的地位や所属部門に関わらず、同僚から助けを求められたときは協力しなければならないとか、部下を指導することはできても干渉すること、ましてや競争することは絶対に許されないとか、アイディアは隠し立てせずに交換するというルールがあった
3年前の原子爆弾の発明も、新たに発見されたばかりのプルトニウムという新素材の秘める力と恐怖を見せつけたが、トランジスタの場合も、僅かな不純物を含む1gに満たないゲルマニウムの力によるもの ⇒ 真空管より遥かに小型で省電力な電子部品でありながら、増幅やスイッチングという同じ働きができ、電話ネットワークの堅牢性や速度の向上に貢献したのみならず、コンピューターなどの電子機器の小型化・高性能化を可能にし、今日の情報化時代の火付け役となる
新聞の多くはこの装置の重要性を理解できず、ニューヨークタイムズ紙も僅か4パラグラフで46面のラジオ・ニュース欄に追いやったのは、編集者の判断ミスとして後世に残る
エレクトロニクス業界では熱狂的に受け入れ、学術界での関心も誘う
新たな科学的発見を用いて、全く新しい方法で技術者が生み出したものが発明であり、特許もその発明に対して与えられる
イノベーションという言葉は、16世紀のイギリスで生まれ、当初は新しいモノやアイディア(多くの場合は哲学や宗教に関するもの)が社会に登場することを意味していた。20世紀半ばでは、アイディが「発見」を生み、「発見」が「発明」を生むという流れの中で、「イノベーション」はアイディが広く普及するような技術的製品若しくはプロセスに変わるまでの長々とした変化のプロセスすべてを指す言葉として使われるようになった
トランジスタをイノベーションに昇華させるために克服しなければならなかったのは、技術的壁と製造上の壁 ⇒ 確実に作用するものを大量に作ることは困難
最初はゲルマニウムで作ろうとしたが、自然界には完璧な単結晶が存在せず、自ら発明した装置の中で大型単結晶のゲルマニウムを育てることを思いつき、51年遂に点接触型トランジスタの量産に成功。精製されたゲルマニウムの純度は、貨物列車の荷台38台分に満載した砂糖に、塩1つまみを混ぜたものに等しい、と言われた
同時にショックレーの接合型も発表され、その優れた性能から研究所での成果を独り占めしたため、バーディーンは研究所を去り、ブラッテンもケリーに丸め込まれ、別の部門に異動。結果的にショックレーが手柄を独り占めに
ショックレーは世界最高の固体物理学者とされ、その著書『半導体物理学』はその後数十年にわたり半導体研究者必読の書となった
研究所は、トランジスタ技術のライセンスを25千ドルで供与。生涯、聴覚障碍者の支援に努力したAT&T創業者ベルに敬意を表して、補聴器の研究用には無償で供与

第7章        すべての情報は01で表せる――数学部門に加わった天才クロード・シャノンが、衝撃的な理論を打ち出す。すべての情報は01の記号に置き換えることで伝達可能をなるという
ミシガン生まれでMIT出身のクロード・シャノンが電気機械式継電器のon/offに興味をそそられ、ブール代数と呼ばれる「0」と「1」を基礎とする数学を応用することで説明できることを発見、当時誕生したばかりのコンピューターの論理回路の設計に応用しようとする
戦時中秘密通信に関する研究に従事。言語、特に英語は冗長性や予測可能性が高く、英語文の7580%は不要な重複で、暗号にも不都合。新たにPCM(パルス符号変調)という電話信号を効率的に送る仕組みを研究。アナログ波の代わりにデジタル記号を使うことを考える
メッセージの伝達を考えるとき、メッセージに含まれる情報の内容や大きさを「ビット」という単位で算出するのが有効 ⇒ ビットとは、同程度の可能性がある2つの選択肢のうち、1つを選んだ時に生じる情報を指すもので、コインのトスの結果はこの事象に関する1ビット分の情報を提供することに当たる
あらゆるデジタルメッセージは誤り訂正符号さえ含めておけば、どれほどのノイズがあろうと数学的アルゴリズムを加えることによって復元可能となり、実質的に完璧な状態で送ることができる

第8章        機械仕掛けのネズミ――シャノンは直感していた。いずれ機械は人間より賢くなる、と。チェスマシーンに電気ネズミ。彼の純粋な好奇心はコンピューターへ向かっていた

第9章        天才たちを働かせる方法――マービン・ケリーの組織論。成功の秘訣は、異分野の専門家たちを同じ場所で働かせてアイディアを交換させること。所内での教育、そしてお金も重要
独創的技術を生む組織では、臨界質量と言えるほど大量に集まった優秀な人材がアイディアを交換できるように、互いの近くで仕事をさせる必要があり、さらに彼らに必要なツールを提供しなければならない

第10章     脚光を浴びるシリコン――トランジスタの未来を担うのは、ゲルマニウムではなくシリコンだと判明。シリコン太陽電池も発明され期待が高まるが、予想外の展開を迎えることに
半導体産業のすそ野が広がって競争原理が働くよう、トランジスタの民生事業での活用のため、特許を競合他社に公開
ゲルマニウムより優れた半導体を探して、デュポンがトランジスタ用の「純粋シリコン」の製造に成功。さらに、55年には汚染されやすいゲルマニウムに対して、「拡散」という技術を使えば不純物濃度を自在に操れるシリコンが、未来を担う素材として最適ということになる
同時に作られた世界初のシリコン太陽電池は副産物
電話通信では、同軸ケーブルに代わってマイクロ波を利用した長距離通信が始まり、51年には米大陸の東西を結ぶ107個のマイクロ波塔(中継アンテナ)が完成

第11章     ベル帝国の完成――悲願の海底ケーブルが開通し、トランジスタ技術も進化。所内には戦勝ムードが漂うが、ノーベル賞を受賞したショックレーは、遂に研究所を飛び出す
北米とヨーロッパを結ぶ試みは1850年代に遡る ⇒ 電報用ケーブルを北大西洋に敷設する挑戦が何度も繰り返され、1866年カナダとアイルランド間で電報信号をやり取りすることが可能に。さらに1900年代初頭には国際的な電報送信は収益性の高い事業に成長
距離とともに減衰する電話の声は全く別の話。1950年代、両大陸間には16の無線チャネルが開通していたが、天候や大気の状態で伝送品質が大きく左右された
海底ケーブル敷設は悲願となる ⇒ 全長2250マイル、太さ1.5インチ、40マイルごとに中継器。ベル研究所によって1956年完成。ニューヨークからメイン州ポートランドまで電話線で、ポートランドの無線中継システムによってカナダ南東部のノバスコシア半島のシドニーマインズに送られそこから水中ケーブルでニューファウンドランド島のクラレンビルまで行く。そこから敷設されたばかりの大西洋横断海底ケーブルで52個の中継器を経てスコットランド・オーバンに着き、オーバンからロンドンに電話線で送られる。すべてにかかった時間は1/10秒以下。以後22年にわたり海底ケーブルは故障なし
ショックレーは、パロアルトに「ショックレー・トランジスタ」を起業するために退社。ゴードン・ムーア、ロバート・ノイス、ジーン・ハーニー、ユージーン・クライナーなどを採用
ケリーは、トランジスタチームがノーベル賞を受賞するよう奔走、56年ショックレーと若手2人の共同受賞に成功するが、ケリーの経営者としての傑出した手腕の賜物であることを疑う者はいない
49年、司法省がAT&Tからウェスタン・エレクトリックを分離するよう提訴。56年、AT&Tはコンピューターや家電市場に参入しないこと、既存保有特許8600件余りを無償で公開することを条件に和解 ⇒ ベル研究所も含む3社の関係は実質的に不変。今後もベルシステムの独占は崩れず、競合企業が電話設備産業に参入しようとしても困難
数々の成功によりベル研究所は「世界最高の産業研究所」と持ち上げられ、「組織的な科学研究の威力」とか「純粋な好奇心を大切にした」と褒めそやされた
20世紀前半のアナログ波全盛時代は、電話会社の独占体制は合理的だったが、シャノンの情報理論の力が合わさると、いずれあらゆる企業がメッセージをデジタル記号に変えて送ることができるようになり、ベルシステム解体の数学的論拠となった ⇒ ある会社の最大の成功は、衰退の始まりだった


第2部        自壊する帝国
第12章     アイディアの仕掛人――天才シャノンと経営者ケリーの中間的な存在が、ジョン・ビアース。持ち前のセンスで、実現可能なアイディアを見抜き牽引してゆく
カルテック出身のビアースは、ケリーを崇拝。アイディアは豊富だが整理ができない性分で、次世代の通信技術に関するアイディアを生み出すことを期待され、54年には衛星通信というアイディアを思いつくが、当時陸上で精巧なベルシステムがあったので、海上通信における同軸海底ケーブルに代わるものとして注目

第13章     通信衛星を宇宙に放つ――ピアースの旗振りで、シリコン太陽電池やレーザーなどの技術を総動員した通信衛星を打ち上げる。これぞ、宇宙空間を使った最強の通信ケーブル
通信衛星を実現するうえでの障碍の大部分は、衛星自体を作ることではなく、地上から信号を送受信できるだけのシステムと、空を移動していく衛星を追跡するシステムの構築にあった
同じくカルテックから39年ベル研究所に入ったタウンズは、放射の誘導放出によるマイクロ波の増幅を研究。別に太陽電池も完成
57年ソ連のスプートニク打ち上げ成功に刺激されて、アメリカでもNASAが誕生、エクスプローラーが打ち上げられて、衛星が現実に物となる
衛星計画は、ケリーの反対に遭って頓挫しかけたが、58年ケリーの退任、フィスクがトップになると「エコー・プロジェクト」として復活、60年にはNASAも巻き込んで風船型のエコー衛星を打ち上げに成功、1日で地球を12周ほどする。エコー衛星は、単に地上からの通信を中継するだけの受動衛星だったが、次の開発は、地上から投射される無線信号を受信し、100億倍に増幅してから、別の周波数に乗せて地上に送り出す能動衛星で、テルスターと命名。62年打ち上げ成功、テレビ通信が可能となる
ビアースが長年ベル研究所で主張し続けてきたのは、携帯電話の研究の強化 ⇒ 連邦通信委員会FCCが広い周波数帯で携帯電話の運用を認めれば、大変なニーズが見込まれるが、開発に取り組むまでにはまだ10年かかる

第14章     携帯通信プロジェクト――64NY万博で、ピクチャーフォンがお披露目される。同時期、移動先で電話を受け入れる通信システムも考案され、巨大な未来プロジェクトと目された
弾道ミサイルは、かつてベル研究所が軍のために開発した早期警戒システム技術に基づいていた
新たなハイテク機器を紹介するにとどまらず、情報というものがどのように機能し、どのように移動するかをアメリア政府に教えた

第15章     覇者の驕り――失策が目につき始めた60年代以降、集積回路、光ファイバー開発で競合他社に先を越され、誰もが成功を疑わなかったピクチャーフォン事業は苦戦
5060年代のベル研究所では、半導体に関する発明が途切れることなく生まれ、特許は多くの企業に供与された ⇒ トランジスタの小型化の先には、ショックレーの研究所を飛びだしたノイスによる集積回路の発明があった
さらには、ヒューズ・エアクラフトの技術者によって安定した連続性のある光線を使ってデータを送るレーザーという新たな通信手段が開発される
透明なグラスファイバーに光波を運ばせる方法も、伝送問題を解決する方法として開発

第16章     独占への揺さぶり――70年代初めまでに天才たちが去ってゆく中、ベル研の公開技術を使った新興企業がライバルとして登場。司法省も親会社AT&Tの独占を訴える
72年フィスク退任
60年代後半から、アメリカ社会は厳格な産業規制から自由競争へと変わり始め、ベル研究所の開発したイノベーションを使った複数の新興長距離電話会社がAT&Tの独占に対抗
これまでもほぼ20年おきに司法省との和解が繰り返されてきた
60年代末、マイクロウェーブ・コミュニケーションズ・インクMCIが安値攻勢をかけてきた際、FCCAT&Tにネットワークの開放を命令。74年には司法省がAT&Tを相手に独占禁止法違反訴訟を提起、ベル研究所とウェスタン・エレクトリックも共同被告人に
情報の送り方・使い方を考えるうえで革命的な変化は、グラスファイバーと携帯電話で、いずれもこの時期ベル研究所が手掛けたもの。両者は世界の通信を根本から刷新
70年代初頭、コーニングとベル研究所はそれぞれのファイバー製造に関する特許を共有することで合意、ファイバー用ガラスの透明度を上げることに腐心
携帯電話の進歩には時間がかかる ⇒ 無線通信の起源は20世紀初頭に登場した船と陸を結ぶ無線機。29年には遠洋定期船の中に無線電話が備えられる。地上での携帯無線は21年シカゴ警察が導入。第2次大戦中に飛躍的に発展。戦後はその技術を使ってまず自動車に携帯が設置、大半はモトローラ製。FCCが周波数帯域をテレビ向けに優先的に開放したために携帯は広がらず。67年漸くFCCが開放に動く

第17章     イノベーションのジレンマ――携帯電話、光ファイバーで成果を上げるも、AT&Tは分割の危機に直面。卓越した新技術は模倣され、その独占は崩れる。これは避けられない宿命だった
司法省の訴訟は通信設備市場を対象としたもので、ベル研究所を標的としたものではないが、影響は避けられず、特に資金面で十分な研究費を確保するのは困難 ⇒ 82年、司法省と和解、ベル研究所はAT&Tの傘下に残ったが、「現代のエレクトロニクス産業の大半を生み出したのはベル研究所の発見や発明」というような状況は今後は期待できないということだけは明白。ごく普通の産業研究所に成り下がる運命にあった

第18章     天才たちの晩年――学術界や産業界で厚遇され、恵まれた余生を過ごすかつての主役たち。だが、起業に失敗したショックレーは、優生学にのめり込むなど迷走を重ねる
ショックレーは恥辱にまみれた晩年を過ごす ⇒ 70歳代にはノーベル賞受賞者の「精液バンク」を作る試みに協力、自らの精液を寄付したことを公表。82年人種に関する持論を広めるために負けるとわかって加州の連邦上院議員選挙に出馬。89年前立腺癌で死去

第19章     巨人の終焉――84年にAT&Tが分割されると、ベル研ではリストラが続き、優秀な人材は流出。アメリカの技術を支えてきた昔日の面影は、もはや消散した
ベル研究所は立派な産業研究所となったが、アメリカの技術と文化において不可欠の存在ではなくなった
96年、再び分割 ⇒ AT&Tは、長距離電話と誕生間もない携帯無線事業への特化を決断、ウェスタン・エレクトリックもルーセントという新会社に分離。ベル研究所の社員の大部分はルーセントに移り、同社の研究開発部門が「ベル研究所」の看板を引き継ぐ
ドットコムバブルで業容は急拡大したが、2000年には反転、ピーク84ドルの株価は2ドル以下に。さらに研究所の有名な科学者ショーンのデータ偽造が発覚、マレーヒルのサーリネン設計の社屋も売りに出されたが何年も買い手がつかなかった

第20章     目に見えない遺産――トランジスタや情報理論は、グーグル、アップル時代に受け継がれている。だが、ベル研究所なき現在、人類の知を一変させるイノベーションは再び可能か
現代社会のどこを見ても、ベル研究所のDNAを一切含んでいないものを見つけるのは難しい、トランジスタ、レーザー、品質管理、情報技術は、コンピューター、通信、医療用の手術機器、工場での生産管理手法、デジタル写真、兵器をはじめ、数え切れないほどの産業、デバイス、工業プロセスに使われている。また多数のベル研究所OBが、グーグルやマイクロソフトなどのハイテク企業に移った。それ以上の数が、シャノンやショックレーの先例に習い、学術界に移って次世代の人材に自らの知識を引き継いだ
イノベーションの目的は、新しい技術を生み出すことだが、イノベーションで本当に重要なのは、技術そのものではなく、その技術で何ができるかだ ⇒ 通信において本当に重要なのは、どれほど人間の役に立つか
ベル研究所が「アイディア工場」だったのに対し、シリコンバレーは「アイディアの集積地」で、至近距離に集まった小さな部品が連動することで、ベル研究所に引けを取らない高性能マシンとして機能、「イノベーション・ハブ」と呼ばれるようになった
ベル研究所がやっていたような基礎研究に取り組もうとする起業家への出資はあまり期待できない ⇒ シリコンバレーでは新たな知識は生まれにくい
ベル研究所のすばらしさは、忍耐強く新たな基本的なアイディアを生み出し、膨大な技術陣を使ってそうしたアイディアを製品に仕立て上げる能力にあった
ベル研究所の成功要因のうち普遍的なものとは;
  経営トップを含めて管理職が技術に精通していること
  研究者が資金を調達する責任を負わないこと
  1つのテーマやシステムに関する研究が何年にもわたって続くこと、またそれが当然とされること
  ある研究を打ち切ることになっても、研究者が責められないこと
重要性の高い新たな知識を生み出すには、アイディアの交流を促す創造的環境のほうが、競争力学よりはるかに有効 ⇒ 消費者にとって魅力的な改良品を届けるには市場競争のほうが有効かもしれないが、大きな進歩を促すには決して有効ではない
08年のアメリカの研究では、民間部門が有望なイノベーションを生み出す理由として、連邦政府の資金援助が大きいと指摘。想像以上に資本主義と政府の関りは深い
適切な人員と組織を備えた研究所は、無用な試行錯誤を繰り返すことなく、多様な人材の総力を結集し、1人の人間の知的能力を遥かに超える創造力を以て特定の問題の解決に当たることができる。物事を理解しようとする意欲こそ、20世紀の偉大な科学者や技術者とそれ以前の研究者との際立った違いで、それが19世紀以前の研究者が為し得なかったような発明や事業的成功を勝ち得る要因にもなった
アップルやマイクロソフトなどとの決定的な違いは、ベル研究所というのはアメリカにダンプカー一杯の技術をばら撒いていったような会社で、そんなことのできる会社が再び登場することは考えられないが、個々の分野ではベル研究所が有効なモデルとなるケースが見られる



解説 「アイディア工場」での心躍る知的冒険譚
本物のイノベーションとは何か。それを意図的に生み出すための条件や方法論とは一体どんなものか。本書は真正面から問い掛けている
1925年、後に世界最大の会社となったAT&Tが、創業者の名をとってベル研究所を開設。以来、13人のノーベル賞受賞者を輩出、企業内研究所として最も尊敬されるべき研究所として、通信・情報などの分野に君臨
現代生活の基礎技術を開発し続ける ⇒ プロットフォーム技術のイノベーション
ベル研の宿命は、研究成果を格安の特許料で一律に使用権許諾しなければならないことで、研究者には特許料が入ることがなかったにもかかわらず、人類の生活をまさしく一変させる理論や技術が次々と開発されたのは、いまでは奇跡
その背景には、異分野の研究者が積極的に情報交換することを奨励するという経営思想があったらしい。研究所の建物も、研究室と事務用オフィスが別のフロアに作られ、人々がすれ違うことを強要されるような長い廊下で有名
ベル研は、原書のタイトル通り、計画的に建設された「アイディア工場」。一方シリコンバレーは「アイディアの集積地」だが、ベル研とは無縁ではいられない
1955年、ベル研を辞めた接合型トランジスタの発明者ショックレーが、母親の実家のあるマウンテンビューにショックレー半導体研究所を設立したが、上司としては信頼感や経営能力に劣るショックレーのもとを技術者たちが去り、インテルなどの最先端企業をこの地で創業
ショックレーのみならず、登場人物は実に個性的であり魅力的。すべての情報はビットで測ることができる。今では当たり前になった音楽も映画もデジタルで送受信できるという理論は、クロード・シャノンが独自に創り出したもの。さらに誤り訂正符号というデジタル化にはなくてはならない理論も創り出した。1人で全く新しい学問領域と重要な理論のほとんどを創り出したが、シャノンの趣味は一輪車やジャグリング、おもちゃ作りだったという。情報理論も彼の子供のような好奇心の対象の1つでしかなかった。彼の研究領域は、全く新しい学問ゆえにノーベル賞の授賞対象外で、賞とは無縁だったシャノンに対し、85年に第1回京都賞でその功績を称えることができたことは、日本人として誇りに思う
本書は、日本におけるイノベーション研究の基礎的な資料としても、永く利用されるであろう。巻末の「情報源」「参考文献」「注記」など、原書のままにすべてを訳出しているため、第1級の資料に仕上がっている




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ベル研究所Bell Laboratories)はもともとBell System社の研究開発部門として設立された研究所であり、現在はノキアの子会社である。「ベル電話研究所」、略して「ベル研」とも。
概説[編集]
ベル研究所とは、ベル・システム社が1920年代に設立した研究所であり、その起源はグラハム・ベル1880年にボルタ賞の賞金で設立したボルタ研究所に遡る。現在はノキアの子会社である。「Bell Laboratories」の名前は、電話の発明者Bellグラハム・ベル)に由来するといわれている。 ニュージャージー州マレーヒルを本拠地とし、その研究施設は世界中に点在する。
ベル研究所は、電話交換機から電話線のカバー、トランジスタまであらゆるものの開発を行ってはいる。が、おおまかにいうと、研究システム工学開発3つに分けることができる。研究としては主に電気通信の基礎技術に関するもので、数学物理学人間行動科学材料科学コンピュータープログラミング理論などについて行っている。システム工学に関しては電気の分野で非常に複雑なシステムを作り上げている。開発としては通信網の構築に必要としたものよりも遥かに多くのものをハードウェアソフトウェアどちらの分野でも開発した。
起源と所在地の変遷[編集]
1925に当時のAT&T社長ウォルター・グリフォードが独立事業としてベル研究所を設立した。もともとはウェスタン・エレクトリック社の研究部門とAT&Tの技術部門を引き継いだもので、AT&Tとウェスタン・エレクトリック社がそれぞれ50%ずつ出資した。最初の研究所長は Frank B. Jewett で、1940年まで所長を務めた。電話交換機など、AT&T向けにウェスタン・エレクトリックが製造する装置の設計サポートを主な業務としていた。電話会社向けのサポート業務としては、包括的な技術マニュアル(手引書)のシリーズ en:Bell System Practices (BSP) の執筆と保守がある。親会社に対するコンサルタント業務も行った。また、プロジェクト・ナイキアポロ計画などアメリカ政府の仕事も請け負った。基礎研究に携わる人員はごく一部だが、ノーベル賞受賞者を何人か輩出したこともあって、特に注目を浴びた。1940年代までベル研究所の本拠地はニューヨーク市内ビルを中心として点在していたが、そのほとんどはニューヨーク郊外ニュージャージー州に移転された。
ニュージャージー州内のベル研究所の所在地としては、マレーヒル英語版)、ホルムデル英語版)(en:Bell Labs Holmdel Complex)、クロフォードヒル英語版)、Deal Test Site、フリーホールド、リンクロフト、ロングブランチミドルタウンプリンストン、ピスカタウェイ、レッドバンク、ホイッパニーがある。このうち、クロフォードヒルとホイッパニーの研究所は現存している。エーロ・サーリネンが設計したニュージャージー州ホルムデルの建物(en)は、現在は売却されて無人のまま放置されているが、複合商業施設に改装される予定。従業員が多いのはイリノイ州シカゴ近郊の Naperville Lisle のあたりで、2001年までは最も集中していた(約11000人)。他に従業員が集中していた地域として、オハイオ州コロンバスマサチューセッツ州ノースアンドーバー、ペンシルベニア州アレン多運、ペンシルベニア州レディング、ペンシルベニア州ブレイングスビル、コロラド州ウェストミンスターなどがある。これらは2001年以降には規模が縮小されるか、完全に閉鎖された。
発明と発見の歴史[編集]
ベル研究所の絶頂期には、その施設は当時としては最先端であり、様々な革新的技術(電波望遠鏡トランジスタレーザー情報理論UNIXオペレーティングシステムC言語など)を開発していた。ベル研究所での研究により、これまでに7つのノーベル賞を獲得している[1]
1920年代[編集]
1924年、ウォルター・A・シューハートが製造工程の統計的管理手法として管理図を提案。シューハートは翌年設立されるベル研究所で引退するまで研究に従事した。シューハートの手法は統計的プロセス制御の基盤となった。これはシックス・シグマなどの現代的品質管理の先駆けである。
運営開始の初年には、よそで発明されたファクシミリの世界初の公開デモンストレーションを行った。1926年、世界初のトーキー(音声と映像の同期)システムを発明した[2]
1927年、テレビの長距離送受信実験として、アメリカ合衆国商務長官ハーバート・フーヴァーの動画をワシントンからニューヨークに転送する実験を成功させた。1928年、ジョン・B・ジョンソンとハリー・ナイキストが初めて熱雑音を発見し、理論的分析を行った(このため「ジョンソン・ノイズ」とも呼ぶ)。
1920年代には、Gilbert Vernam Joseph Mauborgne がベル研究所でワンタイムパッド暗号を発明している。ベル研究所のクロード・シャノンが後にこの暗号が破れないことを証明した。
1930年代[編集]
カール・ジャンスキーが研究に使ったアンテナのレプリカ
1931年、カール・ジャンスキーはベル研究所で長距離通信時における定常雑音を調査し、ノイズの原因となる電波銀河系の中心から出ていることを突き止めた。これは電波望遠鏡に通じる発見で、のちに電波天文学の始まりとなったが、通信に関する問題ではないのであまり集中して行うことはなかった。1933年、ステレオ音声信号をフィラデルフィアからワシントンD.C.に生中継した。1937年、ホーマー・ダッドリー英語版)が世界初の電子音声合成ヴォーダー英語版)を発明し、デモンストレーションを行った。ベル研究所の研究員クリントン・デイヴィソンは、ジョージ・パジェット・トムソンと共に電子回折現象を発見し、ノーベル物理学賞を受賞した。これは、後のソリッドステート電子工学の基盤となった発見である。
1940年代[編集]
1947年、ベル研究所で発明された点接触型ゲルマニウムトランジスタ。この画像はレプリカ
1940年代初め、Russell Ohl 光電セルを開発した。1943年、世界初のデジタル式音声暗号化システム SIGSALY を開発。これが第二次世界大戦中に味方同士の通信に利用された。1947年、ジョン・バーディーン ウィリアム・ショックレーウォルター・ブラッテントランジスタを発明した(1956年、ノーベル物理学賞を受賞)。ベル研究所の最重要発明品と言われている。同年、リチャード・ハミング誤り検出訂正のためのハミング符号を発明。特許が確定する1950年までその成果は公表されなかった。1948年、クロード・シャノン情報理論の基礎を築いた "A Mathematical Theory of Communication" Bell System Technical Journal に発表。ベル研究所の先達であるハリー・ナイキストラルフ・ハートレーの業績を踏まえつつ、それらを大幅に発展させた。シャノンは1949年の論文 Communication Theory of Secrecy Systems で現代暗号論の基礎を築いた。
ベル研究所では、ジョージ・スティビッツらが1940年代にリレーを使った計算機をいくつも開発した。
  • モデルI - Complex Number Calculator19401月完成。複素数の計算ができる。
  • モデルII - Relay Calculator または Relay Interpolator19439月。高射砲の照準計算用。
  • モデルIII - Ballistic Computer19446月。弾道計算用。
  • モデルIV - Bell Laboratories Relay Calculator19453月。Ballistic Computer の後継機。
  • モデルV - Bell Laboratories General Purpose Relay Calculator19467月と19472月に2台制作。リレー式の汎用プログラマブル計算機。
  • モデルVI - 195011月。モデルVの拡張版。
1950年代[編集]
1950年代は、本来の電話事業の技術的サポートにおける改良が主で、マイクロ波中継、オペレーターを介さない自動即時通話、中継局、電話通信用継電器 (wire spring relay)、新型交換機(5XB)などが登場した。1953年、モーリス・カルノーがカルノー図を開発。ブール代数式を扱いやすくするツールとして重宝された。1954年、世界初の実用的な太陽電池を開発した[3]1956年に敷設された初の大西洋横断海底ケーブル TAT-1(スコットランド-ニューファンドランド島間)は、AT&T、ベル研究所、イギリスとカナダの電話会社が関与した。1957年、マックス・マシューズが電子音楽演算用コンピュータプログラムMUSICを開発した。MUSICシリーズは現在の多くのコンピュータミュージックプログラムの基礎となった。ロバート・C・プリムジョゼフ・クラスカル英語版)が新たな貪欲法アルゴリズムを開発し、コンピュータネットワーク設計を進化させた。1958年、アーサー・ショーローチャールズ・タウンズの学術論文で初めて「レーザー」なるものが紹介された。
1960年代[編集]
1960年代には、Dawon Kahng Martin Atalla が金属酸化膜半導体電界効果トランジスタ(MOSFET)を発明。MOSFETは、今日の情報社会を支える大規模集積回路 (LSI) の基盤となっている。196012月、A.Javanらは初めての気体レーザーであるヘリウムネオンレーザーの発振に成功。1962年、Gerhard M. Sessler James E.M. West エレクトレットマイクを発明。1964年、Kumar Patel 炭酸ガスレーザーの発生装置を発明。1965年には、アーノ・ペンジアスロバート・W・ウィルソンが、宇宙マイクロ波背景放射を発見し、1978年にノーベル物理学賞を受賞。1966年、R.W. Chang が無線通信サービスの重要な技術である直交周波数分割多重方式 (OFDM) を開発し、特許を取得した。1968年、J.R. Arthur A.Y. Cho 分子線エピタキシー法を開発。1969年には、デニス・リッチーケン・トンプソンUNIXの開発を開始した。ウィラード・ボイルジョージ・E・スミス電荷結合素子 (CCD) を発明したのも1969年である。
1970年代[編集]
1970年代以降、ベル研究所でも世の流れに乗って、コンピュータ関連の発明が多くなってくる。1970年、それまでUNIXオペレーティングシステムの記述言語として使っていたインタプリタ方式のB言語の後継として、デニス・リッチーC言語を開発した。1971年、コンピュータを使った電話交換機用のタスク優先度制御システムを Erna Schneider Hoover が開発し、世界初のソフトウェア特許を取得した。1976年、ジョージア州で世界初の光ファイバー通信システムの試験を行った。1978年、デニス・リッチーとブライアン・カーニハンC言語の事実上の規格書『プログラミング言語C』を出版。1980年、世界初のワンチップ32ビットマイクロプロセッサ BELLMAC-32A がデモンストレーションで動作した(製品化は1982年)。
1970年代には、それまでリレーやトランジスタで構成されていた交換機から、ベル研究所が開発したTTL集積回路を使ったプログラム内蔵式の交換機へとテクノロジーが進化した。新型交換機はイリノイ州の Naperville にあるベル研究所の施設と Lisle にあるウェスタン・エレクトリックの施設で製造された。これにより交換機設置に要する床面積が劇的に減少した。また、新型交換機には自動診断ソフトウェアが搭載され、保守要員を減らすことに寄与した。これらの技術については、Bell Labs Technical Journals などでよく紹介されていた[要出典]
1980年代[編集]
1980年代には、TDMAおよびCDMAという携帯電話で使われる技術の特許を取得。1982年、ホルスト・シュテルマーと、ベル研究所研究員だったロバート・ラフリンダニエル・ツイが、分数量子ホール効果を発見(1998年にノーベル賞を受賞)。1983年、ビャーネ・ストロヴストルップC言語を拡張したC++を開発。これもベル研究所で生まれた。
1984年、Auston らがピコ秒電磁放射の光伝導アンテナを世界で初めてデモンストレーションした。これは今では、テラヘルツ時間領域分光の重要な部分を担っている。1984年、数学者ナレンドラ・カーマーカカーマーカー線形計画法を開発した。同じく1984年、アメリカ連邦政府がAT&Tの分割を決定した。分割された地域ベル電話会社のために、ベル研究所から Bellcore(現 Telcordia Technologies)が分離。AT&T本体は、ベル研究所に関する部分でのみ伝統的なベルのマークを使えるという制限を受けた。これまで正式名称は Bell Telephone Laboratories, Inc. だったが、AT&T Bell Laboratories, Inc. に改称され、ウェスタン・エレクトリックが改称してできたAT&Tテクノロジーズの100%子会社となった。このころ新世代の交換機(5ESS Switch)を開発している。1985年、スティーブン・チューのチームがレーザー冷却により原子を捕獲する技術を開発した。同じく1985年、UNIXの後継として Plan 9 オペレーティングシステムの開発を開始。1988年、大西洋横断海底ケーブルとして初めて光ファイバーを使った TAT-8 が敷設された。
1990年代[編集]
1990年、世界初の無線LAN WaveLAN を開発。無線LAN技術は1990年代末ごろまで広まらず、最初にデモンストレーションしたのは1995年だった。1991年、Nuri Dağdeviren と彼のチームが56Kモデムの技術を開発し、特許を取得した。1994年、Federico CapassoAlfred ChoJerome Faist らが量子カスケードレーザーを発明し、後に Claire Gmachl が更なる技術革新による改良を施した。同じく1994年、Peter Shor が量子因数分解アルゴリズムを考案。1996年、Lloyd Harriott と彼のチームがマイクロチップ上に原子幅の形を印刷するSCALPEL電子リソグラフィを発明した。デニス・リッチーらはLimboという新たな言語を使い、Plan 9 を元にして Inferno オペレーティングシステムを制作した。また、高性能データベースエンジン (Dali) を開発し、DataBlitz という名称で製品化した。
AT&Tはベル研究所を含めたAT&Tテクノロジーズを独立させ、ルーセント・テクノロジーズとした。その際、一部の研究者を引き抜き、新たにAT&T研究所を創設した。1997年、世界最小の実用的トランジスタ(60ナノメートル、原子182個ぶん)を作り出した。1998年、世界初の光ルーターを完成させ、音声とデータを同時に Internet Protocol (IP) ネットワーク上で転送する技術も開発した。
2000年代[編集]
2000年はベル研究所にとって忙しい年になった。まず、DNAマシン英語版)のプロトタイプを開発。3次元CGを使った広範囲な通信を可能にする漸近的ジオメトリ圧縮アルゴリズムを開発。7月には世界初の電気で発生する有機レーザーを発明[4][5](後に捏造と判明)。宇宙の暗黒物質の分布を表す大規模な地図を作成。プラスチックトランジスタを可能にする有機素材 F-15 を発明。
2002年、超伝導に関する研究において実験データを改竄したシェーン・スキャンダル英語版)を理由として、ヘンドリック・シェーンを解雇。ベル研究所での初めての詐欺行為である。
2003年、マレーヒルに New Jersey Nanotechnology Laboratory を創設[6]
2005年、ルーセントの光ネットワーク部門の担当重役だった Jeong H. Kim が学界から戻り、ベル研究所の所長となった。
20064月、親会社のルーセント・テクノロジーズはアルカテルとの合併に合意した。2006121日、アルカテル・ルーセントが業務を開始。ベル研究所はアメリカの国防関係の研究開発にも関わっていたため、この合併に対して合衆国政府は懸念を抱いた。ベル研究所およびルーセントとアメリカ政府との間の国家機密に関わる契約を扱うため、アメリカ人のみで構成される取締役会の別会社 LGS が創設された。
200712月、ルーセントのベル研究所とアルカテルの研究開発部門が合併し、新たなベル研究所となることが発表された。それまで長期にわたってベル研究所はスピンオフや解雇で人員を削減され続けていたが、この機会に久しぶりの成長を遂げた。
しかし20087月現在、科学雑誌「ネイチャー」によれば、物理学の基礎研究を行っている科学者は4人しか残っていないという[7]
2008828日、アルカテル・ルーセントはベル研究所について、基礎科学、物性物理学、半導体研究といった分野からは手を引き、ネットワーク、高速電子工学、無線ネットワーク、ナノテクノロジー、ソフトウェアといった収益に結びつきやすい分野に注力すると発表した[8]
2010年代[編集]
20154月、ノキアはアルカテル・ルーセントを$166億で買収することに合意した[9][10]2016114日、アルカテル・ルーセントとベル研究所は正式にノキアの傘下となった。





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