荷風の昭和  川本三郎  2025.10.14.

 2025.10.14. 荷風の昭和 前後篇

 

著者 川本三郎 1944年東京生まれ。文学、映画、漫画、東京、旅などを中心とした評論やエッセイなど幅広い執筆活動で知られる。著書に『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞・桑原武夫学芸賞)、『白秋望景』(伊藤整文学賞)、『成瀬巳喜男 映画の面影』、『「男はつらいよ」を旅する』(共に新潮選書)、『マイ・バック・ページ』、『いまも、君を想う』、掌篇集『遠い声/浜辺のパラソル』など多数。訳書にカポーティ『夜の樹』、『叶えられた祈り』(共に新潮文庫)などがある。

 

 

発行日           2025.5.20. 発行

発行所           新潮社 (新潮選書)

 

『波』20186月号~20248月号の連載を大幅に加筆改稿

 

 

まえがき

永井荷風(18791959)は、明治、大正、昭和の3代を生きた。近代の文学者のなかでも稀有な例。本書は、その中でも昭和をどう生きたかに焦点を絞る

生き方自体も独自の光を放つ。近代の作家の中でも、これほど個に徹し、芸術に身を捧げた作家も珍しい。本書は、作品と同時にその生き方も対象にしている

花柳小説作家、好色作家とも呼ばれるが、拙著『荷風と東京』では、そうではなく、荷風は終生東京という町を愛し、町のあちこちを歩くことで文学を作り上げていった都市の作家であることを強調

2014年ノーベル賞受賞のフランス人作家パトリック・モディアノは、「偉大な作家の何人かは1つの都市と結びついている」として、バルザックとパリ、ディケンズとロンドン、ドストエフスキーとサンクトペテルブルグ、そして荷風と東京を挙げた

本書は、その都市の作家である荷風が、ことの多い激動の昭和をどう生きたかを検証

群れることを嫌い、個として生きようとした荷風の悪戦苦闘ぶりには、近代日本の知識人の苦難の姿があらわれている。日記での荷風は時代の、そして歴史の観察者であり、時代への痛烈な批判をひそかに日記の中に書き記しており、第1級の歴史資料になっている

荷風は確かに女性を愛した。それは好色というのとは少し違う。女性の持つたおやかさ、美しさの文化をこそ愛した。武張った権力の対極にあるもので、娼婦やストリッパーたちとの交流は、柔らかで優しい女性文化への愛情から生まれたもの。軍人の武に対し、女性たちの美にこそオマージュを捧げた作家で、そのことを明らかにすることも本書の眼目

 

荷風の昭和 前篇 関東大震災から日米開戦まで 

1 偏奇館で関東大震災に遭う

l  昭和の起点

1879年小石川の生まれ、1959年市川市で死去、没年79

日々の体験を『断腸亭日乗』に克明に書きとめた。明治生まれでこれだけ長く日記を書き続けた作家はいない。『日乗』の中でとりわけ内容が充実しているのは昭和期。荷風が生きた昭和という時代を、文学者、それも自らを世捨人、無用者と思い定めた市井の一作家を通して見た昭和を振り返ってみたい

荷風の昭和は、震災による喪失感から始まる。関東大震災を昭和の起点とする

l  良き隠れ家、偏奇館

『日乗』の記述は1917.9.16.1959.4.29.(死の前日)42年間に及ぶ

書き始めたのは、2度の結婚を解消し、7年前に就任した慶應大文学部教授を辞任して、より自由な文人生活に入ったころ。「断腸亭」は、余丁町の父の家に設けた家風の書斎の名。「断腸花」(秋海棠)から取られた。ベゴニアの一種で、淡紅の可憐な花を咲かせる

'18年、余丁町の家を売却して築地に移転、'20年に麻布市兵衛町の借地の洋館に移居

「偏奇館」と名付ける。「偏奇」には、40になろうとする年齢で「隠棲」しようとする変わり者の意もある。'453月の東京大空襲で焼失

'22年敬愛する鷗外死去。前日見舞う。鷗外の命日は尊敬する文人上田敏(柳村りゅうそん)の祥月命日('16年没)。若き日の荷風が作家として立つのに力あった2人の師を亡くした

'23年竹馬の友井上唖々(ああ)死去。’12年荷風が星岡茶寮で材木商の娘斎藤ヨネと結婚(半年持たずに離婚)した時の仲人の息子

l  大震災後の東京を歩く

地震発生とともに外に飛び出したが、高台の偏奇館は無事で、谷を隔てた向い側の山形ホテルで夕食を取っている。余震が続き庭で露宿

三男の農学博士永井威三郎と同居していた母恆(つね)を見舞い無事を確認。次男で鷲津家を継いだ牧師の貞二郎には心を開いたが、威三郎とは不仲

l  林芙美子の被災

震災直後の東京を歩いたのが、まだ無名時代、東京の底辺で様々な職業を転々としていた頃の林芙美子。下宿先の根岸から新宿に向い、周囲の惨状や避難者の姿を書き留めている

l  大曲駒村(くそん、18821943)の被災

最も早く出版された震災の記録は安田銀行浅草支店長だった大曲駒村の『東京灰燼記』で、103日。新宿から飯田橋にかけて猛火に包まれたとある。偏奇館は無事だったが、坂下の溜池葵橋付近は火事。駒村は荷風を敬し、自著を贈ったほか、荷風の『書誌』も作成

l  荷風が「自警団」と遭遇する

威三郎の妻に背負われて貞二郎を探しに上野に行く途中、自警団に遭遇したが、口が回らなかった荷風が紙に名前を書いて虎口を免れる

 

2 食と共に復興する東京

l  「この度の災禍は実に天罰なり」

1カ月後、自宅近くの江戸見坂の上に立つと、「一望唯渺々たる焦土にして、房総の山影遮るものなければ近く手に取るが如し」と言い、続いて「近年世間一般奢侈驕慢、貪欲飽くことを知らざりし有様を顧みれば、この度の災禍は実に天罰なりと謂う可し。何ぞ深く悲しむに及ばんや」と問題発言。世の「天譴(てんけん、天罰)論」を代表しているというより、「彼の孤独な美的規範から噴出した激語」であり、あくまでも都市隠棲者荷風の自嘲の思いでは

l  東京の盛り場が移っていく

無事だった神楽坂に芸者を呼んでいるが、神楽坂は震災後隆盛

震災前、東京で唯一の封切館があった浅草六区が全滅、代わって新宿の武蔵野館と神楽坂の牛込館が賑わいを見せ、東京の盛り場地図が変わってゆく

江戸では火事があまりに多いので、火事が1つの産業になって町の中へ組み込まれている

l  復興は食から始まる

外食をしていた荷風にとって、近隣に外食の場がなくなり、1年ほど「小星(愛妾)」を置き食事などの家事をしてもらう

銀座の復興を牽引したのは食。震災直後からバラックで飲み屋が始まる

l  銀座の「(松坂屋)陳列館」「勧工場(かんこうば)」へ

松坂屋を皮切りに銀座に次々に大手デパートが開店。荷風は「陳列館」勧工場」と古い言葉を使い、新しい時代に抵抗しながらも、冷静な時代の観察者として、震災後モダン都市へと変貌してゆく昭和の東京の「和洋二重の生活」を生きてゆくことになる

勧工場:多くの店が同じ建物に入り、様々な商品を即売する場所。現在のデパートやショッピングモールの前身にあたり、殖産興業政策の一環として、第1回内国勧業博覧会の残品処分などを目的に設立された。百貨店の進出とともに明治時代末期から衰退し始め、大正末期にはその役割を終える 

 

3 作家になるまで

l  「恋愛と文芸」の底に

『日乗』の昭和元年末の後に、日記とは別に昭和4年執筆の「自伝」が付され、51年になる人生を年譜の形で簡潔に纏めている

荷風は、鷗外・漱石・藤村に続く明治の2代目で、公より私の意識が強く、アメリカ留学中の日露戦争勝利にも関心を示さず、帰国後に書いた『歓楽』では、「物心ついてから今日まで、私の生涯には恋愛と文芸以外には何物もなかった」と言っていい、発行禁止に

翌年大逆事件が起こり、権力の前での文学の無力を思い知らされ、現実社会から一歩引く

永井家は家康に仕えた永井直勝の子正直が始祖、荷風の父が12代目。薩長を忌み嫌う

l  「閑文字(かんもじ)を弄ぶ」放蕩息子

荷風は長男だが、16,7のころ病のため学業を一時停止、文学に没頭。一高の受験に失敗

父は官界から実業界に入る一方、禾原(かげん)の号を持つ漢詩人だが、長男の遊惰に激怒

l  母恋いの記

荷風の母恆(つね)は、父の漢詩の師鷲津毅堂の娘だが、ハイカラな女性で大の芝居好き、荷風の文学への志に理解を示す。クリスチャンで、貞二郎が牧師になるきっかけでもある

荷風は、母の江戸文化への愛情を受け継ぐ。『監獄署の裏』(1909)では、芝居好きの母を愛情込めて回想

荷風文学の特色の1つは、たおやかさ、女性らしさにある。女性文化への憧憬にある。その女性らしさは、猛々しく武張った男性文化の対極にあるもの

l  文学が認められていない時代に

一高受験失敗を機に、「閑文字」に向かうことを決める。この時代には珍しい選択

20歳を過ぎるころから小説を発表。漱石や藤村より早いデビュー

実業界に進んで欲しい父は、荷風をアメリカ留学に出す。鷗外は医学のため、漱石は言語学のための官費留学だが、荷風は文学という国家とは無関係のための異色の私費留学

l  憧れのフランスで

1903年、留学に旅立ち、アメリカへ4年、フランスへ1年滞在

荷風文学の核にあるのは、江戸文化、漢詩文、そして仏文学に加えて、東京への愛情

「モーパサンを原語で読むため」にフランス語を習い、「軟文学者」だからこそフランスに憧れ、富国強兵の対極にあるとイメージされた芸術の国を理想と見た

l  「変った人間」として生きていく

'08年帰国。『アメリカ物語』などを発表、時代の寵児になり、慶應大文学科の教授に就任

‘13年父親が死去、’16年には父親への恩は返したとばかりに教授職を辞し、自由人に

米仏留学は荷風に、作家として生きることに自信を持たせ、西洋社会における個の強さを教えた。大逆事件に接し黙して耐えたのも、軍国主義に抗し得たのも個の強さを学んだからだが、同時に帰国後の2度の結婚失敗の原因にもなる

個に徹した「新しい日本人」「変った人間」そのものを生きることになる

 

4 花とオペラと反骨精神

l  コスモスの種を蒔く

荷風は花を愛した。荷風にとって大正時代とはまず花の時代、偏奇館は花に囲まれた

洋花がこの頃から世に広まった

l  帝国劇場の亡命ロシア・オペラ団

荷風はオペラ好き。ニューヨークではオペラ好きが縁で、ロザリンとの恋が生まれる

‘19年、露国革命前帝室歌劇部の伶人(楽師)のオペラ公演を聴く

l  「今日は帝劇」の時代

荷風は連日のように公演に通い、2年後の再来日の公演にも出かける

「今日は帝劇、明日は三越」の時代で、荷風の戯曲も’20年以降4度上演

l  プラトン社の月刊誌『女性』

震災の前年、大阪のプラトン社が月刊誌『女性』を創刊。小山内薫が顧問をしており、震災後は東京の作家たちに次々に原稿を依頼、女性誌というより純文学誌になる

復興の一翼を東京の出版社が担い、そのいち早い立ち直りの影響もあり、6年で終わる

l  日記だから書きえたこと

'18年の『日乗』に、「台湾生蕃人(せいばんじん)」数名を巡査が引き連れているのを見て、差別的な扱いに憤るとともに、威圧的な巡査に比べ台湾原住民の方がずっといいと言う

翌年の日記にも、「新聞連日支那人排日運動を報ず。吾政府薩長人武断政治の致す所なり。国家主義の弊害卻(かえっ)て国威を失墜せしめ遂に邦家を危うくせねば幸い」と懸念し批判。戯作者に身をやつしたはずの荷風が、随所で政治・社会への関心を見せ、小説では書けないことを日記に記し、反骨の気概を失わない自由人であることを実証

 

5 学ぶ荷風――柳北日記との出会い

l  漢詩の添削を請う

荷風は父母両系において漢学詩文の脈統を受けている。当時はまだ漢詩文が文人必須の教養だったが、荷風は文学者として知られるようになってからも漢詩文と、併せて書・画も学び続け、荷風にとって漢詩文は、仏文学・江戸軽文学と並んで文章家の核となる

l  図書館で急死した老人

偏奇館の近くに南葵(なんき)文庫という古典籍を主とした私立図書館があった。紀州徳川家が設立、わが国初の音楽ホール南葵楽堂もあり、荷風は震災後から足繁く通う

震災後の荷風が心掛けたことに、江戸文人たちの墓参・掃苔(そうたい)がある。「掃墓の閒(かん)事業は江戸風雅の遺習なり。英米の如き実業功利の国にこの趣味存せず」と書く

閒事業とは暇人のすることであり、消えゆく「江戸風雅」にこそ荷風は惹かれた

l  成島柳北への傾倒

荷風が敬愛した江戸文人に『流橋(りゅうきょう)新誌』の著者・漢詩人成島流北(183784)がいる。流北は荷風の父と交流があり雑司ヶ谷の墓も近くで、早くから流北の文に親しみ、漢文混りの文体を模倣したり剽窃したりした。流北は江戸幕府の重臣だったが、薩長新政府に仕えるのを潔しとせず、野に下り向島に隠棲、「濹上隠士」と言われた

l  柳北日記を書き写す

震災後、荷風は流北の外孫と出会い、日記の原本を見せられ、評伝を依頼される

荷風は2年弱をかけて柳北の日記29冊をすべて筆写する

 

6 円本ブーム

l  曝書(虫干し)の楽しみ

曝書は文人のたしなみであり、過去との思わぬ再会であり、新たな発見にもなる

こんな恵まれた暮らしが出来るのも、長男として亡父から十分に遺産を受け継いだからこそで、自らも「是畢竟家に恒産あるがためと思へば、余は年と共にいよいよ先考の恩沢に感泣せざるを得ざるなり」と書く

l  金融恐慌で預金を移す

震災後執筆活動が停滞、「淫蕩懶惰の日を送り」収入激減の不安な状況下にあった荷風は、大正末期の出版ブームに救われる。春陽堂から震災で紙型が焼失した旧著(全集)の出版の声がかかる。世の中の「浮華淫卑」にに救われながら、「(ぼう)国の兆し」と嘆く

金融恐慌勃発で、預金を三菱に移し、出版の印税で株に投資

l  不況下の円本ブーム

‘26末~’27年初の改造社による『現代日本文学全集』の予約開始で円本ブームが起き、大量販売、大量宣伝の時代が始まる

l  改造社との縁

荷風にも改造社から全集発行の話が来るが、安易な編集方針に反発して批判の文章を書くが、結局は知人の仲介で改造社からの出版にも応諾。小山内から変節を批判される

l  「大衆」が台頭する

円本ブームが作家たちに豊かな生活をもたらす。荷風も'27年には5万円(現在の2億円)を手にして「印税成金」に。震災後の大衆社会の出現だが、「大衆」の時代に「不安」を持った芥川は神経衰弱誦に罹患し自殺

 

7 私娼という新しい女

l  銘酒屋が並ぶ盛り場で

震災後、荷風は私娼に惹かれる。営業許可なく身体を売る女性で、震災後急増

私娼を置いたのが盛り場の銘酒屋。本郷の丸山福山町、浅草十二階下、日本橋の浜町と蠣殻町の私娼窟が有名

l  「私娼の肩を持つわけじゃないが」

震災後の私娼はより素人に近く、仲介所を通じて客を取る

かふうも新たなタイプの私娼出現に興味を持ち、私娼窟に通い、小説にも書く。私娼の出現を時代の趨勢と言い、その取り締まりには批判的

l  荷風の私娼取材

市井の暮らしの中に私娼が入り込んでくる様を荷風は書く。私娼たちの暮らし、生き方そのものに作家として関心を持ち、私娼たちから「身の上のはなし」を聞く。単に好色という訳ではなく、世間の枠の外で生きている私娼を清濁含めて肯定しようとしている

l  もっとも艶麗な一夜

荷風がこれほど1人の女性を賞賛するのは珍しいのが江戸身坂に囲った「大竹とみ」(お富)

'36年の『日乗』には、帰朝以来馴染みを重ねた女として16人の名と経緯が記されている

 

8 私娼への思い――「かし間の女」と「ひかげの花」

l  散娼、自活する女たち

昭和に入って、散娼と呼ばれる自前の私娼を主人公にした小説『かし間の女』(‘27)と『ひかげの花』(‘34)を書く。前者のモデルはお富

l  「テヨダワことば」の女たち

明治になって若い女性が使った言葉が、「(よくっ)てよ」「だわ」からとった「テヨダワ言葉」で、女学生が流行らせ、広く使われるようになった。幸田露伴が娘の文に、「もちっときりきりしゃべってもらいたい」と怒ったという

l  カフェの女給か、活動の女優か

芸者から演劇女優に、さらにカフェの女給や映画女優へと、時代を代表する女性の華のある職業が変遷する様を荷風は追う。『かし間の女』のヒロインも「活動写真の女優」と形容

l  裏通りの詩情

『ひかげの花』は、私娼とヒモの愛情物語。2人を好ましく見ている。文章も平明端正で現代の文章に近く、簡潔な日常的な文章によって当たり前の日常を描く

l  世の隅にいる2人を

私娼を描くとき、荷風の筆は明らかに冴えている。この作品が後の『濹東綺譚』、『吾妻橋』('54)などの私娼物に繋がる

 

9 銀座復興

l  時代観察者が市中を散歩する

復興は早く、7年後には帝都復興祭挙行、天皇が巡幸

震災は「明治の児」である荷風に深い喪失感をもたらし、失われた過去を思う気持ちは以前にもまして強くなったが、同時に同時代を生きる者として、また、時代観察者として、予想以上の速度で復興し生まれ変わって行く東京の町の姿に目を見張り、過去との対比で新しい東京を見る。まず現れてくる町は、生活の拠点となった銀座

l  復興下町の活気と殺気

「近代的都市美」を持った新しい東京が出現。ハイカラからモダンへ

l  銀座が繁華街の王者となる

近代の銀座の誕生は明治初めに、銀座煉瓦街が作られたことに始まる。1872年の大火で焼失後、不燃の煉瓦街建設が始まり、翌年には文明開化の象徴の「ハイカラ」な町が誕生

震災後いち早く復興した銀座に荷風はよく出掛けた

l  愛妾と提灯行列を見る

新聞を取っていない荷風は、大正天皇崩御も知人から聞いて知る。荷風は無用者と自覚はしていても「明治の児」として天皇への景仰(けいこう)の思いは強い

戊辰戦争から60年の'28年、新聞で節子姫の記事を読む。会津藩主松平容保の孫娘が秩父宮に嫁ぐことを知る。会津雪冤の慶事。続いて天皇即位大礼があり提灯行列を見る

 

10 中洲病院から隅田川へ

l  荷風のかかりつけ医

病弱だった荷風のかかりつけ医は清洲橋の袂にあった中洲病院の大石貞夫。弟貞二郎の学友、不鳴(なかず)庵の俳号を持つ文人で荷風は「国手(こくしゅ、名医)」と呼んで信頼する

l  復興の魁としての橋

中洲は隅田川に浮かぶ洲で、現在は埋め立てられて面影はない。水辺の色街。深川の清澄と日本橋の中洲を結ぶ橋として清洲橋が完成したのは'28

l  荷風の下町発見

鷗外の命日には向島の弘福寺に詣り、隅田川の新しい橋梁群の建設現場を見る

鷗外の墓は、隅田公園開設に伴う墓域整理により’28年三鷹の禅林寺に移転

中洲病院の帰りに、完成した清洲橋を見て、山の手に住む荷風にとって下町が近くなる

l  東京、第二の陣痛

山の手の荷風にとって、水の東京が新鮮に見える

隅田川の相次ぐ架橋が復興の象徴となり、至る所工事中の風景を見た白秋は、「復興と創造と、東京は今や第二の陣痛に苦しみつつある」と書く

l  共産党への弾圧

荷風の下町散策は、深川を経て東の荒川放水路にまで足が延びる

'35年、大石医師死去

'28年、三・一五事件で共産党員の大量逮捕に際しては、自嘲ながらに、「50を過ぎて猶売色の巷を忘れられないのは、現代の空気を放れ過去の世に逍遥せんことを冀(こいねが)うため」と書く

 

11 市川左團次との親交

l  サラ・ベルナールを見た2

親しい友人を作ろうとしなかった荷風にとって、数少ない友人に歌舞伎役者2世市川左團次(18801940)がいる。'09年左團次が小山内と自由劇場を立ち上げた年に小山内の紹介で会い、急速に親交を深め、翌年には荷風が左團次のために戯曲『平維盛』を書く

左團次は俳号松莚。「團菊左」と言われた初代左團次の長男。父親の名声から脱しようと次々に新機軸を打ち出し、荷風と同じころ洋行も敢行。フランスでは大女優だったサラ・ベルナールに会うが、荷風もニューヨークでサラの舞台を見ている

l  共同作業への憧れ

左團次は、次々に歌舞伎界の古い体質を改革していくが、それだけに旧勢力からの反発も受ける。小山内とは自由劇場を立ち上げ、荷風も支援し、演劇という共同作業が作りだす熱意に惹かれている

荷風の新橋の芸妓八重次との二度目の結婚は、左團次夫妻が媒酌。2人して大田蜀山人(南畝)に心酔し、蜀山忌には共に奠儀(てんぎ)を行う

l  ソ連が自由だった頃

この時期、荷風に若き日の芝居熱が蘇る。歌舞伎座で演出を手掛け

`25年日ソ国交回復後文化交流が盛んで、’27年には小山内らの文化人がソ連の招待で訪ソ。‘28年には左團次が右翼の批判を受けながら歌舞伎のソ連公演を行い大成功

l  エイゼンシュテインも影響を受けた

歌舞伎公演には、映画監督のエイゼンシュテインも来場、感銘を受け、後の作品に影響の跡が見られる

孤独な文人生活に戻りたかった荷風は左團次から徐々に離れていくが、何事かが起こったとは考えにくい。’40年左團次の病没の際は追悼の句3句を日記に記すが、碑文の起草依頼に対しては、「風俗を描きて小説をつくりし者の為すべき事にあらず」と断っている

 

12 カフェ通い

l  「カッフェー」の時代始まる

東京のビアホールが廃れてカフェーにかわったのは、大正初年から昭和にかけて

カフェの名が使われるようになったのは、1906年銀座の「カフェー・プランタン」が最初

l  「女給」という新しい女性

文学作品の中に登場した、カフェで働く女性の早い例に、谷崎『痴人の愛』(‘2425)のナオミがいる。浅草を舞台に、「給仕女/女給」の語が使われ一般化した

荷風も新しい女給に興味を覚え、足繁くカフェに通うようになり、女給の生態を観察

l  不況と「ガールの時代」

日本の社会の工業化と共に、女性の社会進出が増える

昭和初期の東京は「ガールの全盛時代」で、様々な分野で働く女性を「○○ガール」と呼ぶ

広津和郎が、菊池寛が可愛がった女給から話を聞いて『女給』('30)を書き、菊池寛との間にトラブルを起こす

l  「文壇カフェー常連番付」大関の弁

月刊誌『太陽』が’78年、昭和初期のカフェ文化を紹介、その中に文壇カフェ常連番付があり、東の横綱菊池寛に対し、荷風が西の大関となっている。単身者にとってカフェは食事の場でもあった

l  教え子に1本とられる

荷風を敬愛した作家堀口大學・邦枝完二・松本泰などともカフェで談笑

探偵小説家の松本の自著が「現代大衆文学全集」に加わることになった際、荷風に一文を依頼するが、旧弊に拘る荷風は、「大衆」という言葉は聞いたことがないといって新しいものと関わりたくないというと、松本はカフェこそ大衆の集まる店だと反論し、一本取られる

カフェ通いが嵩じて’27'30年筆硯に親しまず、見るべき作品もなかったが、その体験を活かした『つゆのあとさき』(‘31)が好評で、「荷風復活」を世に印象付ける

 

13 「つゆのあとさき」に描かれた銀座

l  アドバルーンのある風景

軍隊の偵察用に使われた気球が広告宣伝に盛んに使われるようになったのが昭和初期で、盛り場の風物詩にもなった。そのころを描いた久し振りの長篇が『つゆのあとさき』で、市谷本村町に間借りする一流カフェの女給君江が主人公。荷風は本村町の坂上から牛込を経て遠く小石川の高台を望む景色を東京中で最も美しいという

l  銀座通りの歩き方

日比谷から数寄屋橋を経て尾張町に向かい、銀座通りの東側を1丁目に向って歩く

銀座通りは東側が賑やかで、名物の夜店も東側に並ぶため、銀座の常連は敢て西を歩いた

l  カフェの女たち、客たち

荷風は小説で、自らの体験をもとに銀座で働く様々な女性や、そこに群がる客を紹介

l  アイスコーヒー始めました

東京の夜が遅くなり、カフェが全盛期を迎え隠微に流れたのが’32年夏以降

アイスコーヒーが始まったのは昭和に入ってからだが、胃が弱く冷たい飲み物を避けた荷風はそれに辟易し、「旧弊人には奇風に思われる」と書く

 

14 モダン都市へと出てゆく女性たち

l  交詢社ビル地下「サロン春」

『つゆのあとさき』掲載の『中央公論』には同時に藤村の『夜明け前』第1部も掲載

『中央公論』は、総合誌と同時に文芸誌でもあり、純文学作家にとっての檜舞台

「サロン春」は荷風が足繁く通ったカフェ。品のいいカフェだった

l  チャップリンと女給の結婚話

'32年来日したチャップリンが「サロン春」を訪れ、女給を気に入ったが、結婚の話は尾鰭

犬養首相が晩餐会に招いたところから、五・一五の標的になったが、直前に相撲見物に変更になり難を免れる

l  小文字の「昭和」

本書では、政治家や軍人の昭和(大文字の昭和)ではなく、生活者の昭和(小文字の昭和)を重視。その点荷風の『日乗』は優れた昭和風俗史。飲食店の食品サンプルの起源にも言及

l  女給と甘味処で

銀座の縁日で偶然昨日出会ったばかりのカフェの女給と会い、共に汁粉を食べながら、以前芸者と来た事を思い出し、往時茫々足る思いにとらわれる。甘味処、女給、芸者。ここにもたおやかな女性の世界を愛する荷風がいる

l  溝口健二が山田五十鈴に重ね見たのは

本能に生きる意志の強い女性を主人公にした『つゆのあとさき』を、溝口も山田を使って映画にしている

 

15 郊外住宅地の誕生

l  東京が西へ広がっていく

荷風は東京の西への発展にも目をとめる。20年近くたって参宮橋付近の友人宅を再訪し、「近巷のさま今は全く異なりて旧観を存する処なし」と驚く

l  水道の水はまずい

震災後急速に西の盛り場として発展した新宿を荷風が初めて訪れたのは'311月。明治の東京人にとって、新宿は郊外であり、「繁華実に驚くべし」と書く。東京の下町は早くから水道が引かれていたのに対し、山の手の高台では井戸の時代が長く、「むかし江戸といえば水道の通じた下町をさして言った」とある(荷風の随筆『井戸の水』'35)

l  西の郊外を歩く

『つゆのあとさき』には郊外も描かれている。世田谷、目黒、大田区など

初めから土地開発を目的にした目黒蒲田電気鉄道の登場は、画期的な出来事

l  新開町、渋谷

玉川電車は多摩川の砂利を運ぶためのトロッコが進化したもので、沿線は「郊外住宅地」というより「新開地」。渋谷は震災の被害が少なく、下町から商人が移り住んだ

旧東京人の荷風から見れば、新宿も渋谷も宮城の西に広がる「新開町」でしかなく異国

l  やがて消えゆく小さな桃源郷

荷風は平岡煕の隠棲の地豪徳寺を尋ね、隠れるようにして残る「幽寂」な小さな桃源郷が、やがて郊外住宅の拡大につれ消え去っていくことを感じている

 

16 犬を飼う、探偵に依頼する

l  すでにペット霊園がある

愛妾が拾ってきた犬が死んだため、新しい犬をせがまれ買う

l  ポチの文学史

ペットとしての犬が登場する小説の早い例として、二葉亭四迷の自伝的小説『平凡』(‘07)がある。その名前がポチ。荷風の買った犬もポチ

l  荷風がシロを飼う

愛妾のポチが子を産んで1匹引き取り自身で飼ったのがシロ。半年ほどで手放す

l  秘密探偵岩井三郎

荷風は付き合ってる女性の行状や素性を知るために「秘密探偵」を使う

l  モダン都市の新しい言葉

荷風は私娼と遊ぶと、必ずといっていいほど小説の材料にしようと思う。そのために探偵を使って私生活を探る

都市化に伴う新しい言葉に「――させていただく」がある。その濫用は、丁寧さを通り越したへり下りの卑しさが不愉快といわれるが、荷風の日記にも銀座の喫茶店の貼紙に「開店させて頂きます」とあるのを目にとめたと記し、都市社会になって他人との付き合う機会が増えるにつれ、無用な摩擦を起こさぬよう謙譲の意で使われるようになったのではないか

 

17 見え隠れする「暗い昭和」

l  佐分利公使の自殺

'29年、同級生の駐支公使佐分利貞男(小村寿太郎の娘婿)が激務と夫人が風土病で急逝した打撃から自殺したことを知り、衝撃を受ける

l  松本清張が推理する

自殺説に異議を唱えたのが松本。幣原外相の軟弱外交の先棒を担ぐ佐分利が強硬派の軍部によって暗殺されたという

l  満洲へ、満洲へ

‘31年の満洲事変以降軍人が急増、それに合わせるように水商売の女たちが海を渡る

l  世の中は明るくなった!

佐多稲子は『歯車』の中で当時を、「国民の生活の辛い緊張は、国民全体の中にあった」と「暗い昭和」を描いたが、軍が始めた戦争を国民が熱狂して後押ししたのが真相で、今となってはそのことが不思議で怖い。山本夏彦も「満洲事変で世の中は明るくなった」という

失業が減ったことが大きい

l  そしてテロとクーデターが始まった

軍人嫌いの荷風は、暗殺が続く世相に敏感で、『日乗』にもテロの記録が続き暗然とする

日清以後10年毎の戦争を振り返り、国を挙げて戦捷の光栄に酔う状況を憂えている

荷風が五・一五を「義挙」と『日乗』に書いたのは、「腐敗した政党政治の打倒」という青年将校の主張がマスコミでも取り上げられ世間の共感を得たことの反映、極刑も回避された

 

18 小名木川への道

l  いまも残る江戸の運河

江戸時代掘削の掘割が今も残るのは小名木(おなぎ)川。隅田川と中川を結ぶ全長4.6㎞で、行徳の塩を江戸城へ運ぶための運河。荷風も行徳とは縁がある

l  「水の東京」ゆえの工場地帯化

『日乗』に小名木川が初めて登場するのは’235月。荷風は終生濹東を愛し、作品でも辛うじて江戸の名残が感じられる深川の町への愛着を語る

小名木川という江戸初期に作られた水辺は、「水の東京」の良さを残すと同時に、工場地帯化という近代に浸食され、荷風はその両極を視野に入れている。新たに開発された工場地帯には中国人や韓国人が働いている。荷風はそのことをきちんと押さえている

l  川から川へ

小名木川の延長で旧江戸川まで結ぶのが新川。同時期の開削。ポンポン蒸気が走る

l  芭蕉の古碑を見つける

濹東散歩から生まれたのが随筆『放水路』('36)

釜屋堀近辺の丸八橋畔に芭蕉の句碑を見つけ驚く。現在も大島稲荷に残る

l  現在の向うに歴史を見る

芭蕉の住まいは小名木川が隅田川に入るところに架かる萬年橋の近く

荷風は『江戸芸術論』(‘20)で、「伊勢物語を以て国文中の真髄となし、芭蕉と蜀山人の吟咏を以て江戸文化の精粋となせり」と芭蕉への敬意を明らかにしている。萬年橋の畔に、「芭蕉案の址は神社(芭蕉稲荷)となって保存」されているのを見て安堵する

一般に日本人は西洋人のように未知の土地への旅は好まない。先人の旅のあとを辿る。「歌枕」の旅になる。荷風の散策も辿る旅で、眼前の風景の中に過去や歴史を見ようとする

 

19 荒川放水路のほうへ

l  「限りもなく私を喜ばせる」

'31,32年頃よく足を運んだ散策の場が荒川放水路。川べりはまだ人家も少なく茫漠とした風景が広がり、孤独を愛した荷風にはその荒涼渺々たる風景が心に沁みるものがあった

度重なる隅田川の洪水を防ぐための全長20㎞のバイパスで、'30年完成

l  お化け煙突を発見する

お化け煙突は東京電力の千住火力発電所のもの、千住大橋の西南にあり、ランドマークとして全国に知られるのは'53年の映画によってだが、すでに’40年の『日乗』には出て来る

l  放水路という新風景

荒川放水路は東京に出現した新風景で、先ずは画家たちが目をつける、最初の作品は’30年版画家深沢索一の《新荒川》、同じ版画家の藤森静雄《荒川放水路の秋色》

放水路を有名にしたのに荷風の随筆『放水路』が貢献(‘36)

l  葛西橋への思い入れ

当時荒川放水路の最南端が葛西橋。荷風はこの橋の風景を気に入る。『にぎり飯』の舞台

l  小津安二郎のアングル

小津の《東京物語》は堀切橋近くの荒川土手を舞台にしているが、荷風の影響がみられる

 

20 満州事変始まる

l  デパートの商戦にも

政治とは距離を置く荷風も、満洲事変は日記に「戦争」と書く。すでにその時点で、翌年の五・一五がカフェで壮士たちの間で話題になっていた

デパートが戦争の熱気を商戦に利用

l  ゲンポーとグンシュクの日々

「満洲ブーム」と呼ばれる好景気が訪れ、シナ事変までは国民の間に戦争の実感はなく、「儲かる戦争」だったことが国民の戦争支持に繋がる。「大学は出たけれど」の時代で「クビ」や「減俸」などよく言われたが、そういう言葉を聞かなくなり、軍人受難の時代が一変する

l  「最高に格好いい姿」だった

満蒙は我が国の生命線となり、国連に脱退宣言を叩きつけてジュネーヴを出てゆく松岡の様子は最高に格好いい姿として語り継がれた

l  こうして朝日新聞は変化した

国民の満洲事変支持の背景にはマスメディアの力が大きい。軍部に批判的だった朝日新聞が、'32年紙面公募で選ばれた《満洲行進曲》を掲載したのが契機で、戦争支持に変わる

荷風は世の中が軍国主義へと傾いてゆくのを危惧。『日乗』にも、「道路の言(巷の噂)」として朝日新聞が軍部に屈したことを聞き、「言論の自由」の侵害を憂慮し軍部を批判している

上海へ戦争が拡大していくのを国民が熱狂して支持したり、「肉弾三勇士」が熱く語られたりするのを見て「吾国は永久に言論学芸の楽土にはあらず」といい「往古の如く一番槍の功名を競い死を顧みざる特殊の気風を有す、亦奇なりと謂うべし」と嘆息

上海は荷風にとって曾遊の地。'97年郵船の上海支店長の父に連れられて遊びに行った

l  天皇への直訴という考え方

'32年桜田門事件で天皇暗殺未遂。『日乗』には’27年の二等兵による直訴事件の記述もあり、天皇を巡る事件には敏感に反応

l  荷風が日の丸を買う

'34年『日乗』の欄外朱書に「群馬県にて鹵簿(ろぼ、天皇の行列)誘導の警部自殺未遂」とある。警部が順路を間違え首相の責任論にまで発展。荷風がこんなことまでわざわざ記したのは、天皇絶対の下に市井の暮らしが窮屈になってゆくことを感じ取ったからだろう

'35年、かつて国旗など掲揚しなかった荷風が壮士の襲来を恐れ隠れ蓑として国旗を買う

 

21 城東電車が走った町、砂町

l  世界第2の都市に

'32年、東京市区大改正により全35区となり郊外へと拡大。人口570万人はニューヨークに次ぐ世界第2の都市となる。サイデンステッカーは日本人はずるいと憤慨

大改正により亀戸・大島・砂町は城東区となる。’17年私鉄の城東電車が最初の路面電車で、工場地帯の重要な足となり、人口増加を支える

l  路面電車に乗って

荷風が城東をよく歩くようになるのは、’31年満洲事変勃発後。路面電車を多用

l  城東地区の興亡

「工場の東京」の風景にも心惹かれる。中洲病院に行った後は必ずのように城東散策へ

l  モダニズム作家の見た江東

昭和モダニズムの作家龍膽寺雄の短篇『機関車に巣喰ふ』(‘30)の舞台は荒川土手に捨て置かれた蒸気機関車。江東の工場街を活気のある町として肯定的に描く

l  砂町で発見したもの

城東の中でも荷風が特に心をとめたのが砂町。大改正後に誕生した「砂町銀座」に親近感を持つが、偶然見つけた江戸初期創建で江戸文人に愛された「砂村八幡宮」(現富賀岡八幡宮/元八幡)に喜びスケッチする。随筆『元八まん』(’35)にその喜びが描写される

l  隅田川以東の地への思い

荒川放水路河口付近の「砂町海水浴場」や、火葬場の煙突にも目をとめる

山の手生まれの荷風にとって、城東は別世界。軍国主義を強める時代への抗いがあり、心のどこかに市中の熱気を離れて東の方に隠れ住みたいという思いがあると推測する。次第に市中での暮らしに息苦しさを感じている荷風の時代への違和感を感じ取ることが出来る

 

22 戦争の隣りの平和

l  小春日和のような日々

満洲事変から’37年の支那事変までは戦争と平和が同居。まだ日常生活にはゆとりがある

荷風の生活にも「平和」はあり、時代の風俗に敏感で、日常の見聞きする出来事を詳述

l  「暢気眼鏡」の奥さんのアルバイト

昭和の私小説家尾崎一雄の『暢気眼鏡』(‘33)は、貧乏文士とそれを支える女がマネキン(モデル)になる話。林芙美子の『帯広まで』('35)もマネキンが主人公

l  パーマネントが禁止されるとき

荷風の短篇『ちゞらし髪』は新しい女性の髪型を取り上げる

日本最初の美容院は、アメリカで美容を学んだ山野千枝子が’23年丸ビルに開設した「丸の内美容院」。吉行淳之介の母も山野に学んで「山の手美容院」を開設(‘29)

‘43年の『日乗』には、政府がパーマの機械を買い上げ、女性の縮髪は今年限りとある

l  文士と麻雀

'33年、「里見淳(ママ)ら文士が麻雀賭博で検挙」の記載。大正末期から文士の間に麻雀が流行、明治の文人である荷風は、昭和の文士を苦々しく思う

同時期「欄外朱書」に、「舞踏場検挙名家の夫人多く捕らわる」との記載も

l  紙芝居の登場

'32年の『日乗』に「谷町の門前に飴売の男人形芝居を演じる」との記載。不況で紙芝居に

 

23 軍人たちの時代

l  待合とクーデター

'31年、3月事件、10月事件と相次ぐクーデター。未遂に終わるが、「尊王愛国の動機さえよければ処罰されない」という考え方がはばを利かせる。待合での謀議には批判

l  「武断政治を措きて他に道なし」

‘31年、クーデター未遂を聞いた荷風は、「政党政治の腐敗一掃のためには武断政治しかない」と、一時的な覚醒手段としてその効果を肯定しているのは意外

l  テロリストが賛美されてゆく

血盟団による暗殺事件が相次ぎ、荷風は次第のファナティックになってゆく時代の空気を嫌い、恐れた。水戸批判や水戸嫌いが日記や作品に頻出

l  五・一五事件とポピュリズム

事件の事は銀座に出た折号外で知り、軍人による組織的行動に驚く。新聞は1年後の裁判から報道を開始するが、加害者の軍関係者を忠国愛国者として同情的

l  軍人を肥った豚と呼ぶ

荷風は軍人の横暴を危惧。カフェにも軍服姿が現れる

満洲事変に功あった軍人に対し東京市が凱旋歓迎会を挙行したのを見て、無名兵士の死の上にいる将軍を批判、「今は征人悉く肥満豚の如くなりて還る」と痛烈

'34年には東北地方を大凶作が襲い、その時の農村の疲弊が二・二六の一因でもある

 

24 貧しい東京、悲惨な東北

l  「強兵」重視のかげで

「隅田川以東の地は紳士の邸宅らしきものなく見るもの皆貧し気にて物哀れ」と書く

明治以来「強兵」が最も重視され、「富国」が蔑ろにされた

l  四つ木に住む少女

荒川放水路沿いの四つ木も新開地。軒の低い長屋の建ち並ぶ「貧しい東京」。荷風が歩いていたころ四つ木に住んでいたのが『綴方教室』の豊田正子(‘22年生)

隅田川を隔てた本所・向島は「川向う」といって軽蔑され、さらに荒川放水路を渡って四つ木方面に越していくのは夜逃げと決まっていた

l  「欠食児童」という流行語

学校に弁当を持ってゆけない「欠食児童」のために学校給食が始まり、貧しい家の証となる

l  三陸大津波ふたたび

東北は、'31年凶作、'32年不作、'33年豊作だが3月に大津波、'34年明治以来の大凶作

1896年次ぐ大津波。マグニチュード8.1、波の高さは28.7m

l  不受不施の生き方

'34年の東北の大凶作は早春からの「やませ」による冷害

'31年は、世界初の寒冷地用水稲「農林1号」の育成に成功した画期的な年。東北の農民を冷害から救い、戦中戦後の食糧事情の苦しい時にも、多くの人を飢餓や栄養失調から救う

 

25 私娼たちに「パリ」を見る

l  「性」を売る町

物情騒然とする世にあって荷風は時代から身を隠すように私娼たちとの交情を深めてゆく

最初の私娼は'32年、銀座の路地裏で会った乙部高子

「性」はもともと『論語』に「性相近也習相遠也」(人の生まれつきの性格は誰でも似たようなものだが、習慣によって違ってくる)とあるように、「生まれつきの性格」の意。それが近年は色欲の意味に使われるようになり、軍国主義が強まる世の裏側に性の爛熟が潜む

l  『ひかげの花』(‘34)のモデル

乙部の次が黒澤きみで、私娼小説『ひかげの花』のモデル

『日乗』には、私娼の代金も、間代や女中祝儀などと共にきちんと記している

小説のモデルにするために、警察に行ったり探偵を雇ったりして身元を調べる

l  パリの娼婦たち

荷風は、自分が愛するフランス文学が娼婦をミューズにしていることを学ぶ

『ふらんす物語』('09)でも娼婦との数多くの出会いを描く。ベルエポック最中のパリに留学して、フランス文学には娼婦小説というジャンルがあることを知る

次第に息苦しくなってゆく時代に、荷風が密かに私娼たちを求め続けたのは、青年時代パリで知ったボヘミアンの暮らしへの郷愁、さらには、私娼たちとの世を隠れた交情への逃避の思いが強かったためであり、「文化の国」の理想型としてフランスが大きく浮上

l  フランスへの「亡命」

この時期荷風は、熱心にフランスの小説を読んでいることが『日乗』から窺え、精神的にフランスに「亡命」しようとしている。多くは同時代の作家

l  時代に背を向ける秘かな楽しみ

私娼が情夫を偏奇館に連れてきて秘戯を披露、荷風がカメラに収めるのが秘かな楽しみ。豆本作家が出版した『偏奇館閨中写影(ねやのうつしえ)(‘70)という稀覯本がある

 

26 玉の井への道

l  玉の井観察

荷風は小説を書く時に、作中人物の生活及び事件が開展する場所を重視し、場所が決まるまでは構想は成らない。場所の選択と描写のため、2,3年は通い続ける

『濹東綺譚』の舞台となる向島の玉の井が『日乗』に初めて登場するのは’32年。玉の井は、浅草十二階(凌雲閣)下の銘酒屋が道路拡張と震災によって川向うの寺島町に移転した遊里。荷風は向島の玉の井を歩いて浅草の遊興の地の面影が残るのを見て心にとめた

l  おはぐろどぶバラバラ事件

その2カ月後に東武線玉の井駅(現東向島)近辺で男のバラバラの遺体が発見され、玉の井の名が全国に知れた。前代未聞の猟奇事件で、松本清張が『額と歯』に書く

l  猟奇的世界から遠く離れて

亀戸に近い本所育ちの芥川が、芸者家が並び私娼窟もある亀戸を忌避するのに対し、山の手に生まれ育った荷風は逆に陋巷趣味が強く、周縁の町にこそ隠れ里があるという思いが強い。猟奇事件で暫く足が遠のいた玉の井に通うようになるのは4年後の二・二六の後

l  あらかじめ失われた町へ

繁華な筈の玉の井の物語を、廃線になった京成白鬚線の跡から語り始めた『濹東綺譚』は、初めから失われてしまった過去の町の物語になっている

 

27 隠れ里、玉の井

l  二・二六事件の戒厳令下を

事件当日の『日乗』には人伝に聞いた話に続いて号外で詳細を知ったことが記されている

翌日、戒厳令下の様子を見に出かけた後、友人たちと外食。いつもと変らぬ日常があった

判年後の判決も「欄外朱書」になっていて荷風の関心の大きさが窺える

l  「最低の遊び場」へ通いつめる

事件直後から、荷風は周縁の町、玉の井へとまるで身を隠すように出掛けてゆく

玉の井を舞台に小説を書きたいという意図は、『日乗』にも散見

玉の井は、東京の遊興の地としては最低のところ。新橋、神楽坂、富士見町、白山、麻布の花柳界や、吉原や洲崎とも全く質の異なる暗くじめじめとした最低の遊び場

l  荷風の「詩人的配慮」

当時ジャーナリズムでは、震災後の周縁部を記事に採り上げるルポが流行った

『濹東綺譚』をその流れに入れようとする論があるが、まったく異質のもので、荷風は決して「魔窟」「暗黒街」などという言葉は使わず、夢の町として描き出している

l  迷宮を通り抜けた先に

『濹東綺譚』には、荷風の周縁世界への愛着、雪という私娼への深い思いが浮かび上がる

荷風は玉の井を、「盛り場」あるいは「迷宮(ラビラント)」と呼ぶ。谷崎が既に浅草辺りの陋巷をラビリンスと書いている

l  国外脱出の夢、そしてミューズ

老人の自覚を深めた荷風は、「老懶(ろうらん)」の日々を嘆き、「肉慾」も「芸術の慾」も失せたと書き、「終焉の時の事をしるし置かむとす」と遺言めいたものを7項目にわたり記す

‘37年の随筆『西瓜』は、1人暮らしを続ける荷風の「索居独棲の言いがたき詩味」を綴ったものだが、最後の段に「西洋に移り住もうとして種々準備した」とある

玉の井で会った私娼のお雪も、実際以上に理想化された「ミューズ」、美の化身となる

 

28 「ミューズ」、お雪

l  過去を懐かしむ先に

『濹東綺譚』は、失われた古い時代への哀惜が底流にある。そのために私娼の街を舞台にしていながら生臭さがない。セピア色のかかった小説。「活動写真」「名題(なだい、歌舞妓の演目の題名/役者の格付け)」「ヴィヨロン(ヴァイオリン)」「襟飾(ネクタイ)」などの「廃語」を敢て使う。多和田葉子の『所有者のパスワード』(2000)は、読書好きの女子高生が漢字4文字の署名の難しそうな本を読むが、知らない言葉の羅列に驚く

l  「井戸か水道か」

井戸水で茶は飲まないと決めている。花柳病よりチブスなどの伝染病を恐れたが、下町には早くから水道が引かれていた。荷風の父は内務省の衛生局書記官、水道の普及に尽力

l  過去の幻影が立ち現れる

玉の井の女性は凡そ7,800人。髷を結うのは10人に1人くらい。荷風は玉の井の中にも失われた過去を求める。お雪を「明治年間の娼妓」に見立てているのも荷風の過去追慕

l  美女と茶漬け

お雪の部屋に入って、お茶漬けをかきこむ姿を見て可愛さが募る

l  おためごかしの後の自己嫌悪

荷風は、「お雪のためを思って別れた」と書くがおためごかしに過ぎない。『濹東綺譚』を書くために利用しただけだが、その自己嫌悪が「作後贅言」でことさらに自らの老い、死の意識を強調した背景ではないか

l  モーパッサン原作の映画?

『濹東綺譚』の魅力は、その「詩情」にある。「詩情」を生むのは何よりも季節感。日本の近代小説が「季節感を古いものとして捨てた」中で、荷風だけは季節感を大事にし、『濹東綺譚』は夏の3カ月の物語だが、季節を表現するために言葉を磨いた

モーパッサンの短篇小説を脚色した映画に言及しているが、その映画が特定できていない

 

29 日中戦争始まる

l  天皇機関説問題

'35年、「時代の狂気が最も鮮やかに現れた」と言われる天皇機関説問題勃発。『日乗』にも、「機関説直輸入元祖一木喜徳郎を斬れ」との物騒なビラを見たとある

l  「個人の覚醒せざるがために」

'35年創設のペンクラブ(初代会長は島崎藤村)への加入勧誘が来たが断る

『日乗』にも時代批判は頻出。国体明徴声明の後、永田鉄山暗殺事件が起こるが、誰が何のために起こした事件か詳細不詳にも拘らず、荷風は、「日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なきことの3つ」と明快に分析

l  元愛妾と阿部定の噂話をする

永田事件の加害者相沢には当初同情の声あるも、二・二六事件で空気が変わり銃殺刑に

5月には女性による情痴事件。どこか愛すべきおかしみがあり、庶民の息抜きになる

「愛」の存在が世間の同情を買ったのか、量刑も懲役6年と軽い。'38年の映画《愛染かつら》の大ヒットも同じく健全な民意の現れ

l  私家版『濹東綺譚』始末

’37.4.15.の『日乗』に、今日から『濹東綺譚』朝日新聞に連載開始とある。2か月間35回で完結。読者の時勢への鬱憤を代表した形になり、広い反響を呼び覚ます。半年遅れていたら発表は不可能だったろう。単行本が岩波から出版された時知識人たちは驚いた

発表の当てもなく書かれたが、朝日新聞が荷風の小説を望んでいることが分り原稿を渡す

掲載前に私家本を作ったが、出来が悪く取り消し。官憲の弾圧を恐れたからではないか

徳田秋声の『縮図』も、谷崎の『細雪』も中途で連載中止を余儀なくされている

l  出征兵士の別れの挨拶

同年7月の『日乗』には、「日支交戦の号外出づ」の記載。赤紙の召集が始まり、街頭で応召風景が見られるようになり、『日乗』にも戦時風景の記述が増える。抹消部分もあり、憲兵に読まれたら大事になる危険な記述などが削除されている

 

30 日中戦争下の日々

l  アッパッパを着た女性

急速に戦時色が強まる時代にあっても、好きな隅田川周辺への散策は欠かさない

‘37年、『日乗』に「北千住所見」という下町散策を愛する荷風らしい文章があり、若い女性のアッパッパ姿が紹介される。夏用の簡素なワンピースで、震災後の洋風化と共に広まり、明治人にはただ布をまとっただけの下着に見えたが、時代の流れだと好感を寄せる

l  写真機を片手に

大陸への出征兵士が増え、一時的に偏奇館近辺の民家や寺にも宿泊。寝室と夜具のみ提供し「兵隊宿」と呼ばれ、憲兵の立哨も見られる

当時、荷風はカメラを購入し、撮影に凝っていた。ちょっと意外。濹東への散策には写真機を手放さず。現像までするようになる

l  ニュース映画の上映館

『濹東綺譚』の私家版には自ら撮った写真11葉を入れている

日中戦争以後、町にはニュース映画の上映館が増える

l  作家への弾圧が始まる

荷風の写真には戦争を感じさせるものはほとんどないが、『日乗』には随所に戦争へと向かう時代の光景が記される。帝大教授多数逮捕(2次人民戦線事件、’38)の「欄外朱書」は荷風の危機感が窺え、その秋には『生きてゐる兵隊』の著者石川達三の実刑判決も「欄外朱書」。中国で転戦する部隊の戦いを描いたが、発禁処分に加え著者と発行人も刑事罰に

荷風は、「民衆」の熱狂・興奮も恐れる。浅草に電車で行く際、皇居前を通ると脱帽敬礼させられるのが嫌で、それを避けて銀座経由で向かうというささやかな抵抗をする

 

31 吉原出遊

l  30年振りの吉原登楼

『濹東綺譚』を書き上げた後、次の隠れ家を求めるかのように、’37年吉原出遊を繰り返す荷風の吉原登楼は留学前17,8の頃。明治の東京の青年にとっては、吉原登楼は大人になるために成長の儀式

l  遊ぶ、見る、書く

吉原を、南の品川遊郭に対して「北里(ほくり)」という。久しぶりに吉原に行って、現代の遊郭のことも「筆にしたき心地す」と書く。吉原は、'10年の水害と翌年の全焼で一変、さらに震災後の区画整理で、山谷堀も埋め立て、ラヂオの洋楽が聞こえ、ビヤホールまで出現

l  「なか」が通じなくなった

町は総称して「5丁目」と呼ばれ、吉原全体は「なか」と通称されたが、家から深夜吉原に行こうとして円タクに乗るが、仲までいくらかと聞いても、仲はどこかと聞き返されて、この言葉が廃語となったことに気づく

l  没落の遊里取材

北里を描く小説の腹案が成り、『冬扇記』と題す。冬の扇とは役に立たないものの意で、自ら「世に用なき閒文学なればなり」と自嘲。未完に終わるが、安全な場所にいて苦界にいる女たちに「哀れ」を感じる自分に対する罪責感から未発表としたのではないか

l  廓内の女たちへの尊敬

吉原では、先ず引手茶屋で芸者を相手に清遊し、妓楼では娼妓と床を共にするが、ここでも荷風は何人かの気のいい女たちに出会っている

踊子仲間を連れて吉原で食事をした際、踊子が芸者衆を一段上の女であるかのような言い方をしたのを聞き、「廓内の女たちがその周囲のものから一種の尊敬を以て見られていた江戸時代からの古い伝統が、まだその日まで滅びずに残っていたことを確かめた」

荷風が下町の陋巷に身を隠そうと思ったのも、こうした下町をこそよしと思ったから

浅草生まれの池波正太郎も、小学校を出ると株屋になり、早くから吉原に上がっていい女性に巡り合い、出征するときは母親がその女の所に世話になったとお礼に行ったという

 

32 浅草オペラ館への道

l  東武電車が浅草に

吉原と並行して浅草を歩くようになった。大正時代には浅草オペラが人気を博し、「ペラゴロ」と呼ばれるファンが集まり、浅草全盛時代を誇るが、荷風の出掛けたのはその後

浅草の発展は、'27年の地下鉄と'31年の東武乗り入れが契機。東武は阪急を参考にしたターミナルビルを建て、松屋をテナントとする

l  松屋デパートの屋上から

‘31年、荷風は乗合汽船で吾妻橋へ、市街の光景が一変したモダン都市浅草を見る

『浮沈』('46)は戦中の作で、主人公のさだ子が東武電車で浅草に着くところから始まる

l  軽演劇の人びとと交わる

地下鉄での浅草行きが日常化。『冬扇記』の筆が進まず「感興もいつか消散」して断念、代わりに浅草オペラ座で芝居を見る。オペラ館の人びとと寛ぎ、歌劇《葛飾情話》も書く

l  浅草の観客

荷風はオペラ館の気取りのない雰囲気が気に入り、「帝劇では不快に思われるものでも浅草で無智の群衆と共に見れば一味の哀愁を覚えてよし」と書く。特に軽演劇を絶賛

l  エノケン、ロッパの去った街へ

荷風が通っていた'37,8年ころの浅草は、東京の盛り場が小林一三の東宝系の興行街を作った日比谷に移ったことから寂れつつあった

格差社会の出現で高級志向がはばを利かせ、人々の関心は、場末より都心へ、野暮より見栄へ、人情より気取り、江戸っ子より都会人へと移行。東京の西への拡大も一因

ロッパ・エノケンの2大スターが浅草を去り、'35年東宝の傘下に入ったのが象徴的

l  「一味の哀愁をおぼえたり」

荷風は、寂れを見せ始めた浅草にこそ惹かれる

'37年、浅草に国際劇場ができ松竹少女歌劇が若い女性たちに人気だったが、彼女たちは何か浅草に嫌悪と軽蔑の、そして幾分恐怖の背を向けて、六区など脇目もふらずに地下鉄と劇場の間を往復するだけ。浅草の中でも格差が生まれている

オペラ館の芸人夫婦のつましい暮らしを垣間見て、荷風は「余はいはれなく一味の哀愁をおぼえたり」と書き、『ふらんす物語』に頻出した「淋しさ」「哀れ」「物哀しさ」がここにも再現

 

33 浅草で、歌劇「葛飾情話」上演

l  「写真を撮ってくれるおじいさん」

‘38年も早々に浅草通いで始まる。戦時中だが、浅草は人で賑わい戦争を感じさせない

親しくオペラ館に出入りし、楽屋で踊子たちの写真をよく撮った。まだ写真が貴重な時代

『勲章』(‘46)は、オペラ館の楽屋通いから生まれた随筆

l  オペラへの愛情

荷風は若い頃からオペラへの愛を持ち、留学中にはオペラ三昧も体験。随筆『帝国劇場のオペラ』(‘27)も、若き日を思い出して帝劇のオペラに毎夜通っていることを書く

日本のオペラは、'11年に開場した丸の内帝劇に歌劇部が作られ、イタリア人振付師を招いて上演されたが失敗、赤坂の公演でも失敗。そのあと誕生したのが浅草オペラ。'17年新劇出身の演出家伊庭孝が常磐座で上演した《女軍出征》が成功し、田谷力三というスターが誕生。帝劇や赤坂で持て余したものを消化したのが浅草だった

l  ドビュッシィのレコード

‘37年、「音楽家」菅原明朗(めいろう)に初めて会う。1897年生まれで独学で作曲を学んだ洋楽草創期の作曲家。荷風は留学後に『西洋音楽最近の傾向』('08)でドビュッシィを詳しく紹介したが、その縁で菅原とその伴侶のオペラ歌手永井智子と知り合い、東京大空襲の時は行を共にし助けられた

l  荷風歌劇、大入満員

歌劇《葛飾情話》は、菅原との交遊から共同作業として始まる。事前に荷風が脚本を書くことが新聞に漏れ大きなニュースになる。2幕からなる人情もの。オペラ歌手を目指していた永井智子を抜擢。作曲は菅原、荷風は自ら背景画の案も作る。文豪の原作もあって、40回の公演はすべて満員。演劇・音楽評論家の蘆原英了も取り上げる

楽日(らくび)に荷風は、オペラ上演を夢見た上田敏の墓参りに出掛け、上演の喜びを報告

l  1999年の《葛飾情話》

'38年以降上演の機会に恵まれず「幻のオペラ」と呼ばれたが、1999年、荷風が愛した浄閑寺のある荒川区の区民交響楽団によって再演。興行的には成功したが、批評家の評価は、陳腐な悲劇として芳しくなかった。筆者は、永井智子の娘で作家の永井路子と聴いて感動。オペラというより一つのレクイエムに聴こえる。戦争へと向かう時代の最後の祈りの曲

 

34 第二次世界大戦まで

l  幻の映画《浅草交響曲》

オペラの後に荷風が取りかかったのは映画。永井智子のための脚本で《浅草交響曲》と題された、荷風らしいオペラ歌手落魄の物語だが、映画会社からは荷風の真意が掴めず辞退され、軍事奨励に関係ないこともあったが、荷風は激怒

'43年、荷風は再度永井のための作品《左手の曲》を書き、松竹の城戸四郎に話を持っていくがこれも却下。永井智子主演が条件で、原稿料などは所望しなかったという

l  戦死者が日常的になる

‘3810月の『日乗』には戦死者の記述がある。濹東散策の途中で葬列を見る

荷風は1899年、徴兵検査を受けたが不合格。'38年には編集者から支那戦線視察に誘われるが断る。馴染みの踊子の夫が応召された時の涙に暮れる様を見るに忍びずと書く

l  軽演劇のヒトラ―

'39年にはオペラ館の舞台にも官憲が露骨に干渉。荷風の仲間たちが取り調べを受ける

ヒトラーに扮して軍歌を歌う場面も同盟国に対する不敬として禁止

玉の井探訪の際、不審者として刑事に誰何され交番に引き渡されたが、巡査が顔見知りでお茶を勧められ、刑事は唖然

l  同調圧力にさからって

国家総動員法公布。丸善から「注文したる洋書悉く輸入不許可」の通知

荷風は「非国民」となって秘かに下町を歩く。平井に足を延ばし駅前からの場末の商店街が明るく芸者の往来するのを見て、戦後の小説『踊子』や短篇『にぎり飯』を書く

 

35 「非国民」の悲しみ

l  金の国勢調査

国民生活への締め付けは’39年あたりから厳格化。国民精神総動員強化方策を閣議決定

まずは鉄製不急品の回収。次いで身なりへ、パーマは禁止、男子学生はいが栗に。奢侈品等製造販売制限規制施行。金製品強制買い上げ

荷風は、すでに金時計などを売却、最後に残った煙管も川に捨てる

l  パーマの髪と短いスカート姿

庶民の暮らしが次第に逼迫していくなか、戦争成金が現れていることを見逃していない

銀座で軍人が酒に酔い、女を連れて歩いているのを「嫌悪」と断ずる一方で、玉の井では多くの新顔の美女が出ているのを見て喜び、銀座でもモダンな女性たちがパーマに短いスカートで颯爽と歩くのを「人の目を喜ばすに足る」とした

l  「ぜいたくは敵だ!」の時代に

出征した男に代わって女性の社会進出が進み、活動的な洋装やおしゃれが広がる

l  「非国民」同士の共感

‘40年になっても『日乗』にはまだ外出する余裕が感じられる。「非国民」がさらし者にされるなか、荷風は「今日の東京に果して奢侈贅沢と称するに足るべきものありや」と皮肉る

l  パリ落城

荷風は欧州での戦争の行方にも無関心ではいられない。「唯胸の奥深く日夜仏蘭西軍の勝利を祈願して止まざるのみ」と書く

 

36 昭和十五年、「紀元二千六百年」

l  米穀通帳が始まる

経済統制が始まり、食料品・日用品の不足が目立つようになり、『日乗』にも'399月には自分の体験としてその記述が現れる。食堂で周囲が「半搗米」を文句も言わずに黙々と食べる様子を見て驚く

各家ごとに家族構成を調べた上で食料を配給する「米穀通帳」が導入され、「日蔭の世渡りする者には不便この上なき世となりしなり」と慨嘆

l  荷風が炭を失敬する

マッチが貴重品になり、煙草に火をつけてもらっても、マッチの箱はボーイが持ち去る

砂糖、マッチ以下10品目が順次切符制に

1人暮らしに冬の寒さがこたえ、暖房用の炭にこと欠き、警戒警報発令中人通りが少ないのを幸い、町内の配給所の炭俵からこっそり炭を盗む

l  口を開けば「新体制、新体制」

「乱世ならば長寿を保つほどの悲惨なるはなし」と弱音を吐いたり、玉の井の淫売屋を買い取って身を隠さんと欲したり、孤高の老人にとってますます住みにくい世の中になる

「新体制」に賛同する日本文学者会が、尾崎一雄、川端康成らを発起人として創設

l  「駅馬車」日本公開の年に

「新体制」は「挙国一致」という熱狂を国民の間に生み出した

紀元2600年の式典にはまだアメリカの駐日大使グルーが各国大使を代表して祝詞を述べているし、ジョン・フォードの映画《駅馬車》が公開。フランスと日本での名作との評判がアメリカでの評価を高めた

l  「祝賀」のあと

荷風は祝賀にも背を向け、「現代の日本人より文学者芸術化等と目せらるることを好まず」といい、祝賀の5日間の無礼講の騒ぎを日記に記す

l  ひそかな荷風ブームがおきる

このころ、岩波文庫に入った荷風の作品がよく売れた。『濹東綺譚』の人気が背景に

ドイツからも『おもかげ』の翻訳出版の願いが来るが、ナチス嫌いの荷風は当然断る

侘しい1人暮らしだが、軍人専横の世にあってはそれでも楽しいと、単身者のダンディズムを発揮、「哀愁の美観に酔うことあり。心の自由空想の自由のみは如何に暴悪なる政府の権力とてもこれを束縛すること能わず。人の命のある限り自由は滅びざるなり」と強がる

 

37 太平洋戦争まで

l  遺書を書く

'41年の正月も浅草は賑わう。「東京の住民は何か事あれば全家外に出て遊び歩く、これ近年の風俗なり」としている

年初に遺書を書き、従弟の杵屋五叟(大島一雄)に託す。「葬式無用、火葬の骨拾うに及ばず」とし、'36年には財産をフランス・アカデミイゴンクウルに寄付したいといっていたが、この年にはそれを取り消し

l  朝鮮の踊子たちが歌う

朝鮮の踊子一座が自分たちの国の言葉で歌うことを禁じられていると聞き、「言い難き悲痛の感に打たれる」と言い、日本の海外発展に対しても嫌悪と恐怖を感じて止まないとする

l  ある舞姫の物語

日本で人気のあった舞踏家が崔承喜(さいしょうき)

l  荷風の覚悟

左團次(杏花子:きょうかし)1周忌に追悼文を『中央公論』に寄稿

阿部定の満期出獄を祝す

俳人の神沢杜口(かんざわとこう、号其蜩:きちょう、随筆『翁草(おきなぐさ)』の著者)が文を書くにあたっての心がけとして、「平生の事は随分柔和にて遠慮がちなるよし。但筆をとりては聊も遠慮の心を起すべからず。遠慮して世間に憚りて実事を失うこと多し」とあるのを知り、「余これを読みて新中大に慚()じるところあり」とし、日記が他人に読まれることを怖れ日記中の「不平憤惻の文字」を切り取ったり、外出する際日記を下駄箱に隠したりすることを、「今翁草の文を読みて慚愧すること甚し」として決心する。「今日以後余の思うところは寸毫も憚り恐るる事なく之を筆にして後世史家の資料に供すべし」。覚悟を決めた荷風は、'28年の張作霖爆殺事件からとき起し、現在までの状況を批判的に振り返る

それが公にされるのは荷風の死後で、占領下、「荷風は多くの言論人に和して、自国の過去を裁くことだけは躊躇った」。時流に弱い知識人とは明らかに一線を画している

l  「模倣ナチス政治」の世で

荷風は「非国民」となってアメリカを支持、現代の日本人を「傲慢無礼」とした上で、「米国よ、速に起ってこの狂暴なる民族に改悛の機会を与えしめよ」と書く

「新体制」のような「模倣ナチス政治」がまかり通る世も、老人にはもうどうでもいい

 

 

後篇 偏奇館焼亡から最期の日まで

38 鰹節と日米開戦

l  防空演習始まる

'419月、開戦に向って多くの国民が「熱狂」「興奮」にとらわれてゆくなか、荷風はどこまでも冷静で、浮ついた「殉国精神」という掛け声を笑止と批判。食料の窮乏が人々を苦しめるなかで大国アメリカとの戦争は無謀と、精神論を否定

野菜不足で近在へ買い出しに行く者が多いのは開戦前から。痛烈な愛国者批判も記す

61歳の荷風が、「本年に入り漸く老いの迫るを覚え歩行すれば忽疲労を感ずること甚し」と、独り暮らしの身がいつまで長らえるか不安になった

この頃から市中では防空演習が繰り返され、高齢の荷風には苦になる。8月の関東一円の防空演習は『信濃毎日』の桐生悠々が「演習を嗤う」として批判し退社に追い込まれる

l  米と鰹節と梅干あらば

高齢単身者には食料の調達・確保がひと仕事。「昔の人の飢饉の用意に米と鰹節と梅干あらば命は繋ぎ得べし」とのことを真実と知る

「晩食の後浅草に徃く。煮豆ふくませ罎詰葛等を得たり。市中の散歩も古書骨董を探るが為らず餓饑道の彷徨憐れむべし」と書き、多くの知識人まで開戦の快哉を叫んだ一因もこの食の窮乏にあると言っても過言ではない。「日米開戦」と「鰹節」は市井の人間の中で同居

荷風を師と慕う谷崎潤一郎が12月の誕生日に、中国人の彫師に依頼した「断腸亭」の印章を贈ってくれた。印章は偏奇館焼亡後も焼け残る。高齢単身者の誕生日は平日と変らず

l  開戦に熱狂する知識人たち

開戦の臨時ニュースは日本人を熱狂させる。多くの文学者も感動し、涙している

太宰治の短篇『128日』(1942)は、作家(本人らしい)の妻がその日をどう迎えたかを「私」という1人称で書いている。荷風のみ冷静で、発表の当てもなく、若く美しい女性の流転を描いた『浮沈』(1946)を書き始めている。夕方銀座に出る途中号外で初めて開戦を知るが気持ちが昂ることはなく、そのまま銀座食堂で食事。翌日も世の中の様子を見に浅草に出掛け普段と変わりない賑わいに安心。平穏な日常を送る浅草の人たちはまとも

l  「スミス都へ行く」

『わが荷風』(1975)を書いた野口冨士男も冷静だった1人。アメリカとの戦争と聞いて、アメリカ映画が見られなくなると思い、すぐに家族と《スミス都へ行く》を見に行く。戦前日本で公開された最後のアメリカ映画。安岡章太郎のエッセイには、翌年東京の大学の映画好きが集まって前年度作品から、邦画は小津の《戸田家の兄妹》、洋画は《スミス都へ行く》をベストに選んだとあり、ミッドウェー敗戦後でも問題にされなかったようだ

l  徴用令時代の文士たち

荷風は高齢で召集されなかったが、かつて左傾思想を抱いた作家たちは開戦直前にも国民徴用令によって東南アジア各地に派遣され苦役に服した。高見順や武田麟太郎らは左傾がかったといえるが、井伏、海音寺、石坂洋次郎、尾崎士郎らは左傾とはいえない

防空演習への参加も、高齢なるが故に町会から免除されていたが、開戦が迫ると不参加を詰られるようになり、いよいよ麻布を去るべき時節到来と考える

 

39 太平洋戦争下の日々

l  甘い物がほしい

開戦以後、荷風の暮らしは食料不足によっていよいよ厳しくなる。塩・醤油・砂糖などまで不足。浅草オペラ座の楽屋に行っても、踊子たちの話は「甘い物ほしいという事ばかり」

荷風も甘党で、「甘き物くれる人ほどありかだ(ママ)きはなし」と喜ぶ

芝口(新橋駅東側)の小料理屋金兵衛に足繁く通うが、'44年に建物取り壊しで消滅

l  ドゥリットル隊来襲

'424月、初の米軍空襲。早稲田・下目黒などで火災が発生したことを金兵衛で知る

多くの犠牲者が出たが、新聞は例の如く沈黙、風説徒に紛々たるのみ

『日乗』にもこの時期「巷の噂」が増えて来る。南京虐殺も、この頃偶然会った知人から聞かされた。当時は特派員として南京にいた林芙美子ですら知らなかったという

l  ひとりでジャムを煮る

'43年正月、荷風は素食(菜食)。「唯生きて居るというのみ」、何事もなく1日が過ぎ、千住に食うものを漁りに出る。以前は小説を書くためや風雅な趣味としての下町散策だったが、今や食料調達のためであり、生活のためにいたしかたない。以前の散策が役立つ

谷崎のような贅沢な美食家ではなく、むしろ素食家で、素食に甘んずることが出来たから生き延びることが出来た。料理はせず、せいぜいもらったリンゴでジャムを作るくらい

金銭感覚がはっきりしている。戦時下で原稿を公にしなかったため、収入は少ない。ほとんどの作家は日本文学報国会という政府に同調する組織に加入したが、荷風は断る

報国会の会長は、荷風が嫌悪する徳富蘇峰。設立を主導した菊池寛から挨拶もない

l  山本五十六も象のトンキーも

'43年、山本大将戦死。アッツ島玉砕。荷風は事実を記すのみどころか、日本批判が強まる。曰く、「現代日本の如き低劣滑稽なる政治の行はれしことは未曾て其例なかりき」

同年、イタリアが征伏され、国内でも空襲に備えて動物園の猛獣を毒殺。象のトンキーも薬殺。市中では防空壕作りが進み、荷風宅にも掘られるが、2年後の空襲では役立たず

l  「白紙」が来る恐怖

1939年、国民徴用令制定。徴用は40歳までの男子を対象に、国内外で兵役以外の労働に就かせることで、「赤紙」に対し「白紙」と呼ばれて恐れられた

信者でもない荷風が、先が見えない荒涼殺伐たる世、仏語の『聖書』に救いを求める

 

40 戦時下にも「別天地」あり

l  谷崎との会食の日に

苦しい日々のなか、時折うららかな日もあったことが窺える

'423月、中央公論嶋中社長の招きで谷崎と食事するが、行きがけに上野駅地下鉄構内で若い恋人同士と思しき男女が別れを惜しんで目に涙しているところを目撃して心動かされ、『浮沈』の執筆が一気に進み、ほどなく脱稿

会食の模様は、谷崎が『文藝春秋』に寄稿した随筆『きのふけふ』に記しているが、荷風の若々しさに「軽い驚き」を感じている。所帯染みたところがないのも余計若く見せた

中央公論社は、荷風と谷崎を特に敬重。'49年社長急逝の後も、若い社長に引き継がれた

l  浅草の釣竿屋老主人を眺めて

戦時下でも荷風の下町散策は続く。ささやかな慰めでもあった

初めて葛飾の立石に行き、中川の閑静な風景がよほど心に残ったのだろう、戦後、『老人』(1950)では、この時見た浅草釣竿屋の老主人をモデルにする。戦時下でも老人は軍国主義に染まらず、淡々と長年続けてきた手仕事をする、その時流とかけ離れた老人に共感

l  戦時下のフランス映画

浅草で踊子たちに会うのもいっとき戦争を忘れることの出来る幸福な時になっている

踊子に誘われて見たのが《モスコーの一夜》というフランス語の映画で、久し振りに聞くフランス語に感動。親独政権下のフランス映画はその後も輸入され、荷風も何度か見る

l  踊子の家のお漬物

'38年のオペラ館での《葛飾情話》上演以後も荷風と踊子たちとの交流は続く

浅草は戦時下にあっても平時のような賑わいを見せ、「仲店の人通を見れば平生世を憤る心も忽をだやかになりて言ひ知れぬ安堵をおぼゆる事今も猶むかしに異らず」と書く

踊子の家に招かれ、下町の実直な庶民の家族の幸せな暮らしを見て心安らぐ

l  鷗外先生墓所掃苔の一日

荷風は終生、鷗外を敬してやまなかった。自分が文学に生きてゆけるのは、鷗外という先駆のお陰だと感謝の思いがあった。関東大震災で鷗外の墓が三鷹に移った後は墓参りも遠のいたが、年取って今のうちにと'4310月墓参りを思い立つ。井の頭線で初めて駒場より西へ向かい禅林寺に行く

l  戦時下の楽興の時

この時期親しくしていたのが《葛飾情話》を上演した作曲家菅原明朗とその実質的妻で美貌のオペラ歌手永井智子(作家永井路子の母)。戦時色濃い荒々しい時代にも楽興の時があった。菅原の弟子でピアニストの宅孝二の家に集まり別天地に遊ぶ。宅はコルトーに師事。フランス留学では荷風の後輩。荷風が永井のために書いた詩に菅原が作曲。宅のピアノで永井が歌い、「一同憚るところなく批評をなす。余が芸術的生涯に於て最忘れがたき紀念となるべきもの」

ピニスト野辺地瓜丸(勝久)との交友もあった。野辺地は宅同様フランスに留学、コルトーに師事。何度か野辺地宅でピアノを聴く。ときどきは菅原・永井も合流

荷風はクラシック音楽を愛し、日本でドビュッシーを早くに紹介

 

41 建物疎開続く

l  玉の井(『濹東綺譚』の舞台)でも防火演習

独ソ戦でのソ連の勝利を「欣ぶ可し」と書く。ナチス嫌いが徹底している

日本軍が追い詰められてゆくほど、愛国心が高まるが、荷風はあくまでも国民の「熱狂」「興奮」から距離を置く。'429月には脚気が嵩じて、「両脚両腕麻痺して起臥自由ならず歩行する時よろめき勝ち、灯火に細字を書くこと困難。余が生命もいよいよ終局に近き」

ここ1年弱は単調な自炊生活が続き、老化現象に栄養失調も重なる

白秋(’42.11.没、享年57)、藤村(’43.8.没、71)、徳田秋声('43.11没、71)と続く

よく通った向島の玉の井の色町でも防火演習が行われたが、‘45年の東京大空襲で焼失

l  建物疎開促進の「国策映画」

空襲に備えるため、都市の密集地の建物を強制的に取り壊し、日除けの空地を作る「建物疎開」は、'441月に内務省の命令で東京と名古屋で始まる。木下恵介の3作目《歓呼の町》(‘44)は建物疎開促進のための「国策映画」の企画だが、出来上がったのは国策に唯々諾々と従う国民の姿で当局の怒りを買う

l  「疎開ト云フ新語流行ス」

特に駅周辺の住宅密集地が疎開の対象となることが多く、現在吉祥寺や西荻駅周辺に狭小な商店街が残るのは、疎開後の空地に戦後小さな飲食店が建てられた名残

荷風もいち早く目にとめ、親しんだ町並みが壊されてゆくのを悲しむ。3月にはオペラ館も取り壊しが決まり、最後の興行を見に行き、告別の辞に思わず貰い泣き

取り壊した廃材は、防空壕の土留として役所が売り出し、その抜け目なさに荷風は驚く

l  東京の市中が臭くなる

‘444月、軍人を批判。2年前の空襲以降増えた市外への移住者を「卑怯」「非国民」と罵ったのに、今は疎開と言い立てて移住させるのは「朝令暮改」そのものと笑う

疎開家屋の取り壊しによる塵芥の臭気紛分。「折から赤き色したる弦月の光の照添ひしさま凄惨の気味人を襲ふ」。加えて汲み取り人の減少から来る悪臭も心配

l  軍部が『腕くらべ』を注文する

生活必需品の入手が困難になり、空襲の恐れが強まって、独居老人の辛い日々が続く

孤独を愛する荷風が珍しく弱音を吐く、「日と共に老の迫り来たれる為にや。この34月の頃より折々無限の悲愁と寂寞とを覚え孤灯の下に孤坐するに堪えさるが如き心地する」

仏英でドイツ軍撤退の話を聞き、さらに軍部が岩波文庫の荷風著『腕くらべ』を注文し重版になったとの報に喜ぶ。花柳小説を出征兵士に贈るとは、「何等の滑稽ぞや」

『濹東綺譚』(‘37)の成功以来荷風人気は続き、大佛次郎が古本屋で本を求めたとき、交換でなければ嫌だというので、何がよいかと聞いたら荷風だという。荷風も戦争で男を挙げた。戦時下での荷風人気が窺える

 

42 空襲下の日々

l  最初で最後の偏奇館訪問

'443月、谷崎が上京、初めて偏奇館を訪れる。谷崎は空襲に備え、前妻との間の長女鮎子とその娘を熱海の別荘に連れていくために上京。偏奇館を一目見て谷崎は「化物屋敷の如く荒れ」と表現。その中で唯1つ光っていたのが美しく製本された帙(ちつ)入りの日記

この1月、政府が文学雑誌を発禁にしたことに荷風は「思想の転変を防止し文化の進歩を阻害するのみならず、国家の衰亡に帰着する」として怒りを隠さない

谷崎の『細雪』も、連載の第3回目以降発禁。その上巻の私家版を作って発行し抵抗

横浜事件で中央公論と改造社が自主的廃業を命じられる。言論人受難の時代

l  サン・テクジュペリと特攻隊

荷風と親交のあった仏文学者堀口大學は軟文学的詩人として情報局からマークされたが、若い飛行兵に贈る航空文学として、翻訳したサン・テクジュペリの本の再販が許可になる

その年の10月から神風特攻隊が出撃開始

6月のサイパン陥落で東京空襲が現実味を帯びてきたため、疎開者が増える

l  疎開児童、欠食児童

荷風には地方に頼れる身内もおらず、人付き合いも苦手で、他人の世話になることに躊躇

8月学童の集団疎開開始。『日乗』にも「街談録」として、疎開の悲惨な様子が噂として書かれている。九州空襲の噂などの書き込みがあり、町の噂に頼るしかなかったが案外正確

東京に残った者は「欠食児童」に。偏奇館のある市兵衛町の南隣の町我善坊の坂上にある静寛院宮(和宮)屋敷(梨本宮、さらに東久邇宮稔彦王に下賜)に闖入して椎の実を食べる貧家の子どもたちの描写がある

l  本格的な空襲へ

11月から本格的な空襲が始まる。B29を狙う高射砲の破片で予想外の死者が出ている

年末には昼夜にわたり空襲となり、建物疎開の被災者に同情し、同時に「細民」に犠牲を強いる権力に怒る

l  この世の涯で珈琲を飲む

'45年に入り、「東京住民の被害は米国の飛行機よりも寧日本軍人内閣の悪政に基くこと大なりといふべし」と怒り、「戦争も本年8月頃までには終局となるべし」との噂を聞く

芹沢光治良の『戦中戦後日記』にも、東中野で、「隣組の婦人たちが日本は負けだと話し合っている」との記述があり、敗戦が周知の事実となってきている

荷風も覚悟を決め、自著や草稿を熱海に住む木戸正に託すことを決め、『日乗』は従弟杵屋五叟に預け、五叟は御殿場の長唄仲間杵屋彌十郎に託し助かった

2月米軍機襲来予告を告げられ、これが最後だと秘蔵の珈琲を沸かし砂糖を惜しげもなく入れ、秘蔵の西洋煙草を楽しむ

 

43 偏奇館燃ゆ

l  空襲下でも本を読む

'45年に入ると空襲は連日続く。その中でも荷風は平常心を保ち、「今年の冬ほど読書に興を得たること未だ曾て無し」とあるが、筆硯(ひっけん)からは遠ざかる

l  文学青年と素人の女性

荷風没後「荷風先生を偲ぶ会」を立ち上げ責任者となった文学青年が来訪。自分を敬する青年の突然の訪問を受け入れ、私家版『濹東綺譚』まで与えている

もう1人、お手伝いを探していたところに紹介された20代の素人女性阿部雪子も偏奇館を訪れたとして『日乗』にも50回ほど登場。精神的なミューズだったのでは

l  多くの死体がすばやく片づけられる

近くの銭湯で浴客から空襲の被害を聞く。伊藤整の日記にも似たような被害が記されており、戦時下の「町の噂」の精度は高い。爆風による惨死体は正視に堪えず。多くの死体は、軍隊や警察、消防に受刑者も加わって、必死の作業で片付けられた

l  観潮楼焼亡す

荷風は、2月に団子坂の鷗外邸焼失を知る。帰朝後に度々訪れていた。長女の茉莉と末子の類が住んでいた

戦前アメリカの空軍力は日独に劣後していたが、真珠湾を機に航空戦力重視が受け入れられ、急遽大型爆撃機の製造が開始される。ルーズベルトは日独の無差別攻撃を批判し、精密爆撃を考えたが、サイパンから出撃して武蔵野の中島飛行機工場を爆撃した際の命中率は7%に留まり、焼夷弾による無差別爆撃に代わったとされる

l  生まれ育った東京への鎮魂歌

荷風が市兵衛町の偏奇館に移り住んだのは'20年。西洋人が建てた洋館を買い取って手を入れたもの。麻布は閑浄の地で世捨て人のような暮らしを願う荷風には絶好の隠れ家

310日の東京大空襲で焼失。「前夜半から空襲あり、火は長垂(なだれ)坂より起り、西北の風に煽られ忽市兵衛町に延焼。手革包を提げて庭に出でたり。霊南坂上に出で西班牙公使館側の空地に憩ふ、下弦の繊月凄然として愛宕山に昇るを見る」。『日乗』の中の最も劇的な日だが、突出せず、それまでの文章の中に自然に溶け込んでいる。荷風は文章の力によってこの日を生き延びることが出来たともいえる。代々木の杵屋五叟の家に避難

高橋英夫は『時空蒼茫』(2005)の中で、「『日乗』の罹災記に優る日本人災禍の文章はない。「異常」の文体によってではなく、荷風本来の様式的文体によって戦火を叙述し、荷風自身の何物かに対する戦いを記録し切っている。これが清興と遊蕩の人荷風が図らずも成し遂げた文章だったという点に、底知れぬ、深い「文」のいのちを感ずる」と書く

 

44 偏奇館を焼かれたあと

l  燃えあがる蔵書の炎

燃え上がる炎のなか、荷風は思いのほか冷静なのは驚く。偏奇館楼上少なからぬ蔵書の一時に燃える火焔の更に一段烈しく空に上がるのを見届けている

l  向田邦子の三月十日

政府は空襲による火災発生時には、逃げるよりまず火を消せと命令('41年改正防空法)していたが、「非国民」の荷風は、消化など考えずに賢明にもすぐに逃げ出している

15歳の目黒高女の女学生だった向田邦子は祐天寺で空襲を迎え、随筆『ごはん』(『父の詫び状』(‘78)所収)に当夜の修羅場を書く。邦子は寝入りばなを起され、父が隣組の役員で防空法に従って消火に努め、母と邦子にも家を守れと指示、邦子らは火消しに努め、幸いにも焼けずに済み、家族も無事だったが、当局の甘い精神論が多くの犠牲者を出す

l  大佛次郎と高見順の場合

当時鎌倉在住の大佛次郎は、米軍の方針で災禍を免れるが、惨状の噂を聞いて、油脂焼夷弾に水を掛ける危険を改めようとしないお上の方策に疑義を呈している

高見順も鎌倉在住で罹災しなかったが、2日後に東京に出て惨状を目撃。気が昂る

l  「人種が違うの」

鎌倉駅西口にはラングドン・ウォ―ナー博士というアメリカの学者に対する感謝の碑がある。古都を空襲しないよう軍に訴えて鎌倉を空襲から守ったからだという

浅草で空襲に遭った踊子が、逗子の家で罹災しなかった人たちが空襲のことを面白がっているような話しぶりを聞いて違和感を覚え、「人種が違う、ぴったりくる訳無い」と言う

戦後、荷風ブームが起こったが、その原因は荷風が戦時中軍国主義に屈しなかったことに加え、東京大空襲で家を焼かれた罹災者だったことも一因。同じ空襲の被害者として荷風に共感。その意味で『罹災日録』(‘46)がいち早く活字になったことは大きい

l  大空襲翌朝の焚出し

火は10日明け方に漸く鎮まり、仲の町の国民学校で焚出しがあり、迅速な行動に驚く。一睡もしないまま、炊き出しを食べてから代々木の従弟方に向かう。飯倉の大通り(外苑東通り)の都電は動かず、青山1丁目から渋谷行きの都電に乗り、省線は混雑で切符が買えず、バスで代々木へ。家を失い蔵書を焼かれてみると、「愛惜の情如何ともなしがたし」。老い行く荷風にとって大きな痛手あり、戦後奇行が目立つようになり変人と見られることが多くなるが、その背景には偏奇館を失った精神的打撃が大きかったことが考えられる

'57年、本八幡に新居を構える。死の2年前だが、新居にもう1つの偏奇館を見ようとしたのではないか。それを思うと心が痛む

l  それでも鉄道は走る

菅原が志木の借家に避難するというので共にする

4月の空襲も大規模だったが、その時でも省線は運行していた

やがて荷風は空襲下でも運行していた鉄道に乗って明石、岡山へと疎開してゆく

 

45 東中野で五月二十五日の大空襲に遭う

l  ヒヤシンスの芽、桜の花

荷風は偏奇館の焼け跡に行く。従弟の子たちが焼け跡から「断腸亭」の印章などを彫り出す

町会から100円、東久邇宮家より5円の見舞金が出る

焼け跡にヒヤシンスの芽が焦土から出ているのを見、宮様塀外の爛漫の桜を見る

l  大空襲ふたたび

413日と15日は山の手に大空襲。明治神宮本殿が焼け落ちる

3月空襲と規模はほとんど変わらないのに、死傷者は1/15で済んだのは、3月空襲の惨状を見て、消火よりまずは避難を優先するようになったからで、小市民の生きる知恵

l  東中野の国際文化アパートへ

荷風は、行動を共にするために菅原氏の東中野のアパートに空き部屋を求め移動

戦時下の逃避行については、菅原が荷風の死後永井と共に記録を残している

アパートは、荷風の慶應の教え子で探偵小説家の松本泰・恵子夫妻が家主。若い人に家を提供、文化サロンを形成。田端文士村や阿佐ヶ谷文士村と同様、東中野に文化村が作られ、小林秀雄、田河水泡(小林の妹潤子と結婚)、野尻抱影、大佛次郎らが行き来。芹沢光治良も東中野にいて、落合にいたフランスに憧れる林芙美子も芹沢を慕って出入り

l  荷風を支えた人たち

従弟杵屋五叟一家。菅原と永井智子。茅野への疎開を勧めた小堀四郎画伯(小堀遠州の子孫、夫人は鷗外の次女杏奴)。ピアニストの宅。阿部雪子。多くの人が荷風を支えている

罹災時代の荷風日記には、「貰ふ」「恵まる」という用語が頻出。「不受不施」の生き方を貫いてきた単独者が、戦時下という非常時にあって他者の厚意を素直に受け入れている

偏奇館跡に行くと、軍隊が防空壕のためか、大きな穴を掘っている。聞けば焼け跡は軍隊が自由に使っていいことになっているという。「軍部の横暴」を見せつけられる

l  可憐な少女に会った日に

525日、配給を運ぶ途中出逢った活発な少女が、家を焼け出され荷風と同じアパートに住む姉を訪ねてきたと言い、一緒に車を押してくれ、荷風の心を一時和ませる

その夜また都内西南部に大空襲。3月の2倍の規模で、すぐに逃げ出す。アパートは跡形もなく燃え落ち、生き残ったのが奇跡のような惨劇

可憐な少女は銀座のキャバレーで女給となり、菅原が10年後偶々出会う。まさに「戦時の一話柄(わへい、話題)なるべし」

 

46 明石での束の間の平穏

l  二度目の焼け出され

荷風、菅原、永井智子の3人は、焼け残った宅家で休息

l  明石への疎開を決心する

4日後には横浜に空襲、駒場からも物凄さがわかるくらいで、市街地の大半が焼失するに及び、東京を去る臍(ほぞ)を決め、菅原の故郷明石を目指す

2度の罹災で荷風にPTSDの症状が出て、極度のノイローゼ状態に陥る

l  ドビュッシイの取りもつ縁

罹災民専用の大坂行列車に乗る。国内旅行をほとんどしなかった荷風にとっても'23年以来の西行きに、「感慨無量筆にしがたし」。結果的には、荷風の西行きを追うように米軍の爆撃も西に向かい、疎開先でも空襲に遭う

菅原はほぼ独学で作曲法などを学び、大田黒元雄を中心とした大正音楽文化人とも言える人脈に繋がり、フランス音楽に惹かれ、特にドビュッシイを愛し、日本にドビュッシイを紹介した荷風も18歳下の知的音楽家に親しみを覚えたのだろう。海岸縁(べり)の西林寺に逗留し、清爽な海辺の景色に出会い久しぶりに心が和らぐ

l  三度目の空襲

明石城は2019年に築城400年。海岸の松林には1911年築の寺院風建物の中崎公会堂が今に残る。市の西に出来た川崎航空機明石工場のせいで大型爆弾による空襲を蒙り多くの死傷者が出る

荷風の日記は小型の手帳にメモしたものを基に何日分かをまとめて日記文の形で清書する

 

47 岡山で四たび空襲に遭う

l  岡山での八十日が始まる

明石でも空襲に遭い、次の疎開先を永井智子の知人池田優子のいる岡山とする。岡山には宅が既に疎開、隣の津山には谷崎もいて、荷風たちの80日の岡山疎開生活が始まる

l  戦時下のピアノコンサート

地元の名士の企画したコンサートで宅がピアノを演奏。空襲のなかった岡山ではまだ余裕

l  「この銀行は安心出来ない」

流浪の身となった荷風の経済面は、罹災直後に三菱銀行で相当な金額を下す。岡山では、住友銀行に行って三菱の通帳で引き出す。住友は取引先だった池田の紹介とあって、初対面なのに無担保で1万円まで支払うことにしたが、荷風はそれを聞いて「この銀行は安心できない」と言い出し、池田を怒らす

l  牧歌的な軽便鉄道が往く

宇喜多直家が築城した岡山城、後楽園辺りを散策。天守閣の羽目板が黒く塗られているところから烏城(うじょう)と呼ばれる。6月の空襲で天守閣が焼け落ち、1966年再建

後楽園から出る西大寺鉄道(1911'62)を眺め、心和ませる

l  言葉で絵を描く

終生各地で川を愛した荷風は、岡山でも旭川の水の風景に心惹かれ、その美しさを名文に

「絵の道知りたれば写生したき心地もせらるる景色なり」とあるが、荷風はまさに言葉によって絵を描いている。「塘」()、「門墻(しょう)(門と垣根)、「断礎」(壊れた土台)、「亭午」(正午)等の漢語が文章を引き締め、感情の乱れを抑制し、古典主義の美しさを演出

作家には、人と人との関係を描く漱石のような作家と、荷風のように人と風景の関係を描く作家がいる。荷風は常に風景を見る人、女性でさえも風景として見る

旭川の中州にある中島町という娼婦の町も見逃さず、「玉の井の女に異ならず」と記す

散策の時手帳にメモするのを憲兵に見咎められ、スパイの嫌疑を受ける

燕の巣を見て、「親鳥絶え間なく飛び去り飛び来たりて雛に餌を与ふ、この雛やがて生立ち秋風立つころには親鳥諸共故郷にかへるべきを思へば、余の再び東京に至るを得るは果たして何時の日ならんと、流寓(りゅうぐう)の身を顧み涙なきを得ず」と弱音を吐く

l  死を覚悟する

622日、岡山に初の空襲警報。実際の空襲は29日未明。市街地の63%が焼失

偶々菅原と智子は明石に行って、荷風1人だったこともあり、「予は死を覚悟し」たとある

 

48 岡山空襲のあとで

l  雨のなかを歩く

旭川の河原の砂上に伏して九死に一生を得、唯一の知人池田を訪ね、そこで戻ってきた菅原等とも再会を果たす

l  岡山の親切な女性たち

3人は、池田の世話で郊外に借家を見つけ落ち着き、そこで終戦を迎える

l  「待つ人もなく燈火もなけれど」

いっとき宅も3人の逃避行に加わる。宅は回想記に「楽しく過ごした」と書いたが、戦後藝大で教えながら突然ジャズピアノに転向、藝大を追われても意に介さずという変わり種だけに疎開生活も楽しかったのだろうが、荷風は同じ疎開生活を「心甚楽しまず」と記し、家を失った漂泊者の悲しみが伝わる心淋しく月明かりに彷徨う心境を詩に書いている

l  S氏夫婦」との距離感

ある日3人で遠出。罹災まで逗留していた旅館の女将の実家に未払いの宿代を払いに行く。この頃から菅原等との間に距離感が生まれ、『日乗』でも「S夫妻」と他人行儀の表記になる

『桃太郎』の桃が流れて来たという笹ケ瀬川沿いに荷風は、初めて田園の美しさを発見

l  流転の日々の支え

偶々訪れた場所は、荷風が尊敬してやまない成島柳北(旧幕臣、維新後は在野を全うした文人)曾遊の地だったことを知り、「柳北日記中の風景を想起し却て一段旅愁の切なるを覚ゆ」

7月にはまたまた空襲、すっかり恐怖症に罹ったようだ

 

49 終戦まで――勝山で谷崎に会う

l  あの頃の郵便事情

東京の五叟から、東京に戻る手配をするための郵便が来るが、荷風は戦火の東京に戻るつもりはない。混乱の中でも郵便がきちんと届いているのには驚く

勝山に疎開していた谷崎からも郵便小包が届く。手紙をやりとりしていた

l  谷崎潤一郎の場合

谷崎が文壇に登場した時、いち早くその才に着目して賞讃を惜しまなかった荷風を谷崎は終生尊敬してやまなかった。魚崎から熱海に疎開し、さらに'455月、親戚のいた津山へ、さらに知人の斡旋で中国勝山(現真庭市)に疎開

l  谷崎が町の物価を上げる

勝山の町で特筆すべきは図書館。小さな町なのに立派で、谷崎のコーナーもある。町は谷崎の疎開を顕彰しており、郷土資料館にも谷崎のコーナーがある

谷崎は町を気に入ったが、その派手な暮らしのために徐々に町の人の間で浮いた存在に

l  「焼け出され」の負い目

谷崎からの安否を気遣う手紙に荷風は返事を書き無事を知らせる

安岡章太郎によれば、空襲で焼け出された人間を、空襲に遭っていない人間が「疫病神」と忌避する差別があったという。何度も空襲に遭った荷風には負い目があったのではないか

l  八月十五日、荷風は列車に乗る

新型爆弾の大本営発表はあったが、実態は分からず、荷風は単身谷崎を訪ねて13日出発

谷崎は貴重なすき焼きで歓待するが、勝山への移住を期待した荷風に対して、部屋と燃料は引き受けるが、食料は責任を終えないと言い、荷風も移住を断念せざるを得ない

15日岡山に戻り、S夫妻から終戦のラヂオ放送のことを聞かされる

 

50 戦時下に書かれた小説「踊子」『浮沈』など

l  発表のあてもなく

開戦と共に時局と関わらない荷風のような作家は、執筆の場がなくなってゆく。荷風は父親から受け継いだ恒産があったから生活に困ることはなかった

荷風が状況の厳しさを感じたのは短篇『勲章』('4212月起稿、2日後脱稿)を発表できなかった辺りから。オペラ館を舞台に、市井の老人のうらぶれた様子を描いたもので、時局に相応しからずとして中央公論が掲載を拒否

荷風・谷崎とも弾圧に屈せず戦時下もひそかに書き続けるが、谷崎の「陽」に対し、荷風は社会の裏通り、市井の人間のうらぶれた生を書き続けた「陰」の作家

l  忌み嫌われた作家の「最後の別天地」

戦争下、踊子の楽屋に出入りする作家の作品など軍部に軟弱と見做されても仕方なく、それでなくとも荷風は私娼などを描く好色の作家と思われていたし、鷗外の次女小堀杏奴も、一部の人々からは「生存を許すべからざる人間」として忌み嫌われていたと評している

荷風はオペラ館が気に入り、「浅草らしき放蕩無頼の情緒を残す最後の別天地」と回想する

1年後には灯下に2カ月で『踊子』を書く(灯下小説、'46年発表)。浅草公園六区を背景として剣劇とレヴューの全盛時代を、踊子と同棲したヴァイオリン弾きが回想する小説

l  滅びゆく町への挽歌

仙台から上京してきた踊子姉妹の盛衰を回想。’57年映画化、荷風も初日に鑑賞

l  山の手への帰郷

戦時下にひそかに書かれた作品が『浮沈』。真珠湾の日に起筆、翌年3月脱稿するが発表の当てはない。日中戦争勃発後に上京してきた美しい女性の人生の変転を描く。

この小説の特色は、東京が下町と山の手という2つの異質な空間にそれとなく切り分けられていることで、下町にいる時の主人公は「沈」なのに対し、山の手では「浮」。荷風は下町を愛し、自分が生まれ育った山の手を女学生と軍人の町と嫌ったが、ここでは下町で沈んだ主人公が山の手へと浮き上がる。荷風が老いて、戦時下の厳しい生活の中で、山の手という故郷に帰ってゆくように

荷風は書く。「明治時代の中葉(なかごろ)、教養ある中流社会の生活には、西洋文化の感化も次第に円熟し、江戸時代の遺風もなお全く湮滅(いんめつ)せず、この二流の文化の混和からつくり成された典雅、素朴、穏健なる気風が存在していた」。『浮沈』の理想の義母には、キリスト教信者だった荷風の母が投影され、「教養ある二流の家庭」とは自身の家そのものであり、戦時下に発表の当てもなく書いたこの小説は、荷風の過去追慕になっている

l  作者に似た世捨人たちの肖像

『浮沈』にはさらに大きな特色がある。世を捨てたような魅力ある老人が出てきて、荷風自身にも重ね合わせることが出来る。軍部の支配下、なるべく世の中と関わらず静かに生きていゆくに如()くはないいう荷風の世捨人志向は、戦時下にいよいよ強くなる

 

51 戦時下に書かれた『問はずがたり』のこと

l  山田風太郎が荷風を読む

戦争中活字になった荷風の数少ない作品の1つに『枯葉の記』(‘44年俳誌『不易』所載)という随筆がある。自らを「しなびて散りもせぬ無花果(いちじく)の枯葉」の「きたならしい」さまに準えている

不遇の時代にあっても、ひそかに小説を書き続けているのが荷風の凄いところ。前記3作に加え『来訪者』『問はずがたり』など。戦後発表された作品を読んだ山田風太郎は感動して次々に荷風の作品を耽読。同時に谷崎も読む。『問はずがたり』読後、「めんめんとして一生涯同じ境地を纏綿(てんめん)するのみ。されど薄命の日本作家の中に、全才能を発揮して死にゆくもの荷風、潤一郎はその幸福者の尤(もっとも)なるものならんか」と感動

l  末期の目で世界を見るように

『問はずがたり』('46年、'44年起稿、終戦直後脱稿)は、窮乏生活に耐えながら、若き日関わった女性たちのこと(乱倫淫蕩)を思い出してゆく過去追慕の物語。主語を「僕」にしたのは荷風作品では稀。底流には、終生変らなかった荷風のフランスへの憧憬がある

l  思想よりも信仰よりも大切なもの

主人公の画家は、「思想よりも信仰よりも、何よりも先(まず)官覚の表現を芸術に求める」として異性に対し官能の陶酔を求める。「官能」は荷風文学の特色の1つ。谷崎も同様

その立場は、戦時下にあっては非国民そのもので、いよいよ孤立し、世の中から隠れる

l  戦争の時代の新しい少女たち

家庭とは無縁だった荷風が、小説では付き合った相手の3,4歳の女児と3人で暮らす

女児に即して当時の少女の映画や少女歌劇などの楽しみごとに触れる

l  みごとな非国民ぶり

女児が女学校を卒業する辺りから奔放に生き始め、「僕」は1920年代のアメリカに登場したモダンガール、「フラッパー」に準える。就職して不倫。新しい女性の出現に驚きながら、母親の死後は女中と関係を持ち、さらに女児をも抱いてしまう。最後は故郷の岡山(総社)に帰って終戦を迎えるが、自らが終戦を迎えた地となっている

 

52 岡山を去る日

l  荷風の戦後が始まる

戦争は終わったが、荷風にはこれからの見通しが全く立たない

六大都市への再転入が抑制される。治安並びに食糧事情の平静を維持するためとされた

l  「余も今は心賤しき者になりぬ」

頼りになりそうな知人に手紙を書く。特に頼りにしたのが中央公論の嶋中雄作。1人岡山に残された荷風は、’44年廃業に追い込まれ、法隆寺に疎開していた嶋中に助けを求める。自らの人の厄介になろうとする下心を「今は賤しき者になりぬ」と『日乗』に書く

l  “自由”を盾にする同居人たち

荷風の避難先に焼け出された人たちが入り込んできて、その自由奔放な振る舞いに不愉快な思いをさせられ、荷風は1人総社の旅宿に移る

l  村田武雄を頼る

総社に移ったのは、菅原の友人でクラシック音楽の研究家である慶應大教授村田武雄(NHKラジオ《音楽の泉》解説者)の疎開先を頼ったため

l  岡山の人びとの親切

『問はずがたり』の主人公の故郷を総社としたのも、ここでの印象がよかったからだろう

奇跡的に切符を入手し、村田夫妻とともに帰京。引っ越しを手伝ってくれて餞別までくれた岡山の人たちに「深情感謝すべし」と頭を下げる。後々までも思い出している

 

53 岡山から熱海へ

l  貨物列車に乗って

830日貨物列車に乗り込む。智子は1人先に帰る荷風を「潔癖と節操の強い先生と尊敬していただけに裏切られた心の淋しさは一代の大家を見損ねていた悲しさでいっぱい」と怒って見送りにも来なかった

l  田辺聖子と河野多惠子の大阪空襲

大阪の空襲は50回にも及ぶ。松蔭女専の女学生だった田辺聖子は6月の空襲で福島の家を焼け出されたことを詳述するが、印象に残るのは、焼け出された者と被害に遭わなかった者との差。被害者に対して冷たく、「一億総戦友と標榜するが、上辺だけ」とも書く

大阪出身の河野多恵子も大阪で空襲を体験。大阪近郊の凄まじい鉄道事情を描く

l  ひとまず熱海に落ちつく

五叟が熱海に疎開しているというので熱海に向かう。荷風の愛読者で新興財閥の息子、帝大文学部出身の木戸正の別荘が転居先。荷風は空襲を恐れて旧著や草稿一式を木戸家に送っていた

l  軍国主義にも戦後民主主義にも

熱海は空襲を逃れたが、陸戦隊上陸の風聞に脅かされ、谷崎も岡山に避難

『秋の女』('49年『婦人公論』掲載)の絵のモデルの女との隠棲の舞台が熱海

戦時中は軍国主義に靡きながら、戦後はアメリカを受け入れていることに荷風は強い違和感を持つ。時代の流れに付和雷同せず、好んで時代の潮流から自己を分離していくところに、荷風の気質に根差したある種のシニシズムが働いている。もともと荷風には世に深く交わるまいとする逃避の気質があるが、ここにきて「あきらめ」が一層深まる

戦後最初の随筆『冬日の窓』(『新生』’462月号)には、終戦直後の荷風の心情が現れる。流浪の人生を西行と芭蕉に準える。大事にしていた書物を失い、文人としてのアイデンティティを失ってなお文筆生活を続けていくよすがにするのが西行と芭蕉

l  余計者の作家が求められる時

木戸の書斎に敬慕する江戸の文人成島柳北(#48参照)全集を見つけ狂喜する

戦後出版界の立ち直りは早く、9月には筑摩書房が熱海を訪れる。’44年から荷風の戦時下の作品に着目しており、木戸の仲介。『来訪者』の出版を許可、1年後に出版

以後、次々に出版社が訪れ、戦後の荷風ブームになり、「セレーブル(有名)」になってゆく

 

54 熱海での日々

l  着るものも食べるものも

熱海滞在は5カ月。転出証明がなく配給を受けられず、食料事情の悪さ

五叟の次男永光(ひさみつ)が荷風の養子になったのは'443月、永光11歳の時だったが、熱海では同居しながら、食事は別。手元に金はあるも、物価高は凄まじく不安は増す

l  RAAが作られる

熱海に米軍が進駐、日本政府が米兵のために設置したRAA(慰安所協会)の施設が熱海にもある。荷風は街を闊歩する米兵の姿を下賤なりとし、米兵の横暴を記して怒りを隠さないが、同時に、「満洲にて支那人に対して為せし處、因果応報、是非もなき次第」という

l  天皇に同情する

軍国主義はご免だが、同時に戦後の付焼刃の民主主義礼讃にも距離を置く

祖国が敗亡に瀕し、国民が占領軍への礼讃者になってしまった時、荷風は多くの言論人に和して、自国の過去を裁くことだけは躊躇った。ここに荷風のある種の真率さを読み取る

天皇が「マカサ元帥に和を請ひ罪を謝する」姿が哀れでならない。幕末に比べて昭和の世には「良臣」がいないどころか、軍部が国を滅ぼしたと、天皇に同情する一方で軍部を批判

l  荷風全集の刊行決まる

10月には奈良から戻った嶋中が雑誌再興に忙殺される中、荷風を訪ね見舞い金を恵贈し、戦争で中断した荷風全集の刊行について話す。全12巻、麻布卜居までの作品は春陽堂刊本をそのまま用いて6巻とし、それ以降を6巻にまとめる。『中央公論』は翌年1月復刊

嶋中は、3月には荷風を顧問にするが、「中央公論のストライキで手当てがなくなると、先が心配だ」と、常に先行きの不安があったことが窺える。荷風は多くの株の配当で暮らしてきたランティエ(金利生活者)だったが、配当がなくなり原稿料での暮らしに追いやられた

l  思い切って古くなってみせた

最初に筑摩が『来訪者』を刊行。荷風はその稿料として1万円(5千部で2割の印税)もらってその多さに驚くが、戦後の異常なほどの物価の変動をまだよく理解していなかった

この時の筑摩の編集者は、後の仏文学者中村光夫。仏文学を愛する中村に親しみを持ち、「自分は世間から古いと言われた時、思い切って古くなってしまったから、かえって長続きした。芥川が死んだのは、いつも新しい店を張ろうとする焦りからでしょう」と話す

 

55 大家の復活

l  新興出版社の原稿料

新興の新生社が雑誌『新生』への原稿にオファーした原稿料は1100200円。当時の相場は35円。米1(1.5)70円。高額の原稿料に「笑う可きなり」としながらも、背に腹はかえられず、「新刊の雑誌」に未刊の原稿も含め次々と原稿を寄せる

一介の会社員で無名の若い青山虎之助が創刊した『新生』は、用紙を改造社から横流してもらい、新聞社の輪転機を使い、天地の裁ち切りも、製本もしていない刷りっぱなしの紙をB5判に折り畳んだだけの刊行物だが、他社に先行して17万部を1日で売り切る

l  青山虎之助の思い

青山は同人誌に参加していた文学青年で、荷風に心酔していたと言い、執筆陣は谷崎、正宗、宇野浩二、井伏等と豪華、表紙の絵は中川一政。青山は荷風の生活の面倒も見ている

l  鎌倉文士が作った貸本屋

鎌倉在住の作家による鎌倉文庫も、編集者の川端や中山義秀を荷風の下へ行かせる。雑誌『人間』の創刊号('461)に戦時中に書いた論考『為永春水』(戦前書き上げ)を寄稿するとともに、『濹東綺譚』の復刊も許す

鎌倉文庫は、鎌倉に籠城を決めた小林秀雄と高見順が、久米正雄、川端等と図って籠城資金稼ぎのために貸本屋「鎌倉文庫」を始めたのが起源。思いのほか繁昌したという

l  荷風の礼儀正しさ

終戦後、大手のD製紙会社から鎌倉文庫と提携して出版社を始めたいという話が来て、雑誌『人間』の発刊が決まる

20歳年下の川端は荷風追悼集に、「遠く仰いで来た大詩人」という一文を寄せる。原稿を依頼に来た川端を、『伊豆の踊子』で名をなした作家として、粗末な借家の部屋に招じ入れてもきちんと正座して迎え入れたという。礼を尽くす人には尽くしている

同行した中山義秀も、『厚物咲(あつものざき)』で芥川賞受賞(‘38)したが、「1冊の本」に躊躇なく『濹東綺譚』を上げ、荷風の文章は上田秋成以後の第一人者だと絶賛

l  「印税成金」となる

鎌倉文庫は、作家の運営に無理があったのと製紙会社との確執もあって短命に終わる

鎌倉文庫の名が残るのは、三島由紀夫が学生時代に書いた小説『煙草』が、川端の推薦で『人間』に載ったことによるが、問題にもされなかった。荷風と三島は遠い親戚で、三島は慶喜を補佐した永井尚志(なおゆき)の玄孫で、尚志は荷風と同じ戦国武将永井直勝の流れを汲む

『日乗』には熱海での収入を記している。6社〆金33,149円也。中村光夫曰く「印税成金」

 

56 熱海から市川へ

l  突然の立退き要求

木戸は戦後、荷風から依頼され偏奇館の土地売却の世話をしている。妾腹と知ってから遊蕩に耽ったのが祟って、'5135の若さで死ぬが、生前荷風と親しかっただけに荷風本が多数あり、中でも「壺中軒木戸正旧蔵荷風文庫」が売りに出され、荷風書簡40通が公開入札され、60万円余りで天理図書館に落ちたことは当時の古本界で話題を呼ぶ

その木戸が、荷風と五叟一家の住む家を料理屋にしたいと言い出し追い立てを食らう

l  終焉の地、市川へ

'461月、急遽市川市菅野の国府台女学校の教員用宿舎に借家を見つけ転居

市川市は軍隊の町として発展。戦災にも遭わず、食糧事情もよかった

l  荷風復活の評価

終戦直後の文壇に大家の復活として荷風と正宗白鳥が大きく取沙汰され、最大の活躍は荷風。三島も荷風の作品に惹かれる。久しぶりに読む小説らしい小説

先の戦争が邪悪なものであればあるほど、戦争体験を書くことの責務を負わされたと若い世代の作家たちは考えたが、荷風の小説には厳しい戦争体験は描かれず、彼らには物足りなく感じられたのも事実。より厳しい大家批判は戦後『文藝』(河出書房)の編集長を務めた杉森久英('12年生)で、戦争の苦しい体験と敗戦の虚無の中から下の世代によって新しい文学が生み出されようとしている時に現われたのは、「古い時代を生き抜いてきた老荷風の、古色蒼然とした文学であった」とし、荷風文学は、それほど、現代の読者の共感を誘うべきものを持っていないはず、と手厳しい。荷風文学は、もともと現実との関わりを少なくする世捨人の文学で、新しさはないが、いつの世でも古びない

l  ズボンのMボタン

荷風は好きな散歩に出かけ、「門外松林深きあたり閑静頗る愛すべき処あり、世を逃れて隠れ住むには適せし地なるが如し」と転居後1週間で愛着を見せる

写真家として初めて文化勲章を受章(2019)した写真家の田沼武能が若き日市川の自宅で前年文化勲章を受章した荷風を撮ったことがある。万年床で、正座したがズボンのMボタンはすべて外れていた

 

57 占領下の市川

l  闇市で百三十円のビールを飲む

荷風が市川でまず目にとめたのが自宅から歩いて30分の駅北口の闇市

建物疎開の後の空地に露店が櫛比(しっぴ)するマーケットで、金さえ出せば食料品が手に入るが、物価の急騰に印税成金でも先行きに不安を覚える

l  「にぎり飯」のたくましい男と女

戦後の短篇『にぎり飯』(‘49年『中央公論』掲載)は、空襲で家を焼かれ、連れ合いをなくした男女が、戦後偶然再会し結ばれる話だが、戦後の市川の闇市に着想を得た佳品

‘55年映画化。《春情鳩の街》の1篇として組み込まれる、荷風原作ではベストと思う

l  闇商売の少年たち

市場の活気ある雰囲気にも惹かれた

仏文学者海老坂武(‘34年生)12歳の時闇市で露店商人をして、逞しく育つ

l  荷風の養子も

荷風の養子となった永光も当時14歳、闇の仕事に手を出し、結構な金を稼いでいた

l  与えられたる自由の下で

熱海から転送された郵便物に、進駐軍が開封し検閲した痕がある

荷風がこの時代を窮屈に感じていたのは明らか。米国製の煙草罐詰所持が米国憲兵に知れたら捕縛されるとの噂を聞いて、貰い物等が多く、空缶をどこに捨てるか心配している

l  「パンパン」から日本を見る

「路上にて若き女黒奴の児を分娩し苦しみいるを、見る人いずれもざまをみろという面持ちにて、笑い罵るのみ。戦後人情の酷薄なること推して知るべし」と書き、オペラ館の踊子たちが米兵の妾になったり、「黒奴の子」を生んだりしている近況を知って心を痛める

パンパンにも興味を持ち、『日乗』にもかなり詳しく記述される。仏文学者の河盛好蔵に、「あらゆる種類の娼婦を描いてきたが、残すところはパンパンだけ」と言ったという

 

58 市川の人々

l  疥癬に悩まされる

熱海時代に疥癬という痒みの激しい伝染病の皮膚病に悩まされ、市川でも続く

帰還兵が持ち帰ったもの。漸くいい医者を紹介してもらい快癒

l  一番湯にムトウハップを

疥癬には硫黄を含む温泉がいいと言われ、ムトウハップ(六一〇ハップ)という入浴剤を風呂に入れて入る。他の人が困るのも考えずに一番風呂に入るので家人は困ったという

l  正岡容、そして吉井勇

市川で出会った知人に、寄席芸能の研究家で作家の正岡容('04年生)がいる。小沢昭一の師

として知られる。荷風の熱烈な崇拝者で思いを綴った書『荷風前後』には、正岡が「わが師」と呼ぶ吉井勇が荷風に向けて詠んだ句が掲載されている

吉井は荷風の7歳下。若い頃から親しく、京都で酒席を共にした思い出を追悼の歌にしている。「葛飾の荷風」とあるのは、古く下総国の一部を「葛飾」と呼び、市川も含まれるから

l  市川で文学を語り合う

荷風が市川の正岡の近所に住むことになり、2人の交流が始まる。荷風の離婚した2番目の妻も新橋の芸妓から藤蔭静枝は踊りの世界で名を成しており、正岡の妻が舞踏家の花園歌子だったことも親しみを覚える。藤蔭は歌子の舞踏学校の顧問だった

l  露伴先生逝く

『日乗』に初めて露伴の名が出るのは’19年。露伴の『幽情記』を読む。鷗外と露伴を尊敬し、2人だけは先生と呼ぶ。鷗外には何度も会っているが、露伴は遠くから敬し続けた。その露伴が’461月、同じ市川菅野に住む。寝たきりで文と玉が付添う。第1回の文化勲章を受章した、文字通りの明治の文豪だが、硬派で難解な本は売れず、終の栖も(すみか)もベニヤの貼ったわびしい家だった

l  幸田文、父の葬儀のあとさき

'477月露伴逝く。自宅の葬儀には片山首相や将棋名人木村義雄等200人ほど。葬儀の後、文の通帳には2000円のみ、その清貧こそが1人娘への遺産。幸田文は親の七光りで登場した作家ではない。「清貧」と「背水の陣」を支えにして物書きとなり、大成した

荷風は礼服なきを以て門外に佇立して黙礼。あとからそれを知った幸田文は、そんな荷風の態度を知って心動かされたと書いている。長く敬してやまなかった先生への最高の礼儀

 

59 市川での日々

l  露伴が文に『濹東綺譚』を薦める

荷風は露伴のことをよく知っていた。露伴も市川移住後、近所の荷風のことを聞いていた

幸田文は、父が読むように指してくれた本は十指に満たないが、『濹東綺譚』はその1

文が露伴没後回想記を書く際、荷風との関係を書くため荷風に許可をもらいに行くが、荷風が有名人になって見境なく声を掛けられるのが嫌で、「もっと人の知らない奥へ行っていやな思いをしないでいたい」というのを聞いて、書くことを止めにしたという

1900年、荷風の『烟鬼(えんこい)』が『新小説』の懸賞小説の番外当選となって掲載された時の選者の1人が露伴で、荷風の露伴景仰の思いはこの時から始まったのだろう

露伴の出自は旧幕側。荷風も父親が尾張藩。市川のような「都の東郊」は旧幕の心情を持つ者にとっては親しい土地。陸は文明開化の東京に占領されても、川と海は旧幕時代の面影を残し、もともと江戸人の寮(別荘)が多く、旧幕所縁の人の最後の隠棲地たるに相応しい

l  ラジオの音との戦い

五叟一家と暮らして一番悩まされたのが三味線の音であり、騒音としか思えない隣家のラジオの音。五叟は長唄の師匠、長男は藝大の長唄の教師。近隣の神社などが逃避地に

l  避難所で生まれた短篇

駅の待合室も避難所となり、そこでの光景を書いたのが『或夜』(`46)

別居しようと家を探すが、住宅難で見つからず

l  側近、相磯凌霜(あいそりょうそう)

知人相磯から船橋海神の別宅を紹介され転居。相磯は清元の兄弟弟子だった荷風のファンで蔵書家、晩年市川の荷風の側近にあって面倒を見る。明治天皇の侍医を伯父に持つ良家

l  下町の商家の別荘地

相磯は、特に偏奇館焼失後の荷風の不自由な暮らしを助け続ける

海神の家は、相磯の妾宅で、戦前東京の商家の旦那衆が別宅を構える市川の延長にあった

荷風はここで戦後の名随筆『草紅葉』ほかを書きあげる

 

60 「四畳半襖の下張」騒動

l  秘密出版で高値を呼ぶ

'48年、『四畳半襖の下張』が秘密出版され、エロ出版社として摘発、荷風が参考召喚

荷風の『四畳半襖の下張()('17年、筆名鯉皮兼待)の内容に酷似していることから作者としての嫌疑が掛かる。荷風は否認したが、前年噂を聞いた時は自分のものと認め、露見したら筆禍になると恐れた。本当に荷風の作かどうかは議論があるが、本人が認めている

l  「来訪者」の二人

『四畳半襖の下張』の春本を出したのは、荷風の愛読者で、荷風も若い文学青年2人との交際に慰めを得たのか、以前から交流があったが、彼らが荷風の字を真似て偽の短冊などを作って売り捌き、著作印税さえ横領しようとしたのが発覚、絶交を言い渡す。『来訪者』のモデルに2人を書いて筆誅を加えたと言われるが、それほど悪くは書いていない

荷風は警察に行くのを嫌って、代理をやる

l  震える手で調書に署名する

後に、春本を出したのは若い文学青年ではなく、夏川文章という出版人で、荷風に迷惑が掛からないよう、’50年に有罪判決を甘んじて受ける

荷風は調書を取られ、「初めの方は自分の文だが、後の方は違う」と書いて署名する時の手が震えていた。警部は嘘を確信したが、武士の情けでそれ以上追及せず

夏川は密かに一部を荷風に献呈、荷風は「誤写」を指摘、修正したものを夏川は「再販本」として’55年出版。’72年野坂昭如が編集長を務める月刊誌『面白半分』に掲載され「わいせつ文書」として起訴されたが、その時の底本は荷風の校訂が入ったこの「再販本」

l  「この裁判それ自体がすこぶる滑𥡴」

野坂は、起訴前に罪を認めて罰金を払えば済むのに、潔しとせずに裁判に持ち込み、著名な作家を動員して弁護してもらったが、罰金刑を受ける。詳細な記録を残した丸谷才一は、弁護を引き受けるに際し、「裁判自体が頗る滑稽」なので弁護も滑稽なものになると言う

戦後のポルノ氾濫の世の中で、刑法175条の「わいせつ物頒布等の罪」を持出して、大正時代の作品を裁こうとするのは滑稽でしかない

原本はわずか11頁の戯作文、よほど古典に素養がないと読みこなせない。特に閨中の描写には古語が頻出。「抜(ぬき)さし」「後(うしろ)どり」「居茶臼(いちゃうす)」「横取(よこどり)」「曲取(きょくどり)」「鈴口(すずくち)」など

「女性蔑視」は荷風を批判する時の常套句で、その筋の批判はあるが、私見では、むしろ男の方が懸命に女を喜ばせようと奉仕、荷風の女性への愛情に溢れた作品と思える。女性を性の愛玩物としてしか見ていないという面はあるが、作品では女が玄人の芸者であることでその批判は薄められよう

l  戯作のスワン・ソング

丸谷は、荷風文学の核にあるのは、モラルに厳しい儒教、それと正反対と言っていいフランス文学、そして好色を肯定する日本文化の3つとする

明治以後の文学は、江戸時代の戯作に比べて、生真面目で堅苦しい。荷風は江戸の戯作者の流れに身を置こうとした。浮世絵の関心の強さもそのあらわれ

中国の文学者周作人は、日本の文学の中で独自のものは、俳諧と俳文と戯作だという。明治に入って西洋文明によって隅に追いやられていたものを、荷風は残そうとした

 

61 二人の閨秀作家、深尾須磨子と林芙美子

l  円地文子の荷風頌

荷風を敬する女性作家はいる。最も早い例は円地文子(‘05年生)。上田万年(かずとし)の娘。荷風や谷崎を愛読。荷風の『小説作法』(‘20)に触発され日本女子大付高を退学、文筆の道に。荷風の死に際し追悼文を書く。「美しいエロチシズムを描き得た荷風は女というものを愛した人という風にしか思われない」。晩年の老醜の荷風にすら「伊達者」を見る

l  深尾須磨子の巴里

『日乗』の'27年に詩人深尾須磨子(‘88年生)が、改造社への紹介状を頼みに来たとあり、そのお礼にフランス製烟管を贈られた。深尾は’24年のフランス行きに際し荷風に挨拶

'29年改造社から随筆集『侯爵(マルキ)の服』を出版。装幀はパリ帰りの画家東郷青児

l  荷風も愛したフランスの閨秀作家

深尾が最も傾倒したフランスの作家はコレット。直接指導を受け、日本にも紹介。コレットの勧めで短篇小説を書くようになる。イタリアではムッソリーニに会い、感激して戦時中愛国詩も書いたが、戦後これを恥じ、平和運動、婦人運動に加わる

荷風もコレットを愛読するが、深尾の影響が大きかったのでは

l  南京郊外の『濹東綺譚』

林芙美子(‘03年生)も愛読者の1人。貧しい少女時代から、遠い欧米への憧れが荷風の『フランス物語』等に向かわせた。深尾をブルジョアのマダムとすれば林はお針子か小間使い

特派員として陥落後の南京を取材、夕焼を見て『濹東綺譚』を思い出しなぜか涙が溢れる

戦時下、『放浪記』も『泣虫小僧』も発禁となり、時代が芙美子を追い込んでゆく。その暗い時代にあって縋るように荷風の作品を思い出す。時代の隅に生きる弱者に目を向けた荷風の作品が、ひそかな慰めになってゆく

l  林芙美子の戦後

'48年、市川に住む荷風を尋ねる

戦後の芙美子は、戦争によって傷ついた下積みの人々を描き続ける。戦後の日本を、自由で民主的な明るい時代とは捉えず、社会から取り残された人間たちに思いを寄せる

 

62 「菅野はげにもうつくしき里」

l  隠れ住むのにうってつけの地

菅野の地を気に入り(56参照)、「近巷漫歩」

l  牧場と梨のある風景

菅野を気に入ったのは、菅野が曾遊の地、隅田川の東の向島と似ていたことがある

幸田文も『すがの』という小文に、向島に似ていると書き、特に「牧場」と「梨」を挙げる

l  花薫る里で

流寓の身となった花に詳しい荷風の目に、庭の百花爛漫が目を楽しませる

l  葛飾八幡宮で見たもの

優れた観察者だった荷風は、近くの神社に思いがけず江戸の文化の名残を見つけ、喜びを感じる。それには深い素養がなければならない。過去の文化を通して今の風景を見ている

l  昭和二十二年五月三日、「笑ふ可し」

市川の古刹真間山弘法(ぐほう)寺も訪れる

新憲法発布に、「米人の作りし新憲法今日より実施の由、笑う可し」と書く。自らの力で立つことを戒律としていた荷風は、日本人が果たして自らの力で民主主義を確立したのか、と問うている

 

63 「真間川の記」と大田南畝

l  川をめぐる「奇癖」

市川市内の真ん中を真間(まま)川が流れる。江戸川の支流

荷風は、明治の東京が水辺を離れ、陸へと中心を移動させるのに抗い、江戸の文化が残る隅田川沿いの「水の東京」を愛した。市川も思いがけず水の町であることを知る。『真間川の記』('50)は荷風の文章の中でもとりわけ評価が高く、小林秀雄は激賞

散歩の折、川に出会うと、どこから流れ出てどこへ行くのか知りたくなる。自嘲的に「奇癖」と呼ぶ。荷風が事物風物の優れた観察者であることは、こんなところにもあらわれている

l  川べりの孤影

真間川は町の北を東に流れていき、次第に地勢は「卑湿(ひしつ)」となり田と畠が続く

『真間川の記』は散策記という以上に、孤独な精神のあらわれになっている

l  南畝の碑を発見する

「葛羅之井」とある大田南畝(蜀山人)の古碑を発見。荷風が敬愛してやまない南畝の筆で井戸の由来が書かれていた。偶然の発見だが、荷風の深い教養の結果

l  正宗白鳥への猛反駁

正宗は荷風の愛読者だが、荷風の南畝敬愛を過大評価と斥ける。荷風は激怒。落語などで安手な狂歌師という一般通念から馬琴などより低く評価していることへの反発もあったのか。『江戸芸術論』執筆の途上で江戸の文芸・文化に指導的地位を占め、馬琴などの遠く及ばない影響を印していることをつぶさに知っていたに違いない

l  似ているのは偶然ではなく

南畝は漢詩や随筆などに秀れた文人、幕臣としても有能、南畝を中心とした知のネットワークが作られていた。荷風の南畝論は『葷菴漫筆(くんあんまんぴつ)(‘25)に結実。71か条の随筆集で、初めは麻布界隈のそこかしこに残る江戸への風物への懐旧の情を語り、舘柳湾・林鶴梁など幕末の文人たちの足跡を辿るが、途中から南畝の話題となり、最後の40か条が蜀山人の小評伝。関東大震災で急激に失われた江戸の風景へのノスタルジアに染められている。荷風は自身を江戸の文人たちの末流と考え、精神の源流を幕末の漢詩人に求めていた。荷風の友人の2世左團次は杏花とも名乗ったが、この名は左團次の思い入れ深かった南畝の号、杏花園から取られ、南畝の忌日には荷風等を呼んで奠儀(てんぎ)を行う。左團次に南畝を吹き込んだのは荷風。荷風は蜀山風の書体を習って似た字を書く

 

64 「歩く荷風」、再び

l  日蓮宗大本山の散策

京成中山の法華経寺に足を延ばす。境内の鬼子母神堂のことを知り『にぎり飯』に書く

l  「人間の幸福これに若くものなし」

その先の中山競馬場を知って書いたのが『畦道』(‘46)で、松の木が茂る丘陵が続く景色に見とれる。平穏な景色の邪魔になるのが競馬場だと言って嫌う。海軍無線電信所の塔や建物も邪魔だが、散策の折のランドマークとなる

l  健脚老人が今日もゆく

さらに船橋まで足が延びる。空襲も受けず、南に漁港があって「日本の上海」とまで呼ばれたが、短篇の逸品『買出し』にあるように、東京の人間には買出しの町になっていた

荷風は初めての町を訪ねたときは、必ず私娼街を探す。船橋の遊郭は、昔千葉へ向かう宿場町として栄えた頃の船橋新地の名残。太宰が1年滞在し一番愛着を抱いた地でもある

『日乗』’23.7.8.に「有嶋波多野が軽井沢の別荘で自殺せし記事あり。一驚を喫す」とあるが、2人が初めて結ばれたのは船橋の旅館

l  焼跡での地図作り

’466月、1年ぶりで東京に入り、新小岩で私娼窟を歩く。新小岩は荒川放水路が防火壁になって空襲の被害は少なく、戦後被災者が移って来た。『帝都戦災焼失地図』を買い、小石川の生家も、断腸亭と名付けた余丁町の家も焼失したのを見て深い感慨に捉われる

l  新たな私娼窟、東京パレス

小岩の精工舎工場跡地に戦後、東京パレスという「私娼窟」(赤線)が出来た

『吾妻橋』(‘54、『中央公論』)は、パレスにいた街娼が主人公

北小岩の宣要寺に荷風の句碑がある。弟子を持たない荷風には文学碑が少なく、三ノ輪浄閑寺など僅かなので珍しい。住職が文人の墨筆を収集、近在に住む荷風が気安く書いてくれた色紙短冊3句に感激、書いた翌年荷風死去、'66年に自筆を句碑にした

 

65 困った同居人

l  老いてもなお我がまま

偏奇館を焼かれた荷風にとって、食糧難もさることながら、どこに住むかは、常に頭を悩ませる問題。市川で五叟一家と暮らすが、ラジオと三味線の音に悩まされる

l  「正気の沙汰に見えず」

荷風は騒音に苛立ちを隠さず、「隣室のラジオに耳を掩って亡国の第2年目を送る」

随筆『草紅葉』(#59)は東京大空襲で消息を絶った浅草のオペラ館ゆかりの人たちを追慕した佳品だが、執筆したのは騒音に悩まされている最中に2カ所あった避難所の内の相磯の海神の妾宅。もう1カ所は仏文学者小西茂也邸

l  ついに引越す

騒音にたまりかねて荷風も火吹き竹にて机を叩くなど児戯じみた抵抗をするので、五叟もその我儘に呆れ、怒る。さらに愛猫の鬚まで切られてうんざり

l  五叟一家を罵り続ける

‘47年、五叟の家に残してきた蔵書や草稿書簡が盗難に遭い、市内の古書店に売られていた事件発生、ほどなく五叟の中学生の娘の仕業と判明。荷風は怒り、五叟を執拗に非難

l  文学者荷風と同居人荷風

五叟も辟易とし、荷風は家を出て小西宅に移るが、小西の日記を綴った『同居人荷風』には、荷風存命中にもかかわらず、荷風の変人振りが如何なく描写。人間荷風に幻滅して貸し間退去を申し渡され、引っ越し。五叟とも小西とも喧嘩別れ

 

66 「五叟日誌」に見る戦後の世相

l  奇行の人として

'47年の読売朝刊に「奇行文豪荷風と語る」「笑い飛ばす発狂説」という見出しのインタビュー記事が載る。荷風が新聞記者に会うのは珍しく、目的は盗難事件の復讐だったようだが、記事内容は荷風の期待通りではなく、近頃の変人振りと奇行の紹介のみ

数々の奇行は、荷風にとって戦争はまだ終わらず、空襲の「恐怖」を引き摺っていたのが、他人との共同生活の息苦しさの中で時折、荷風を襲ったのではないか

l  住友令嬢誘拐事件

五叟の日記には、行く末を案じる荷風を慰藉する様子のほか、‘46年の復員兵による少女誘拐事件についても、同じ年頃の娘を持つ親としての心配が吐露される

l  弱者に優しい町

金沢に演奏に出掛けた五叟は、「整然とし平和なる町」に比べて上野駅の混乱振りに暗然とするが、上野の町が戦災孤児を町ぐるみで受け入れたのは、下町の人情と気っぷによるところ大。上野は敗者弱者に優しい町だった

l  買出しの女性を描く

『買出し』には、戦後の食糧難の時代、東京から千葉県の農家に買出しに来た女性を描く

l  「同盟罷業」突然の禁止命令

‘46年にはゼネストが頻発。荷風は「同盟罷業」と書く。'47年初、マッカーサーがゼネスト中止の強権発動

l  東京裁判と公職追放と

‘48年、東京裁判判決。荷風は何も感想を記していない

公職追放では嶋中も対象になり、荷風も救済の嘆願書への署名を求められ、署名が功を奏したのか「非該当」となる

 

67 被害が大きかったキャサリーン台風

l  人災としての水害

'47年キャサリーン台風が首都圏を襲い、死者・行方不明者1930人を出す

l  洪水見物に行く

市川は被害がなかったが、荷風は水害の様子を見に小岩方面へ千葉街道を歩いて出掛ける

l  戦後の浅草通いが始まる

'48年、戦後初めて浅草を訪れる

l  「婦女の裸体」の「展覧」

六区が戦前の賑わいを復活させ、ストリップの上演に性意識の解放の現れを見て帰る

l  玉の井焼失から七十日で

翌日にはバスで浅草に行き、向島一帯を歩く

外祖父の儒学者鷲津毅堂の碑が建つ白鬚神社が焼け残ったのを確認

3月の空襲で玉の井が焼けてから、わずか70日で新しい私娼街が生まれている

 

68 戦後の色街、鳩の街のこと

l  木の実ナナの回想

戯曲『春情鳩の街』(‘49)の舞台となった私娼の街は、戦後の色街で、'58年の売春防止法施行により消滅するが、元は玉の井のあった現東向島1丁目。東武の駅名も玉の井から東向島に。この街で生まれ育ったのが木の実ナナ。自伝『下町のショーガール』を書く

l  水辺の女たち

何人もの作家がこの街を舞台に、隅田川縁の水辺の女というべき私娼たちの物語を書く

l  米兵相手の街になる

鳩の街商店街は、元向島寺島町商栄会で、空襲で焼けなかったため、焼け出された玉の井が移ってきて、産業戦士慰安の店として当局公認の下に営業を始め、戦後進駐軍のRAAとなり、その後赤線となる

l  吉行淳之介の「借金のカタ」

戦後の鳩の街には、吉原や新宿と異なり、伝統も背景もない。新興歓楽地としてのイキの良さがあった

吉行は、『原色の街』等を書くため店に流連(いつづけ)していたが、金がなくなり、貴重品だった洋傘を借金のカタに置いていったという

l  自作「春情鳩の街」で沸かせる

荷風が初めて鳩の街に行ったのが'48年。翌年そこを舞台に戯曲を書き、浅草で上演

l  「初日を見る。大入満員なり」

'55年、東宝が荷風原作と銘打って映画《「春情鳩の街」より 渡り鳥いつ帰る》を公開。荷風作品の初めての映画化。監督は久松静児。東宝の力作の割には批評は決して良くない

公開は、売春防止法公布の1年前のこと

 

69 浅草、出遊のこと

l  失われた東京

荷風にとって戦後とは、生まれ育ち、その佇まいを愛し続けた東京という町を失ったことの自覚から始まった。歩くたびに喪失感に捉われたに違いない。奇行の一因でもある

人形町は江戸時代以来の繁華街で、奇跡的に空襲の被害は少なかったが、かつての「水の東京」の面影はない。両国の回向院も焼失し、山東京伝の墓も判然としない

三ノ輪の浄閑寺の荷風詩碑には、『偏奇館吟草(ぎんそう)』所収の「震災」の詩が刻まれる

偏奇館跡で、焼け残った屋敷が米軍に接収されているのを見る。土地100坪売却は’48

l  知識人が背を向けた街へ

ささやかな救いの場になったのが浅草

東京生まれの知識人は、震災後は銀座や新宿に向かい、浅草は庶民の盛り場に

逆に荷風は、昔に比べ寂しいと記しながらも、足繫く浅草に通う

l  桜むつ子の回想

浅草の楽屋通いで親しくなったのが桜むつ子('21東京生)。父親は幇間。10代で舞台に立つ。「新風俗」という劇団の公演『春婦伝』(‘48)の主役慰安婦を演じる桜を荷風が見て気に入り、以後親交が始まる。荷風を尊敬した小津安二郎が、荷風に可愛がられる桜をよく使ったのは、桜を使って荷風のことを聞くためだという。小津が《東京物語》の舞台となる家を堀切駅近くに設定したのも、荷風が堀切駅近くの土手からの風景を愛したと知ったから

l  浅草舞台劇三部作

荷風が愛した浅草の女優は高杉由美(‘27京都生)。劇団「美貌」で浅草の舞台に立ち、長襦袢姿の色気で人気。荷風も気に入って、彼女のために戯曲『停電の夜の出来事』を書く(‘48)

『春情鳩の街』も桜と高杉のために書いたもので、初日には荷風もちょい役で舞台に登場

続いて『渡鳥いつかへる』を書き、この舞台にも荷風は登場

荷風は、芝居とも縁が深く、1900年歌舞伎界に入ろうとして役者の預弟子になって指導を受けているし、左團次のために『平維盛』や『秋の別れ』を書いている

l  あるカストリ雑誌との縁

『停電』『春情』は上演前に月刊誌『小説世界』(‘48創刊)に掲載。密造酒のカストリを3合飲むと酔い潰れるように、3号を出したところで廃刊になる安手の雑誌をカストリ雑誌(仙花雑誌)というが、エロ主体の雑誌ながら2年ほど続く

荷風が創刊号に『つくりばなし』を寄稿したので出版界では大きな話題に

『裸体』('50)も寄稿、同誌掲載戯曲の演出なども手掛けた

荷風がカストリ氏にまで書いた背景には、大逆事件に接して何も言えず、「自ら文学者たることについて甚だしき羞恥を感じ、以来私は自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如()くはないと思案した」と言っていたように、荷風の一貫した「やつし」の姿勢がある

「やつす」とは、本来高貴な身分の人物が零落した姿を演じる歌舞伎の演劇表現を指す

 

70 老翁、ストリップ劇場にあり

l  京成本線沿線の踊子たち

短篇『心づくし』(‘48)は、戦後の浅草の踊り子を主人公にした唯一の作品

荷風文学の核には常に変わらぬ少女への、乙女への愛があった、との大胆な指摘がある

玄人を書く一方で、乙女も描き続けた。『花籠』『地獄の花』『あめりか物語』など

l  新聞記者を避けてロック座へ

『心づくし』を書いたのは’47年、まだ浅草に通い始める前、戦後の六区の実情を知らずに人に聞いて書いた。浅草で気に入ったのが日本初のストリップ専門の常設館のロック座

’50’55年頃は毎日のように通いつめる

l  井上ひさしの浅草時代事始

浅草では、圧倒的に女性の稼ぎが多く、売れない俳優は彼女たちのヒモになろうとする

‘56年、フランス座で文芸部員として働いていたのが上智を出た井上ひさし。実質は踊子の世話係。浅草には荷風が出遊していると知って、憧れて浅草に行ったという

l  ストリッパーたちとの座談会(『オール讀物』'508月号)

「荷風散人の買物籠」は有名。作家として活字の世界ではうるさく厳格と言われた荷風散人も、踊子たちがいる楽屋での荷風はまるで文学青年のように若々しかった

l  ある踊子の回想

久保田万太郎など有名な作家の中には、踊子の体を触ったり、口説いたりする不心得者もいたが、先生は全くそんなことはしなかったという

 

71 欲望の解放と、老人の諦念

l  「猟奇」に魅かれる女性

短篇『裸体』(‘50、『小説世界』掲載)は、「粗末な仙花紙に刷られて世情に流布した」と嘆かれたが、戦後に登場した、性に極めて自由な考えを持った若い女性を描いて読ませる

l  快楽を求める女性像

‘62年松竹で映画化されたが、嵯峨三智子のポスターが話題になったくらいでいまひとつ

l  春本「ぬれずろ草紙」

荷風の現実の性生活は、老いゆく身には淡白になっていただろうが、観念の中では相変わらず性への関心が強く、春本『濡(ぬれ)ズロ草紙』(‘48)を書き、「老後の一興」なりと言う

『日乗』に記載があり、養子の永光が’86年『新潮45』に一部を公開。ズロはズロース

l  理想的な世の去り方

『老人』('50、『オール讀物』)は、老人の諦念に浸された作品。70を過ぎた荷風に通じる

『買出し』では、さっきまで元気だった「皺だらけの婆さん」が小休止中に口から泡を吹いて死んでいた、と書き、自分も長患いせずに世を去りたいと思ったのではないか

l  酔狂老人の文化勲章受章

'52年、朝永、梅原、安井らとともに文化勲章受章。ストリップ劇場通いが「老人の酔狂」と巷で話題になっていただけに騒がれたが、選考委員の久保田万太郎の尽力があったという

ストリップ座の興行主が、踊子たちを招いて祝宴を開く

短篇『吾妻橋』(#64参照)は、受賞後に「これからは固いものを書く」と約束した直後に執筆。夜ごと吾妻橋に立つ街娼が主人公

娼婦ながら「悪ずれ」せず可憐な様子に心動かされる一方で、不幸な女の心情を探聞し小説の種にして稿料を貪るわが心底こそ売春の行為よりも却て浅間しき限りと言い、自責の念に駆られる。戦後荷風が浅草を舞台にした小説を書けなくなってゆく一因はここにもある

 

72 老いのあとさき

l  得意料理は野菜炊き込みご飯

市川の1人暮らしの食事は自炊。よく作ったのは野菜炊き込みご飯

l  四書(『大学』、『中庸』、『論語』、『孟子』)、そして聖書

随筆『仮寐の夢』(‘46,『新生』)では、飯の煮える間鍋の傍らで読書するとあり、四書の仏語訳を原本と対照して読み、その後は和仏両書を対照しながらの新約聖書

戦時中、偏奇館で逼塞して暮らした際も、慰めになったのは聖書。「耶蘇教は強者の迫害に対する弱者の勝利を語るものなり」と理解していた

l  荷風をとらえた写真

晩年の、普段着で服装に無頓着な独居老人の姿が写真に残る。部屋に七輪を持ち込み煮炊きするので、火事寸前のことも屡々で、小西から退去を迫られても仕方ない

l  大金持だと知られてしまう

'54年、荷風は電車でカバンを置き引きされたが、現金が入っていなかったので、スリはカバンを捨て、米軍軍曹が拾って荷風に連絡、事なきを得る。中に入っていたのは20百万円の預金通帳と額面50万円の文化功労者年金通帳。荷風は高額所得者だった

新聞に報道されると、全国の赤の他人から無心の手紙が殺到したという

l  お金を出すとき

荷風が吝嗇という世評があるが、一方で、文芸誌『文藝』の編集長野田宇太郎が中心となって、焼失した観潮楼跡地に鷗外記念館設立の話が持ち上がり、’53年、最初に鷗外の詩碑「沙羅の木」を建てることになり、鷗外を敬してやまなかった荷風に碑文の染筆(=揮毫)を鷗外の長男於菟が頼んだときは一言にも及ばず引き受け、寄付にも応じたという

l  「正午浅草。アリゾナに飯す」

朝晩は家で食事をしたが、昼は外食。用心深く、水の代わりにビールを飲む

「浅草の洋食屋」は有名で、仲見世の東裏通りの「アリゾナ」(現存)。約10年通う

 

73 フランス映画を見る

l  そば屋で倒れる

浅草のそば屋尾張屋によく通ったが、『日乗』には出てこない。トイレでお尻むき出しで倒れ、女将さんに助け起こされタクシーで送られ、その後一切顔を出さず、しばらくして亡くなった。誇り高い荷風だからこそのことだろう。アリゾナでも出入り口の段差に倒れた

l  映画史家からの指摘

新藤兼人の映画《濹東綺譚》は2度目の映画化。’37年発表直後の映画化の話は拒否。’60年豊田四郎が初の映画化で、生前に荷風が許可。『濹東綺譚』の中の記載の誤りを映画史家から記憶違いではと指摘され、素直に認めて訂正している

l  ラジオ嫌い、ラジオで大いに語る

『つゆのあとさき』は、昭和初期の銀座のカフェの女給を描いた作品では、主人公の名前を映画《女給》(原作広津和郎)の主人公をもじったものにしている

芝居と違って馴染みがないことが映画を嫌う理由だったが、映画を作りたかったという事実がある。ラジオの騒音を嫌ったが、嶋中朋二との対談でラジオ出演したことがあり、メキシコ映画に感銘を受けるなど映画もよく見ていると話す

l  映画監督になりたかった

若い頃映画監督になるのが夢だったとも話す。團十郎主演の映画や、戦争で右腕を失った左手のピアニストの話など企画するが、戦時中で実現せず落ち込む

l  ジッドやゾラの原作映画を

随筆『雑話』('53)で、仏映画だけは戦争前から見ていたと語る

アンドレ・ジッドの影響を受けて『濹東綺譚』を書いた荷風は、ジッド原作の《田園交響楽》('46)を見る。ゾラ原作の《獣人》(‘38)’50年の公開を待って見る。荷風は若き日、『ゾラ氏の作』(‘02)という小文を書き、「永遠に崇拝すべき価値あり」と賞讃

l  女給と見た「赤い風車」

音楽映画も好んで見た。《カーネギー・ホール》(‘47)はドキュメンタリー風の作品で、「在米の昔を思返して感慨無量」と素直に感動

《赤い風車》(‘52)は、ロートレックを描く伝記映画。銀座のお気に入りの女給と見に行く

 

74 市川の荷風を訪ねた人々

l  昔の愛妾からの年賀状

市川に独居隠棲したが、『日乗』によれば、実に多くの人間が荷風を訪ねている

女性で印象に残るのは関根歌(‘06年東京生)’27'31年暮らしを共にした愛妾。’55年年賀状が来る。荷風没後、『婦人公論』に心のこもった追悼文『日蔭の女の5年間』を寄せる。何度か手紙のやりとりの後、歌は七尾から上京し荷風を訪ねる

l  歌の見た晩年の暮し

‘55年末、歌来訪。3カ月後神田に戻って小料理屋を開き、以後1年程度々荷風宅を訪問するが、廃業して七尾に戻ったので、会ったのは’57年が最後

l  文人来訪

荷風を尊敬する文学者も訪れる。堀口大學は佐藤春夫と共に慶應で荷風に仏文学を学ぶ

近世文学研究家の森銑三(‘95年生)も戦前から交遊があり、市川を訪問。荷風は碩学の士として敬す。荷風は森を、「清潔な話ばかりをする人」として遇し、新刊を寄贈するが、『冬の蠅』や『おもかげ』であって、『濹東綺譚』は「内容が森向きではない」として貰えなかった

l  東京を愛したフランス人

荷風と親交のあった日本在住のフランス人文学者がノエル・ヌエット(‘85’69)。東京外国語学校講師。東京の街をスケッチして歩き、荷風はその絵葉書を通してヌエットを知る

l  荷風の話した日本語

『すみだ川』を英訳したドナルド・キーンも、’57’58年頃英訳本を持って訪ねる

キーンは、荷風の話す日本語が、かつて聞いたことがないくらい、美しかったのに圧倒

 

75 最後の日々

l  中央公論社との紐帯

晩年の荷風と親しかった編集者は、中央公論の高梨茂。’48年からの付き合いで、荷風逝去まで『日乗』に頻出。社史には、「荷風全集が'53年、荷風をしくじらなかった唯1人の編集者高梨の手によって無事完結した」とある。江戸時代の文芸に造詣が深く、古書収集の趣味があった。野田醤油(キッコーマン)の一族で裕福だったこともあり、蔵書も豊か

l  没後全集の出版先

没後の大きな問題は、全集の出版社の選択。久保田万太郎や相磯、嶋中、高梨らで「荷風刊行会」を作り検討したが、本命の中央公論をおいて、永光は岩波に決める。刊行会が勝手に検討を進めていたことに反発した若い養子の決定に、中央公論は著作権継承者だからといって、文学的な位置付けやそれまでの経緯を踏みにじり、権利を濫用するものではないと永光を非難し、永光は新聞や週刊誌でも叩かれる。高梨の無念はいかばかりか

l  清楚で美しい謎の女性

戦中から戦後にかけて荷風をよく訪ねてきたのが阿部雪子。市井の堅気の女性で交際は10年以上に及ぶ。荷風に仏語を習っていた師弟関係にあり、戦時中から荷風の甘いもの好きを知って羊羹などを差し入れたり、疎開先の宮城からも食料を届けたりしている

荷風没後、相磯が『荷風余話』で、「偏奇館時代から秘かに通い続けていた某女が、お通夜・葬式にひっそりとつつましく焼香だけして帰っていった床しい後姿に、思わず目頭を熱くした」とあるのは、阿部雪子と考えて間違いない

l  荷風散人最後の点鬼簿

晩年の荷風の周辺では、知人が次々に亡くなる。’51年には熱海で世話になった木戸正。’57年には五叟(享年53)’58年には籾山梓月(しげつ、’78年生、出版人、荷風と共に『文明』を編集・出版)’58年には正岡容(‘04年生、大衆芸能評論家)等々

l  小林青年、来る

亡くなる直前に頻出するのが小林修。近在の市井の青年で、毎日のように荷風の身の回りの世話をしていたが、詳細は不詳。『日乗』に感謝の気持が綴られる

l  「正午大黒屋」ののちに

小林青年は、不動産の仕事や洋服の売買、踊りの先生もしていたという。’19年生まれで本名吉田修、生涯独身、世話好き、お手伝いの女性も紹介しており、毎朝見に来てくれるよう頼まれ、荷風死の最初の発見者、通夜で泣き崩れる

荷風の最期は彼ら市井の人たちの無私の涙で送られている

 

 

あとがき

「大作家といわれる人の胸を借りるつもりで、1人を選び、その評伝を書いてライフワークにしろ」と勧められ、迷うことなく選んだのが荷風。『東京人』に連載した『荷風と東京 『断腸亭日乗』私註』(1996年単行本)を皮切りに何冊か書き、今回は荷風の生きた昭和という時代をテーマにして書き、昭和という時代を浮き上がらせる

荷風の戦後は、見るべき作品が少なく、奇行が目立ったこともあって、軽く扱われることが多かったが、戦中・戦後の混乱期に個に徹して生きようとしたその姿には、学ぶところも大きい。戦後の荷風、老いの荷風が本書の1つの大きなテーマ

従来、荷風は花柳小説作家と狭く語られることが多かった。その枠組みからも解放したい

先ず何よりも、東京という町を愛し続けた都市の作家。女性を愛したのも好色とは少し違う、女性の持つたおやかさ、美しさを愛した。蔑ろにされる女性文化こそを愛した。だから円地文子や林芙美子らに敬された

 

 

 

 

新潮社 ホームページ

前篇―関東大震災から日米開戦まで

昭和に遊び、昭和に抗った「過激な個人主義者」荷風の生涯!
関東大震災から急激に復興したモダン都市東京、カフェーの女給や私娼などの新しい女たち、テロとクーデターに奔走する軍人……。激変する時代に何を見て、この「最後の文人」は反時代的傑作『濹東綺譚』を書き始めたのか? 『断腸亭日乗』など永井荷風の全作品を徹底的に読み込み、昭和をまるごと描き出した文芸評論の到達点!

復興する東京を遊歩しながら、激変する時代を記録し続けた「最後の文人」永井荷風(18791959)の鮮烈な生涯

 

後篇 偏奇館焼亡から最期の日まで 

荷風の精神を支えた大量の蔵書と共に、偏奇館は空襲で焼け落ちた。戦後、老文士は戦災のトラウマに悩まされ、奇人として有名になる。しかし尚も権威を嫌い、新憲法を嗤い、ストリップを楽しんで、市井の男女の情愛を描き続けた。著者自ら「これを書きあげたらいつ死んでもいい」と筆を振るった荷風論にして昭和論の金字塔!

  • 受賞 24 小林秀雄賞(2025.10.15.)

 

 

荷風の愛した三つのもの

川本三郎

 私が荷風のことを書き始めたのは、「中央公論」の元編集長で「東京人」創刊編集長だった粕谷一希さん――多くの書き手を育てて〈名伯楽〉と呼ばれた方ですが、その粕谷さんから、「近代の重要な大作家を一人選んで、胸を借りるつもりで評伝を書いて、ライフワークにしなさい」と勧められたのがきっかけでした。私は四十六、七歳でした。粕谷さんの誘いに、私は迷うことなく荷風を選び、『荷風と東京』を書き始めたのですが、これは年齢のせいもあったでしょう。やはり若い頃は、荷風の良さがなかなかわからないんですね。年をとるにしたがって、荷風に惹かれるようになりました。 
 私が『荷風と東京』を「東京人」に連載を始めたのは19921月号からです。その頃はバブル景気のせいで、東京の古い建物や風景が次々になくなり、街が壊されていく時代でした。昭和十九年に生まれ、昭和三十年代に育った者としては、「いやな時代になったなあ」と感じていましたが、そんな不快感を表に出すのではなくて、むしろそんな時代の最中でも好きなことを書こうと思って、辿り着いたのが荷風だったのです。ご存じのように荷風は東京に生まれ、下町を愛し、隅田川を愛した作家です。ちょうどその頃、私も下町や隅田川に惹かれ始めていましたので、行く着くところは荷風、ということになりました。 
 それまでの荷風は、ほとんどが花柳小説作家、ひどい時は好色作家、エロ作家として論じられていました。尊敬はされていたにせよ、好かれる作家ではなかった。特に女性たちには人気がなく谷崎潤一郎に比べれば、十分の一も女性読者はいなかったと思います。
 もっとも、荷風の読者の方が谷崎の読者より、はるかに熱度が高いんですね。ひとたび荷風の愛読者になると、とことん好きになる傾向があります。例えば『ぼく東綺譚』の舞台になった玉の井を歩く、浅草へ行く、あるいは終焉の地になった市川まで足をのばすなど、ゆかりの土地を訪ねる読者は今でも多いでしょう。
 十年くらい前のデータですから、今は変わっているかもしれませんが、近代の作家で最初の本から最後の本まで初版本をすべて集めるとしたら、いちばん値段が高くつくのが漱石でも鷗外でも太宰でもなく、荷風なのだそうです。熱い愛読者がつく作家なのですね。
 私が荷風に惹かれた頃は、建築の世界で「ウォーターフロント」という言葉が盛んに使われはじめ、〈水辺〉に関心が集まった時代でした。近代の東京は、明治の薩長政府の方針によって、水辺ではなく、陸の方を大事にしてきました。いみじくも汽車のことを「陸蒸気」と呼んだように、陸が薩長政府にとって重要であり、一方、水辺の土地であった下町は見捨てられていきます。荷風は時代に逆行するように「水の東京」を大事にしました。「水の東京」というのは幸田露伴が言い出したことですが、露伴は幕臣の側の人間です。荷風の永井家もそもそもは名古屋の武家ですから当然、旧幕派でした。つまり戊辰戦争で勝った側は陸を重視し、負けた旧幕派は「水の東京」を大切にしていったのです。 
 私は『荷風と東京』の前に、『大正幻影』(1990年)という評論集を書きました。これは、大正時代に隅田川に象徴される「水の東京」に惹かれた作家が非常に多いことに気づいて、例えば佐藤春夫の「美しき町」、谷崎の「刺青」、あるいは隅田川沿いの両国に生まれ育った芥川龍之介の「大川の水」、そして永井荷風の「すみだ川」などを論じたものです。 
 この本を書いた後に、粕谷さんから「近代の重要な大作家を一人選んで書け」と言われ、すぐに荷風が頭に浮かんだのです。いま八十歳になって、荷風の没年をこえたわけですが、それでもなお、荷風にこだわって、考えたり、書いたりできる。そんな対象になる作家と出会えたというのは、非常に幸福なことだと思っています。

荷風文学の特色

 荷風の文学の特色を、丸谷才一さんが三つ、挙げています。ひとつはフランス文学への憧れ。ふたつめは『源氏物語』などにも顕著な、日本の伝統文化である色好み。三つめは、色好みと正反対のような儒教精神。丸谷さんは荷風をあくまで花柳小説作家として見ていましたから、私と荷風観が異なるところもありましたが、この三つは(うべな)える特色です。 
 荷風みたいな軟派な作家が儒教の影響を受けているのか、と思われるかもしれませんが、荷風は基本的には士農工商でいえば士、武士の流れにあるんですね。ああ見えて、実はきびしい武家の躾や価値観を身につけている作家でした。文章を見ても、ストイックで硬質な文章です。
 丸谷さんの挙げた三つに加えて、私も三つの特色を加えたいと思います。まず荷風は「都市の作家」でした。
『荷風の昭和』のまえがきでも触れたことですが、ノーベル文学賞を受賞したフランスの作家パトリック・モディアノが受賞講演で、「偉大な作家たちの何人かはひとつの都市と結びついています」と言って、バルザックとパリ、ディケンズとロンドン、ドストエフスキーとサンクトペテルブルグ、そして荷風と東京、を例に挙げています。これは正しい意見で、ディケンズとロンドンの関係がそうであったように、荷風は東京という街を愛し、東京と深く結びつき、東京を創作の舞台として書いていった「都市の作家」である。そんなふうに私は考えます。
 次の特色は、「老いの文学」ということです。漱石の『三四郎』や鷗外の『青年』、あるいは太宰治や、現在の村上春樹さんもそうですが、青年を描くのが日本文学の主流です。ところが荷風は老人を描くんですね。初期の「すみだ川」では主人公は青年ですが、彼を支え、導く老人がいる。老人がいかに重要かと語っているような小説なんです。これは後年の作品まで共通した特色です。だから年をとるにしたがって、男は荷風好きになるのかもしれません(会場笑)。
 一方で、さきほども言いましたように、荷風は女性の読者が少ない作家でした。『ぼく東綺譚』でも私娼を描いているように、カネで女を買うような小説を書く、女性を蔑視している奴だ、あるいは女好きのだらしない好色作家だ、というわけです。でも、荷風をよく読むと決してそうではない。これは『荷風の昭和』で強調したことですが、荷風は女性というより、女性文化を愛した。女性の持つ優しさ、たおやかさをこよなく愛した。これが私の考える、荷風文学の三つめの特色です。 
 荷風が女性文化を大切にしたのは、戦前・戦中の軍国主義の時代の軍部の横暴ぶりに嫌気がさしたことが大きかったでしょう。武張った文化や大日本帝国の猛々しい帝国主義に対抗するものとして、たおやかな女性文化を大切にしたことは、『ぼく東綺譚』でも、「つゆのあとさき」でも、きちんと読めば、いくつもの箇所で読み取ることができます。 

「周縁の風景」を発見する

 いま三つ挙げた特色について、もう少し具体的にお話しします。 
 都市の作家という点で言えば、荷風は散歩が好きで、いま大量に氾濫している「街歩き本」の嚆矢と言っていい、『日和下駄』を著しています。『日和下駄』に限らず、荷風はさまざまな作品で、〈東京の街歩き〉を思索の対象にした最初の作家です。
 荷風は歩くことで都市の風景を発見していきます。とりわけ惹かれたのは東京の周縁の風景、例えばそれまで誰も注目しなかった荒川放水路などです。荒川放水路は大正時代に隅田川のバイパスとして作られた人工の川です。
 荒川放水路は北区の岩淵水門から始まりますが、荷風はそんな東京のはずれと言っていい土地まで足を運んで、茫漠たる風景に美しさ、詩情を感じています。まさに「風景の発見」をしたわけです。
 そして、この放水路の近くにある玉の井の私娼窟――ここは吉原に較べたら三流、四流の、ドブの匂いのするような薄汚い遊び場です。荷風はそんな悪場所にまで何度も足をのばして、街の地図まで描けるようになってから文章に取りかかり、詩情豊かな『ぼく東綺譚』を完成させます。
 荷風が愛したのは、東京の風景といっても、東京の中心部ではなく、中心から外れた風景、周縁の風景を発見していきました。これはフランス文学の影響かもしれません。荷風は若年の頃からボードレールに惹かれていましたが、ボードレールは娼婦の佇むパリの裏町、パリの周縁のうらぶれた風景をうたった詩人です。荷風もまた殺風景な、さびれた場所に注目していきます。 
 小津安二郎監督の「東京物語」をご覧になった方は多いと思いますが、あの映画の印象的なシーンのひとつに、尾道から出てきた笠智衆と東山千栄子の老夫婦が、山村聰演じる長男の家に泊るところがあります。当時はホテルなどほとんどありませんから、上京してきた両親は長男の家に泊るんですね。この家は、東武スカイツリーライン――イヤな名前ですね(笑)――堀切駅の近くにある設定です。東山千栄子が、土手で遊んでいる孫を見ながら、「お前が大きくなる頃には、おばあちゃんはもういないだろうねえ」みたいに呟く、しみじみしたいい場面があります。
 この場面は、まさに荒川放水路の土手で撮影されました。なぜ小津安二郎はそんな場所を選んで撮影したのだろう、というのは長年の疑問でしたが、その疑問が解けたのは、小津研究の第一人者である田中眞澄さんが編集した『全日記 小津安二郎』を読んだ時でした。小津の日記を読むと、当時、中央公論社から出たばかりの『荷風全集』で『断腸亭日乗』を毎日のように読んでいます。それは「東京物語」の前年、この映画のロケハンをやっていた頃のことです。小津は荷風の影響を受けて、荒川放水路で撮影したのではないか。
 戦後、荷風が浅草で遊んだ踊子の中に、桜むつ子という方がいました。のちに女優になり、戦後の小津映画のほとんどに出演しています。だいたい飲み屋の女将の役で、セリフも少ないのですが、必ず桜むつ子が顔を出す。どうして小津に重用されたのか、私がインタビューした折に訊ねてみましたら、「小津先生は荷風先生を大変尊敬していらしたんです。撮影の休憩時間になると私を呼んで、荷風先生はどういう人だったか聞いてきたものですよ」。
 荷風は絵心もある人ですから、昭和七年頃の『断腸亭日乗』には、麻布の偏奇館から東京の北の果ての荒川放水路まで何度も通った記述と一緒に、自分で描いた絵も載っているんです。その絵には、堀切駅の近くから葛飾の方に向かう四ツ木橋を描いている。まさにそこは「東京物語」で東山千栄子がしゃがんで孫が遊ぶのを眺めている場所なんです。小津は明らかに荷風から影響を受けています。

ノスタルジーの作家

 荷風における「老いの文学」についてお話ししますと、荷風の作品を読んでいると、必ずと言っていいほど、どこかに老人が出てきます。それも非常に好ましく出てくるのです。
『ぼく東綺譚』を読まれた方は多いと思いますが、冒頭の場面をおぼえてらっしゃいますか? 荷風先生を思わせる老紳士が浅草、そして足をのばして吉原の裏通りを歩いていく。吉原の裏町に一軒知っている店があって、老店主がやっている古本屋なんです。この名前も知らないが顔馴染みの小柄な老人は実に好ましく描かれています。その店でもう一人、禿頭の老人と出会い、あるものを買って、派出所の巡査に怪しまれることになります。
『ぼく東綺譚』は、荷風先生らしき老紳士と、けなげで気立てのいい私娼・お雪との交流を描いているものですが、濡れ場は一切書かれていません。
 古本屋の場面からわかるように、老境に入った人間、性欲を脱した枯れた人間の視線で、若くて美しいお雪さんを見ている。そこには、好色というか、いやらしい視線がありません。だから何度読んでも感動できるんですね。
「つゆのあとさき」では、主人公は銀座のカフェの女給で、男をとっかえひっかえします。お雪さんとは全然違うタイプの女性ですが、この小説にも、カフェに出入りする流行作家――菊池寛がモデルだと言われていますが――の老父という形で老人が出てきます。
 この老人は学者なのですが、専門はいかにも時代遅れの漢学なんですね。時代から外れてしまった老人が東京の郊外、豪徳寺あたりに侘び住まいをして、女出入りの激しい息子の嫁を慰めます。あるいは、あまり語られない短篇に「老人」という作品があります。舞台は立石で、そんなさびれた、東京の周縁の土地に――立石の方がいたらごめんなさい――隠居した老人が主人公です。既に息子は戦死しており、今度は奥さんが亡くなって、その法事の一日を書いている、とてもいい短篇小説です。ここでも荷風が老人に優しい視線を注いでいるのがわかります。
 荷風自身が老人になっていく『断腸亭日乗』の後半は、老人文学と呼んでもいいものです。そして私の『荷風の昭和』の特色は、戦中・戦後の、つまり老いた荷風に多くのページを割いていることだと思います。あまり語られてこなかった「老いの荷風」がひとつのテーマになりました。
 老人の特色は思い出が増えることですよね。荷風は、そもそも老人が好きだったうえに、自分も歳をとっていく。いよいよノスタルジーの作家、過去追慕の作家になっていきます。そのため若手作家から批判されたりもするのですが、老いた人間の持つノスタルジーを最後まで大事にしつづけました。
 私もこの姿勢に大賛成なのです。よく「単なるノスタルジーでなく」というステレオタイプな表現をする人がいますが、私はあの凡庸なレトリックを目にするたびに、「単なるノスタルジーで何がいけないんだ!」と腹を立てています(会場笑)。

かくも女性に愛された!

 女性文化賛美ということにも触れておきましょう。
 荷風が描きつづけてきたのは、芸者、女給、私娼、ストリッパーたちです。一見「色事の好きなじいさん」としか思えませんが、よくよく作品を読んでいくと、一貫して女性を賛美していることがわかります。そしてその対象となる女性は、荒川放水路が周縁の風景だったように、社会の中で周縁の存在だったと言っていい。例えばお雪さんのような私娼は、堅気の人間たちからは低く見られていたでしょう。
 荷風の生前から警察に睨まれていた『四畳半襖の下張』も、枕芸者が出てきますが、あれも丁寧に読めば女性賛美もいいところで、女性を喜ばせたいと必死になる男の話です。あの小説を掲載した「面白半分」は起訴されて、編集長だった野坂昭如さんが被告人、丸谷才一さんが特別弁護人をつとめた裁判で、証人になった有吉佐和子さんは「こんなに男の人は女性のために頑張るのかと、あわれになってくる」(会場笑)という名言を吐いています。
 よく言われる荷風のストリップ小屋通いにしても、あの頃の七十代ですから、荷風には性的な欲望がなくなっていたのでしょう。浅草のストリッパーたちのことも、孫娘に対するお祖父さんのように接しています。楽屋に通いながらも、悪い事というか、いやらしいことは何もしなかった、とストリッパーの人たちが証言しています。もっとも、ケチだから、たまにオゴってくれるのも蕎麦屋くらいだった、とも言っていますが(会場笑)。
 荷風は文化勲章を貰っても、世捨て人ですから、今どきの誰彼のようにホテルでお祝いのパーティなんかしません。でも、ひとつだけ喜んで受けた祝宴がありました。浅草のストリップ小屋の社長が音頭をとって、踊子たちともども荷風を「大坂屋」というレストランに招待して叙勲のお祝いをしたんです。こればかりは荷風も喜んで日記に記していますね。
 荷風は別れた女性たちにもまったく恨まれていませんでした。芸者をしていた関根歌という女性とは四年ほど一緒に暮したものの、やはり家庭生活に馴染めない荷風は別れてしまいます。けれども、昭和三十四年に荷風が亡くなった時、歌さんは「婦人公論」に追悼文を寄せて、「荷風先生と暮した時が一番幸せだった」と書いています。あるいは二番目の妻であった藤蔭静樹、元は八重次という芸者で、結婚後一年ともたずに別れましたが、彼女にも「交情蜜の如し」という荷風への追悼文があって、「別れる時、他の相手とは結婚しないと誓い合った、それを守った」と書いている。ちなみに彼女は日本舞踊の名手で、藤蔭流という流派を作り、文化功労者にまでなっています。
 そんな彼女たちとでさえ家庭を持つことを嫌った荷風は、今で謂う「独居老人」の生活を貫き、昭和三十四年にひとりで死んでいきます。
 最後にそんな狷介孤高の荷風の最晩年を支えた、三人の市井の人たちを紹介しましょう。それぞれ一枚ずつ写真が残っています(会場で写真を紹介)。
 まず、阿部雪子さん。堅気の女性で、フランス語が出来たそうですが、いろんな人が調べたけれど、どんな人かの詳細はわかっていません。『断腸亭日乗』によれば、戦前は文部省の下で国宝を管理する部署の職員だったそうです。戦中・戦後の食糧難の時代は宮城県に疎開して、東京よりは余裕があったのでしょう、荷風に食べ物を送っています。写真を見る限り、「東京物語」の原節子みたいな清楚な美人ですね。荷風の友人の相磯凌霜が書き残していますが、お通夜とお葬式と両方にひっそりと現れたけれど、焼香をすませると、誰とも話をせず、黙って帰っていったそうです。
 もう一人は、最晩年の『断腸亭日乗』に何度も「小林来る」と記されている小林修青年。彼もどういう人かわからなかったのですが、荷風終焉の地である市川市の文化会館で荷風展が開かれた時、私が市の職員さんにお願いして、「どなたか小林修さんをご存じではありませんか」と会場に張り紙をしてもらったのです。すると、ある女性から連絡があって、小林青年の詳細を教わりました。小林青年について詳しくは『荷風の昭和』で触れましたので、お読みください。晩年の荷風の生活を親身に支えた青年です。
 もう一人は福田とよさん。荷風の家の近くに住んでいた、通いのお手伝いさんです。荷風の遺体を発見したのも彼女です。当時の「毎日グラフ」という雑誌に、荷風のお通夜の写真が載っていますが、写真の左側、客間に弔問客たちが集まって喋っている。右側は廊下で、その片隅にとよさんが坐り込んで、両手で顔を覆って泣いている。号泣というか、泣きじゃくっているように見えて、胸打たれます。やはり荷風先生というのは女性に愛された人だなあと思いますね。
 私ももう歳ですから、こういう女性たちに囲まれながら逝きたいなあと願っております(会場笑)。

523日、東京堂書店神田神保町店での講演を摘録した。編集部

(かわもと・さぶろう)

波 20257月号より

 

 

 

朝日新聞2025730日掲載

川本三郎さん「荷風の昭和」 都市の観察者が描いた、したたかな庶民の日常

 「市隠(しいん)」の文士、永井荷風(1879~1959)は激動の昭和をいかに生きたのか――。評論家、川本三郎さんの「荷風の昭和」(新潮選書、前後篇〈へん〉)は、荷風作品を丹念に読み込みながら、当時の市井の暮らしの細部へと分け入っていく。荷風論と昭和論、二つのライフワークの集大成といえる大著だ。

 川本さんは96年の「荷風と東京」で、荷風の40年余にわたる日記「断腸亭日乗」をひもときながら、東京という場の変容を描いた。本作は同様の手法で、昭和という時代の諸相を検証していく。

 起点としたのは23(大正12)年の関東大震災。荷風は〈江戸文化の名残烟(けむり)となりぬ。明治の文化また灰となりぬ〉と喪失感を吐露している。

 「荷風に興味を持ったのは、東京が激しく変わった昭和末のバブル期なんです。荷風は大震災を境にモダン都市へと変貌(へんぼう)する東京に違和感を抱きつつも興味を持ち、時代の空気と共に、東京の姿を書き残した人でした」

 世間に背を向けた隠遁(いんとん)者の印象のある荷風だが、多くの作品は街を歩くことから生まれた。帝都一の繁華街となった銀座のカフェ通いが「つゆのあとさき」に、隅田川の風景を変えた荒川放水路の散策をきっかけとした私娼街(ししょうがい)・玉の井への来訪は「濹東綺譚(ぼくとうきだん)」に結実する。前者は満州事変の起きた31年、後者は日中戦争が勃発した37年に発表している。

 十五年戦争と呼ばれる時期にあっても、荷風は都市の散策者、観察者であり続けた。川本さんは「日乗」の言葉を拾い出し、映画や絵画、同時代人の文章などを引用しながら、大文字の歴史では取りこぼしがちな時代相を描いていく。暗い時代にあっても、意外としたたかに暮らす庶民の日常が浮かび上がる。

 「荷風は軍国主義の時代に世間の風潮になびかず孤立を守り、ひそかに自分の好む小説を書き続けた稀有(けう)な文士だった。一方で戦後は同居人とトラブルを起こしたり、浅草のストリップ小屋に日参したりして、奇人とも好色作家とも言われた。その二面性が面白い」

 これまで文学研究者があまり手をつけてこなかった戦後の荷風について詳述しているのも本作の特徴だ。震災被害を免れた居宅「偏奇館(へんきかん)」を東京大空襲で焼失、東京の東中野、兵庫の明石、岡山と疎開先でことごとく空襲にあう。戦災のトラウマが奇人と呼ばれるふるまいの遠因になったと推察する川本さんは、戦後ほどなくして行き着いた終焉(しゅうえん)の地、千葉の市川での生活を細かく追う。

 「荷風は水辺の人でした。戦前から、隅田川、荒川放水路、江戸川と、東京の東へ東へ、震災以前の風景を求めるように散策し、やがて市川の真間川べりにたどりついた」。50年発表の随想「真間川の記」は小林秀雄や三島由紀夫らが絶賛した名文だ。

 水辺の地で、荷風は再び、散策者として、浅草の歓楽街や水辺の色街を歩き始める。その姿は、都市に住む独居老人の一つの生き方を示している。荷風の戦後を振り返って、川本さんは言う。

 「敗戦後の立ち直りが早かった一つの要因は女性たちの活力でした。荷風は好色かもしれないけど、軍部がはびこっていた時代にないがしろにされてきた女性文化を愛した。それも市井の周縁で生きる女性を。軍人たちの武に対し、女性たちの美に敬意をささげ続けた作家だと思います」(野波健祐)

 

 

 

『荷風の昭和』川本三郎著

2025/07/04 15:20 讀賣新聞

震災、空襲 時代生き抜く

評・鵜飼哲夫(読売新聞編集委員)

かわもと・さぶろう=1944年、東京生まれ。文芸評論家。著書に『大正幻影』。『荷風と東京』で読売文学賞。

 コスパ、タイパなんか気にしない。一作の小説を書くために舞台となる土地を歩きまわり、そこで働く女たちと会い、時に情を深める。フランス文学は時間をかけて原書で読み、敬愛する成島柳北の日記は1年半かけて筆写する……。永井荷風(1879~1959年)は、戦前、戦中の軍国主義には背を向け、戦後民主主義の風潮にも踊らず、自分の主人は自分だけだった。

[PR]

 この「最も過激な個人主義者」という 狷介(けんかい) 孤高の文人は、関東大震災、東京大空襲と2度も災厄にあった東京をどう見つめ、昭和をどう生きたか。著者は、日記『断腸亭日乗』を綿密に読み解き、関連本をあさり、荷風が見た風景を自らの足でたどり、時間も金も気にせず、じっくり描いた。おかげで読者は、震災後のモダン東京の華やぎ、「 贅沢(ぜいたく) は敵だ」とスローガンに掲げながら、既に物はなく、「豆まきといへど豆なき家の内 福は来らず鬼は追はれず」と荷風が詠んだ戦時下の空気、戦後「奇人」と呼ばれた文豪の実像をありありと感じることができる。

 芭蕉、蜀山人ら江戸文学を愛し、江戸の名残が感じられる 濹東(ぼくとう) 、つまり隅田川の東にある下町を荷風が終生愛したことは知られるが、本書は、新しいものへの好奇心も浮き彫りにする。災厄の度に場所が移転する歓楽の場などへ、流行し始めたカメラを携えて通い詰め、自ら現像までするモダンな人だった。今日よく使われる「――させていただく」という新しい言葉が登場するやこれに注目、食品サンプルがお目見えすれば、それらを『日乗』に記すなど都市の変化にも敏感だったという。

 圧巻は、空襲で長年住んだ麻布の自宅「偏奇館」が全焼し、東中野、明石、岡山と疎開する日々と敗戦直後の記述である。疎開先でも火に囲まれ、「死を覚悟」した荷風は、食べ物をもらい、日記に「恵まる」と書く。他者を頼りにせざるを得なくなった老齢の個人主義者の哀切、内心の 忸怩(じくじ) たる思いが行間に (あふ) れる。(新潮選書、前篇・後篇各2860円)

読書委員プロフィル

鵜飼 哲夫( うかい・てつお 

 1959年生まれ。83年に読売新聞に入社。文化部記者として文芸を主に担当。現在、編集委員。著書に『芥川賞の謎を解く』や『三つの空白 太宰治の誕生』がある。

 

 

<書評>『荷風の昭和 前・後篇』川本三郎

2025817  東京新聞

◆浮かび上がる東京の幻影
[評]紅野謙介(日本大名誉教授)

 すでに定評のある川本三郎氏の永井荷風論に新たな決定版が加わった。30年近く前の『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註(しちゅう)』(都市出版)を筆頭に、折にふれて川本氏の文章には荷風が登場していた。強固な主体や一貫性を求める公の論理に対して、たえずその論理を脱臼させようとした川本氏が反時代的な荷風に関心を寄せるのは当然でもある。

 同じ日記を追いかけながら、前著と違うのは、関東大震災以後を扱うという時間的な限定だけでなく、荷風が日記に書きつけた街の風景がすっかり消え去り、失われたことすら記憶になくなりつつあるからであろう。どの街角も似たような顔立ちになってしまった中で、日記がかろうじて浮かび上がらせる東京の幻影に著者の愛着は向かう。

 たとえば花を愛した荷風が買う夜店の鉢植え、わざわざまいたコスモスの種、愛情を注ぐかのように足繁(しげ)く通って書き込まれた私娼(ししょう)たち、小名木川から人工の荒川放水路に向かって見出(みいだ)される新江東の風景。戦争景気によって一気に成り金が増え、また争議や騒乱が絶え間なかった大正期にあって、浮かんでは消えていく小さなものたちが読者をなごませ、ぬくもりを感じさせる。そうした一つ一つ、一人一人を愛惜し、かつ別離を重ねながら、荷風は陋巷(ろうこう)へ陋巷へと体を傾けていく。

 本書の特色は、戦中から戦時下、そして戦後へという流れの中で荷風の足跡を追ったことにある。この時期の荷風は焼け出された難民のひとりである。偏奇館から山の手へ、そして東京から西へ、大阪、岡山でも空襲に遭い、勝山で谷崎潤一郎にもてなされてほっと一息。敗戦を知って安堵(あんど)したものの東京行きがまた一苦労。熱海に一時は身をおいてふたたび東京に向かう。よろめいていたかと思えば、大家復活の荷風ブームに沸く。ここにいるのは文豪荷風ではない。あっちへよろよろ、こっちでニコニコしながら、右往左往した文人の姿である。

 しかし、人にたより、助けを乞うた荷風の何と人間臭いことか。その人肌の感覚が本書にはある。

(新潮選書・各2860円)

 

 

小林秀雄賞・新潮ドキュメント賞、贈呈式 川本三郎さん・鈴木俊貴さん

20251015日 朝日新聞

 第24回小林秀雄賞と新潮ドキュメント賞(新潮文芸振興会主催)の贈呈式が10日、東京都内で開かれた。小林秀雄賞は評論家・川本三郎さんの「荷風の昭和」(新潮選書、前後篇〈へん〉)が、新潮ドキュメント賞は東京大准教授で動物言語学者の鈴木俊貴さんの「僕には鳥の言葉がわかる」(小学館)が受賞した。

 川本さんは、戦前戦中から戦後まで生き抜いた作家・永井荷風の全作品を読み込み、足かけ7年の連載、2冊で計1100ページを超える大著を書き上げた。荷風像について「東京という町を愛し、東京を舞台にした小説を書き続けた都市の作家。女性を愛したが決して好色ということではなく、昭和の猛々(たけだけ)しい軍国主義の時代に『武』に対して女性文化のたおやかさを愛した作家。この二つを明らかにしたいと思った」と語った。また、荷風の代表作「ぼく東綺譚(ぼくとうきだん)」を例に、日本の近代小説に青春小説が多い中で、作品の片隅に好ましい「世捨て人」的な老人を配するなど「老人文学の側面がある」と現代性を指摘した。

 身近な野鳥シジュウカラが鳴き声を単語として使い、それを組み合わせて文をつくりやりとりする様子を観察・実験で解明した鈴木さんは、「多いときで年に10カ月、軽井沢の人のいない森の中にこもり鳥を追う生活を18年続けてきた」。研究の意義を「人間は古代ギリシャ以来、先入観や決めつけによって見える世界を狭めてしまっていたのでは。動物学者でさえも(動物たちの)言語をろくに調べてこなかった」と語った。「まわりの自然には、分かっていることよりも分かっていないことのほうがたくさんある」と自然をじかに体験し、観察する必要を強調した。(大内悟史)

 

 

 

Wikipedia

永井 荷風(ながい かふう、1879明治12年〉123 - 1959昭和34年〉430)は、日本小説家。本名は永井 壯吉()(ながい そうきち)金阜山人()(きんぷさんじん)断腸亭()(だんちょうてい)ほか。日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。

東京市小石川区(現在の文京区)出身。父・久一郎は大実業家だったが、荷風は落語や歌舞伎の世界に入り浸った。父は荷風を実業家にするために渡米させるが、荷風はアメリカ駐在を経てフランスにも滞在、同時代のフランス文学を身につけ帰国した。明治末期に師・森鷗外の推薦で慶応義塾教授となるが、江戸文化を無秩序に破壊しただけの幕末維新以後の東京の現状を嘆き、以後は、戯作者のように生きた。

生涯

6歳の永井

幼年から少年時代

永井久一郎と恒(つね)の長男として、東京市小石川区金富町四十五番地(現:文京区春日二丁目)にて出生。父・久一郎はプリンストン大学ボストン大学に留学経験もあるエリート官吏で、内務省衛生局に勤務していた(のち日本郵船に天下った)[1]。母・恒は、父久一郎の師でもあった儒者鷲津毅堂の次女。

東京女子師範学校附属幼稚園(現在のお茶の水女子大学附属幼稚園)、小石川区小日向台町(現:文京区小日向二丁目)に存在した黒田小学校初等科、東京府尋常師範学校附属小学校高等科(現:東京学芸大学附属竹早小学校)と進み、1891年に神田錦町にあった高等師範学校附属尋常中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校2年に編入学した。また芝居好きな母親の影響で歌舞伎や邦楽に親しみ、漢学者・岩渓裳川から漢学を、画家岡不崩からは日本画を、内閣書記官の岡三橋からは書をそれぞれ学ぶ。

文学への目覚め

1894年に病気になり一時休学するが、その療養中に『水滸伝』や『八犬伝』『東海道中膝栗毛』などの伝奇小説や江戸戯作文学に読みふけった。彼自身「もしこの事がなかったら、わたくしは今日のように、老に至るまで閑文字を弄ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたのかもしれない」(『十六、七のころ』岩波文庫より)と書いているように、後の文学活動への充電期間でもあった。また、帝国大学第二病院に入院中に恋心を寄せた看護婦の名・お蓮に因み「荷風」の雅号を用いた[注釈 1]のもこの頃である。

中学在学中は、病気による長期療養が元で一年留年し、「幾年間同じ級にいた友達とは一緒になれず、一つ下の級の生徒になったので、以前のように学業に興味を持つことが出来ない。……わたくしは一人運動場の片隅で丁度その頃覚え始めた漢詩や俳句を考えてばかりいるようになった」(『十六、七のころ』より)とあるように文学活動を始めていたが、軟派と目を付けられ寺内寿一(後の元帥)らに殴打される事件に遭っている[2]18973月中学を卒業する。同年7月第一高等学校入試に失敗[注釈 2]9月には家族と上海に旅行し、帰国後の1898年、旅行記『上海紀行』を発表。これが現存する荷風の処女作といわれている。

1897年、神田区一ツ橋に新設された官立高等商業学校附属外国語学校清語科(現:東京外国語大学)に入学し、99年に中退した[4][5]

新進作家として

1898年、広津柳浪に入門、1899年清の留学生羅蘇山人の紹介で巖谷小波の木曜会に入る。1900年、『文藝倶楽部』の三宅青軒の紹介で、歌舞伎座に座付作者として入る。1901年、暁星中学の夜学でフランス語を習い始め、エミール・ゾラの『大地』ほかの英訳を読んで傾倒した。1898年から習作を雑誌に発表し、1902年から翌年にかけ、『野心』(190248日)、『地獄の花』(1902910日)、『夢の女』、翻訳『女優ナナ』(ゾラ作、1903924日)を刊行する。特に『地獄の花』は森鷗外に絶賛され、彼の出世作となる。一方、江戸文学の研究のために落語家六代目朝寝坊むらくの弟子となり、夢之助を名乗って活動したのもこの頃である。

旺盛な創作活動の一方では、荷風の権力に対する反骨精神も作品に反映することもあった。特に1902年発表の『新任知事』は、叔父の福井県知事阪本釤之助をモデルとしたといわれ、これがもとで釤之助は荷風を絶縁する事件が起こっている。

外遊

1903年(24歳)922日、父の意向で実業を学ぶべく渡米、1907年までタコマカラマズーニューヨークワシントンD.C.などにあってフランス語を修める傍ら、日本大使館横浜正金銀行に勤めた[注釈 3]。銀行勤めと米国に結局なじめず、たっての願いであったフランス行きを父親のコネを使って実現させ、19077月から1908年にかけ約10ヶ月フランスに滞在した。横浜正金銀行リヨン支店に8か月勤め(当時リヨンは一大金融都市だった[1])、退職後パリに遊び、モーパッサンら文人の由緒を巡り、上田敏と知り合った[7]

外遊中の荷風はリヒャルト・ワーグナー作『トリスタンとイゾルデ』を皮切りに[8]オペラや演奏会に足繁く通い、それが『西洋音楽最近の傾向』『欧州歌劇の現状』などに実った[9]。ヨーロッパのクラシック音楽の現状、知識やリヒャルト・シュトラウスドビュッシーなど近代音楽家を紹介した端緒といわれ、日本の音楽史に功績を残している。19087月、帰国した。

充実の時代

1908年(29歳)、『あめりか物語』を発表。翌1909年の『ふらんす物語』と『歓楽』は風俗壊乱として発売禁止の憂き目にあうが(退廃的な雰囲気や日本への侮蔑的な表現などが嫌われたようである)、夏目漱石からの依頼により19091213日から1910228日まで東京朝日新聞に『冷笑』が連載され、その他『新帰朝者日記』『深川の唄』などの傑作を発表するなど荷風は新進作家として注目され、鷗外、漱石や小山内薫二代目市川左團次など文化人演劇関係者たちと交友を持った。

1910年、森鷗外と上田敏の推薦で慶應義塾大学文学部の主任教授となる。教育者としての荷風はハイカラーにボヘミアンネクタイという洒脱な服装で講義に臨んだ。内容は仏語、仏文学評論が主なもので、時間にはきわめて厳格だったが、関係者には「講義は面白かった。しかし雑談はそれ以上に面白かった」と佐藤春夫が評したように好評だった。この講義から澤木四方吉水上瀧太郎松本泰小泉信三久保田万太郎などの人材が生まれている。この頃の荷風は八面六臂の活躍を見せ、木下杢太郎らのパンの会に参加して谷崎潤一郎を見出したり、訳詩集『珊瑚集』の発表、雑誌『三田文学』を創刊し谷崎や泉鏡花の創作の紹介などを行っている。

そのうちに一人、痩躯長身に黒つぽい背広を着、長い頭髪をうしろの方へ油で綺麗に撫でつけた、二十八九歳の瀟洒たる紳士が会場の戸口へ這入つて来た。彼はその顔の輪廓が俎板の如く長方形で頤の骨が張り、やゝ病的な青く浅黒い血色をし、受け口の口元にだだツ児みたいな俤を残してゐて、黒い服とひよろ高い身の丈とが、すつきりしてゐる反面に、何処かメフィストフェレスのやうな感じがしないでもなかつた。「永井さんだ」と、誰かゞ私の耳の端はたで云つた。私も一と眼で直ぐさう悟つた。そして一瞬間、息の詰まるやうな気がした。と、永井氏は控へ室の知人と顔を見合はせて、莞爾として、その長い上半身を丁寧に折り曲げつゝお辞儀をした。氏のその動作が甚だ優雅に見えた。「いゝね!」と、大貫が私に云つた。「いゝね!」と、私も同じことを云つた。(これが私の永井先生を「見た」最初であつた。と云ふのは、木村は前から先生を知つてゐたので、或る日彼が電話で先生と話してゐた時、その電話には受話器が二つ附いてゐたのを幸ひ、私はもう一つの受話器を取つて、余所ながら先生の声を「聞いた」ことはあつた)

谷崎潤一郎『青春物語』「パンの会」のこと

また、文学者のパトロン的存在だった西園寺公望にも可愛がられ、西園寺邸で行われた雨聲会に、鷗外、鏡花、島崎藤村大町桂月広津柳浪田山花袋ら先輩の文学者らと参加した。西園寺は父と交際があり、「西園寺公は荷風君を見て『イヤ君のお父さんには、ずゐぶん君のことで泣かれたものだよ』と笑ってゐた」[10]という。

私生活の破綻

華やかな教授職の一方で芸妓との交情を続けたため、私生活は必ずしも安泰でなく周囲との軋轢を繰り返した。1912年、商家の娘・斉藤ヨネと結婚させられた(赤坂星ヶ丘茶寮で結婚式)が、1913年に父が没して家督を継いで間もなく離縁している。1914年、新橋の芸妓・八重次(のちの藤蔭静枝)を入籍(八百善で結婚式)して、末弟威三郎や親戚との折り合いを悪くした[注釈 4]。しかも八重次との生活も、翌年には早くも別居、荷風は京橋区築地(現:中央区築地)の借家へ移った。以降妻帯することはなかった。

関係した女性たちについては、自身は『断腸亭日乗1936130日の記事に列記している。

戯作者として生きる

『新橋夜話』(1912大正元年)11刊)頃の荷風

1910年の大逆事件の際、荷風は「日本はアメリカの個人尊重もフランスの伝統遵守もなしに上辺の西欧化に専心し、体制派は、逆らう市民を迫害している。ドレフュス事件を糾弾したゾラの勇気がなければ、戯作者に身をおとすしかない」と考えたという(「花火」1919年)。

以降は江戸の面影を求めて[注釈 5]、杖は先哲の墓や遊里に向かい、筆は懐古の随筆や花柳小説の創作に向かい、1914年に『江戸藝術論』[注釈 6]、『三田文学』19148-19156月に江戸の名残を求めた散策を主題とする随筆『日和下駄』を発表、11月刊行。同年120日の『夏姿』は発禁となった。フランス文学に関しても少なからぬ造詣を持ち、アンドレ・ジッドポール・クローデルの原書を読めと、後進に勧めている[14]

1916年ごろには『三田文学』の運営をめぐって慶應義塾側との間に意見の対立が深刻化し、荷風は大学教授職を辞している。その後は創作に専念する傍ら雑誌『文明』(19164-19189月。30号)を友人の井上唖々とともに立ち上げ、太田蜀山人寺門静軒柏木如亭成島柳北などの江戸戯作者や文人の世界に耽溺するようになった。

偏奇館

慶應大を辞して間もなく、余丁町の邸内の一隅に戻り住んで「断腸亭」と名付け、1917916日から『断腸亭日乗』を綴り始めた[15]。断腸亭の名は荷風が腸を病んでいた事と秋海棠(別名、断腸花)が好きだった事に由来する[注釈 7]1918年、余丁町の屋敷を売り、築地二丁目に寓居して翌年、麻布市兵衛町一丁目(現港区六本木一丁目)に新築した偏奇館へ移る[注釈 8]。外装の「ペンキ」と己の性癖の「偏倚」にかけた命名である。ここでは時折、娼婦や女中を入れることはしたが、妻帯し家族を持つのは創作の妨げと公言し、基本的には一人暮らしだった[注釈 9]

この頃、中期の名作『腕くらべ』、『おかめ笹』(『中央公論』19181月、続編は『花月』5-11月。19204月刊)などを発表するなど旺盛な創作活動の傍ら、左團次、小山内のほか川尻清潭、岡鬼太郎山崎紫紅池田大伍らと交流をもち、南北物の復活狂言の演出や江戸期の文人墨客の研究を行っている。

新境地開拓

1926年(47歳)頃から、銀座のカフェーに出入りする。荷風の創作の興味は旧来の芸者から新しい女給私娼などに移り、1931年『つゆのあとさき』、1934年『ひかげの花』など新境地の作品を作り出す。この頃に各出版社から荷風の全集本が発売されたことにより多額の印税が入り、生活に余裕が生まれ、さらなる創作活動を迎える。旺盛な執筆の傍ら寸暇を惜しんで、友人の神代帚葉らと銀座を散策したり、江東区荒川放水路の新開地や浅草の歓楽街、玉の井の私娼街を歩む。そんな成果が実り、1937年、『濹東綺譚』を朝日新聞に連載した。随筆では、下町の散策を主題とした『深川の散歩』『寺じまの記』『放水路』などの佳作を発表した。

浅草の軽演劇レビューにも進んで見学し、踊り子や劇場関係者と親交を結んだが、特筆すべきは、1938年(昭和13年)に銀座で知った作曲家菅原明朗と歌劇『葛飾情話』を作って浅草オペラ館で上演したことである。日本人の創作による本格的な歌劇上演の試みとして話題を集め、成功に気をよくした荷風は『葛飾情話』の映画化や第二作『浅草交響楽』の案も練っていたが、時局の悪化で中止の止むなきとなった。このときのアルト永井智子が菅原と結婚し、以後荷風と夫婦ぐるみの付き合いになった。

戦乱の中で

戦争の深まりにつれ、新作の新刊上梓は難しくなったが、荷風は『浮沈』『勲章』『踊子』などの作品や『断腸亭日乗』の執筆を続けた。草稿は複数部筆写して知友に預け、危急に備えている。戦争の影響は容赦なく私生活に悪影響を与え、食料や燃料に事欠くようになる[注釈 10] [注釈 11] [注釈 12]

1945310日払暁の東京大空襲で偏奇館は焼亡、荷風は草稿を抱えて避難したがおびただしい蔵書は灰燼に帰した[注釈 13] [注釈 14]

以降、荷風は菅原夫妻を頼って中野区住吉町(現東中野四丁目)から明石市、さらに岡山市を転々とするがそのたびに罹災し、ようよう73日同市巌井三門町(現岡山市北区三門東町)の民家に落ち着く。すでに66歳となっていた荷風は、この倉皇の期にも散策と日記を怠っていないが、度重なる空襲と避難の連続で下痢に悩まされたり、不安神経症の症状が見られなど身体に変調をきたす。同行した永井智子の大島一雄宛の手紙には、「最近はすつかり恐怖病におかかりになり、あのまめだつた方が横のものをたてになさることもなく、まるで子供のようにわからなくなつてしまひ、私達の一人が昼間一寸用事で出かけることがあつても、『困るから出かけないでくれ』と云われるし、食べた食事も忘れて『朝食べたかしら』なぞと、云われる始末です。……」と荷風の状況が生々しく書かれている。

岡山県勝山に疎開していた谷崎潤一郎は、恩人の荷風宛に身の回りの品を郵送するなど、身辺を気遣った。813日荷風は勝山を訪れて谷崎に歓待され、草稿を預けた[23][注釈 15] [注釈 16]

翌日岡山へ戻って「休戦」を知った。荷風は帰心矢の如く、830日、村田武雄(音楽評論家)が入手した切符で同夫妻と上り列車に乗り翌31日帰京。このあまりにも唐突な荷風の行動に、永井智子は常々帰京する時は3人一緒と約束していたのにと気分を害し、「私達の裏切られた気持ちは心の寂しさは一代の大家をみそこねていた気持ちの悲しさで一杯です」(大島一雄宛の手紙より)とあるように衝撃を与え、以降、智子は荷風に会わなかった[注釈 17]

戦後の復活とその後

戦後は厳しい住宅事情とインフレによる預貯金封鎖のため、荷風は従弟大島一雄(杵屋五叟)やフランス文学者小西茂也など知人の家に同居を余儀なくされた。一人暮らしに慣れきった彼の生活様式は同居人への配慮のないもので、大島の三味線の稽古を妨害したり、硫黄臭のきつい皮膚病治療薬を浴槽に入れたり、縁側から庭へ放尿するなど、とても共同生活ができるものでなく、周囲と悶着を続けた。ために知人相磯凌霜の船橋市海神北一丁目の別荘を書斎代わりにした事もある[注釈 18]

大島一雄の次男永光と1944年に養子縁組をしたが、1947年夏、荷風の『ひとりごと』の草稿を大島の家族が無断で売却した争いがおこり、これが原因で離縁を弁護士に依頼したこともある[26]

作家活動としては、戦中書き溜めた作品のほか昭和二十年日記の一部を編集した『罹災日録』(『新生』19463-6月)などを相次いで発表し、戦時中控えていた旧作の再版などで注目を浴びた。このあと、いくつかの新作を出しているが佳作に富むとは言えない。『勲章』(『新生』19461月)、『踊子』(『展望』19461月)、『浮沈』(『中央公論』19461-6月)、『問はずがたり』(『展望』19467月)など[注釈 19]

1948年(69歳)、市川市菅野(現:東菅野二丁目)に家を買いようやく落ち着いた環境で生活できるようになる。そんな中で1950年、随筆集『葛飾土産』が出されている。荷風自身も心身ともに余裕ができ、背広に下駄履きで浅草や葛飾の旧跡を散策するようになる。1949年から翌年にかけて、浅草ロック座などで『渡り鳥いつ帰る』『春情鳩の街』などの荷風作の劇が上演され、荷風自身特別出演として舞台に立ち、楽屋では踊り子たちと談笑する姿が新聞に載るなど話題を集めている。

孤老の晩年とその死

1952

1952年、「温雅な詩情と高邁な文明批評と透徹した現実観照の三面が備わる多くの優れた創作を出した他江戸文学の研究、外国文学の移植に業績を上げ、わが国近代文学史上に独自の巨歩を印した」との理由で文化勲章を受章する。翌年日本芸術院会員に選ばれるなど名誉に包まれた。その一方では相変わらず浅草へ通い、フランスやアメリカの映画を繁く見ている。

創作活動は衰えてはいるが、それでもいくつかの短編が書かれたり、旧作の『あぢさゐ』が久保田万太郎の脚色で、新派の花柳章太郎により演じられるなど話題を集めた。1954年、恩師森鷗外の三十三回忌として、団子坂観潮楼跡に荷風揮毫による『沙羅の木』の碑文が建てられた。この時荷風は記念館造営のため五万円寄付している。

1957年(78歳)、八幡町四丁目(現:八幡三丁目)に転居、これが彼の終の棲家となる。

195931日、長年通い続けた浅草アリゾナで昼食中、「病魔歩行殆困難」(日乗)となる。その後は自宅に近い食堂大黒屋[注釈 20]で食事をとる以外は家に引きこもり、病気に苦しむ荷風を見かねた知人が医者を紹介しても全く取り合わなかったという[注釈 21]

430日朝、自宅で遺体で見付かった。通いの手伝い婦が血を吐いて倒れているのを見つけ、最後の食事は大黒屋のかつ丼で血の中に飯粒が混ざっていた。胃潰瘍に伴う吐血による心臓麻痺と診断された。傍らに置かれたボストンバッグには常に持ち歩いた土地の権利証、預金通帳、文化勲章など全財産があった。中身の通帳の額面は総額2334万円を超えており[注釈 22]、他に現金31万円余が入れられていた[32]

雑司ヶ谷霊園1173番の、父久一郎が設けた墓域に葬られた。なお、故人は吉原の遊女の投込み寺、荒川区南千住二丁目の浄閑寺を好んで訪れ、そこに葬られたいと記していた[33]宮尾しげをと住職とが発議し、森於菟野田宇太郎小田嶽夫らが実行委員となり、計42人の発起人によって、1963年(昭和38年)518日、遊女らの「新吉原総霊塔」と向かい合わせに、谷口吉郎設計の詩碑と筆塚が建立された。

その他

68歳の荷風(1947

  • 偏奇館の跡地は泉ガーデンの敷地の一角に存在していた。その開発により往時の地形すら留めていないが敷地の片隅に港区教育委員会によって「偏奇館跡」の碑が建てられている(当時の地形を現在に当て嵌めると、偏奇館は空中に浮いている形となる)。
  • 2004年、市川市の市制70周年式典で名誉市民の称号を贈られた[34]
  • 「著作権は『刊行会』が相続しては」との打診に、養子永光は同意しなかった。永光は、銀座でバー「徧喜舘」を経営していた。永光は、2012425日に肺がんのため死去した、享年は奇しくも荷風と同じ79歳であった。なお、荷風の作品の著作権は、201011日に切れている。
  • 枢密顧問官まで務めた叔父の阪本釤之助からは、生涯絶縁されたままだった。釤之助の庶子高見順が従弟と承知していたが、荷風はわざと敬遠した[35]
  • 詩人としての素質にも優れ、創作詩集『偏奇館吟草』を作ったり、俳句、漢詩も残している。
  • ロック座にて『春情鳩の街』を上演した縁で、女優桜むつ子とは交流があった。
  • ロック座の踊り子に気に入った女性がいるとかわいがった。時には楽屋で待ち受け、視線の送り方などのアドバイスをしたという[36]
  • 自らが経営する待合の押入れに小さな穴を開けて、連日やってくる客の行為を覗き見しており、しかも、覗いて特に満足した客には席料を負けてあげていたと噂された[37]
  • 文学的嗜好は、「江戸庶民文学に通じてこれを摂取するところはあったが、徳川期以前の国文学に対する関心は稀薄であった。蜀山の狂歌に興味はありはしても、万葉古今から私家集の和歌や『源氏物語』以来の古典の物語にも殆んど無関心であり、例外としては降って『平家物語』を愛読していたにとどまる[38]」ものであった。
  • 伝統回帰を主張した荷風であったが、その伝統や文化も江戸時代に留まるものであり、それ以前に遡る事はなく、古事記万葉集などの時代へ回帰するものではなかった[注釈 23]
  • 来客嫌いで、記者や編集者を門前払いにすることが多く、縋る者に対しては堂々と面前で居留守を使った。態度も決して怒らず、表面上は丁寧に接しながら、相手の気持ちが萎えるテクニックを駆使したという[41]
  • 晩年の食事は外食が主だったが、自宅の庭先で七輪に土鍋をかけて雑炊などを作ることもあったという[42]

家族・親族

永井家

右より壮吉、母恆、父久一郎、弟威三郎、貞二郎
1902 - 1903年頃、余丁町永井邸にて)

永井家[46]の祖は、天正12年(1584)の長久手の戦いに武功を挙げた戦国武将永井直勝である。鈴木成元『永井直勝』によると、直勝は、長田氏を名のり、徳川家康の嫡男松平信康に仕えたが、信康自刃後に家康に仕えることとなり、その命によって「長田を改めて大江氏となり、家号を永井というようになった」という。この大江永井氏の始祖が、直勝の庶子久右衛門正直である。

弟・永井威三郎の『風樹の年輪』(俳句研究社、1968年)で、永井家の系譜を詳細に調べているが、それによると、「慶長十二年丁未(一六〇七)尾張国星崎荘大江永井家の始祖正直は、年廿三歳で牛毛荒井村に居を構えて一家を創立した。早くは知多郡板山村外で育ち、慶長の初めに愛知郡星崎荘本地村に移り、数年の後にこの地に移った」とある。正直は製塩業によって成功し、「巨利を得た」という[47]

右より威三郎、貞二郎、久一郎荷風
19029月、大久保余丁町永井邸にて)

荷風の一族からは、作家高見順、第1回衆議院議員永井松右衛門12世)、外交官・ロンドン海軍軍縮会議全権永井松三13世)、台湾総督府民政長官・神奈川県知事大島久満次(荷風の叔父)、福井県知事・名古屋市長・枢密顧問官の阪本釤之助、童謡歌手小鳩くるみなどの名士も出している[48]

注釈

1.   ^ 漢字の「荷」には、植物のハスの意味もある。

2.   ^ 「會社にしろ官省にしろ將来ずつと上の方へ行くには肩書がなければ不可(いか)ん」という父久一郎は「貴様見たやうな怠惰者(なまけもの)は駄目だ、もう學問なぞはよしてしまえ」と叫んだという[3]

3.   ^亜米利加に来たりてより余が脳裏には芸術上の革命漸く起らんとしつつある如し……身海外に在るが故にや近頃は何となく雅致に富める古文の味忘れがたく行李を開きて平家物語栄華物語なぞ取出し独り炉辺に坐して夜半に至る[6]

4.   ^ 『永井荷風 人と作品4385-86頁によると「父の一周忌が過ぎた頃、八重次との結婚を従兄永井松三に相談したが同意を得られず、これがもとで松三との間が気まずくなった。19165月には末弟の威三郎が東京のある工学博士鷲津毅堂の三女誉津と結婚したが、この結婚には荷風と戸籍とすること、新居を構へること、結婚式當日荷風を参列させぬことなどの条件付だった(『荷風外傳』による)。ために荷風は威三郎の結婚以後、次弟貞二郎を別として威三郎をはじめ親類縁者との交際も絶った」という。

5.   ^吾々はかのアングロサクソン人種が齎した散文的實利的な文明に基づいて、没趣味なる薩長人の経営した明治の新時代に對して、幾度年間、時勢の變遷と稱する餘儀ない事情を繰返し繰返し嘆いて居なければならぬであらう。……理想の目標を遠い過去に求める必要がありはせまいか[11]。浪士上りの官吏軍人は直ちに都會の樂事に誘はれ、上下挙っていかに肉樂の追究に馳せしかを知るに足るべし。……幕府を滅ぼせしものは實に西洋なりき、西洋なかりせば薩長の狡智も虚に乗ずる事能はざりしや明なり。明治に至って猶餘命を保ちし江戸趣味も亦同じく西洋文化の為に破壊し盡されぬ。日露戦争後の日本文明は、西洋文明の輸入若しくは模倣と云はんよりも、こは寧毀損或は粗雑な贋造と云ふべく。……われは寧ろ一日も早く固有なる東京趣味の成立せん事を欲して止まざるものなり[12]

6.   ^新しき國民音楽未だ起らず、新しき國民美術猶出でず、唯だ一時的なる模倣と試作の濫出を見るの時代……余は徒らに唯多くの疑問を有するのみ。ピアノは果して日本的固有の感情を奏するに適すべきや。油畫と大理石とは果して日本特有なる造形美を紹介すべき唯一の道たりや[13]

7.   ^

大正六年

九月十六日 秋雨

連日さながら梅雨の如し

夜壁上の書幅を挂け替ふ[16]

8.   ^ 近所には俳優山形勲の父親が建てた本格的洋風ホテルがあり、正装して食事に訪れる姿を小学生だった勲が見ている(山形勲#来歴)。 川本三郎『荷風と東京-「断腸亭日乗」私註』「十 山形ホテル」 (勲へのインタビューあり)

9.   ^

大正八年

正月元旦

曇りて寒き日なり

九時頃目覚めて床の内にて一碗のシヨコラを啜り一片のクロワツサンを食し昨夜読残の『疑雨集』をよむ[17]

10.                   ^

昭和十九年

十二月初三 快晴 日曜日

老眼鏡のかけかへ一ッくらい用意し置かむと思ひて昼飯して後外出の支度する時警報発せられ砲声殷殷たり

空しく家に留る

晡下警報解除となる

今日は余が六十六回目の誕生日なり

この夏より漁色の楽しみ尽きたれば徒に長命を歎ずるのみ

唯この二、三年来かきつづりし小説の草稿と大正六年以来の日誌二十余巻だけは世に残したしと手鞄に入れて枕頭に置くも思へば笑ふべき事なるべし

夜半月佳し[18]

11.                   ^

昭和十一年

二月廿六日

朝九時頃より灰の如きこまかき雪降り来り見る見る中に積り行くなり

ラヂオの放送も中止せらるべしと報ず

余が家のほとりは唯降りしきる雪に埋れ平日よりも物音なく豆腐屋のラツパの声のみ物哀れに聞ゆるのみ

市中騒擾の光景を見に行きたくは思へど降雪と寒気とを恐れ門を出でず

風呂焚きて浴す[19]

12.                   ^

昭和十五年

八月初一

正午銀座に至り銀座食堂に飯す

南京米にじやが芋をまぜたる飯を出す

此日街頭にはぜいたくは敵だと書きし立札を出し愛国婦人連辻々に立ちて通行人に触書をわたす噂ありたれば其有様を見んと用事を兼ねて家を出でしなり

今日の東京に果して奢侈贅沢と称するに足るべきものありや

笑ふべきなり[20]

13.                   ^

昭和二十年

三月九日 天気快晴

夜半空襲あり

翌暁四時わが偏奇館焼亡す

余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり鄰人の叫ぶ声のたゞならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出たり

近づきて家屋の焼け倒るゝを見定ること能はず

唯火焰の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ

是偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり[21]

14.                   ^

昭和二十年

三月十日

ああ余は着のみ着のまま家も蔵書もなき身とはなれるなり[22]

15.                   ^

昭和二十年

八月十三日

谷崎氏を勝山に訪はむとて未明に起き、明星の光を仰ぎ見つゝ暗き道を岡山驛の停車場に至る

……

午後一時半勝山に着し直に谷崎君の寓舎を訪ふ

驛の停車場を去ること僅に三四町ばかりなり 戦前は酒樓なりしと云

谷崎氏は離れ屋の二階二間を書斎となし階下に親戚の家族多く避難し頗雜沓の様子なり

細君に紹介せらる 年紀三十四五歟 痩立の美人にて愛嬌に富めり 佃煮むすびを恵まる

一浴して後谷崎君に導かれ三軒程先なる赤岩といふ旅館に至る[24]

16.                   ^

昭和二十年

八月十四日

燈刻谷崎氏方より使の人釆り津山の町より牛肉を買ひたればすぐにお出ありたしと言ふ

急ぎ小野旅館に至るに日本酒もまたあたゝめられたり

細君下戸ならず 談話頗興あり[25]

814日の夜、谷崎が牛肉を準備し、宿泊していた赤岩旅館で牛鍋を食べた[26]

17.                   ^

昭和二十年

八月十五日 陰りて風凉し

宿屋の朝飯 雞卵 玉葱味噌汁 はや つけ焼 茄子香の物なり

これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり

飯後谷崎君の寓舎に至る

鉄道乗車券は谷崎君の手にて既に訳もなく購ひ置かれたるを見る

雑談する中汽車の時刻迫り来る

再会を約し送られて共に裏道を歩み停車場に至り午前十一時二十分発の車に乗る

新見駅にて乗替をなし 出発の際谷崎君夫人より贈られし弁当を食す

白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり

欣喜措く能はず[27]

18.                   ^

昭和二十年

八月二十日 晴

午後突然轣轆たる車聲の近巷に起るをきく。怪しみて人に問ふに妙林寺の後丘松林深き處に洞窟あり。飛行機材料を隠匿せしが、武装解除となりし爲、日日これを岡山驛停車場に運搬するなり。之に依つて初て七月中旬機銃掃射の近巷に行はれし所以を知れり。予は萬死の中に一生を得たりしなり。

薄暮後丘に怪鳥の鳴くを聞く。梟に似て梟にあらず。何の鳥なるを知らず。

旅に出て きく鳥やみな 閑古鳥荷風[28]

19.                   ^

昭和二十二年

五月初三 雨

米人の作りし日本新憲法今日より実施の由

笑う可し[29]

20.                   ^ 店名は「大黒」であるが、永井は「大黒」と繰り返し記している。大黒家では永井が毎回食していた並カツ丼、上新香、酒1合(菊正宗)を「荷風セット」として販売していたが、20176月を以って閉店した。現在は店内はほぼ末期のままで、建物の所有者である市進ホールディングスが運営する「大人の学び舎大黒家」として屋号を残している。なお浅草にも大黒家天麩羅があるが、荷風が通いつめて天ぷらソバやかしわ南蛮を食していたのは蕎麦処尾張屋のほう。

21.                   ^

昭和三十四年

三月十五日 日曜日 晴

正午 大黒屋食

三月十六日 晴

正午 大黒屋

三月十七日 雨又陰

正午 大黒屋

三月十八日 晴

正午 大黒屋食

三月十九日 晴

正午 大黒屋

(……)

四月廿九日 祭日 陰[30]

22.                   ^ 現在の貨幣価値で、約3億円に相当する[31]

23.                   ^ 吉田精一は、「荷風が我が文壇に『郷土芸術』として送つたものは、田園の生活ではなく、ましてそこに生きる理想と信仰と宗教と道徳ではなかつた。『生れた過去の東京を再現させようと思つて、人物と背景とを隅田川の両岸に配した』(正宗谷崎両君の批評に答ふ)結果は、ただ過去と伝統につながる江戸生活の、敗残零落した姿と、そこに傷つき蠢めいてゐる、うす暗い、やがては時代の波に押し流されて行くべき生活となつた」と見ており[39]、秋庭太郎は、「荷風が京都を愛したのは、その歴史的背景よりも京都の風景と生活とに触れて、その日本的につくられた文化を好ましく感覚的に芸術的に愛したのであつて……京都から遠くもない奈良には一度も出向いてゐない。こゝにおいても既説の如く歴史宗教に対する無頓着さが窺はれる」と指摘している[40]

 

コメント

このブログの人気の投稿

本当は恐ろしい万葉集  小林惠子  2012.12.17.

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

小津安二郎  平山周吉  2024.5.10.