山田方谷とその時代  方谷研究会編  2024.3.5.

 2024.3.5. 山田方谷とその時代――制度・人・物から読み解く

 

編者 方谷研究会 山田方谷の業績や足跡について、調査発掘を行い、歴史的研究とその成果の普及を目的とする研究会。朝森要(元岡山県立高校教諭、元吉備国際大非常勤講師、方谷研究会名誉会長)や故・太田健一(山陽学園大名誉教授、初代方谷研究会代表)らが発起人となり、20126月設立。教育者や歴史愛好家、会社員や公務員を始め、山田方谷に関心を寄せる有志が会員となり相互に研究と交流を図っている

 

発行日           2023.10.25. 発行   

発行所           吉備人出版

 

2016-02 樋口公啓-山田方谷の貫いたものー数知』参照

 

山陽新聞に澤田瞳子(直木賞作家)著『孤城 春たり』連載中

シップヘルスケアホールディングスの支援で発刊――同社古川会長と方谷との繋がりは70年以上、母親から「方谷のようになれ」と言われ続けてきた。方谷の「至誠惻怛」は倉敷商業の「至誠剛健」に繋がり、「義利合一論」は私の商人としての核。同社の基本姿勢は「至誠惻怛」

 

山田方谷の生涯 野島透(山田方谷6代目直径子孫)

WBCで優勝した栗山監督は、勝負の年に向けて「尽」という字を書き留めたのは、山田方谷への思いから。江戸で儒学者佐藤一斎から「盡己(じんこ/じんき)」という書をもらうが、「己のすべてを尽くす」の言葉と方谷の生きざまに監督は強く惹かれた

方谷は、人生の決断を迫られたときに、「至誠惻怛(そくだつ)」の精神を持ち続ける。真心と思いやりの心である

山田方谷は、1805年備中松山藩の生まれ。江戸中心の町人文化の爛熟期だが、幕府や各藩は財政難に苦しみ、諸外国の艦船が出没して、鎖国政策破綻の予兆が見えていた

山田方谷の祖先は、源経基を祖先とする清和源氏の源重宗の一族。1184年源範頼に従い、平家追討に功をなし備中に領地を与えられ「佐井田城」(真庭市)を築城するが、関ヶ原では毛利家につき減封となり帰農。親戚の室家(後の鳩巣の家系)から学問を習う

1825年、藩主板倉勝職(かつつね)に認められ、藩校有終館に学び、25歳で苗字帯刀を許され、有終館会頭(教授)になる。その後江戸の昌平黌総長の佐藤一斎塾に入り、塾頭を務め、門下の2傑といわれ並び称された佐久間象山をしばしば論破。1836年帰藩し有終館学頭。儒学と陽明学に通じ、自宅でも私塾「牛麓舎」を開き、農民や女性の教育にも注力

板倉は跡継ぎがいなかったので、伊勢桑名藩主松平定永の8(後の板倉勝静、松平定信の孫)を婿養子とするが、その教育も山田方谷が担当

1849年、勝静(かつきよ)が新藩主となり、山田方谷は元締役(財務大臣)として、藩財政の立て直しに邁進。7年かけて黒字化。農民を主体とする「里正隊」は、後の高杉晋作の奇兵隊のモデルといわれる。勝静は、安政の大獄で井伊の厳しすぎる処分に反対して遠ざけられるが、井伊亡きあとの慶喜の時代には老中首座となり、方谷も江戸幕府の顧問に。大政奉還の上奏文は方谷の起草ともいわれる。戊辰戦争では、主戦論を抑えて備中松山城を無血開城し、藩を戦火から守る。弟子の河井継之助は、長岡藩中立を掲げ薩長と戦うが敗北

新政権からも要職に誘われたが断り、故郷で「閑谷(しずたに)学校」などを再建

方谷の一番弟子・三島中洲は、大正天皇の侍講として活躍、二松学舎設立の際は下賜金をいただく。方谷の「義利合一」の精神は、三島から渋沢に受け継がれる

福祉面でも、社会事業のパイオニアともいえる留岡幸助(家庭学校の設立)、山室軍平(救世軍)も方谷の影響を受け、教育面でも順正女学校(高梁高校の前身)の創始者・福西志計子など、薫陶を受けた人は多い。ノーベル賞学者の大村智も方谷の「至誠惻怛」に倣う

 

第1章        江戸時代・幕末篇

1.     参勤交代――江戸まで186里の道程

関ヶ原の前から徳川の家臣だった譜代・板倉氏の参勤は6(外様は4)

1834年の参勤は、1719日、総勢210人、全長500m、藩収入の42%を費消

黒船襲来で、沿岸防備などの軍備の整備のため3年に1度に緩和

 

2.     藩の組織と職制――藩士は何人いた

1865年には、266の藩があった。備中松山藩の藩士は1870年に466

 

3.     年貢と家臣の給与――「米」がとりもつ主従の絆

 

4.     備中松山城と城下町の形成

今でも天守閣が残る12の城の1つ。1240年の築城

 

5.     河川交通の主役を担った高瀬舟

高瀬舟とは、上流の瀬(高瀬)を就航できる船の意。全長1215mの平底

京都の豪商角倉了以が、京都の大堰川の開墾を成し遂げた際、備中の高瀬舟を活用したことで全国の河川に伝播

方谷の藩財政改革に際しても、藩内の産業振興を掲げ、高瀬舟を活用して玉島から洋式帆船で江戸藩邸に回送して売り捌く流通体制を確立したことが、藩に膨大な利益をもたらす

 

6.     諸般の藩校――武士の「学びの場」

岡山藩校の設立は、藩主・池田光政の強いリーダーシップで、全国に先駆けて1669年には熊沢蕃山による開校式挙行。翌年には庶民のための閑谷学校も開校

 

7.     庶民の教育――郷学(教諭所)・私塾・寺子屋

郷学は、藩校の規模が小さくなったものと、庶民教育のために郷村に設置されたものがある。大人を教育するものを教諭所と呼んだ

私塾では、方谷の牛麓舎や、三島の虎口渓舎などが知られる

 

8.     備中の領地支配の特徴――ひしめき合う小藩

徳川時代初め、備中には大小17の大名・旗本等の領地があり、頻繁に入れ替わっていた

領地の境も犬牙(けんが)支分と言って、お互いに犬の牙のように入り組ませて牽制するように配置。それが備中の人々に自他意識や自律する個性や知性を生み出した土壌になった

 

9.     新見と生家の最短ルート――母の病床へ急げ!

方谷は、5歳で高名な新見藩の儒家・丸川松隠の門下生として預けられ、1818年母重篤の知らせを受け実家のある現・高梁市近郊までの18㎞を3時間ほどで走り抜けた

 

10. 菜種油の生産と需要――油しぼりは重労働

方谷の実家は菜種油の製造・販売を生業としていたが、それは親戚筋の室家から学んだもの。1819年父の死で、方谷は学業を中断して実家の仕事を継ぐ

 

11. 板倉勝静(18231889)――藩主と幕閣の狭間で

7代藩主。1842年伊勢桑名藩から養子に入り、44年家督相続後は、方谷を抜擢して藩政改革を進めたほか、51年からは幕政にも関与。59年井伊大老と対立して罷免されるが、61年復帰翌年には外国掛及び勝手掛の老中に。戊辰戦争では、父子ともども日光で官軍に投降、その後奥州列藩同盟に参加するが自訴して終身禁固刑に処せられるが、72年免じられ、上野東照宮の祀官となり生涯を終える

 

12. 江戸後期のお金――貨幣経済の浸透

三貨制度――金貨、銀貨、銭貨の3種の通貨による貨幣制度

藩札は、紙幣以外にも寺社札、宮家札、私人札など多様な形態が混在

 

13. 備中諸藩の財政――どこも台所は火の車

幕末はどこの藩も借金漬け

 

14. 江戸藩邸、京屋敷、そして大坂蔵屋敷

 

15. 備中松山藩の財政改革を支えた備中産鉄

県内では6世紀後半の国内最古級とされる製鉄遺跡「大蔵池南遺跡」(津山市)があり、砂鉄を原料とするたたら製鉄が行われてきた。江戸時代初期に備中国奉行だった小堀遠州も換金性の高い鉄に着目、上方に回送して領国経営を支える

各地に藩営や民営のたたらが設けられ、製品を松山城下の鍛冶屋町に集荷

江戸に回送した「備中鍬」は、関東ローム層に覆われた固い地盤の深耕に適していた

 

16. 郷倉で飢饉に備える――方谷流の危機管理

郷倉は、年貢米の積入保管や備荒貯穀(凶作や災害に備えて穀物を備蓄する)を目的として村々に設置された公共の倉庫で、巨瀬町に唯一残る倉は高梁市の文化財に指定

社倉や義倉と呼ばれるものも存在

1850年の水害や53年の旱害による飢饉では救助米を出している

方谷も、藩政改革では貯倉を活用、一部は販売して藩財政再建に寄与

 

17. 洋学の導入――医学と兵学を中心に

緒方洪庵は足守の出身。津山洋学の名は全国に轟き、宇田川3代のほか、箕作阮甫を輩出

方谷の藩政改革では、医学より西洋兵学に注力、自身も津山で砲術を学ぶ

 

18. 農兵の創設、あるいは武士の帰農

江戸時代後期には兵農分離の原則打破

1852年、方谷も藩政改革の1つの軍制改革として農兵制を取り入れ、「庄屋(里正)隊」や郷兵が組織され、藩境の警備などにつく

 

19. 河井継之助に譲った王陽明(王文成)全集

1859年、長岡藩士河井継之助が方谷の教えを請いに備中松山藩を訪れる

方谷は、晩年の教育活動で陽明学に傾倒、閑谷学校の教育方針にも導入

 

20. 河井継之助の餞に薬――「達者でな!

薬を餞別にもらうことは1つの習慣

備中売薬(置き薬)は、18世紀中ごろから行われ、他領へも行商されている

 

21. 海防――異国船襲来に備え砲台築造

1849年、幕府が領内に海岸線を持つ藩に対して「御国恩海防令」発布、いずれ異国船打払令を出すので海防の準備を進めるよう指示

1854年、方谷は藩主の命を受け、備中の沿岸を巡視、防塁構築を検討。大砲も鋳造

 

22. 洋式艦船――「快風丸」の活躍と顛末

1862年、備中松山藩は2本柱の帆船ゴーウルノルワラス号購入、「快風丸」と名付ける

幕末当時大船を所有する藩は34藩、うち5万石以下では備中松山藩を含め4藩のみ

藩士に航海術を学ばせ藩産品の輸送に使用。明治には海軍の輸送船として石炭輸送を担う

 

23. 長州へ出陣、倉敷・浅尾騒動

1864年、長州征伐が実戦に発展することなく終わった後、66年に長州藩第二奇兵隊の脱走隊士等が倉敷代官所や浅尾藩陣屋を襲撃、そのまま周防へ退散

 

24. 新選組――創設にかかわった板倉勝静

幕府による攘夷実行の一環として浪士取り立てが決まり、春嶽とともに板倉も関与。備中松山からも浪士が出ている

 

25. 江戸後期の詩壇と漢詩人方谷

儒者の教養の1つとして漢詩文の創作が求められ、江戸末期の100年は漢詩創作の最盛期

方谷も1000首を超える詩作を行い、題材は多様。「至誠惻怛」溢れるものが多いが、外に出すことが少なかったために人目に触れることがなく、注目度は低い

 

26. 剣術修行に藩士を派遣――文「武」奨励

新影流の師範代・団藤善平も他藩に剣術修行に派遣されたが、その孫が団藤重光

 

27. 高梁川の氾濫――洪水に備えよ

高梁川は交通の大動脈だったが、同時に暴れ川で度々氾濫

 

28. 千屋(新見市)の太田家、児島の野崎家と方谷

鉄山地主として著名な太田辰五郎家は、幕府領の人だが、近隣他藩とも関係があり、巨万の富を領主や地域社会への貢献に費消。方谷から病気見舞いへの礼状がある

野崎家は児島の塩田王で、太田家とは姻戚。さらに備中松山藩の御用商人だった平松家とが相絡んで方谷の改革に同調

 

29. 周防守から伊賀守へ――「守」とは何か

板倉家初代宗家の板倉勝重は、家康に仕え関ヶ原の武勲で京都所司代に任命され、従五位下伊賀の守を賜る。1865年、勝静は家茂に再度老中就任を懇請され伊賀守を賜ったのは、板倉家にとっては勝重の再来で名誉なこと

 

30. 幕末の一揆と騒動――打ちこわしとええじゃないか

備中松山藩でも一揆は頻発。方谷も疫病の一種とみて、誰も咎めることができないとお手上げ

 

31. 戊辰戦争――賊軍の汚名に涙、藩主探索に奮迅

旧幕府軍の上京に際して備中松山藩は大坂城周辺の警備を命じられ、戊辰戦争には参加せず、江戸に海路退却する慶喜に勝静も同道するが、官位は剥奪され、家督も息子に譲る

旧幕軍の軍艦で箱館に向かう勝静を救出しようとしたが、勝静は自訴。新政府は勝静親子を終身禁固としたうえ、後嗣を襲封して高梁藩知事とし、勝静も72年放免

 

32. 備前岡山藩占領下の備中松山城下――敗者の苦悩

松山城は無血開城され、2年間岡山藩の占領下におかれる。厳しい徴税に農民の不満が爆発した結果、2年後に復藩を認め、縁戚筋を藩主とする

 

第2章        明治時代編

 

1.     廃藩置県――「備中松山」から「高梁」へ

「高梁藩」として再興された後、廃藩置県で高梁県となり、1871年の第1次府県統合により、備中・備後併せて深津県、翌年小田県と改称、1885年岡山県に編入

小田権令(知事)の要請で、方谷は殖産興業に助言。小田県殖産商社の組織・人事を見直し、1877年の内国博に生糸を出品し、地域の製糸・紡績業の発展に貢献

 

2.     秩禄処分と藩士たち――銀行設立に団結

1876年政府が秩禄全廃を実施すると、高梁では三島中洲から相談を受けた渋沢栄一の尽力で第86銀行が設立される

 

3.     文明開化とキリスト教――新時代の幕開け

1889年、高梁基督教会堂竣工、岡山県内最古、全国でも同志社に次ぐ古さ

アメリカから来たカトリックの宣教師が招かれる

 

4.     学制発布と漢学、儒学の動向

方谷の門人三島中洲は、1877年漢学中心の私学「二松学舎」を創設、方谷の死後、斯文(しぶん、儒家の道)を継承し、普及に努める

方谷は新政府出仕を断り、教育に専念、斯文普及のために自らの漢学塾の充実発展に挑み、閑谷学校の再興にも尽力。方谷が残した開塾名や小学校名こそ、それぞれに与えた訓導といえる(知本館、明親館、温知館、秀実学校など)

 

5.     「知本館」と方谷の教育方針――能勢道仙(183378)への助言

方谷は、門人が開いた塾を「知本館」と命名、基本方針を「学範」として残す

能勢道仙は、岩見国浜田藩医。漢学者として教場を構えた時に方谷の教えを請い、助言を受ける

 

6.     自由民権運動を牽引した方谷の門人・井出毛三(もうぞう、18501929)

真庭市の庄屋に生まれた毛三は、方谷の家塾に預けられ、長じて方谷の教育事業を手伝い、全国に先駆けて民権運動を進め、国会開設運動に参加、「国会開設請願書」を元老院に提出

1880年には県会議員となり、88年議長、94年には国会議員へ

 

7.     最後の「水魚の交わり」――明治8年春の再会

刑を解かれた勝静が東京に移住すると、1873年に臥牛山麓にあった勝静の別邸の「臥牛亭」を方谷が発議して対岸の蓮華寺境内に移築(現在は八重籬神社に移築され、市の重要文化財)75年には勝静が墓参のため高梁を訪れ、旧幕臣と旧交を温める。小阪部に隠遁していた方谷も同席、8年ぶりの再会を果たす。2年後方谷死去の際、勝静は三島に「方谷山田先生墓碣銘」を作らせ八重籬(かき)神社に建立。方谷の墓石の文字は勝静によるもの

 

8.     交通網の整備――山陽と山陰を結べ

備中松山(現・高梁)は、山陽・山陰の連絡地として交通の要衝、いくつもの往来が貫通

方谷も、1873年「備中玉島港ヨリ伯州米子港ニ至ル車路開通ノ存意書」を起草。小田権令は鳥取県にも照会・賛同を得て工事に着手、10年後に完成を見る(現在の国道180)

さらに35年後には三島が鉄道敷設を提唱して国鉄伯備線開通

 

9.     閑谷への旅と小学教育――美作地域の学校開設を指導

方谷は、閑谷学校再興のため、187376年度々備中(新見市小阪部)から備前まで、美作(津山)や玉島経由で旅をし、途中の町や村で塾や小学校の開校を指導

 

10. 終焉は母の生地――新見市大佐小阪部

1870年、長瀬の住まいを養子に譲り、母の実家のあった小阪部に移住し、小阪部塾を開設(現・方谷園)。九州などからも入塾者がいたという

1877年死去。勝海舟揮毫のオベリスク(高さ7.3m)1909年に建てられた

 

11. 山田方谷の病と死――「治国平天下」の志を貫いた生き様

1834年、江戸で佐藤一斎門下に遊学中麻疹(はしか)に罹患、1か月生死を彷徨う

1861年、再び江戸で老中顧問になった際、安政の大獄による極端なストレスから急性胃粘膜症候群による吐血

1876年、慢性水腫悪化。閑谷学校往復がこたえたようだ

方谷は、新見藩の丸川松隠に学び、「治国平天下」のために学んだという。『大学』の言葉で「8条目」という「格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」が出典

 

12. 方谷園――墓域を整備し明治43年開園

1910年に方谷の功績・道徳を末永く検証するために造られた市の公園

 

第3章        方谷と交差した人物点描

 

1.     方谷の風貌、容姿――描かれ、刻まれた作品から

 

2.     遺産の継承と顕彰――県をあげて『山田方谷全集』刊行

1926年方谷会結成――孫の夫・準を中心に、方谷の顕彰と地域の文化振興を目的に設立

1951年、『山田方谷全集』全3巻が方谷会から上梓

 

3.     易からみる蕃山・中洲・方谷

江戸時代の初期の陽明学者・熊沢蕃山(161991)は、易の研究にも注力

三島中洲(18311919)も王陽明の研究とともに易学書も残す

方谷には、易経に関する本はないが、影響を受けていたことは明らか

 

4.     方谷と丸川松隠(17561831)、佐藤一斎(17721859)

丸川松隠は新見藩の儒学者、大坂の中井竹山の懐徳堂に入門、佐藤一斎と塾の双璧。老中松平定信から昌平黌教官に招聘されるが、新見藩に留まり、藩政改革に尽力

佐藤一斎は美濃国の儒学者、通称捨蔵。幕府学問担当の林家塾頭、後に昌平黌教官。朱子学を講じつつ陽明学にも及び、「陽朱隠王」といわれた

 

5.     方谷と久坂玄瑞(184064)、吉田松陰と長州藩士たち

1858年、長州から備中松山に来学してきたのが久坂。方谷の里正隊の訓練を見たのが10年後の長州の奇兵隊に繋がる

安政の大獄で処刑された吉田松陰の遺体を遺族に下げ渡す仲立ちをしたのが方谷

対馬藩と姻戚関係にあった桂小五郎が、同藩の財政立て直しを幕府顧問の方谷に相談し、幕府の財政支援を実現させている

 

6.     方谷と佐久間象山(181164)、勝海舟(182399)

佐久間象山は、松代藩の下級武士の生まれ。佐藤一斎門下で方谷と同窓。1844年、藩主真田幸貫の老中抜擢で、海防顧問となり「海防8策」を提出するが、53年愛弟子松陰の密航失敗で連座の罪に問われ蟄居。攘夷論から和親開国論に転じ、尊王攘夷派により暗殺

勝は、勝静老中の下で恩顧を蒙ったはずだが、『氷川清話』などにはほとんど出て来ない。勝静を評して、「憂国忠誠は天性だが、君子の心をもって乱世に処したがために志を伸ばすことができなかった。太平の治世であれば祖父・定信に劣らぬものがあったろう」と

方谷との関係については、墓石の題字以外、確固たる記録はない

 

7.     方谷と横井小楠(180969)、西周(182997)

横井小楠は肥後藩士、福井藩に招かれ春嶽の下で藩政改革にあたる。請われて明治政府にも出仕するが、旧尊攘派により暗殺。方谷ともども熊沢蕃山の崇拝者、その経世論に強く影響されている。お互い春嶽と勝静のブレーンという立場で緊密なやりとりがあったはず

西周は、岩見国津和野の藩医の長男。慶喜の幕政改革に参与、新政府でも兵部省に入り、軍人勅諭の起草にも関与。1867年京都で私塾を開いていたころ方谷に西洋の政治・軍事について説明したが、我国に応用する方法を問われて答えに窮したという

 

 

 

Wikipedia

山田 方谷(やまだ ほうこく、文化22211805321 - 明治10年(1877626)は、幕末期の儒家陽明学者。名は球、通称は安五郎。方谷は。備中聖人と称された。

略伝[編集]

山田家は元は清和源氏の流れを汲む武家であったが、方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。方谷はお家再興を願う父、五朗吉(菜種油の製造・販売を家業とする農商)の子として備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)で生まれる。5歳になると、新見藩の儒学者である丸川松隠に学ぶ。20歳で士分に取立てられ、藩校の筆頭教授に任命された。その後、藩政にも参加、財政の建て直しに貢献した。幕末の混乱期には苦渋の決断により、藩を滅亡から回避させることに成功した。しかし、明治維新後は多くの招聘の声をすべて断り、一民間教育者として亡くなった。

陽明学との出会い[編集]

方谷は29歳のとき、京都遊学で陽明学と出会う。このとき、王陽明伝習録から朱子学と陽明学のそれぞれの利点と欠点を理解し、正しい学び方を修得した。

朱子学の利点は、初心者でも学問の順を追って学べば深く学ぶことができる。しかし、我が心の内を忘れて我が心が得心しているかは問わないという欠点があった。

一方、陽明学の利点は、我が心が得心しているのかを問うて人間性の本質に迫ることができ、道理を正しく判別でき、事業においては成果を出すことができる。しかし、私欲にかられた心で行為に走ると道理の判断を誤ることが多いという欠点があった。よって、先人達の教訓や古典から真摯に学び、努力することが求められる。

この後、方谷は弟子達から陽明学の教えを請われても安易に教えることはせず、朱子学を深く学ぶことを諭した。これは、己の心のままに行為に走ってしまいやすい陽明学の欠点を熟知していたことによる[要出典]

松山藩の藩政改革[編集]

方谷が説く「理財論」および「擬対策」の実践で、藩政改革を成功させた。

理財論は方谷の経済論。の時代の董仲舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」の考え方で、改革を進めた。つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であるが、その義をあきらかにせずに利である飢餓を逃れようと事の内に立った改革では成果はあげられない。その場しのぎの飢餓対策を進めるのではなく、事の外に立って義と利の分別をつけていけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなることを説いた。

擬対策は方谷の政治論。天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり度をこえて贅沢なことが、財政を圧迫する要因になっているのでこれらを改めることを説いた。

この方針に基づいて方谷は大胆な藩政改革を行った。

藩財政を内外に公開して、藩の実収入が年間19千石にしかならないことを明らかにし、債務の50年返済延期を行った(ただし、改革の成功によって数年後には完済している[1])。

大坂蔵屋敷を廃止して領内に蔵を移設し、堂島米会所の動向に左右されずに平時には最も有利な市場で米や特産品を売却し、災害や飢饉の際には領民への援助米にあてた。

家中に質素倹約を命じて上級武士にも下級武士並みの生活を送るように命じ、また領民から賄賂や接待を受ける事を禁じて発覚した場合には没収させた。方谷自身の家計も率先して公開して賄賂を受けていないことを明らかにした。

多額の発行によって信用を失った藩札を回収(711300匁(金換算で11,855両)相当分)し、公衆の面前で焼き捨てた。代わりに新しい藩札を発行して藩に兌換を義務付けた。これによって藩札の流通数が大幅に減少するとともに、信用度が増して他国の商人や資金も松山藩に流れるようになった。

領内で取れる砂鉄から備中鍬を生産させ、またタバコ和紙柚餅子などの特産品を開発して「撫育局」を設置して一種の専売制を導入した。他藩の専売制とは逆に、生産に関しては生産者の利益が重視されて、藩は後述の流通上の工夫によって利益が上げるようにした。

これら特産品を、中間手数料がかかる大坂を避け、藩所有の艦船(蒸気船快風丸」)で直接江戸へ運び、藩邸内の施設内で江戸や関東近辺(は農村の需要が高かった)の商人に直接販売した。これによって、中間利益を排して高い収益性を確保する一方で、藩士たちに航海術を学ばせた(ちなみに板倉家の同族である安中藩の家臣であった若き日の新島襄も、この航海演習に参加したことがあるという)。

藩士以外の領民の教育にも力を注ぎ、優秀者には農民や町人出身でも藩士へ取立てた。

などの役に立つ植物を庭に植えさせた。更に道路や河川・港湾などの公共工事を興し、貧しい領民を従事させて現金収入を与えた。また、これによって交通の安全や農業用水の灌漑も充実された。

目安箱を設置して、領民の提案を広く訊いた。

犯罪取締を強化する一方、寄場を設置して罪人の早期社会復帰を助けた。

下級武士に対して一種の屯田制を導入し、農地開発と並行して国境等の警備に当たらせた。

「刀による戦い」に固執する武士に代わって農兵制を導入し、若手藩士と農民からの志願者によるイギリス式軍隊を整えた(方谷自身も他藩を訪れて西洋の兵学を学んだという)。この軍制は長州藩(後の奇兵隊)や長岡藩でも模範にされた。

方谷は反対意見を受けたもののあくまで藩主・家臣が儲けるための政策ではなく、藩全体で利益を共有して藩の主要な構成員たる領民にそれを最大限に還元するための手段であるとして、この批判を一顧だにしなかった(事実、方谷は松山藩の執政の期間には加増を辞退して、むしろ自分の財産を減らしている)。これによって、松山藩(表高5万石)の収入は20万石に匹敵するといわれるようになり、農村においても生活に困窮する者はいなくなったという。雄藩に準ずるほどの大規模な藩政改革を行い、のちの長州藩等の手本になるものもあり、当時としては画期的な政策であった。

幕末維新期[編集]

藩主・板倉勝静白河藩主・松平定信の実の孫であり、元をたどれば徳川吉宗の玄孫にあたる。そのため、幕府に対する忠誠心が高く、勝静自身も奏者番寺社奉行老中と幕府の要職を務めた。しかし、幕府の重職を担うことは藩財政の逼迫を招くため、方谷は勝静の幕政参加に反対していた。また、勝静は方谷の能力を高く買い、藩の外交官として自身の補佐役に任命したが、方谷は内政に比して藩の外交や幕政に対しては能力も意欲も乏しかった。そのため、幕政の補佐役は早々に辞任し、藩の内政には全面的に責務を負うことを条件として、松山に帰国している。そしてもっぱら、藩の復興や弟子の育成に力を注いだ。

しかし、大政奉還とそれに続く鳥羽・伏見の戦いにおいて、老中として大坂城の将軍・徳川慶喜の元にいた勝静は、幕府側に就いて官軍と戦うこととなった(戊辰戦争)。これに対して朝廷は、岡山藩などの周辺の大名に、松山藩を朝敵として討伐するよう命じた。突然の出来事に対して、松山の人々は動揺した。方谷は、主君勝静に従って官軍と戦うよりも松山の領民を救うことを決断し、勝静を隠居させて新しい藩主を立てることと、松山城の開城を、朝廷に伝えた。

明治期[編集]

松山城を占領した岡山藩内では、旧幕府軍に加わっている勝静の代わりに方谷を切腹させるべきだという意見もあったが、彼を慕う松山藩領民の抵抗を危惧した藩中央の意向でうやむやとされた。また、岡山藩で名君と慕われていた藩主・池田光政が陽明学を振興していたことも、岡山藩が方谷に好意的だった理由とも考えられる。

その後、方谷は岡山の人々の依頼で、寛文10年(1670)に池田光政が設立し明治3年(1870)まで続いた閑谷学校(日本最古の庶民学校)を、陽明学を教える閑谷精舎として明治7年(1874)に再興した[2]。しかし閑谷精舎での講義の内容が漢学に偏っていた為に受講生徒数が減少し、4年間で閑谷精舎は休学に至ってしまう[2]

明治新政府は方谷の財政改革を高く評価して、三島中洲らを通じて出仕を求めた。しかし、領民達を救うためとはいえ、心ならずも主君を隠居に追い込んで勝手に降伏した方谷に、再仕官をする考えはなかった。そして、明治10年(1877)に死去するまで、弟子の育成に生涯を捧げることになったのである。

エピソード[編集]

義利合一と至誠惻怛[編集]

方谷の「理財論」と「擬対策」は後に、弟子の三島中洲の「義利合一論」へと発展し、三島が拓いた私塾である二松学舎を通して渋沢栄一を初めとする関係者たちに伝えられ、彼らを通して日本の財界に深い影響を与えることになった。

至誠惻怛(しせいそくだつ)という真心と慈愛の精神を説いたことでも知られる。例えば、他人を小人呼ばわりした三島中州に「世に小人無し。一切、衆生、みな愛すべし。」と戒めたという[3]。のち至誠惻怛の精神は福西志計子らを通して石井十次留岡幸助山室軍平中島重らに影響を与えていった。それはとりもなおさず、日本の福祉の歴史においても大きな影響を与えたことを意味する。[4]

その他挿話[編集]

安岡正篤は、「この人のことを知れば知るほど文字通り心酔を覚える」と評価している[5]

嘉永5年(1852)に牛麓舎の隣家に住まう一藩士が病没し、その寡婦が方谷宅の門を叩いた。寡婦は父を亡くした自らの7歳の娘に、母子家庭の娘と侮られぬよう、男性と互して能うほどの学問を施してもらうよう方谷に請うた。それは当時の一般常識に照らせば、ありえない考えであった。しかし学の人生における重要性を体感の上で知悉していた方谷は、藩政改革の忙しい最中ではあったが寡婦の願いを快く引き受けて男女の別を気にする事無く、その才気ある娘を牛麓舎に通わせて自らの学を与えたとされる。その娘こそが、後に高梁の地で女子教育の普及に努める事となる福西志計子であった。[6]

年表[編集]

文化2年(1805 備中松山藩領西方村で生まれる。

文化6年(1809 5 新見藩丸川松隠(儒家)塾で朱子学を学ぶ。

181814歳、母が亡くなる。継母来る。翌年父も亡くなる。

1821年、結婚。

文政8年(1825 21 名声広まり藩主・板倉勝職(かつつね)から奨学金(二人扶持)をいただく。

文政10年(1827 23 1回京都遊学(春から歳末まで)で寺島白鹿に学ぶ。

文政12年(1829 25 2回京都遊学(春から秋まで)で寺島白鹿に学ぶ。遊学から戻り、藩主から苗字帯刀を許される。藩校・有終館会頭(教授)に抜擢される。

天保2年(1831 27 3回京都遊学(夏から2年半)で寺島白鹿に学ぶ。このとき、陽明学に出会う。

天保5年(1834 30 江戸遊学(1月から2年半)で佐藤一斎の門下に入る。このとき、佐久間象山と出会う。

天保7年(1836 32 有終館に戻り、指導する。大小姓格に抜擢される。『理財論』『擬対策』を書く。

天保9年(1838 34 家塾「牛麓舎」を開校する。

弘化元年(1844 40 世子の板倉勝静(かつきよ)入封する。

弘化4年(1847 43 津山藩洋式砲術役・天野直人に砲術を学ぶ。また庭瀬藩火砲指南役・渡辺信義に火砲術を学ぶ。離婚。

嘉永2年(1849 45 松山藩の元締役 吟味役元締を命ぜられ、藩政改革に取り組む。

嘉永4年(1851 47 農兵制(農民による洋式銃隊)を創設。

嘉永5年(1852 48 郡奉行に任命される。

安政元年(1854 50 元締 藩執政となる。離婚。

安政3年(1856 52 年寄役助勤、郡奉行も引き続き兼務となる。3度目の結婚。

安政4年(1857 53 松山藩の元締を辞任。この年、板倉勝静、幕府の寺社奉行となる。

万延元年(1860 56 再び藩元締に再任される。

文久元年(1861 57

2月、江戸で藩主の顧問となる。

4月、顧問を辞任し帰国。

5月、元締役辞任。

文久2年(1862 58 板倉勝静、老中となる。方谷は再び勝静の幕政顧問となるが、程なく辞任、準年寄役に転ず。

文久3年(1863 59 板倉勝静、上京。4月、京都における勝静の顧問に再任されるが、5月には辞任。

元治元年(1864 60 板倉勝静、長州征伐に出陣、留守を守る。

1867年、大政奉還の原文を起草。

明治元年(1868 64 大政奉還ののち戊辰戦争おこり、備中松山征討軍に無血開城する。

明治2年(1869 65 長瀬の塾舎を増築し、子弟教育につとめる。

明治3年(1870 66 刑部に住居を移転。小阪部塾を開き、引き続き弟子教育につとめる。

明治4年(1871 67 再興された閑谷学校(閑谷精舎)で、陽明学の講義をする。 

明治10年(1877 73

622日、小阪部の小阪塾にて死去。

629日、西方村の墓地に葬られる。

明治29年、小阪部塾の終焉の枕の位置に高さ約10mの遺蹟碑を建てる。山田方谷の題字は勝海舟、文は三島中州、書は金井之恭、彫ったのは藤田市太郎らが携わっている。

主な門人[編集]

河井継之助

三島中洲二松学舎創立者)

川田甕江(明治以降の河田剛)

鎌田平山

進鴻渓

服部犀渓

林抑斎

三浦仏厳

岡本天岳

福西志計子順正女学校創設者。女児であるため正規の門人と認めていない資料もある)

文献[編集]

平成8年(1996年)に義孫である山田準編『山田方谷全集』全3巻が明徳出版社より復刊されている。同年には方谷の伝記として矢吹邦彦『炎の陽明学 山田方谷伝』(明徳出版社)・林田明大『財政の巨人 幕末の陽明学者・山田方谷』(三五館)が相次いで刊行されるなど、近年では明徳出版社を中心として方谷の伝記研究が多数刊行されている。2005年には生誕200年を記念し、山陽新聞社編集、南一平作画による漫画『山田方谷物語』(NCID BA73773587)が製作された。

矢吹邦彦『炎の陽明学 山田方谷伝』明徳出版社、1996

林田明大『財務の教科書、「財政の巨人」山田方谷の原動力』三五館、2006

脚注[編集]

1.     ^ 借金10万両を10年で返済し、10万両の貯蓄を作った。(『「民あっての国」道示す(磯田道史の古今をちこち・読売新聞201392515

2.     ^ a b 閑谷学校資料館での展示内容 20155月に確認

3.     ^ 『「民あっての国」道示す(磯田道史の古今をちこち・読売新聞201392515

4.     ^ 『中島重と社会的基督教』(倉田和四生・著 / 関西学院出版会)p.17-26

5.     ^ 『「民あっての国」道示す(磯田道史の古今をちこち・読売新聞201392515

6.     ^ 『福西志計子と順正女学校』(倉田和四生・著 / 吉備人出版)p.48

 

 

山田方谷記念館 - 高梁市公式ホームページ

山田方谷は、備中松山藩の藩政改革を断行し、財政危機に陥っていた藩を立て直すとともに、教育者として多くの優秀な人材を育成したことで知られています。

 方谷を顕彰する施設としては、生誕の地である高梁市中井町と終焉の地である新見市大佐にそれぞれ資料館・記念館がありますが、活躍した地である城下町には、方谷の生涯や事績を体系的に紹介・顕彰する施設はありませんでした。

 平成31年(2019224日に、旧高梁中央図書館を活用し、方谷を顕彰する施設として待望の「山田方谷記念館」を整備しました。

 戊辰戦争によって、朝敵となり、備中松山を無血開城したのが1868年。

 方谷らによって守られた町の地名は「備中松山」から「高梁」へと改名されました。

 2019年は、地名の改名後、150年の節目にあたっており、こうした記念の年に記念館を開館することができました。

山田方谷

 1805221日  現在の岡山県高梁市中井町に生まれる。

 1877626日  現在の新見市大佐小阪部にて死去。

 

 備中松山藩の藩校「有終館」学頭から、嘉永2年(1849)に藩の財政責任者である「元締役兼吟味役」に抜擢されました。

 藩主板倉勝静のもと、十万両(数百億円)の借財を抱え、財政破綻寸前であった藩の財政を、わずか七年で十万両の蓄財に変え、藩の財政を再建。

 稀代の藩政改革者として名を馳せました。

 

藩政改革を支えた山田方谷の思想

理財論  佐藤一斎塾の塾頭をしていたときに書いた経済論

 「事の外に立ちて事の内に屈せず」「義を明らかにして利を図らず」という言葉に代表されます。

 目先の問題にとらわれず大局的な見地から物事の全般を見通すことが大切であり、政治に携わる者は、金銭の増減のみを追求するのではなく、綱紀粛正や教育の振興などに努め、善政を行えば、結果として財政は豊かになると説いています。

擬対策  江戸遊学から帰藩したころに書いた政治論

 天下の士風(モラル)が衰え、賄賂が公然と行われたり、度が過ぎて贅沢なことが、備中松山藩の窮乏の原因だとし、これを改めるには、主君と部下がともに反省し、規範意識を高め、旧来の弊害を取り除くことが肝心であると説いています。

藩政改革後の方谷

 勝静が江戸幕府の老中となると、その政治顧問として幕政にも関与し、その名はさらに全国に知れ渡りました。

 また、教育にも情熱を注ぎ、二松學舍大学を創設した三島中洲(倉敷市出身)や越後長岡藩士河井継之助など、幕末から明治にかけてのリーダーを育てました。

藩政改革

財政破綻寸前、借金数百億円の備中松山藩を立て直すために

山田方谷が行った藩政改革

 

上下節約  徹底した倹約を実施

 方谷は、嘉永3年(1850)に主として中級以上の武士と、豪農・豪商を対象とした倹約令を出しました。

 この倹約令は、当時の役人たちの常識であった賄賂や酒馳走を全面的に禁止したものであり、方谷への反発は大きかったが、藩主勝静が、重役会議の席で、「方谷の意見は、私の意見である。方谷に対する悪口は一切許さない」と言明し、方谷の改革を支持しました。

 「上下共々質素倹約」というのが基本理念の一つであり、自らの給料を大幅に削減したほか、藩主勝静も改革にあたっては率先して倹約の範を示し、木綿の衣類を着て粗末な食事をしたといいます。

負債整理  方谷自ら大坂へ

 借財の整理について、方谷は、債権者である大坂の両替商(銀主)を一堂に集めて、藩の帳簿を公開し、藩の窮状を説明した上で、堅実な返済計画を示し、了承を取り付けました。

 また、方谷は、大坂の蔵屋敷を廃止し、蔵屋敷の維持費を削減するとともに、米相場に応じて藩が直接売買する仕組みに改め、収益を確保するように努めました。

藩札刷新  信用を取り戻すための大胆な行動

 備中松山藩は発行した藩札の兌換準備金にも手をつけ、準備金が底をついていました。

 にもかかわらず、大量の藩札を新たに発行したため全く信用はありませんでした。

 方谷は、財政再建にあたっては、藩札の信用回復を重視し、期限を定めて藩札を貨幣に交換、藩札を回収しました。

 方谷は、回収した藩札と未使用の藩札(総額72億円)を嘉永5年(1852)9月、大観衆の面前で焼却したのでした。

 このパフォーマンスは、藩政改革への決意を示す有効な手段となりました。

 その後、産業振興により得た巨額の利益を準備金として、新たな藩札「永銭」を三種類発行しました。

 この新たな藩札は高い信用を得て、他藩にまで流通するようになり、結果として地域の経済が活性化しました。

産業振興  領内の特産品を江戸で直接販売

 嘉永5年(1852)、「撫育方」を新設し、藩内で生産された年貢米以外の生産物を集中管理し、江戸に運び直接販売することで、莫大な利益を藩にもたらしました。

 撫育方で取り扱われる生産物は、鉄器・農機具・釘などの鉄製品が中心で、中でも「備中鍬」は全国に普及し、江戸では「鉄釘」が高値で売れたといいます。

 この特産品の生産から流通までの一貫管理と江戸での直接販売システムの構築は、地場産業の振興に大きく貢献しました。

◆方谷が鉄製品以外に奨励した生産物

 和紙・杉・竹・茶・漆・煙草・柚餅子 など

※撫育方 ・・・ 藩内の事業部門。役所の御収納米以外の一切の収益を管理し、備中松山藩の専売事業を担当しました。

民政刷新  「士民撫育」を終始貫く

 方谷は、嘉永5年(1852)には郡奉行を兼務し、民政の改革にも取り組みました。

 彼は、「士民撫育」(すべては藩士や領民のため)を基本方針として貫き、賄賂や賭博の禁止、天災等に備えての貯倉の設置、水陸の交通網の整備や目安箱の設置など、藩士・領民の生活安定に向けた施策を実行しました。

教育改革  庶民教育の振興と人材の登用

 方谷は、庶民教育の重要性を説き、領内に「学問所」や「教諭所」を設置し、教育の振興に努めました。

 また、藩校「有終館」や家塾「牛麓舎」で優秀な人材を育成し、藩の要職へも積極的に登用しました。

 幕末の激動の中で、藩の存亡の危機を乗り切ったのも、彼の教えを受けた門人たちの働きによるところが大きかったといわれています。

軍制改革  洋式兵術の導入と農兵隊の創設

 方谷は、弘化4年(1847)に三島中洲とともに、津山藩を訪問し、西洋砲術と銃陣を学びました。

 嘉永5年(1852)の郡奉行就任を機に、農民を兵力に率いれる農兵制度を創設しました。

 「里正隊」や「農兵隊八大隊」を組織し、大砲等の洋式兵術を導入するとともに、農閑期には洋式銃陣の習練を実施しました。

 長州藩の「奇兵隊」のモデルとなったのが、この「里正隊」とも言われています。

◆「里正隊」 ・・・ 庄屋とその子弟、神官の中から若者を選んで構成。帯刀を許し、銃剣を与えて訓練しました。

◆「農兵隊八大隊」 ・・・ 猟師や元気な若者を集めて、農閑期に訓練しました。

 

ゆかりの人物

板倉勝静 (いたくらかつきよ)

 備中松山藩板倉家7代藩主。陸奥白河藩主松平定永の8男。祖父は寛政の改革で有名な松平定信。

 天保13年(1842)、備中松山藩主板倉勝職(かつつね)の養子となり、嘉永2年(1849)に家督を継ぐと、漢学者 山田方谷を登用し、藩政改革を断行しました。

 その後、幕政に関与し、寺社奉行・老中に任命されました。慶応元年(1865)、老中に再任され、翌年一橋慶喜が15代将軍に就任すると、老中首座として将軍を補佐しました。

 同3年(18671014日、大政奉還となり、幕府の終焉を見届けました。

 翌年鳥羽伏見の敗戦を受け、慶喜とともに江戸に帰り、老中を辞任。

 その後、日光・奥州・箱館を流転、明治2年(18695月に自訴、安中藩へ永預(えいあずけ)に処せられました。

 同5年(1872)に赦免された後は、上野東照宮祀官を務めました。

三島中洲 (みしまちゅうしゅう)

 備中松山藩士。漢学者。

 窪屋郡中島村(現倉敷市中島)に生まれ、14歳で山田方谷の家塾「牛麓舎」に入門。

 文久元年(1861)、吟味役に就任し、藩政の安定に尽力。鳥羽伏見の敗戦により板倉勝静は朝敵とされましたが、山田方谷らとともに朝廷への助命・板倉家の再興を嘆願し、明治2年(1869)に実現。明治5年(1872)、政府の招請に応じて上京。東京帝国大学教授・東宮侍講・宮中顧問などを歴任。明治10年(1877)に、漢学塾「二松學舍」(現二松學舍大学)を創立

川田甕江 (かわたおうこう)

 備中松山藩士。漢学者。玉島(現倉敷市玉島)に生まれ、藩政改革のため三島中洲により懇願され、出仕。熊田恰が玉島で包囲された際の嘆願書の草案は、川田の作成と言われています。

 勝静は幕府軍参謀として東北の地を流転しましたが、川田の懸命な説得により自訴を決意したと言われています。

 藩再興の際には、勝輔(跡取り候補)を丁稚に仕立て、川田は呉服商人に変装し、備中松山に連れて帰り、また復藩活動の際には、京都に潜入し、朝廷側から情勢を探るなど動乱期の藩を影で支えました。後に文学博士として活躍し、東宮侍講などを務めました。

熊田恰 (くまたあたか)

 備中松山藩士。藩年寄役の家に生まれ、藩校有終館で山田方谷に学びました。

 剣術指南役となり、板倉勝静の護衛役を務め、鳥羽伏見の戦では、勝静の親衛隊長として大坂城周辺警護に従事。敗戦により勝静から帰藩を命じられ、藩兵150余名を率いて、海路で玉島(現倉敷市玉島)まで帰着しましたが、岡山藩兵に包囲されました。

 恰は、藩兵の助命嘆願書を提出し、自刃。藩兵の命と玉島を戦禍から救いました。墓所は、高梁市和田町の道源寺。

ゆかりの地

 山田方谷にゆかりのある地は、市内に数多くあります。

 山田方谷ゆかりの地をめぐり、方谷の足跡に触れてみてはいかがでしょうか。

備中松山城 (高梁市内山下)

 臥牛山の山頂部(標高430m)の所在。天守が現存する全国唯一の山城。

 大手門跡周辺は、10m以上の巨大な岩壁がそびえ、「難攻不落の城」の面影を残す。

 漆喰塗りの白壁と黒い腰板のコントラストが青空に映える美しい天守は必見。

八重籬神社 (高梁市内山下)

 備中松山藩主板倉家の祖霊を祀る神社。

 寛政5年(1793)、御根小屋(現高梁高等学校地)に建立されたが、文政13年(1830)に現在地に改築された。

 境内には、方谷をはじめ、旧藩関係者の顕彰碑が建つ。

 

臥牛亭 (高梁市内山下)

 藩主板倉勝静が、御根小屋の一隅に建てた小亭。

 農耕の神を祀り五穀豊穣を祈願。

 領民の生活に思いを馳せたとされる。

 明治6年(1873)の廃城令後、勝静の遺徳を偲ぶものとして、八重籬神社境内に移築・保存されている。

牛麓舎跡 (高梁市御前町)

 方谷が有終館学頭時代に子弟教育のために最初に設立した家塾で、臥牛山の麓にあることからこの名がついた。

 のちに方谷の改革を支えた三島中洲らを輩出した。

 

御根小屋跡 (高梁市内山下)

 臥牛山山麓に位置する藩の政庁・御殿屋敷の遺構、現高梁高等学校校地。

 屋敷の地割りは、高さ7mを超える石垣を築き、二段に造成され、上段には城主の居館である御殿を設置。

 明治6年(1873)の廃城令により、御殿・附属建物は解体撤去されたが、総延長800mに及ぶ石垣や中庭は良好に旧状を留めている。

頼久寺庭園 (高梁市頼久寺町)

 城下町の東山麓の寺社群の一つ。

 臨済宗永源寺派の寺院。

 大海波をサツキの大刈込で表現した蓬莱式枯山水庭園は、小堀遠州の作庭と言われている。

 戊辰戦争により、朝敵となった備中松山藩は、備前岡山藩を中心とした征討軍に城を無血開城、版籍奉還後に旧藩再興活動に向けた重要な会議が当所で開催された。

 

有終館跡 (高梁市中之町)

 延享3年(1746)に、初代藩主板倉勝澄によって創設された学問所は、4代勝政の時に藩校「有終館」として整備された。

 方谷は、天保7年(183632歳で学頭に就任、朱子学を中心に講義した。

 同10年(1839)、火災で焼失したが、方谷の尽力により現在地に再建された。

有終館のクロマツ (高梁市中之町)

 天保10年(1839)の火災で焼失した有終館は、方谷の強い要望で再建された。

 このクロマツは、その際に方谷により植えられたとされる。

備中松山藩御茶屋跡 (高梁市奥万田町)

 藩主別邸の一つ。山田方谷が城下滞在時に使用。

 司馬遼太郎の歴史小説『峠』に登場する越後長岡藩士河井継之助が逗留した施設で、方谷や門人らと交流した。

 水車が併設されたいたことから、通称「水車」とも呼称された。

見返りの榎 (高梁市高倉町飯部)

 長瀬塾の高梁川対岸にある榎の巨樹。

 安政6年(1859)、来遊した越後長岡藩士河井継之助が、方谷との別れを惜しんだとされる場所に立つ。

 対岸で見送る方谷家の人々に、何度も土下座拝礼したとされる。

JR伯備線 方谷駅舎 (高梁市中井町西方)

 長瀬塾に建設された駅舎(国登録有形文化財)。

 駅名には、地元住民の陳情を受け、「方谷」が採用された。

 駅構内には、方谷の功績などを紹介した「方谷駅資料室」が開設されている。

長瀬塾跡 (高梁市中井町西方)

 方谷が安政6年(1859)に土着した住居跡。

 同年には、越後長岡藩士河井継之助が来遊し、方谷に師事した。

 明治2年(1869)には、「長瀬塾」を開塾。

 現在は、JR伯備線の方谷駅となっている。

方谷園 (高梁市中井町西方)

 明治43年(1910)に、方谷の功績を末永く顕彰するために整備された公園。

 園内には、方谷と山田家歴代の墓や三島中洲撰文の記念碑などがある。

 

方谷駅駅舎

    中井町西方にあるJR伯備線方谷駅の駅舎が平成23318 日に開催された国の文化審議会で答申され、登録有形文化財(建造物)になりました。これによって、市内の登録有形文化財は成羽町坂本の西江家住宅と合わせて2件となります。

    方谷駅駅舎は昭和3年(1928)に倉敷と伯耆大山との間で全線開通したJR伯備線に併せて建設されました。駅名は、当地出身の幕末の漢学者山田方谷にちなんでおり、駅名に人名が使われた最初の例といわれています。また、現在方谷駅のあるところには、山田方谷の住居や私塾の長瀬塾があり、長岡藩藩士の河井継之助も当地を訪れたといわれています。

    駅舎は、南の高梁川に面して建っており、木造平屋建、切妻造セメント瓦葺です。南面の東よりには、車寄を設け、出入口としています。車寄では、柱を洗出しという技法を用いて、凝った意匠にするなど、ほかの駅舎には見られない特徴もあります。この車寄を主として、全体を直線的に仕上げており、非常に近代的な雰囲気を漂わせています。

    このように建設当初の様相を非常によく残していることから、「国土の歴史的景観に寄与している」という登録有形文化財の基準を満たしていると評価されました。

    県内の駅舎では、JR津山線建部駅、同伯備線美袋駅、同因美線美作滝尾駅、旧片上鉄道吉ヶ原駅が登録有形文化財になっています。県内にある昔の面影の残る駅舎を訪ねてみてはいかがでしょうか。

 

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