光陰の刃  西村健  2017.3.20.

2017.3.20. 光陰の刃

著者 西村健 1965年福岡市生まれ。6歳より大牟田市で育つ。東大工卒。労働省入省後フリーライターに。96年『ビンゴ』で作家デビュー。ノンフィクションやエンタテインメント小説を発表。05年『劫火』、10年『残火』で日本冒険小説協会大賞、11年『地の底のヤマ』で第30回日本冒険小説協会大賞、翌年第33回吉川英治文学新人賞、14年『ヤマの疾風』で第16回大藪春彦賞

発行日           2016.1.18. 第1刷発行
発行所           講談社

書き下ろし。史実に下敷きにしたフィクション

『文藝春秋』20174月号特集 「明治150年」美しき日本人50人に寄稿
「三井炭鉱近代化への執念」
一般の日本人が團琢磨について持っている知識はあまりない
三井炭鉱の近代化に尽力し、大牟田を日本最大規模の炭都に育て上げてくれた大恩人なので、もっと多くの人に知ってもらいたい
岩倉使節団に各藩から選抜された優秀な若者の1人として同行し、アメリカの最先端の技術に驚愕、MITに留学して鉱山学を履修して帰国
様々な職の後工部省に入り、官営の三池に派遣されるが、炭鉱は大湿地にあって水はけが悪いだけでなく、衛生状態は最悪。坑道は出水が凄まじく、排水技術導入が急務
西洋を視察して英国製の大型ポンプ、デーヴィー・ポンプを知る
炭鉱が三井に払い下げられた後、三井の益田孝の要請でそのまま三井に留まり、ポンプを使って排水に成功、三池を日本有数の炭鉱として稼働させる
さらに鉄道を探鉱に引き込み、有明海を浚渫して現在でも大型船が接岸できる三池港を造る。港は、石炭を掘り尽した後も街が発展していけるよう、100年先を見越しての築港
単なる西洋かぶれではなく、三池鉱も城の石垣の技術を取り入れた護岸工事がなされ、東西の技術を合体させて現在でもびくともしないものとなっており、文化遺産登録も当然
三井のトップに上り詰めた後も、日本経済の先頭に立って自らの使命を社会に尽くすことという信念は揺るがず、関東大震災に遭っても、「必要なだけの費用は無制限に支出する。金銭は気にせず出来るだけのことをやれ」と部下に檄を飛ばしている
疲弊した国民を放っておいて何の経済か、というのだが、その真意が国民に広く伝わることはなく、日本の腐敗は政府や財界の指導層の責任とするテロの標的となった

序章
1932.3.5. 日本橋の三井銀行南の表玄関で一発の銃声が團琢磨を襲う
リットン調査団の応対役で奔走中の出来事
当時、三井合名理事長、日本経済聯盟会会長、日本工業倶楽部理事長であり日本経済界の頂点
加害者の井上日召(18861967)は、大洗を本拠とする立正護国堂の一員として、腐敗しきった日本の上層部に鉄槌を下すため、一人一殺を標的にして、團の命を狙う
両者、光と陰、本来交叉すべきでない2つの魂が交わったとき、悲劇は起こった

第1章        新天地へ――安政5年~明治11
琢磨は、明治4年岩倉使節団に、国家の近代化を担うための人材育成を期した留学生となった黒田藩主のお供としてアメリカ視察に同行。シスコに上陸して大陸を横断後ボストンへ
子供のころ團家の養子に入った。後に本家破綻の際分家
将来は鉄と見極め、武士の子が鉱山掘りかと驚かれながら、開校間もないMITに入り鉱山学を学ぶ ⇒ 明治11年卒業。理学士
同時にハーバードで法律を学んで卒業した金子堅太郎とともに帰国

第2章        死の淵へ――明治1943
井上四郎(日召)は、群馬県川場村の出身。中学から沼田で寄宿生活
わからないことだらけの世の中に愛想を尽かして自殺を図るが引き止められる
やくざ稼業などを経由して大学へ、さらに渡満

第3章        無聊の日々――明治1117
琢磨は、生地に戻り、福岡県令から三池炭鉱の現地調査を命じられ、現場を視察
金子の妹と結婚
大阪、東京と教師を渡り歩く

第4章        無頼の日々――明治43年~大正3
井上は、満州から北京とすることもないまま流れて、4年後日本に戻る

第5章        再び三池へ――明治1720
琢磨は、大学を辞めてすでに金子の入っていた工部省に入省、再び三池行きを命じられる
気が進まないまま赴任したが、前回で顔見知りの納屋頭に見込まれ、2人で新たな坑口の開鑿にも着手
問題は水で、大型のポンプを使うため、石炭の消費量も莫大。それでも坑道は水没
水対策の研究に、海外視察を思いつく

第6章        再び大陸へ――大正35
井上は、袁世凱の革命に失望して日本に戻っていたが、中国の知人を訪ねて再度中国へ
反袁世凱の革命軍に潜入、革命は成功。次はシベリアを目指すが一旦帰国

第7章        開鑿――明治2027
ポンプを求めてまずアメリカに渡り、イギリスのハソーン・デーヴィイー・・アンド・カンパニー社製のデーヴィー・ポンプがベストであることを知り、イギリスに渡る
売買契約をした後の帰国途上で、三池炭鉱の石炭輸出を一手に仕切っていた三井物産から、炭鉱が民間払い下げの対象となっていることを知らされる
裏には、薩長と緊密な三井に対抗する、大隈と三菱の攻勢があった
明治21年、三井が社運をかけて三井組の総力を挙げて落札 ⇒ 年間利益23万円を基に最低落札額が4百万円、落札額は4,555千円で、2番札と2,500円の僅差
三池から追い出されたと思った琢磨は、アメリカで職を探そうと歩いているうちに、金子から呼び戻され、三井が琢磨込みで落札したことを知り、三井三池炭鉱社の事務長して雇用される
明治22年、熊本・金峰山地震発生、坑道の出水が広がる
明治25年、デーヴィー・ポンプ2基購入。同時に鉄道建設の予算がつく ⇒ 2年後に湧水がすべて汲み上げられ、炭層に達して、三池の主力坑が誕生

第8章        開眼――大正513
井上は、帰国後名を昭と変え、知人の紹介で政治結社・玄洋社の頭山満に会い、頭山の大アジア主義とともにその人柄に感銘を受ける
生まれ故郷に戻って日蓮宗に帰依し寺に籠って悟りを開くと同時に天の啓示を受ける

第9章        有明の海――明治2742
明治27年、三井が全国13カ所の鉱山事業を統合、琢磨は三井鉱山の専務理事に抜擢
石炭の積出港として新たに有明海に築港し、鉄路で結ぶことを考え、明治35年着工、明治42年完成
囚人労働を廃止するとともに、労働者の福祉を考え、納屋制度を廃止
玄洋社が筑豊に所有する炭鉱の買収案件で、琢磨と頭山が面談。玄洋社は福岡藩士が集まって出来た結社であり、お互い故郷が近いことを知る
三池にイギリスから輸入した完全鉄製櫓が初めて登場

第10章     大洗の海――大正13年~昭和4
井上は、お告げに従って東京に出るとともに、日蓮に習って昭から日召に名を変える
右翼の革新運動に取り込まれ、自分たちが日本を背負って立つとの意気込みで同志を募る
精神鍛錬の礎のための殿堂の建立を大洗で実現、昭和威信のための若者を鍛えようとする

第11章     頂点へ――明治42年~昭和5
大正3年、シーメンス事件で引責辞任した益田の後任として團が、新しい組織となった三井財閥の理事長に、中上川彦二郎の庇護を受けて三菱から引き抜かれた慶應閥の筆頭の朝吹英二を押しのけて就任
大正6年発足の日本工業倶楽部理事長就任
大正10年、日英同盟関係の民間ベースでの修復を期して渋沢が発案した英米訪問実業団の団長として半年以上に渡り海外を視察
大正11年、経済界を統一横断する組織として日本経済聯盟会結成、その会長に就任
大正12年の関東大震災の日、琢磨は葉山の知人宅にいて無事。4日後に軍艦で東京に戻り、原宿の自宅の無事を確認。三井本館は全焼、三田綱町の三井別邸が仮事務所
昭和3年、男爵

第12章     地下へ――昭和45
日召のもとに社会の不満が集まってきて、改革へのエネルギーが溜まってくる

第13章     光陰の刃――昭和57
昭和2年、浅草・上野間に日本初の地下鉄開通
息子の伊能は、経済とは無関係に芸術の世界に生き、美術史学科に進む
光陰矢の如し。「光」即ち「日」、「蔭」すなわち「月」。「光陰」で「月日」、ひいては「時間」を表す。月日の経つ速さは矢の飛ぶが如し、というが「時間は矢ではない。刃だ。時として牙を剥く。思わぬ瞬間切り付けてくる。時間は優しいという言い方があるが、そんな甘いものではない、油断していると斬り裂かれてしまう」
日召は、水戸で政財界の浄化を目指して立ち上がった一洗会とともに、最早合法的革命はあきらめ、荒療治を承知で決起すべく、同志を選抜して上京
昭和5年、濱口首相が愛国社員に銃撃され、数か月後に死去 ⇒ 軍縮条約締結を統帥権干犯として糾弾されたもの。愛国者も広い意味で頭山に連なる一派
「昭和の由井正雪」と言われた安岡正篤(まさひろ)は、大正15年に小石川に私塾・金鶏学院を開き革命を唱えていたが、行動は起こさず
労働組合について、團は一貫して家族主義の日本では合わないという信念を持っていた。労使が一体となって産業の発達のために協力しているのに、労使対立を前提とする組合制の導入は百害あって一利無しとした。その代り労働者福祉には注力。三池では、納屋制度に代わって理想の形を作り上げることができた、という自負もある。普通選挙についても、「恒産無き者は恒心無し」として、独立生計を営む者でなければ国の政策に関わる責任を有さない、として反対を唱えるが、大正12年普通選挙制が実現
労働組合法の審議でも、階級闘争を煽る社会主義陣営の声に国会は押され続け、團は辛うじて法案を葬る
昭和6年、超国家主義的な秘密結社の軍閥組織・桜会によるクーデター未遂事件(錦旗革命事件/10月事件) ⇒ 大川周明や北一輝らとも連携して独自の改革路線を進む
昭和7年、日召は同志を結集して、「君側の奸」の破壊を主導。政財界の主要人物を標的に列挙し、11殺で割り当てる ⇒ 先ず殺されたのは井上準之助元日銀総裁、蔵相でその次が團で、下手人は菱沼
事件後日召は、頭山に迷惑がかかるのを嫌って自首したが、安岡正篤が金鶏学院の人間が関与していたところから自分の関与を疑われるのを恐れ密告していた
日召等のグループは、検事によって「血盟団」と名付けられた。その直後に五・一五事件勃発
日召は無期懲役となったが、20年に減刑、紀元節の大赦令で15年に減らされ、皇紀2600年の祝典に際し仮出獄。近衛文麿のご意見番として親しく付き合い、戦後はGHQから「右翼の巨頭」と目され、日本が無謀な戦いに打って出たのは日召が黒幕として画策したとみられていたものの、戦争には反対していたことが分かり、公職追放とはなったが訴追は免れた。戦後は農村青年の育成や、右翼戦線の統一に尽力した



光陰の刃やいば 西村健 著
2016417

◆戦争へと続くテロの悲劇
[評者]郷原宏=文芸評論家
 團琢磨(だんたくま)-三井財閥の理事長にして日本工業倶楽部(くらぶ)、日本経済連盟会を指導した財界の大御所。井上日召(にっしょう)-仏教者にして一人一殺(いちにんいっさつ)のテロリスト集団を率いた国家主義者。まったく無関係だったはずの二人の人生が昭和史の一点で交差したとき、日本を揺るがす事件が起こった。いわゆる血盟団事件である。
 本書はこの事件を近代日本の光陰が作り出した運命の悲劇として描いた歴史小説の力作である。
 團琢磨は安政五(一八五八)年に福岡藩士の子として生まれた。岩倉使節団に従って渡米し、マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学んだ。帰国後、専門学校などの教師をへて工部省に入り、三池炭鉱に派遣された。ここで納屋頭の山海権兵衛と知り合い、生涯にわたる親交を結ぶ。
 明治二十一(一八八八)年、二度目の洋行中に炭鉱が三井に払い下げられたため、帰国後は三井に入社して炭鉱社事務長に就任する。この時期、坑内の出水による危機を新型ポンプの導入によって切り抜け、採炭量を増大させて三井の財政基盤を確立する。
 『地の底のヤマ』『ヤマの疾風(かぜ)』という炭鉱小説の秀作を持つ作者は、團の活躍を単なる出世物語としてではなく、炭鉱を中心にした理想の工業都市の建設をめざす男のロマンとして、いきいきと描き出す。
 井上日召は明治十九年に医者の子として群馬県に生まれた。無頼な青春を送ったあと旧満州(中国東北部)で諜報(ちょうほう)活動に従事。帰国後は禅の修行を積む一方で国家革新運動に挺身(ていしん)する。昭和七(一九三二)年に血盟団を組織し、団員を指揮して元蔵相井上準之助、團琢磨の暗殺を指導した。「この世に絶対的な善悪の基準はない」といった彼の言葉どおり、評価は人それぞれだろうが、この事件が戦争への引き金の一つになったことだけは疑えない。
 世界各地でテロ事件が多発する昨今、ここに描かれているのは決して遠い過去の物語ではない。
 (講談社・2052円)
<にしむら・けん> 1965年生まれ。作家。著書『劫火』『残火』など。


光陰の刃やいば 西村健 著
[レビュアー] 郷原宏(文芸評論家)
◆戦争へと続くテロの悲劇
 團琢磨(だんたくま)-三井財閥の理事長にして日本工業倶楽部(くらぶ)、日本経済連盟会を指導した財界の大御所。井上日召(にっしょう)-仏教者にして一人一殺(いちにんいっさつ)のテロリスト集団を率いた国家主義者。まったく無関係だったはずの二人の人生が昭和史の一点で交差したとき、日本を揺るがす事件が起こった。いわゆる血盟団事件である。
 本書はこの事件を近代日本の光陰が作り出した運命の悲劇として描いた歴史小説の力作である。
 團琢磨は安政五(一八五八)年に福岡藩士の子として生まれた。岩倉使節団に従って渡米し、マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学んだ。帰国後、専門学校などの教師をへて工部省に入り、三池炭鉱に派遣された。ここで納屋頭の山海権兵衛と知り合い、生涯にわたる親交を結ぶ。
 明治二十一(一八八八)年、二度目の洋行中に炭鉱が三井に払い下げられたため、帰国後は三井に入社して炭鉱社事務長に就任する。この時期、坑内の出水による危機を新型ポンプの導入によって切り抜け、採炭量を増大させて三井の財政基盤を確立する。
 『地の底のヤマ』『ヤマの疾風(かぜ)』という炭鉱小説の秀作を持つ作者は、團の活躍を単なる出世物語としてではなく、炭鉱を中心にした理想の工業都市の建設をめざす男のロマンとして、いきいきと描き出す。
 井上日召は明治十九年に医者の子として群馬県に生まれた。無頼な青春を送ったあと旧満州(中国東北部)で諜報(ちょうほう)活動に従事。帰国後は禅の修行を積む一方で国家革新運動に挺身(ていしん)する。昭和七(一九三二)年に血盟団を組織し、団員を指揮して元蔵相井上準之助、團琢磨の暗殺を指導した。「この世に絶対的な善悪の基準はない」といった彼の言葉どおり、評価は人それぞれだろうが、この事件が戦争への引き金の一つになったことだけは疑えない。
 世界各地でテロ事件が多発する昨今、ここに描かれているのは決して遠い過去の物語ではない。
 (講談社・2052円)
<にしむら・けん> 1965年生まれ。作家。著書『劫火』『残火』など。


Wikipedia
琢磨(だん たくま 安政581185897 - 1932昭和7年)35)は、日本工学者実業家爵位男爵アメリカで鉱山学を学び、三井三池炭鉱の経営を行う。経営を成功させ、三井財閥の総帥となった。三井合名会社理事長、日本工業倶楽部初代理事長などを歴任した。
生涯[編集]
安政5年(1858年)81日、筑前国福岡荒戸町(現在の福岡県福岡市中央区荒戸)で、福岡藩士馬廻役神尾宅之丞の四男として生まれる。幼名は駒吉。12歳の時、藩の勘定奉行、團尚静の養子となり、藩校修猷館に学ぶ。明治4年(1871)、金子堅太郎らと共に旧福岡藩主黒田長知の供をして岩倉使節団に同行して渡米し、そのまま留学する。
1878(明治11年)、マサチューセッツ工科大学鉱山学科を卒業し帰国する。一緒に渡米した金子はハーバード大学へ進むが、その後も二人の交友は続き、後に金子の妹芳子と結婚してその義弟となっている。帰国後は、大阪専門学校(旧制第三高等学校の前身)助教授 、次いで東京大学理学部助教授となり、工学天文学などを教える。
1884(明治17年)に工部省に移り、鉱山局次席、更に三池鉱山局技師となる。採炭技術の習得のために渡欧し、1888(明治21年)に三池鉱山が政府から三井に売却された後はそのまま三井に移り、三井三池炭鉱社事務長に就任する。三大工事といわれる三池港の築港、三池鉄道の敷設、大牟田川の浚渫を行い、また渡欧時に大型ポンプ技術を習得しており、英国のデーヴィポンプを周囲の反対を押し切る形で採用し、水没した勝立坑の排水問題を解決した。1893(明治26年)、三井鉱山合資会社専務理事となる。1899(明治32年)、工学博士号を受ける。
1909(明治42年)、三井鉱山会長となる。この頃、團の手腕により三井鉱山の利益は三井銀行を追い抜いて三井物産と肩を並べるようになり、「三井のドル箱」と言われた三池が三井財閥形成の原動力となった。こうして團は三池を背景に三井の中で発言力を強め、1914大正3年)には益田孝の後任として三井合名会社理事長に就任し、三井財閥の総帥となる。
1917(大正6年)、日本工業倶楽部を設立し初代理事長に就任する。1922(大正11年)、井上準之助日本経済聯盟会日本経済団体連合会の前身)を設立し、翌年に同理事長、1928昭和3年)には同会長となり、名実ともに日本経財界の旗振り役となる。また、同年には多年の功労により男爵位を授爵している。
しかし昭和金融恐慌の際、三井がドルを買い占めたことを批判され、財閥に対する非難の矢面に立つことになった。1932年(昭和7年)35日、東京日本橋三越本店寄り三井本館入り口で血盟団菱沼五郎に狙撃され、暗殺された(血盟団事件)。墓所は東京都文京区護国寺にある。
1992平成4年)には関勉によって小惑星が発見され(小惑星番号17508番)、「團琢磨」と命名された。2011(平成23年)に九州新幹線鹿児島ルートが全通した際は、團の功を称えて新大牟田駅前に銅像が建てられている。
栄典[編集]
1928(昭和3年)1110 - 男爵[1]
家族・親族[編集]
三井鉱山会長、昭和飛行機工業の初代社長などを歴任した牧田環(工学博士)は長女・めいの夫、日本石油社長を務めた小倉房蔵は三女・スミの夫。実業家の團伊能は長男、ウニ胚発生研究を大成した発生学者の團勝磨は次男。伊能の妻は宮内省大膳頭を務めた上野季三郎の五女・美智子、作曲家團伊玖磨は孫(伊能・美智子夫妻の長男)。群馬大学教授の團名保紀建築家團紀彦はともに曾孫(名保紀は伊玖磨の長男、紀彦は伊玖磨の次男)、女優團遥香は玄孫(伊玖磨の孫娘で紀彦の娘)。伊能の長女がブリジストンの石橋幹一郎(安子の兄)に嫁ぐ



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