沈黙の山嶺(いただき)  Wade Davis  2015.9.17.


2015.9.17. 沈黙の山嶺(いただき) 上下 第一次世界大戦とマロリーのエヴェレスト
Into the Silence  2011

著者 Wade Davis 1953年カナダ・ブリティッシュ・コロンビア州生まれ。ハーヴァード大博士号(民族植物学)。ハイチのゾンビ現象を民間信仰ヴードゥーの呪術と毒薬の作用に求めた処女作The Serpent and the Rainbow(1985、『蛇と虹』)で脚光を浴びる。2012年本書で、優れたノンフィクションに与えられるサミュエル・ジョンソン賞受賞。ナショナルジオグラフィック協会専属探検家を経て、現在はブリティッシュ・コロンビア大人類学部教授

訳者 秋元由紀 米国弁護士。学部時代に真田濠で岩登りの手ほどきを受け、北はサシルイ岳から南は宮之浦岳までを歩く。米国で弁護士資格を取得後、開発援助や環境問題に関する非政府団体でスタッフを務める傍ら、主にヒマラヤの登山記を収集。宝物はEric Shipton, The Mount Everest Reconnaissance Expedition 1951の初版本。訳書タンミンウー『ビルマ・ハイウェイ』は第26回アジア・太平洋賞特別賞受賞

発行日           2015.5.15. 印刷      6.10. 発行
発行所           白水社

はじめに
1924.6.6. イギリスで最もよく知られた登山家マロリーと、まだ22歳で登山経験のほとんどないオックスフォードの学生アーヴィンが7010mのキャンプを出発
2日後の午後、北東稜の稜線を登る姿を目撃されたのを最後に消息を絶つ。イギリス中の人の心に残り、登山史上最大の謎を生み出す遭難となる

第1章        グレート・ゲーブル
グレート・ゲーブルは、標高899m、イングランドの山のうちで最も申し分なく美しい山とされる。マロリーが遭難したと同じ日に、ロッククライミング会の登山家仲間が集まって第1次大戦での仲間内の戦死者を弔う
仲間内で最も著名なのは、ジェフリー・ヤング ⇒ 同世代ではイングランドで最も偉大な登山家と見做され、マロリーもウェイクフィールドも師と仰ぐ。第一次大戦で左足を失っても後に自ら設計した義足でマッターホルンに登頂
会長のウェイクフィールドは、第2次エヴェレスト遠征隊に医師として参加、シェルパ7人を飲み込んだノース・コルの雪崩に真っ先に駆けつけたが、この日の彼は当時の逞しい登山家の面影は微塵もなかった

第2章        想像上のエヴェレスト
1806年 地球の真の形と湾曲度を測定するための大三角測量が始まり、まずインドの地表を通る経線を測ることにした ⇒ 地表に目に見える3つの点を決め、そのうちの2点の間の距離がわかれば、その2点と、位置のはっきりしない3つ目の点との角度を図ることができ、そこから三角法を使えば3点目までの距離が求められる。こうして位置が確定した3点目を最初の2点のうちのどちらかと結んで新しい三角形の底辺とし、さらに地平線上の新しい地点の位置を測定していく。こうしてインド亜大陸の南から北まで2400㎞に及ぶ「大円弧」ができた
1830年代に「大円弧」はヒマラヤの麓に到達
1846年 当時最も高いと考えられていたカンチェンジュンガ峰の西225㎞にギザギザした山群がることに気付く ⇒ 1854年には8840mと測定、その後毎年1㎝は隆起してきたことを考えると、衛星技術を使って測量された現在の8850mとほとんど誤差がない精度
山の命名は、元インド測量局長で優れた地理学者、1829年から率いた大三角測量の成功に大きく貢献したサー・ジョージ・エヴェレスト(実際の発音は「イーヴレスト」)に因んで名付けられたが、標高が公表されたのが58年に対し、イギリス王立地理学協会が正式に元長官の名前を採用したのは彼が死ぬ1年前の65
若い探検家で、すでにゴビ砂漠の横断で名を成したヤングハズバンドが初めてエヴェレストに登ろうと考えたのが93

第3章        攻撃計画
イギリスの関心は、最高峰の山の向こうにあったチベットで、ほぼ無限にある羊毛や銀、じゃ香、銅、鉛、鉄、金の宝庫。中国とイギリスで覇権争いとなり、中国が圧倒したが辛亥革命で挫折、イギリスがチベットの独立を認めて武器援助をすることとなり、引き換えにチベットからエヴェレスト遠征の許可を取得
1920年 ヤングハズバンドが王立地理学協会会長として、イギリス人だけの遠征隊による登山を計画

第4章        ヒンクスの目
当時の最高到達記録はカラコルムの約7500m、キャンプとしては1913年のカメットでの7138m
1次大戦で航空機が発達、そのおかげで高山の測量も助けられたが、25000ft (7620m)より上は、実質上は月面と同じくらい生存に適さないとされていた
地理学協会の特別会員で数学者、地図製作学者で地図投影法の世界的な権威のアーサー・ヒンクスは、探検には興味がなく、月の体積の計算に没頭していたが、エヴェレスト委員会発足当初から資金集めから人員の募集、装備の設計など遠征のほぼすべての局面を取り仕切り、事業全体の連結役として遠征実現に貢献
イギリス内に傑出した登山家が2人いた ⇒ 岩専門のジョージ・マロリーと氷の専門家ジョージ・フィンチだったが、フィンチはオーストラリア出身という出自が祟って遠征隊から除外
1921年 インド経由でチベットに入る

第5章        マロリー登場
第6章        エヴェレストの入口
第7章        目の見えない鳥
第8章        東側からのアプローチ
第9章        ノース・コル
5か月にわたってエヴェレスト周辺地域全体の地理と自然史を調べ記録する
9月後半になって、ノース・コル手前の6100mにキャンプを張って、強風峠(6767m)から7010mまで登って撤退
写真測量術を使ってエヴェレストの核心部と言える周辺1550㎢を1インチ(1マイル縮尺の)地図にした
新種の植物や昆虫を発見
5月に出発し、モンスーンさなかの6月中旬に到着したが、それはエヴェレストに挑戦するのに最も悪い時期。モンスーンは9月下旬に収まるが、今度は台風並みの強風が吹く。両方に遭遇しながら、1人の死者だけで済んだのは幸運
チベットの地元からは、神聖な谷を蹂躙し僧院での修行を妨げたとして苦情が出たばかりか、同年末には猩紅熱が流行、鬼神の祟りとまでされたが、イギリス側では関心の薄れないうちに再度の遠征隊計画が進み、マロリーも再度の挑戦を約束
同年、遠征隊から外されたフィンチは、アルプスでいくつもの新記録を打ち立てており、氷面を登らせたらイギリスで右に出る者はおらず、次回の挑戦には不可欠となっていた

第10章     夢にまで見た頂上
22年遠征で新しく採用された画期的なものが映像と酸素 ⇒ エヴェレスト山頂では通常の呼吸で体に取り込める酸素量が平地の1/3。王立空軍のほぼすべての飛行機に酸素補給装置が取り付けられたのを登山に応用したもので、圧縮酸素を入れる鋼鉄のボンベと圧力調整器とマスクが開発された。補給酸素を使うのはスポーツマンらしくないという異論も出たし、マロリーも補給酸素のことを「忌まわしい異端」と呼んだが、最終的には確実に登頂するには補給酸素を使うしかないということになり、最適な人物としてフィンチが注目を浴びる
1922年遠征 ⇒ 3月に出発し、雨期が始まる前にエヴェレストへの攻勢を完了させようとした。併せて、チベット側の反発を配慮して、植物採集など登攀以外の行動は制限
マロリーとサマヴェルは無酸素での登頂を予定、フィンチは補給酸素を使用する
ノース・コルのすぐ下の棚7010mにキャンプ4を張れるようルートを開拓
大嵐のような風と極寒の中を凍傷と闘いながら、8225mの北東稜まで登って下山、滑落しかかったのをマロリーの機転が救い、補給酸素で救援に来たフィンチに救われる

第11章     フィンチの勝利
不完全な補給酸素の器具を自ら修理しながらキャンプに運び上げたフィンチは、マロリーの苦難を尻目に、7800m辺りまで登り、酸素装置を調節して3人が夜の間ずっと少量の酸素が吸えるようにした結果、効果は抜群、食料も支援も受けずに2晩過ごし、途中でも器具の不具合を修理しながら8321mの到達し新記録を樹立。同行のジェフリー・ブルースは全く初めての登山で世界記録を達成したが、それが限界で、フィンチも500m上の頂上を諦めるしかなかった
マロリーは、フィンチの成功を聞いてすぐに3度目の挑戦を行う計画を立て、それも当然のように酸素を使うつもりでいたのは、最初に頂上に立ちたかったから
健康上の理由で脱落したフィンチを置いて、マロリーとサマヴェルは、610日と言われたモンスーンの到来を気にしながら再度頂上に挑戦したが、思いがけない暖気からキャンプ34の間で巨大な雪崩が発生、マロリーと別のロープで繋がれていた7人のポーターが死亡、登攀は打ち切られる
ロンブク僧院では下山を警告され、遠征隊は帰途につく
2度の実績から、もう一度遠征が行われることになれば、攻勢を率いるのはマロリーだろうと誰もが思っていた。エヴェレストと言えばマロリーとまでになっていた

第12章     生命の糸
192210月時点で3度目の遠征が決まっており、時期は24年春に延期されたが、フィンチは自ら撮った写真の著作権を主張し、エヴェレスト委員会から独立した立場での講演を強行したため、委員会の名誉を傷つけたとして登攀隊員の候補から外される
委員会は、品格を守るという名目のもとで登攀班が最強のものでなくなり、その分安全も確保されず成功の可能性が低くなっても構わなかったのだ
マロリーは、自分の責務を果たすのにてんてこ舞いで、フィンチに対して恨みもなかったが特別の好意も持っておらず、フィンチと委員会との争いには中立の立場を貫き、24年エヴェレストへの出発前夜、遠征から戻ったら最初の週末にフィンチ夫妻を招待すると妻宛に書いている
23年 マロリーは家族胎動でアメリカ・カナダに講演旅行に出かけるが、エジプトでツタンカーメン王の財宝が発見されたことや、仏教学者マクガヴァンのチベットでの冒険の話に沸いていて、どこかの山に登頂できなかった話の人気はなく、アメリカの新聞で最も大きく取り上げられたのはある日の講演の終わりにマロリーがふと口にした一言。なぜエヴェレストに登りたいかと訊かれて「そこにあるからです」と単純に答えたのが何かの急所を突き、ほとんど形而上学的な意味合いを帯びるようになった
写真家としてこれまでの遠征にも参加していたジョン・ノエルが、24年の遠征で撮影される写真と映像の権利と引き換えに8000ポンドの資金を集めると約束。委員会は資金の心配から解放されるが、帝国の冒険だった頂上への挑戦が商業上の好機に変わった瞬間で、登山史の思いがけない転機
242月 遠征隊出発
7772mにキャンプ58077mにキャンプ68321mにキャンプ7を設営。サマヴェルが酸素なしの隊を率いてキャンプ7から頂上を目指し、マロリーが酸素ありの隊を率いてキャンプ6から登る計画

第13章     生の代償は死である
ポーターの士気低下に加えて、遠征隊員の層も薄く、猛吹雪とポーター1人の死亡により5月初旬一旦退却、体勢を立て直して挑戦するが、さらにもう一人ポーターが凍傷から死亡、例年のモンスーンとは別なアフガニスタン西部の気圧の谷から生まれた大きな嵐がいくつもインド北部を通過し、ヒマラヤ山脈全体が寒く厳しい天候に見舞われていた
計画が練り直され、キャンプ68291mに設営し、そこから酸素なしで頂上を往復することになったが、キャンプ7と酸素の放棄は隊が焦点と理性を失っただけでなく絶望に捉われかけていることを意味
隊長のノートンが8573mまで行くが雪目に両眼をやられ疲労困憊、代わってマロリーが登攀隊を指揮
68日 マロリーとアーヴィンが朝から頂上を目指したが、悪天候に遮られ、昼過ぎに一瞬目撃されたのを最後に消息を絶ち、救援隊がキャンプ5から6についても、戻った形跡は見いだせず、捜索隊の派遣も困難
最後に目撃されたのは、頂上から244m下で、頂上に向かって元気に進んでいたといい、登頂成功後下山途中での遭難と確信していたが、それは憶測に過ぎなかった
遭難から3日後には7010mのキャンプ4地点で日向の気温は31℃もあり、エヴェレストの稜線全体から雪煙が上がって危険な兆候を示しており、即時撤退となった
3度の遠征で12名の命を奪ったエヴェレストのベースキャンプには、高さ90㎝の正方形の台座の上に小岩が重ねられた記念のケルンが人の背丈よりも高く積まれ、すべての死者の名が刻まれた

エピローグ
頂上に到達したかどうかは不詳のまま
10月の追悼礼拝にはジョージ5世国王以下が列席、登山家がそのような栄誉を与えられたのはイギリス史上初めてであり、その後も例がない
次にイギリスの登山隊がノース・コルの基部に到達したのは9年後の33
38年には大量の降雪で移動が困難になり、8321mに到達したのが最高
すでにイギリスは帝国らしい壮大な事業を手掛けるような国ではなくなっていた
その後も遠征計画は立てられ、許可申請まで行ったが、戦争で挫折
戦後は中国共産党がチベットを脅かし、北からのエヴェレストへの経路がすべて閉鎖
1950年 米英からの圧力に負けてネパールが鎖国を解除、イギリスとスイスの登山隊が山の南側を踏査
1953年 帝国の究極の辺境出身の農民、ニュージーランドの養蜂家エドモンド・ヒラリーと、度胸あるネパール出身のシェルパ、テンジン・ノルゲイが登頂に成功。登山で偉業を成し遂げたノルゲイは歴史に名前を残しただけでなく、支配することと支配されることの定義さえも変えて歴史自体をひっくり返してしまった
2人の成功を知らせる電報がロンドンに着いたのは、エリザベス二世の戴冠式の前日で、華麗な式典の影を薄くしないように、24時間公表されなかった
マロリーたちの捜索は、チベットの物理的、政治的孤立状態のせいで難しかったが、33年にはアーヴィンのピッケルを発見。北東稜の背から180m東に落ちていた
1986年 中国隊の情報を契機に、本格的に2人の捜索に専念する調査隊が発足するが、成果なし
1999年 行方不明75周年を記念して2度目の調査隊がアメリカ人中心に組織される ⇒ 8138m地点でマロリーの遺体を発見、同時に2人がロープで繋がれたまま落ち、それぞれ岩にたたきつけられて死んだことが判明したが、インターネットに公開された映像は、イギリス人の英雄を扱うのに尊厳も何もなく批判が渦巻く


沈黙の山嶺(上・下) ウェイド・デイヴィス著 第1次大戦と登頂、過酷な日々
日本経済新聞朝刊2015年7月19日 2015/7/19
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 世界最高峰エヴェレストの登頂を最初に試みたのは、1921年、イギリスが送りだした遠征隊であった。イギリスの登山家たちはさらに22年、24年と挑戦を重ねたが、あと少しのところで挫折した。本書は、3回の遠征にすべて参加し、24年に頂上付近で消息を絶ったジョージ・マロリー(彼の遺体は99年に発見された)を中心に、彼らの苦闘を描いた作品である。
(秋元由紀訳、白水社・上3200円、下3400円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 インドを支配し、エヴェレストのあるネパール、チベットで強い勢力をふるっていたイギリスでは、エヴェレスト征服で帝国の勢威を誇りたいという機運が、20世紀初頭から生じていたが、それは第1次世界大戦を経て、いっそう強まった。戦争に勝利したものの疲弊していたイギリスにとって、エヴェレスト登頂は、力を改めて世界に見せる機会と位置づけられたのだ。
 大戦は、遠征隊の登山家たちにも濃い影を落としていた。彼らのほとんどは、塹壕(ざんごう)戦が長くつづいた西部戦線などで過酷な戦場経験をして、生と死の境をくぐりぬけてきていた。死を日常の背景としていた日々からわずかの歳月しかたたないなかで、今度は命をかけた自然との闘いに臨むことになった彼らの心象に迫るために、著者は執拗なまでに大戦の様相を書きこんでいる。読者は冒険談を楽しみつつ、未曽有の犠牲を生んだ戦争が人間の精神に刻んだ傷の底知れない深さを、感じることができる。
 マロリーも、西部戦線のソンムでの大激戦を生き延びたという経験をしていた。卓越した登山技術を備え、シェイクスピアの戯曲集を携えて山に臨む彼の人物像は、頻繁に書いていた妻への手紙などで、浮き彫りにされる。22年隊では、酸素ボンベを背負っての登頂という新たな試みをしようとしたジョージ・フィンチと、それを受け入れようとしないマロリーらとの間で軋轢(あつれき)がみられたが、一騎当千の遠征隊員の間のそのような摩擦や対立を含む人間模様も、日記や回想録といった豊富な資料をもとに、よく描かれている。
 エヴェレストの初登頂は、約30年後の53年に、イギリス人ではなくニュージーランドのヒラリーによって達成された。その偉業はエリザベス女王の戴冠式とちょうど重なり、イギリスは帝国の力の徴(しるし)として大いに利用した。マロリーたちも、国の期待に応えるためには、山に勝利しなければならないと思っていた。ただ、最後のアタックを試みた際の心境は、残念ながら本書でも分からない。
(成城大学教授 木畑 洋一)



サミュエル・ジョンソン賞受賞作!
世代、階級、そして植民地主義の終焉という形で国家(英国)をものみ込んでいった第一次大戦後の時代の空気を、英雄マロリーら、エヴェレスト初登頂に賭けた若者たちの姿を通して描いた大作。
夢枕獏氏推薦!ヒマラヤ登攀史最大の謎に迫る
  英国の登山家ジョージ・マロリーは192468日、アンドリュー・アーヴィンとともにエヴェレストの山頂をめざし最終キャンプを出発したが、頂上付近で目撃されたのを最後に消息を絶った。果たしてマロリーは登頂したのか——
 19世紀の植民地主義が終焉を迎え、大戦へと突き進んで甚大な被害を出した英国。その威信回復の象徴となったのがエヴェレスト初登頂の夢だった。192124年の間に3回にわたって行なわれた遠征では、参加した26名の隊員のうち戦争経験者は20名にのぼった。
 本書は、血みどろの塹壕戦をからくも生き抜き、世界最高峰の頂をめざして命を懸けたマロリーら元兵士たちの生きざまを通して「時代」に息を吹き込んだ歴史ノンフィクションである。気鋭の人類学者である著者は、未発表の手紙や日記のほか各
地に遍在する膨大な資料を渉猟し、執筆に10年をかけて彼らの死生観にまで迫る。
 兵士として隊員として、常に死と隣り合わせだった若者たちの「生」を描いた傑作! サミュエル・ジョンソン賞受賞作品。

Wikipedia
ジョージ・ハーバート・リー・マロリーGeorge Herbert Leigh Mallory1886618 - 192468?)は、イギリス登山家
1920年代にイギリスが国威発揚をかけた3度のエベレスト遠征隊に参加。19246月の第3次遠征において、マロリーはパートナーのアンドルー・アーヴィンと共に頂上を目指したが、北東稜の上部、頂上付近で行方不明となった。マロリーの最期は死後75年にわたって謎に包まれていたが、199951に国際探索隊によって遺体が発見された。マロリーが世界初の登頂を果たしたか否かは、未だに論議を呼んでいる。
マロリーが「なぜ、あなたはエベレストに登りたいのか?」と問われて「そこにエベレストがあるから(Because it's there. )」と答えたという逸話は有名であるが、日本語では、しばしば「そこに山があるから」と誤訳されている(後述)。
経歴[編集]

生い立ち[編集]

ジョージ・マロリーは、チェシャーのモバリ(Mobberley )で牧師ハーバート・リー・マロリー(Herbert Leigh Mallory 1856 - 1943年)の第2子として生まれた。ジョージは4人兄弟で、姉と妹、弟がいた。
1896、ウェスト・キルビー(West Kirby )の寄宿学校からドーバー海峡沿岸のイーストボーンにある寄宿学校グレンゴース(Glengorse )に転校した。13歳のとき、ウィンチェスター・カレッジの数学奨学生に選ばれた。ここでマロリーは師であるロバート・ロック・グレアム・アーヴィング(Robert Lock Graham Irving )の影響で登山を始めることになる。
1904年、アーヴィング率いるパーティーにマロリーは学友と共に加わり、アルプスのモン・ヴェラン(Mont Velan )の山頂を目指したが、登頂寸前にマロリーが高山病にかかって断念した。クレア・エンゲルによれば「アーヴィングが17歳のジョージ・マロリーを山にいざなった。マロリーたちは簡単な山から難しい山までさまざまな山に挑んだ。彼らが初めて挑んだモン・ヴェランでは学生たちが高山病にかかったために登頂できなかったが、さまざまな登山の経験を通して学生たちは優秀なクライマーに育っていった」[1]という。

ケンブリッジ入学[]

190510月、マロリーは史学を学ぶべくケンブリッジ大学モードリン・カレッジに入り、そこでジェームズ・ストレイチー(James Strachey )、リットン・ストレイチージョン・メイナード・ケインズ、ダンカン・グラント(Duncan Grant )らのいわゆるブルームズベリー・グループと親交を深めた。マロリーはケンブリッジ大学在学中にボート漕手として知られたが、8人乗りボートのオックスフォード大学との対抗戦には出場していない。
学位取得後もマロリーは1年間ケンブリッジに残り、小論『伝記作家ボズウェル』(Boswell the Biographer )を執筆した。その後、しばらくフランスに滞在したが、同地でサイモン・バッシー(Simon Bussy )がマロリーの肖像画を描いた。この絵はロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーに収められている。教師を志してイギリスに戻ったマロリーは1910年にサリー州ゴダルミング(Godalming )にあるチャーターハウス校で教鞭を執った。この時の生徒の中に、後に詩人になるロバート・グレーブス(Robert Graves )がおり、1918年のグレーブスの結婚式ではマロリーが付き添い人を務めている。
この間に登山の腕も磨き、1911年にはモンブランに挑み、モン・モディ(Mont Maudit )の前壁を征服している。1913年までにマロリーはイギリスの湖水地方にあるピラー・ロック(Pillar Rock )の登頂に成功した。このときマロリーが登ったコースは現在「マロリー・ルート」と呼ばれ、登山難易度は5a(アメリカ式では5.9)と評価されており、イギリスの山では最も難しいコースの1つである。

結婚[編集]

チャーターハウス校在任中、マロリーはゴダルミングに住むルース・ターナーという女性と出会い、1914に結婚した。2人の間には1915年に長女クレア、1917年に次女ベリッジ、1920年に長男ジョンの3人が生まれた。第一次世界大戦の勃発に伴い、191512月王立砲兵連隊(Royal Garrison Artillery )に入隊し、ソンムの戦いに従軍した。戦争が終わると、マロリーはチャーターハウス校に戻ったが、1921年にエベレスト遠征隊に参加するため、学校を離れた。離職後著述と講義によって生計を立てようと考えたが、あまりうまく行かなかった。結局、1923年ケンブリッジ大学の校外公開講座局(Extramural Studies Department )に職を得た。
エベレストへの挑戦[編集]

1次遠征隊(1921年)[編集]

1852、インド測量局によって「P-15」と呼ばれていた山が世界最高峰であることが明らかになると、測量局は前長官ジョージ・エベレストにちなんで同山を「エベレスト山」と名付けた。1893に、東アジアで軍人として活躍したフランシス・ヤングハズバンドとグルカ連隊の勇将チャールズ・グランヴィル・ブルース准将(en:Charles Granville Bruce )がエベレスト登頂について話し合ったのが最初であると言われる。1907年には英国山岳会の創立50周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣が提案された。この時代、北極点到達(1909)および南極点制覇(1911)の競争で敗れていたイギリスは帝国の栄誉を「第3の極地」エベレストの征服にかけようとしていた。第一次世界大戦の勃発によって計画は先送りになるが、戦争の終結と共に英国山岳会と王立地理学会エベレスト委員会を組織し、ヤングハズバンドが委員長となって、ここにエベレスト遠征が具体化し始めた。
1921年、マロリーはエベレスト委員会によって組織された第1次エベレスト遠征隊に招聘された。隊長にはグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がふさわしいと思われたが、軍務のため断念し、代わってチャールズ・ハワード=ベリ(Charles Howard-Bury )中佐が選ばれた。隊員としてカシミール地方に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であったアレグザンダー・ミッチェル・ケラス博士、ハロルド・レイバーン、そして気鋭の若手としてマロリーとジョージ・イングル・フィンチが選ばれた。フィンチは後に健康状態を理由に降板し、代わりにマロリーのウィンチェスター校以来の友人で領事だったガイ・ブロック(Guy Bullock )が選ばれた。
この第1次遠征隊の目的はあくまで本格的な登頂のための準備偵察であったため、一行はエベレストのノース・コル(North Col 、チャン・ラとも呼ばれる、標高7,020m)に至るルートを確認し、初めてエベレスト周辺の詳細な地図を作成した。遠征隊にはイギリス山岳会の主要なメンバーやインド測量局から派遣された測量官が参加していたが、高山病の影響によって登山は思うように進まなかった。また、65日にケラス博士を失うという悲劇にも見舞われた。マロリーはガイ・ブロック、インド測量局のEO・ウィーラー(E. O. Wheeler )らとともにシェルパの力を借りてエベレスト周辺の調査を行った。ノース・コル経由の北壁ルートが登頂に最適であることが判明したのはこのときであった。
一行は625日にロンブク氷河にキャンプを設けて、登頂ルートの選定にあたった。このパーティーはおそらくローツェ・フェイスの下に連なるウェスタン・クウム(Western Cwm )を眺た初めての西洋人となり、また同様にロンブク氷河から北壁へのルートを見出した最初の西洋人だったと考えられる。山を南側に回った一行は、東ロンブク氷河のルートを見出した、これは今でもチベット側から登頂するほとんど全ての登山者に利用されている最速ルートである。マロリーはついにノース・コルの鞍部へ上がることに成功し、これによってマロリーはエベレストの山そのものに足を踏み入れた最初の人間になっただけでなく、難関セカンドステップを越えて北東稜から山頂に至るコースを見出すことになった。925日、全員がカールタの基地に戻り、第1次遠征は終了した。

2次遠征隊(1922年)[編集]

1922、第2次遠征隊の一員としてマロリーは再びヒマラヤに戻ってきた。第2次遠征隊では、実際に山を歩けるメンバーが少なかった第1次遠征隊の反省から人選が進められた。隊長には、かねてより宿願であったチャールズ・グランヴィル・ブルース准将が付き、エドワード・リーズル・ストラット(Edward Lisle Strutt )大佐を副隊長に迎え、前回参加できなかったジョージ・フィンチ、ハワード・サマヴィル(Howard Somervell 博士や登山家エドワード・ノートンEdward Norton )、地理に詳しい医師のトム・ロングスタッフ(Tom George Longstaff )、 同じく医師のアーサー・ウェイクフィールド(Arthur Wakefield)博士、ブルース准将の甥でやはりグルカ連隊所属のジェフリー・ブルース(Geoffrey Bruce )大尉と同僚のジョン・モリス(John Morris )大尉、さらに前回のメンバーであるヘンリー・モーズヘッド(Henry T. Morshead )、遠征隊の模様を映写機で撮影することになるジョン・ノエル(John Baptist Lucius Noel )大尉らが選ばれた。
2次遠征隊は、3度の頂上アタックを行った。7,620mの地点に設けられた第5キャンプから第1次アタックチームを率いたマロリーは、酸素ボンベなどは信頼性が低いと考えてこれを用いず、サマヴィルやノートンらと無酸素で北東稜の稜線に達した。薄い空気に苦しみながら、一同は8,225mという当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。
次にジョージ・フィンチとウェイクフィールド、ジェフリー・ブルースからなる第2次アタックチームは、酸素ボンベを担いで527日に8321mの高さまで驚異的なスピードで到達することに成功した。ブルースの持っていた酸素器具の不調で第2次チームが戻ってくると、マロリーはフィンチ、サマヴィルと第3次アタックチームを編成して山頂を目指そうとした。しかし、マロリーらがシェルパとともにノース・コルを目指して斜面を歩いている時に雪崩が発生して7名のシェルパが命を落としたため計画は破棄され、一行はベースキャンプに戻った。マロリーは帰国後、第2次遠征隊で犠牲者が出たことを批判されることになるが、山頂まであと一息という思いは他の隊員と変わらなかった。

3次遠征隊(1924年)[編集]

1923年、アメリカ合衆国での講演活動を行ったマロリーは、1924年の第3次遠征隊にも参加を要請された。1922年同様隊長はブルース将軍が務め、副隊長にはノートン大佐が選ばれた。58歳のブルース将軍にとって年齢的にこの山行が最後のチャンスだろうと思われていた。隊員として経験者のジェフリー・ブルース、ハワード・サマヴィルが選ばれ、さらにベントリー・ビーサム(Bentley Beetham )、EO・シェビア(E. O. Shebbeare 地質学者でもあったノエル・オデール、マロリーと最期を共にしたアンドルー・アーヴィンらが選ばれた。
一行は228日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路エベレストを目指したが、道中でマラリアのためブルース将軍が離脱、ノートンが隊長になった。428日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。彼らは7000m付近に第4キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に2つのキャンプを設けることにした。マロリーはジェフリー・ブルースおよびノートン、サマヴィルらと山頂を目指したが失敗し、66日、22歳の若いアンドルー・アーヴィン1人を連れて第4キャンプを出発、再びノース・コル経由で山頂を目指した。今回のマロリーは、1922年のフィンチ隊の健闘を見て酸素器具に対する認識を改めて、自らも積極的に使うことにしていた。ノエル・オデールは2人をサポートすべく単身第5キャンプ(7,710m)にあがり、68日の朝8時過ぎに第6キャンプ(8,230m)を目指して登り始めた。
その途中(高度8,077m付近)でオデールはふと顔を上げ、雲が晴れ上がって頂上が青い空の中に現れるのを見た、そこで目にしたものを彼は生涯忘れることがなかった。
1250分頃だった。私が初めてエベレストで化石を見付けて大喜びしていたまさにその瞬間、空が突然晴れ上がり、エベレストの山頂が姿を現した。私は山壁に1つの小さな点を見出した。それは大きな岩塊の下、雪の上に浮き出た小さな点だった。やがて雪上にもう1つの小さな点が現れ、最初の点に追い付こうと動いていた。第1の点が岩の上にとりつくと第2の点も続いた。そこで再び雲が山を覆い、何も見えなくなった。
この時オデールは2人がセカンドステップにたどり着くところを見たと語った。オデールの証言以外にこれを証明するものはなく、彼らがセカンドステップにたどり着いたのかどうかわからない(ファーストステップ周辺には空の酸素ボンベや1933に見付かったアーヴィンのアイス・アックスがあった)が、逆に言えばたどり着かなかったという証拠もない。その後、2人の姿は山中に消えた。
オデールが午後2時に第6キャンプへ到着した頃、風雪が強かった。しばらくして戻ってくる2人が吹雪でキャンプを見付けられないといけないと考えたオデールは、テントを出て口笛を吹いたりヨーデルを歌ったりしていたが、人の気配はなかった。下山する2人のための用意を終えたオデールは、4時半に第6キャンプを後にした。下りながらオデールはたびたび山頂方向を眺めたが、下山する2人の姿はついに見ることができなかった。第4キャンプまで下りて1泊した明くる日の69日、オデールは再び第5キャンプから第6キャンプへ向かったが、人が入った形跡はなかった。モンスーンの接近のため、遠征隊は2人をあきらめて山を下りることになった。
マロリーとアーヴィンは、おそらく68日(あるいは9日)に命を落としたのであろう。今や国民的ヒーローとなっていたマロリー遭難のニュースは、イギリス中に大きな衝撃を与えた。1017日に行われたマロリーとアーヴィンの追悼式は、国葬のような規模でセント・ポール大聖堂において行われ、列席者の中には時の首相ラムゼイ・マクドナルド国王ジョージ5をはじめロイヤル・ファミリーの姿もあった。

75年の後[編集]

2人の失踪後、いくつかの遠征隊が遺体を捜し、それによって彼らが山頂にたどり着いたのかどうかの決め手を得ようとした。イギリスも1933年から1939年にかけてさらに4度の遠征隊を派遣しているが、1933年の第4次遠征隊は高度8,460m地点でアーヴィンのものと思われるアイス・アックスを発見している。第二次世界大戦後、多くの国々がエベレスト初登頂の名誉をかけて争ったが、1953529日、イギリス隊のメンバーでニュージーランド出身のエドモンド・ヒラリーがシェルパのテンジン・ノルゲイと共に初登頂を果たし、マロリー以来の悲願が達成された。
マロリーに関する手掛かりは意外なところから得られた。1979日本偵察隊メンバーだった長谷川良典が協力していた中国人クライマーの王洪宝(Wang Hung-bao )から1975に高度8,100m付近でイギリス人の遺体を見たという証言を得た。1999に入って英国放送協会とアメリカのテレビ局WGBH製作のドキュメンタリーシリーズ「NOVA」が共同で企画したマロリー捜索隊が組織され、エリック・サイモンスン(Eric Simonson )をリーダーに、山岳史家でマロリーに詳しいヨッヘン・ヘムレブ(Jochen Hemmleb )らをメンバーに加えてエベレストに向かった。一行の1人コンラッド・アンカー(Conrad Anker )は51日に、頂上付近の北壁でうつ伏せになった古い遺体を発見、状況的に滑落して死んだものと推定した。一行は初め、漠然とアーヴィンの遺体ではないかと考えたが、所持品からマロリーの遺体であることがわかり仰天した。ヘムレブは遺品にカメラ(ヴェスト・ポケット・コダックのモデルB)があればマロリーが登頂したか否かという歴史的疑問が解かれると考えたが、なぜかカメラはみつからなかった。一行はマロリーの遺体を囲んで聖公会式の葬儀を行い、露出していた遺体に土をかけた。
マロリーは登頂したのか[編集]
マロリーとアーヴィンがエベレスト登頂に成功したか否かは、いまだに答えが出ていない。

遺体からわかること[編集]

マロリーの遺体には腰の周りにザイルが巻かれており、擦過傷ができていた。これはマロリーが滑落したときアーヴィンとザイルで結ばれていたことを示す。1933年にアーヴィンのものとされるアイス・アックスが発見された地点はその上方だが、そこから滑落したとは限らない。マロリーの遺体が大きく損傷していないことから、それほど長い距離を滑落したとは思えない。
マロリーの遺体から「もしや登頂していたのでは」と思わせることが2点ある。
  • マロリーの娘クレア・ミリカンによれば、彼は頂上に記念として置いてくるため妻の写真を持って行ったというが、遺体からはメモだけで写真が発見されなかった。遺体が寒冷な気候下で驚くほど良く保存されていたことを考えれば、写真がポケットの中で風化・消滅したとは考えにくいので、この事実はマロリー登頂の消極的な証左とはいえないだろうか(だが、同時に山頂でマロリーの所持品などを発見したという報告もなされていない)。
  • マロリーのサングラスがポケットにしまわれた状態で発見された。このことは2人が日没後に山を降りていたということを意味する。マロリーの最後のアタックに先立って隊員のノートンが雪に目をやられて苦しんでいたのを見て、マロリーは日中常にサングラスをかけるようにしていた。マロリーたちの出発時刻および移動速度を考えると、彼らが登頂を終えて下山中に日が沈み、滑落したとも考えられる。(マロリーのポケットに入っていたのは予備のサングラスで、着けていたサングラスは滑落中に取れたとも考えられる。)

酸素補給の問題[編集]

2001年に発見された第6キャンプの位置から、2人がそこから頂上に到達するのに11時間を要したと考えられる。当時2人は2本ずつ酸素ボンベを担いでいたが、これは普通に使えば8時間分であり、おそらく頂上にたどり着く前に酸素がなくなったのであろう(もちろん、少しずつ使う、あるいは使わずにいくことも不可能ではないが)。酸素ボンベのうち1本がファーストステップの手前で発見されている。これをもとに彼らの移動スピードを推測すると、彼らがセカンドステップに到着したときの酸素残量はよくて1時間半。セカンドステップから山頂まで少なくとも3時間かかるとすれば、酸素を切らさずに登頂するのは難しかったろう。
現代の登山家で無酸素登頂に成功している者もいるが、彼らは充分にトレーニングを積み、酸素をしっかりと吸い込んで最新の超軽量防寒着を着込んだ上、訓練されたシェルパの助けによって登頂している。マロリーがもし登頂できるとすれば、アーヴィンをファーストステップで待機させた場合のみだが、そうするとマロリーの腰についたザイルの傷が説明できない。ある者[?]2人がセカンドステップを諦め、北壁ルートをたどろうとしたのではないかと考えるが、傍証はない。

セカンドステップの問題[編集]

北壁から登っていくコースには、「セカンドステップ」と呼ばれる難所がある。山頂から250mほど手前に高さが30mほどで上部はほぼ垂直な岩壁になっている石灰岩の岩場である。1960年に中国隊が初めてここを乗り越え、1975年に中国隊の手でアルミはしごが設置されている。ラインホルト・メスナーに代表される現代の登山家たちの多くは、セカンドステップの困難さを理由にマロリーらの登頂を否定する。スペインのオスカル・カディアフ(Oscar Cadiach )は1985年に素手でセカンドステップ登攀に成功しているが、彼の見積もりではセカンドステップの難易度は(マロリーの技術なら登れる)5.7から5.8であった。ただ、カディアフが登ったとき、セカンドステップは雪に覆われており、雪のなかったマロリー登山時より容易になっていた。オーストリア人テオ・フリッシュ(Theo Fritsche )は2001年にマロリー同様の条件でモンスーン到来前の状態でザイルなしでの登攀に挑み、5.75.8という難易度であると評価している。フリッシュはマロリーのように軽装で酸素も用いない状態で成功し、条件がよければマロリーでもセカンドステップは超えられただろうと語っている。
20076月、コンラッド・アンカーとレオ・フールディング(Leo Houlding )が中国隊のアルミはしごを取り外した状態でのセカンドステップ超えに挑み、成功した。フールディングは難易度を5.9と評価。この登頂は、1924年の遠征隊の状況をできる限り忠実に再現するために行われた。しかしアンカーはその8年前に行われた最初の挑戦では失敗しており、「自分は5.12クラスをこなす自信があるが、この難易度は5.9クラスの技術では厳しいだろう」と語った。その時アンカーは中国隊の残したはしごを足場の1つとして利用していた。2007年の登山後、アンカーは意見を変えて「おそらくマロリーにも登れたに違いない」と言った。2人がセカンドステップを超えたかどうか、いまだに世界の登山者の間では意見が分かれている。
マロリーはスイス・アルプスにあるネストホルン(Nesthorn 3824m)で同じような状況にあったが、これを克服している。仲間たちは彼の高い技術に裏打ちされた積極性と楽観さを疑うことはなかった。
登山技術ということなら、マロリーは北ウェールズでHVSHard Very Severe 、難易度5.8-5.9)級の山々に登って技術を磨いている。たとえばスノウドン山系のリウェッド(Y Lliwedd )の山々などがそうだが、そのような山に基本装備で登るのに慣れた登山者は重装備である方が逆に登りにくいのではないか、という意見もある。
ノエル・オデールは彼らがセカンドステップにとりつくのを見たと語った。これに対してはまずイギリスの登山家たちの間から疑義が出たため、オデールは後に「ファーストステップだったかもしれない」と見解を変えている。しかし人生の終わりに再び意見を戻し「やはりセカンドステップだった」と主張していた。もし彼の目撃したことが本当だとすれば、彼の証言する地形はファーストステップではありえない。
別の説もある。オデールがステップを登っていく人を見たとき、彼はごく自然に彼らが登っていくところだと考えた。そのことからオデールの見たのが登頂ルートではないファーストステップだということはあり得ないという結論が導かれた。セカンドステップなら予定よりもだいぶ遅いが、その理由は信頼性の低かった酸素器具に問題が生じたためと説明されてきた。しかし、それにしても時間的に遅すぎる。もしオデールが見たとき、2人が「下っている」ところだったとすれば、時間の辻褄は合う。オデールが見た時、2人は下山中にファーストステップをよじ登ってそこから眺め、セカンドステップを経由してノース・コルへ出るルートを見付けようとしていたのではないかという説である(1981年のフランス隊は登頂を断念して、全く同じ行動を取った)。
1999年の調査隊は2001年にさらなる証拠を求めて山に戻ってきた。彼らはマロリーとアーヴィンのキャンプを発見したが、アーヴィンの遺体とカメラを発見することができなかった。2004年には別個の調査隊がカメラを探したが、見付からなかった。

アーヴィンの遺体の問題[編集]

1979年に王洪宝が「1975年の登山時に8,100m地点で西洋人の遺体を発見した」と語った。詳細を語る前に王は雪崩で死んでしまったが、1986年トム・ホルツェルが別の中国人から正確な場所を聞き出した。位置的にマロリーか、アーヴィンだと思われるが、王が「頬に穴があいていた」というのがマロリーの遺体の状況とそぐわない。2001年の調査隊は王が1975年に宿営した地点を特定し、周辺を調査したが、何も見つからなかった。王が見たのは実はマロリーの遺体だったのではないかという説もある。
ヘムレブの著作「Detectives on Everest」(未訳)によれば、別の中国人クライマー許競は1960年にアーヴィンの遺体を見たと語っているが、場所に関してははっきりしない。あるときは第6キャンプと第7キャンプの間(8300m地点)といい、あるときは北東稜のファーストステップとセカンドステップの間(8500m地点)といっている。しかし1933年にアイス・アックスが発見されたあと、アーヴィンに関しては一切の手掛かりが見付かっていない。許によれば遺体は仰向けになっていたというが、そこから考えられるのは負傷し、手当てをしていて亡くなったか、あるいは休息していて亡くなったということである。
トム・ホルツェルは2009年、エベレスト航空写真解析の結果、アーヴィンの遺体である可能性のある6フィート前後の物体を発見したとし、調査隊を組織しようとしている。なお、トム・ホルツェル自身はマロリーとアーヴィンがセカンドステップをあきらめ下山中ファーストステップから得られる眺望からルートをみつけようとしてファーストステップに上ったところをオデールに目撃されたという説を取っている。その後彼らは吹雪に遭遇し滑落した。最初の滑落では生存したが、その後下山中に死亡したとしている。http://www.velocitypress.com/IrvineSearch.html

マロリーの仲間たちの証言[編集]

  • ハリー・ティンダル(Harry Tyndale 、マロリーの山仲間):「ジョージの登り方は体力で攻めるというより、柔軟にバランスよく、どんな困難な場所もリズミカルにテンポ良く乗り切ってしまうという感じで、蛇のように滑らかだった。」
  • トム・ロングスタッフ(1922年隊のメンバー):(友人への手紙で)「登山家である以上登っていくことは運命みたいなものだ。2人が下りのことを考えたとは想像しにくい。私は彼らがやりきったと信じている。快晴だったというから、きっと2人はオデールの視界から消えた後、世界の半分ともいわれる絶景を眺めたのだろう。それが2人にふさわしい場所だと思う。2人は今や永遠の世界に生き、我々と共にいる。」
  • ジェフリー・ウィンスロップ・ヤング(Geoffrey Winthrop Young 1920年代を代表する登山家の1人で、マロリーを尊敬してやまなかった):「マロリーの登山技術は理論とかじゃなくて彼自身が創りあげたものだった。どんな斜面に対しても片足をまず高い位置にもって行き、肩を膝に近付けて折り、体を起こしながら美しい曲線運動を描いて立ち上がる。彼と岩の間でどんなことが起こったのか見ることができないほどだ。見ていても結果しか見えない。スピーディーでパワフルな一連の動きでどんな岩でも乗り越えていく、岩としては乗り越えられるか、崩れてしまうほかないだろう。」ヤングはオデールが「マロリーたちがセカンドステップを超えていた」と主張したときもこれを信じ、「彼らなら頂上までも行っただろう」と語った。

結論[編集]

マロリーとアーヴィンがどこまで行ったかという議論はなかなか結論が出ない。ほとんどの説で一致しているのは、2人が2本の酸素ボンベを持っていたということ、オデールが見たようにファーストステップあるいはセカンドステップへとりついたということである。可能性としては2つ、マロリーがアーヴィンの分の酸素も持って頂上に向かったか、あるいは2人で行ける場所まで行ったか(その場合、登頂前に酸素は切れる、そのことも覚悟の上だったかもしれない)ということである。どちらにせよマロリーは下山中に滑落して死んだ。オデールがテントに避難した吹雪の中だったかもしれない。アーヴィンはマロリーとともに滑落したか、あるいは1人で稜線上に残って極度の疲労、低体温によって命を落としたかのどちらかであろう。20082月にはトム・ホルツェルが「オデールは下山中の2人をファーストステップ上で目撃した」という新説を唱えたが、いずれにせよ証拠が乏しく、今後もなかなか結論は出ないだろう。

「登頂」とは何か[編集]

たとえ1924年にマロリーとアーヴィンが頂上に到達していたという証拠が見付かっても「初登頂」の栄誉はエドモンド・ヒラリーテンジン・ノルゲイに与えられるべきだという意見もある。なぜなら、「登頂」とは生きて帰ってこそ意味がある行為だと考えられるからだ。マロリーの息子ジョン・マロリーは3歳で父親を失ったが、「僕にとって登頂とは生きて帰って来ることです。もし父さんが帰ってこなければ決してやりとげたとは言えないのです」と、あまりに有名な父を伝説としてしか知らない寂しさを語っている。
ヒラリー卿も同じような意見を持っていて「もし山に登っても、下山中に命を落としたら何もならない。登頂とは登ってまた生きて帰ってくることまでを含むのだ」と語っている。最後にイギリス人登山家でヒマラヤに詳しいクリス・ボニントンは「もし彼らがセカンドステップにとりついていたとしたら、彼らは頂上近くまで行っただろう。そこまで行けばクライマーは皆同じ気持ちになる。だから、2人が頂上に行ったとしても何ら不都合は感じない。私としてはむしろ2人が頂上まで行ったと信じたい。これは夢があるし、人々の心を突き動かす考えだと思う。事実はどうあれ、このことは永遠に不可知のままで良いのではないか」と語っている。
家族[編集]
  • マロリーの弟トラフォード・リー・マロリーはイギリス空軍に所属して第二次大戦を戦ったが、兄と同様に山で命を落とした。19441114日、ヨーロッパから新任地の東南アジアに向かうため、トラフォードはアブロ ヨーク輸送機に乗り込んだが、同機がアルプス山中で墜落、搭乗員全員が死亡したためである。
  • マロリーの娘クレアは、物理学で有名なロバート・ミリカンの一族と結婚したが、彼女の夫もまた第二次大戦中にオークリッジの近くの山中で事故死した。クレアの子リック・ミリカンは父の悲劇を乗り越えて、1960年代から1970年代にかけて活躍した登山家になった。
  • 孫にあたるジョージ・マロリー2世は、アメリカ隊の一員として1995年に北壁からエベレスト頂上に到達した。
「そこにエベレストがあるから」[編集]
マロリーの言葉として人口に膾炙している「そこに山があるから」という言葉は、「そこにエベレストがあるから」(原文はBecause it's there. )と訳すべき言葉である [2] [3]。 
この言葉は、1923318日付けのニューヨーク・タイムズの記事に現れる。その記事で、「なぜあなたはエベレストに登りたいのでしょうか」との質問にマロリーは、"Because it's there."と答えている[4][5]
文脈上[6]から、it がエベレストを指すことは明らかであり、日本語で単に「山」とするのは誤訳である[2]。マロリーの意図は、誰も登頂していない世界最高峰を目指すことは挑戦的であり、全世界を征服しようとする人間の本性的な欲望である、ということであり[6]、山一般について述べたわけではない。
ホルツェルとサルケルドによる『エヴェレスト初登頂の謎 ジョージ・マロリー伝』を翻訳した田中昌太郎は、"Because it’s there" を、「それがそこにあるから」と代名詞のまま訳出している[7]
マロリーは、この記事とほぼ同時期に、ハーバード大学で講演しており、そのなかで、「エベレストに登る目的は?」と自問して、「山頂の一個の石を欲しがる地質学者を満足させ、人間がどの高さで生きられなくなるかを生理学者に示す以外、何の役にも立たない。」とふざけて述べている[8]
なお、この"Because it's there"が本当にマロリー自身の口から発せられたものかどうかについては、はっきりしていない。マロリーと共にエベレストを歩き、彼をよく知るハワード・サマーヴィルは1964年に、アルパイン・クラブへの告別の辞の中で、この言葉について「いつもわたしの背筋に冷たいものを走らせた。それは少しもジョージ・マロリーらしい匂いがしないのだ。」と書いた[9]。ホルツェル(Tom Holzel)は、しかし、「もし彼自身がそれを口にしなかったとしても、この言い回しは、彼という人間とエヴェレストを征服せんとの彼の情熱的な追求を完璧に要約している。「それがそこにあるから」はマロリーの墓碑銘として永遠に残るだろう。」と書いている[10]
脚注[編集]
1.   ^ Claire Engel, Mountaineering in the Alps, London: George Allen and Unwin, 1971, p. 185
2.   ^ a b 本多勝一:"山は死んだ"、『山を考える』中に所載、pp.162-1631966910日初版、実業之日本社(新版はISBN 9784022608161(1986)ISBN 9784022607904(1993))「山に登る理由について最も有名な回答は、G.H.マロリーの『そこにあるから』(Because it is there)であろう。名言だと思う。ただ、これは誤解されているようだ。マロリーが答えたのは、『エベレストに登る理由』であって、単に『山に登る』という一般的行為に対する回答ではない。ささいなことのように見えるが、ここには重大な違いがある。もっと正確にいうならば、マロリーは『処女峰としてのエベレストに登る理由』に対して『そこにあるから』と答えたのであって、五回目や六回目のエベレスト登頂をねらうときの回答ではなかった。現在の富士山や槍ガ岳に登る無数の人々が、もし『そこにあるから』と回答するならば、これは抱腹絶倒すべき喜劇のセリフになろう。他人のやらぬことをやるという基本精神から出発しているマロリーの行為は、他人が登るから自分も登るという流行現象を基本とする行為とは、まさに正反対の極にある。」
3.   ^ [1] Steven Boyd Saum, Editor, Santa Clara Magazine, Santa Clara University, winter 2010 Why climb it? "Because it’s there," the man answered—it being Mt. Everest, rising amid a range whose name means the Abode of Snow to a height taller than any other mountain on the globe.
4.   ^ [2] Published: March 18, 1923 The New York Time12ページ、記事の第1段落
5.   ^ [3] ニューヨーク・タイムズ社によるArticle Preview(有料)
6.   ^ a b [4] Published: March 18, 1923 The New York Time12ページ、記事の第3段落 "Because it's there,"の後に、マロリーは、"Everest is the highest mountain in the world, and no man has reached its summit. Its existence is a challenge. The answer is instinctive, a part, I suppose, of man's desire to conquer the universe."と答えている。
7.   ^ トム・ホルツェル、オードリー サルケルド著、田中昌太郎訳、『エヴェレスト初登頂の謎』pp.311,312,313,314,315、中央公論社、1988年、ISBN 978-412001692
8.   ^ [5] MALLORY THRILLS UNION AUDIENCE Record Height of 27,235 Feet Above Sea Level Reached on Second Try--Oxygen Tanks Proved UnsuccessfulThe Harvard CrimsonFebruary 28, 1923. Mr. Mallory introduced his speech by asking "What is the purpose of climing Mount Everest?" He answered his question by saying in jest that it was of no use other than to fulfill the desire of geologists for a stone from the summit and to show physiologists at just what altitude human life became impossible.
9.   ^ トム・ホルツェル、オードリー サルケルド著、田中昌太郎訳、『エヴェレスト初登頂の謎』pp.314-315、中央公論社、1988年、ISBN 978-412001692
10.                ^ トム・ホルツェル、オードリー サルケルド著、田中昌太郎訳、『エヴェレスト初登頂の謎』p.315、中央公論社、1988年、ISBN 978-412001692


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