狼の義  林新/堀川惠子  2024.3.10.

 2024.3.10. 狼の義 新 犬養木堂伝

 

著者 

林新    19572017年。慶応大経卒。NHKエグゼクティブ・プロデューサーとしてNHKスペシャル、大型企画を担当。「ドキュメント太平洋戦争 第4集 責任なき戦場~ビルマからインパールへ」(文化庁芸術作品賞)、「家族の肖像」シリーズ(ギャラクシー賞大賞)、「世紀を超えて」「JAPANデビュー 天皇と憲法」など近現代史に造詣が深い

堀川惠子 1969年生まれ。テレビ記者を経てノンフィクション作家。『死刑の基準』で講談社ノンフィクション賞、『裁かれた命』で新潮ドキュメント賞、『教誨師』で城山三郎賞、『原爆供養塔』で大宅壮一ノンフィクション賞、『戦禍に生きた演劇人たち』でAICT演劇評論賞。夫・林との共同制作に「ヒロシマ・戦禍の恋文」「新藤兼人95 人生との格闘果てず」「死刑囚 永山則夫~獄中28年間の対話」等

 

発行日           2019.3.23. 初版発行         

発行所           KADOKAWA

 

 

もくじ

序章   古老の追憶 

終戦直後、経堂に住む財閥王古島一雄のもとに総理大臣に就任したばかりの幣原が来て、内務大臣就任を要請したが、「老人の出る幕なし!」と一喝。年明けには鳩山が来て自由党を一時預かってくれと懇請するが、それも拒否、逆に吉田茂を推薦

古島の出発点は新聞記者、明治の四半世紀、無冠の帝王として生きたことが何よりの誇り

新聞『日本』の編集長として正岡子規を世に出し、『萬朝報』では政治記者として、黒岩涙香と特ダネを連発。政界に転じると、尾崎咢堂とともに、別格の超オールド・リベラリスト。政界に転じたのは、ある男に一生を捧げるための決断

88のお祝いの席で、犬養の最期の言葉は「話せばわかる」ではない、「そんな単純な言葉を発する男ではない」と断言

 

第一章  戦地探偵人

1、死闘 

西南の役で犬養は東京の郵便報知新聞派遣の従軍記者として近衛第1連隊について戦場へ。まだ「記者」という存在は全く認知されていない

2、戦地探偵人 

犬養はまだ慶應の学生だが、郵便報知に出入りする若手の中で飛び抜けて文章がうまく、反骨心があったのを認められ、卒業までの学資免除と引き換えに派遣

3、薩摩琵琶の音 

犬養の現場からの連載は、「戦場直報」として、7カ月に100回を超えた

4、戦場の将軍たち

療養中の谷干城を熊本城に見舞い、軍人希望の犬養に、学問に励み言論を磨けと諭される

土佐出身の谷が、備中出身の犬養に、薩長以外では軍中枢には残れないと示唆したもの

 

第二章  政変と剃刀官吏   

1、「命知らずのバカ野郎」 

鹿児島から帰った犬養は、1年遅れで慶応に戻ると福沢に呼ばれ、「命知らずのバカ野郎」と言われ、今後は福沢の書記役として、福沢の言葉を逐一書き留めることを命じられる

2、密偵 

犬養は1855年、備中庭瀬村(現・岡山市)の大庄屋の生まれ。家は傾きかけ、学問で身を起こそうと20の時上京、民権論者で郵便報知の主筆だった藤田茂吉の食客となり文章が認められて頭角を現す。ギラギラした目で議論を戦わせ、ある時は孤狼、ある時は群狼となり疾走

犬養を密かに付け回していたのが剃刀官吏・井上毅(こわし)の配下

3、大隈一派 

犬養は、郵便報知が学資を払わないため慶應義塾を辞め、福沢が設立した『交詢雑誌』の編集の仕事を任される。『東洋経済新報』も立ち上げ、自由民権運動家たちも加わり、学閥を超えた人脈を築く。「経済の論客」としても知られるようになる

1881年、慶應の先輩で郵便報知の社長でもあった矢野文雄を通じ、大隈内閣の時、大蔵省統計院に入り、大隈との終生切っても切れぬ深い縁を結ぶ。大隈のもとで国会開設の準備に携わる。同時に入った3歳下の尾崎行雄とは馬が合う

4、憲法の軌道 

大久保や岩倉に仕えたブレーンの井上毅は、伊藤博文配下で法制度の基礎を築いたが、最大の障碍物が福沢。憲法を巡り議院内閣制と天皇を頂点とするドイツ型立憲体制とで激論

大隈がフライングで「国会開設奏議(意見書)」を岩倉にあげたため、岩倉が警戒して井上にドイツ型の憲法草案を作成させ、日本憲法の骨格ができる

1881年の開拓使官有物払い下げ事件に連座して大隈が失脚。同時に政府内の大隈一派は一掃され、犬養も4カ月で罷免。薩長閥やその配下の優秀な官吏に対抗するより、やがてできる憲法のもとに開催される国会で、民の力で政治を動かすことができる時が来ることに期待

5、古島少年放浪記

古島は豊岡藩勘定方の孫。同郷の出世頭濱尾新に寄寓。杉浦重剛に就いて学び、その勧めで新聞記者となり、言論で身を立てることを決意

 

第三章  憲法誕生 

1、天敵、現る 

下野した大隈一派は、立憲改進党を立ち上げ、郵便報知を買収して、世論喚起の武器とする

そこで犬養は、社の重鎮・栗本鋤雲に出会う。元幕臣で外国奉行、新政権では下野して言論生活に入る。犬養は心酔し、人間の生き方を学ぶ。木堂の号は鋤雲から与えられ、「剛毅朴訥近仁」(論語)に由来し、自己抑制と他者への思い遣りを生きる上での目標とした

2、早稲田の大風呂敷 

大隈のもと、尾崎の行動力と犬養の深い術策が相俟って、大隈も勝負どころでは犬養を頼り、決定的な決裂を迎えるまで33年にわたって両者の互いに必要とし合う師弟関係は続く

1882年、改進党結党。犬養は秋田へオルグに行き、『秋田日報』を発刊。度々発行禁止処分を受けながら、若手を育て、後に政治家として犬養を支え「秋田組」と呼ばれる

1887年、初の政論集『政海之燈台』出版。漸進的な立憲主義の導入、官民協調を主張。伊藤博文が絶賛し話題を呼ぶ

3、大権と民権 

新憲法の井上案は、天皇大権の保持とそのもとでの立憲主義という、矛盾を抱えたもの。列強諸国に伍していくために、彼らが備える憲法同様議会と国民の権利を書き込むことに腐心

4、憲法発布とテロル

1889年憲法発布

同じ日に古島が勤める新聞『日本』が誕生。主筆は杉浦重剛を師と仰ぐまだ無名の陸羯南、弘前出身で薩長への反骨心は旺盛、後に内閣官報局の編集長に抜擢

発布当日、森有礼文相が刺殺。『日本』は、大隈外相の条約改正案をスクープした『タイムズ紙』をいち早く掲載して、条約改正案反対の急先鋒となる。大隈は爆弾テロルに遭って右足を失い、外相辞任

 

第四章  帝国議会の攻防 

1、初の民選選挙 

1890年、初の選挙に犬養は兄所有の地券の名義を変更して資格を整え岡山から立候補、選挙資金は大隈が150円貸す。全国257区で定数300人。投票率93.9%で、犬養は無事当選。首相には山県。自由党系が130人前後、民権派が過半数で、政府側(吏党)79人を上回り、議会は民党と吏党の激しい対立の場となる

2、帝国議会の質問博士 

いきなり激しい論戦が始まる

3、二百十日の嵐 

古島の議会への関与は、1つは記者としての演説の速記、犬養の漢文調の難解な演説の速記には苦労。もう1つは新聞社の経営、台所は火の車だった

陸の親戚の正岡子規が入社、政府の発行停止命令への批判の句が、「君が代も 二百十日は 荒れにけり」。俳句復興の拠点となって人気を博し、読者が増えて社の窮状を救う

4、買収 

1回議会は、予算案で膠着状態に陥り、一部議員が買収されてようやく決着するが、後には暴力の報復合戦が残る

5、投票箱を死守せよ

1892年、第2回民選議員選挙では政府が民党の有力候補に「刺客」を送り込み、多額の買収資金を用意して選挙干渉に出る。備中には馬越恭平(元三井物産、後の大日本麦酒初代社長)を送り込み、県知事以下を動員して選挙妨害に出るが、犬養の圧勝に終わり、全体でも民党が過半数を占め、政府も力による抑圧より、折り合いをつけていくべき存在と認識し始める

 

第五章  国粋主義の焔 

1、邂逅 

古島が犬養邸を訪問、政府の対外強硬論に対する改進党の方針を探りに来るが、政党の存在すら認めない『日本』の姿勢を質され、古島は陸に諮って社論を一変させると同時に、犬養が端倪すべからざる人物であることを覚る。出入りするうちにその清貧振りも目撃

犬養の妻は、烏森の芸者。同業が男児2人を生むが、それを追い出して後妻に収まり、先妻の長男が反発して刃傷沙汰に及んだため廃嫡し次男・健(たける)を育てる

2、狼の群れ 

政府が解散を懲罰のように使い、政党は数ばかりを追い求める現状を、福沢は「日本人は、政治の成果に情実や好き嫌いを持ち込み過ぎる。群れの情動で、野を走る狼の群れのようだ」と批判、時間をかけてロジックに基づく政治を目指せと犬養を𠮟咤

1894年、朝鮮での東学党の乱に、清の派兵に対抗して出兵、日清戦争に発展

3、従軍記者 

古島は広島の大本営に詰め、議会は挙国一致でまとまり、戦争景気に沸く

古島は子規とともに海軍の従軍記者として赴くが、主戦場は終わっていて残るは台湾西方の澎湖島の上陸作戦のみ

4、血の一滴まで 

結核の進む井上毅は伊藤内閣の文相を最後に、1896年終戦直前に死去、享年52。一滴の血が残らないまでに衰弱していたという

5、不平将軍の荒業

古島の斡旋で、犬養は三浦梧楼に会う。西南の役以降徹底した「山県嫌い」の「不平将軍」三浦は、直後に駐韓公使として赴任。すぐに閔妃殺害事件を起こし、政権転覆の陰謀に加担、伊藤首相によって日本に召喚され広島に収監。その後は宮中顧問官にもなり、政界の裏方に回る

 

第六章  孤立する策士

1、お伊勢参り 

政府側は薩長のつばぜり合い、民党側は自由党と進歩党、4者の組み合わせが流動化

自由党は実利を求めて長州派の伊藤と山県に肩入れ、対する進歩党は薩摩にすり寄り、1896年松方内閣が成立すると大隈を外相にした松隈内閣誕生、初めて与党となる

この時、大隈を心底嫌った原敬は、駐韓公使を辞任、外務省を退官して記者に戻る

2、内閣崩壊 

松隈内閣の仕事で犬養は、海軍大臣の西郷従道を知る

軍備増強のための増税に大隈が変節して賛成したため、犬養らは大隈を見限り、進歩党と薩摩の連合は2カ月であえなく瓦解、松方も与党を失って総辞職

3、二度の挫折 

藩閥と組んで挫折した民党2党が合併して憲政党となり、政党内閣誕生。首相は板垣の辞退で大隈となるが、犬養は犬猿の仲の両党を結ぶために中立を守って入閣を固辞。尾崎行雄文相が舌禍事件で退陣した後、犬養が12日間だけ文相に就任

4カ月で蜜月は決裂。自由党系だけの憲政党が発足

1900年、福沢死去、享年66

4、子規の遺言 

子規は病床から『墨汁一滴』(1901)『病牀六尺』(1902)を相次いで『日本』に発表

1902年、子規死去、享年34。古島は仕事を放って追悼文を集めて回り、『子規言行録』を発刊

5、貧乏所帯の夫婦喧嘩

1904年、政党の力を無視できなくなった政府は、伊藤自ら総裁となって自由党系を母体に「立憲政友会」を立ち上げ、伊藤の後継西園寺公望からは桂太郎と交互に政権を譲り合う「桂園体制」を築く。大隈・犬養の憲政本党は万年野党に転落すると、内部の不満が爆発して犬養は放逐。見かねた古島が参謀を買って出るが、犬養は表舞台から姿を消す

潮目が変わるのは1909年の日本製糖汚職事件、改革派の全面降伏を犬養が受け入れ

 

第七章  革命  

1、優男、孫文 

1897年、大陸浪人たちが孫文を犬養に紹介、東京府の中国語教師として匿う

この頃、犬養は外務省に掛け合って横浜に華僑子弟のための大同学校(現・横浜山手中華学校)を設立。インド独立の運動家ラス・ビハリ・ボースなども匿う

2、武器密輸の誘惑 

1897年、フィリピンの内戦で、独立革命運動を率いるアギナルド(後の大統領)から武器調達の依頼が持ち込まれ、政商の大倉組を通じて陸軍から村田銃を払い下げてもらい送るが、途中で船が難破して密輸が露見、アメリカから抗議を受ける。一方で孫文の武装蜂起への武器援助にも奔走するが、仲介した代議士の横領で蹉跌

3、白紙委任の男 

1905年、土佐出身の大陸浪人・萱野長知(かやのながとも)が犬養の中国問題の側近として現れる。時事通信の記者、中江兆民にも学び、孫文の配下に入り、革命を手伝う

萱野は、日本人として唯一中華民国政府から「終身年金証書」を授かるが、当時は孫文の白紙委任状を何枚も持って革命への支援取り付けに走る

4、女将の献身

1911年、犬養の紹介で古島にあった萱野は、古島に立候補を勧める。金欠選挙を助けたのが反政府の拠点と化していた老舗旅館の松本女将で、金権候補に圧勝

5、革命と失望

中国では孫文の革命が本格化。犬養も、孫文と康有為の革命2派の合同政権を樹立させるべく訪中。日本政府は、山県が革命政府の共和制が日本の天皇制を脅かし兼ねないといって革命には冷淡。辛亥革命は成功、孫文は臨時大統領になったが、康有為との連立は拒否、袁世凱との連携に走る。日本政府も新政権には非協力的で、犬養も失意のうちに帰国

萱野は新政権の資金調達に奔走、三井物産の上海支店の森恪(つとむ)を通じて調達するが、孫文は袁に母屋を乗っ取られ、軍閥割拠の動乱の時代に移る。萱野と森は五・一五で遭遇

 

第八章  「憲政の神」 

1、憲政擁護の嵐 

膨張する軍事費に桂園体制が崩壊、山県と桂の間も決裂し、財界は犬養を推して、「憲政擁護」を旗印に政友会と国民党の合同を図り、犬養は再び尾崎と行動を共にする

2、冷めていた「憲政の神」 

桂新党が旗揚げすると真っ向勝負となるが、不信任決議は桂が詔勅を根回しして国会を停止

3、密教と顕教

国民の圧倒的な支持を前に、詔勅に逆らえない西園寺は政友会総裁を辞任、政友会・国民党の内閣不信任案に対し、桂は総辞職。初めて民衆の暴動が内閣を倒す。大正政変と呼ばれる

だが結果は、政友会が土壇場で犬養を裏切り、実質的な桂の介錯人となった海軍薩摩派の山本権兵衛を支持し山本に大命降下。犬養は入閣要請を拒否

 

第九章  「神」の憂鬱 

1、訣別 

海軍を巡るシーメンス事件で山本内閣が4カ月で潰れると、次は大隈が復活するが、1914年大隈は首相になるために山県に大幅譲歩。桂急逝のあと加藤高明率いる同志会(旧桂新党)を与党に、腹心の尾崎は司法相にしたが、犬養は大隈の妥協を批判して入閣を拒否

2、バタ臭い男 

米英で高等教育を受け、日本で最初に民主主義を解いた植原悦二郎をブレーンに加え、犬養の大隈糾弾が加速。陸軍の増師のための予算の成立は阻止したが、大隈は解散総選挙に打って出て、露骨な選挙干渉を行い、犬養の国民党は惨敗

3、神の座を下りる 

大隈改造内閣は、対華21か条の要求で躓き、代わって組閣したのは山県の推挙した長州出身の寺内正毅元帥陸軍大将。三浦梧楼の斡旋で、3党首が妥協して外交調査会に入り、外交政策を担当。遂に犬養も憲政の神の座を降り、現実の前に妥協

4、老いる木堂

大隈は歴代総理の最高齢記録を作って2年半の激務の後政界を引退するが、直後体調を崩し、犬養が見舞いに行くが、最期まで大隈邸の門が開かれることはなかった

 

第十章  普選の代償 

1、普選、始動 

1918年、国民党は普通選挙を標榜するが、前年発足の初の平民宰相となった原政友会が反対して、いきなり解散し、その後の選挙で圧勝。政友会はインフラ増強などで膨大な利権を手中にし、普選が消えかかったところで、21年原がテロにより暗殺

2、さらば国民党 

普選を旗印に、国民党は一旦解党、憲政党の普選論者を糾合して新党「革新倶楽部」を結成

1923年、山本権兵衛の藩閥内閣への入閣を要請され、普選を掲げることを条件に受諾、逓信相となって25年ぶり2度目の入閣を果たす。組閣完了前に大震災勃発。摂政宮に発砲した虎の門事件の引責で山本内閣はあっさり瓦解

3、将軍の気炎万丈 

1924年、山本に続く清浦も貴族院内閣。またも三浦が動いて革新倶楽部の犬養、政友会の高橋是清、憲政会の加藤高明が普通選挙を旗印に一致団結して貴族院内閣調査室に対抗、選挙でも圧勝して、憲法施行以来初めて選挙結果による政権交代を実現、加藤内閣が誕生

4、妥協の産物 

護憲3派と言われたが、所詮は同床異夢。高橋・犬養が入閣するところまではいったが、普選法案は貴族院の抵抗にあって3派の足並みが乱れかける。何とか成立に漕ぎ付けるが、内務大臣が共産主義対策として、普選実現のための取引条件だった治安維持法を緊急上程。当初は共産党員のみが狙いだったが、3年後の法改正により思想統制に猛威を振るう悪法となり歴史に汚点を残す。普選は25歳以上の男子に選挙権、有権者は人口の21240万人

5、政界を去る日

高橋は直後に政友会総裁も大臣も辞任。後任の総裁は外部から入った田中義一陸軍大将

犬養は、3年前に四谷南町に自宅を新築、勲一等旭日大綬章を受けて終身大臣待遇となり、740円の年金が支給されるようになって晴れて普請したもの

1925年、田中義一が、全ては犬養の指導に従うといって政友会と革新倶楽部が大合同。真の普通選挙実現のため政友会と一緒になって、犬養と小島は翌日政界引退を表明。ただ、地元は犬養の引退を認めず、選挙で担ぎ出したため議員の身分と政友会顧問の地位は残る

 

第十一章 見果てぬ夢 

1、白林荘  

犬養は、信州富士見を晩年の地と定め、別荘を建てて白林莊と命名。瘦せ地の八ヶ岳山麓の農業振興に注力。「イヌカイ豆」はその名残、対冷病種の陸羽132号は全国の高冷地に普及

2、初夏の南京  

1929年、犬養と古島は中国国民党蒋介石主催の孫文の移霊祭出席のため南京を訪問するが、張作霖爆殺事件直後とあって、途中中国国内に広がる日中両国の断絶の景色に愕然

南京郊外の中山陵に埋葬されるが、鉄門から先入場を許されるのは蒋介石とイタリア公使、犬養の3人だけ。民国政府は政治的思惑を超えて、孫文と犬養の情誼を真に理解している

3、政友会総裁  

田中内閣総辞職、直後に急逝。政友会幹事長・森恪が犬養を総裁に担ぎ出す

1930年、第2回の普選では、浜口雄幸の民政党が多数をとるが、金権腐敗選挙に終わる

4、分かれ道

ロンドン軍縮条約を巡って世論は真っ二つ、浜口が東京駅頭で狙撃され翌年死去

 

第十二章 最後の闘争 

1、大命降下  

1931年、満州事変勃発により、浜口の後を継いだ若槻内閣は総辞職、西園寺の推挙で犬養に大命降下。犬養は軍の要求に屈しない高橋是清を蔵相に起用、内相に政友会最長老の中橋徳五郎を据えて睨みを利かせ、外相には娘婿の芳澤謙吉駐仏大使を起用。陛下自ら犬養に労いの言葉をかけ、「軍部の横暴を抑えてくれ」と言われる

2、密使 

犬養はすぐに萱野を呼び、満州事変を食い止めるための国民政府との融和交渉を委ねるが、外務省に漏れ陸軍へ筒抜けとなって交渉は頓挫

張学良から内密の私信が来て、犬養の総理就任を祝うとともに、日本軍が張作霖から奪った民族の文化遺産の返還指示を求めて来たので、関係各所に指示したが何の返事もない

3、四面楚歌 

1932年初、衆議院を解散。敵対勢力を抑える議会政治の王道だが、陸軍も行動を起こし、満洲国独立実現のため上海事変を惹起、犬養内閣を揺さぶる

満州・上海への進軍が政友会を勢いづかせ、高橋蔵相の手腕で景気が持ち直し、「犬養景気」と呼ばれて支持を得選挙に圧勝したが、国内ではテロが相次ぎ、軍のクーデター未遂事件も起こって、犬養の身辺も気遣われるように

天皇の詔勅を使って軍閥を抑え込もうとする犬養に対し、軍は近衛文麿を通じて西園寺経由天皇に軍の内閣に対する不満を持ち上げ、天皇・内閣の承認を得ずに満洲国建国を宣言

4、古島の懊悩 

徐々に外堀が埋まっていくのを実感するが、古島の手には負えない。国民が、政党が、宮中が、そして時代が犬養の元から遠ざかる。その孤独の深さを古島ですら埋めることはできない

5、バラの実

4月、選挙区民が大挙して官邸に到着。1890年の第1回選挙から苦節42年、清廉な選挙を戦い抜き、本人不在の選挙戦まで勝ち抜いた執念が、とうとう犬養を総理まで押し上げた

3月には、犬養が天皇に満洲国承認拒否、全陸軍が反対しようと信念を変えずと上奏

51日、日本放送協会のラジオが、聴取者100万人達成の記念として総理の講演を放送、原稿にはなかった「侵略主義は時代遅れ」とまで言い切る

上海事変が、イギリス公使の斡旋で終結、軍が撤兵

犬養が憲政を確立したときに手にした白いバラが官邸にもあったが、今は枯れて実が残る

 

第十三章 テロルの果て 

日曜の夕刻、ほぼ無防備で無人の官邸に陸海軍将校9人が侵入、撃たれた犬養は数時間後に死去。古島は、実質的な手引きをした森恪書記官長に、軍相手に政党人として弔い合戦をしろと迫るが、森は何もできずにその年末50歳で死去

内務省は、当局による取り調べ終了まで一切の報道を禁止、九州日報を除き新聞社も沈黙の時に入り、政党のみならず記者魂も死に体となり、政党政治は終焉を迎える

 

終章   五月の空          

1952年、古島死去、享年86。米寿の祝いから52日後のこと。葬儀委員長は総理の吉田

古島は、盧溝橋事件に警告を発し、貴族院では大政翼賛会の結成に異を唱え、東条英機から疎まれ、一度は逮捕・収監、出所後はあらゆる収入を絶たれた。戦後は「吉田総理の指南役」と呼ばれ、政党政治を軌道に乗せようと奔走、交詢社の理事長以外は一切の地位を望まぬ人生

 

 

あとがき

本書は、2017年逝去した夫、林新が構想し、着手したもの。近現代史の諸問題に取り組むうち、この国を支える土台、この国が抱える病根は明治にあるのではないかと思うに至る

維新の英雄たちが去った後の国家運営がどのようなものだったか、その時代を駆け抜けた1人犬養毅を軸に資料を集め、ほぼ半分を書き上げたところで闘病生活に入る

古島という智嚢(ちのう)を得たことで、万年野党の党首だった犬養が総理の座に辿り着いたと言っても過言ではない。正岡子規の遺品に、古島の写真双眼鏡があり、116年ぶりに「目黒の美人」の手紙にも出会えたのが励みになって執筆を進める

暗殺される直前のラジオ演説には、身が震えるような衝撃を受ける。音源からは犬養の切れるような口調が政治家としての命がけの覚悟を感じさせた

犬養と古島を通して、近代日本における立憲政治の中で本当の保守とは何か、真のリベラルとは何かという問いを突き詰めることができた

犬養研究の第一人者は、極東アジアの近現代政治史を専門とする時任英人教授

時任英人:1983年、上智大学大学院外国語学部研究科国際関係論専攻博士後期課程満期退学。博士(国際関係論)。専門は国際関係論、日本政治外交史。現在、倉敷芸術科学大学教授

 

 

 

 

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狼の義 犬養木堂伝

著者 林 新

著者 堀川 惠子

定価: 1,760 (本体1,600円+税)

発売日:20240123

23回司馬遼太郎賞受賞作! 政界を駆けた孤狼の生涯を壮大に描く新評伝

23回(2019年度)司馬遼太郎賞受賞作!

 

「極右と極左は毛髪の差」(犬養毅)

日本に芽吹いた政党政治を守らんと、強権的な藩閥政治に抗し、腐敗した利権政治を指弾し、増大する軍部と対峙し続け、515事件で凶弾に倒れた男・犬養木堂。

文字通り立憲政治に命を賭けた男を失い、政党政治は滅び、この国は焦土と果てた……

戦前は「犬養の懐刀」、戦後は「吉田茂の指南役」として知られた古島一雄をもう一人の主人公とし、政界の荒野を駆け抜けた孤狼の生涯を圧倒的な筆力で描く。

最期の言葉は「話せばわかる」ではなかった!? 515事件の実態をはじめ、驚愕の事実に基づく新評伝。

「侵略主義というようなことは、よほど今では遅ればせのことである。どこまでも、私は平和ということをもって進んでいきたい」(193251日、犬養首相の日本放送協会ラジオ演説より)

真の保守とは、リベラルとは!? 明治、大正、昭和の課題を、果たして私たちは乗り越えられたのか?? 

本書は20193月に小社より刊行された単行本を文庫化したものであり、2017年に逝去された林新氏が厳格なノンフィクションでなく、敢えて小説的な形式で構想し、着手したものを、堀川惠子氏がその意志を受け継ぎ、書き上げたものです。

 

 

司馬遼太郎賞に堀川惠子さん「狼の義 新 犬養木堂伝」 

夫の遺稿もとに完成、「真っ向勝負の物語」 

 司馬遼太郎をしのぶ「第24回菜の花忌」が14日、東京都内で開かれ、司馬遼太郎賞の贈賞式もあった。今回の受賞作は、執筆途上で世を去った夫の遺稿を、妻が引き継いで共著として完成させた。

 受賞作『狼の義 新 犬養木堂伝』(KADOKAWA)は、515事件で軍部の凶弾に倒れた首相・犬養毅の生涯を、史実をもとに描いた小説だ。もともと元NHKプロデューサーの林新さんが書き進めていたが、林さんは病に倒れ、2017年に60歳で帰らぬ人となった。ノンフィクション作家で妻の堀川惠子さんは「大変な仕事が残された」と取りかかった。

 林さんが遺(のこ)した資料などを1年かけて読み込んだ。「すべての材料が頭に入った時には、林が書いている原稿をいかに縮めて、自分が書きたい人物をどう盛り込んでいくかを考えていた。作家は本当に業の深い職業だと改めて思った」

 犬養を始め、西郷隆盛や正岡子規ら登場人物から見えてきたテーマは、「人がどう死ぬか、言い換えれば人がどう生ききるか」。生きているうちに「絶対形にしたいと思うものを持っていることは本当に尊い。最後の最後まで自分の仕事をまっとうする、こんな幸せなことはない」。それは夫にも重なるという。

 林さんは剣道をたしなみ、いつも相手を圧倒する気迫がなければできない上段の構えだった。「守ると言う概念がまったくない。林の人生そのものだ。この本も日本における立憲政治の歩みを描くという、真っ向勝負の王道の物語です」(興野優平)=朝日新聞2020226日掲載

 

 

 

 

「狼の義 新 犬養木堂伝」 戦争に導かれていく過程に臨場感 

安田浩一が薦める新刊文庫3点

(1)  『狼(おおかみ)の義 新 犬養木堂伝』 林新・堀川惠子著 角川ソフィア文庫 1760円

(2)  『孤独死大国 予備軍1000万人時代のリアル』 菅野久美子著 双葉文庫 770円

(3)  『寿町のひとびと』 山田清機著 朝日文庫 1155円

 (1)殺される2週間前のことだ。犬養毅はラジオ放送を通じて国民に訴えた。「私がいう産業立国は、皇国主義じゃない、侵略主義じゃない」。政治への介入を図り、天皇親政を主張する軍部を刺激したのは当然だった。まもなく、犬養は凶弾に倒れることになる。ようやく芽吹いたかと思われた政党政治はテロルによって幕を閉じ、日本の運命は暗転した。「憲政の神様」の生涯を追った骨太のノンフィクション。日本社会が戦争に導かれていく過程が、臨場感をもって描かれる。

 (2)誰にも看取(みと)られることなく、ひっそりと死んでいく人は年間で3万人にものぼるという。著者は自殺や病気などで人が亡くなった部屋の「特殊清掃」を請け負う業者に同行し、壮絶ともいえる孤独死の現場を取材してきた。孤独死の多くは「セルフネグレクト」が原因だとの指摘が興味深い。近所にも福祉にも頼ることなく、人は自身を放任し、死へと向かっていく。他者との関係が希薄になりがちな現代、私たちはどう生き抜いていくべきか。本書にはそのヒントも詰まっている。

 (3)資本主義の心臓部として機能してきた「寄せ場」も、いまはその活気を失った。「日本3大ドヤ街」のひとつに数えられる横浜・寿町も例外ではない。それでも人は生き続ける。多様な営みがある。そこで生まれ育った人、たどり着いた人、支援に入った人。著者はそれぞれの人生を追う。想像を超えた型破りな「物語」の数々が、寿町のリアルを克明に映し出す。=朝日新聞2024217日掲載

 

 

 

Wikipedia

犬養 毅(いぬかい つよし[注釈 1]旧字体:犬養󠄁 毅、185564安政24201932昭和7年〉515)は、日本政治家位階正二位勲等勲一等通称は仙次郎。は木堂、子遠。

中国進歩党代表者、立憲国民党総理、革新倶楽部代表者、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣(第1331代)、逓信大臣(第2729代)、内閣総理大臣29)、外務大臣45)、内務大臣50)などを歴任した。五・一五事件で暗殺される。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

犬養の生家

安政2420185564)、備中国賀陽郡川入村(庭瀬村、庭瀬町、吉備町を経て現・岡山県岡山市北区川入)で大庄屋郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男として生まれる[1](のちに犬養と改姓[2])。父は水荘と称した備中松山藩板倉氏分家の庭瀬藩郷士である。元々、犬飼家は庭瀬藩から名字帯刀を許される家格であったという[3][1]

毅が13歳のときに父が死去。生家は現存しており、隣接して犬養木堂記念館が設けられている[注釈 2]

同藩の経世学者楠之蔚の下で漢籍を修めた後[3]1876明治9年)に上京して慶應義塾に入学[4]。一時、共慣義塾渡辺洪基浜尾新主宰の塾)に通い、また漢学塾・二松學舍では三島中洲漢学を学んだ。慶應義塾在学中の18773月に、『郵便報知新聞』(のちの『報知新聞』)の記者として西南戦争に従軍し、「戦地直報」の記事が話題を呼んだ[5]抜刀隊が「戊辰の仇!」と叫びながら突撃した事実は、一説には犬養の取材によるものとも言われている)。1880(明治13年)、藤田茂吉とともに、慶應義塾卒業前に栗本鋤雲(郵便報知新聞社主筆)に誘われて記者となる[6]

明治10年代初めごろに豊川良平と東海社を興し、『東海経済新報』の中心として保護主義経済(保護貿易)を表明している(田口卯吉らの『東京経済雑誌』は自由主義を表明しており、論戦となった)。統計院権少書記官を経て、1882(明治15年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、大同団結運動などで活躍する。また大隈のブレーンとして、東京専門学校の第1回議員にも選出されている。『日本及日本人』などで軍閥財閥批判を展開した。

代議士として[編集]

1890(明治23年)の1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録を打ち立てる。

のちに中国地方出身議員とともに中国進歩党を結成する(ただし、立憲改進党とは統一会派を組んでいた)が、進歩党憲政本党の結成に参加、1898(明治31年)の1次大隈内閣では共和演説事件で辞任した尾崎の後を受けて文部大臣となった。

1913大正2年)の第一次護憲運動の際は3次桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相・桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は辛酸を舐めながら小政党を率いることとなった(立憲国民党はその後、革新倶楽部となる)。

犬養は政治以外にも、神戸中華同文学校横浜山手中華学校の名誉校長を務めるなどしていた。このころ、東亜同文会に所属した犬養は真の盟友である右翼の巨頭頭山満とともに世界的なアジア主義功労者となっており、ガンジーネルータゴール孫文らと並び称される存在であった。

1907(明治40年)から頭山満とともに中国漫遊の途に就く。1911(明治44年)に孫文らの辛亥革命援助のため中国に渡り、亡命中の孫文を荒尾にあった宮崎滔天の生家に匿う。漢詩にも秀でており、書道家としても優れた作品を残している。漢詩人の井土霊山は『木堂雑誌』に掲載された記事で犬養の手紙を「先づ上手」と賞している[注釈 3]

総理就任[編集]

犬養は2次山本内閣逓信大臣を務めた後、2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣(護憲三派内閣)においても逓信相を務めた[7]。しかし高齢で小政党を率いることに限界を感じた犬養は、革新倶楽部立憲政友会に吸収させ、逓信大臣や議員も辞めて引退した[8]。しかし辞職に伴う補選に岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させた。再選された犬養は渋々承諾したものの、八ヶ岳の麓富士見高原の隠居所とするべく建てた山荘に引きこもっていた[9]

さらに1929(昭和4年)9月に政友会総裁の田中義一が没した。後継をどの派閥から出しても党分裂の懸念があったことから、犬養を担ぎ出すことになった[10]

1929年(昭和4年)10月、犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれた。 128日光東照宮板垣退助像建立のときには、序幕式で頭山満とともに祝辞を述べている[11][12]。(日光の板垣像建立も参照)

1931(昭和6年)、濱口内閣が進めるロンドン海軍軍縮条約に反対して鳩山一郎とともに「統帥権の干犯である」と政府を攻撃した。犬養のこの行動は、統帥権が政治的手段になる事を軍部に教えた形となり、日本の民主主義政党政治が衰退する要因となった。当時の『東京朝日新聞』は、統帥権を政治利用した犬養らを非難しており「醜態さらした政友会は正道に還れ」という記事を書いている。なお、このときに犬養とともに統帥権問題を起こした鳩山一郎は、軍部を台頭させた人物として太平洋戦争後、GHQにより公職追放された。

同年に勃発した満洲事変をめぐって2次若槻内閣は閣内不統一に陥り、総辞職した。元老西園寺公望は後継に犬養を推薦した[13]。内閣誕生直後の総選挙で、政友会は議席を大きく伸ばした。国民の期待を受け、犬養は金輸出再禁止に踏み切り、財政改善を図った。しかし財閥が利益を得ただけの結果に終わった[14]。満洲問題でも、満洲に傀儡政権設立を求める軍部に対し、犬養は中国の宗主権を認めた上で、経済的には日中合弁の政権設立を主張した。犬養は萱野長知上海に送り、国民政府と交渉させた。しかし、萱野からの電報は内閣書記官長であった森恪が握り潰し、交渉は行き詰まった。犬養の構想は頓挫することとなった[15]

犬養は、軍部主導の満洲国の承認には消極的であったが、その一方で公債による膨大な軍事費を支出していた。この軍備拡張が、満洲事変など関東軍の大陸作戦に貢献したことから、陸軍との関係はそれほど悪くなかった。

統帥権干犯問題[編集]

1930、先の選挙に大敗北した犬養を総裁とする立憲政友会は、ロンドン軍縮条約を攻撃した。

政友会総裁は、「艦種の選択力量の決定は作戦計画に成りまったく専門的知識を俟つべきものである。 然して専門家の説を徴するにこれでは国防危険なりとの定論である。 果して然らば国家安危の係るところで、真に憂慮に堪えぬのである」と演説した。

この「専門家の意見」は海軍軍令部の意見であった。 このとき政友会はロンドン軍縮条約に不満の軍令部と通じて、財部彪海軍大臣を窮地に陥れて濱口内閣を倒閣しようとしていた。 政友会のこの野心を見抜いていた海軍軍令部長・加藤寛治大将、軍令部次長・末次信正らの軍令部首脳は、政友会を利用して批准を遮ろうとした。彼らは海軍軍縮会議からの脱退を目論んでいた。

これに対し浜口雄幸首相は、軍部の硬化を顧慮して正面から対決せず、手続き論で乗り切ろうとした。 しかし、議会のこの統帥権論議は「尽忠精神」に燃える海軍軍人に強い衝撃を与えた。 その下地にはワシントン軍縮条約など国内外による軍縮への反撥があった。 陸軍もまた大正十四年、宇垣一成陸軍大臣(第一次加藤高明内閣)の下で四個師団を廃し、2,000人あまりの将校が馘首された苦い経験があったため、海軍の態度に同調した[16]宇垣軍縮)。

上記のように第58帝国議会の論争で、政友会は軍部の主張を容認するかのような立場から、浜口内閣にゆさぶりをかけた。犬養は政友会総裁として代表質問に立ち、軍令部が反対する兵力量では国民は安心できないと政府に詰めよった。総務の鳩山一郎は、政府が軍令部長の意見に反し、またはこれを無視して回訓を決定したのは統帥権干犯のおそれがあると政府を非難・追及した。日露戦争以来、軍部は統帥権の独立を盾に、議会の統制を極力無視し、 軍の思うがままに国政を左右しようとする衝動を絶えず持っていた。

犬養は必ずしも反軍的な政治家ではなかったが、古参の政党政治家として軍縮などを主張してきた。その彼がこの軍の非立憲主義的衝動を知らないはずはなく、兵力量の決定という最も重要な国務を内閣の所管外であるかのように説いたのは、政党政治家の自殺行為に等しいものだった。この点、当初から親軍であった鳩山一郎や森恪が統帥権干犯を主張するのとは異なる重みがあった。

実際に、自らが首相になって軍縮をしようとした約2年後の1932五・一五事件で統帥権独立を呼号する軍部によって、その生命を絶たれたのは歴史の皮肉だった[17]

暗殺[編集]

五・一五事件」を参照

この事件の背景は、濱口内閣ロンドン海軍軍縮条約を締結したことにあった。その際に全権大使だったのが元総理の若槻禮次郎である。浜口内閣が崩壊すると、若槻が再び総理となり2次若槻内閣が誕生した。そのため、本来なら若槻が暗殺対象であったが、その若槻は内閣をまとめきれず1年足らずで総理を辞任してしまい、青年将校の怒りの矛先は若槻ではなく政府そのものに向けられることになった。そもそも犬養は、軍縮条約に反対する軍部に同調して、統帥権干犯問題で浜口内閣を攻撃し、軍部に感謝されていた側の人間である。しかし、その政府の長に犬養が就任したため、政府襲撃事件を計画していた青年将校の標的になってしまった。

以下の犬養の言動は、犬養の孫である道子の随筆に従った[注釈 4]

1932(昭和7年)515は晴れた日曜日だった。犬養は総理公邸でくつろいでいた。この日、夫人は外出していた。

17時ごろ、護衛の巡査が走り込んできて暴漢侵入を告げ、逃げるよう促した。犬養が「逃げない、会おう」と応じたところに、海軍少尉服2人、陸軍士官候補生姿の3人からなる一団が乱入してきた。襲撃犯の一人は犬養を発見すると即座にピストルの引き金を引いた。

しかし不発に終わり、その様子を見た犬養は「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう」と言い一団を日本間に案内した。日本間に着くと、彼らに煙草を勧めてから、「靴でも脱げや、話を聞こう」と促した。そこへ後続の4名が日本間に乱入、「問答無用、撃て」の叫びとともに全員が発砲した。

女中のテルらが駆けつけると、犬養は顔面に被弾して鼻から血を流しながらも意識ははっきりしており、縋りつく女中に「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と命じた。

1840分、医師団は「体に入った弾丸は3発、背中に4発目がこすれてできた傷がある」と発表した。見舞いに来た家人に犬養は「九つのうち三つしか当らんようじゃ兵隊の訓練はダメだ」と嘆いたという。しかしその後は次第に衰弱し、2326分に帰らぬ人となった[19]享年78(満76歳没)。

519日、犬養の葬儀が総理大臣官邸の大ホールでしめやかにとり行われた。たまたま来日中で官邸からほど近い帝国ホテルに滞在しており、事件当日には犬養の息子である健と会食していた喜劇王チャーリー・チャップリンから寄せられた「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」との弔電に驚く参列者も多かった。この葬儀の模様については、フランスから来た女性ジャーナリスト、アンドレ・ヴィオリスもその著『1932年の大日本帝国』で描写している[20]

墓所は港区青山霊園岡山市北区川入にある。

犬養の死後[編集]

犬養から端を発した統帥権干犯問題もさることながら、犬養の死と日本の対応も、日本の命運に大きな後遺症を遺し、その後「大正デモクラシー」と呼ばれることになった大正末期からの政党内閣制が続いていた昭和史の分水嶺となった。

事件の翌日に内閣は総辞職し、次の総理には軍人出身の齋藤實が就任した。総選挙で第1党となった政党の党首を総理に推すという慣行が破られ、議会では政友会が大多数を占めているにもかかわらず、民政党寄りの内閣が成立した。大正末期から続いた政党内閣制は衰えが始まり、軍人出身者が総理に就いたが、まだ議会は機能していた。しかし、これ以後は最後の存命している元老の西園寺公望(1940年没)や重臣会議の推す総理候補に大命が降下し、いわゆる「挙国一致内閣」が敗戦まで続くことになった。この時期は武官または軍部出身者が総理になることが多く、終戦まで文官の総理は広田弘毅近衛文麿平沼騏一郎だけである。

満洲事変は、齋藤内閣成立直後に締結された塘沽協定をもって終結を見た。

この後、日本は中国進出を進めて国際的孤立の道を進んでいった[注釈 5]

五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたものの世論の万単位の嘆願で軽い刑で済み、数年後に全員が恩赦で釈放され、彼らは満洲や中国北部で枢要な地位についた。現職総理を殺した反逆者やそれを焚きつけたテロリストらに死刑を適用しなかったことが、さらに大がかりな二・二六事件の遠因となった。なお、五・一五事件の海軍側軍法会議の判士長であった高須四郎は「彼らを死刑にすれば彼らが殉教者扱いされるから死刑を出すのはよくないと思った」などと軽い刑に処した理由を語った。

この事件の後、浜田国松斎藤隆夫などは反軍政治を訴えたが、大抵の政治家は反軍的な言動を差し控えるようになった。新聞社も、軍政志向への翼賛記事を書くようになり、政治家は秘密の私邸を買い求め、ついには無産政党までが「憎きブルジョワを人民と軍の統一戦線によって打倒する」などと言い始めた。後の翼賛選挙を非推薦で当選した政治家たちは、テロや暗殺にこそ遭わなかったが、軍部から選挙妨害を受け、さらに大政翼賛会に参加した諸政党からも言論弾圧を受けている。

人物・挿話[編集]

囲碁本因坊秀栄と交友があり、後に日本棋院三段を追贈した。1928年の呉清源の訪日の際も援助を行った。

陸軍統制派の中心人物であった永田鉄山は、五・一五事件で銃口を向けられながらも話せばわかると説いた犬養の態度を古今の名将にもまさるゆかしさを感じると称賛し、犬養を射殺した犯人たちを批判しながら、不穏な動きを見せていた一部の軍人の行動を言語道断と評した。しかし、その後まもなく相沢事件によって永田本人も凶刃に倒れ、二・二六事件につながっていく[21]

満洲事変をはじめとする日本の対応について、アメリカ合衆国のニュースインタビューに応じたときの動画付き肉声が残っている。これ以外には肉声がないとされる。 (実際には、暗殺直前に政治演説を録音したものでコロムビアレコードから出された「新内閣の責務 内閣総理大臣 犬養毅閣下」という題のものが日本国内に複数現存している。)

系譜[編集]

犬養氏

伝承によると、遠祖は吉備津彦命に従った犬飼健命(イヌカイタケルノミコト) [注釈 6]江戸時代には大庄屋を務めた豪家だった。遠祖・犬飼健命は吉備津彦命の随神であったとして吉備津神社への崇敬の念が強く、神池の畔に犬養毅の銅像が建ち、吉備津神社の社号標も犬養毅の揮毫である。

曽祖父・犬飼幸左衛門当謙は訥斎と号し、京都の守中翁若林強斎に遊学し、垂加山崎闇斎の学問を吉備津に伝えた(岡次郎直養編『強斎先生雑話筆記』)。犬養木堂は、崎門の宿老であった。

孫左衛門(室は間野貞宗[注釈 7]の娘)  次郎左衛門  忠兵衛  源左衛門當展  幸左衛門當謙  仙左衛門當則  健蔵當吉  源左衛門當済  仙次郎毅

家族[編集]

妻:千代子

妾:斎藤仙(せん) - 烏森芸者[22]

長女:芳沢操

女婿:芳澤謙吉 - 外交官。

長男:犬養彰 - 仙の子。継母(毅の後妻)とそりが合わず廃嫡。彰の長男に犬養正男がいる。

三男(次男という説もある):犬養健 - 仙の子。政治家、小説家。兄彰の廃嫡後、嗣子となる。妻・仲子は長與稱吉の次女。

孫(健の長女):犬養道子 - 評論家

孫(健の次女):安藤和津 - エッセイスト奥田瑛二夫人。健の愛人だった柳橋の芸者との間に生まれ、その後、子として認知された。

孫(健の長男):犬養康彦 - 共同通信社社長。犬養智子と学生結婚後夫婦でアメリカ留学。智子とともにイリノイ大学社会学修士号取得。

曾孫:緒方貞子 - 日本政府アフガニスタン支援特別代表、元国連難民高等弁務官。母は、芳澤謙吉・操夫妻の長女・恒子。父は、外交官の中村豊一

曾孫:犬養千春学習院卒業。叔母犬養道子に学ぶ。

曾孫:犬養亜美 - 学習院卒。エッセイスト。

曾孫:安藤桃子 - 映画監督。

曾孫:安藤サクラ - 女優。夫は俳優柄本佑(俳優の柄本明の長男)。

従兄弟:小松原慶太郎 - 実業家。倉敷紡績所、倉敷銀行(現・中国銀行)などを設立。

このほか、以下の人物と縁戚関係がある:昭和天皇明仁上皇今上天皇正田修正田英三郎正田貞一郎川嶋辰彦小和田恆江頭豊江頭安太郎大原総一郎安西正夫三木武夫森英介堀田庄三豊田達郎上原明大平正芳浅尾慶一郎三谷隆信岸信介佐藤栄作安倍晋三松崎昭雄森永太平濱口雄幸植村甲午郎渋沢栄一岩崎弥太郎鳩山一郎鳩山由紀夫美濃部亮吉石橋正二郎池田勇人田中角栄田中直紀斉藤了英宮澤喜一宮澤エマ鈴木善幸中曽根康弘福田赳夫福田康夫渥美健夫石川六郎下条進一郎越智隆雄越智通雄鈴木三郎助加藤高明松方正義黒田清隆吉田茂麻生太郎河野洋平伊藤恭一細川護熙近衛文麿池部良團遥香入来茉里

栄典[編集]

位階

1898(明治31年)114 - 正三位[23]

1932(昭和7年)516 - 正二位[24]

勲章など

1914(大正3年)618 - 勲三等瑞宝章[25]

1915(大正4年)1110 - 勲二等瑞宝章[26]

1916(大正5年)41 - 旭日重光章[27]

1920(大正9年)97 - 勲一等旭日大綬章 [28]

1930(昭和5年)125 - 帝都復興記念章 [29]

1932(昭和7年)516 - 旭日桐花大綬章 [24]

登場作品[編集]

映画

重臣と青年将校 陸海軍流血史1958年、新東宝、演:浅野進治郎

巨人 大隈重信1963年、大映、演:千波丈太郎

動乱1980年、東映、演:瀬良明役名は「犬養首相」

テレビドラマ

花々と星々と1978年、NHK、演:芦田伸介

熱い嵐1979年、TBS、演:原保美

曠野のアリア1980年、TBS、演:加藤嘉

チャップリン暗殺計画1980年、読売テレビ、演:加藤嘉)

若き血に燃ゆる1984年、テレビ東京、演:太川陽介

The Partner 〜愛しき百年の友へ〜2013年、TBS、演:武田鉄矢

経世済民の男 高橋是清2015年、NHK、演:舘ひろし

いだてん〜東京オリムピック噺〜2019年、NHK大河ドラマ、演:塩見三省

漫画

昭和天皇物語2017 から小学館ビッグコミックオリジナル』連載、作画 能條純一:原作 半藤一利「昭和史」、脚本:永福一成、監修:志波秀宇)

 

注釈[編集]

(1)  ^ 毅は「つよき」とも称する(参照:近代日本人の肖像「犬養毅」国立国会図書館)。憲政記念館では「つよき」と表記する。また『犬養木堂伝』上巻(東洋経済新報社、昭和13年)口絵(ノンブルなし)の憲政国民党時代「自筆の履歴書」では「イヌカヒ ツヨキ」となっている。昭和3年の選挙ポスターに於いては「イヌカイ キ」としている。

(2)  ^ この生家から採取された酵母菌を使って、板野酒造本店により日本酒「木堂酵母」が醸造されている。岡山の酒蔵と中国学園大「犬養毅の清酒」今年は生産3日経MJ202032日(コンビニ・フード面)202038日閲覧。

(3)  ^ 井土靈山「惡札の裁判木堂先生の屑籠埋葬」『木堂雑誌』(第二巻三月號、1925年)34-35頁。同記事には犬養が霊山に語ったという「近頃の大學生なぞの手紙は丸るで腐つた女郎の手紙とでも云つたやうなもので、字體から文句から自體ものになつて居らぬ、そんな手紙が來ると讀むのが苦痛だから屑紙籠に葬って仕舞ふばかりだ」との言が見える。

(4)  ^ 犬養道子は『花々と星々と』の「増補版あとがき」で「巷間にはさまざまに伝えられる祖父遭難時の言葉は、ここに記したものだけが正確であり、(母の証言、テルの証言)彼はそれ以外いわなかった」と記している[18]

(5)  ^ ただし、この時点では列強諸国とのぶつかり合いはまだない。さらに蔣介石ら国民党の実力者たちは、事変後に至ってさえ満洲情勢には静観の姿勢を示し、まずは中国共産党殲滅を優先している。事変を激しく批判したのは中国共産党である。「国共内戦」も参照。

(6)  ^ 犬飼健命は昔話「桃太郎」の犬のモデルになったとされる。

(7)  ^ 源義仲  清水太郎義高  清水左近義季  清水左衛門為頼  清水四郎左衛門義治  清水五郎左衛門治興  清水希一郎貞興  清水源太郎義信  清水慶之介義員  清水八郎高貞  清水源太兵衛貞氏  間野徳兵衛貞元  間野源左衛門貞宗 犬養(犬飼)家系図

 

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