ナポレオンに背いた「黒い将軍」  Tom Reiss  2015.7.14.

2015.7.14. ナポレオンに背いた「黒い将軍」 忘れられた英雄アレックス・デュマ
The Black Count : Glory, Revolution, Betrayal, and The Real Count of Monte Cristo         2012

著者 Tom Reissリース 1961年ニューヨーク生まれ。歴史学者、伝記作家。ハーヴァード大で歴史を専攻。卒業後日本に1年間滞在し、ロックバンドを結成。ヤクザ映画に出演した経験もある。ヒューストン大でクリエイティブ・ライティングを学ぶ。『ニューヨーカー』や『ニューヨーク・タイムズ』などに寄稿多数。

訳者 高里ひろ 翻訳家。上智大卒

発行日           2015.4.10. 印刷               5.5. 発行
発行所           白水社

プロローグ
1809.2.26 アレクサンドル・デュマ4歳の時、父死去。デュマは45歳になって初めて自叙伝を書くことを決意、そこには作家になるずっと前の31歳までの出来事しか書かれていないが、200ページ以上も費やして父親アクサンドル(アレックス)・デュマ将軍の一生を綴った。黒人として植民地に生まれ、フランス革命を生き延び、5万人の兵士を指揮するまでに出世した。伝記としてはあまりにも生々しく痛切で、隙間や省略だらけのうえ、場面や会話の再現も多いが、心がこもっている。父親の物語はその死の場面で終わり、そこからデュマは自分の人生を語り始める。天国に行った父親を殺した神様を殺そうと天国に行こうとする自らの話を詳細に描写したことは、それだけデュマの人生に非常に重大な意味があったということを、『モンテ・クリスト伯』に登場する白人奴隷の口を通して語っている
デュマの作品では、誰かを覚えていることが何よりも重要。人が犯しうる最悪の罪は忘れること。『モンテ・クリスト伯』の悪人たちは主人公のダンテスを殺したわけではなく、ただ牢獄に放り込んで世の中から忘れられた人間にしただけ。デュマの作品の主人公は、誰も、何も、忘れることはない
著者がアレックス・デュマ将軍の生涯を調べようと思ったのは、子供の頃に読んだデュマの自叙伝の父の死の場面の思い出をずっと憶えていたから

2007.1.25.  パリの北80㎞にあるヴィレル=コトレ市(ルイ15世が幼少で即した際、宮廷人の多くがこの街で過ごし、乱痴気騒ぎに興じた)のアレクサンドル・デュマ博物館を訪問。訪問者の多くは文豪の父親が偉大な人物であったことは知らないだろう。著者は、その父親に何があったのかを突き止めるためだったが、博物館の唯一の担当者が急逝して、中に入ることすらできなかった
初代アレクサンドル・デュマは、1762年フランスの砂糖を生産する植民地サン=ドマング(現ハイチ)で、世の中から隠遁していた貴族と黒人奴隷の間に生まれる。父親はやがて本名と爵位を取り戻し、息子をパリに送るが、息子は父親の名前と爵位を拒否、母親の名字であるデュマを名乗り1兵卒としてフランス陸軍に入隊、自らの功労によって出世すると、植民地の署名にもアレクサンドルさえ使わずに飾りのない簡単なアレックス・デュマと記入する
優秀な戦士だったが、不遜な物言いと目上との揉め事でも有名、滅多にない英雄と称された
陰謀によって砦に監禁され、見えない敵に毒を盛られ、抗議の機会さえないまま世界から忘れ去られた
存命中の将軍は伝説的な人物、公式記録には彼の波乱にとんだエピソードをいくつも紹介している
ナポレオンもデュマの働きを称賛していたが、エジプト遠征を機に互いを嫌悪、思想的にも個人的にも全く異なる2人だった
デュマは、自らを世界を解放する戦士であって、支配する戦士ではないと考えていた
彼の活躍ぶりを知ると、18世紀末の白人の世界、それもフランス国富の基盤が植民地の奴隷制だった時代に生きた黒人だったことを忘れさせる
1786年、革命前夜に国王軍の王妃付竜騎兵連隊に入隊、革命軍でも流星のごとく出世したが、その鍵は世界初の公民権運動にある  1750年ルイ15世の時代に、熱意に燃える弁護士の一派が、当時フランスで最も力のある人々だった植民地の砂糖プランターたちに立ち向かい、有色人種の人々に驚くべき広範な権利を勝ち取っていた
1789年の革命によって、フランスにおける平等の夢は突然果てしなく広がったように見え、デュマ以外にも出世した黒人がいた
デュマ将軍は、新しい平等の生きた象徴で、初めて本当の奴隷解放が実現した時代を照らすもの。ユダヤ人にも市民的及び政治的権利を与え、古代よりいたるところで続いてきた差別を終らせた  イギリスやアメリカに先立つ偉業
デュマの作品の中で、父親の影響が最も色濃く表れているのは、『ジョルジュ』
デュマの生きた時代は、父親の時代とは全く様変わりして、人種差別がより激化していた。同時代の作家バルザックはデュマをネグロ呼ばわりしたし、デュマの成功後も批判的な人々は絶え間なく公然と中傷攻撃を繰り返し、デュマがアフリカ系の混血であることをからかった  父親が忘れ去られてしまったことに傷ついたデュマは、悪人は必ず罰され善人は超人的なヒーローによって保護されるという虚構の世界を創造して父親の仇をうった
ヴィレル=コトレの博物館は、将軍のほかにも、戯曲『椿姫』を書いたデュマの息子も含めた3代に亘る生涯と功績を称える目的の施設だが、作家デュマにまつわるコレクションが中心で、その息子には中くらいの部屋が、将軍には小さな部屋があてられているだけ
博物館の担当者の急逝により、町、地域圏、中央政府が遺品の帰属について争い、金庫を開けることすらかなわなかったが、漸く町の許可が下りて金庫がこじ開けられ、僅か2時間ではあったが、著者がその資料に目を通すことが許された

1
第1章        砂糖工場
アレックス・デュマの父親アントワーヌ・パイユトリーはノルマンディーの没落貴族の家の長子として生まれる。3兄弟とも軍人で身を立てようとする。次男は植民地連隊に入隊し、フランスの国外貿易の2/3を担う世界最大の砂糖輸出地であるサン=ドマングに渡り、砂糖プランテーションのオーナーの娘と結婚。結婚後間もなく長兄が弟を頼って転がり込み以後10年共に暮らすが、精力的で貪欲な働き者の弟と違って、長兄は怠惰で無責任。サン=ドマングでは白人男性が黒人奴隷を情婦にすることは一般的で、フランス政府も異人種間のセックスを禁止させようと布令する
生き方の異なるアレックス兄弟はやがて仲違いし、永遠に縁を切って、兄はプランテーションから森の中に消え、以後30年近く消息不明だった

第2章        黒人法典
アントワーヌは、別な村に名前を隠してコーヒープランテーションを作り定住し、黒人奴隷との間に息子を設ける
フランス植民地帝国の黒人法典(1685)
は、異人種間に生まれた混血児にある程度の保護の機会を与えた  奴隷と内縁関係になって子供を設けた自由人には厳しい処罰を課す一方、奴隷の所有者が独身で教会法に従って奴隷と結婚する場合には、その奴隷は解放され、その子らは自由で嫡出の身分が与えられた  新たに生まれた混血の自由人という集団の社会的流動性と急速な富裕化が進み、有色人種が驚くべき権利一式を手に入れる

第3章        ノルマン征服
次男は痛風に罹ってノルマンディーに戻り、両親の死にあって、長兄が行方不明だったために本来長兄が引き継ぐべく侯爵の地位も含めすべての権利を相続するが、プランテーションが行き詰り、新たに始めた奴隷貿易でも失敗、借金を残して死去、末弟も相次いで死去
1775年、突然アントワーヌがノルマンディーに帰還。ポルトープランスで奴隷だった14歳の息子トマ=アレクサンドルも翌年引きとって、侯爵の地位と領地を奪還する

第4章        「フランスには奴隷は存在しない」
フランスでは、啓蒙思想家が、奴隷制を人権抑圧、特に政治的抑圧の象徴として、法廷闘争に持ち込み、ほぼすべての裁判で黒人や混血の原告の自由を勝ち取る  絶対王政は誤解を招きかねず、アンシャン・レジーム下のフランスは法律および古くからの判例で治められた国家であることを実証している。フランスは自由人の国家であり、何人も己の意思に反して奴隷状態に置かれてはならないという考え方が存在していた
1777年 ルイ16世は、黒人統制の勅令を制定、最終的に黒人種を王国から絶滅させることを企図。意外なことに、パリ高等法院もこの法律に反対せず、過去の不法入国者も検挙の対象となったが、アンシャン・レジームの末期の法令の多くと同様きちんと実施されることはなかった

第5章        パリのアメリカ人
トマ=アレクサンドルの外観はアフリカ人の血を引くことは明らかだったが、そのことが悪い結果をもたらすことはなく、アントワーヌの支援によって、自由人としてのパリでの生活を謳歌
ルイ16世は、7年戦争で敗れ、北アメリカの植民地とインドの植民基地を奪われたイギリスへの報復としてアメリカ人を支援しており、トマがアメリカ人であることも有利に作用

第6章        光の都の黒い伯爵
流行の大胆な異性交遊に耽っている最中、人種差別主導者に侮蔑された経験を、作家デュマは生涯拘ったが、彼の父親も決して忘れなかった  事件は警察沙汰となり、有色人としての登録をしていなかったトマは法律違反を犯していたので、逮捕・強制送還の可能性もあったが、王国の非効率のおかげで無罪放免となった

第7章        王妃付竜騎兵連隊
1786年 父が中下流階級の女性と再婚したのを機に、父子関係は疎遠となり、支援が途切れたトマは入隊を決意。ただ、貴族の子弟が士官として入隊するのに対し、トマは1兵卒として、荒っぽい気風が特徴の王妃付竜騎兵連隊を選択  母方の姓をとってアレクサンドル=デュマと署名
入隊直後に父親が死去、貴族としての遺産はなく、アレックスも埋葬に立ち会っていない
竜騎兵連隊は、下級貴族や没落貴族の子弟に精鋭部隊に入る機会を与えるために組織されたもので、貧弱な馬と安物の武器しか支給されず、最もきつく汚い仕事が彼らの役目
1788年 国庫が空になったフランスの崩壊が始まる

2
第8章        革命の夏
1789年 アレックスの竜騎兵連隊がヴィレル・コトレに滞在した際、町を守る宿屋の娘を見染めて婚約

第9章        血による再生
革命政府は普遍的自由の十字軍の手始めに、まずはオーストリア領ネーデルランドを先制攻撃、アレックスも伍長として参戦し、武勲を上げるが、小説家デュマがその詳細を愉快そうに描写している

第10章     黒人の心臓も自由を求めて鼓動する
新生フランス共和国は国境沿いの地域をすべて押さえていたが、植民地の自由黒人による部隊の活躍が際立ち、政府も彼らを正規の部隊として承認し、アレックスは少佐に昇進。晴れて宿屋の娘と結婚
アレックスの指揮の下、アメリカ人部隊=黒人部隊はベルギー国境の防衛を命じられ、勝利を重ねる

第11章     ムッシュー・人情家
                  アレックスはわずか1年で竜騎兵連隊の伍長から少将、中将へと昇進するが、フランス軍の将官は、今や恐ろしく反抗的な兵士たちのこと以上に、軍のことを一から十まで指図する政府首脳たちに処刑される危険を心配しなければならなかった
政府内に公安委員会が設けられ、すべての権力を集中していた
アレックスは軍団長となり、ピレネーからアルプスへと戦場が変わるが、自らの信念に基づく行動が公安委員会から反革命的思想の嫌疑をかけられる

第12章     世界の頂上をかけた戦い
イタリア軍とのアルプスでの戦いは、フランス革命がヨーロッパの最高峰を征服するという意味で象徴的  苦戦の末勝利したアレックスは、フランス革命戦争の英雄を祀るパンテオンで一段高い位置に上り、公安委員会も熱狂的にアルプス方面軍を称える

第13章     革命の底
1794年 ロベスピエールの処刑で恐怖政治は終わるが、国内の反革命はとの戦いは続き、アレックスもその鎮圧のため西部方面軍に動員される  軍の鎮圧行為は残虐と無法を極めていたところから、アレックスはまず軍の綱紀粛正に取り組み、特に犠牲者たちはその後もアレックスの実績を称え続けた
引き続きオーストリア帝国との戦いに参戦

第14章     包囲
1796年 もとは有力な自治国家だったフィレンツェやミラノはオーストリア帝国の都市になっていて、オーストリアに対する憤りが生まれようとするイタリアの愛国主義に弾みをつけ、フランスに願ってもない機会を与える  ナポレオン・ボナパルト率いるイタリア方面軍が、オーストリアの同盟国だったピエモンテ=サルディーニャ王国を攻撃したが、ミラノで初めてナポレオンに会ったアレックスは、彼がまるで革命を使って自分の影響力を征服地に広げようとするやり方に困惑
装備が粗末で士気も低かったイタリア方面軍を蘇生させたナポレオンの戦略は、まず軍を征服地の富を使って自給自足にすることが基本であり、略奪という古い伝統を高度に組織化して実行、さらに組織化された窃盗を新たなレベルにまで高めた
アレックスはイタリア方面軍にいた期間ずっと、民間人への対処についてナポレオンと衝突し続けた
イタリア遠征がナポレオンにとって、共和国将軍を自分のイメージ通りに改鋳する第1歩  アレックスは2人の関係の最初から、ナポレオンが特別な尊敬を期待していることを理解せず、実利主義者だったナポレオンもこの時点ではアレックスが自分にどう役立つか見定めようとしていた

第15章     黒い悪魔
オーストリア軍を追撃したデュマの功績は、ナポレオンの認めるところとなり、最高の褒め言葉とともにチロルに駐屯する全騎兵部隊の指揮を任される。フランスの圧倒的勝利によってイタリアはフランスの支援により共和国として承認され、アレックスもトレヴィーゾの軍政府長官に任命される  善政を敷いたことは市民からデュマ将軍に宛てた手紙が証明

3
第16章     遠征の指導者
1798年 トゥーロンに転属、ナポレオンのエジプト遠征に従軍。手始めがマルタ島の占拠。ナポレオンがこの島で行ったことは、ヨーロッパをつくり直す予行演習であり、あきれるほど矛盾する彼の遺産の兆候を示している。彼は騎士団を騙して島を略奪したが、島を実力主義社会に変革した。彼は独裁者、破壊者、全体主義指導者の先駆けだったが、同時にヨーロッパを千年もの長きに亘って牛耳ってきた圧政からの解放者でもあった
エジプト上陸後、あらゆるイスラム教徒は、低身痩躯のボナパルトに目を瞠り、方や勇敢な騎兵部隊総司令官こそ遠征軍の司令官だと思い、ナポレオンは面白くなかったはず

第17章     「共和主義という讒言」
ナポレオン軍はアレクサンドリアに上陸、カイロに向けて進軍。カイロでもナポレオンは徹底的な社会改革及び政治改革を行う
戦果とは別に、水を始めとする兵站の枯渇に餓えた将軍たちは、最も尊敬を集めていたデュマ将軍のもとに集まって遠征への不満を口々にする。それがナポレオンの耳に入り、デュマ将軍に謀反の嫌疑をかけ脅すが、デュマも「祖国の栄光と名誉のためなら世界一周もするが、ナポレオンの思いつきのためには最初の一歩も踏み出すつもりはない」と反論
ネルソンがカイロ沖でフランス艦隊を発見、両艦隊の間で砲撃開始

第18章     炎上する夢
ナイルの海戦は、海戦史の中でも最も決定的な戦いの1つで、たちどころにフランスとエジプトの間の補給路を断ち切る

第19章     聖信仰軍の囚人
1799年 ナポレオンに続いてデュマもフランスに戻ろうとするが、船が難破してナポリに漂着、地元の聖信仰軍の捕虜となる

第20章     女性市民デュマの焦燥
デュマ将軍の妻が、将軍の行方を案じて八方探し回っている間に、ナポレオンがクーデターで独裁者の地位を確保、フランスの共和主義と民主主義の10年が終わる

第21章     牢獄
デュマは、拘束されている間に毒殺されかかり、さらに体調を悪化させたが、地下で活動する地元の共和主義の愛国者から差し入れられたチョコレートで一命を取り留める
ナポレオンによる再度のイタリア征服によって、デュマも釈放

第22章     待て、しかして希望せよ!
1801年 デュマがフランスに戻った時、祖国はナポレオンによって全く違う国に作り変えられていた
デュマにとって、新たな生活を始めるための生活費と軍での地位を取り戻す必要があったが、彼の支えとなっていた軍からは何の反応もなかった
ナポレオンも、革命後は徐々に革命を支持してくれた奴隷商人や植民地のプランターに政治的な借りを返し始め、政府内のあちこちに奴隷制の支持者を配置
1802年 ナポレオンがレジオン・ドヌール勲章を創設した翌日、別の布告で、フランス帝国における奴隷制に関し、彼の真の姿勢を明らかにする  1794年の奴隷制廃止が実施されていない植民地――革命戦争の間にイギリスに奪われ、最近フランスに返還されたばかりのマルティニークなど――では、1789年以前の奴隷制がそのまま維持されるとし、奴隷制の完全な再開への扉が開かれる
その2週間後、退役または除隊になった有色人の元将校や兵士がパリとその近郊に居住することを禁止、かつての黒人統制の勅令も復活。翌年には肌の色の異なる者同士の結婚を禁止
デュマの死後、家族には財産も、収入も、恩給を受けられる見込みもなかった
将軍の未亡人は69歳まで生き、アレクサンドルに父親の思い出を全部伝えただけでなく、息子が世界的名声と富を手にするのを見届けることができた
将軍が帰郷途中愛妻に書き送ったメッセージを、彼の息子が『モンテ・クリスト伯』の終盤でダンテスに語らせる。いわく、「この上ない不幸を味わった者こそが、この上ない幸せを得ることができる・生き続けるのだ。そして、神が人間に未来を明かしてくださるその日まで、人間の知恵のすべてはこの言葉に詰まっていることを忘れるな――『待て、しかして希望せよ!』」
作家になったアレクサンドルは、最悪の裏切りという出来事から想像の世界を紡ぎだし、父の夢、そして彼が栄光と名誉に包まれて理想を追求し、奴隷解放を勝ち取ろうとした素晴らしい時代を甦らせた

エピローグ
デュマ将軍の最初の伝記は1797年、フランス軍の北イタリアでの勝利の後で出版されたが、ほんの2年後からがどんな運命に見舞われたかを知っている者にほろ苦い気持ちを呼び起こさせた  出版を記載した記事にあったデュマの人種に関する率直な記述には驚いた。曰く、「黒人の勇敢な行いは旧世界生まれの人間の偉業と全く同じに称えられるべきだ。奴隷制のおぞましさを体験したうえで自由のために戦う有色人ほど、人々の尊敬に値する人間がほかにいるだろうか
次の伝記は、11年後の1808年に出版。『軍逸話集』の中に記載されたが、ある種の既視感を覚えた
作家デュマが父親の彫像の建立を目指したが実現せず、1890年代フランス国内で1世紀前の革命戦争への愛国的な懐古が高まった時期に、彼の息子の作品のファンによる小さなグループが、購読料によって資金を集め、1912年に漸く出来上がるが、除幕式までさらに1年を要したという。中心になったのは作家のアナトール・フランスと女優サラ・ベルナール
2次大戦中、ナチによって溶かされてしまう
戦後デュマ将軍へのレジオン・ドヌール勲章の死後授与や彫像設置の働き掛けがあり、前向きに動いていたが、実現したのは巨大な奴隷の足枷のブロンズ像で、21世紀フランスの人種問題を巡る政治の中で、デュマ将軍の彫像は、フランス植民地の奴隷制の犠牲者全員を記念する象徴的な像に変形してしまった
フランスにはいまだ、デュマ将軍の生涯を記念する彫像はない

訳者あとがき
作家デュマの『三銃士』『モンテ・クリスト伯』の実在したモデルこそ、彼の父親のデュマ将軍。
本書は忘れられた英雄の数奇な生涯を描いた伝記。2013年ピュリッツアー賞伝記部門に輝く
混血の将軍が成功した裏には、当時のフランス社会の理想と現実のせめぎあいがある  イギリスやアメリカの遥かに先を行く奴隷制廃止運動が展開されていた。同時に革命によって多くの貴族出身士官が亡命したため、デュマのように能力ある者には、それまでには考えられなかった出世が可能になった
それほどの人物がすっかり忘れられてしまった裏には、ナポレオンが深くかかわっていた
すでに映画化が決定している


ナポレオンに背いた「黒い将軍」 トム・リース著 文豪デュマの父の数奇な生涯 
日本経済新聞朝刊2015年6月7日付
フォームの終わり
 19世紀フランスの作家デュマは、今でも世界中に愛読者をもつ。しかし、彼の父親に思いを致す人は少ないだろう。実は彼の父アレックス(17621806)は、デュマ文学の主人公たちに勝るとも劣らないほど数奇な運命を生きた。本書は未発表の文書や手紙に依拠しながら、文豪の父の生涯を再現した、わくわくするような評伝である。
(高里ひろ訳、白水社・3600円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(高里ひろ訳、白水社・3600円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 フランスの植民地だったカリブ海のハイチで、フランス人貴族と黒人奴隷の女性との間に生まれたアレックスは、若くしてパリにやって来て、王妃付の騎兵連隊に入る。フランス革命が勃発すると、革命軍の一員として各地で華々しい武勲を立て、将軍にまで出世した。その後、権力を掌握したナポレオンにも認められる。当時のフランスでは、奴隷制を人権抑圧として批判する啓蒙思想が普及していたし、国民議会が採択した画期的な人権宣言では、あらゆる人間の自由と、法のもとでの平等が保障された。母が黒人であっても、アレックスは自分の才能と勇気で、軍人として頭角を現すことに成功したのである。
 しかし、彼を取りたてたナポレオンとの確執が、彼の失墜の原因になった。1798年のエジプト遠征に際して、ナポレオンは彼が現地人の反抗を主導していると非難したのである。軍隊内で人望の高い彼への妬(ねた)みもあったかもしれない。そしてフランスへの帰途、アレックスは南イタリアで捕らわれの身となり、2年間の幽閉生活を強いられた。時に毒を盛られるなど、過酷な状況を耐え忍んだのは、祖国と妻への愛ゆえである。この体験が、『モンテ・クリスト伯』でダンテスの牢獄(ろうごく)生活の素材になった。デュマは父の人生を物語化したのだ。
 ようやく解放されてフランスに帰国したものの、ナポレオンには冷遇され続けた。政府が奴隷制を復活させ、有色人の権利を制限したからである。命を賭して国家に奉仕したアレックスの無念は、察するに余りある。独裁者の意向はつねに、市民の運命を翻弄するものだ。
 高潔な人間の生涯を語る感動的な伝記であると同時に、個人の生をつうじて、当時のフランス社会のめまぐるしい変貌をあぶりだした歴史書でもある。2002年フランス政府は、作家デュマの生誕200年を機に、国家の偉人を祀(まつ)るパンテオンに彼の遺骸を移して、その功績を称(たた)えた。それは不遇のうちに没した父アレックスへの、遅ればせの間接的な感謝のしるしでもあったのかもしれない。
(慶応大学教授 小倉 孝誠)

Wikipedia
トマ=アレクサンドル・デュマThomas-Alexandre Davy de la Pailleterie dit Dumas, 17623月25 - 18062月26)は、フランス軍人。『モンテ・クリスト伯』などの作品で有名な作家のアレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)の父親。大デュマの作品には父をモデルにした人物が数多く登場する。

生涯[編集]

仏領サン=ドマング(現ハイチ)で、アレクサンドル=アントワーヌ・ダヴィ・ド・ラ・パイユトリー侯爵黒人奴隷女性マリー・セゼットの間に生まれ、トマ=アレクサンドルと名づけられる。父親は当地でコーヒーとカカオのプランテーションを経営していた。母のマリーは奴隷のために姓がなかったが、農場を切り盛りしていたため「農家のマリー(Marie du mas)」と呼ばれており、「農家の」にあたる「du mas」をつなげた「Dumas」を姓として用いるようになった。
母の死後、他の3人の兄弟とともに実の父に奴隷として売り飛ばされたが、トマは父がフランスに帰国すると買い戻されてフランスに呼び寄せられ、私生児として認知された。ノルマンディーからパリ郊外に移り住んだ父に伴い、その地で高等教育を受けた。そのとき、同じくムラートジョゼフ・ブローニュ・シュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュからフェンシングを習っている。父親の財力のおかげで20代前半までは優雅な暮らしを楽しんだ。
その後、成長したトマ=アレクサンドルは美丈夫として社交界の話題を集めたが、父と別の女奴隷との結婚に反対したため父からの援助が打ち切られた。そこでフランス陸軍に一兵卒として入隊するものの、貴族の家系である父は息子の一兵卒での入隊に反対した。そのため、以後、母の姓である Dumas を名乗り、アレクサンドル・デュマと称するようになった。

軍人として[編集]

ルイ16竜騎兵として仕え、フランス革命勃発後、オルレアン公爵家の城下町であるヴィレール・コトレへ治安維持のために派遣されたトマ=アレクサンドルは町の有力者の娘・マリー=ルイーズ=エリザベート・ラブーレと恋仲になり、1792年に結婚した。
国王軍から革命軍へ転じ、数々の武勲をあげ、陸軍中将にまで昇進する。しかし、ナポレオン・ボナパルトと共にエジプト遠征に従軍していた際、エジプト遠征を「ナポレオンの個人的野心に基づくもの」と批判したため、ナポレオンとの関係が悪化し、フランスに帰国することとなった。しかし、乗った船が嵐にあって、ナポリ王国まで流され、ナポリ王国で、彼は現地の軍隊に捕虜として捕らえられ、2年間にわたって監禁された。その間、食事に砒素が混入されたため、1801に解放されたときには心身ともに衰弱していたという。
その後、妻の実家のあるヴィレール・コトレで静養したトマ=アレクサンドルは軍隊への復帰を申し出たが、1802529日、白人と黒人の混血(ムラート)であることを理由に陸軍から追放される。ナポレオンが布いた人種差別政策に基づくものだが、もともと軍隊の規律になじまない自由闊達なトマ=アレクサンドルの性格にナポレオンは手を焼いており、心身の衰弱にかこつけて体よく軍隊から追い出したというのが真相のようである。1806226日、静養先のヴィレール・コトレで死去した。なお、ナポレオンはトマ=アレクサンドルの未亡人の終身年金下付の請願を拒否しており、残された妻子は困窮した生活を余儀なくされた。

参考文献[編集]

彼の生涯をモチーフにした小説に『女王陛下の竜騎兵』(クロード・リブ)や『黒い悪魔』(佐藤賢一)がある。


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