コンピューター誕生の歴史に隠れた6人の女性プログラマー  Kathy Kleiman  2025.5.29.

 2025.5.29. コンピューター誕生の歴史に隠れた6人の女性プログラマー

  ――彼女たちは当時なにを思い、どんな未来を想像したのか――

Proving Ground : The Untold Story of the Six Women Who Programmed the World’s First Modern Computer  2022

 

著者 Kathy Kleiman インターネット政策と知的財産の専門家で、アメリカン大学ワシントン法科大学院で教鞭をとっている。女性プログラマーのパイオニアたちの真実を追求する情熱から、ENIACプログラマーズ・プロジェクトを立ち上げ、ドキュメンタリー映画『The Computers : The Remarkable Story of the ENIAC Programmers』を製作。ケイパー・ファミリー財団から助成を得て彼女たちのオーラルヒストリーを研究し映画化したもの。同作は、2014年のシアトル国際映画祭でプレミア上映され、2016年の国連協会映画祭でUNAFF Grand Jury Award For Best Short Documentaryを受賞した

 

訳者 羽田昭裕 BIPROGY株式会社エグゼクティブフェロー。1984年、日本ユニバック株式会社(現BIPROGY株式会社)入社。メインフレームコンピューターでの情報検索・シミュレーション・統計学に関する技術の実用化、企業システムのITコンサルティング、自律分散型システムの開発やアーキテクチャづくりに携わり、総合技術研究所長、CTOを歴任。多摩大学客員教授、教育のための科学研究所研究理事などの活動を通じて、次世代の育成に取り組んでいる

 

発行日          2024.7.30. 第1刷発行

発行所          共立出版

 

 

登場人物紹介

Ø  ENIACのプログラム技師(ENIAC6

l  キャスリーン(「ケイ」)・マクナルティ・モークリー・アントネッリ(1921-2006

チェスナットヒル大(フィラデルフィアの全日制女子大)で数学専攻。'42年ムーア校の陸軍フィラデルフィア計算班に採用。’42’45年微分解析操作チームの監督者。'45ENIACのプログラム技師。第2次世界大戦後はENIACと共にアバディーン性能試験場に移り、プログラミング業務を続ける

l  ルース・リクターマン・タイテルバウム(1924-1986

ハンター・カレッジ卒。数学専攻。'43年ムーア校の陸軍フィラデルフィア計算班に採用。'45ENIACに抜擢、大戦後も試験場でプログラム構築に従事

l  フランシス(「フラン」)・ビーラス・スペンス(1922-2012

チェスナットヒル大で数学専攻。ケイの親友。ケイと同じ道を歩む

l  マーリン・ウェスコフ・メルツァー(1922-2008

テンプル大卒。'42年ムーア校で陸軍レーダー・プロジェクトに参加。'43年陸軍フィラデルフィア計算班に配属。'45ENIACの弾道プログラム構築に抜擢

l  ジーン・ジェニングス・バーティク(1924-2011

ノースウェスト・ミズーリ州立教員養成大で数学専攻。'45ENIACをプログラムするために採用、戦後も続ける。変換器コードの設計とプログラム構築に貢献し、弾道研究所の最初の風洞プログラムを納入するチームの採用と指導に当たる。エッカート・モークリーに移り、関連図書の出版で活躍

l  フランシス・エリザベス(「ベティ」)・スナイダー・ホルバートン(1917-2001

ペンシルベニア大卒。'42~戦後まで同じ経歴。エッカート・モークリー・コンピューター社の初期社員として、最初の商用コンピュータの開発に携わり、40年にわたコンピューター・プログラミングの最前線で活躍

 

 

まえがき

ENIAC(世界初の電子式プログラム可能汎用計算機)の共同開発者がエッカートとモークリ―で第2次大戦中にペンシルベニア大で作られたが、記念写真に映る女性の名は記されていなかった

 

大きな扉が開く

電気工学科のムーア校は教授も学生も男性のみ

陸軍の弾道学に基づいて軌道に関する問題をプログラムするように任命された20代の女性6人が、’4511月、初めて45台のユニットからなる巨大なENIACに対面

 

ムーア校の計算チーム 1942年~

l  数学専攻の女性を探して

'42年、ケイとフランは数学の学士号授与。フランはカッパ・ガンマ・パイ賞も

数学専攻は3人のみ。卒業後に新聞広告で陸軍の数学専攻女性の募集を知って応募

全米の女性が、戦時下の徴兵された後の補充労働力として求められ、経済的な動員が伝統的な男女の仕事の境界の多くを変える

軍需産業の指導者と女子大の責任者がワシントンDCの米国大学女性協会支部で、軍事上必要とされる専門的な業務への大卒女性の勧誘を加速するための方策について話し合い

‘42年、ケイとフランは即日採用となりムーア校に出向く

ケイはアイルランド生まれ。3歳で米国に移住。父親はジャック・ケリーの建築事務所で働き、両家は友人関係。ジャックの娘は後のモナコ公妃グレース

フランはフィラデルフィア生まれ。父はユーゴからの移民

2人は、メリーランド州アバディーン性能試験場にある陸軍弾道研究所に採用され、役職はムーア校にある陸軍のフィラデルフィア計算班の計算手(コンピューター)補佐。等級はSP-4。専門職の「P」はプロフェッショナルで男性のみ、「SP」は補助

l  異質な存在

ムーア校は、高性能電線で財を成したアルフレッド・ムーアの遺贈で’23年改称したペン大の機械・電気工学科。男子学生のみ。女性が入学するのは’50年代

卓上計算機を使って弾道を予測する作業。1本の弾道を計算するのに3040時間かかる

l  基地の片隅に佇んで

新型の大砲は距離510マイルが主流。大砲の照準を合わせるために微分方程式を使い、精度と命中率に革命を起こすが、開発された兵器ごとに「射表」が必要で、それを計算するマンパワーの確保が課題

l  他人の功績を認めなさい

ペン大を卒業したばかりのベティもムーア校での人材募集を見て応募

ベティは地元の教育熱心な家庭に育つ。斜視で左利きで偏平足、ガミースマイルの反っ歯

ペン大は、男女共学になったばかりだがほとんどのクラスは男女別

l  事が順調に運んでいない

女性計算手プロジェクトがうまくいっていないことが判明。指導者、人数、計算機の数、いずれも不足

チームを引率した大尉ハーマン・ゴールドシュタインの妻アデルが、ハンター・カレッジを卒業してミシガン大学で数学の博士号取得の途上にあり、彼女が教えることに

l  加算機とレーダー

テンプル大卒のマーリンは、亡命ユダヤ人の娘で、教師志望だったが、ユダヤ人は受け入れられないと知ってショックを受け、ペン大で加算機を動かせる人を探していると言われて応募、モークリ―夫妻の唯一の常勤職員となり、卓上計算機の使い方を習う

'43年、モークリ―のレーダー・プロジェクトが終わり、陸軍の計算プロジェクトに推薦

l  ウォルナット通り3436

'43年、マーリンはケイ、フラン、ベティに合流。アデルの下で微積分から始める

弾道研は雇用する数十人の女性を受け入れるための場所をペン大構内に確保

次々と兵器を強化していくたびに、膨大な計算による新しい射表が必要となり、計算のピッチを上げる要請が来る

新たにスカウトされたのがアデルの後輩のルース・リクターマン。亡命ロシア人の娘で、新聞記事を見て応募。ニューヨークから移住

l  地下室の怪物

ケイとフランは、微分解析機の操作方法を学ぶ。卓上計算機に比べて数段スピードが速い

2人はすぐに監督者となり、多くの機械の不具合を見つけ、卓上計算機で軌道修正した

l  失われたメモ

ニューヨーク万博で真空管回路を使って暗号文を送るIBMの電子式暗号機械を見て、ガラス管からガスと空気を抜いた真空管を使えば、光の速さで数学的計算ができるのではと考える。陸軍による電子工学の能力を持つ要員の募集に応じたムーア校のモークリ―とエッカート(プレス)は、全電子式計算機の構想を語り合う

l  「ハーマン・ゴールドスタインに金を出してやれ」

弾道研の設立者でプリンストンの教授、アインシュタインとともに高等研究所に属していたヴェブレンは、ハーマン、モ-クリー、エッカートの構想を認め、資金提供を決断

l  戦時の暗黒の日々

‘43年、ムーア校で秘密裏に新しい計算機ENIAC: Electronc Numerical Integrator and Computerを作る「プロジェクトX」が始まる。モ-クリーとエッカートは自分たちの発明を特許化し、後に商業化する権利を得る

'435月、北アフリカでドイツが降伏。フィラデルフィアはUボートの魚雷の射程圏内にあるため、厳戒態勢で灯火管制

l  「あれほどの機械が、あんなたった一つのことをするために」

'442月にはENIACの配線図が完成、2台目の計算機を作ることを考え始め、女性の配線工の採用が検討される

ベティは、ニューヨーク北部の陸軍の冬季軍事訓練用のキャンプに行き、気象観測気球の実験データを基に、卓上計算機で気象予測の計算をしたが、それは陽動作戦のために連合軍の動きをカムフラージュする作業の一環だった

ENIACの累算器2台が稼働開始。1秒間で5000回の足し算を行う

l  キスの橋(ミズーリ州立教員養成大のデートスポット)

'44年末、数学科専攻の女性の追加募集に推薦されたのがミズーリのジーン・バーティク

恋人の水兵が出征し、傷心だったジーンに、陸軍から朗報が飛び込んできた

l  電気は怖い?

アデルは、ジーンの新しいロールモデルとなる

‘456月、ムーア校に構築中の新しい機械で働く数学専攻者の面接が始まり、5人が合格、ジーンは補欠の2番目だが、2人が辞退、すぐにアバディーン性能試験場へ向かう

l  彼女のやり方で学ぶ

同じ頃、ENIAC1年遅れで完成間近を迎え、性能試験場への移設を検討。併せて、入出力に使用するIBMのカード読取機、カード穿孔機、集計機の操作方法を学ぶ要員として6人の選抜が始まる。まずフランを除く5人が選ばれ、メリーランド州アバディーンの弾道研に向かう。ベティは独自のやり方で、納得いくまで習得に努める

l  ハゲタカに囲まれて

アバディーンには女性も若干いたが、ほぼ男社会で、「どこに行っても、ハゲタカに囲まれた肉塊のような気分だった」。女子寮での5人は深い絆で結ばれる

 

ムーア校でENIACをプログラムし、デバッギングする 1945年~

l  学部長の控えの間

IBMの機械の新しい知識を得た5人は、ムーア校に凱旋するが、ENIACは未完成ですぐに仕事がなく、学部長の控えの間に机を並べて待機

終戦でムーア校の雰囲気は一変。それぞれが新しい仕事に就くためにキャンパスを離れる

l  新たなプロジェクト  

弾道研がム-ア校と締結した引き渡し契約には、ENIACのハードウェアに加えて、実用的な弾道計算プログラムが要求されていると言い、それが彼女たちの仕事だった

2次大戦中、米国の大砲は破壊的であることに加え、驚異的な正確性が評判となり、弾道研は弾道方程式の計算と正確な射表の作成を継続することを目指す

先ず彼女たちが知るべきことは、ENIACの仕組みで、まだプログラミングの説明書はなかった。1.8万本の真空管がどのように機能し、それらをどのようにプログラムするのか、自分たちで学ばなければならなかった。それも直接機械室に入って機械を見たりエンジニアに質問することもできないまま、ブロック図だけ見ても見当がつかなかった

l  分割して統治せよ

先ずは機械のユニットを分類し、それぞれについて調べながら、お互いに知見を教え合うようにした。分割統治アプローチだった

解析機の仕事を締め括ってフランが合流

‘45年秋、政府は帰還兵のために女性が職を離れることを推奨する運動を展開したが、帰還兵の中に彼女たちの技術を持つ者いない

l  問題を操作の列にする

問題をプログラミングすることについて、教える人は誰もいないなか、6人は図面を見ながら自ら考えた。ENIACのプログラミングとは、「操作の列を生み出すために・・・・とにかく機械を繋ぎ合わせるということ」だということを突き止める

最初の閃きはループ、コードを反復利用するもので、1つ前の計算結果を使って同じ計算を複数回実行できるようにスイッチを設定できる

l  途方もなく大きなもの

6人は初めて完成したENIACを見て驚嘆

ロスアラモスから極秘のプロジェクトが持ち込まれ、その指示に従ってENIACを動かす手伝いをさせられる。数年後に、水爆の連鎖反応の引き金を大まかに計算したのだと知る

l  プログラムとペダリングシート

ENIACを実際に動かした経験から多くを学んだ6人は、軌道のプログラミングという難題に取り組む。ステップごとにシートを作成し、弾道プログラムの数学的、論理的、物理的な詳細をシートに記入、それを「ペダリングシート」と名付ける

l  ベンチテストとベストフレンド

プログラマーは、プログラムが正しく動いているかどうかテストするために独立した計算を実行する「ベンチテスト」と呼ばれる手法も開発

l  並列プログラミング

大半の計算機は、「直列/逐次的」プロセッサとして一度に1つの命令しか実行できなかったが、ENIACは並列プロセッサで、技師の腕がよければ、同時に複数の操作を実行できた

ただ、直列思考の人間が並列作業のタイミングを合わせるのは難しい作業

l  サインとコサイン

'462月、ENIACが、世界初の汎用プログラム可能電子計算機として公表され、新聞には写真も載るが、6人の名前はない。6人は公開当日の「接客係」として招集

公開実験のために、6人はENIACに弾道計算のプログラムを設定

l  ENIACルームは彼女たちのもの!

プログラムの設定は、頭脳労働だけでなく、重いディジットワイヤーやそれを載せるディジットトレイなどを運ぶ重労働もこなし、バグを見つけて取り除くデバッギング作業へと進む。彼女たちが開発した、プログラマーが確認したい箇所でプログラムを停止させ、中間結果を表示させる「ブレイクポイント」という言葉は今でも使われている。そのお陰で、真空管の故障個所もすぐに発見できた

l  公開実験の日を前にして最後まで残ったバグ

手作業で3040時間かかった計算が20秒ほどで出来る

印字ミスなどのバグがすべて解決したのは、公開実験の当日だった

l  公開実験の日、1946215

実験は予定通り成功裏に終わり、この瞬間は後に「電子計算機革命の誕生」と名付けられるが、6人の技師は紹介もされず、彼女たちの仕事を知る招待客は1人もいなかった

ジーンとベティはこの催しに極端な排他主義を見たが、公開セレモニーは機械を作ったエッカートやモークリ―などのエンジニア、ムーア校、そしてあのような投機的なものに金を出す度胸のあったアバディーンの上層部を称えるものだった

その夜の晩餐会は完全に男性のみ

l  奇妙なアフターパーティー

'46年、ムーア校の研究部長に復帰したアーヴン・トラヴィス教授は、エンジニアの特許を放棄させ大学に帰属させようとしたため、エッカートやモークリ―は大学を去り、次世代機の開発からも降りたため、ペン大はコンピュータの開発における指導的地位を失う

 

性能試験場で稼働し続けるENIAC

l  百年問題と求められたプログラム技師

弾道研は、ENIACの可能性を追求するために、世界のトップの科学者たちに無料で提供したが、彼らは自ら「ダイレクトプログラミング」技術を習得する代わりに、6人のプログラマーを使う。彼らが解決しようとしたのは100年かけても解けないと言われた「百年問題」

‘47年、英国のハートリー博士が持ち込んだのは、航空機の翼の周りの乱流の研究で、ケイがプログラミングを任される

タウン科学校のゴフは、気体の熱力学的特性の研究を持ち込み、ルースとマーリンがペダリングシートを作成、種々の気体、温度、圧力のデータを使って問題解決に貢献

ペン大のラーデマッヘル教授は、ベティと一緒に、ENIACがどのように数値を丸めて計算しているかを調査

プリンストン大のタアブ教授は、爆弾やダイナマイトを使う軍民双方にとって重要な衝撃波の物理検証を行い、ジーンとアデルがサポート

彼らは、実験の結果を次々に公表。この過程を通じて、現代的なプログラミングという職業が誕生。課題を持った人々と、それを解く助けとなるコンピューターを橋渡しするグループで、彼女たちは現代的なコンピューターにおける最初の職業プログラマーとなった

l  ムーア校の講義

ジーンは、ムーア校の大学院生で電気ノイズ専攻のビル・バーティクと付き合い始める

整備エンジニアのホーマーはフランと交際を続け、マーリンは開業したての歯科医と付き合い、それぞれ良いカップルになる

ENIACを性能試験場に移動するに際し、情報の散逸を防ぐために、後継機のEDVACも加えた現代のコンピューターの基礎に関し一連の講義を開催。すでに大学を去っていたエッカートやモークリ―も、「現代のコンピューターは万人のためにある」という信念から講師を引き受ける。聴講したケンブリッジ大のモーリス・ウィルクスは先行する2機と平仄を合わせてEDSAC(電子遅延記憶自動計算機)と名付けた自身のコンピューターを作る

モークリ―は、講義のあとの夏休みをニュージャージーのワイルドウッドで過ごすが、妻メアリーが波に攫われ事故死

l  彼女たち自身の冒険

6人の仕事に漸く余裕が生まれ、それぞれに長期休暇を楽しむ

'46年末、ENIACをアバディーンに移設

ケイとベティは「P-2」に昇格。「専門職」が認められた

l  アバディーンとその周辺のENIAC5

弾道研は、手元に来たENIACで超音速飛行に関する一連の風洞実験プログラムを実行。ジーンが手伝う。マーリンだけは結婚で退職したが、残るケイ、ベティ、ルースの3人は性能試験場で引き続き勤務。移設で一部損傷した機械の補修に携わり、診断ソフトウェアを使ってハードウェアの問題を発見するプログラム技師の役割を果たす

ベティはアバディーンで働きながら、エッカートとモークリ―の新しい会社の立ち上げを手伝う。後に初の商用コンピューターUNIVACとして市場に出る

ジーンの風洞実験では、ENIACの容量の限界が判明、ロスアラモスからプリンストンの高等研究所に異動していたノイマンのアドバイスにより、設計時とは異なる方法で動かすことにより容量の限界を突破。ENIACを、プログラム内蔵式コンピューターに再構築する

l  新たな人生

フランは妊娠し、陸軍を辞めて子育てに専念

‘47年、エッカートとモークリ―は、最初の顧客の前金を得てベティを正式スカウト

'48年、ジーンもアバディーンとプリンストンでの契約期間が終了

‘48年、ルースは、地元のユダヤ人クラブでアドルフ・タイテルバウムと出会い意気投合して結婚。一旦ムーア校に戻るが、ダラスに魅了され移住

ケイは、モークリ―の仕事を手伝ううちに、彼の再婚に同意

ENIACは、ジーンたちの開発した変換器コードによってさらに使い勝手を増し、さらに用途が広がる。機密以外でも、気象予報、熱発火(兵器の火薬の燃焼)、ロケットの軌道、井戸の枯渇の数学モデル(米鉱業局)MITの特殊風洞設計の計算などがある

変換器コードの成熟期になると、ENIACは、処理のための命令コードを関数表からメインユニットに送る時間がかかったため、速度が4倍も遅くなり、「直列型」になって、同時に1個の命令しか処理できなくなる。ENIACを本来の強力な「ダイレクトプログラミング」モードで使用した人はほんの一握りで、この仕事のために採用されたのは6人だけ

 

エピローグ 再会

エッカートとモークリ―がインタビューに答えて、『コンピュータを創った天才たち: そろばんから人工知能へ』というコンピューターの歴史に関する本を発刊。そこには、「コンピュータの歴史で初期の頃の優れたプログラマーは、すべて女性だった。グレース・ホッパーとベティ・ホルバートンは、初めてアセンブリー言語の1つを考え出したとされている。これはコンピュータと会話するための基本的な言語であり、極めて重要な業績だった」6人の指導者だった弾道研のハーマン・ゴールドスタイン中尉の自伝『計算機の歴史: パスカルからノイマンまで』には、ENIACをプログラムするために6人の計算手を雇ったことが記述され、名前が判明

‘86年、ENIAC40周年記念式典では、ケイが思い出を語り、ベティ、ジーン、マーリンが顔を揃える

'96年、50周年にあたり、学部長に6人のことを訪ねたが、「誰のことを言っているのだ」との答えに愕然とし、法律事務所での勤務を週1日減らし、彼女たちを探すことに費やす

ベティは数年前に脳卒中で倒れたが、ケイと共に出席を決意。ジーンとマーリンを加えて私的なパーティーを開催。同席した『ウォールストリート・ジャーナル』紙の記者がコラムを書いてくれて、初めてENIACのパイオニアたちの物語が世に知られることになる

'97年、WITI: Women in Technology International Hall of Fame入りに推薦

'08年、チューリング賞の基調講演者にケイとジーンが指名。同年、コンピューター歴史博物館がジーンを「フェロー」に指名

‘09年、IEEEコンピュータパイオニア賞をジーンが受賞

最近になって、若手のコンピューター史研究者たちが性差別主義的な敵対者という立場を取り始め、彼らは記録を訂正し、初期のプログラミングの物語を根絶しなければならないと感じているようだ。ENIACのプログラム技師たちを「美化された事務職員」と貶め、出典も示さずに「コーダーたちは明らかに知性、専門性という点で組織階層の末端だった」とも書き、プログラム技師たちを「オペレーター」以上の肩書で呼ぶことを拒み、数学やコンピューティングに関する彼女たちの仕事の革新性と深遠さを否定、彼女たちのオーラルヒストリーの価値を認めようとしない

 

 

あとがき

 

 

 

 

共立出版 ホームページ

「最初の職業的プログラマーは女性だった!

歴史的な日に彼女たちが得た 感動的な高揚と憂鬱な消沈を共有するオーラル・ヒストリー」

小谷元子先生(東北大学 副学長・国際学術会議 会長)推薦!

 

第二次世界大戦終結後の1946年、世界初の現代的なコンピューター「ENIAC(エニアック)」が、当時の米国陸軍の極秘プロジェクトにより開発された。そして、その誕生に多大な貢献をしながらも、長きにわたり脚光を浴びることのなかった6人の女性プログラマーがいた。本書は、彼女たちの知られざる功績を鮮やかに照らし出し、その足跡を追う革新的なノンフィクションである。

戦時中、「数学専攻の女性求む」という新聞広告をきっかけに選ばれたのが、キャスリーン・マクナルティ、フランシス・ビーラス、ルース・リクターマン、ジーン・ジェニングス、ベティ・スナイダー、マーリン・ウェスコフの6人だ。多様なバックグラウンドを持つ彼女たちに共通していたのは、数学の才能と未開拓の分野に挑戦する情熱だった。

彼女たちは、大砲の弾道計算プログラムを開発するという前例のない任務に挑んだ。当時、現代的なコンピューターのプログラミングは黎明期で、頼るべき前例も教科書も存在しなかった。それでも彼女たちは手探りで数値解析を学び、プログラミングの基礎を確立していった。そして、チームワークを高め、創意工夫を結集し、ENIACを稼働させた。

著者のキャシー・クレイマン(Kathy Kleiman)は、一枚の古い写真をきっかけに彼女たちの存在を突き止めた。そして、長年にわたる丹念な調査と生存者への聞き取りを通じて、彼女たちの生い立ちや個性、プロジェクトでの役割、その後の人生を克明に描き出し、忘れ去られていた真実を掘り起こした。

開発チームは男性中心だったが、彼女たちはそのなかでパイオニア精神に満ちた取り組みを行っていた。本書は、多様な経験や考え方を持つ人々の協働こそがイノベーションの源泉となること、そして何より、STEM分野(科学・技術・工学・数学)で女性が大きく羽ばたけることを物語っている。

プログラミングやテクノロジーに関心がある人だけでなく、理系分野全般や社会全体にも示唆を与えてくれる一冊である。STEM分野を志す学生にとっては、先駆者たちの足跡をたどる貴重な機会となるだろう。また、ジェンダー平等やダイバーシティの推進に関心のある人にもおすすめである。

 

『コンピューター誕生の歴史に隠れた6人の女性プログラマー』刊行記念

キャシー・クレイマンから日本の読者へのメッセージ

 

 

 

コンピューター誕生の歴史に隠れた6人の女性プログラマー キャシー・クレイマン著

成果を残した専門家の思い

202497日  日本経済新聞本書はアメリカのコンピューターの歴史に埋もれた、6人のプログラマーの女性たちの活躍を史実に基づき描いた作品である。第2次大戦中、男性は戦争に出てしまい、コンピューターのために雇える人材が乏しかった。そのため、数学科を卒業した女性たちが今でいうプログラマーとして雇われた。彼女たちは戦争が終わったのちも、専門的な仕事を続けて活躍をする。しかし著者が注目をするまでは、彼らの活躍はほとんど知られていなかった。著者はコンピューターと写る写真の彼女らを、その佇(たたず)まいから専門家だと見抜き、ハーバード大の学部時代に調査を始めたのだ。

この本の中心になるのはペンシルベニア大学ムーア校が陸軍の監視のもとに動かしたENIACという当時最先端のマシンである。6人はこのマシンが入る前から、砲弾の軌道計算で、創意工夫をしながらIF文や並列計算を開発した。気温や風向きに合わせて大量の計算を行い提供したおかげで、米国の砲弾の精度は非常に上がったという。また、設置された後にはそれとは伏せられた水爆の計算にも貢献した。

初期のコンピューターにおけるプログラムは手探りで、彼女たちは、バグを取る方法やハードの不具合を探すプログラムなど今も残るやり方を編み出した。しかしENIACをお披露目する記者会見では、朝までバグ取りをしていた彼女たちは記者に紹介されることもその後のパーティに招待されることもなかった。女性を専門家とみなして敬意を払うことは彼らの周りの男性にはなかったのだ。悲しみはしたが、彼女たちは仲間から信頼を得て仕事を続けた。

その後もENIACは、手計算では100年かかる問題が次々と持ち込まれ、彼女たちは、数学と論理、コンピューターを熟知した専門家として成果をあげた。彼女たちは才能豊かな専門家だった。

現在はコンピューターの法律家として知られる著者が伝えたいことは、理系は女性をはじめ皆に開けている、ということだ。戦時中と異なるのは、私たちは平和の重要性を理解していること、さらに男性の代わりにではなく、女性自身の活躍を世界が願っていることであろう。本書は戦時中の女性の暮らしを知るにも興味深く、ぜひ多くの方に読んで頂きたい。

《評》東京大学教授 横山 広美

原題=PROVING GROUND(羽田昭裕訳、共立出版・2860円)

著者は米国の弁護士、教授。専門はインターネット政策と知的財産。

 

 

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