リッカルド・ムーティ、イタリアの心 ヴェルディを語る  Riccardo Muti  2022.3.12.

 

2022.3.12. リッカルド・ムーティ、イタリアの心 ヴェルディを語る

Riccardo Muti Verdi, L’Italiano                 2012

 

著者 

Riccardo Muti 1941年ナポリ生まれ。世界で最も称賛されている指揮者の1人。彼の並外れた演奏活動において、イタリアを始め国際的に重要なオーケストラを指揮

 

監修 Armando Torno 1953年ミラノ生まれ。『コリエレ・デッラ・セーラ』の論説委員。哲学と神学に関するエッセイストでもある。

 

訳者 田口道子 国立音大声楽科卒後、ミラノに渡り、ヴェルディ音楽院を卒業しディプロマ取得。メゾ・ソプラノ歌手として活躍する傍ら、オペラ演出の基礎を学び、演出助手としてミラノ・スカラ座を始め、世界の歌劇場で舞台経験を積む。近年はオペラ演出家として活躍

 

発行日           2014.5.31. 第1刷発行

発行所           音楽之友社

 

カバー裏

ヴェルディの生誕200(2013)を迎えるにあたって、ムーティがヴェルディに捧げた本書は、作曲家ヴェルディへの熱烈な思いとそのオペラに対する深い知識と理解のための手引きが語られている。それはまた、トスカニーニと並んで、ヴェルディ作品の最高の演奏者による、音楽の歴史におけるヴェルディの重要性とその価値を再認識するための試みでもある。モーツァルトやワーグナーは、彼等の出身国はもとより全世界で偉大な作曲家として尊敬されていることは言うまでもない。しかし、イタリアにおいてヴェルディは、しばしば単純で覚えやすいメロディーの作曲家として紹介され、多くの場合、作曲家の意図などに配慮することなく、好みや都合によって楽譜を書き替えることが可能であるかのように、勝手な方法で演奏されているのだ。しかしヴェルディは――ムーティが論証するように――絶対的な天才であり、イタリア音楽の第一人者である。彼が人間の情熱を舞台にすると、それは常に並外れて洗練されており、表現の高貴さが際立った作品となる

言葉と音楽が完全に1つになっていることを深く理解することによって、ヴェルディのオペラ作品のすべてが――《リゴレット》《ラ・トラヴィアータ》《イル・トロヴァトーレ》のみならず――劇場という世界の傑作であると誰もが認識するであろう。ヴェルディの偉大さは、《レクイエム》のように神を前にして人間の悲劇を巧みに表現することにも、統一運動を立ち上げるほどの比類のないイタリア人精神にも、《オテロ》と《ファルスタッフ》のように晩年を迎えたことを意識しての成熟した巧妙な作品にも表れている

ヴェルディの真髄を明晰に語る手掛かりとなっているのは、11人の人間の感情を音楽を通して語ることができる彼の非凡な才能である。それ故人類は今日も未来も常にヴェルディを必要とするのだろう


まえがき         Armando Torno

 

       人生を共にする音楽家

ヴェルディの人生は苦悩の連続――「ヴェルディ的悲観主義」と言われる所以

自身の苦悩と悲観主義と彼の人生の悲劇を表現する一方で、自身の人生の姿を超えて登場人物たちが普遍的な特徴を持つ生き方をしているともいえる

ヴェルディがどのような人物であり、彼の音楽を演奏するためにどのような指示を与えたのかなどを理解しようというのが本書の目的

オペラは文化の産物。作曲者の芸術文化に寄せたメッセージを徹底的に解明することに力を注ぐべき。オペラが、我々の国の文化を代表する芸術として上演されるようになってほしい

生誕200年の2013年に当たり、芸術の第一人者で、威厳があり、尊敬に値するヴェルディに対し、彼が望んでいた演奏法を取り戻さなければならない

最も愛されているオペラの作曲家でありながら、まだ深く知られていないのが現実

 

1.    書いてある通りに正確に

1871年のヴェルディの言葉。「指揮者たちの想像・・・・演奏するたびごとの創作・・・・これらはバロック時代への道に通じる。歌手が自分のパートを創作することが許されることによって、前世紀の終わりから今世紀の初めに偽の音楽芸術がはびこっていたように、混乱と矛盾を来すことになる。私が唯一の創作者でありたい。書いたことをただ単に正確に演奏してもらえれば満足。歌手にも指揮者にも勝手に創作をすることを許さない。それは地獄への道の始まり」

「音の背後にあるものを理解するように努めてほしい」ということ

当時は、作曲家が興行師にスコアを渡した後は、興行師も演奏者も好き勝手に使うことができた

ヴェルディの伴奏は、リズムの鼓動を通して、声の周りでドラマチックな内面の動きを表現している

ヴェルディの音色はトスカニーニが残してくれた。彼はヴェルディの指揮で、チェロを弾いていた。ヴェルディの作り出した音色を用いつつ、トスカニーニは生涯を通して、より現代的により華麗に演奏した

ヴェルディは要求の多い作曲家であることも理解する必要がある。演奏者に音を速く演奏する技巧を要求するばかりでなく、音色やフレージングや声色まで指示。オーケストラには「無言の音色」を、それもディミヌエンドの指示をし、歌手には「押し殺した声」を指示している

我々が考えている以上に現代的で、作品には何十年も先が投影されている。指示している音色は表現主義に近いが、表現主義が誕生するよりもずっと前のことだし、演奏表現に対する指示用語は、正確で細かい指示に満ちたスクリャービンのスコアにさえ見つけることは出来ない

ヴェルディの根本的な課題の1つはレガート。音楽用語のレガートは、イタリア語の話し言葉の滑らかさから派生している。言葉の発音の仕方が様式の一部をなすので、ヴェルディでは発音がより一層大切。良い発音をする秘訣は、子音を硬く発音したり、特にRを適切に巻き舌にすることにあるが、マリア・カラスは完璧

指揮者の役割は、歌手の伴奏者ではなく、歌手と一緒にその背景にある世界を発見すること

カラヤンが言ったのは、「よい指揮者であるということは、30年経っても、自分と共演する音楽家に本質的に同じことを繰り返す忍耐力を持つということ」だと

 

2.    ヴェルディに魔法をかけられた

1986年、ミラノ・スカラ座の音楽監督に任命された最初のシーズンのオープニングに《ナブッコ》を上演した時のこと。《ナブッコ》はミラノのオペラ。イタリア統一運動時代のミラノにおいて、イタリア統一に導いた作品で、北部同盟はこの有名な合唱曲を同盟歌にしているが、何年もスカラ座で演奏されていなかったこともあって、リハーサルのときから合唱が歌い始めると異様な雰囲気だったが、本番での観客の叫び声は我が人生の中でももっとも忘れられないものとなった。先に進もうとしたがアンコールの声がやまない。アンコールに応えれば私の成功を裏付けることになるが、スカラ座ではトスカニーニの時代から、途中でのアンコールの演奏は禁止されていた。先に進めないのでやむなくアンコールに応じたところ、翌日はトップニュースとなり政治問題化した

1990年の《トラヴィアータ》はスカラ座で26年ぶりの上演だったが、将来を考え主役に2人の無名の新人を起用。初日は、演奏家たちの興奮や前奏曲を弾き始めた時の感動は今でもはっきりと思い出す。これを機に、今日では最も頻繁に上演される作品となった。その5年後、オーケストラが開宴直前にストライキに突入、怒り狂う満員の聴衆を前に私がオペラ全曲を舞台上でピアノ伴奏して上演することになり、世界中で大反響を引き起こす

 

3.    音楽と言葉の完璧なる一致

ヴェルディは劇作においても優れた能力を持ち合わせていた。オペラ作品には全く偶然性がなく、しっかりと筋が通っていて、ドラマをよく理解した音楽の使い方がされている。劇作法においても、ドラマの構成力が優れている

歌手たちの必要な動きについての指示が音楽で表されているだけでなく、登場人物のキャラクターまでもはっきり示している

言葉と音楽の関係を密接に捉えた作曲家はモーツァルトで、ヴェルディはモーツァルトのレチタティーヴォ(話すような歌唱=抒唱)の完璧さに迫った唯一の作曲家

レチタティーヴォは、自由な朗誦部分ととられがちだが、台本を厳格に読み解くことによって初めて自由が得られるのであり、その音が長いか短いか、休符があるかないかなどは、常にドラマとしての理由付けがされていて、決して偶然ではない。言葉のリズミカルな鼓動が、発音することによって直接生み出されていった

晩年のヴェルディが最も斬新な作品と自負していたのが《リゴレット》のせむし男。彼の3部作(1851年初演の《リゴレット》、53年初演の《イル・トロヴァトーレ》と《ラ・トラヴィアータ》)の中で、《リゴレット》が最も現代的。密度の高い構造で作り上げられ、作品の音はすべてがその音である理由を持ち、お互いに関係づけられている。原題は《呪い》で、このテーマが音楽的に、また科学的に発展している。《リゴレット》はたった1つの音で出来上がっている。その音はド・ナチュラルで、呪いのテーマはこの音で始まり、この音から発展していく

残念ながら《リゴレット》は演奏方法が曲解されたまま、まかり通っている箇所が多い。《女心の歌》の最後はシ・ナチュラルに上げて歌うのが慣例になっているが、楽譜には書かれていない音で、いつもこの音の後の拍手で音楽が中断されるが、作曲家の意図に対する最大の侮辱で、シ・ナチュラルの加筆がなければ、観客が拍手することはなく、最初から最後までどの幕も一切の中断なく進行していくことができる

《イル・トロヴァトーレ》は大きな山場のある作品。《リゴレット》は簡潔で展開が速いが、《イル・トロヴァトーレ》は規模が大きい。3部作の中では演技の領域が乏しく最も難しい。主人公は詩人で、芸術家でリュートの伴奏で歌う温和な男性にも拘らず、イタリア人が発音する時は力強く、厳格な語調になる。楽譜には限りなくピアノとピアニシモが見つかり、第2部のフィナーレの少し前にはピアノが15も並ぶ箇所がある。最初から最後まで音がほとばしり、音の響きにしても曲の着想にしても管弦楽法という点ではあまり興味深くなく、オペラ全体が歌に溢れ、オーケストラは完全に歌手に従属。適切な歌手を見つけるのが大変

一方、《ラ・トラヴィアータ》は、イタリア人は優しくデリケートな発音をするが、主人公が売春婦なのでその必要はない。スコアも表面的には単純に見えるが、レチタティーヴォの間に弦楽器が使われるなど、当時としては新しい手法に挑戦。史実でも御伽噺でもなく、人生そのものが語られている。ヴェルディ自身の人生を物語ったもので、当時の上流社会に対抗する様子が読み取れる。死を描いた作品であり、冒頭からすべてが急速に破滅に向かっていくように仕組まれ、退廃的な状況のなかで愛が生まれる

3部作の後、ヴェルディのオペラには形式の革新が見られる。大掛かりな舞台装置や物語の素材が歴史や宗教的なものに及んでいるところから、明らかにフランスのグランド・オペラの影響を受けている。その典型が《アイーダ》

以前は、声という要素を何よりも重視していたが、《アイーダ》ではオーケストラが決定的な重要性を示す。ヴェルディがオーケストラに関して大変な知識をもって作曲していたことがわかる。管弦楽法の視点からは非常に複雑で、しかも洗練されている。エジプト総督からカイロの新劇場の杮落しのために依頼されたもので、一般に言われるようにスエズ運河開通記念の作品ではない。一度も訪れたことのないエジプトを音楽的に克明に表現しているのは驚き

《アイーダ》の大成功は、ヴェルディが劇的な緊張感を表現するために並外れた能力を持っていたことによるところが大きく、自身も「大きな説得力と演劇性がある」と自負

演劇性という面はヴェルディのオペラの劇的な手法に最も関係。特に、台本作家との関係が重要で、ヴェルディの作曲は台本から出発、音楽は言葉によって書かれ、言葉から発想されている。どの台詞も大変的確に表現されているのは、台本作家と協同した成果

ヴェルディの台本の特徴とは、言葉自体が的確な意味を備えていて、ヴェルディが抑揚をつけて繰り返し朗読した結果の音楽という衣を身につけている

最後にアッリーゴ・ボイトが現れて《オテロ》と《ファルスタッフ》の2大傑作を誕生させた

《ファルスタッフ》では作品用に考えられた造語が用いられている。演奏者は台本を絶対に蔑ろにしてはならない。新しい造語でもすべての言葉を深く理解して演奏することが大切。大人数の合唱やオーケストラに埋もれて聴衆には殆ど聞き取れない言葉でも、しっかり把握しておくことがオペラ指揮者の基本

演出家で記憶に残るのはジョルジョ・ストレーレル。《フィガロの結婚》などを一緒に制作したが、彼から偉大な舞台を創り出すというのはどのようなことなのか、多くを学んだ

フランコ・エンリスケとはフィレンツェの5月祭で知り合い、最初のオペラを一緒に創った

 

4.    誰が未来を読むことができるのか?

ヴェルディの聖職者嫌いは有名だが、作品から察するに、確かな信仰を持っていたように思える。世俗主義で宗教に囚われなかったが、人生に不信感を持っていた

晩年には聖書のテキストに作曲することを望み、彼の歩んだ人生の全てを表現しようとしたことが窺える。最初に成功した《ナブッコ》から、神を語ることを好み、その後のオペラにも精神世界との接点が見つけられる。だがヴェルディ自身には超自然的な思想はない

ヴェルディは《レクイエム》をオペラと同じ手法で書いている。死とは何か? 我々が死から解放されるとはどのようなことか? を問い掛けている。ハ長調で終わらせているのは大きな疑問。ハ長調は、光、歓喜、安堵を表す調として使われてきたもの。理解するための鍵は、最後のソプラノが「震え恐れている」と歌った後の「長い休止」と書かれた部分にある。私は、感動的な緊張を保つために舞台上の200人の演奏者に絶対に動かないように指示しているのは、その緊張感を観客に伝えるためで、長い休符も音楽の一部なのだ

教会や聖職者との関係では、《運命の力》のメリトーネ修道士がいる。普通は道化役として登場するが、彼の内面にはこの世に対するほろ苦い思いがファルスタッフに見られるのと同じように現れていて、ヴェルディが司祭や僧侶に対して抱いている意見を代弁している

《ドン・カルロ》も国と教会の関係を主題としている。全体的に異例の性格を帯び、宗教裁判長を盲目にしたり、彼が登場する時にかすれたような音色のコントラファゴットを使ったりしているのは、ヴェルディが如何に当時の聖職者の知性と精神性を軽蔑していたかを反映

《マクベス》でも、教会という精神世界と並んでヴェルディが見事な音楽づくりをしている魔女や妖精の世界を創り上げている

 

5.    ヴェルディ、イタリアの男

ヴェルディは国家統一運動の申し子。統一運動に積極的に参加し、61年には国会の下院議員に選出され、74年には終身上院議員に指名

人々の心に直接訴える表現法は、的確なメッセージを伝え、人々を巻き込んで民衆の音楽になっていった

ところが今では、オペラを鑑賞するのに字幕が必要になった。昔は誰でもオペラの内容を理解し、アリアの歌詞は口ずさんでいた

ヴェルディは、愛国者たちに大きな影響を与えた。彼の音楽で愛国者たちは武器をもって立ち上がり、彼のオペラ作品は国歌の100倍もの効果を上げた。その代表が《ナブッコ》だが、今でも歌い継がれている《行け、思いよ》は、たっぷりと声を出す間違った歌い方で演奏されている。ヴェルディは、声を潜めて、重々しく、遅いテンポで、追放された民族の歌として演奏されることを望んでいる

《アッティラ》も愛国主義的な切り口を見せるオペラ

ヴェルディは音楽を通して政治的な背景を揺るがすことができると知り、国家統一運動においても一躍有名になったこともあって、革命的な姿勢を反映したオペラを次々に書いた

ヴェルディ以前はバッハの受難曲を別にすれば、人民の政治力が音楽的に強く特徴付けられたことはなかった。ヴェルディの音楽は、彼自身の内部にある革命的な力のエコーであり、彼はその力を決して放棄しなかった

ヴェルディのオペラには、人生があり、死に対する深い考えがあるが、それを我々「イタリア人特有の性格」という言葉にできる限り広い意味を与えて作品に表現している。願望や情熱、愛、沈黙、失望、時には横柄な言動や攻撃的な態度や不寛容など、とにかく、そのいずれもが我々イタリア人の文化であり、我々の生来の性格を表しているのだ

ヴェルディは、我々イタリア人の気性を表現することに卓越した芸術家といえる

 

6.    ヴェルディとワーグナー

ヴェルディの作品は2つに分けられる――1つは初作品から《オテロ》までで、もう1つは円熟したヴェルディ。彼自身も、《オテロ》までは観客のために作曲し、最後に《ファルスタッフ》を自分のために作曲したと言っている

ベルカント(歌唱)から出発して、その後少しづつ作曲法が複雑になり、最後には崇高なる《ファルスタッフ》に辿り着いた

歌いやすさやイタリア的な歌のスタイル、そして、そのようなメロディーを作曲することにヴェルディは大変重要性を感じていたため、ワーグナーの影響で新しい手法が認められるようになったことに、ヴェルディはひどく困惑

ヴェルディが、イタリアの伝統へ立ち戻ることを支持したのは、過去の手法の保存ではなく、自分たちの根源を認め、忘れないようにしようということだった

ヴェルディのオペラは本質的に、どんなに暗い、陰気な場面でも、ドイツ音楽の暗い音色とは異なって、明るい光が感じられるが、彼が育ち、暮らした場所はオーストリアの支配下にあって、オーストリアやドイツ音楽の影響を、イタリアのものと同じように受けていたという、2面性を知ることがヴェルディを正しく理解するために必要

《オテロ》を見直してみても、ワーグナーからの影響はほとんどなく、むしろ彼自身の初期の要素の存在の方が明らかに強く、その要素が作曲家としての成長とともに反映されてきている

 

7.    情熱と情熱を失うこと

ヴェルディは何年か作品を書かなかった時期がある。ドイツ音楽とイタリア音楽の間に生じた分裂に腹を立てたのだ

1876年、バイロイトの劇場が創設され、第一線から退こうとしていたヴェルディに『オテロ』の台本を渡して作曲を依頼したのは、作家のアッリ-ゴ・ボイト。台本を見てヴェルディに新しい炎が燃え始めた。1816年にロッシーニが同じテーマで作品を残していたので躊躇したが、新しい視点を見出す

ピッチを低く(430Hz)設定することを望むと書かれていて、音の高低の変化より音色の違いが感じられるように、、全曲を通じてこの暗い音色を要求している

最後の《ファルスタッフ》もボイトが執拗に頼んでやっと生まれた作品。歳を考えて未完成に終わる危惧を示したヴェルディに対し、喜歌劇ならそれほど大変な仕事ではないし人間の心からの叫びや嘆きを音楽にした後限りない笑いを爆発させて終わったら皆びっくりすると説得

2部では彼自身の人生が語られるように、曲全体がヴェルディの歩んできた道のりを反映

劇としての完成度が高く、朗読劇のオペラといえる

文化的、精神的、そして彼の人生の実存的な成就を見た

 

エピローグ  「お役に立てるよう努めました」

ヴェルディの全てのオペラ、すべての登場人物には、彼の独自性、特殊な人生の物語、そして特に、彼の性格が表れていて、他の作曲家の作品と混同することがない

どの場面も、彼の音楽から偉大なメッセージを受け取ることができるので貴重

登場人物は我々の姿を映し出しており、大変多面的であるため、聴く人それぞれが心の慰めを見つけることができる。我々の悩みや苦しみや喜びに答えてくれるのだ

ヴェルディに会えるとしたら言うことは、「あなたに仕え、役に立つよう努めてきた」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Wikipedia

リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti, 1941728 ナポリ - )は、イタリア人指揮者シカゴ交響楽団音楽監督、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員。現代を代表する指揮者の一人として知られる。

l  人物・来歴[編集]

1941年生まれ。

1967に、若手指揮者のためのグィード・カンテッリ賞を受賞。1972からフィルハーモニア管弦楽団を定期的に指揮し、オットー・クレンペラー以来の首席指揮者に任命される。1980から1992までフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督に就任し、しばしば同楽団を率いて世界的な演奏旅行を行った。フィラデルフィア管と制作したレスピーギ作品やロシア作品(ストラヴィンスキーチャイコフスキースクリャービン)、ブラームス交響曲の録音は、現在でも評価が高い[要出典]

1986から2005までミラノ・スカラ座の芸術監督を務める。1987ミラノ・スカラ座管弦楽団の首席指揮者に任命され、1988には同楽団とともにヴィオッティ・ドーロ賞Viotti d'Oro)を獲得。同楽団を率いてイタリア国内から欧州各地まで演奏活動を続けた。スカラ座辞任後は特定の監督ポストには就任せず、客演指揮者として活躍。

20105月、シカゴ交響楽団音楽監督に就任。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団にも定期的に客演している。1971以来ザルツブルク音楽祭にも定期的に参加し、オペラや演奏会を指揮しているが、とりわけ同地ではモーツァルトの歌劇の指揮で有名である。スカラ座のほかにも、フィラデルフィアロンドンミュンヘンウィーン、ラヴェンナ音楽祭などでオペラ公演を指揮してきた。

交友は、小澤征爾ダニエル・バレンボイムズービン・メータマウリツィオ・ポリーニバルバラ・フリットリレナート・ブルゾン等が並ぶ。カルロス・クライバーの数少ない親友でもあった。

レパートリー[編集]

母国イタリアの作曲家を幅広く取り上げ、秘曲も多く紹介し録音も頻繁に行っている(EMI,SONY)。その他一般的なレパートリーは手中に収め、特にフィルハーモニア時代やフィラデルフィア時代に膨大な録音を残した。近年はウィーン・フィルとシューベルト、モーツァルトを頻繁に取り上げては録音をしている。2008~はハイドン・イヤー企画でハイドンの交響曲も録音している(DG)。近年は専属録音契約を結んでいないが、ドイツ・グラモフォンEMIからのリリースをしている。今までに全集を残したものとしては、ベートーヴェン交響曲(EMI,MUSICOM)、ブラームス交響曲(Philips)、シューマン交響曲(EMI,Philips)、シューベルト交響曲(EMI)、チャイコフスキー交響曲(EMI)、スクリャービン交響曲(EMI)などがある。ヴェルディのオペラのほとんどはEMISONYへ録音している。

ミラノ・スカラ座では、比較的無名の古典派のオペラ、例えばケルビーニの歌劇《ロドイスカ》や、スポンティーニの歌劇《ヴェスタの巫女 La Vestale 》を上演、その一方でスカラ座管弦楽団を指揮して、こんにち無名の20世紀イタリア人の新古典主義者(フェルッチョ・ブゾーニアルフレード・カゼッラニーノ・ロータ)の作品を録音した。

ヴェルディプッチーニの有名作品についても、伝統的に行われてきた改変(アリアのクライマックスでの高音の挿入、冗長と考えられる部分のカット等)に対して批判的であり、「演奏は常に作曲者によって書かれたまま(come scritto)でなされなければならない」との強い信念をもち、自筆譜の綿密な研究を通じてそれを実行してきた。特にSONYへ録音した一連の録音では、打楽器など細部まで原典版を徹底して用い、数少ない演奏例としても貴重な存在になっている[要出典]

ピアノの腕前にも優れ、僅少ではあるが録音を行っているほか、リサイタルの伴奏を行うこともある。「椿姫」上演の際にオーケストラのストライキが発生すると、一人でピアノを弾いてまで強行上演させたという逸話もある。

幼少-青年時代~ロンドン時代[編集]

当初ピアニストとして研鑽を積み、ロータに招かれて、彼が校長を務めるバーリ音楽院に進んだ。そこで音楽院オーケストラの公演があり、予定されていた先輩の指揮者が病気になり急遽欠席した。そこでロータはムーティを校長室に呼びつけ、代役をやるように指示した。しかしムーティは不安で一度は辞去したものの、簡単な拍子の振り方だけ教わって強引に任されてしまう[1]。結果としては素晴らしい出来になり、ムーティ本人も指揮に興味を持ち始める。これがきっかけでロータに恩を強く感じ、度々彼の曲を今でも取り上げている。勉強に打ち込むも生活が苦しく、アルバイトに明け暮れつつ苦学した。このとき妻であるクリスティーナ(演出家)と出会う[1]。その後グィード・カンテッリ指揮者コンクールで優勝を果たし、イタリア国内の主要楽団を指揮する。1969にはフィレンツェ五月音楽祭歌劇場の音楽監督に抜擢され、長く関わっていく(現在も度々客演している)。

1971年、巨匠クレンペラーの後任としてニュー・フィルハーモニア管弦楽団1977年以降は「フィルハーモニア管弦楽団」)の首席指揮者に就任して以来、ロンドンには長く関わっている。EMIへの録音もこの頃から始まっている。1979には同楽団初代音楽監督に就任。その他ロンドン・フィルにも客演や録音を行っている。フィルハーモニア退任後も毎年のようにタクトを取るなど良好な関係を維持してきた。しかし一部メディアが反ムーティを掲げて過激な攻撃を行った。これに火がつき聴衆の一部も激化。2005年にはスカラ座共同参画でロイヤル・コヴェントガーデン歌劇場に初登場する予定であったが、演出家と激しく対立してキャンセルする(演出家はその後失踪した)。これによりメディアがムーティ攻撃を強め、翌年にフィルハーモニア管に登場するも、その後空白が生じた。2009にはしばらくぶりの客演予定が立った。

フィラデルフィア時代[編集]

引退を考えていたユージン・オーマンディがムーティのコンサートに訪れ、その驚異的な才能に一目惚れしてムーティ招聘を働きかける。その後首席指揮者を短期間務め、正式にオーマンディの推挙により1980、音楽監督に就任する。就任後はオーマンディが築いた「フィラデルフィア・サウンド」を踏襲しつつも、オーマンディの静に対して極めて動的、ドラマティックで熱い演奏を繰り広げて聴衆や楽員の支持を得た[1]EMIへの録音も盛んになり、オーマンディは私財を投じてムーティのために録音施設を建設した。晩年はPhilipsにも録音を行い、ブラームスやプロコフィエフで演奏を残した。カラヤンが他界して「ポスト・カラヤン争い」が勃発したとき、ムーティもその候補に挙がった。しかし早期に撤退を表明する。直後の1992年、激務に耐えられなくなったことを理由にフィラデルフィアを辞任した。その後数年、後任のヴォルフガング・サヴァリッシュの活躍でフィラデルフィアは好調を維持したが、次のクリストフ・エッシェンバッハ時代に低迷、そこでムーティ復帰を掲げて何度か招聘に乗り出すが失敗。代替案で桂冠指揮者への就任も打診するが辞去される。結果として数度の客演に止まり、その後の共演予定は立たなくなった。2009312日、ムーティはフィラデルフィアの低迷を心配するコメントを発表した[2] が、程なくして同楽団は破産法適用の申請を行った。

ミラノ・スカラ座時代[編集]

1986クラウディオ・アバドの後任として音楽監督に就任する。就任後は極めて強力な改革を推し進め[要出典]、スカラ座の復権・復興に効果[要出典]を上げた。カラヤンの失敗以来、各指揮者が敬遠していた「椿姫」をティツィアナ・ファブリチーニの起用により上演し、封印を破ったことは特筆に価する。その後もEMISONYに多くのオペラ録音を行って足跡を残す。ブーイング集団を秩序維持のために場外に追いやって物議を醸すなど、一部常連客らとの対立もあった[1] が、ムーティはスカラ座に長期にわたって君臨した。

しかし2005316に、スカラ座の管弦楽団員と職員の投票により圧倒的多数で不信任を表明される。これは、スカラ座総支配人カルロ・フォンターナとムーティとのいさかいがきっかけであり、先んじる同年2月にはフォンターナが免職される結果となっていた。ムーティは投票に先立ち演奏会をキャンセルするが、フォンターナの支持者との絶え間ない亀裂のためにその他の公演も立ち行かない状態だった。同年42にスカラ座を辞任した際、ムーティは職員からの「敵意」を辞任の理由として挙げていた。ムーティがベルルスコーニ首相と親しい間柄であるのに対し、フォンターナは左派に属する[3] ことから、この抗争自体芸術面でのそれというより高度に政治的なものだったとの見方もある。

フリー(客演)の期間[編集]

スカラ座辞任後は特定の監督ポストには就任せず、客演指揮者として活躍。母国の音楽的復興を試みてケルビーニ管弦楽団を設立し、若手音楽家の育成に注力する。ウィーン・フィル、ケルビーニ管以外は年に1ヵ月程度の付き合いに留まっている。現在の客演先はフィルハーモニア管弦楽団、バイエルン放送響、フィラデルフィア管、フランス国立管、ニューヨーク・フィル、フィレンツェ五月音楽祭歌劇場だけだが、新規としてメトロポリタン歌劇場ローマ歌劇場、シカゴ響(2回目)などの客演が決まっており、北京音楽祭や東京オペラの森音楽祭、PMFモスクワ音楽祭ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭などイベントへの参加も多い。ルツェルン音楽祭への出演や協力も表明し、周囲を驚かせた。ローマ歌劇場に対しては定期的な客演と復興活動に参画することが発表された。生まれ故郷のナポリにあるサン・カルロ歌劇場の復興にも尽力し、母国の活性化に大きく貢献している。2010年にはフランクフルト州立歌劇場にも登場する。

シカゴ交響楽団の音楽監督へ[編集]

シカゴ交響楽団は約30年というブランクがあるにもかかわらず、スカラ辞任直後のムーティに猛アタックを掛け、客演を要請していた。客演後はヨーロッパツアーを率いるなど大切な業務を次々と依頼した。その過程から「次期音楽監督か」と憶測が飛び交った。200855日、シカゴ交響楽団の次期音楽監督に就任することが双方から発表された。楽団のメンバーから多くの手紙や署名が届けられ、決心に至ったという。任期は2010年から5年間となるが、就任前に事実上の活動(スポンサー対応やオーディションなど)を開始。20091月は就任直前のコンサートになったが、人気が過熱してチケットは入手困難に陥りスポンサーを失望させた。そこでムーティは前例のない「スポンサー限定公開リハーサル」を実施して難局を乗り切った。20105月、ムーティは正式に音楽監督に就任。首席指揮者ベルナルト・ハイティンクもそのまま在任している。

ウィーン・フィルとの信頼関係[編集]

もっとも親密なウィーン・フィルハーモニー管弦楽団では1973年以降ほぼ毎年指揮台に立ち、1996にはウィーン音楽週間の最終公演で同楽団を指揮したほか、極東ツアー(日本韓国香港)やドイツツアーのほか、199319972000200420182021ニューイヤーコンサートでも指揮をとった。2005-2006シーズンは30回以上指揮台に立っている。ウィーン・フィルからはゴールドリングが贈られ、同楽団の中枢メンバーで構成されるウィーン宮廷楽団の初代名誉音楽監督を務める。Wph専用機(エアバス機)に搭乗が許される唯一の指揮者であり、カール・ベームヘルベルト・フォン・カラヤン並の待遇を受けている。創立150周年記念、楽友協会125周年記念 他、記念コンサートでタクトを託されている。1975年の初来日はベームに帯同してウィーン・フィルと果たしており、その後1999年、2005年、2008年と4回来日を重ねている。2011728日、ザルツブルク音楽祭開催中に70歳を迎え、ウィーン・フィルより名誉団員の称号を贈られた。

ミュンヘンとの関係[編集]

1979年、バイエルン国立歌劇場に初登場し、超一流歌手を並べた「アイーダ」を上演。この公演のリハーサルに訪れたのがカルロス・クライバーであり、それ以来親交が続く。その後、同じミュンヘン市内の名門・バイエルン放送交響楽団にも登場し、毎年客演を重ねたりレコーディングも行う。バイエルン放送交響楽団はロリン・マゼールの任期満了に伴い、マゼールの意向でムーティを音楽監督に打診する。しかしムーティ側から辞退の申し入れがあり、後任はマリス・ヤンソンスに決まる。この後もバイエルンとは良好かつ密接な関係は維持している。

ニューヨーク・フィルとの関係[編集]

ニューヨーク・フィルはマゼールを音楽監督に迎えてから、同じくムーティの登場回数を大幅に増やしてゆく。マゼールは当初から契約更新をしないと明言しており、当初はムーティを後任として推挙していた(断念後はバレンボイムを推挙した)。それを受けてフィルハーモニックはムーティに就任を再三打診するも、固辞される。代わりにムーティは定期的な客演を約束し、2009-2010年はツアーを組むなど首席客演待遇で進める事が合意された。しかしムーティは2008年に、ニューヨークのライバルであるシカゴ交響楽団への就任を表明する。これによりフィルハーモニックのザリン・メータ総裁は失望の意を示し、今後の関係断絶をほのめかした。後に和解を果たし、2009年のツアーは予定通り実施されることになった。

クラウディオ・アバドとの関係[編集]

クラウディオ・アバドとの犬猿の仲は有名であり、お互い名前で呼ばないほど疎遠であった。殊にムーティはアバドのことを「(スカラ座の)前任者」と呼んでいた時期もあった。盟友のピアニスト・ポリーニ、バレンボイムや弟子のダニエル・ハーディングらがよく二人の間に立って和解を目指した。イタリア時代からお互い良きライバルであった反面、ポスト・カラヤンとして争い完全に決裂してしまう。アバドはベルリン・フィルを襲い自らの目指すカラーに染め上げた[要出典]反面、ムーティはウィーン・フィルの事実上の常任指揮者待遇になる[要出典]。双方がポストをもたない間に、アバドよりムーティへ協力要請があり、ルツェルン音楽祭への出演・協力に至る。また雑誌を通じてお互い尊敬しあっていることを打ち出すなど、雪解けへ向けて一気に加速が進む。アバドがパイオニアとして乗り込んだ地域(オーケストラ)の後任としてムーティが乗り込み、成功を収める例が多く、その他でも何かと因縁で切っても切れない様相を呈す(スカラ座・ウィーン・ベルリン・ロンドン・シカゴ・ニューヨークなど)[1]

日本との関係[編集]

1975年にカール・ベームに帯同してのウィーン ・フィルとの初来日以来、たびたび来日している。 長年にわたる日本とイタリア間の文化交流と相互理解の促進・貢献が評価され、平成28年春の叙勲・褒章において、旭日重光章を受章。2018年には第30回高松宮殿下記念世界文化賞[音楽部門]を受賞している。 2019年より東京・春・音楽祭で「イタリア・オペラ・アカデミー in 東京」を開催。同アカデミーは、2015年にイタリアのラヴェンナで立ち上げられたプロジェクト。ムーティ自身がこれまでの経験、教師たちや過去の偉大な演奏者たちから受けた教えを、才能ある世界中の若手音楽家に伝え、オペラ制作に至る複雑なすべての過程についても理解を深めることを目的に、毎年夏にラヴェンナで開催されているもの。日本では3年に亘って《リゴレット》(2019)、《マクベス》(2020)、《仮面舞踏会》(2021)を取り上げる予定だったが、《マクベス》は新型コロナウイルス感染拡大の影響で2021年に延期となった。

エピソード [編集]

同僚指揮者に極めて辛辣なセルジュ・チェリビダッケをして、「恐ろしく無知だが」という前提だが「才能がある」と認めさせた。チェリビダッケが才能を認めたのはムーティだけである[1]

ウィーン・フィルからお気に入りのヴィオラ首席奏者を引き抜いてスカラへ入団させた(後にウィーンに戻る)[要出典]

専属のカメラマンが付く稀な指揮者であり、写真集も出版されている。そのほか公式サイトではその写真を公開している。

近年は視力の衰え(白内障)が激しくメガネを掛けている。サインなどファンサービスには応じるが、視力が悪化した時は説明を行った上で写真撮影を断っている。

201123日、シカゴ交響楽団とのリハーサル中に気を失って指揮台からステージに転落。顔面の骨と顎骨を骨折した(治療後に復帰)。その際、心臓にペースメーカーを埋めていることが明らかになった。

メディアや過激な聴衆からはよく「まるで帝王だ」と批判の対象になる。実際にムーティと決裂した相手は、演出家のフランコ・ゼフィレッリロベルト・アラーニャなど多く存在する。後日対立したゼフィレッリは「真のマエストロは妥協せず、気難しい性格になるものだ」とフォローした[4]。アラーニャも後日「歌手の限界に挑戦させる、極めて要求の厳しい指揮者だ」とコメントした。実際に芸術上の対立があった場合、基本的にはムーティのほうから先に去っている。

インフルエンザに掛かりやすく、122月にキャンセルが増える傾向にある。[要出典]

ジョークの多い指揮者で、リハーサルや記者会見でもしばしば用いる。心臓の調子を記者から質問されたとき、「問題は心臓ではなく頭だ」と自虐的に切り返した。[要出典]

車の運転にはかなり自信があり、相当のスピードを出すことを認めている。車種はイタリア車ではなくメルセデス・ベンツを好んでいるとのこと[要出典]

受賞歴[編集]

ウルフ賞芸術部門2000

レジオンドヌール勲章シュヴァリエ

レジオンドヌール勲章オフィシエ(2010

アストゥリアス皇太子賞芸術部門(2011

旭日重光章2016

高松宮殿下記念世界文化賞2018

脚注[編集]

注釈・出典[編集]

1.    a b c d e f ノーマン・レブレヒト『巨匠神話』河津一哉、横佩道彦・訳、文藝春秋、1996

2.    ^ The Philadelphia Inquirer紙(米)、Il Tempo紙(伊)

3.    ^ "Dumbing down row at La Scala" the Guardian紙(英)2003916日付記事。

4.    ^ Il Messaggero2009320日号

 

 

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