百人一首 田渕句美子 2024.3.6.
2024.3.6. 百人一首――編纂がひらく小宇宙
著者 田渕句美子 1957年生まれ.お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博士課程退学.日本中世文学・和歌文学・女房文学専攻.現在―早稲田大学 教育・総合科学学術院教授
著書―『阿仏尼』(人物叢書,吉川弘文館,2009年),『新古今集 後鳥羽院と定家の時代』(角川選書,2010年),『異端の皇女と女房歌人――式子内親王たちの新古今集』(角川選書,2014年),『民部卿典侍集・土御門院女房全釈』(共著,風間書房,2016年),『女房文学史論――王朝から中世へ』(岩波書店,2019年),『和歌史の中世から近世へ』(共編著,花鳥社,2020年),『窪田空穂 「評釈」の可能性』(近代「国文学」の肖像 4,岩波書店,2021年),『百人一首の現在』(共編著,青簡舎,2022年),『阿仏の文〈乳母の文・庭の訓〉注釈』(共著,青簡舎,2023年)ほか多数.
発行日 2024.1.19. 第1刷発行
発行所 岩波書店 (岩波新書)
序章 『百人一首』とは何か――その始原へ
『百人一首』は不思議な書物、多種多様なメディアに変身している。藤原定家が選んだアンソロジー(複数の作品を1つの作品集にまとめたもの)と言われることが多いが、厳密にはそうではない
和歌のアンソロジーは、天皇/上皇の命を受けて撰者が編纂した公的な性格の勅撰和歌集、ある目的で誰かが私的に編纂した私撰和歌集、優れた歌を集めて作った秀歌撰、歌題ごとに分類して作った類題集、既存の歌から撰んで番(つが)えて作った撰歌合(せんかあわせ)などがある。『百人一首』は秀歌撰の1つ
本書では、『百人一首』がどのような背景の下で編纂され成立したか、どのような文化的脈動と共に変貌していったか、なぜこれほど長い命脈を保ち、現在のような位置を獲得したのかなど、いくつもの疑問を解きほぐしながら、「百人一首」という作品について考えていく
定家による編纂のありようは、定家が唯一残した日記『明月記』の文言を追いながら考える
『百人一首』は定家撰ではなく、定家以後の誰かが改編したものである可能性が極めて強い
『百人一首』の元は『百人秀歌』(101首)は定家撰で、97首が共通しているが、2つは配列構成が大きく異なり、厳密にいえば別の作品
両者の違いは、『百人一首』の巻末にある2首、後鳥羽院(人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は)、順徳院(ももしきや古き軒端にしのぶにもなほあまりある昔なりけり)以外はさほど注目されてこなかったが、それは両者が定家撰とされたため、多少修正を加えて入れ替えを行ったというように考えられ、撰者の違いによる差異とは認識されていなかったが、編者が異なるとなると、2つの作品の違いは大きな問題として浮上。その1つが、『百人一首』の中には、編纂・配列によるある種の物語化、劇化が行われた部分があるように思う。だからこそ『百人一首』は悲劇の帝王・貴族たちの物語として読まれてきたのだろう
定家にとっては『定家八代抄』(『古今集』から『新古今集』までの8勅撰集から1800首余りを抽出)や、そこから目的に合わせて歌を抜き出したアンソロジーの方が重要だったろう
『百人一首』の最も卓抜な点は、100人の歌人の各1首という枠の中に、王朝から中世前期の古典和歌が凝縮されていることで、『百人秀歌』が創成したコンセプト
平安中期の藤原公任による『三十六人撰』は、多くのアンソロジーに影響を与えたが、有力歌人6人の各10首、その他30人は各3首という構成で、分節しにくい。後鳥羽院の『時代不同歌合』は、歌人100人の各3首を選ぶが、150番の歌合の形なので分解できない
これらに対し、『百人秀歌』の秀逸な点は、集合体としても完成体だが、いつでも1首に分解できることで、『百人秀歌』を基に『百人一首』が出来たのも、『百人秀歌』が簡単に分解できて容易に配列を変えられたから
宮廷和歌世界を公的に代表する勅撰集には、歌道家(和歌の家)の当主が持つ厳しい規範的意識の反映があるが、『百人秀歌』は最晩年の低下が縁戚の蓮生に贈った私的なアンソロジーであり、定家の規範に囚われない斬新な作り、知的な企みが見て取れる一方で、古典和歌を古代から振り返って集約してみせるという、やや余裕ある編纂態度も感じられる
『小倉百人一首』は、江戸時代以降生まれた『百人一首』のバリエーションと区別するために生まれた名称であり、『百人一首』という名称自体も14世紀後半以降にしか見出せず、定家のあずかり知らぬ書名だろう
第1章
『百人一首』に至る道
1 勅撰和歌集というアンソロジー ――撰集と編纂の魔術
l 『百人一首』はどこからきたか
『古今和歌集』を始発とする過去の勅撰和歌集の入選作から選んだもので、各歌は勅撰集に入集した歌という権威を纏うが、『百人一首』自体はアンソロジーとして公的なものではない
勅撰集は、宮廷文化を公的に代表する文化であり、『源氏物語』などとは別次元のもの。撰者も作者も、言葉の力を信じ、人の心も世界との結節のあり様も全て和歌によって表現できるし、勅撰集は歴史に永遠に刻印されるという確信のもと、500年にわたって編纂され続けた
l 勅撰和歌集とは何か
勅撰集は21あって「二十一代集」と呼ばれる。最初が『古今集』(905)で最後が『新続古今集』(1439)。形態・構成は基本的に同じ。1集20巻とし、世界を20に分節して、和歌によって再構成してみせるという意識。各巻は、春・夏・秋・冬・恋(時系列順)、哀傷(死を悼む)、賀(祝い)、離別、羈旅(きりょ、地方下向の旅中の歌)、雑(ぞう)、神祇(じんぎ)、釈教(しゃっきょう、仏教に関する歌)などに分類(=部立、ぶだて)
平安初期の漢文学全盛期には『凌雲集』など、勅撰漢詩文集3集が編纂されたが、それが9世紀初頭のわずかな間の成立だったことを思えば、500年という期間にわたって編纂が続き、和歌という詩的形態が現在にまで至っていることは、奇跡的な文化現象
勅撰集をまとめて言うとき、『三代集』『八代集』『十三代集』『二十一代集』のように言い、『三代集』は『古今』『後撰集』『拾遺集』の3集で平安期前半の勅撰集、『八代集』は『古今』から『新古今』までの8集。「代」がつくのは、天皇の綸旨/上皇の院宣によって編纂されたものであり、その治世の文化的象徴であることを物語る。原則、過去に入選の歌は採入しないが、過去に遡り現在までの歌人の歌を取り混ぜ、何らかの意図に基づいて錦のように織り上げている
単なる秀歌のアンソロジーではなく、文化的・社会的機能を持つ。編纂当時の人々の価値観・意識を代表するもの、同時代や後代に向けて発信するものであり、宮廷和歌の世界や、当時の社会・政治の中で、種々のメッセージを放っていた。それだけに、撰者が誰か、入選するか否かに一喜一憂したり、撰者への賄賂などの問題も惹起
l 勅撰和歌集の配列の意図
最も中心となる配列原理は時の流れ、時の移ろいであり、『万葉集』には見られない特徴
個々の歌にはそれぞれの詠歌事情があるが、言葉を接着剤にして網の目のように連鎖的につなぎ、ある流れや物語、世界を描き出すもので、時には元の歌の意味が変質することもある
l 映画の編集のように
映画の編集が、映像、音楽、俳優の演技、美術などを織り交ぜて行われるのに対し、勅撰集の編纂は文字だけを頼りに物語を構成している。それは和歌が、そして文学が喚起する感覚の果てしなさを表す
2 八代集という基盤――「私」から複数の人格へ
l 『古今集』から『後撰集』へ
8つの勅撰集は半世紀ごとに編纂
9世紀の仮名文字の誕生は、日本語の発語をそのまま書記できるという驚きと衝撃をもたらし、和歌の発達を刺激。醍醐朝の『古今集』は、仮名文字の源流として聖典となり、日本文化の美意識の根幹を形成、1000年にわたって文化全般を生き続けている
小野小町の歌(花の色は)は、『古今集』春下の歌で散る花の歌群の中にあるので、あくまで春の歌として読むべきとの解釈がある一方で、時とともに移ろいゆく人間の存在のはかなさへの嘆き悲しみがこの歌の魅力でもある
『後撰集』(951)は、村上天皇の命で編纂され、宮廷貴族の日常詠を中心に宮廷人の人間模様に重点を置いたため、恋の贈答歌が非常に多い
l 『拾遺集』と『後拾遺集』の間の断層
藤原公任撰『拾遺抄』(996)と、それを増補改訂した『拾遺集』(1005)――後者は花山院親撰、藤原道長後援。コンセプトとして『古今集』を受け継いでおり、古今歌風の完成といわれる
ここまでを三代集といい、王朝和歌の基本テキストとして尊重された
公任は太政大臣頼忠の子、漢詩・和歌・管弦の何れにも優れ「三舟の才」で知られ、その歌(滝の音は)は整った声調の典雅な歌で、王朝盛時の宮廷和歌の代表
『後拾遺集』(1086)は、白河天皇の下命。最盛期の宮廷文化を反映、和泉式部など女房歌人が並ぶ。受領(ずりょう)層の歌人や僧侶歌人など、歌人層が専門歌人占有から拡大
l 題詠歌・百首歌による大転換
院政期に、『堀河百首』(1105)を転換点として、題詠が和歌の主流となる。1人の歌人が勅撰集の体系に準じた構成からなる100の歌題の1セット(組題)の100首を詠むやり方
詠歌主体と作者は別の人間で、詠歌主体の人物に成り代わってその題の本意を詠みこむ
この時代以降の歌は、王朝時代の貴族のコミュニケーション手段から、虚構の美的観念的世界に突入し、独立した創作詩へと変貌。『百人一首』の中にも多くの題詠歌が含まれる
l 『金葉(きんよう)集』『詞花(しか)集』の苦闘から『千載集』の中世和歌へ
院政期和歌の新風は、『金葉集』(第5勅撰集、白河院下命、源俊頼撰、1127)『詞花集』(第6勅撰集、崇徳院下命、藤原顕輔撰、1151)に結実。次が『千載集』(第7勅撰集、後白河院下命、藤原俊成、1188)で、王朝和歌を遠景に置く古典主義を基本的態度とし、叙情的調べを重視
待賢門院堀河の歌(長からん心も知らず黒髪の)は、女性による後朝(きぬぎぬ)の歌で、題詠歌なので、詠歌の主体は作者自身とは限らず、基本的に虚構と想像の世界
l 怒涛の『新古今集』の時代の始まり
俊成の子の定家など歌人集団が、革新的で複雑な和歌表現を編み出し、後鳥羽院がその新風に魅了され、定家ら6人に編纂を下命したのが第8勅撰集の『新古今集』(1205)
3 『三十六人撰』から『百人一首』へ――
l 藤原公任『三十六人撰』とその影響力
6歌仙を36歌仙に発展させたのが藤原公任。公任の業績の中でも後世に大きな影響を与えたのが36歌仙による150首の秀歌集『三十六人撰』――天皇家や大臣などの貴人は含まれず、時代的にも平安前期、10世紀までの歌人に限定
l 百首歌から『百人秀歌』『百人一首』へ
10世紀半ばに曽禰好忠が「初期百首」と呼ばれる百首歌の形式を創始し、『好忠百首』を詠むと、1人の歌人がある主題に基づき100首を詠む詠法が広まり、長く引き継がれる。「応制百首」と呼ばれる、天皇/上皇が宮廷の歌人に詠進させる催しとなり、撰集の材料として行われたが、その嚆矢となったのが前述の『堀河百首』(1105)
1歌人によって、その時点で新しく詠まれた新作の100首であることが条件だが、定家は『百人秀歌』で、古歌を対象に101人・1首という、当時の常識を反転させた手法を用いる
鎌倉期以降も、36人を単位として歌人と和歌をセレクトする歌仙秀歌撰・撰歌合など編纂され続けるが、『百人秀歌』の形式が継承されるのはかなり後のこと。将軍足利義尚撰の『新百人一首』が編纂されるのは1483年、夥しい「異種百人一首」が作られるのは江戸後期
第2章
『百人一首』の成立を解きほぐす
1 アンソロジスと藤原定家の登場――編纂される和歌と物語
l 歌道家のアイデンティティと戦略
藤原定家は俊成の子で、歌道家である御子左家(みこひだりけ)の当主。宮廷で和歌の指導を担う。子の為家も『続(しょく)後撰集』『続古今集』の撰者
定家は、廷臣(高級官僚)としても有職故実に明るく有能で、後に公卿(閣僚)にも昇進
和歌は、単なる風流韻事に止まらず、大なり小なり政治的な意味を帯び、権威性を持った存在
l 『新古今集』編纂と定家の才能
1200年以降、後鳥羽院が急速に和歌に傾斜し、頻繁に歌合・和歌会を催し、定家の和歌に魅了される。和歌は王朝文化を誇示する政教性を強め、定家ほか5人を撰者として『新古今集』に結実するが、定家の『明月記』には編纂の苦労と不満・愚痴が細かに書き付けられている
後鳥羽院と定家の間にも和歌への考え方を巡って微妙な亀裂が生じ、承久の乱によって宮廷全体が激変し、後鳥羽院も隠岐へ配流
l 編纂の手腕を磨く
定家は編纂の達人。後に単独で編纂した『新勅撰集』の配列構造にも表れている
定家の主人で歌友の九条良経(よしつね)の依頼で編んだ『物語二百番歌合』(1206)の他にも、後鳥羽院の命で物語歌集の編纂を行い、さらには自身の歌論をまとめることにも着手
定家撰のアンソロジーとしては、『定家八代抄』が最も重要。自らの価値観に基づき八代集から選んだ秀歌集。初撰本は873首、再撰本(1215)は1800余首。定家の多くの秀歌撰の撰歌源ともいうべきもので、『百人秀歌』もそこから94首抽出している(『百人一首』は92首)
l 『物語二百番歌合』の革新性
独創的な作り。『源氏物語』と『狭衣(さごろも)物語』の歌各100首を左右において結番した「百番歌合」などからなる。詠者の身分は、六条院(光源氏)と御製(狭衣)で、詞書(ことばがき)に物語の場面性や人物性を取り込み、2つの物語の対比的、連続的、連想的に結番し配列され、左右の対称性が際立っている
l 式子内親王の幻の『月次(つきなみ)絵巻』
定家の『百人秀歌』編纂に影響や刺激を与えたアンソロジーの1つに式子内親王制作の『月次絵巻』(12カ月の絵巻)がある、定家の娘が内親王から拝領したもの。定家は内親王を敬愛、『百人秀歌』編纂の2年前に『絵巻』を見て、そのありようを参考にした可能性がある
2 『百人秀歌』と『百人一首』――2つの差異から見えるもの
l 成立を語る『明月記』記事の再検討
1235年、『明月記』によれば、親しい縁戚の宇都宮蓮子に頼まれて嵯峨中院の障子に貼る色絵形に、古来の歌人の歌を各1首選んで染筆したとある。色絵形に和歌・漢詩などを書くのは宮廷の能書家の仕事なので、揮毫の依頼に違和感を感じながらも依頼に応じている
l 発見された『百人秀歌』
『百人秀歌』の存在が初めて世に知られたのは1951年で、『百人一首』研究を一新させた
全101首、天智天皇から、定家・西園寺公経まで。後鳥羽院と順徳院は含まず、『百人一首』にない定子(ていし)らの歌3首がある。和歌の配列が異なり、源俊頼の歌が違うなどの相違があり、和歌97首が共通しているが、配列の差異などから、同じ作品とみることはできない
『百人秀歌』では家隆が「正三位」で、『百人一首』では「従二位」とあるので、『百人一首』の方が後から作られ、『明月記』には101首という記載はないが、他にこの時に編まれた定家の秀歌集は現存しないので、『明月記』の記述は『百人秀歌』を指すとみるのが妥当
問題は『百人一首』で、最後の後鳥羽院と順徳院の2首は、定家没後、為家撰の第10勅撰集『続後撰集』(1251)に採られている歌、しかも彼らの没後の諡号(おくり名)なので、定家が生前にそう書くはずがないところから、『百人一首』は後世の成立と考えるべき
l 『百人秀歌』『百人一首』を巡る研究の錯綜
『百人一首』の末尾2首。1221年、後鳥羽院とその子の順徳院は討幕計画を実行に移し、承久の乱を起こしたが、すぐに敗れて隠岐と佐渡へ配流されたが、2首とも詠まれたのは乱の9年前と5年前で、直接乱と関わるものではないが、乱の契機に繋がると読み解かれてきた
1951年『百人秀歌』発見で2首のないことが発覚、『百人一首』の成り立ちに議論が始まる
l 資料から解きほぐす
定家は、『新勅撰集』の草稿に後鳥羽院、順徳院、土御門院(後鳥羽院の皇子)の歌を多数入れたが、幕府に忌避されることを懸念して取り下げた経緯が関係している可能性も指摘されるが、両者に因果関係はない。もともと『新勅撰集』と『百人秀歌』とは目的も位置も異なる
l この頃の定家の内と外
承久の乱の直前、順徳院の内裏歌会で詠んだ定家の歌が後鳥羽院の逆鱗に触れ、院勘を受けて定家は閉門蟄居となったが、承久の乱で復活。1235年後堀河天皇の下命で『新勅撰集』を完成させ、定家の地位は完全復活。その後も後鳥羽院への定家の思いは強く、『明月記』にも実名を伏せて「貴人」として何度も登場しているところから、たとえ縁戚への贈り物だとしても『百人一首』に作者の名前を明示することは考えられない。また、冷徹な廷臣でもあった定家は、政治的には親幕派であり、御子左家を危うくするようなことを敢えてする理由はない
3 贈与品としての『百人秀歌』――権力と血縁の中に置き直す
l 定家・為家を支えた蓮生の一族
蓮生は為家の岳父、俗名は宇都宮頼綱、幕府の御家人、北条時政の後妻の娘と結婚。謀反事件への連座の疑いから出家したが、出家後も有力な在京御家人。為家の結婚は承久の乱の後
蓮生は法然門下で活躍、出家後も政治力・武力と権勢・富を持ち、幕府・宮廷とも深く繋がる
当時絶大な権勢を持っていた太政大臣西園寺公経にも出入り、蓮生は伊予国守護で、伊予国の知行国主が公経で、両者とも代々継承。公経は定家の妻の異母弟
l 北条氏と宇都宮氏・定家の親近
北条家と宇都宮家の特別な関係を築いたのは蓮生。孫娘を北条泰時の孫で後の第4代執権・経時に嫁がせている
l 蓮生に贈られた3つの障子歌・屏風歌が表す意識
定家は、『百人秀歌』の他にも障子歌や屏風歌を蓮生に贈っているが、何れも蓮生を喜ばせるために編纂したもので、あえて後鳥羽院・順徳院を入れる理由はない
l 贈呈されるアンソロジーの違い
献呈先と目的によって採択する歌は決まる
l 『百人秀歌』巻末歌群に見える意図
『百人秀歌』の巻末の6首は、何れも蓮生に関係の深い人を意図的に並べているように見える
l 『嵯峨中院障子色紙形』は何枚であったか
障子1枚には2枚程度の色紙形を貼ることが多く、『百人秀歌』すべてを書いたとは思えない
l 『百人秀歌』から色紙形へ、そして色紙形の行方
色紙形には作者名がないので、まずは歌と作者名を書いた草案があって、そこからどの歌を書くか決めたはずだが、『百人秀歌』の奥書には、定家の他の秀歌撰と同様の選択基準が書かれているので、単なる草案ではなく、もともとの蓮生の依頼はアンソロジーで、それに基づいて色紙形を所望したと考えるのが妥当
l 『百人秀歌』が101首ということ
他の歌集を見ても、「百」という題字は厳密なものではなく、『百人秀歌』も定家が自詠1首を追加したために101首になった
4 定家『明月記』を丹念に読む――事実のピースを集めて
l 重要な手掛かり、小倉色紙の紙背
小倉色紙とは、伝定家筆の『百人一首』の色紙を指す。約50枚の色紙が現存するが、ほとんどは真筆ではなく、室町~江戸の筆跡。5首ほどは真筆といわれる
l 文歴2年(1235年)5月27日前後の『明月記』を読む
定家が障子歌を染筆したのは、都の定家邸(一条京極邸)で嵯峨の山荘ではない
証跡のない単なる推論を排して考えていくと、『百人秀歌』は5月27日以前の成立で定家撰、『百人一首』は鎌倉中期以降に誰かが手を加えて改編したものであることが鮮やかに浮上
l 「小倉山荘で歌を撰び色紙に揮毫する定家」という幻想の絵図
定家の山荘は、小倉山荘とも呼ばれておらず、その山荘にもほとんど行っていないところから、全ては現在まで続く幻想の絵図であり物語
第3章
『百人一首』編纂の構図
1 『百人一首』とその編者――定家からの離陸
l 為家編者説の検証
『百人一首』は全体に作者名表記に不審点・不統一が多く、定家・為家と同時代の人ではないと推定。また、鎌倉中期に土御門院の皇子(後鳥羽院の孫)が即位して後嵯峨天皇になると政治状況も変化し、後嵯峨院の下命で為家が『続後撰集』を編纂すると、後鳥羽院は既に没していたが、宮廷和歌の世界に復権して歌人たちから尊崇される存在となり、これ以降の勅撰集には入集しているところから、『百人一首』が後世に改訂されたとすれば追加される可能性も
l 『百人一首』編者はどこにいるか
『百人一首』の伝本は、後世への広がりが大きく種々な形で存在するが、悉皆的な調査がなされていないことが大きな問題で、全容解明はまだ先
l 『百人一首』で差し替えられた歌
削除されたのは3首だが、いずれも削除の理由は不明
差し替えられたのは源俊頼(憂かりける人を初瀬の山おろしはげしかれとは祈らぬものを)の歌1首だけで、定家が絶賛している。息子・俊恵の歌(しゅんえ、夜もすがらもの思ふころは明けやらぬ閨のひまさへつれなかりけり)とともに題詠で、虚構の恋歌。俊頼は男の立場で、俊恵は女の立場で、それぞれ相手を恨む歌
2 配列構成の仕掛け――対象と連鎖の形成
l 『百人一首』の配列の思想と手法
『百人秀歌』の配列は、歌人の初出の勅撰集ごとの時代順を原則としながら、表現上の対称性や連なりを重視して配列。2首の対が多い
『百人一首』では、歌人の生きた時代順で構成しながら、表現上の連鎖や後景を見せたいときなどに、適宜歌を入れ替えた可能性がある。詞書がないため、いつでも分解して100の断片にでき、断片と集成の間をいつでも往還できる緩やかさが担保されている
l 摂関家の妻たちの背景画
両者でさほど大きな違いがない対や歌群としては、
右大将道綱母の歌(嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る)と、儀同三司母の歌(忘れじの行く末まではかたければ今日を限りの命ともがな)。作者の夫は藤原兼家・道隆父子で、2首の向こうには彼らがいて二重写しになる。『百人秀歌』でも隣り合わせ
道綱母は『蜻蛉日記』の作者、夫の兼家は後に摂政太政大臣、関白。宮廷出仕はないが、和歌の才は有名。正妻ではないが道隆を生んで恵まれた境遇にあった。他方三司母の実名は高階貴子(きし)。漢学者の娘。漢学・漢詩にも秀で、中関白・道隆の正妻となって3人の子供を産み、うち定子は一条天皇に入内するが、栄華の絶頂で道隆が急死嫡男が道長との政争に敗北、失脚。中関白家の破滅を見て、数カ月後に死去。類似性と対照性がこの2首の背後にある
儀同三司:准大臣の別名。 儀礼の格式が三司(=太政大臣・左大臣・右大臣)と同格であるという意
l 王朝女房歌人のスターたちの歌群
前の2首の次に公任の歌(滝の音は)に続き、7種連続の王朝女房歌人の歌が始まる
和泉式部 あらざらんこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな
紫式部 めぐり逢てひ見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かげ
大弐(だいに)の三位 有馬山猪名のささ原風吹けばいでそよ人を忘れやはする
赤染衛門 やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな
小式部内侍 大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天橋立
伊勢大輔(たいふ) いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな
清少納言 夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
王朝女流文学史そのものの配列で、絢爛たる歌群
『百人一首』で選ばれた歌は、元の勅撰集の詞書が長文で、何らかの状況を述べているものが全体の7割に及び、説話などで語られているものもかなり多いが、ここには詞書はない
和泉式部と紫式部の歌は、「逢う」ことを主題にしたプライベートな歌で、男への歌、女への歌として対になっている
大弐三位は紫式部の娘賢子(けんし)、中宮彰子の女房、後冷泉天皇の乳母で従三位典侍と頂点を極め、母の歌の次に置かれるとともに、赤染衛門の歌とは同じ不実な男を恨む恋歌として並置。赤染衛門の歌は代作で作ったもので、その歌才を示す
小式部内侍は和泉式部の娘、20代で早逝するが、中宮彰子に愛され恋人も多かった。公任の子・中納言定頼(朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木)に嘲弄された逸話は有名。伊勢も彰子の女房で、中宮に桜が献上された際、道長に命じられてその場で作った歌。万人が感嘆したという。2首とも、若い女房が宮廷で自分の才能を試されるような場で、即座に相応しい歌を詠んで見せた、女房のプライドを見せた歌として並置
清少納言の歌は、『百人秀歌』では7首の最初に置かれたが、『百人一首』では宮廷における女房たちの即詠・機知詠の3首を連続させ、そのテーマを強調したのだろう。また、清少納言が仕えた定子(三司の母・高階貴子の娘)の甥・藤原道雅の歌(今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな)に繋げ、対の形で中関白家の運命を背後に示している。道長に敗北した後に詠んだ歌で、悲劇を背後に抱えながら、次の世代の道雅の歌に繋げている。道雅は『枕草子』の中にも「松君」として2ヶ所登場。2首の並置は『百人一首』独自の配列
7首の並べ方は異なるが、連続によって強調する意図は同じで、定家が王朝女房文学に贈った賛辞。定家の長女・民部卿典侍因子は後堀河天皇中宮・藻壁門院に仕えるが、中宮が若くして急逝したため出家。定家一族は、多くの女房を出し、彼女たちの力によって御子左家は大きく支えられていたところから、定家は『百人一首』に19人の女房歌人をあげ、敬意を捧げる
l 定家と家隆の相克
巻末近くの両者の対は、『百人秀歌』でも前後を逆にして並列されている
権中納言定家 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩(もしほ)の身もこがれつつ
従二位家隆 風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける
ともに題詠歌。「夕なぎ」と「夕暮」が1つの接続点だが、それよりも重要なのは、2人の歌風の対照であり、歌が纏っている空気の対照。定家の歌は、万葉集の歌を本歌とし、そこで歌われている伝説の少女を詠題主体に据える。家隆の歌は、屏風歌で、水無月祓(はらえ)の景の自然を歌い込む。両者は歌壇ではライバル的存在で、『新古今集』では13カ所で対に並ぶ
l 契沖『百人一首改観抄』の配列論
国学者の契沖は『百人一首改観抄』の中で、配列上の連続性や対照性について指摘。いずれも『百人一首』独自の配列に特徴が見出されている
遍昭の次に陽成院という並びは、遍昭が御持僧だった関係で御製の前に置いた
権中納言敦忠と中納言朝忠は、官位、人物、歌心が似ているので並置
御子左家の俊成と六条家の清輔は、よきライバルで歌壇の指導者の地位を巡って争った仲であり、歌も共に述懐なるを1類としたが、『百人秀歌』では俊成を藤原実定と西行の間に置く
以下の4首の並びも、『百人秀歌』では全く離れているので、『百人一首』独自の4首一連
春道列樹 山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり
紀友則 久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらん
藤原興風 誰をかもしる人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに
紀貫之 人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
元々ばらばらの歌が、紅葉・桜・松・梅を順に詠む一連の4首。前2首は紅葉・桜が隙なく散ることを詠み、後2首は心が似ている。「人」と「昔」、時間の流れの中で、悠久の自然と限りある人間とを対比させ、懐旧の情が色濃く漂う。さらに次の2首を季の順に並置
清原深養父 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月宿るらむ
文屋朝康 白露に風の吹きしく秋の野はつらぬき留めぬ玉ぞ散りける
それぞれ季の代表的景物(春の梅、夏の短夜と月、秋の白露)への哀惜の情が流れる3首一連
3 歴史を紡ぐ物語――舞台での変貌
l 陽成院から始まるコラージュ的歌群
定家の選択では、天皇は天智・持統・陽成・光孝・三条・崇徳の6人、うち不遇とみられる天皇は陽成・三条・崇徳の3人で、特に多く選んだわけではないが、『百人一首』では後鳥羽院・順徳院を加えたので、悲劇の帝王たちのイメージが強くなり、それが『百人一首』を特徴づける
陽成院から始まる3首には、作者の人生や歴史を踏まえた背景が舞台として使われ、歌群に新たな意味が吹き込まれて、何かを語り出すようなことがある
陽成院 筑波嶺の峰より落つる男女川恋ぞつもりて淵となりぬる
河原左大臣 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに
光孝天皇 君がため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ
陽成院は、清和天皇と藤原高子(たかいこ)の子で、9歳で即位するが、摂政で権力者の藤原基経(高子の兄)により退位・放逐され、清和天皇の叔父にあたる光孝天皇を擁立して、皇統を変えた。河原左大臣は源融(とおる)で、清和天皇の大叔父(嵯峨天皇の皇子)だが臣籍降下。光源氏のモデルといわれ、河原院に陸奥の塩釜を模した庭園を造り、陸奥産のしのぶ摺りのみだれ模様を、自身の心の乱れに重ねて詠んだもの。陽成天皇の後に手を上げたが、臣籍に降下した人は不可と基経に退けられたという。3首の裏にはいずれも基経がいる続く2首は在原行平・業平で、高子のサロンの一員であり、特に業平の歌は高子が制作させた屏風絵の歌
在原行平 たち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む
在原業平 千早ぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは
宇多朝(光孝天皇皇子)の2首を挟んで次は、陽成帝の悲劇の皇子元良親王の恋歌だが、その相手は基経の孫娘(宇多天皇の寵妃)という皮肉。絶望的な禁忌の恋を詠んだ鮮烈な印象
元良親王 わびぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ
定家は陽成院を他から離し、至尊の存在に対してあからさまに悲劇と葛藤の物語を呼び起こすような配列はしていない。ここでも『百人一首』独自のコラージュが見える
l 崇徳院をめぐる流謫(るたく、配流)の物語
法性寺入道関白太政大臣 わたの原漕ぎ出でて見れば久かたの雲ゐにまがふ沖つ白波
崇徳院御製 瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
源兼昌 淡路島かよふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ須磨の関守
海→川→島・浦という空間の動きを見せる歌群だが、藤原忠通(法性寺)→崇徳院と並ぶと、保元の乱の勝者と敗者であり不穏。歌は乱とは無関係で、題詠歌であり、忠通の歌は乱の20年以上も前の作。源兼昌の歌は、『源氏物語』須磨の巻で流離の孤独に耐える光源氏の歌に拠った題詠歌だが、この位置に置かれると、淡路島の向こうの讃岐に流された崇徳院の影が漂うようにも見え、須磨沖・明石沖・淡路島の北は崇徳院が配流された時のルートでもある
この3首に続くのは、崇徳院の下命で勅撰集『詞花集』を編纂した藤原顕輔の歌。忠通に戻れば、小野篁の歌(わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣り舟)を意識、篁が隠岐島に配流された時の歌で、崇徳院配流の風景を読者に想起させるよう歌群を構成
歌の配列を用いて、天皇を含む歌人たちの背景としての歴史的興亡や悲劇、葛藤などを強調するような物語構成にしているのは『百人一首』の特徴
l 『百人一首』の「劇化」演出
歌壇のライバル、俊成と清輔、俊頼と基俊を定家は並列にはしなかったが、『百人一首』の編者はわざわざ並べ替えて再編成しているのは、過去の歌壇の動向にも関心があった人かも
それぞれ2首の対は、いずれも作者だけではなく、歌内容・表現の点でも対照性・類似性があり、わざわざ入れ替えている行為には、和歌史における人々のドラマを鮮明に演出するような意図も感じられる。定家が俊成と西行を並べていたのに、『百人一首』では俊成を離して俊恵、西行、寂蓮の3法師を並べているが、時代を担った歌僧3人の一連は強い印象を与える
皇太后宮大夫俊成 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
藤原清輔朝臣 永らへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき
源俊頼朝臣 憂かりける人を初瀬のやまおろしはげしかれとは祈らぬものを
藤原基俊 契り置きしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり
俊恵法師 夜もすがらもの思ふ頃は明けやらでねやのひまさへつれなかりけり
西行法師 嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな
寂蓮法師 村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ
天皇・上皇の歌の位置でも異なる姿勢が見られる――勅撰集では御製に隣接して低い身分の人(殿上人以下)を配置してはならない、ただし、著名歌人や女房歌人は例外、とされたが、『百人一首』にはこの規制がない。崇徳院の次に身分が低く著名でもない源兼昌を配したのに対し、定家は崇徳院を著名歌人俊頼と女房堀河の間に置いたし、三条院の次に数寄者歌人の能因を置いたのに対し、定家は三条院を一条皇后宮定子と儀同三司母貴子の間に置くなど、勅撰集の故実に適っている
以上のように『百人一首』は、2首の対や3首以上の歌群について、大胆に歴史的な視点で激化する演出を緩急をつけてちりばめ、明らかに定家とは違う編者が意図的に配列している
4 和歌を読み解く――更新される解釈
l 「しほる」とは何か
和歌の解釈は、新たな視点や発見によって更新されていくもの
清原元輔 契りきなかたみに袖をしほりつつ末の松山波越さじとは
従来第3句は「しぼりつつ」と表記されてきたが、「絞る」ではなく「霑る(しほる、涙などで濡らす)」の意との説が浮上。他の文献にも使用例があり、「しほる」「しをる」「しぼる」が混在、どの意味かは文脈から判断しなければならず、和歌、特に連歌や能楽では「霑る」の使用例が多い
l 「末の松山」と津波の記憶
前記清原元輔の歌は、『古今集』の著名な東歌を本歌とするが、「末の松山」は陸奥国の歌枕、多賀城市の宝国寺の裏山辺りとされ、そこを波が越えるのはありえないことの譬喩という見方がなされてきた。ありえないことの譬喩なら他にもあるのに、なぜ「末の松山」がこれほど和歌の世界で膨張したのかは不明なままだったが、海底考古学の研究から、869年の貞観地震の大津波が「末の松山」を越え、その記憶が『古今集』に残ったと推定されるとの説が出て、その後の東日本大震災でも「末の松山」近くまで津波が到達したことから、本歌の「末の松山波も越えなむ」は、単なる大袈裟な譬喩ではなく、大津波の衝撃を伝える民間伝承に源流があって、歴史的事実の伝承が東歌という古歌の中に埋め込まれていたとみてよいだろう
l 「心あてに」の幻視と緊張
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね、三十六歌仙の1人)
心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花
従来、「心あてに」は、「あて推量に」「当てずっぽうに」と訳され、子規も初霜が置いた位で白菊が見えなくなる気遣いはな」く嘘の趣向であり駄歌だと激烈に批判したが、近年「よく注意して」「慎重に」の意であり、白が重層する白艶美を前にした感動、躊躇いが伝わり歌の魅力が解き明かされた。古来から愛され、理屈だけの歌が嫌いな俊成・定家も評価したことに納得
l 式子内親王が「男装」した歌
式子内親王 玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする
「絶え」「長らへ」「弱り」がすべて「緒(糸)」の縁語(歌の中に嵌めた詞を、掛詞を用いて裏側で1つのイメージにまとめるもの)。「忍恋」という歌題の題詠であり、従来式子内親王自身の恋を読み取ろうとしてきたが、歌題の意味は、恋の初期段階に男性が思慕の情を明かさないことが論証されたところから、男歌と断定された。式子は、和歌の歴史で最初に「男装」して男歌を詠んだ歌人であり、その恋歌には男歌と思われるものが多く、歌の内容も皇女としては逸脱が多い
式子の歌と定家の歌は、対の配列ではないが、女性による男歌と、男性による女歌の対照
式子の歌への定家の高い評価や敬愛が、内親王としてはただ1人採歌となった
l 「契り置きし」の背景
藤原基俊 契り置きしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり
『千載集』の詞書には、最晩年の基俊が息子の抜擢を忠通(法性寺入道関白太政大臣)に依頼したが、適わなかったのを恨んで忠通に送った歌とあり、その心境を閨怨の恋歌の表現を用いて歌ったもの。定家は、歌表現から以下の動因の恋歌と対に置いたが、『百人一首』編者は忠通の前に置き換えた
動因法師(藤原敦頼) 思ひわびさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり
l 「人もをし人も恨めし」の転移と再編成
後鳥羽院 人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は
承久の乱の9年前、まだ幕府との関係が良好だったころの作で、『五人百首』の1首
6年前に急逝した摂政太政大臣・藤原良経への追想の念が込められたもので、『百人一首』編者は知らなかった可能性がある。アンソロジーが編まれるとき、そもそもの遡源である詠作時から離れて、編者の意図によって都合良く取り扱われる
5 『時代不同歌合』との併走――後鳥羽院と定家
l 『時代不同歌合』とどちらが先か、影響関係があるか
後鳥羽院の『時代不同歌合』は、『百人一首』との関係がしばしば取り上げられる作品
配流後に後鳥羽院が、王朝から当代までの歌人100人の、原則八代集から採った300首を150の対の歌合にした。『百人秀歌』と67人が共通。実詠歌と題詠歌を対置したのが特徴
後鳥羽院が心血を注いだ『新古今集』から104首も選ばれ、さらに八代集を下命した天皇・上皇を入れている。初撰本は1232~35年頃の成立
両者が、お互いに相手の作品を見たかどうかは、全く確たる資料がないので不明。百首歌の形の影響から、偶然に両者がそれぞれに100人選ぶという発想になったのではないか
l 『時代不同歌合』の迅速な広がり
『時代不同歌合』の伝本には歌仙絵のあるものも存在しているし、鎌倉期に受容の痕跡がない『百人秀歌』『百人一首』とは異なり、鎌倉中期にはかなり流布。歌仙絵が迅速な流布と圧倒的な影響力を及ぼした可能性があり、両者の歩みは対照的
l 後世まで続く交錯
『百人一首』の受容が見られるは南北朝期が最初、最古写本は1445年、江戸期になって爆発的に受容が拡大したのに対し、『時代不同歌合』はやがて文化史の表舞台からは消えていく
第4章
時代の中で担ったもの
1 歌仙絵と小倉色紙――積み重なる虚実の伝説
l 成立当時に歌仙絵はあったか
南北朝期の『百人一首』受容の際には「似せ絵」への言及があるが何に基づいて書かれたのかは不明であり、『百人秀歌』には天皇家と大臣が19人含まれ、武士の邸宅の障子に貴人の絵を描くことなどありえない。『百人一首』の絵画化は、近世一気に花開いたもの
l 小倉色紙の定家伝説の始まり
小倉色紙は、定家筆と伝称される『百人一首』の色紙の一群。約50点現存するがほとんどは真筆ではない。5枚のみ定家の時代、あるいは自筆に近い。定家の神格化とともに、独特の「定家様(ていかよう)」は室町以降大流行。小倉色紙の珍重は、15世紀末に宗祇など連歌関係者を中心に始まる。料紙も書体も、漢字仮名交じりも様々。茶道の世界で文脈を変えて増幅
2 和歌の規範となる――『百人一首』の価値の拡大
l 『百人一首』受容の始まり
14世紀半ばごろ、御子左家の嫡流であり歌道師範家の二条家一門が分裂の危機にあり、対抗する冷泉家が伸長する中で、『百人一首』は二条家を支える地下(じげ)歌人・頓阿によって新たに生命を与えられ、二条派の「正風体」の秀歌撰として「発見」されたとされる
l 『宗祇抄』(1478)と古注釈
『百人一首』は、様々な注釈が書かれているが、いわゆる中世の注釈(古注釈)はあるコミュニティや流派の中で口伝されたもので、純粋に学問的なものとは異なり、特定流派の権威化の道具でもあった。宗祇の講釈もその類で、成立事情についてほぼ何も知らないのに、二条流の正統な歌学を伝える歌道の入門書として認知されていき、宮中でも「講義」に使われている
l 時代が求めた『百人一首』
室町時代に最盛期を迎えた連歌は、連歌詠作のために古典注釈を積極的に行い、古典を伝授・指導したが、特に対象とされたのが定家時代の100首レベルの小作品
戦国時代にも大名で歌人の細川幽斎などは、『百人一首』を「和歌の骨髄」と述べて注釈書を書き、版を重ねて流布した
3 異種百人一首の編纂――世界を入れる箱として
l 定家の撰歌に追加する・対抗する『百人一首』
1483年、足利義尚が『新百人一首』を撰定、『百人一首』の続編・補遺として作られたが、以後撰歌の時代を広げ歌人を増やして秀歌を選ぶやり方で異種百人一首が作られていくのは、『百人一首』が絶対的な聖典となったから
l 夥しく作られた「異種」と「もじり(パロディ)」
異種の盛行に伴い、『百人一首』は『小倉百人一首』と呼称されるようになる
歴史上の、あるいは同時代の人物カタログとして、『百人一首』という器は非常に便利だった
もじり狂歌は江戸時代を通じて盛行、人気を博す。『犬百人一首』の冒頭は、作者名もパロディ
鈍智(どんち)てんほう あきれたのかれこれ囲碁の友をあつめ我だまし手は終にしれつつ
l 「異種百人一首」が示すこと
明治期には、『百人一首』に恋歌が43首あることが問題視され、すべて削除された異種が作られたり、『愛国百人一首』などがプロパガンダとして使われたり、時代を写す鏡
『百人一首』とその型は、定家の編纂のアイディアが、個人的な思惑を超えて、社会の隅々にまで浸透する様な普遍性と多様性を顕現した
4 『百人一首』の浸透――江戸から現代まで
l 江戸時代の文化における位置
江戸時代の『百人一首』は、上流層向けの美しい上質な写本とや画帖が作られたり、国学者や歌人たちの学問的な注釈書が刊行されたりすることに加え、武士や町人・庶民向けの様々なものが夥しく作られ、急速に受容が増大
l 女たちの『百人一首』と生活百科
『女百人一首』(1688)は、異種の1つ。衣通姫から染殿后までの100首。書と絵は居初(窪田)つなという女性書家・画家によるもの、女性初期往来物の作者
l 現代までの流れとメディア
『百人一首』は教育機関における教育テキストであり、一般社会における娯楽・教養の書物であり、さらに美術・音楽・演劇・宝塚歌劇などや、さらに江戸時代になかったメディアであるテレビや映画、アニメでも多数取り上げられている。国境を越え世界中に広がる。英訳は『源氏』よりも前
終章 変貌する『百人一首』――普遍と多様と
l 定家が創った詠歌テキストという骨格
『百人秀歌』で定家が創った基本的な形態・特色の多くは『百人一首』に引き継がれている
もとの勅撰集の部立でいうと、四季の歌が32首、恋歌が43首、雑歌が20首、羈旅歌4首、離別歌1首。和歌のレトリック(修辞)を含む歌や、歌枕(名所)を詠む歌が数多く選ばれている。掛詞は全体の1/4で使われ、歌枕は36カ所の名所が詠まれる。全体的な印象としては、蓮生周辺の歌人層を意識した、やや初学の歌人向けの啓蒙的・教育的な詠歌テキストに見える
古典の知の集約であり、奈良・平安朝~中世前期までの和歌文化史、和歌表現史、王朝貴族・歌人の生涯と生活誌、人々の和歌生活の手引書、これらが詰め込まれたような詠歌テキスト
l 女性歌人たち、無名の歌人たち、入れなかった歌人たちの歌
女性歌人が21人というのは、他の勅撰集とほぼ同じ比率で、男性貴顕のためのテキストというより、女性読者を視野に入れていたことは明らか。男性・僧侶でも、絶対的な撰歌源の『定家八代抄』に1首しか入集していない歌人を7人も採り入れ、動因以外は何れも『八代抄』と同じ歌を入れている。マイナーな歌人でも秀歌があれば選出、膨大な無名の人の存在を暗示
l 『百人一首』の撰歌と魅力
『百人一首』/『百人秀歌』の構造には、複数の意図が流れている
① 古代から中世前期までの600年にわたる歌を撰んで、和歌の歴史を語る
② 古からの和歌のレトリック及び歌枕を詠む歌を多く入れる
③ 9集の勅撰集からあまねく採入して、それぞれの勅撰集に敬意を払う
④ 部立では、四季恋雑の歌を時間的に均等に入れ、森羅万象や人の心のすべてを奏でる
⑤ さほど知られていない歌人も多めに入れて、和歌世界が構成されていることを示す
⑥ 和歌と歌人を2つの基軸として撰歌し、歌人たちの人生を端的に浮かび上がらせる歌も入れる
⑦ 男女比はほぼ勅撰集に準じた比率
⑧ 歌風の面では、多種多様な歌を幅広く選ぶ
『百人一首』が巻末に後鳥羽院と順徳院の歌を加えて世に放ったことで、強いインパクトを与えるものに変貌、たった2首だが、集全体の抽象度を高めている
定家が創成した集合体・断片を往還する構造、そして定家個人を超えたところにある普遍性と多様性、これが『百人一首』の魅力を形成している
l 歴史のなかの変貌、そして普遍
勅撰八代集は、王朝文化の精髄であり、そのエッセンスが『百人一首』
『百人一首』は、単に100首の集合というだけではなく、それを超えるものとなって、古典和歌全体の象徴的存在となった
歴史の興亡の物語化には一定の時間の経過が必要であり、後世の編集が加わったからこそ、歴史的解釈を踏まえた上で、歴史を紡ぐような物語をイメージさせる部分が生まれ、それが『百人一首』に輝きを与えたのではないか
『百人一首』の和歌テキスト自体は不変であるが、時代ごとに変貌し、多様化し、装いを新たにしていく
岩波書店 ホームページ
『百人一首』は、誰によって、何の目的で作られたのか。長らく藤原定家が撰者とされていたが、著者の最新の研究により、後人による改編が明らかとなった。成立の背景やアンソロジーとしての特色を解きほぐし、中世から現代までの受容のあり方を考えることで、和歌にまつわる森羅万象を網羅するかのような求心力の謎に迫る。
(著者に会いたい)『百人一首 編纂がひらく小宇宙』 田渕句美子さん
2024年2月17日 5時00分 朝日
■古典の研究は知的な冒険 早稲田大学教授・田渕句美子さん(66)
飛鳥時代の天智天皇を皮切りに、歌人100人の和歌を1首ずつ収めた『百人一首』。鎌倉初期を代表する歌人・藤原定家が編んだとされるが、研究者の間で議論が重ねられてきた。成立の過程を解きほぐし、読み継がれてきた理由を探る一冊だ。
1951年に写本が見つかった『百人秀歌』は、101首のうち97首が『百人一首』と一致する一方、流刑の身だった後鳥羽院、順徳院の父子による末尾の2首は含まず、配列も異なる。定家の日記『明月記』の記述などから、『百人秀歌』は定家が息子の舅(しゅうと)・蓮生に贈ったアンソロジーで、定家没後に改編を経て生まれたのが『百人一首』だと説く。
「とはいえ定家が骨格を作ったことに変わりはない。1首ずつに分解しやすい形のおかげで、かるたとしても流行した。最も卓抜な点は小さな器に約600年分の古典和歌を凝縮したこと。希代のアンソロジストによる編纂の妙を味わってほしい」
たとえば和泉式部や紫式部、赤染衛門、清少納言ら宮廷女房のスターの作品を7首連続で集めた歌群は「いわば定家が王朝女房文学に贈った賛辞」。一方でマイナーな歌人の歌も選び、和歌世界の多様性を示す。枕詞(まくらことば)や掛詞(かけことば)など様々な修辞を含む歌を収め、初学者のテキストとして有用な点も魅力という。
専門は日本中世文学で、『女房文学史論』で角川源義賞を受賞した。一昨年の共編著『百人一首の現在』の論考に加え、歴史学者らとの研究会で『明月記』を約25年間読み続けてきたことが執筆の力になった。
文献から確実な証拠を見極め、矛盾がないか検証し、核心に迫る。古典文学の研究の過程は、愛読する海外ミステリーの謎解きに似ている。「なじみ深い百人一首にも、わかっていないことがたくさんある。そうした謎に迫るのは知的な冒険そのものです」
(岩波新書・968円)
(文・佐々波幸子 写真・横関一浩)
Wikipedia
百人一首(ひゃくにんいっしゅ)とは百人の和歌を一人につき一首ずつ選んで作られた秀歌撰(詞華集)。百人首(ひゃくにんしゅ)とも言われる。
藤原定家が京都小倉山の山荘で鎌倉時代初期に揮毫した小倉山荘色紙和歌に基づくものが「歌がるた」として広く用いられ、後世に定着して小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)と呼ばれている。
概要[編集]
小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰であると考えられている。大山和哉によれば、その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生の求めに応じて、定家が作成した色紙であり、蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘(中院山荘)の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼したものとされる。天智天皇から藤原家隆、藤原(飛鳥井)雅経に至る歌人の歌を色紙に書いて送ったことが定家の日記「明月記」(文暦2年(1235)5月27日条)に記載されており[注 1]、その草稿本といわれる「百人秀歌」[注 2]と97首が一致していることから、これが百人一首の選定の来歴を示すものと考えられている。現代伝わる百人一首は100人の歌人の優れた和歌が一首ずつ選ばれ、年代順に配列されたものであるが、百人秀歌は歌合方式で記録され必ずしも年代別に配列されておらず、また後鳥羽院と順徳院の2首は明月記の記録や「百人秀歌」には含まれていないことから、後に藤原為家が補綴したという説がある。
小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定されており、定家の日記『明月記』の文暦2年5月27日(ユリウス暦1235年6月14日)の条には「古来の人の歌各一首」を書き送った旨の記述がある。ただし、この時に書き送った物が『百人一首』であったとする確証はなく、学術的には百人秀歌が先行したのか百人一首が先行したのかは難しい論点を含んでいる。また宇都宮蓮生が選んだという説(安藤為章)や、逆に小倉色紙は宇都宮蓮生の別荘にではなく、定家の嵯峨(小倉)山荘に用いられたとの説(冷泉為村)もある[注 3]。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。
室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。
小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『百人秀歌』がある。百人秀歌は百人一首が歴年順で提示されるのに異なり歌合形式で配列されたものと考えられており、101人の歌人から一首ずつ101首を選んで編まれた秀歌撰である。『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、1)「後鳥羽院と順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の歌が入っていること、2) 源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく『やまざくら』の歌であることの2点である。その他にも百人一首とテキストの異なる箇所が複数指摘されている。
いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は子孫に受け継がれ、室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。戦国時代の武将・宇都宮鎮房が豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。色紙は100枚あったはずであるが後世散逸しており、江戸時代には30枚程度に減じていた。定家は歌道の上で大変あがめられたのでその奇異な書も名筆として尊ばれ評判も値段も高く、なかでも小倉色紙が最高で1枚1000両を越したという。現存の色紙は後世に筆写したものがあり疑問な点が多い。
採録された和歌と詠み人達[編集]
百人一首に採られた100首には、1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まで、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。この歌番号の並び順は、おおむね古い歌人から新しい歌人の順である。( )内は漢字の読みを示す。太字は決まり字(上の句は読み基準、下の句は表記基準で判断)を示す。
小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。男性の内訳は、天皇7名、親王1名、公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)、下級貴族28名、僧侶12名、詳細不明3名[注 7]。また女性の内訳は、天皇1名、内親王1名、女房17名、公卿の母2名となっている。
歌の内容による内訳では、春が6首、夏が4首、秋が16首、冬が6首、離別が1首、羇旅が4首、恋が43首、雑(ぞう)が19首、雑秋(ざっしゅう)が1首である。
100首はいずれも『古今和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰和歌集に収載される短歌から選ばれている。
万葉の歌人
『万葉集』の時代はまだおおらかで、身分の差にこだわらずに天皇、貴族、防人、農民などあらゆる階層の者の歌が収められている。自分の心を偽らずに詠むところが特徴。有名な歌人は、大伴家持、山部赤人、柿本人麻呂など。
六歌仙の時代
この時代になると、比喩や縁語、掛詞などの技巧をこらした繊細で、優美な歌が多く作られた。紀貫之によって選ばれた「六歌仙」(在原業平や小野小町など)が代表的な歌人である。
女流歌人の全盛
平安時代の中頃、宮廷中心の貴族文化は全盛を迎える。文学の世界では、女性の活躍が目ざましく清少納言が『枕草子』、紫式部が『源氏物語』を書いた。『百人一首』にはそのほかにも、和泉式部、大弐三位、赤染衛門、小式部内侍、伊勢大輔といった宮廷の才女の歌が載っている。
この中小野小町がいるが、小野小町は、六歌仙にも、三六歌仙にも選ばれる女性歌人。小野小町はいつの時代に生きたかは未だ不明。
隠者と武士の登場
貴族中心の平安時代から、武士が支配する鎌倉時代へと移る激動の世情の中で、仏教を心の支えにする者が増えた。『百人一首』もそうした時代を反映し、西行や寂蓮などの隠者も登場する。藤原定家自身も撰者となった『新古今和歌集』の歌が中心で、色彩豊かな絵画的な歌が多く、微妙な感情を象徴的に表現している。
注釈[編集]
1. ^ ただし定家自筆の「明月記」(国宝、冷泉家時雨亭文庫)は天福元年(1233年)の記述までしか現存しない。
3. ^ なお、藤原定家の息子、為家の妻は宇都宮蓮生の娘だったことから、後に蓮生の中院山荘を相続している。
4. ^ 『万葉集』巻一・二十八歌では『春過而 夏来良思 白妙之
衣乾有 天香具山』で、「夏(なつ)来(き)たるらし」(来たようだ)と「現在形」になっているが、『新古今和歌集』は「夏(なつ)来(き)にけらし」で「過去完了」の「推量」に転じている。
5. ^ 『万葉集』巻一・二十八歌では、「衣(ころも)干(ほ)したり」(干してある)と「断定」になっており、「衣(ころも)干(ほ)すてふ」(干すと聞く)の「伝聞」の意味に『新古今和歌集』までに変じたとされる[要出典]。
6. ^ 『万葉集』巻三・三百十七歌には「田児の浦ゆうち出て見れば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける」とある。
7. ^ 柿本人麻呂、猿丸大夫、蝉丸の3名。また、僧侶の内に入っている喜撰法師も経歴・出自が一切不明である。
8. ^ 空きの方が坊主で負けたら2倍、坊主だったら3倍も銀行に取られるなどの細かいルールもある。
9. ^ ただし江戸時代以前の人々は、全体の1割程度に過ぎない[15]。
10. ^ 選定委員は佐佐木信綱、土屋文明、折口信夫、斎藤茂吉、太田水穂、尾上柴舟、窪田空穂、吉植庄亮、川田順、斎藤瀏、松村英一、北原白秋ら12名[31]。ただし白秋は編纂の中途で逝去した。
11. ^ 歌人は44人、歌は26首が重なっている[30]。
12. ^ 川田版には、岩倉具視や西郷隆盛などの明治以後の人による歌も採録されている。
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