出雲を原郷とする人たち  岡本雅享  2017.3.5.

2017.3.5.  出雲を原郷とする人たち

著者  岡本雅享(まさたか) 1967年出雲市出身。一橋大大学院博士課程修了。サンフランシスコ留学。福岡県立大人間社会学部准教授。専門は社会学(多文化社会論)

発行日           2016.12.10. 初版第1刷発行
発行所           藤原書店

20114月から20161月まで、『山陰中央新報』で連載した『出雲を原郷とする人たち』(104)を纏めたもの
『新潟日報』(162月~5)でも『越佐と出雲』を連載

現在の島根半島が島で、今の杵築(出雲大社の住所)から美保関まで通り抜けできる海峡だったころ、波静かな海峡の両岸は、舟を休めるのに格好の場所であり、朝鮮半島東南部や九州北部を出航し本州北部沿岸を航海する人々が流れ着き、逗留し、住み着き、あるいは旅立っていったと思われる。東西航路の交流点――それが古代、人々が早くから出雲に住み着き、また出雲文化が、海の道を通じて拡がっていった所以ではないか
出雲という地名や出雲神社が列島各地にある。それは出雲を原郷とし、あるいは経由した人々による移住の足跡ではなかろうか。出雲は、この列島に住む少なからぬ人々にとっての原郷ではないか。列島各地に今も息づく出雲(地名)や出雲神社を中心に、その足跡を訪ね、原郷との縁を結び直す旅に出かけよう

発刊に寄せて  第84代出雲国造・出雲大社宮司 千家尊祐
自身修行を終え故郷に帰ってからは、折に触れて出雲大社の御祭神である大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)、また祖神である天穂日命(あめのほひのみこと)をお祀りされている全国の神社を参拝しているが、国造(こくぞう)を襲職してからは以前にも増して巡拝に努めており、1千社を超える巡拝の中で、先生の連載は指南書とも言える存在

序 海の道フロンティア
百済から瀬戸内海経由大和への文化に対し、新羅とか高句麗を通して、日本海ルートで出雲に入ってくる文化があり、新羅と結びつく出雲文化は、さらに日本海を北上して能登半島から越の国に伝播していき、さらに信州へ、関東の北部に入って南下していく
言語学の観点からも、日本海文化を特徴づける海人の文化の多くが、出雲地方を発信基地として北へ進展しており、出雲から北陸を経て東北に至る日本海側に、連続してズーズー弁が分布しているという
島根半島は縄文時代、大きな島で、今、出雲平野となっている地域は、本島との間の海峡(水道)だった ⇒ 出雲の建国神話――八束水オミヅヌ(長大な水路の意)の国引神話の舞台で、出雲の海洋文化を象徴
出雲の文化・歴史を考えるうえで手掛かりとなるのが、新羅、越とのつながりで、この3つを結び付けていたものは海流 ⇒ 対馬海流が、海上交通の流れを出雲に引き寄せ、そのあとは能登から越後・佐渡へと向かう。反対向きの人の流れもあり、博多湾沿岸には山陰系土器が多く出土
現在の島根半島が島で、今の杵築(出雲大社の住所)から美保関まで通り抜けできる海峡だったころ、波静かな海峡の両岸は、舟を休めるのに格好の場所であり、朝鮮半島東南部や九州北部を出航し本州北部沿岸を航海する人々が流れ着き、逗留し、住み着き、あるいは旅立っていったと思われる。東西航路の交流点――それが古代、人々が早くから出雲に住み着き、また出雲文化が、海の道を通じて拡がっていった所以ではないか
出雲という地名や出雲神社が列島各地にある。それは出雲を原郷とし、あるいは経由した人々による移住の足跡ではなかろうか。出雲は、この列島に住む少なからぬ人々にとっての原郷ではないか。列島各地に今も息づく出雲(地名)や出雲神社を中心に、その足跡を訪ね、原郷との縁を結び直す旅に出かけよう

²  筑前国
飯塚市に出雲という地名がある
日本書紀は、出雲国の野見宿禰が土師連(はじのむらじ)の先祖だと記す。相撲の始祖として知られる野見宿禰が、畿内に移住後、殉死の代わりに埴輪を考案し、出雲国の土部(はじべ)100人を呼んで埴輪を作ったという逸話は、出雲と土師氏の一定の史実を反映したもの。土師村の地名が筑前にある。菅原道真も土師氏の末裔で、道真への御霊(ごりょう)信仰も、「出雲の神は祟る」という畿内の貴族の観念と連なるものがあった
天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われている
古代豪族だった土師氏は技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれた古墳時代の、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である
筑前の土師と出雲は、出雲古墳群(通称・出雲百穴)からは松江産とみられる碧玉の勾玉などが出土。山陰系土器が多く出土する博多湾を遡った大宰府とは、古来より往来があった
九州には碧玉や瑪瑙(めのう)の原産地がないとされていたが、福岡県糸島市(福岡市の西隣)で玉作りの跡が発掘され、出雲からの移住者が玉作りをしていたものと推定される
勾玉や管玉の材料となる碧玉の産地は全国で4カ所のみ。硬くて質の良いものは花仙山産(松江市玉造)
出雲と九州の中間地域では生産遺跡が見当たらないところから、出雲の玉作りが、陸路ではなく海の道で飛び越えた往来があったのだろう
出雲では、西側の玄関口・神門水海(かんどのみずうみ)がある出雲平野で、糸島市の遺跡と同じ時期の北部九州の土器が多く出土
糸島市の潤(うるう)神社は、明治末に解消するまでは白木(=新羅)神社で、祭神は日本書紀が新羅から来たとする出雲の神イソタケル。糸島半島北端の町々には、白木神社が並び、いずれも祭神は同じ。ヤマトが百済と結んでいたのに対し、出雲は新羅と関係が深い

²  周防国
山口市徳地(とくじ)の出雲神社は、延喜式神名帳(927)に「出雲神社・二坐」と記された周防国の名神10社の1つだが、古文書に勧請という言葉は見当たらず、出雲から移ってきた豪族が祖神を祭ったものと考えられる
延喜式に載る出雲国以外の出雲神社(9)は、勧請型信仰の嚆矢である八幡や日吉が始まる平安末期よりずっと古く、杵築大社からの勧請などではなく、記紀よりもっと古い時代における出雲を本拠とする大きな氏族移動の結果と考える他ないとされる
出雲神社のある地域は、かつて出雲合(いもう)村といい、村の中心だった。「出雲合」は「出雲郷」の当て字で、後に合()は書いても読まなくなる。今でも地区名として出雲が残る

²  越前国
越前海岸には「反()り子」と呼ばれてきた海民の集落がいくつかある
ソリコは、舳先に長く反ったツラがついている出雲独特の刳(くり)(1本の丸太を刳り抜いて作る舟)。外海でも使われ、大正末までは、帆を掛けた大型のソリコ舟が物資の運搬にも使われたという。越前そり子の渡来時期は、およそ戦国~江戸初期に収まるが、舟とともにそれを操る人も「そり子」と呼ばれ、出雲から移住している
出雲大社で神在月、神々が集うという19社に因んだ十九社神社が存在
河野は、越前国府の武生と敦賀を結ぶ海運で栄えた村。近世は右近家など北前船(弁財船)の船主地として名を馳せた
越前国総社の祭神は、大己貴(おおなむち)=出雲大神、730年出雲よりの勧請で、御神体は河野浦に上がって府中に入ったという
江戸時代、そり子集落とされた越前海岸の城ケ谷(じょがたん)、白浜、清水谷、敦賀の立石は、盆と正月互いに呼び合い、親密な付き合いをしていたという
明治の中頃、越前の凶作凶漁から、清水谷や白浜の人々が北海道・岩内へ移住、現地でタラやスケソウダラ釣りの親方として活躍した
越前岬の北西海上55㎞に浮かぶ玄達瀬(18㎞、幅7)は、水深10300mの浅瀬で、「海の米櫃」ともいわれるよい漁場だが、対馬海流が複雑な流れをとるため海の難所としても知られる。この海底から土器が網にかかることがある

²  加賀国
金沢市出雲町は、1943年、戸板村が金沢市に編入された時、大字「渕上(ふちのえ)」が改称したものだが、村社・出雲神社は、祭神を大国主命とし、往古よりの鎮座、境内付近一帯は前田侯の狩猟の場で、出雲神社を休憩所として利用したという
金沢駅の西から西北2㎞の地帯に出雲神社という名の社が5つあるが、これだけ集中しているのは全国でも他にない。さらに西と北には少彦名(すくなひこな:大国主命と一緒に全国を回って国土を開拓した神)神社があり、名前を見ただけで出雲系とわかる神社が7社もある。5社のうち4社までが大国主神一神を祭り、一神一社というのも、古くから連綿と続いていきた社であることをうかがわせる
5社とも、海岸から45㎞にあって、犀川と浅野川で、海や潟湖(河北潟)と通じる場所にあり、出雲から海路加賀の潟湖を経て加賀平野に移住した人々が創祀したもの

²  能登国
石川県羽咋郡志賀(しか)町出雲の産土神・出雲神社の祭神は大己貴神。同地には海を渡る移住を示唆する伝承が多い
志賀町の突端に鎮座する意富志麻(おおしま=大島)神社は宗像(むなかた)3神を祭り、上流の川筋には出雲系の神社が10社近く集まっている。出雲()の隣は安津見(あづみ:)と、志賀町の地名・神社・伝承は、筑前志賀町の安曇(あづみ)と宗像の海人、そして出雲人が三つ巴となって、能登へ移住してきた歴史を刻んでいるように見える
アイ()カゼは、全国で収集した風の名の使用事例で、島根・鳥取両県が37%と最も多く、福井・石川・富山・新潟4県の合計25%を上回る ⇒ アイ系統の語は古代出雲の海民の間で発生し、その移動に伴って越方面へ伝播したものあるいは、アイの風名は大和の言語文化とは全く関係のない、出雲を中心とする海民の言語文化を特徴づけるものと言われる
アイの風は一般に、春から秋にかけて東又は北から吹く風で、対馬海流が運ぶ魚介類や海藻、木材などが海岸に吹き寄せられるという。北前船の西回り航路でも重宝された。北海道や青森・秋田でもこの風名の使用例が多いのは、北前船による伝播

²  越中国
富山市婦中町の熊野神社境内にある漆黒の御影石の碑文には、「太古の北陸一帯は出雲族によって開拓され、当神社は出雲族の氏神様である出雲の国弊大社熊野神社の系統」で、「富山人の先祖の出雲族の総氏神様として、砺波の大国主命を祭る高瀬神社とともに、最も古い神社の1つ」と記されている
出雲の熊野神社は、平安時代終わりに盛んになった紀州の熊野3山信仰より古く、出雲民族と呼ばれる人たちによって祀られた古代の神社
富山県内に熊野神社は72社存在
出雲国風土記が数ある神々の中で大神と称えるのは、天の下造らしし大神と熊野大神、佐太大神、野城(のぎ)大神の4神で、かつ出雲国内399の神社中、大社(おおやしろ)と呼ぶのは杵築(きずき)と熊野の2社だけ。室町時代の半ば頃まで出雲国一宮と言えば熊野大社を指していた。意宇(おう)地方を拠点としていた出雲国造の祖先が元々祭っていたのが熊野大神だったからで、意宇の王が出雲全土を統括し、西部に拠点を移してから、全域の神として祭り始めたのが杵築(出雲)大社の天の下造らしし大神だという
1974年、富山で出雲地域以外初の北陸における四隅突出型墳丘墓発見 ⇒ 畿内の影響を受けない出雲文化圏の血を継ぐ独自の古墳文化で、越と出雲の中間地域に見られないのは海路で伝わった証拠

²  伊予・讃岐国
道後温泉を開いたとされるのが大国主命と少彦名 ⇒ 8世紀後半の『伊予国風土記』では、瀕死の少彦名を、別府温泉の湯を伊予まで下樋(地下水道)を通して引き、その湯に浸けて命を救ったとある
延喜式に載る出雲国以外の出雲神社9社の存在は、出雲を本拠とする氏族移動の結果とされ、そのうちの1つが「出雲神を祭る岡の神社」を意味する伊予国温泉郡の出雲崗神社。現在は冠山と呼ばれ、湯神社の鎮座地としてい知られる
湯神社も式内社(延喜式に記された社の意)で、中世に遷座し、出雲崗の社に合祀、相殿(あいどの)として祭られるようになったが、そのうち人々は次第に出雲崗の社を湯神社として崇めるようになり、主客が逆転したという
冠山の隣の御仮屋(みかりや)山にも、伊佐爾波(いさにわ)神社という式内社があり、同後には3つの式内社が、もともとは南北一直線に、ほぼ等間隔で鎮座していて、その先に出雲があった
出雲との間に多くの人々の行き来がみられるが、こうした人々が行き交う道が出雲街道
松山市の遺跡から山陰系土器が大量に出土。四国では初めて山陰系土器の中でも出土地域が限られる甑(こしき)形土器が含まれていた点が注目
甑は古代中国を発祥とするなどを蒸すための土器。需とも。竹や木などで造られた同目的のものは一般に蒸籠と呼称される。円筒形ないし鉢形の土器に複数個の蒸気孔が開けられ、すのこを嵌めて米を乗せ、水を湛えた別容器()と共に蒸気で蒸しあげる
少彦名神社が集まる大洲は、熟田津(にぎたつ)の湯(道後温泉)で蘇生した少彦名がその後国づくりに来て没した地と言われる

²  備後・安芸国
広島県庄原市に出雲石という地名があり、生石(おいし)神社といって、出雲から持ち帰った小石が大きくなったのを祭っている
県内には他にも、水中に浮かぶ巨石の伝説を持つ三次市内の出雲石、三原市の「中野の出雲石」の計3つの出雲石がある
近世、領内を貫通する主要道を「往還」、そこからの脇道を「小往還」と呼んだ
出雲石は、この街道の人々の往来が生み出した伝説
人の考えや条理をも意味する「道」を教える道標の建立は、功徳にも通じるという考えが近世あった
尾道の海岸近くに「出雲街道起点の碑」が立つ ⇒ 松山と今治、多度津から尾道への海路があり、そこから石見銀山街道が始まる
この街道を通って尾道に来た出雲人の1人が第12代横綱・陣幕久五郎(18291903)。生涯の勝率95%。1994年陣幕の故郷の東出雲町と尾道市が友好都市に
近世、松江藩が藩米の売却のため尾道に設けた出先機関が出雲屋敷、後に藩士も駐在
尾道は、18世紀後半から広島藩領の村々への他国米流通の拠点となるが、諸藩廻米の中心的存在が松江藩だった。その雲州(出雲)廻米御用を務めた尾道商人の仕事の1つが、尾道市内にあった出雲屋敷への仕出し

²  紀伊国
本州最南端串本町出雲(潮崎にいく出島の地域で、串本弁では「いつも」)には、大己貴を祭る朝貫(あさき)神社と少彦名を祭る潮御岬(しおのみさき)神社が鎮座するが、12世紀末に出雲大社の禰宜・吉田氏が移住してこの地を出雲と名付けたという

²  越後・佐渡国
越後国出雲崎は、中世から佐渡へ向かう拠点港であり、江戸時代は佐渡金銀の荷揚げ港として幕府直轄の天領となり、陣屋が置かれ、北前船の寄港地、北国街道の宿場町として栄えた。その総鎮守が出雲大社を祭神とする石井神社
出雲崎の十二株山(じゅうにとさん)に一晩で育った12株の大樹で作った船で渡海する出雲大神を、多くの魚や海亀たちが佐(たす)け渡したので佐渡、帰ってきた出雲大神が鎮座したので出雲の名がついたとの伝説がある
出雲崎の最古刹は出雲山多聞寺。創建の際出雲から流れ着いた榊を棟(むな)木として本堂を建てたので、地名を浜出雲と名付け、山を出雲山と呼ぶとの由緒が伝わる
良寛の生誕の地でもあるが、その生家・橘屋の山本家は、石井神社の神事を司ってきた
新潟県内には出雲の熊野神社を主祭神とする熊野神社が24社ある。うち7社が佐渡に

²  信濃国
越の国からの入り口、信濃国水内(みのち)郡神代(かじろ)村に、出雲族の奉斎する伊豆毛(出雲は万葉仮名でこう書かれた)神社がある ⇒ 現長野市豊野町。記紀よりも古い時代の出雲からの氏族移動の結果と考える他ないとする出雲国以外の式内出雲神社9社の1

²  岩代国
新潟県新発田市米倉にかつて出雲神社だった社がある ⇒ 1906年、20社を合併し米倉神社に改称しているが、中でも一番古いのが出雲神社で、土着民の氏神だったとある
喜多方市と猪苗代町には出雲神社が集まる

²  武蔵国
出雲国以外の式内出雲神社9社の中で出雲から最も遠く離れながら2社もあるのは武蔵だけ ⇒ 入間郡の出雲伊波比(いわい)神社と男衾(おぶすま)郡の出雲乃伊波比神社
出雲祝系神社が、八高線に沿う寄居、毛呂山、入間に分布しており、伊波比は出雲氏族がいわいまつる神、氏神を意味
5世紀後半に北部九州で出現した横穴墓が6世紀半ばに出雲に伝播し、出雲の横穴式石室構造を応用した横穴墓が6世紀後半、さらに東方へ伝播したのが吉見の百穴
武蔵国に出雲系神社が多い背景には、東部に拡がる氷川、久伊豆(ひさいず)、鷲宮(わしのみや)神社群の存在も大きい。いずれも出雲臣の祖を持つ出雲から来住した出雲民族が祭った神とされる
氷川神社は、埼玉県さいたま市大宮区高鼻町にある神社式内社名神大社)、武蔵国一宮または三宮勅祭社旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社。宮中の四方拝で遥拝される一社。東京都・埼玉県近辺に約200社ある氷川神社の総本社である
主祭神は、須佐之男命稲田姫命大己貴命で、延喜式では一座として記載

²  上野国
群馬県と埼玉県の県境を流れる神流(かんな)川を挟む藤岡市本郷と神川町肥土は、もともと同じ上野国土師(はにし)郡で、埴輪製作集団、土師部(はじべ)の祖、野見宿禰を祭る
出雲の熊野大神クシミケヌを祭る社が、県内中南部から北部に多いが、越後から入って来たもの
出雲国風土記固有のミホススミを祭る社が、中南部から西北部に多いが、北信の中野から中信の上田・佐久経由する千曲川を遡って来たもの

²  大和国
桜井市出雲は、野見宿禰が来住し、土偶造りを広めたという。相撲の起源とされる勝負で宿禰が勝って領地を賜ったところから出雲の地名が残り、出雲氏の末裔が多く住む
大和には、旧国地名が多く、備後、土佐、能登など56か国に及ぶ ⇒ 古代に各国から大和に移住してきた集団が故地の名をつけたもので、西日本の国名が多く東北はない
大和での山陰系土器の出土は古墳時代の初めからで、弥生時代後期に始まる越前や加賀より遅い。松江花仙山産とされる碧玉製管玉に出雲特有の片面穿孔を施したものがある

²  山城国
賀茂川と高野川の合流するY字地帯にある賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)境内に出雲社があり、賀茂川に架かる出雲橋を渡ると出雲路町、その西には出雲寺と続く ⇒ いずれも古代、中世の愛宕郡出雲郷に由来し、山陰道を移住してきた出雲出身者が形成
出雲郷には官人になり得る一定の教養や技能を持つ者が多く、婚姻関係を外部の異性者にほとんど開いていなかった
出雲寺の西の相国寺境内から、古代出雲郷の集落跡とみられる、7世紀後半の竪穴住居と8世紀前半の堀立柱建物が発見されている

²  丹波国
亀岡市千歳町出雲は、徒然草にも「丹波に出雲という所あり、大社(おおやしろ)を移してめでたく造れり」とあるように、出雲大神宮(おおかみのみや)が鎮座 ⇒ 出雲国以外の式内出雲9社の1つで、丹波国71座の筆頭
境内から亀岡盆地東端の山裾には、奈良時代の山陰道に沿って出雲遺跡が広がる

²  播磨国
播磨国風土記は現存する5風土記の中で最も早い、710年代半ばの成立
風土記とは、和銅6(713)朝廷が諸国に、地名のいわれや古老伝承などをまとめて報告するよう求めた(続日本紀)のに対し、諸国が編纂した文書
播磨国風土記には、出雲神や出雲人が頻繁に表れ、出雲大神の伝承が多い ⇒ 最も多く登場するのは、古代の美作道と山陽道が通っていた揖保郡、龍野町辺り
野見宿禰の初出は播磨国風土記で、出雲と大和を往来中にこの地で没したことになっており、この伝説に基づく野見宿禰神社が的場山中腹にある

²  壱岐・新羅国へ
1906年オアフ島に創建のハワイ出雲大社
北海道にも、明治初年に旧鳥取藩士が移住した釧路市鳥取(旧村)や、1895年出雲の移住者が多く集まった虻田郡倶知安町出雲では、1898年出雲大社から大国主命を勧請した山陰神社が建立され、1907年に出雲神社と改称(1966年倶知安神社に合祀)
新羅と繋がる出雲文化は海路で能登から越へ伝播し、信州・北関東へと南下 ⇒ 出雲からの人の移動や文化・信仰伝播の大動脈は越方面
出雲の国引き神話でも、杵築の岬と新羅の岬、美保関と越の岬という陸の先端同士が結びつく
大和文化が畿内を中心とし放射線状に拡がったのに比べ、出雲文化は海流の道に沿った一定の方向へ、顕著に伸びているのは、政治的結合による大和世界の広がりよりも古くからある出雲を原郷とする人たちの移住がもたらしものだからで、出雲が多くの人々を惹きつける一因に、そうした潜在的なルーツへの記憶があるのではないか


あとがき
本書は2010年末発表の『島国観再考』から派生。海で繋がる多元的な世界()を、その拠点の1つ、出雲の視点から説いたもの。連載の一部を取り入れた『海の道フロンティアとしての出雲』(『現代思潮』41)を盛り込んで大幅に加筆再編し、『民族の創出』に収録



(書評)『出雲を原郷とする人たち』 岡本雅享〈著〉
2017.2.5. 朝日新聞
 ■全国の分布、執念の取材で解明
 東京の明治神宮には、正月三が日だけで300万人あまりが訪れる。しかし祭神が明治天皇と昭憲皇太后であり、大正時代に建てられた新しい神社だと知っている参詣者は多くないだろう。明治神宮は、アマテラスをまつる伊勢神宮を頂点とする国家神道が確立されるなかで、天皇を祭神とする伊勢系の神社の一つとしてつくられたのだ。
 だが、東京が属する武蔵国で最も古いとされる神社は、埼玉県大宮にある氷川神社である。氷川神社は出雲系の神であるスサノヲやオオクニヌシなどを祭神とし、埼玉県と東京都を中心に284社もある。加えて埼玉県には、「出雲」の名の付く神社や出雲系とされる横穴墓まである。それはかつて出雲の氏族が武蔵国へと大量に移動したことを暗示している。
 武蔵国だけではない。本書は、北は東北から南は九州にかけて、出雲系の神社や地名、伝説が分布していることを、度重なる取材を通して明らかにする。例えば筑前国のように、朝鮮半島に出兵したとされる神功皇后にちなむ神社や地名、伝説が濃密に残っている地域もあるので、出雲だけを特権化して語ることには注意が必要にせよ、かつて出雲の氏族が全国的に住み、独自の文化を築いていたのではないかという想像をかき立てられる。
 そこからこう考えたくなる。明治政府は、神武天皇を初代天皇として押し出すことで神功皇后を封じようとしたように、「伊勢」を押し出すことで「出雲」を封じようとしたのではなかったか。そして戦後は、明治から敗戦までの神道がすべて国家神道として批判の対象になったために、「出雲」も忘却されてしまったのではないか――。
 柳田國男をはじめとする民俗学者も、本書で記されたような神道と民俗学の接点に当たる問題を正面から論じようとはしなかった。出雲出身の著者の執念が、初めてこの空白に大きな光を当てたのである。
 評・原武史(放送大学教授・政治思想史)
     *
 『出雲を原郷とする人たち』 岡本雅享〈著〉 藤原書店 3024円
     *
 おかもと・まさたか 67年生まれ。福岡県立大学准教授(社会学)。著書『中国の少数民族教育と言語政策』など。


コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.