ポール・ニューマン語る  Paul Newman  2024.3.18.

 2024.3.18.  ポール・ニューマン語る ありふれた男の驚くべき人生

The Extraordinary Life of an Ordinary Man         2022

 

著者 Paul Newman 1925年オハイオ州生まれ。俳優、映画監督、レーシング・ドライバー、政治活動家、実業家、慈善家と多彩な顔を持ち、代表作に《ハスラー》《ハッド》《動く標的》《暴力脱獄》《明日に向かって撃て》《スティング》《タワリング・インフェルノ》《評決》など。《ハスラー2》でのアカデミー主演男優賞を始め、アカデミー名誉賞、ジーン・ハーショルト友愛賞など数多くの受賞歴を持つ。オスカー女優のジョアン・ウッドワードとはおしどり夫婦として知られた。2008年、83歳で死去

 

編集・構成 David Rosenthal

 

訳者 

品川亮 慶応大卒。フリーランス・ライター、翻訳業。

岩田佳代子 清泉女子大卒。翻訳家

 

発行日           2023.11.20. 初版印刷  11.25. 初版発行       

発行所           早川書房

 

カバー 袖裏

「ハスラー」「暴力脱獄」「明日に向って撃て!」など、数々の名作に出演し、今なお愛される伝説のスター、ポール・ニューマン。1986年、還暦を過ぎたニューマンは、ひとつの企画を思い立つ。それは、世間から誤解された虚像を正すため、親友で脚本家のスチュワート・スターン(19222015、本書が捧げられている)を聞き役として、口述筆記による自伝を執筆しようというものだった。取材は5年間にも及んだが、当事者の二人が世を去り、記録は散逸したかに思われた。ところが2019年、コネチカット州の自宅の地下室から、その書き起こしが発見された―そこには、劣等感に苛まれた少年時代から、失敗に終わった最初の結婚、終生彼を悩ませた飲酒問題、愛する息子の死、政治への傾倒、俳優としての遍歴、ジョアン・ウッドワードとの50年におよぶ結婚生活に至るまでが赤裸々に綴られていた!トム・クルーズやジョージ・ロイ・ヒル、ジョン・ヒューストンらの共演者、監督、映画関係者などの証言も織り交ぜて、ハリウッド最後の名優の“真実”をあぶり出す、最初にして最後の自伝。

 

 

まえがき                 メリッサ・ニューマン

父がこの本の規格に着手したのは1986

父は信念の人。一貫して他人の干渉を嫌い、インタビューではいつでも居心地の悪い思いをしていた。その父が、この本を出そうと考えたことは、家族である私たちにとっては不思議この上ないことのように感じられる

父にとって協力者はただ1人。《理由なき反抗》の脚本家で親友のスチュワート・ヘンリー・スターン。1986年から一緒に新しい企画に乗り出し、1991年までにインタビューや資料を集めたが、膨大な素材にはまり込んで身動きが取れなくなった。父の死後、スターンは資料をまとめようとしたが、書き起こし原稿も含め、行方不明になったまま彼も死去

2019年、我が家の地下室から鍵付き書類キャビネットにしまい込まれていた原稿を発見

内容は、詳細な自己分析であり、感情や真意、動機の解剖

最も重要なテーマは、慢性的な不安感。自分のことをまがいものなのではないかと疑っていた人間の姿。非凡な顔を持ち合わせ、幸運を味方につけた平凡な男、目指したものを遥かに超えたところに到達してしまった人間。難局を乗り切ってこられたのは才能ではなく粘り強さのおかげだ、父は常にそう感じていた

 

序文

本書で語られるのは、飾り物としての質の高さを賞賛され、母親と彼女の家の装飾品となった少年の物語に過ぎないことが判明。母の愛が偽物であり、実際にはいかなる意味でも自分とは無関係だったという事実に、少年はひどく腹を立てた。それで、少年の核にあるものが、「欲しけりゃあげるからもっていけ! 僕は残ったものだけを大切にするから」と言って、残った自分で懸命に努力し、大嫌いな装飾品の鼻くそ小僧に追いつこうと走り続けた

私は母のピノキオだった。今もなお、もつれて絡み合った自分自身の心や、本当の望みを解きほぐそうと力を尽くしている。訳知り顔の連中全員から、己を切り離すためだ

この本は、こうしたことのすべてを我が子たちに伝えたいという苦闘から生まれた

人生の黄昏に至る頃、この記録をもう一度精査し、いくらかは真実に近いものを含む自伝を作ることになるのだろう。なぜなら、今世の中に存在している記録は、真実からほど遠いものだからだ。私が本当にしたいことはそれだけだ

 

第1章         

1925年、クリーブランド郊外のシェイカー・ハイツ生まれ。シェイカー・ハイツはアメリカ中の郊外住宅地の理想型。白人一色で、町の公立学校は全米随一と評判

実家は、町の中心地で業界全米第2位のスポーツ用品店を経営

ニューマン家は、この町に移り住んできた最初のユダヤ人

 

第2章         

酷く背が低く、14歳になっても45㎏もなかった。痛々しいまでに内気で、友達も出来ず

女の子のことしか頭にないのに、なかなかもてなかった

母は異教徒なので半分ユダヤ人だったが、15歳前後で排斥の存在を理解。社交クラブには、ユダヤ人は入れてもらえない

海軍での兵役につき、第2次大戦に従軍したとき、兵舎でユダヤ人とバカにされて大喧嘩になる。俳優としてのキャリアに弾みがつき始めたころ、トニー・カーティス(本名:ハンガリー系のバーナード・シュヴァルツ)やカーク・ダグラス(本名:ロシア系のイスール・ダニエロヴィッチ)のように名前を変えればユダヤ系のルーツを消し去ることができると分ったが、本名を手放さず、自分を象徴するものとしてむしろ押し出していくことの方が、難しくはあってもやり甲斐のあることだと私には感じられた

父は実践することのないユダヤ教徒で、墓地を確保するためだけにシナゴーグに金を払って席を2つ確保していたが、家ではクリスマスを祝った

 

第3章         

音だけの悪夢を繰り返し見る、しかもそれは決してやまない

色盲が判明して、海軍のパイロット養成課程から放り出される。数学が身につかなかったためもある。自然科学が全く理解できなかった

徴兵回避のためにオハイオ大に入り、同時に入隊しパイロットの適性検査を受けた。兄も色盲でパイロット養成課程不合格。再検査で下士官としてならば海軍航空部隊を志願できることが分かり、航空無線通信士の訓練に応募、訓練終了後は爆撃機への搭乗を志願

訓練終了後ハワイからグアム、サイパンへと出撃

終戦翌年に除隊して、コロンバスのケニオン大入学。兵役期間中に背が伸びて180㎝位に

 

第4章         

ケニオン大は男子校、かえって女性が最大の関心事となり、パーティばかりで、経済学を専攻したが、フットボールを喧嘩で棒に振ると、映画学部に入る。学内の公演に出演しているうちに、何をしても平凡だった人間が、少なくとも自分としては一番うまくできるものを見つけた。自分のできることの中では一番うまくできるというだけのこと

準備作業はすべて楽しかったが、演技を楽しんだことはないし、人前で芝居をするのが楽しかったことなどない

最初に主演した大きな公演は《フロント・ページ》(ビリー・ワイルダー監督の作品が有名)

学生生活を際立たせた出来事は、クリーニング事業の起業。ランドリーの大手企業と交渉、ビールを無料で配布し学生の顧客を一手に引き受けることに成功、卒業時には事業を売却

 

第5章         

1949年、ケニオン大卒業。ウィスコンシンの劇団で夏の上演のアルバイトで知り合ったジャッキー・ウィットと結婚。初めて真面な女性と知り合って舞い上がり、先の見通しもないままの成行きでハネムーン・ベイビーを授かる

イリノイの劇団で役をもらうが、すぐに劇団が倒産、直後に父親が倒れて、代わりに家業を手伝うために実家に戻る。嫁姑の間は最悪

1950年、父が56歳で亡くなると、情緒不安定の母は、遺産が手に入らないのではと狂乱状態になったが、父はすべての財産を母だけに遺していた

父とは、どうしても心を通い合わせられなかった

2人してイリノイ大の演劇大学院に入って演出の修士号を取るのが目的になった。復員兵援護法による教育給付の支給期限が迫っていた。イェールでは必死に努力したし演劇に没頭できるのは楽しかったが、そこでの日々は煉獄に様なもので、大いなる失敗が始まっていたのだと思う。私には物事の悪い面ばかりを見る傾向があった

ジャッキーは、知り合ったころまだ学生で、舞台上で存在感を放ち、人を惹きつける魅力があったポールについて回った

 

第6章       

イェールでは芝居漬けの日々。イェール在学中の劇作家のグループが、学生の俳優や演出家に上演を依頼して来るので、目が回るような忙しさ

演出を専攻することにしたのは、自分の学んでいることに、多少なりとも箔をつけたかったから。「俳優」より「演出家」のほうが格上だと思い込んでいた。特に具体的な計画はなく、イェールでの授業は非現実的で、机上の空論ばかり。演劇史の講義だけは身につき、あらゆる種類の戯曲を読んだことで、芝居や脚本の良し悪しを見分ける力を鍛えられた

1年生のときから、ハンサムで人目を惹き抜擢された役をこなして、舞台役者としての評価を確立。ブロードウェイ屈指のエージェントからスカウトされたが、上司の承認が取れないとかで、契約もなしにあちこちの現場に派遣

漸く一流の俳優養成所アクターズ・スタジオに潜り込んで演技を勉強。マーロン・ブランドが名誉教授格の存在、ジェームズ・ディーンなどが一緒にいた。アルバイトをしながら、エキストラの仕事をやっているうちに、演出家のジョシュア・ローガン(後にミュージカル《南太平洋》でピュリッツァー賞)の新作戯曲《ピクニック》(1952)にちょい役で出るが、作品をヒットさせる演技をして認められる。最終的には主役の代役まで演じた。そこで出会ったのがジョアンで、その後の4年間で全く違う性的な生き物に模様替えされた

私は誰にも心の底を割ることのできない人間で、ジャッキーが私に求めていたのは、彼女と向き合い、その存在を受け入れて心を開くことだったのだろう。結婚生活が強固な基盤の上に築かれているという誤解は、遂に解けることはなかった

ジョアンと会って、目の前で不意に勢いよく可能性の扉が開いた。自分はセクシーな存在であると私に自覚させたのはジョアンだった。2人の間にあったのは燃え上がる激情だけで、至る所で欲望を解放した

《ピクニック」の成功で引く手あまたとなり、《銀の盃》でハリウッドにデビュー

ブロードウェイでは週給350400ドルだったのが、ハリウッドでは1750ドルに

 

第7章         

《銀の盃》は駄作で興行的にも失敗作で、またブロードウェイに戻る道を探る

道が開けたのは、外見のおかげだった。ゴルダ・メイアのような容姿だったらどうにもならなかったはず。外見という信託基金があって、どうにかやってこられたが、この先も生        きていくためには、外見以外のものが必要だと悟る

何時までも優柔不断で離婚せずにいる私にジョアンがしびれを切らし大喧嘩となり別れる

次の舞台のブロードウェイ版《必死の逃亡者》はヒットし、ジャッキーとともにニュージャージーのシー・ガートに新居を借りる

1955年、再びハリウッドに戻り、ジェームズ・ディーン主役のテレビドラマ《ファイター》に、彼が交通事故で急逝したため、脇役から主役に抜擢。評判は上々で多くの人々の注目を集めたが、その中に偉大なるロッキー・グラジアノの生涯を描く映画《傷だらけの栄光》の準備を進めていたロバート・ワイズ監督がいた。これもジェームズ・ディーンの次回作と噂されていたが、またしても幸運が道を開く。監督とともにまだ存命だったロッキーとニューヨークで一緒に過ごし、ポール自身がつかみ取ったロッキー像を描き出して成功

 

第8章         

人気には2つの側面がある――1つは、人のプライバシーに土足で踏み込んでくるという側面、もう1つは、人気が興行における力となり、それが自分の手掛けたい仕事を選ぶための切り札となる。人気が下降線を辿れば、出演したい映画を作るために使える圧力も減少する。前者だけを断ち切りたいが、前者を断ち切ると後者も切り捨てられてしまう

1976年の大統領選ではジミ―・カーターを支援、当選後はジュネーヴ軍縮委員会におけるアメリア代表の1人に任命されたが、カーターの興味はハリウッドにしかなかったことが判明。1982年のプロとして初参戦のカーレースでは、スタート直前の集中したいときにカメラマンが群がり集中の邪魔をする

《長く熱い夜》では、ジョアンとの共演で、2人の関係のすべての結晶をさらけ出した

そのあと2人はラスベガスで式を挙げる(1958)

《長く熱い夜》は興行的にも成功、評論家にも高く評価されたが、次の《熱いトタン屋根の猫》の映画化では、主役を巡って揉め、監督のリチャード・ブルックスの強い推薦で私が主役となる。撮影中にエリザベス・テイラーの夫・マイケル・トッドが飛行機事故で亡くなり、テイラーは半狂乱となったが、何とか鎮まって撮り終え、作品は大成功を収める

映画スターになっていたが、ブロードウェイに戻る機会を手にする。最も要求が厳しく革新的な舞台演出家・映画監督と評判のエリア・カザンが演出するテネシー・ウィリアムズの新作《乾いた太陽》の主役でジゴロ。カザンはポールのことを「特別に強烈な印象を与えられるような役ではなかったが、誠実な俳優で、本物の心というものがある。内側に隠され覆われているが、その心は実はいろんなことをやりたいと願っている。成長の仕方がすごい」と褒めている。監督のブルックスも、「素のポールからは程遠い役柄を演じている。生き残るためには黙って従わなければいけないが、いつ態勢を立て直せばいいか、後で攻めに転じるためには、いつが退き時なのかを見極める必要があるが、ポールはそれをわきまえていた」と述懐

 

第9章         

1959年、ジョアンとの間の最初の子誕生。その後2人が生まれる

1978年、ジャッキーとの間の長男スコットが死去。後から思うと、いくつもの徴候はあったが、ポールの手には負えなかった

 

第10章      

1960年代、出演した映画は20を超える。3回アカデミー賞にノミネートされたが、初めて受賞したのは87年の《ハスラー》

1968年、初の監督作品《レーチェル・レーチェル》公開。ジョアンの魅力を最大限引き出すためにメガホンをとる

1960年代に入り、政治への関心を深め、活動に力を入れるようなきっかけになったのは、ゴア・ヴィダル(19252012、劇作家)のテレビドラマ《左きゝの拳銃》に主演した際、彼の政治活動に感化されたこと。1960年、ゴアが民主党からニューヨーク州北部で下院議員に立候補した際支援。心情的共和党員だったが、ゴアが負けた後も民主党候補と長い関係を持つことになる。3年後に最盛期を迎える公民権運動にも、マーロン・ブランドの誘いに乗って参加。64年の大統領選でもベトナム選への関与抑制を訴えるジョンソン陣営を応援したが、後日どちらが勝っても戦争拡大は事前に決まっていて、共和党のゴールドウォーターは言及しなかったのに対し、ジョンソンは国民に嘘をついていたことが判明し、それを応援したことを知ってゾッとし、次の選挙では同じ民主党内で反戦を唱える候補を応援。ジョンソンは途中退場してロバート・ケネディに代わり、肩透かしを食らう

母がジョアンが不倫していると侮辱したので口を利かなくなってから15年たち兄の仲介で再会したが、考えてみたらまともに口を利かなかったのは50年間ずっとだった

セクシーなニューマン像は、脚本家の頭の中にある想像の産物で、私はただ脚本家の描いたそのイメージを解釈しているに過ぎない。すべては役を創造するプロセスに過ぎない

どんな役でも引き受ける時にはいつも不安がある。役柄を掴めるのか、それを練り上げてうまく作り上げていけるのか。《ハスラー》だけは例外

ポールがセックス・シンボルとしてのイメージを確立したのは《ハッド》(1962)

時間を守るというのは最も大切な礼儀。どんな時でも信頼できる人間でなければ、親しくはなれない。《スティング》で共演したロバート・レッドフォードや、《熱いトタン屋根の猫》のリズ・テイラーの遅刻癖を正す

俳優としての私の最高傑作は《評決》。スターンも彼の真骨頂だと絶賛

 

第11章      

1969年、《レーサー》への出演で、カーレースへの情熱が燃え上がり熱中、生涯その焔は消えることはなかった。2007年、ライム・ロック・パークでの最後のレースで優勝

IRSにカーレースは余技ではなく生業だと認めさせるのに苦労

マリオ・アンドレッティも、後にチームの一員となる

 

第12章      

自分の体を本当に破壊することなくどこまで飲めるか、というのは興味深い挑戦で、70年代初頭には自分でも気づかないうちにその限界ギリギリのところまで行っていたらしい

アルコールを飲むと、私の意識は、限界を超えなければ、遥かに高い集中力を得られるようだった。酒が様々な可能性を切り開いてくれた時期があった

私のように自己抑制するタイプの人間にとって、次に何が起こるのか全く分からないという状況に身を置くことで、制御不能になる喜びや贅沢さを経験したり、常に危険に身を曝したりすることは、単純に楽しいもの

 

第13章      

「壁の穴ギャングの隠れ家」という、重篤な疾患の子供たちにキャンプを提供するコネチカットにある非営利組織を創設。慈善活動にのめり込んだのは、民主主義の国に暮らし、その恩恵に浴しているが、それは特権であって、特権には義務が付随するという暗黙の了解があると考えるから。ただ、自分の時間を差し出し、恵まれない人たちと実際に関係を結んでいくことまでは難しく、そこに自分の慈善活動の限界を感じる。自分が全く犠牲を強いられないなら、慈善活動は簡単だが、それは自ら現場に赴き、自分の人生を捧げて他人の世話をする人たちの行為とは全く異なる

ニューマンズオウン社で、何も考えずに始めたサラダドレッシングが、年に1900万ドルを売り上げるなど、馬鹿げた話のようの思える。利益が350万ドルだとして、同額を課税されることなく寄付するには、自分自身の投資と俳優の仕事で同額を稼がなければならない。サラダドレッシングで稼いだ金が慈善事業に回るというのは、さほど興味深い話でもない。単にそうしなければ悪趣味だというに過ぎない。1982年、作家のA.E.ホッチナーと戯れに始めた事業で、成り行きに任せているうちに慈善事業に辿り着いた

1980年代半ばにキャンプを始めたのも、深い意図があったわけではない

1987年、友人のブルース・ファルコナーガ52歳で亡くなったことがきっかけの1つ。子どもの頃事故で片脚を失いながら、建築家として大成するも癌で早逝

動機に疑いを持ったことはあったが、やるべきことについて迷ったことはない。行動していく中で、独自の感情や思いやりの心が発展していったようだ

子どもたちの施設に1400万ドル費やす約束をしたが、手元に700万ドルしかなく、どうしようかと思案していたところ、たまたまサウジから遊びに来ていた子供と卓球をして遊んでいたら、その子が王家に繋がることが分かり、在米大使を通じサウジからの贈り物だといって500万ドルの小切手をくれた

キャンプのファンドレイジングにも数多く立ち会って来た。バドワイザーがキャンプの食堂に86万ドル寄付してくれたが、それは自分がこれまでに飲んだ20万個の缶入りバドワイザーにつき14ドルのリベートに相当

自分の成功の大部分は単に外見のお陰なのであって、自力で何かを成し遂げたわけではないと感じて来た。自分の成し遂げたことを誇りに思うのは筋違いで、全ては分不相応なもの。だからこそ、手に入れたものを人に与えていかなければならない、と感じて来た

 

第14章      

老年期がどうなるのかは分からない。友だちの数はあまり多くない

私の中には2つの部分がある――装飾と孤児。様々なことしているのは装飾の部分で、核にいる孤児の部分はそれに追いつこうと必死。2つが繋がった時に初めて、総体としてどういう人間なのかがはっきりするのだろう。装飾の下に潜む良識を探し続け、2つの部分が融合した姿を見ようと苦心する。一番奥にいるのは「シリアル・キラーだけ」か。答えが見つからないまま生きて来た。感情が麻痺したまま生きて来た

シリアルキラー(: serial killer)とは、一般的に異常な心理的欲求のもと、1か月以上にわたって一定の冷却期間をおきながら複数の殺人を繰り返す連続殺人犯に対して使われる言葉である。ほとんどの連続殺人は心理的な欲求を満たすためのもので、被害者との性的な接触も行われるが、動機は必ずしもそれに限らない。猟奇殺人快楽殺人を繰り返す犯人を指す場合もある。自らの犯行であることを示す手口やなんらかの固有のサインを残すこともあり、その被害者たちの外見や職業、性別などに何らかの共通点が見られる場合もある。

「シリアルキラー」という英単語は、元FBI捜査官ロバート・K・レスラーが、テッド・バンディTheodore Robert Bundy、米国で36人以上の女性を殺害した連続殺人犯、1989年死刑執行)を表すために19849月に提唱したとされている。同様の意味を持つシリアルマーダラー (serial murderer)、シリアルホミサイド (serial homicide) などは以前から使用されてきた。

仕事をしている時には、自分が1つにまとまる。様々なパーツがそこら中に飛び散っている、という感覚が最も弱まる。演技は私に安らぎの場所を与えてくれた

私はいつでも、自分の外見に隷属しているという感覚を抱えて来た

来世は信じていないが、人生は通し稽古(ドレスリハーサル)でしかないと確信

 

あとがき        クレア・ニューマン・ソーダーランド

本書のインタビューは、19861991年にかけて収録

この本は、私たち家族を含めた全員への贈り物

 

編輯者より

ニューマンの1人称による自伝。スチュワート・スターンとの間で19861991年に交わされた対話に基づいている。ニューマンの側の言葉を正確に反映させるべく、時間軸に沿って大きく再構成している

 

驚くべき男の驚くべき人生               戸田奈津子(字幕翻訳家)

ハリウッドの監督や俳優たちが残した自伝には2つの流れ――作品中心のものと、自分の人生を語るものとの2種だが、本書はそのどちらにも組み込めないのが異色

初めて見たのは《傷だらけの栄光》(1956)、《欲望という名の電車》(51)、《波止場》(54)で衝撃的なデビューを果たしたマーロン・ブランドが話題を独占、ポールは「ブランドの亜流」というレッテルを貼られてしまう

だが、それに続く《長く熱い夜》(58)、《熱いトタン屋根の猫》(58)などで、ワイルドで動物的臭いを発散させるブランドと一線を画し、洗練味を漂わせながら、苦悩と戦う「男」のイメージを確立

彼が描く自分は、幼い日々の頃から「おれは落ちこぼれ。何の才能もない、どうしようもない男」という自己否定のかたまりである。学生時代、軍隊時代に彼が追い求めたのは「酒と女」だけ。自堕落な日々の繰り返しだったように思えてしまう。《ピクニック》で成功しながら、その辺の状況説明はなく、ひたすら自分の「劣等感」を綴るだけ

素のポールの感触がつかめないのは、日本に来たことがない2人のビッグスターの1人だったから。もう1人はアル・パチーノ。それだけに自伝には興味があったが、本人の生き方や人柄をざっくばらんに明かすものではなく、カレイドスコープ(万華鏡)を覗くように複雑で、謎の部分の謎を一層深めるものだった

彼と接触のあった監督、俳優、友人たちのコメントが数多く挿入されているのもユニークな構成だが、そのコメントが、同じ人物のことを語っているにもかかわらず、矛盾に満ちていて、ポールという人物がいかに多面的で、複雑な人間であったかを証明している

私が字幕を担当した中で特に印象が強いのは《評決》(82)。凋落弁護士が、医療ミス事件をきっかけに立ち直る物語で、最初ロバート・レッドフォードにオファーされたが、彼は「話は悪くないが、主人公がアル中というのは気に入らない」といって却下。アル中のどん底から再生するというドラマなのに、それを変えたら別の映画になってしまう。このエピソード1つからも、この2大スターの資質の違いが浮き彫りになる

本書は、ポールの実像を解き明かすものではないが、真実を焙り出したものといえる

本のタイトルは、『驚くべき男の驚くべき人生』とするべきだったのかもしれない

 

 

 

早川オンライン

ハリウッドの名優の知られざる素顔。全米ベストセラー!

「ハスラー」「暴力脱獄」「明日に向って撃て!」など、数々の名作に出演し、今なお愛される伝説のスター、ポール・ニューマン。死後発見されたインタビューを編纂し、トム・クルーズやジョージ・ロイ・ヒルら関係者の声も織り交ぜた、最初にして最後の自伝。

 

 

(書評)『ポール・ニューマン語る ありふれた男の驚くべき人生』 ポール・ニューマン〈著〉

2024127日 朝日

 運命に従った大スターの生き様

 1964年、パリのシャンゼリゼ通りの裏通りのホテルの入り口で小さい女の子を連れたポール・ニューマンに遭遇した。咄嗟に「写真を撮らせて」と声を掛けた。「子供と一緒なのでスミマセン」と丁重に断られたが、その態度が実に魅力的だった。

 この時の小さい女の子は女優のジョアン・ウッドワードとの最初の子供「ネル」で、彼が映画「栄光への脱出」のイスラエルでの撮影後に、パリへの子連れの旅の途上だったことを本書で初めて知って、あの偶然がまるで奇跡的な幸運に思えた。

 そして、もうひとつ。巻末の戸田奈津子さんの解説によると、ポール・ニューマンは一度も来日したことのないハリウッドスターの一人で、彼に会った日本人はそういないようだ。だからこのことでも少し嬉しい気分になるのかな(笑)。

 さて、本題に入ろう。

 本書はポールの一人称による自伝である。幼年期、少年期を経て、戦争へ。そして大学生活を通して次第に演劇へ関心を抱き、俳優として映画界へ進出。一方、最初の妻ジャッキーとは、運命によってあらかじめ決められていた結婚と率直に明かすが、やがて不和で別離。その間前述のジョアンと板挟みだったが、彼女への熱情がポールをハリウッドスターの座へと導く原動力になった。

 ポールは「いつでも、万事なるようにしかならない」と自分の意志を超えて運命の力に従う。そんな生き方から、時にはエゴさえ否定して、それがかえって彼に幸運をもたらす。

 「長く熱い夜」で夫妻を起用したマーティン・リット監督はスターの条件として危険な香りとセックスアピールを挙げ、「ポールは完璧」。また妻のジョアンについても「非の打ちどころのない女性」と評する。

 ポールは来世も神秘主義も信じないが、「いずれ、なにもかもが冗談みたいなものだったと判明するのだ」ろうと予知して終わる。

 評・横尾忠則(美術家)

     *

 『ポール・ニューマン語る ありふれた男の驚くべき人生』 ポール・ニューマン〈著〉 品川亮、岩田佳代子訳 早川書房 4070円 電子版あり

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 Paul Newman(1925~2008) 米の俳優。出演作に「ハスラー」「明日に向(むか)って撃て!」など。

 

 

 

Wikipedia

ポール・レナード・ニューマン(Paul Leonard Newman1925126 - 2008926)は、アメリカ合衆国出身の俳優である。

3度のアカデミー賞受賞を初めとして数多くの受賞歴を持つ。また食品製造会社「ニューマンズ・オウン」の設立者であり、1982の設立以降挙げた純利益22千万ドルを全額寄付。その他政治運動家としても多くの功績を残した。1950年代以降半世紀以上にわたり第一線で活躍した俳優である。リベラル派で支持政党は民主党だった。

来歴・人物[編集]

生い立ち[編集]

オハイオ州クリーブランド郊外の街シェーカーハイツで、スポーツ用品店を経営するハンガリー系ユダヤ人の父・アーサー スロバキア系カトリックの母・テレサとの間に生まれる。幼い頃は虚弱で学校でいじめを受けていた。7歳の時、演劇好きの母の勧めで児童演劇団に入団。『ロビン・フッド』の道化師役で舞台に立つもポールは演劇に関心を示さなかった。12歳の時、クリーブランドの児童演劇部に入部。高校卒業後は定職に就かず百科事典訪問販売などで生計を立てていた。その後、家業を継ぐためにアセンズオハイオ大学経済学部で学ぶが第二次世界大戦が勃発し海軍に入隊。航空機操縦士を志願するが色盲により叶わず、爆撃機雷撃機の後部銃座手(兼無線手)の訓練を受ける。1944、航空機無線手としてハワイのバーバーズポイントに割り当てられ、その後雷撃隊に配置される。TBF/TBM アベンジャーの後部銃座手となり1945春、空母・バンカーヒルに配属されるが、乗機のパイロットが耳痛を患い沖縄戦には不参加。

演技の道へ[編集]

終戦後にオハイオ大学を経て進学したケニオン大学ではフットボールに打ち込むも、チーム内の喧嘩が原因で除名処分を受けたため子供の頃に学んだ演劇の道を志す。卒業後、地方の劇団を渡り歩き演劇の修行に励む傍ら1949に結婚。翌年に父親が他界すると一旦家業を継いだが、演劇講師になるための学費を工面するために父の代から続いた店を売却。進学先であるイェール大学大学院で披露した演技がプロデューサーの目に留まり、ニューヨークに招かれた。テレビドラマ舞台における演技が認められ、1952ジェームズ・ディーンマーロン・ブランドと共にアクターズ・スタジオに入学。

初の大役となったブロードウェイの舞台『ピクニック』での演技が映画関係者から高い評価を受け、ワーナー・ブラザース5年間の専属契約を交わす。アクターズ・スタジオに同期で入学したディーンが主役を演じた『エデンの東』では当初主人公の兄を演じる予定でスクリーン・テストまで行ったものの、監督のエリア・カザンがニューマンの出演を却下。1954に『銀の盃』でスクリーンデビューを果たすものの、作品自体が映画評論家から失敗作の烙印を押されるという不本意なデビューとなった。ディーンとブランドがそれぞれ『エデンの東』『波止場』で世界的トップスターへと上り詰める一方でニューマンは満足のいく作品に出演できないうえ、スタジオや批評家から「第2のマーロン・ブランド」と称されることに失望し映画を離れ活動の拠点を舞台とテレビドラマへ移した。ニューマンはテレビドラマの『ザ・フィラデルフィアンズ』でスターへの足掛かりをつかんだ。

舞台とテレビドラマにおける演技が賞賛されたニューマンは、ディーンの急逝により主演のポストが空白となっていた映画『傷だらけの栄光』に、監督のロバート・ワイズの依頼を受け出演。実在のプロボクサーロッキー・グラジアノの話し方や癖を模倣するなど徹底した役作りを敢行した末に臨んだ同作は高く評価され、一躍注目を浴びる存在となった。1956に最初の妻と離婚。1958、先述の舞台『ピクニック』で知り合った女優ジョアン・ウッドワードと映画『長く熱い夜』での再共演を機に再婚。3人の娘をもうける鴛鴦夫婦となる。さらに同年の映画『熱いトタン屋根の猫』で初めてアカデミー主演男優賞にノミネートされるなど、公私共に充実した時期を迎えた。

映画スターから監督業進出[編集]

1960年代はニューマンにとって飛躍の時代となった。1961の『ハスラー』で英国アカデミー賞の男優賞を受賞すると1963の『ハッド』での受賞を機に196519673度、ゴールデングローブ賞の「世界で最も好かれた男優」に選出された。この時期の代表作には『動く標的』『暴力脱獄』などがある。

さらに、妻のジョアン・ウッドワードを主演に起用した初監督作品『レーチェル レーチェル』では同年度のアカデミー賞で作品賞を初めとした4部門にノミネートされたほか、ゴールデングローブ賞とニューヨーク映画批評家協会賞では監督賞受賞に加えて妻に女優賞をもたらした。

1969ロバート・レッドフォードと共演したアメリカン・ニューシネマの『明日に向って撃て!』は生涯最高のヒットを記録。マネー・メイキングスターの1位に選出され、世界的トップスターとしての地位を不動のものにした。さらに製作者としての飛躍を求めてシドニー・ポワチエバーブラ・ストライサンドと共に映画製作会社「ファースト・アーティスツ」を設立した。

1973年の監督作品『まだらキンセンカにあらわれるガンマ線の影響』では、再び妻のジョアン・ウッドワードを主演として、妻がカンヌ国際映画祭女優賞を受賞。同作には、ジョアンとの娘であるネル・ポッツが、娘役で出演している。

「ファースト・アーティスツ」設立後初めて製作を担当した映画『レーサー』でのレーシング・スクールへの参加を機にカーレースに熱中するようになり、44歳にしてレーサーとしてプロフェショナルデビューを果たした。俳優業でも成功は続き、レッドフォードとの競演した1973の『スティング』は、同年度のアカデミー作品賞を受賞。翌1974の『タワーリング・インフェルノ』での報酬は100万ドルに達し、前妻との息子スコット・ニューマンとの共演も実現した。

政治活動[編集]

1960年代初頭から始まったベトナムにおけるアメリカ軍の派兵は、リンドン・ジョンソンのもとで50万人に拡大された。戦火の拡大を見たニューマンは、1960年代から1970年代にかけて積極的な反戦運動ならびに公民権運動を展開。活発な運動と反権力的発言は、反共の闘士を言われたリチャード・ニクソン大統領を敵に回し、1973年にホワイトハウスが公表したニクソンの敵リストにその氏名が記載された。

作品の不振と愛息の死[編集]

その一方で俳優業はスランプが続き『タワーリング・インフェルノ』のアーウィン・アレンと再びタッグを組んだパニック映画世界崩壊の序曲』は興行的に大失敗したうえ批評家からは「史上最低のパニック映画」と酷評され、ポール自身も同作への出演を後悔する旨の発言をする始末であった。さらに1978には、息子スコットが酒とドラッグに溺れ命を落とした。愛息の死を嘆いたポールは、麻薬撲滅運動の展開を決意。ニューマンは基金を設立し、ドラッグの弊害を描いた映画やテレビ番組に対する資金提供を行った。

ニューマンズ・オウン設立とアカデミー賞受賞[編集]

1970年代後半は不振続きであった俳優業も、1980年代に入ると1981の『スクープ 悪意の不在』から『アパッチ砦・ブロンクス』『評決』と立て続けに出演した社会派作品でリアリティのある演技を披露した。また自家製のサラダを自慢していたニューマンは1982、冗談半分で食品会社「ニューマンズ・オウン」を設立した。極力食品添加物を排除したフレンチ・ドレッシングランチドレッシングは好評を博し、スパゲッティー(あるいはパスタ)のソースポップコーンの販売にも着手し事業拡大に成功。純利益を全額、貧困に喘ぐ子供たちに寄付している。

俳優としても1983ゴールデングローブ賞の生涯功労賞に相当するセシル・B・デミル賞を受賞。さらに1985、長年の功績を称えられアカデミー名誉賞を受賞。翌1986には『ハスラー2』での演技が認められアカデミー主演男優賞を受賞。2年連続でオスカー像が授与された。

俳優・実業家としての成果、引退[編集]

還暦を超えても第一線での映画出演を続けたニューマンは、1994の『ノーバディーズ・フール』でベルリン国際映画祭などで数多くの男優賞を受賞。2000年の『ゲット・ア・チャンス』も好評だった。2002の『ロード・トゥ・パーディション』で9度目となるアカデミー賞ノミネート(初の助演男優賞部門)を果たすと、80歳を迎えた2005にはテレビドラマ追憶の街 エンパイア・フォールズ』でゴールデングローブ賞とエミー賞を受賞。2006には、ピクサーアニメーション映画カーズ』でメインキャストのドック・ハドソン役で声の出演を担当。止め処無く活躍を続けるニューマンに対し一部映画関係者からロバート・レッドフォードとの最後の共演作品が企画されるなどしていたが2007525、出演したABCテレビの番組において加齢による演技力・記憶力の衰退から自分の納得する演技が不可能になったと語り、俳優としての活動を引退することを正式に発表した。

ニューマンにとって私生活での著名な活動の1つである「ニューマンズ・オウン」は四半世紀に及ぶ運営で挙げた22000万ドルの純利益を全額恵まれない子供たちに寄付。1993にはその功績に対しアカデミー賞のジーン・ハーショルト友愛賞が贈られた。俳優としての活動に終止符を打った後は、これらの事業や家族とのコミュニケーションに専念する意向を示していた。

20076月、中西部オハイオ州ガンビアの母校ケニヨン大に対し、奨学基金の設立資金として1000万ドル(約10億円)の寄付を申し出た。今回の寄付について「母校への個人的愛情や恩義」と説明。奨学金は家庭の事情で学費が払えない非白人マイノリティー(少数派)の学生らに支給されていくという。

ニューマン・ハース・レーシング」を1982年よりカール・ハースと共同で設立・運営しており、インディカー・ワールドシリーズ(後のCARTワールドシリーズ)においては常に優勝候補に挙げられる強豪だった。

がんとの闘病 - 死去[編集]

20085月に同年後半に予定していた舞台の監督を健康面を理由に降板すると発表して以降、健康状態について末期の肺がんで闘病生活を送っているとの報道が相次いでなされ、配給会社は「元気でやっている」とだけのコメントを発表をした

その後、報道は鎮静化。一時がん化学治療のためニューヨークの専門病院に入院していたが、経過は芳しくなく8月に退院し自宅治療に専念。現地時間の2008926コネチカット州ウェストポートの私邸に於いて死去。83歳没。

エピソード[編集]

政治的にはリベラルであり、ウォーターゲート事件で押収されたニクソンのメモの中に「敵」としてリストアップされていた2004年アメリカ合衆国大統領選挙ではジョン・ケリーを支持し、ブッシュ政権の富裕層減税に対して「私のような富豪から税金を取らないのは馬鹿げている」と批判した。

未来のエネルギーとして原子力を信望していた。インディカーにおいて原子力エネルギーを推進するステッカーを自チームのマシンに貼っていた。

50年の長きにわたり連れ添っているジョアンとのおしどり夫婦ぶりについてニューマンは「家でステーキを食べられるのに、わざわざ外でハンバーガーを食べる必要はないさ」と語っている。

ロレックスクロノグラフである「コスモグラフ・デイトナ」を愛用していたことがきっかけで、デイトナに「ポール・ニューマン・モデル」と俗称されるモデル[注釈 1]がある。また201710月、ニューマン本人が愛用したデイトナがオークションにかけられ、腕時計における史上最高額の1780万ドル(203100万円)で落札された。

1979年のル・マン24時間レースディック・バブアー・レーシングフランス語版)からポルシェ・935/77Aで出走し、総合2位という成果を残したが、レース中にパパラッチがしつこく付きまとってくることに嫌気が差し、それ以来二度とル・マンに姿を見せることはなかったという。

バハ1000には1969年と2004年に参戦。2004年は80歳の誕生日を目前に控えての参戦であった。

主な出演作品[編集]

公開年

邦題
原題

役名

備考

吹き替え

1954

銀の盃
The Silver Chalice

バジル

川合伸旺NETテレビ版)

1956

傷だらけの栄光
Somebody Up There Likes Me

ロッキー・グラジアノ

川合伸旺(NETテレビ版1
富山敬(NETテレビ版2

1957

追憶
The Helen Morgan Story

ラリー

川合伸旺(NETテレビ版)

1958

長く熱い夜
The Long Hot Summer

ベン・クイック

カンヌ国際映画祭 男優賞 受賞

左きゝの拳銃
The Left Handed Gun

ビリー・ザ・キッド

熱いトタン屋根の猫
Cat on a Hot Tin Roof

ブリック

井川比佐志(東京12ch版)

ポール・ニューマンの 女房万歳!
Rally 'Round the Flag, Boys!

ハリー・バナーマン

(吹き替え版なし)

1959

都会のジャングル
The Young Philadelphians

アンソニー

1960

孤独な関係
From the Terrace

デヴィッド・アルフレッド・イートン

川合伸旺(NETテレビ版)

栄光への脱出
Exodus

アリ・ベン・カナン

1961

ハスラー
The Hustler

エディ・フェルソン

英国アカデミー賞 主演男優賞 受賞

川合伸旺(NETテレビ版)
田口計(フジテレビ版)

パリの旅愁
Paris Blues

ラム・ボーウェン

広川太一郎(東京12ch版)

1962

渇いた太陽
Sweet Bird of Youth

チャンス・ウェイン

江角英明

青年
Hemingway's Adventures of a Young Man

アド・フランシス

中田浩二NETテレビ版)

1963

ハッド
Hud

ハッド・バノン

川合伸旺(フジテレビ版)

パリが恋するとき
A New Kind of Love

スティーヴ・シャーマン

羽佐間道夫(フジテレビ版)

逆転
The Prize

アンドリュー・クレイグ

川合伸旺(NETテレビ版)

1964

何という行き方!
What a Way to Go!'

ラリー・フリント

暴行
The Outrage

フアン・カラスコ

新田昌玄(東京12ch版)

1965

レディL
Lady L

アーマンド・デニス

川合伸旺(NETテレビ版)
津嘉山正種TBS版)

1966

動く標的
Harper

ルー・ハーパー

川合伸旺(NETテレビ版)

引き裂かれたカーテン
Torn Curtain

マイケル・アームストロング

御木本伸介TBS版)
川合伸旺(フジテレビ版)
東地宏樹(ソフト版)

1967

太陽の中の対決
Hombre

ジョン・ラッセル

新田昌玄(東京12ch版)

暴力脱獄
Cool Hand Luke

ルーク・ジャクソン

川合伸旺(NETテレビ版)

1968

脱走大作戦
The Secret War of Harry Frigg

ハリー・フリッグ

愛川欽也TBS版)川合伸旺(?版)

レーチェル レーチェル
Rachel, Rachel

N/A

監督のみ
ゴールデングローブ賞 監督賞 受賞

N/A

1969

レーサー
Winning

フランク・キャプア

川合伸旺(フジテレビ版)

明日に向って撃て!
Butch Cassidy and the Sundance Kid

ブッチ・キャシディ

羽佐間道夫(LD版)
近藤洋介(フジテレビ版)
石川禅(オンデマンド版)
川合伸旺(機内上映版)

1970

WUSA
WUSA

ラインハルト

兼製作

1971

オレゴン大森林/わが緑の大地
Sometimes a Great Notion

ハンク

兼監督

田口計(東京12ch版)

1972

ポケットマネー
Pocket Money

ジム・ケーン

ロイ・ビーン
The Life and Times of Judge Roy Bean

ロイ・ビーン

羽佐間道夫(フジテレビ版)

まだらキンセンカにあらわれるガンマ線の影響
The Effect of Gamma Rays on Man-in-the-Moon Marigolds

N/A

監督のみ

N/A

1973

マッキントッシュの男
The MacKintosh Man

ジョセフ・リアデン

川合伸旺(テレビ朝日版)

スティング
The Sting

ヘンリー・ゴンドルフ

川合伸旺(日本テレビ版)
津嘉山正種(テレビ朝日版)
小川真司(ソフト版)

1974

タワーリング・インフェルノ
The Towering Inferno

ダグ・ロバーツ

川合伸旺(フジテレビ版)
井上孝雄(日本テレビ版)
堀勝之祐TBS版)
てらそままさきBSジャパン版)

1975

新・動く標的
The Drowning Pool

ルー・ハーパー

川合伸旺(TBS版)
森川公也(テレビ朝日版)

1976

メル・ブルックスのサイレント・ムービー
Silent Movie

本人役

(吹き替え版なし)

ビッグ・アメリカン
Buffalo Bill and the Indians

バッファロー・ビル

小林勝彦(テレビ朝日版)

1977

スラップ・ショット
Slap Shot

レジー・ダンロップ

羽佐間道夫(フジテレビ版)
菅生隆之(ソフト版)

1979

クィンテット
Quintet

エセックス

1980

世界崩壊の序曲
The Day World Ended

ハンク・アンダーソン

川合伸旺(テレビ朝日版)

ポール・ニューマン/遠い追憶の日々
The Shadow Box

N/A

テレビ映画
監督のみ

N/A

1981

アパッチ砦・ブロンクス
Fort Apache, The Bronx

マーフィー

川合伸旺(TBS版)

スクープ 悪意の不在
Absence of Malice

マイケル・コリン・ギャラガー

森川公也

1982

評決
The Verdict

フランク・ギャルビン

羽佐間道夫(TBS版)

1984

ポール・ニューマンの ハリー&サン
Harry & Son

ハリー

兼監督・脚本・製作

千田光男

1986

ハスラー2
The Color of Money

エディ・フェルソン

アカデミー主演男優賞 受賞

川合伸旺(フジテレビ版)
羽佐間道夫(機内上映版)

1987

ガラスの動物園
The Glass Menagerie

N/A

監督のみ

N/A

1989

シャドー・メーカーズ
Fat Man and Little Boy

レズリー・グローヴス

ビデオスルー

ブレイズ
Blaze

アール・ロング

納谷悟朗TBS版)

1990

ミスター&ミセス・ブリッジ
Mr. & Mrs. Bridge

ウォルター・ブリッジ

羽佐間道夫(VHS版)

1994

未来は今
The Hudsucker Proxy

シドニー・J・マスバーガー

樋浦勉(パイオニアDVD版)
小林勝彦(ユニバーサルDVD版)

ノーバディーズ・フール
Nobody's Fool

ドナルド・J・サリヴァン

ベルリン国際映画祭 男優賞 受賞
全米映画批評家協会賞 主演男優賞 受賞

川合伸旺(VHS・旧DVD版)
仲村秀生JAL機内上映版)

1998

トワイライト 葬られた過去
Twilight

ハリー・ロス

ビデオスルー

小林勝彦

1999

メッセージ・イン・ア・ボトル
Message in a bottle

ドッジ・ブレイク

坂口芳貞

2000

ゲット・ア・チャンス!
Where the Money Is

ヘンリー・マニング

羽佐間道夫(VHS版)

2002

ロード・トゥ・パーディション
Road to Perdition

ジョン・ルーニー

小林勝彦

2005

追憶の街 エンパイア・フォールズ
Empire Falls

マックス・ロディ

テレビ映画
兼製作総指揮
エミー賞助演男優賞(ミニシリーズ/テレビ映画部門) 受賞
ゴールデングローブ賞助演男優賞(ミニシリーズ/テレビ映画部門) 受賞

ウォーキング・オン・ザ・ムーン 3D
Magnificent Desolation: Walking on the Moon 3D

デイヴィッド・スコット

声の出演

2006

カーズ
Cars

ドック・ハドソン

声の出演

浦山迅

2008

ミーアキャット
The Meerkats

ナレーション

2017

カーズ/クロスロード
Cars 3

ドック・ハドソン

声の出演 (アーカイブオーディオ)

浦山迅

受賞歴[編集]

アカデミー賞[編集]

受賞

1986 アカデミー名誉賞[注釈 2]

1987 アカデミー主演男優賞[注釈 3]:ハスラー2

1994 ジーン・ハーショルト友愛賞

ノミネート

1959 アカデミー主演男優賞:熱いトタン屋根の猫

1962 アカデミー主演男優賞:ハスラー

1964 アカデミー主演男優賞:ハッド

1968 アカデミー主演男優賞:暴力脱獄

1969 アカデミー作品賞:レーチェル レーチェル

1982 アカデミー主演男優賞:スクープ 悪意の不在

1983 アカデミー主演男優賞:評決

1995 アカデミー主演男優賞:ノーバディーズ・フール

2003 アカデミー助演男優賞:ロード・トゥ・パーディション

英国アカデミー賞[編集]

受賞

1962 最優秀外国男優賞:ハスラー

ノミネート

1959 最優秀外国男優賞:熱いトタン屋根の猫

1964 最優秀外国男優賞:ハッド

1971 主演男優賞:明日に向って撃て!

2003 助演男優賞:ロード・トゥ・パーディション

ゴールデングローブ賞[編集]

受賞

1957 有望若手男優賞

1964 ヘンリエッタ賞

1966 ヘンリエッタ賞

1969 監督賞:レーチェル レーチェル

1984 セシル・B・デミル賞

2006 助演男優賞 (ミニシリーズ・テレビ映画部門):追憶の街 エンパイア・フォールズ

ノミネート

1962 主演男優賞 (ドラマ部門):ハスラー

1963 主演男優賞 (ドラマ部門):渇いた太陽

1963 助演男優賞:青年

1964 主演男優賞 (ドラマ部門):ハッド

1968 主演男優賞 (ドラマ部門):暴力脱獄

1983 主演男優賞 (ドラマ部門):評決

1987 主演男優賞 (ドラマ部門):ハスラー2

1995 主演男優賞 (ドラマ部門):ノーバディーズ・フール

2003 助演男優賞:ロード・トゥ・パーディション

ニューヨーク映画批評家協会賞[編集]

受賞

1969 監督賞:レーチェル レーチェル

1995 主演男優賞:ノーバディーズ・フール

ノミネート

1962 主演男優賞:ハスラー

1964 主演男優賞:ハッド

1987 主演男優賞:ハスラー2

カンヌ国際映画祭[編集]

受賞

1958 男優賞:長くて熱い夜

ノミネート

1973 パルム・ドール:まだらキンセンカにあらわれるガンマ線の影響

1987 パルム・ドール:ガラスの動物園

レース戦績[編集]

ル・マン24時間レース[編集]

チーム

コ・ドライバー

使用車両

クラス

周回

総合順位

クラス順位

1979

 ディック バーバー レーシング

 ロルフ・シュトメレン
 ディック・バーバー

ポルシェ・935

IMSA
+2.5

299

2

1

日本語吹き替え[編集]

主に担当したのは、以下の二人である。

川合伸旺

ニューマンの吹き替えを「ムードが似ている」という理由で起用されて以降、ほぼ専属(フィックス)で担当していた。

ニューマンについて川合は、チャーミングな表情と知的センス、甘さ、型破りなものなど、ニューマンの持つものを大切にしながら演じたという。また「ぼくは悪役のイメージが強いから、アテていても今にイメージダウンになるのじゃないか」と心配しており、「時々、ぼくの顔を忘れて(声を)聞いてほしいです」というコメントを残している。ニューマン出演作で好きな作品には『ハスラー』を挙げている。

羽佐間道夫

パリが恋するとき』で初担当。その後、80年代以降に製作された音源で数多く担当。川合に次いで多く吹き替えた。

この他、小林勝彦田口計森川公也津嘉山正種新田昌玄なども複数回、声を当てている。

日本語文献[編集]

『ポール・ニューマン語る──ありふれた男の驚くべき人生』品川亮・岩田佳代子訳、早川書房 202311月。ISBN 9784152102836

SCREEN特別編集『少年の心を持った反逆児ポール・ニューマン』 近代映画社 2006

ジョー・モレラ/エドワード・Z・エプスタイン『ポールとジョアンポール・ニューマン夫妻の仕事と生活』 相原真理子訳、早川書房 1990

エレナ・ウーマノ、川口敦子訳『ポール・ニューマン』 近代映画社 1989

三谷宏次/梶原和男責任編集『ポール・ニューマン 孤独な彷徨とロマン』 シネアルバム20 芳賀書店 1988

注釈[編集]

1.     ^ エキゾチック・ダイヤルとも言われ、Ref.6239Ref.6241Ref.6262Ref.6263Ref.6264などがそれに当たる。

2.     ^ ただし、この式典にニューマン本人は出席しておらず、シカゴからの衛星通信に置いて受諾演説を行っている。

3.     ^ ただし、この式典にニューマン本人は出席しておらず、代理人としてロバート・ワイズが受賞している。

 

 

 

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