ロスチャイルドの女たち  Natalie Livingstone  2024.2.29.

 2024.2.29. ロスチャイルドの女たち

The Women of Rothschild   2021

 

著者 Natalie Livingstone ロンドン生まれ。1998年ケンブリッジ大学クライスト・カレッジで歴史学の第一級学位取得。「デイリー・エクスプレス」紙の特集ライターとしてキャリアをスタートさせ、現在は「タトラー」紙、「ハーパーズ・バザー」誌、US版「ヴォーグ」誌、「エル」誌、「タイムズ」紙、「メール・オン・サンデー」 紙に寄稿。夫と3人の子とともにロンドンに在住。著書に『The Mistresses of Cliveden』がある。

 

訳者 古屋 美登里 翻訳家。著書に『雑な読書』『楽な読書』(ともにシンコーミュージック)など。訳書にアフガニスタンの女性作家たち『わたしのペンは鳥の翼』(小学館)、エドワード・ケアリー『吞み込まれた男』『飢渇の人 エドワード・ケアリー短篇集』『おちび』〈アイアマンガー三部作〉『堆塵館』『穢れの町』『肺都』、『望楼館追想』(すべて東京創元社)、デイヴィッド・マイケリス『スヌーピーの父 チャールズ・シュルツ伝』、デイヴィッド・フィンケル『帰還兵はなぜ自殺するのか』、マーク・シノット『第三の極地 エヴェレスト、その夢と死と謎』(すべて亜紀書房)、ジョディ・カンター他『その名を暴け #MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い』(新潮文庫)など多数。

 

発行日           2023.11.4. 初版第1刷発行

発行所           亜紀書房

 

表紙袖裏

ロスチャイルド家は19世紀に興り、金融帝国を築き、絶大な影響力を誇った。

本書は男性中心に語られてきた一族の歴史を、女性の側から描き出す。株取引の天才、イギリス政治の影のフィクサー、ジャズのパトロン、テレビでも活躍した昆虫学者など、政治、経済、文化にわたる活躍を見せた才女たちは、一方では家の掟や政略結婚、ユダヤ社会の慣習に悩み、叶わぬ恋や自らの生き方、夫との仲を思って煩悶する。歴史の流れの中で直向きに歩んだ生身の人間が息づく、壮大な人物絵巻

 

 

まえがき

一族が功をなした19世紀の金融世界は男性だけが活躍する場所

1994年開催のフランクフルト・ユダヤ博物館での展示のための図録に掲載されたエッセイを膨らませたのがミリアム・ロスチャイルドの『ロスチャイルド家の女たち』で、2005年他界したミリアムの人生こそ、一族の女性たちが不当に冷遇されていたことを物語るもの

19世紀、ロスチャイルドの女性たちは二重に孤立。キリスト教社会におけるユダヤ人として、そして男性中心の一族における女性として。そのために女性同士で熱心に交流し、近くで暮らせるように生活の仕方を変えることもあった。ひっきりなしに書簡をやり取り

一族の内と外を隔てる境は厳密に監視され、その境目は、非常に慎重に選ばれた結婚のおかげで管理された。多くの女性はその境をさまざまな形で越えていくことになる

本書は、一族のイギリス支部の女性の系譜を、19世紀の始まりから21世紀の初頭まで約200年間を追う

 

第一部・グートレ、ハナ、ヘンリエッタ

l  グートレ・シュナッパー(17531849) ――ロスチャイルド家の創始者マイヤー・アムシェル(17441812)と結婚、多くの子を産み、倹約に努めて家の礎を築く

l  ハナ・バレント・コーエン(17831850)――ロンドンの富豪コーエン家に生まれ、家に事業の見習いに来たネイサン(17771836)と結婚。持ち前の社交場の優雅さで夫の事業を助けて、イギリス・ロスチャイルドの基礎を築き、やがて投資家としての才能を開花させる

l  ヘンリエッタ(17911866)――グートレの娘。紆余曲折の末にイギリスのユダヤ人エイブラハム・モンテフィオーリ(17881824)と結婚。大陸のロスチャイルド家と不仲となり、商売を巡って対立

 

第1章……勃興の母

1753年、グートレが生まれたのはフランクフルトの東城壁の裾野周りにある弧を描くような細いゲットー。キリスト教が禁じる利子を取っての金貸し業を請け負うことで生家のシュナッパー家は裕福な暮らしを営む

フランクフルトのユダヤ人は、古くからキリスト教徒の反ユダヤ主義による虐殺に遭っていて、住居権には厳しい制限が設けられ、強制再定住が行われた

ゲットー内で結婚するのは毎年12組と決められ、1770年グートレは幸運にもその1人に選ばれ、相手は敬虔なユダヤ教徒で、ハノーヴァーの銀行で見習い奉公後硬貨取引の達人となってゲットーに戻り小商いが成功していたマイヤー・アムシェル・ロスチャイルド

ロスチャイルドは、ゲットーの家の名前1567年に祖先が建てた「赤い盾(トートシルト)」に由来。マイヤーは熱心な古銭蒐集家から「宮廷の代理人」という称号を授かる

5人づつの男女児が健康に育つが、彼女は非情なまでに倹約。ロスチャイルドの仕事に関わる女性たちは疲れを忘れて働いたが、その見返りに得るのは軽蔑だけということが多かった

 

第2章……ただの機械

1792年、フランス革命戦争がゲットーにも到達、96年にはゲットーが爆撃で壊滅状態となり、周囲のすべての門と主要な壁が取り払われ、ゲットーから一部解放される

1798年、三男のネイサンが渡英

1808年、マイヤーが武装蜂起の裏金の嫌疑で一斉検挙に逢い、息子2人と拘束されたが、亡命した古銭蒐集家の選帝侯ヴィルヘルムから受託した金員については秘密を堅守

1811年、フランクフルトのゲットー完全開放。ユダヤ人に市民権付与

 

第3章……家庭を築く

1798年、ネイサンが初めてコーエン家を訪問。ハナの父親が大陸からきて瞬く間にユダヤ人社会で成功、イギリスの多くのユダヤ人がユダヤ教から離れている時代、コーエン家は忠実なユダヤ人として子女を育成。マイヤーとも取引があり、住み込みの見習いを受け入れ

1年後、ネイサンは織物の利益を増やすためにマンチェスターに移り、着実に成功を積み上げ、1805年ハナと結婚。ハナの助けを借りて、ネイサンの業績はさらに飛躍

1808年、コーエンの死を機にロンドンに移り、大陸封鎖令をかいくぐった密輸取引で財をなし、金融に触手。ナポレオンの失墜とともに勢いを取り戻した大陸間貿易で、ベアリングやリードという貴族の銀行に代わってイギリス政府の代理人に指定される

1812年、マイヤー死去。遺言で5人の息子が結束して事業を継承すること、5人の娘と義理の息子たちは一族の事業から一切の利益を分け与えられないことを明記した。事業への女性の関与を厳しく拒絶、グートレはロスチャイルド銀行の創立と成功に不可欠の存在だが、遺言書からその名は外されていた

 

第4章……婿探し

唯一未婚で残った娘ヘンリエッタには持参金が残され、家業の一部として結婚相手が物色され、イギリスにわたってネイサンの妻ハナの妹の嫁ぎ先でコーエン家とともにイギリスのユダヤ人を代表するモンテフィオーリ家で、ハナの妹の夫の弟エイブラハムと結婚

 

第5章……マダム・モンテフィオーリ

イギリスには1066年からユダヤ人が住む。キリスト教徒が金貸し業に従事することは禁じられており、ユダヤ人がその他の職業に就くことを制限されたこともあって、ユダヤ人の多くは高利貸しとなった。1290年、エドワード2世が在英16千のユダヤ人を追放し、ユダヤ人に対する「血の中傷」や「ユダヤの星」といった敵意が最高潮に達する。再度イギリスがユダヤ人を受け入れたのは17世紀のクロムウェルの時代で、その後ディアスポラの帰還で徐々に流入が増えるが、社会に偏見は残り、慣例的に差別・侮辱され、反ユダヤ主義者からの暴力を受ける

ヘンリエッタは、家からの独立心が強く、ネイサン夫妻に憧れ、フランクフルトの兄たちには知らせないまま結婚し、ロンドンの高級住宅街に住む。夫妻で、ロスチャイルド家の事業に相乗りを企むが、兄弟から拒絶され、大陸の兄弟との関係は悪化

 

第6章……より健康的な気候

ネイサン夫妻は事業の拡大とともに、イギリスの成功していたユダヤ人社会に認められる

ハナは、ユダヤの伝統とキリスト教徒のエリートの装飾をうまく組み合わせる稀な才能を発揮、イギリス社交界でも話題となる。ヘンリエッタ夫妻も同じ地域に移転してきて、両家の従兄弟たちは一緒に遊ぶようになる

エイブラハムは、過労から結核で10年後に死去するが、莫大な財産をヘンリエッタに遺す

 

第7章……調和、誠実、勤勉

名声が高まるにつれ、政府が関心を持つようになり、ネイサンにはナイト爵位授与の噂まで立つ。当時ユダヤ人が信仰にまつわる法的な規制から逃れる唯一の方法は、キリスト教徒に改宗することだったが、改宗せずにどこまでやれるかを示したかった。1820年ネイサンはメッテルニヒからロンドンのオーストリア領事に任命。ロスチャイルド家にとって正式な栄誉として一族の誇りに。1822年にはオーストリア皇帝から兄弟5人に男爵が授けられる。一族は紋章に、マイヤーの5人の息子を表す5本の矢と、父が遺言で標榜した団結(調和、誠実、勤勉)の言葉を入れる

ロスチャイルド家では近親婚をほかの一族よりかなり徹底して継続。1824年には、長兄の娘ベティ・フォン・ロスチャイルドが、末弟のジェームズと結婚。以後1877年まで21組のロスチャイルド家の縁組のうち15組がグートレとマイヤーの直系の子孫の間で執り行われる

夫の途方もない富もあって、ハナの社会活道と慈善活動は、メディアの関心の的

 

第8章……裏切り

1820年代、ロスチャイルド家は露墺普など君主権力への出資によって名声を高めたが、そのために一部ではヨーロッパ反動主義の銀行家と見做されるようになっていた。それに不満だったハナは、革新派の作家や運動家との関係を深める。宗教的、民族的偏見からの解放の動きに乗って、ユダヤ人の公民権や市民権獲得に奔走したが、1833年ネイサンの莫大な支援を受けてナポレオン戦争に勝利したウェリントン公爵が議会で、「イギリスはキリスト教徒の国で、ユダヤ人解放はその固有の性質を抹消しようとするもの」と演説し、法案は否決

 

第9章……ロスチャイルド夫人の並外れた財政手腕

ネイサンがハナの事業への貢献を高く評価したのは、一族の習慣に全くそぐわないもの

1810年以降、ロスチャイルド兄弟はフランクフルトに定期的に集まって、銀行5支店の財政状況を話し合い、パートナーシップの合意を新たにしていた

成功した家の子女は結婚の時、莫大な持参金をもっていき、その運用もばかにならないが、ハナも自分の財産の運用に目覚め、フランスの政権の浮沈で相場が大きく変動するのを目の当たりにし、ネイサンのよき助言者になっていく

 

10……婚礼と葬式

1836年、ハナの長男ライオネルと、四男カールの娘シャーロットが結婚、直後にネイサン死去。遺言で4人の息子に経営権を譲るがハナの意見を尊重するよう付け加えられた

死後ネイサンの評価は上がり、葬列は多くの市民に見送られる。2年後、ライオネルとその家族はオーストリアで与えられた称号をイギリスで名乗る許可を得、ハナもめでたく長い間待ち望んでいた正式な男爵夫人の称号であるハナ・ド・ロスチャイルドになった

 

第二部・シャーロット、ハナ・マイヤー、ルイーザ

l  シャーロット(18191884)――グートレの孫。カールの娘。ナポリとフランクフルトで育ち、ハナの息子で10歳年上の従兄のライオネル・ロスチャイルド(と結婚、ロンドンに移る。ユダヤ人初の国会議員を目指す夫を助けて獅子奮迅の活躍

l  ハナ・マイヤー(18151864) ――ネイサンとハナの間に生まれた5人目の子。イギリス国教徒ヘンリー・フィッツロイ(180759)と恋に落ち、一族の猛反対を押し切り結婚して改宗

l  ルイーザ(18211910)――ヘンリエッタの娘。ロスチャイルド同士で結婚を、という一族の強い意向に従って、ハナの息子でプレイボーイのアンソニー・ロスチャイルド(181076)と愛のない結婚をする

 

11……「濃霧に満ちた憂鬱なこの世界」

シャーロットの父カールは1821年露普墺による神聖同盟のナポリ占拠とともに進出

シャーロットは語学が堪能で、ハナに気に入られ、翌年には最初の女児を出産、社交界にもデビュー、同年のヴィクトリア女王の戴冠式にも招待される。女王とは同じ歳

 

12……キリスト教徒と結婚して一族を離れる

ハナ・マイヤーはネイサンの5番目の子、上流階級のキリスト教徒たちに交じって育てられる

ヘンリエッタ・モンテフィオーリは、未亡人になった後、一族の中心的な位置に戻るべく、子どもたちを近親婚させようと画策。先ずは息子のジョセフとハナ・マイヤーとの結婚を企むが、我の強いハナ・マイヤーは、キリスト教徒の貴族ヘンリー・フィッツロイを選ぶ。庶民院議員で将来を嘱望。フィッツロイ家も商人のユダヤ人の娘には不満だったが、ロスチャイルド家にとっても他宗教との結婚は裏切り。最後はハナが折れ、大陸の兄弟の反対を押し切って結婚、ユダヤ教を離れた最初のロスチャイルド一族となった

 

13……ユダヤ教徒として結婚し、ロスチャイルド家に入る

ヘンリエッタの娘ルイーザは、金で幸福は買えないことを身をもって証明した人物

母親と違って、恥ずかしがり屋で自信のない、無気力な娘に育ち、ヘンリエッタもハナ・マイヤーの轍を踏ませないよう、ロスチャイルド一族の中の結婚を画策し、ネイサンとハナの次男アンソニーと結婚させる。プレイボーイのアンソニーは、パリのジェームズ叔父を手伝っていたので、1840年の結婚後はパリに住む。2人の間に愛情はなかったが、一族内の結婚は、ハナ・マイヤーの異教徒との結婚によって綻びかけていた一族の団結を再び深める

 

14……幼児の養育

シャーロットの2番目の子も女児で、ライオネルの関心を惹かず、男尊女卑の精神に敏感だったシャーロットは、1940年ようやく長男ナッティを、続いてアルフレッドをもうける

ハナ・マイヤーは、1842年最初の子アーサー・フレデリックを生むとジェームズの追放命令には従わず、姉妹同士の交流を始める

ルイーザも1843年には男児コンスタンスを産むが、その後のお産では、シャーロットの5回目の産後が思わしくなかったことから、お産自体に恐怖を感じる

 

15……芸術の女神

ベンジャミン・ディズレーリはユダヤ人家庭に生まれたが、父親はユダヤ人社会との接触を断って、子どもたちにも英国国教会の洗礼を受けさせたため、政界や法曹界で高い地位につく資格を獲得、名前もD’IsraeliDisraeliに変え、庶民院の有望な新人となるが、ヘンリエッタを介してロスチャイルドとも親密に付き合い、一族の社会的地位をますます高くする

 

16……「もちろん、われわれは嫌悪しすぎることをよしとはしません」

1847年の庶民院総選挙でライオネルは自由党から立候補、僅差で勝利し、ユダヤ人初の国会議員が誕生。翌年にはユダヤ人解放法案が貴族院にまで上げられたが否決

 

17……底知れぬ深淵

1848年、パリの2月革命でルイ=フィリップ政権が倒され、ロスチャイルド帝国の土台を揺るがす。ルイーザたち女性たちはロンドンに避難。ウィーンでもメッテルニヒが倒され、サロモン・マイヤーの支店運営に支障を来すが、イギリスではデモが鎮圧され大陸ほどには広がらず

1849年、グートレ死去、享年95。柱を失って、ルイーザは「巨大な空白」といい、サロモンの娘でジェームズと結婚したベティは「底知れぬ深淵」だと表現。ジェームズもハナ・マイヤーに対する出入り禁止を解いて、一族の勇気を総動員すると宣言

同年、シャーロットの弟ウィリーが、チリー(ネイサンの長女)とアンセルム(サロモンの長男)の娘マティルダと結婚

ハナ・マイヤーは、息子が落馬事故で15歳で亡くなると、夫が心労から熱病に罹患して死去、娘と2人だけで生きていくことに。異教徒との結婚の祟りだと噂された

 

18……逃げ道と遺産

1849年、ライオネルは庶民院の選挙で圧勝、議会で旧約聖書に宣誓しようとしたのも認められたたが、「キリスト教徒の真の信仰に誓い」という文言を拒否したため、議会から退出させられ、母親のハナも失意のまま1850年逝去、享年67。家族の意に沿わない結婚をした女性はロスチャイルドの遺産を受け取れないという家訓からハナ・マイヤーを守ろうとして、ハナは遺言を残さなかったため、ハナの資産は子どもたちで平等に相続されることに

ルイーザは、ハナが情熱的に支援していた無料学校に感化され、下層階級のユダヤ人の救済こそ自分の仕事だと思い入れ、夫のアンソニーが理事長を務める無料学校に注力。ルイーザの2人の娘コンスタンスとアニーも協力、新しい女学校も設立

ライオネルは、その後もユダヤ人解放運動を継続、1857年選挙は解放が最重要課題となり、反ユダヤ感情を煽る対立候補に対して圧勝、さらにイギリス社会への浸透を目指すとともに、「キリスト教徒の真の信仰によって」という言葉を変更することが庶民院で可決され、初登院から8年後にして漸く登院が叶った

 

19……ホテルでの暮らし

1864年、ハナ・マイヤー死去。1人娘ブランチは病の母を一顧だにせず婚約者の下に走る

 

20……母親の教育

ライオネルとシャーロットの娘エヴェリーナは、姉レオノーラ(ジェームズの息子アルフォンスと結婚)の影のようにして成長、1865年チリー(ネイサンの長女)の息子フェルディナンドと結婚するが、翌年妊娠中に母子ともに突然死

庶民院にはロスチャイルド一族から3(ライオネル、弟マイヤー、息子ナッティ)

翌年には、マイヤー・カール(カールの息子)とルー(ネイサンの末娘)との間の娘エマが、ナッティ(ライオネルの長男、初代ロスチャイルド卿)と結婚

 

第三部・コンスタンス、エマ、ハナ、ブランチ

l  コンスタンス(18431931)――アンソニーとルイーザの娘。多数の恋の戯れに興じ、妹アニーとエリオット・ヨークの結婚の仲人役を務める一方でなかなか結婚が決まらなかったが、美貌のシリル・フラワーと結ばれ、夫の政治活動を支える。やがて売春婦を助ける活動に邁進

l  エマ(18441935)――マイヤー・カールとルーの娘。政治家を目指す夫ナッティを助ける。シャーロット亡き後、イギリスの一族の女主人となる

l  ハナ・ド・ロスチャイルド(185190)――マイヤーとジュリアナの娘。23歳で父を亡くし莫大な財産と地所を相続。アーチボルド(ローズベリー卿)と結婚、自由党のグラッドストンの後ろ盾となるなど、政治の才能を発揮

l  ブランチ(18441912)――ハナ・マイヤーとフィッツロイの娘。クーツ・リンジー卿(18241913)と結婚。作曲に秀で、夫婦で作った歌曲は人気を博す。芸術のパトロンとして画期的な画廊「グローヴナー・ギャラリー」を開き大成功を収めるが、浮気がちな夫と離婚

 

21……恋のたわむれ

ルイーザの娘コンスタンスは、従兄たちの注目を集めるようになるが、次々に相手を変えて不評を買う。ヴィクトリア女王の名付け子にあたるエリオット・ヨーク(キリスト教徒、父親は4代目ハードウィック伯爵)と妹アニーの結婚を見届けた後、シリル・フラワーと結婚しキリスト教に改宗。相次ぐロスチャイルド家の女性が非ユダヤ人と結婚する傾向に新聞が苦言を呈した

 

22……跡継ぎとたしなみ

1868年、エマは長男ウォルター(1937、第2代ロスチャイルド卿)を出産

社交界で最上の誉れは王族をもてなすことだが、アルバート公が1861年逝去するとロスチャイルド家は最も親しい王室の擁護者を失うと、反ユダヤ人意識が顕著になって、女王も躊躇うことなく自身の偏見を露にし、グラッドストンがライオネルを貴族院議員に提案した際も女王は同意を拒否。慈悲深いことに、若い王族たちが偏見を抱くことはなく、女王の息子のバーティ・エドワード(プリンス・オブ・ウェールズ)は、ケンブリッジでナッティと弟のアルフレッドたちと遊びに耽っていたし、デンマーク王女アレクサンドラと結婚後も兄弟をマールバラ・ハウス派の一員に昇格させ、放埓でふしだらな生活を送り、ウィンザー宮殿を嘲笑していたという

 

23……薔薇と獅子

1874年、マイヤー(ネイサンの4)が死去、娘ハナは3年後に母ジュリアナも亡くし、莫大な資産を相続。マイヤーが競馬が好きだった関係から、1878年アーチボルド・プリムローズ(ローズベリー卿)と出会い結婚。義母から猛烈な反対にあったが、改宗は拒否

1879年、長女シビルを出産後も活発な政治運動を展開、自由党のグラッドストンを支持。自由党の獅子が戻ってきて、1880年のグラッドストンの選挙運動が幕開け

 

24……初めての演説

コンスタンスは、自由党から立候補した夫シリルの選挙を支援、妹アニーとともに禁酒運動に参加。見事当選。同時にナッティも庶民院に返り咲き、グラッドストンは2度目の首相に

 

25……ボヘミアのブランチ

1864年にクーツ・リンジーと結婚したブランチは、ロスチャイルド家の中では不仲と裏切りの噂で持ち切り。若くして父母兄を相次いでなくし、キリスト教との娘として一族からは冷遇され、夫の度々の不倫に激怒しながら、作曲と演奏に没頭。画家のパトロンにもなって日曜サロンはジョージ・エリオットやオスカー・ワイルドら耽美主義運動の有名人を惹きつけた

1882年、クーツが愛人との関係を解消する積りがないことを知って離婚

ロバート・ブラウニングとも親交を結び、絵画から文学(詩人と作家)の世界へと移る

 

26……王室の印章

1884年、シャーロット死去。夫ライオネルは5年前に死去。エマがイギリスの一族の女主人に

1885年にはナッティがグラッドストンの推薦と女王の勅許により貴族院議員・男爵となる

女王は、当初レディ・ローズベリー(ハナ)に敵を持っていたが、ローズベリーが政界の新星として頭角を現すと無視できなくなり、やがて宮廷の常連になる

コンスタンスは、ヴィクトリア女王の4女で芸術家肌のルイーズと交友関係を深め、それを通じて女王とは特に親しい交流が続く

 

27……救出と防止

1885年、コンスタンスは、以前禁酒運動を共にした同士がくたびれ果てた格好で現れ、寄る辺ない若い女性が無理矢理売春をさせられる「白人奴隷」の存在や、不幸な境遇にユダヤの女性が数多くいることを聞かされ、それまで生半可な気持ちで恵まれない人々に同情していたことを知って恥入り、「防止と救出のユダヤ女性協会」を組織して本格的な慈善活動に向かう

1880年代初め、ロシアのユダヤ教徒居住区で、繰り返し行われてきたユダヤ人虐殺のせいで、貧しいユダヤ人がイギリスに大挙して押し寄せてきた。1860年のユダヤ人の人口は4万だったが、811914年までに15万人がイギリスの海岸に到着、多くは港の傍に住居を構えたが、その代表格がロンドンのイーストエンドであり、そこを中心に反ユダヤ主義が再燃

コンスタンスの女性協会は、埠頭から救出してきた女性たちの保護施設を作り、寄付金を募って生活再建の面倒を見る。最初の移民のユダヤ少女労働者のためのクラブを作って、様々な教育も施す

 

28……登用

1886年、コンスタンスの夫シリルがグラッドストン自由党の院内幹事長と大蔵卿に指名され、バターシー男爵となるが、名誉あるニューサウスウェールズ州総督への推挙は、コンスタンスと母ルイーザの反対にあって断念したが、怨念が残り、結婚生活に致命的な損傷をもたらす

シリルの拒絶にあってコンスタンスはますます慈善活動に没頭、故ハナの夫ローズベリー卿が首相になったときには刑事施設視察委員会の委員長となり、さらに国際婦人連合の会議にも出席、全国女性労働者組合の会長に収まる

1901年、女王崩御。皇太子がエドワード7世として即位すると、副廷臣たちは完全に廷臣となり、ロスチャイルド家は君主とかつてないほど親密で信頼される関係となる

 

29 ……「大砲が夜のうちに届き」

1902年、シリルが突然ノーフォークに隠遁、新聞は宮廷の同性愛スキャンダルを書き立てる

1895年、オスカー・ワイルドが同性愛で告訴されたあたりから、急激に世間の攻撃が始まる

コンスタンスは、公職から降り、女性参政権運動に転じる

1907年、シリルは糖尿が悪化して死去。コンスタンスは痛ましいほどの自己反省を行う羽目になったが、シリルとの結婚生活のかなりの記述は日記から切り取られている

1910年には、母親のルイーザが死去、享年89

1914年、第1次大戦勃発。ロスチャイルド家の戦争準備が始まり、コンスタンの想像を遥かに超える恐怖とトラウマの時代の到来を告げる

 

第四部・ロジカ、ドリー、ミリアム、ニカ、ロージー

l  ロジカ・フォン・ヴェルトハイムシュタイン(1801940)――由緒あるヨーロッパ系ユダヤの家系に生まれ、36歳でエマ(四男の子供と三男の末娘との子)とナッティ(三男の孫)の息子チャールズと結婚。ミリアム、リバティ、ヴィクター、ニカをもうける

l  ドリー(ドロシー・ピント、18951988)――イギリス上流階級に生まれ、ジェイムズ・アーマンド・ロスチャイルド(五男の孫)18歳で結婚するが、夫はフランス軍に入隊。不在の夫に代わって、後の初代イスラエル大統領ヴァイツマンに協力してシオニズム運動を推進

l  ミリアム(19082005)――チャールズとロジカの娘。父の自殺に衝撃を受けるも、その父の影響を受けて在野の昆虫学者となり、世界的な業績を残し、テレビなどでも活躍

l  ニカ(19131988)――ミリアムの妹。奔放で、自由と飛行機とジャズを愛し、夫を捨ててアメリカに渡る。ジャズの巨匠、チャーリー・パーカーやセロニアス・モンクのパトロンとなり、特に心から敬愛するモンクは彼の死まで庇護した

l  ロージー(19452010)――ミリアムの娘。フェミニズム雑誌『スペア・リブ』の中心メンバーとして編集に携わる。「女性とユダヤ」の問題に取り組み、イギリスのフェミニズム芸術理論を開拓

 

30……国境を越えて

開戦時、チャールズとロジカと2人の娘ミリアムとニカはハンガリーの家族を訪問中で、西に向かって逃げようとしたが、国境で止められるが、何とかイギリスまで辿り着く

ロジカはハンガリーの由緒あるユダヤの家系の生まれ。神聖ローマ帝国で3番目の爵位を授けられた家柄で、ルーマニア西部に住んでいたが、浪費のせいで富は激減する中、ロジカはテニスの国内チャンピオン。1907年ロスチャイルド家の次男で蝶の蒐集家だった7つ下のチャールズと結婚するが、チャールズは、虚弱な長兄ウォルターが非嫡出子を作った為勘当同然となり、代わって跡取りになる。ミリアム、リバティ、ヴィクター、パノニカ(通称ニカ)4人の子供が生まれるが、チャールズにとっては家業が重荷だっただけでなく、ロジカが敵国人で要注意人物となったこともあって、鬱病に罹患

 

31……入隊

ドロシー・ピントはイギリス系ユダヤ人の上流階級に生まれ、ゴルフやブリッジに興じたが、それはジェームズ・アーマンドとの結婚によって得たものだった。ジェームズは、1878年パリに生まれ、スポーツマンとして評判。1913年結婚。直後にフランスが参戦し、ジェームズは仏軍に入隊。その間ドリーは、ジェームズが父エドモンドに倣って関与の姿勢を示していた大義への協力をするため、将来のイスラエル初代大統領となるハイム・ヴァイツマンに会って、反ユダヤ主義の脅威から逃れるためユダヤ民族の祖国をパレスチナに建設する話に夢中になる

ユダヤ人は、19世紀末近くヨーロッパ全土に吹き荒れた暴力的反ユダヤ主義に対する恐怖におののき、最早やダヤ人の市民権と安全が保障された国家はヨーロッパのどこにも存在しないと考える人さえいた。ヴァイツマンはロシアのユダヤ人居住区で育ち、大学教育を受け、マンチェスターで教鞭をとっていたが、求心的民主派のシオニストの指導者として頭角を表し、シオニズム運動を一本化

ロスチャイルド家は、あらゆる形のシオニズムに反対、何世代にもわたってユダヤ移民のイギリス化を奨励し、イギリスの市民・文化的生活空間の中に居場所を作り出そうとしてきたが、徐々にシオニストにも理解を示し始め、一族のヴァイツマンに対する評価も、夢想家と成り上がり者の間で揺れた

1915年、ナッティが前立腺癌切除手術のあと死去。ロスチャイルドの称号は長男のウォルターに受け継がれたが、それ以外の一族の財産や事業の株式はすべてチャールズが受け継ぎ、ロジカはエマが寡婦として一族の公事から退くと一族の女主人となり、ヴァイツマンの運動を支持して活発なロビイ活動を展開

1916年、デイヴィッド・ロイド・ジョージが首相になるとシオニズム支持を鮮明に打ち出し、

ロスチャイルド一族内での対立が顕在化するが、最終的には、イギリス政府がユダヤ人国家の建設に賛同し、一族も納得

 

32……復興

イギリスのロスチャイルド一族は、邸宅の提供など様々な形で戦争遂行に協力

1次大戦によってロスチャイルド銀行は甚大な損害を被る。成功の基盤だった古い国際同盟は砕け散り、アメリカで取引を実現できなかったために時代を象徴づける業態となっていた欧米両大陸間の銀行業務から排除。ロジカは、静養中のチャールズに代わって銀行に詰めっきりで業務を行っていたが、故国ハンガリーでは父が亡くなり、共産主義に変わって多くのユダヤ人同胞が死へと追い立てられていた。チャールズの病状はさらに悪化

1918年の総選挙では、コンスタンスが唱道していた女性投票権が一部認められ、一族の生活や文化を描写した回想録にも着手、1922年には出版に漕ぎ付けるが、翌年チャールズが自殺

 

33……休暇

ミリアムは、スポーツと狩猟を愛する日を送っていたが、動物学への興味が復活し、夜間クラスを受講、プリマス海洋研究所の研究員として、軟体動物の一属のライフサイクルを研究

ニカは、ジャズに深い関心を寄せ、姉リバティとともにパリの教養学校に寄宿、ミュンヘン美術院ではユダヤ人だと気づいた周囲が一変するのを経験して1931年帰国、飛行士の資格取得

10歳年上のオーストリア系ユダヤ人貴族(男爵)の寡夫ジュールズ・ド・ケーニヒスヴァルテルと結婚、夫婦で世界を飛び回る生活をするが、最後はパリに落ち着く

リバティは、精神病静養のため、ニューヨークに移住するが、悪化して連れ戻され、名前は新聞からも回想録からも抹消され、個人記録は破棄され、沈黙のベールに呑み込まれた

 

34……戦火を前に

1931年、コンスタンス死去、享年89

1935年、エマ死去、享年9037年、ウォルター死去、ヴィクターが3代目ロスチャイルド卿となり伯父の資産を受け継ぐが、父チャールズの動物学に関する遺産の多くはミリアムが相続

ミリアムは、優秀な科学者だったが、次第に左翼の若者に興味を示すようになり、ヴィクターもケンブリッジにいたころ左翼グループと親しくなり、そのうちの数人は共産党員で、第2次大戦以降ソ連のスパイとなったケンブリッジ・スパイ・リングの構成員となった

母親がユダヤから受け継いだものをひたすら誇りとしてきたために、ロスチャイルド家の若い世代もみなドイツ系ユダヤ人を支援することに強い責任を感じ、ドイツのユダヤ人支援のための執筆や講演・募金活動を行い、1938年にはミリアムも研究活動から遠ざかる

1940年、ロジカ急逝、享年70。悲しむ間もなく、ドイツ空軍による爆撃で自然史博物館が被災、プリマス研究所のラボでも研究していた生き物が吹き飛ばされ、7年の仕事が烏有に帰す

 

35……姉妹の戦い

1939年、ジュールズが入隊、405月独軍の仏領内侵攻に際し、ニカはイギリスに避難する代わりに、難民に邸宅を提供。5月末に最後の船でイギリスに戻り、さらにニューヨークに向かい、戦争中グッゲンハイム家に子どもたちを預ける。ジュールもイギリスに脱出して、自由フランスに参加、仏領赤道アフリカに派遣。ニカもイギリスに戻って自由フランスに参加

ミリアムは、政府暗号学校(通称ブレッチリー・パーク)に特別召集され、海軍部門でドイツ軍のメッセージを解読。1943年、ハンガリー生まれのユダヤ人で英国に帰化後特殊部隊に勤務していたジョージ・レーンと結婚、夫は戦時中の任務でロンメル部隊に拘束され、戦争捕虜に

戦後、ニカ夫妻は勲章を貰うが、戦争で家族の多くを失ったジュールズは心に深い傷を負い、性格が変わり平時に戻ることや家庭に帰ることを恐れるようになる。ミリアムの収容所から帰還した夫も別人のようになっていて、戦後に訪れた平和はほろ苦い経験となる。占領下のドイツでアイゼンハワー司令官の法律顧問だったジョン・フォスターとともにホロコーストのユダヤ人生存者の支援活動に取り組み、戦後補償とユダヤ人福祉に関する運動の永続的な取り組みを開始。根強い反ユダヤ主義の壁を超えるために政治への働き掛けを強める

ニカは、外交官として海外に赴任した夫の暴力から逃れるように音楽に没頭、セロニアス・モンクに紹介され、夫と別れてイギリスに戻り、同じく夫と別居したミリアム一家と暮らし始める

ニカはモンクと意気投合、ニューヨークのジャズ・シーンに戻り、二度とヨーロッパには戻らず

ミリアムも、また科学者・執筆家に戻って寄生虫関係の本を発刊、ベストセラーになる

 

36……残響

1948年イスラエル国家が誕生したが、大統領という象徴的な地位に祭り上げられたヴァイツマンは、ダヴィド・ベン=グリオン政権に不満を述べる

1954年、ドロシーの両親でシオニストの活動家を熱心に支援してきたエドモンドとアデルハイド夫妻の行った農業入植と教育施設への支援が建国のために先駆的な役割を果したとして大きく評価され、聖地で眠りたいとの両親の最後の希望をかなえるため、パリの墓地の遺体を取り出してイスラエルに埋葬することになり、ドロシーは夫のジェームズとともに初めて聖地を訪れたが、入植したユダヤ人の大多数は貧しく、信仰に篤く、イディッシュ語が圧倒的に多く話され、上流社会のイギリス系ユダヤ人との間には歴然とした文化的差異があることに気付く。最も疎外感を抱いたのはイディッシュ語ではなく、ヘブライ語が聞き取れないことだった

ミリアムは、寄生虫研究の専門家として、政府関係の仕事も来るようになるが、その1つが同性愛と遺伝学に関する報告書の作成で、「成人同士の合意の上で個人的に行われる同性愛行為は、犯罪に分類されるべきではない」と助言の筆頭に挙げている。その後の生活でも彼女自身、バイセクシュアルであることを隠し立てしていない。女性同士の性愛は処罰の対象ではなかったが、男性と同等の汚名を着せられ、偏見に晒されていた。1967年に法律として実現

 

37……男爵夫人、バードとモンク

1955年、ニューヨークに渡ったニカは、マンハッタンのハーレムのモンクを訪ね、地区の慈善活動に邁進。マンハッタンのスタンホープホテル(5番街と81丁目の角)の彼女の部屋にはモンクやビバップの開拓者「ヤードバード(通称バード、本名チャーリー・パーカー)」が常連だったが、バードがアルコールとヘロインが原因で部屋で死去すると、ゴシップ記事が氾濫、これがきっかけでジュールズは離婚手続きに着手。ニカは上2人を除き幼い子供たちの親権を失う

ニカも黒人音楽家たちとの付き合いでアルコールと麻薬依存が進み、度々警察沙汰になり、1960年には3年禁固を科され、合衆国からの永久追放を宣告されるが、奇跡的に控訴審で勝訴、ニカはモンクと彼の音楽に注ぎ込む新たな力が漲るのを感じる

 

38……ノミの女王

ドリーが、新国家イスラエルの建設を支援している一方、ミリアムはイスラエルの工業化・都市化の進展によって環境が破壊されることに絶望感を募らせ、国土の荒廃と野生生物の減少が「聖書に悖る愚行」に見え、1965年にはドリーに抗議の手紙を送る

ミリアムは、蛾とその捕食者についての研究を進めるうちに、昆虫の警告誇示という生物が敵の攻撃をかわす効果のある属性を発達させることに興味を持ち、科学生態学という新たな研究領域に理論的基盤を提供したとして評価される。学位を持たない女性であることは常に不利に働いたが、「ノミの女王」としての名声が高まる。また、妹リバティが統合失調症と診断されたのを契機に、その研究のために研究基金を設立、その生化学的基盤の探究に貢献

1967年ミリアムは、娘シャーロットの恋人のアメリカ人エンジニアの助けで、ノミの跳躍運動の撮影に成功、跳躍は退化した飛翔の一種で、「脚で飛ぶ昆虫」だったことを理論づけた。「ノミ」カタログ4巻が出版され、同年には自然史博物館の初の女性理事に選任され、翌年にはオックスフォード大学(セント・ヒューズ・カレッジ)から名誉理学博士号を授与、ロイヤル・フリー病院の生物学客員教授にも任命され、「ディレッタント(アマチュア)」を卒業

1969年、イギリスの最新版の『紳士録』に掲載されているロスチャイルド家の人間は2人だけ、ミリアムが博物学者として、弟のヴィクターが科学者、公職者、企業家として。2人の輝かしい業績のお陰で、ロスチャイルド家の銀行家としての名声の翳りが目立たなくなった

 

39……スペア・リブと刺繍の叛乱

ミリアムの娘ロージーは、コートルード美術院で学んだあと、ボルチモアの大学院で学位を取得したが、学位取得を男性に限定していたコートルードに対し、ボルチモアではキュレーターや芸術家たちが第2波フェミニズム運動を主要な美術館や研究機関に突き付けるようになり、1971年同地のウォルターズ美術館は「忘れられた女性画家たち」という企画展を開催したのを機に、ロージーもコートルード時代の欲求不満を、芸術とジェンダーに関する文化的論調へと転換させ、創刊されたばかりのフェミニスト・マガジン『スペア・リブ』の芸術部門の編輯者に応募。1973年、女性画家による分娩中の女性の姿を大胆な写実主義で大画面に描いた作品の展示を巡って、「猥褻」論議に発展するが、ロージーは、芸術界の男性優位的傾向を打破するべく積極的に議論に参加。その過程で、ロージーは刺繡の歴史について書く。かつて男女同様に実践されていた芸術が、次第に女性だけが携わる仕事となり、家事と結びつくことで芸術から「工芸」の範疇に移行したと指摘されている。1981年出版の共著『忘れられた女性画家たち――性、芸術、思想』は、美術史とフェミニズム研究の革新的な理論書となる

ロージーはさらに発展させて、人種・民族・宗教の作り出す壁についても取り上げ、『ユダヤ人であること――反ユダヤ主義とユダヤ人女性』を著し、ユダヤ人フェミニストによる反ユダヤ主義を論じる最初の著作となる。雑誌を辞めた後の1984年には、『刺繍の叛乱』を上梓、ルネサンス期にギルド制度の崩壊による物質的な変化と、性差に関する思想的言説の成立という2つの要因から、刺繍は「家庭内」に囲い込まれ、女性は「生まれつき」針仕事に向いているという概念が作り上げられ、刺繡は家の中で女性らしい行動の理想とする「従順と忍耐」を植え付けられるのに使われ、芸術ではなく「工芸」にまで矮小化されたが、近時になって漸く急進的芸術家たちがそれを作り変えようとしている、と書いた。『忘れられた女性画家たち』と『刺繍の叛乱』によってロージーはフェミニズム芸術理論の開拓者の1人として評価

 

40……すばらしい小春日和

70年代、モンクは躁病が昂進、76年が最後の演奏となり、82年脳卒中の発作で死去。看病疲れのニカにもがんが見つかり闘病生活に

1985年、ミリアムは王立学会のフェローに選出。『親愛なるロスチャイルド卿』を出版(1983)、ウォルターの業績をしっかりと位置付けし、近年のロスチャイルドの女性たち(エマ、ドリー、ロジカ)の伝記とともに織り上げた内容は、今の一族の者たちの個性欠如への批判が出ていた

1988年、ニカは心臓手術中に死去、享年74。遺言に従って火葬されハドソン川に散骨。直前にリバティも死去、晩年は比較的幸せで穏やか

 

41……母と娘

1988年末、ドリーも死去、享年93。彼女の死は、イスラエル建国と慈善事業における功績に加え、一族を結束させる腕力の評価もあり、イスラエル・イギリス両国に大きな波紋を惹起、ヘルツォーク大統領は国民を代表して弔辞を送り、チーフ・ラビが司宰。94百万ポンドを超えるイギリス最大の検認遺産を残し、最大の相続人がヴィクターの息子ジェイコブ(4代ロスチャイルド卿)。遺言でも伝統に固執、巨万の富はイギリスの一族の男性たちに遺された

ロージーは、心理療法士になるための再学習を続ける

1990年、ヴィクター死去で、ミリアムはロジカとチャールズの唯一の存命の子供となり、新しい造園スタイルが「野草ルネサンス」として注目され、新傾向を牽引するまでになり、第36代米大統領ジョンソンの未亡人との交流のきっかけとなって、お互い自慢の庭園を訪問し合う

環境保護活動をさらに活発化させ、自然環境に関する一般向けの啓蒙活動でメディアからもひっきりなしに声がかかる。世界七不思議を選ぶテレビ番組に注目したアレック・ギネスとも親交が始まり、2000年にギネスが亡くなるまで友情の小春日和を楽しむ

1994年、世界中のロスチャイルド家の親族90人がフランクフルトに集結、マイアー・アムシェルの生誕250年を祝う。誇り高き自責をもってドイツは、ヨーロッパを象徴する一族の帰還を歓迎。記念の展覧会のためにミリアムは2篇のエッセイを書く。『ロスチャイルド家とヨーロッパ経済共同体の原型 家系的省察I :男性』と『最初のヨーロッパ経済共同体の沈黙する人々 家系的省察II:女性』で、特に後者は女性を一族の付けたしから引っ張り出して焦点を当てる

ロスチャイルド家の若者たちは、どの世代もみな幼いころから、遥か昔の女家長グートレを家長のマイヤー・アムシェルと同様大切だと教えられて来た。一族の文化を築き、富と成功の基礎をなす多くの仕事をこなす女性たちがいかに大切であるかを。しかし同時に、一族は公私共にはっきりと男性的な方法で成功を強調したが、ミリアムはウォルターの物語を書いている時に、一族の歴史における女性の役割に興味を惹かれる。文化を創造したウォルターの母エマ、粘り強く政治に取り組んだミリアムの母ロジカ、ヴァイツマンとともに早熟な戦時外交手腕を発揮したロジカの友人ドリーに止まらず、18世紀のフランクフルト・ゲットーまで遡り、卓越した女性たちの系譜を深く掘り下げた。ネイサンの妻ハナが従来のユダヤ人の妻より遥かに積極的な役割を密かに果たし、彼女の決意と何ものをも恐れない心がユダヤ人同化運動の推進力になったかを強調、白人奴隷売買に関わる醜悪な問題に対するコンスタンスのたゆまぬ努力にも注意を向け、エマは物理学やモースル信号を独学で習得し、400もの慈善活動を記録

ミリアムのエッセーの主題の1つに母と子の関係がある。考え方や希望や文化はどのように母から子へ伝えられたか。子どもの生活、教育、態度を形成する上で母親にはどのような自由があったか。女性たちの母親としての経験はどのように多様であったか。こうしたテーマを何十年にもわたって追い続けていた。娘のロージーも同じテーマを追い、翌年には「母親の複雑な思い」についての研究を『ふたつに引き裂かれて』の出版に結実

ミリアムはこれまで宗教的であったことはないが、ホロコースト以後の調査と20世紀後半の反ユダヤ主義の再燃について検討するうちに、自分の人生でユダヤ人であることの占める割合はすでに揺るぎないものになっていた。ユダヤ教の守が存在するかどうかにかかわりなく、ユダヤ人社会が共有する経験や歴史は人々を結びつけると考え、「神は信じないがユダヤ人社会を固く信じる。自分がユダヤ人だと胸を張って言うことができる」と語っている

世界も彼女を評価、8つの大学の名誉教授に任命。チャールズ皇太子は、自然の環境保護と園芸に関する考えを導く役割を担ってくれたことに感謝するため、ハイグローヴ・ガーデンの「偉人の壁」に彼女の胸像を設置。2000年の新年叙勲では「自然保護と生化学研究への貢献」によりデイムに。2005年死去、享年97。死の直前まで昆虫学者の友人に電話で共同研究を提案。先達の女性から受けた深い恩恵に感謝、大勢のロスチャイルド家の母親の声を蘇らせた

 

[日本語版解説]佐藤亜紀

女性の歴史を書くことは難しい。女性の存在や影響が浮上するのは男性との関係においてだけだが、それは歴史を組み立てる際に用いる史料がそもそもそういうものに偏りがちだったことに起因する。近年、それらの史料の見えない分野にアプローチする方法論が普及したお陰で、今や女性誌は豊かな可能性を持つ分野に浮上したように見える

本書は、そうした女性史の1つとして読むことが可能な本

ロスチャイルド家の表の歴史の記述に見え隠れする程度だった母たち、妻たち、娘たちが書き残した日記ややり取りした手紙を主に使いながら、イギリス・ロスチャイルドの系統を中心に200年近くにわたって彼女たちがいかなる活動をしながら、何を考え、感じたかを追っていく本。長いタイムスパンの中で、家族間の手紙に様なあまりにもささやかな内容に踏み込むとかえってその普遍性が際立ってくる。彼女たちのあまりにも親密な感情の吐露やそのやり取りにこそ、彼女らが負うべきとされた役割、役割を果たすために望ましいとされた自己形成、結果として生じる心性が、単に一個人ではなくその時代その社会階層に生まれた女性全般のものとして浮かび上がる

彼女たちは時代から時代へと、イギリス社会を快進撃していく。一族間での結婚という習慣は抵抗を受けながらも速やかに捨てられ、猛反対を受けながらもキリスト教徒とも婚姻関係を結ぶようになり、やがてそれは当たり前になり、夫を擁してユダヤ人の公民権のために戦い、成功して議員になれば政界の妻(おんな)として舞台裏で采配を振るい、自信をつけて独自の社会運動に乗り出し、女性参政権の獲得の為に戦い、と思えばフラッパーになり大西洋両岸を股にかけて黄金の20年代を謳歌し、自ら職業を選んで研究者になり、家訓を破って金融業に進出し、政治家になり、フェミニストになり――これは単にロスチャイルド家の女たちではなく、1920世紀へと続く女性たちの快進撃の記録でもある

 

 

亜紀書房 ホームページ

彼女たちは壁を破り、世界を動かした

19世紀にドイツのユダヤ人ゲットーから身を立て、世界有数の金融帝国を築き上げた名門一族。

その栄光の裏には、女性たちの活躍があった。---------

株取引の天才、イギリス政治の影のフィクサー、ジャズのパトロン、 テレビでも活躍した在野の昆虫学者……

政治、経済、文化にわたる活躍を見せた才女たちは、一方では家の掟や政略結婚、ユダヤ社会の慣習に悩み、叶わぬ恋や自らの生き方、夫との仲を思って煩悶する。

歴史の流れの中でひたむきに歩んだ生身の人間が息づく、これまでになかった人物絵巻。---------

19世紀から両大戦を経て現代に至る激動の欧米史を縦軸に、 男性中心に語られてきた一族の歴史を、女性の側から描き出す。

[解説]佐藤亜紀氏 (作家)

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ロスチャイルドの女たち ナタリー・リヴィングストン著

語られない歴史、活き活きと

2023129 2:00 [会員限定記事] 日本経済新聞

当然のことだが、歴史は改竄される。実際の歴史は人間が生きると同じだけ語るに時間がかかるわけで、端折(はしょ)らないと伝えられない。変な比重で削られ、特定の属性を持つものが歴史上からいなくなる、といったことも起こる。

原題=THE WOMEN OF ROTHSCHILD(古屋美登里訳、亜紀書房・5280円) 著者はロンドン生まれのライター。米ヴォーグ誌、英タイムズ紙などに寄稿。 書籍の価格は税込みで表記しています

歴史上で経済や政治や文化を大きく動かしたとされ、世界中の人たちに気にされてきた有名な一族「ロスチャイルド家」。特に「陰険な陰謀論」が好きな人たちが、彼らの話を語ることも多い。

ただ、「一族の話」と言いつつも、気にされるのは男性のみで、女性は経営上はもちろん家族としても存在しないかのように話されてきた。

ひたむきな生活者や貧しい人々が歴史上でいないことにされがちなのはよく知られている。だが、お金持ちでも、歴史上で消されてしまう人々がいたのだ。

本書は、富を持ちながらいないことにされた人々、すなわち「ロスチャイルドの女たち」に光を当てる。これまでの様々な書籍や映像で語られてきた「ロスチャイルド家」の物語の中で欠けていたピースを、彼女たちが書いた日記や手紙や論文などから探し出して地道に当てはめ、人間が息づく新しい歴史を描き出す。

彼女たちは筆まめだった。燃やされるなどして消失したものもあるが、たくさんの資料が残っているようで、著者のリヴィングストンは細々(こまごま)と引用しながら本書を綴る。

ロスチャイルドの女たちはもしかしたら、経営や社会活動にかかわっている自負を持ちながらも所在ないという鬱憤を筆で晴らすしかなかったのだろうか。あるいは、お金があっても孤独で、いや、お金があるからこそ「疎外感」を感じて、女性同士でなんとか繫がろうとしたのだろうか……

倹約家で、事業が軌道にのっても粗末な「緑の盾」の家に住み続け、財産の礎を築いたグートレ。シオニズム運動を推進したドリー。フェミニスト・マガジン「スペア・リブ」の記事に魅了され、自ら編集部に赴いて編集者となったロージー。その他、昆虫の研究やジャズミュージシャンの擁護に励んだ人もいた。

活き活きと社会にかかわったロスチャイルドの女たちが、この本の中で息を吹き返している。

《評》作家 山崎ナオコーラ

 

 

ジェイコブ・ロスチャイルド氏死去 英金融・慈善事業家

2024227 0:15 [会員限定記事] 日本経済新聞

ジェイコブ・ロスチャイルド氏が87歳で死去した (2017年)ロイター

【ロンドン=山下晃】ロンドン・ロスチャイルド家の末裔で、銀行家や慈善事業家として著名だったジェイコブ・ロスチャイルド氏が死去したことが26日、分かった。87歳だった。英国を代表する美術館の1つであるナショナル・ギャラリーの理事長などを務めた。

ロスチャイルド財団が発表した。死因は明らかにしていない。金融グループとして著名なロスチャイルド家の重鎮の1人で、英国では慈善活動家として広く活動した。ロンドンのナショナル・ギャラリーほか文化遺産宝くじ基金の理事会会長などを歴任した。

1963年に家族経営だった英銀行のNMロスチャイルド・アンド・サンズ(当時)で金融のキャリアをスタートさせた。後に経営方針の対立から同行を80年に退社。その後、投資・運用会社の英RITキャピタル・パートナーズを率いた。

同氏の死去は英フィナンシャル・タイムズ(FT)やロイター通信などが相次いで報じた。財団は「実業家、起業家、慈善家、文化的指導者として英国の様々な分野に多大な貢献をした」と声明で述べた。イスラエルのために設立された慈善財団の会長も務めた。

 

 

 

Wikipedia

ロスチャイルド家(ロスチャイルドけ、Rothschild、「ロスチャイルド」は英語読み。ドイツ語読みは「ロートシルト」。フランス語読みは「ロチルド」)は、フランクフルト出身のユダヤ人富豪で、神聖ローマ帝国フランクフルト自由都市のヘッセン=カッセル方伯領宮廷ユダヤ人であったマイアー・アムシェル・ロートシルト1744-1812)が1760年代に銀行業を確立したことで隆盛を極めた[2]。それまでの宮廷関係者とは異なり、ロスチャイルドは富を遺すことに成功し、ロンドン、パリ、フランクフルト、ウィーン、ナポリに事業を設立した5人の息子を通じて国際的な銀行家を確立した。一族は神聖ローマ帝国やイギリスの貴族階級にまで昇格した。ロスチャイルド家の歴史は16世紀のフランクフルトに始まり、その名は1567年にイサク・エルチャナン・バカラックがフランクフルトに建てた家「ロスチャイルド」に由来している。

19世紀のロスチャイルド家は、近代世界史においても世界最大の私有財産を有していた。20世紀に入ると、一族の資産は減少し、多くの子孫に分割された[9]。現在、彼らの権益は、金融、不動産、鉱業、エネルギー、農業、ワイン醸造、非営利団体など、多岐にわたっている[10][11]。また、ロスチャイルド家の建物は、ヨーロッパ北西部の風景を彩っている。

ロスチャイルド家はしばしば陰謀論の対象となっており、その多くは反ユダヤ主義に由来している。

ロスチャイルド家(ロートシルト家)の紋章。この紋章は1822年にオーストリア政府(ハプスブルク家)より、男爵の称号とともに授けられた。盾の中には5本の矢を持った手が描かれ、創始者の5人の息子が築いた5つの家系を象徴している。盾の下には、ロスチャイルド家の家訓であるConcordia, Integritas, Industria(調和、誠実、勤勉)という銘が刻まれている[12]

本項ではロスチャイルド家が所有する企業ロスチャイルド&カンパニーの日本法人名である『ロスチャイルド・アンド・コー・ジャパン株式会社』が登記するカタカナ転写に準じて『ロスチャイルド』とする。

概要[編集]

国際協調の成果と限界[編集]

18世紀後半にフランクフルトゲットー(ユダヤ人隔離居住区)出身のマイアー・アムシェル・ロートシルトが銀行家として成功し宮廷ユダヤ人となった。彼の5人の息子がフランクフルト(長男:アムシェル[注釈 1])、ウィーン(二男:ザロモン)、ロンドン(三男:ネイサン)、ナポリ(四男:カール)、パリ(五男:ジェームス)の5か所に分かれて銀行業を拡大させた。二男と五男は鉄道事業へ出資をして創設に関わった[注釈 2]。この他、一家はスペインのMZA鉄道(マドリード・サラゴサ・アリカンテ鉄道)と上部イタリア鉄道(Società per le Ferrovie dell'Alta Italia)もファイナンスした[13][14]。近代化しつつあった郵便事業にも関わっていた。記事には[要説明]ロスチャイルド家所有の建築物が多数掲示されている。その大部分は大不況 (1873-1896) のときに築造・再建・取得されている。もっとも、写真がないシャトー・ド・プレニー1858年に落成し、大不況をすぎた1900年に遺贈された。

豪邸は大きな影をつくる。オスマン債務管理局をめぐり債権国同士が対立し、ロスチャイルド家の国際協調に限界を知らしめたのである。1901年にフランクフルト家とナポリ家は閉鎖した。前者の銀行は同年ディスコント・ゲゼルシャフトに吸収された。列強各国の投資が東欧で入組み、そのまま第一次世界大戦が起こった。ウィーン家はサン=ジェルマン条約により延命されたが、ドーズ案の出るころ財政が危機的となった。ウィーン家のクレディト・アンシュタルトにアングロ・オーストリアン・バンクが買収され、内側から外資を誘導し、クレディト・アンシュタルトが世界恐慌で破綻したときに独墺関税同盟を破棄させた。1934年、オーストリアで2月内乱が起こった。この動きがチェコスロバキアに飛び火した1938年、ウィーン家も閉鎖した。

ロンドン家とパリ家は現在まで残っている。両家は日露戦争のころ日本政府へ巨額を貸し付けた歴史をもつが、それでさえ普仏戦争の賠償シンジケートに比べると彼らの仕事では小さい方である[注釈 3]。とはいえ、ロンドン家のシンジケートは関東大震災後の復興融資を通して日本経済に深く浸透した[注釈 4]。また、両家はそれぞれイングランド銀行フランス銀行に対して一定の影響力をもった。加えて、ロンドン家はベンジャミン・ディズレーリ内閣のときにスエズ運河買収のため400万ポンドを年利3.5%満期36年で貸しつけたり、国家事業であるケーブル・アンド・ワイヤレスの経営に助言したりした。パリ家は総合水道会社(現:ヴィヴェンディヴェオリア・エンバイロメント)を設立し5000株を引受けて大株主となったり、ソシエテ・ジェネラルをつくって横須賀造船所露清銀行へ資金を提供したり、地中海クラブを所有したりして、1961-62年にフランス国内全民間資産の6.0%を保有するに至った[16]パリバ7.7%ラザード5.5%ユニオン・パリジェンヌ4.1%商工信用銀行スエズ運河会社も参照されたい)が3.7%、ヴァンデル家(Groupe Lorrain)3.5%[注釈 5]、フランス商業信用銀行(現:HSBCホールディングス)が2.7%200家族のシュネーデル2.1%インドシナ銀行2.0%、クレディ・デュ・ノル(現:ソシエテ・ジェネラル)が1.8%であった。縁戚のウォルムズ銀行フランス語版ドイツ語版)はウニベイル(現:ウニベイル・ロダムコ・ウェストフィールドの前身の一つ)を設立した。

現在NM・ロスチャイルド&サンズが、M&Aのアドバイスを中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用を受託するプライベート・バンキングを行っている。一方、リオ・ティントイメリーズという大規模な工業事業も支配した[17][18]。鉱産資源は19世紀末ごろから本格的に開発している。なお、イメリーズは2014年現在グループ・ブリュッセル・ランバートの支配下にある。

ロンドン家の跡継ぎであるナサニエル・フィリップ・ロスチャイルドは、ジョン・マケインオレグ・デリパスカを人脈にもつ[19][注釈 6]

バンジャマン誕生から現在まで[編集]

英国病が指摘されるようになってからはロンドン家の活動が目立たない。パリ家はシャルル・ド・ゴールと癒着して戦後復興を遂げた。

1967年にバーナード・コーンフェルド(Bernard Cornfeld)がフランスにミューチュアル・ファンド設立を申請して却下されたが、19691ファンド・オブ・ファンズ(IOS)をパリ家と共同経営する合意に達した。5月に当局へ申請、7月にあっさりと認可を得た。合意条件は対等で、募集・販売の両面で損益を折半するものとされていた。合意内容には、ジュネーヴのスイス・イスラエル貿易銀行(Swiss-Israel Trade Bank)4500万フランで買収しIOSフランス支店にする計画もふくまれていた[21][注釈 7]

1001クラブにアルフレッド・ハルトマン博士(Dr. Alfred Hartmann)がいる。スイス軍の諜報部でキャリアをスタート、1952年にUBSへ入社、20余年にわたり勤めた。1978年にHoffmann-La Roche CEO となった。1980年、アーマンド・ハマーのごとく、スイス代表団を率いてソ連と交渉し輸出を促した。ペレストロイカより早く1983年、ハルトマン博士はエリー・ロチルドに指名されて、ロチルド銀行チューリッヒ支店のジェネラル・マネージャーになった。翌年にホフマン-ラ・ロシュを辞めて、ロスチャイルドに尽くした。1986年、Charles Keating をパートナーにトレンドインベストなる会社をつくった。そのあとは国立労働銀行スイス支店長となった。しかしこの支店は国際商業信用銀行とイラク政府所有イラク銀行間の取引に関わったので、そこへイラクゲート事件[注釈 8]が起きてハルトマンは支店長を1991年で辞めさせられた。それからは、Bruce Rappaport が代表するBank of New York-Inter Maritime Bank of Geneva で副社長となった。この銀行は1999年、ロシアでの資金洗浄について捜査線上に名前が浮上したことが報じられている[23]

2002年、ブラックロックがロスチャイルド・オーストラリアと戦略的提携関係を結ぶことを表明した[24]

2005年、エドモン・ドゥ・ロスチャイルド・ヨーロッパ・プライベートバンク日興コーディアル証券(SMBC日興証券)プライベートバンキングサービスを提携するようになった[25]。プレスにはパリ家のバンジャマンをリーダーに新しくジュネーヴ家ができていると読めるような説明がある。また、マレーシア1MDB をめぐる汚職事件に加えパナマ文書とも関連して問題となった、ルクセンブルク支店BPERE(Banque Privee Edmond de Rothschild Europe)について簡単な紹介がなされている。

2009年、ロスチャイルドはベラルーシ国営のBPS銀行をズベルバンクに買収させた(機関化[26]20102月、モスクワ・タイムズによると、アレクサンドル・ルカシェンコ大統領がロスチャイルドを招いて公企業の資産価値を査定させた[26]。ロスチャイルドはJPモルガン・チェースからエドワール(Edouard Veber)を得てなお、シャドー・バンキング業界で人材を探し回った[27]

1MDB問題は急展開を見せた。20164月時点でマレーシアの公的資金がスイスとルクセンブルクで運用されていることが分かっていた[28]7月時点で、実業家のKhadem al-Qubaisi がパナマ文書に書かれたオフショア会社を経由してBPERE で口座を開設したことが分かっている[29]8月、このBPERE 90人以上の警官とマスコミ陣が雪崩れ込み、アリアンヌ・ド・ロチルド英語版フランス語版CEO が活写される事態となった[30][注釈 9]バークレイズIPIC(International Petroleum Investment Company)から救済融資を受けていたことも明らかとなっていた[注釈 10]。在地の新聞社(Luxemburger Wort)は、大公国ルクセンブルクで発覚した史上最大の資金洗浄となるかもしれないとコメントしている。10月には同紙がスイスでの捜査における進捗を報じている[34]BPERE 立入捜査のあった20168月には、ロスチャイルドがCFAフラン圏であるセネガルで資金洗浄スキームの構築に関わったことを示す、20085月付の電報がウィキリークスに公開されている[35]201611月、劉特佐(Jho Low)1MDBを顧客とするマレーシアの銀行家(Yak Yew Chee)18週間の禁固と罰金24,000ドルを言い渡された[36]2017622日ルクセンブルク当局が、1MDBに関係するファンドを扱うとき不正防止措置を怠ったとしてBPERE899万ユーロの罰金を課した[37][38][39][注釈 11]

2018年、ロスチャイルドは、ロンドン家・パリ家がオーストリアニーダーエスターライヒ州において所有する森林を、地元の包装材メーカーであるプリンツホルン・ホールディングスに売却することで合意した[44]

歴史[編集]

マイアー登場以前[編集]

ロートシルト家は、神聖ローマ帝国帝国自由都市フランクフルトのユダヤ人居住区(ゲットー)で暮らすユダヤ人の家系である[45]

フランクフルト・ユダヤ人は1462以来ゲットーに押し込められてきた。また法律・社会的に様々な制約を受け、職業は制限されていた[46][47]。ロートシルト家も代々商売していた家柄だが、マイアーの代までは小規模に過ぎず、生活も貧しかった[45]

ファミリーネームはもともと「バウアー」もしくは「ハーン」と呼ばれていたが[48]、「ロートシルト(赤い表札)」[注釈 12]の付いた家で暮らすようになってからロートシルトと呼ばれるようになった。そこから引っ越した後もそのファミリーネームで呼ばれ続けた[49]。しかしフランクフルト・ユダヤ人が法的にファミリーネームを得たのはフランス占領下の1807のことであり、それ以前のものはあくまで通称である[48]

ヘッセン・カッセル方伯の御用商[編集]

ロスチャイルド家を勃興させたのはマイアー・ロートシルト1744-1812年)である。彼は1760年代からフランクフルトで古銭商を始め、やがてフランクフルト近くのハーナウの宮殿の主であるヘッセン=カッセル方伯家嫡男ヴィルヘルムを顧客に獲得し、1769にはその宮廷御用商に任じられた[50][51][52]。ヴィルヘルムは閨閥の広さによる資金力を活かし、他の王侯ならびに軍人・官吏・各種産業に貸し付けていた[53]

ヴィルヘルムは領内の若者を傭兵として鍛え上げ、植民地戦争の兵員を求めるイギリスに貸し出す傭兵業を営んでおり、その傭兵業の儲けでヨーロッパ随一の金持ちになっていた。ヴィルヘルムがイギリスへ傭兵を貸し付けた植民地戦争に、アメリカ独立戦争もあった[53]。貸し付けた傭兵が死亡したり、負傷したりしたとき、ヴィルヘルムは高額な補償金をせしめた[54]。小規模ながら両替商を兼業するようになっていたマイアーもヴィルヘルムの傭兵業に関わらせてもらい、イギリスで振り出された為替手形の一部を割引(現金化)する仕事を任されるようになった[55][56][57]。とはいえマイアーの担当額はわずかであった。ヴィルヘルムとしては交換比率が下がらないようなるべく多くの業者に自分の外国為替手形を扱わせたがっており、その一人がマイアーだったということに過ぎない。マイアーは基本的に1780年代末まで注目されるような人物ではなく、ヴィルヘルムにとってはもちろん[注釈 13]、フランクフルト・ゲットーの中においてさえそれほど有名人ではなかった。しかも1785にはヴィルヘルムがヘッセン・カッセル方伯位を継承してヴィルヘルム9世となり、フランクフルトから離れたカッセルヴィルヘルムスヘーエ城ドイツ語版)に移ってしまったため、一時マイアーとヴィルヘルム9世の関係が疎遠になるという危機も起こった[59]

一方、物品商の仕事の方はフランクフルトがイギリスの植民地産品や工業製品を集める一大集散地になっていたこともあって順調に推移し、1780年代にはマイアーはかなりの成功を収めていた[58]

やがてマイアーの息子たちが成長して父の仕事を手伝うようになり、長男のアムシェルと二男のザロモンがヴィルヘルムスヘーエ城に頻繁に出入りするようになった。彼らはヴィルヘルム9世の宮廷の正規の金融機関であるベートマン家ドイツ語版)(アムロ銀行#概要を参照されたい)やリュッペル・ウント・ハルニエル(Rüppell und Harnier)などの大銀行を回って、彼らと気難しいヴィルヘルム9世の間の使者の役割を演じ、ヴィルヘルム9世から気に入られるようになった。そして1789年にはロスチャイルド家もヘッセン・カッセル方伯家の正式な金融機関の一つに指名されるに至り、その対外借款の仕事に携われるようになった[60][61]1795年頃からヴィルヘルム9世の大きな投資事業にも参加できる立場になる[62]

こうしてロスチャイルド家は1790年代に急速に躍進した[63]。その頃にはロートシルト家の収入は信用供与と貸付が主となっており、商人というより銀行家に転じていた。その活動範囲もドイツに留まらず、ヨーロッパ中へと広がっていった[64]

ナポレオン戦争[編集]

1789フランスで発生したフランス革命を恐れたヨーロッパ諸国の君主たちはフランスに宣戦布告し、1792から1815までフランス革命戦争ナポレオン戦争が勃発した。だが自由主義をスローガンに掲げるフランス軍は征服地でユダヤ人解放政策を実施したため、ドイツ・ユダヤ人にとっては封建主義的束縛から解放されるチャンスとなった。ロスチャイルド家にとってもヘッセン・カッセル方伯の寵愛だけに依存した不安定な状態から脱却するきっかけになった[65]

戦争の混乱の中、ドイツでは綿製品が不足して価格が高騰した。これに目を付けたマイアーの三男ネイサン1799からイギリス・マンチェスターに常駐し、産業革命で大量生産されていた綿製品を安く買い付けてドイツに送って莫大な利益を上げるようになった。その金を元手にネイサンは1804からロンドンの金融街シティに移り、NM・ロスチャイルド&サンズを創設して金融業を開始した[66][67]

1800年代にはヴィルヘルム9世への影響力も飛躍的に増大し、1803年にロスチャイルド家は宮中代理人の称号を得ている[68][69]

1806ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がプロイセン侵攻のついでにヘッセンにも侵攻してきた。ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世(ヘッセン・カッセル方伯ヴィルヘルム9世。1803年にヘッセン選帝侯に叙された)は国外亡命を余儀なくされたが、この際に選帝侯の巨額の財産の管理権・事業権はロスチャイルド家に委託された。以降ロスチャイルド家はフランス当局の監視を巧みにかわしつつ、大陸中を駆け回って選帝侯の代わりに選帝侯の債権の回収にあたり、回収した金は選帝侯の許しを得て投資事業に転用し、莫大な利益を上げるようになった[70][71][72]

またフランス当局やフランス傀儡国家ライン同盟盟主カール・テオドール・フォン・ダールベルク大公、フランクフルトの郵便制度を独占しているカール・アレクサンダー・フォン・トゥルン・ウント・タクシスドイツ語版英語版)侯などと親密な関係を深めていき、独自の通商路を確保し、また情報面で優位に立ち、大きな成功に繋げていった[73]

ナポレオンは1806年に大陸封鎖令を出して支配下の国々に敵国イギリスとの貿易を禁じたが、これがロスチャイルド家にとっては更なるチャンスとなった。大陸封鎖令により大陸諸国ではコーヒー、砂糖、煙草、綿製品などイギリスやその植民地からの輸入に頼っていた商品の価格が高騰した。また逆にイギリスではこれらの商品の価格が市場の喪失により暴落した。そこでロンドンのネイサンはイギリスでこれらの商品を安く買って大陸へ密輸し、それを父や兄弟たちが大陸内で確立している通商ルートを使って大陸各国で売りさばくようになった。これによってロスチャイルド家は莫大な利益を上げられた上、物資不足にあえいでいた現地民からも大変に感謝された[74][75]

この独自の密輸ルートはイギリス政府からも頼りにされ、イギリス政府は反フランス同盟国に送る軍資金の輸送をネイサンに任せていた。パリに派遣された末弟ジェームズと連携して、イギリスの金塊を公然とフランス経由でイベリア半島で戦うイギリス軍司令官ウェリントン公爵のもとに送り届けたこともあった[76][77]

この時期にロスチャイルド家はフランクフルト・ユダヤ人の解放を推進する役割も果たした。「あらゆる人民の法の前での平等と宗教的信仰の自由な実践」を謳ったナポレオン法典を一般市民法としてフランクフルトに導入する際にフランクフルト大公ダールベルクはフランクフルト・ユダヤ人団体に44万グルデンを要求したが、そのほとんどをロスチャイルド家が建て替えて実現に漕ぎつけたのである[78][79]。しかし、ナポレオンは18085月にユダヤ人同権化法の例外として時限立法をなし、民族の人権を商業・職業選択・住居移転に限ることとした。そして1815年にフランクフルトが自由都市の地位を取り戻し、ユダヤ人の市民権自体を取り消してしまった。

マイアーの死去と五家の創設[編集]

1812年にマイアーは死去した。彼は遺言の中で5つの訓令を残した。1つはロートシルト銀行の重役は一族で占めること、1つは事業への参加は男子相続人のみにすること、1つは一族に過半数の反対がない限り宗家も分家も長男が継ぐこと、1つは婚姻はロートシルト一族内で行うこと、1つは事業内容の秘密厳守であった[80]

マイアーは何よりも一族の団結を望んでいた。ロートシルト家の家紋に刻まれた「協調(concordia)」もマイアーの遺訓であり、その精神は彼の5人の息子たち、長男アムシェル(1773-1855)、二男ザロモン(1774-1855)、三男ネイサン(1777-1836)、四男カール(1788-1855)、五男ジェームズ(1792-1868)にも受け継がれた[81][82]

父の遺訓に従ってフランクフルトの事業は長男アムシェルが全て継承し、他の4兄弟はそれぞれ別の国々で事業を開始することになった。ウィーンには二男ザロモンが1820年に移住した。ロンドンはすでに三男ネイサンが移住していた。ナポリは四男カールが1821年に移住した。パリは五男ジェームズがすでに移住していた[83]

五家は相互連絡を迅速に行えるよう情報伝達体制の強化に努めた。独自の駅伝網を確保し[84]伝書鳩も飼育して緊急時にはこれを活用した。またその手紙は機密保持のためヘブライ語を織り交ぜていた[85]。こうした素早い情報収集が可能となる体制作りがロスチャイルド家が他の銀行や商人に対して優位に立つことを可能としたといえる。ワーテルローの戦いの際にもロンドン家当主ネイサンはいち早くナポレオンの敗戦を知ったが、自分たちの情報収集の早さが他の投資家にも知られており、その動向が注目されていることを利用して、逆にイギリス公債を売って公債を暴落させた後、買いに転じてイギリス勝利のニュースがイギリス本国に伝わるとともに巨額の利益を上げることができた[86][87]

ウィーン体制下[編集]

ナポレオン敗退後、フランス革命以前の旧体制が復古し、フランスに領地を奪われた君主や貴族たちが領地を回復させた(ウィーン体制)。銀行業でも旧勢力が復古し、181511月のパリ条約に定められたフランスの賠償金の調達からロスチャイルド家は弾き出された[88]

ついで181810月の同盟軍のフランス撤兵と賠償金分配を話し合うアーヘン会議でもロスチャイルド家は弾き出されそうだったが、この時にジェームスがフランス公債を大量に買って一気に売り払うという圧力をかけたことが功を奏し、オーストリア帝国宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒから会議に招かれ、ザーロモンカルマンが名声を高めた。以降メッテルニヒとの関係が強まり、1822年にはロスチャイルド一族全員がハプスブルク家より男爵位を与えられ、また五兄弟の団結を象徴する五本の矢を握るデザインの紋章も与えられた[89]。以降ロスチャイルド家はその名前に貴族を示す「von(フォン)」や「de(ド)」を入れることになった。

イギリスでの活躍は特筆に値する。南海泡沫事件を受けて制定された泡沫法(Bubble Act)が、イギリスの海上保険業をロンドン保険会社(London Assurance)とロイヤル・エクスチェンジ保険会社(Royal Exchange Assurance, :アクサ)に独占させていた。これらの会社に計数係として入社を試みた、ネイサンの甥ベンジャミン・ゴムペルツ(Benjamin Gompertz)がユダヤ人ゆえに採用されなかった[91]。そこでネイサンが対抗してアライアンス火災・生命保険会社をつくった。資本金500万ポンド、アライアンス株は発行前からプレミアムつきで取引された[91]。設立趣意書公表の直後、アライアンス理事団は議会に対して泡沫法の廃止を要求した。1824年に廃止法案が議会に提出され、採決と裁可を得た。しかしロイズが身内の生活を理由に、協会員の一人にアライアンス株を15株買わせて株主総会へ送り込んだ[91]。アライアンス理事が会社の業務へ海上保険を加えようと提案したとき、ロイズの総会屋定款の不変性を理由に反対した[92]。アライアンス火災はとりあえず引き下がった。しかしロスチャイルド家は資本金500万ポンドで新たにアライアンス海上保険会社をつくり、ゴムペルツを支配人とした。これはいつのまにかアライアンス火災と合併した(アライアンス保険)[93]。翌1825年の恐慌でイングランド銀行の救済に貢献し、ロスチャイルド家は後に公認の鋳造所を持つほどに同行との関わりを深める。

1834年、ロスチャイルド家は大規模にアメリカ公債を引受けた(連邦準備制度の歴史を参照)。ヨーロッパでは鉄道事業に積極的な投資を展開した。1835年、ウィーン家のザロモンは皇帝の認可を得て鉄道会社を創設し、中欧の鉄道網整備に尽くした。フランクフルト家のアムシェルも中部ドイツ鉄道、バイエルン東鉄道、ライン川鉄道などの整備に尽くした。パリ家のジェームズもフランスや独立したばかりのベルギーの鉄道敷設に尽力したが、同じユダヤ系財閥のペレール兄弟フランス語版)と競争になった[94]。ペレール兄弟のクレディ・モビリエは、会社型クローズドエンド会計の投資信託である[95]1860年代末にクレディ・モビリエは単なる貯蓄銀行となるが、その後フランス・ドイツで同じような投資銀行が次々と設立された[96]

総合水道会社[編集]

1841年から1854年まで、パリの庶民に届く水は14リットル程度であった[97]

パリ家は1853年にオタンゲルなどをともない、総合水道会社ジェネラル・デゾー英語版フランス語版)を設立し5000株を引受けて大株主となった。会社は資本金2000万フラン8万株でスタートした。18609月、パリ市への営業譲渡に合意したが、5つの骨子からなる内容はジェネラル・デゾーに有利であった。具体的には以下のとおりである。[98]

総合水道会社が、セーヌ県の市町村と交わした給水契約の全てをパリ市は承継する。あわせ同社が所有する全水利施設をパリ市に譲渡する。

パリ市が給水管理権を有する。総合水道会社が個人契約者に給水するに足るだけの水量をパリ市は確保しなければならない。総合水道会社は水の配分と販売、枝管の建設、契約金の徴収、商業的給水泉の管理義務を負い、その収入を毎週パリ市の金庫に振り込まなくてはならない。

損害賠償として、186012月の時点で、総合水道会社の年間利益に相当する116万フランの年賦金を総合水道会社は受け取る。

管理費として、総合水道会社は年間35万フランを受け取る。また、総額360万フランを超えた収入分については、総合水道会社が超過分の1/4を受け取る。

契約期間は50年間。このあいだ、総合水道会社はセーヌ県の市町村と新たな給水事業契約を交わすことができない。それはパリ市が担う。

会社は毎年40万フランの割合で収入を増やした。1880年代の大不況期に市議などは会社の事業買戻しを主張した。これは損害賠償の金額算定で争い疲れたことや、水道利用契約義務化政策を円滑に進めたいという思惑が働き、総合会社の天引きは続いた。なお、買戻された場合の埋め合わせは近郊の水道事業にたくさん用意されていた。[98]

帝政ロシアとの闘争とバクー油田[編集]

ロスチャイルド家はユダヤ人迫害を推進するロシア帝国とは敵対的立場を取った。 1854年のクリミア戦争ではロシアと敵対するイギリス・フランストルコ陣営を金銭面から支援した。英仏軍の軍事費を調達し、トルコにも巨額の借款を与えた。 こうしてオスマン債務管理局の債権者たる英仏と債務者トルコ双方が、ロスチャイルド家に財政の詳細を掌握された。

ロシアはクリミア戦争に敗れて、1867年にロシア領アメリカを米国に売却した。しかしオスマン債務管理局が設立された1881年の翌々年に再び財政困窮に陥った。このときパリ家当主アルフォンスはロシア政府の公債発行に協力しており、その見返りとしてバクー油田の中でも最大級のバニト油田をロシア政府より与えられた。すでにアルフレッド・ノーベルがバクーを開発していたので、アルフォンスは彼と協力することにした。ノーベル系企業はドイツ銀行から監査役を受け入れながらドイツにも進出していた。1897サンクトペテルブルクのロシア国立銀行が中央銀行となるとき、ロスチャイルド家は代理人のアレクサンドル・スティグリッツを初代総裁にした。1901年にフランクフルト家が閉鎖した。そこで膠州湾租借地をあえて孤立させ、南下政策を阻止するとともに露清銀行におけるパリバの主導権奪還を支援した。1904年の日露戦争でもロスチャイルド家は軍事費を提供したのである。初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルドが、ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフから「日本の勝利がユダヤ人同胞を迫害するツァーリ体制打倒のきっかけとなる」との誘いを受けた。そこで日本政府が戦時国債を発行する便宜を図り、3回目と4回目の起債はロンドンとパリの両家がそろって引き受けに参加した。

南アフリカや北米西岸でもロスチャイルド家は鉱産資源を開発した。1880年にはセシル・ローズに融資、ダイヤモンド寡占企業のデビアスを設立させた。1924年にデビアスはノーベル資本を爆薬部門として吸収した。189510月にはロンドン・パリの両家がアナコンダ銅鉱山会社の株1/4750万ドルで買収。このころ世界銅供給の4割以上を支配した。このアナコンダは1977年にARCO(現:BP)に吸収されて、ホームステッド法の延命に成功しアラスカプルドーベイ油田を存分に開発した。油田は1968年に発見されたが、翌々年にラファージュがマックス・エイトケンのカナダセメントを吸収し、パイプラインの建材を提供した。

1914年にはロイヤル・ダッチ・シェル石油に油田を売却し、同社の大株主に転じた。自らの油田を売ってでもヨーロッパ石油産業の再編を進めることで、ロックフェラースタンダード石油がヨーロッパ進出を阻止する狙いがあった。英仏露土4か国の資本が融けあうようにしてコーカサスの利権を得た。グルベンキアンバルカン半島の出身らしく、列強資本の溶剤として活躍した。この由緒ある欧州経済において、ロックフェラーは下積みを欠いていたが、ロスチャイルド家は英仏露土各国ばかりか、ロックフェラーが台頭した合衆国に対しても債権者であった。1917年にロシア革命が起こってツァーリ体制が崩壊し、ボルシェヴィキ政権が外国資産を全て接収したが、ロスチャイルド家はこの時に売却しておいたおかげでロシア革命による打撃を受けずにすんだ。

衰退[編集]

19世紀後半の相次ぐ戦争と各国での国家主義の高揚により、衰退が始まった。この段階でもロンドン家とパリ家は繁栄していたが、フランクフルトの本家は発祥の地フランクフルトに固執して新しい金融の中心地ベルリンに移ろうとしなかったために衰退し、ウィーン家もハプスブルク家と運命をともに没落していった。ナポリ家に至っては危機的状況に陥っていた。初代マイアーは「兄弟力を合わせるように」という遺訓を残しており、子孫たちもこれまでその遺訓を守って、5家協力してやってきたが、国家主義の高揚はその協力の維持を難しくしていた。1901にフランクフルトの本家が断絶すると家内の協力関係はいよいよ希薄となっていった。

そこで他家に嫁を出した。そもそも「五本の矢」にはジャネットなる姉がいて、ヴォルム家に嫁いでいた。ロスチャイルドの築き上げてきた閨閥は宗家の危機に真価を見せたが、インドシナ銀行は良い例である。

1914年に勃発した第一次世界大戦でロスチャイルド家は敵味方に引き裂かれてしまった。兵役年齢の者はそれぞれの祖国の軍隊に入隊して祖国のために戦った。ロンドン家はエヴェリン・アシル・ド・ロスチャイルドをパレスチナ戦線で失った。ロスチャイルド家の中で最も栄えていたロンドン家は、第一次世界大戦中の税制変更期に初代ロスチャイルド男爵ナサニエルとその弟二人が相次いで死去する不幸があったことで、その財産に莫大な相続税をかけられて衰退しはじめた。ロスチャイルド家の銀行は株式形態ではなく個人所有だったため相続税増税の直撃を被ったのである。19世紀に手に入れた豪邸を次々と手放すことを余儀なくされた。またロスチャイルド銀行の業務の大きな部分を占める公債発行が戦争のせいで危険な投資になってしまったこともロスチャイルド家にとっては厳しかった。第一次世界大戦後のロスチャイルド家はこれまで投資した事業を守るだけで精一杯という状況にまで陥っていった[104]

ナチスによる弾圧[編集]

19世紀に栄華を誇ったロスチャイルド家も20世紀には衰退の一途をたどり、実際の財力より名前の威光ばかりが先行するイメージの存在と化していた[105]。しかし「国際ユダヤ資本」を陰謀の元凶とするユダヤ陰謀論に影響されたナチス・ドイツにとってはそのイメージは反ユダヤ主義プロパガンダの格好の材料であり、ロスチャイルド家は陰謀の黒幕扱いにされた。『ワーテルローの勝者 ロスチャイルド家(Rothschilds Aktien auf Waterloo)』(1936)や『ロスチャイルド家』(1940年)といったロスチャイルド家を「世界支配を狙う陰謀を企てる者」として描く反ユダヤ主義映画がドイツで公開された。

ドイツ国内のロスチャイルド家に由来する記念碑や名称もナチス政権誕生とともに取り払われていった。ロスチャイルド並木通りはカロリング王朝並木通りに変えられた。ドイツ国内にあったロスチャイルド家所有の財団法人や慈善施設も経済や銀行業のアーリア化により財産放棄か二束三文で買い取られていった。フランクフルト家の最後の当主ヴィルヘルムドイツ語版)の娘婿だったマクシミリアン・フォン・ゴールドシュミット=ロートシルトドイツ語版)の財産も政府に没収された

しかし、ナチスの目標であったヴィートコヴィツェ製鉄所は守られた。この製鉄所は1843年、ザロモンが北部鉄道などの事業へ供するため、オストラヴァのヴィートコヴィツェに独占所有した資源である。この鉱山は石炭も産んだ。並み居る資源連合国を前に、ドイツの兵器産業はザロモンの山を切望した。そこで歴史が動いた。ネイサン創始のアライアンス保険が1936に法的な鉱山所有者となったのである。ここまではロスチャイルド・アーカイブでも明らかにされている[109]。実は前年から株式の名義をスイスなどに変えてあったが、おかげでヒトラーに察知されなかった。占領にこぎつけても時すでに遅く、電撃作戦をねらうドイツとしては国際私法に挑戦することができなかった。後日談としてヴィートコヴィツェは戦後に国有化された。英国は19481223ユーゴスラビアに、翌年928日にはチェコスロバキアに賠償責任を認めさせた。1950712日に海外賠償法The Foreign Compensation Act 1950 が成立し、これにより補償金を株主へ配る委員会The Foreign Compensation Commission が設立された[110]1951年、ロスチャイルドのアライアンス保険は委員会を交えて株主と協議した。そして1962年、アライアンス保険ヴィートコヴィツェ事業権利書の解約による株式保有者へ、最後の補償金が分配された。現在のヴィートコヴィツェ原子炉圧力容器・蒸気発生器などを製造している。

1938にオーストリアがドイツに併合された際には、ウィーン家の者はほとんどがイギリスへ亡命していたが、当主であるルイ・ナタニエル・フォン・ロートシルト男爵ドイツ語版)のみがウィーンに残っており、併合とともにゲシュタポに連行された。戦前期にはまだ絶滅政策は行われておらず、財産没収と国外追放がナチスのユダヤ人政策だったので、ルイも全財産没収と外国へ出ていくことに同意するのを条件に釈放され、アメリカへ亡命した。第二次世界大戦後もウィーンには戻らず、子孫もなかったためウィーン家はこれをもって絶家した(戦後オーストリア政府はナチスが没収したルイの財産をルイに返還しているが、ルイはその全額を寄付しているので財産上も残らなかった)[111][112]

1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻でパリが陥落すると、パリ家の銀行や邸宅もナチスに接収された。またパリ家は美術品の収集で知られており、陥落直前に美術品の外国移送に励んだが、移送できなかったものは陥落後に押収された。パリ家の人々の多くはアメリカへ亡命し、ロチルド家御曹司ギーはアメリカからイギリスにわたってド・ゴール自由フランス軍に入隊した。自由フランス軍の財政は少なからずロスチャイルド家によって支えられていた。

ロンドン家は直接の被害を免れたが、1940年から1941年のイギリス本土空襲時には子供たちはワドスドン城ヘ疎開した。ドイツやオーストリアから逃れてきていた孤児たちも預かり、この城に一緒に収容している[115]。戦時中大陸にいて逃げ遅れ、ナチスの手にかかったロスチャイルド家の者が2人出た。フランス家のフィリップの妻エリザベート英語版)とロンドン家の3代ロスチャイルド男爵ヴィクターの叔母にあたるアランカだった。前者はラーフェンスブリュック強制収容所、後者はブーヘンヴァルト強制収容所で落命している[116]

第二次世界大戦が終わった時、残ったロスチャイルド家はロンドン家とパリ家の二つだけとなった[117]。大戦の影響でロスチャイルド家の衰退は更に進んだ。ロンドン家もパリ家も収入が大きく落ち、出費は増える一方で更に多くの豪邸を売り払うことを余儀なくされた。

戦後復興[編集]

ロンドン家の戦後復興はロンドン家分家のアンソニー・グスタフ・ド・ロスチャイルドを中心に行われた。ロンドン家本家の3代ロスチャイルド男爵ヴィクター・ロスチャイルドとはNM・ロスチャイルド&サンズの株を6:2という割合で配分しているため、分家のアンソニーが経営を主導する形になった[119]。第3代ロスチャイルド男爵ヴィクターの息子4代ロスチャイルド男爵ジェイコブはアンソニーの息子エヴェリンと経営方針が合わず、1980NM・ロスチャイルド&サンズを退社してRIT・キャピタル・パートナーズ英語版)を立ち上げた[120]ビッグバンでは外銀と入り乱れてジョバー・ブローカーの買収に奔走した。

パリ家の戦後復興は1949年に正式に当主となったギー・ド・ロチルドを中心にして行われた。ド・ゴール将軍やジョルジュ・ポンピドゥーの協力を得てパリ・ロチルド家の再興に成功している。1981年に社会党党首フランソワ・ミッテランが大統領になった際に一時ロチルド銀行が国有化されたが、ミッテランの社会主義政策の失敗後、ギーの息子ダヴィド・ド・ロチルドの指導の下に再建された[121][122]。この1950-80年の間が成長の肝である。

パリ家は戦前の国際コネクションを活かして事業を開拓した。1957年にはSociété française d'investissements pétroliers という石油会社を設立した。ラザード4割ずつ出し合い、あとは預金供託金庫クレディ・リヨネ1割ずつを出資した[123]1960年時点のロチルドグループには独占体のソフィナ、国の船を動かしたサガ海運13000万フランの資産価値をもっていた北部投資会社Société d'investissement du Nord、さらにラルジャンティエールのペナロヤ社(現:イメリーズ)もあった[123]。ロチルドフレール、北部鉄道、北部投資会社の3社を基幹としてロチルドグループは株式持ち合いにより結束していたが、1967426日の記者会見で以下の方針を明らかにした。まずパリ・オルレアン鉄道を合併させてグループの持株会社に用いる。そしてロチルドフレールは株式会社化・預金銀行化にともないロチルド銀行と改称する。[124]

ロンドン家とパリ家の統合[編集]

2003年にはロンドン家とパリ家の両銀行が統合されたロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングスが創設され、フランス家のダヴィドがその頭取に就任した[125]

現在の事業[編集]

現在、ロスチャイルド家が営む主な金融グループは3つある。3つの金融グループはそれぞれの分野で傑出した業績を誇るが、それぞれの国においてより規模の大きな競合企業が存在する。

現在のロスチャイルド家を代表する人物として、Edmond de Rothschild Groupを統括するバンジャマンフランス語版)、The Rothschild Groupを統括するダヴィドRIT Capital Patnersを統括する4代ロスチャイルド男爵ジェイコブ・ロスチャイルドらがいる。ロスチャイルド家の7代目の後継者は、ダヴィドの息子、アレクサンドル・ド・ロチルドとなる予定である。

金融[編集]

エドモン・ドゥ・ロスチャイルドグループ(Edmond de Rothschild Group)はスイスに本拠を置く金融グループであり、傘下では、概要で述べたBPERがスイスを中心に世界中でプライベート・バンキングを行ったり、ヴィニコル・エドモン(Compagnie Vinicole Baron Edmond de Rothschild)がフランスを中心に世界中でワイナリーを営んだりしている。前者はスイス証券取引所に上場しており、2011年においてその総資産は140.2億スイスフランである。

ロスチャイルド&カンパニーはロスチャイルド家のパリ家とロンドン家が共同所有する金融持株会社。ロスチャイルド銀行グループの中核企業としてNM・ロスチャイルド&サンズ(イギリス)やRothschild & Cie Banque(フランス)などを所有し統括している。[130]ヨーロッパを中心に45か国にオフィスを持ち、事業はM&Aのアドバイスを中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用を行うプライベート・バンキングが中心である。特にM&Aでは取り扱い件数がヨーロッパで一番多い。 なお、パリ家の歴史的事業であったロチルド・フレールは、改名と国有化を経てバークレイズに買収されている。

RITキャピタルパートナーズ(RIT Capital Partners)1980年に設立された、ロンドンのスペンサー・ハウスに本拠を置くInvestment Trustであり、アメリカやイギリスを中心として世界中の会社に投資を行っている。RIT Capital Partnersはイギリスで最大規模のInvestment Trustであり、イギリスのトップ5の一つに数えられている[128]Investment Trustはクローズド・エンド型の投資信託に属する。会社設立に勅許を必要とした時代からイギリスで発展した。その原型はユース法の信託による会社で、法人格をもたなかった。今では公開有限会社として資金を募り、ヘッジファンドプライベート・エクイティ・ファンドなど様々な商品に投資する。RITRockefeller Financial Services社と資産運用事業で提携していることでも知られている[131]RIT Capital Patnersロンドン証券取引所に上場しており、2012年において総資産は22.1億ポンドである[132]

ワイン[編集]

ボルドーワインの生産者として、最高の格付けを得ている「5大シャトー」と呼ばれるブドウ園のうち2つが、ロスチャイルド家の所有となっている。そのうちシャトー・ムートン・ロートシルトは、ネイサン・ロスチャイルドの三男ナサニエルが1853年に購入したものであり、シャトー・ラフィット・ロートシルトはマイアー・ロスチャイルドの五男ジェームスが1868年に購入したものである。1855年の格付けではラフィットが1級の評価を得たものの、ムートンは2級に甘んじた。

1973年、異例の格付け見直しによりムートンも1級の地位を獲得する。ナサニエルの曾孫フィリップの努力が実った。その後もフィリップとその一族は、カリフォルニアの「オーパス・ワン」、チリの「アルマヴィーヴァ」などのワインを手がけ、いずれも高い評価を獲得している。

百年戦争の終盤まで、「5大シャトー」のあるメドックはイギリス領だった。そこで貴族がブドウ畑を営んでいたのである。メドックAOCの一部地域(Haut-Médoc AOC)の広大な塩沼は塩の輸出にも貢献していた。メドックがフランス領となったとき、ブルジョワ層のボルドー議員らは猪突の勢いで、畑とワイン販路の買収に走った。やや北方にラ・ロシェル包囲戦が展開されるまで、メドックはオランダ人技師により干拓が進められた。三十年戦争の結果、ワインは消費地の北ヨーロッパへ輸出できなくなった。保存できなかったので価格は地を這いずった。テロワールの改良が進み、ジョン・ロックがその成果を著書にとりあげる水準へ達した。1709年の厳冬(Great Frost of 1709)がブドウ畑を壊滅させた。霜に強い小粒な品種が採用されるようになった。1730年初頭に保存も可能となった。それでもうどんこ病ブドウネアブラムシは脅威であった。[135]

19世紀前半まで、ボルドーは大西洋の先アンティル諸島との砂糖交易を続けた[136]

ロスチャイルドがメドックにシャトーを買うと、1870年代にアメリカからネアブラムシがもたらされ、メドックのブドウ生産が打撃を受けた。1881オスマン債務管理局が設立され、抵当六間接税の一つである酒税の収入拡大が志向された。そこでワインの輸出関税を免除、200オッケを超える輸出に税の半額を払い戻すという奨励が行われた。ネアブラムシに苦しむフランスは恰好の輸出先であったが、防衛措置としてフランスがメリーヌ関税を導入すると、輸出先はだんだん中欧諸国に変わっていった。1885年、ネアブラムシはイズミルブルサのブドウ生産にも打撃を与えた。オスマン帝国と管理局は手を尽くして損害を最小限に抑えたが、対策の一つにアメリカ種を植林した農民への免税措置があった。[137]

メドックにもアメリカから虫害に強い種苗がもたらされた。1880年に生産・輸出が低迷し、立ち直ってから当分メドックのワイン業は栄えた[135]。ワイン業だけの力で生産・輸出を回復することはできなかったであろう。輸送効率を上げるため、1882年シュネーデルの支援でジロンド造船所(Forges et Chantiers de la Gironde)がつくられた。ブドウ生産に使う肥料は、1891年ボルドー化学製品会社(Compagnie bordelaise de produits chimiques)が設立されてから化学業界の飛躍的発展により供給された。ボトルも作らなくてはいけない。1899年、サンゴバンがボルドーに工場を設置した[138]

1907年と翌年に、不当競争と過剰生産でブドウ生産者が反乱した[135]。戦間期を通じボルドーの工業は政府に見放され、1927年ジロンド造船所が破産申請した[139]1960年から投資を受けて、30年かけて作付面積と収穫量を倍化させた[135][注釈 15]

家系図[編集]

掲げてある名前は男性だけである。ハプスブルク家ほどではないにせよ19世紀後半までは同族間での結婚が要所でなされている。特にナポリ家からフランクフルト家の養子となった、マイアー・カールとヴィルヘルム・カールそれぞれの娘がそうである。マイアー・カールの娘マルグリタは13親等でヴァレリー・ジスカール・デスタンと閨閥であり、ヴィルヘルム・カールの娘ミンナはゴールドシュミット・ファミリーへ嫁いでいる。以下の家系図に女子が現れない点には注意を要する。

家祖と「五本の矢」[編集]

フランクフルト家(1901年閉鎖)アムシェル・マイアー(17731855)

 フランクフルト・ロートシルト家(1901年閉鎖)[表示]

ウィーン家(1938年閉鎖)ザロモン・マイアー(1774-1855)

 ウィーン・ロートシルト家(1938年閉鎖)[表示]

ロンドン家ネイサン・メイアー(1777-1836)

 ロンドン・ロスチャイルド家[表示]

ナポリ家(1901年閉鎖) カール・マイアー(1788-1855)

 ナポリ・ロートシルト家(1901年閉鎖)

パリ家 ジェームズ(1792-1868)

 パリ・ロチルド家[表示]

注釈[編集]

1.     ^ 五人兄弟で唯一、トゥルン・ウント・タクシス家が所有するレーゲンスブルク宮殿(ザンクト・エメラム修道院)に入り、郵便事業の経営に参画した。

2.     ^ それぞれオーストリア北部鉄道北部鉄道 (フランス)

3.     ^ 日露戦争のポンド建て借款は考えずに各戦争の434328700フラン50億フランを比較したもの。数値の出典は各戦争の記事に添えた。

4.     ^ 19242月募集の、6.6%利付15000万ドルと6%利付2500万ポンド国債。引受銀行はドル建ての方がJPモルガン、ニューヨークシティ・ファースト・ナショナル、クーン・レーブナショナル・シティホープ商会横浜正金銀行。ポンドの方がロンドン家NM・ロスチャイルド&サンズの他、香港上海銀行、ベアリング家、モルガン・グレンフェル、横浜正金銀行、ウェストミンスター銀行シュローダー銀行[15]

5.     ^ ヴァンデル家(Famille de Wendel)鉄鋼業の起こりはシュナイダーエレクトリックを参照されたい。過去にペナロヤ主要株主であった。第一次大戦中は片足をドイツに置いていたが、フランス軍と癒着してブリエ盆地奪還を見送らせた。戦後はロレーヌ地方に所有した工場を統合して純粋なフランス企業となった。シュナイダーとの姻戚経営を武器に戦間期は東欧・南米にも進出した。第二次世界大戦後はRaty財閥とも提携しながらサシロール(Sacilor)をふくむコンツェルンを経営、欧州石炭鉄鋼共同体ルール=ロレーヌ統合を働きかけた。1986年サシロールがユジノールに吸収された(現:アルセロール・ミッタル)。1995年、同家はビューローベリタスに参加した。

6.     ^ ルサールをアメリカによる経済制裁の対象から外すために、同社の社外取締役がロスチャイルドを雇い、デリパスカのエネルギー関連事業(En+ Group)がルサール株を売却するよう助言させていることが最近あきらかとなった[20]

7.     ^ スイス・イスラエル貿易銀行の経営にはシャウル・アイゼンバーグ(Shaul Eisenberg)が参画した。[22]

8.     ^ クウェート侵攻に備えてロナルド・レーガンジョージ・HW・ブッシュがイラク軍を強化したという陰謀論をめぐる一連の社会現象

9.     ^ アリアンヌ・ド・ロチルドは2014年にサンクトペテルブルク国際経済会議へ出席している[31]。この会議は1997年に第1回が開催されて以来、ロシア経済の機関化に作用している。アリアンヌが出たのは第18回となる。2005年からはロシア連邦大統領が主催している。この第18回にはドイツ銀行HSBCUBSクレディ・スイスといった外国銀行が勢ぞろいし、VTB の存在が小さく見えてしまう。世界銀行国際銀行間通信協会も来た。ロシア側参加者は全体の3/5程度を占め、ガスプロムが存在感を出している。独立国家共同体からの参加者が少なく、東西各陣営の板ばさみとなった。グレンコアABBグループ、そしてゼネラル・エレクトリックは代表者をあまり出さず大銀行と連携した。それらに対してアブダビ資本は多人数を派遣して主張した。サンクトペテルブルクは、露仏同盟の時代から外資が押し寄せ、20世紀初頭には国際水路機関の設立検討会が開かれたグローバル・シティーである。

10. ^ IPIC 1MDBの債務による事業拡大を支援してきたが、20143月末時点で1MDBが保有していた資産の価値の60%相当分の債務を肩代わりすることに合意した。代わりにIPICは大半が不動産とみられる不特定の資産を受け取る[32]201781日、IMBD IPICに対して7月末が期限となっていた社債の利払いを実施できないことが明らかとなった[33]

11. ^ ロスチャイルドは異なる市場で挽回をねらっている。同20177月にエドモン・ド・ロチルドはクリアストリームと戦略的に提携し、他社投信(サード・パーティ・ファンド)の販路を拡充することになった[40]9月にロスチャイルドはウクライナ国債の償還を延期するため財務省の顧問として指名された[41]キエフシティ・グループゴールドマン・サックスJPモルガンを主幹事に指名してユーロ債市場に復帰しようとしている[41]11月、エドモン・ド・ロチルド・アセット・マネジメントが、ブラックロックのガド・アマール(Gad Amar)を登用した[42]2018年、ロスチャイルドはシュルンベルジェに投資した[43]

12. ^ 「赤い盾」と訳す書もあるが、ドイツ語の「シルト」には男性名詞と中性名詞があり、男性名詞は「盾」だが、中性名詞は「表札」の意味である。ロートシルトのシルトは中性名詞の「表札」の意である[48]

13. ^ マイアーが初めてヴィルヘルム9世の引見を受けられたのも1789のことである[58]

14. ^ フィリップは1930年代に廉価で高品質のワインブランド「ムートン・カデ」を創り出した。シャトー・ムートンの技術と経験で造られた新作ワインが手頃な値段で楽しめるとあって、ムートン・カデの需要は徐々に高まっていった。今日ではムートン・カデはフランスで最もよく飲まれているワインとなっている[133]。世界中の人に愛されているブランドでもあり、2004年には世界で1500万本販売された[134]。日本ではスーパーなどでも販売されている。

15. ^ 1956年の霜が降ったあと、メドックの畑は6000ヘクタール未満に縮小していた。

16. ^ コーエン家は、ウェストミンスター銀行一創業者デイビッドサミュエル・モンタギューと姻戚である。

17. ^ 娘がロッテルダムのVan Zuylen van Nievelt 家に嫁いだ。

 

 

 

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