チャールズ・ディケンズ伝  Claire Tomalin  2014.3.20.

2014.3.20.  チャールズ・ディケンズ伝
Charles DickensA Life by Claire Tomalin                  2011

著者 Claire Tomalin 1933年ロンドン生まれ。父はフランス人学者、母は英国人の作曲家。ケンブリッジ大ニューナム学寮で英文学を学び、卒後詩人を志したが、ジャーナリズムに転向、『ニュー・ステイツマン』『サンデー・タイムズ』の文学担当編集長を歴任。74年に『メアリー・ウルストンクラフトの生と死』でウィットブレッド賞受賞、『見えない女』でホーソーンデン賞、ジェイムズ・テイト・ブラック賞受賞、『サミュエル・ピーウス伝』でウィットブレッド賞、ピープス協会賞受賞。本書で12年の第16回サウスバンク・スカイ・アーツ賞(文学部門)受賞。先夫は学生時代の仲間で著名なジャーナリストだったが73年中東戦争の取材中に事故死、小説家で劇作家のマイケル・フレインと再婚

訳者 高儀進 1935年生まれ。早大大学院修士課程修了。翻訳家。日本文藝家協会会員

発行日           2014.1.20. 印刷               2.10. 発行
発行所           白水社

文豪の素顔と永遠の名作の舞台裏とは?
創作秘話や朗読巡業から、愛人問題や慈善活動まで、英国最大の国民的作家の生涯を鮮やかに再現する。受賞多数の伝記作家による傑作評伝!

歴史上の細部に瑕疵が無く、、作品を鋭く分析しているトマリンの見事なディケンズ伝は、人間ディケンズが鮮明に浮かび上がってくるという意味で、極めて貴重である『オブザーヴァー(小説家ウィリアム・ボイドの評)

あまりにお馴染みになっている事実にひねりを加え、これまで見過ごされてきた事実に光を当てている『リテラリー・レヴュー』

トマリンほどの共感と洞察力を示すディケンズ伝は今後、出ないであろう『テレグラフ』

プロローグ 無比の者――1840
1840年、ディケンズは救貧院の審問で初めての陪審員として、貧民屈から身を起こした女中が自ら産んだ子を殺して隠した事件で無罪を主張、23年後に物語としたが、この小さなエピソードは行動する彼の姿を見せてくれる。被告の彼女はどん底からやってきた犠牲者であり、一応の社会的身分のある陪審員たちの先入観の犠牲者でもあるが、ディケンズは敢然と議論し、惜しみなく援助し、事件を最後まで追って、彼女がそれ以上犠牲になるのは誤りだという強い信念に純粋に衝き動かされている。当時、彼が強い圧力を受けながら暮らしていたなかでの行動だったことが彼の行動を一層際立ったものにしている。それまでの4年間、月刊分冊の形で3つの長編小説を書くという重労働をして疲労困憊していた。有名になり、新しい週刊誌の編集長になって創刊号の仕事に取り掛かったところ。自身の生活水準は創作のペースを維持することにかかっていて、ストレスを感じていた
10年後に救貧院を再訪したディケンズは、世話していた子が死んで激しく泣く看護婦の姿を見て、彼女を助ける方法はないかと慈善家の議員に尋ねた
ディケンズは他の者より生き生きと世界を眺め、自分の見たものに対し、笑いと恐怖と憤怒で反応。自分の経験と反応を素材として蓄え、それを変貌させて小説とした。19世紀のイギリスを、活気に満ちた、真実と生命力に充満したものにした――そして感傷をもって。
彼は作家になりたての頃自らを「無比の者」と呼び始めた。半分冗談だったが、周囲に自分を凌駕する者がいないのを認識していたのは事実で、人を楽しませ、世の中をより良い場所にしようと思っていた

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第1章        父親たちの罪――17841822
10歳でロンドンに出るまでいたケント州ロチェスターの思い出を終生大切にしていた

第2章        ロンドンの教育者――182227
漸く姉が12歳で王立音楽院に入学、最初の寄宿生となったが、チャールズは正規の教育を受けていない
24年、父が債務不履行で逮捕 ⇒ チャールズは親族の靴墨製造工場で働いて一家を支え、同時に勉強も見てもらう
姉が音楽院で賞を獲得したとき、チャールズは初めて自分置かれている屈辱と無視の境地に愕然とした。嫉妬心はなかったが、それが抑圧されただけに一層苦しみが増した
漸く父がチャールズの教育の必要性を認識して、学校に通うようになる

第3章        ボズになる――182734
27年、授業料が払えずに退学し、法曹学院の使い走りになる
ディケンズは一家の忠実な一員。借金まみれの父に苦しめられたが、大家族が人を善良で陽気で活動的なものにする源だという考えは終生根強く持っていた
新しくできた弟を「モーゼズ」の愛称で呼んだが、鼻風邪をひきやすかったチャールズが鼻声で発音すると「ボーゼズ」になり、「ボズ」になって、34年初めて書いたものを発表した時のペンネームに使う
父親がチャールズに残した数少ない手本の1つが速記の習熟 ⇒ 新しく発行する新聞の議会記者として議会の議事録と競うことになるが、速記を習得する苦労話は『デイヴィッド・コパフィールド』に活かされている
自らも速記を学び、議会記者となって、大英博物館の閲覧証を入手、勉学を続ける
その頃初めての恋愛感情を持つが、相手の父親の反対もあって振られる
劇場の虜となって、毎晩のように劇場に通う ⇒ 33年には私的な劇を、自らの監督、主演、道具方で上演
雑誌『マンスリー』に、匿名だが最初に活字になった作品『ポプラ小路でのディナー』を書いたのもこの頃 ⇒ ロンドンと郊外の生活を鋭く切り取ったもので、2人の従兄弟と2つの人生観の間で展開する他愛ない物語。秩序と混乱が対比されるが、それは彼の作品と彼の人生を貫くテーマ
次々にスケッチが掲載され、348月には初めて「ボズ」と署名し、その名で有名になる

第4章        ジャーナリスト――183436
スケッチが毎月雑誌に掲載されたが無報酬だったが、8月に『ザ・タイムズ』に対抗して改革を目指す新聞『モーニング。クロニクル』で恒久的な報酬のある仕事に就き、生活が安定。35年、姉妹紙の共同編集長の娘に会ってすぐに結婚を決意
362月、初めて『ボズのスケッチ集』を出版、挿絵を当時イギリスで最も人気のある画家ジョージ・クルックシャンクが担当

第5章        4人の出版業者及び結婚式――1836
364月結婚、ケント州にハネムーン
後にディケンズと並ぶヴィクトリア朝を代表する作家と称されたサッカレーから挿絵を引き受けようとの申し出があったが拒否、ハブロー・ブラウンに委嘱され、彼は「ボズ」に合せて「フィズ」と名乗りディケンズと並ぶ名声を博した
月刊分冊形式で最初に出した『ピクウィック・ペーパーズ』が評判となり、1シリングで大衆に行きわたり、批評家に「ボズがロンドンを牛耳った」とまで書かれた ⇒ 市井の人間はこぞってディケンズは自分たちの味方だと思い、それ故に彼を愛した。ディケンズも自分の物語を国の大動脈にじかに流し込み、笑いとペーソスとメロドラマを注入し、読者に自分は各登場人物の個人的友人だと感じさせることができるかのようだった。自分と大衆は個人的に繋がっているという、この感覚が彼が作家として伸びてゆくうえで、最も重要な要素になった
『ボズのスケッチ集』でマクローンと、『ピクウィック』でチャップマン&ホールと、トマス・テッグとは子供の本を書くことで合意、さらに4番目の出版社として次の小説の版権に400ポンドを出すと言ってきたベントリーとの契約交渉に入る
ベントリーのために月刊誌『ベントリーズ・ミセラニー』の編集長になることにも同意
同時に4つの出版社を満足させることは出来ず、またディケンズは出版社に搾取されていることに気付く

第6章        「死が僕等を分かつまで」――183739
371月男児誕生
直後に17歳の義妹が急死、連載を一時休止するほどのショック
生涯の親友ジョン・フォースターに出会ったのが救い ⇒ 同年生まれの肉屋の息子でジャーナリスト、歴史家、文人、劇評家。フォースターの書評をディケンズが気に入って、「死が僕等を分かつまで、批判して欲しい」と書いた。ディケンズが選んだ伝記作者で、72年以降『ディケンズ伝』3巻本を出す

第7章        悪党と追い剥ぎ――183739
ディケンズは、フォースターの広い交際仲間に紹介され、社交生活は一変    
ディケンズを独占しようとする出版業者の悪辣なやり方に憤慨
アメリカでは、外国の著者の権利を保護する法律はなく、出版業者が勝手に好きなものを出版できたため、ディケンズの著作物も例外ではなかった
40年代は、ディケンズは金銭問題に悩まされ、イギリスを去り、外国に暮らすことになる

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第8章        ネルを死なせる――184041
40年は仕事を減らして休養することにし、小さな雑録週刊誌『ハンフリー親方の時計』1本に絞るが、逆に毎週即興的に書かなければならなくなり、そのストレスから健康を害す
慈善活動にも時間を割く
『ピクウィック』に次いで売れることになった『骨董屋』の主人公の少女リトル・ネルを死なせ、大衆の涙を誘う
41年、エディンバラの名誉市民権を得る
『バーナビー・ラッジ』を連載し、年末には『骨董屋』とともに1巻本で出版

第9章        アメリカ征服――1842
執筆のプレッシャーから逃れるためだけでなく、精神的に大きな刺激を求めてアメリカ行きを決行、併せてアメリカにおける著作権侵害問題に挑戦
アメリカではすたれた因習から自由な、より良い社会が実現されているというのが本当かどうか自分の目で確かめたいという遠大な理由があった
アメリカ人のほうでも、貧乏人のほうが配慮に値することを著書で示した「文学の偉大な共和主義者」として歓迎する心積りが出来ていた
4人の小さな子供たちを残して夫妻は出発、真冬の大西洋の荒波を乗り切ってボストンに到着、熱狂的な歓迎を受ける ⇒ ディケンズのほうも1日で本が書けるくらいの感銘を受ける
国際著作権の問題は、ワシントン・アーヴィングが理解を示したが、大半のメディアは敵対的で、彼を恩知らずで貪欲だと非難されたこともあって、過度の歓迎ぶりに辟易し、出発時点とは違ってアメリカを醒めた目で見るようになっていた ⇒ 国際著作権問題が解決するのは1891
フィラデルフィアでは、エドガー・アラン・ポーに会う
ワシントンでは、ハリソンの死後就任したばかりのタイラー大統領と私的に会談、ディケンズがあまりに若いのに驚いたと言われたが、ディケンズは大統領の紳士的な挙措が記憶に残ったものの、興味深いことを言ったり興味深いことを自分に聞く男でもないと感じた
ホワイトハウスでのディナーの招待に対し、ディケンズはその日より前にワシントンを去る日程になっていたとして断る ⇒ 現代の作家がそういう理由で大統領を袖にするのは想像し難い
奴隷制度下の露骨な非人間性にひどく心を乱され、所構わず噛み煙草の塊を吐き捨てる習慣に反吐が出る
友人のフォースターに宛てて、「この国が好きではない。僕の性に合わない」と書き送る
6か月の旅を終えて戻ると、すぐに旅行記『アメリカ覚書き』の執筆に取り掛かる ⇒ イギリスの書評では毀誉褒貶相半ばしたが、アメリカでの売り上げは凄まじかったものの、酷評も交じっていた
ディケンズの印象では、アメリカ人は鈍重で、ユーモアに欠け、不作法。食べ物は粗末で食事のマナーは粗野、身体の清潔さに欠け、生活環境は非衛生的だった
ポーは『アメリカ覚書き』を、「失うべき最小の名声しか持っていない著者によって意図的に出版された、最も自殺的著書の1つ」と呼んだ
ディケンズは、次に書いたフィクションの中でも、アメリカで受けた気に入らなかった処遇全てに対し辛辣なユーモアをもって指摘し復讐を果たしたが、その結果ワシントン・アーヴィングとの友情を失う

第10章     挫折――184344
次作は40年代の不況の煽りもあって売れ行き不芳    
父が、ディケンズの友人や出版社からとても返せそうにない借金をして回ったり、ディケンズの名を濫用したりして、彼を悩ませた
慈善事業として、俳優の遺児の面倒を見たり、貧民学校の改善運動を支援したりする
43年末『クリスマス・キャロル』発刊 ⇒ ロンドンの労働者階級の置かれた状態に対するディケンズの反応を書いたクリスマスに売るための短い本だが、期待ほどには売れなかったものの、アメリカでは100年に亘って2百万部売れる彼のベストセラーとなり、戯曲化されてロンドンで上演

第11章     旅、夢、ヴィジョン――184445
一家でイタリアに1年間移住するが、途上で立ち寄ったパリに感銘を受けたのがフランスに関心を抱き、フランスのほとんどの事物に喜びを覚えた最初の体験
ジェノヴァ郊外のアルバロを拠点に各地を旅行 ⇒ 『イタリア紀行』に纏める
仕事から解放された中で次に書き始めたクリスマスの本『鐘の音』の中心的なテーマは「夢とヴィジョン」で、イギリスの貧民の状況を直視、40年代の冷酷で偽善的な金持ちを恥じ入らせる意図を持っていた ⇒ 現代の読者は、抑圧された者の描写より権力者に対する揶揄のほうでディケンズは成功していると感じるだろうが、当時の読者は抑圧された者に対して涙を流した

第12章     危機――184546
イギリスに戻って力を入れたのが素人演劇 ⇒ その後12年に亘って衰えぬ熱意をもって演出家としても俳優としても上演し続ける
『ザ・タイムズ』に匹敵する日刊紙『デイリー・ニュース』発刊の企画を持ちかけられ、編集長として協力、父親も記者の管理者として職務を全うするが、ディケンズはほどなくストレスからフォースターに譲って手を引く
ロンドンの通りで働く娼婦と少女のための救護院設立に動く
スイスのローザンヌ郊外に一家で移住、さらにパリへと移動

第13章     ドンビー、中断――184648
姉が肺結核に ⇒ 49年死去
ヴィクトル・ユーゴーに会い、感銘を受ける
46年、月刊分冊を始めた『ドンビー父子』は成功裏にスタート ⇒ 48年完了により、漸く経済的な問題から解放される
4449年の間に4人の息子が生まれたが、いずれもディケンズが望んだ子ではなかった

第14章     ホーム――184758
ディケンズは少年時代から売春婦を観察
売春婦たちを救うための家庭的な原則に立つ「ホーム」を実現させる ⇒ 自立するための支援を行い、自立可能になると監視付きで移民船乗船の許可が出る

第15章     個人的経歴(『デイヴィッド・コパ―フィールド』の正式な題名の冒頭――184849
36歳でフォースターを自分の伝記作者に指定、生涯変えることはなかった
49年、9か月の休養の後、自ら一番気に入ったものになる『デイヴィッド・コパ―フィールド』を書き始める ⇒ 愛着と喪失、不幸に育った子供の頃の経験による成人の行動の形成が中心的テーマ。第1人称形式で語られた最初の小説。無名の女性シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』に人々が大いに興奮した後で、ディケンズが読んだ形跡はないが、フォースターは確実に読んでいて、第1人称を使うようにディケンズに示唆したに違いない。2人の偉大な作家が2年の間に、虐待された子供の声を小説の中心にしたというのは、瞠目すべき偶然
『ドンビー父子』ほど売れなかったが、世界中で彼の最もよく知られた作品になり、トルストイもとりわけ称讃

第16章     父と息子たち――185051
50年、新しい定期刊行物として『ハウスホールド・ワーズ』を刊行 ⇒ 社会問題について多くを語る
父が膀胱癌で死去

第17章     労働する子供たち――185254
52年、10人目の子ども誕生
次の5年間、猛烈に働く ⇒ 代表作は『荒涼館』
子供の労働者は、いつもディケンズの注意を惹いてきて、多くの作品に登場する
54年の『困難な時世』は教育をテーマにした小説

第18章     リトル・ドリットと友人たち――185357
結婚生活への不満が表面下でくすぶる
54年のクリミア戦争では、原則的に戦争を支持したが、同時にロンドンで発生したコレラによる死者が15千人も出たことに無関心なのに呆れるとともに、政治体制の腐敗を糾弾
5557年の間、イギリスの暗いイメージを描くのに没頭 ⇒ 代表作が11番目の小説となる『リトル・ドリット』で、債務者監獄で育った囚人の娘が主人公、『荒涼館』に出てきた労働する子供たちの直接の後継者で、自分よりもっと不幸な者に対して貢献しようとする。堕落した父を許し、父の欠点すべてに目をつぶり、父に無条件の愛と援助を与える主人公の姿はディケンズそのもの

第19章     気紛れで不安定な感情――185557
55年、シャンゼリゼにアパートを借りて仕事 ⇒ フランス人とそ生き方はディケンズの気性に合っていた
有料公開朗読を開始 ⇒ 死んだ友人の遺族の基金のために始めたが、やがて職業的朗読家として第2の人生を歩もうという決心をする

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第20章     悪天候――185759
57年、素人劇に出演したターナン一家に会って以来、彼の生活のあらゆる面に変化が生じる ⇒ 妻と別居、家族で休暇を過ごすこともなくなり、『ハウスホールド・ワーズ』は廃刊、最良の挿絵画家ブラウンと別れ、素人劇からは撤退、「ホーム」事業からも手を引いた結果事業も衰退し60年代初めには若い女を受け入れなくなった
公開朗読のディケンズと本で読んだディケンズは同じというわけにはいかず、大衆との関係もやや変化 ⇒ 朗読用に短縮したり原作から離れた箇所を作ったりしたため、原作に比して単純化され、必然的に粗雑なものになった
59年、自ら編集長を務める雑誌『オール・ザ・イヤー・ラウンド』に新たな歴史ロマンス『二都物語』の執筆を始める ⇒ フランス革命を通俗的に扱った物語、自己犠牲をする主人公。アメリカではディケンズのどの小説よりも売れたが、イギリスでは彼が社会批判から離れたことで不評。ブラウンの挿絵が載る最後の作(別居問題でディケンズを批判)
6061年、『大いなる遺産』 ⇒ 自分の幼い頃の思い出と夢から生まれたバラードのような幻想的小説。
63年クリスマスに始まった『互いの友』は、私生児の誕生を中心に堕落と暴力が織り込まれた作品 ⇒ 65年完了、完成した最後の小説
ターナン一家の末娘で18歳のエレン(愛称:ネリー)に恋をした

第21章     秘密、謎、嘘――185961
公開朗読家として新しい人生を歩み始める ⇒ 自らを「商用のない旅人」と呼び、ジャーナリストになった
息子の将来を決めるのに苦労 ⇒ 息子たちは出来が悪く、娘の1人は私生児を生んで一家の世間体の下に秘密と嘘が隠されていた
ターナン家の娘たちのパトロンであるかのようにその行動と暮らし向きに強い関心を持ち続けたことも別の秘密としてあった
健康問題を抱えながら、『二都物語』と『大いなる遺産』を書いたが、顔面に痛みを覚え、背中はリューマチにかかり体を折り曲げるほど痛かった
60年、弟の中で唯一まっとうで勤勉で母の世話をしていたアルフレッドが肺結核で死去
齢を取るにつれ、残忍な考えを本名で述べることがあった ⇒ 40年代には死刑に反対していたが、人間の凶暴性に対処するには死刑しかないというようになり、57年の北インドでの大反乱の際も、残虐行為を行った民族を殲滅し、地上から消し去ることまで唱道した

第22章     ベベルの人生――186265
この3年間は、イギリスとフランスを頻繁に往復して暮らす ⇒ 執筆より公開朗読に注力、ネリー・ターナンが身籠ったのを隠すための渡仏とも考えられる。ネリーの子どもが生まれた記録はないが、ディケンズの娘が1890年代にバーナード・ショーに話した記録がある
65年、ネリー母娘とディケンズがフランスから戻る途上、ケント州ステイプルハーストで列車事故に遭遇、ディケンズが名声を守ることを優先させて大怪我を負った母娘を現場から立ち去らせ、自らは他の負傷者の介護に当たっていた
何年もの間、ネリーとの間に性的関係があったとする話は、ディケンズ崇拝者から唾棄すべき醜聞漁りとされ、公になっても無視されたが、1952年アメリカのディケンズ研究者が『ディケンズとエレン・ターナン』の中で確たる証拠を挙げて2人の間に恋愛関係があったと書き、公然のこととなる
(「ベベルの国」、フランス)

第23章     賢い娘たち――186466
65年刊行された『互いの友』では、賢く立ち回る女が描かれる
65年、南北戦争の終ったアメリカから朗読の招きがあったが、足の痛風が悪化して断念

第24章     チーフ――186668
66年、公開朗読の巡業を仕切ったのはドルビーという大男。ディケンズを「チーフ」と呼び、ディケンズも意気投合、4年に亘って共に巡業の旅をする
67年末から4か月のアメリカ巡業
70年のロンドンが公開朗読の最後
ディケンズは、どこであろうとネリーのいるところで暮らし、そこではトリンガム氏だった。アメリカ巡業にもお忍びで同行

第25章     「どうやら、また仕事のようだ」――186869
公開朗読は続き、殺人の場面では脈拍も上がり、脳卒中の発作にも見舞われ、遺言状を作成

第26章     ピクスウィック、ペクニックス、ピクウィックス――1870
不退転の気持ちで自分の病気を撥ねつける一方で、危機を感じて身辺整理を始める
女王に拝謁 ⇒ 女王から日記の抜粋を賜り、ディケンズは自らの特装版の贈呈を約束
最後の公開朗読 ⇒ 『クリスマス・キャロル』と『ピクウィックの裁判』を朗読したが、「ピクウィック」と言えずに「ピクスウィック」、「ペクニックス」、「ピクウィックス」と言った。最後に別れの言葉を言う
『オール・ザ・イヤー・ラウンド』を一旦挫折・破産した長男のチャーリーに引き継がせ、自らの所有権と収益の全てを彼に与えることにした
息子のシドニーの借金のことを心配し、「正直言って死んでくれたらと願い始めている」と言い、息子のウォルターが借金した際や弟のフレッドが厄介者になったとき、さらに妻のキャサリンが彼の意思に逆らったために見捨てられたように、ディケンズは一旦相手を見捨てると無情になれた
どの息子もディケンズを戸惑わせ、その無能力に心配させられた。息子たちが人生に失敗した自分に見えたが、自分が努力して抜け出した貧乏を彼等が知らないことに腹を立て、見捨てた
アメリカ旅行に密かに連れて行くことに拘ったかと思うと、イギリスでは彼女と常に一緒に暮らそうとはしなかった ⇒ スキャンダルを避けるだけでなく、彼に奉仕し彼に求めることのあまりないキャサリンの妹ジョージーナが平穏に取り仕切る自宅での生活、すなわち独り身で、旨いものを食べ、劇場に通い、男の友人たちと遅くまで飲むことのほうを大事にした
最終作『エドウィン・ドルードの謎』は、未完で未解決の殺人小説だったが、最初からよく売れた
自宅の食堂で夕食後に脳出血の発作で倒れ、ジョージーナに見守られて不帰の人となる
遺体の埋葬について、『ザ・タイムズ』が社説でウェストミンスター寺院に埋葬されるべきと書き、ディケンズが遺言で飾りも華麗な葬式の行列も不要とした通り、夜のうちに密かに寺院に運ばれ、名前だけが刻まれた墓石が用意された
サッカレーの胸像に近い場所で、ヘンデル、カンバーランド、シェリダンに三方を囲まれた場所に埋葬
シェリダン(17511816): アイルランド生まれの劇作家、政治家。滑稽な恋愛騒動を書いた喜劇作者。イギリス風習喜劇伝統を代表する傑作を残す
遺言状の中で、なんの記念碑も欲しくないと表明し、その代わり、「国には出版された作品で私を覚えていてもらい、友人には交遊の経験で私を覚えていてもらいたい」と言った

第27章     友人には…私を覚えていてもらいたい――18701939
友人のフォースターは悲嘆にくれながらも『ディケンズ伝』の執筆に取り掛かり、74年に3巻目を出したあと76年に死去
ネリーは、76年に一回り若い牧師と年を偽って結婚。彼女は人を欺瞞することを欺瞞の「達人」から習ったのだった。病弱だったが回復し、ディケンズの作品から多く朗読し、自らディケンズの教女で、彼を知った時自分はまだ子供だったと人に言い、時々ディケンズとの関係を仄めかすような発言をして、ジョージーナや娘たちを苛立たせた
1879年、妻のキャサリン死去。大事に取っておいたディケンズからの手紙を娘に渡し、娘は20年間保存した後、1925年以前には公開しないという条件で1899年大英博物館に寄贈
1879年、ジョージーナと娘のメイミーによって集められ、編集された書簡が、ディケンズの書簡集として発刊、以後82年まで4巻にわたって出された
3人のターナン姉妹は、年を取るにつれ貧しくなった
ディケンズの子どもたちの大方も金に不自由していた ⇒ 版権が切れた後は収入が無くなる
立派に成功したのは弁護士になったヘンリーだけ、晩年のディケンズを驚かせ、喜ばせた
1900年、男だけのボズ・クラブ設立、1902年、ディケンズ・フェロウシップ、ディケンズ生家博物館(ポーツマス)1905年、定期発行の雑誌『ディケンジアン』創刊
自分たちの父について本当のことをはっきり言うことに最も熱心だったのは、彼が望んだ子どもの最後の子どもで、子どものころ父から「黄燐マッチ箱」と呼ばれたケイティーだった ⇒ ネリーもジョージーナもいなくなって誰にも気兼ねないことを悟り、彼について正確な話を書かなかったことを悔い、若い女友達のグラディス・ストーリーに、自分が両親について言わねばならぬことを書き取ってもらうことにした。ケイティーは愛と怒りを混ぜてあけすけな話をした。その目的の1つは、母を正当に扱い、母が別居したときに何の力にもなれなかったのを償うことだった。彼女は父も愛していて、父の名を汚す積りはなかったが、つい言い過ぎて、「父は紳士ではなかった。紳士であるにはあまりに複雑だった」とまで言ったが、ストーリーは本を書く時その部分は引用しなかった。ケイティーは29年に死去、ストーリーは書き取ったものを『ディケンズと娘』にするまで10年かかったが、ディケンズとネリーの情事が裏付けられ、ディケンズの愛読者から攻撃されたものの、バーナード・ショーが40年も前にケイティーから聞いていた事実であることを認めた。ケイティーがネリーについて言ったことは、2人の間に幼くして死んだ息子がいることも含め、全て信用できるように思われる
ヘンリーも28年の回想録では、あけすけに父の憂鬱な気分と苛立ち、家庭で課せられた厳しい紀律に対する彼の兄弟の怒りについて書いているが、ネリーとの事柄については公には何も書いていない。「自分はフランス人に大いに共鳴するので、フランス人に生まれるべきだった」と言ったことにも言及
誰もがディケンズについて自分なりの姿を見出す――子供の犠牲者、抑えがたいほどの野心に燃えている青年、急進論者、貧民の擁護者、フランス贔屓、紳士であるにはあまりに複雑な男だが素晴らしい男………


訳者あとがき
2012年は、ディケンズ生誕200年を祝って大英博物館初め各所で記念行事があり、本書他の優れた伝記が相次いで上梓
ディケンズの任期は、20世紀に入りモダニズムが台頭すると、文芸批評家の間では過度の感傷癖、濃厚なメロドラマ的要素が嫌われ一時凋落したが、一般読者の人気は19世紀以来全く不変で、作品は様々な版で出版され続け、愛読され、数多くの劇や映画になった。
ジョージ・オーウェルは、「どんな成人の読者も、ディケンズの限界を感じずにはその作品を読むことは出来ないが、それでもディケンズの作品が読者の心を捉えている「中心的秘密」は、ディケンズの「温和な無律法主義」に基づく「生来の精神の寛大さ」である。権威主義に対する反発と負け犬、即ち虐げられた貧しい者に対するディケンズの深い同情はそこから生まれていて、それ故にディケンズの作品は今でも大衆の共感を得ているのである」
『オブザーヴァー』紙評のように、この魅惑的な伝記の魅惑的な底流の1つはディケンズと金に関するもの。すべての作家は金のために書くが、ディケンズにとっては支払能力と金は非常に現実的な意味で聖盃だった。彼がどのくらい稼いだかを知るのが興味深いのは、それがいくつかの神秘のベールをはぐからで、彼もやはりごく普通の人間でもあった、とトマリンが本書で再現しているのは、こういう多面的な人間なのである
さらに、45歳の時女優に血道を上げて妻と離婚した「スキャンダル」についても触れている。トマリンは、その女優の生涯を扱ったベストセラー『見えない女』での中で、2人の間に生まれた子供が嬰児で死亡したことをディケンズの息子と娘の証言により立証している
妻を疎んじたことでディケンズの作品の価値を減ずることがないのは、シェイクスピアが遺言で妻に2番目にいいベッドを残したからといって『ハムレット』の価値が下がらないのと同じだとオーウェルも言っている
ディケンズは、ジョイス、チェーホフ、プルーストと同様、複雑でしばしば極度に気難しく、自分本位の人間だったが、4人とも人間として知れば知るほど彼等の芸術は一層大きく我々に反響してくるだけに、人間性を抉り取った伝記の価値は大きい



チャールズ・ディケンズ伝 クレア・トマリン著 笑いと涙が交錯する生涯と創作 
日本経済新聞朝刊2014年2月23日付
フォームの始まり
フォームの終わり
 2012年はディケンズ生誕200周年で、この前後には多くのディケンズ関係の本が出版された。わが国でもいくつか目につく書物が出版されたが、本国イギリスでは当然のように話題作が何冊も出版され、本書もその1冊に数えられる。11年に出版され、高い評価を受けた伝記である。劇作家シェイクスピアに次ぐ人気を今もなお誇る作家だけに、その生涯への関心もただならぬものがあるし、「伝記の国」イギリスならではの出来栄えと言っていいだろう。
(高儀進訳、白水社・4600円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(高儀進訳、白水社・4600円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 ディケンズの家系に始まり、恵まれなかった幼少時代の苦闘、人気作家となってからの精力的な執筆生活、その結婚生活と愛人との関係、多彩な社交生活と変転する友人関係などが詳細に語られ、さながらこの作家を巡る万華鏡のごとき世界が繰り広げられる。これらに加えて、ディケンズの生きた時代の諸相、そして何よりも彼が目にした人間模様がその作品にどのように生かされているかが随所に盛り込まれ、ディケンズの生涯とその創作との関わりが明らかにされていく。
 特に興味深いのは、幼少期の苦闘の原因となった父親の影で、いつになっても懲りることなく息子を悩ませ続ける金銭問題が、あたかもこの伝記の通奏低音のごとく奏でられる。金銭を巡る問題、金持ちと貧民、都会生活の明と暗、男女のしがらみ、喧噪(けんそう)と孤独など、ディケンズの作品にしばしば登場するテーマが、人間ディケンズのせわしない日々にも頻出するし、笑いと涙が交錯する小説世界の描写も彼の実人生に見られるけれど、こちらはどちらかと言えば実人生では涙の比率が高いようだ。
 上下2段組500ページを超える労作の中で、人名表、注釈、参考文献、地図解説、図版表などが100ページほどあり、その意味ではディケンズ研究に大いに役立つだろう。しかし一般読者としては、本文の記述をひたすら追いかけるほうが望ましい。このことを考えると、訳文のリズムに首をかしげる箇所が多いのは残念である。ディケンズの小説のように、読者を虜(とりこ)にする文章で読みたかった。
(上智大学教授 小林章夫)



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チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズCharles John Huffam Dickens, 181227 - 187069)は、ヴィクトリア朝時代を代表するイギリス小説家である。主に下層階級を主人公とし弱者の視点で社会を諷刺した作品を発表した。
新聞記者を務めるかたわらに発表した作品集『ボズのスケッチ集Sketches by Boz)』から世にでる。英国の国民作家とも評されていて、1992から2003まで用いられた10UKポンド紙幣には彼の肖像画が描かれている。英語圏では、彼の本、そして彼によって創造された登場人物が、根強い人気を持って親しまれている。『オリバー・ツイスト』『クリスマス・キャロル』『デイヴィッド・コパフィールド』『二都物語』『大いなる遺産』などは、忘れ去られるこのことなく現在でも度々映画化されており、英語圏外でもその作品が支持され続けていることを反映している。

生涯[編集]

困苦の少年時代[編集]

海軍の会計吏ジョン・ディケンズとエリザベスの長男として、ハンプシャー州ポーツマス郊外のランドポートに生まれた。2歳のときにロンドンに、5歳のときにケント州(現在は独立行政区メドウェイ)の港町チャタムに移る。チャタムでは6年間を過ごし、ディケンズの心の故郷となった。少年期は病弱であり、フィールディングデフォーセルバンテスなどを濫読した。
ディケンズの家は中流階級の家庭であったが、父親ジョンは金銭感覚に乏しい人物であり、母親エリザベスも同様の傾向が見られた。そのため家は貧しく、ディケンズが学校教育を受けたのは、2度の転校による4年のみであった。1822の暮れに一家はロンドンに移っていたが、濫費によって1824に生家が破産。ディケンズ自身が12歳で独居し、親戚の経営していたウォレン靴墨工場へ働きに出されることになった。さらに借金の不払いのため、父親がマーシャルシー債務者監獄に収監された。家族も獄で共に生活を認められていたが、ディケンズのみは一人靴墨工場で働かされた。この工場での仕打ちはひどく、彼の精神に深い傷を残した。数ヵ月後に父親の出獄が認められた。祖母の遺産によるものとの説がある。ディケンズはウェリントン・ハウス・アカデミーへ行くことが認められたが、このとき母親に強く反対された。このことも彼の心に強く残った。父親はのちに、『デイヴィッド・コパフィールド』の登場人物の一人であるミコーバー氏のモデルとなったとされている。

新聞記者から作家に[編集]

1827からエリス・アンド・ブラックモア法律事務所に事務員として勤めたが、のちジャーナリストになることを決心し、速記術の習得に取り掛かった。これを修了すると事務所を辞め、法廷の速記記者となった。なおディケンズは芝居好きであったが、このころ俳優になろうとしたこともあった。20歳前後から諸雑誌から仕事の声が掛かるようになり、1834に『モーニング・クロニクル』紙の報道記者となり、ジャーナリストとしての活動が本格化する。
定職の片手間に「ボズ(Boz)」という筆名で書き始めた投稿エッセイが1833、初めて『マンスリー・マガジン』誌に掲載され感激、その後も継続して書き続ける。なお、この時期の筆名の「ボズ」とは、ディケンズの弟オーガスタスに付けられたあだ名に由来するとされる。こうしたエッセイは後にまとめられ、1836、第一作『ボズのスケッチ集』として発表された。優れた批評眼が注目を浴びた。
同年、編集者の娘であるキャサリン・ホガースと結婚した。二人は10人の子に恵まれたが、性格の不一致のため結婚生活はうまくいかなかった。なお、ディケンズはキャサリン・ホガースよりもその妹のキャサリン・メアリを愛していたが、まだ幼かったこともあり、結局その姉と結婚した。メアリは、ディケンズの結婚後もディケンズ夫妻の住まいに同居していた。翌年彼女は急死し、ディケンズにしばらく執筆活動を中断させるほどの打撃を与えた。

国民作家として[編集]

続いて発表した『ピクウィック・ペーパーズ』がサム・ウェラーの登場後に大人気となり、第一流の小説家として文才を認められた。さらに雑誌『ベントリーズ・ミセラニー』の編集長を務め、同誌に初めて筋書きのある長編小説『オリバー・ツイスト』を発表、小説家としてのディケンズの人気はその後、終生衰えることがなかった。その後は虐待学校を題材にした『ニコラス・ニクルビー』、悲劇的な物語『骨董屋』などを発表。『クリスマス・キャロル』(1843年)以後毎年刊行された「クリスマス・ブックス」ものは子供から高い人気を得た。先に出た『ニコラス・ニクルビー』や『骨董屋』などの作品や、以後の作品では、主人公は多く孤児であり、チャールズの少年時代の体験が影響している。
このころ、J・フォースターと親交を結ぶ。またベン・ジョンソンの『十人十色』を友人らと上演。義捐基金のための素人演劇で、もっぱら演出と主演を兼ねた。
1842に夫人とともに訪米し、長期のアメリカ旅行を行った。ただ、南北戦争前夜の米国は、当時の著作権問題などもあって良い印象を与えなかった。そのため、帰国後に発表した小説『マーティン・チャズルウィット』や、旅行記『アメリカ紀行』で記した米国観はあまり良いものではなく、米国でも不評であった。ただし、南北戦争後の1867年に再訪した際には、大歓迎を受けて印象を改めている。

後期の作品と晩年[編集]

ドンビー父子』の次の作品『デイヴィッド・コパフィールド』は自伝的要素が強い作品で、このころの作品から次第に社会的要素を取り組んだ、凄惨な作風へと変化していく。ヴィクトリア朝の社会を批判した『荒涼館』や、社会制度を批判した『リトル・ドリット』、フランス革命を背景とした『二都物語』、失意の人々を描く『大いなる遺産』などである。
編集長としても、1850から『ハウスホールド・ワーズ』、1859から『オール・ザ・イヤー・ラウンド』をまとめ、ギャスケル夫人コリンズなどの作家や、アデレード・アン・プロクターのような詩人に作品発表の場を与えた。もっとも、編集者としては勝手に小説の内容に手を入れるなどというワンマンぶりもよく知られている。また慈善事業や講演といった活動も行っている。
晩年はエレン・ターナンと不倫関係にあり、1858年から夫人とは別居していたが、これはディケンズの死後まで公的には秘密にされていた。創作力の衰えと並行して、執筆を離れて公衆の前での公開朗読に熱中し、過労で死期を早めた(2度目の米国旅行の際にも、各地で公開朗読を行っている)。1865年には鉄道の事故に巻き込まれて九死に一生を得る(ステープルハースト鉄道事故)。この事件も、晩年の作品に目立つ暗い影の一因ではないかと言われている。
187069日、『エドウィン・ドルードの謎』を未完のまま、ケント州ギャッズ・ヒルの広壮な邸宅で、脳卒中により58歳で死去した。ディケンズ自身はロチェスターに一私人としての埋葬を希望していたが叶えられず、ウェストミンスター寺院の詩人の敷地に埋葬された。墓碑銘は “He was a sympathiser to the poor, the suffering, and the oppressed; and by his death, one of England's greatest writers is lost to the world.”(「故人は貧しき者、苦しめる者、そして虐げられた者への共感者であった。その死により、世界から、英国の最も偉大な作家の一人が失われた 」)となっている。
なお、曾孫のモニカ・ディケンズも作家となった。

作風[編集]

一般にプロット構成にはやや難があり、最良の部分は人物描写などの細部にある、と言われることが多い。多作家でもあるため出来栄えにムラがあるが、『大いなる遺産』などの名作では、そうした描写力に、映画のカメラワークにも似た迫真のストーリー・テリングが加わり、読者をひきつける。精密な観察眼と豊かな想像力で、時代社会の風俗を巧みに描いた。日常生活の描写は具体的で、丹念に細部に亘って生き生きと写し出されており、登場人物の性格はシェイクスピアのそれに比して多種多様であり、ほとんどが典型として戯画化されているにもかかわらず、型を破ってはみ出すような生命力に満ちている。とくに前期の作品においては主人公に個性があまり見られず、脇役にこうした特色を与えることで作品を立体的に盛り上げている。
また、幼少時の貧乏の経験からおのずと労働者階級に同情を寄せ、時に過度に感傷的になることもあるが、常に楽天主義と理想主義に支えられ、ことに初期の作品には暖かいユーモアとペーソスが漂っている。その点、ヴィクトリア朝の代表作家として並び称され、中・上級階層を中心に描いたサッカレーとは対照的である。後期には、健康状態の衰えなどの影響もあって徐々に悲観的な価値観に傾斜していき、作品発表のペースも落ちた。初期の明るいユーモアや天才的なキャラクター造形は目立たなくなっているものの、プロットは複雑で深遠になり、主題を強調することに成功している。ただし偶然に頼ったご都合主義の物語展開や、最後をめでたく終わるといった典型は最後まで残った。これは月刊分冊という発表形態で、売れ行きや人気を考えてあらすじや登場人物を変えていったためである。
作品(エッセイ・小説)を通しての社会改革への積極的な発言も多く、しばしばヴィクトリア朝における慈善の精神、「クリスマスの精神」の代弁者とみなされる。貧困対策・債務者監獄の改善などへの影響も大きかった。しかし、一方で帝国主義的な色合いもあり、ジャマイカ事件ではカーライルなどと共に総督エア側に組して、反乱を擁護しエアを弾劾するミルらと論争したことが知られている。ただし、年代の違いもあって、一般にはキプリングのように人種差別主義者などと露骨に批判されているわけではない。
最終作『エドウィン・ドルードの謎』は、コリンズなどの影響もあって、ミステリーのプロットを導入し、後期のディケンズの中でも特に陰鬱な雰囲気に包まれた野心的な作品であった。しかし、作者の死により全体の半ばほどを残してついに未完に終わった[1]。そのため、犯人(正確には、表題人物の失踪の原因)は不明のままであり、さまざまな説が提唱されている。
殺人の謎解きは『バーナビー・ラッジ』ですでに登場しており、これが世界初の推理小説と言われることもある。

批評史[編集]

没後、そのストーリーの通俗性、あらすじの不自然さ、キャラクターの戯画化などのために、通俗作家として、芸術至上主義的な19世紀文壇からは批判された。確かに分冊販売という発表形態のために、人気の上下動を見て、もともと考えていた筋に執着せずに、時に強引とも思えるストーリーの変更を行った。特に『マーティン・チャズルウィット』や『ニコラス・ニクルビー』などではプロットの不自然さが目立つ。
しかし、一般大衆の人気がこうした批評で衰えることはなかった。プルーストドストエフスキーなどの小説家も愛読者として知られ、ギッシングチェスタトンジョージ・オーウェルなども優れた評伝を寄せている。トルストイはディケンズをシェイクスピア以上の作家であると評価しているほどである。近年ではエンターテイナーとしてだけでなく、小説家としても作品の再評価が進んでおり、小説が映画、ドラマなどで映像化されることも多い。弱点こそあれ、現在の評価は、英国の国民作家というその正しい位置に、ほぼ復していると言える。
日本においては、その膨大な作品量も災いして、ディケンズの翻訳全集は、昭和初期の、舞台を日本に移した翻案に近い選集を除いて、存在しないという状況にある。ただし、2010年に田辺洋子個人による長編全訳が完成した。
ディケンズの生涯と作品を研究する団体として、ディケンズ・フェロウシップ日本支部がある。

主要作品[編集]

·         ボズのスケッチ集Sketches by Boz1836年)
·         ピクウィック・クラブThe Pickwick Papers1836 - 37年)
·         オリヴァー・トゥイストOliver Twist1837 - 39年)
·         ニコラス・ニクルビーNicholas Nickleby1838 - 39年)
·         骨董屋The Old Curiosity Shop1840 - 41年)
·         バーナビー・ラッジBarnaby Rudge1841年)
·         マーティン・チャズルウィットMartin Chuzzlewit1843 - 44年)
·         クリスマス・キャロルA Christmas Carol1843年)
·         ドンビー父子Dombey and Son1846 - 48年)
·         デイヴィッド・コパフィールドDavid Copperfield1849 - 50年)
·         荒涼館Bleak House1852 - 53年)
·         ハード・タイムズHard Times1854年)
·         リトル・ドリットLittle Dorrit1855 - 57年)
·         二都物語A Tale of Two Cities1859年)
·         大いなる遺産Great Expectations1860 - 61年)
·         互いの友Our Mutual Friend1864 - 65年)
·         エドウィン・ドルードの謎The Mystery of Edwin Drood1870年)


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