西洋音楽論  森本恭生  2022.3.10.

 

2022.3.10. 西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け

 

著者 森本恭生 1953年東京都生まれ。作曲家、指揮者。有明教育芸術短大教授。東京藝大中退、桐朋学園音大、南カリフォルニア大大学院、ウィーン国立音楽大で学ぶ。87年より「Ensemble9」主宰。「Yuki Morimoto」として主にウィーンで作曲・指揮活動を展開。現在、ソロ作品から管弦楽曲まで160余作品を数え、その自筆譜の多くはオーストリア国立図書館に収蔵。ほぼ全作品がウィーン・フィルハーモニーのメンバーを筆頭に、著名ソリストの手によりヨーロッパ各地で初演されている。Die Extraplatte社より6枚のCDを発表。07及び08年、ポーランド・ルトスワルスキ国際作曲コンクールの審査員を務める

 

発行日           2011.12.20. 初版1刷発行

発行所           光文社 (新書)

 

 

村木さんが、岩倉具視の本を書く参考図書として読んだのを聞いて興味

 

 

はじめに

クラシック音楽は衰退しているというが、果たしてそうか

教育現場では、日本の隅々にまで行き渡り、ベートーヴェンやシューベルトを知らない人はいないだろうが、何がどう好きかと聞かれても的確には答えられない。ワインと私たちの生活の関係にも似ている

一体日本におけるクラシック音楽の占める位置はどこにあるのか。クラシック音楽の本質とは何なのか

ヨーロッパに生まれ、日本に移入され、わずか100年ほどの間に独特の発展を遂げたのが現在の日本のクラシック音楽で、深く根を張ったかのように見えるが、咲いた花の形質はどこか異なる。なぜなのか、どこがどう違うのか、違いがもたらす結果とは何なのかを解明するのが本書の試み

クラシック音楽の情報は楽譜の中にしかない。楽譜とは一葉の紙に書かれた記号であり、それを音楽として作り上げるのは作曲家が残したメモに頼るしかなく、作曲家の死後は時間と共に様々な解釈が出現してゆく

ヨーロッパ音楽の規範になるビート(拍節)とは何か。日本音楽との決定的差異は何か

 

第1章        本当はアフタービートだったクラシック音楽

l  ウィーン郊外のスタジオで

コンピュータを使って音楽を創るピンク・フロイドと協同作業して気付いたのは、1拍目を強拍、2拍目を弱拍と習ったが、ジャズやロックでは逆で、2泊目にアクセントが来る

これをアフタービートUp Beatというが、クラシック音楽もアフタービート

日本では必ず1拍目から始まるが、クラシックでは休符から始まる音楽が一般的にある

バッハの《無伴奏ヴァイオリンのための3つのソナタと3つのパルティータ》の全32楽節のうち半数は休符から始まっている

 

l  行進曲は左足で踏み出す

西洋音楽は2拍目を強く演奏するので、2泊目に強く踏みやすい右足を持ってくるために行進は左足から始める

洋楽がもたらされる前の日本では「なんば歩き」といって、右手と右足が同時に出た

 

l  ベートーヴェンが聴くロック音楽

ベートーヴェンが、しばしば楽譜にアクセントを書き込むが、それが決まって1拍目で、わざわざ1拍目にアクセントを書くのは、通常の演奏がそうではないからで、音楽に勢いをつけるよう回転させるために後ろから押す

ベートーヴェンの《運命》も八分休符から始まるアフタービートで、熱狂的に迎えられたのはヨーロッパにその素地があったから

 

第2章        革命と音楽

l  フランス革命とコンセルヴァトワール

フランス革命の前後でヨーロッパの音楽は大きく変質――貴族と男性だけのものから、一般市民や女性たちにも広めるのに貢献したのがコンセルヴァトワール(音楽院)

音楽院を作って保存しようとしたのは、ヨーロッパの音楽の伝統で、演奏家と作曲家の間の夥しい数の暗黙の了解事項であり、書き込む必要のない譜面上の指示などで、本質的な決まり事によって守られていた音楽が革命によって無教養な市民に渡るのを正そうとした

 

l  装飾のパラドックス――モーツァルトの場合

モーツァルトは、曲の中で装飾音をつけて演奏して欲しくない場合は、わざわざ普通の音符の羅列にしないで装飾音を使用して書いた

年代を追って作品を理解していくことは重要

 

l  狂気のクラシック音楽

バロック音楽以後フランス革命までの音楽は、主和音で始まって主和音で終わるという原則が守られている。調性も曲の中であまり変化しない。調の中での主和音の存在意義の大きさを明示しているが、革命後は、ロマン派の時代になってゆくにしたがって、主和音で始まらない作品が散見され始め、曲中でも調性が主和音の領域を超えて移り変わる

ハイドンの104の交響曲は全て主和音で始まるが、ベートーヴェンの《1番》は主和音で始まらない。そこには何か確信的な理由がありそう → 一種の狂気であり、それが一気に噴出したのがロマン派。人間の本態的な激情の発露

だが、現在に残るクラシックではその激情が消えて、刺激が失われてしまった。それはクラシック音楽に纏わりつく、本質とは全く関係のない権威主義がそうさせたのであろう

ブラームスのヴァイオリン・ソナタも、楽譜の冒頭にはvivaceと書いてありながら、一般的な演奏ではゆっくりと重たく始まっている

 

l  12音音楽とロシア革命

調性を離れた無調で音楽を考え始めたのは1907年か8年。意識的に無調で、12の音を平等に使ってシェーンベルクが音楽を書き始めたのがロシア革命の翌年の1918

シェーンベルクが抜け出そうとした調性音楽は、基本的に主和音で始まり主和音で終わる

和音進行の中にも厳格に決められた階級制がある。主和音に進行できるのはドミナント和音(属和音)とサブドミナント和音だけ。主和音の頂点に立つ音()は、神を意味する

12音音楽では、すべての音が平等に扱われ、これが音楽を支配するとされたが、そうはならなかった――音楽は社会体制を移す鏡のような存在で、スターリンが12音音楽を粛清の対象にしたのは、彼が目指したのが平等社会ではなく独裁国家だった証

 

l  禁止される音――当局が真に恐れたもの

クラシックでは音の歪み(FUZZ=さわり)を嫌う。歪んでは和音にならない

弦楽器の発祥は西アジアで、そこでは音を歪ませる役割をする機能がすべてについていたが、ヨーロッパへ渡るルートでは歪みが取れて澄んだ音になり、インドから中国・日本に来たものは歪みの機能を持ったままで伝播

 

第3章        (たわ)む音楽

l  古武術のようにヴァイオリンは弾けない

ヴァイオリンを弾く時も野球の投手が投げる時も、一旦弾く前、投げる前に撓むような一拍があって、投げる方向と逆の方向に腕を引く動作が起きる

17世紀頃の譜面は、すべての段の最後にレ点があり、段が変わったときやページを捲った時の次の音を示している(レ点の根元の部分で音を示す)。切れ目が休符のときや次が休符で始まる時にはレ点がない――当時の演奏家が常に自分の弾く音の1拍先を見て演奏したからで、ヨーロッパ音楽において全ての音は1拍前の準備によって弾かれている。音は準備なしに急に弾くことはできないし、弾いてはいけない

ヨーロッパ音楽の本質とは何か――先達の作法の最も特徴的で本質的なものの1つが「撓み」で、その連続が拍節を生む。撓みの連続とはゴムボールが弾んで進んでいくような様であり、スウィングなのだ

 

l  スウィングしないクラシックなんて有り得ない

本来拍節的な規則性を持たなかったアフリカ系米国人たちの音楽に、スウィングという規則性を持ち込んだのがヨーロッパ音楽で、デキシーランド・ジャズもスウィング・ジャズも多くはコケイジョン(白人)の音楽家によって始められている

アメリカでも日本でも、軍隊を介してヨーロッパ音楽が伝播したが、アフリカ系ジャズの演奏家が本領を発揮するのはその後で、1950年代のモダンジャズとそれに続くフリージャズ。これらの中にある自由さは、ヨーロッパ由来ではないが、ヨーロッパ音楽からの離脱がポピュラリティを失うことにもつながる

指揮者がオーケストラに出す指示は、奏者が弾く1拍前でなければならない。スウィングを示さないと第1拍が始まらない

クラシック音楽は細分ではなく、拡大されたスウィングに纏まろうとする。四分音符2つが纏まり、4つが纏まり、8つが纏まって小節線を超えたフレーズが形成されてゆくが、日本人はスウィングが苦手で、デジタルに拍節を細かく割って考え、細分化された細かい音符を正確に同一の長さ、音量、音色で弾こうとするので、スウィングが生まれようもないし、音楽にすらならない。細分化にばかり目を奪われるから、フレーズが聴こえてこないし、フレーズがないということはいくら正確に弾けても何も感じたものを主張していないか、何も感じていないに等しい

2010年のショパン・コンクールでは、出場81人中17人が日本人だったが、審査員は「アジア系の参加者の演奏は、音楽を何も感じず、ただ上手に弾いているだけ。頭で考えるのでなく、心で感じてほしい」と酷評した

ヨーロッパ音楽は、五線記譜法の開発により民族を超えて伝わり、多様な民族音楽の一般化に成功。その演奏形態の典型がオーケストラで、指揮者を頂点とする階級的組織をなし、権力的な機能性を持つ演奏形態は、ヨーロッパ音楽以外にはない

民族音楽には指揮者はいらない

 

第4章        音楽の右左

人間の右脳は直観力を扱い、左脳は言語や論理を支配的に扱う

日本人の場合、虫の声や風の音などの自然界の音を左脳優位で聴いていることは、「ミンミン」とか「ヒューヒュー」などといったオノマトペが日本語に多いことからも実感として納得できる。同様に邦楽器の音も左脳優位で聴いている

l  カタカナの功罪

「さんきゅう」と書いたら、「産休」「三級」などを思い浮かべるが、「サンキュウ」とあれば「Thank you」だろう。カタカナで表すことで英語を使った気になり、何か西洋風の概念の中に自らの思考を落ち着けているように感じるのは幻想。カタカナで表記してもあくまで日本語で、thの発音もなければyouの意味も飛んでしまい、英語話者の思考方法の根本が伝わらず、いつまでたっても日本語を基礎にした発想から抜け出せない

外来語のカタカナ表記が、日本人を外国語ヘタにした原因の1つ。他方、短時日に、そして大量にヨーロッパ文化を輸入し、広く人口に膾炙し得たのはカタカナのお陰だが、カタカナ表記による外来文化の輸入は、あまりにも性急に過ぎ、あまりにも浅薄。たかが言葉、されど言葉なのだ

 

l  左利きに音楽は出来ない――筈はない

ヴァイオリニストが右手に弓を持つのはなぜか――音楽を演奏することは表現であり主張であり、それらは言語をもって発案され構成されるので、これら左脳からの指令を実行に移すのは右手しかない。ヴァイオリン演奏において、表現上最も大切なのはボウイング

ボウイングとは、音をいくつものフレーズに分割し、様々に分割されたフレーズを弓で弾く技術で、連綿と続く音の連続を、いくつものフレーズに分けて構成し、分節して演奏することで、音楽に多様な躍動が生まれるが、ヨーロッパ音楽で表現上の決定的な要素を握るのは、左脳で思考されるフレーズ

右脳で聴く音楽を、なぜ左脳が構成し、主張し、表現するのか

左脳で構成し主張される音楽は、自己主張というエゴそのもので、そのエゴをヨーロッパ音楽で展開するために最も有効な手段がスウィング。ヨーロッパ音楽のリズムの全てが左脳から発せられている。そのリズムによってヨーロッパ音楽が世界を制覇してきた

左利きの人の言語中枢も、70%までは右利きと同じ左脳にあると判明しており、ポール・マッカートニーやチャップリンのように左利き用に弦を張り替えなくても、左手の器用さと、右手の主張とを併せ持つことになり天才になるかも

 

l  世界で唯一タンギングをしない国・日本

木管では両手の指を等しく使い、金管ではバブルの操作がトランペットのように右手の場合と、ホルンのように左手の場合がある

リズムを刻む場合や旋律のフレーズの開始を示す場合、舌でTDの発音をして息を吸い込む、すべての管楽器に共通するタンギングという技術がある

尺八や篠笛、龍笛も古典曲では一切タンギングしない――西洋の音楽が「自然」と対峙した「人工」の産物であるのに対し、邦楽は自然と融和した中で奏でられ、西洋的芸術には不可欠な自己主張の入り込む余地などないし、誰かに何かを訴えかけるものではない

 

l  邦楽器は何を語るのか

日本人の歌うヴェルディは、歌舞伎をヨーロッパが鬘を被ってやるようなもので陳腐だが、人類の交流という面からは意味のないことではない

伝統文化とは、閉じられた領域で起こり、排他的かつ保守的な性向を保ちつつその領域内で成熟し、成熟の果てにやがては異分子によってその囲いが破られ、崩壊してゆく運命にある。その崩壊の過程で、異種の文化と触れあうことにより、斯かる文化の排他性も、また、本質も薄められてゆく。そうやって閉じられた領域を出て、異種との混淆による新たな文化が生まれる予兆を孕みながら、拡散してゆく

伝統の中にいる人々からいかに冷笑されようとも、伝統の外から自らの意思で異文化を学ぶということは、人類に与えられた賢明なコミュニケーションの手段なのだ

日本の伝統邦楽も、戦後西洋現代音楽の影響を受け、西洋楽器のような使われ方をしたこともあるが、西洋楽器が人間が音楽で何かを話し、伝えるための饒舌な器具であるのに対し、邦楽器はピッチも音程も不安定で、邦楽器が作り出す音の世界は、「個に、主張する事を委ねず、自然そのものへの融解を示唆している」のではないか

「さわり」という非整数な倍音によるノイズをつけて、楽器の中に自然を持ち込んだ。即ち、旋律ではなく節を、休符ではなく間を、和声ではなく音色によって音を構成し、邦楽という世界を作り上げた

 

l  饒舌なヨーロッパの音楽

ヨーロッパ音楽において、喋るとはどういうことか。いつから、彼等はこうも饒舌になったのか、多分、旋律の確立に端を発しているのではないか

旋律がヨーロッパ音楽の中で揺るぎない地位を占めたのは、1600年頃より後。歌による演劇である世界最初のオペラ《ダフネ》が1598年フィレンツェで上演され、その前年ジョン・ダウランドが英国で端麗な第一歌曲集を編んだことなどが嚆矢。それまでにも大作曲家はいたが、旋律と呼ぶほどではない

音楽が宗教から人々の手に移ってゆくにしたがって、大量の旋律が生まれ、宗教の縛りから離れていく。そこには、人々の間にどうしても「歌」でなければ伝えられない様々な主張が生まれてきたからで、そうした「歌」の存立を担保したのがバロック音楽

宗教音楽を書いたバッハの作品には、テキストの内容を音楽に載せて聴衆に届けたいという、キリスト教の教義を超えたバッハ自身の主張がある

ある1つのパートに「歌=旋律」を書き、他の全てのパートはその伴奏に回るというシステムを確立したのがバロック音楽

 

第5章        クラシック音楽の行方

l  クラシック音楽は――多分――死なない

ヨーロッパ音楽にとって、閉じられた領域の1つがジェンダーで、元々男性による男性のためのものとして発展してきた

伝統文化とは、非常に頑迷で保守的、排他的なもので、平等や民主主義などという人類の英知が到達した概念の正反対に位置するもの

ヨーロッパ音楽でも瓦解の兆候はある――要である弦楽器の寿命、オーケストラという前近代的な雇用形態や健康上の問題(特に難聴)などが考えられるが、生き残っていくためには様々な妥協や受け入れが必要。日本人の椿姫でも受け入れる

 

l  音楽家への提言

文化としての晩年にあるヨーロッパ音楽を、本来の形でなるべく長く保存しようとする極めて保守的な立場からの提言

    譜面の選択――印刷された譜面は間違いのもと、できるだけ自筆譜にあたる。どの譜を選択するかでも、演奏者としての解釈が問われる

ブランデンブルク協奏曲第3番の第2楽章には和音が2つ書かれているだけ。自筆譜には、Concertoと記し16番のアラビア数字とともにフランス語で書かれた曲名(楽器編成だけ)のみで、この「第2楽章」にもAdagioとあるだけ

おそらくバッハはこのAdagioを独立した楽章と考える意識はなかったのだろう

バッハは他の器楽組曲にも楽章番号をつけていないところから、死後の写譜の段階で自筆譜を確認しないままに引き継がれてきたのだろう

    もう1つの外国語――五線譜というのは外国語であり、ヨーロッパ言語を基盤にした人々に共通な記譜法であって、世界共通言語ではない

ヨーロッパ音楽は、ヨーロッパ言語を基盤にしているが故にすべて基本的にアフタービートで、バルトークのように生涯かけてハンガリーの民族音楽を基盤にした作品を作り続けた場合はアフタービートが極めて少ない(ヨーロッパ言語の影響が薄い)

もちろん楽器も外国そのもので、例えばタンギングで、TDを発音するのは、アクセントとも音を大きくする事とも違って、フレーズに明確なコントラストを付加する

    現代の視点から過去を見ない――作曲家のいた時代に遡って作品を書いた背景を辿ることが重要。当時知っていたことと、知り得たこと、知らなかったことを的確に把握しないと、その作品の解釈は難しい

    ディジタルに諍(あらが)う――テクノロジーとアナログの関係に、視野広く目配りを利かせてほしい。曲想を考え閃くというプロセスがコンピュータによる作曲の場合はかなり排除される。文章を書く時でも同じことがいえる。コンピュータでは全く意味の広がりを持たないアルファベットやひらがなに無意識に手がいくのに対し、手書きなら漢字という多様なイメージと意味が凝縮された文字に「無意識に」手がいくが、使用漢字の決定は書き手の個性そのもの

同じ手書きでも鉛筆なら何度でも書き直せるが、ペン書きでは直せないので、書く前に考えなくてはならない。その量も質も鉛筆書きとは比べ物にならないくらい大きいはず。個に依拠した、膨大な量の正確な推敲力がヨーロッパ文化を支えていたものだったとしたら、そして、そうした文化の本質が今変わろうとしているのなら、人間の能力を超えた機能を持つコンピュータの存在が、実はヨーロッパ的な自我の強調からの解放に繋がる可能性はないのだろうか

個の存在に拘って創作の現場にいたい人間にとって、コンピュータで書く音楽から私という個が消えてゆくという連想はとても恐ろしい

 

第6章        音楽と政治

人類が調性音楽の持つ階級制に親しむことで、資本主義という大きな差別的なシステムを受け入れる土壌を、暗喩的にせよ、ヨーロッパ音楽が作り上げてしまったといえないか

かつて音楽の庇護者として、そのヒエラルヒーの頂点にいた貴族や宗教が、フランス革命以後その座を明け渡しただけで、資本という後ろ盾を得てヨーロッパ音楽はさらに勢いを増し、世界を席巻してゆくことになる。ヨーロッパ人たちの個(エゴ)の押し付け合いの先兵として機能したのが、ヨーロッパの調性音楽だが、エゴの張り合いからくる軋轢に対して本能的な危惧を抱いていたのがベートーヴェン

l  未来への暗示――ベートーヴェンは《第九》第4楽章にシラーの詩《歓喜に寄す》を使うことにより未来へ向けた2つのことを暗示している

1つは、楽章中ほどに”alla Marcia(行進曲風に)”と記してトライアングルやシンバルといった通常使用されない楽器を使っているが、それは単なる異国情緒の取り込みなどではなく、オン・ザ・ビートの音楽を書いたもので、その背景にあるのは、使用したシラーの詩が1803年の改訂版だったこと。改訂したのは1カ所のみ、「物乞いも領主の兄弟となる」から「すべての人類は兄弟になる」に変えた。もし、ベートーヴェンが、個のエゴを剥き出しにし続けなければならないヨーロッパ音楽がもたらす結末に一抹の不安を無意識的にでも感じていたのなら、その打開方法として、ヨーロッパ揺らいでない考え方によるアプローチをまさぐっていたのなら、1824年当時、後戻りしてしまったフランス革命のカッコ付きの平等思想よりも、さらに遠くを見据えた解釈も可能にせしめる改訂版にベートーヴェンが感応するのはむしろ必然のように思われる。「全人類」の象徴として、オン・ザ・ビートによるトルコ風マーチとも取れる音楽を書いたのではないか

もう1つ、ベートーヴェンが漠然と抱いたかもしれない、ヨーロッパ音楽への不安と警鐘は、4楽章の冒頭部分のバスソロの開始にある。全オーケストラの強奏で当時としては不協和音を8回繰り返し鳴らした後、バスに「このような音ではなく」と謳わせているのは、このままヨーロッパのやり方のみで音楽を書いていたら、必ず「このような音」の袋小路に突き当たり、ノイズでしかなくなる。そんなことが受け入れられるのかとベートーヴェンが警鐘を鳴らしているように思える

l  君が代を歌って戦争には行けません――左脳を損傷した人の話では、言葉を失い、論理的に系統立てて分類することが出来なくなると、「私」と「あなた」の区別がなくなり、巨大な浮遊感と共に世界が一つながりであるとの切実な実感、幸福感に包まれるという

君が代は、あなたとは違うように歌うことのできる旋律ではない。それは、自己主張するためにあるヨーロッパの音楽とは違う音楽だからで、君が代で行進は出来ない

戦争放棄を憲法で決めた唯一の国が、世界で唯一ヨーロッパの音階で作られていない国歌を持つのはある種の必然?!

 

 

 

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