アラブ 500年史  Eugene Rogan  2014.1.23.

2014.1.23. アラブ 500年史 オスマン帝国支配から「アラブ革命」まで
The Arabs: A History                   2009

ユージン・ローガン Eugene Rogan アラブ近現代史が専門の歴史家。オクスフォード大学セント・アントニー・カレッジ中東センター所長(1998-)、名誉校友。子供時代をベイルートとカイロで過ごし、アメリカのコロンビア大学経済学部に在学中、中東史に関心を持ち、トルコ語とアラビア語を修得。卒業後、ハーヴァード大学で中東研究のM.A.1984)、Ph.D.1991)を取得。サラ・ローレンス・カレッジ、ケンブリッジ大学の講師を経て現職。ケンブリッジ大学出版部の「現代中東シリーズ」の編集者も務める。本書『アラブ500年史』はすでに8つの言語に翻訳されている。著書に、Frontiers of the State in the Late Ottoman Empire1999)、Outside In: On the Margins of the Modern Middle East2002)など。現在、2014年刊行予定のThe Great War in the Middle East, 1914-1920を執筆中。英国オクスフォード在住

セント・アントニー・カレッジは、イエメンのアデンを拠点にした珈琲の輸出他多角的事業で財を成したフランス生まれの豪商アントーニン・ペシーの寄附によって創立された。附属中等研究センターは、1957年に大学院クラスの中東研究者のために設立されたもので、著者の恩師のレバノン系英国人アルバート・ホーラーニーが生涯を捧げてヨーロッパ随一の中東研究所にした後を著者が引き継いだ


訳者:白須 英子(しらす ひでこ)翻訳家。1958年、日本女子大学英文学科卒業

はじめに
2005.2.14. レバノン元首相ラフィーク・ハリーリがベイルートで自動車爆弾によって殺害 ⇒ サウジで建設業者として成功、7590年のレバノン内戦終了時に再建を目指して帰国、政界入りして92年首相、13年間の任期のうち10年間陣頭指揮。彼の画期的プロジェクトはベイルートのダウンタウンの再建計画で、経済復興の目玉だったが、目に余る汚職への非難が起こる
04年ハリーリは、シリアのレバノン政界への干渉に抗議して首相辞任を申し出
シリア軍は1976年、レバノン内戦に介入するアラブ連盟軍の一部として初めてレバノンに入ってきて以来レバノン政界の喉輪を抑え続けてきた。脆弱な隣国の政治的安定のためと主張するが、レバノン人にとってはシリアの占領下にいるような気がして苛立っていた
シリア大統領バシャール・アサドが、レバノン大統領ラフードを自分の分身だとして、大統領の任期を16年と決めた憲法に違反して3年間の延長を、レバノン議会に強制的に認めさせようとしたとき、ハリーリが立ち向かったのが殺害された原因
抗議のデモが広がり、シリアからの独立を要求する国民運動に発展 ⇒ 「独立インティファーダ」として知られ、国際メディアは「シーダー(杉の木)革命」と名付けた
暗殺から2か月後、シリア軍はレバノンから撤退したが、反シリア派に対する凄まじい暗殺事件が続くが、その最初がジャーナリストで作家のサミル・カッシルで056月暗殺
カッシルによれば、欧米人とイスラーム社会の間では、お互い相手を最大の脅威だと思っているが、どちらの側にとっても明らかにすべき事は、一方のアラブ人の停滞感と、他方の欧米民主国家にこびりついているテロの脅威には事実上関連があるということ
欧米の政策決定者と知識人は、今日アラブ人を苦しめている病から彼等を救いたいと願うなら、もっと歴史に注意を払わなくてはならない
1789年のナポレオンのエジプト遠征でも、1917年の英国によるバグダード解放でも、アラブ世界への侵入を解放と見せかけることに懸命だった ⇒ 1916年に軍事同盟国フランスとの間でアラブ世界の分割に同意していたところに従って英国が解放したものだったが、英国が20年までに自治を与えるという約束を果たさなかったことへの不満からイラク全土で反乱が勃発、英国軍の凄まじい暴力によって鎮圧され、以後12年に亘って大英帝国に直接支配され、58年にイラクの君主が打倒されるまで、非公式に英国の管理下に置かれる
03年の米国のイラク侵攻にしても、一国の国民の知性を見くびって侵攻するほど恥ずべきことはない ⇒ 08年ブッシュが任期満了前最後のバグダード訪問中の記者会見で靴を投げつけたジャーナリストがいたのも、国民に広がる怒りを反映したもの
アラブ人は長い間、その時々の支配的な勢力が設定したルールによる新時代と折り合いをつけながら暮らしてきた。その意味では、近代アラブ史はアラブ人が初めて外部勢力に支配されるようになった16世紀のオスマン帝国のアラブ世界征服から始まると言ってもよい。500年に亘って他国民の支配に弄ばれた後、アラブ人は今、イスラーム勃興以後、最初の500年に味わったのと同じように、自分たち自身の運命の支配権を得ようという意欲に燃えている
その時々の支配的な勢力とは、オスマン帝国時代、ヨーロッパ植民地時代、冷戦時代、アメリカ支配とグローバル化時代の4つに分けられる
過去500年のうち400年はオスマン帝国の支配下
20世紀に入ると、オスマンの衰退とともに、帝国内で従属的な立場に甘んじていたアラブ人が独立を切望するようになる
1918年のオスマン帝国崩壊の後は、英仏によるアラブ世界の分割・植民地化 ⇒ アラブ人ナショナリストの意に反して、人為的に国境線が引かれ、シリアとレバノンにはフランスが共和国型の政権を与え、イラクとトランスヨルダンにはイギリスが立憲君主国を建てる。パレスチナは例外で、現住民の反対を押し切ってユダヤ人の民族郷土を樹立する約束が、アラブ民族政府樹立のためのすべての努力を台無しにした
植民地時代の遺産の1つは、民族国家のナショナリズムと汎アラブ民族主義者のイデオロギーの対立から生まれる緊張状態で、4050年代にアラブ諸国が独立を確保し始めるころには、アラブ諸国間の分裂は恒久的なものになっていた
冷戦時代、ソヴィエト圏の影響に入れられたアルジェリア、リビア、エジプト、シリア、イラク、南イエメンの国々は、自分たちを「進歩派」と呼んだが、欧米からは「急進的」アラブ諸国と言われ、どこも革命を経験し、欧米側に就いたチュニジア、レバノンのようなリベラルな共和国、モロッコ、ヨルダン、サウジ、湾岸諸国の保守的君主国は、進歩派からは「反動派」と呼ばれたが、欧米では「穏健派」と思われていた
新たな一極支配時代は90年のイラクのクウェート侵攻で幕開け ⇒ ソヴィエトがアメリカ主導のイラク侵攻を是認する国連決議に賛成。9.11はムスリム社会に焦点を当てた対テロ戦争を先導、この地域全体に甚大な被害をもたらし、現代アラブ世界にとって最も不利な時代であったことが判明
言語と歴史を土台に、共通の帰属意識で結ばれているアラブ人をさらに魅力的にしているのは、その多様性 ⇒ 1つの民族であると同時に多くの国の国民でもあり、自分たち自身の独特な歴史を持ちながら、共通のアラブ人の歴史によって結ばれているとも思っている
執筆に当たっては、広範囲のアラブ人の資料を集めた。年代記作成者の記述よりも、出来るだけ広範囲の知識人、ジャーナリスト、政界人、詩人、小説家、有名無名の男女など、アラブ地域に暮らした人たちの資料を優先。自分たちが生きた時代を語るアラブ人男女の目を通してアラブの歴史を見れば、一味違うアラブの歴史に触れられるのではないか

第1章        カイロからイスタンブールへ
1516年、カイロを基盤としてシリア、アラビア半島まで広がっていたマムルーク朝がオスマン帝国と対峙
マムルーク朝は、1249年にはフランス王ルイ9世の十字軍を撃破、1260年にはモンゴル軍をアラブ人領土から放逐、1291年には最後の十字軍をイスラームの領土から放逐
オスマン帝国は、スンナ派のイスラームで13世紀末に小さなトルコ人ムスリム君侯国として台頭、キリスト教徒ビザンツ帝国に聖戦を挑み、1415世紀に他のトルコ系君侯国を統合しながら、「征服者」メフメト2世が1453年コンスタンチノープルを陥落させビザンツ帝国を征服
マムルーク朝は、オスマンと敵対関係にあったシーア派イスラームを国家公認の宗教とするクルド人のペルシャのサファビー朝と連携してオスマン帝国を牽制したが、近代的な銃撃隊を持つオスマン軍の敵ではなく、忽ちカイロまで占拠され、スルタンは殺害されて王朝は終焉
イスラームの最初の王朝ウマイヤ朝は、紀元661750年ダマスカスから支配、次いでアッバース・カリフ国が7501258年バグダードから支配。969年にカイロが創立され首都となった
スンナ派イスラームが大多数であるアラブ人にとって、マムルークからオスマン人支配への変化の評価は、観念的であるよりむしろ実利的で、アラブ人がトルコ人に支配されるということの意味より、法と秩序、妥当な課税などの問題により大きな関心を抱き、トルコ人による解放を歓迎すらした
スレイマン1(オスマン帝国第10代皇帝、在位152066)統治の偉大な新機軸は、帝国各州の法的な行政制度を明確にしたこと ⇒ 欧米では「壮麗王」として知られるが、地元ではトルコ語の別名「立法者」を意味する「カーヌーニー」という名で知られ、古代アラブ人の首都バグダードを占領したことで、父親の代から始まったアラブ世界の征服を完了、シーア派の教義がスンナ派の地域に浸透するのを防ぐ
オスマン帝国の北アフリカ征服は、伝統的な戦闘よりも海賊行為によって達成されたものが多い ⇒ 海賊と言っても帝国では提督。北アフリカは、スペインのイベリア半島征服により追われたムスリムが逃れた土地で、オスマン帝国と結んでスペインに対抗するとともに、トルコ支配からの自治を獲得していった
18世紀後半になると、新しい地元のリーダーたちが、ヨーロッパの国と連携して帝国制度からの自治を求めて立ち上がり、帝国の存続を危うくする

第2章        オスマン帝国支配へのアラブ人の挑戦
18世紀半ばのダマスカスでは、帝国から派遣された総督より地元で不当に財を成した有力者の力のほうが優勢となり市民生活を圧迫 ⇒ 地元リーダーの増殖が多くのアラブ諸州にイスタンブール支配への反発を促す。リーダーの出自は様々。アラブ人の土地はイスタンブールから遠く、帝国にとってはウィーンやモスクワからの挑戦の方が気懸りで、アラブ人の地元リーダーたちによる反乱にまで手が回らなくなる
1699年、オスマンの対オーストリア戦敗北は、初の領土喪失となり、ピョートル大帝が黒海やカフカス地方でオスマンに迫っていたのと相俟って、帝国内の地方の挑戦者たちを勢いづかせる
反乱の最大のものは1770年パレスチナとカイロが結んで起こしたもの、ロシアのエカテリーナ女帝の支援も得てイスタンブールに迫るが、内部分裂で消滅
次の火の手はアラビア半島中心部で起きたワッハーブ派改革運動の始祖ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブの反乱 ⇒ 「神の唯一性」を盲信、スンナ派社会での聖人崇拝を全否定

第3章        ムハンマド・アリーのエジプト帝国
1798年、ナポレオンがアレクサンドリア征服 ⇒ 地政学に基づく戦略のためにエジプトに侵攻したが、ナポレオンの失墜により3年で明け渡す
1803年、英国派遣軍の撤兵を待ってオスマン人司令官ムハンマド・アリーが地元の支持も取り付けて総督に就任。オスマンに対抗してシリアに侵攻、近代ヨーロッパの思想やテクノロジーをうまく利用して、ギリシアに至るまで領土を拡大したが、外国からの干渉により放棄せざるを得なくなり、41年にはエジプトとスーダンに限定
オスマンにとってはヨーロッパが、帝国の領土を欲しがる交戦国としても、斬新で危険なイデオロギーの源泉としても脅威となってくる

第4章        改革の危機
1826年、ムハンマド・アリーがフランスに視察団を派遣、近代ヨーロッパの思想やテクノロジーの導入に意欲
183976年、オスマン帝国は、立憲君主国に移行する行政改革期に突入
エジプトは19世紀における近代化の旗振り役となる ⇒ アリーの後継者となったオスマンの提督たちが、ヨーロッパ諸国の力を利用して社会基盤づくりに投資
1869年のスエズ運河開通はその象徴
中東の独立にとって唯一最大の脅威は、ヨーロッパの銀行 ⇒ ヨーロッパ人のテクノロジーと融資に惹かれて実力以上の歳出をした結果、財政悪化を招き、オスマン傘下の各国が相次いで債務超過を宣言。中東の意欲的な改革は一巡して消滅、中東諸国をヨーロッパの支配勢力に門戸開放する結果となる

第5章        植民地主義の第一波──北アフリカ
ヨーロッパの帝国主義がアラブ世界に触手を伸ばし始めたのは1875年以降
最初に目を付けたのが北アフリカで、80年代までに自国の利益確保に走る ⇒ オスマン帝国から遠く、ヨーロッパからは距離的に近く、フランスが長年にわたってアルジェリアに駐留していたという先例も列強進出の契機となった
アルジェリアを例外として、ヨーロッパ列強は、1848年の「地中海東部およびその沿岸諸国の紛争解決のためのロンドン条約」から1878年の「ベルリン条約」に至るまでの間、オスマン帝国の安全保障維持をしかたなく認めていた。北アフリカの正式な植民地化が再開されたのは、1881年フランスがチュニジアを占領したとき
184081年、18世紀ヨーロッパで生まれた啓蒙主義の産物の1つである「ナショナリズム」という強烈な新しい思想がヨーロッパ全土に急拡大
最初はギリシアで、10年に亘る戦争のあと1830年にオスマン帝国から独立
ドイツ、イタリアでもナショナリストによる統一運動により1870年代初め頃に近代的な形の民族共同体が出現
バルカン半島諸国もオスマン帝国から独立を求めるようになる
ヨーロッパ列強はトルコからキリスト教徒を救おうとし、ロシアは正教会キリスト教徒と同胞のスラブ人の全面的支援を決める
1875年、ボスニア=ヘルツェゴビナで大きな蜂起、翌年にはブルガリア
1878年、ベルリン会議 ⇒ トルコの第1次分割
1912年までに北アフリカ沿岸部は全てヨーロッパの植民地支配下に入れられた
1820年代にエジプトに導入された印刷機は、中東が輸入した最初の工業製品の1
ベイルートとカイロがアラブ世界のジャーナリズムと出版の中心地として台頭
ヨーロッパ帝国主義の進出に対し、第1次大戦前にナショナリストによる世論喚起活動があったのはエジプトだけだが、改革派のムスリム宗教指導者たちは、イスラム教徒として帝国主義にどう対処するかの枠組み作りを始める

第6章        分割統治──第一次大戦とその戦後処理
20世紀の開幕とともにナショナリズムが、オスマン帝国のアラブ諸州で台頭
1908年、青年トルコ党革命 ⇒ 熱烈なナショナリストがスルタンに憲法の復活と議会の召集を迫った事件。広くアラブ人の支持を得て、アラブ人の独立に向けた動きに繋がる
1次大戦でドイツと同盟を結んで参戦したのは、ドイツが中東に領土的野心を持たず信頼できる唯一のヨーロッパの国と思い込んだから。ドイツは、オスマンがムスリム共同体のリーダーであることを利用して、英仏に対する「聖戦(ジハード)」を醸成すれば、南アジアと北アフリカの植民地のムスリムの力も利用できると考えた
実際には、スルタンのジハードの呼びかけは、ムスリムの国境を超えた共同体にはほとんど影響を及ぼさなかったが、英仏のムスリムに対する警戒心を喚起
アラブ人を大量に召集したオスマンは、初戦で輝かしい成果を上げたが、その後急速に衰え、オスマン帝国のアラブ人の土地支配は突然終わりを告げた ⇒ 北アフリカにおけるフランスやエジプトにおけるイギリスの圧政を目の当たりにしたアラブ人たちは、どんな犠牲を払っても外国による支配を避けようとしたが、勝利した協商国(英仏露)の領土的野心の前にあえなく野望は潰えた
最初に権利を主張したのはロシアで、イスタンブールと、黒海と地中海を結ぶ2つの海峡を併合する意図がある旨を英仏に通知
フランスは、トルコ南東部沿岸地帯からパレスチナの聖地を含む大シリア圏の併合を企図
イギリスは、湾岸諸国とメソポタミア全域の支配を目論み、オスマン帝国のアラブ人の土地の戦後処理について3つの別個の協約を締結
   独立したアラブ王国を作るというメッカ(ハーシム王国)の太守との協約(1915) ⇒ 英国の支援を得て太守がオスマンへの蜂起を呼びかけ、メディナやダマスカス陥落に貢献
   シリアとメソポタミアを英仏間で分割する協約 ⇒ 1916年のサイクス=ピコ協定(3国間の密約)で、パレスチナを国際管理下に置くことも合意
   パレスチナにユダヤ人の民族郷土を創設するシオニスト運動を認める約束 ⇒ 1917年の「バルフォア宣言」によりイギリスは、ヨーロッパとロシアに於ける数百年に亘る反ユダヤ主義の蔓延でユダヤ人思想家たちはパレスチナに郷土を建設するという夢を掲げて作った世界シオニスト組織を全面支援することを決定
相互に矛盾する約束をうまく調和させる方法を見出すために、英国の苦労が始まる
米大統領ウィルソンは、パリ講和会議でアラブ人に対し、「全く妨害されずに自治の拡大を行う機会」を保証 ⇒ アラブ人は新しい超大国の台頭を初めて目にするとともに、アラブ人ナショナリストを鼓舞した
英仏の煮え切らない態度で約束の履行を拒んだため、アメリカ人を代表とする国際調査団がシリア、イラク、パレスチナのアラブ人の抱負について現地調査するために派遣されたが、報告書を店晒しにしたまま、英仏は植民地支配を進める
1920年、シリアのアラブ人がフランス占領軍に対して放棄するも一蹴 ⇒ 以後26年に亘る不幸な植民地占領の始まりだったが、アラブ人にとってこの小さな戦闘は、英国の戦時中の約束の裏切りであり、アメリカ大統領の民族自決構想の破綻であり、数百万のアラブ人の期待と抱負を踏みにじったうえでの英仏による利己的な植民地主義の勝利を意味しており、原罪と同等の意味を持つようになった
戦後措置の結果できた幾つかのアラブ国家と国境線は驚くほど長く持ちこたえ、それがまた、新たな問題を生むことになる
エジプトも、大戦中イギリス支援のため多大な負担を強いられ、パリ講和会議が新たな世界秩序の始まりと期待したが、大英帝国の存在が一層堅固になっただけ ⇒ 1919年、民族自決と独立を求めて蜂起、アラブ史の中で最初にナショナリスト運動として実現したものの、3年後に一方的に保護領の解消を宣言、両国による直接交渉の結果、保護領時代と変わらない種々の条件付きで独立が承認された
イギリス占領下のイラクも同様の状況下にあった ⇒ イギリスは、クルド人、スンナ派アラブ人、シーア派という3つの異質なコミュニティを統合して秩序ある政治を行わせるより、征服する方が容易と考えたが、外国の支配からの脱却という点では3者とも一致。イラクの猜疑心は1920年に国連がイラクをイギリスの委任統治領に定めたとき確かなものとなり、英国の占領に対し団結して蜂起、弾圧と共に暴力化するもイギリス軍によって鎮静化。現代イラクのナショナリスト神話の中では、この20年革命がアメリカの独立戦争に匹敵する特別な地位を占めている
1918.10. 400年に亘るオスマンのアラブ世界全土の支配に終止符が打たれたが、戦後処理は近代アラブ史におけるもっとも重要な時期の1つ ⇒ アラブ人は独立した支配権の確立を夢みたが、ヨーロッパの帝国主義によって中東諸国の境界線のみならず進路が決定され、アラブ人は次の大戦までの間を独立の抱負を追い求めて宗主国と争い続ける

第7章        中東の大英帝国
イギリス ⇒ エジプト、パレスチナ、トランスヨルダン、イラクの宗主国に
英国東インド会社は、1809年ペルシャ湾岸の海賊行為の鎮圧のために軍隊を派遣、1853年の永久協定により海賊海岸の小国家は降伏、パックス・ブリタニカが始まる
カタールやクウェートもオスマンの領土拡張に対し英国の保護を求め、「湾岸保護国」に加入
20世紀にペルシャ湾の重要性が高まったのは、英国の石油への依存度が高くなったため
1907年、英国海軍が燃料を石炭から石油に切り替え
1908年、イラン中央部に湾岸地域では初の大量の石油埋蔵が確認 ⇒ 英国が周辺諸国に独占開発権を認めさせる
1913年、イブン・サウード率いるアラビア半島で最大の勢力になっていたサウジ=ワッハーブ連合がオスマン帝国に対抗して半島支配を拡大しようとし、イギリスもこれを支援
イギリスは同様に、アラビア半島全域の支配権を狙うメッカの太守ハーシム家のフサインとも、対オスマンのための軍事同盟を締結
両者の戦いは、フサインが「アラブ諸国の王」を宣言を名乗った時から避けがたいものとなり、1918年オスマン崩壊の直前に一気に表面化、19年には軍事対立となりサウードがフサインを圧倒、イギリスはアラビアのロレンスを派遣したが調停は不調に終わり、25年ハーシム家が亡命、イギリスもサウードの地位の変化を認め、27年にアブドゥルアジズ王と新たな協定を結び、制約の全くない王の完全な独立と統治権を認める ⇒ サウードは、さらに領土を拡大して32年サウジアラビアと命名し直す(統治者一族の名をつけた唯一の近代国家)
イギリスの重大な誤算 ⇒ サウジに石油があるとは思っていなかった
イギリスは、ハーシム家との約束を少しでも履行しようと、太守の長男アミール・アブドゥッラーを、パレスチナの一部として英国の委任統治領となっていたトランスヨルダンの王に据えて、英国に忠実で依存的な支配を期待 ⇒ 住民はよそ者の支配に反発、イギリスの介入により住民寄りの体制に落ち着き、46年の独立まで平和で安定した植民地の見本のような状況になる
イラクも一時、委任統治が最も成功した国とみられ、1921年チャーチル植民地相は亡命したハーシム家の息子でフランスからシリア追い出されていたファイサルをイラクの王に据え、32年には独立して国連の承認も獲得したが、住民が期待した外国支配からの脱却は名のみに終わり、1958年に最終的な崩壊を招く
エジプトも、2つの大戦間にアラブ世界の近代史における複数政党による民主主義を最も高度に達成、イラクの国連承認に勢いづいたが、独立の約束は先送りのまま放置
英国のパレスチナ委任統治は最初から破綻する運命にあった ⇒ 英国は、「バルフォア宣言」によりシオニストにユダヤ人国家設立を約束したが、パレスチナに現存する非ユダヤ人コミュニティの市民的、宗教的権利への偏見なしに実現する方法が無いのは明らか
パレスチナは、英国の中東における帝国主義政策の最も重大な失敗 ⇒ 元々オスマン帝国の異なった諸州のいくつかの部分を帝国の便宜に合わせて一緒にした急ごしらえの新しい地域。トランスヨルダンの独立とゴラン高原の一部をフランス委任統治領に割譲したことで狭い地域に限定されたが、多様な住民に加え、大量のユダヤ人難民が避難所を求めて流れ込む
度重なるアラブ人とユダヤ人の暴力抗争の結果、39年までにアラブ人の戦闘力は消滅したが、英国が派遣した調査団の「白書」により、10年以内に両者合同政府の下で独立を獲得するはずだったが、両者とも結論に不満、第二次大戦中はユダヤ人側はナチスドイツに対抗するためイギリス側に立って戦ったが、戦後は英国人支配に対抗する執拗な蜂起が頻発
1次大戦終了時における英国の中東支配は難攻不落 ⇒ アラブ世界では、大半がこの植民地宗主国を嫌がりながらも敬意を持って眺めていた
1941年、イラクで枢軸国支持派のクーデター勃発、英国との間に戦争開始。英国が秩序を回復したが、最終的には敗者となる
エジプトでも同様、首相のファシスト志向に英国が介入、領国による共同統治体制は崩壊、さらに50年代の革命ではすべての勢力が一掃された

第8章        中東のフランス帝国
フランス ⇒ 北アフリカに加え、シリアとレバノンを配下に
元々レバノンは、1860年のキリスト教徒大虐殺の後、オスマン帝国とヨーロッパ列強との間で妥協の産物としてできた「レバノン山地」という特別州で、多勢の人口にも拘らず狭く不毛な土地
1936年、独立の機運が増す中、フランス側がナショナリストの要求の多くを認め、フランスとシリアで特恵同盟条約草案が交わされ、シリアは独立を目前にしていると確信、レバノンも同様の条約締結を目指すが、フランスの植民地ロビーがブルム政権を打倒し、両協定は宙に浮いた
1941年、ヴィシー政権支配下のシリア・レバノン両国を英国が占領、自由フランスのドゴール将軍は両国に完全な独立を約束、英国もそれを保障
レバノンでは、1943年に新議会が発足し大統領を選任したが、フランス当局が独立の承認を拒否、委任統治の支配権を放そうとしなかったために、独立はさらに3年延ばされる
シリアでは、自由フランス当局が、フランスの利益が確保できるような新しい協定が締結されるまで独立を認めないと宣言していたため、独立の動きは鈍句、45年にようやく大々的な抵抗運動へと発展、46年フランスが敗北を認めてシリアから軍を撤退させる

第9章        パレスチナの災難とその影響
1944.1. パレスチナのユダヤ人過激派が英国に宣戦布告
第二次大戦後の英国には、パレスチナに残留するだけの兵力も決意もなく、設立間もない国連に解決を委ね、48年パレスチナから撤退
国連は、アメリカの支持もあって、パレスチナを3つのアラブ人居住区と3つのユダヤ人居住区に分割、エルサレムを国際信託統治下に置くという案を可決する
現地アラブ人は、全土の94%と耕作可能な土地の80%を所有しており、分割にもユダヤ人国家建設にもしつこく反対を続ける
英国軍の撤退とともに、周辺アラブ諸国の軍隊が攻め込み、第1次アラブ・イスラエル戦争開始 ⇒ アラブ諸国は、お互い同士の戦いのためにパレスチナに入ったため、ユダヤ人の敵ではなかった。トランスヨルダンがパレスチナのアラブ人地区を吸収合併しようと狙っていたため、他の国はその牽制により多くの力を注いだ
パレスチナの災難はアラブ政界に恐ろしい影響を与えた ⇒ 新たに独立したアラブ諸国の希望や抱負は48年の失敗で影が薄くなり、アラブ世界は多くの政治的大変動を目撃。パレスチナ委任統治領と国境を接する4つの国々は、政治がらみの暗殺、クーデター、革命で苦しめられる
パレスチナの災難は、本当の意味でアラブ世界におけるヨーロッパの影響に終止符を打つ
49年のシリア、52年のエジプト、58年のイラクで権力を握った若手将校達は、英仏とは何の繋がりもなく、代わりに新世界勢力であるアメリカとソヴィエトを当てにした ⇒ 帝国主義の終焉であり、「冷戦」という新しい時代の始まり

第10章     アラブ・ナショナリズムの台頭
第二次大戦直後の漠然としたイデオロギーは、アラブ・ナショナリズムで、植民地支配からの解放のみならず、アラブ世界が共通の言語、歴史、イスラームの教えに基づく文化によって結ばれていると信じていて、アラブ人同士の絆を基盤とした新しい連邦をの樹立を目指す
エジプトが最前線 ⇒ 1950年政権に就いたワフド党が英国と独立を求めて交渉開始、決裂により「ムスリム同胞団」のメンバーを中心に「フィダーイーン」(自分自身を犠牲にする覚悟の戦士たちの意)というゲリラ部隊によりスエズ運河を守る英国軍に敵対、52年には全土のゼネストに発展(「暗黒の土曜日」)。カイロ炎上の緊急事態を制圧したのはエジプト陸軍のナセル大佐率いる「自由将校団」で、52年無血クーデターにより王政を打倒。自由将校団は、全員エジプトの農村部生まれで、平均年齢34歳、兵役を通して責任ある地位に就く
人民政府の誕生で国の雰囲気がすっかり変化、明るく開放的に
ナセルは、アメリカの仲介で、英国の完全撤退交渉に入り、56年撤退完了 ⇒ 撤退条件が生ぬるいとして過激派の反発を食らうが、狙撃をかわしたことで英雄視され、以後70年の死去まで大統領とアラブ世界の総司令官を務める。空前絶後のアラブ人リーダー
エジプトの次のターゲットはイスラエルとの未処理事業 ⇒ スエズの英国軍撤退で両国は直接対峙するようになり緊張が増す。55年イスラエルのベングリオン首相が、エジプトに唯一委任統治地区として残されていたガザ地区のエジプト軍を攻撃
2次大戦でアメリカ軍が北アフリカのヴィシー政権を撃退した後、ローズヴェルト大統領は植民地制度の破綻を預言、北アフリカ各国のナショナリストを勇気づけ、相次いで独立を勝ち取っていく
ナセルは、中東での対ソ勢力の結集を狙うアメリカの武器提供を拒絶、中国経由ソヴィエトに接近、武器取引の重要性が中東における勢力均衡を劇的に変える ⇒ ソヴィエトの武器提供により、アメリカはエジプトに政策の転換を迫る決意をする
英仏はイスラエルと共同でエジプトに侵攻 ⇒ 「スエズ危機/三国侵攻」とよばれ、56年のスエズ国有化宣言を契機とする第2次中東戦争。ナセルによる国内開発計画の中核となった「アスワン・ハイ・ダム」建設に英米は資金援助を約束したが、途中で中止したため、ナセルはスエズ運河の収益を充当しようとして運河の国有化を宣言
英仏イスラエルの攻撃に対しアメリカは激怒、直前に起こった鉄のカーテン内で初めて成功したハンガリー動乱を機にソヴィエトを封じ込めようとしていたところだったため、余計な口実をソヴィエトに与えるものとなったためで、英仏に対し即時停戦の圧力をかける
国連平和維持軍が代わってスエズを管理 ⇒ エジプトにとって、軍事的敗北を政治的勝利に変えた典型例であり、逆にイスラエルはアラブ世界にとって受け入れを一段と難しくした
1958年、シリアがエジプトと統合、「アラブ連邦(連合?)共和国」を構成
ヨルダンの国王も、英国から距離を置こうとして、同じハーシム君主国のイラクと統合し、「アラブ連合」を作るが、イラクが英国寄りだったため、国内で抵抗に遭う
イラクでは1958年「自由将校団」が武力クーデターで君主制を打倒。孤立したヨルダンは米英に頼る
西寄りだったレバノンでは、「国民戦線」が結成され、アメリカに頼った王制に反旗を翻す
イラクのアラブ連合共和国への不参加が重要な分かれ道となり、異なった文化的背景を持つエジプトとシリアの混成国家は成功しそうもなかった ⇒ アラブ・ナショナリズムは峠を越え、ナセルは成功の頂点に達しながら60年代の10年に亘る挫折と敗北に悩まされる

第11章     アラブ・ナショナリズムの衰退
1961年、シリアとの統合解消 ⇒ シリア人の50%は自分が国家の指導者であると考え、25%が自分は預言者だと言い、10%が自分が神だと思い込んでいる(御し難い国民性)
1967年、第3次中東戦争(6日戦争/6月戦争」) ⇒ アラブの広大な領土が占領され、パレスチナ解放を断念するが、アラブ政界の急進的新時代の到来を告げるものとなる。
1960年のアラブ世界の希望は、70年頃までには幻滅と諦めに似た不信感に変わりつつあった ⇒ 親西欧ブロックと親ソヴィエト・ブロックに分裂し、アラブ・イスラエル戦争は米ソの代理戦争の観を呈したが、アラブ人にとっては相も変らぬ「分割統治」の一形態のように感じられた
1967年の戦争は、アメリカの中東における立場を全く変えた ⇒ ジョンソン政権の決断により始まったイスラエルとの特別な関係が、アラブのアメリカに対する反感を生むようになったのはこの時から
パレスチナ人武装闘争の創始者たちが最初の会合を持ったのは1950年代初めのカイロで、アラファト主導により「ファタハ」を設立、アラブ諸国がパレスチナ支配のために設立したPLOを乗っ取ってパレスチナ人を代表する組織となる。ファタハに反対するグループは「人民戦線」を作って別個に過激な行動に出る
1970年になるとアラブ世界は、自国の利益を保持するタイプの別個の国々にはっきり分かれていく

第12章     石油の時代
アラブ世界で最初に石油が発見されたのは、1920年代後半から30年代前半にかけて
イラクを例外として、人口密度の低い国で大量に発見
1970年代になって、漸く石油がアラブ世界の力の源泉になる一方で、地域全体の安定にとって石油はほとんど役に立たず
59年、ソヴィエト石油の過剰供給から石油価格が10%下がり、アラブ石油生産者たちに衝撃を与え、アラブ諸国が初めて集団行動志向に協力的となる
1971年、英国保護領9か国のうちバーレーンとカタールが独立、残る7か国がアラブ首長国連邦を作り、全ての湾岸諸国が英国保護領から完全独立を達成
56年アルジェリア、59年リビアで商業ベースに乗る石油埋蔵量発見
73年 第4次中東戦争 ⇒ シリアとエジプトがイスラエルへの奇襲攻撃開始。米ソがそれぞれ支援。アラブ産油国は欧米諸国が彼等に依存していることを知って強気になっており、石油価格を挙げればイスラエルを支持している彼等を罰することができると考え、初めて一方的に17%の値上げを通告(取引価格は$2.29/bbl$5.11:70%アップ?)するとともに、石油生産削減と禁輸措置を発表、イスラエルが第3次戦争で占領した地域から完全撤退するまで毎月削減を維持するとした
ニクソンはそれでもイスラエルに追加武器援助をしたため、アラブ産油国は減産と禁輸を徹底、石油の取引価格は$11.65まで高騰
イスラエルが攻勢に出てエジプト軍を包囲したため、米ソの緊張が高まり、ソヴィエトの核兵器使用を恐れたアメリカは共同外交に同調、国連の仲介で休戦協議に入る ⇒ キッシンジャーの仲介で、イスラエルとエジプト・シリアそれぞれ2国間で協定が出来、両国間に国連監視の緩衝地帯を作ることで、石油禁輸解禁
74年、アラファトは国連でパレスチナ人の国家樹立を求める演説をするが、裏では彼も2国家解決案に妥協を示す

第13章     イスラーム勢力の台頭
1981年、エジプトでサダト大統領がイスラーム主義者によって暗殺
イスラーム主義者は、コーランに由来する「イスラーム聖法」として知られるイスラーム神学者の法的知識に従って統治されるべきとして、人間が作った法を重視する世俗政権を批判、今日に比べて欧米の影響が色濃く社会を覆っていた時代が批判の対象に
イスラームと近代性を巡る議論は、アラブ世界に深く根付いている
1928年、ハサン・バンナーは「ムスリム同胞団」を設立、エジプトにおける欧米の影響や、イスラーム的価値観の衰退と戦い始める ⇒ 48年、54年と二度にわたりエジプト政府によって非合法化され、アラブ全土で地下活動に追いやられる
79年、イランでイスラーム革命成功 ⇒ アメリカとの関係悪化
80年、イラン・イラク戦争の勃発で、「イスラーム共和国」とアメリカとの対立はさらに悪化。8年間戦闘が続き、アメリカはソ連の支持するイラクを公然と支援
83年、「イスラム聖戦」と名乗る過激派がベイルートでアメリカ海兵隊とフランス空挺部隊に対し大規模な自爆テロ実行、362人死亡
87年、ガザ地区のパレスチナ人が、イスラエル軍による殺傷事件を契機に暴動を起こす ⇒ 「インティファーダ」(蜂起と塵払いを意味するアラビア語)が独立運動に転化
レバノンのシーア派民兵組織の「ヒズボラ」も、イスラエルとアメリカを仇として攻撃
イスラーム主義的価値観がアラブ社会に広がり、イスラームの復活が勢いを増し、今日まで続くようになって、世俗的文化は後退
89年、ベルリンの壁崩壊による冷戦の確率の急速な減退をまえに、イスラーム主義者は大国ソヴィエトの崩壊は無信仰者の共産主義の破綻の証拠であり、新しいイスラーム時代の到来を告げるさきがけと解釈したが、残るアメリカによる一極支配の世界に直面

第14章     冷戦以後
モロッコ、ヨルダン、サウジ、湾岸諸国は欧米諸国を信頼していたが、シリア、イラク、リビア、アルジェリアの左寄りの国は動揺
90年のイラクによるクウェート侵攻は、冷戦後の最初の危機 ⇒ 石油価格下落に伴う財政収支の悪化と、経済的苦境に伴う国内の不満をかわすために隣国を攻撃
ソヴィエト・アメリカ協調の新時代の幕開けとなり、初めて安保理事会が冷戦の駆け引きに弄ばれることなく決定的な措置を取ることが出来た ⇒ 経済制裁に続く軍事介入
一方アラブ社会では、これまでになく分裂が進み、指導者間に深い亀裂が生じる
パレスチナ・イスラエル交渉の進展は、イスラエルの政策の変化から始まる ⇒ イスラエルが、パレスチナとの交渉決着が国家利益になると確信して、直接交渉に乗り出す。場所を提供したのはノルウェー。93年に両者の交渉開始、8か月で、イスラエルとPLOがガザとエリコにおけるパレスチナによる暫定自治を認める協定を締結(「オスロ合意」)
エルサレムの将来や、国境と治安等に関しては3年目から始まる最終的地位交渉に委ね等得ることとして先送り
「オスロ合意」により、他のアラブ諸国もユダヤ国家に対し自国の利益を追求する自由があると感じ、アラブ・イスラエル紛争にうんざりしていた国々は、実利的に考えた
新しい現実に最初に反応を示したのはヨルダン ⇒ 94年にはイスラエルとの直接交渉により関係正常化に合意、大使を交換
モロッコ(94)、チュニジア(96)、モーリタニア(99)、オマーン、カタール(96)と続く
イスラエルとパレスチナ占領地では強い反発が起き、「ハマス」「イスラーム聖戦」らによる暴力行為が頻発した ⇒ 合意の立役者の1人であるイスラエルの首相ラビンのイスラエル人過激派による殺害で、オスロ合意が危うくなる
後継のネタニヤフ首相は、平和と土地の交換の原則には一貫して反対し、パレスチナ人の信頼を崩壊させたが、腐敗のスキャンダルで辞任、後を継いだバラクはレバノンから撤兵を実行、PLOとも交渉を再開するが信頼は戻らず
2000年、第2次「インティファーダ」に発展、イスラエルも好戦的なシャロン首相の誕生で一触即発状態が加速
2000年の選挙でブッシュがゴアを僅差で破った時、アラブ世界は好意的に受け止めた ⇒ 民主党がユダヤ人のリーバーマンを副大統領候補に選んだため、テキサスの石油商であるブッシュのほうがよりアラブ世界に近いと見たが、就任当初ブッシュの最大の関心事は中国で、中東にはほとんど何の関心も持っておらず、クリントンのイラク封じ込め政策を継承、さらに情報当局からビン・ラディンのネットワークによる「恐るべき脅威が迫っている」との警告にも反応を示さなかった
911によって、現代史上最大の中東におけるアメリカ関与の時代が始まり、それはアラブ現代史上初めての緊張感の高い時期であることがやがて判明する

エピローグ
「アル・カイーダ」の目的は、アメリカをムスリム社会から追い出し、ムスリム世界の欧米友好政権をイスラーム国家に変えること
アラブとアメリカを引き離したのと同じプレッシャーがイスラエルとアメリカを引き寄せた。アメリカがよりイスラエル寄りになるほど、アメリカとアラブ世界の緊張が高まった
イスラエルは、過激化する第2次「インティファーダ」ほかに対し断固として立ち向かい、ヨルダン川西岸の再占領を行い、パレスチナ人との緊張関係を悪化
民主主義の拡大は、アメリカのテロとの戦いに繰り返し登場するテーマだったが、アラブ世界の実情を考えれば殆ど根拠がなかった
03年、中東カルテットとして知られる協調4団体(米ロ、EU、国連)による中東和平へのロードマップ発表 ⇒ イスラエル・パレスチナ紛争の2国家解決法、05年末までの紛争終焉を目論んだが、イスラエルの消極的な態度が、イスラーム主義レジスタンスの「ハマス」の手に主導権を移行させた
04年、アラファトの死で、アッバースが後継として選出されたが、05年イスラエルがガザ地区から撤退した後の国際監視団の下での選挙では「ハマス」が多数を取り、「ロードマップ」を公然と拒否
「ハマス」にしてもレバノンの「ヒズボラ」にしても、ムスリムの土地を解放するためにイスラエルと戦うのは宗教的義務のようなものと考えた ⇒ 両者のイスラエルの攻撃により、逆にイスラエルのパレスチナとレバノンへの反撃で不釣り合いな損害を被ったが、イスラエルがテロ組織と戦っている限りアメリカは介入する口実が無かった
オバマの登場で、新政策を明確に打ち出す ⇒ お互いを尊重し、支配大国がルールを押し付けるのではなく、共通の解決を求めようとする建設的な関わりを強調。外国政府による改革には限界があることを歴史が証明
今日のアラブ世界に前向きの変化を期待できる根拠はある ⇒ 0206年アラブ知識人の一団が抜本的な改革行動計画について協調行動をとり、「アラブ人間開発報告」を起草
   アラブ世界でよしとされる政府の欠如
   知識の欠如 ⇒ 教育制度の遅れからアラブの若者がグローバルな市場で不利に直面
   女性の能力の欠如
アラブ世界がほかの人々の支配に従属するサイクルを破るためには、その時代の超大国とのバランスのとれた関わり合いが必要であるとともに、アラブ世界自身の内部からの改革の義務を果たす必要がある。紛争解決と政治改革によってなすべきことがたくさんある

追記――「アラブの春」から1
中東現代史で最悪の10年が終わろうとする2011年、アメリカがウサマ・ビン・ラディンを殺害、イラクから最後の部隊が撤退して、「テロとの戦い」と「イラク戦争」が終了
同時にアラブ全土で怒涛のような民衆デモが起こり、独裁的支配者たちを失脚させ、アラブ世界は人間的権利と政治的権利を求める市民活動ができる新時代に入り、この地に誇りと目的の共有という新たな感覚を醸成
アラブ世界を特徴付けているのはその若年人口 ⇒ 53%が24歳以下だが、アラブ諸政権は自国の若者たちに必要なものを供給できていない。世界で最も高い失業率、貧富の格差拡大、抑圧的な支配体制等
チュニジアとエジプトの革命の余波で、アラブ世界は近代には前例のない政治的動乱の時代に入る ⇒ SNSを通じてリビア、イエメン、バーレーン、シリアに波及(バーレーンとシリアでは挫折)
アラブ世界での自由で公正な選挙は、イスラーム主義者政党に圧倒的な支持を与え、2011年の革命をリードした人たちによって形成された新しいリベラルな世俗主義政党の多くをがっかりさせ、アラブ世界の民主主義運動はイランをモデルにしたイスラーム共和国へと進むのではないかと恐れる欧米諸政権の懸念を現実のものとした
欧米の不安には根拠がないように思われる ⇒ イスラーム主義者の勝利は、宗教的な熱意というより、政治的な現実を反映しており、正直で腐敗していない政権を選んだというのが民意
201111月には、イエメンの人権活動家が「イエメンにおける女性の権利と民主主義と平和を求める闘争に指導的役割を果たした」として3人の女性ノーベル平和賞受賞者の1人に選ばれた
EUはアラブ全土から5人の活動家を選んでサハロフ賞を贈る(「送る」はミスプリ?)
年末の『タイム』誌は、その年の諸事件に最も大きな影響を与えた個人を顕彰して、「今年の時の人」を「抗議する人」とした ⇒ 「抗議する人」は2011年の世界規模の現象だったが、その源は「アラブの春」にある。ジプチ、ルワンダ、ブルキナファソ、スワジランド、スペイン、イスラエル、インド、チリもアラブ市民の行動力に触発されたデモに直面、「ウォール・ストリート占拠運動」も直接影響を受けたもの
アラブ人が革命元年を乗り越えて行くにつれ、国内では新たな自由を、国外では大きな誇りを切望するようになり、それが21世紀の急速に変わりつつある世界を形作っていくことになるであろう







アラブ500年史(上・下) ユージン・ローガン著 西欧のルールで動く不条理を分析 

日本経済新聞朝刊2014年1月5日付
 シリアをあけすけに批判して爆殺されたレバノン人作家のサミル・カッシルは、アラブ人を「世界規模のチェス盤の上のつまらない歩兵にすぎない」という無力感に襲われていると述べた。しかし2011年のアラブの春は、そのストレスを拭いさろうとする試みである。子供時代をベイルートとカイロで過ごした著者は、西欧社会が感覚的にもつ中東とアラブへの先入観を払拭するために、アラビア語やトルコ語による現地史料を使いながら、アラブ世界のゲームが西欧のルールで動いてきた歴史的不条理を批判的に分析した。
(白須英子訳、白水社・各3300円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(白須英子訳、白水社・各3300円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 著者は、これまでサダム・フセインやカダフィーのような独裁者から自力で脱却できない一方、勝手気ままに中東で利益を追求してきた欧米の力への怒りと不甲斐(ふがい)なさからストレスに陥ってきたアラブの民衆と近代史の構造を描いている。アラブ人の心にいかに絶望感が突き刺さっているかについて同情を隠さないのは好ましい。それでいて、近代をオスマン帝国支配期、ヨーロッパ植民地期、冷戦期、アメリカ支配とグローバル化時代の四つに分けて冷静な分析を怠らないのが魅力的である。
 著者の分析に手がかりを与えたのは、アラブが繁栄と偉大さを達成するか、そうしようとしていた時期が二つあったというカッシルの指摘であろう。その第1は、広大なイスラーム帝国が成立した7世紀から12世紀までの時代である。第2は、19世紀に始まる文芸・思想のルネサンスであり、これはアラビア語でナフダ(覚醒)と呼ばれる。映画産業から劇作や音楽や美術に及ぶ実り豊かな成果を収めたものだった。
 著者は、エジプト人の女性解放運動家フダ・シャーラウィが特権階級の女性から脱皮し、保守的な夫の思想を変えながら、民族運動とフェミニズム運動を結びつける過程を子細に描いている。エリートと労働者階級の女性の敷居を取り払い、エジプト国民としての同一性を獲得する歴史を分析できたのは、著者が市民の日常生活や慣習を理解する視点をもつからだろう。北アフリカから東アラブの世界にまたがる歴史をとにかく叙述した力量は凡ではない。
(明治大学特任教授 山内昌之)


白水社
16世紀のオスマン帝国によるアラブ世界征服から、英仏を中心としたヨーロッパ植民地時代、パレスチナの災難までを、気鋭の歴史家が鮮やかに描き出す。

「アラブの近代史には、人類社会の喜怒哀楽が凝縮されている。だがその生の声を、私たちは知らない。当事者の記録を紡いだ、血湧き肉躍るアラブの歴史書。」酒井啓子氏推薦

アラブ人は長い間、その時々の支配的な勢力が設定したルールによる新時代と折り合いをつけながら暮らしてきた。その意味では、近代アラブ史は、アラブ人が初めて外部勢力に支配されるようになった16世紀のオスマン帝国のアラブ世界征服から始まると言ってよい。(500年にわたって他国民の支配にもてあそばれたあと、アラブ人は今、イスラーム勃興以後、最初の500年間に味わったのと同じように、自分たち自身の運命の支配権を得ようという意欲に燃えている。2011年の「アラブの春」革命まで、アラブ人の大半は、そのような自分たち自身の運命の支配権など、到底手の届かないところにあると思っていたであろう。(「はじめに」より)

→酒井啓子氏特別寄稿「アラブの束の間の夢を紡ぐ」

中東近現代史の決定版
2010
年末、チュニジアで始まった「ジャスミン革命」の波はその後、中東各地に拡大した。先行きはなかなか見通せないが、本書は、オスマン帝国統治期までさかのぼり、英仏による植民地支配から二つの世界大戦を経てポスト冷戦にいたる、五世紀におよぶアラブの歴史を丁寧にたどって、「アラブ革命」の淵源を示す。
本書の特徴は、イスラーム対キリスト教、西欧列強対被植民地といった対立軸を設けて論じるのではなく、歴史上の出来事に対してアラブ側がどのように受け止め、反応したのか、数百年前の王朝の記録のほか、ジャーナリストや小説家らの寄稿・会見記、外交官の日誌、床屋談義など、アラブ地域に暮らす有名無名の人びとが残した資料や証言を駆使して書かれている点だ。
著者はオクスフォード大学中東センター所長を務める気鋭の中東史研究者。本書は英米のメディア・学界を中心に称賛を集め、すでに八つの言語に翻訳されている。


讀賣 2013.11.25.
『アラブ500年史 上・下』 ユージン・ローガン著
評・杉山正明(ユーラシア史家・京都大教授)
混沌の中東、巨細に描く
 とにかく大変な著作である。上下2冊、それぞれが400ページを軽々とこえる。
 ひととおり通読するだけでも2日を要した。そして読み終えて、いささか疲れた。それくらい、手ごたえはありすぎるほどにある。このところ、シリア問題が奇妙な棚上げ状態にあるなか、いわゆる中東なる語で括られる大地域の変転に満ちた歩みを巨細に辿る本書は、まことに有益である。
 著者はオクスフォード大学セント・アントニー・カレッジ中東センター所長。アラブ近現代史を専攻する英才である。ケンブリッジ大学出版部の「現代中東シリーズ」の編集者も務める。読者は本書を信頼して読みすすめれば、混沌たる中東の過去と現在を確実なかたちで眺め渡すことができる。そしてかの「アラブの春」に始まる中東変動の今後の行方を考えるうえでも、有益な手掛かりをさまざまに与えてくれる。
 ひるがえって、13世紀後半、史上空前のモンゴル世界帝国が出現したころ、「ダール・アル・イスラーム」、すなわち「イスラーム世界」の辺境といっていい西部アナトリアで形成された戦士集団は、やがてオスマン帝国として成長し、ビザンツやエジプトのマムルーク朝を倒して聖地メッカとメディナをおさえ、スンナ派イスラームの超大国として君臨することになった。事柄はそこから始まったといっていいかもしれない。
 著者はアラブ人の歴史を、近代におけるその時々の優勢な支配勢力というプリズムを通して、オスマン帝国時代、ヨーロッパ植民地時代、冷戦時代、そして現今のアメリカ支配とグローバル化時代という、四つの時代に分けて考える。そして、多様な支配勢力や独立をめぐる諸運動の軌跡を実に冷静に分析・叙述する。
 その上で、アラブ人たちは決して受動的な人間でなく、むしろその歴史は驚くほどダイナミックだったとする。英仏を争わせ、ソ連と米国を張り合わせたのも一例とする。納得させられる点は多い。白須英子訳。
 ◇Eugene Rogan=アラブ近現代史が専門の歴史家。子供時代をベイルートとカイロで過ごし、現在は英国在住。
 白水社 各3300円




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