松本清張と水上勉 藤井淑禎 2025.12.23.
2025.12.23. 松本清張と水上勉
著者 藤井淑禎 1950年生まれ。立教大学名誉教授。立教大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。専門は近現代日本文学・文化。著書『「東京文学散歩」を歩く』(ちくま新書)、『乱歩とモダン東京』(筑摩選書)、『純愛の精神誌』(新潮選書)、『清張 闘う作家』(ミネルヴァ書房)、『漱石文学全注釈――こころ』(若草書房)、『名作がくれた勇気』(平凡社)など
発行日 2025.9.15. 初版第1刷発行
発行所 筑摩書房 (筑摩選書)
序 章 清張と勉――その軌跡
l 実は似た者同士?
対照的な作家とされるが、風貌や、本業の文学でも松本はノンフィクションや歴史評論、水上は自らの分身を主人公にした私小説や自らを固くした人物の評伝など、対照的な作家人生を歩んだものの、好一対にも見える。共通する最大のものは色々なジャンルに手を出す雑食性。作家以前の水上が「31の職業を持つ男」と呼ばれたのに対し、松本も15歳から様々な職業を転々とする。文学の方でも、松本は『点と線』(‘58)の前にいろんなジャンルの小説を書きまくり、ミステリー界ではトリック重視の本格派の領袖である乱歩を貶め、純文学では川端の『伊豆の踊子』に『天城越え』(‘59)という刺客を差し向け、新進気鋭の評論家江藤淳を『砂の器』(‘61)で犯人のモデルに仕立てるなど好き勝手に振舞う
l 雑食の果てに――社会派推理小説の時代の終焉
ミステリーの出世作『点と線』の中に早くも、ノンフィクションの『日本の黒い霧』(‘60)の予兆が見られるが、小説かノンフィクションかの岐路に立たされ、徐々に後者に軸足
水上は貧乏暮らしを告白した私小説『フライパンの歌』(‘48)が脚光を浴びて、私小説家のレッテルが貼られるが、『点と線』の影響で社会派推理小説『霧と影』(‘59)を書き、以後5年ほどは推理小説家として活躍
l 様々なジャンルへの飽くなき挑戦――文学・言葉を超えて
その後も両者の雑食性は続き、清張は『昭和史発掘』(‘64~)から歴史評論、歴史研究にも進出。水上も寂れゆく辺境のルポなどに新境地を切り開き、一休や良寛などの高僧評伝へと発展。両者の旺盛な挑戦の背後にあるのは、どん欲なまでの雑食性
晩年の清張は、大衆的支持を受けたマルチナ国民的文化人とでもいうべき巨大な存在となるが、水上もまた自然の中で自給自足に近い生活を送りながら、文学や言葉よりも貴い人間存在の根源的な在りようがあることに気付かされる
第1章 文壇作家時代の松本清張
l 「探偵作家」から見た「文壇作家」
「文壇作家」というのは、乱歩が自分たち「探偵作家」以外の者を区別して呼んだ呼称
乱歩は、多くの一般の作家が「探偵小説」を書くのを好ましく思い、社会性ある推理小説の創始者として清張を評価し、『顔』(‘57)に探偵作家クラブ賞を授与
l 「文壇作家」時代の清張――「推理小説」と「現代小説」
清張が「文壇作家」だったのは、『点と線』を書くまでで、デビュー作『西郷札(さいごうさつ)』(‘51)から6年間。その間に書いたのは「歴史・時代小説」「現代小説」「推理小説」
l デビュー作『西郷札』は「大衆小説」なのか
『西郷札』は、『週刊朝日』の懸賞募集に応募したもの、清張自らも大衆文学を目指した
l 仕掛けとしての秘密・隠蔽
百科事典で目にした「西郷札」の項目に、「西南戦争後に札の補償を求めたが容れられず破産が続出」との記述があったのに目を付け、西郷札を買い占めて一儲けを企む闇商人的な人間を配したら面白いとの発想から書かれた小説で、いわゆる「額縁小説」。読者に対して、秘密や隠蔽を仕掛けつつ話を進め、ラスト近くで探偵的な人物によって謎解きされる
l 推理小説への意識の高まり――「誤読」をきっかけに
清張は大衆小説として書きながら、推理小説も意識し、推理小説の大御所木々高太郎に献呈。木々からは、「この種のもの」を書くことを勧められたが、清張は推理小説を意味する「本格物」と誤読して、すぐに推理小説の新作『記憶』を送るが、木々は純文学系の『三田文学』に載せたために、清張は戸惑う
l さ迷い続けた「文壇作家」時代――「多芸は無芸」(?)の6年間
清張は『三田文学』に合わせた純文学系の小説『或る「小倉日記」伝』を書き、芥川賞に('53)
同時に、デビュー作で歴史ネタを扱ったことから、時代小説系の大衆小説も多くこなした
当時の清張はまだ、自分の文体というものを持っていなかった。『西郷札』が直木賞候補だったため、同様に次も直木賞候補とされたが芥川賞の選考に廻され受賞に至ったという前代未聞の珍事も、清張がいくつもの顔を持つ作家であったことから引き起こされた「事件」
第2章 初期水上勉は私小説家だったのか
l 生活年譜としての『フライパンの歌』(‘48)
水上は、初期には私小説家で、いっとき推理小説に靡いたものの、結局は私小説に戻っていったというのが通説。『フライパンの歌』には文学の師である宇野浩二が序文を書き、昭和の貧乏物語というキャッチフレーズで華々しく売り出したが、稀代の読み巧者十返肇はこの作者はこれ一作で消えたと酷評
私小説の3要素は、①作者の分身が主要人物として登場、②作者自身の体験が活かされている、③作者ゆかりの場所が出て来る
l 私小説の3要素――分身・体験・場所
私小説のレベルを遥かに超えて、詳細な生活年譜と見做してもよいほどに3要素がふんだんに活かされている
l 意外と少ない「私小説」
同時に書いた短編集『風部落』(‘48)の8作などを読むと、純粋私小説は2作のみ
l 「私小説」のまわりを取り巻く小説群
私小説以外の様々なタイプの小説群を見ると、肯定的にいえば多芸多才だが、否定的に捉えれば、自らのテーマや方法を探しあぐねていたが、10年後に推理作家としてカムバック
十返も、私小説家から社会派推理小説家への転向という図式を提唱し、批評家としての不明を恥じているし、伊藤整も、『フライパンの歌』を「分身ものミステリー」と呼んで、当初から推理小説の要素があったことを認める
第3章 清張の乱歩批判
l 清張と乱歩の「未完の対決」
両者は10年前後は活動期間が重なり、しばしば仕事を共にしている。『推理小説作法』(‘59)は共同編集。2人が本格的に対決したことはなかった
清張は『点と線』の刊行前後から推理小説論などを精力的に発表し始め、世の中に浸透し圧倒的な支持を受ける
l 清張の推理小説論――「本格派」は「児戯的」である
純文学や大衆文学・中間小説の不振の原因を、女性中心の読者の推理小説かぶれにあると指摘、トリックを主にした「本格派」探偵小説があまりに奇想天外化し現実離れが進み、必然的に「児戯的」、通俗的になった結果だとする。清張は、その傾向を乱歩に代表させ、完膚なきまでに否定
l 清張による戦略的な乱歩否定
以前の推理小説をすべて「本格派」と呼んで全否定し、トリックから動機へ、人間描写へ、それも「社会性」の加わった動機が軸となるべきと主張し、探偵作家一般の作風のマンネリズムを批判、本格派対社会派の対立という構図を生み出す
l 清張の野心と肯定のノイズ
乱歩は、清張らを「文壇作家」として遇したが、世間では清張を、乱歩に代表される「本格派」に対抗し、それを凌駕する社会派の「推理作家」という見方が定着。乱歩を封じ込め、蹴落とし、推理小説界のヘゲモニーを握ろうとする清張の野心が垣間見られる
第4章 『天城越え』は『伊豆の踊子』をどう超えたか
l 仮想敵としての『伊豆の踊子』
清張がアンチ純文学として自らの文学を打ち立てていったとすれば、清張が純文学をどう見ていたかが注目される
私小説の特徴としてよく言われるのは、主人公が作者の分身であるために作者が知的階層出身だとその制約を受け、描かれる世界や考え方、価値観なども、その階層特有のものとなってしまう。そうした知的階層特有の考え方や価値観に付きまといがちな高踏性、独善性、さらには傲慢さや差別意識といったものへの批判も、清張作品の得意とするところ
その代表的な作品が『天城越え』(‘59)で、仮想敵は川端康成の『伊豆の踊子』
冒頭から川端を引用した上で、いかに「違う」かを1つ1つ明らかにしていく
l 『天城越え』を貫く反『伊豆の踊子』意識
l オーバーラップする2つの作品
l 2人の「私」と差別意識
『伊豆の踊子』の主人公はエリートで一高生の私、天城を越えて秘境=桃源郷に入る。一方、『天城越え』の主人公は鍛冶屋の三男坊で、現実の生活の場である下田から北へ天城を脱出する。対照的な2人は、出会った人々との関係も対照的なもので、『伊豆の踊子』では一高生や庶民たちの間に無意識的な差別感情があったが、『天城越え』では主人公が修善寺方面から来た女を自分と対等な1人の女性としてその魅力の虜となっていく
l 差別とは無縁な「私」の感情
『伊豆の踊子』では、すねかじりに過ぎない私が下層の無力な女性を金銭で自由にするという高慢で歪んだ欲望の形を焙り出すが、『天城越え』では私の女に対する感情が、差別からも邪心からも自由で純粋なものであり、私が土工を殺したのも、浮浪者いじめ的な差別意識とは無縁で、ただ純粋に「自分の女が土工に奪われそうな気になった」からだとし、少なくとも後世の目から見た時には間違いなく差別の文学としての『伊豆の踊子』に対する強烈な批判ともなり得ていた
l 「私」の人生航路――アンチ純文学の闘いの果てに
『天城越え』が書かれた'59年前後は、文豪川端の絶頂期。その代表作の1ページごとに不審紙を貼り、ありとあらゆる記述・設定をひっくり返すような形で『天城越え』という作品を構想し、執筆していった清張の気概には目を見張らせるものがある。「批判的」のレベルすら越えて、もはや「戦闘的」とか「挑戦的」とか評するほかないような域にまで入り込んでいた。これからほどなくして純文学論争が始まるが、非純文学系の作家たちが純文学という砂上の楼閣に立て籠っていた作家たちに対し猛然と攻勢に転じたことが重要で、文学のあり方を巡っての根底的な問題提起がそこにはあった
第5章 清張の江藤淳批判
l 「ヌーボー・グループ」と「若い日本の会」
『砂の器』に登場し、怪しげな動きをして読者を幻惑する「ヌーボー・グループ」が、当時日米安保改定を阻止すべく、江藤淳、石原慎太郎、大江健三郎、武満徹、浅利慶太らの若い芸術家たちが結集した「若い日本の会」を想起して書かれているのは明白
清張の筆致は、一貫して彼等に冷淡で無関心
l 関川のモデルは江藤淳?
作曲家和賀のモデルは武満で、最後まで有力な容疑者とされた評論家関川のモデルは江藤。グループ全体が悪印象を与えるように造形されるなか、最も悪く書かれているのが関川
l 「文化人」への嫌悪感と江藤淳批判
小説の中では、清張がグループやそのメンバーを快く思っていなかったのは明らかだが、執筆後のことだが、清張はしばしば江藤に嚙みついた前科がある
『文學界』の「文芸時評」欄で清張は、『文壇小説の陥没』('65)を書いて江藤淳の近世文芸評論の歴史考証の曖昧さを指摘。聖堂が湯島に移る前の上野忍ケ岡にあったころの描写が実態とかけ離れていることを例証付きで批判。何を若輩者(江藤は清張の23歳下)がわかったようなことをというような気持ちだったに違いないし、「高踏的評論」と見做し、若さや、そこから来る未熟さ、世間知らずぶりへの冷笑的態度は、『砂の器』の記述に共通する
l 江藤への執拗な論難と三田村鳶魚(えんぎょ)
江藤は連載途中を理由に「運転中の運転士には話しかけないのが原則」と反駁し、清張は「資料関係についての疑問はそれに当たらない」と反論。江藤にしては珍しく、この長編評論を長い間本にしなかったが、20年後に刊行した際には、内容にほとんど手を付けていない
清張はこの1,2年後にも古典絡みの苦言を呈す。ある新鋭評論家が、『風姿花伝』に25,6歳のころに「時分の花」を咲かせなければ32,3歳で名人と言われるようにはならない、と言って若い作家を叱咤していたが、その解釈も変だが、能役者と作家の修行を一緒にするのはおかしい、子供のころから小説を書き始めなければならなくなる、引用の適否を誤ると、説得力が台無しになる、と名前は伏せてあるが、批判の対象は歴然
清張は翌月号にも江藤批判を続け、江戸文学研究者で考証家の三田村鳶魚が、昭和10年代の時代物作家を総なめにして考証的にこき下ろしたが、あえてその顰に倣ったと述懐
l 揺るがぬ文壇・純文学批判
江藤が批判されたのは、彼が純文学を代表するエリート評論家であったからではないか
純文学雑誌に載る小説の低調ぶりを槍玉に挙げ、読者より批評家を意識して書き、間違って褒められると増長し、やがて自滅することが多い。小説の価値が発表舞台に左右されている。対文壇演技の代表として高見順を挙げ、意識過剰を批判。文芸雑誌に書く作家は、何を書いているのか分からずに手探りしているような陥没状況に見えるというのが結論
それほどまでに、清張の純文学に対する批判姿勢は徹底したもの
第6章 映画「砂の器」は小説をどう補修したか
l 小説『砂の器』の構造的欠陥
映画が小説の刊行から13年経って製作・公開されたのは、特に清張作品では特異な例
映画化に当たっては、「ライ病」の扱いの難しさや複雑な人間関係が映画向きでなかったこともあるが、今西刑事が犯人像を絞る思考の根拠が示されていないという欠陥があった
l 今西の推理過程――東北地方へのこだわり
捜査の手掛かりは東北弁と「カメダ」という言葉で、今西が関川に関心を持つ前に、出雲地方で東北弁に似たズーズー弁が話され、「カメダケ」という場所もあることが書かれ、東北弁=出雲弁と見做してよいのだが、今西が関川の本籍地を気にするなど、東北地方へのこだわりがあり、それが綻びの一種であるといってもいい
l 紙吹雪の女
関川の愛人が今西の近くに引っ越してくる。同じ頃、被害者の返り血を浴びたシャツを紙吹雪にして列車から撒いた女が自殺するが、今西は驚くだけ
l 情報不足による今西の推理の遅れ
自殺の時点で読者には女が和賀の情婦であることが示唆されているが、今西はその根拠となる情報を知らないまま、さらに推理過程不明のまま関川真犯人説を唱える
l 根拠不足という「致命的な綻び」
『砂の器』には、「ふと、」とか「カン」とかで話を展開ないしは進展させようとする箇所が多過ぎる。話の飛躍が多いのはミステリーとしては致命的な綻び
l 唐突な和賀の浮上への「釈明」
関川も和賀も容疑者として今西の頭に唐突に浮かび上がる
l 純文学派への闘争心ゆえの小説の構造的破綻
映画では、複雑な人間関係を一部簡略化し、推理過程も理路整然と整理し直されている
清張の綻びの背景として考えられるのは、今をときめく若手文化人グループをモデルとしたヌーボー・グループの敵視、グループの中心人物である江藤をモデルとした関川に対するいわれなき犯人扱い、その背後にある純文学派に対する熾烈な闘争心の勢いの余りの暴走が、作品にとっては致命的ないくつかの綻びを産んでしまった
第7章 『点と線』から『日本の黒い霧』へ
l ひとつの起点としての『点と線』
清張が社会派推理小説にかかりっきりだったのは3年ほどで、『日本の黒い霧』('60)を皮切りにすぐにノンフィクション時代が始まる
『点と線』は、トリックと社会的事件(官界汚職)の2本柱で、徐々に前者が後者を圧倒
l トリック過剰への反省から生まれた『ある小官僚の抹殺』
『点と線』は、社会的事件をテーマにしていながら、謎解きにウェイトが掛かったことについては清張自身も反省し、すぐに正反対の『ある小官僚の抹殺』(‘58)を発表。題材となった砂糖疑獄事件の事実だけを列挙していく、後のノンフィクションかと見まがうばかりの書き方をしている
l ノンフィクションと小説との分岐点
『ある小官僚の抹殺』も、後半部分は探偵型人物の登場で小説そのものに変身
l 『小説帝銀事件』における諸問題の改善
さらに改良を加えたのが『小説帝銀事件』で、探偵役が冒頭から登場するが、まだ小説を引き摺っている
l 「小説」として書くつもりだった『日本の黒い霧』
清張は、社会の機構によって個人が疎外され、お互いが孤絶した現代という複雑な状況下にあっては「推理小説的な手法を用いることによって、初めて、本当の意味での無気味さ、恐ろしさが描かれる」と考え、こうした方法で「現代を、そして現代に生きる人間」を描こうとして、『ある小官僚の抹殺』や『小説帝銀事件』を小説の形で書いたと述懐
その延長線上で下山事件を扱った『日本の黒い霧』も自分が小説家であるという立場を考え、「小説」として書くつもりだったが、フィクションを入れると客観的な事実が混同されて真実が弱められるため、社会問題の真実を追及し、その歪みを告発することはできない
l 「史眼」をもった文学への確信
調べた材料をそのままナマに並べ、この資料の上に立って自分の考え方を述べた方が、小説などの形式より遥かに読者に強烈な印象を与えると思い、文学の形式には拘らず
自分なりの判断で資料を客観的に解釈しており、「史家の方法を踏襲」したものと自負
l 「私」とはすなわち清張その人である
作中頻繁に登場する「私」は、清張その人で、探偵という傀儡を登場させて考えを述べさせるのに代わって、自らが推理の主体となって登場
l 渦中でもがく人間を描くには――推理小説的手法への回帰
ノンフィクションによって社会状況に迫る方法を確立する一方で、渦中でもがく人間を描くためには小説という手段こそが有効だと改めて思い至る。事件に関わった人たちの内面に肉薄できるのは、小説の形式だからこそ
第8章 推理小説家時代の水上勉
l 清張が依拠した方法論――木村毅『小説研究十六講』
水上がデビュー作から10年ほどブランクの後、清張の『点と線』に刺激されて社会派推理小説の『霧と影』('59)で復活したというのが定説だが、水上の推理小説には社会派とそれ以外の2系列があり、どちらも清張の影響を受けている
清張文学の革新的意義は、一ジャンルとしてのミステリーの枠内にとどまらず、日本型私小説への批判と克服にこそあり、水上文学にもその影響・継承関係がみられる
清張が依拠したのが木村毅の『小説研究十六講』(1925)。小説を解剖し、整理し、理論づけ、創作の方法や文章論を尽くした本。清張は、必要なのは小説作法の技術的展開で、小説の根幹ともいうべき構成・構造を重視し、構造的な客観小説を志向する。だからこそ、主観に胡坐をかいた日本型私小説が許せなかった
構成力の獲得によって体験や事実依存の体質を克服することと並んで重要なのが、日本型私小説・心境小説に固有の一元的性格(作中人物が作者の分身になっていること)の打破であり、それに深く関わるのが、視点を巡る技法(複数の視点から物語を進める)
l 『霧と影』の分身たち
清張文学の最大の特徴である一元制の克服の面では、分身と思われる作中人物は3人いて、それぞれに自らを仮託しつつ、全体として事件を追う新聞記者小宮という第3者の目による客観化の工程を経ているようでありながらも、その実、宇田という濃厚な分身への求心化=一元化の可能性を抱え込んだ作品であり、清張文学とは相容れない可能性を孕む
l 客観化と「濃厚な分身」の狭間で
水上の客観化の体裁と分身の投入という、いわば背中合わせの逆向きの2つのベクトルによって引き裂かれでもするかのような独特な構造は、その後の作品でも不変
本来、客観小説の範疇に入るべきミステリーを、分身性の挿入によって独特な形に捻じ曲げていたところに水上ミステリーの特徴があったが、『越前竹人形』(‘63)からは一元化傾向が浮上して客観小説的枠組みが崩壊し、形骸化して行く。清張との訣別である
l 社会的事件への鋭いまなざし
水上には分身ものミステリーと同時に、客観小説を嚆矢とする『巣の絵』などのもう1つの系列があり、こちらは清張ミステリーと連携する社会派推理小説の本流だった
同じ社会派の旗手でも、社会的動機を重視し社会の中の人間に注目した清張に対し、社会的背景を重視し社会的事件に拘った水上など、様々な違いがある。大小さまざまな社会的事件を取り上げたという意味では、より社会派らしかったのは水上
l 『海の牙』から『飢餓海峡』へ
水俣病を取り上げた『海の牙』は、社会問題に絡めた殺人事件を扱うミステリーとしての完結に7割、水俣病告発に3割を使って、当初の『不知火海沿岸』を2倍半ほどに増補した作品で、完成度は圧倒的。社会的事件重視のこの系列の双璧が『飢餓海峡』(‘63)
l アンチ私小説・社会的事件重視の系列の終焉
『飢餓海峡』の後半部分は、急転直下、分身を主人公とする私小説的雰囲気をまとった出郷小説のような趣きを呈し始める。社会派の旗手としての水上の探偵小説の終焉
第9章 日本型私小説を究める――その後の水上勉
l 推理小説から「日本型」私小説へ
「日本型」というのは、都会よりは寒村、現代よりは過去、ハイカラな人物よりは古風な人物、裕福よりは貧困、等が登場することの多い私小説との意
短編集『寺泊』('77)で川端康成文学賞を受賞して以降、水上=私小説家が定着したとされるが、その間の15年は、分身・体験・場所という私小説の3要素を自らの過去から切り取りながら、多岐にわたる内容を小説化している
l 母、そして修行時代
多いのは、母を始めとする肉親たち、次いで京都の寺での修行時代を書いたもの
l 女性たちへの追慕
次いで多いのが、様々な時期に関わりを持った女性たちを追慕した作品。『わが風車』など
l 『寺泊』――「いろんな時期の、いろんな人間関係の、いろんな話」
『寺泊』は、様々な話を織り込んだ水上の日本型私小説の到達点。個々の作品の完成度も高いが、いくつもの短篇を集めた作品集全体としての密度も濃い
l 様々な試みに投影される〈わたくし〉
私小説への道を歩き始めたのは『枯野の人・宇野浩二』(‘61)。直前に死去した師との交流史の形を借りた、最も困難な時代の水上自身の奮戦記=私小説
l 第一私小説集としての『雁帰る』(‘67)
'63年からは作品集刊行。『枯野の人』『雁帰る』などで、随筆集ともとれる
l 私小説から派生した2つの流れ――ルポルタージュと評伝
私小説を極める過程で派生したのがルポルタージュと評伝
日本各地の辺境を旅する『日本底辺紀行』(‘65)は、故郷若狭近辺の13カ所を訪問した紀行文で、水上が望郷の思いに導かれたもの
滅びゆく各地の伝統工芸の匠を訪ねる『失われゆくものの記』(‘69)も、宮大工の父へのオマージュ
『一休』や『良寛』の評伝も、高僧たちの人生を借りて水上が自画像を描いたようなもの
l 主役へと躍り出た評伝の営み
『良寛』では、放浪の旅からの帰郷とその生涯の閉じ方の模索とが、そのまま水上の問題意識と重なる。一度は捨てた故郷に帰ってきた良寛と故郷に留まって没落した家を守り続けた弟との間に広がる溝、文芸に憂き身をやつす良寛と日々の生活にあえぐ農民たちとの溝、いずれも水上自身が抱える問題であり、それに私小説で取り組む一方で、他方では良寛に仮託して評伝という形でも取り組んでいた
『一休』は、『一休和尚行実譜』という偽書を仮構しているので厳密には評伝ではない。一休と作者を結び付けているのは、父に見捨てられた母と子の嘆き、父への愛憎半ばした思い、ひいては女性の立場を顧みない男性の一方的な態度への恨みつらみなどの共通点で、権力追随の教団仏教に背を向けひたすら庶民と向かい合ったその姿勢と、性の問題から目を背けず心の命ずるままに女性たちを愛し、晩年には盲女と添い遂げた僧侶としての破格の生き方とが、傾倒の大きな理由
私小説を極める過程で派生した評伝の試みは、後に『金閣炎上』(‘79)で大きく開花し、さらに晩年の最高傑作評伝『才市』(‘89)へと引き継がれ、主役へと躍り出る
第10章 国民的文化人・松本清張――『読書世論調査』の結果から
l 巨大な文化人的存在として
社会派推理小説から戦後はノンフィクション・昭和史ノンフィクションを経て古代史研究へ。そのあたりまでが文学者の活動で、それに対して贈られたのが菊池寛賞('70)で、それ以後は政治的関与もあって国民的文化人の時代といえる
l 『読書世論調査』における清張
'99年の毎日新聞による第53回読書世論調査に、「20世紀の心に残った作家」の5名連記で、1位が司馬遼太郎の216票(1548人中、清張(181)、漱石(155)と続く
1949年以降の調査では、漱石、吉川英治、志賀、谷崎といった大家が上位だったが、’73年の石油ショックを機にこの2人以外は名が上がらず、代わって清張や司馬が出てきた
清張がランキングに登場するのは’58年の28位で、『点と線』で人気沸騰
l 本の売れ行きとの関係
同書は売れ行きでも、『人間の条件』は別格として、『氷壁』の1/2にまで肉薄。特に、清張が女性誌に進出、女性の側から身勝手な男性を糾弾するストーリーを連発したことで女性ファンの増加が際立つ
l 「好きな著者」ランキングの推移
‘61年には2位に急上昇(女性でも3位)。’76年以降は没年までベスト3の常連
戦後の読書の現場では、戦前の漱石と吉川、戦後の清張と司馬の4人の存在感が圧倒的
l なぜ「よいと思った本は」の順位が低いのか
「よいと思った本は」のランキング登場は、’58年の『点と線』の12位が最初。多数の作品が上がるのは’62年まで。以降は散見されるのみで、上記4人の内でも結果は不芳
l 1961年以降の大きな断層
「よいと思った本」と見做されたのは、『点と線』と『砂の器』などで一時期そう見做されたに過ぎない
l 旧作の根強い人気と小説以外の分野への進出
'61~'62年を境に、旧作=名作としての2作を買う傾向がみられる。その原因として考えられるのは、小説以外のノンフィクションや歴史ものへの進出であり、政治的発言もすれば、テレビの特集番組にも頻繁に登場する国民的文化人としての清張になったからだろう
第11章 言葉を超えた世界へ・水上勉――『才市(さいち)』の奇跡
l 才市の生き方への強い共感
真宗門徒の妙好人(読み書きもままならぬ庶民の中に隠れ住む、信仰振りの美しい信徒)浅原才市(1850~1932)の評伝を水上が書いたのは’89年。直後に心筋梗塞を発症した水上にとって、奇跡的に生まれた作品。20年も前に関心を持ち、生まれた土地から一歩も逃げない生き方、その生きざまから何らかのハンディを背負わされた人間が、にも拘らず人一倍輝いていることの気高さを学び取り、それへの共感を深めていく
l ハンディと輝きの逆説的な関係――才市型人間の捉え直し
ハンディと輝きとの逆説的な関係への認識を深めていくのを後押ししたのは才市だけでなく、周りには実に多くの輝く才市型人間が存在していることに水上は気づかされていった
水上はハンディに拘り、ハンディと輝きという観点から人物評価をし直し、捉え直す
身勝手な父親だったが、背負い込んだ生涯にもわたるほどの借財から仕事に追われる日々を送らざるを得なかったことを知って、ハンディと輝きを併せ持つ父親へと捉え直す
l 父母を通じて才市に流れ込む〈わたくし〉
本評伝は、多くの才市型人間と出会い、その意味に気付かされる中で生まれて来たもの
『良寛』などと違って才市が水上の分身とはなっていないが、父母を通じて才市の中に流れ込んでいる
l カンナ屑と父の思い出
最後から3章目に満を持したように才市がカンナ屑の短冊に詩を書いた話が出てくるが、水上自身の父親が卒塔婆を削る際に筆で書きやすいように丹念にカンナをかけたというエピソードに結び付く
l 『電脳暮し』、そして慧能への深いまなざし
'89年心筋梗塞発症、数年の入退院を繰り返した後、軽井沢から北御牧村の勘六山に転居
『才市』以降に水上が一層傾倒したのが、中国禅宗の第六祖慧能
慧能(えのう、638 - 713)は、中国禅宗(南宗)の六祖。河北省出身。曹渓大師とも呼ばれる。
父の盧行瑫が嶺南の新州(広東省雲浮市新興県)に流されたので、その地で生まれ育つ。父が早くに亡くなり、慧能は薪を売って母親を養っていた。ある日、町で『金剛般若波羅蜜経』の読誦を聞いて感動し、出家を思い立つ。東山の五祖弘忍の下に参じたところ、弘忍は慧能に問いかけて試す。慧能は見事に応じて入門を許されるが、文字が読めないため行者(あんじゃ)として寺の米つきに従事する。そんな中、数百人の弟子を飛び越えて弘忍から跡継ぎとして認められる。このような背景から、形式には囚われない作務禅の始祖とも呼ばれている。その後、弘忍の法を受け継いで広州に帰り、兄弟子の印宗より具足戒を受けて正式な僧侶となり、曹渓宝林寺(広東省韶関市曲江区)に移って布教を続け、兄弟子の神秀より朝廷に推挙されるも病と称して断り、以後713年に亡くなるまで布教を続けた。
l 言葉を超えた世界――沈黙が語りかけるもの
黙っているのに「かえってことばをいっているような」竹の不思議なありようから、水上は「ことば以前のことを考えさせる」と論理を飛躍。『才市』以降に水上が入り込もうとした世界が、言葉を超えた世界、あるいは沈黙が逆に声を響かせるような世界であったことが示唆されている
l 詩よりも従容たる実践――俗世の無言詩人として
「必ずしも文字を借りなくてもいい」「ことばを出さないでものを言っていた人」「黙っている姿がかえって言葉を言っている」「読み書きが出来なくても1冊以上の本を読んだような思いを人に抱かせる人」――最晩年の水上が仰ぎ見たかった世界がここに姿を現す
良寛は多くの詩編を残したが、その根底には、「ことばにすることも空しい」、「詩よりも従容たる実践。身にそれを現すしかない」という思いが読み取れる、というのだ
その実践者とは、一休や良寛のような詩文を残した文人詩人ではなく、俗世の普通の人々、無言詩人こそ相応しいとし、その系譜に繋がろうとしたのが水上の自然のままの自給自足生活だったのだ
あとがき
本書の最大の特徴は、本邦初の試みである、序章だけ読めば全体を読んだことになるという破天荒な構成
AIにはこんな序章は書けまい。現代のよからぬ風潮に対する私なりの抗議の思いも込めた
これまで清張と水上に関する本を3冊書いた。『清張ミステリーと昭和30年代』('99)、『清張、闘う作家――「文学」を超えて』(‘07)、『水上勉――文学・思想・人生』(‘21)を大幅に改稿している。第1章の元は『〈文壇作家〉時代の松本清張I――「多芸は無芸」のあやうさのなかで』(‘13)、第6章の元は『映画《砂の器》は小説をどう補修したか』(‘14)
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ほぼ同時代を生きた松本清張と水上勉には、意外にも共通点が多い。最大の共通性は雑食性。ともに社会派ミステリ作家として出発するもミステリ以外にも手をつけ、清張は小説・ノンフィクションの二刀流を展開し『昭和史発掘』『古代史疑』など歴史評論にも進出、水上勉も『寺泊』で川端康成文学賞を受賞した私小説路線と並行して、寂れゆく辺境や滅びゆく伝統工芸のルポルタージュ、一休や良寛といった高僧の評伝に新境地を切り開いた。好一対だった大作家の歩みと名作を読み解く。
(書評)『松本清張と水上勉』 藤井淑禎〈著〉
2025年12月20日 朝日新聞
■高度成長期の作家と社会を読む
松本清張と水上勉の共通点は「雑食性」にあると、著者は見る。松本が10歳ほど年上になるのだが、多様な人生経験、幅広い分野への執筆姿勢、活力ある精神などが相似ているというわけだ。戦後の高度成長期に社会派推理小説を軸とした成熟期を迎え、そのストーリーは社会の空気と見事に合致したとも言えるように思う。
著者は、二人の作品系列や内容の分析を踏まえた上で、社会派推理小説の「社会的動機を重視」する清張と、「社会的背景」にこだわる水上の作品について詳細な記述を試みる。
『巣の絵』や『不知火海沿岸』などを挙げ、水上のほうがより社会派だったと論じる。しかし本書では、戦後の文壇に独自の存在感を示した松本論が読み応えがある。
例えば松本は、推理小説界の「本格派」という言葉を貶(おとし)め、巧妙な言い回しで江戸川乱歩を「完膚なきまでに否定」した。著者はさらに純文学の川端康成『伊豆の踊子』に対抗する『天城越え』を取り上げ、「一高生の私」に「鍛冶屋の倅」を対置したと説く。こうした点を挙げて「差別的独善的側面を鋭く衝(つ)いた」というのである。松本は江藤淳へも容赦ない。世阿弥論をめぐる批判は、執拗さの一例だ。文壇や純文学批判に松本の怨念が宿っているということであろう。
水上は私小説から出発して、10年の雌伏期間の後、松本の推理小説に刺激を受け、松本と並ぶ作家になるのだが、やがて私小説に回帰する。『寺泊』は日本型私小説の到達点だと著者は見る。
松本は推理小説と別に歴史物のノンフィクションを書き、その面でも一つの世界を作る。水上も私小説の傍らルポルタージュや評伝を書き、作品の幅を広げる。やがて評伝に自らの到達点を見出したというのである。
本書は二人の作家に関心を持つ者に多くの刺激を与える。豊かな経済社会での作家と作品の歴史的考察が必要となる。
評・保阪正康(ノンフィクション作家)
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『松本清張と水上勉』 藤井淑禎〈著〉 筑摩選書 1870円
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ふじい・ひでただ 50年生まれ。立教大名誉教授(近現代日本文学・文化)。著書に『「東京文学散歩」を歩く』など。
Wikipedia
松本 清張(1909 - 1992)は、小説家[2]。本名は松本 清張(まつもと きよはる)。広島市生まれ。1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。以降しばらく、歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆した。1958年には『点と線』『眼の壁』を発表。これらの作品により松本清張ブーム、社会派推理小説ブームを起こす[3]。以後、『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり、戦後の日本を代表する作家となる[2]。その他、『かげろう絵図』などの時代小説を手がけているが、『古代史疑』などで日本古代史にも強い関心を示し、『火の路』などの小説作品に結実した。
緻密で深い研究に基づく自説の発表は小説家の水準を超えると評される。また、『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などのノンフィクションをはじめ、近現代史に取り組んだ諸作品を著し、森鷗外や菊池寛に関する評伝を残すなど、広い領域にまたがる創作活動を続けた[2]。
水上 勉(1919 - 2004)は、小説家。福井県生まれ。社会派推理小説『飢餓海峡』、少年時代の禅寺での修行体験を元にした『雁の寺』、伝記小説『一休』などで知られる。禅寺を出奔して様々な職業を経ながら[2]宇野浩二に師事[3]、社会派推理小説で好評を博して[4]、次第に純文学的色彩を深め[5]、自伝的小説や女性の宿命的な悲しさを描いた作品で多くの読者を獲得[6]。その後は歴史小説や劇作にも取り組む一方、伝記物に秀作を残した[7]。作品の映像化も多い[8]。日本芸術院会員、文化功労者。位階は正四位。
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