ボールピープル  近藤篤  2014.3.8.

2014.3.8. ボールピープル

著者 近藤篤 1963年今治市生まれ。上智大外国語学部スペイン語科卒。86年中南米に渡り、ブエノスアイレスにて写真を撮り始める。94年帰国。スポーツ・グラフィック・ナンバーを中心に、サッカー写真、人物ポートレイト、紀行ものなどを発表

発行日           2013.5.30. 第1刷発行
発行所           文藝春秋社

この星は人とボールでできている
なぜそこでボールを蹴らなければならないのか。狭い路地裏で、埠頭の先端で、砂漠の真ん中で
カトマンズの東のはずれにあるヒンドゥ教の町では、原っぱでバスケットボールを蹴る少年たちがいる
ブラジル人は毎日朝から晩までサッカーをやっている
なぜブラジルはサッカーが強いのか。単に貧しいからだけではなく、半端じゃない人間が、半端じゃない意気込みで、毎日ボールを蹴っているから。ビーチッカーも足腰を鍛えるには最高
866月、メキシコのW杯で、日本のスポーツ新聞の特派員の仕事を手に入れメキシコに行く
89年、サンティアゴにある代表チームの練習グラウンドで撮った1枚の写真。レオン・アステンゴが芝生に横たわって愛娘を抱きしめている。彼はブラジルの強豪グレミオのディフェンダーで、南米屈指のセンターバック。撮った直後、チリ代表はリオのマラカナンで90W杯予選最終戦に臨む。ブラジルとの試合で勝てば予選突破、2年前には勝った実績もあるが、前半10でリードされた後半の15分、スタンドからベンガラと呼ばれる花火が打ち上げられ、チリのゴールを守っていたロベルト・ロハスの傍らに落ちる。その瞬間ロハスは突然ピッチ上に倒れ頭を覆って悶絶、顔面血だらけのロハスをチリの選手たちがピッチから運び出しロッカールームへと続くトンネルに消える。そのまま5時間ほど過ごした後、飛行機で帰国。ゲーム終了後1人のカメラマンの撮った写真が、花火が落下したのはロハスの後方2m辺りで、ロハスのどこにも当たっていなかったことを証明
すべてはロハスの演技で、手袋の中に忍ばせた剃刀で自ら傷つけることにより、中立地における再試合か、ブラジルが勝ち点を剥奪されることを狙っていた
FIFAは原発を下し、ロハスは永久追放、チリは94年大会への参加資格を剥奪、副キャプテンだったアステンゴはチリ代表をグラウンドから引き上げるよう指示した責任を問われ5年間の選手資格停止、試合の結果はチリの試合放棄により、20でブラジルの勝利
真相は結局わからず仕舞。花火を打ち上げたのは24歳の女性、一時共犯の嫌疑で警察に拘束されたが無罪放免、その後ブラジル版『プレイボーイ』誌にさして美しくはない裸体を披露し何千ドルかを稼いだ
20年後、その写真を手にアステンゴと再会。花火が落ちた時の現場は直接見ていないが、通路で選手一人一人にこのまま試合放棄をしていいのか確認し、1人を除いてそれでいいということだった。ロハスのポルトガル語の通訳として警察に呼ばれた時、刈り込まれたロハスの頭に真っ直ぐな切り傷が4カ所あり、花火の傷にしてはおかしいと思った。ロハスの単独犯行ということで決着したが、背後で何が起こったのか真実は誰も知らない
瀬戸貴幸は、中学まで名古屋FC、高校は熱田でFWやハーフでプレー、県大会ベスト4が最高の成績。高卒後兄に倣ってブラジルにサッカー留学、コリンチャンスのユースに練習生として参加したこともある。1年半で挫折、08年帰国。直後にルーマニアの3部リーグでプロのチャンスがあるといわれて練習に参加、無事採用されるが、月給は250ユーロ、ホームでの勝利給が100、アウェーが250。厳しい練習を繰り返しながら、チームは2部から1部まで昇格、瀬戸は中心選手となり、MFとして年間ベストイレブンにも選ばれる。1部での成績は冴えず、監督も選手も多数入れ替わったが、瀬戸は監督にも信頼され、チームキャプテンとなって出場し続ける。1213年シーズン、昇格以降初めて2位につけ、強豪に勝った時にオーナーが今日の勝利給は4,000ユーロと言ったが、シーズン終了時9位以内でなければ全額返済という条件付きだった。Jリーグでも十分通用するだろうが、彼の目標はチャンピオンズ・リーグ。やってできないことはないと思える
審判も人の子だが、サポーターも人の子。いつも自分が正しいと思っているからサッカーは面白い。そして自分が正しいと思っていることの半分はいつも間違っている。だからサッカーはやめられない

この本を作り始めたのは2年半ほど前。作りたかったのは、自分の好きな写真がふんだんに使われていて、始まりも終わりも起承転結もなくうざいメッセージや小難しい理屈は抜きで、全てが渾然一体となっていて、どのページからでも読み始められ、でもそう簡単には読み切れず、なんだかよく分けがわからないけど、読み終わると何かが分かったような気になって、そして何よりも、今までこんなサッカーの本はなかったね、と言われるような本だった
サッカーのことをあまり知らない人には理解できない表現や専門用語も多少は載っているけれど、出来ればそういう人にもこの本を手に取ってもらって、いい気分で土曜日の午後を過ごしてもらえれば、とても嬉しい




フォトエッセイ集『ボールピープル』が第1回サッカー本大賞に輝く!!
220日(木)、出版社カンゼンが主催する「第1回サッカー本大賞」の授賞式が東京都・神田明神・明神会館にて行われた。ワールドカップブラジル大会が開催される今年、サッカーという競技の楽しさ、奥深さを伝える優れた書籍を選ぶべく、新たに創設された「サッカー本大賞」。今回は、2013年に刊行されたサッカー本の中で8作品が優秀賞として表彰され、その中から「サッカー本大賞」「翻訳サッカー本大賞」「読者賞」という3つの特別賞が発表された。
サッカーを読むことでさらに広がる豊かな世界
フォトエッセイ集『ボールピープル』が“第1回サッカー本大賞”に輝く!!
「サッカー本大賞」と「読者賞」の2冠を受賞した著者の近藤篤氏[]と、「翻訳サッカー本大賞」を受賞した田邊雅之氏[]【写真:松岡健三郎】
 本日17時から神田明神・明神会館にて行われた授賞式では、初めに選考委員長を務める佐山一郎氏より、今回ノミネートされた8作品の優秀作品に賞状が授与された。その後、いよいよ「サッカー本大賞」「翻訳サッカー本大賞」「読者賞」の発表へ……
 最初に発表されたのは、2013年に出版された本の中で最も多くの手に取られたであろう「読者賞」。フットボールチャンネルでの投票数で最も多かった書籍に決定するこの賞に輝いたのは、美しい写真が織りなすフォトエッセイ集『ボールピープル』(近藤篤 著、文藝春秋)。
 続く「翻訳サッカー本大賞」には、『理想のために戦うイングランド、現実のために戦うイタリア、そしてイタリア人と共に戦う日本人』(ジャンルカ・ヴィアリ、ガブリエル・マルコッティ 著/田邊雅之 監修、学研教育出版)が選出された。
 最後には、「サッカー本大賞」が発表され、「読者賞」に続き、『ボールピープル』が第1回目のサッカー本大賞に輝いた。「サッカー本大賞」と「読者賞」の2冠を授賞した著者の近藤篤氏には、賞金とトロフィーが授与された。

サッカー本大賞2014 受賞作


フォトエッセイ集『ボールピープル』が“第1回サッカー本大賞”に輝く!!
サッカー本大賞、読者賞とW受賞した『ボールピープル』(近藤篤 著、文藝春秋)[]
翻訳サッカー本大賞に輝いた『理想のために戦うイングランド、現実のために戦うイタリア、そしてイタリア人と共に戦う日本人』(ジャンルカ・ヴィアリ、ガブリエル・マルコッティ 著/田邊雅之 監修、学研教育出版)[]
サッカー本大賞
『ボールピープル』(近藤篤 著、文藝春秋)
翻訳サッカー本大賞
『理想のために戦うイングランド、現実のために戦うイタリア、そしてイタリア人と共に戦う日本人』(ジャンルカ・ヴィアリ、ガブリエル・マルコッティ 著/田邊雅之 監修、学研教育出版)
読者賞
『ボールピープル』(近藤篤 著、文藝春秋)
優秀作品
『ボールピープル』(近藤篤 著、文藝春秋)
『ザ・シークレット・フットボーラー』(ザ・シークレット・フットボーラー著/澤山大輔 訳、東邦出版)
『理想のために戦うイングランド、現実のために戦うイタリア、そしてイタリア人と共に戦う日本人』(ジャンルカ・ヴィアリ、ガブリエル・マルコッティ 著/田邊雅之 監修、学研教育出版)
『夢想するサッカー狂の書斎 ぼくの採点表から』(佐山一郎著、カンゼン)
『ビエルサの狂気 知られざる戦術マニアの素顔』(ジョン リバス 著/今井健策 訳)
『フットボールde国歌大合唱!』(いとうやまね 著、東邦出版)
『日本サッカーに捧げた両足 真実のJリーグ創世記』(木之本興三 著、ヨシモトブックス)
『セレッソ・アイデンティティ 育成型クラブが歩んできた20年』(横井素子 著、幻冬舎)
【選考委員】
選考委員長:佐山一郎(作家/編集者)
選考委員:幅 允孝(ブックディレクター)、速水健朗(ライター/編集者)、大武ユキ(漫画家)
【協賛】
双葉社、白水社

[ボールピープル]
カメラ片手に世界中を巡るフォトジャーナリストの近藤篤氏。
今回は氏の最新刊となる『ボールピープル』の発売を記念して、コンフェデレーションズ杯の紀行エッセイを発表することとなりました。

2013.6.14.
中東で交わした日本代表論とリオデジャネイロの空港の匂い。~写真家・近藤篤、世界を往く~
[ボールピープル]

中東で交わした日本代表論とリオデジャネイロの空港の匂い。~写真家・近藤篤、世界を往く~

複数の外国語を完璧に使いこなし、大都会から辺境の地、セレブリティな生活からスラムのど真ん中まで、世界のあらゆる場所でフットボールのある風景を撮り続けてきた近藤氏。2014年ワールドカップ開催の地ブラジルで、果たして氏は何を見出すのでしょうか?
 アンマンで行われたヨルダンとの試合後だった。
 試合は12でヨルダンの勝利に終わった。
 スタジアムからの帰り道で、けっこうな数のヨルダン人から、「Jordan! Jordan!」とこちらの鼻先50センチほど向こうで連呼された。中には、ザッケローニが相手チームの選手からされたように、親指で喉を掻き切るゼスチャーを見せる若者もいた。
 ホテルに戻ると、試合前はニコニコと笑っていたホテルの清掃係のボスが、ニヤニヤと笑いながら「ヨルダン、ツー! ジャパン、ワーン!」と大きな声で話しかけてきた。
 オヤジはその日の朝、どう転んでもヨルダンが日本に勝てるわけがない、だってこの前は06だよ! 引き分けられたらグッドラックだ、とものすごく弱気なことを言っていた。
 ところがである。
 ヨルダン人は、日本が負けるまで僕にとってはもの静かで親切な人々だったが、勝ったとたんに横柄になった。そういう人たちはこれまであまり見たことがなかったので、ちょっと困惑した。
 アルゼンチン人がいるじゃないかって? 
 いやいや、彼らは試合前から横柄で、勝っても負けても横柄なだけだ。

日本代表はアジアで「圧倒的に強い」のか?

 ドーハでのイラク戦が終わって、日本代表のブラジルW杯アジア最終予選はすべて終了した。
 最終予選8試合の全てを消化して、ザックジャパンが残したのは、勝ち点17、得失点差は+11という数字だ。ザッケローニ監督は、イラク戦後に「圧倒的な強さを見せられた」とコメントしたという。
 
 圧倒的……? 
 たしかに数字上は圧倒的に強く見える。だが、カメラマンとしてピッチのそばで撮っていて、圧倒的強さを感じたことはほとんどなかった。仕事仲間の口からも、今回の日本代表はものすごく強いよね、という意見を聞いたことがない。
 むしろ、相手チームのダメさ、みたいなもののほうが相変わらず目についていた。たとえば、昨年11月に行われたマスカットでの試合。ホームのオマーンが先にバテてしまっていた。もっと走り込もうよ! と心の中で呟いた。
 グループ中で、オマーン、イラク、ヨルダンは世界基準外だろう。唯一世界基準すれすれのところにいるオーストラリアとの2試合は、いずれも押し切りかけて押し切れなかった試合だった。
 
 本田と長友が抜けると、日本代表の体幹は一気に弱くなる。もちろんその問題はザック本人が一番わかっているはずだ。だからこそ、記者会見で「本田不在で4敗しているが?」と質問をされると、決してそうではない、とムキになって答えるのだ。
 同情の余地はある。突出した選手の出来不出来に結果が左右されるのは、サッカーでは当たり前なのだから。
「だって、本田がいるのといないのじゃ大違いなんて、そんなの当たり前だろうが!」
 ザックの心の声が聞こえてくるようだ。
 それに、もし本田がいてもいなくてもいいサッカーができるのなら、本田を代表に呼ぶ必要もなくなってしまうし。
 とはいえ、20年前にドーハでイラクに引き分けてしまった頃に比べれば、日本代表はずいぶんと強くなった。スッポンだ。
 とんでもなく強くなったわけではないけれど、少なくともアジア圏においてはもうこれから先、「もしW杯出場を逃したら……」なんて心配することもなくなるだろう(出場枠も増えたことだし)。
 日本のサッカーファン、特に昔からのサッカー好きは弱かった時代のトラウマで、依然として自国のサッカーに懐疑的なところがある。アジアにおける強さに関しては、むしろ日本人よりも他国の人の方が正当に、あるいは過大に、評価してるのかもしれない。

「いやいや、エンドウがいるじゃないですか!」

 オマーンのマスカットで行われた試合前日のことだ。ホテルの前から乗ったタクシーの運転手はこう話を振ってきた。
「ダンナ、あんた日本の人だよね。明日の試合はどうなると思うかね?」
「いやー、今回はオマーンにもチャンスあるんじゃないの? だって香川と内田いないし」
「いやいや、ホンダがいるじゃないですか!」
「でも、本田そんなに調子良くなさそうだし」
「いやいや、エンドウがいるじゃないですか!」
 ちょっと補足しておくと、遠藤保仁のアジア諸国における知名度と評価はものすごく高い。ウズベキスタンでもそうだったし、カタールでもそうだったし、イエメンでもそうだった。意外とみなさん好みが玄人でいらっしゃる。
 
 運転手が、試合のスコアを予想しろというので、僕は外交辞令的な意味合いも込めて、22と答え、ついでに彼の予想も尋ねた。
――あんたはどう思うんだ?
21で日本の勝ち!」
 なんだか、今から30年前、日韓戦を前にした20歳の自分を見せられているようだった。

超満員のブラジルの巨大スタジアムで日本代表は躍動できるか?

 そんな最終予選での出来事を思い出しながら、水曜日の夜に成田を飛び立ち、途中ドバイの空港で4時間ほど免税店を眺め、26時間後にはリオデジャネイロに到着した。
 空港名は「アントニオ・カルロス・ジョビン空港」だ。ボサノバの父にして、あの有名な「イパネマの娘」の作曲者である。
 
 相変わらずこの空港に着くと、フルーツの腐乱したような、でもまったく不快ではない匂いと、人々が発する快活な性欲の(ような)匂いを感じる。ここで5時間トランジットして、第1戦の舞台ブラジリアに着くのは夜の9時過ぎ。そして二晩ぐっすり眠れば、いよいよコンフェデの開幕である。
 間違いなく超満員のスタジアム、それもブラジル人だらけのスタジアムで、日本人はブラジル人相手にどんな試合を見せられるのだろうか。
 ブロツワフ(04で完敗した地!)に続いて再びボコられるのか?
 それとも空気を読まないで大健闘し、大会初日から開催国にケチをつけてしまうのか?
 結果がどうであれ、この期待感はハンパじゃない。やはりサッカーは、世界で戦ってこそ、だ。



20130618
催涙スプレーと鈍かったセレソン――。ブラジルに負けて「がっかり」の贅沢。
[ボールピープル]

催涙スプレーと鈍かったセレソン――。ブラジルに負けて「がっかり」の贅沢。

連載第2回となる本稿では、コンフェデ杯の開幕戦となったブラジルvs.日本の試合前後の風景を、文字と写真で切り取ります。
日本ではブラジル戦での大敗ばかりがクローズアップされていましたが、現地では、実はこんなことが起こっていたのです――
 リオの空港で五時間ほど時間をつぶし、ブラジルvs.日本の試合が行われるブラジリアまでさらに2時間飛んだ。宿泊先のホテルに到着したとき、日本を発ってからもう1日半が過ぎていた。
 チェックインの用紙に必要事項を書き込んでいると、フロントマンが聞いてきた。
「コンフェデ?」
 そう、と答え、ペンを走らせながら聞いてみた。
「どっちが勝つと思う?」
 フロントマンは両腕を広げ、あきれたような表情を浮かべただけだった。
「おれたちが勝つよ!」
 ふざけてガッツポーズを見せながらそう言うと(もちろん5%くらいの本気は混入している)、彼は少しムッとして、ぼそっと口にした。
「絶対に、むり」

おれたちのチョキには、おまえのグーじゃ勝てないんだよ。

 ブラジリア到着の翌日、つまりブラジルとの試合前日の午後は、開幕戦に出場する2チームの監督記者会見と公式練習に足を運んだ。場所はナショナルスタジアム、来年のW杯にむけて新しく建てられたスタジアムだ。
 午後240分にスタートしたブラジル代表チーム監督ルイス・フェリペ・スコラーリの記者会見では、会場内のメディアの数があまりにも多すぎ、冒頭の5分が終わるとカメラマンは退場を命じられた。
 記者会見は30分ほど続き、その後にブラジル代表の練習が始まった。
 通常、試合前日の公式練習では、冒頭の15分が撮影のためにメディアに公開される。しかし、ブラジル代表は練習をすべて公開した。ウォーミングアップ、翌日の先発11人によるボールを使ったフォーメーション練習、フリーキック、コーナーキック。
 じゃんけんでチョキを出すふりしてパーを出す、というふうに、相手の偵察部隊をだます作戦なのだろうか。いや違う。そんなセコい話ではない。彼らは泣く子も黙るセレソンである。練習を見せるのは、おれたちのチョキには、おまえのグーじゃ勝てないんだよ、という絶対的な自信があるからだ。それに、練習を非公開にするなんて、ブラジルのメディアは絶対に許さない。
 スタジアムのスタンドでは、ヘルメット姿の作業員(スタジアム周りでは来年のW杯に向けた工事が依然行われている)が作業を中断し、つまりさぼって、セレソンの練習を眺めていた。
 
 いや、眺めていただけではない。
 シュート練習でミスを連発する先発チームのCF、フレッジにいら立ち、数人がゴールポストの左後方から、「ちゃんと決めろよ!」「ようフレッジ、オレの方が上手いぞ!」と大きな声で野次っていた。
 代表の公式練習で、土木作業員のおっさんが選手に野次を飛ばすなんて、日本人には、あるいはオランダ人やドイツ人にだってそうだろう、ちょっと考えられない光景だ。しかし、こういうところもまたブラジルサッカーの奥の深さなのである。
 一方、午後5時から始まった日本代表の練習は、規定通り冒頭の15分間だけを公開した。
 いつもは和やかな表情でピッチに姿を現すことが多い代表の面々だが、この日はみんな真剣な表情をしてランニングを始めた。ホンダってどいつだ? カガワは? ブラジル人カメラマンたちは互いに確認し合いながらシャッターを押し始める。
 ナガモトってどの選手だ?
モトじゃなくてトモだと、横から教えてあげた。

おう、ジャポネス、まあ頑張れよ!

 
 そしていよいよコンフェデ開幕の日が訪れた。
 615日。ブラジリアは朝からいい天気だった。
 ホテルからスタジアムまでは歩いて20分もかからない。スタジアムに併設されたプレスセンターに用があったので、午前10時前、散歩がてらホテルを出た。スタジアム周辺には、すでにけっこうな数の人々がいた。
 
 セレソンのレプリカを身にまとっている人が圧倒的に多いが、贔屓のクラブチームのウェアを身にまとっている人もけっこういる。インテルナシオナル、フルミネンセ、コリンチャンス、etc。中には牛の格好をしている人もいる。
 カメラを向けるとみんな上機嫌に、こちらに向かってブラジル風に親指を立て、笑顔を振りまいてくる。対戦国である日本のカメラマンにも、とことん陽気で優しい。しかしそれはつまり、ある意味で、思い切り上から目線の優しさでもある。おう、ジャポネス、まあ頑張れよ!
 そんな美しい祝祭ムードの朝の光の中、11時前に街の東側から行進してきた1000人ほどのデモ隊が、スタジアムの入り口の一つまで押し寄せ、機動隊とのにらみ合いを始める。
 
 サッカーに使う金があったら、教育に回せ!
 サッカーは空腹の解決にはならない!
 ここ10年でかなり豊かになったとはいえ、まだまだこの国の富裕層と貧困層の差は大きい。彼らの主張していることは文句なしに正しい。
 ひとりの若者が執拗に目の前の機動隊員を挑発し、その様子を見かねた隣の隊員が若者の顔に向かって催涙スプレーを吹きかけた。若者は地面で悶絶する。
 催涙スプレーの飛沫が僕の左目にも飛び込んできて、5分ほど涙が止まらなくなった。
 
 僕はデモの撮影をしにブラジリアに来たわけではないので、これを潮時としてスタジアムの中へと足を運ぶことにした。
 午後2時半、ナショナルスタジアムのピッチ上では華やかなオープニングセレモニーがスタートし、そして午後4時、ブラジル対日本戦のキックオフを告げる笛が鳴った。
 伝え聞くところによると、その頃スタジアムの外では、機動隊がデモ隊に向かって催涙ガスとゴム弾を打ち込んでいたらしい。

ブラジルの選手の動きは、いつもと比べてだいぶ鈍かった。

 さて、ここから先は、みなさんもご覧になった通りである。
 僕自身は、日本代表がなんとかブラジルの攻撃をしのぎ続け、後半相手の動きが落ちてきたところでワンチャンスをものにする、という流れをイメージしていた。開始3分のネイマールのシュートが決まっても、そのイメージは変わらなかった。あそこまで完璧なシュートはいつも決まるものではない。だから、落ち込む必要はなかったし、日本代表の選手も特に動揺している風には見えなかった。
 
 むしろ前半は、ピッチサイドで見ている限り、ブラジル選手の動き、少なくとも右サイドはかなり鈍かったと思う。
 ダニエウ・アウベスなんかバルセロナでの時とは別人のようで、クロスのスピードもなかったし、コースも甘かった。フッキは今サウナから出てきたばかりのように大汗をかいていた。
 このまま踏ん張って後半の後半まで持っていければ、引き分けは十分に狙えると、僕は安易に考えていた。
 ところが後半になると、運動量、スピードともにがくんと落ちたのは、日本のほうだった。
 
 後半開始3分の失点で戦意を喪失したのか、あるいはカタールでのイラク戦の疲労が一気に噴出したのか。とにかく日本代表の足は途中からばったり止まった。ブラジルの喉元にくらいつくどころか、最後の15分は、まるで彼らの調整のために呼ばれたトレーニングマッチの相手のようだった。
 最近サッカーを見始めたばかりだという知人の一人は、試合後、この試合の感想を日本からメールでこんなふうに書いて寄こした。
<日本は手も足も出ない、みたいな感じに見えました。それに比べてブラジルは、3点目なんてサラッと躍るように点を取っていきましたね! 残念だけど、これって予想通りの結果だったんでしょうか?>
 そのメールに僕は、結果は予想通りだったかもしれないが、内容は期待していたものとずいぶん違った、と返事した。
 それに、たしかにがっかりはしたけれど、ブラジルに負けてがっかりできるようになったなんて、君にはちょっとわからないかもしれないけれど、ずいぶん素敵なことなんだよ。



20130622
“惜敗”の地、レシーフェのホテルで、イタリア男と日本サッカーを語った朝。
[ボールピープル]

惜敗の地、レシーフェのホテルで、イタリア男と日本サッカーを語った朝。

連載第3回は、惜敗のイタリア戦にまつわるお話に――
ブラジル戦で完敗した日本代表は、傷心のまま次の土地レシーフェへ。
近藤氏は、海辺の美しい街でボールピープル達に出会います。
 ブラジリアでの開幕戦を撮影した後、翌日の午後の飛行機で日本対イタリアの舞台レシーフェへ飛んだ。
 宿泊先のホテルは市内の南、ピエダージという地区にある。ホテルのすぐ裏は大西洋で、浜辺を散歩しているとボールを蹴っている少年たち、青年たち、あるいは親子の姿を必ず見かける。それほど広い砂浜ではないから、子供たちは潮の満ち引きに合わせて集合し、干潮の時刻にゲームを始める(学校、ちゃんと行ってる?)。もちろんみんな上手い。
 2本の細い棒を砂浜に突き刺して作ったゴールをめがけ、ドリブルを仕掛けたりシュートを放ったりしている子供たちの姿を眺めていると、ブラジルにいるんだなあ、と実感する。

「日本対イタリアの試合、どうなると思う?」「拮抗した試合になるよ」

 レシーフェに着いた翌朝、ホテルのダイニングルームでちょっと遅めの朝食バイキングをとっていた。
 食後のコーヒーをとりに席を立つと、隣のテーブルに座っていたカップルの女性と目が合った。
 黒髪の魅力的な女性である。
Bom dia」と挨拶すると、彼女は「ジャポン?」と訊いてきた。「そうです」と答えると、彼女は自分の左の胸を指さし、「メキシコ!」と楽しそうに笑った。彼女はメキシコ代表チームのレプリカユニフォームを着ていた。ということは、僕と彼女はグループAのライバル同士ということになる。でも、その前にメキシコはフォルタレザでブラジルと対戦することになっている。
 
「レシーフェじゃなくてフォルタレザにいなきゃいけないんじゃないの?」
「残念ながら、彼がイタリア人なの」
 彼女は隣に座っていた男性のほうを向いてそう説明した。
 カルロという名のその男性は、1990年からイタリアサッカー協会で働いていて、今大会は代表の観戦を兼ねて彼女とブラジル旅行を楽しんでいるのだそうだ。
「さっきイタリア代表が泊まってるホテルに顔を出したら、ナカタが来てたよ」
 日本サッカー協会で働く男性で、ガールフレンドと2人で代表チームの宿泊先に顔を出す人はいるんだろうか。
「明日の日本対イタリアの試合、どうなると思う?」
 知り合って3分後、僕は単刀直入に訊く。
「たぶんかなり拮抗した試合になるよ。ブラジル戦の日本はどう考えても悪すぎた。イタリアは調子がよくないし。日本はイタリアみたいな相手は苦手としてないしね」
 僕もなぜか、イタリア相手なら日本はかなりやれるんじゃないか、という気がしていた。
 67月のペルナンブコ州はよく雨が降る。
 
 日本の梅雨とは少し異なり、さっきまで晴れていたかと思うと、一気に黒い雨雲が広がって、30分ほど強い雨が降る。僕のホテルの部屋は15階にあって、窓からは大西洋が見えるが、雨雲はだいたい海の向こう、東の方からやってくるようだ。気温は晴れていれば日中で30度くらい、夜になると25度くらいまでは下がるけれど、湿度が高くちょっと動くだけで全身から汗が吹き出る。
 日本代表は、64日のオーストラリア戦を埼玉で戦い、その後のイラク戦をドーハで戦い、コンフェデ第1戦のブラジル戦は標高1000mのブラジリアで戦った。2週間で4種類の異なる気候、そして時差、選手たちの肉体はかなり疲弊しているはずだ。果たしてこのレシーフェの地で、彼らの体力は90分もつのだろうか。そこだけが心配だった。

ペルナンブコ州のスタジアムは、絶望的にアクセスが悪かった!

 619日水曜日、試合会場周辺では、キックオフまでにすでに何度か強い雨が降っていた。
 会場のアレナ・ペルナンブコは、ブラジリアのナショナルスタジアム同様、来年のW杯のために新築されたスタジアムである。このスタジアムの難点は、とにかくレシーフェの街から遠いことだ。
 車で行くと通常なら40分前後だが、道中何カ所かは、ちょっとした交通事故で絶望的に渋滞してしまう。そしてブラジルでは車同士の衝突やエンストは、周りの誰かがあくびをするのと同じくらいの確率で起こる。電車とバスを乗り継いでゆくにしても、本数はさほど多くないし、車内はかなり混雑している。今後改善されるにしても、現時点では快適という言葉からはほど遠い交通手段である。
 
 ブラジル北東部の街の、それもかなり不便なスタジアムで行なわれるイタリア対日本の試合に、いったいどれほどの観客が集まるのかと思っていたら、この日スタジアムには4万人強もの観客が集まった。
 見渡すと、日本とイタリアからの応援団はごくわずか。あとは地元の人たちが、セレソンのユニフォームを着て、オレはイタリアを応援するとか、オレは日本を応援する、そんなノリでサッカーの試合を楽しみにきている感じだ。イタリア代表のユニフォーム姿のペルナンブカーノ(ペルナンブコ州の人)が多いのは、ただ単にアズーリのユニフォームのほうが手に入りやすいからだろう。
 そして午後7時、主審の笛がペルナンブコの夜空に鳴り響いた。
 
 前半から積極的に前から仕掛け、プレッシャーをかけ続け、イタリアの何倍も見栄えのいいサッカーを披露した日本は、ペルナンブコ州のサッカーマインドを大いに刺激したようだ。最初イタリアを応援していた人も、途中からはアズーリのレプリカを着たまま、ジャポン、ジャポンの声援に加わっていた。
 日本がパスを回すたびに(それも相手はイタリアだ!)スタンドからオーレ、オーレの大合唱が起こり始めたとき、僕はちょっと泣きそうになった。泣かなかったけど。
 しかしながら――
 
 午後850分過ぎ、主審の笛が鳴り、ゲームは43でイタリアの勝利に終わり、日本代表のコンフェデレーションズカップは第2戦で早くも終ってしまった。ファインダーの向こうでは、負けたチームにもかかわらずこの試合のマンオブザマッチに選出されるほどのプレーを見せた香川真司が、数秒間険しい視線を宙にむけ、そしてその場にしゃがみ込んだ。
 隣で写真を撮っていたオーストラリア人のカメラマンは、“Dream is over”と呟いた。彼も途中から日本を応援しながら写真を撮ってくれ、審判のミスジャッジには2人で声を合わせてゴールラインの後ろから聞こえないようにブーイングしていた。

イタリアを応援していた観客は、いつの間にか日本を応援していた。

 ゴール裏のスタンドの最前列にいたブラジル人のオヤジ3人組の1人は、「おい、日本人、下を向くな! 素晴らしいフッチボールだったじゃないか!」と励ましの声をかけてきた。
 僕は別に項垂れているわけではなく、カメラ機材を片付けているだけだったが、とりあえず一度頭を上げて、「応援、オブリガード(ありがとう)」と返事をした。
 3人組の別のオヤジは缶ビール片手に、ワールドカップの時はペルナンブコで試合をしろ、おれらは日本を応援してやっから! と唾を飛ばしながら、わけのわからない熱いエールを送ってくれた。
 キックオフの時点では、判官びいき的に日本を応援するブラジル人が多かっただろうが、ハーフタイムが終る頃には、日本代表は自分たちが見せたサッカーの内容でアレナペルナンブコの観客の心を掴んでいた。
 イタリアに負けたのは悔しかったが、日本代表の試合で、これほどまでポジティブな視線を感じられるのは、素直に嬉しかった。
 翌朝、午前4時まで写真を送る作業をやって少し眠ると、僕は近くのドラッグストアで新聞を買い、朝食をとりにホテルのダイニングルームに入っていった。
 地元新聞の見出しは、『入場料に値した』だった。サブタイトルには、大会が始まってからのベストゲーム、というコピーも添えられていた。
 新聞を読みながら時間を過ごしていると、昨日のカルロが1人でダイニングに入ってきて、僕の前に座り、イタリアが負けてもおかしくない試合だったな、と言った。
 じゃあなんで負けなかったの? と僕が訊き、カルロはこう答えた。
20になったときは、オレも心配した。でも、日本のセントラルミッドフィルダーの2人の足が、前半が終わる前に動かなくなり始めた。これならまだ大丈夫かもしれない、と思ったよ。日本の生命線は7番(遠藤)と17番(長谷部)だよ。あそこが動けなくなったら、日本代表のサッカーはものすごくバランスが悪くなる。で、そのあと、デロッシのゴールで12になって前半が終わった。あそこで、もう負けはないな、と思ったね。あの失点が日本にとっては大きな1点だったと思う」
 クールな意見だった。

「いい内容で負けるより、悪い内容でも勝てた方がよかった」

 前回のコラムで僕は、ブラジル戦は予想された結果だったかもしれないが、期待していた内容ではなかった、と書いた。イタリア戦はというと、内容は期待していたそれを遥かに上回るものだったが、結果は予想していたものとは違っていた。
 面白いゲームだった、それは間違いない。
 日本の方が見ていて楽しいサッカーを演じた、これもまた間違いない。
 しかし、果たしてほんとうに『勝つに値した』のは日本だったのだろうか。
 僕自身も試合後すぐに口にしたように、ほんとうに勝てた試合だったのだろうか。でも、じゃあなぜ負けたのだろう。ディフェンスのミス? 集中力不足? それもまた日本の実力の一部ではないのだろうか。
 日本対イタリア戦の翌日、グループBの第2試合、ウルグアイ対ナイジェリア戦後。この大事な試合を落としたナイジェリアのGKは、いい内容でゲームを進めていたのに残念ですね、というインタビュアーの振りに、微笑みながらこう答えていた。
「いい内容で負けるよりは、悪い内容でも勝てた方がよかったですよ」
 さらにつけ加えるなら、本当にいい内容なのであれば、きっと結果もついてくるんじゃないか。
 あのアレナペルナンブコの夜から1日後、僕は今そんなふうに考えている。



20130626
「トップ8」の壁が日本を苦しめる――。メキシコの“レジェンド”の不吉な予言。
[ボールピープル]

「トップ8」の壁が日本を苦しめる――。メキシコのレジェンドの不吉な予言。

今回は、日本代表最後の試合となったメキシコ戦にまつわるお話。
消化試合なのに5万人以上の観客が詰めかけたスタジアムで、
日本贔屓のブラジル人達の大歓声に日本代表は応えられたのか?
 イタリア戦の2日後、レシーフェからブラジリア経由で第3戦の舞台ベロオリゾンチに飛んだ。
 途中、ブラジリアからメキシコ人の団体客が同じ便に大勢乗ってきた。彼らは前々日、フォルタレーザで行われた対ブラジル戦を観戦し、同じくベロオリゾンチに向かうところだった。中にものすごい美人が1人いたが、残念ながら彼女は僕の座席の斜め前に座り、僕の隣には72歳の年金生活者で、もうかれこれ30年ほどメキシコ代表を追っかけて様々な国を旅しているというファンマヌエルさんが座った。
 僕は、それにしても1次リーグ敗退は残念でしたね、とまるで他人事のようなセリフを口にする。
「まあこういうのもサッカーですよ、サッカーにはいいことよりも悪いことの方が多いんだ」
 妙に達観した返事が返ってきた。
 彼の応援するメキシコは、北中米地域では抜群の強さを誇るサッカー強国である。W杯では過去にベスト8も二度経験しているし、若手の育成も順調だ。昨年のロンドン五輪での金メダルも記憶に新しい。しかし一方で、W杯ではここ5大会連続でベスト16どまりの成績しか残せていない。さあいよいよ、という試合で期待虚しく負けることが多い、言ってみれば大国になりきれない強国なのである。

日本代表の記者会見。いつもの質問と答えが、繰り返される。

 ブラジリアからの飛行機は、1時間のフライトでベロオリゾンチのタンクレード国際空港に着いた。
 
 ベロオリゾンチ。
美しい地平線
 僕はこの街の名前を聞くたび、世界で一番美しい街の名前かも、と思う。
 ファンマヌエルさんと幸運を祈り合い、ターンテーブルから荷物をピックアップして、空港から市内までのタクシーに乗る。ブラジルの空港タクシーには2種類、いわゆる空港前で列を作って待っている流しのタクシーと、料金前払い制のタクシー(まあハイヤーみたいなものだ)がある。流しのタクシーのほうが料金は安いが、僕の経験から言うと3回に1回はまずボラれる(僕が逆の立場でもそうするだろうし)。なので、前払い制のタクシーを選択した。空港から市内まではおよそ50キロ、料金は109レアル。日本円にすると5000円弱。成田から新木場あたりまでタクシーに乗るよりは安いが、以前のブラジルではとても考えられない値段である。
 
 空港からホテルへ向かうつもりで料金を前払いしたが、そういえばたしか両チームの試合前日の公式練習があることを思い出し、途中ミネイロンスタジアムの前でスーツケースごと降りる。スタジアムではちょうどザッケローニ監督の記者会見が始まったところだった。
 会見の内容は相変わらずだ。記者のほとんどは当たり障りのない質問をし、監督も当たり障りのない答えを返す。日本メディアの質問には、観念論的なものが多い。この日になされた質問ではないが、初戦のブラジル戦前日の記者会見で、この大会が終ったとき選手には何を感じていてほしいですか? と訊いた記者がいた。
 おいおい、あんた何が訊きたいんだ?
 一方のメキシコ代表監督ホセ・マヌエル・デラトーレ監督の会見は少々剣呑だった。
 メキシコ代表は今年に入ってから一昨日のブラジル戦まで11戦して18分け2敗、当然メディアのご機嫌は非常によろしくない。おまけに開幕のイタリア戦数日前に、数人の選手が夜間ホテルを抜け出しリオデジャネイロのトップレスバーに出かけ、プライベートダンスを楽しんでいた、という情報がどこかからリークされ、火はさらに燃え広がりそうな気配である。会見場の中の空気は妙にぴりぴりしていた。
「メキシコ国内では、もうあなたには代表監督の座を離れてほしい、という声が高まっている。それについてはどう思うか?」
 1人のメキシコ人記者がこんな質問をする。
 監督は表情をピクリとも変えず、静かな声で答える。
「私は私の仕事を全うするだけだ」
 会場内はなんともいえない冷たい空気に覆われる。

メキシコ対日本の消化試合に、5万人以上の観客が集まった!

 
 コンフェデレーションズカップの1次リーグ最終戦は、公平を期すために同グループの2試合が同時刻に始まる。サルバドルでのブラジル対イタリア戦は1位と2位を決める大事な試合。一方こちらはただの消化試合。どう楽観的に考えても、それほどたくさんのブラジル人がこの試合を見るためにミネイロンスタジアムに足を運ぶとは思えなかった。
 下手をするとスタンドはガラガラ、62547人収容のスタンドで日本人とメキシコ人の声援が虚しく響き合うんじゃないか、と危惧していた。
 ところが……この日ミネイロンスタジアムには52690人の観客が詰めかけた!
 
 もちろんそのほとんどはブラジルのサッカーファンである。キックオフ3時間前頃からスタジアムの周りはにぎわい始め、ビールスタンドは大盛況。みんな生ビールや缶ビールを飲みながら、ほろ酔い気分でわいわいがやがやとやっている。メキシコ人サポーターや日本人サポーターが通り過ぎるたび、メッシコ! メッシコ! ジャーポン! ジャーポン! とエールを送り、励まし、からかい、記念写真を撮り合い、なんだかとても楽しそうだ(そりゃあまあ、むこうはすでに1次リーグを突破してるわけだから、楽しいんだろうけれど)。
 何人かの人に、なんでブラジル戦じゃなくてこの試合を見に来たの?と訊いてみた。
 
「ブラジル戦は夜に再放送で見られるから」
「どうせブラジルがイタリアに勝つのはわかってるから」
「日本とイタリアの試合を見て、日本が面白そうなサッカーをやってたから」
「もう前売り券買ってたから」
 なるほど。
 キックオフ40分前には両チームがウォーミングアップのためにピッチ上に姿を現す。メキシコにはブーイング、日本には歓声と拍手。どうやらミネイロンでも観衆は日本びいきのようである。
 午後4時、とても消化試合とは思えないような騒然とした雰囲気の中でキックオフの笛が鳴る。
 日本代表はイタリア戦のスターティングメンバーから3人を入れ替えた。内田を外して酒井宏樹、累積警告で出られない長谷部に代わって細貝、吉田に代えて栗原。
 一方のメキシコもこれまでの2戦から先発メンバーを6人入れ替えてきた。若手に経験を積ませたいという意図もあるが、同時に9月に控えたW杯予選の対ホンジュラス戦(ホンジュラスは予選で4位につけている)に向け、もしここでもう1枚イエローカードをもらってしまうと、その試合に出られなくなる選手も外しているのだ。

ブラジル人観客の大声援に応えられなかった日本代表。

 
 ゲームは立ち上がりからしばらくは日本が押し込んだ。前半5分には香川がドリブルで持ち込んで惜しいシュートを放ち、10分には遠藤の放ったミドルシュートを岡崎がヒールでコースを変えゴールが決まったかに思えたが、オフサイドの判定が下る。
 しかし15分が過ぎたあたりで、試合のバランスは拮抗し始めた。メキシコは早々に日本のスタイルに慣れてしまったようだった。
 スタンドからは、ジャーポン、ジャーポンのコールが何度も起こるが、日本はその声援に応えるほどのプレーを見せられない。
 
 メヒコ! メヒコ! 数の上では圧倒的劣勢のメキシコ人サポーターが四面楚歌の中で必死に声を上げ、その声に応じるかのように、メキシコは次第にゲームの主導権を握り始める。
 そして後半9分、スコアを動かしたのは、マンチェスター・ユナイテッドにおける香川の同僚でもあるメキシコのエース、チチャリートエルナンデスだった。左サイドからのアーリークロスを見事なヘディングでゴールに叩き込み、ここからゲームは完全にメキシコペースとなる。そして12分後、再びエルナンデスがヘディングで2点目を決める。
 
 ちょっとショックだったのは、スタンドからはジャーポン、ジャーポンの声援が次第に聞こえなくなり、メキシコのパス回しに「オーレ、オーレ」の歓声が起こり始めたことだ。日本は完全に機能不全に陥り、個で仕掛けてもダメ、パスを回してもダメだった。イタリア戦の日本代表はこの日のピッチの上にはどこにも見当たらなかった。
 後半41分、日本はなんとか1点を返したが、ピッチサイドにはそこからゲームが動く予感はまるでなかった。ロスタイムは5分。メキシコがPKを得て川島がファインセーブを見せ、そこで試合は終了した。スタンドからは最後にもう一度、ジャーポン、ジャーポンのコールが上がったが、その声は虚しくベロオリゾンチの夜空に響くだけだった。
 次の試合で日本の真価が問われる――
 イタリア戦の敗北で1次リーグ敗退が決まった後、日本代表のある選手はそう口にしていた。消化試合などない、と。
 長谷部主将は、イタリア戦が日本サッカーのターニングポイントになる、とコメントを残した。
 
 絶対に負けられない試合、というフレーズがある(どんな試合でも基本的には絶対に負けられないのだけれど)。このコンフェデ杯1次リーグ3試合の中で、日本が一番負けてはならなかった試合は、このメキシコ戦だったんじゃないか、と僕自身は思う。
 ただの消化試合に52690人もの観衆がミネイロンに集まり、その多くが日本代表に声援を送ってくれていた。
 彼らは日本代表のサッカーに期待してスタジアムまで足を運んだ。
 その事実を、僕たちは十分に肝に銘じておいたほうがいい。

元メキシコ代表の名フォワード、ボルヘッティが語った日本代表。

 試合後、プレスルームの奥にある食堂に座って、あまり美味しくないバイキングをつっついていると、目の前のテーブルに元メキシコ代表のハレド・ボルヘッティが座った。現役時代のポジションはセンターフォワード、メキシコ代表での通算ゴールは46。これは歴代最多得点記録である。3年前に現役を引退し、今はESPNの解説者として働いているそうだ。試合の印象を訊いてみた。
「今日の日本はイタリア戦に比べると迫力はなかったし、意外性もなかった。立ち上がりは良かったけど、前半の途中からは、メキシコはそれほど苦労することなく日本の攻撃に対処できたね。ところで、なんで日本はあの右サイドバックを先発から外したんだい?」
 それは僕だってザックに訊いてみたい質問だったが、残念ながら試合当日の記者会見には、カメラマンは入れてもらえない。もっとも、酒井宏の代わりに内田がスターティングメンバーで出場していたとしても、結果は大差なかったようにも思えるが。
 303敗。4得点、9失点。
 これが2013615日から22日の1週間で日本代表が残した数字である。
 けっして簡単なグループではないことは、大会前から予めわかってはいた。しかし実際に勝ち点を1もとれず、得失点差が-5になってみると、それはそれでショックが大きい。
「まあでも、こうやってイタリアやメキシコ相手にそれなりの試合をできるようになったんだから、日本もずいぶん進歩したでしょう?」
 僕はテーブルの向こうで静かに夕食をとり続けるボルヘッティに、自分自身が誰かからそう言ってほしいセリフを語りかける。彼は、たしかにそうだね、と相づちを打ち、それでも、と付け加える。
「ここまでの道のりは、そう難しくないんだよ。むしろ、大変なのはここからだ。君も知っての通り、世界のトップ8、そこに食い込んでゆくために、メキシコはもう20年くらい苦しんでいる。そしてもちろん君の国も、これからその苦しさを味わうことになる」
 メキシコが生んだ稀代のストライカーの一人は、そんなえぐいことを優しい口調で語り、にこりと笑って口元をナプキンで拭いた。



20130629
夜中の救急病院、ブラジルのトラウマ、そしてフットボールしかない小さな国。
[ボールピープル]
日本代表が敗退してしまってからのコンフェデ杯。すっかり
日本人がいなくなった異国の地で、夜中に急病にかかる近藤氏。
それにもめげず、ブラジルvs.ウルグアイの試合会場に向かうが……。

夜中の救急病院、ブラジルのトラウマ、そしてフットボールしかない小さな国。

 日本対メキシコ戦の夜、取材を終えてホテルに戻ったら全身にひどいジンマシンが出た。
こんなジンマシンは25年前、チリのサンティアゴでシオマネキの親玉のようなカニを食べて以来である。
 かなりひどかったので、ホテルの近くにあったLIFE CENTERという日曜大工センターのような名前の私立病院へ駆け込んだ。受付で事情を説明すると、係の女性が不機嫌そうに『問診だけで250レアル(日本円で約11000円)かかりますけど』と言う。
 払います、と答えると、15分ほどで診察室に呼ばれた。担当は40歳ぐらいの男性医師だ。
 
「どうしました?」
 シャツをめくってみせた。
「こりゃあひどい。なにか心当たりはありますか?」
 心当たり? 数時間前に終った日本対メキシコ戦を見て免疫力が下がったことぐらいだ。
「特にないです」
 治療室へ移されると、若い男性の看護師がやってきて、注射は2本で、そのうちの1本は臀部に打ちます、と説明した。
 ジーンズを下ろしておしりを出す。注射が終わり、意識が朦朧とする中、再びジーンズを引き上げていると、看護師が後ろでこう言った。
「イタリア戦はほんとにいい試合でしたね。日本の方が勝ちに値しましたよ!」
 たとえ午前零時の救急病院でも、ブラジルという国では、フッチボールは容赦なく語られる。

サンバ、ビール、美女……ブラジルの試合はまさにカーニバル!

 
 コンフェデ杯準決勝のカードはブラジル対ウルグアイ、スペイン対イタリアとなった。笑ってしまうくらい順当な組み合わせだ。
 フォルタレーザの試合はパスし、ジンマシンの夜から3日後の午後1時、ブラジル対ウルグアイ戦に出かけた。
 処方してもらった薬の影響なのか、まだ足元がふらつくが、ホテルのテレビで試合を見ているわけにもいかない。
 試合開始3時間前、ミネイロンスタジアム周辺の歩道はカナリアイエローのユニフォームを着た人々で再びごったがえしていた。見渡す限り、カナリア、カナリア、カナリア。トンボの眼鏡ではないが、僕の網膜もこの独特の黄色に染まりそうである。
 
 スタジアムを背景に記念撮影をする人々、サンバのリズムに合わせて踊るハルクの着ぐるみを着たハルク(ブラジル代表のフッキはHULKのポルトガル語読みです)、TVレポーターは通りがかりのサポーターを片っ端からつかまえて試合の予想をさせ、カメラアシスタントは可愛い女の子からメールアドレスを聞き出している。
 4日前の日本対メキシコ戦でも、たくさんのサポーターが試合前のスタジアム周辺で楽しんでいたが、この日の観客の出足はさらに早かった。もちろん気合いの入り方も全然違う。Brasil! Brasil! ブラジウ! ブラジウ! 誰かが叫び始めるとあっという間に大合唱となる。そして大合唱の後は、ビール、ビール、またビールだ。ブラジルの勝利にかんぱーい! ネイマールのゴールにかんぱーい! 目の前のゴミ籠はあっという間にビールの缶で埋め尽くされてゆく。
 普通ここまでサッカー好きが集まって、ここまでアルコールが入ると、たまに嫌な感じの奴がからんできたりするが、ミネイロンの周りでは見事なまでに誰も彼もが陽気で、さわやかである。
 1人だけ、こちらにむかって「ニッポン負けた、ニッポン負けた!」とふざけたコールをしてくる若者(もちろん冗談半分である)がいたが、イタリア戦で善戦したことばかり持ち出されるのに辟易としていたので、なかなか鼓膜に心地良かった。実際、日本は負けたんだから。それもかなりこっぴどく。
「マラカナッソ!」
 僕はふざけて言い返す。
 今から63年前。1950年、ブラジルで行われたW杯決勝、17万とも19万(嘘みたいな数字だが、本当だ)とも言われる大観衆を集めたマラカナンスタジアムで、ブラジル代表はウルグアイ代表に12の逆転負けを喫した。
「マラカナッソ(日本語では『マラカナンの悲劇』として訳される)」とは、ブラジルサッカー史上最も悲しい出来事。「マラカナッソ」はその後長く語り継がれることとなり、大事な試合でブラジルがウルグアイと対戦するたび、この単語は古い記憶の引き出しから取り出され、警句として発せられてきた。
 とはいえ、20136月のミネイロンで、ブラジルがウルグアイに負けるかもしれないなんて、誰もこれっぽっちも思っていなかったし、僕自身も思っていなかった。

静岡県ほどの国が、世界のサッカー界でトップランクにいる不思議。

 マラカナッソのもう一方の主役について少し語ろう。
 ウルグアイ、正式にはウルグアイ東方共和国。この国はラプラタ川のほとり、国土の西側をアルゼンチン、北側をブラジル、東と南は大西洋に挟まれた、人口わずか330万人の小さな国だ。広大な土地を持つので面積こそ日本の半分くらいなのだが、人口規模でいうと静岡県よりちょっと少ないくらいしかいない。首都はモンテビデオという街だ。
 たぶん普通の日本人は、あるいは普通のノルウェー人だって、ウルグアイのことなんてたぶん何も知らない。しかし、多少なりともサッカーに縁のある人は、日本人でもミャンマー人でも人生のかなり早い段階でウルグアイという単語を耳にすることとなる(ちなみに僕は中学2年生のときにこの国を地図で探した)。
 ウルグアイ。第1回ワールドカップはこの国で開催された。
 ウルグアイ。まだ今ほど世界規模でサッカーが盛んではなかった時代だけれど、過去2度のW杯優勝を飾っている。
 ウルグアイ。国内の二大クラブ、ナシオナルとペニャロールは1980年代の南米を代表するクラブで、トヨタカップのために日本を訪れ世界一の座を獲得したこともある。
 ウルグアイ。ブラジル、アルゼンチンに続くサッカー選手の輸出大国である。
 ウルグアイ。2006年のW杯は大陸間プレーオフでオーストラリアに敗れ、屈辱的な予選落ちを味わったが、2010年のW杯では見事復活しベスト4に進出した。
 ウルグアイ。この国の人は自分たちのサッカーの特徴を“GARRA(ガーラ)という単語で表現することを好む。もとは、猛禽類の鋭い爪を意味するこの単語は、サッカーにおいて語られるとき、日本語に訳すところの「根性」、あるいは「執着心」と訳されることが多いが、僕はもう少し適当に解釈して「ど根性」と訳すことにしている。
 モンテビデオのTV局「カナル12」で、フットボールの中継アナウンサーとして働くアレハンドロ・フィゲレードは、ミネイロンスタジアムのプレスセンターで、ここ数年のウルグアイサッカーの動きをこんなふうに教えてくれた。
2006年のW杯予選でオーストラリアに敗れたことは、我々にとってものすごく大きなショックでした。その後、協会は現在の代表監督タバレス氏と契約を結びます。以後7年間、ウルグアイサッカー史上、これほどの長い期間1人の人物が監督を務めたことはありません」
 タバレス監督はこの7年間でウルグアイサッカー協会を再構築し、これまでになかったような長期的視野に立ったプロジェクトを進めた。結果、今年度のウルグアイは、女子サッカーも含め、FIFAの主催する全ての大会に各年代の代表チームを送り込んでいる。

前半戦、試合を有利に進めていたのはウルグアイだった。

 結果から言えば、この日のブラジルはマラカナッソの三歩手前ぐらいまで追い込まれた感じだっただろうか。
 
 午後4時。主審の笛が鳴り、ミネイロンでの準決勝第1試合は始まった。
 試合前の国歌斉唱で、ブラジルGKのジュリオ・セザルがチアゴ・シウバとマルセロを両腕に抱え、ものすごい迫力で国歌を歌っていたのが印象的だった。
 立ち上がり、ゲームをプラン通りに進めたのはウルグアイだ。
 彼らは序盤から前線、中盤、サイド、それぞれの局面で効果的なプレスをかけ、ブラジルに自分たちのサッカーをさせないという作戦をとった。
 ブラジルはボールを回してチャンスをうかがうが、選手同士のプレーにスペインのような連動性もないし、かつてのセレソンのように個々の圧倒的なうまさもない。日本人の僕が言うのも失礼だが、本当にこのセレソンは地味だ。
 
 日本戦に比べれば両サイドのダニエウ・アウベスとマルセロのコンディションは上がっているようで、この経験豊かな両サイドバックがなんとかブラジルに若干の優位性を与えてはいた。だが、それとてもウルグアイを慌てさせるには十分ではなかった。
 逆に13分には、CKからの競り合いでD・ルイスがルガーノのユニフォームをつかんで倒し、PKの判定が下る。ゴール裏のブラジル人は怒りの声を上げたが、これは明らかにPKだった。しかしこの危機はGKのジュリオ・セザルがファインセーブではじき出し、ウルグアイの先制点を許さなかった。
 その後もブラジルはボールをキープするものの、ウルグアイが効果的にカウンターを仕掛け、6万人のミネイロスの胆を激しく冷やす。前半終了間際に、ネイマールのシュートのこぼれ球をフレッジが押し込んで先制はしたものの、後半立ち上がり3分にはカバーニの見事なシュートでウルグアイが同点に追いつく。
 そこからゲームは再び膠着する。
 ベルナルジ、エルナニス、フェリポンと積極的に選手を投入したが、ウルグアイの強固なディフェンスはさほど綻びを見せなかった。75分、80分、時間はクールに経過してゆき、マラカナッソの足音が遠くから聞こえてくる。
 足音を消したのは、パウリーニョだった。86分、左CKからネイマールの上げたボールをファーポストで合わせ、ブラジル待望の2点目を叩き込む。スタジアムは絶叫し、6万人の観衆が喉から吐き出す雄叫びで、ピッチの上に少しガスがかかる。ロスタイムは3分、ウルグアイは最後のCKGKのムスレラまで上げて勝負に出たが、決められず、ロスタイムの3分が終了した。
 
 結果から言えば、この日のブラジルはマラカナッソの三歩手前ぐらいまで追い込まれた感じだっただろうか。
 ブラジル、準決勝進出。相変わらず冴えないブラジルではあったが、ピッチサイドにいて、ブラジルが負けるかもしれない、そんな感じはしなかった。この日のウルグアイには彼らの最大の武器であるガーラがほんの少し足りなかったかもしれない。むしろ最後に勝利への執念、ど根性を見せたのは、ブラジル代表だった。

「ウルグアイにはね、フットボールしかない」

 それにしても、ウルグアイ。
 
 僕はこの国の代表チームを見るたび、いつも同じことについて考える。なぜ、人口300万人の国がこれほどまでのサッカーを見せられるんだろう? だって、静岡県だけでブラジルを苦しめてるんだぞ。
「ウルグアイにはね、フットボールしかない。そして、フットボールの世界でなら、我々にも何かを成し遂げられる。今から80年も前にW杯を初めて開催してから、ウルグアイ人はずっとそう信じてやってきた。もしかすると、この国のサッカー選手は、背負っているものが他の国の選手とはちょっと違うのかもしれないね」
(アレハンドロ・フィゲレード/ウルグアイのTV局「カナル12」)




20130703
世界王者スペインに、若きセレソンはどう挑むのか……
コンフェデ杯決勝の地は聖地・マラカナンスタジアム。
かつて南米に住んでいた近藤氏が思い出を語ります。
短期連載『ボールピープル ブラジル編』、最終回です!
 準決勝第2戦、イタリア対スペインの試合はリオデジャネイロへの移動中に見た。
 ベロオリゾンチ空港の搭乗待合室に1台だけ、試合の模様を流していた大型テレビがあり、かなりの数の乗客が画面に見入っていた。僕が予約していたフライトは、定刻通りならこの試合の前半が終わる頃には離陸しているはずだった。しかしなんの説明もなく出発は遅れに遅れていた。もしかすると、機長はまだ試合を見ているのだろうか?
 飛行機がようやくタラップを離れたとき、スペインが勝った! と前方座席に座っていた誰かが叫んだ。
 
 隣のブラジル人に、決勝は難しい試合になりそうですね、と話しかけると、彼はこう答えた。まぁでもスペインが相手だと自分たちのサッカーをやらしてもらえるからね。
 確かにブラジルは準決勝で、ウルグアイに自分たちのサッカーをやらせてもらえず、かなり苦戦した。
 でもたとえ自分たちのサッカーをやらせてもらえても、ブラジルはスペインに勝てないですよ。
 僕は内心そう思っていた。

せめて15万人くらい入らないと……マラカナンと呼べないのでは。

 コパカバーナからメディアバスに乗り、コンフェデレーションズカップ決勝の会場に、キックオフの4時間前に着いた。
 Estadio do Maracana
 聖地、マラカナンスタジアム。
 かつて僕はこのスタジアムに何度も足を運んでいた。ブラジル代表の試合、フラメンゴ対フルミネンセ、フラメンゴ対サンパウロ……
 ピッチの両ゴール裏には公衆電話が立っていて、たまにゴールを決めた選手がその電話のところまで走ってゆき、受話器を耳に当てて誰かに電話をかけるパフォーマンスをした。この公衆電話は本当に回線が通じていて、僕も実際に国際電話のコレクトコールで日本にいたGFと話したことがある。
 ピッチの周りには観客が侵入できないよう堀が巡らされ、その向こうには巨大なコンクリートのスタンドが上空にのびていた。僕自身は15万人入ったマラカナンしか見たことがないが、1950年建設当時の収容人員は20万人だったという。嘘みたいに巨大なスタジアムだったが、やがて老朽化が進み、2014年のW杯開催をきっかけに取り壊しが決まった。
 新しいマラカナン。僕は今回コンフェデに来るまで、ブラジルサッカーの聖地と呼ぶべきこのスタジアムは、てっきり以前の収容人数を維持しつつ、新たに建て直されたものだと勝手に信じ込んでいた。今大会でがっかりしたことが2つあるとすれば、ひとつはメキシコ戦の日本の戦いぶり、もうひとつはこのたった8万人ほどしか入れない新しいマラカナンかもしれない。
 せめて15万人くらい入らなきゃ、マラカナンとは呼べないじゃないか。
 試合3時間前、メディア用の入り口を右に出てスタジアムの周りをすこし回ってみる。周辺の道路は数ブロック先から警察にブロックされ、歩行者天国となっている。同業の若い日本人カメラマンから「おつかれさまでーす!」と挨拶され、そのちょっと呑気な言葉の響きに拍子抜けする。
 マラカナンから大通りを挟んだ向こう側には広大なファベーラ(スラム)が広がっていて、以前ならスタジアムの周辺をカメラを持って歩き回るなんて、絶対にあり得なかった。昔はスタジアムへサッカーを見に来るサポーターの中にも危ない連中がかなりいて、試合後にはスタジアム周りでさんざん悪さをしていたものだった。
 
 はたしてマラカナン周辺がもはや危なくなくなったのか、あるいはコンフェデの期間に限って危なくないだけなのか、僕にはわからない(たぶん前者だとは思うが)。
 今大会、スタジアムに来る人たちはブラジルの中でも中流から上に属し、基本的にはお金を持っている人たちのようだ。それが良いか悪いかは別として、幸福で安全なイベント感があたり一面に漂っていた。
 たしかに、サッカー場が安全なことに越した事はないのだけれど……

「本番にはフレッジが絶対に決めますから」と、福西崇史が予言。

 
 午後5時、決勝の舞台はまずブラジル音楽界を代表するミュージシャンたちのライブでスタートした。アルリンド・クーズ、ヴィトール&レオ、イヴェッチ・サンガロ、そして大御所のジョルジ・ベン・ジョール。
 ジョルジ・ベンが、自ら大ファンであるフラメンゴの優勝を記念して60年代に作曲した『Pais Tropical』が場内に流れ始めると、スタジアムは大合唱となる。
Moro num pais tropical……
 ジョルジ・ベンが、オレはフラメンゴの人間だー! と煽ると、場内からは陽気な拍手とブーイングが飛ぶ。楽器類の持ち込みは一切禁止、観客はすべて着席で観戦等、様々なルールに縛られ、あまりブラジルっぽくなかったこの大会で初めて、ああブラジルに来ているんだ、と感じられた一瞬だった。
 
 そして午後7時。オランダ人主審ビヨルン・カイパースの吹くホイッスルで、いよいよ決勝戦が始まる。スタンドはもちろん満席。もちろんほぼ全員がブラジルの応援だ。
 立ち上がり2分、試合はいきなり動く。
 右サイドからフッキが入れたクロスから、背番号「9」フレッジが倒れながらも泥臭くボールを押し込んだ。スタンドのテンションはいきなりトップギアに入る。
 
 この連載の2回目の原稿。ブラジル対日本戦の前日練習で、ブラジル代表のセンターフォワード、フレッジがあまりにもシュートを外し過ぎ、見物していた工事現場の作業員から野次を飛ばされた、という話を僕は書いた。
「見ててください、本番になったらフレッジが絶対に決めますから」
 その前日練習が終った後、ブラジリアのナショナルスタジアム・プレスセンターでそう言ったのは、NHKの解説者をつとめる元日本代表の福西崇史だった。決勝戦、ブラジルに先制点をもたらしたのは、そのフレッジだった。さすがである。
「自分たちのサッカーをやらせてもらえるから」
 数日前、飛行機の隣席のブラジル人はそう口にしたが、この日のブラジルはウルグアイが自分たちにやったことを、スペインに対して仕掛けていった。
 自分たちのサッカーをするよりも、まず相手のサッカーを潰す――
 前半開始から、ブラジルのフィールド選手10人はものすごいタックルとものすごいチェイスとものすごいチャージをスペインにかけ続けた。特にイニエスタとシャビへのプレッシャーは苛烈を極めていた。もしこれが第三国での試合なら、ブラジルの選手は試合開始後数分でイエローカードを出されていたかもしれない。しかしながら、ここはマラカナンだ。ブラジルは王国のプライドをかなぐり捨て、ただひたすら勝利をどん欲に追い求める群れになっていた。
 
 ブラジルの激烈な試合への入り方が、はたしてスペイン代表を慌てさせたのかどうか、選手に直接聞いたわけではないので本当のところはわからない。調子がいいときの彼らであれば、そのブラジルの猛チャージさえ機械のようなパス回しでいなすことができたのかもしれない。
 でも、ピッチサイドで見ている限り、スペインはすくなくとも前半20分ぐらいまで、ブラジルの激しいゲームの入りにやや面食らっていたように感じた。
 スペインは、フォルタレーザという赤道にほど近い街で120分間戦い、そのあと中2日で決勝を迎えている。身体がゲームのリズムを掴む前に、ブラジルに完全にイニシアチブをとられた形だった。

ゲームの行方を大きく左右した、ダビド・ルイスのプレー。

 前半20分を過ぎると、試合のリズムはすこし安定する。
 先制した後もブラジルはプレッシングを緩めなかったが、スペインも落ち着きを取り戻し、自分たちのサッカーを構築し始める。しかし、中盤での素早いパス回しではリズムを取り戻したものの、バイタルエリアがなかなか攻略できない。一方のブラジルは自陣ペナルティエリア内で相手のボールを奪うと、そこから中盤を省略して一気に前線へとカウンターを仕掛ける。
 ゲームの行方の3分の1ほどを決めたのは、前半41分のダビド・ルイスのプレーだろうか。
 マタのパスを受けてペドロがフリーで打ったシュートを、ダビド・ルイスはゴールライン上、捨て身のスライディングで阻んだ。その3分後、ブラジルはエースのネイマールがカウンターから豪快なシュートを決め20とする。
 20というスコアはサッカーでは一番危険なスコアだと言われる。しかしこの日のブラジルは違った。
 
 後半2分、フッキが前線でためて出したパスをネイマールがスルーし、後ろから走り込んで来たフレッジが見事なインサイドキックで3点目を決める。ゲームの流れが決まった2つ目の“3分の1”はここだった。
 日本戦同様、ブラジルは後半開始早々から、「さぁこれから!」という相手のやる気をさらに上回る気迫でピッチに入り、欲しかったもう1点をもぎ取った。これほどゲームプランが上手く運ぶことも珍しいだろうが、この日のマラカナンではボールの弾み方すらもブラジルの勝利を後押ししているようだった。
 そして……ゲームの流れを決めた最後の“3分の1”は、そのブラジルの3点目が決まった7分後、ヘスス・ナバスが得たPKをセルヒオ・ラモスが外したことだ。
 スペイン代表の身体と心の電池はここで完全に切れ、後半23分にはドリブルで持ち込んで来たネイマールの足をピケが不用意に引っ掛け、一発退場。
 シャッキーラ! シャッキーラ! スタンドからの大合唱の中、ピケはピッチを歩き去る。
 
 ゲームは終った。
 僕も一緒に小さな声で、シャッキーラ、シャッキーラ、と合唱に加わる。
ラテンポップのディーバと呼ばれる恋人の名前をコールされながら退場するなんて、ピケは幸せ者だ。
 1人少なくなったあとでもボール支配率で上回り、攻め続けたスペインはさすがだったが、03のスコアをひっくり返すだけの余力はもう残っていなかった。一方のブラジルは大観衆のオーレのかけ声と共にボールを回そうとするのだが……彼らのパスは5回も続かず、スタンドから次第にオーレのかけ声が出なくなった(笑)。
 やっぱりこのセレソンはあまり上手くはない。
 試合後のセレモニーが終わり、スタジアム前からメディアバスに乗ったのは午後10時半、コパカバーナには11時過ぎに着いた。
 市内は大騒ぎになっていると思っていたが、深夜営業のカフェやレストランでは、カナリア色のレプリカに身を包んだ人たちが、テレビで流れるブラジルの得点シーンを眺めながら、静かに食事をしたり、ビールを飲んだりしているだけだった。夜のコパカバーナに、Brasil! の叫び声が響くこともなければ、ネイマールやフレッジの名前が連呼されることもなかった。
 やっぱりコンフェデはコンフェデ。ワールドカップではないことを、ブラジルの人もよくわかっている。僕もレストランに入り、彼らと同じようにテレビ画面を眺めながら、遅めの食事をとることにする。

世界王者スペインの顔に泥が塗られて……ただでは済むまい。

 コンフェデ。長かったような、短かったような、そんな2週間だった。
 3戦全敗という結果を残し、日本代表がブラジルを離れてからは、比較的時間がゆっくりと過ぎていったような気がする。
 2週間で撮ったゲームは5試合。日本に戻るにはちょうどいい腹具合だ。メインディッシュは予想外の展開となったが、ブラジルが勝ってよかったと思う。依然としてこのセレソンがそんなに強いとは思えないが、決勝で見せた彼らの勝利にかける気迫は、本当に凄まじかった。サッカーというスポーツにおいては、流れを掴むことがどのくらい重要なのか、それを改めて知らされたゲームでもあった。
 そしてなによりも、絶対王者スペインの顔に泥が塗られた。
 次の彼らは完璧な用意をして、必ずその泥を拭いに戻ってくるだろう。
 W杯で再びこの両国が相見えるところを想像しつつ――僕は、左の頬骨を指でそっとなぞる。
 マラカナンでの試合終了後、観衆に手を振って走る大喜びのダビド・ルイスを追いかけながら写真を撮っていたら、思い切り振り下げた彼の右肘ががつんと当たった。彼の方が先に驚き、大丈夫? と僕の肩に大きな右手を置いてきた。
 ダビド・ルイスのファンなら失神ものの肘打ちだ。頬を触ると少し血が出ていた。
 最後の最後でダビド・ルイスの肘打ち。
 この傷は2013年コンフェデのお土産として、ありがたく頂戴しておくことにする。

 2014.3.8. ボールピープル

著者 近藤篤 1963年今治市生まれ。上智大外国語学部スペイン語科卒。86年中南米に渡り、ブエノスアイレスにて写真を撮り始める。94年帰国。スポーツ・グラフィック・ナンバーを中心に、サッカー写真、人物ポートレイト、紀行ものなどを発表

発行日           2013.5.30. 第1刷発行
発行所           文藝春秋社

この星は人とボールでできている
なぜそこでボールを蹴らなければならないのか。狭い路地裏で、埠頭の先端で、砂漠の真ん中で
カトマンズの東のはずれにあるヒンドゥ教の町では、原っぱでバスケットボールを蹴る少年たちがいる
ブラジル人は毎日朝から晩までサッカーをやっている
なぜブラジルはサッカーが強いのか。単に貧しいからだけではなく、半端じゃない人間が、半端じゃない意気込みで、毎日ボールを蹴っているから。ビーチッカーも足腰を鍛えるには最高
866月、メキシコのW杯で、日本のスポーツ新聞の特派員の仕事を手に入れメキシコに行く
89年、サンティアゴにある代表チームの練習グラウンドで撮った1枚の写真。レオン・アステンゴが芝生に横たわって愛娘を抱きしめている。彼はブラジルの強豪グレミオのディフェンダーで、南米屈指のセンターバック。撮った直後、チリ代表はリオのマラカナンで90W杯予選最終戦に臨む。ブラジルとの試合で勝てば予選突破、2年前には勝った実績もあるが、前半10でリードされた後半の15分、スタンドからベンガラと呼ばれる花火が打ち上げられ、チリのゴールを守っていたロベルト・ロハスの傍らに落ちる。その瞬間ロハスは突然ピッチ上に倒れ頭を覆って悶絶、顔面血だらけのロハスをチリの選手たちがピッチから運び出しロッカールームへと続くトンネルに消える。そのまま5時間ほど過ごした後、飛行機で帰国。ゲーム終了後1人のカメラマンの撮った写真が、花火が落下したのはロハスの後方2m辺りで、ロハスのどこにも当たっていなかったことを証明
すべてはロハスの演技で、手袋の中に忍ばせた剃刀で自ら傷つけることにより、中立地における再試合か、ブラジルが勝ち点を剥奪されることを狙っていた
FIFAは原発を下し、ロハスは永久追放、チリは94年大会への参加資格を剥奪、副キャプテンだったアステンゴはチリ代表をグラウンドから引き上げるよう指示した責任を問われ5年間の選手資格停止、試合の結果はチリの試合放棄により、20でブラジルの勝利
真相は結局わからず仕舞。花火を打ち上げたのは24歳の女性、一時共犯の嫌疑で警察に拘束されたが無罪放免、その後ブラジル版『プレイボーイ』誌にさして美しくはない裸体を披露し何千ドルかを稼いだ
20年後、その写真を手にアステンゴと再会。花火が落ちた時の現場は直接見ていないが、通路で選手一人一人にこのまま試合放棄をしていいのか確認し、1人を除いてそれでいいということだった。ロハスのポルトガル語の通訳として警察に呼ばれた時、刈り込まれたロハスの頭に真っ直ぐな切り傷が4カ所あり、花火の傷にしてはおかしいと思った。ロハスの単独犯行ということで決着したが、背後で何が起こったのか真実は誰も知らない
瀬戸貴幸は、中学まで名古屋FC、高校は熱田でFWやハーフでプレー、県大会ベスト4が最高の成績。高卒後兄に倣ってブラジルにサッカー留学、コリンチャンスのユースに練習生として参加したこともある。1年半で挫折、08年帰国。直後にルーマニアの3部リーグでプロのチャンスがあるといわれて練習に参加、無事採用されるが、月給は250ユーロ、ホームでの勝利給が100、アウェーが250。厳しい練習を繰り返しながら、チームは2部から1部まで昇格、瀬戸は中心選手となり、MFとして年間ベストイレブンにも選ばれる。1部での成績は冴えず、監督も選手も多数入れ替わったが、瀬戸は監督にも信頼され、チームキャプテンとなって出場し続ける。1213年シーズン、昇格以降初めて2位につけ、強豪に勝った時にオーナーが今日の勝利給は4,000ユーロと言ったが、シーズン終了時9位以内でなければ全額返済という条件付きだった。Jリーグでも十分通用するだろうが、彼の目標はチャンピオンズ・リーグ。やってできないことはないと思える
審判も人の子だが、サポーターも人の子。いつも自分が正しいと思っているからサッカーは面白い。そして自分が正しいと思っていることの半分はいつも間違っている。だからサッカーはやめられない

この本を作り始めたのは2年半ほど前。作りたかったのは、自分の好きな写真がふんだんに使われていて、始まりも終わりも起承転結もなくうざいメッセージや小難しい理屈は抜きで、全てが渾然一体となっていて、どのページからでも読み始められ、でもそう簡単には読み切れず、なんだかよく分けがわからないけど、読み終わると何かが分かったような気になって、そして何よりも、今までこんなサッカーの本はなかったね、と言われるような本だった
サッカーのことをあまり知らない人には理解できない表現や専門用語も多少は載っているけれど、出来ればそういう人にもこの本を手に取ってもらって、いい気分で土曜日の午後を過ごしてもらえれば、とても嬉しい




フォトエッセイ集『ボールピープル』が第1回サッカー本大賞に輝く!!
220日(木)、出版社カンゼンが主催する「第1回サッカー本大賞」の授賞式が東京都・神田明神・明神会館にて行われた。ワールドカップブラジル大会が開催される今年、サッカーという競技の楽しさ、奥深さを伝える優れた書籍を選ぶべく、新たに創設された「サッカー本大賞」。今回は、2013年に刊行されたサッカー本の中で8作品が優秀賞として表彰され、その中から「サッカー本大賞」「翻訳サッカー本大賞」「読者賞」という3つの特別賞が発表された。
サッカーを読むことでさらに広がる豊かな世界
フォトエッセイ集『ボールピープル』が“第1回サッカー本大賞”に輝く!!
「サッカー本大賞」と「読者賞」の2冠を受賞した著者の近藤篤氏[]と、「翻訳サッカー本大賞」を受賞した田邊雅之氏[]【写真:松岡健三郎】
 本日17時から神田明神・明神会館にて行われた授賞式では、初めに選考委員長を務める佐山一郎氏より、今回ノミネートされた8作品の優秀作品に賞状が授与された。その後、いよいよ「サッカー本大賞」「翻訳サッカー本大賞」「読者賞」の発表へ……
 最初に発表されたのは、2013年に出版された本の中で最も多くの手に取られたであろう「読者賞」。フットボールチャンネルでの投票数で最も多かった書籍に決定するこの賞に輝いたのは、美しい写真が織りなすフォトエッセイ集『ボールピープル』(近藤篤 著、文藝春秋)。
 続く「翻訳サッカー本大賞」には、『理想のために戦うイングランド、現実のために戦うイタリア、そしてイタリア人と共に戦う日本人』(ジャンルカ・ヴィアリ、ガブリエル・マルコッティ 著/田邊雅之 監修、学研教育出版)が選出された。
 最後には、「サッカー本大賞」が発表され、「読者賞」に続き、『ボールピープル』が第1回目のサッカー本大賞に輝いた。「サッカー本大賞」と「読者賞」の2冠を授賞した著者の近藤篤氏には、賞金とトロフィーが授与された。

サッカー本大賞2014 受賞作


フォトエッセイ集『ボールピープル』が“第1回サッカー本大賞”に輝く!!
サッカー本大賞、読者賞とW受賞した『ボールピープル』(近藤篤 著、文藝春秋)[]
翻訳サッカー本大賞に輝いた『理想のために戦うイングランド、現実のために戦うイタリア、そしてイタリア人と共に戦う日本人』(ジャンルカ・ヴィアリ、ガブリエル・マルコッティ 著/田邊雅之 監修、学研教育出版)[]
サッカー本大賞
『ボールピープル』(近藤篤 著、文藝春秋)
翻訳サッカー本大賞
『理想のために戦うイングランド、現実のために戦うイタリア、そしてイタリア人と共に戦う日本人』(ジャンルカ・ヴィアリ、ガブリエル・マルコッティ 著/田邊雅之 監修、学研教育出版)
読者賞
『ボールピープル』(近藤篤 著、文藝春秋)
優秀作品
『ボールピープル』(近藤篤 著、文藝春秋)
『ザ・シークレット・フットボーラー』(ザ・シークレット・フットボーラー著/澤山大輔 訳、東邦出版)
『理想のために戦うイングランド、現実のために戦うイタリア、そしてイタリア人と共に戦う日本人』(ジャンルカ・ヴィアリ、ガブリエル・マルコッティ 著/田邊雅之 監修、学研教育出版)
『夢想するサッカー狂の書斎 ぼくの採点表から』(佐山一郎著、カンゼン)
『ビエルサの狂気 知られざる戦術マニアの素顔』(ジョン リバス 著/今井健策 訳)
『フットボールde国歌大合唱!』(いとうやまね 著、東邦出版)
『日本サッカーに捧げた両足 真実のJリーグ創世記』(木之本興三 著、ヨシモトブックス)
『セレッソ・アイデンティティ 育成型クラブが歩んできた20年』(横井素子 著、幻冬舎)
【選考委員】
選考委員長:佐山一郎(作家/編集者)
選考委員:幅 允孝(ブックディレクター)、速水健朗(ライター/編集者)、大武ユキ(漫画家)
【協賛】
双葉社、白水社

[ボールピープル]
カメラ片手に世界中を巡るフォトジャーナリストの近藤篤氏。
今回は氏の最新刊となる『ボールピープル』の発売を記念して、コンフェデレーションズ杯の紀行エッセイを発表することとなりました。

2013.6.14.
中東で交わした日本代表論とリオデジャネイロの空港の匂い。~写真家・近藤篤、世界を往く~
[ボールピープル]

中東で交わした日本代表論とリオデジャネイロの空港の匂い。~写真家・近藤篤、世界を往く~

複数の外国語を完璧に使いこなし、大都会から辺境の地、セレブリティな生活からスラムのど真ん中まで、世界のあらゆる場所でフットボールのある風景を撮り続けてきた近藤氏。2014年ワールドカップ開催の地ブラジルで、果たして氏は何を見出すのでしょうか?
 アンマンで行われたヨルダンとの試合後だった。
 試合は12でヨルダンの勝利に終わった。
 スタジアムからの帰り道で、けっこうな数のヨルダン人から、「Jordan! Jordan!」とこちらの鼻先50センチほど向こうで連呼された。中には、ザッケローニが相手チームの選手からされたように、親指で喉を掻き切るゼスチャーを見せる若者もいた。
 ホテルに戻ると、試合前はニコニコと笑っていたホテルの清掃係のボスが、ニヤニヤと笑いながら「ヨルダン、ツー! ジャパン、ワーン!」と大きな声で話しかけてきた。
 オヤジはその日の朝、どう転んでもヨルダンが日本に勝てるわけがない、だってこの前は06だよ! 引き分けられたらグッドラックだ、とものすごく弱気なことを言っていた。
 ところがである。
 ヨルダン人は、日本が負けるまで僕にとってはもの静かで親切な人々だったが、勝ったとたんに横柄になった。そういう人たちはこれまであまり見たことがなかったので、ちょっと困惑した。
 アルゼンチン人がいるじゃないかって? 
 いやいや、彼らは試合前から横柄で、勝っても負けても横柄なだけだ。

日本代表はアジアで「圧倒的に強い」のか?

 ドーハでのイラク戦が終わって、日本代表のブラジルW杯アジア最終予選はすべて終了した。
 最終予選8試合の全てを消化して、ザックジャパンが残したのは、勝ち点17、得失点差は+11という数字だ。ザッケローニ監督は、イラク戦後に「圧倒的な強さを見せられた」とコメントしたという。
 
 圧倒的……? 
 たしかに数字上は圧倒的に強く見える。だが、カメラマンとしてピッチのそばで撮っていて、圧倒的強さを感じたことはほとんどなかった。仕事仲間の口からも、今回の日本代表はものすごく強いよね、という意見を聞いたことがない。
 むしろ、相手チームのダメさ、みたいなもののほうが相変わらず目についていた。たとえば、昨年11月に行われたマスカットでの試合。ホームのオマーンが先にバテてしまっていた。もっと走り込もうよ! と心の中で呟いた。
 グループ中で、オマーン、イラク、ヨルダンは世界基準外だろう。唯一世界基準すれすれのところにいるオーストラリアとの2試合は、いずれも押し切りかけて押し切れなかった試合だった。
 
 本田と長友が抜けると、日本代表の体幹は一気に弱くなる。もちろんその問題はザック本人が一番わかっているはずだ。だからこそ、記者会見で「本田不在で4敗しているが?」と質問をされると、決してそうではない、とムキになって答えるのだ。
 同情の余地はある。突出した選手の出来不出来に結果が左右されるのは、サッカーでは当たり前なのだから。
「だって、本田がいるのといないのじゃ大違いなんて、そんなの当たり前だろうが!」
 ザックの心の声が聞こえてくるようだ。
 それに、もし本田がいてもいなくてもいいサッカーができるのなら、本田を代表に呼ぶ必要もなくなってしまうし。
 とはいえ、20年前にドーハでイラクに引き分けてしまった頃に比べれば、日本代表はずいぶんと強くなった。スッポンだ。
 とんでもなく強くなったわけではないけれど、少なくともアジア圏においてはもうこれから先、「もしW杯出場を逃したら……」なんて心配することもなくなるだろう(出場枠も増えたことだし)。
 日本のサッカーファン、特に昔からのサッカー好きは弱かった時代のトラウマで、依然として自国のサッカーに懐疑的なところがある。アジアにおける強さに関しては、むしろ日本人よりも他国の人の方が正当に、あるいは過大に、評価してるのかもしれない。

「いやいや、エンドウがいるじゃないですか!」

 オマーンのマスカットで行われた試合前日のことだ。ホテルの前から乗ったタクシーの運転手はこう話を振ってきた。
「ダンナ、あんた日本の人だよね。明日の試合はどうなると思うかね?」
「いやー、今回はオマーンにもチャンスあるんじゃないの? だって香川と内田いないし」
「いやいや、ホンダがいるじゃないですか!」
「でも、本田そんなに調子良くなさそうだし」
「いやいや、エンドウがいるじゃないですか!」
 ちょっと補足しておくと、遠藤保仁のアジア諸国における知名度と評価はものすごく高い。ウズベキスタンでもそうだったし、カタールでもそうだったし、イエメンでもそうだった。意外とみなさん好みが玄人でいらっしゃる。
 
 運転手が、試合のスコアを予想しろというので、僕は外交辞令的な意味合いも込めて、22と答え、ついでに彼の予想も尋ねた。
――あんたはどう思うんだ?
21で日本の勝ち!」
 なんだか、今から30年前、日韓戦を前にした20歳の自分を見せられているようだった。

超満員のブラジルの巨大スタジアムで日本代表は躍動できるか?

 そんな最終予選での出来事を思い出しながら、水曜日の夜に成田を飛び立ち、途中ドバイの空港で4時間ほど免税店を眺め、26時間後にはリオデジャネイロに到着した。
 空港名は「アントニオ・カルロス・ジョビン空港」だ。ボサノバの父にして、あの有名な「イパネマの娘」の作曲者である。
 
 相変わらずこの空港に着くと、フルーツの腐乱したような、でもまったく不快ではない匂いと、人々が発する快活な性欲の(ような)匂いを感じる。ここで5時間トランジットして、第1戦の舞台ブラジリアに着くのは夜の9時過ぎ。そして二晩ぐっすり眠れば、いよいよコンフェデの開幕である。
 間違いなく超満員のスタジアム、それもブラジル人だらけのスタジアムで、日本人はブラジル人相手にどんな試合を見せられるのだろうか。
 ブロツワフ(04で完敗した地!)に続いて再びボコられるのか?
 それとも空気を読まないで大健闘し、大会初日から開催国にケチをつけてしまうのか?
 結果がどうであれ、この期待感はハンパじゃない。やはりサッカーは、世界で戦ってこそ、だ。



20130618
催涙スプレーと鈍かったセレソン――。ブラジルに負けて「がっかり」の贅沢。
[ボールピープル]

催涙スプレーと鈍かったセレソン――。ブラジルに負けて「がっかり」の贅沢。

連載第2回となる本稿では、コンフェデ杯の開幕戦となったブラジルvs.日本の試合前後の風景を、文字と写真で切り取ります。
日本ではブラジル戦での大敗ばかりがクローズアップされていましたが、現地では、実はこんなことが起こっていたのです――
 リオの空港で五時間ほど時間をつぶし、ブラジルvs.日本の試合が行われるブラジリアまでさらに2時間飛んだ。宿泊先のホテルに到着したとき、日本を発ってからもう1日半が過ぎていた。
 チェックインの用紙に必要事項を書き込んでいると、フロントマンが聞いてきた。
「コンフェデ?」
 そう、と答え、ペンを走らせながら聞いてみた。
「どっちが勝つと思う?」
 フロントマンは両腕を広げ、あきれたような表情を浮かべただけだった。
「おれたちが勝つよ!」
 ふざけてガッツポーズを見せながらそう言うと(もちろん5%くらいの本気は混入している)、彼は少しムッとして、ぼそっと口にした。
「絶対に、むり」

おれたちのチョキには、おまえのグーじゃ勝てないんだよ。

 ブラジリア到着の翌日、つまりブラジルとの試合前日の午後は、開幕戦に出場する2チームの監督記者会見と公式練習に足を運んだ。場所はナショナルスタジアム、来年のW杯にむけて新しく建てられたスタジアムだ。
 午後240分にスタートしたブラジル代表チーム監督ルイス・フェリペ・スコラーリの記者会見では、会場内のメディアの数があまりにも多すぎ、冒頭の5分が終わるとカメラマンは退場を命じられた。
 記者会見は30分ほど続き、その後にブラジル代表の練習が始まった。
 通常、試合前日の公式練習では、冒頭の15分が撮影のためにメディアに公開される。しかし、ブラジル代表は練習をすべて公開した。ウォーミングアップ、翌日の先発11人によるボールを使ったフォーメーション練習、フリーキック、コーナーキック。
 じゃんけんでチョキを出すふりしてパーを出す、というふうに、相手の偵察部隊をだます作戦なのだろうか。いや違う。そんなセコい話ではない。彼らは泣く子も黙るセレソンである。練習を見せるのは、おれたちのチョキには、おまえのグーじゃ勝てないんだよ、という絶対的な自信があるからだ。それに、練習を非公開にするなんて、ブラジルのメディアは絶対に許さない。
 スタジアムのスタンドでは、ヘルメット姿の作業員(スタジアム周りでは来年のW杯に向けた工事が依然行われている)が作業を中断し、つまりさぼって、セレソンの練習を眺めていた。
 
 いや、眺めていただけではない。
 シュート練習でミスを連発する先発チームのCF、フレッジにいら立ち、数人がゴールポストの左後方から、「ちゃんと決めろよ!」「ようフレッジ、オレの方が上手いぞ!」と大きな声で野次っていた。
 代表の公式練習で、土木作業員のおっさんが選手に野次を飛ばすなんて、日本人には、あるいはオランダ人やドイツ人にだってそうだろう、ちょっと考えられない光景だ。しかし、こういうところもまたブラジルサッカーの奥の深さなのである。
 一方、午後5時から始まった日本代表の練習は、規定通り冒頭の15分間だけを公開した。
 いつもは和やかな表情でピッチに姿を現すことが多い代表の面々だが、この日はみんな真剣な表情をしてランニングを始めた。ホンダってどいつだ? カガワは? ブラジル人カメラマンたちは互いに確認し合いながらシャッターを押し始める。
 ナガモトってどの選手だ?
モトじゃなくてトモだと、横から教えてあげた。

おう、ジャポネス、まあ頑張れよ!

 
 そしていよいよコンフェデ開幕の日が訪れた。
 615日。ブラジリアは朝からいい天気だった。
 ホテルからスタジアムまでは歩いて20分もかからない。スタジアムに併設されたプレスセンターに用があったので、午前10時前、散歩がてらホテルを出た。スタジアム周辺には、すでにけっこうな数の人々がいた。
 
 セレソンのレプリカを身にまとっている人が圧倒的に多いが、贔屓のクラブチームのウェアを身にまとっている人もけっこういる。インテルナシオナル、フルミネンセ、コリンチャンス、etc。中には牛の格好をしている人もいる。
 カメラを向けるとみんな上機嫌に、こちらに向かってブラジル風に親指を立て、笑顔を振りまいてくる。対戦国である日本のカメラマンにも、とことん陽気で優しい。しかしそれはつまり、ある意味で、思い切り上から目線の優しさでもある。おう、ジャポネス、まあ頑張れよ!
 そんな美しい祝祭ムードの朝の光の中、11時前に街の東側から行進してきた1000人ほどのデモ隊が、スタジアムの入り口の一つまで押し寄せ、機動隊とのにらみ合いを始める。
 
 サッカーに使う金があったら、教育に回せ!
 サッカーは空腹の解決にはならない!
 ここ10年でかなり豊かになったとはいえ、まだまだこの国の富裕層と貧困層の差は大きい。彼らの主張していることは文句なしに正しい。
 ひとりの若者が執拗に目の前の機動隊員を挑発し、その様子を見かねた隣の隊員が若者の顔に向かって催涙スプレーを吹きかけた。若者は地面で悶絶する。
 催涙スプレーの飛沫が僕の左目にも飛び込んできて、5分ほど涙が止まらなくなった。
 
 僕はデモの撮影をしにブラジリアに来たわけではないので、これを潮時としてスタジアムの中へと足を運ぶことにした。
 午後2時半、ナショナルスタジアムのピッチ上では華やかなオープニングセレモニーがスタートし、そして午後4時、ブラジル対日本戦のキックオフを告げる笛が鳴った。
 伝え聞くところによると、その頃スタジアムの外では、機動隊がデモ隊に向かって催涙ガスとゴム弾を打ち込んでいたらしい。

ブラジルの選手の動きは、いつもと比べてだいぶ鈍かった。

 さて、ここから先は、みなさんもご覧になった通りである。
 僕自身は、日本代表がなんとかブラジルの攻撃をしのぎ続け、後半相手の動きが落ちてきたところでワンチャンスをものにする、という流れをイメージしていた。開始3分のネイマールのシュートが決まっても、そのイメージは変わらなかった。あそこまで完璧なシュートはいつも決まるものではない。だから、落ち込む必要はなかったし、日本代表の選手も特に動揺している風には見えなかった。
 
 むしろ前半は、ピッチサイドで見ている限り、ブラジル選手の動き、少なくとも右サイドはかなり鈍かったと思う。
 ダニエウ・アウベスなんかバルセロナでの時とは別人のようで、クロスのスピードもなかったし、コースも甘かった。フッキは今サウナから出てきたばかりのように大汗をかいていた。
 このまま踏ん張って後半の後半まで持っていければ、引き分けは十分に狙えると、僕は安易に考えていた。
 ところが後半になると、運動量、スピードともにがくんと落ちたのは、日本のほうだった。
 
 後半開始3分の失点で戦意を喪失したのか、あるいはカタールでのイラク戦の疲労が一気に噴出したのか。とにかく日本代表の足は途中からばったり止まった。ブラジルの喉元にくらいつくどころか、最後の15分は、まるで彼らの調整のために呼ばれたトレーニングマッチの相手のようだった。
 最近サッカーを見始めたばかりだという知人の一人は、試合後、この試合の感想を日本からメールでこんなふうに書いて寄こした。
<日本は手も足も出ない、みたいな感じに見えました。それに比べてブラジルは、3点目なんてサラッと躍るように点を取っていきましたね! 残念だけど、これって予想通りの結果だったんでしょうか?>
 そのメールに僕は、結果は予想通りだったかもしれないが、内容は期待していたものとずいぶん違った、と返事した。
 それに、たしかにがっかりはしたけれど、ブラジルに負けてがっかりできるようになったなんて、君にはちょっとわからないかもしれないけれど、ずいぶん素敵なことなんだよ。



20130622
“惜敗”の地、レシーフェのホテルで、イタリア男と日本サッカーを語った朝。
[ボールピープル]

惜敗の地、レシーフェのホテルで、イタリア男と日本サッカーを語った朝。

連載第3回は、惜敗のイタリア戦にまつわるお話に――
ブラジル戦で完敗した日本代表は、傷心のまま次の土地レシーフェへ。
近藤氏は、海辺の美しい街でボールピープル達に出会います。
 ブラジリアでの開幕戦を撮影した後、翌日の午後の飛行機で日本対イタリアの舞台レシーフェへ飛んだ。
 宿泊先のホテルは市内の南、ピエダージという地区にある。ホテルのすぐ裏は大西洋で、浜辺を散歩しているとボールを蹴っている少年たち、青年たち、あるいは親子の姿を必ず見かける。それほど広い砂浜ではないから、子供たちは潮の満ち引きに合わせて集合し、干潮の時刻にゲームを始める(学校、ちゃんと行ってる?)。もちろんみんな上手い。
 2本の細い棒を砂浜に突き刺して作ったゴールをめがけ、ドリブルを仕掛けたりシュートを放ったりしている子供たちの姿を眺めていると、ブラジルにいるんだなあ、と実感する。

「日本対イタリアの試合、どうなると思う?」「拮抗した試合になるよ」

 レシーフェに着いた翌朝、ホテルのダイニングルームでちょっと遅めの朝食バイキングをとっていた。
 食後のコーヒーをとりに席を立つと、隣のテーブルに座っていたカップルの女性と目が合った。
 黒髪の魅力的な女性である。
Bom dia」と挨拶すると、彼女は「ジャポン?」と訊いてきた。「そうです」と答えると、彼女は自分の左の胸を指さし、「メキシコ!」と楽しそうに笑った。彼女はメキシコ代表チームのレプリカユニフォームを着ていた。ということは、僕と彼女はグループAのライバル同士ということになる。でも、その前にメキシコはフォルタレザでブラジルと対戦することになっている。
 
「レシーフェじゃなくてフォルタレザにいなきゃいけないんじゃないの?」
「残念ながら、彼がイタリア人なの」
 彼女は隣に座っていた男性のほうを向いてそう説明した。
 カルロという名のその男性は、1990年からイタリアサッカー協会で働いていて、今大会は代表の観戦を兼ねて彼女とブラジル旅行を楽しんでいるのだそうだ。
「さっきイタリア代表が泊まってるホテルに顔を出したら、ナカタが来てたよ」
 日本サッカー協会で働く男性で、ガールフレンドと2人で代表チームの宿泊先に顔を出す人はいるんだろうか。
「明日の日本対イタリアの試合、どうなると思う?」
 知り合って3分後、僕は単刀直入に訊く。
「たぶんかなり拮抗した試合になるよ。ブラジル戦の日本はどう考えても悪すぎた。イタリアは調子がよくないし。日本はイタリアみたいな相手は苦手としてないしね」
 僕もなぜか、イタリア相手なら日本はかなりやれるんじゃないか、という気がしていた。
 67月のペルナンブコ州はよく雨が降る。
 
 日本の梅雨とは少し異なり、さっきまで晴れていたかと思うと、一気に黒い雨雲が広がって、30分ほど強い雨が降る。僕のホテルの部屋は15階にあって、窓からは大西洋が見えるが、雨雲はだいたい海の向こう、東の方からやってくるようだ。気温は晴れていれば日中で30度くらい、夜になると25度くらいまでは下がるけれど、湿度が高くちょっと動くだけで全身から汗が吹き出る。
 日本代表は、64日のオーストラリア戦を埼玉で戦い、その後のイラク戦をドーハで戦い、コンフェデ第1戦のブラジル戦は標高1000mのブラジリアで戦った。2週間で4種類の異なる気候、そして時差、選手たちの肉体はかなり疲弊しているはずだ。果たしてこのレシーフェの地で、彼らの体力は90分もつのだろうか。そこだけが心配だった。

ペルナンブコ州のスタジアムは、絶望的にアクセスが悪かった!

 619日水曜日、試合会場周辺では、キックオフまでにすでに何度か強い雨が降っていた。
 会場のアレナ・ペルナンブコは、ブラジリアのナショナルスタジアム同様、来年のW杯のために新築されたスタジアムである。このスタジアムの難点は、とにかくレシーフェの街から遠いことだ。
 車で行くと通常なら40分前後だが、道中何カ所かは、ちょっとした交通事故で絶望的に渋滞してしまう。そしてブラジルでは車同士の衝突やエンストは、周りの誰かがあくびをするのと同じくらいの確率で起こる。電車とバスを乗り継いでゆくにしても、本数はさほど多くないし、車内はかなり混雑している。今後改善されるにしても、現時点では快適という言葉からはほど遠い交通手段である。
 
 ブラジル北東部の街の、それもかなり不便なスタジアムで行なわれるイタリア対日本の試合に、いったいどれほどの観客が集まるのかと思っていたら、この日スタジアムには4万人強もの観客が集まった。
 見渡すと、日本とイタリアからの応援団はごくわずか。あとは地元の人たちが、セレソンのユニフォームを着て、オレはイタリアを応援するとか、オレは日本を応援する、そんなノリでサッカーの試合を楽しみにきている感じだ。イタリア代表のユニフォーム姿のペルナンブカーノ(ペルナンブコ州の人)が多いのは、ただ単にアズーリのユニフォームのほうが手に入りやすいからだろう。
 そして午後7時、主審の笛がペルナンブコの夜空に鳴り響いた。
 
 前半から積極的に前から仕掛け、プレッシャーをかけ続け、イタリアの何倍も見栄えのいいサッカーを披露した日本は、ペルナンブコ州のサッカーマインドを大いに刺激したようだ。最初イタリアを応援していた人も、途中からはアズーリのレプリカを着たまま、ジャポン、ジャポンの声援に加わっていた。
 日本がパスを回すたびに(それも相手はイタリアだ!)スタンドからオーレ、オーレの大合唱が起こり始めたとき、僕はちょっと泣きそうになった。泣かなかったけど。
 しかしながら――
 
 午後850分過ぎ、主審の笛が鳴り、ゲームは43でイタリアの勝利に終わり、日本代表のコンフェデレーションズカップは第2戦で早くも終ってしまった。ファインダーの向こうでは、負けたチームにもかかわらずこの試合のマンオブザマッチに選出されるほどのプレーを見せた香川真司が、数秒間険しい視線を宙にむけ、そしてその場にしゃがみ込んだ。
 隣で写真を撮っていたオーストラリア人のカメラマンは、“Dream is over”と呟いた。彼も途中から日本を応援しながら写真を撮ってくれ、審判のミスジャッジには2人で声を合わせてゴールラインの後ろから聞こえないようにブーイングしていた。

イタリアを応援していた観客は、いつの間にか日本を応援していた。

 ゴール裏のスタンドの最前列にいたブラジル人のオヤジ3人組の1人は、「おい、日本人、下を向くな! 素晴らしいフッチボールだったじゃないか!」と励ましの声をかけてきた。
 僕は別に項垂れているわけではなく、カメラ機材を片付けているだけだったが、とりあえず一度頭を上げて、「応援、オブリガード(ありがとう)」と返事をした。
 3人組の別のオヤジは缶ビール片手に、ワールドカップの時はペルナンブコで試合をしろ、おれらは日本を応援してやっから! と唾を飛ばしながら、わけのわからない熱いエールを送ってくれた。
 キックオフの時点では、判官びいき的に日本を応援するブラジル人が多かっただろうが、ハーフタイムが終る頃には、日本代表は自分たちが見せたサッカーの内容でアレナペルナンブコの観客の心を掴んでいた。
 イタリアに負けたのは悔しかったが、日本代表の試合で、これほどまでポジティブな視線を感じられるのは、素直に嬉しかった。
 翌朝、午前4時まで写真を送る作業をやって少し眠ると、僕は近くのドラッグストアで新聞を買い、朝食をとりにホテルのダイニングルームに入っていった。
 地元新聞の見出しは、『入場料に値した』だった。サブタイトルには、大会が始まってからのベストゲーム、というコピーも添えられていた。
 新聞を読みながら時間を過ごしていると、昨日のカルロが1人でダイニングに入ってきて、僕の前に座り、イタリアが負けてもおかしくない試合だったな、と言った。
 じゃあなんで負けなかったの? と僕が訊き、カルロはこう答えた。
20になったときは、オレも心配した。でも、日本のセントラルミッドフィルダーの2人の足が、前半が終わる前に動かなくなり始めた。これならまだ大丈夫かもしれない、と思ったよ。日本の生命線は7番(遠藤)と17番(長谷部)だよ。あそこが動けなくなったら、日本代表のサッカーはものすごくバランスが悪くなる。で、そのあと、デロッシのゴールで12になって前半が終わった。あそこで、もう負けはないな、と思ったね。あの失点が日本にとっては大きな1点だったと思う」
 クールな意見だった。

「いい内容で負けるより、悪い内容でも勝てた方がよかった」

 前回のコラムで僕は、ブラジル戦は予想された結果だったかもしれないが、期待していた内容ではなかった、と書いた。イタリア戦はというと、内容は期待していたそれを遥かに上回るものだったが、結果は予想していたものとは違っていた。
 面白いゲームだった、それは間違いない。
 日本の方が見ていて楽しいサッカーを演じた、これもまた間違いない。
 しかし、果たしてほんとうに『勝つに値した』のは日本だったのだろうか。
 僕自身も試合後すぐに口にしたように、ほんとうに勝てた試合だったのだろうか。でも、じゃあなぜ負けたのだろう。ディフェンスのミス? 集中力不足? それもまた日本の実力の一部ではないのだろうか。
 日本対イタリア戦の翌日、グループBの第2試合、ウルグアイ対ナイジェリア戦後。この大事な試合を落としたナイジェリアのGKは、いい内容でゲームを進めていたのに残念ですね、というインタビュアーの振りに、微笑みながらこう答えていた。
「いい内容で負けるよりは、悪い内容でも勝てた方がよかったですよ」
 さらにつけ加えるなら、本当にいい内容なのであれば、きっと結果もついてくるんじゃないか。
 あのアレナペルナンブコの夜から1日後、僕は今そんなふうに考えている。



20130626
「トップ8」の壁が日本を苦しめる――。メキシコの“レジェンド”の不吉な予言。
[ボールピープル]

「トップ8」の壁が日本を苦しめる――。メキシコのレジェンドの不吉な予言。

今回は、日本代表最後の試合となったメキシコ戦にまつわるお話。
消化試合なのに5万人以上の観客が詰めかけたスタジアムで、
日本贔屓のブラジル人達の大歓声に日本代表は応えられたのか?
 イタリア戦の2日後、レシーフェからブラジリア経由で第3戦の舞台ベロオリゾンチに飛んだ。
 途中、ブラジリアからメキシコ人の団体客が同じ便に大勢乗ってきた。彼らは前々日、フォルタレーザで行われた対ブラジル戦を観戦し、同じくベロオリゾンチに向かうところだった。中にものすごい美人が1人いたが、残念ながら彼女は僕の座席の斜め前に座り、僕の隣には72歳の年金生活者で、もうかれこれ30年ほどメキシコ代表を追っかけて様々な国を旅しているというファンマヌエルさんが座った。
 僕は、それにしても1次リーグ敗退は残念でしたね、とまるで他人事のようなセリフを口にする。
「まあこういうのもサッカーですよ、サッカーにはいいことよりも悪いことの方が多いんだ」
 妙に達観した返事が返ってきた。
 彼の応援するメキシコは、北中米地域では抜群の強さを誇るサッカー強国である。W杯では過去にベスト8も二度経験しているし、若手の育成も順調だ。昨年のロンドン五輪での金メダルも記憶に新しい。しかし一方で、W杯ではここ5大会連続でベスト16どまりの成績しか残せていない。さあいよいよ、という試合で期待虚しく負けることが多い、言ってみれば大国になりきれない強国なのである。

日本代表の記者会見。いつもの質問と答えが、繰り返される。

 ブラジリアからの飛行機は、1時間のフライトでベロオリゾンチのタンクレード国際空港に着いた。
 
 ベロオリゾンチ。
美しい地平線
 僕はこの街の名前を聞くたび、世界で一番美しい街の名前かも、と思う。
 ファンマヌエルさんと幸運を祈り合い、ターンテーブルから荷物をピックアップして、空港から市内までのタクシーに乗る。ブラジルの空港タクシーには2種類、いわゆる空港前で列を作って待っている流しのタクシーと、料金前払い制のタクシー(まあハイヤーみたいなものだ)がある。流しのタクシーのほうが料金は安いが、僕の経験から言うと3回に1回はまずボラれる(僕が逆の立場でもそうするだろうし)。なので、前払い制のタクシーを選択した。空港から市内まではおよそ50キロ、料金は109レアル。日本円にすると5000円弱。成田から新木場あたりまでタクシーに乗るよりは安いが、以前のブラジルではとても考えられない値段である。
 
 空港からホテルへ向かうつもりで料金を前払いしたが、そういえばたしか両チームの試合前日の公式練習があることを思い出し、途中ミネイロンスタジアムの前でスーツケースごと降りる。スタジアムではちょうどザッケローニ監督の記者会見が始まったところだった。
 会見の内容は相変わらずだ。記者のほとんどは当たり障りのない質問をし、監督も当たり障りのない答えを返す。日本メディアの質問には、観念論的なものが多い。この日になされた質問ではないが、初戦のブラジル戦前日の記者会見で、この大会が終ったとき選手には何を感じていてほしいですか? と訊いた記者がいた。
 おいおい、あんた何が訊きたいんだ?
 一方のメキシコ代表監督ホセ・マヌエル・デラトーレ監督の会見は少々剣呑だった。
 メキシコ代表は今年に入ってから一昨日のブラジル戦まで11戦して18分け2敗、当然メディアのご機嫌は非常によろしくない。おまけに開幕のイタリア戦数日前に、数人の選手が夜間ホテルを抜け出しリオデジャネイロのトップレスバーに出かけ、プライベートダンスを楽しんでいた、という情報がどこかからリークされ、火はさらに燃え広がりそうな気配である。会見場の中の空気は妙にぴりぴりしていた。
「メキシコ国内では、もうあなたには代表監督の座を離れてほしい、という声が高まっている。それについてはどう思うか?」
 1人のメキシコ人記者がこんな質問をする。
 監督は表情をピクリとも変えず、静かな声で答える。
「私は私の仕事を全うするだけだ」
 会場内はなんともいえない冷たい空気に覆われる。

メキシコ対日本の消化試合に、5万人以上の観客が集まった!

 
 コンフェデレーションズカップの1次リーグ最終戦は、公平を期すために同グループの2試合が同時刻に始まる。サルバドルでのブラジル対イタリア戦は1位と2位を決める大事な試合。一方こちらはただの消化試合。どう楽観的に考えても、それほどたくさんのブラジル人がこの試合を見るためにミネイロンスタジアムに足を運ぶとは思えなかった。
 下手をするとスタンドはガラガラ、62547人収容のスタンドで日本人とメキシコ人の声援が虚しく響き合うんじゃないか、と危惧していた。
 ところが……この日ミネイロンスタジアムには52690人の観客が詰めかけた!
 
 もちろんそのほとんどはブラジルのサッカーファンである。キックオフ3時間前頃からスタジアムの周りはにぎわい始め、ビールスタンドは大盛況。みんな生ビールや缶ビールを飲みながら、ほろ酔い気分でわいわいがやがやとやっている。メキシコ人サポーターや日本人サポーターが通り過ぎるたび、メッシコ! メッシコ! ジャーポン! ジャーポン! とエールを送り、励まし、からかい、記念写真を撮り合い、なんだかとても楽しそうだ(そりゃあまあ、むこうはすでに1次リーグを突破してるわけだから、楽しいんだろうけれど)。
 何人かの人に、なんでブラジル戦じゃなくてこの試合を見に来たの?と訊いてみた。
 
「ブラジル戦は夜に再放送で見られるから」
「どうせブラジルがイタリアに勝つのはわかってるから」
「日本とイタリアの試合を見て、日本が面白そうなサッカーをやってたから」
「もう前売り券買ってたから」
 なるほど。
 キックオフ40分前には両チームがウォーミングアップのためにピッチ上に姿を現す。メキシコにはブーイング、日本には歓声と拍手。どうやらミネイロンでも観衆は日本びいきのようである。
 午後4時、とても消化試合とは思えないような騒然とした雰囲気の中でキックオフの笛が鳴る。
 日本代表はイタリア戦のスターティングメンバーから3人を入れ替えた。内田を外して酒井宏樹、累積警告で出られない長谷部に代わって細貝、吉田に代えて栗原。
 一方のメキシコもこれまでの2戦から先発メンバーを6人入れ替えてきた。若手に経験を積ませたいという意図もあるが、同時に9月に控えたW杯予選の対ホンジュラス戦(ホンジュラスは予選で4位につけている)に向け、もしここでもう1枚イエローカードをもらってしまうと、その試合に出られなくなる選手も外しているのだ。

ブラジル人観客の大声援に応えられなかった日本代表。

 
 ゲームは立ち上がりからしばらくは日本が押し込んだ。前半5分には香川がドリブルで持ち込んで惜しいシュートを放ち、10分には遠藤の放ったミドルシュートを岡崎がヒールでコースを変えゴールが決まったかに思えたが、オフサイドの判定が下る。
 しかし15分が過ぎたあたりで、試合のバランスは拮抗し始めた。メキシコは早々に日本のスタイルに慣れてしまったようだった。
 スタンドからは、ジャーポン、ジャーポンのコールが何度も起こるが、日本はその声援に応えるほどのプレーを見せられない。
 
 メヒコ! メヒコ! 数の上では圧倒的劣勢のメキシコ人サポーターが四面楚歌の中で必死に声を上げ、その声に応じるかのように、メキシコは次第にゲームの主導権を握り始める。
 そして後半9分、スコアを動かしたのは、マンチェスター・ユナイテッドにおける香川の同僚でもあるメキシコのエース、チチャリートエルナンデスだった。左サイドからのアーリークロスを見事なヘディングでゴールに叩き込み、ここからゲームは完全にメキシコペースとなる。そして12分後、再びエルナンデスがヘディングで2点目を決める。
 
 ちょっとショックだったのは、スタンドからはジャーポン、ジャーポンの声援が次第に聞こえなくなり、メキシコのパス回しに「オーレ、オーレ」の歓声が起こり始めたことだ。日本は完全に機能不全に陥り、個で仕掛けてもダメ、パスを回してもダメだった。イタリア戦の日本代表はこの日のピッチの上にはどこにも見当たらなかった。
 後半41分、日本はなんとか1点を返したが、ピッチサイドにはそこからゲームが動く予感はまるでなかった。ロスタイムは5分。メキシコがPKを得て川島がファインセーブを見せ、そこで試合は終了した。スタンドからは最後にもう一度、ジャーポン、ジャーポンのコールが上がったが、その声は虚しくベロオリゾンチの夜空に響くだけだった。
 次の試合で日本の真価が問われる――
 イタリア戦の敗北で1次リーグ敗退が決まった後、日本代表のある選手はそう口にしていた。消化試合などない、と。
 長谷部主将は、イタリア戦が日本サッカーのターニングポイントになる、とコメントを残した。
 
 絶対に負けられない試合、というフレーズがある(どんな試合でも基本的には絶対に負けられないのだけれど)。このコンフェデ杯1次リーグ3試合の中で、日本が一番負けてはならなかった試合は、このメキシコ戦だったんじゃないか、と僕自身は思う。
 ただの消化試合に52690人もの観衆がミネイロンに集まり、その多くが日本代表に声援を送ってくれていた。
 彼らは日本代表のサッカーに期待してスタジアムまで足を運んだ。
 その事実を、僕たちは十分に肝に銘じておいたほうがいい。

元メキシコ代表の名フォワード、ボルヘッティが語った日本代表。

 試合後、プレスルームの奥にある食堂に座って、あまり美味しくないバイキングをつっついていると、目の前のテーブルに元メキシコ代表のハレド・ボルヘッティが座った。現役時代のポジションはセンターフォワード、メキシコ代表での通算ゴールは46。これは歴代最多得点記録である。3年前に現役を引退し、今はESPNの解説者として働いているそうだ。試合の印象を訊いてみた。
「今日の日本はイタリア戦に比べると迫力はなかったし、意外性もなかった。立ち上がりは良かったけど、前半の途中からは、メキシコはそれほど苦労することなく日本の攻撃に対処できたね。ところで、なんで日本はあの右サイドバックを先発から外したんだい?」
 それは僕だってザックに訊いてみたい質問だったが、残念ながら試合当日の記者会見には、カメラマンは入れてもらえない。もっとも、酒井宏の代わりに内田がスターティングメンバーで出場していたとしても、結果は大差なかったようにも思えるが。
 303敗。4得点、9失点。
 これが2013615日から22日の1週間で日本代表が残した数字である。
 けっして簡単なグループではないことは、大会前から予めわかってはいた。しかし実際に勝ち点を1もとれず、得失点差が-5になってみると、それはそれでショックが大きい。
「まあでも、こうやってイタリアやメキシコ相手にそれなりの試合をできるようになったんだから、日本もずいぶん進歩したでしょう?」
 僕はテーブルの向こうで静かに夕食をとり続けるボルヘッティに、自分自身が誰かからそう言ってほしいセリフを語りかける。彼は、たしかにそうだね、と相づちを打ち、それでも、と付け加える。
「ここまでの道のりは、そう難しくないんだよ。むしろ、大変なのはここからだ。君も知っての通り、世界のトップ8、そこに食い込んでゆくために、メキシコはもう20年くらい苦しんでいる。そしてもちろん君の国も、これからその苦しさを味わうことになる」
 メキシコが生んだ稀代のストライカーの一人は、そんなえぐいことを優しい口調で語り、にこりと笑って口元をナプキンで拭いた。



20130629
夜中の救急病院、ブラジルのトラウマ、そしてフットボールしかない小さな国。
[ボールピープル]
日本代表が敗退してしまってからのコンフェデ杯。すっかり
日本人がいなくなった異国の地で、夜中に急病にかかる近藤氏。
それにもめげず、ブラジルvs.ウルグアイの試合会場に向かうが……。

夜中の救急病院、ブラジルのトラウマ、そしてフットボールしかない小さな国。

 日本対メキシコ戦の夜、取材を終えてホテルに戻ったら全身にひどいジンマシンが出た。
こんなジンマシンは25年前、チリのサンティアゴでシオマネキの親玉のようなカニを食べて以来である。
 かなりひどかったので、ホテルの近くにあったLIFE CENTERという日曜大工センターのような名前の私立病院へ駆け込んだ。受付で事情を説明すると、係の女性が不機嫌そうに『問診だけで250レアル(日本円で約11000円)かかりますけど』と言う。
 払います、と答えると、15分ほどで診察室に呼ばれた。担当は40歳ぐらいの男性医師だ。
 
「どうしました?」
 シャツをめくってみせた。
「こりゃあひどい。なにか心当たりはありますか?」
 心当たり? 数時間前に終った日本対メキシコ戦を見て免疫力が下がったことぐらいだ。
「特にないです」
 治療室へ移されると、若い男性の看護師がやってきて、注射は2本で、そのうちの1本は臀部に打ちます、と説明した。
 ジーンズを下ろしておしりを出す。注射が終わり、意識が朦朧とする中、再びジーンズを引き上げていると、看護師が後ろでこう言った。
「イタリア戦はほんとにいい試合でしたね。日本の方が勝ちに値しましたよ!」
 たとえ午前零時の救急病院でも、ブラジルという国では、フッチボールは容赦なく語られる。

サンバ、ビール、美女……ブラジルの試合はまさにカーニバル!

 
 コンフェデ杯準決勝のカードはブラジル対ウルグアイ、スペイン対イタリアとなった。笑ってしまうくらい順当な組み合わせだ。
 フォルタレーザの試合はパスし、ジンマシンの夜から3日後の午後1時、ブラジル対ウルグアイ戦に出かけた。
 処方してもらった薬の影響なのか、まだ足元がふらつくが、ホテルのテレビで試合を見ているわけにもいかない。
 試合開始3時間前、ミネイロンスタジアム周辺の歩道はカナリアイエローのユニフォームを着た人々で再びごったがえしていた。見渡す限り、カナリア、カナリア、カナリア。トンボの眼鏡ではないが、僕の網膜もこの独特の黄色に染まりそうである。
 
 スタジアムを背景に記念撮影をする人々、サンバのリズムに合わせて踊るハルクの着ぐるみを着たハルク(ブラジル代表のフッキはHULKのポルトガル語読みです)、TVレポーターは通りがかりのサポーターを片っ端からつかまえて試合の予想をさせ、カメラアシスタントは可愛い女の子からメールアドレスを聞き出している。
 4日前の日本対メキシコ戦でも、たくさんのサポーターが試合前のスタジアム周辺で楽しんでいたが、この日の観客の出足はさらに早かった。もちろん気合いの入り方も全然違う。Brasil! Brasil! ブラジウ! ブラジウ! 誰かが叫び始めるとあっという間に大合唱となる。そして大合唱の後は、ビール、ビール、またビールだ。ブラジルの勝利にかんぱーい! ネイマールのゴールにかんぱーい! 目の前のゴミ籠はあっという間にビールの缶で埋め尽くされてゆく。
 普通ここまでサッカー好きが集まって、ここまでアルコールが入ると、たまに嫌な感じの奴がからんできたりするが、ミネイロンの周りでは見事なまでに誰も彼もが陽気で、さわやかである。
 1人だけ、こちらにむかって「ニッポン負けた、ニッポン負けた!」とふざけたコールをしてくる若者(もちろん冗談半分である)がいたが、イタリア戦で善戦したことばかり持ち出されるのに辟易としていたので、なかなか鼓膜に心地良かった。実際、日本は負けたんだから。それもかなりこっぴどく。
「マラカナッソ!」
 僕はふざけて言い返す。
 今から63年前。1950年、ブラジルで行われたW杯決勝、17万とも19万(嘘みたいな数字だが、本当だ)とも言われる大観衆を集めたマラカナンスタジアムで、ブラジル代表はウルグアイ代表に12の逆転負けを喫した。
「マラカナッソ(日本語では『マラカナンの悲劇』として訳される)」とは、ブラジルサッカー史上最も悲しい出来事。「マラカナッソ」はその後長く語り継がれることとなり、大事な試合でブラジルがウルグアイと対戦するたび、この単語は古い記憶の引き出しから取り出され、警句として発せられてきた。
 とはいえ、20136月のミネイロンで、ブラジルがウルグアイに負けるかもしれないなんて、誰もこれっぽっちも思っていなかったし、僕自身も思っていなかった。

静岡県ほどの国が、世界のサッカー界でトップランクにいる不思議。

 マラカナッソのもう一方の主役について少し語ろう。
 ウルグアイ、正式にはウルグアイ東方共和国。この国はラプラタ川のほとり、国土の西側をアルゼンチン、北側をブラジル、東と南は大西洋に挟まれた、人口わずか330万人の小さな国だ。広大な土地を持つので面積こそ日本の半分くらいなのだが、人口規模でいうと静岡県よりちょっと少ないくらいしかいない。首都はモンテビデオという街だ。
 たぶん普通の日本人は、あるいは普通のノルウェー人だって、ウルグアイのことなんてたぶん何も知らない。しかし、多少なりともサッカーに縁のある人は、日本人でもミャンマー人でも人生のかなり早い段階でウルグアイという単語を耳にすることとなる(ちなみに僕は中学2年生のときにこの国を地図で探した)。
 ウルグアイ。第1回ワールドカップはこの国で開催された。
 ウルグアイ。まだ今ほど世界規模でサッカーが盛んではなかった時代だけれど、過去2度のW杯優勝を飾っている。
 ウルグアイ。国内の二大クラブ、ナシオナルとペニャロールは1980年代の南米を代表するクラブで、トヨタカップのために日本を訪れ世界一の座を獲得したこともある。
 ウルグアイ。ブラジル、アルゼンチンに続くサッカー選手の輸出大国である。
 ウルグアイ。2006年のW杯は大陸間プレーオフでオーストラリアに敗れ、屈辱的な予選落ちを味わったが、2010年のW杯では見事復活しベスト4に進出した。
 ウルグアイ。この国の人は自分たちのサッカーの特徴を“GARRA(ガーラ)という単語で表現することを好む。もとは、猛禽類の鋭い爪を意味するこの単語は、サッカーにおいて語られるとき、日本語に訳すところの「根性」、あるいは「執着心」と訳されることが多いが、僕はもう少し適当に解釈して「ど根性」と訳すことにしている。
 モンテビデオのTV局「カナル12」で、フットボールの中継アナウンサーとして働くアレハンドロ・フィゲレードは、ミネイロンスタジアムのプレスセンターで、ここ数年のウルグアイサッカーの動きをこんなふうに教えてくれた。
2006年のW杯予選でオーストラリアに敗れたことは、我々にとってものすごく大きなショックでした。その後、協会は現在の代表監督タバレス氏と契約を結びます。以後7年間、ウルグアイサッカー史上、これほどの長い期間1人の人物が監督を務めたことはありません」
 タバレス監督はこの7年間でウルグアイサッカー協会を再構築し、これまでになかったような長期的視野に立ったプロジェクトを進めた。結果、今年度のウルグアイは、女子サッカーも含め、FIFAの主催する全ての大会に各年代の代表チームを送り込んでいる。

前半戦、試合を有利に進めていたのはウルグアイだった。

 結果から言えば、この日のブラジルはマラカナッソの三歩手前ぐらいまで追い込まれた感じだっただろうか。
 
 午後4時。主審の笛が鳴り、ミネイロンでの準決勝第1試合は始まった。
 試合前の国歌斉唱で、ブラジルGKのジュリオ・セザルがチアゴ・シウバとマルセロを両腕に抱え、ものすごい迫力で国歌を歌っていたのが印象的だった。
 立ち上がり、ゲームをプラン通りに進めたのはウルグアイだ。
 彼らは序盤から前線、中盤、サイド、それぞれの局面で効果的なプレスをかけ、ブラジルに自分たちのサッカーをさせないという作戦をとった。
 ブラジルはボールを回してチャンスをうかがうが、選手同士のプレーにスペインのような連動性もないし、かつてのセレソンのように個々の圧倒的なうまさもない。日本人の僕が言うのも失礼だが、本当にこのセレソンは地味だ。
 
 日本戦に比べれば両サイドのダニエウ・アウベスとマルセロのコンディションは上がっているようで、この経験豊かな両サイドバックがなんとかブラジルに若干の優位性を与えてはいた。だが、それとてもウルグアイを慌てさせるには十分ではなかった。
 逆に13分には、CKからの競り合いでD・ルイスがルガーノのユニフォームをつかんで倒し、PKの判定が下る。ゴール裏のブラジル人は怒りの声を上げたが、これは明らかにPKだった。しかしこの危機はGKのジュリオ・セザルがファインセーブではじき出し、ウルグアイの先制点を許さなかった。
 その後もブラジルはボールをキープするものの、ウルグアイが効果的にカウンターを仕掛け、6万人のミネイロスの胆を激しく冷やす。前半終了間際に、ネイマールのシュートのこぼれ球をフレッジが押し込んで先制はしたものの、後半立ち上がり3分にはカバーニの見事なシュートでウルグアイが同点に追いつく。
 そこからゲームは再び膠着する。
 ベルナルジ、エルナニス、フェリポンと積極的に選手を投入したが、ウルグアイの強固なディフェンスはさほど綻びを見せなかった。75分、80分、時間はクールに経過してゆき、マラカナッソの足音が遠くから聞こえてくる。
 足音を消したのは、パウリーニョだった。86分、左CKからネイマールの上げたボールをファーポストで合わせ、ブラジル待望の2点目を叩き込む。スタジアムは絶叫し、6万人の観衆が喉から吐き出す雄叫びで、ピッチの上に少しガスがかかる。ロスタイムは3分、ウルグアイは最後のCKGKのムスレラまで上げて勝負に出たが、決められず、ロスタイムの3分が終了した。
 
 結果から言えば、この日のブラジルはマラカナッソの三歩手前ぐらいまで追い込まれた感じだっただろうか。
 ブラジル、準決勝進出。相変わらず冴えないブラジルではあったが、ピッチサイドにいて、ブラジルが負けるかもしれない、そんな感じはしなかった。この日のウルグアイには彼らの最大の武器であるガーラがほんの少し足りなかったかもしれない。むしろ最後に勝利への執念、ど根性を見せたのは、ブラジル代表だった。

「ウルグアイにはね、フットボールしかない」

 それにしても、ウルグアイ。
 
 僕はこの国の代表チームを見るたび、いつも同じことについて考える。なぜ、人口300万人の国がこれほどまでのサッカーを見せられるんだろう? だって、静岡県だけでブラジルを苦しめてるんだぞ。
「ウルグアイにはね、フットボールしかない。そして、フットボールの世界でなら、我々にも何かを成し遂げられる。今から80年も前にW杯を初めて開催してから、ウルグアイ人はずっとそう信じてやってきた。もしかすると、この国のサッカー選手は、背負っているものが他の国の選手とはちょっと違うのかもしれないね」
(アレハンドロ・フィゲレード/ウルグアイのTV局「カナル12」)




20130703
世界王者スペインに、若きセレソンはどう挑むのか……
コンフェデ杯決勝の地は聖地・マラカナンスタジアム。
かつて南米に住んでいた近藤氏が思い出を語ります。
短期連載『ボールピープル ブラジル編』、最終回です!
 準決勝第2戦、イタリア対スペインの試合はリオデジャネイロへの移動中に見た。
 ベロオリゾンチ空港の搭乗待合室に1台だけ、試合の模様を流していた大型テレビがあり、かなりの数の乗客が画面に見入っていた。僕が予約していたフライトは、定刻通りならこの試合の前半が終わる頃には離陸しているはずだった。しかしなんの説明もなく出発は遅れに遅れていた。もしかすると、機長はまだ試合を見ているのだろうか?
 飛行機がようやくタラップを離れたとき、スペインが勝った! と前方座席に座っていた誰かが叫んだ。
 
 隣のブラジル人に、決勝は難しい試合になりそうですね、と話しかけると、彼はこう答えた。まぁでもスペインが相手だと自分たちのサッカーをやらしてもらえるからね。
 確かにブラジルは準決勝で、ウルグアイに自分たちのサッカーをやらせてもらえず、かなり苦戦した。
 でもたとえ自分たちのサッカーをやらせてもらえても、ブラジルはスペインに勝てないですよ。
 僕は内心そう思っていた。

せめて15万人くらい入らないと……マラカナンと呼べないのでは。

 コパカバーナからメディアバスに乗り、コンフェデレーションズカップ決勝の会場に、キックオフの4時間前に着いた。
 Estadio do Maracana
 聖地、マラカナンスタジアム。
 かつて僕はこのスタジアムに何度も足を運んでいた。ブラジル代表の試合、フラメンゴ対フルミネンセ、フラメンゴ対サンパウロ……
 ピッチの両ゴール裏には公衆電話が立っていて、たまにゴールを決めた選手がその電話のところまで走ってゆき、受話器を耳に当てて誰かに電話をかけるパフォーマンスをした。この公衆電話は本当に回線が通じていて、僕も実際に国際電話のコレクトコールで日本にいたGFと話したことがある。
 ピッチの周りには観客が侵入できないよう堀が巡らされ、その向こうには巨大なコンクリートのスタンドが上空にのびていた。僕自身は15万人入ったマラカナンしか見たことがないが、1950年建設当時の収容人員は20万人だったという。嘘みたいに巨大なスタジアムだったが、やがて老朽化が進み、2014年のW杯開催をきっかけに取り壊しが決まった。
 新しいマラカナン。僕は今回コンフェデに来るまで、ブラジルサッカーの聖地と呼ぶべきこのスタジアムは、てっきり以前の収容人数を維持しつつ、新たに建て直されたものだと勝手に信じ込んでいた。今大会でがっかりしたことが2つあるとすれば、ひとつはメキシコ戦の日本の戦いぶり、もうひとつはこのたった8万人ほどしか入れない新しいマラカナンかもしれない。
 せめて15万人くらい入らなきゃ、マラカナンとは呼べないじゃないか。
 試合3時間前、メディア用の入り口を右に出てスタジアムの周りをすこし回ってみる。周辺の道路は数ブロック先から警察にブロックされ、歩行者天国となっている。同業の若い日本人カメラマンから「おつかれさまでーす!」と挨拶され、そのちょっと呑気な言葉の響きに拍子抜けする。
 マラカナンから大通りを挟んだ向こう側には広大なファベーラ(スラム)が広がっていて、以前ならスタジアムの周辺をカメラを持って歩き回るなんて、絶対にあり得なかった。昔はスタジアムへサッカーを見に来るサポーターの中にも危ない連中がかなりいて、試合後にはスタジアム周りでさんざん悪さをしていたものだった。
 
 はたしてマラカナン周辺がもはや危なくなくなったのか、あるいはコンフェデの期間に限って危なくないだけなのか、僕にはわからない(たぶん前者だとは思うが)。
 今大会、スタジアムに来る人たちはブラジルの中でも中流から上に属し、基本的にはお金を持っている人たちのようだ。それが良いか悪いかは別として、幸福で安全なイベント感があたり一面に漂っていた。
 たしかに、サッカー場が安全なことに越した事はないのだけれど……

「本番にはフレッジが絶対に決めますから」と、福西崇史が予言。

 
 午後5時、決勝の舞台はまずブラジル音楽界を代表するミュージシャンたちのライブでスタートした。アルリンド・クーズ、ヴィトール&レオ、イヴェッチ・サンガロ、そして大御所のジョルジ・ベン・ジョール。
 ジョルジ・ベンが、自ら大ファンであるフラメンゴの優勝を記念して60年代に作曲した『Pais Tropical』が場内に流れ始めると、スタジアムは大合唱となる。
Moro num pais tropical……
 ジョルジ・ベンが、オレはフラメンゴの人間だー! と煽ると、場内からは陽気な拍手とブーイングが飛ぶ。楽器類の持ち込みは一切禁止、観客はすべて着席で観戦等、様々なルールに縛られ、あまりブラジルっぽくなかったこの大会で初めて、ああブラジルに来ているんだ、と感じられた一瞬だった。
 
 そして午後7時。オランダ人主審ビヨルン・カイパースの吹くホイッスルで、いよいよ決勝戦が始まる。スタンドはもちろん満席。もちろんほぼ全員がブラジルの応援だ。
 立ち上がり2分、試合はいきなり動く。
 右サイドからフッキが入れたクロスから、背番号「9」フレッジが倒れながらも泥臭くボールを押し込んだ。スタンドのテンションはいきなりトップギアに入る。
 
 この連載の2回目の原稿。ブラジル対日本戦の前日練習で、ブラジル代表のセンターフォワード、フレッジがあまりにもシュートを外し過ぎ、見物していた工事現場の作業員から野次を飛ばされた、という話を僕は書いた。
「見ててください、本番になったらフレッジが絶対に決めますから」
 その前日練習が終った後、ブラジリアのナショナルスタジアム・プレスセンターでそう言ったのは、NHKの解説者をつとめる元日本代表の福西崇史だった。決勝戦、ブラジルに先制点をもたらしたのは、そのフレッジだった。さすがである。
「自分たちのサッカーをやらせてもらえるから」
 数日前、飛行機の隣席のブラジル人はそう口にしたが、この日のブラジルはウルグアイが自分たちにやったことを、スペインに対して仕掛けていった。
 自分たちのサッカーをするよりも、まず相手のサッカーを潰す――
 前半開始から、ブラジルのフィールド選手10人はものすごいタックルとものすごいチェイスとものすごいチャージをスペインにかけ続けた。特にイニエスタとシャビへのプレッシャーは苛烈を極めていた。もしこれが第三国での試合なら、ブラジルの選手は試合開始後数分でイエローカードを出されていたかもしれない。しかしながら、ここはマラカナンだ。ブラジルは王国のプライドをかなぐり捨て、ただひたすら勝利をどん欲に追い求める群れになっていた。
 
 ブラジルの激烈な試合への入り方が、はたしてスペイン代表を慌てさせたのかどうか、選手に直接聞いたわけではないので本当のところはわからない。調子がいいときの彼らであれば、そのブラジルの猛チャージさえ機械のようなパス回しでいなすことができたのかもしれない。
 でも、ピッチサイドで見ている限り、スペインはすくなくとも前半20分ぐらいまで、ブラジルの激しいゲームの入りにやや面食らっていたように感じた。
 スペインは、フォルタレーザという赤道にほど近い街で120分間戦い、そのあと中2日で決勝を迎えている。身体がゲームのリズムを掴む前に、ブラジルに完全にイニシアチブをとられた形だった。

ゲームの行方を大きく左右した、ダビド・ルイスのプレー。

 前半20分を過ぎると、試合のリズムはすこし安定する。
 先制した後もブラジルはプレッシングを緩めなかったが、スペインも落ち着きを取り戻し、自分たちのサッカーを構築し始める。しかし、中盤での素早いパス回しではリズムを取り戻したものの、バイタルエリアがなかなか攻略できない。一方のブラジルは自陣ペナルティエリア内で相手のボールを奪うと、そこから中盤を省略して一気に前線へとカウンターを仕掛ける。
 ゲームの行方の3分の1ほどを決めたのは、前半41分のダビド・ルイスのプレーだろうか。
 マタのパスを受けてペドロがフリーで打ったシュートを、ダビド・ルイスはゴールライン上、捨て身のスライディングで阻んだ。その3分後、ブラジルはエースのネイマールがカウンターから豪快なシュートを決め20とする。
 20というスコアはサッカーでは一番危険なスコアだと言われる。しかしこの日のブラジルは違った。
 
 後半2分、フッキが前線でためて出したパスをネイマールがスルーし、後ろから走り込んで来たフレッジが見事なインサイドキックで3点目を決める。ゲームの流れが決まった2つ目の“3分の1”はここだった。
 日本戦同様、ブラジルは後半開始早々から、「さぁこれから!」という相手のやる気をさらに上回る気迫でピッチに入り、欲しかったもう1点をもぎ取った。これほどゲームプランが上手く運ぶことも珍しいだろうが、この日のマラカナンではボールの弾み方すらもブラジルの勝利を後押ししているようだった。
 そして……ゲームの流れを決めた最後の“3分の1”は、そのブラジルの3点目が決まった7分後、ヘスス・ナバスが得たPKをセルヒオ・ラモスが外したことだ。
 スペイン代表の身体と心の電池はここで完全に切れ、後半23分にはドリブルで持ち込んで来たネイマールの足をピケが不用意に引っ掛け、一発退場。
 シャッキーラ! シャッキーラ! スタンドからの大合唱の中、ピケはピッチを歩き去る。
 
 ゲームは終った。
 僕も一緒に小さな声で、シャッキーラ、シャッキーラ、と合唱に加わる。
ラテンポップのディーバと呼ばれる恋人の名前をコールされながら退場するなんて、ピケは幸せ者だ。
 1人少なくなったあとでもボール支配率で上回り、攻め続けたスペインはさすがだったが、03のスコアをひっくり返すだけの余力はもう残っていなかった。一方のブラジルは大観衆のオーレのかけ声と共にボールを回そうとするのだが……彼らのパスは5回も続かず、スタンドから次第にオーレのかけ声が出なくなった(笑)。
 やっぱりこのセレソンはあまり上手くはない。
 試合後のセレモニーが終わり、スタジアム前からメディアバスに乗ったのは午後10時半、コパカバーナには11時過ぎに着いた。
 市内は大騒ぎになっていると思っていたが、深夜営業のカフェやレストランでは、カナリア色のレプリカに身を包んだ人たちが、テレビで流れるブラジルの得点シーンを眺めながら、静かに食事をしたり、ビールを飲んだりしているだけだった。夜のコパカバーナに、Brasil! の叫び声が響くこともなければ、ネイマールやフレッジの名前が連呼されることもなかった。
 やっぱりコンフェデはコンフェデ。ワールドカップではないことを、ブラジルの人もよくわかっている。僕もレストランに入り、彼らと同じようにテレビ画面を眺めながら、遅めの食事をとることにする。

世界王者スペインの顔に泥が塗られて……ただでは済むまい。

 コンフェデ。長かったような、短かったような、そんな2週間だった。
 3戦全敗という結果を残し、日本代表がブラジルを離れてからは、比較的時間がゆっくりと過ぎていったような気がする。
 2週間で撮ったゲームは5試合。日本に戻るにはちょうどいい腹具合だ。メインディッシュは予想外の展開となったが、ブラジルが勝ってよかったと思う。依然としてこのセレソンがそんなに強いとは思えないが、決勝で見せた彼らの勝利にかける気迫は、本当に凄まじかった。サッカーというスポーツにおいては、流れを掴むことがどのくらい重要なのか、それを改めて知らされたゲームでもあった。
 そしてなによりも、絶対王者スペインの顔に泥が塗られた。
 次の彼らは完璧な用意をして、必ずその泥を拭いに戻ってくるだろう。
 W杯で再びこの両国が相見えるところを想像しつつ――僕は、左の頬骨を指でそっとなぞる。
 マラカナンでの試合終了後、観衆に手を振って走る大喜びのダビド・ルイスを追いかけながら写真を撮っていたら、思い切り振り下げた彼の右肘ががつんと当たった。彼の方が先に驚き、大丈夫? と僕の肩に大きな右手を置いてきた。
 ダビド・ルイスのファンなら失神ものの肘打ちだ。頬を触ると少し血が出ていた。
 最後の最後でダビド・ルイスの肘打ち。
 この傷は2013年コンフェデのお土産として、ありがたく頂戴しておくことにする。

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