宿命の子 船橋洋一 2025.5.20.
2025.5.20. 宿命の子 安倍晋三政権クロニクル 上下
著者 船橋洋一 1944年、北京生まれ。ジャーナリスト。法学博士。公益財団法人国際文化会館グローバル・カウンシルチェアマン。アジア・パシフィック・イニシアティブ創設者。英国際戦略研究所(IISS)評議員。東京大学教養学部卒業後、朝日新聞社入社。北京特派員、ワシントン特派員、アメリカ総局長、コラムニストを経て、朝日新聞社主筆。『カウントダウン・メルトダウン』(文藝春秋)で2013年に大宅壮一ノンフィクション賞受賞。近著に『地経学とは何か』(文春新書)、『国民安全保障国家論』(文藝春秋)などがある。
発行日 2024.10.30. 第1刷発行
発行所 文藝春秋
(上巻)
プロローグ 飛び散った議員バッジと拉致バッジ
2022.7.8. 参院選運動中に近鉄大和西大寺駅北口から約50mのところで凶弾に倒れる
現行犯逮捕されたのは山上徹也(42)。救急車で平城宮跡歴史公園に運ばれ、ドクターヘリで橿原市の県立医科大学付属病院に搬送され、輸血と蘇生措置が行われたが、17時3分逝去
世界平和統一家庭連合に入信した母の多額献金により生活が困窮したことが犯行の理由
総理経験者としては、伊藤、原、高橋、浜口、犬養、斎藤に続いて7人目
1 再登場
l 「私は勝てると思います」(菅)
2012年8月、谷垣総裁の下で党組織運動本部長・菅義偉は、安倍に向って総裁選出馬を促す
安部と菅の出会いは2000年、北朝鮮拉致問題がきっかけ。北朝鮮へのコメの支援問題で大反対した菅と安倍が協力して、万景峰号の入港禁止の法律の制定に取り組む。同志的関係は2006年の総裁選から。安倍が菅に「再チャレンジ支援議員連盟」立ち上げを依頼。安倍が所属する清和会のドン森喜朗は順番を重視して福田康夫を推す。第1次安倍政権では菅は総務相となるが、政権は翌年呆気なく倒壊
それから5年、風向きが変わったことを感じた菅は、安倍に9月総裁選での再起を持ちかけるが、清和会の若手は町村信孝を推す
l 「あんたを立てて、俺は勝負したいんだ」(小沢)
共同通信の世論調査では、次ぎの首相で安倍が石破、石原に次いで3番手だが、個別に票読みした結果、決選投票に残れば勝てるとの目算がたつ。橋下大阪市長の率いる維新の会が石原慎太郎と新党を起ち上げ、安倍支援を表明
安倍晋太郎に世話になった小沢一郎も、消費増税に反対して民主党を離党し、安倍に接近するが、意見の一致が見られず安倍から拒否
l 「結局、菅ちゃん1人なんだよね」(安倍)
菅の呼び掛けに応えて安倍の出馬を推したのは、1次政権の首相秘書官だった今井尚哉
安部は菅のことを「菅ちゃん」と呼ぶ。政治家は一旦弱くなると皆逃げ足は速いと嘆く
l 「私の気持ちはもう最初から決まっています」(甘利)
長老の言いなりになる石原に反発して、甘利、加藤勝信、世耕らの有力議員も安倍を支持
菅からの誘いに、一旦は保留した甘利だが、安倍からの選対本部長要請に応え、自らのグループ仲間とともに応援に駆け付ける。総裁選でのスローガン「日本を取り戻す」は甘利の発案
l 「谷垣さんに何の瑕疵もないんだから谷垣さんでいいんじゃないの?」(高村)
次に安倍がアプローチしたのが麻生。第1次政権の改造内閣で幹事長に据え、麻生は安倍にとってまさかの時の友だった。両者は「べたべたしない関係」で、「政治的同盟」に近い
谷垣の下で離党者はなく、地方選でもほとんど勝利していたが、幹事長の石原が既に森、小泉、青木、古賀らの長老の支持を取り付けており、総裁と幹事長が二分して争っては政権奪取は難しいと判断した谷垣が出馬辞退を表明し、一気に石原、石破、安倍の三つ巴戦の様相を呈す
l 「明智光秀みたいなやり口は、私の渡世の仁義では許されない」(麻生)
麻生は安倍に支持を伝え、麻生と同世代の高村も甘利の働きかけに乗る。幹事長でありながら、総裁の寝首を掻く石原を「明智光秀」に準えて批判
石原と安倍は、根本匠・塩崎恭久と4人で90年代、児童擁護と社会保障に取り組んだ仲間
町村が脳梗塞で倒れ、町村派は同じ清和会の安倍への支持にまわり、1回目の投票では石破1位、安倍2位。決選投票で逆転。石原は議員票ではトップだったが、麻生発言が響いた
l 「ただ、番組は続いているんです」(今井)
直後の臨時国会で、党総裁として最初の代表質問に立った安倍は、今井の発案で、質問の代わりに所信表明演説に変更。安倍は今井に、総理になったらまた手伝ってくるかと言い、今井も「まだ番組は続いている」といってやり残したことへの再チャレンジを請け負う
l 「それは約束ですね。約束ですね。よろしいんですね。よろしいんですね」(安倍)
11月の党首討論では、消費増税はないといって選挙に勝った以上、増税したら国民に信を問うと言明した野田首相に対し、安倍が混乱状態収拾のために決断を迫ると、野田は「社会保障と税の一体改革のための関連法案と、衆院の1票の格差是正のための定数削減案をこの国会で実現するのであれば解散する」と応じ、一気に解散に向かう。安倍の髪型がオールバックに変わるとともに、どこか野性的に見えた。衆院は解散。投票日は12月
l 「戦後レジーム脱却路線は、当面封印」(今井)
衆院選は民主が惨敗。安倍が首相に返り咲く。首相経験者の再任されるのは吉田茂以来
l 「戦後の歴史から、日本という国を日本国民の手に取り戻す戦い」(安倍)
安倍は1954年東京都の生まれ。父は毎日新聞記者の安倍晋太郎。母は岸信介の長女洋子。政界入りは、父の外相就任の秘書になった時からで、8年半秘書稼業に精を出す
‘12年の選挙公約・スローガンは「日本を、取り戻す。」で、日本という国を日本国民の手に取り戻す戦いであり、安倍にとっては「自分を取り戻す」再登場の戦い
l 「政権と運命をともにするぐらいの人」(安倍の今井に対する期待)
最も頼りにしたのが今井尚哉('82年通産省)と北村滋('80年警察庁)。安倍の兄寛信の妻の父牛尾治朗が今井を推薦。北村は民主党時代からの内閣情報館として留任
l 「岸田が世上、言われるほどリベラルかどうかはわからないが、その雰囲気を持っている」(安倍)
派閥横断的な組閣で、菅の官房長官、副総理の麻生が決まる。重心は保守派だが、リベラルの岸田を外相に。新設の経済再生本部を甘利に。谷垣も本人の希望に従って法相で処遇
総裁選立候補者は全員閣内に取り込み、非主流派を作らせない
党3役を全員女性にと考えたが、石破が防衛相を固辞して幹事長に拘った。幹事長は、以後谷垣、二階と続き、いずれも伝統派閥のトップではない。安倍は内閣と官邸主導の人事を貫く
l 「今井です。私はもう戻りません」(今井)
首相秘書官になった今井は、就任初日に親元には戻らないことを宣言。他に秘書官は、鈴木浩(外務)、中江元哉(財務)、柳瀬唯夫(通産)、島田和久(防衛)、大石吉彦(警察)
所信表明演説では、挫折の経験を踏まえ、過去の反省を教訓として心に刻み、丁寧な対話を心掛けながら、真摯な国政運営にあたることを誓う
2 アベノミクス
l 「本田クン、効いたよ。「無制限」ってすごいねえ」(安倍)
政権獲得後の構想として、「2~3%のインフレ目標を掲げ、それに向かって無制限緩和し、市場に強いインパクトを与える」と宣言。知己のエコノミスト本田悦朗(‘78年大蔵省)の話をそのまま使うと、まだ野党の党首の言葉にも拘らず、8000円台の株価が急騰
安倍の唱えるリフレ政策を「アベノミクス」と命名したのは、デフレ脱却勉強会の僚友田村憲久
日銀の白川総裁は、中央銀行の独立性を盾に、アベノミクスへの危機感を滲ませる
安倍の金融政策ブレーンのエール大名誉教授浜田宏一からも、「デフレを克服するとハイパーインフレになるというのは非現実的な脅しに過ぎない」と支援のメールが届く
選挙後に安倍に呼び出された白川は、「2%の物価目標という政策協定を結びたい。選挙結果を踏まえて判断せよ」と迫られる
l 「コントロールできないというのなら、日銀の存在とは何なんだ」(安倍)
デフレ下でも、「6重苦」に苦しむ日銀は利上げに傾斜。2%の物価目標にも、具体的な政策論不在と懸念を示し、未達の責任を被ることを恐れた。メディアも歴史に照らした懸念を表明
l 「学生時代はすごくできたのですが、日銀に行ってから落第しました」(浜田)
白川は’72年日銀入行。小宮ゼミ。浜田が指導教官。日銀入行後は未曾有の金融危機に直面
'97年日銀法改正で独立性を獲得したが、引換えに「物価の番人」としての役割と責任を負う
とりわけリーマンショック後の世界は、金融政策が唯一の選択肢とされ、日銀は身構える
l 「自分が言っても、恐らく安倍晋三には理解できないだろうみたいな感じ」(安倍)
アベノミクスは、金融緩和・財政出動・構造改革の3本の矢から成り、その核心は、金融政策によって成長を促すことが出来るというリフレ政策。その旗手は浜田と、岩田規久男新副総裁
安倍は、上から目線の物言いの白川が気に入らない。政府と日銀の共同声明が検討される
l 〈オレが小倉高校で、アレが学習院って感じだな〉(麻生)
麻生は、白川の父と旧知の間柄。東洋陶器の社長で、田中六助亡き後の地元財界の期待を麻生に託した。白川父子は小倉高校出身。小倉弁が麻生と白川を打ち解けさせる
安倍も2%の目標を了承。2年の期限は検討課題に。白川の更迭は見送り
l 「明日が今日になり、明々後日も今日になってきている」(白川)
'13年日銀は政策決定会合で、7対2の多数決により物価安定の目標を消費者物価上昇率2%とすることを決定。日銀による包括的金融緩和は、’10年に白川が始め、日銀による国債買い入れが始まり、国債保有残高は3倍の101兆円に膨らんでいたが、政策が後追いで逐次投入という印象は否めず、政策発動の効果が感じられなかった。金融緩和政策の効果の本質は、「明日やろうと思っていることを今日するということを促していく」ことで、それを15年やってきたが、「明日が今日になり、明々後日も今日になってきている」と自戒
l 「武藤にできなかった。黒田で勘弁してくれ」(麻生)
安倍は白川の後任に岩田を推したが麻生が竹中平蔵に対する遺恨もあってエコノミストの総裁に反対し武藤を推す。武藤が副総裁時代金融緩和解除に反対したことを忘れない安倍は難色。麻生は黒田に目をつける。リフレを主張するのは邪道と見られていただけに、財務官でインフレ目標論者の黒田は希有の存在。黒田はデフレ・ストップを天命と受け止め、要請を受諾
l 「うそつきは泥棒の始まりですよ」(黒田)
黒田の父はノンキャリで樺太の灯台守。ニクソン・ショック後の固定相場制維持に異論を唱え、主税畑ではぜいしゅう見積もりを上げろという主計官に「嘘つきは泥棒の始まり」と反論
l 「日銀は、その主たる使命を果たしてこなかった」(黒田総裁就任演説)
物価安定という中央銀行の使命の原点に立ち返ることを自身の言葉で強調
l 「官僚は無名であって、歴史に残ることを目標にすべきではない」(黒田)
「物価安定」の失敗の責任は、デフレ・ドミノを誘引した三重野の急激な引き締めに始まる歴代総裁の判断にあると考えた。デフレ下でのゼロ金利政策解除を断行した速水や、国際的な量的緩和拡散の中での白川の出遅れも厳しく批判。福井が、量的緩和とゼロ金利解除を実行しながら、解除後の利上げが「未完成」だったと回顧したのに対し、黒田の言った言葉が冒頭で、任期中に託された任務を粛々と果たすのが官僚の務めだと断言
黒田と安倍は、円高がデフレを深化させたという点で同じ認識を持つ
l 「これまでと次元の違う金融緩和を行う必要があると考えている」(黒田)
就任後初の金融政策決定会合での黒田の発言。質量ともできることはすべてやる、戦力の逐次投入は避けるとし、目標を2年程度とした。岩田もマネタリーベースの大幅拡大を進言
l 「飛べるかどうか疑った瞬間に永遠に飛べなくなってしまう」(黒田)
さらに黒田が重視したのが、「展望」と「期待」を変えることで、「行動様式」を変えるナッジの理論で、ピーターパンの物語を引いて、前向きの姿勢と確信が大切だと強調(ノルム)
過去20年にわたって日銀の政策を批判してきた岩田の副総裁就任も日銀にとってはパニックで、二・二六後の高インフレの原因を高橋是清の日銀による国債引き受けにあるとした日銀の金融史観を変えさせる
l 「この人たちは隠れキリシタンなんだ」(日銀審議委員布野)
総裁副総裁に対する行内・OBのアレルギーを力に変えて執行部を支えたのが副総裁の中曽('78年入行)と雨宮(同'79年)。OBの現役批判に対し審議委員が同情を示す
l 〈黒田さんも財務省の血が流れているんだな〉(安倍)
消費税の8%への引き上げが政治課題となり、岩田らのリフレ派は反対したが、黒田は賛成し、岩田は執行部の分裂回避のために引き下がる
l 「量の拡大かマイナス金利かで迷ったが・・・・マイナス金利導入に賛成することにした」(岩田)
'16年1月、実体経済を後追いする形でマイナス金利導入。人民元の急落への対応だったが、逆に円高に振れ読みが外れる。デフレ脱却への「期待」に働きかける狙いだったが、消費者心理を委縮させ、金融機関の収益を圧迫して市場機能を歪める
l 「もう一泡吹かせたい」(雨宮)
物価目標未達に対し、「長短金利操作付きの量的・質的金融緩和(イールドカーブ・コントロール」を導入。操作目標を、マネタリーベース拡大から金利に変更して、「もう一泡吹かせる」
l 「何か今、黒田さんどこか問題あります?」(麻生)
'18年、黒田の後任に本田の名が挙がり出身官庁の財務省は難色。日銀総裁人事は首相専権事項の様相を呈し、安倍は黒田が確信犯の増税論者と知って警戒したが、麻生に説得される
l 「”2%”への招待状」(黒田)
‘14年末黒田が経団連で講演した際披露したのが「”2%”への招待状」。「生き残るのは変化に対応できる生き物だ」として、デフレ脱却後の人手不足と金利上昇の時代への適応を説く
l 「アベノミクスだけやってるわけじゃないんだよ」(安倍)
'19年の消費増税に反対する本多に対し、「アベノミクスだけじゃない」といった安倍の言葉に、本多はもっと頑張ってもらいたかったし手伝えたはずだと述懐
3 靖国神社
l 「総理、短いご縁でしたけど、私、やめます」(今井)
‘12年、首相就任早々に靖国参拝を告げられた今井は絶句。安倍の信念ではあったが、対中のみならずアメリカからも総スカンを食うとして反対し、初日に辞表を出して思い止まらせる
l 「行っても、行かなくても、どのみち状況は悪い」(安倍)
安倍は小泉政権の時には首相の靖国参拝を支持したが、自らの第1次政権では参拝せず
第2次政権では、選挙でも公約にした。安倍は、自虐的な日本の歴史認識に不満、戦犯は国会決議で赦免され、A級戦犯者も犯罪者として扱わないことを盾に、参拝に積極的だったが、戦争責任を曖昧化し戦争を美化するものとして警戒感を抱かれていた
l 「日韓の歴史問題は南北戦争とは違います」(朴槿恵)
'13年朴槿恵大統領の就任式に出席した麻生は、南北戦争を引き合いに歴史認識が一致しないことを前提に両国関係を考えるべきと発言し、「外交的欠礼」と批判される
l 「麻生太郎副首相は朴大統領に一体、何を言ったんですか?」(バイデン米副大統領)
就任式前、麻生がバイデンを訪問し、バイデンが日韓関係の重要性を説いた直後に麻生が靖国を参拝し、裏切られたと感じた経験があっただけに、今回もバイデンは安倍に苦情を言う
l 「安倍のどこか、いい所があるかって? 顕微鏡で見てもひとかけらも見えないね」(ダニー・ラッセル国務次官補)
米国がとりわけ神経を尖らせたのは、安倍の靖国参拝が彼の極東裁判の判決否定に裏打ちされた歴史修正主義に基づいているとの懸念で、安倍の日本こそが、アジア太平洋における最大のリスクだと見做す。最も激しく反発したのが大統領補佐官のスーザン・ライスで、彼女の違和感は日本の政治家による過去否定論者としての政治的発言全般に対する嫌悪感に起因
l 「靖国神社はアーリントン墓地のような存在だ」(安倍)
米国は、歴史問題、なかでも靖国参拝に関して「回答」を日本に提示しようと画策。日韓両国に対し、日米韓関係の重要性を説き、過去を克服して前に向おうと呼びかけ、安倍の冒頭の発言が引き金となって、国務・国防長官が揃って千鳥ヶ淵を参拝する
l 「敗戦国の悲哀」(歴史問題担当首相補佐官衛藤晟一)
安倍は、一旦は参拝を断念したが、右派保守層を繋ぎ止めるためにも早期参拝の機会を窺う
日本は「歴史戦」外交が弱い
安倍の意向を体して衛藤が米国に理解を求めに行くが手応えなく帰国
l 「どの御霊も分祀したところで、本体は靖国神社に残ります」(神道政治連盟代表)
安倍は、天皇陛下が参拝できなくなった事態を変えたいという気持ちが強く、分祀を探究する。合祀取り下げならいいが、分祀では御霊が残るので同じこと。合祀取り下げは神道の祭祀権への介入で憲法の信教の自由に抵触し兼ねず
l 〈このおじさん、どうあつかったらいいの〉(朴槿恵)
習近平になって対外攻勢を強める中国が'13年、東シナ海海防空識別区設定を発表
バイデン副大統領が日中韓を訪問、緊張緩和に乗り出すが、韓国はバイデンを扱い兼ていた
l 「いや、私はそんなことは申し上げていません」(安倍)
バイデンが朴に「安倍は私に靖国に参拝しないと言ったと伝えた」と言ったのに対し、安倍は驚倒と共に怒りを覚える。まるで素人の外交のようだと呆れて、日米関係に不信をもたらす
l 「総理も、公約だからな。1回は行かしてやらないと」(菅)
'13年末、安倍から参拝の決意を聞かされ、今回は実現に向けて動く
l 「済んだ」(安倍)
政権発足1周年に参拝。首相談話も発表し、中韓との友好関係構築を願う。英文は外務省の通訳官高尾直(その後対トランプの通訳で活躍)が担当
安倍にとっての参拝は、信念やイデオロギーというより、冷徹な政治で、これが最初で最後
l 〈よりによって、なぜ、クリスマスの日にヤスクニなんかに行くんだ!〉(ワシントン国務省)
米国は「失望」の声明を出すが、日本のイメージを損ない、日米関係を軋ませる
l 「安倍晋三首相の靖国参拝に抗議するために国連の中韓大使が共同記者会見をやろう」
'14年初、ハルビン駅構内に安重根義士記念館開館。中韓が共同声明で日本を非難
安倍の参拝強行に対し、中国外相の王毅が韓国に対日共闘を呼び掛ける
中国はパワー・バランスを見て外交をする。相手がリアリズムなら、こちらもリアリズムに徹する。安倍は'14年を通じて、対中関係改善を優先的に取り組む。政権の安定と共に、中国も米国も安倍を見る目が変わってくる。安倍にとって、「過去の克服」は何よりも「歴史戦」という外交課題に他ならず、そのための要諦は国内の大方の合意と政権の安定
4 尖閣諸島
l 「中国が出て来れば下がれ、と言われました」(防衛省黒江運用企画局長)
'12年野田政権が尖閣諸島を国有化したことで、中国が態度を硬化、緊張が高まる
民主党政権の指示は、「自衛隊の姿は見せるな」だったが、すぐに対等の関係に戻すよう指示
l 「何をしていたんですか、仙谷さんは!」(菅直人)
民主党政権時代、領海侵犯した中国漁船の船長を保安庁が逮捕、中国側の揺さぶりにパニックになった菅が官房長官の仙谷を難詰・解任
l 「同盟国がやってはいけないことをすべてやった」(米国高官)
'12年、尖閣の国有化に胡錦涛が態度を硬化、ウラジオでのAPEC総会で野田に直接抗議。オバマ政権も国有化に懸念を抱いたばかりか、事前協議と言いながら全て決めた後のフェイク協議で、アメリカ側からの不信も買う
l 「ここで飛び出したら、にっちもさっちも立っていられなくなりますよ」(今井)
国有化の3日後告示の自民党総裁選で安倍は、尖閣の防衛態勢強化に踏み込む
12月衆院選挙で民主党惨敗。尖閣国有化と反日デモが安倍を生み出す結果に。仙谷も「弱腰外交」の「負の遺産を一身に背負わされ」、選挙民の「敵意」の前に落選。
今井の進言に、安倍も、尖閣を日米安保条約第5条の適用対象と明確化するよう米側に働きかけることを出発点に考える。オバマの反応は、同盟国というより第三者然と見えた
l 「広々とした太平洋には中米2つの大国がすっぽり収まる」(習近平)
米中会談で習は、「太平洋をまたぐ協力・新型の大国関係」を提唱するが、米側は慎重姿勢
l 「日本はリスクと見られているのか」
オバマ訪日に先立って米側は日本に対し、尖閣を軍事問題にして米国を巻き込むことなく、政治問題として解決するよう迫る。大統領補佐官がライスに代わり「中国第1主義」が鮮明になり、同盟国関係が犠牲にされるとの懸念が生じる。”日米中の罠”の地政学の輪郭が再浮上
l 「尖閣は大した問題ではない。日本だけで対処できる」(ロックリア米太平洋軍司令官)
中国の海洋進出進行に伴い、中比が軍事衝突の危機に陥るが、ロックリアはライスの指示で静観を決め込み、米軍のFONOP(公海航行自由原則維持のための作戦)活動を縮小
l 「彼女はキッシンジャーの呪縛にかかってしまった」(オバマ政権高官)
米政府は尖閣が日本の施政下にあることを認めていたが、'72年の沖縄返還以降「中立」の立場をとる。蒋介石が尖閣の領有権を主張して沖縄返還後の扱いに留意するよう要求したため、ニクソン政権は「施政権のみの返還」とし、「主権争いについては中立」の立場を表明。それに不満だったのがキッシンジャーで、日本の防衛ただ乗り論を展開、未だにその影がワシントンを覆い、ライスもその影響下にあり、彼に唆されて対中折衝でも個人プレーに走る。キッシンジャーの対日不信は変わらず、日中を競い合わせ双方に対するレバレッジを確保するという地政学的疼きと誘惑に駆られる、アメリカのリアリズムを正面から受け止めなければならない
l 「現場力が一番、大切だからな」(杉田内閣官房副長官)
政権の浮沈をかけて新たなアジェンダや政策を進める時、安倍は「人事は政策」を旨とした。黒田日銀総裁や、集団的自衛権の解釈見直しの際の小松法制局長官などで、尖閣の最前線である海上保安庁の長官人事も同様。初の現場叩き上げの佐藤雄二保安官を抜擢
l 「海上保安庁に『がんばれ! がんばれ!』と声援を送るだけ」(現場トップの警備救難監)
佐藤の名を知らしめたのは、'92年のフランスからのプルトニウム移送の護衛。海外派遣が認められない海上自衛隊に代わっての任務
l 「頼むから中国との間で紛争を起こさないでほしい」(オバマの対日の意中)
‘14年、オバマは日米首脳会談で、「尖閣は日米安保第5条の適用対象となる」と明言。’15年の首脳会談後の記者会見でも再確認。安倍はオバマの言葉こそが紛争抑止力になると考えた
l 「フィリピンは米国の同盟国であることを忘れないでほしい」(オバマが習近平に対し)
オバマ政権の習近平新体制への期待が萎むのとパラレルに、尖閣への対応も変化。グレーゾーン事態(平時)での日米連携について、米側の慎重姿勢に変化が見られる
尖閣の第5条適用発言と、フィリピン発言は、米国が日比を西太平洋の第一列島線「防衛ぺりミーター」の中核と位置付けていることを示唆していた
l 「レガシーを守るため、対中政策を変えられなかった」(ホワイトハウス・スタッフ)
オバマ政権内に、カーター国防長官の訴えを機に、対中政策の根本的見直しの声が上がる
南シナ海や東南アジアへの中国進出に危機感が募るが、政権最終年での政策修正は困難
5 TPP
l 「バカか、お前は」(菅が外政の官房副長官補兼原に)
'12年、政権発足直後の安倍訪米で日本のTPP参加を伝えようと、準備会合に入ったが、「聖域なき関税撤廃」の反対を選挙公約にし、党内調整も済まない段階で、兼原がいきなり即交渉入りを進言したのに対し、菅が怒って、兼原を会合から外す
l 「聖域なき関税撤廃を前提とする限り交渉参加に反対である」(高村副総裁)
TPPは、'05年シンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイが提唱し、’10年からは米国も対中懸念を煽られて交渉に参加。日本でも菅直人政権が前向き姿勢を打ち出すが、JA全中始め反対派が強く、高村が冒頭の言葉で党内をまとめる」
l 「最初にオバマに会う時が勝負だと思います」(ダシュル元民主党上院院内総務)
安倍は、党の立場を尊重しながら、内心は加盟賛成。ダシュルに言われて安倍は「聖域なき関税撤廃」の約束を交渉参加の条件としないとの確約を取り付けるよう指示
l 「日本の政治的センシティビティには配慮する」(オバマ)
'13年、安倍とオバマの最初の首脳会談の冒頭からTPP加盟の問題となり、安倍はTPPの戦略的意義を認めつつ、「聖域なき関税撤廃」を条件としないことへの確証を勝ち取る
l 「甘利さんと運命共同体で行こうと思いました」(安倍)
安倍は、参院選前の交渉参加を前提に慎重論で固まる党内議論を加速するよう決断
商工族のボス甘利を担当大臣に任命して、30に及ぶ交渉分野の省益の一元化を図る
l 「下に対しても上に対しても上から目線の男です」(麻生)
首席交渉官には麻生の推薦で鶴岡外務審議官(‘76年外務省)を抜擢。経済交渉を長年担当
l 「族をもって族を制する」(安倍)
農業の現場にも「土地カン」を持つ安倍は、TPPによる農産物の市場開放と同時に、農協改革と減反廃止という農政改革との合わせ技で進めることとし、第1次政権下で農水相を務めた松岡利勝を想起。彼は農林官僚出身で、コメの関税を700%から100%にして安倍を支えたが、多額献金疑惑から自殺。松岡の役割を、「隠れ改革派」の匂いを感じた西川公也らに期待
反対派の説得に尽力した農水族に、安倍は人事で報い、西川・森山・江藤を順次農水相に起用
l 「今後、農業交渉は鶴岡にはタッチさせない」(林芳正農水相)
鶴岡の農水省不要発言に農水省内部の鶴岡アレルギーが噴出し、急遽大江博に代える
'13年、TPP交渉に参加。米国産豚肉の市場開放も難題。翌年のオバマ訪日までに日米TPP交渉の決着を目論んだが、牛肉のみ目途が立ったものの、他は乖離したまま
l 「いやあ、まいった、まいった、最初から最後まで豚肉の話だけだった」(安倍)
日米首脳会談前夜のすし屋で、オバマがいきなり豚肉の関税50円との妥協案を提示。事前に甘利から40~60円の幅を聞いていた安倍はすぐに乗る。フローマンUSTR代表は甘利から聞かされて耳を疑い、ライスも安倍にオバマ提案の取り下げを直訴するが、動かず
フローマンは、天皇皇后に代表団の一員として謁見。天皇がTPPに言及したことに感銘
l 「ここにいる意味はない。私は帰ります」(甘利)
自動車部品の関税を巡る交渉でも、フローマンのちゃぶ台返しに辟易とした甘利は辞表覚悟で憤然と席を立つが、安倍は受け入れる
l 「一体、鉢原は何をしゃべったんだ?」(大江交渉官)
‘15年、アトランタでのTPP閣僚会議で交渉妥結、参加12か国による合意宣言へ。自動車部品関税は段階的に全廃へ、バターは特別枠を作って関税削減せず。日本側の完勝に近い内容
コメの交渉は半年前に日米間でほぼ決着。交渉過程で農水省の改革派だった針原審議官が大幅譲歩の可能性を示唆したため混乱したが、5万トンから始まって13年後には7万トンにまで段階的に引き上げることで妥結。ただ、表向きは宣言当日に「最終決着」とされた
l 「日本が円安介入すると、米議会がTPPを承認するのが難しくなる」(オバマ)
米国では議会が通称権を持ち、外国との貿易交渉のたびに、議会が大統領に交渉権限を与えるが、為替を主要テーマにすることを条件にしている。今回の合意宣言でも、TPP協定本体とは別に「マクロ経済当局による共同宣言」を発表、「実質為替水準を経済ファンダメンタルズに即して調整し、競争目的のために為替水準を標的化しない」ことを申し合わせる
翌年春、中国ショックから円高(110円→102円)に振れたため、オバマから日本の市場介入への牽制の電話が入り、安倍は不快感を隠せず。この時の経験がトランプ誕生の時に生きる
l 「TPPを批准するのはもう1つ空母を配置するように重要なこと」(カーター米国防長官)
オバマは、TPPの戦略的意義を「グローバル経済の新しいルールが作られた」と、公に言明し始める。「米国および太平洋アジア諸国が必要とする安全保障と安定の中枢をなす」という戦略的意義こそ、安倍が就任当初オバマに訴えたことにほかならない
日本の戦略的パートナーはオーストラアリア。TPPと並行して'14年日豪経済連携協定EPAを締結。トランプによるTPP脱退後のTPP11やインド太平洋地域における戦略的提携の先駆け
l 「オバマは優柔不断だった」(甘利)
'16年米大統領選でトランプがTPP脱退を公約に勝利。それ以前にも、ヒラリーが労組票離散を懸念してTPP反対を唱え始める。オバマの議会工作も不十分で、フローマンもトランプが出てくる前にやっておくべきだったと反省
l 「我々が互いに密接に連携できたことは、希望の灯となっている」(オバマ)
最後の首脳会談でオバマはTPP交渉での日本の役割を賞賛。安倍もアップビートに議会が批准したことを伝えるとともに、次期政権下でのアジア太平洋政策の方向への懸念を口にする
6 慰安婦問題
l 〈これは、決定打だ〉(安倍)
‘14年、衆院予算委は'93年の河野談話について審議。当時の官房副長官の石原信雄が証言、慰安婦からの聞き取りの裏付けを行っていないことや、裏で韓国側と意見のすり合わせがあったことを告白。安倍は談話が事実に基づいていないとの確証を得て、但木元検事総長を座長に実態把握のための検討チームを発足させる
l 「もう勘弁してくれ、これ以上は読めない」(宮澤首相が元慰安婦の聞き取り調査報告書に対し)
最初に慰安婦が名乗り出たのは'91年。'92年宮澤政権が謝罪。内閣官房外政審議官だった谷野作太郎が調査チームを編成。16人の慰安婦の聞き取りも、話す内容は漠然として、証拠としての価値は低く、報告書への記載は証拠に基づく事実に限定
l 「そういう事実があったと。結構です」(河野官房長官の記者会見での答弁)
谷野は、河野の答弁を聞いて愕然とし、徒労感に囚われる
l 「河野談話はそのままにしておいて、その上に乗ればいい」(安倍)
慰安婦問題はその後、自民党の保守派の中に歴史問題”新人類”とも呼ぶべき派閥横断的なグループを生み出す契機となるが、その中心的役割を担ったのが安倍。韓国系のアメリカ人が性奴隷の碑をあちこちに造り始めていることに危機感を抱き、政権復帰直後から河野談話の作成過程を検証し事実を確定する必要性を説く。報告書に事実の記載がないにも拘らず河野が記者会見で事実があったと認めた「一言」を安倍は許しがたいと思っていた
l 「これが報告書です。事実のみに着目して作成しました」(但木)
但木チームの検証報告書は、「強制性を裏付ける証拠はないが、慰安婦から見れば総じて「意に反して」ということであり、河野談話の有効性がなくなるということではない」と結論
河野談話の時は、軍の「指示」ではなく「要請」に業者が従ったこと、「強制的」ではなく、「”総じて”意思に反して」との表現で説得、「お詫びと反省」を加えることで最終決着とし、「償い金」500万円を受け取った元慰安婦は61名に達したが、韓国メディアは受け取りを非難
l 「全部オープンにしちゃえ。外国にちゃんと見てもらえばいいじゃないか」(衛藤晟一)
“新人類”は、「お詫びと反省」の乱発に強い違和感を抱く。韓国側では、日韓基本条約による請求権放棄そのものに挑戦する動きが出始め、それに対抗するためにも、但木報告書を世界に出すことを「歴史戦」の新たな戦い方として捉えようとして、先ずは国内の固めに入る
l 「大統領が来日する時、これが問題になっていないようにお願い」(ケネディ駐日大使)
オバマは'14年4月の来日に先立って、オランダで日米韓首脳会議を開き、直接日韓関係に介入する。安倍が河野談話継承を明言したことで、朴も同席を承諾
l 「朴大統領は外国に行くと必ず日本を批判した。これは、我々の戦術です」(韓国外交官)
オバマの勧めにも拘らず、朴は日韓首脳会談への反応は鈍い。米独首脳との会談でも朴は日本の歴史問題に関する認識の問題点を提起し、韓国の立場への理解を求めている
北京でのAPEC首脳会議の晩餐会で2時間隣り合わせだった安倍と朴の間で、慰安婦問題解決のためのハイレベル協議立ち上げに合意。日韓関係正常化への第1歩が踏み出される
l 「まず大統領から委任を受けてもらえますか。私は総理から受けますから」(谷内国家安全保障局長)
谷内と、青瓦台秘書室長になった李丙琪との協議で「暫定的」にだが大筋合意
l 「forced to work under harsh condition(厳しい環境の下で働かされた)」
「明治日本の産業革命遺産」のユネスコ文化遺産登録に際し、徴用工が問題となり、日韓外相レベルで決着するが、安倍は「強制的な労役」の文言に不満
‘15年6月、日韓国交正常化50周年に、それぞれが記念行事を行い、安倍と朴も出席
ユネスコ委員会で韓国が「強制労働」を蒸し返そうとしたので混乱。後味の悪い顛末に
l 「昼食はどうされるのですか」(朴槿恵が安倍に聞く)
'15年11月、ソウルでの日中韓首脳会議の折、3年半ぶりに日韓首脳会談実現(テタテ(1対1)会談)。諸懸案の年内の決着に向けて努力することで合意
l 「世界が証人になります」(岸田外相)
何度も合意を覆そうとする韓国の不誠実な態度に、慰安婦問題の合意を渋る安倍に対し、岸田・菅・谷内・今井がこぞって背中を押し、最終合意に到達
l 「男と男の約束」(李丙琪)
合意は、日本政府の「責任」、「謝罪」、日本政府の金銭的措置、最終的かつ不可逆的な解決、韓日大使館前の少女像、国際社会における非難、・批判の自制にわたる
金銭的な措置については10億で合意。安倍は不満、麻生は「そんなもんでいいの」、朴は高額に驚く
l 「私が謝罪したら、それが最後だから」(安倍が谷内に念を押す)
「不可逆的」とは元々謝罪のあり方を照準にした韓国側の提案だったが、安倍はそれを解決のあり方に主眼を置いた
少女像撤去は、文書には書けないが、李が谷内に「男と男の約束」だと明言したので、「撤去に努力する」の文言で妥協したが、後に韓国世論に押されて未達に終わる
l 「基本的に国際舞台で慰安婦関連の発言をしないよう」
両外相が合意。韓国外相もテレビカメラの前で明言した意味は大きかったが、内外の慰安婦像は未解決のまま
l 「100点は採れないんだよ、60点、よくて70点なんだ」(安倍が櫻井よしこに対して)
右翼が安倍を攻撃。安倍は櫻井に対して、民主党時代の悪夢を盾に理解を求める
安倍は最後まで慎重だったが、交渉を止めろと言ったことはなく、批判は甘んじて受け止める
l 「日韓の指導者の勇気とビジョンを称賛する」(ライス大統領補佐官)
日韓慰安婦合意は国際的に好意をもって迎えられた
韓国でも否定が過半だが、肯定的評価が43.2%と高評価があり、驚きをもって迎えられた
l 「被害者たちが受け入れない限り、『最終的・不可逆的』解決を宣言しても、問題は再燃するしかない」(韓国新政権下で組成された合意検討タスクフォースによる結論)
慰安婦合意は長続きせず
同年、朴は親友の国政に介入に関し「大統領の地位と権限を濫用」したとして弾劾され職務停止、翌年初逮捕。大統領選では揃って慰安婦問題合意の無効化を公約。李丙琪も逮捕
河野談話を検証した日本へのある種の意趣返しとなり、補償のための財団も解散
7 戦後70年首相談話
l 「日本はもはや戦争で行ったことに対して謝り続ける必要はない」(豪首相のトニー・アボットが安倍に向って)
‘14年、アボットは、「日本が平和国家として立派にやってきたことを世界が認めるべき(fair to go:もっと然るべき扱い)」という。直後に日豪EPA経済連携協定調印。7年前に始まった交渉が日本の農業団体の反対で動かなかったが、安倍が動かす。日本の標準子午線が豪州の中央を通っているのを共通点とし、「ビジョンはいつも東経135度から生れる」と持ち上げる
l 「歴史はよき教師にはなるが支配者になるべきではない」(アボット)
同年の東アジアサミットで中国の李克強首相が「日中関係を改善したい」と言った安倍に対し、「日本は歴史問題を克服できていない」と説教し始めたのを見て、アボットがブルネイを引き合いに言った言葉が冒頭
中国が歴史問題で日米関係の揺さぶりを強めるのを見て、米政権も戦略的課題と見做し、オバマが安倍に注意を喚起し、問題に決着をつけようと持ち掛け
l 「地元のことより米国と日米関係全体のことを優先させた」(ベイナー下院議長:共和党)
安倍は、戦後初の日本の首相としての米議会での演説を模索。選挙区に多くの韓国人を持つロイス外交委員長は否定的だったが、ベイナーが押し切る
l 「日本が、世界の自由主義国と提携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります」(安倍が米合同議会演説の冒頭、祖父の言葉として紹介)
‘15年安倍は米議会で演説。演説に先立ち、第2次大戦メモリアルで「深い悔悟deep
repentance」を胸に黙祷を捧げる
l 「祖父の演説は独立国としての誇りと自信に満ちていました」(安倍)
演説を書いたのは第2次政権で対外向け演説専属のスピーチライターとなった谷口智彦。元日経ビジネス記者。「自由で開かれたインド太平洋」構想の先駆けとなるビジョンを打ち上げた演説の起草者。岸の演説と硫黄島の両軍トップを引き合いに出す
l 「私ももう年老いたので、最後は日本の名誉のために発言しなければならないと思っている」(イノウエ上院議員が、慰安婦問題を議論する内輪の会合を催し安倍に語る)
演説では戦争に対する「痛切な反省deep
remorse」を表明。慰安婦を前提に、女性の人権重視を盛り込む。3年前に他界したイノウエにも敬意を表する
l 「これ、希望の同盟って言いたいんだけど、どうかな」(安倍)
安倍が最も力を込めたのは、日米同盟の死活的重要性について。冷戦後存在意義を失って漂流し始めた日米同盟関係を、新たな地政学的な挑戦への盾とすべく、「希望の同盟」と呼んで演説を締めくくる
l 「侵略という定義については、これは学界的にも定まっていない」(安倍)
'15年初頭、安倍は戦後70年談話発出を明言。西室日本郵政社長を座長に有識者懇談会を設置。村山談話(‘95)の言葉の曖昧性を指摘、歴史認識に対する違和感・「軽さ」の払拭を狙う
l 「戦後80年の時には(首相談話を)やる必要はない」()
安倍は公明党の抵抗を考え個人談話にしようと目論むが、これを最後とするために汗をかく
l 「歴史があって歴史認識が存在するのではなく、歴史認識があって初めて『歴史』が存在する」(懇談会委員でイスラム学者の山内昌之東大名誉教授が、和解の障碍だと指摘)
安倍は、戦後70年首相談話を21世紀の日本国民の基本的歴史認識の大枠を作る国家事業と考えた。議論をリードしたのは、近現代政治専攻の歴史学者で座長代理の北岡伸一
l 「安倍さんに『日本は侵略した』と言ってほしい」(北岡)
北岡と中西輝政の間で、「侵略」の有無についての論争があり、安倍はバンドン会議60周年記念首脳会議の演説で、過去の一般的文脈の中での「侵略」への「深い反省」を述べる
「侵略」であることを明記し、責任の所在を明確にしたが、談話では「侵略」全般に対する否定へと一般化された
l 「いま外務省では、大臣以下、戦前生まれの人が誰もいないんです」(山崎和之内閣官房審議官が海外の要人に話す)
「謝罪」の内容とその表現とそれを巡る外交のあり方にも拘る。村山談話の「お詫びの気持ち」表明は継承しながら、ヴァイツゼッカーの演説にヒントを得て、「その先の子供たちに至るまで、原罪を負わされるべきではない」と織り込む
l 「謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」
公明党の了承を取る段階で、「原罪」は「宿命」に変更
政治学者たちは安倍に、「事実を率直に認め、それに対する反省の気持ちをもって外交にあたるべきであり、その上で積極的平和主義を展開すべき」と説き、安倍も同調
l 「東京裁判に今さら楯突いてもしょうがない」(安倍・太田公明党代表)
安倍も太田も、「勝者の裁きの二重基準」の不条理を感じつつ、「敗北を抱きしめて」再出発しようと心に秘める
l 「この談話は出す必要がなかった。いや、出すべきではなかった」(朝日新聞社説)
安倍談話は国内外で概ね肯定的に評価され、内閣支持率も5.5%上がるが、不支持率を下回り、批判も多く上がる。保坂正康も、歴史修正主義を思わせるとして批判
安倍は「保守」を、「自分の生まれ育った国に自信を持ち、今までの日本が紡いできた長い歴史をその時代に生きた人たちの視点で見詰め直そうとする姿勢」と定義
l 「中国は、内心は歓迎だ」(二階総務会長)
安倍談話を欧米豪州は歓迎。韓国の朴も残念な部分が少なくないと言いつつ一定の評価
中国はやや複雑で、具体的な表現への論評を避け、「問題を誤魔化すべきでない」とだけ声明
l 「当時の日本の軍には大戦略がなかった」(安倍がトランプに説明)
'16年、トランプは安倍との会談で、「安倍の父が特攻だったことを知って感銘を覚えた」と言い、安倍に一目も二目も置いた。トランプが金正恩に安倍の話をしたところ、金も韓国大統領を見下すのとは対照的にある種の敬意を抱いていることを直感的に感じている
8 平和安全法制
l 「私の政権は、この憲法解釈を見直します」(安倍がオバマに宣言)
‘13年、訪米した安倍は、「日本は集団的自衛権を行使できないと憲法解釈する唯一の国」だとして、解釈の見直しを宣言。同時に日米のガイドライン見直しも提案
l 「財産に権利はあるが、自分の自由にはならない、というかつての”禁治産者”の規定に似ている」(安倍が’06年の総裁選出馬の際『美しい国へ』の中で)
集団的自衛権は、国連憲章で加盟国の「固有の権利」と明記されているが、内閣法制局は’72年に「権利の行使は憲法上許されない」との統一見解をまとめている
湾岸戦争では行使できない「不利益」が露呈したのを契機に、第1次安倍政権では憲法解釈変更を政治的アジェンダに据えるが、法曹出身の宮﨑法制局長官は解釈変更に断固反対
l 「いや、小松君だ。駐仏大使の小松一郎だ」(杉田官房副長官が山本法制局長官に)
‘13年、法制局長官交代。内部の順送り人事の慣例を破って、初の外部からの就任で、解釈見直しの本気度を示す。小松は国際法の専門家で、国内法の経験は皆無
l 「内閣総理大臣が従うのは最高裁の判決だけだよ」(安倍が法制局長官の権限に不満)
内閣法制局は、1885年の内閣発足とともに置かれ、長官は内閣書記官長とともに「内閣の両番頭」だったが、GHQがその強大な権限を嫌って廃止。独立後復活。認証官以外唯一閣議に陪席。品川区の長官公邸は1555㎡の豪邸。首相公邸改築の際は臨時首相公邸となる
l 「今回の私の件は、一時預かりです。いずれ大政奉還します」(小松が横畠次長に)
憲法9条の解釈変更は、日本の安全保障政策の根本的な変更であり、全面行使派ではなく、限定行使派を前提に、「法の安定性」を損なわずにその方解釈を整備する必要がある
l 「内政の失敗は1内閣が倒れれば足りるが、外交の失敗は1国を亡ぼす」(近衛内閣の首相秘書官だった高村の父が常に言っていたのを高村は何度も聞かされた)
党内固めと公明党の支持は高村副総裁が担当。'59年の砂川事件で駐留米軍を自衛のための措置として違憲ではないとした最高裁判決を根拠に、現行憲法下でも自衛のための措置はとれるし、自衛権には個別・集団の区別はないとして、説得を試みる
l 「砂川判決に依拠するこうした立論には無理があります」(衆院法制局橘次長が公明党に)
砂川判決は「駐留米軍を我国が保有する『戦力』には当たらない」と言ったに過ぎないとされ、公明党も小松も、’72年政府見解に近い論理を持ち出す
l 「いわゆる芦田修正は政府として採用できません」
芦田修正のように、全面的に自衛権を認めてしまうのではなく、また、「必要最低限度」の中に集団的自衛権は含まれないと明示的に断じるのでもなく、その行使が「必要最低限度」の中に留まるべきとして、従来の政府解釈である「必要最低限度」論を維持しようとした
l 「薄皮1枚ですが、それでいいですか」(横畠が長官就任に際して安倍に)
閣議決定の道筋がついたところで、小松の腹腔内の末期癌が発覚。小松は後任に横畠を推薦
l 「北側さんを信じます。それで結構です。細かい文言はお任せします」(安倍が高村に)
横畠は、先達の訓詁学で「できない理由」を言い立てる代わりに、何ができるかを一緒に知恵を絞り、「常識的で論理的な日本語」で安倍政権を助ける
l 「こんなのはインチキだ!」(宮﨑元法制局長官が閣議決定の報告を聞いて)
閣議決定の直前に小松死去。直後に安倍の助言者・岡崎久彦も新安保法制を見届けて逝去
宮﨑の前任の阪田雅裕も宮﨑から反対の共同署名を求められたが組織的造反は断る
l 「本来なら台湾有事で存立危機事態が適用されるという議論をしなければいけなかったのかもしれない」(官邸幹部)
国会審議は難航。参考人の憲法学者が3人揃って「違憲」を表明したが、‘15年議決
答弁では、ペルシャ湾の地雷掃海への派遣を議論し、足元の台湾有事の議論をカムフラージュ
l 「おい、ちょっと待て。これって1回目だから記念写真を撮ろうじゃないか」(麻生副総理)
'14年、NSCの初会合。安倍にとっては、「一国平和主義」の限界を克服し、訣別するとの宣言であり、NSSトップには谷内を起用。霞が関に沁みついた会議の形骸化の打破を試みる
l 「全員、国家官僚として働いてください」(谷内がNSS発足にあたって各省出身者全員に訓示)
谷内は東大時代、防衛研修所教官だった若泉敬の読書会に参加。’69年外務省入省
l 「制服は脱がなくてもよい」
長い間、自衛官が制服で首相官邸を訪れることは禁忌で、橋本内閣の時から自衛官の入邸が認められ、制服で入るようになったのは第2次安倍政権から。統合幕僚長への叙勲も指示
l 「外交と軍事を総括し調整する司令塔が、近代日本史上、初めて官邸内に出来た」(兼原官房副長官補外政担当)
国家安全保障局長の創設は、首脳の国家安全保障担当補佐官NSAを置くことで有力国のカウンターパートと首脳の意を受けた深い政策協議と秘密交渉を行うことを可能にした
'14年のオバマの来日に先立って、ライス国家安全保障補佐官と渡り合う。アメリカではNSAが閣僚の上に立つが、日本では2ランクほど下にもかかわらず、対等に扱われた
安倍もNSAを重用、外務省・防衛省・警察の横の情報の流れがスムーズになっただけでなく、統合幕僚長もその傘下に加わったのが画期的な成果を生む
l 「財務大臣はきちんと入っておくべきだと思いますけどね」(麻生)
安全保障会議を真に意思決定の場にするためには財務大臣の参加が必須と麻生は主張したが、安倍は有事の実質的で動的なシビリアンコントロールを重視し麻生を抑える
l 「日本は打撃能力を持つつもりである。ぜひ、協力してほしい」(安倍がマティス国防高官に)
'15年の安倍訪米に合わせた新たな日米防衛ガイドライン作成にあたり、米側から「日本が攻撃力を持つことを受け入れる」とのシグナルが出され始め、トランプの登場によって加速したが、'20年陸上配備型迎撃ミサイル「イージス・アショア」の配備計画が、地元の反対で挫折
9 ヒロシマ/パールハーバー
l 「なぜ、ヒロシマを投下地に選んだのかな?」(オバマ)
'16年5月、オバマが広島訪問。広島上空を飛ぶオバマは居心地が悪そうだった
資料館の見学は30分から10分に短縮され、住銀広島支店入口の石段の爆風で即死した人が白く焼かれて影が出来た「人影の石」は、米側の許可が下りずに展示できなかった
l 「なぜ私たちはここ、広島に来るのでしょうか」(オバマの慰霊碑前での演説)
オバマは、「遠くない過去に恐ろしい力が解き放たれたことに思いをはせるためにここにやって来た」と話し始め、「核兵器なき世界」の目標を掲げ続けることを宣言
l 「あんたが頑張らにゃ『核なき世界』はできんけんの」(坪井直がオバマに)
l 「これは、スピーチというより瞑想なのではないか」(オバマのスピーチライター、ローズ)
オバマのスピーチは5分の予定が17分になる。草稿はローズが書いたが、オバマがほとんど書き直し、世界で最も強大な存在として米国が世界と交わっていくことの意味をも考察する試みとなった。「人類」が「自らを破滅に導く手段を手にした」という一般の括りとなっている
l 「私が安倍さんの立場だったら、ああいう表現は使わなかった」(オバマ)
オバマが広島に滞在したのは45分程度だが、最後に安倍と岸田に「来てよかった」と言った
直前の日米首脳会談後の共同記者会見では、沖縄の米軍属の日本人女性死体遺棄事件に対する非難がオバマに向けられ、オバマもホワイトハウスもオバマが晒しものにされたとの不満が高まり、広島がキャンセルされるのではないかと懸念されたが、何とか実現に漕ぎ付けた
l “Areba Tsukau”(米NSCのラッセル日本・韓国部長が広島の慰霊碑の前で耳にした声)
'09年オバマの最初の訪日の時、「いつか広島・長崎を訪問したい」と言ったのを聞いたラッセルは、その実現の下準備として広島を訪問、花輪を捧げた時、「あれば使う」の声を聞く
l 「広島市民の多くは『謝ってほしい』とは言っていない」(岸田外相)
オバマの広島訪問実現を巡り、特に米側に「謝罪」に対するアレルギーが強く、同時に原爆の「正当化」の主張を鎮めるためにも、広島市民の反応が重要な要素だった
l 「人間としての全ての感情が揺さぶられました」(ケリー外相)
'16年4月、広島でG7外相会議開催。全員で原爆資料館・慰霊碑・原爆ドームを回る
ケリーは帰国後オバマに広島訪問を進言
l 「これは未来に関する事柄なのです」(ライス)
最後までオバマの広島訪問に抵抗したのがNSAのライス。大統領の訪日に係る記者会見でライスは、「将来に向けて何をやるか話すための訪問だ」と答える
オバマの訪問に最も貢献したのは駐日米大使のケネディ。'78年に広島を初訪問
l 「オバマが広島に行くのなら、安倍はパールハーバーに行くべきだ」(ライス)
最後まで双方が調整を続けたのが広島訪問に続く安倍の真珠湾訪問の位置付けと日程作り
安倍は、真珠湾と広島を取引する話には乗らないと決めていた。真珠湾は軍隊同士の戦いに対し、広島は民間人を対象にした無差別攻撃。だが、ライスはパッケージにしようとした
両国の関係をこじらせないよう、日米首脳会談でそれとなく真珠湾訪問を持ちかける
l 「パッケージとされると、日本人の中に複雑な感情を生じてしまう」(安倍)
'16年3月の日米韓首脳会談では、前年末の慰安婦合意につき互いの努力を称え合う。オバマも両国の和睦への第1歩を祝福。その後の日米会談でオバマが広島と真珠湾の相互訪問が実現すれば両国が歴史を乗り越えたという力強いメッセージになると持ち掛けたが、安倍は訪問の必要性は認めつつ、「パッケージ」とされることには最後まで反対し、オバマの広島訪問後も態度を鮮明にせず。年末にオバマがハワイに行く時を見計らって、追悼とともにオバマとの日米会談の締め括りを考える
l 「真珠湾に、今私は日本国総理大臣として立っています」(安倍)
年末に安倍の真珠湾訪問実現。戦争の惨禍を繰り返さないと誓うとともに、両国を結び付けた寛容の心がもたらした「和解の力The Power of reconciliation」を訴える
真珠湾攻撃中に被弾して母艦に帰れず戦死したゼロ戦のパイロット飯田房太大尉の勇気を称えた碑を米軍が建て、祖国のために命を捧げた軍人への敬意を籠めた姿に感銘を受ける
l 「それは、センチメンタル・ジャーニーではなかった」(米政府高官)
真珠湾訪問は、安倍がオバマに事前連絡せずにトランプを訪問した後だったため白けたものとはなったが、結果的には「見返りなき見返り/ディールではないがディール」となる
米政府高官は、「成熟した民主主義国であり、強固な同盟国である日本と米国との間でも歴史の和解はなお重要な意味を持つ。それをオバマと安倍は成し遂げた。歴史的な異議があった」と振り返ったように、相互訪問は、戦後70年に照準を合わせて中国が歴史問題で反日攻勢をかける中、日米両国が必要に迫られて行なった和解外交でもあり、「米国にとっても国家安全保障と戦略的目的に資するためのものであり、両者の訪問は、米国にとってはセンチメンタル・ジャーニーではなく、米国のハードコアのレアルポリティークだった
10 消費税増税
l 「消費税、嫌いなんだよね」(安倍)
‘12年末、民主党政権の「社会保障と税の一体改革」路線継承を説明に来た財務省幹部に安倍は「政権交代が重いこと」を示唆し、財務省と日銀との真っ向勝負を挑む
安倍は、民主党との合意の埒外にいて、「一体改革」、ましてや、デフレ下での増税に不信感を抱くが、副総理兼財務相になった麻生は、両党合意を重視する「正真正銘の増税派」
l 「もうちょっと延ばしたらいいんじゃないか」(菅)
'13年7月の参院選で勝利し政権基盤が安定。経済も好循環を見せつつあるなか、3党合意の増税を延期しようとの動きが強まる。さすがに翌年の8%への増税はやらざるを得ないが、'15年の10%は先送りとする
l 「消費税を上げないと、株価は暴落しますよ」(3メガ銀行のトップの1人が安倍に)
‘14年10月、市場が10%増税を折り込み済みだとの進言があり、財務省も法律を盾に増税路線を進むが、菅は「総理が決める」とし、幹事長となった増税派の谷垣も安倍を支える
l 「帰って、解散の準備をしてほしい」(安倍)
解散、増税延期への動きが一気に加速
l 「麻生さん、これはもうそういう判断でお願いします」(安倍)
最後は安倍と麻生の直接談判で、'17年4月への増税延期が決まる。明らかな公約違反ではあるが、あざといとわかった上での解散判断となる。その後また延期され増税が実現したのは’19年10月。増税推進の柱だった財務事務次官香川は既に死去していた
l 「ぜひ、岸・池田両総理の役割を果たしてください」(谷垣幹事長が安倍に)
増税延期のあとは福祉政策に全力を挙げてほしいと谷垣が安倍に申し入れ。「対立」の岸から「融和」の池田へのギアチェンジをするときだとのニュアンスを籠める
そこで出てきたのが「1億総活躍」であり、核心は少子化対策
l 「オレは、次官を呼んだんだぞ。課長を呼んだ覚えはないぞ」(菅)
'17年からの増税にあたっては、納税者の負担軽減策も大きな争点。公明党の主張して増税法案にも書き込まれた軽減税率の適用に消極的な財務省は、麻生を動かして抵抗、菅が怒る
野田毅の党税調も反対したため、安倍は宮澤洋一に頭を挿げ替えて、税調の発言権を弱める
l 「オレだってやりたくてやったんじゃねえんだ」(菅)
公明党の頑強な抵抗にあって、やむなく食品関連の軽減税率を受け入れる。菅の官房長官としての圧倒的な「決める力」を霞が関は思い知らされ、「戦後、最強の官房長官」と言われることになる菅の地位と威令はこの時に確立
l 「保育園落ちた、日本、死ね」(匿名のブログ)
'16年2月、「1億総活躍」への批判ブログが衆院予算委員会で紹介され、野党は子育て予算が削減されるとして軽減税率導入に反対。安倍は、野党の要求を国会では拒絶するが、実際に多少なりとも実現させて実を取る作戦に出る。安倍政権の狡猾さと敏捷さが現れる
l 「そうした歴史も知らず、こんな直観的な紙を書くのはいかがなものか」(佐藤慎一主税局長が、所得減税案を書いてきた太田充官房総務審議官に)
増税にあたって国会では、「痛税感の緩和」より「納税の納得感」に取り組めと攻撃され、財務省は増税後1,2年の個人へのキャッシュバックを検討するが、消費税改革の生き字引的存在で恒久税減税で痛い思いをしてきた佐藤は一喝
l 「下手するとリーマンン・ショックの二の舞になる」(世耕官房副長官が安倍の発言を紹介)
'16年5月の伊勢志摩サミットで安倍は、景気の下方リスクを指摘し財政のテコ入れの重要性を訴えるが、国内では消費増税延期の雰囲気づくりと受け止められる
サミット後に再延期を発表。安倍にとっては、G7レベルで3本の矢を強調実施すべきとなってアベノミクスの普遍化に成功、議長国として自ら率先実践しなければならない。そのためにも消費税がちょっと待てというシナリオ通りの成果となる
l 「財務省が持っていったら、総理は乗らなかったと思う」(官邸スタッフ)
「1億総活躍」政策推進のためには恒久財源が必要で、幼保無償化のためには消費増税の一部を充当することが必要であり、1対1対応の完全リンクの枠組みが作られる
'17年9月、消費増税のうち社会保障制度安定化への充当と子育て支援拡充充当分を従来の4:1から1:1に変更すると発表、そのための信を問うとして「国難突破解散」と銘打つ
l 「財務省は勝ち過ぎていた」(財務省少数派が3党合意に対して振り返る)
第2次政権を通じ安倍の財務省への不信感と警戒感は変らず、激しい敵対感情を持ち続ける
財務省によれば、10%への消費増税への3党合意こそ、「戦後の日本の議会制民主主義の金字塔」だったが、勝ち過ぎの揺り戻しが、使途変更に繋がったとされる
安倍は、財務省をマクロ運営、統治、政治日程、政局の観点からしばしば脅威と見做し、戦後の防衛政策を予算と財政面で実質的に支配してきたと見做す
憲法第9条を金科玉条とし集団的自衛権の行使にタガを嵌める内閣法制局と、「公債のない所に戦争はない」と断言し、財政規律で戦争放棄を「裏書保証」する財務省は、安倍には同様に安全保障のリスクでしかないように見える
l 「文句を言われる筋合いはないんだよ」(安倍が2回増税を果たした成果を誇って)
戦後、2度も増税した内閣はないし、2度とも生き延びた。麻生の果たした役割は分かりにくい。安倍以上に自由主義経済志向でありながら、財務省にとって頼りになる後ろ盾となったが、安倍が決定した後はそれに従った
(下巻)
11 プーチン
l 「『引き分け』とはどういう意味でお使いになったのですか?」(森元首相がプーチンに)
‘00年発足の森内閣で安倍は官房副長官に抜擢、政治家としての跳躍が始まる
'13年2月、安倍は森喜朗にプーチンとの首脳会談の地ならしを依頼。プーチンが前年、「引き分け」の原則によって日ソ領土問題を解決したいと言った真意を探る。プーチンは、道場の絵を描いて、真ん中で組んで初めて「よし、始め」となる、これが引き分け論だと答える
'13年4月、日本の首相として10年振りに公式のロシア訪問。経済人120人を連れ、ロシアへの投資意欲をアピール。2+2立ち上げに合意し、領土問題解決に向けての基本方針を明記
l 「わが国は力を背景とする現状変更の試みを決して看過できない」(安倍が国会答弁でロシアを非難)
'14年3月のロシアによるクリミア併合に対し、G7諸国と協力して対ロ経済制裁に踏み切る
l 「シンゾーが最近、逆の方に歩いていく気がしてならない」(プーチンが森に向って)
森が、山下泰裕を通じてプーチンの言葉を官邸に伝えて来た。ソ連の外務次官も、「対日平和条約交渉を続ける用意はあるが、クリル問題(北方領土問題)についての対話は一切しない」と言明、対ロ経済制裁に加わった日本への不満を表明
l 「私があなたの立場だったら行かない」(オバマが安倍に)
ロシアを中国以上に主要な脅威と見做すオバマ政権は、安倍のプーチン接近を警戒。日米首脳会談でも、オバマが安倍の訪ソを牽制したが、安倍はそれを振り切って断行
l 「これからどんどん軍備を増強する中国と対峙するにはロシアを繋ぎ止めておく必要がある」(安倍がオバマに応えて)
アメリカに守ってもらっていたとしても、日本にとって中ロの二正面作戦は無理
日本にとって安全保障上の最大の脅威は中国で、両国に何回もスクランブルをかける状況を変えるためには、ロシアとの関係改善が必要との論理だが、アメリカはその論理を認めない
l 「新しいアプローチで、交渉を精力的に進めていきたい」(安倍がプーチンに対し)
'16年5月、ソチで日露首脳会談。未来志向の考えに立った交渉を精力的に進めることで合意。米国は安倍の訪ロに否定的だが、安倍は強行、さらにプーチンの訪日へと踏み込む
l 「年末までに前提条件なしに平和条約を結ぼう」
同年9月、ウラジオでの東方経済フォーラムに安倍が出席し、平和条約締結を呼びかける
l 「安倍さん、くれぐれも歴史の正義を守ってください」(イルクーツク宣言の時の駐ロ日本大使丹波が安倍に直訴)
森とプーチンの間で出した「イルクーツク声明」では、領土問題の会蹴るなしに平和条約の締結はないとしたが、4島一括返還に固執したら交渉の土俵にも上がれないことを安倍は危惧
l 「日米安全保障条約をもとに米軍基地は置かれるのか」(ロシア国家安全保障会議書記パトルシェフが谷内に確認)
日本に北方領土2島を引き渡したら、米軍が基地を置きミサイルを配備するのではとの疑念がロシア側に強まる
l 「1つ問題がある」(プーチンが安倍に)
'16年11月、ペルーでのAPEC会議の際、プーチンから安倍に、米軍のミサイル配備の話の確認があり、プーチンは日ロ間の隔たりが大きいとの認識を示す
l 「あの声明を出した後、なぜ、日本は56年宣言の枠組みから遠ざかったのか」(プーチン)
‘16年12月、長門で日ロ首脳会談。安倍は「戸田浦における露国軍艦建造図鑑」を贈る
プーチンは席上、日本側がなぜ急に、4島を主張するようになったのか、日本に裏切られたとの語感を滲ませる。56年宣言の後、アメリカが「日ソ2国間の領土問題の取引は認めない。断行するなら沖縄返還はない」と言ったことを蒸し返す。結局、交渉立ち上げの合意には至らず
l 〈トライアル・アンド・エラーをやっているじゃないか〉(安倍が外務省のプレゼンから得た感慨)
安倍は、外務省が過去の資料とその分析・検証を政治指導者の目に触れないようにしているのではと疑心暗鬼だったが、ようやく総ざらい出してきた
「4島一括返還」は、国内批判をかわすための一部外務官僚の事なかれ主義をも反映
l 「はっきりいって外務省は北方領土問題を前に進めるアイディアを持っていません」(今井が安倍の外務省に対する苛立ちを代弁する形で発言)
l 「これは本当に総理自身のお考えですか」(ベテラン外交官が安倍の質問に答えて)
'18年9月、ウラジオでの東方経済フォーラムの公開討論の場で安倍はプーチンに平和条約を締結しようと持ち掛け、プーチンも「年末までに、全ての前提条件なしで」と応じる
安倍は、両国が批准までした56年の「日ソ共同宣言」の原点に戻って、日ロ関係を再構築する必要を痛感。鈴木宗男と佐藤優を使って、2島それぞれの主権を認めた平和条約の締結を画策。正式に2島返還を提案した親書をプーチンに手交
l 「私はトランプを説得する自信がある」(安倍がプーチンに断言)
'18年11月、シンガポールでの東アジアサミットにプーチンが初めて出席するのを機に、日ロ首脳会談を開催、安倍から具体的な提案を行い、米軍基地設置についてはトランプを説得すると言い、「引き分け」を強調
l 「現実的な提案である。合意した」(プーチン)
プーチンは安倍の提案に合意し、作業を始めようという
l 「交渉官は、秋葉次官としたい。総理直結にしてほしい」(安倍が河野外相に)
安倍は、秋葉の官僚組織の利害得失に拘らない、国益と戦略から発想する姿勢を高く評価するが、河野の反対に遭って断念。代わりに森健良外務審議官を充てる
l 「安倍さんは失うものはゼロ、返してもらうだけだろう」(プーチン)
年初ロシアが包囲されているという危機感の下、祖国防衛戦争の強迫観念に彩られ、姿勢が硬化。日本側の問題解決への意欲を示した年頭所感に対し、約束を歪曲していると抗議
4島在住ロシア人の強い反発がプーチンの態度を硬化させ始める
同時に2島返還構想に対し国内からも批判が出始める
‘20年7月、ロシアは憲法を改正して、領土の割譲と、そのための対外交渉を禁じる。「隣国との国境画定・再画定作業は除く」と例外規定があるが、ロシアは日本との交渉がこの例外にあたるか否かを明言していない。翌月、安倍は辞任を表明
l 「しょせん、プーチンはスパイなんだ」(英首相キャメロンが安倍に向って)
'22年2月、ロシアはウクライナに侵攻。日本のロシア外交は全面的な見直しに
12 習近平
l 「靖国に行くのかどうか、そこです。行かないということでいいんですね」(福田元首相が安倍に確認)
安倍が習近平に最初に会ったのは’13年9月。ロシアでのG20会合の際で、習が胡錦涛に代って半年のこと。以後、台湾、尖閣、靖国と、争点が広がり、首脳会談の展望は開けず
福田が訪中する際、習近平に首脳会談を持ちかけるよう要請。福田は習に安倍の靖国参拝はないことを伝える
l 「政治的困惑を克服することで若干の認識の一致を見た」(日中両国事務方の会議の共同声明)
l 「その名前は軽々しく口に出さないでください」(中国側交渉団員が日本側に)
中国側が「指導者の発言」というので、日本側が「それは習近平のことか」と聞くと、先方は「軽々に名を呼ぶな」と真顔で制した
l 「4つの基本文書は両国関係のバラスト、4項目は安全弁」(習近平)
両国の意見が相異する4項目につき、お互いが相異を認めて、相手の意見にチャレンジしないことを合意
l 「中国側は一方的に現状を変更しようとしている」(岸田外相が駐日中国大使に抗議)
‘16年8月、中国海警局の公船が尖閣の領海内に侵入
l 「日本はやや声が大きいようである。日本は米国に比べても声が大きい」(習近平)
'16年9月、杭州で日中首脳会談で、習は安倍に、北朝鮮のミサイルから東シナ海の中国の動きなどに対し日本が抗議の声を上げていることに対し苦言を呈する
l 「アジアインフラ投資銀行や『一帯一路』について、日本からも協力をお願いしたい」(習近平)
日中経済が相互補完性を特徴としているのを利用して、習から安倍に協力を持ち掛ける
l 「中国という国は戦前の日本の間違いをそのまま繰り返しているような気がする」(麻生)
国家安全保障会議の4大臣会合で習の協力要請を検討したが、安倍以上に対中タカ派の麻生は警戒。岸田外相、稲田防衛相とも反対
l 「じゃあ、書き直したほうにしよう」(安倍が信書の草案を見て)
'17年5月、一帯一路サミットへの招待を受け、安倍は二階幹事長を代理派遣し、親書を持たせる。外務省案は「参加留保」だったが、今井が「協働型」の内容に変更
l 「僕の知らないところで親書を勝手に書き換えるんだったら、俺は辞表を出す」(谷内)
安倍が内容を無断で変えたことに対し、谷内は今井に対中外交から降りると憤懣をぶつける
今井の”暴走”の証左とされ流布されることになる事件だったが、対中政策そのものが「競争」から「協調」へと軸足を移していく過程でもあり、劇的に重要となる
l 「もし、習近平主席がアメリカ人だったら、どの政党に入りますか?」(安倍が習に聞く)
トランプという変数の登場は、日中が互いの関係維持の重要性をこれまで以上に確認し合うことになり、’18年を通じて日中関係はさらに安定に向かう
l 「こんなゲームを続けるなら、関税でぶちのめしてやる」(トランプが中国への不満を爆発)
トランプ政権になってから、日米中の三角関係のうちの2辺の動きが、他の1辺に反動をもたらす力学が生まれやすくなるが、トランプは意に介せず、2国間主義を追求
l 「安倍政権じゃなくて、国家情報法を恨んでください」(今井がファーウェイのCEO任に)
トランプ政権は、関税引き上げ圧力を使って対中貿易不均衡是正を主眼に置くと同時に、中国のハイテク企業が巨大な補助金を背に世界市場を制覇し、「軍民融合」政策によって西側の国家安全保障に脅威を与える地経学的挑戦に応戦する一歩を踏み出す
中国が国家情報法を制定したためにファーウェイを5Gから外したことに任が今井に抗議
l 「習主席は、総理を前とは違うように扱っているのか?」(トランプが安倍に聞く)
安倍が習近平に対中の懸案をぶつけ、その進捗状況をトランプに報告。習が安倍の言い分を正面から受け止めていることを聞いて、トランプにはある種のやっかみと警戒感のない交ぜになった感情が疼いているのではと、安倍は感じる
l 「トランプは安全保障観をもって台湾防衛は考えてない」(安倍がトランプに)
安倍はトランプとの対中外交のすり合わせに関しては細心の注意を払う。”オバマ・カード”を使って、尖閣にトランプの関心を引き寄せ、日米の東アジアの海洋戦略上の課題を正確に理解してもらおうとする。特に台湾に対するトランプのぞんざいな対応に懸念
l 「中国から宿題を与えられるのではなく、中国に宿題を与える」(官邸スタッフが安倍政権の対中外交の狙いを明かす)
‘18年10月の訪中前に、安倍は日中関係改善の兆しを利用して新たな概念と共存の道を探究、何らかの政治文書の検討を今井・北村に指示するが、コロナで立ち消え
l 「互いに付き合うことが礼儀であるという強い認識を持つことが大切」(安倍が辞任後中国政府要人との食事の席で、対中外交を総括)
日中間には、両国の地理的な近さと経済の相互依存に止まらず、長く、深い歴史的かつ文化的交差に根差す文化交流、青年交流、環境政策協力、「パンダとトキ」など日中友好の「タマ」は多いが、地政学的緊張が高まるにつれ、それらのタマを外交に使えなくなる
13 トランプ・タワー
l 「アベはジャパン・ファースターです」(NSAに就任予定のフリンが事前にトランプに日本をブリーフする中で)
'16年11月、安倍は'83年完工のトランプタワーに到着。安倍は、「我々2人には、新聞に叩かれながら、選挙で勝つ、という共通点がある」と言って、トランプの爆笑を誘い、いきなり1月27日の首脳会談を申し入れる。お土産は本間製の金のドライバー
l 「米国に大統領は1人しかいない」(トランプに会いたいとい安倍に対しライスが回答)
大統領就任前には、外国の指導者には会わないのが慣例だし、作法も無視した安倍の要望をライスは詰(なじ)るが、非公式とし、45分に限定する条件で黙認
l 「英国やカナダから自分のところに直接、クレームが入ってる。『また、シンゾーか』とね」(クシュナーが首席補佐官同士のパイプを作ろうとして密かに派遣した今井に対し)
就任後の最初の首脳会談に英ロカが名乗りを上げていると言われ、ゴルフを約束
l 「急激な円高になればアベノミクスは終わる」(安倍が首脳会談を前に浅川財務官に対し、首脳会談でトランプが為替を話題にしないようにしたいと告げる)
トランプは、中国と日本をやり玉に挙げ、自動車産業をアメリカに取り戻そうとする
l 「両首脳は、日米安保条約第5条が尖閣に適用されることを確認した」(日米共同声明)
'17年2月、初の日米首脳会談で共同声明発表
l Good Shot!(トランプが安倍のドライバー・ショットに対し)
トランプは、「人間関係を築く上では20回の食事より1度のゴルフの方が遥かに効果的」と言う。結局日米で5回ゴルフをする
l 「我々は、100%、日本とともにある」(北朝鮮によるミサイル発射の報がトランプ・安倍夫妻の夕食会の席にもたらされた際にトランプが)
トランプと安倍は共同記者会見に臨み、北朝鮮への抗議を表明
l 「日本は打撃力を持つ以外選択肢はない、という論理で押し通せばいい」(トランプ)
トランプは、日本の打撃力保持を後押しし、すべての責任は北朝鮮に押しつければいいという
l 「感覚的に言えば、戦争が起こる確率は6割5分です」(河野克俊統合幕僚長がダンフォード参謀本部議長との会談の内容を安倍に報告)
北朝鮮のミサイル攻勢はこの年後半一段と加速したのに対し、トランプは記者会見で、「北朝鮮は米国に対する脅しを一切しないことだ。世界が今まで見た事もないような火炎の怒りfire and furyに見舞われることになる」と北朝鮮に対する最大級の警告を発する
l 「日本は100%、米国とともにある」(安倍がトランプに対し)
'17年9月、北朝鮮が核実験強行。日米韓の連携強化。安倍は直後にプーチンとも電話会談を行い、深刻な懸念を共有。プーチンは対話と交渉への回帰の可能性を示唆
l 「すべての選択肢をテーブルの上に置く米国の立場を完全に支持する」(安倍が『ニューヨーク・タイムズ』に寄稿し、トランプの強硬策の背中を押す)
11月、米海軍は空母3隻を日本海に派遣して軍事演習を行い、北朝鮮への抑止力を強化
l 「あなたの力の源泉は、米国は何をするかわからないとみんなを不安にさせることだ」(安倍がトランプに)
トランプは空母を動かすための膨大な経費の負担を日本に迫るが、駐留米軍の経費は日本が負担しているので、加州に駐留するより安上がりだと言われると大笑いして要求を撤回
l 「ボタンはつねに私のデスクの上に置かれている」(金正恩が新年の演説で)
トランプと金は「核のボタン」をめぐる言葉の応酬を繰り返す
14 金正恩
l 「トランプの頭の中は、すでにディール・モード」
'18年3月、南北首脳会談開催に合意した韓国が、トランプのタフな姿勢のお陰と表敬訪問した際、「金がトランプを招待したいと言っている」と伝えるとトランプは舞い上がる
安倍はすぐにトランプに電話するが、「トランプの頭の中は、すでにディール・モード」で、トランプと金のブロマンス(男同士の親密な関係)が始まる
l 「うまくいった点とうまくいかなかった点があった」(安倍がトランプに)
'17年4月、2回目の日米首脳会談では、金との首脳会談に臨むに当たりトランプが留意すべきことを、過去の日本の経験に照らし伝える。上手くいった点は日朝共同宣言を発表できたこと、うまくいかなかった点は(拉致問題で)秘密外交を行ったこと
l 「在韓米軍は本当は撤退させたい、それが自分のホンネだ」(トランプが安倍に)
在韓米軍撤退の策謀に乗ってはいけないと説く安倍に対し、トランプは反論し、韓国の文政権を女々しいと批判
l 「実際、準備など必要ないんだ。大切なことは態度なんだ」(トランプが安倍に)
米朝会談の開催をめぐる両者の激しいやり取りの中で、トランプは「準備万端」と意気軒高
l 「さあ、世界最大のショーが始まるぞ」(トランプが米朝首脳会談を前に)
‘17年6月、初の米朝首脳会談がシンガポールで実現
l 〈トランプは内心、軍事作戦を怖がっているのではないか〉(安倍の受けた印象)
トランプは、北朝鮮に対し断固たる姿勢を取ったが、軍事作戦にはごくごく慎重で、関係閣僚に諮らずに米韓合同軍事演習の中止を金に約束してしまい、米側の安全保障政策の意思決定がまともに機能していないことが赤裸々となる
l 「『終戦宣言』という言葉はなかなか響きがいいじゃないか」(トランプが安倍に対し)
南北間の「終戦宣言」も平和協定も、在韓米軍の存在意義を薄め、その正当性を疑問視することに繋がりかねず、安倍はトランプに、北朝鮮が核開発について決着をつけるのが先決で、それまで安売りするべきではないと説いたが、トランプは聞く耳を持たない
l 「よかったら、エアフォース・ワンに一緒に乗らないか。平壌まで送るよ」(トランプが金に)
米朝交渉は決裂。3回目が南北国境のDMZで開催。その後軍事演習再開で交渉は終わる
l 「韓国は北朝鮮よりも日本のことを遥かに恐れているように見える」(トランプが安倍に質問)
トランプはことあるごとに、日米同盟は(片務的で)不公平だと不満を述べたてる
トランプの質問を安倍は一笑に付したが、安倍は日韓協調を阻む根本的な問題をトランプに知ってほしいと、国際条約を覆す判決を韓国最高裁が発出したのが問題の発端だと説明
l 「新しい内容がない以上、受け取れない」(安倍が北朝鮮の「再調査結果」に対し)
トランプの対北「前のめり」を利用して「拉致問題」の解決を探るが、北朝鮮の態度は変わらず
l 「まだ、生きているのであれば、私が取り返すことができる」(トランプが安倍に対して)
'18年2月、平昌五輪の開会式で金与正と安倍が同席するが、接触はならず
'18年4月、安倍が米朝首脳文書への明記を要望したのに対し、トランプが応諾
l 「私とシンゾーは勝利する。あなたの娘を取り戻す」(トランプが有本の母親の手紙を読んで返事を書く。母親は翌年死去)
‘19年5月、国賓として来日したトランプは拉致被害者の家族と再会し、奪回を約束
l 「日本人は過敏で不安なのだ」(ライス)
小泉時代の田中による秘密交渉に対し、米側には日本の独自接近に対日不信感が噴出
第1次安倍政権ではブッシュ政権との間が拉致問題を巡ってぎくしゃく。安倍とライスの間に相互不信があり、ライスは安倍の反応を「過敏」と見做し、安倍の自信のなさを問題とした
l 「拉致が入らないのなら、北朝鮮のところは全部落としてもらって結構だ」(安倍)
‘19年8月のG7の共同声明の骨子からアジア太平洋の関心事がすっぽり抜ける
北朝鮮も入れろと主張する安倍に対し、核か拉致かの選択を迫られ、主張を取り下げ
l 「拉致問題の解決とは何ですか?」(岸田が安倍に問い質す)
‘22年、辞任後岸田が安倍に拉致問題解決につき教えを乞う。安倍は今の金王朝が終わらない限りムリとホンネをいい、岸田は解決の難しさ、リスクの大きさを改めて思い知らされる
l 「そこに近づけば近づくほど、逆走しているかのように見えた」(安倍の側近が安倍の拉致問題解決に向けて疾走した対応を総括して)
小泉の訪朝を機に安倍は拉致問題を巡る政治のうねりを巻き起こしたが、そのうねりは、解決に向けての政治圧力を作り上げると同時に、その解決を難しくする政治力学を生み出した
その政治力学は、過去と現在が引き裂かれたままの日本をどのように再び、回復し、統合するかという「日本とは何か、どうあるべきか」というアイデンティティ政治の潮流を生み出した
安倍は拉致問題で一躍、保守政治家のスターとなり、家族会の全幅の信頼も得て、この問題を国民的な運動にしたことが、安倍が首相としてこの問題に取り組む上での交渉スタンスの柔軟性を奪ったのかもしれない。命を賭けてやってきたので誰も異論を言いづらい雰囲気
15 アメリカ・ファースト
l 「TPPから永久に離脱する」(大統領令)
‘17年1月、大統領令に署名。アメリカは2国間交渉に軸足を移す
l 「あなた方は80年代、不正な貿易の犠牲になった」(トランプがハーレーの幹部を招いて)
トランプは自らの一存で再び、’80年代の貿易戦争を仕掛けているように見えた。かつてのルールに基づく国際秩序を他国と共に多角的に作っていく意思は全く見られない
l 「麻生副総理は、いかにもタフな交渉のプロという感じだ。オーラが違う」(トランプ)
日米2国間交渉の責任者に安倍は麻生を起用、ペンス副大統領との間に「落ち着いた話し合いの場」を作ろうと提案し受け入れられる。トランプは麻生のオーラに比べ自陣営の頼りなさを自虐し、防衛負担問題も含めるよう注文を付ける
l 「中国製の電気自動車を侮ってはならない。中国は物真似するのが上手だ」(トランプが中国製自動車の劣悪な品質など問題にならないと言ったのに対し安倍が反論)
安倍は対中経済・貿易面での対応についても自説を披露
l 「日米貿易協定は、TPPを”つまむtweak”ことにすればいい」(ウィルバー・ロス商務長官)
米側の関心品目は自動車と牛肉で、日米貿易不均衡の解消と日米FTA締結が目的
l 「私はフック首相(ベトナム)に連絡してみます。あなたはシンガポールと話してもらえますか」(安倍がターンブル豪首相に)
ターンブルは安倍に米国抜きでもTPPをやろうと持ち掛けていた
l 「カナダがダメならTPP10、メキシコもダメならTPP9もやむなし」(安倍の意志)
‘17年11月、トルドーがTPPの閣僚合意に異を唱え、他国の顰蹙を買う
カナダの離脱で、NAFTA同盟国のメキシコも外れる可能性がある
l 「米国がリーダーシップを発揮できないとき、この地域の有力国が他国を引っ張るのは初めてのこと」(オバマ政権で米側TPP交渉の中心だったフローマンがTPPを推進した日本のリーダーシップを称える)
日本の貿易自由化はそれまでアメリカが引っ張ってきたプロジェクトだったが、TPP11は日本が前面に出て引っ張った初めての経験
l 「ドナルドにも不満があると承知している」(安倍がトランプに交渉遅延の言い訳)
‘18年4月の日米首脳会談のテーマは貿易問題。麻生・ペンスの交渉に進展がないことにトランプが苛立ち
l 「いや、我々としては『自由で』は外せない」(安倍がトランプに)
安倍は農業のこれ以上の自由化はムリとし、トランプは「相互的」ということを自らの貿易戦略の根幹・ボトムラインとした。「自由で公正な貿易取引のための協議」立ち上げに合意したが、「相互的な」を盛り込む代わりに「自由」は不要というトランプに対し、安倍は「自由」に固執
l 「シンゾー、ここからはわれわれは単なる友達じゃすまない」(トランプ)
トランプは、より攻撃的になる。「友達になったことを反省している」とまで言い出す
l 「タップ、タップ、タップ」「ピーナッツ・ピーナッツ・ピーナッツ」(トランプ)
'18年5月、トランプは、安倍が選挙を口実に待てと言われ、「タップ、タップ、タップ」とタップダンスのように踊り続けてきたと不満、自分が求めているのはちっぽけなこと、「ピーナッツ・ピーナッツ・ピーナッツ」だ
l 「オーストラリアが日本を守ることができるというのか」(トランプ)
日米間協議で唯一残った問題点が牛肉のセーフガードの発動基準だと聞いたトランプが、米豪を同列に論じる日本に対し不満を爆発させ、合意が反故になり兼ねない
l 「スイング・ステートからも買い入れましょう」(安倍がトウモロコシ輸入の積み上げを提案)
日米決裂の事態回避、両首脳の共同記者会見ではトランプも上機嫌。翌年日米貿易協定締結
l 「どうやってドナルドを手なずけるの?」(メルケル)
何かにつけて安倍を持ち上げるトランプに欧州首脳たちは「何が秘訣なのか」首を傾げる
安倍が”勝ち組”の雰囲気を醸し出しているのもトランプと波長が合う一因
反対に、トランプとの「ケミストリー(相性)」でウマが合わなかったのがメルケル
l 「お世辞はよく言ったが、へつらい、追従はなかった」(ホワイトハウス高官が両者関係の秘訣を回顧。トランプ世界の中に入り込むが入り過ぎない)
トランプは説教を嫌い、お世辞が効く。朗報を持ってきた人を好む。安倍はそこに付け入る。相撲に誘ったり、新天皇の最初の国賓に招いたのもその1例
l 「トランプの安倍批判の独り言は、安倍の政策目標の旗振りをしていたようなものだ」(ホワイトハウス高官が、トランプの’18年5月の赤坂離宮での安倍批判の独り言を評して)
安倍は首脳会談ごとに新規雇用創出など日本の対米投資の「アップデート」をブリーフし、トランプはそれを直ちにツイートして戦果を誇った
l 「いささかの解放感」(ターンブル)
米国の多角的なアジア関与を執拗に働きかける安倍をトランプは時に疎ましく思ったし、時に爆発もした。安倍が何よりも懸念したのは、トランプの同盟観(=同盟に対する無関心と軽視)だったが、そうしたトランプ・リスクを大方封じ込めることに成功しただけでなく、安倍が自らの防衛責任を果たすべきとの政策目標実現のためにトランプを大いに”活用”したのは米側も認めている
トランプのアメリカ・ファーストのお陰で、米国がアジアへの関与を部分的に希薄にしたことがこの地域の力とリーダーシップの空白をもたらし、それを自分たちで埋め、自分たちの地域秩序を作りたいと志向したのが安倍でありターンブル。ターンブルは、「米国のいないTPP11の船出に日本がリーダーシップを取ったことに加盟国がある種の解放感を感じた」と言う
16 自由で開かれたインド太平洋
l 「地図を用意してきました」(ジャイシャンカール・インド外務次官)
‘16年11月、インド・モディ首相訪日。ジャイシャンカールは、インド洋の地図を見せながら、中国の「一帯一路」の進展、特にスリランカとオマーン進出への危機感を訴える
安倍も中国がブルー・ウォーター・ネイビー(制海権能力を持つ外洋海軍)になるリスクを強調
l 「居心地のいいゾーンから抜け出してほしい」(ジャイシャンカール・インド外務次官)
インド側は、「地政学のより鋭いセンスを磨くことがインドとの関係を築く上では役立つ」とし、日本からの経済協力を引き出そうと、日本に対し「経済による影響力」によって他国に働きかける外交に留まらず、戦略的関係へと進むよう呼び掛ける
l 「日本はインドを発見し直しました」(安倍が呼び掛けに応えて)
‘07年、安倍がインド国会で演説。自由と繁栄の海を共に豊かにしていく仲間としてインドを「発見」し直したと言い、インドの議員たちの琴線に触れ、大喝采を浴びる。当時州知事だったモディと安倍は友情を育み、その信頼関係の上に、安倍の外交理念と外交ビジョンを最も鮮明に表す「自由で開かれたインド太平洋」戦略とQUAD(日米豪印戦略対話)が生み出される
l 「わが友、安倍さん(My Friend Abe San)」(モディの安倍追悼文のタイトル)
‘14年8月、モディは就任後初の外遊先に日本を選び、「南シナ海における変化」への懸念を共有し、インフラや人的交流に合意。安倍は年上のモディをさん付けで呼び、モディは「閣下」と呼んだが、追悼文では初めてタイトルをさん付けで呼んだ
l 「FOIPのポイントは二面性にある」(FOIPの構想を出した外務省市川恵一外務省総務課長)
'16年8月、日本とアフリカ各国が5年に1度会合を持つアフリカ開発会議TICADの席上、安倍が「2つの大洋の交わり」を地理的、戦略的、かつ理念的に再編し、「自由で開かれたインド太平洋FOIP戦略」へと組み上げる
市川は、FOIPの持つ「平場でのナラティブとより実務的かつ秩序構想的な概念」の二面性をポイントに上げる。「価値観」において中国と対抗しつつ、「原則」においては中国との連携を可能にするよう、「主権」「航行の自由」「法の支配」といった原則を示す
l 「FOIPを使わせてもらえないか」(国務省政策企画局長のフック)
‘17年11月、トランプ初のアジア歴訪に際し、米側からFOIPを使いたいとの要望
FOIPのポイントは、国家主権や「外からの強制からの自由」という「原則」であり、トランプ政権も国家安全保障戦略の中にFOIPを盛り込み、日米の戦略連携を象徴する言葉となる
マティス国防長官は、米軍の太平洋軍司令部の名称を、インド太平洋軍司令部に変更
l 「インド太平洋という言葉は使わないように」(中国政府が近隣諸国に駐在する中国外交官に指示)
'08年豪首相ラッドが「アジア太平洋共同体」構想を唱えた時にはASEANが強く反発したが、今回は「戦略」を外した上に「インド太平洋」だったことから好意的な受け止め
l 「中国を封じ込める試みであるかのような印象を回避したい」(バーンズ国務次官がシンガポールの外務次官との会談で)
FOIPの登場は、その戦略的土台としての役回りともいうべきQUADの再生に弾みをつける
‘04年のスマトラ沖の津波の人道支援の中心となった4か国による戦略的対話の立ち上げを狙った安倍が『美しい国へ』の中で提唱するが、中国を意識した他国が乗り気を見せず
l 「いくら中国の問題点を指摘しても、言葉だけではだれも聞く耳を持ちません」(安倍が辞任後北村滋に対して)
安倍は国際メディアに寄稿、「日本の外交政策は、戦略的な地平線をもっと広げなければならない」とし、海洋民主主義同志4国による連携の必要性」を説く
l 「QUADはNATOの創設に次ぐ最も重要な戦略的展開」(豪首相アボットが安倍の最大のグローバルなレガシーと称える)
安倍の熱心な説得と、中国の脅威の高まりが4国の結束を高める
l 「日本の潜水艦をオーストラリアに売ってもらえないだろうか?」(アボットが安倍に)
'14年4月、日豪首脳会談で日本の高性能潜水艦を売ってほしいとの申し入れがあったが、その後アボットは、「独断決定だ」として政争に負け、ターンブル政権の下で競争入札となる
l 「まさか日本がフランスに負けるとは思わなかったわ」(メルケルが安倍に)
戦後最初で最大の日本の武器の輸出商談は挫折。武器輸出3原則は見直したが、潜水艦協力における「戦略的意義」を両国間で共有できなかった
l 「インド太平洋に対する超党派合意が最大の外交成果」(オブライエン国家安全保障担当大統領補佐官がトランプに対し)
戦後、日本の政治指導者が発した言葉が世界における日本のイメージや存在感を印象付けたケースは、’70年代末福田赳夫首相が語ったASEANに対する「心と心の触れ合いheart to heart」などごく少数で、日本の政治指導者は理念や言葉で自らの戦略と国益を世界に向けて語ることに臆病
オブライエンは、インド太平洋戦略をトランプ政権の最大の外交成果だと持ち上げ、具体的な政策方向を記した枠組み文書の機密解除・公表の踏み切りに大統領の承認を得る
l 「この言葉はトランプ語ではありません。それはアベ語です」(日本側がキャンベルに)
FOIPとQUADの超党派合意形成には日本側も背後で参画
次期バイデン政権のトランジッション・チームは外交政策からFOIPを”トランプ語”だとして外したが、日本側はアジア担当のカート・キャンベルに、”アベ語”だとして残させ、キャンベルは新設の「アジア太平洋調整官」として政権入り
17 G7 vs. ユーラシア
l 「この世界は残虐なヤツが勝つんだ」(プーチン)
‘13年6月、安倍が初めてG8サミットに参加。シリア内戦が議論、アサドを降ろせと非難する西側に対しプーチンは、アサドを降ろしてもいいが、テロリストに代わるだけだと反論
プーチン流の「中東では冷酷で強い者が勝つ」という権力政治的な発想は現実をよく捉えている面があると安倍は思いながら、それに続く日ロ首脳会談に臨む
l 「証拠がないものはムリだ」(安倍がオバマに対し)
アサドの化学兵器使用への軍事制裁発動を巡る米ロの対立はG20に持ち込まれ、安倍はオバマから支持を求められたが、国連決議が必要だと慎重姿勢。イラクの大量破壊兵器のこともあり、「証拠がないものはムリ」と押し通す
l 「この制裁の紙は回収した方がいいんじゃないの?」(メルケルがオバマの配布した紙を)
'14年3月、ロシアがクリミア併合宣言。その年ソチで開催されるG8はキャンセル。G8からロシアを追放。代わりのG7でロシアへの制裁を議論するが、それぞれの対ロ関係はまちまちで、G7としての一致した対応としては、非難の共同声明発出を安倍が提案し纏まる
クリミア併合後の危機の間、メルケルは38回もプーチンと話したが、そのたびにプーチンが嘘を重ねていることを知り、オバマに「あんな嘘つきをどう扱っていいのかもうわからない」と嘆く
l 「片目をつぶるのはいい、しかし、両目をつぶるのはダメだ」(‘16年伊勢志摩サミットで安倍が盲目的な対中関与再考を説く。貿易取引は継続するが、知的財産権の侵害は許さず)
安倍は計8回出席のサミットで、中国の挑戦に対するG7としての共通の取り組みの大切さを訴え続けた。ロシアがクリミア侵攻における中国の理解に感謝したと聞いて、安倍はロシアをあまり追いやると中ロが連携し、中国がより攻撃的になる恐れがあるとして、何らかの形でG8を維持するべきと考えた。天然ガスの過半をロシアに頼るメルケルも同様に考える
l 「なんであなたは先に行っちゃたの?」(メルケルがAIIB加盟を率先したキャメロンに対し)
'16年のドイツ・サミットでは、中国が推進するAIIBに欧州4か国がこぞって参加を表明
抜け駆けしたキャメロンに対しオバマは西側同盟国を分断したことを詰り、後味の悪さが残る
l 「敵ながらあっぱれと思わないか?」(米政府内での中国の動きに対する評価)
途上国のインフラ投資、なかでもユーラシアへの投資に関し、中国の対応は極めて戦略的
日米は、従来の発想に拘っていて対応が遅れている
中国は、日本に副総裁のポストを見返りに第2位の株主を期待。日米の分断を図って来た
l 「ほら、アンゲラ、オレが何も与えないって? これをくれてやる」(トランプ)
'18年6月、ケベックでのサミットはトランプの参加で大荒れ。メルケルに絡むトランプが、おメリカの駄菓子をメルケルに放り投げ、メルケルは無視。シリア難民を受け入れるメルケルはトランプにとって唾棄するグローバリストそのもの
貿易問題は関税の応酬で決着がつかず、トランプはWTOからの脱退を仄めかす。安倍だけがトランプを部分的に弁護し、トランプに恩を売る
l 「こんな腐った合意内容では、イランの核兵器を阻止できないことは自明だ」(トランプ)
'19年8月、ピアリッツでのサミット。北朝鮮がアジェンダから落とされた(14章)が、その裏にはフランスのイランとの核合意へのアメリカの復活問題があった。前年のアメリカの離脱で、イランの報復が始まり緊張が高まる
l 「できるだけ早くイランを訪問し、ハメネイ最高指導者に私のメッセージを伝えてほしい」(トランプが安倍に。トランプはいつでも会う用意があるという)
マクロンと並行して安倍もサミット前にイランを訪問し、米イラン関係修復に奔走。トランプからも地ならしを期待される
l 「米国がイランに武力行使したら、一番被害を受けるのは日本なのだから」(安倍が今井に)
‘80年代のイラン・イラク戦争の仲裁を中曽根がしようとした際地ならしをしたのが安倍晋太郎外相。イランとアメリカが断交して以来、日本はアメリカにイランの石油に関し苦汁を嘗めさせられ続けている
l 「唯一、私の政権だけが対話の道を試す勇気を持っていた」(ロウハニが安倍に)
'19年6月、安倍がイランのロウハニ大統領を訪問。国交樹立90周年。安倍の仲裁申し出に対し、ロウハニは自ら進めた核合意からの米国の離脱を非難する。安倍は、緊張緩和を条件に大型の経済協力プランを提示したが、イランは経済制裁の解除が前提との立場を変えず
l 「こっちからトランプへのメッセージはない」(ハメネイが安倍に)
ハメネイとも会談。安倍晋太郎は'83年ハメネイを表敬。ハメネイはトランプを激しく攻撃
l 「1953年を覚えているでしょう。イランと日本との間のあの歴史的な出来事を」(ロウハニが安倍に)
イラン側は日本との関係強化に興味を示すが、トランプとの会談を促すための”エサ”のように提示したことに違和感を感じ、独立心をもって歩むべきとして、’53年の出光の日章丸事件に言及。イランがBPを国有化したのに対抗して英国が海上封鎖したが、日本はそれをかいくぐってイランの石油を輸入。反植民地主義を掲げるイランにとって国有化は、主権完全回復の象徴であり、勇気ある日本の行動を称えた
l 「日本の懸念が100%としたら、サウジの懸念は1000%」(サウジのサルマン皇太子)
'20年1月、安倍はサウジを訪問。第2次政権での1019回の首脳会談の対面での掉尾
サウジは'16年イランと断交、イランからの攻撃に耐えながら、安倍のイラン訪問を建設的だと評価。ペルシャ湾の航行の安全確保のための自衛隊派遣に対しサウジの了解を取り付けるが、皇太子はホルムズ海峡等の海上安全保障に関するサウジの懸念は日本の10倍もあると笑う
l 「EUって何なんだ。何であんなのが入っているんだ」(トランプ)
トランプのG7での勝手な振る舞いが、G7そのものを生存の瀬戸際に追い込む。トランプはG7そのものを時代遅れと侮るが、安倍はその裏にトランプの反EU感情を読み取る。国民国家でもない超国家的なEUという存在そのものがトランプにとっては胡散臭い存在だった
18 天皇退位と改元
l 「天皇陛下『生前退位』の意向示される」(NHKニュース)
‘16年7月、数年内の譲位の準備が進められる。最初に天皇の意向が示されたのは前年初
l 「国民の理解を得られることを、切に願っています」
翌月、国民に向けた「お言葉」が放映。直接「生前退位」には言及していないが、その気持ちを強く滲ませた。インパクトは絶大で、「認めるべき」が89%に上る
l 「それが天皇の意思であるというと、憲法に記されている摂政を天皇が否定することになる」(杉田官房副長官が風岡宮内庁長官に)
摂政を巡って官邸と宮内庁で激しいやり取り。明治天皇即位までの92代のうち、譲位が64代あったが、院政による皇統の危機の懸念から「終身在位」になった経緯があるため、天皇の意思による退位は、天皇が職務を行えないときは摂政を置くという憲法の規定に反することになるとして、天皇の意思を尊重したい宮内庁と、憲法に沿う運用を主張する官邸が対立
l 「天皇陛下が国民に向けてご発言されたということを、重く受け止めております」(安倍が「お言葉」を聞いた後のぶら下がりで)
宮内庁は「譲位」に拘ったが、官邸は「譲位には意思が入るので、天皇の政治的行為になると反対。あくまで退位であり、「退位する」ではなく「退位になる」と主張
l 「生身の人間として象徴は何をすべきかということを自分は考えた」('05年、天皇が羽毛田宮内庁長官に退位について検討するよう伝える)
天皇が退位の意向を参与会議で口にしたのは’10年。参与は天皇の私的相談役で3人。侍従長の川島も同席。「摂政で対処しては」との意見に対し、天皇は「摂政ではダメ」と強調
l 「だんだん私も陛下に説得されていくんですね」(安倍が当時を回顧して)
象徴天皇制のあり方を実践する天皇にとって政府との意思疎通は不可欠であり、内奏はそのかけがえのない場。天皇は内奏の場で安倍に退位を語り始める
天皇は、江戸後期の光格天皇の事績を研究。在位38年で譲位し、その後は上皇として皇室の伝統文化の継承や学術の奨励に努め、天皇も円滑に御代を繋いだことを称える。歌会始の書体も、光格天皇の書体を選び、それに倣って書いているという。摂政を置くことについては、大正天皇時代の昭和天皇の摂政としての苦痛に言及し、天皇の摂政への忌避感を滲ませる
内奏のたびに陛下が退位に言及するようになり、安倍も内奏時の霊力を感じて意向を尊重
l 「宮内庁長官は常に板挟、それがお仕事」(風岡が自らの職務について)
終身在位派の官邸は、何でも陛下のせいにしたもの言いに風岡に対する不信感を強める
l 「国民の声を聞いて政治が動く、そのようにワン・クッション入れてください」(横畠法制局長官が官邸の杉田に注文をつけて)
恒久的退位への賛成が76%もあり、憲法改正が必要だが、、一代限りであれば特例法で対応できる。今井敬経団連名誉会長を座長とする有識者会議では、4歳上で同じ誕生日の今井が天皇の意向に共感を持って議論をまとめる
l 「特例法だと自分一人のわがままだと見られることになりかねない」(参与の三谷が会議メンバーで教え子の御厨に陛下の気持を忖度して)
会議は退位賛成過半となるが、特例法による一代限りに対し、陛下は「恒久法でなきゃ困る」と三谷に伝え、三谷は「自分だけのわがままと見られる」と陛下の心情を察する
l 「これは自分の職を賭してやる仕事である」(大島理森衆院議長が有識者会議に反発)
特例法で対応しようとした有識者会議の動向に対し、国会軽視の反発が起こり、衆院議長が乗り出す。さらには小泉政権時代に検討した女性宮家創設の話まで絡む
l 「このままだと皇統はどこかで絶えますよ」(民進党野田佳彦幹事長?)
特例法と皇室典範の付則の改正を一体化し、「今上天皇」とせず「天皇」として、どちらともとれるような形とし、あくまで例外だが、先例にもなり得ると解釈できる余地を残す。羽毛田長官は、退位への道筋をつけたことを評価しつつも、象徴天皇制という制度を守るためには、女性宮家と女系天皇に道筋をつけるべきだったと安倍に不満
l 「批判されるリスクはある。しかし、そのリスクを私は取ります」(安倍が新元号の決定と発表について)
'17年12月、皇室会議で’19年4月末の退位を決定するが、新元号の決定と発表をいつするかについては「一世一元」の伝統との兼ね合いで議論
l 「どれもピンとこない」(安倍が6つほどの新元号案を見て)
明治以降「一世一元」制を導入し天皇の権威を高めようとしたが、敗戦で元号法をGHQが認めず、'79年復活。安倍は出典を国書に求める
l 「これで、どうでしょうか」(安倍が皇太子に新元号案を示して)
4月1日の公式発表の直前、安倍は皇太子に6つの案を示し、「令和」を示唆。天皇は「次世代に任せる」と応える。出典は万葉集の大伴旅人の歌
初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす
l 「新しい元号は、令和であります」(菅官房長官が記者会見で)
l 「1人ひとりの日本人が、明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる」(新元号に関する首相談話)
l 「私は戦争のない時を知らないで育ちました」(天皇が'99年、即位10年の記者会見で)
‘09年、即位20年の時は、「私が心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていうのではということ」と述べる
'19年、即位30年では、「憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く」「象徴像を補い続けていってくれることを願っています」と述べる
l 「本当にありがとう」(天皇が安倍に)
'19年1月、昭和天皇ご逝去30年式年祭で、天皇は安倍に労いの声を掛け、安倍は感激
19 官邸支配と政権危機
l 「(主人が)また総理になっても、私はあそこには住まない」(昭恵)
第2次政権では私邸から通う。第1次政権で昭恵が首相公邸を嫌う
l 「秘書官は親元から評判が悪くなればなるほど価値が高まる」(今井がうそぶく)
政務秘書官はボクシングのセコンドのような役割。親元に関係なく「総理ファースト」に徹する
各省人事には無関心の安倍も、外務省だけは「天領」のように介入を厭わなかった
l 「官邸にいる秘書官というのは生命維持装置なんだぞ」(香川俊介財務相官房長の口癖)
安倍は、財務省とは激しく対峙。民主党時代、霞が関が脇へ追いやられる中、財務省だけは例外で、最大の成果が「社会保障と税の一体改革」だったが、安倍官邸の出現で状況は一変
霞が関の中で首相、官房長官、官房副長官の全てに秘書官を送り込んでいるのは財務省だけだが、安倍官邸では生命維持装置が働かず、必要な情報が入ってこない
l 「カレンダーつくるのうまいよね」(菅が今井に一目置く)
政務秘書官の仕事の中で最も重要なのは首相の政治日程を作ること。新聞の「首相動静」は秘書官の作品。通称”サブロジ”(政策のサブスタンスと日程の理事スティックスの統合)
l 「5分ごとに物事を決められるというのが権力なんですよ」(菅が雑談で今井に)
民主党政権が肝心のことを決められないことにうんざりしていた霞が関は、安倍政権に「決めること」を求める。官房副長官補の佐々木豊成(‘76年大蔵省)に、「菅は決め過ぎた」といわれる程菅は期待に応えた
菅は、「官僚と相対峙した時、政治家の能力が問われる」との統治観を持つ。政治の師と仰ぐ梶山から、官房長官という地位が権力の要であるという統治の現実を学ぶ
l 「各省にみかじめ的な役が効きますからね」(安倍が杉田の起用に対し)
安倍は杉田和博を官房副長官に起用。「杉田と今井はこの政権唯二の社外取締役」といわれる。中曽根内閣で後藤田官房長官の秘書官を務める
l 「我々は、国家官僚なのだから、国全体を見て、仕事をする」(杉田が補室の職員の訓示)
安倍政権の統治を支えた層として、杉田を頂点とする「官邸官僚」たちの存在は大きい。国家の大事を見据え、旧来の各省庁の軛(くびき)を離れ、新たな使命感を持って働いた
l 「倒されるのは正面ではなく背後からだ」(安倍がメイ英首相に)
安倍がメイ首相と「大統領制と議院内閣制の違い」について議論した際に、「大統領は正面の敵と闘い続けるが、私たちは党のバックベンチと闘う」と言ったらメイがその通りという
l 「もし関わっていたのであれば、これはもう私は総理大臣を辞めるということでありますから」(安倍の国会での答弁)
'17年2月、朝日が森友事件をスクープ
l 「記録が残っていないということでございます」(佐川理財局長の国会答弁)
森友と近畿財務局の土地売買契約の記録について追及され答弁するが、後に嘘だと判明
l 「菅さんだって今井さんだって、みんな必死になって君を守ろとしてるんだから」(安倍が行動を控えてほしいと昭恵に言う)
安倍に本当のところを昭恵に聞いてもらおうと菅が迫るが、安倍は言い出せない。昭恵も雰囲気を読めず、悪びれもせずにいつも通りに動き続ける
l 「本当に椅子から転がり落ちるほど驚いた」(石破自民党元幹事長が安倍発言を聞いて)
憲法9条は安倍が長年改正の必要性を訴えてきた最大の政治アジェンダで、3項に自衛隊の正当性を明記することを主張。’17年5月、突然周囲に相談もなく「’20年に新憲法施行」と宣言したが、その後の「モリカケ問題」の予想外の沸騰で改憲は消し飛んだ
l 「こんな人たちに負けるわけにはいかない!」(安倍が都議選の応援演説で)
‘17年7月、「安倍やめろ」の横断幕とシュプレッヒコールに応えた一言が安倍批判を広げる
l 「政権一番の危機」(安倍外しの「大連立」画策の様相を呈す)
‘17年9月、安倍は記者会見で臨時国会冒頭の解散を表明。同日、記者会見に先立って小池都知事が新党「希望の党」旗揚げを発表
安倍はかねがね、政治家としての小池をジョーカーだと思っていた。ゲーム次第では特殊な効果を発揮するとし、小池もそれを自分の役回りだと自任
l 〈小池は、あの犍陀多(かんだた)だ〉(民進党古川元久が小池の振る舞いを見て)
小池は記者会見での質問に答えて、「安保・改憲で意見の違う人は排除する」と言明し、顰蹙を買い、総裁選出馬を見送る
犍陀多は、芥川龍之介の短編小説「蜘蛛の糸」に登場する人物の名前であり、地獄に落ちた大泥棒。極楽の蜘蛛の糸で救われようとするが、他の罪人もつかまってきたためきれて地獄へ堕ちる。小池も希望の党創設で総理の座が上に見えたが、下に有象無象がとりついたので排除しようとした途端に糸が切れた
l 「佐川の答弁に合わせて理財局の指示で書き換えた」(麻生が記者団の追及に応えて)
国有地取引の際に財務省が作成した決裁文書書き換えの疑惑がスクープされ、近畿財務局職員が自殺。財務省は書き換えを認め国会に報告、佐川は懲戒処分を受け辞任
l 「奥様を守るあなたよりも、部下を守るあなたを国民は期待してると僕は思いますよ」(今井が昭恵の道義的責任を認めようとしない安倍に)
安倍の財務省に対する不信感は沸騰したが、今井の職を賭した説得に黙らざるを得なかった
l 「いいんだよ。あれぐらい言ってくれた方がいいんだよ」(安倍が今井に)
もみ消しを財務省に指示した疑いをかけられた今井は『文藝春秋』で森功のインタビューに応えて、安倍が道義的責任を認めて国会でも謝罪していると話す。安倍家の夏合宿に招かれ、洋子からも「今井さんのおかげ」と頭を下げられ、今井も報われた気がする
l 〈麻生さんが辞める時は、自分も辞める時になる〉(朝日新聞が社説で麻生の辞任を要求したのに対し、麻生の辞任は党内の結束にひびが入り、政権の求心力が奪われるとして)
財務省は調査報告書で佐川主導の「改竄」を認め関係者を処分。国会での説明を虚偽と認めた。辞任要求の声に、「辞めずに守る」と決断、1年分の閣僚給料の返納を申し出、続投を表明
l 「これが財務官僚大国 最後は下部がしっぽを切られる」(赤木の手書きのメモ)
‘20年自殺した赤木の妻が佐川と国を提訴。裁判の過程で佐川の関与と改竄が明るみに出る
20 パンデミックと退陣
l 「いや、武見さん、日本はいざとなれば何とかなりますから」(国際感染症対策調整室の室長が武見に)
武見参院議員は、自民党保健戦略委員会を足場に、パンデミック危機対応の脆弱性と有事の体制づくりを訴えて来た。’19年12月にも委員会の会合を急げと要求したが、動きは鈍い
新型インフルエンザ等対策室と兼務で日頃は日が当たらない
翌年初の武漢での原因不明の肺炎の集団感染発生が伝えられ、武見が急かすが、調整室長は特措法の新感染症には入らないと厚労省から指示され動かない
中国が遺伝子配列を発表、新型コロナ感染症として「指定感染症」(2類相当)に政令指定する
l 「スピードが命なので、組織をフラットにする必要があった」(安倍が回顧して)
武漢市当局はロックダウンを発表、一気に緊張感が高まり、官邸主導で危機対応策を発出
チャーター機を飛ばして中国の在留邦人を救出
l 「厚労省には荷が重過ぎます」(加藤勝信厚労相が菅に)
2月には横浜港に到着したダイヤモンド・プリンセスの乗客・乗員に感染者確認。総力戦で対応
l 〈なぜ、どこにもコロナという文字がないのか〉(自見英子厚労政務官が厚労省のまとめた問題整理を見て)
厚労省のまとめた資料は’09年の新型インフルエンザとの闘いを総括した報告書の抜粋で、それ以後何の対策も取っていなかったことが明るみに
l 「答えがちゃんと返ってこないんですよね、全然」(田村憲久厚労相が厚労省の対応を批判して)
厚労省に専門的な医学的知見を注入するために'17年事務次官級のポストとして医務技監を新設したが、必要な情報が何も上がってこない
l 「もう春休みなんだから、ここで一斉に休校したい。子供たちを守ろうよ」(安倍が萩生田文科相に)
小中高の一斉休校を決定、働くお母さん達や給食業者など一律に補償を決意するが、批判の大きさに安倍はかなり参る
l 「危機においては分権は敵です」(杉田が安倍に訴える)
小池が緊急記者会見でロックダウンの可能性について発言、翌日の五輪延期発表を見越しての強硬姿勢に、準備の追い付かない官邸や厚労省は反発。小池は、感染拡大は圧倒的に東京問題だと見做した官邸からの協力要請に対し、都の仕事ではないと再三にわたり拒絶
l 「黄信号を挟んでいただきたい、バッファーが欲しい」(今井が専門家会議の尾身に)
マスク不足に対し、総理室が独自で無料配布に突っ走るが、評判は散々
人と人の接触減を7割にするか8割かで揉め、「最低7割、極力8割」とし、緊急事態宣言を発出し、すぐに一気に全国を対象に拡大
l 「何で岸田なんだ」(二階幹事長が太田充主計局長に)
全国民一律10万円の「特別定額給付金」の給付を表明。その前に1世帯30万円の「生活支援臨時給付金」を決定し、安倍は党主導とするため政調会長の岸田に発表させたが、二階が一律10万円に盛り返す。岸田を使ったのは、安倍が後継として意識し始めたためだが裏目に
l 「泥縄だったけど、結果オーライ!」(民間臨調が当初の7カ月の対応を調査・検証した報告書で、官邸中枢スタッフが政府のコロナ危機への取り組みを総括して述べた言葉を紹介)
同時に、政府の取り組みと体制には多くの疑問が提起されたーーPCR検査の遅れ、政府の権限行使への様々な壁など。国民の評価も、内閣支持率も下落へ
l 「空気が多少濁っているな、とちょっと感じた」(安倍が当時の官邸内の空気を回顧して)
菅と今井の関係がぎくしゃくし始め、情報が円滑に流れない。菅は「矩を超えている」と今井を批判。安倍にも疲れが見え始め自信を無くす
l 〈あの時とまったく同じだなあ〉(今井が安倍の様子を見て)
この夏から安倍の体調が見る見るうちに悪化し始める。潰瘍性大腸炎の炎症を示す異常数値が出ていた。臨時国会前の8月中の退陣を言い出す
l 「ひとたび狙われたら、田中角栄もああなったし・・・・・」(安倍が今井に、国会での答弁修正の気力が失せたと言って)
体調の他にも、「桜を見る会」を巡る疑惑追及に悩む。今回は検察も違法な寄付として政治資金規正法違反の告発を受理
安倍の固い決意を知って、今井は第1次政権最後の悪夢を繰り返さないよう手配
l 「いや、菅ちゃんがいるから大丈夫だよ」(安倍が、「今辞めたら困る」と言う萩生田に)
安倍は事前に菅に後事を托すと言ったが、総裁選で不利にならないよう、表向きは辞任発表当日に通告した形をとる
21 戦後終章
l 「晋三は『宿命の子』です」(『文藝春秋』の安倍洋子のインタビュー記事の見出し)
‘63年晋太郎が初の落選、小学校3年の晋三は政治家の挫折の無残さを骨身に滲みて知る
晋三は3回挫折を経験――父の死(‘91)、潰瘍性大腸炎の再発(‘98)、第1次政権の崩壊
母親の洋子は、「晋三の性格は父親、政策は祖父の岸信介に近い」という。「岸は両岸」と言われるが、「右」のバネの部分は安倍の政策そのもの
晋三のもう1人の父方の祖父・安倍寛は戦争に反対し軍部に睨まれたが、地元では「昭和の吉田松陰」と呼ばれる。翼賛選挙に非推薦で出馬して、鳩山一郎・三木武夫等とともに当選
晋太郎の異父弟で興銀頭取の西村正雄もリベラルな父を慕ったが、晋三の歴史観とその運動を深く憂慮し、国家を誤らせる偏狭なナショナリストとは一線を画すべきと諭し、歴史を知らなさすぎる、歴史から学んでいないことに懸念を表明していた
安倍ほど先の戦争と戦後の現代史を一身に背負った政治家はいない。安倍にとって歴史は純粋観客として観劇する対象ではなく、自らが当事者として関わり、そして裁かれる舞台とならざるを得ない。歴史の当事者意識は、麻生も共有。「戦後終章」のチャプターを安倍は書こうとした。世界の権力政治(パワー・ポリティックス)から逃げずに日本をそこに再び復帰させるというミッションを、祖父と父から受け継いだ。第2次政権は、安倍が否応なしに迫り来る歴史のリアルに再び挑んだ再挑戦の物語
洋子は、岩田明子のインタビューに応えて、「55年の歳月を経て、父と同じ様に国家のために命をかけようとする晋三の姿を見ていると、宿命のようなものを感じる」と語り、『文藝春秋』はこの記事に「晋三は『宿命の子』です」の見出しをつけた
l 「総理大臣となって見る景色は、まったく別だった」(安倍が第1次政権の失敗を回顧)
第1次政権の失敗は、官邸を十分経験しているとの「自惚れ」
戦略も統治も、最後は、リーダーの見識と力量と器量に行きつく
安倍は、第1次政権の退陣直後から「反省ノート」を書き始める。それが第2次政権では、戦術やロジスティックスの心得集となった
l 「将軍型のリーダー」(外務省から内閣官房副長官補に任じた兼原信克)
安倍は議論を好み、議論次第で自分の意見を変える
l 「『積極的平和主義』こそが、わが国が背負うべき21世紀の看板であると信じます」(‘14年10月の臨時国会での首相所信表明演説)
安倍は理念の政治家。理念を正面から掲げ、野党と対立軸を作り、論争し、それを国民の前に提示する政治手法を好む。危機を乗り切るには信念が不可欠
『積極的平和主義』は、安倍の政治家としての全生涯のミッションを凝縮した表看板となる
l 「いきなりアレグロから入っちゃう」(元官邸スタッフ)
安倍はせっかちで早口で活舌が悪く、カキクケコがうまく言えない
安倍の言葉が軽いし、そう見られていることを秘書官たちは懸念したが、安倍の饒舌は最後まで変わらず、「沈黙は金、威信には神秘性が必要」との要諦に対し、安倍には神秘性は無縁
l 「政治家って言葉にできない言葉をいっぱい持っている」(兼原)
安倍政治の特徴の1つは、理念を明確に掲げ、それを言葉としてストーリーで語ろうとしたこと。それも世界に向けて語ろうとした。言葉と演説に対して拘り、スピーチライターの佐伯耕三や谷口智彦を重用
l 「安倍さんの最高の人事は麻生太郎を8年間財務大臣に封じ込めたこと」(官邸スタッフ)
党総裁任期(2期6年)いっぱいの長期政権を目指し、麻生と菅の2枚看板は変えなかった
継続は力なり。それが第1次政権で学んだことのうち最も切実な教訓
逆に長期政権は驕りや緩みを生み、「安倍の最も明瞭なレガシーは、後継者不在」(英『エコノミスト』)と言われる
l 「自民党史上に残る画期的な選挙」(政治学者の境家史郎が’17年10月の選挙を評して)
'17年10月の選挙のスローガンは、「日本、もう1歩前へ」。1億総活躍の上げ潮路線のイメージを投影した言葉。選挙権が18歳以上に広げられたことも意識し、増税の使途変更により高齢者から若年層へ税配分シフトへのモード転換を掲げる。若年層における支持率の高止まりは、有権者全体における支持率を下支えする
l 「彼は尊王開国派であり、尊王攘夷ではない」(初当選時代からの盟友塩崎恭久の安倍評)
塩崎は第1次政権の官房長官、第2次政権の厚労相。「安倍は保守と言われるが、実は改革の人。だから支え続けられた」と述懐。国にプラスになることはやる。右や左ではない
開かれた保守、排外的な姿勢を取ったことはない、グローバルな国家と社会を志向
l 「(吉田ドクトリンの)『9つのノー』のうち核武装を除いてはすべて”巻き返し”た」(米国の歴史学者ケネス・パイルが吉田ドクトリンを見直した安倍外交を分析して)
マティス国防長官の日本の打撃能力保持への支持は、双方の攻撃力を補完的に共振させることで統合抑止力を強化しようという同盟強化論であり、国際協調主義を踏まえた「積極的平和主義」に資する。マティスは、「いざという時安倍と世界に関する話ができる。そういう政治指導者を失った喪失感の大きさに胸が潰れる。日本を守るためにやらなければならないことをやる、必要なことはやるという政治指導者だった」と、安倍の死を悼む
安倍が試みた戦略と政策、なかでも外交政策と安全保障政策は、「吉田ドクトリン」と呼びならわされた自己制約的な対外姿勢から決別しようとする思想と行動を特徴とした
l 「吉田ドクトリン」と「安倍ドクトリン」
安倍が希求する日本の自助と独立への政策展開は、トランプ政権の誕生によってよりシャープな像を結ぶ。日米同盟下、米国の庇護の下で享受してきた特権的平和環境の土壌に花開いた政治空間と言論空間が、戦後の日本を支配してきたが、安倍が再登場したとき、そうした戦後を下支えした国際秩序は根底から挑戦を受けていて、吉田ドクトリンの克服は不可避
安倍は、「グローバル日本」と「開かれた保守」の思想に立脚して、自助と独立の可能性を探求
日本の国家戦略における自助と独立への営みが、歴史問題の政治的克服、法の支配と国際秩序とルールの順守、自由で開かれた公正な地域的な経済秩序構築、近隣諸国との信頼関係の醸成、そして首脳レベルでの対話と意思疎通によってこそ可能になることを、この政権が指し示した点を記憶しておかなければならない。この「安倍ドクトリン」という戦略的理念が将来成熟し、定着するかどうかは、後継者の、なかでも保守政党のリーダーシップ次第
l 「安倍さんは、メルケル語とトランプ語の両方を話せたし、話した」(高村が安倍の政治思想を形容して)
第2次政権の下、日本は欧州先進民主主義国を覆ったポピュリズム的な政治的破壊衝動を抑え込んだ結果、極端な党派性のポピュリスト的罠に陥ることはなかった
安倍は、英国の議会政治と外交をモデルのように思ってきたが、国民投票でブレグジットが決まったのを見て、民主主義国がポピュリズムに洗われると国益を見失うことを目撃した
戦後70年首相談話に真髄が現れている。政治家としてのライフワークである過去の克服――戦後の”自虐史観”の克服に保守としての政治的解答を与えた。戦前の過誤に対する戦後の公式見解を維持した「村山談話」を批判はしたが、否定はせず、敗戦と戦後を同時に「抱擁」した
l 「及第点を取れたのではないかと考えている」(安倍が第2次政権を自己評価)
自ら評価した点は3つ。①平和安全法制によって日米同盟を強化、②経済政策によって雇用を立ち直らせた、③インド太平洋地域において「法の支配」とルール作りを示す
一方で、デフレ脱却を宣言できなかったことを「反省点」に挙げる
l 「リアリズムのすごみ」(野田佳彦が安倍政権を評して)
7年8カ月の長期政権は、国のあるべき構想を明確にし、そのための政治課題を設定し、それを能動的に遂行しようとする極めて理念的かつ行動的な政治において際立っていた。しかし、政策を立案し、遂行する過程では、リアリズムを出発点とし、実務主義を着地点とする、そうした戦略と統治のありようを意識的に追求した
第2次安倍政権は、統治の要諦は歴史から学ぶことであることを教えている。第1次政権の失敗の歴史からよく学んだが、その本質はリアリズムの政治のありようということであり、それが最長の政権を作った最大の秘訣
l 「自公連立は現在の日本政治で唯一の安定的な政権の枠組みとなっている」(政治学者の中北浩爾)
保守の論客の中から安倍のリアリズムの政治に対する失望、疑念、憤激がしばしば表明された。安倍が政治的妥協を重ね、中道に収まるたびに彼らの不満は昂じた
安倍政権のリアリズムには菅の存在も大きい。菅は「できるか、できないか」から発想し、実践。特に公明党との連立維持への執念に彼のリアリズムが最も発揮された
公明党との連立維持と政策合意のための「情と利害と妥協」のリアリズムが、自民党保守勢力を中道へと引き戻す効果を持った
l 「祖父や父と比べられるのはつらいですが、同じ道を歩んだ者の宿命ですね」(安倍が櫻井よしこのインタビューに答えて)
「その先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を負わせてはならない」 戦後70年談話に込めた一言は、安倍の心の叫びであり、「政治家は、時代の要請に対して、歴史的役割を果たすことができるかどうかが重要。戦前、戦中、戦後を政治家として闘った祖父は私の目標であり続ける」と語る
安倍も洋子も、「宿命」という言葉のどこかに宿る悲劇性をも感じていたのだろうか
エピローグ
l 「これが安倍総理の議員バッジと拉致バッジです」(暗殺後、県警本部長が遺品を届ける)
l 「私の弔辞を安倍先生に話して頂くつもりでした。無念です」(友人代表麻生太郎の弔辞)
l 「大きな大きな実をつけて、そして冬になったのだろうと、私は、思いたい」(昭恵の喪主挨拶)
安倍は父と同じ享年67。父の追悼文に吉田松陰『留魂録』の1節を引用。「人間にもそれに相応しい四季がある。志半ばで逝き、人は無念と思うだろうが、そこにも「春夏秋冬」はあった」
l 「安倍総理の時代などとあなたを懐かしむに違いありません」(国葬での岸田首相の追悼の辞。内政と外交の業績を列挙、歴史は達成した事績によってあなたを記憶すると結ぶ)
l 「菅義偉、生涯最大の達成としていつまでも誇らしく思う」(友人代表菅の弔辞。総裁選再出馬を説得した秘話に触れて。盟友伊藤が暗殺された時の山県の歌を披露)
山県の歌は、「かたりあひて 尽くしし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」
l 「『ゴッドファーザーPART III』の最後ですよ」(今井が安倍に答えて)
‘17年タオルミーナ・サミットでのアンコールで演奏された《カヴァレリア・ルスティカーナ》の間奏曲を聴きながら曲の名を聞かれて今井が答える。国葬のBGMにこの曲を選び、献花の隊列の最後尾に他の秘書官たちと並んだ今井は、その時の会話を反芻
あとがき 検証、肉声、そして時代
この本は、第2次安倍政権の戦略と統治を描いた調査報道であり、ノンフィクション
政権の権力中枢の政策決定過程の舞台裏のドラマを検証することを試みた
ノンフィクションとは、現場の写生と再現であり、当事者に肉声で真実を語らせる肉声ジャーナリズム
第2次政権は、理念的かつ現状打破的だった。この政権は、あるべき国際秩序とその中での日本の役割のありようを理念(積極的平和主義)として明確にし、秩序とルールの構築にその形成の段階から参画し、それを実現する戦略と統治の双方の革新を追求した点において、戦後の日本の政治と外交の中で際立っている。同時に、それらの理念と革新を政治的に可能にするに当たってはリアリズムに徹した。この政権の最大の特徴はリアリズムの政治だったことであり、それは妥協の政治でもあった
リアリズムが、日本のサバイバル戦略として不可欠な政治哲学であり政治作法となる、そのような時代に私たちは否応なくいる
安倍にも退任後19回にわたりインタビューし、会話の再現のみならず、内容の補足や補充をしてもらう
筆者が理事長を務めたアジア・パシフィック・イニシアティブによる『検証 安倍政権 保守とリアリズムの政治』の研究成果も活用
文藝春秋 BOOKS
ここまで政治の奥に迫った本はなかった
安倍はいかに首相に返り咲き、戦後の難問に対峙したか?
病に倒れた第1次政権から5年、安倍晋三は再び自民党総裁選に立つことを決意した。それは7年8カ月に及ぶ政治ドラマの幕開きだった――。
アベノミクス、靖国参拝、尖閣問題、TPP、戦後70年談話、平和安全法制。次々に浮上する政治課題に、安倍と彼のスタッフはいかに立ち向かったか?
安倍本人をはじめ、菅義偉、麻生太郎、岸田文雄などの閣僚、官邸スタッフなどに徹底取材、政治の奥に迫る第一級のノンフィクション
(下巻)
世界がアベの動きに注目した!
長期政権に迫る課題と試練。
冷戦終結後、世界は新たなモードに突入する、中国の台頭にどう対処するか? 北方領土をめぐるプーチンとの駆け引き、北朝鮮の核の脅威、そしてトランプとのディール。日本の存在感は増していった。
そんななか、国内でも長期政権を脅かす翳りが現れていた――。
安倍晋三が対峙した「宿命」とは?
2024.10.24読書オンライン
安倍政権検証の新著「宿命の子」 船橋洋一・元本社主筆
編集委員・藤田直央2024年10月11日 8時00分
第2次安倍晋三政権(2012~20年)を検証した「宿命の子」(文芸春秋)の電子版が11日に発売された。著者は元朝日新聞社主筆の船橋洋一氏で、20年の首相辞任から22年に銃撃されて死去する前月までの19回にわたる安倍氏へのインタビューをもとに、戦後日本を変革する「宿命」を負う政治家としての決断や苦悩を記した。出版は22日。
船橋氏は、歴代最長となった安倍政権を支えた麻生太郎、菅義偉両元首相をはじめ、日米などの要人約300人を10年以上かけて取材。アベノミクスや消費増税、新型コロナ対策、拉致問題、対中・対ロ外交、靖国神社参拝といった数々の懸案・課題をめぐる政府内の確執や他国首脳との駆け引きを明らかにしている。
安全保障では、安倍内閣が14年に集団的自衛権行使を認める憲法解釈変更の前年、安倍氏が首相に再び就任してから初の日米首脳会談でオバマ大統領にその意向を伝えていたと指摘。岸田内閣が22年に決めた敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有については、安倍氏がトランプ米大統領から「中国が北朝鮮を抑制できなければ日本は持てる」と促され、18年に来日中のマティス米国防長官に能力保有の考えを示したと記している。
政権終盤にかけ相次いで発覚したスキャンダルに安倍氏が苦悩する様子も描かれる。
妻昭恵氏が森友学園の名誉校長だったことをめぐり、安倍氏は昭恵氏から「どこが悪いの?」と言われ、今井尚哉政務秘書官からは「道義的責任」を認めるよう進言され、板挟みになった。健康問題で退陣の意向を固めた20年8月には、「桜を見る会」問題で自身の国会答弁と実態の食い違いを認識し、「もう答弁を修正する気力がわかない」と語っていた。
船橋氏はあとがきで、この著作を「調査報道」と位置づけ、「2010年代という近過去を、一つの時代として描く、生煮えではあるが歴史として措定する試み」とした。(編集委員・藤田直央)
対ロ交渉・大転換」の決断の舞台裏『宿命の子 安倍晋三政権クロニクル(上・下)』船橋洋一
第135回
佐藤 優 作家・元外務省主任分析官
2024/11/08 文藝春秋
10月に出たばかりの作品であるが、永田町(政界)と霞が関(官界)では大ベストセラーになることが確実と思われるので取り上げることにした。
船橋洋一氏(国際文化会館グローバル・カウンシル・チェアマン、元朝日新聞社主筆)は、本書の性格についてこう記す。
〈私はこの本で、第二次安倍政権の権力中枢の政策決定過程の舞台裏のドラマを検証することを試みた。調査報道と銘打った次第である。調査報道とは、独立した立場から、当事者の間に埋もれ、表に出ない核心の事実を掘り起こし、社会にとって重要な課題を提起する検証ジャーナリズムであると私は考えている。同時に、安倍首相をはじめとするこの政権の主要人物の思想と行動に密着し、彼らの肉声を取り出し、政治と政策の現場を写生し、再現することを心掛けた。ノンフィクションと名乗った所以である。ノンフィクションとは現場の写生と再現であり、当事者に肉声で真実を語らせる肉声ジャーナリズムであると私は思っている〉
『宿命の子 安倍晋三政権クロニクル(上・下)』船橋洋一
本書には、2018年11月14日のシンガポール日ロ首脳会談の準備過程が詳述されている。その中には評者も登場する。評者は今年5月30日に船橋氏の取材を受けた。この時点で船橋氏は、安倍晋三元首相と当時のごく限られた官邸スタッフ、外務省最高幹部しかしらない評者の関与について正確な情報を掴んでいた。ジグソーパズルの最後のピースを埋めるために船橋氏は接触してきたのだ。真実を語った方が安倍氏の想いに適うと評者は思って、船橋氏の質問に答えた。本書のシンガポール日ロ首脳会談の準備過程に関する記述は、評者の知る範囲ではすべて事実である。
安倍首相との面会
評者が本件に関与するようになった理由は、外務省が安倍首相(当時)の期待するロシアのプーチン大統領と噛み合う交渉案を作成できなかったからだ。その過程を船橋氏はわかりやすく記している。
〈冷戦時代の産物である外務省のロシア・スクールは、冷戦後も、二一世紀になっても生き残った。「逆説的だが、(鈴木)宗男先生と佐藤(優)のおかげで、つまりは彼らの脅威から身を守らなければならないため、ロシア・スクールは生き延びた」と外務事務次官経験者の一人は語ったことがある。/「彼らの脅威」――少々、説明が必要である。/鈴木宗男は、北海道選出の衆議院議員で、小渕恵三内閣で官房副長官を務めた。先に述べたように親ロ派議員として有名で、森政権の時の「イルクーツク声明」について日本側で旗振り役を担った。しかし、鈴木は二〇〇二年、汚職事件で逮捕された。二〇一〇年、有罪が確定し、失職した(二〇一九年、参議院議員として国政に復帰)。/佐藤優は、一九八五年、外務省に専門職で入省。一九八八年から一九九五年までモスクワの日本大使館に勤務し、ロシア権力中枢に人脈を築いた。一九九一年八月のクーデターの時、ゴルバチョフ大統領の生存をいち早く確認し、インテリジェンス・オフィサーとして非凡な才能を発揮した。一九九八年、国際情報局分析第一課主任分析官となった。/東郷は一九六八年外務省入省。(略)東郷和彦も外務省ではソ連・ロシアを長く担当した。先に述べた「イルクーツク声明」の時は欧州局長としてその実現に尽力した。/鈴木の逮捕と連座する形で佐藤も逮捕されたが、佐藤は二〇〇五年、それを「国策捜査」であるとして著書(『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』)を世に問うた。東郷も鈴木との関係から“危険人物”とみなされ、オランダ大使を最後に、外務省を追われるが如く退官した。/(略)今井尚哉〔引用者註―首相秘書官兼補佐官〕は月刊誌『文藝春秋』(二〇一八年六月号)のインタビューに答え、安倍のこうした外務省に対する苛立ちを代弁する形で発言した。/「北方領土問題は過去七〇年、解決しないまま続いてきました。森喜朗総理時代の二〇〇一年に採択されたイルクーツク声明で両国は歩み寄りを見せたものの、その後また関係は冷え込みました。ロシアの態度は一貫しているのに、日本の言うことが、政権交代のたびに変わるからです。これまで外務省とも議論を重ねてきましたが、はっきりいって外務省は北方領土問題を前に進めるアイデアを持っていません。僕には、彼らが『不法占拠だ』とただ騒いで自身の数年間の任期を終えているようにしか思えません」〉
評者が外務省退職後、安倍氏と初めて会ったのは、本書にも記されているが、2017年3月10日のことだ。場所は首相公邸で、鈴木宗男氏が仲介し、他に官邸幹部が2人同席した。このときには北方領土交渉の過去の経緯を評者が説明しただけで、踏み込んだ話にはならなかった。評者と首相官邸の接触が緊密になるのは18年8月以降だ。
〈九月四日、北村〔滋〕は東京・帝国ホテルの「レ・セゾン」の個室に東郷を招き、対ロ交渉ポジションに関するより突っ込んだ議論を始めた(その後、一〇月一〇日、一九日と合計三回)。さらに九月二六日には、同じように「レ・セゾン」で佐藤と意見交換した。この四回の「レ・セゾン」会合には今井も加わり、高橋〔真仁〕も同席した。その上で、北村は鈴木宗男と夜の食事(一〇月二五日)をともにしながら作戦を練り上げた。/(略)東郷は、彼がそれまで温めていた構想を語った。/日ロともに四島に対する双方の施政権のみにとどめる。すなわち、ロシアは歯舞・色丹の日本の施政権を認める。日本は国後・択捉のロシアの施政権を認める。主権についてはあえて定めずに、つまり領土問題は解決せずに、平和条約だけを締結する。/東郷は、「国境をあえて画定せずに、人類の共存の新たな在り方を示したい。新しい夜明けにしたい」と言った〉
評者は、官邸幹部から東郷氏の案を聞かされた瞬間に「この案だとプーチンは即座に拒否します」と答え、反発した。なぜならこれは日ロ間の国境線(領土主権)を画定しないので、平和条約で領土問題に終止符を打つというプーチンの内在的論理に反するからだ。
〈佐藤もまた、それまで考えて来た対ロ戦略論を述べた。/「イルクーツクの時に比べ、日本の国力は弱まっている。イルクーツクの時の2+2には戻れないかもしれない。ギリギリ二島返還プラスαを目指すしかないかもしれない」/「しかも、(『日ソ共同宣言』で日本への引き渡しが約された)色丹島についても、ロシアの施政権の下にありロシアの住民が住んでいる。その現実は動かせない。ここでは日本側が譲歩せざるをえない」/佐藤は東郷の構想に異議を唱えた。/「主権をあえて決めないとの案をこちらから持ち出すと、ロシア側は日本の謀略と見ると思います。日本は四島の主権をあきらめていないと彼らは疑う」/東郷は「佐藤さんの懸念もよくわかるが、自分の案で突破できると思う」と譲らない〉
結局、今井氏と北村氏は、評者の案を第一案、東郷氏の案を第二案として安倍氏の決断を求めた。
安倍首相の政治決断
〈二〇一八年一一月五日午後八時半。首相公邸。北村、佐藤、今井が安倍を囲んだ。そして、安倍は、信頼するベテラン外交官をこの席に呼んだ。/(略)安倍は、「レ・セゾン」極秘会合の報告を受ける中で、/〈二島返還で手を打つ以外ない〉/との決意を固めた。/ただ、/〈二島返還プラスα〉/としたい。/「二島返還」だけでは一九五六年の「日ソ共同宣言」からの六〇年間、日本政府は一体、何をやっていたのか、という話になる。/そのプラスαを何にするか。/公邸での会合で、安倍は言った。/「ロシアとの平和条約と領土問題の解決をぜひともやりたいと考えている。現在、この二つの案に絞られている」/それを受けて、北村が、第一案と第二案を説明した。/第一案 二島(歯舞・色丹)返還、国境画定:国後・択捉はロシア法の下、日本に対する優遇措置を適用する「特別制度」を設ける。色丹島は日本法の下、ロシアに対する優遇措置を適用する「特別制度」を設ける。/第二案 四島の主権をあえて明記せず、潜在主権のままにする。歯舞・色丹を日本の施政下、国後・択捉をロシアの施政下に置く。その状態のまま、平和条約を締結する。/安倍はベテラン外交官に両案に対する見解を質した。/彼は安倍の正面に座っている。/「この第二案はダメです」/瞬時に、そうした答えが彼から返って来た。/主権を明確にし、国境線を引かないことには民族間の紛争が起こる可能性がある。国境線を明確に確定する以外、本当の平和は保証されない。/彼は、安倍に聞いた。/「総理、この第一案ですが、これは大変な政治的なご判断ですよ。今までと一八〇度変わるんですよ。これは本当に総理自身のお考えですか」/「私は、それでやろうと思っている」/「わかりました。総理がこれでやるんだとおっしゃるのであれば、やります」/第一案は、二島返還論である。二島先行論ではない。他の二島の返還のための並行協議も伴わない。四島一括返還のこれまでの日本政府の立場とは明確に異なる〉
評者の関与はここまでで、その後、第一案は外務省の了解も得て日本政府の正式案になった。
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