ヘミングウェイの妻  Paula McLain  2014.3.5

2014.3.5.  ヘミングウェイの妻
The Paris Wife                  2011

著者 Paula McLain 1965年カリフォルニア州生まれ。両親が育児を放棄したため、2人の姉妹とともに、様々な里親の下を転々としながら育つ。看護助手やピザ配達などで生計を立てながらミシガン大学で詩作を学び、99年に最初の詩集を出版。本作がベストセラーとなり、映画化も決定。クリーブランドに住み、ニュー・イングランド・カレッジで詩作を教えている

訳者 高見浩 1941年東京生まれ。出版社勤務を経て翻訳家に。ヘミングウェイの翻訳が多い

発行日           2013.7.30. 発行
発行所           新潮社

この作品は、単に1920年代のパリのアメリカ人の哀歓を描くにとどまらない野心的な試みである。読者はヘミングウェイの最初の妻ハドリーの目を通して、1人の無名の若者が有為な作家になろうと苦闘した明け暮れを目にするだろう・・・・・。この若者は、まだマッチョの仮面をかぶったパパではない。死の幻影に怯える傷つきやすい魂の詩人だが、努力の末に生み出した彼の独創的な文体がアメリカの小説を変えたことは事実なのだ
         ―――― ワシントン・ポスト紙

ヘミングウェイの陰に隠れていた最初の妻ハドリー。彼女の愛と苦悩を、生き生きと甦らせたノンフィクション・ノヴェルの秀作
         ―――― シアトル・タイムズ紙

貧しいながらも生きる歓びに溢れていたパリでの暮らし、スペインでの冒険、やがて訪れた悲劇的な三角関係――若きヘミングウェイとその妻ハドリーのロマンの浮沈を、作者は史実に基づきながらも、時に繊細な想像力を駆使してみずみずしく描いている
         ―――― ガーディアン紙


プロローグ
ほんの一瞬にせよ自分はあの戦争で死んだのだ、とアーネストはよく語ってくれた
自分の魂は絹のハンカチのように肉体から滑り出て胸の上に浮かんでいた、そして呼び戻されもしないのに戻ってきたのだ、と。だから、書くという行為はアーネストにとって、自分の魂が間違いなく戻ってきたのだということを確認する行為なのではないか、自分は確かにあの情景を目にし、恐怖を覚え、なおかつ生きてきたのだということを、他の誰にでもなく自分自身に語る行為なのではないか、と私は何度も思ったことがある。一度は死んでも、いまはもう死んではいないということを、自分自身に語る行為なのだ、あれは。
パリにまつわる最良の体験の1つは、一度遠ざかった後で再び戻ってくることだ。1923年、息子のバンビの出産のため1年ほどトロントに移住してふたたびパリに戻ってくると、全てが元のままでありながら、それに留まらなかった
その頃はどこを向いても興味をそそられる人たちがいた。モンパルナスのカフェは、そんな人たちを吸い込んでは吐き出していた。夜ともなればいつだって、サンジェルマンからグラン・オーギュスタン通りの自宅まで歩いて行くピカソの姿が見られた
あの当時、誰もが結婚の価値を信じていたわけではない。結婚するということは、未来と過去を共に信じます、ということだ。でも、戦争の結果、多くの素晴らしい若者と私たちの信仰までが奪い去られてしまった
あなたの暮らしに入り込んできて、何もかもめちゃくちゃにしてしまう女に用心なさいなどとは言いたくない。でも、そういう女は入り込んでくるのだ

本題
1920年、シカゴのホーム・パーティーで女友達ケイトの友達として紹介されたアーネストから最初にかけられた言葉は、「酔っ払い過ぎて判断力が鈍っているかもしれないが、君は何か持っているみたいだね」
28歳、母が病気の後死んだあともセントルイスで姉一家と暮らしていたところにシカゴにいる幼馴染でコピーライターをしているケイトから誘われ、彼女の兄がセットしたホーム・パーティーでそこに下宿していたアーネストに出会う。ケイトとアーネストは、ともに実家がミシガンに別荘を持つ仲
パーティーの翌日、アーネストから書いたものを読んでくれないかと言われ、読んでみて彼の才能を認めると、すぐにディナーに誘われ、ケイトの鋭い目を背中に浴びながら誘いを受けて一緒に出掛ける
若い頃の恋の失敗と、今回もアーネストが若すぎるところから、若さに惹かれつつも自制を保ち、そのまま何もなかったが、2週間の滞在の最後の晩、凍てつく寒さの中をケイトの兄の車にアーネストたちと一緒に乗り込んでミシガン湖の砂丘にドライブに出かけ、砂丘を滑り降りたところでアーネストに抱きとめられ初めてキスをする。翌日セントルイスに出発するときにも駅まで送りに来てくれる。久しぶりに胸の高鳴りを経験して溢れ出た熱い涙を締め出すように目を閉じた
1904年、セントルイス万博の年に父が株で失敗して自殺
父方の祖父は、リチャードスン製薬会社を創立、セントルイス公共図書館を創設、父が製薬会社の後を継いだ
母方の祖父はイリノイ州のヒルズボロ・アカデミーを創設
良家に育って、ピアノのレッスンを受ける
歳の離れた兄と姉、2歳上の姉がいたが、結婚して近くに住んでいた長姉が1911年火事で焼死
父と姉の死の衝撃で、フィラデルフィアまでカレッジに通ったが、途中退学して8年間も鬱々とした日を過ごす。それだけにシカゴに出掛けた時の私がどんなに変化を求めていたか、わかっていただけると思う
そこへ母が長年患っていたブライト病が悪化して死去
腎臓に起こった炎症性病変をさし,腎臓炎ともいう。1827年ブライトRichard Bright(17891858)は,タンパク尿と浮腫を腎臓の組織異常と関連づけて,ブライト病を記載し,泌尿器科的疾患とは異なった腎臓疾患があることを明らかにした。以降,ブライト病についての病理学的研究が進められ,79年には糸球体腎炎が,1905年にはネフローゼが記載された。

家に戻って2階に落ち着くと、まだ母の霊が残っているような錯覚に陥る
翌朝、アーネストから速達が届く。「きみは本当に生身の人間なのかな?」という彼の言葉全く同じ思いを私も彼に対して抱いていた。早速うきうきして返事を書く
甘美な文句のぎっしり詰まった、くしゃくしゃの手紙はそれからも続々と届き、私も抑制的に対応しようと思いつつ、2人の間で手紙が飛ぶように往復した
ケイトは、「彼は女に目が無く、どんな女性でもいいみたい」と忠告してくれたが、アーネストの一言一言がすでに無視できない重みをもち始めていた
アーネストが手紙で打ち明けたところによれば、彼の母親は夫を踏み台にして一家の専制君主として振る舞い、彼の最大の軽蔑の対象となっていて、反面父親とは妬ましいほどの仲の良さで、私の両親に酷似していた
アーネストの手紙によって、私の毎日は一変。友達と外にも出歩くようになるが、アーネストのように心ときめかせる相手は出てこなかった映画『ザ・フラッパー』の影響で、フラッパーという言葉が突然ジャズを意味するようになり、ジャズのように躍動、女性がコルセットを脱ぎ捨ててドレスの裾を短くし唇や目にシャドウをつけた。素晴らしいじゃないを意味するcat’s pajamasthat’s so jake、それにI’ll say(もちろんよ)などというフレーズが流行語になる
友人とシカゴに行く計画を立てたところ、友人が母の看病で行けなくなり、結局一人でシカゴに行き、アーネストと再会。ケイトの兄の家に泊まるがケイトは頑として顔を見せない
シカゴ滞在中にアーネストがローマの友人からローマで創作をしないかと誘われ、その気になっていることを聞かされる。最後の晩に、アーネストから彼が戦時中の負傷でミラノの赤十字病院に送られた時に看護婦のアグネスと恋仲になった話を聞かされる。結婚の約束をしたが、アメリカに送還された後で彼女が結婚したことを知らされ、未だに彼女が許せないという(彼女との恋愛体験が『武器よさらば』を生む)
手紙の回数が減ってきたある日、突然手紙で妻としてローマに一緒に行かないかと誘われ、2つ返事で承諾し、シカゴのアーネストの実家に挨拶に行く
家族の住む実家がシカゴ郊外にありながら、アーネスト1人市内に下宿しているのは母への軽蔑があったから
アーネストの一家に歓迎されて戻った夜、2人は結ばれる。それまでアーネストから求められたことはなく、結婚初夜まで待つのかと思っていたが、自分の方から初体験を求めたのは意外だった
振り返ってみると、私が結婚を通して覚った最も苛酷な教訓とは、2人がお互いの体の中にすっかり溶け込んで、互いの見分けもつかないくらいになるのが結婚だという考え方に潜んでいた陥穽に気付かされたこと。結局アーネストの体の隅々にまで入り込むことは出来ず、彼もそれを望んではいなかった。彼はただ、自分を堅固に支えてくれる存在としての私を必要としていたにすぎず、私も同じような形で彼を必要としていたように。アーネストは、必要な場合、いつでも私から離れて仕事に逃げ込むことを望んでいた。そしてまた、いつでも仕事から戻ってこられるのが理想だったのだろう
1921年、ミシガンの別荘で結婚。アーネストを恋していたケイトも失恋を振り切って介添え人を引き受けてくれることになる。ケイトは、8年後にアーネストとパリで親しくなった同じアメリカ人作家と結婚するが、47年に交通事故で死亡
新居はシカゴのいかがわしい地区にある安アパート。アーネストは雑誌の編集をしていたが結婚後すぐに辞めるが、いくつかの雑誌に送った原稿がすべて送り返されてプライドも傷つけられていた
アーネストの意気が上がらず鬱気味になった時は、私たち自身の仲にも翳がさしたのは事実。彼が我慢の限界を超えたときの取り乱した姿をじっと抱きしめる
ケイトの兄の紹介で、『ワインズバーグ・オハイオ』の著者、シャーウッド・アンダスンとも面識が出来、パリでの創作を強く勧められ、その年の暮れ、叔父の遺産8千ドルが手に入ったのもあって、パリ移住を決意、彼からパリで活躍する有名人たちへの紹介状ももらってすぐに旅立つ
徐々にパリでの交際範囲も広がり、後の師となる20世紀を代表する前衛作家で女流詩人のガートルード・スタイン(18741946)や、物心両面で支えてくれたモダニズム運動を牽引した多彩な詩人エズラ・バウンド(18851972)らとも交流が進む
アーネストは、『トロント・スター』紙からの取材依頼で出張がちに。22年秋第1次大戦後も続くギリシャ・トルコ戦争の取材依頼を巡って大喧嘩したが、結局怒ったままアーネストは出発。1か月余りで、マラリアにやられてすっかり痩せこけて戻り、仲直り
その年の暮れからローザンヌの講和会議取材に同行した時、後から一人で出発したが、アーネストがそれまで書き溜めていた原稿をすべて詰めたトランクを盗まれる
その旅の終りにバウンド夫妻のイタリアの
別荘に滞在中に身籠る ⇒ アーネストが作家としての目途がついてから生もうという約束をしていたにもかかわらず出来てしまい、アーネストは当惑
出産のためトロントに移住 ⇒ 『トロント・スター』で定職に就けるので生活が安定
23年、無事男児出産後、パリに戻り、アーネストはバウンドから文芸誌編集長代理の職を斡旋される
『三つの短篇と十の詩』が絶賛を浴びて、漸く売れ始めるが、アーネストの両親に送ると、俗悪で瀆神的だと批判されどんな本が出版されようと送ってくるなと言われ、アーネストはショックを受ける
幾つかの短篇をまとめて『われらの時代』として出版することが決定
24年のある日友人の家でアーカンソーの地主の娘ファイファー姉妹に紹介される ⇒ 姉のポーリーンは『ヴォーグ』の通信員として赴任。姉妹はセントルイスで育ち、姉はケイト・スミスと親友。そこへアーネストがやってくる。最初は妹のジニーに魅かれる
25年春ごろから、友人の輪が徐々に変容、ガートルードとの間にも職業的な溝が広がり始め、古い友人が離れていって、代わりに裕福で個性的な人々が接近してくる
ポーリーンもそういう種族の一人 ⇒ シャネルの全盛期で、最新のコレクションを絶賛する記事を『ヴォーグ』に書いていた。紹介してくれた女友達と3人でよく会うようになり、我が家にも頻繁に訪れる。彼女にとって私たち夫婦は2人とも敬愛する大切な友人
『グレート・ギャッツビー』を出したばかりのスコット・フィッツジェラルド夫妻にとも面識に
クリスマスから春にかけてオーストリアのシュルンスに滞在することになり、ポーリーンも一緒にひとつ屋根の下で暮らすうちにアーネストと急速に親しくなり嫉妬を覚える
特に作家としてのデビューを支援してくれたシャーウッド・アンダスンの最新の小説の辛辣なパロディとして書かれた『春の奔流』の評価について、ガートルード・スタインからは、金のためなら何でも書くのかと言われて完全に喧嘩別れとなったり、デビュー作を出版してくれた出版社からもアンダスンを標的にした無用な悪意のこもった風刺小説だという理由で拒否されたり、私は批判的だったのに対しポーリーンはぜひ出版すべきと持ち上げ、アーネストは直接原稿をもってニューヨークのスクリブナー社に出向く ⇒ スクリブナーのマックス・パーキンズは、フィッツジェラルドからヘミングウェイを推薦され自社に引き抜き、その後ヘミングウェイの信頼を得て全作品を担当出版。『春の奔流』を評価してもらうと同時に、バンブローナの牛追い祭りを描いた作品『日はまた昇る』と併せて1,500ドルの前払い金を提示される
ポーリーンに強く勧められたことも手伝って、漸くコンサートを開く決断をしてサン・プレイエルのホールを手配
コンサートの前に、ポーリーン姉妹からロワール渓谷への旅に招待され、アーネストと息子をおいて3人で旅をするが、その途中でポーリーンが急に態度を変え、アーネストへの想いを漏らす
アーネストはポーリーンと一線を越え、自己嫌悪に陥るが、周囲には妻と愛人を同時に抱える例はいくらでもあり、自分もその一人として納得させようとする
ロワールから戻ってアーネストに本当のこと言って欲しいと迫るが、逆に悪いのは情事そのものではなく、私が愚かにもそれを口に出したことだと言い返される
噂は広がり始め、コンサートもキャンセル
『春の奔流』の出版で、アンダスンとの関係も断絶、アーネストのプライドの高さと癇癖が仇になってこれまで仲のいい友人をたくさん失ってきた
アーネストは、ハドリーなしの人生など想像もできないが、ポーリーンも彼の心にしっかりと絡みつき、結婚まで口にし始め、日ごとにその言葉に重みを持たせようとしていることから、打開の道が無ければ死ぬしかないと何度か拳銃に手をやる
ジェラルド・マーフィー夫妻は、20年代にフランスで多くの画家や作家と華麗な交友関係を結び、彼等の精神的・財政的支援者となった資産家、リヴィエラに構えた別荘ヴィラ・アメリカは多くの有能なアーティストたちの交流の場となったが、そこに招待された時にもポーリーンがやってきて、アーネストが次の創作に打ち込むためにアーカンソーで暮らすことを提案する。アーネストも新しい暮らし方を試そうという。ポーリーンも無邪気にお互いのことを大切にすれば楽しくやっていけるという
そのままマーフィー夫妻やポーリーンも一緒にバンブローナの闘牛見物に出掛ける
パリに戻ると別居生活が始まる ⇒ ハドリーのほうから、100日間ポーリーンと会わないと約束してくれたら離婚すると条件を出し、アーネストもポーリーンも承諾して、ポーリーンはアメリカに戻る
ハドリーが原稿をすべて無くした時、彼の中の何かが失われたことは事実。かつては彼女がそばにいてくれるだけで牢固とした揺るぎない安心感に包まれたが、いまは、はたして誰かを完全に信頼することは可能だろうかと思うようになった。ポーリーンとの愛の約束を交わして、自分の全てを彼女に与えるつもりでいたが、自己を正直に見つめれば、彼女にも完全な信頼はおいていなかった。愛する者を完全に信頼する――愛のその側面は、永久に彼から失われてしまったのかもしれない
『日はまた昇る』のアメリカで刊行されたばかりの本を持ってきて、見ると本書を息子と私に捧げるという献辞が記されている。こういう事態になってせめてこれくらいはと言ってアーネストが私の名前を追記してくれた
60日を残してアーネストに手紙を書き、「期間は終了し、あなたの希望を満たしてあげる。死ぬまであなたのものだし、死ぬまであなたを愛している。これからもずっとお友達でいましょう」と、書き送る
アーネストからは、「感謝すべき言葉を知らない。次に必要なステップが離婚だとしたら、それに向かって進み始めることでそれぞれに自信を回復し、本来の自分を取り戻せると信じている。『日はまた昇る』の印税は全て君に贈る。情愛に満ちた有能なお前の手に息子を委ねるのが息子にとって何より幸せな道だと信じる。お前は自分で考えている以上におれという男を変えてくれた。この先永遠に、お前はおれの一部であり続けるだろう。愛する人間が真に失われてしまうことは決してない」、という返事が来た
アーネストとポーリーンはパリで結婚式を挙げ、私と息子はカーメルで傷心を癒した後パリに戻る
アーネストの古いジャーナリスト仲間の1人で『シカゴ・デイリーニューズ』紙の海外駐在員ポール・マウラー(18871971)と交際、5年して33年正式に結婚
豪胆で好人物でありながら、気弱で冷たい人間、この世にまたとない友でありながら、どうしようもなく嫌味な人間
1961年、アリゾナの農園に突然電話をかけてくる。パリ時代のメモワールを書いていて、共に暮らしていたあの頃のエピソードを一緒に思い出して欲しくて電話してきたという
その2か月後、銃で自殺。私の父も、アーネストの父も、彼の弟もその後同じ方法で自殺、妹は睡眠薬で自殺


訳者あとがき
著者が、ハドリーがヘミングウェイと暮らした日々を小説として再現し血の通ったハドリー像を甦らせ得る可能性を、史実を忠実に追いながらも、各登場人物の感情的な内面により深く分け入って、歴史的な出来事に新たな照明を与えることによって見出そうとした
見どころの1つは、知り合ってから結婚後パリに渡って夫の文学的な冒険を支えてゆくハドリーの軌跡が細やかに描かれている点。特に、2人が様々な障碍を乗り越えて結ばれてゆく過程は、ヘミングウェイの『移動祝祭日』からは伺い得ないだけに新鮮に映る
著者の手柄は、2人の暮らしの大筋を『移動祝祭日』に拠りながら、あくまでもハドリーの目を通したヘミングウェイの人間像を深く、的確に彫琢していること。旺盛な闘争心と野心に駆られて、新しい文学をひたむきに追い求める若者。だが一皮むくと、それ胸底には死への不安が伏在していて、夜も明かりをつけたままでなくては眠れない。そうした二面性は、成功への道を着実に上っていくにつれて、狭まるどことかますます広がって行く、この人こそと思い定めた文学の師とは生涯に亘って友諠を結ぶ一方、たとえ恩人であろうと、ひとたび気持ちが離れると後ろ足で砂をかけるような行為も厭わない。そういう矛盾を孕んだ夫の複雑な人間性を冷静に見届けてなおハドリーは、一途に夫を愛し続ける
小説という媒体ならではの武器、創造力を最大限に生かしているのは、ポーリーンが登場して以降の展開に於いてだろう。盤石と思われていた夫婦関係を次第に揺るがしていく不協和音。揺れ動くハドリーの真理が実にきめ細かく描かれている
『移動祝祭日』が無かったら、本書も生まれなかった。さまざまな神話に毒されて、とかく誤解されることの多かった作家が、その真情を死の間際まで書き綴った渾身の名品
息子のバンビは、キー・ウェストの父を訪ねて釣りやハンティングの手ほどきを受けている。第二次大戦中、ダートマス大を中退して陸軍のOSS(戦略諜報局)に入隊、フランスのレジスタンス部隊との共同作戦に従事していたが、4410月捕虜となる。その際、ドイツ軍の中尉が名前を見て、「シュルンスに行ったことがあるか?」と聞かれ、「子供の頃行った」と答えると乳母の名を聞かれたので、テディと答えると中尉は破顔一笑、フランス語で「テディに乾杯しよう、僕のガールフレンドだ!」といった。454月無事釈放




ヘミングウェイの妻 ポーラ・マクレイン著 妻の視点で語るパリでの日々 
日本経済新聞朝刊2013年9月15日付
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 原題は『パリの妻』。生涯4人の妻をもった作家ヘミングウェイと、最初の妻ハドリーのパリでの日々を、ヘミングウェイ『移動祝祭日』に依りつつ、妻の視点で語り直した、(呉越同舟風で奇妙な用語だが)ノンフィクション小説である。
(高見浩訳、新潮社・2400円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(高見浩訳、新潮社・2400円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 第1次世界大戦従軍から帰国後、傷が癒えない21歳のヘミングウェイはシカゴでハドリーと出会う。傷と言っても何より痛手だったのは精神的な傷で、もっぱらそれは、イタリアで入院中に恋に落ちた看護師アグネスとの破局によりもたらされた。その顛末(てんまつ)を手短に知るには、掌編「ごく短い物語」にあたるのがよい。
 煎じつめれば、若きヘミングウェイは7歳年長のアグネスに翻弄されたのである。結果、本書でも見え隠れしているが、〈マッチョ〉ヘミングウェイをして、この頃はたいそう弱虫で、その揺らぎが彼を、当時の浮ついた女性たち(フラッパー)とは一線を画す8歳年長のハドリーへと向かわせたのは想像に難くない。
 さて、2人は結婚後パリに移り住むが、夫には定職はなく、借りたアパートは、手を洗う洗面器は各階共同で、トイレは蹲踞(そんきょ)式で「いつも耐え難い悪臭を放っていた」(2人の生活の実態については高見浩訳『移動祝祭日』訳者解説を参照)。
 しかしそれも、ハドリーにとってささいな苦痛にすぎなかった。夫が自らの慰めのために自分をめとったのは明らかだった。安普請のアパートで、マイペースで出歩く夫の背にうなだれることもしばしばだった。長男が誕生するが、やがて夫は2番目の妻となるポーリーンにいれこむ。
 ヘミングウェイ作品には「パパのコード」とも呼ばれる特有の男性目線がある。本書では女性目線からそのコードが、あなたはどれだけものを見ていなかったことか、と暗に言わんばかりに解体される。そのうえで、結末には『移動祝祭日』にはない後日譚(たん)(史)が挿(はさ)まれる。感傷に走るきらいはあるが、そこには、彼を最も愛したのはわたしに他ならないという自負に満ちた老女・ハドリーがいる。ベテラン翻訳家の瑞々(みずみず)しい訳業がその姿をいっそう引き立てている。
(盛岡大学教授 風丸良彦)

Wikipedia
アーネスト・ミラー・ヘミングウェイErnest Miller Hemingway1899721 - 196172)は、アメリカ小説家詩人。彼の生み出した独特でシンプルな文体は、冒険的な生活や一般的なイメージとともに、20世紀の文学界と人々のライフスタイルに多大な影響を与えた。ヘミングウェイはほとんどの作品を1920年代中期から1950年代中期に書き上げて、1954ノーベル文学賞を受賞するにいたった。彼は6つの短編集をふくめて7冊の小説と2冊のノンフィクション小説を出版した。3冊の小説、4つの短編集、3冊のノンフィクション小説が死後、発表された。これらはアメリカ文学の古典として考えられている。

生涯[編集]

イリノイ州オークパーク(現在のシカゴ)に生まれる。父は医師、母は元声楽家で、六人兄弟の長男だった。父は活動的な人物で、釣り狩猟ボクシングなどの手ほどきを受けた。
高校卒業後の1917に地方紙「カンザスシティ・スター」(: The Kansas City Star)紙の見習い記者となるも退職。翌年赤十字の一員として北イタリアのフォッサルタ戦線に赴くも重傷を負う。戦後はカナダトロントにて「トロント・スター」(: Toronto Star)紙のフリー記者をつとめ、特派員としてパリに渡りガートルード・スタインらとの知遇を得て小説を書きはじめた。
行動派の作家で、スペイン内戦第一次世界大戦にも積極的に関わり、その経験を元に行動的な主人公をおいた小説をものにした。『誰がために鐘は鳴る』『武器よさらば』などはそうした経験の賜物。当時のハリウッドに映画化の素材を提供した。
短編には簡潔文体の作品が多く、これらはダシール・ハメットレイモンド・チャンドラーと後に続くハードボイルド文学の原点とされている。
1954年、『老人と海』が大きく評価され、ノーベル文学賞を受賞(ノーベル文学賞は個別の作品ではなく、作家の功績および作品全体に与えられることに注意)。この年、二度の航空機事故に遭う。二度とも奇跡的に生還したが、重傷を負い授賞式には出られなかった。以降彼の特徴であった肉体的な頑強さや、行動的な面を取り戻すことはなかった。
晩年は事故の後遺症による躁鬱に悩まされるようになり、執筆活動も次第に滞りがちになっていく。1961ライフル自殺
海流のなかの島々』の舞台ともなったバハマビミニ島には、滞在していたとされるホテルの一室を改装したアーネスト・ヘミングウェイ博物館があり、遺品などが展示されていたが、2006、火災により焼失した。

家族[編集]

·         エリザベス・ハドリー・リチャードソン (192193日結婚、192744日離婚)
息子 ジャック・ハドリー・ニカノール・ヘミングウェイ (通称バンビ) (19231010 - 2000121)。「青春は川の中に フライフィッシングと父ヘミングウェイ」出版
孫娘 ジョーン・ヘミングウェイ
孫娘 マーゴ・ヘミングウェイ (1954216 - 199672)。女優
孫娘 マリエル・ヘミングウェイ (19611122 - )。女優
·         ポーリン・ファイファー (1927519日結婚、1940114日離婚)
息子 パトリック (1928628 - )
孫娘 ミーナ・ヘミングウェイ
息子 グレゴリー・ヘミングウェイ (19311112 - 2001101)"Papa: A Personal Memoir" (1976) 出版。性転換してグロリアと名乗る
パトリック、エドワード(作家兼イラストレーター)、ショーン、ブレンダン(プログラマー)、バネッサ、マリア、ジョン(作家)、ロリアン(作家)
·         マーサ・ゲルホーン (19401121日結婚、19451221日離婚)
·         メアリ・ウェルシュ・ヘミングウェイ (1946314日結婚)。自伝 "How It Was" (1976) 出版

ヘミングウェイの家[編集]

ヘミングウェイは世界中の様々な場所に居を構えたが、現在アメリカのイリノイ州オークパーク、フロリダ州キーウェスト、キューバのサンチアーゴ・デ・パウラが公開されている。
オークパークのヘミングウェイ邸はヘミングウェイの生家であり、一般に公開されている。通りを挟んだすぐ近所にはヘミングウェイ博物館が作られている。ヘミングウェイ家はヘミングウェイが6歳の時に、母グレースの設計で建てられた3階建ての広壮な屋敷に引っ越しているが、こちらは現在は私有地となっており、一般には公開されていない。
キーウェストの屋敷は建物自体が博物館として旅行客に公開されており、ヘミングウェイの飼っていた猫の子孫が現在でも多く住んでいる。
キューバの家はフィンカ・ビヒアとして知られており、現在では博物館として屋敷の一部が公開されている。ヘミングウェイが人生の3分の1を暮らした場所として、研究上においても重要な拠点となっている。キューバの経済的問題のため、建物自体の老朽化が進行していたが、2008年にアメリカの修復グループが改修工事をすませ、現在ではもとの状況を保っている。

ヘミングウェイの猫[編集]

キーウェストのヘミングウェイの家の多指症のネコ。この黒猫は四肢合わせて26本の指がある
ヘミングウェイは好きで、知己の船長から2匹の猫を貰い受けている。この猫は近親交配の結果か足の指が6本ある多指症で、ヘミングウェイは幸運を呼ぶ猫だと信じていた。キーウェストのヘミングウェイ博物館ではこの猫の直系子孫が50匹ほど今も飼われており、6本指の遺伝子を受け継いでいる。

しかし、これらの猫は、米農務省より指定の設備と動物園としての認可を受けなければ認められないと勧告され、博物館からの立ち退きを迫られていた。裁判所は博物館側の訴えを却下し、当事者同士で話し合うよう判決を下したが、博物館のあるキーウェスト市当局が、「6本指のヘミングウェイの猫たちは、歴史的かつ社会的に意義があり、観光面でも重要」と位置づけ、農務省が見做した展示物としての動物ではなく、飼い猫は1世帯につき4匹までとする条例の例外として認め、 博物館側を支持。そして敷地内からネコが出て行かないためのフェンスを博物館の責任で設置することを条件に農務省側との合意に達した[1][2]

パパ・ダイキリ[編集]

フローズン・スタイルのカクテルの代表格であるフローズン・ダイキリは、ヘミングウェイが愛飲したことで知られる。ヘミングウェイが好んで呑んだとされるスタイルはパパ・ダイキリと名づけられた(ヘミングウェイは、モヒートも愛飲した)。

主要著作[編集]

翻訳は入手しやすいものを中心に紹介する。また、三笠書房の「ヘミングウェイ全集」には出版時期により収録巻が異なる複数のバージョンがある

長編小説[編集]

·         春の奔流"The Torrents of Spring", 1926
中田耕治訳(旧河出文庫)、高村勝治訳(「ヘミングウェイ全集」三笠書房)
·         日はまた昇る"The Sun Also Rises", 1926
高見浩訳(新潮文庫)、谷口陸男訳(岩波文庫)、高村勝治訳(「ヘミングウェイ全集」三笠書房)
·         武器よさらば"A Farewell to Arms", 1929
高見浩訳(新潮文庫)、金原瑞人訳(光文社古典新訳文庫)、竹内道之助訳(「ヘミングウェイ全集」三笠書房)
·         持つと持たぬと"To Have and Have Not", 1937
佐伯彰一訳(「ヘミングウェイ全集」三笠書房)
·         誰がために鐘は鳴る"For Whom the Bell Tolls", 1940
大久保康雄訳(新潮文庫、「ヘミングウェイ全集」三笠書房)
·         河を渡って木立の中へ"Across the River and into the Trees", 1950
大久保康雄訳(「ヘミングウェイ全集」三笠書房)
·         老人と海"The Old Man and the Sea", 1952
福田恆存訳(新潮文庫、「ヘミングウェイ全集」三笠書房)野崎孝訳(集英社 世界文学全集77
·         海流のなかの島々"Islands in the Stream", 1970年:生前未発表。スクリブナー社と4番目の妻メアリが編集
沼沢洽治訳(新潮文庫、「ヘミングウェイ全集」三笠書房)
·         エデンの園"The Garden of Eden", 1986年:生前未発表。スクリブナー社のトム・ジェンクスが編集
沼沢洽治訳(集英社文庫)
·         『ケニア』"True at First Light", 1999年:生前未発表。息子パトリックが編集
金原瑞人訳(アーティストハウス)

短篇集[編集]

·         『三つの短編と十の詩』"Three Stories and Ten Poems", 1923
·         『われらの時代』"In Our Time", 1924
·         『男だけの世界』"Men Without Women", 1927
·         『勝者に報酬はない』"Winner Take Nothing", 1933
·         『第五列と最初の四九の短編』"The Fifth Column and the First Forty-Nine Stories", 1938
·         『第五列とスペイン内戦に関する四つの短編』"The Fifth Column and Four Stories of the Spanish Civil War", 1969
·         『ニック・アダムズ物語』"The Nick Adams Stories", 1972
·         "The Complete Short Stories of Ernest Hemingway: The Finca Vigia Edition" 1987


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