厨川白村  張 競  2025.12.9.

 2025.12.9.  厨川白村 「愛」は人生の至上至高の道徳

 

著者  (ちょう きょう、1953913 - )は、比較文学・文化史学者、明治大学国際日本学部教授。日中比較文化論を専門とする。

1953年、上海生まれ。華東師範大学を卒業。その後来日し、1986年に東京大学大学院総合文化研究科に入学して比較文学比較文化を専攻。1988年に修士課程修了、1991年に博士課程を修了し、博士(学術)の学位を取得した。

1992年、東北芸術工科大学助教授に着任。國學院大學助教授を経て、明治大学法学部教授、2008年より同大学国際日本学部教授。

1993年:『恋の中国文明史』で読売文学賞

1995年:博士論文として提出した『近代中国と「恋愛」の発見』でサントリー学芸賞を受賞。

 

発行日           2025.9.10. 初版第1刷発行

発行所           ミネルヴァ書房

 

 

プロローグ なぜ いま厨川白村か

第1章        京都と大阪で過ごした幼少年時代

第2章        最初の音符を奏でるのは大事だ

第3章        鉄は熱いうちに打て――三高で過ごした日々

第4章        象牙の塔での悲喜劇――東京帝大での歳月

第5章        三高の英語教授になるまで

第6章        新進気鋭の評論家のデビュー

第7章        左足切断という不運に見舞われる

第8章        アメリカ留学での体験

第9章        学界と論壇を股にかけて

第10章     人生の頂点から思わぬ結末へ

エピローグ 日本から東アジアへ――独り歩きする人間像

 

 

プロローグ なぜ いま厨川白村か

伝記が偉人や有名人の生涯の歴史であるならば、厨川白村という人物の精神世界を透視する作業は、名もない冬の山に立ち向かうようなもの。なぜなら、白村は著名どころか、その名前すらほとんど知られていないから。僅かに「1920年代中国の村上春樹」といわれる

一時的に、知的流行の最先端を行く文芸評論家であり、時代の寵児でもあったが、瞬く間に忘れ去られた。その理由を探るのは、漂泊する近代人の精神世界を映し出すことになる

東アジアの近代に目を転じると、この人物ほど文化の境界を超えて、強烈な近代知の輝きを放つ者はいない。中国近代文学において、白村は途轍もなく人気のある批評家で、魯迅をはじめ多くの文学者がこぞってその文学評論や文明批判を翻訳し、尊敬された人物であり、たとえ今日の日本で無名であったとしてもその名は精神の記念碑に刻み込まれるべき

 

第1章        京都と大阪で過ごした幼少年時代

1. 謎の残る幼年期

1880年、京都市中京区押小路(当時は上京区)の生まれ。父磊三が弟からもらった養子。幼少期の詳細は不詳だが、あまり幸せなものではなかった

厨川は、奥州の豪族安部貞任の末裔。磊三は豊前中津藩士だが、白村は中学を京都で終えている。磊三は、広瀬淡窓の塾に学び、長崎で蘭学を収め、一時福地を名乗る。幕末維新の時代、後藤象二郎とも交友があり、伊藤博文とは肝胆相照らす仲という

母セイは京都の生まれ、昭憲皇太后の女官の経歴を持ち、厳格だったという

磊三は、京都府に勤務後大阪造幣局へ。退職は白村が三高入学の時

2. 小学校時代の面影

大阪では、最も古い公立滝川初等小学校に入学、飛び級して公立盈進(えいしん)高等小学校に進学。教育熱心な両親の下、漢文の個人教授につき、『日本外史』を読む

3. エリート教育への第1

'92年、飛び級で大阪尋常中学(府立一中、現北野)に進学。当時の中学は全国に62校しかなく、エリート教育を受ける。平均点はそこそこだったが、幾何で失格点を取り留年

 

第2章        最初の音符を奏でるのは大事だ

1. 英詩翻訳の試み

野球に熱中。文芸活動にも参加し、校友会誌に新体詩に似た英詩翻訳を発表

中学は創立以来欧学校の伝統があり、外国語教育に注力

2. 若き精神が奏でる詩の旋律

詩作に耽る。定期刊行された校友会誌が発表の場。三高に進学後はのめり込む

3. 批評のための予行演習

'96年、体調を崩した療養中に随筆『病床漫筆』を書き投稿

翌年には、文学青年が文芸の園地として憧れた全国誌『文庫』にも寄稿

'97年、京都に戻って京都府尋常中学(府立一中、現洛北)に編入

 

第3章        鉄は熱いうちに打て――三高で過ごした日々

1. 三高進学という関門

'98年秋、半年のブランクの後、三高の文乙に入学。父親の定年退職で家計は苦しい

2. 誇り高き三高生になって

‘97年、京都帝大新設に伴い、三高に大学予科設置。白村はその2回生

3. 自由な校風に育まれて

一高は自治を尊び、三高は「校風が自由」で知られる。教授陣も学校長以下大らか

雑誌部では編集を担当、演劇部(弁論部)では講演会を組織したり、自ら演説を披露

4. 校友会誌の編集にも

寧楽文化に並々ならぬ情熱を傾ける一方、英文学にも惹かれ、シェークスピアに心酔

'22年、英皇太子の京都帝大来訪時には通訳を務める

根っからの「関西ナショナリスト」で、東京に対し強い対抗意識を持つ

'01年卒業、文学士となる

 

第4章        象牙の塔での悲喜劇――東京帝大での歳月

1. 赤門をくぐって

東京帝大に進学するには50円ほどの金が必要、古希を迎えた老父は必死で工面する

2. 最高学府で味わった苦楽

加納治五郎の柔道教育の施設として下富阪の講道館と共に開設された善養塾に寄宿

3. 教える「天才」を目の当たりにして

入学時の総長は菊池大麓、すぐに山川健次郎に代わる。英文科には小泉八雲が講師で在任、1年目からその教えを受け、八雲を「天才」と呼ぶ。1年後には特待学生になり授業料免除

4. 恩師の「解任」騒動に巻き込まれて

小泉の後ろ盾だった外山正一は、総長から文相に出世したが、'00年急逝したこともあって、小泉の雇用契約が'033月で終了することとなり、英文科学生は全員退学で対抗。白村は親の苦労を思って1人反対したため孤立。小泉の自主辞職で決着

5. 夏目漱石の教えを受けて

代わって講師として着任したのが漱石。1年生の小山内薫や川田順らを始め、大方は不満たらたらで授業にも出ず。同時に講師になった上田敏は人気

白村は唯1人漱石を熱心に受講、自宅にもよく出入り。卒業後の就職先も漱石のいた五高

6. 悲喜こもごもの巣立ち

文芸誌『帝国文学』の編集にも携わる

‘04年卒業。恒例の2年生による「卒業予餞会」を白村は謝絶したため、八雲騒動が再燃し、白村は孤立。対人関係では他者の品行に一点の曇りも許さない苛烈な性格を隠さず、社会生活においては円満な人生よりも、あえて茨の道を歩もうとした

学士号希望者に限り卒業試験が行われ、白村も試験を希望し、学士号を手に入れる

卒業証書授与式には天皇が臨席。卒業生は456名、英文科はわずか10名。各学科の優等生12名に銀時計。白村は文科大学の総代で、侍従から恩師の銀時計を拝領

蝶子夫人の証言を基に書かれた略年譜では、卒業後大学院に進み、漱石の指導の下に「詩文に現れたる恋愛の研究」を始めたとあるが、事実誤認で、五高の教授に就任

 

第5章        三高の英語教授になるまで

1. 見知らぬ地で田舎教師になる

'049月、熊本赴任。教授は「奏任官」(高等文官)。従七位(16階の下から3番目)

着任直後に八雲の訃報を聞く(享年54)。白村の人格形成、学問に対する関心に決定的な影響を与え、八雲から受けた学恩を機会ある毎に回想を書き続け、『小泉先生そのほか』(‘18年刊)にまとめて出版

2. 英語教師の評判

学生は弊衣破帽、白村も質素な暮らし。教壇で銀時計を見せびらかす癖があり、周囲は鼻についたが、それは漱石譲り。漱石も癇癪もちで学生に厳しかったが、白村はそれ以上

剛毅な生徒と衝突、教え子の大内兵衛も後々まで厳しさを忘れず

3年しか在職しなかったが、豊富な学識で閉塞しがちな地方高校に新風を吹き込む

3. 相思相愛の末に

長崎の親戚福地家に頻繁に出入り。福地源一郎(桜痴)の姉よしの娘タイと養子達雄(源一郎の弟?)の末っ子がてふ(蝶子)。源一郎の息子信世がてふの姉つたを嫁に迎え福地家を継ぐ。源一郎は蝶子の大叔父であり伯父?でもあり、蝶子は父達雄の早逝で源一郎の家を「実家」と呼んでいた。白村も桜痴とは対等に議論したり、帝大生相手の講演を依頼したりする仲

長崎で、親戚筋の蝶子とは早くから交流があり、白村が卒業前に詠んだ唯一の創作詩はシェークスピアに発想を得た恋の歌で、蝶子に読ませようと企んだ可能性は大

五高に赴任後婚約。蝶子も辰夫への思いを隠さない、明治の新しい女で、お互い相思相愛

‘06年結婚、唐津へ、当時としては珍しい新婚旅行

4. 名物教授の泣き笑い

美人の嫁の派手な振る舞いが熊本市民の評判となり、生徒の悪戯の標的に

白村は評論より私の翻訳に取り組み、独仏の詩にも挑戦。上田敏を尊敬。投稿を続ける

5. 母校の教壇に立つ

‘07年、長男誕生後、三高へ移籍。五高在任中に正七位に昇格

教え子には片山哲など俊秀が多く、名声を慕って入学してきた学生もいる

学生が重宝していた当時唯一といってもいいほどの『新訳英和辞典』(神田乃武訳)を酷評

 

第6章        新進気鋭の評論家のデビュー

1. 人気者と道化役は紙一重

蝶子夫人は、芥川が評判を聞いてわざわざ京都まで会いに行ったくらいの美人

‘07年、『虞美人草』の連載が始まると、主人公のモデルではとの噂が一気に広まり困惑

夫婦そろってモデルであることを否定したが、白村は留学から戻った翌’19年、「『虞美人草』の主人公(のような奔放な悪女)が好きだ」と公言

2. 新進気鋭の教授の光と影

思ったことを率直に言う白村は、同僚とは緊張になりがちだが、外国人教師とは馬が合う

東京に対抗して、京都の文学を盛り上げようと、種々奔走

3. 文壇に殴り込む

ラテン語も教え、弁論部の活動も支援、新聞へも寄稿

菊池寛はかつて上田敏と白村を比較して、「上田敏は自分の鑑賞趣味で読んでいる程度に過ぎないが、文芸に対する理解は白村より上」と言ったが、白村は趣味が多様で、読書の幅も広いものの、専門書しか読まないという印象を世間に与えていた

‘09年、初めて同時代の日本文学について正面から批判した『中央文壇を警(いまし)む』を書く。初めて完全な口語文体の文章。批判は以下の3点、①西洋文学の流行をむやみに後追いした岩野泡鳴らの自然主義文学批判(岩野の漱石批判への反論でもある)、②文学批評がないことに対する不満、③外国文学紹介が表面的な理解に留まっていること

漱石が沈黙する中、岩野と白村の論争は暫く続く

4. 処女作が誕生する前夜

白村の自然主義文学批判は続き、「情緒主観」こそ文学の中心的な流れで、西洋の自然主義文学は軌道修正の役割しか果たしておらず、文学の主流にはなっていないという。白村の言う「情緒主観」とは、人間の感情を描き、想像の世界を表現することを指す

5. 処女作がベストセラーに

'12年、白村の処女作『近代文学十講』刊行。自らの講義「近代文学を論ず」の講演原稿をまとめたもの。前宣伝もあって世間の注目を集め、’26年には90版。戦後も角川文庫に収録。一夜にして有名人になる

「西洋」とか「欧米」とかの修飾語を加えない「近代文学」という言葉を書名に使ったのは白村が初めて。文学に限らず欧米文化や思潮の最新動向も多く紹介。「十講」という題名も好評

成功した最大の原因は、世の中の動きをよく読み取り、時代の要請に応える内容構成で、国別ではなく欧米文学全体を対象として同時代の文学を思潮史の観点から鳥瞰的に紹介、「文学思潮」によって、どう互いに響き合い、いかに全体として有機的に繋がっているかを初めて分かりやすく解き明かした。皮相的な紹介文だが、発想のユニークさは抜群で、大正文学の金字塔ともいわれる

6. さらなる飛躍へ

肯定的な批評が多く、海外にも知られ、中国が真っ先に採り上げ、魯迅訳はじめ多くの翻訳が刊行される。本書以外の単行本も殆ど翻訳される

'08年、恩師の上田敏が京都帝大講師に委嘱されるが、詩文を認める風雅な生活に憧れた上田は、'13年東京に戻るために白村を後任に推挙し辞職

 

第7章        左足切断という不運に見舞われる

1. 『文芸思潮論』を刊行するまで

'13年、京大文科大学講師を嘱託となり、三高教授と兼任

2年目の後半、海外留学

独断と偏見に基づく過激な意見を表明して憚らないのは相変わらずで、人生問題や思想問題など人間の精神生活に触れる、文芸宗教哲学の本なら、立派な書物の名に値するが、経済、技術、医学などの書籍はすべて人間の物的欲求に応えるもので、高尚なる精神を求めるものではないから「本当の書物」に値しないどころか本当の書物の面汚しだと罵倒。文学でも古典を味わうべきで、現代文学は面白いかもしれないが、精神の糧にはなり得ない

'14年、2作目『文芸思潮論』刊行。前年の京都での文芸講座での連続講演をベースにしたもので、ヨーロッパ文明をキリスト教思潮(ヘレニズム)と異教思潮(ヒブルウ思想)のせめぎ合いという視点から捉え、「霊と肉」や「聖と俗」という2項対立として捉えようとした。様々な2項対立こそが文学芸術を生み出し、千変万化させる原因だとしている。文壇からの大きな反響はなかったが、知名度もあって売り上げは上々。ますます売れっ子に

2. 左足切断という厄災に見舞われる

長男を聖公会の聖マリア幼稚園に通わせる。白村は正6位に叙せられる

'15年、湯たんぽによる低温やけどから細菌が感染、切開したが大量出血に見舞われ、命の危険が迫る中、足を切断して一命をとりとめる。義足を装着して回復は順調

3作目となる『狂犬』出版。犬の口を借りて現代を熱罵した創作の小説と翻訳7本からなる。批評界から完全に抹殺され、メディアも取り上げず、評価は不芳

3. アメリカ留学への旅立ち

東京に移住し、留学の準備を始め、'16年早々には渡航。途中ハワイに立ちより、米流行作家ジャック・ロンドンと出会う。ロンドンはその10カ月後カリフォルニアの自宅で急逝

 

第8章        アメリカ留学での体験

1. ニューヨーク生活の泣き笑い

横浜を発って18日後にサンフランシスコ着。列車でシカゴ経由ニューヨークへ

夏まではコロンビア大学、秋と冬はジョンズ・ホプキンス大学で英文学を研究する予定

212 West 122 Streetのアパートに下宿

世界で演劇が衰退に向かう中、ニューヨークは例外で、世界の劇団が公演。白村は見た芝居の感想や演劇界の新しい動向、メディアでの劇評など、こまめに国内向けに発信

五高時代の教え子で大蔵省から派遣されていた大内兵衛と同宿となり意気投合

2. 肌で触れたアメリカ文学

活躍中の文学者たちとの交友も心掛け、最初に会ったのが女流詩人のエディス・マチルダ・トーマス(1854)。彼女を起点に詩人の友人の輪が広がる

コロンビア大所縁のクラブでの講演も引き受け、日本文学に与えた西洋文学の影響について話し、現代の日本文学を紹介

3. 懐郷の念がそそられる異国体験

'16年、訃報が相次ぐ。父親(享年77)、上田敏は41歳で急逝。年末には漱石も鬼籍に

夏にはジョンズ・ホプキンス大学へ通うためにボルチモアに移住。フランス劇団の公演でサラ・ベルナールを見る。この大女優も膝の骨結核で古希を過ぎて右足を切断していた

4. 幻の『現代日本小説集』英訳の波紋

アメリカの実業家シェルコフの夫人アンナが現代日本の小説の翻訳を企画、来日して翻訳者を探すが、その企画に対し群雄割拠の日本の文学界から、鈴木三重吉らが夫人の編集者としての資格や、作家に対する以来の非礼なやり方に不満の矛先を向けその企画を批判。26人の作家が選ばれたが、ごたごたに加えもともと商業的に利益が見込めるものでもなく企画は立ち消えに。白村も当初夫人から相談を受けて編集や翻訳に関わっていた

5. シェルコフ夫人の正体

シェルコフは、祖父がナイアガラの水源エネルギーを利用した水力発電事業で富を築き、銀行業・ホテル業などに進出

'17年、京都帝大文科大学助教授に任命され帰国の途へ。上田敏の後任

 

第9章        学界と論壇を股にかけて

1. 京都帝大復帰の重み

アメリカでの見聞を基にした『北米印象記』('17年連載開始)は白村の文名を一層高める

京大では文学概論と英詩の購読を担当。「文学の研究は語学の堅実なる素養を基礎とせねばならぬ」を持論に、博覧強記ぶりを発揮して帝大生を圧倒

前任の漱石が小説家になり、上田敏が文学批評家や翻訳に重きを置いたのに対し、白村は職業としての英文学教授に徹している。原書購読、音読、逐語訳の授業法を定着させた

2. 語り継がれる伝統の虚実

洋風な生活習慣は、周囲からは気障に見えた

三高教授以降は服装にも凝り始める

明治末期から大正前半にかけて、恋愛の自由や女性解放はまだ際どい話題だったが、白村は時代の空気を全く読まず、新聞・雑誌に寄稿しては鼓吹していたため、若者や女性からは喝采を浴びたが、同僚らには冷ややかに見られた

教え子の矢野峰人のように、白村の薫陶を受け、終生師と仰いだ人も多い

矢野 峰人(やの ほうじん、1893-1988)は、日本の詩人英文学者。本名は矢野禾積(かづみ)。

岡山県津山市で生まれた。幼時に父母と死別し、母方の祖母、叔父に育てられた[1]。津山中学校(現・岡山県立津山中学校・高等学校)在学中、文学雑誌『文章世界』『秀才文壇』などに盛んに投稿。同級生に片岡鉄兵中山巍、上級生に出隆らがいて親交があった[2]第三高等学校を経て、京都帝国大学文学部に進学。英文科で上田敏[3]厨川白村の教えを受けた。卒業後は、第三高等学校教授に就いた。1935年、学位論文『アーノルドの文学論』を京都帝国大学に提出して文学博士号を取得[4]。その後、台北帝国大学教授に任じられ、台湾に渡った。大学では島田謹二(英米文学、戦後は比較文学研究で著名)と同僚となり、その後も終生交流した[5]。戦後、旧・東京都立大学総長に就いた。1964年、23東洋大学学長に就任[6]1967年に学長退任。1988年に死去。

英文学のうち英を専門とし、訳詩、評注を多く著した。また、自身も若い頃より創作活動を続けており、詩を書いた。詩集『幻塵集』、訳詩集『しるえつと』、自伝『去年の雪』などがある。近年、選集(全3巻、単行本未収録作品が多数入れた)が刊行された。

3. 意図せぬアメリカ論

現代アメリカ社会を紹介・批評した『北米印象記』は好評。他のエッセイと一緒にして『印象記』を刊行(‘18)。ベストセラーとなった背景には、新興国アメリカへの関心の高まりがあり、日本人の対米認識の修正に大きく貢献。その先見の明に感心せざるを得ない

アメリカは、「群衆」「黄金」「女王」という3大暴君が君臨するといい、市民の力の興隆、拝金主義、女性優先を取り上げつつ、アメリカ社会の文化面や精神生活についても紹介

特に目立つのがアメリカ女性とキリスト教の影響についての紹介と批評

4. 社会批評や文明批評にも

文明が上がるにつれ、時事問題についても意見が求められるようになった白村は、’18年の米騒動では「安価生活を哂ふ」と題する随筆を発表、「味ひ」を軽視した安価生活を批判するという机上の空論で顰蹙を買う

1次大戦中のヨーロッパ文学紹介の評論では、「戦争のために欧州の思想と文明はその進歩を阻まれた」とし、戦争への憤慨を冒頭に表明している

終戦とともに『平和の勝利』を、『小泉先生そのほか』(‘19)の巻末に加え、ヨーロッパの人たちがこの戦争の愚かさと平和の大切さに気付いた結果の終戦で、交戦国どちらかの勝利ではなく、平和の勝利だと強調。ところどころに武力万能の迷夢から醒めない日本への批判が覗く

文化人として目されるようになり、『大阪朝日新聞』創刊記念の文芸創作懸賞募集では、正宗白鳥、有島武郎と並んで「短編小説」部門の審査委員に名を連ねたり、京都大丸演劇部の公演では舞台監督にも

‘19年、教授に昇格。西洋文学第二講座担当。翌年には博士号、従五位叙任。英留学は断念

 

第10章     人生の頂点から思わぬ結末へ

1. 海外にも名を轟かせて

文部省の高等学校英語科教授検定試験の委員に、神田乃武(元東京帝大文科大教授)や市河三喜(東京帝大英文科初の日本人教授)らとともに任命

『象牙の塔を出て』(‘20)は、「男女ともその若き血を湧かして共鳴した」と評されたように毎日のように増刷を重ねるベストセラーとなる。中国の読書界でも広い関心を集め、魯迅は翻訳して雑誌に発表、中国社会の旧弊陋習を打破する改革にとっての有用性を説く

講演や寄稿に引っ張りだこ、徳富蘇峰、市川房江、尾崎行雄などとともに人気を博す

'21年、高等官2(次官・局長クラス)、正五位

同年、バートランド・ラッセル訪日の際は、京都での歓迎会で挨拶

ラッセルは、第1次大戦中、平和運動に身を投じたため危険思想家として投獄された経緯から日本入国は難しかったが、在中国日本大使の尽力で訪日に漕ぎ付けた

2. 「ラヴ・イズ・ベスト」という神話の誕生

'21年、『近代の恋愛観』が『朝日新聞』で連載開始。翌年単行本化。当時卑しむべきものだった「恋愛」を京大教授が大々的に賛美したとして注目を集め、特に若い女性に圧倒的な人気で、人目を憚らずに新聞や本に没頭、社会的変化の起爆剤となる

当然批判の声も強く、売名、軽薄、火に油を注ぐなど

'22年、英国皇太子(後のエドワード8)が昭和天皇の英国訪問の返礼として来日。京大訪問時には大学収蔵の稀覯品を参観、言語学講座の新村出、国史学講座の三浦周行、西洋文学の白村の3人が案内役を務め、白村が皇太子に解説した

鎌倉材木座乱橋に別荘を新築。工事請負は日本初のハウスメーカーのアメリカ屋

3. 予想外の厄災

7月、有島武郎が軽井沢で心中。有島が白村編集の英文エッセイ集を教科書として使っていたのが縁で2人の行き来が始まる

『近代の恋愛観』の中で、「は人生の至上至高の道徳であり、は一切ジャスティファイする」と言い放った白村だったが、さすがに「恋愛のための死は美しい」とは言えず、「第三者による「客観の批判」は容認すべきではない」と言うのみ

1年前に大腸出血を発症して以降体調がすぐれず、静養もあって鎌倉の別荘(「白日村舎」と名付ける)に家族で滞在。子どもたちを新学期で京都に送り出した後、東京での講演のため白村は別荘に残る

震災の津波は、9尺とも2(1丈=10)とも割れ、乱橋の住戸607戸の内全壊250戸、半壊326戸、津波に押し流されたのは30

夫妻とも倒壊した家から這い出して滑川方面に逃げるが、橋の途中で津波に襲われ、泥まみれになって発見される。大量の泥を飲み込んで誤嚥性肺炎を起し、翌日昼過ぎ死去

3か月後、友人らの尽力でエッセイをまとめた『十字街頭を往く』が刊行(1年で91版に)

震災の1カ月後には、廃墟から遺稿が見つかり、『苦悶の象徴』と題して翌年刊行(50)

既刊の人気も続き、『近代の恋愛観』は113版まで増刷

‘26年、遺著『最近英詩概論』刊行。五高教授だったころの原稿

美貌の蝶子夫人はまだ36歳。何度も再婚の噂が流れる

 

エピローグ 日本から東アジアへ――独り歩きする人間像

ライフワークと位置付けた文学概論は、突然の死で頓挫。死の直後の秋学期で英文学概論の講義が予定されていたという。西洋文学の模倣から出発した近代日本では、文学とは何かは曖昧になったまま創作だけが先走りしていた

近代以前、日本列島・朝鮮半島・中国大陸は漢字文化という読書共同体を共有していたが、明治維新以降明治末年に至るまで、東アジアで同時代的に共有される作家・作品は存在せず。大正時代に入って初めて東アジアで広く読まれたのが白村。近代文芸史における初の例外であり、村上春樹が現れるまで唯一の例外

大正から昭和前期にかけて、白村はまず日本で熱狂的に読まれ、やがて朝鮮半島でも知識人の間で人気となる。中国では魯迅をはじめ多くの訳者によってそのほとんどの作品が翻訳された。台湾では同時代のみならず、1950年代から継続的に翻訳紹介されているところに特徴がある。歴史的、文化的背景が異なる社会において、同じ読書経験を共有するのは珍しい現象。魯迅訳『苦悶の象徴』は、堅苦しいというべき翻訳文体により原著を凌駕する存在感を示す。一方で魯迅訳の『象牙の塔を出て』では、中国の政治や文化に対する辛辣な批判で知られる魯迅が、自国の文明に鋭い批判の矢を向ける白村の批評精神にいたく共感、白村を社会改造を試みる闘士と見做し、地震の横死を免れたとすれば、象牙の塔を出て活躍したのではと残念がる

白村の等身大の人間像を復元する試みは、近代の歩みを知る上で欠かせない。それは白村の生い立ち及び評価の変遷は時代の変化や平均的な知性の移り変わりをくっきりと映し出しているからで、白村の足跡をたどることは1個人の経歴を明らかにするだけでなく、大正時代の世相と時代精神、彼の周辺の人々をも照らし出すことになる。彼が遺した足跡、同時代の人々とともに築いた文化的過去は、現代の礎石になったことを忘れてはならない

 

 

 

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大正日本のベストセラー作家が紡ぎ出す、東アジアにも影響を与えた、この国の恋愛のかたち。

厨川白村(1880年から1923年)文芸評論家・京都帝国大学教授。
大正期に日本の批評空間で「ラヴ・イズ・ベスト」の神話を生み出した厨川白村。当時熱狂的に読まれた文芸批評や『近代の恋愛観』は、その後朝鮮半島・中国でも一大ブームを起こし、『苦悶の象徴』『象牙の塔を出て』は魯迅が翻訳にあたった。この事実は、東アジア文学の将来を考えるとき、多くのヒントを与えてくれる。現代へと続く文化的礎石を作ったその生涯をはじめて解き明かす。

[ここがポイント]
「大正時代の村上春樹」、その著書は帝大生のバイブルだった。
『近代の恋愛観』『近代文学十講』など今に続く文化的礎石を作り上げ、アジアの文学として世界的視野で捉えられる文芸評論家の生涯に初めて迫る。

 

 

厨川白村 張競著

中国熱狂の「恋愛至上主義」

2025126  日本経済新聞

英文学者・文芸評論家として恋愛至上主義を唱えた厨川白村(くりやがわはくそん)(18801923年)は大正時代に一世を風靡したのち、日本では急速に忘れ去られた。

その彼が中国では現代の村上春樹に匹敵するほどの熱狂で迎えられ、著作群はむさぼり読まれたという。中国出身の比較文学者である著者が青年期から白村への関心と愛情を温め一冊の評伝に結晶させたのも、こうした東アジア規模で文化を共有する下地があったからこそだ。

白村は京都の下級官吏の子として育ち、刻苦勉励して東京帝大を卒業した。京都帝大教授まで上り詰める道程は、学歴が社会階層をよじ登るのに最も効果的な道具だったことを物語る。

大学時代に師事した小泉八雲や夏目漱石の優秀さと偏屈さを引き継いだような白村の人間性も、あますところなく記述する。世渡りベタで人間関係が苦手。主著の『近代文学十講』に至る議論では自然主義派の文学者を辛辣に批判した。当時は背徳の匂いさえ漂わせていた「恋愛」を至上の道徳とする『近代の恋愛観』を堂々と世に問うた。

近代中国では作家の魯迅が白村を「社会改造を試みる闘士」として評価し、著書を熱心に翻訳した。学究を本丸とした白村の実像とは離れた解釈だが、文化は往々にして創造的な誤解から生まれてくる。(ミネルヴァ書房・4180円)

 

 

 

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厨川 白村(くりやがわ はくそん、18801119 - 192392)は、日本の英文学者文芸評論家。本名・辰夫。

『近代の恋愛観』がベストセラーとなり、大正時代恋愛論ブームを起こした。夏目漱石虞美人草』の小野のモデルとも言われる[1]

生涯

1880年(明治13年)、京都市柳馬場押小路生まれ。養父の厨川磊三(らいぞう)は元津山藩士で蘭学を修め、維新後は京都府勧業課、大阪造幣局などに勤めた人物。子がなかったため、実弟の子だった白村を養子とした[2]

大阪市の掛川尋常小学校、盈進高等小学校を経て、大阪府第一尋常中学校から京都府立第一中学校に転校後[3]第三高等学校を経て1901年(明治34年)、東京帝国大学英文科入学。小泉八雲の講義を受けて、後にその「情緒本位の文学教授法」を絶賛している[4]2年生のとき八雲が解任されることになったため、英文科の学生の間で八雲の留任を求める運動が起こり、要求が容れられなければ全員退学で対抗しようという決議まで出されたが、白村はそれに反対したため孤立してしまう。

その後夏目漱石が赴任し、八雲の後任として講義を始めたとき、学生の多くは真面目に聴こうとしなかったが、白村は熱心に聴講し、3年生のときは漱石の自宅をよく訪ねるようになった[5]。大学院に進むことになり、漱石の指導で「詩文に現れたる恋愛の研究」という研究を始めたが、家の事情で断念した。ただ漱石の指導について、「批評や議論は如何にして為すべき者か、また文章の書きかた物の考へ方は如何にすべき者か、それらに就ては、単に先生の著書ばかりでなく、その巧妙なる坐談によりて暗示せられ啓示せられた事の如何に多かったかを追憶する時、今もなほ感謝のおもひを禁じ得ない」と述べている[6]

1904年(明治37年)大学卒業後、第五高等学校教授となり、1906年に結婚。1907年(明治40年)、第三高等学校教授となり、同年長男誕生(その後2年ごとにさらに3人の男児を儲ける)。1913年(大正2年)、京都帝国大学講師となる。

1915年(大正4年)、米国留学を命ぜられた翌月、左足を負傷して黴菌に感染したため左足を切断。最初は小さな傷だったものが腫れて痛み出し発熱もしたため医師に患部を切開してもらい自宅療養していたが、出血がひどくなり、京都大学病院で切断手術となった[7]。約70日間にわたる入院中は、同じく病で片足を切断したウィリアム・アーネスト・ヘンリー(en:William Ernest Henley)の連作詩集「病院にて(In Hospital)」を慰みとし、退院後も身体欠損経験のある澤村田之助 (3代目)サラ・ベルナール、大事故から復活した久野久など思い、気持ちを支えた[7]

1916年(大正5年)アメリカに留学し帰国後の1917年(大正6年)、病没した上田敏の後を受けて京都帝国大学英文科助教授となり、1919年、教授となる。上田同様、日本における最初のかつ中心的なイェイツ紹介者であり、アイルランド文学の研究者を輩出するなど[8]、海外文学の紹介に努めた。

1923年の関東大震災に際し、鎌倉の別荘にあって逃げ遅れ、妻の蝶子とともに津波に呑まれ、救助されたが泥水が気管に入っていたため罹災の翌日死去した(厨川蝶子「悲しき追懐」)。別荘は地震の前月に竣工したばかりで家族で避暑に訪れ、子供たちを帰したあとも夫婦で滞在していた。

人物・業績

『象牙の塔を出でて』のほか、朝日新聞に連載した『近代の恋愛観』は、いわゆる恋愛至上主義を鼓吹し、ベストセラーとなって、当時の知識層の青年に大きな影響を与えた。のち中国語訳され、第一次大戦後の中国青年にも大きな影響を与えている。『近代の恋愛観』などは、1960年頃までは読まれていたが、現在ではほとんど読まれていない。

なお白村自身は、親に縁談を勧められて断ったが惜しくなり、その女性宛の原稿をいくつも発表して結婚にこぎつけたとされている(『朝日新聞記事にみる恋愛と結婚』)が、真偽のほどは定かではない。

関東大震災の被災時に滞在していた鎌倉の別荘は『近代の恋愛観』の印税収入によって建設されたもので、「近代恋愛」との通称があった。

栄典

著述

著書

  • 『近代文学十講』大日本図書 1912
  • 『文芸思潮論』大日本図書 1914
  • 『印象記』積善館 1918
  • 『小泉先生そのほか』積善館 1919
  • 『象牙の塔を出て』福永書店 1920
  • 『英詩選釈』第1-2巻 アルス 1922-24
  • 近代の恋愛観改造社 1922
  • 『十字街頭を往く』福永書店 1923
  • 『苦悶の象徴』改造社 1924
  • 『厨川白村全集』全6 改造社 1929

翻訳

  • チヤアルズ・ヒッチコック・シエリル『新モンロオ主義』警醒社書店 1917

家族

  • 養父・厨川磊三(1839-1916  熊本県黒髪村の士族・厨川仙接の長男。広瀬淡窓の塾で学び、医師を目指して長崎で学んだが断念し、兵庫県庁、京都府勧業課、大阪造幣局などに勤務した。[10]
  • 実父 磊三の実弟
  • 妻・蝶子  福地源一郎の次女[11]。源一郎が残した家系図によると、源一郎の姉夫婦の娘タイとその婿・福地達雄の娘であり、源一郎の長男福地信世の妻の妹でもある[12][13]
  • 長男・厨川文夫  英文学者、慶應義塾大学教授。父・白村の思い出に「父の書斎厨川白村のこと」がある。『父の書斎』(昭和18年(1943年)4月、三省堂発行)、284-289頁に所収。後年『回想の厨川文夫』(昭和54年(1979年)1月、三田文学ライブラリー発行)、『父の書斎』筑摩書房(筑摩叢書、平成元年(1989年)6月)に再録。

旧宅

京都市に「厨川白村旧宅」(京都市左京区岡崎南御所町4015)があり、2005年より店舗として使用されている[14]。また、熊本市には夏目漱石の後任として赴任した第五高等学校 (旧制)教師時代に住んだ家「厨川白村旧居」がある[15]鎌倉市材木座には津波に遭った際に滞在していた別荘「白日村舎」があった[16]

 

 

 

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