井上ひさしの劇ことば  小田島雄志  2015.10.19.

2015.10.19. 井上ひさしの劇ことば

著者 小田島雄志 1930年旧満洲・奉天生まれ。東大名誉教授。東京芸術劇場名誉館長

発行日           2014.9.25. 初版
発行所           新日本出版社

台本は、12年世田谷文学館で「ことばの魔術師 井上ひさし」のタイトルで行われた5人の講師による連続講演での「『薮原検校』――ことばが掘り出すもの」

序にかえて――劇ことばの意味
劇ことばとは、せりふに加えて、観客をも巻き込むような力を持つ言葉
日常会話との違いは、登場人物を通して不特定多数にも伝えることを目的としているため、登場人物が置かれた状況で口走るせりふより体温が高く、切れ味が鋭い
言葉の伝達力にエネルギーを加える必要がある
芝居の言葉には2つの要素  ナラティヴ・エレメント(物語的、説明的要素)と、ドラマティック・エレメント(劇的要素)
日常会話より、短く、多彩化する

1章        井上ひさしとの出会い
井上ひさしの劇作家としてのデビュー作『日本人のへそ』を出した直後、『悲劇喜劇』の対談「演劇時評」で、彼の『表裏源内蛙合戦』の戯曲評をして、褒めた後に「哲学がない」と言ったことから、反論が来て"突きあいが始まる
最初に井上ひさし像をくっきりと焼き付けられたのが、テアトル・エコー上演の『表裏源内蛙合戦』で、天才として本草学を極める前半生に対し、山師と呼ばれた後半生を対比し、有り余る才能がありながら、その役割を果たせなかった平賀源内を取り上げ、知識人は真の革命の中核たりうるかという問題提起をした作品だったが、言葉がコントロールされずに勝手に飛び出してくる、その多彩さ、自由で無駄な部分が面白かった
ことばの持つ遠心力はすごいものがあったが、問題は、テーマが置き去りにされるか、ことばに埋没していること
のちに日本語のすばらしさを語っていく契機になった芝居

2章        『薮原検校』――ことばの凄み
井上作品で一番初めに推す作品が『薮原検校』(73年 五月舎製作)
テーマがことばに追いつき、ことばは多様化したまま深化している。目に見えない心の動きまでことばからのぞいているよう
「盲(めくら)太夫」のナレーションを頭で理解するのではなく、腹で受け止めるため、ボディブローのように時間をかけて効いてくる
ことばは人間そのものだということを作者は言いたかったのだろう

3章        シェイクスピアとのチャンバラ
『天保12年のシェイクスピア』(73年刊行、74年初演) ⇒ 宝井琴凌の『天保水滸伝』とシェイクスピア全37作品を元にした任侠劇
アリストテレス『詩学』によって確立された演劇美学では、演劇の典型的なパターンとして「三(さん)一致の法則」があり、時・筋・所の一致が提示されなければならないとされ、最もオーソドックスなドラマツルギー(作劇法)が「筋→人物→せりふ」と縦に制度化されたもの ⇒ シェイクスピアや井上ひさしは、その美学の枠から自由にはみ出そうとした

4章        『頭痛肩こり樋口一葉』――ことばは想像力に乗って
84年初演の評伝劇。シェイクスピアの歴史劇との類似点が目に付く
井上ひさしの評伝劇の見事さは、客観的事実を踏まえたうえで、想像力を働かせ、私小説的な狭い伝記ではなく、その時代の風俗から生活者の喜び悲しみなどすべてを描いたことにある

5章        「昭和庶民伝三部作」――ことばの落ち着き
昭和10年代から20年代にかけての激動の時代を懸命に生きた日本の庶民の姿を、「星・花・雪」に託して描く。自身の個人史でもある。
初演85年~

6章        「東京裁判三部作」――"巨大な山は踏み越えられたか
0106年の作。ずっと温めてきたテーマで、侵略戦争を起こした責任は誰にあるのか、東京裁判が何を裁いたのか、その問いに様々な角度から切り込み、笑いと音楽をふんだんに盛り込んだ
テーマが大きく観念的になっていき、あとの2作は芝居としての面白みが減じていった

7章        『父と暮せば』『組曲虐殺』――ことばとテーマの一致
劇ことばが思想を語る段階まで到達しつつある最中に亡くなったのは残念
ことばが中身を伴うようになり、無駄な部分がそぎ落とされるようになってきた
『父と暮せば』(94年初演) ⇒ 12役がポイントで、原爆を1人の人間として、厖大な被爆者の体験談を読んだり被爆者への取材をしつつ、あの地獄を知っていながら「知らないふり」をすることは、何にもまして罪深いことだと考える
『組曲虐殺』(09年初演) ⇒ 『蟹工船』の小林多喜二を題材にした音楽評伝劇。井上ひさしの最後の芝居。特高による拷問の末虐殺された多喜二の最後の29か月の描写を通じ、井上ひさしのある種の覚悟が感じられる。自身の生き方の意思表示を多喜二のことばを通じて示している

8章        私の好きな劇ことば・せりふ
l  それがもし虫けらの自由であっても、自由と名の付く以上は、大事にしてやりたいと思う(『天保12年のシェイクスピア』)
l  ひとを好きになると、誰でも少しは賢くなるものね(『夢の泪』)
l  踊らされたといっている人に限って、自分が他のだれかを踊らせていたことに気がつかない(『夢の裂け目』)
l  私、イツモ、オ散歩デス。私ノ一生モ、一所懸命ノオ散歩デス(『泣き虫なまいき石川啄木』)
l  それでもみんなは、すこしでもマシな人間になりたいとねがいながら苦しんでいるわけです。のたうちまわっているわけですよ(『人間合格』)
l  わしが思うに、世界はキでできておる。空気の気、大気の気、あの気じゃ。気が濃く固まれば、ネコやヒトや魚や樹木や花といった目に見えるものになる(『十一ぴきのネコ』)
l  死ぬときまった人間がその死の瞬間までどうすごすべきか、それを考えると気が狂いそうですが、ぼくは、このわずかな生の時間を、自分がいま一番したいことをしてすごすことにしました。それは、お父さん、お母さんのお顔を思い浮かべることです(『紙屋町さくらホテル』)
l  親のない子はどこみりゃわかる、という戯れ唄を知っておいででござんすかい。指をくわえて門(かど)に立つ、とこう続く。仲間外れの日暮れ時、指を咥えてべそかいて、門口にしゃがんで眺める遊びの輪。ありゃあ子ども心にも切ないもので…(『化粧』)
l  須藤「待合室に患者が二人、同時に飛び込んできた。1人は日本人で上等の洋服を着こんでいばっている。もう1人は中国人、ボロを着てぺこぺこしている。さ、あんたが受付の書生なら、どっちを先に診察室へ案内するかな」
完造「(言下に)貧しい方」
須藤「受付落第。病気の重そうな方、より痛そうな方を先に診る」
(『シャンハイムーン』)
l  お天道様はムダには光っていないよ。そのうちバカに花の咲くときがありそうだ…もっとも、あたしの予想はいつも当たらないけどな(『円生と志ん生』)

あとがき
王貞治やモダン・ダンスの故アキコ・カンダのように、この人と同じ時代に生きていてよかったと感謝したくなるような人が何人かいるが、井上ひさしの場合は少し違って、この上なく楽しい芝居を観せてもらった後、このような時間を与えてくれてああよかったとおさまるのではなく、さあ次はどんなすてきな作品を観せてくれるのか、と早くも次作への期待が大きく膨らんでしまう
もう二度と新作を提供してはくれなくなったことを確認するためにも本書を書き始めた
シェイクスピアの全作品を翻訳した後だけに、シェイクスピアの目を借りて井上ひさしを読めると自負








Wikipedia
井上 ひさし19341117 - 201049)は、日本小説家劇作家放送作家である。文化功労者日本藝術院会員本名は井上 (いのうえ ひさし)。1961から1986までの本名は内山 (うちやま ひさし)[† 3]。遅筆堂(ちひつどう)を名乗ることもあった。
日本劇作家協会理事社団法人日本文藝家協会理事、社団法人日本ペンクラブ会長(第14代)などを歴任した。晩年は自身の蔵書を収蔵した遅筆堂文庫を造り、運営した。(後述)
先妻は西舘代志子。後妻のユリは元衆議院議員米原昶の娘。長女は元こまつ座主宰の井上都。三女は株式会社こまつ座社長の石川麻矢
来歴[編集]

幼少時代[編集]

1934昭和9年)1117井上靖と競った文学青年の井上修吉を父とし、井上マスを母として山形県東置賜郡小松町中小松(現・川西町)に生まれる[1][2]。修吉は実家が薬屋だったため薬剤師を目指す一方、農地解放運動に関わり、地方劇団「小松座」を主宰したほか、1935年には小松滋の筆名で書いた小説「H丸傳奇」が「サンデー毎日」第17回大衆文芸新人賞に入賞している。プロレタリア文学雑誌『戦旗』への投稿や同誌の配布の手伝いもしていた[3]。マスが病院の下働きをしていたときに薬剤師助手の修吉と知り合い駆け落ちしたが、井上の籍には入らず、ひさしたち3兄弟は戸籍上は非嫡出子(婚外子)として生まれた。廈(ひさし)という名前は、「H丸傳奇」の舞台となった中国の厦門(アモイ)に由来する[4]5歳のとき父が脊髄カリエスで死亡。青年共産同盟に加入していた父親は3回検挙歴があり、そのときに受けた拷問の影響で脊髄を悪くしたとも語っていた[3]。母親は夫に替わって薬屋を切り盛りする傍ら、闇米の販売や美容院経営などで3人の子を育てていたが、旅回りの芸人と同居を始める。その義父から虐待を受け、ストレスから円形脱毛症吃音症になる。その後、義父に有り金を持ち逃げされた。山形では父が残した蔵書を乱読して過ごし、「神童」と言われていた。
母は一関市飯場を営んでいた義父の居場所を突き止め、会社から義父を追い出して自ら社長の座につき土建業「井上組」を立ち上げたが、経営はうまくいかず会社は程なくして解散。生活苦のため母はカトリック修道会ラ・サール会孤児院(現在の児童養護施設)「光が丘天使園」(宮城県仙台市)にひさしを預ける。そこではカナダ修道士たちが児童に対して献身的な態度で接していた。カナダから修道服の修理用に送られた羅紗もまず子供たちの通学服に回し、自分はぼろぼろの修道服に甘んじ毎日額に汗して子供たちに食べさせる野菜などを栽培していた。このような修道士たちの生きかたは入所児童を感動させ、洗礼を受ける児童が続出した。ひさしもその一人となった(洗礼名:マリア・ヨゼフ。上京後、棄教している)。一方、井上の孤児院時代の友人によると、この孤児院は理不尽な体罰いじめが横行する弱肉強食の環境であり、当時の井上は弟と一緒だったが「小さな弟がいじめられて泣いてもかばえないような奴でした」「口がうまくてそれで渡り歩いたようなところがあった」、という[5]。井上在園当時に園長を務めた石井恭一修道士も「ひさしさんはおとなしい子でしたよ。弟さんは小さくて、よくおねしょをしたので、皆にからかわれていました。彼はかばうことはせずに、はやし立てる仲間の方に加わっていました」と証言している[6]。この当時のことは自著『四十一番の少年』にも描かれている。

学生時代から作家になるまで[編集]

1950(昭和25年)、宮城県仙台第一高等学校へ進み孤児院から通学[2]。在校中の思い出を半自伝的小説『青葉繁れる』に記している。在校中は新聞部に所属し、同級生に憲法学者の樋口陽一1学年上級生には俳優の菅原文太がいた。在学中は投稿や読書、映画、野球に熱中し、成績は低迷。東北大学東京外国語大学の受験に失敗して早稲田大学の補欠合格と慶應義塾大学図書館学科の合格を果たすも学費を払うことができず[要検証 ノート][7]、孤児院の神父の推薦で1953(昭和28年)、上智大学外文学部ドイツ文学科に入学し[2]代々木上原のラサール修道院から通う[† 4]。しかしドイツ語に興味が持てなかった上、生活費も底をついたため2年間休学して岩手県の国立釜石療養所の事務職員となる。看護婦への憧れから医師を志し[8][9]東北大学医学部岩手医科大学を受験して失敗。1956(昭和31年)、上智大学外国語学部フランス語科に復学[2]。釜石で働いて貯めた15万円は、赤線に通い詰めて2か月で使い果たした[10]
在学中から、浅草のストリップ劇場フランス座を中心に台本を書き始める。当時のストリップは12時間程度のショーに先駆け1時間程度の小喜劇を出し物としており、殊にフランス座は渥美清を筆頭として谷幹一関敬六長門勇と言った後に日本を代表する喜劇役者の活躍の場であった。これらの大学時代の経験は、『モッキンポット師の後始末』に(かなりフィクションが交えられているが)小説化されている。

放送作家・劇作家[編集]

1960(昭和35年)に上智大学を卒業[2]放送作家として活動し、1961年、広告代理店に勤めていた好子と結婚(婿養子)、1963年から年子で娘を3人もうける。山元護久と共に『ひょっこりひょうたん島』を手がけ、19644から5年間放映される国民的人気番組となる。舞台であるひょうたん島が「流れ着いた国」の一つ、「国民すべてが郵便局員」であるというポストリアの設定が郵政を馬鹿にしていると抗議があり放送が打ち切りになった[11]。のち19704より『ネコジャラ市の11』が放送され、作風は近代化されたが時代的背景から体制批判であるとの抗議が立ち[要出典]、『ひょっこりひょうたん島』に比べれば短期間の3年間の放映で終了となった。また、このころ、お茶の間の人気者として台頭しつつあったんぷくトリオのコント台本を数多く手がけている(これらの作品は「コント台本」として出版されている)。1969に、『ひょっこりひょうたん島』に声優として出演していた熊倉一雄が主宰する劇団テアトル・エコーに『日本人のへそ』を書き下ろしたのを契機に本格的に戯曲の執筆を始め、小説・随筆等にも活動範囲を広げた。
19831、劇団こまつ座を立ち上げている。第1回は198445日の『頭痛肩こり樋口一葉』であった。パンフレット「the座」を発行していて、前口上や後口上やシナリオを掲載していた[12]1986年、好子と離婚。井上、好子ともに記者会見をし、マスコミを賑わせた。この間、1985124日、自宅で睡眠薬を服用して首を吊り、自殺を図ったが未遂に終わっている[13]。翌年、米原ユリと再婚、男児をもうける。
日本ペンクラブ会長日本文藝家協会理事、日本劇作家協会理事(20044 - )、千葉県市川市文化振興財団理事長(20047 - )、世界平和アピール七人委員会委員、仙台文学館館長(初代)、もりおか啄木・賢治青春館名誉館長(2002 - )などを歴任した。また多くの文学賞等の選考委員を務めており直木三十五賞読売文学賞谷崎潤一郎賞大佛次郎賞川端康成文学賞吉川英治文学賞岸田國士戯曲賞講談社エッセイ賞日本ファンタジーノベル大賞小説すばる新人賞が挙げられる。2009より文化学院の特別講師となっていた。以前、姉が文化学院でフランス語を教えていたことと、娘らが文化学院に在籍経験があることから引き受けたという[要出典]。同年、日本藝術院会員に選ばれた。
140本はたばこを吸うという愛煙家で、「喫煙と肺癌は無関係」という見解をたびたび披露していたが、井上自身が200910月に肺癌と診断され、「やはり肺がんとたばこには因果関係があるんだね。さすがに禁煙したよ」と述べていたという[14]。治療中の201049に死去した[15][16]75歳没。
沖縄戦を題材にした新作戯曲『木の上の軍隊』の上演が20107月に予定され、豊竹咲大夫の求めに応じて井原西鶴の作品を元にした文楽の新作台本を2011に上演する計画もあったが、いずれも執筆に至らなかった。
戒名は「智筆院戯道廈法居士(ちひついんぎどうかほうこじ)」。
命日の49日は没後5年にあたる2015年より、代表作「吉里吉里人」にちなんで吉里吉里忌と名付けられている(文学忌)。
人物[編集]
作家としての特徴[編集]
  • 「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」[† 5]を創作のモットーとしており、文体は軽妙であり言語感覚に鋭い。
  • 言葉に関する知識が、「国語学者も顔負け」と称されるほど深く、『週刊朝日』において大野晋丸谷才一大岡信といった当代随一の言葉の使い手とともに『日本語相談』を連載する。また、『私家版日本語文法』や『自家製文章読本』など、日本語に関するエッセイ等も多い。
  • 自他共に認めるたいへんな遅筆で有名で、書き下ろし戯曲が公演に間に合わず休演させることも度々あった。自ら「遅筆堂」という戯号を用いることもある。特に戯曲『パズル』完成に間に合わず雲隠れした「パズル事件」は悪名高い。休演や初日延期の事態になった場合の損失には私財を投じて補塡したという。1983に自作の戯曲を専門に上演する劇団「こまつ座」を創立、自らを座付き作者と名乗る。ちなみに親交のある永六輔によると「遅筆がひどいのでパソコンで字を書こうと考えていると話していたが、どちらにしても同じだからやめなさいと説得し、結果やめていた」と明かして、遅筆は字を書く以前の問題だという。井上の字は、丁寧で大変読みやすいものだった。
  • 戯曲の完成度の高さは現代日本においては第一級のものであり、数々の役職を含め、日本を代表する劇作家として確固たる地位を確立した。死去に際しては「国民作家の名にふさわしい」(別役実、産経新聞)「井上作品のあの深みと重み。同じ方向に行っても勝てるわけはないですから」(三谷幸喜、朝日新聞)「父のような存在でした。いつかライバルですって、言ってみたかった」(野田秀樹、同)と、当代を代表する劇作家たちからの最大級の賛辞が追悼コメントとして並んだ。また井上作品『ムサシ』の英米公演を控えた演出家の蜷川幸雄は訃報を受け「井上さんの舞台は世界の最前線にいるんだということを伝えたい」(報知新聞)と語っている。彼の書評眼の鋭さに対する賞賛の声もまた存在している。
  • 膨大な資料を収集して作品を描くことでも著名で、蔵書は後述の「遅筆堂文庫」として寄贈された。同様に膨大な資料を元に作品を描くことで有名な司馬遼太郎と同じ資料を探していて、一足違いで先を越されたエピソードもある。
  • 井上の政治的姿勢に抗議電話をかけてきた右翼に対し「あなたは歴代天皇の名前が言えるのか、自分は言える」とやりこめた逸話もある[19]
  • 井上には戯曲『父と暮せば』や『紙屋町さくらホテル』、朗読劇『少年口伝隊一九四五』と広島への原爆投下を題材にした作品も多いが、これについて20097月に広島市で行われた講演会で「同年代の子どもが広島、長崎で地獄を見たとき、私は夏祭りの練習をしていた。ものすごい負い目があり、いつか広島を書きたいと願っていた」「今でも広島、長崎を聖地と考えている」と話した[20][21]
家庭生活、とくにドメスティック・バイオレンス(DV)などをめぐって[編集]

好子夫人とユリ夫人[編集]

ひさしが電通のディレクターから寸借詐欺に遭ったときに、前妻である好子も被害者の一人であったことが、交際するきっかけとなった。
ひさしの三女である石川麻矢は1998に、自らの生い立ちと家庭について綴った『激突家族 井上家に生まれて』(中央公論社)を刊行した。それによると、ひさしと当時の夫人・好子(麻矢の母)は共に強い個性の持ち主で、互いに妥協することをしなかった。夫婦喧嘩は大変派手で、場所をかまわず「やったらとことん」で、子どもが二人の間に介入することも嫌っていた[22]。石川が幼少の頃、レコードに合わせて好きな歌を歌っていたところに喧嘩をしていたひさしが投げたティースプーンが飛んできて額に当たってレコードの上に落ち、それ以来数年ひさしと積極的に口をきかなかったという[22] とはいえ、当時は決して家庭内が険悪だったわけではなく、好子はひさしにとって「優秀なプロデューサーであり、マネージャーであった」と石川は記している[23]。執筆でひさしの足がむくむと好子はそれを取るためのマッサージをした[24]。やがて、筆が進まなくなるなど些細なことで、ひさしは好子に暴力を振るうようになり、編集者も「好子さん、あと二、三発殴られてください」などと、ひさしの暴力を煽った[23]。殴られて顔が変形しても「忍耐とかそんな感情ではなく、作品を作る一つの過程とでも思っているような迫力で父を支えていた」と石川は記している[23]
ひさしの作品を専門に上演する「こまつ座」の旗揚げは二人にとって共通の大きな夢の実現だったが、石川はその中で夫婦の方向性が少しずつずれてきたと記している[25]。その時期から、好子はどんなに迷惑を掛けても素晴らしい作品を残せばいいというひさしを傲慢だと思うようになった。さらに『パズル』の台本が完成せずに上演をキャンセルしたことで、好子は作家の妻の立場と関係者に迷惑をかけたこととの間で苦しんだと述べている[25]
この時期に好子とこまつ座舞台監督の西舘督夫との不倫が発覚、1986に井上家を出て翌年6月離婚。石川は不倫が発覚した当時、好子が座長と作家の妻の立場の狭間で疲れ切っていたこと、更年期に当たっていたこと、ひさしが好子にとても厳しかったことを挙げている[26]
石川の著書に対して、小谷野敦は、編集者が好子にひさしから殴られることを懇願したエピソードを引用して、井上が「ほとんど人格破綻者ともいうべき」であると述べている[27]
離婚後、西舘好子は『修羅の棲む家』(はまの出版)でひさしから受けた家庭内暴力を明かした。この本で「肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出て[28]と克明に記している。ひさし自身も離婚以前に「家庭口論」等のエッセイで自身のDVについて触れてはいるが、こちらはあくまでもユーモラスな筆致で、しかし上記の内容について自慢げな描写もある。 一方で、好子夫人も井上に対して「噛み付く、ひっかく、飛び道具を使う、噛んだら離さない」など、一方的に暴力を振るわれていたわけではなかったという矢崎泰久の目撃証言もある。[29]
これらのDVについて、ひさし側は真偽もふくめて黙殺する対応をとり、公職や公的活動も一切控えることをしないまま、特に追及する声も起こらずに話題としては終息する(むしろペンクラブ会長就任など井上の社会的活動はこのあと活発化している)。小谷野も『週刊新潮』追悼記事でのコメントでは、作品への賛辞に園遊会問題(政治的発言の項参照)への批判を添えながら、この話題には一切触れていない。西舘好子はその自著で、井上が人気作家であることからいかに出版社の人間たちが井上を守っていたかを綴っている。また、上記の出版当時、ひさしと疎遠であった石川は数年後に長女の井上都と入れ替わって、こまつ座の代表に就任するなど急速な和解ぶりを示し、死に際しても異例の記者会見で悼辞を述べるに至った一方、逆に井上都が臨終にも呼ばれなかったなど複雑な家族関係が『週刊ポスト』に指摘された。なお、『激突家族 井上家に生まれて』には、井上都はひさしの離婚時に「泣いて抵抗したにもかかわらず」こまつ座の代表になったという記述がある(189ページ)。なお、二女の綾も臨終・葬儀に呼ばれていない。
後妻のユリはひさしとの結婚前に、「井上ひさしの再婚相手」として『フライデー』に家庭内にいるところを撮影され、発行元の講談社を相手取り肖像権の侵害に対する損害賠償訴訟を起こし、19896月に東京地方裁判所が慰謝料など10万円の支払を命じる判決を下している。
ユリは、ひさし没後の20106月に発売された『文藝春秋7月号に寄稿した「ひさしさんが遺したことば」において、ひさしとの結婚生活において口論になったことはほとんどなかったと記した。

子育て[編集]

ひさしは子どもに対して勉学の面ではほとんど口を出さず、「学校の教科をみな同じだけできてもそんなのはおばけだ。自分の好きなことを見つけなさい」と話していた[30]。通知表を見る機会も少なく、見ても評価の数字は見ずに担任のコメントだけを読んでいた[31]。文化学院に通っていた次女が留年を機に通学しなくなっても、本人に将来について考えを持っているのがわかると、ひさしも好子もそれ以上何も言わなくなった[32]。石川自身が文化学院に進学後、途中から通っていないことがわかるとさすがに怒ったものの、石川が準備をした上で「中退してフランスに留学したい」と告げたときには、二人は反対しなかった。それだけに、ひさしが離婚後に、新しい「恋人」(ユリ)から「井上家は子どもたちの育て方を間違えたわね。学校だけはきちんと出しておかなければダメよ」と言われた話をひさしは娘たちに嬉しそうに聞かせ、さらに「君たちは悪くない。自分たちの育て方が間違っていた」と話したことに石川は失望と怒りを覚え、ひさしとの間に大きな壁ができてしまったように思えたと記している[33]
社会活動[編集]
1987、故郷である山形県東置賜郡川西町に蔵書を寄贈し図書館「遅筆堂文庫[† 6]が開設される。収蔵されている本には線などの書き込みがなされ、全ての本に目を通していることが実感できる。また、同所にて「生活者大学校」を設立。顔の広さから数々の言論人の講座を開講した。農業関係の催しが多い。
1996、岩手県一関市3日間、作文教室を行い、この時の講義録が『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(後に新潮文庫)になる。
1998には仙台文学館の初代館長、現大崎市吉野作造記念館(後に作造兄弟の評伝劇「兄おとうと」2003を書く)の名誉館長に就任する。
政治的発言[編集]
19993月、日本共産党委員長・不破哲三との対談集『新日本共産党宣言』(光文社)を出版するなど共産党寄りの文化人として知られていた。また20046月、「九条の会(きゅうじょうのかい)」の9人の「呼びかけ人」の1人となり各地で「(日本の平和を守るために)日本国憲法第9を変えるな」と訴えるなど政治的な活動も古くから行っていた。国鉄分割民営化については「ナショナルアイデンティティの崩壊につながる」とし反対する議論を『赤旗日曜版』に寄稿するなど、日本共産党との共同歩調が目立った。
無防備都市宣言を支持しており、「(真の国際貢献をなすためには、)例えば医学の世界で、日本が世界最良の病院となるようにし、ノーベル医学賞は毎年日本人が貰い、日本人が癌の特効薬を開発し、世界中の医師が日本語でカルテを書くようになれば、ブッシュさんもプーチンさんも世界中の富豪も、日本に診療してもらいたくなり人質同様になれば、そんな日本を攻撃できない、してはいけないと思うようになる。」と発言をしている[34]
朝日新聞阪神支局襲撃事件に関連し、「赤報隊には「代表的な新聞社を襲えば、みんなが怖がって自己規制するだろう」という狙いがあった」と述べ、戦前政治家暗殺におびえているうちに戦争へと向かった「歴史視点から事件をとらえないと、再び道を誤ることになる」と発言[35]、犯行声明文に「反日分子」とあったことに対し、犯人こそ「反日分子」だと批判した[36]。新聞記者へ暴力にひるまず、勇気を持つようエールを送った[37]
前妻・西舘好子はひさしを「徹底した天皇制批判者」と記し(『修羅の棲む家』)、娘の石川麻矢も「父は基本的には天皇制に反対の立場を取ってきた」と述べている(『激突家族 井上家に生まれて』)。
しかしひさしが文化功労者を辞退せず、その後天皇主催の茶会に出席し、大岡昇平木下順二武田泰淳ら、反体制文学者が辞退した芸術院会員になったりしたことを、小谷野敦は批判しており(『天皇制批判の常識』洋泉社)、『週刊新潮』の追悼特集でも、いくつかの戯曲への絶賛に添える形ではあるが、あえてこの件に触れた。また絓秀実などもかねて「天皇制支持、反戦というのは『戦後民主主義』だ」としてひさしを批判していた(『小ブル急進主義批評宣言』)。
交友関係[編集]
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(20131月)
活動初期はテアトル・エコーの座付き作者に近い存在であり、主宰者・熊倉一雄らとの交友も長い。その後は木村光一栗山民也鵜山仁、晩年は蜷川幸雄との作・演出コンビが多かった。『ひょっこりひょうたん島』『忍者ハットリくん』など放送台本の多くを共同執筆した山元護久1978に早世している。
小説関係では、晩年は大江健三郎と行動をともにすることが多かったが、同い年でやはり笑いを武器にする筒井康隆との親交も深く、この三人は相互にエールを送る文章が多い。ともに娯楽色の強い小説が多かったひさしと筒井が『吉里吉里人』と『虚人たち』以降、強い実験性を打ち出すようになったのも軌を一にしており、劇作との二足のわらじなど共通点も多い。井上の死の数日後、筒井はネットエッセイ「偽文士実録」(当該部分は20136月角川書店刊)で「井上ひさしが死んでしばらくは茫然として何も手がつかなかった」と記している。なお、新潮社は一時期「小説新潮新人賞」をひさしと筒井の二人だけで選考させていた。
一世代上の司馬遼太郎を尊敬しており、親交があるほか、対談をし共著で『国家・宗教・日本人』を出している (後にひさしは司馬遼太郎賞の選考委員を長く務めた)。親交はなかったが、安部公房も尊敬しており、同じ読売文学賞の選考委員になった時期があったものの、なかなか話す機会がなかったという[38]
高校の先輩である菅原文太とは中年以降に交友が再開し、ベストセラー『吉里吉里人』の映画化権も菅原に委ねられた。これは結局実現しなかったにもかかわらず、30年近くも引き上げることなく預けっぱなしになっていたことが死の際に明らかになった(読売新聞ほか)。
マンガ家の本宮ひろ志とは、市川市で長く隣家の関係だったことがあり、交流があった。本宮はエッセイ『天然まんが家』(集英社)で、井上への尊敬を記している。
劇作家、演出家のロジャー・パルバースは井上作品の翻訳を行っているほか、個人的にも交流があり、1976に彼の招きにより井上は、オーストラリア国立大学日本語科で客員教授として講義を行っている。
イラストレーターでも安野光雅和田誠など何人かの名コンビが存在するが、山藤章二が他を圧して多く、共著扱いの本も少なくない。山藤の、出っ歯を思い切って強調した井上像は本人の写真や映像以上に広く浸透している[独自研究?]
受賞作品・活動[編集]




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