国家の解体  塩川伸明  2022.2.24.

 

2022.2.24. 国家の解体 I II III ペレストロイカとソ連の最期

The Disintegration of a StatePerestroika and the End of the Soviet Union

 

著者 塩川伸明 1948年生まれ。東大名誉教授。東大教養卒、同大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。東大社会科学研究所助手を経て、東大大学院法学政治学研究科教授。13年定年退職

 

発行日           2021.2.25. 初版

発行所           東京大学出版会

 

はしがき

ユーラシア大陸の広い範囲を包括する巨大な存在であり、隣接地域も広大なうえ、特異なイデオロギーを掲げることによって世界の多くの地域に種々の影響を及ぼしていた。そのような特異な存在が末期においてどのような変容を遂げ、最終的には国家解体という帰結に至ったのかを探る作業は、近現代世界の理解にそれなりの貢献をなし得るのではないか、というのが本書を世に送るに際しての著者の期待

本書では、ペレストロイカ及びソ連解体という現象のうち、主たる検討の対象を連邦制及びそれと関連する民族問題に絞っている

空間的に言えば、ソ連中央のほか、かつてソ連を構成していた15の共和国全てに加えて若干の自治共和国、自治州をとりあげて、あわせて20余の地域を対象とする

対象時期は7年ほどだが、短期的変動が大きいため、いくつかの時期に分けて議論を進める

 

序章 ペレストロイカと国家の解体――本書の課題と構成

本書の狙い――ソ連が解体し、消滅したというでき後たが現代史において重要な位置を占める大事件であることは論を待たないが、この大事件に関して、同時代的観察・評論・現状分析が無数にあったのとは対照的に、距離を置いた地点からの歴史的研究はまだ乏しく、蓄積がない。ソ連解体に関する歴史的研究のための最初の礎石を築く試みとしたい

ソ連解体及びそれに先立つゴルバチョフ期のペレストロイカ(建て直し=改革)に関する歴史的研究が乏しいのは、1つにはペレストロイカの過程があまりにも多面的であり、小刻みな短期変動が目まぐるしかったことから、それをきちんと振り返ることを極度に難しくしていること、もう1つの事情として、ソ連という国がなかうなったのは当然のことで、そこには解明すべき謎とか驚きなどないという漠たる感覚があることも、研究への意欲があまり盛り上がらない一因。ただ、あるイデオロギーなり体制なりの欠陥が一般論として確認されたとしても、それでもって国家の解体が直ちに説明されるわけではなく、その具体的プロセスに関する歴史的解明は独立の課題として残る

本書は、最終的にソ連国家の解体に行き着いたペレストロイカの過程を、連邦制及び民族問題に力点を置きながら解明しようと試みるもの

東欧諸国も同時期に変革を体験したが、国家の解体を伴ったのはユーゴスラヴィアとチェコスロヴァキアだけ。大半の国々が国家解体を伴うことなく体制転換を経験したということは、体制転換と国家解体は論理必然的に結びついているわけではなく、相対的に別個の現象

1917年の革命でロシア帝国が崩壊した後、かつての帝国の領土の大部分が1922年末に再結集して成立したのがソ連――特異な「連邦」国家の特徴は、民族自決と統合、集権と分権という異なるヴェクトルの並存、緊張がその歴史を貫いている。相反する政策がしばしば取られたことがこの国の歴史に複雑な矛盾を刻印する。異なるヴェクトルの併存、緊張がもたらしたジグザグの過程を具体的事実経過に即して追跡することこそが歴史研究としては重要

「連邦制」の大きな特徴として、連邦構成共和国(15*)、自治共和国(20**)、自治州(8***)、自治管区(10****)、民族地区・村ソヴィエトという重層構造がある――種々の矛盾を内包しながらではあるが、ペレストロイカ前夜まで長期の相対的安定を享受していたにもかかわらず、種々の再編の試みを経て最終的な解体という帰結にいたる

*ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、モルダヴィア、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン、カザフスタン、キルギスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン

**ロシア16、グルジア2、アゼルバイジャン・ウズベキスタン各1

***ロシア5、グルジア・アゼルバイジャン・タジキスタン各1

****ロシア10

一般論として、「連邦federation」と言う場合には主権国家は連邦のみで、構成員は国家と見做されないが、「国家連合confederation」の場合は、個々の構成国家が主権単位で、「連合」は結合体に過ぎない

ソ連結成時に持ち込まれた「union」という新しい概念は、「連邦」を目指したが、ペレストロイカ期においては「union」の解釈そのものが問題とされた

本書の構成――3部に分かれ、第1部はペレストロイカの開始から急進化していく過程(198589年末)、第2部はペレストロイカの急進化が分極化と遠心化を強め、解体への勢いが増す時期(199091年半ば)、第3部がクーデタから解体に至る時期(19918月~12)

1部はさらに細分化される:

1985年春~86年春は、ゴルバチョフ政権最初期で、ペレストロイカ以前

1986年春から87年は、ペレストロイカが動き出した時期

1988年、第19回ソ連共産党協議会を機に政治改革着手

1989年春の人民代議員選挙でペレストロイカが新しい段階に入る

1989年後半には国内の政治改革進行。東欧激動、ベルリンの壁開放、「冷戦終焉」宣言

こうした動きが政治的分極化を進め、民族運動を刺激し、連邦再編問題が浮上

2部は、1990年~91年で、ペレストロイカ後半期で、行き詰まりが見え始めた時期

1990年、共和国ごとの選挙が行われ、新しい共和国政権が新たなアクターとして誕生

同時に、中央レヴェルでも複数政党制公認、大統領制の導入。経済面でも市場経済移行、国有企業の私有化が受け入れられ、事実上の体制転換の意味を持つ

全国レヴェルでの政治闘争を激化させたばかりか、各共和国の政権がそれぞれに独自の政治路線を取り、連邦制の問題を最重要争点として競合し合うという状況を生み出す。特にロシア共和国政権がエリツィンと「民主ロシア」に握られることにより、「ソ連vsロシア」という対抗図式が成立したのは致命的

政治的緊張の中でも、協調と和解が模索され、それがさらなる政治的分解をもたらし、その分極化の頂点が8月のクーデタ及びそれに対抗する「ロシアの革命」

3部では、政変以後の波乱と曲折に満ちた過渡期が展開され、最終的に国家解体という結論が諸アクター間の複雑な思惑の交錯の中で選択される

 

第1部        ペレストロイカの開始と展開

第1章        ペレストロイカの開始と初期の民族問題

本書の課題は、ペレストロイカ期ソ連における連邦制再編の試み及びそれと関連する民族問題がどのようにして国家解体に行き着いたかを各地域ごとの展開を踏まえつつ総合的に論じること。その前提として、ペレストロイカ全般の展開及びそこにおける連邦制及び民族問題の位置について総論的に概観しておく

 

第1節        ペレストロイカの開始――198587

19853月、ゴルバチョフがソ連共産党書記長に選出、大幅な若返りに変化の予兆

明確な改革の意思はなく、再活性化が期待された

象徴的な政策としては反アルコール・キャンペーン、経済面ではシステムを変えず合理化によって高度成長を目指す、初歩的なグラースノスチ(公開性)開始

外交面では、シュワルナゼの外相起用以降、階級的価値よりも全人類的価値優先の新思考外交を展開、軍事介入を正当化してきたブレジネフ・ドクトリンを事実上撤回し、冷戦終焉への道を準備し始め、アフガン撤退や軍縮交渉も始まる

1986年の党大会ではまだ、アンドロポフ期から続く「改善」の「加速」が中心的スローガンだったが、ペレストロイカという言葉が多用されるようになり、モスクワ市党委員会第一書記就任直後のエリツィンが幹部の腐敗を指摘したほか、中央委員選挙では再選率が90%近くから60%以下へという異例の展開もみられ、ペレストロイカへの転換点との位置付け

大会直後のチェルノブイリ原発事故への対応の鈍さへの反省からグラースノスチが拡大、ゴルバチョフが「ペレストロイカを革命といってもよい」と述べ、一気に改革が進む

「上からの改革」の動きに対し、「下からの動き」として象徴的なのが大量の非公式団体の登場、特に青年が多数参加し後の本格的な「野党」的政治運動に繋がる

86年末のサハロフの解放や87年初の政治犯の大量釈放も、「下からの動き」を後押し

1987年初の中央委員会総会が、政治改革の初歩的着手の第1歩――ゴルバチョフが民主化こそ「ペレストロイカの本質」としてその意義を力説、ソヴェト・党とも選挙における複数候補制導入を提案、法と市民的権利の重要性に触れ、政治改革への具体的施策を示す

87年の地方ソヴェト選挙では、早くも複数候補が出たり、単独候補が信任を得られず落選するケースもみられ、注目を浴びる

グラースノスチも、87年以降指導部内での亀裂が外に漏れるようになる――エリツィンが舌禍で解任されたが、失脚によって異例の「殉教者」に祭り上げられた

民族問題は、ペレストロイカのアキレス腱といわれ、ゴルバチョフも最大の失敗は民族問題への取り組みの遅れだと回顧している

多民族国家でありながら、ソ連時代は民族問題を解決済みとし、地域・民族ごとの独自利益要求が軽視され、旧時代から引き継がれたメリトクラシー(実力主義) 的、合理主義的発想の影響で、共和国指導者の地位を基幹民族からロシア人へと据え替えていったことが現地の強い反発を招き、騒擾事件に発展するなど政治情勢流動化の一員となった

民族運動の台頭が顕著だったのはバルト3国。白ロシア、ウクライナ、モルダヴィアなどでも知識人たちが民族文化、言語の問題を早い時期から取り上げていた

クリミヤ=タタール人の故郷への帰還及び自治復活要求運動は、ペレストロイカ初期以降の公然たる大衆運動の嚆矢――1944年スターリンによる適性民族の強制追放の犠牲者で、56年チェチェンなど5民族の名誉回復の際も除外され、67年の名誉回復後も帰還の許可取得は困難だった。86年体制批判運動への抑圧が緩和される中、指導者の解放もあって運動が一段と活発化、タブーだった新聞紙上での言及も現れる(→第7章第1)

1986年末のアルマアタ事件が、中央指導部の目を民族問題へと向けさせるきっかけとなり、そのための中央委員会総会開催の必要性が議論。安易な民族融合論を批判

 

第2節        政治改革の始まり――198889年前半

ペレストロイカが拡大し、急進化。重要なのは、経済改革から政治改革重視へと転じたこと。連邦中央レヴェルで始まった政治改革が共和国レヴェルへと波及し、連邦=共和国関係を複雑化

対外面でも「新思考」外交が本格化、88年にはアフガンから撤兵、レーガンの訪ソによる冷戦終焉、軍備の縮小が進められた

党機構が再編され、書記局が弱体化して党と国家の分離、党の国政への介入の抑制という基本方針が貫かれ、権力の重心が国家に移行し始める――憲法や人民代議員選挙法改正の草案が提示され、「ソヴェトの議会化」が進む

新制度での人民代議員選挙が行われたのは19893月――複数候補者による競争的選挙が広く普及したのを受け、翌年の共和国選挙は一層本格的な自由選挙となる

最大の注目はロシアで、党機構による反エリツィン・キャンペーンが逆効果となって、エリツィンが9割弱の得票で圧勝し、政治の世界に本格的に復帰

民族問題については、バルト3国を筆頭に早い時期から大衆運動が組織化され始め、各地に伝播。党協議会も民族問題の存在を認め、分権化を基本方針として打ち出す

憲法改正では、まずは連邦レヴェルでの政治改革、次に連邦=共和国関係の改革を進めるということで承認。バルトなどの主張に妥協した形をとったが、対抗関係はその後ますますエスカレートし、次第に言葉が通じなくなっていく

憲法改正を受けて、88年末から89年にかけて連邦制再編の論争が拡大、同盟条約問題が最大の争点に――1922年のソ連結成時には同盟条約が結ばれ、24年憲法の土台となったが、36年憲法以降忘れられた存在になっていた

1988年、連邦制再編の問題提起は、ソ連編入に際して同盟条約調印という手続きを踏まなかったバルト3国から始まる――党指導部と大勢は当初否定的だったが、90年に入って前向きになった時には、バルト3国は独立論が優勢となり、条約交渉に応じなかった

バルト3国の同盟条約案も、当初は再編されたソ連の中での改革を想定し、モスクワの反応の大勢も、従来の「形骸化した中央集権的フェデレーション」を「分権的な真のフェデレーション」に改革することを目標とした

多くの共和国で中央に対する不信が高まる中、あくまでフェデレーションでなくてはならないとすることは、民族運動の火に油を注ぐ結果となる

中央の対応で具体化されたのは、まずは経済の分権化、共和国のホズラスチョート(独立採算)化で、経済政策の重心を共和国に移行、多くの企業の管轄が連邦から共和国に移管

各共和国で、民族語を国家語とする動きが活発化

ゴルバチョフも、これらの動きを受けて、「我々が合理的な提案をすれば、人民は理解するだろう。政治的な核は、国家の維持、同盟の維持で、民族的主権を現実的な内容で満たさなくてはならない」と述べ、多くの深刻な問題を意識しつつあることを示す

連邦制の問題と関わって大きな注目を集めた論点の1つに、1939年の独ソ不可侵条約付属秘密議定書問題がある――ポーランドとの外交問題であると同時に、バルト3国、モルダヴィア、西ウクライナ、西白ロシアのソ連編入の正統性に関わる意味を持ち、特にバルト3国ではこの密約を糾弾する動きがあり、50周年に向けて論争が高まる

1988年、ゴルバチョフがポーランド訪問に際し、秘密議定書は原本がないことから、カティン事件と共に更なる調査の必要性を語るにとどめ、曖昧さを遺す

198811月のエストニアを先頭に、各共和国が独自の憲法改正、主権宣言に乗り出し、翌年5月リトアニア、7月ラトヴィア、9月アゼルバイジャン、11月グルジアと続く――いずれも共和国法の至上性を謳い、基幹民族の言語を国家語とする一方、一部ではソ連市民の自動的国籍取得を否認したり、独自通貨の発行の志向を見せたりした

これらの動きに対し、ソ連中央の基本的立場は、フェデレーション国家としての漸進的な分権化には応じるが、国家解体に連なりかねない動きは放置できないというもので、エストニアの主権宣言は連邦憲法違反で無効としたが、一方で宥和的な態度も示す

 

第3節        1989年後半

最大の出来事は、東欧諸国の一挙的激動、ベルリンの壁開放、マルタ会談での米ソによる冷戦終焉の確認

東欧のうち最も速く動いたのがポーランド――2月から政権指導部と在野勢力の間で協議が行われ、平和的・漸進的体制移行の方針が合意。6月の選挙では「連帯」が圧勝、9月には非社会主義勢力が主導権を握る政権が冷戦開始後の東欧で初めて誕生。ソ連は介入せず、ブレジネフ・ドクトリンの放棄を事実で証明

次いでハンガリー――複数政党制の公認、1956年の「反革命」を「人民蜂起」に見直し、ポーランド同様の円卓会議が設置され、平和的・漸進的な体制転換の合意成立。オーストリア国境の鉄条網除去から国境開放へと進み、東独国民の大量流出を誘引。東欧大変動の契機となる。11月の国民投票で、社会党と改称された実質共産党による政権維持という円卓会議の合意が僅差で否定され、共産党支配が終焉

東ドイツでは、10月にホーネッカーが退陣、11月にはベルリンの壁崩壊へと至る

チェコでは、10月から大衆運動が高まり始め、11月のビロード革命へと至る

ブルガリアや、ソ連・東欧圏とは距離を置いて独自の自主管理社会主義を標榜していたユーゴでも、急激な政治変動と体制転換の動きが進行

やや遅れて、12月にはルーマニア革命が勃発

11月末、ゴルバチョフはヴァティカンを訪れ、カトリック教会と和解するとともに、欧州安全保障協力会議CSCEを、NATO及びワルシャワ条約機構に代わるものと位置付けるよう提案。直後のブッシュとのマルタ会談で、冷戦の終焉を相互に確認

「ベルリンの壁開放」が東西ドイツの統一を一気に加速させるとともに、統一方式を巡る論争で、ソ連は一方的後退を余儀なくされ、「双方の和解」の体裁をとった冷戦終結合意も一方的な敗北へと様相を転じ、ソ連の内政、とりわけゴルバチョフの威信に大きく作用

東欧諸国の急変動は単なるペレストロイカの余波ではなく、それぞれに独自な内的理論を持つものだったが、従来の抑制を超えて一挙に急展開し得たのは、ソ連におけるペレストロイカの進展、とりわけブレジネフ・ドクトリン解除に負っていたからで、ソ連の動向の副産物という面があった。が、一旦激動が始まると、今度は東欧諸国の動向がソ連国内情勢に跳ね返る。東欧の社会主義体制は元々外発的なもので、定着度はソ連よりもずっと低かったため、ゴルバチョフの期待した「社会主義の改革」が現実化する余地はほとんどなく、一旦始まった変動は一挙に全面的な脱社会主義へと突き進んだ。それがソ連に跳ね返り、脱社会主義の波をソ連の中に持ち込むことになる

19895月の第1回ソ連人民代議員大会では、ゴルバチョフの対抗馬が議長選挙に立候補。その模様は全国にテレビ中継され、国民の政治的関心を高め、その後の政治の在り方に大きな変化をもたらす。大会で選出された最高会議は常設議会として活発な立法活動を始め、大衆運動の多様性を反映させ、行政府の牽制機構として機能

共産党組織の統制を離れた非公式の大衆運動が全国に登場、「人民戦線」などの名称で独自の運動を展開、政治的論争が先鋭化。各種の紛争が続発、暴力的な衝突事件も増え始める

大衆の政治参加増大という意味での「民主化」が持つ両義性は、「ポピュリズム」という言葉の広まりに反映されるが、この時期以降のソ連やロシアの文脈では、大衆迎合主義ないし「民主化」の負の遺産といったニュアンスで使われた――エリツィンは一面「民主派」の旗手と見做されながら、同時のポピュリスト的デマゴーグという性格がつきまとい、彼の評価の微妙さに反映

政治情勢の緊張の高まりの中で民族問題や連邦制問題も議論が高まったが、運動の担い手は多様で、相互に対抗し合うケースが少なくなかった。大まかな傾向としては、共和国指導者が自己の地位保持のために民族感情を利用し、大なり小なり民族主義化したケースが多く見られる――各地の共産党組織の変容、とりわけ秘かな民族主義的傾向には注目

ペレストロイカ前夜に密かに成長しつつあった各共和国組織の事実上の民族主義化と限定的自主性が次第に公然化し、連邦体制を揺さぶるようになっていくのがこの後の経過

1回大会ではほかにも、ソ連を条約的基礎の上で再編する可能性が示唆されたり、最高会議のメンバーの選出方法を巡って議論になったり、グルジアの民衆運動をソ連軍が弾圧したトビリシ事件の責任追及が行われる一方、大会の最中にも各地で民族間の衝突事件が頻発

憲法監督委員会選出は、連邦制国家構造の問題と絡むことで、民族問題とも連動――連邦立法と共和国立法の食い違いについて最終的評価を下す機関だが、より強い独立性を主張するバルト3国の反対で、まずは憲法監督法の草案作りから始めることとするよう妥協

独ソ不可侵条約問題調査委員会の設置――大会では秘密議定書問題が大きくクローズアップされ、特にバルト3国が早急な調査を要請。委員会は活動を開始し、秘密議定書の存在が事実上認められたが、結論は先送りにされたため、バルト諸国の強い憤激を招き、分離独立運動を一層急進化させ、翌年の選挙を経て独立宣言採択へと展開していく

大会では、ソヴェト的フェデレーションの改善、連邦構成共和国の主権強化、自治地域の法的地位向上などの課題が示されたが、それを具体化すべき民族問題についての問題意識は高まったが議論は深まらないまま、民族問題において正しい解決を見出さなければペレストロイカが失敗するという危機感だけが残る

9月の党中央委員会総会が採択した政策綱領では、分権化の方向を目指しつつ「分離主義」の高まりに歯止めをかけようとする二面的姿勢をとる。政綱の中で特に重要なのは、ロシア共和国の位置(後述)、自治共和国の地位(4層構造の撤廃要求)、共産党の組織構造(共和国党の自主性の拡大をどこまで認めるか)――中央委員会の部局として民族関係部が新設され、具体化の検討が始まる

ゴルバチョフも、「本物のフェデレーションが生まれ、社会経済情勢が改善されるなら、先送りとなっていた諸問題も解決される」と前向きに評価。言語問題については、共和国における国家語の必要性を認めたが、数十年にわたって作り上げてきたロシア語の全国的共有を破壊してはならず、言語問題が民族間の疎隔を引き起こすようなことを許してはならないと釘をさす

最初こそ、言語・文化・民族的伝統保持が問題とされていたが、徐々に政治化し、最終的にはソ連からの離脱と国家的独立に至るという動きが、特にバルト3国では急加速。中央は、共和国ホズラスチョート(独立採算)を認めて矛先を交わそうとしたが、時すでに遅し

全国レヴェルの改革を受けて、共和国レヴェルでの選挙制度改革が進められたが、政治的活性化の急速な進行を受け、多くの点で中央より自由化度を一層高めた制度がとられる――1990年の共和国ごとの選挙では、各共和国の独自性がより鮮明となり、従来の非民主的制度が盡く排除され、選挙の自由度を高める方向で修正されていった

198912月第2回ソ連人民代議員大会開催――共和国の選挙制度を自由に決められるよう、憲法の関連条文が修正・削除される

憲法監督法の議論では、意見の隔たりは第1回大会時よりも拡大、中央の側の部分的譲歩はバルト3国を納得させるには至らず、ゴルバチョフの態度も妥協を模索するもので、両極サイドからの攻撃に遭って威信は掘り崩されていく

不可侵条約の秘密議定書問題では、事前にその存在を認め、それを不法かつ無効と見做す方向で合意されており、40年のバルト諸国加盟問題に触れられていないことなどから異論も出されたが、責任をスターリンとモロトフ個人に帰することで決着

いずれの決定も、問題の根本的解決とはならず、さらなる論争と政治的対抗へと道を開くものとなる

 

第2章        バルト3

ペレストロイカ期における共和国自立化の先頭を切ったのがバルト諸国。ソヴェト化されてからの期間が他のソ連地域よりも短く、社会主義化があからさまに外発的だった上に、地理的・歴史的に西欧・北欧との親近性が高く、旧ソ連内では異例に「ヨーロッパ的」な性格を持つといった特徴がある。人口ではソ連全体の2.8%に過ぎないが、民族運動全体の牽引者としての役割を果たす

 

第1節        ペレストロイカ初期まで

リトアニアはかつてポーランドと共に強大な連合王国でカトリックだったのに対し、エストニア、ラトヴィアはドイツ騎士団領からスウェーデン領へと推移し、プロテスタント

1919年には、3国とも民族主義勢力主導の政権ができ、’20年相次いでソヴェト・ロシアと講和条約を結び、独立を承認された

1939年の独ソ条約の秘密議定書では3国ともソ連の利益圏とされ、ソ連は軍事的圧力のもとに3国と相互援助条約を締結、独立派維持したがソ連軍の駐留が認められた

1940年、独ソ戦間近の状況下、ソ連の圧力のもとでの不公正選挙により親ソ的な左翼政権が誕生、ソ連への加入を決議

戦後初期には反ソ武装パルチザン運動がしばらく続いたが、その際、戦時中の対独協力者はソヴェトからの報復を恐れ反ソ・ゲリラの中心となる一方、現地民族に属する共産主義者の多くは戦間期にソ連に亡命、戦後戻ってきて支配的な地位に就く

1953年スターリン死去直後に現地民族懐柔策が取られ、現地人登用が進められ、公文書でも現地民族言語を使う政策がとられた

1956年以降のバルトでは、ソ連全体におけるスターリン批判の干満と対応して、緩和と引き締めが交錯するなか、共和国第一書記の在任期間が長くなるにつれ、モスクワから距離を置いた事実上の自主路線をとることが可能となる状況が生まれた

教育度が高く、独自の文章語の伝統があって、ラテン文字を保持、教育における授業言語も大学まで民族語優位という特異性を持つ。国内の共産党総会でも民族語で討論された

50年代半ばに武装パルチザン運動は収束したが、異論ないし反体制的な運動は平和的運動が主流となって持続的に展開され、ペレストロイカ期の運動へと連続した点は特異

エストニアとラトヴィアではロシア語系住民の大量流入で、基幹民族の比率が過半数を僅かに超えるところまで減少し、民族消滅の危機感があったにもかかわらず、都市化が進んで工業化に伴う労働力を外国に頼らざるを得なかったのに対し、リトアニアでは80%近くが基幹民族で、都市化が相対的に遅れ出生率も高いところから外からの労働力補給の必要性が低かった。党員に占める現地民族の割合が3国とも住民全体における比率よりも低く、逆に代議員の基幹民族比率は高マリ、徐々に基幹民族が優位に立つ

民族運動の書記の争点は環境保存問題で、発電所の建設やバルト海汚染を標的にしていたが、1986年ラトヴィアで民族運動を牽制する趣旨の採決が行なわれた辺りから活発化

バルト民族運動の大きな焦点となったのが、様々な歴史的記念日における自発的集会で、特に独ソ条約の締結日の集会は盛り上がり、当局は西側の扇動と喧伝したが、87年には早くも経済的自立の構想が持ち上がる

ソ連共産党中央は、民族運動の盛り上がりを警戒、反ソ・民族主義行動への規制を指示したが、一方で急進民族主義者を弁護する見解も現れ始め、早い時期から後の大衆運動高揚へと向かう素地が見られた

 

第2節        人民戦線の結成及び主権宣言

当初の人民戦線は、「歌う革命」(エストニア)と呼ばれたように、広汎な住民間の一体感を保持、民族間の対立というよりも民族を超えた団結が前面に出ていて、共和国共産党も’88年相次いで指導部を刷新して民族運動よりの態度を示し、モスクワとの関係も何とか対話を通じた相互譲歩の合意形成がみられた

l エストニア――88年初め頃から、独自の民族・文化存亡の危機が叫ばれ、体制内改革ではあるが、移民流入規制や国家語化への動きが急加速。党指導部も好意的に静観したものの第一書記が大衆集会鎮圧のため中央に軍事支援の要請をしたため解任、跡を継いだのは現地育ちのエストニア人で、急速に党内民主主義化を推進、伝統的三色旗を民族のシンボルとすることを決定、共和国当局と人民戦線の接近が進む

l ラトヴィア――エストニアの動きに刺激され同様の動きが活発化、スターリン主義を批判し、「自由ラトヴィア」を標榜する大衆運動の出発点となり、共和国党第一書記のモスクワへの移動後に誕生した政権も改革を意識し、人民戦線の建設的な部分の包摂に努力

l リトアニア――同時期、異論派の動きが先鋭化、独自のペレストロイカ運動「サユディス」を提唱したが、まだ体制内改革に留まっていたが、889月の秘密議定書の記念日では、独立を煽る、より過激な自由同盟が大衆集会を呼びかけ、当局が弾圧した責任を追及され更迭、新たな指導部がサユディスとの提携関係を深めようとする

198810月、3国で一斉に人民戦線の創立大会開催

エストニアでは、共和国党指導部も体制内改革の運動として公認、相互理解を訴える。人民戦線の主張もソ連全体としてのペレストロイカ促進論で、分離独立論は否定

ラトヴィアでは、創立大会直前に民族語の国家語化が決まっており、人民戦線は民族の存続を大目的に、党との協力維持を重視し、民主的社会主義と人道主義の原則に基づく独自のペレストロイカを打ち出す

リトアニアでは、サユディスと党が協力して、ソ連の中での共和国の国家主権の確立を目指し、異常なまでの人気を博す

インテル(国際/民族際の意)運動もほぼ同時期に動きを開始――基幹民族のナショナリズムに対抗するロシア語系住民の運動で、国によって名称は異なるが、それぞれに組織化が進み、独立反対派として共和国内での政治対抗を煽る存在に。特にリトアニアでは戦間期にポーランド領だった地域で民族語の国家語化への抵抗が強く、サユディスに反発

 

第3節        人民戦線運動の拡大と独立論の高まり

1988年末のソ連憲法および選挙法改正(1章第2)に対し、バルト3国人民戦線は一致して反対運動を展開、公式権力をも巻き込み、エストニアでは11月にソ連共和国の中で最初の主権宣言採択に至るが、あくまで憲法で認められた「主権」の確認を要求したに止まり、ソ連内に留まる前提での同盟条約を要求。後に広まる考え方に比し相対的に穏健

連邦幹部会は直後に主権宣言を無効としたが、共和国主権保護のための措置を約束

89年に入ると共和国の地位を巡る議論は一層活発化したものの、半ば頃までは飽くまでソ連邦内での自立だったが、その間も分離独立を求める動きが次第に高まり、3月のソ連人民代議員選挙を契機に政治的急進化が進む

選挙での圧勝を得て、3国の人民戦線は民族自決に関する文書を採択し、獲得目標をエスカレートさせてゆくとともに、各共和国共産党及びまだその掌握下にあった当局も次第に急進化して、主権宣言、共和国憲法改正へと進む

中央は改めて民族問題の重要性を認識するとともに、各共和国指導部を支援して、急進派の排除を狙う

8月の独ソ条約50年記念にはバルト3国で人々が街頭で手を繋ぐ「人間の鎖/バルトの道」が行われ、民族運動は最高潮に達する。中央による過激派や分離主義者排除の声明も却って反発を買い、分離独立論が拡大していく

独立論は、予てから問題だった共和国内少数派の位置づけを深刻なものとし、国籍、選挙権問題、自治地域化などの争点が噴出――特にリトアニアのポーランド人地域では深刻

独立論は、国家レヴェルの独立と党組織レヴェルの独立という2つの側面――3月の代議員選挙敗北を受けて、各共和国党組織が国家的独立論に傾斜していくに伴い、党も独立であるべきとする考えが強まり、党中央との間で距離を置き始める

ソ連中央の対応は遅れがちで、とりあえずは経済的自主性に留め、年末には独ソ条約の秘密議定書の存在を認め不当かつ無効とする決定を採択したが、一層急進化した民族運動を鎮静化させることは出来ず、リトアニア共産党は先頭を切ってソ連党からの独立を決定

 

第3章        中央アジア

ゴルバチョフ政権最初期から、バルト3国とは違った意味で、複雑な状況が注目を集めた

社会経済的に恵まれず、連邦中央による再分配への依存度が高いだけに、その状況への不満は燻ぶり、時として激しい暴動となって表面化。外観的には従順かつ保守的に見えたが、実際にはかなり独自利害主張へと傾斜し、時間とともに表面化

 

第1節        歴史的背景

北方の遊牧民と南方のオアシス定住民はそれぞれに古い文明を持ち、複雑な関係を織りなしていたが、双方ともチュルク系(狭義のトルコ語と親近関係にある諸言語)の言語・文化の影響が及び、住民の大半がチュルク化した(一部ペルシャ語系もある)

並行して8世紀以降にイスラーム化が進行、大半の住民はムスリムになる

モンゴルやティムールが衰退した後、1819世紀にロシアと清が食指を動かし、19世紀には大部分がロシア領に組み込まれる

1917年の革命に際しては、現地大衆、ロシア人労働者、入植ロシア人農民などが複雑に絡み合い、民族運動とソヴェト運動が対立、20年代初頭までには大部分の地域でソヴェト勢力が主導権を握る

国家的制度としては、カザフ共和国とトルキスタン自治共和国がロシア連邦共和国の自治共和国として作られ、ロシア帝国の保護国だったブハラとホレズム(元ヒヴァ)には形式上独立の人民ソヴェト共和国が作られた

192425年の民族境界画定により、トルキスタン自治共和国、ブハラ、ホレズムは民族構成に沿って再編成され、ウズベク及びトルクメンという社会主義ソヴェト共和国になり、ソ連の構成共和国として成立。同時に、キルギス自治州がロシア連邦共和国内に(26年に自治共和国に昇格)、タジク自治共和国がウズベク共和国内に新設。29年にはタジクが連邦構成共和国に昇格。36年にはカザフキルギスも昇格し、計5の連邦構成共和国が誕生

ソヴェト政権は、住民統合のため相対的に宥和政策に転じ、「現地化」が成功して「バスマチ」と呼ばれた反ソ・ゲリラ運動は収束、中央アジアはある程度の安定を獲得

イスラム的習慣の排除や、遊牧民の強制定住化・農業集団化は軋轢を生み、大規模な飢饉と人口減少を招く。大テロルの一段落後、激烈な反伝統・反イスラーム政策も一歩後退し、中央による掌握を堅持しながらも、伝統と部分的妥協へと向かい、上層は統制、下層は伝統容認という二重政策がとられた

2次大戦ではタシケントにムスリム宗務局が置かれ、ムスリム住民統合の役割を担うとともに、戦後は中央アジアのムスリム統治に大きな役割を果たし、ソヴェト権力と宗教の妥協/癒着を象徴。戦時中は軍需工場が疎開、この地に工業を移植、戦後の工業化のステップとなるとともに、ヨーロッパ系労働者が増え住民構成を複雑化させる

ブレジネフ期は、長期にわたり地方エリートがそれぞれの地域で強固な地盤を築き、しばしば封建領主になぞらえられる事実上の自主裁量の余地を広げる

現地の政治家によって民族色の濃い政策がとられる傾向が次第に進行するとともに、現地民族エリートの地位の安定が縁故主義、部族主義、汚職と腐敗の構造を生み出すことに

1920年代半ば以降に進められた民族境界画定は、特定地域にそれぞれ1つの主要民族(基幹民族)を設定し、各共和国を疑似国民国家にしようとしたが、現実の住民分布は複雑

ペレストロイカ以前の中央アジアは、諸民族の平和的共存が通例

非基幹民族のうち最大はロシア人で、カザフでは40%とほぼカザフ人に匹敵、キルギスの20%と共に、民族問題の火種となる。特に大都市では、ロシア人の比率も上がる上に、人口比率以上にロシア語が優勢という状況も問題を複雑化

 

第2節        ゴルバチョフ政権最初期の中央アジア

中央アジアの封建領主化した現地エリートは、’85年頃一斉に更迭

1986年のアルマアタ暴動は、ゴルバチョフ政権下、政権更迭に伴う初の大衆暴動として注目――指導部身内による腐敗などから政権内部に亀裂が生じ、中央の裁定で第一書記が更迭され新たな第一書記が中央から推挙されたが、その人事に対する抗議の大衆運動が当局の強硬な取り締まりにあって暴動に発展。抗議するカザフ人大衆に対し自警団はロシア人という民族対決の様相を呈した。中央にも衝撃が走り、カザフ党組織の欠陥が次々に明るみに出され旧指導部は一掃、見せかけのカザフ人優先も廃され、民族問題への積極的取り組みが行われた

ウズベクでは、'83年の第一書記の死去に伴い、アンドロポフの腐敗撲滅キャンペーンにより中央の手によって共和国指導部の汚職・腐敗の摘発が始まり、大量の処分と人事刷新が行われたが、それはウズベク化の否定でもあった

他の3共和国でも同様の刷新が進められ、中央からヨーロッパ系の幹部が送られたことは、「外からのペレストロイカ」だったが、こうした中央からの揺さぶりはむしろ現地の反発を買って後退を余儀なくされる。アルマアタ事件はその最初の現われであり、ウズベクでも不当捜査への批判が高まる――現地の反発を受けて中央の介入は次第に弱められていくが、その大きな要因としては、現地エリートの既得権剥奪への抵抗が強く、結局主要なポストの大半は現地人の手に留まり、ペレストロイカ後期のこの地域の共和国主権拡大要求から最終的には独立に至る過程への1つの重要な背景となる

ペレストロイカ期にソ連各地で環境問題が注目を集めたが、その最大の例はアラル海の乾燥と縮小――世界4位の湖が’82年には流入水量がゼロとなり、塩度が上がって漁業が不可能となり、周辺への深刻な塩害を及ぼす事態に。流域の灌漑事業は成功した半面、政府機関による水資源・土地資源の利用における深刻な誤りが指摘

セミパラチンスクの核実験場の健康状態への影響も、やがてペレストロイカ進展の中で重要な政治争点となる

中央アジアでの乳児死亡率の高さも、ソ連全体の中で医療・衛生水準の低さの問題が浮き彫りに――量的指標における進歩の影で質がなおざりにされていたことが、’87年頃から注目され、中央から支援の手が差し伸べられたが、それがまた民族的軋轢を生む

 

第3節        ペレストロイカの展開と中央アジア――1989

中央アジアでは、経済的後進性から自立の展望がなく、政治指導者の保守性、在野の運動の弱さなどから、大衆的な民族運動は活発ではなかった

ペレストロイカの開始は、中央アジアにとってはいくつかのマイナスの影響をもたらす。ブレジネフ期に安定していた現地の権力構造が外から揺さぶられたことに対する反発が噴出、さらには経済改革への初歩的着手の中で失業問題が深刻化、所得格差拡大と相俟って、経済的不満を原因とする民族間の衝突・暴動の要因となる

政治改革の波及はソ連内で最も遅く、89年春のソ連人民代議員選挙は一部例外を除き旧態依然とした無風選挙だったが、ウズベクとカザフでは共和国の指導者が中央からの指名だったことに対する不満が蓄積されていたことから、現地民族が返り咲いた点が注目される――その後長く共和国を率いるカリーモフとナザルバーエフがこの時点で登場

両者とも、就任後徐々に民族主義寄りの発言を強め、過去の弾圧事件の見直しが進む

'89年央には各共和国で言語法が制定され、基幹民族の言語が国家語と規定され、ロシア語は「民族間交流語」という地位を保証

この頃からいくつかの民族間衝突事件が続発――ウズベクのフェルガナ事件、カザフのイーヴィ・ウゼニ事件はいずれも他民族排斥を目的としたもの。次いでタジク人とキルギス人の間の衝突事件

 

第4章        ハイアスタン(アルメニア)及びアゼルバイジャン

ペレストロイカの早い時期から種々の民族運動が起きて広く注目を集めたのが、南コーカサス(ザカフカ―ス)3国――アゼルバイジャン、ハイアスタン(アルメニア)、サカルトヴェロ(グルジア/ジョージア)

 

第1節        南コーカサス(ザカフカ―ス(ロシア語で「カフカ―スの向こう側」の意))概観

古くはペルシャと東ローマ帝国、ビザンツ帝国滅亡後はオスマン帝国が進出。アルメニアとグルジアは早い時期に独自の国家を持ち、国教としてキリスト教を受け入れ。アゼルバイジャンには古代アルバニア王国(バルカンの同名の国とは無関係)があったが、現在のアゼルバイジャン人と連続性があるかどうかは論争がある

l グルジアの自称は、民族名がカルトヴェリ、国名サカルトヴェロ(ロシア語はグルジア、英語はジョージア)4世紀にキリスト教を受容、独自のグルジア正教会を持つ。長らく独自の国家を維持、貴族的価値観が残り、商業などを卑しむ

l アルメニアの自称は、民族名はハイ、国名はハイアスタン。4世紀にキリスト教を受容しているが正教ではなく、独自の宗派たる聖使徒教会(アルメニア教会)を持つ。11世紀のアルメニア王国の滅亡以来国を持たない民族で、代わりに「ムスリム圏に住むキリスト教徒」の位置を活用してペルシャ・トルコとロシア・ヨーロッパを仲介する貿易商人として活躍、ザカフカ―ス全域にわたって経済を支配したため、同地域の他民族から反感を買う

l アゼルバイジャンは、言語はチュルク系、宗教はイラン同様シーア派が主流。帝政ロシアではタタール人、ソヴェト初期にはチュルク人と呼ばれた

ロシア帝国は18世紀頃からカフカ―スに食指、キリスト教徒のグルジア人やアルメニア人をオスマンやペルシャから守るとの大義名分で、各地域の上層部はロシア帝国の統治エリートに取り込まれた

アルメニア人はトルコ人と平和的に共存していたが、19世紀末以降両民族間のナショナリズムの対抗関係が強まり、第1次大戦でロシアとトルコが敵対関係になると、トルコはアルメニア人をロシアの手先として強制移住させ、大規模虐殺で一掃。アゼルバイジャン人はトルコ人と近い関係にあることから、アゼルバイジャンとアルメニアの対立にも発展

ザカフカ―スの諸政治勢力はロシアからの分離を考えていなかったが、ロシア革命に対抗するため独立論が高まり、3民族共同でザカフカ―ス連邦が創設されたがすぐに3共和国に分離、グルジアはドイツの支持を受けてしばらく存続したが、他の2国はすぐにトルコに占領。戦後トルコが敗戦国となり3共和国が復活したが、赤軍がアゼルバイジャンとアルメニアをソヴェト化し、独立グルジアとは条約を締結して国交を持つ。1921年露土間の講話条約により国境確定。3国も条約を承認

3共和国間で問題となったのが国境線。特に論争が長引いたのがナゴルノ=カラバフ(「カラバフの山岳地」の意)の帰属問題。山岳地に多く住むアルメニア人がアルメニア帰属を主張、現在はアゼルバイジャン内の自治州。外にグルジアにはロシアとの国境にアブハジア、トルコとの国境にアジャールの2自治共和国、コーカサス山脈を挟んでロシアとの間に南オセチアの自治州があり、アルメニアにはイランとの国境にナヒチェヴァン自治共和国が、それぞれ民族間抗争の妥協の産物として存在

ソヴェト政権下の192030年代のザカフカ―スでは、社会の近代化・工業化が進む中、「現地化(コレニザーツィヤ)」政策に伴い、基幹民族が優遇された。初期に形成されたザカフカ―ス連邦が1936年に解体されると、3共和国の相互の独立性が強まり、独ソ戦の時期には国民動員のための民族ナショナリズム感情利用策が取られ、特に戦後に在外アルメニア人の帰還運動が高まり、アゼルバイジャン人がアルメニアから追い出された

スターリン圧制はこの地でも惨禍をもたらし、生地グルジアではスターリンの死の3周年の葬列が治安部隊と衝突し流血の惨事に及び、体制批判が後の異論派運動の出発点となる

ブレジネフ時代に各地で批判的運動が始まるが、その最大のものはナゴルノ=カラバフの帰属問題だが、アルメニアにはナヒチェヴァンやジェノサイドなどもあってトルコを標的とした民族運動的色彩が濃かったところから、政権もこの動きをある程度容認

 

第2節        ナゴルノ=カラバフ紛争及びアルメニア=アゼルバイジャン関係

問題の発端は1986年頃。翌年欧州議会がトルコのEU加盟の条件にアルメニアの虐殺の歴史的事実承認を上げたことが、アルメニア人の運動拡大を刺激、ナゴルノ=カラバフ自治州のアルメニアへの帰属変更を求めて署名活動とデモが起こり、中央へも直訴

当初の要求は合法的・平和的だったが、次第に暴力化。その最初が87年のアスケラン事件で、デモ行進が死傷事件へと発展。88年にはアルメニアからのアゼルバイジャン人の追放が始まり、一部ではジェノサイドとなり、スムガイト事件ではカラバフのアルメニア人が多数死傷。中央の方針は帰属変更は認めないが文化・経済・社会政策の改善で対応するというのが基本で、アルメニア人の反感を煽るばかり

‘88年末にはアルメニアで大地震発生。両国から基幹民族以外が難民となって大量に流出

‘89年初にカラバフ自治州はソ連中央直属の特別管理形態に移行するが緊張は続き、同年のアゼルバイジャンの主権宣言では、カラバフを共和国の不可分の一部とされたことから、住民の不安が募る。米上院外交委員会がカラバフ州住民の支援決議をしたことも紛争をエスカレート、ソ連外務省は内政干渉だとして抗議、事態は抜き差しならない次元に入る

 

第3節        ハイアスタン(アルメニア)情勢

ペレストロイカ初期のアルメニアでは、環境問題(原子力発電所と湖の汚染)と指導部の腐敗という問題も顕在化

'87年のソ連共産党中央委員会で、ペレストロイカが空回りしているとの指摘がなされ、アルメニア指導部に激震が走る。腐敗した現政権に対抗して反体制運動が組織化され、ソ連中央がカラバフの貴族替えを拒否し、アルメニア当局も支持したことから、反中央・反共産党政権の大衆運動が次第に広がるようになった

この動きに対し、当初強硬だった指導部は、力による反対派弾圧政策の限界を認め、在野の穏健派による人民戦線形成に理解を示し、全民族運動が公認され、後に独立アルメニアの指導者となるペトロシャンなどが選挙で代議員に選出された

 

第4節        アゼルバイジャン情勢

アルメニアに刺激される形で、アゼルバイジャンでも大衆運動が勃興したが、一旦始まると短期間に急速に拡大したのが特徴

比較的安定していた政治情勢が緊迫したのはカラバフ帰属問題が契機。スムガイト事件で加害者とされたアゼルバイジャンは衝撃を受け、正常化に手を打つが、事態はエスカレートし、’88年末には各地で大衆集会・デモ・ストライキ・騒擾事件が頻発、そんな中で人民戦線の母体も形成

‘893月の選挙は従来通りの無風選挙で、まだ人民戦線の組織化が未発達だったが、年央には創立大会開催。穏健な体制内的運動として出発、徐々に反アルメニア的民族主義の色彩を強める

共和国当局も民族主義の高揚に押されて徐々に人民戦線に歩み寄り、共にバルト3国に続くソ連全体として4番目の主権宣言へと進むが、あくまで「ソ連の中での主権」との表現

大衆的民族運動は、’89年末に急速に高揚、イラン北部のアゼルバイジャン人居住区との結合や自主武装部隊の組織化などへと展開、各地で事実上の権力が人民戦線へと移行する

 

第5章        サカルトヴェロ(グルジア/ジョージア)

バルト3国に次いで強い独立の気運を特徴とする。19世紀初頭のロシア編入まで独自の国家を持っていて貴族の伝統が残り、1920年代にソヴェト・ロシアから一旦独立を承認されていることもあって、秘かな民族運動の底流が潜在的に持続、ペレストロイカ初期から表面化

もう1つの特徴は、少数民族による対抗関係が共和国内政治を複雑化させる重要な要因

 

第1節        背景――グルジアにおける民族問題

'89年の人口構成は、グルジア人70.1%、アルメニア人8.1%、ロシア人6.3%、アゼルバイジャン人5.7%、オセチア人3%、ギリシャ人1.9%、アブハジア人1.8

アジャール人はイスラーム化したグルジア人で、グルジア人に含まれる

グルジアにおける民族問題の端緒は、1978年の憲法改正における「国家語」の規定の扱いで、草案ではグルジア語を外そうとしたが、反対の大衆運動となり、国家語規定が復活したばかりか、国家語適用を拡大したため、オセチア人やアブハジア人の反発を招く

ソヴェト末期には、グルジア人比率低下を危惧したグルジア人民族主義者の他民族に対する警戒心が運動の背景となり、排他的言動が強まり、少数民族に強い脅威を与える

l アブハジアは独自の公国だったが、1810年ロシアの庇護下に入り、1864年には直轄になり、反ロシア蜂起鎮圧の過程で多くのアブハジア人がオスマン帝国に流出、代わりにグルジア人が入って、1989年の自治共和国の人口構成はアブハジア人17.8%、グルジア人45.7%にまで減少。事実上のグルジアへの隷属が徐々に進行して、1931年正式にグルジア内の自治共和国として発足。’77年知識人から「グルジア化」政策への批判が噴出、直接の敵であるグルジアへの対抗上ロシアへの庇護を求める傾向が表れた。当局がある程度妥協したため、却ってグルジア人の反発を招き、両者間に相互対抗感情が醸成

l 南オセチアは、山脈の南北にまたがって居住するオセチア人の自治州。言語の系統としてはイラン系、宗教的にはムスリムとキリスト教だがキリスト教徒(正教徒)が多く、そのせいもあってこの地域では例外的に親ロシア的。南オセチア人の大半は農民でグルジア人地主の下で働いていたため、革命期には階級闘争と民族的対立が重なり合う形に。1920年オセチア人の作ったソヴェト政権がグルジア政権によって鎮圧された際、大々的な虐殺や追放を被ったことがその後長らく「グルジアのジェノサイド」として記憶される。’21年には赤軍が来てソヴェト政権を樹立、’22年にグルジアとロシアの交渉によりグルジア共和国内の自治州として宣言。ロシア内の北オセチアとの統合論も出たが実現せず。当初こそ現地化が進められたが、次第にグルジア化が進み、独自エリート層の薄い南オセチアでは、民族紛争も起こらなかったが、基幹民族比率が66.2%と高かったことから、一旦紛争が起きると一気にオセチア人が結束して激烈な様相を呈した

 

第2節        ペレストロイカ開始とグルジア

当局の政策に批判的な運動の最初は、カフカ―ス縦断鉄道計画で、’86’87年に環境や史跡破壊の立場から反対運動が起き、次いで、歴史遺跡の大修道院に隣接する軍事演習場の移転要求を掲げる

新し社会団体もバルト3国に次いで早く登場、一部は創立が公認され、間もなく民族主義知識人の結集点となり、次第に急進化

'88年末のソ連憲法改正案を巡る全人民討論でも、バルト3国と並んで大規模な反対運動が見られ、次第に指導部も押されて中央批判が出始める。非公式団体による大衆運動・デモは、独立論や少数民族排除まで含んで翌年初のトビリシ事件へと発展

アブハジアでは建国10周年の’88年に、トビリシの民族運動に刺激されるように、民族間対抗の様相が緊迫化、アブハジア人民戦線結成の動きが始まり、自治共和国の指導部を巻き込んで、地位変更(=グルジアからの離脱)をソ連中央に働きか、在住グルジア人との間に緊張が高まる

南オセチアは、グルジア語化が民族運動のきっかけとなったが、目立った動きにはなっていない

 

第3節        トビリシ事件と民族運動の急進化

19893月ソ連人民代議員選挙は、一部例外を除き従来通りの無風選挙だったが、トビリシではアブハジアのソ連中央への接近を機に民族運動の中の過激派が先鋭化、連日の激しいデモに軍が出動、大規模な騒擾事件へと発展。中央への不信が一段と強まり、各種の政治運動が活性化。共和国党や指導部も在野勢力の圧力を受け民族主義的方向へ路線転換に乗り出す。年央には人民戦線創立、グルジアの完全独立を掲げる

グルジア最高会議幹部会も、1920年ソヴェトはグルジアの独立を承認しており、翌年の政権転覆はロシアによる侵略だと言い出すまでになり、独自色が打ち出される

11月のロシア革命記念日の祭典デモが拒否され、憲法が改正され実質的な主権宣言となる

アブハジアの民族間対立は中央の仲裁介入によって一時的に鎮静化、南オセチアでもトビリシ事件を契機に民族運動が一気に暴力化、グルジア人に対するポグロム(襲撃)も出現

 

第6章        モルドヴァ(ソ連解体前はモルタヴィア)

第1節        背景

モルドヴァ公国はロマンス語系の人々の国として14世紀に建国、同系統のワラキア公国と並立したが、オスマン帝国に圧倒され従属的な位置に立たされ、1812年トルコはモルドヴァ公国の東部、ドネストル川とプルト川に挟まれた地域(現在のモルドヴァ領土で、ロシア語でベッサラビア)をロシア帝国に割譲

公国西部は1859年ワラキア公国と同一君主を選んで同君連合となり、国民国家としての統一ルーマニアが始まり、近代ルーマニア語が創出された

モルドヴァ人は農村に集中、都市部ではユダヤ人とロシア人が優勢で、それがベッサラビアの民族意識形成を困難なものにした

ロシア革命と帝国崩壊の中で、モルダヴィア民族党が結成され、ロシア連邦化の中での自治を主張、民主共和国宣言、ルーマニアによる実質併合と変遷

1924年、ドネストル左岸(東側)に、ウクライナ共和国内のモルダヴィア自治共和国設立。ウクライナ人の割合が過半数を占め、将来のベッサラビア奪回の橋頭保となる

ソ連・ルーマニア間は1934年外交関係を樹立、正常化に向かったが、ベッサラビア問題は未解決に残り、ルーマニアのドイツ接近によって再度緊張

1939年、独ソ条約の秘密議定書を受けて40年ソ連がルーマニアにベッサラビアの返還と北ブコヴィナの割譲要求をのませ、従来の自治共和国と併せて「モルダヴィア・ソヴェト社会主義共和国」の樹立を宣言、一部地域はウクライナに吸収

2次大戦末期に、ソ連の巻き返しでベッサラビアは再度のソヴェト化を被り、その際ソ連共産党はモルドヴァ人の党員の大半を一掃、ロシア人による支配体制が確立

ソ連は、ベッサラビアを連邦内に留める大義名分として、ルーマニア民族/語との差異を上げたが、60年代に自主外交路線を取り出したルーマニアは、モルドヴァ人はルーマニア人の一部だと主張して両国間の政治的論争点となる

長期にわたってロシア人・ウクライナ人の流入が続いたため、基幹民族比率は64.5(’89)と高くない。民族語もルーマニア語との差異は微妙で、モルダヴィア語を話せなくても生活することは可能

沿ドネストル地域(ドネストル川の東)は、経済的に枢要の地域で、ソ連中央直轄企業が多く、人口構成もロシア・ウクライナ人が過半で、民族運動の素地は薄い

南部のガガウス人地域は、言語的にはチュルク系だが、宗教は東方正教。自治共和国化を主張した地域での同民族比率は1/2を下回る。エリート層が少ないこともあり、民族運動の気配は薄い

 

第2節        ペレストロイカと民族運動の展開

政治変動の開始は、他地域に比較して遅く、ブレジネフ末期の第一書記の中では最も遅く(‘89年末)まで残っていた

87年頃から指導部の威信が揺らぎ始めたのは汚職や腐敗

88年に入ると、言語問題を主要争点に、独ソ条約秘密議定書を巡る歴史評価問題もあって、民族運動の萌芽が見られる

89年央には、公認の人民戦線集会が開かれ、過激派の行動も増大

地域間・民族間対抗が高まる中、共和国内党指導部は中央との板挟みとなり、第一書記を辞任に追い込んで、初の基幹民族出身者が跡を継ぎ、民族運動に歩み寄る

ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊は、ルーマニアとの一体化を目指す勢力を力づけ、共和国内民族対立を激化させ、ソ連中央が独ソ条約秘密議定書の存在を認めたことは、その後の目標を「独立とするかルーマニアとの統合を目指すか」という論争の発端ともなる

言語問題で、ロシア語系住民のストライキ運動が最も先鋭化したのは沿ドネストル地域で、民族差別の問題に発展、自治共和国形成論へとエスカレートした

ガガウス人地域でも言語法批判が高まり、人民戦線に匹敵する運動体が形成され始め、自治共和国要求が本格化する

 

第7章        ウクライナとベラルーシ(白ロシア)

両者とも東スラヴ系の民族で、大まかには言語的、宗教的、文化的にロシアと近い

 

第1節        ウクライナ

資源(穀倉地帯、鉄、石炭)に富み、農業・工業共に盛ん

ロシアとの親近性が、親近感と反発の入り交じった複雑な感情を抱かせる

元々はロシアとポーランドの間に存在したコサックという軍事共同体

帝政期、ウクライナ語はロシア語の方言と見做され、同化も起きやすく、民族間の混合結婚も多い。特に東部、南部では相互交流と混合が重ねられた度合いが高く、「二重文化アイデンティティ」が指摘されたりする

ポーランド統治時代が長かったため、ポーランド文化の影響が大きい。ウクライナは元々東方正教圏だったが、ポーランドのカトリック改宗圧力との妥協として、教義はカトリックだが典礼は東方正教式という東方典礼カトリック教会(合同教会)が生まれ、特に西部ガリツィア3州に浸透し、同地域での独自性の根源をなす

1654年のペレヤスラフ協定で、ドネプル左岸(東側)をポーランドからロシアに統合させたのをもって、ロシアの歴史家はウクライナの自然な保護者がロシアであることの始まりとするが、歴史的認識のずれがある

1783年、ロシア帝国直轄の県に分割され、18世紀後半のポーランド分割で大部分がロシア領に。西端部はオーストリア領となり、第1次大戦後はポーランド領、39年に初めてソ連領となったこともあり、ロシア/ソ連領の歴史が浅いことからウクライナ民族主義運動の拠点となる

1次大戦中はドイツやポーランドとの戦争の舞台となったが、戦後ソヴェト派が優位を確立し、ウクライナ社会主義ソヴェト共和国を設立。ロシアとは別個の国家となり、互いに密接な同盟関係にあるとされ、22年には共にソ連という同盟国家を形成

ソ連の現地化政策の下、ウクライナ化が進められたが、急進的なロシア否定は非難され、’32’34年の大規模飢饉で大きな打撃を受けたが、’39年の独ソ条約の秘密議定書に基づき赤軍が西ウクライナに進撃し、ウクライナへの統合を決定、さらにルーマニアから北ブロコヴィナとオデッサ南西部を獲得して領土を拡大

41年独ソ戦開始とともにナチスがウクライナ全土を占領、過酷な収奪で農民の支持を失った後、44年には再びソヴェト化され、ウクライナ民族主義者の地下抵抗運動がしばらく続いたが、宥和策として白ロシアとともに国連の一員という地位を付与され、名目的だが独自の外交権を持つ体裁をとる。'54年にはロシアからクリミヤを譲渡

スターリン死後のウクライナは、現地人による統合が取られ、限定的自立性を獲得。指導部の要職も現地人が占め、秘かなウクライナ化が進められた

「モスクワによる支配」の側面と、限定的自立性及び体制中枢への積極的関与という側面の微妙な混合がウクライナの特徴

'89年のセンサスでは総人口5145万のうち、基幹民族比率が72.7%だが、母語をウクライナ語とする者は64.7%に留まり、逆にロシア人は22.1%だが、ロシア語比率は32.8

西部はウクライナ人比率、母語比率とも90%を超えるが、東部・南部ではロシア人比率が半数に近く、ロシア語化が自然なことと考えられていた

人口1割程度の西部で、早い時期から尖鋭な民族運動が始まったことは人口比以上の重みでウクライナ全体に影響を与える

民族運動の登場は他地域に比べて遅く、中央からペレストロイカの遅れを批判されても旧指導部は’89年まで留まる

l '86年のチェルノブイリ事故を軽く見せようとした指導部のやり方は、後に責任追及運動を生むが、長期的に体制批判的大衆運動を広げる1要因となる

ペレストロイカ初期の民族運動の中心論点は言語問題――'87年頃から議論が始まり、国籍法や国家語を目指したが、当初はあくまで体制の民主化とその中での自主権獲得が目的

‘88年央に人民戦線「ルーフ」(運動の意)結成が西から党の中級活動家も参加して始まる

西ウクライナでは'86'87年頃から、東方典礼カトリック及び独立正教会の合法化要求が始まったが、複合的な宗派間競合が地域差とも絡んで展開した点がこの地域では特徴的

党指導部は民族主義的発言に懸念を抱き、その傾向をますます強めるが、過激派への懸念を示しつつも民族文化発展に取り組む姿勢を示し、非公式団体の運動に弾みをつける

'893月のソ連人民代議員選挙では、「ルーフ」指導者たちが積極的に参加、一定の成果を上げ、指導部も穏健派取り込みの必要性を認識、直後の憲法改正に妥協案を織り込む

言語法が制定され、ウクライナ語での授業を原則として定めたことは、東部やクリミヤのロシア語系住民の不安感を招き、その後の大きな問題となる

'899月、「ルーフ」創立大会開催、9割以上がウクライナ人、代議員の半数は西部、1/3が中部選出で、東部・南部はわずかで、急進派に押される傾向を示す

西部では、東方典礼カトリックと正教会の対立が緊張度を高め、ゴルバチョフがローマ教皇の面談で教会間での解決を要請したこともあって、現場での教会間対抗が尖鋭化する

l クリミヤは紀元前から民族抗争の場となり、モンゴル=タタール勢力来襲後はキプチャック=ハン国領土となるが、1783年ロシアにより併合、クリミヤ=タタール人を追放

1917年の革命後、ソヴェト勢力が建国、ロシア・ソヴェトと連邦関係に入る形をとり、戦後の’19年にクリミヤ・ソヴェト共和国が宣言、’21年ロシア共和国内の自治共和国となる

独ソ戦期に一旦ドイツに占領されたが、’44年ソ連が奪回し、翌年少数民族を追放して「州」に再編。'56年被追放民族の名誉回復時クリミヤ=タタール人は除外されたため、彼らによる名誉回復要求が続き、'67年名誉回復された後も帰還は認められず、民族運動が続く

‘54年のペレヤスラフ条約300周年時に、ロシア、ウクライナ両国友好の印としてクリミヤ州をウクライナに譲渡。当時は両国とも独自性がなくソ連邦体制に忠実だったために問題にはならなかったがしたが、譲渡の背景の真相は不明で、後に取り消し論が台頭

‘89年時点の人口構成は総人口243万のうち、ロシア人67%、ウクライナ人26%で、タタール人は1.6%、ロシア語母語が83%、授業はすべてロシア語

民族紛争の火種はクリミヤ=タタール人の帰還問題。’44年の追放前は1/4程度いたため、名誉回復後は帰還が急増。当局の消極姿勢が民族主義者の組織化を招き対立が深まる

‘89年末、ソ連最高会議がスターリン時代の一連の民族追放を国際法違反の重大犯罪として弾劾、無条件の権利回復措置を約束。クリミヤ=タタール人も含まれたが、認められたのはクリミヤ自治共和国の創設だったため、ウクライナの民族化からは切り離されたが、少数民族問題の解決にはならなかった

 

第2節        ベラルーシ(白ロシア)

ロシア語では長らく白ロシア(ベロルシア)’91年国名改称法によりベラルーシになる

「ナショナリズムなき民族」と言われるように、特定の強力な民族的基盤を持たないのが特徴だが、元々はリトアニア・ルーシ(ルテニア)大公国の一部で、東スラヴ系のルテニア人貴族が使うベラルーシ語の原型が公式に使用されたが、16世紀末のリトアニア・ポーランド合同以降、ベラルーシ語は公用語の座を奪われ、ベラルーシ貴族の伝統は途絶える

18世紀末のポーランド分割により、ベラルーシはロシア領に移行、東方典礼カトリックはロシア正教会に復帰を強制。革命期に白ロシア民族運動とソヴェト革命運動が交錯、民族自決のスローガンが国際的に広まる中、白ロシアとして建国宣言したが、白ロシアとウクライナの領土を巡ってポーランドとソ連の戦争になり、白ロシア西部はポーランド領に編入。ロシア領の白ロシアは、スターリンの「現地化」政策により、独自の民族・言語の存在を認められ独立の共和国とされた

2次大戦でナチに国土を蹂躙され、大戦中の犠牲に対する代償の1つとして国連に議席を与えられた。ソ連諸民族の中では相対的に忠誠心が高いと見做され、ソヴェト体制の枠内で一定の自治を享受。指導部も現地人が占め、都市化も進んで生活水準も高い

‘89年時点の人口構成は、白ロシア人77.9%、ロシア人13.2%、白ロシア語=母語が65.6%、ロシア語=母語が31.9%。特に都市部の現実の言語使用ではロシア語が殆ど

l '86年のチェルノブイリ事故を軽く見せようとした指導部のやり方は、後に責任追及運動を生むが、長期的に体制批判的大衆運動の主要論点となる

言語問題や民族文化擁護の要求でも大衆的支持は広がらず、指導部も沈黙

‘88年後半、スターリンのテロル被害者の白骨が大量に発見されたのを契機に在野大衆運動が組織化され、翌年央創立の人民戦線の母体となる

'89年のソ連人民代議員選挙も、その後の憲法・選挙法改正でも無風が続き、言語法でも遅ればせながら民族語を国家語としたものの、ロシア語の地位保障に重点を置いた内容

 

第8章        特異な共和国としてのロシア共和国

帝国の中枢が、帝国維持コストを重荷に感じ、帝国体制に対する公然たる反逆や正面からの挑戦に至ったのはソ連末期の特異な現象

‘89までは、ソ連におけるロシアの位置という問題は表面化せず、断片的・暗示的な議論に留まっていたが、'90年ロシア共和国の人民代議員選挙を経て独自のロシア政権が成立すると様相は一変し、ゴルバチョフ(ソ連政権)vsエリツィン(ロシア政権)という対抗構図がソ連政治の中心的要素をなすにいたる

 

第1節        ソ連の中のロシア共和国

ソ連諸民族の相互関係を見ると、ロシア人の事実上の優位がありながら、ロシアの方が損をしているという感覚(=両義性)がロシア人の間に広まり、ロシア・ナショナリズム台頭の背景をなす。人口1人当たりではバルト3国の方が所得、生活水準、都市化度など上位にあり、各共和国の基幹民族優先原則もあって、ロシア人は被害者意識を持つ

行政機関や党組織もロシア共和国独自のものが不在ないし弱体だったことへの不満も、グラースノスチと言論自由化の中で噴出

ソ連体制の下で大国化を誇りとする親体制的ロシア・ナショナリズムがある一方、被害者意識が体制への不満に向かう反体制的ロシア・ナショナリズムもアンビヴァレントに併存。後者の最も尖鋭化したのがソルジェニツィン('74年国外追放)

ゴルバチョフ政権初期にロシア固有の問題が取り上げられることはほとんどなく、保守的(=体制肯定的)なロシア・ナショナリズムが、「西欧派」主導の改革に批判的な反応を示す

ソルジェニツィンの名誉回復請願は’908月に認められ、94年帰国

ペレストロイカ進展の中で、文化人の言動も次第に政治化の度合いを強め、ロシア共和国作家同盟('58年連邦組織とは別個に創立)はスラヴ文化擁護の観点からロシア・ナショナリズム運動の中心となる――88年頃から「ネオ・スラヴ派」的文化人たちが、西欧派知識人への激しい反発を表出。特に「反ロシア的」作品の掲載に対しては、非ロシア諸民族に「ロシア嫌い」が広まっているという被害者意識があった

'89年になると、政治の場でも他共和国の主権宣言採択に刺激される形で「ロシアの主権」という考え方が提起され、共和国党・KGB創設論が登場し、選挙戦ではロシア最高会議議長だったエリツィンがロシア共和国を自立的な共和国とすることを目標に掲げる

年度後半の共和国憲法改正、新選挙法制定では共和国独自の体制が確立されていく

 

第2節        ロシア内供の民族的自治地域

ロシア自体も他民族的「連邦」国家――’89年の人口構成はでロシア人81.5%。ソ連内には128民族、うち人口50万以上でも15に上る

非ロシア人地域は、自治共和国、自治州、自治管区とされる二重構造

自治共和国の連邦構成共和国への昇格問題が政治の表面に現れるのは89年以降

サハロフのソ連再編構想は、あらゆる自治地域の完全同権化を説いていたが、中央指導部は昇格に消極的

l ヴォルガ=ウラル地域(カザフスタン北西部の北側)は他民族混在地域で6つの自治共和国が混在。バシキールとタタールがムスリムで親近性が強く人口3.5百万を超え、ロシアと明確な差異があり、他は多数がキリスト教(正教)で人口も160万程度までと小規模

‘89年のセンサーではタタール人665(ソ連の民族中7番目)、内ロシアに552(ロシア内では第2)、内タタール自治共和国には176万在住――「タタールのくびき」(1315世紀の臣従)からいえば、元々タタールの土地の大部分がロシア領になった

タタールによる連邦構成共和国への昇格要求はたびたび出されてきたが、中央の側にタタール強大化への潜在的な危惧があったから

タタール自治共和国(後のタタルスタン共和国)の人口構成は、タタール人・ロシア人とも48.5/43.3%、母語統計でも47.1/46.6%と拮抗。全家庭の1/3が混合家族で、民族の所属は一義的ではない

‘88年頃から、ペレストロイカとグラースノスチの進行により、タタール自治共和国でも連邦構成共和国への昇格要求を中心に政治的活性化が見られる

l バシキール自治共和国(後のバシコルトスタン共和国)は、人口も多く、石油などの資源を持ち、経済的にも無視しがたい位置を占めたが、基幹民族比率が21.9%に過ぎず、ロシア人39.3%、タタール人28.4%を抑えて民族運動を突出させることは出来なかった

革命直後の1918年にはタタールと共同の自治共和国が宣言されたが、白軍撤退後は別個に共和国を作ることになる

‘89年には、連邦構成共和国化が現地指導部の正式の要求となる

l 北カフカ―ス(北コーカサス)は、「ロシアのバルカン」とも呼ばれ、極めて多数の民族が混在し、重層的な民族間対抗の見られる地域。ロシアの進出は1819世紀にかけて進行

ザカフカ―スがトルコやペルシャとの対抗上ロシアに頼ったのに対し、ムスリムの多い北カフカ―スではロシアの進出に対し抵抗が長く続いた。ロシア人も多く住んでいたが、その下位集団とされたコサックは特異な存在で、ロシア革命期にはしばしば赤軍と衝突、多くの犠牲を出したが、名誉回復後はこの地域の非ロシア諸民族の運動とは対抗関係に立つ

ペレストロイカ初期には目立った動きを見せなかった1つの要因は、各自治地域で複数の民族が1つの自治地域を作っていたことが大きい

l チェチェン=イングーシ自治共和国――両民族は親近性が強く(併せて「ヴァイナフ」と呼ばれる)19世紀ロシア帝国への編入に抵抗、ソヴェト期に入って別個に自治州を構成、'34年合同、36年自治共和国に昇格したが反政府的傾向が強く、その統合に手を焼いた政権が'44年に「対敵協力民族」として集団的強制追放に踏み切り、自治共和国も廃止

'56年、フルシチョフがスターリン批判で集団的追放に言及したところから、追放された諸民族の帰還が始まり、チェチェン人とイングーシ人による自治も回復されたが、共産党員比率も極端に低く、指導部はロシア人が占め、政治的統合度は長らく低位に留まる

‘89年ようやく初のチェチェン人第一書記誕生、主権宣言準備へと推移

北オセチアとの境界では帰属を巡って紛争が残る

 

第2部        ペレストロイカの急進化と政治的分極化

第9章        政治的急進化とその矛盾

ペレストロイカ全般の展開及び民族問題・連邦制問題の全体状況について論じる

1990年のソ連政治における最重要の出来事は、各共和国ごとに最高会議選挙が行われ、それぞれに異なった性格を持つ共和国政権が成立し、主権宣言を採択したこと

中でも、ソ連全体の中枢をなすロシア共和国にソ連中央政権と異なる立場をとる共和国政権(エリツィン議長)が成立し、主権宣言を発して独自なアクターとなったことの意味は大きく、以降〈ソ連政権vsロシア政権〉という未曽有の対立構造が成立

 

第1節        1990年夏まで

冷戦終焉が、「面子を失った壊走」となり、政治指導部の威信を失墜させ、選択肢を狭めた

90年前半の国際政治における最大の焦点はドイツ統一で、ゴルバチョフの立場は冷戦が終焉したからにはNATOもワルシャワ条約機構もなくなり、新しい全欧的な安全保障機構によってヨーロッパの安全保障体制が担われるべきもの

ドイツが西による吸収合併に向かい、東欧諸国では脱社会主義が顕在化し、ソ連の国際的地位を大きく弱めるとともに、NATOが東欧の大部分を飲み込む一方、ロシアをはじめとする旧ソ連諸国を外に残す形で新たな分断が訪れる

ソ連内部では、ペレストロイカの急進化が一層進行すると同時に、政治的分極化が強まる

複数政党制や大統領制が導入されたが、却って社会秩序の急激な解体と混乱拡大を招く

ロシア共和国で第1回人民代議員大会と共産党創立大会が開催され、ゴルバチョフ政権との対立が鮮明になり、ソ連共産党の地盤低下を象徴

1月のアゼルバイジャンでのバクー流血事件と、バルト3国の独立宣言が混乱に拍車をかける

3月に大統領制を導入、直接選挙を前提としたが、初代だけは例外で人民代議員による選出としたのが、ゴルバチョフの正統性を弱め、アキレス腱となる。各共和国でも大統領制を導入したため、ソ連邦統合の要になるとの思惑も崩れる

言語法によってロシア語をソ連領土における公用語としたが、同時に各共和国がそれぞれ国家語を規定する権利を認めたため、ロシア語の相対的地位低下を招く

国籍法も、それぞれの共和国の法によって定めるとし、各共和国の市民は同時にソ連の市民であることを強調、各共和国とも同等の権利・義務を持つこととした

連邦離脱手続法も制定

新たな同盟条約の締結

 

第2節        1990年秋~91年初頭

8月の湾岸戦争開始で、イラクとの間に太いパイプを持っていたソ連は独自のイニシアチヴによる政治解決を試みたが、効果を上げられないまま対米追随を余儀なくされ、ドイツ統一方式でのソ連側の後退と並んで、ソ連外交の敗北を強く印象付ける

10月、ドイツ統一実現。ソ連軍の完全撤退の諸経費としてドイツは120億マルクを支出したが、吸収合併の見返りという以上に、ソ連国内では、「金で勢力圏を売った」という反発を生み、ゴルバチョフ/シュワルナゼ外交への批判が高まる

東欧諸国からのワルシャワ機構解散論が急速に強まり、ソ連のイデオロギーに留まらない地政学的後退を意味し、ゴルバチョフの国内での威信失墜の大きな要因となる

国内では、ペレストロイカ急進化の副産物として各種の混乱と不安が増幅され、人々の方向喪失感覚が広がる――経済実態の悪化と物不足の激化が政治不安を煽る

同時に各地の大衆運動が暴力的衝突事件に発展、社会主義否定論が広まる

90年には市場経済移行プログラム作成を巡り論争――忌避されていた「市場」という言葉自体、資本主義とは区別して用いられるようになり、「私的所有」「私有化」も是認

連邦死守派の圧力が90年末に高まり、翌年初にはバルト3国における武力行使に発展

ヴィリニュス事件とリガ事件がその頂点で、特に連邦中央の実力省庁(軍・KGB・内務省)の強硬姿勢が示され、武力行使を強く糾弾するエリツィン・ロシア政権とゴルバチョフ・ソ連政権の対抗激化の要因ともなり、エリツィンはゴルバチョフ退陣を要求するまでに

 

第3節        1991年春~8

急進派によるバルト流血が正統イデオロギー保守の立場からの党中央批判に発展、両者の狭間にあって政治的中道を力説するゴルバチョフの支持基盤はごく狭いものとなっていく

ゴルバチョフ指導部への強硬姿勢を取り続けたエリツィンの側にも急進的な姿勢への批判が高まり、両者の歩み寄りを模索

3がつ、同盟維持に関するレファレンダム実施、バルト3国などボイコットの6共和国(グルジア、モルドヴァ、アルメニア)を除く圧倒的多数で支持され、翌月には「9(共和国)1(ゴルバチョフ)」の合意で同盟条約に向け前進するが、連邦中央指導部は、連邦政府と議会が頭越しに勝手に決められたことに反発を強め、8月のクーデタの導線となる

 

第10章     ロシア共和国

第1節        ロシア新政権の発足

19903月ロシア共和国人民代議員選挙により、共和国にエリツィン政権が誕生してソ連政権と対抗関係に入り、ソ連全体と区分されるロシア固有の問題への注目が高まる

野党的な選挙ブロック「民主ロシア」が形成され、より自由度が高く活発な競争選挙となる

旧ソヴィエト体制のもとでロシアこそが最大の被害者だったと捉え、ロシア・シンボルを利用、真にロシアのナショナルな利害を代表するとして、独自の共産党創設を含め、ロシアの自立性という観点を打ち出す

選挙結果は、特に大都市を中心に「民主ロシア」が圧勝、中央指導部にとって大きな打撃となる。「民主ロシア」は組織性や統一性を欠く緩やかなブロックではあったが、共産党に対抗的な立場の政治運動が議会に大きく進出したという点で、画期的な意味を持つ

5月の代議員大会でエリツィンが初代の最高会議議長に選出され、主権宣言を採択。連邦中央への対抗的な態度を示したことがソ連全体に強烈な衝撃を与える

「民主ロシア」の対抗勢力となったのが同時期に創設されたロシア共和国共産党

新生ロシア最高会議は、直ちに独自の法律作成に乗り出すが、しばしばソ連法と齟齬する要素が含まれ、「法律の戦争」に発展。ゴルバチョフとエリツィンの間で、連邦/同盟再編のイニシャチヴを巡る主導権争いが繰り広げられ、最終的に国家解体の最大の要因となる

連邦機関がロシアの自然資源を他の共和国や外国に売る協定をロシア共和国の了解なしに結んでいるとして、それらの協定の無効を宣言し、戦略物資取引に関する特別体制の導入に踏み切るが、連邦中央はこれに反発、ソ連大統領令でロシアの決定を無効と宣言

 

第2節        〈ロシア対ソ連〉の対抗関係の本格化

ロシアの立法活動の進展に伴い「法律の戦争」も一層深化――連邦再編の方向性を巡る論争と、国有企業の管轄をはじめとする経済管理上の権限争いが激化

土地や資源などを共和国所有と宣言し、接収に乗り出したため、国家秩序を揺るがしかねず、ソ連国家の基礎を掘り崩すようになる――一進一退で両者の対決が進む

両者の対抗は、テレビ・ラジオ局やKGB組織についても共和国独自の組織創設で顕在化

共和国内の政治闘争の焦点は新憲法制定問題――93年末制定までの複雑な道程の始点

「ソヴェト」「社会主義」の語を含まず、単に「ロシア連邦」とした点が最大の特徴

911月のバルト流血で両者の対抗関係が絶頂に――エリツィンが連邦の強硬姿勢に反発、事件の渦中にエストニアとラトヴィアに飛んで、それぞれを主権国家、国際法主体として認める国家間の関係に関する条約を結ぶが、同時にエリツィンの性急な越権行為に対する批判も高まり、特にゴルバチョフ退任要求のテレビ演説は却て反対派の反発を招く

 

第3節        転換と手詰まり――19913月以降

連邦に倣って共和国にも大統領制が広がり、直接選挙により各共和国で大統領が誕生

6月のロシアの選挙では大統領・副大統領のペア6組が立候補――ゴルバチョフは態度を明らかにせず、民主ロシアの支援を受けたエリツィン・ぺアが単独過半数を得て圧勝

エリツィン圧勝を受けて、ゴルバチョフも次期ソ連大統領選挙ではエリツィンの支援が必須となり、両者の歩み寄りがみられる

 

第11章     ロシア共和国内の民族的自治地域

第1節        総論

自治地域とは、自治共和国、自治州、自治管区の総称

6月のロシア主権宣言によりソ連政権vsロシア政権の対抗関係という前代未聞の構図が生じたことで、ソ連中央とロシア政権のどちらが自治地域を味方として獲得するのかという競争関係が生じ、ロシア内民族自治地域はその対抗構図の中に巻き込まれる

特に多くの自治地域を抱えるロシアにとって、その位置づけをどうするかは深刻な問題

ロシアの主権宣言と並行して、ロシア内部の連邦体制及び連邦条約の準備が進められた

ロシアの主権宣言の採択が、共和国内の自治地域の地位向上要求を誘発、エリツィンの自立を促す発言にも支えられ、次々に主権宣言を採択するが、共通しているのは連邦構成共和国への昇格要求で、あくまで連邦体制維持を前提としていた

ロシア共和国の新しい国制は憲法および連邦条約により確定されるが、どこまで自治地域の主権を認めるかで紛糾

 

第2節        ヴォルガ=ウラル地域――タタルスタン及びバシコルトスタンを中心に

タタール自治共和国でも地位向上=連邦構成共和国化の動きが顕在化

エリツィンも自治共和国を味方につけるために主権宣言の採択を支持、タタールの自主性を歓迎すると持ち上げた――バルトの流血に批判的だったエリツィンは、ソ連中央のような強圧的な姿勢はとらないと宣言

8月にはタタール・ソヴェト社会主義共和国/タタルスタン共和国と改称、主権国家を宣言するが、あくまでロシアの中でロシアと対等のパートナーであることを志向

ソ連政権とロシア政権の競合関係の中では、タタルスタン当局はロシア政権への対抗の反射的効果として、相対的にソ連中央寄りのスタンスを取り、タタルスタンはソ連の主体であり、ソ連の強化を目指すとし、ロシア大統領制導入のレファレンダムはボイコット

ソ連解体の危機を食い止める道は同盟条約の早急な調印だとして、3月のソ連維持レファレンダムでは圧倒的賛成を獲得、ソ連の同盟条約に直接かつ自律的に参加する一方、ロシアとの二者間条約も結ぶ態度を明らかにしたが、「9+1」では旧自治共和国は外された

バシキール自治共和国もタタールに遅れて連邦構成共和国への昇格要求を提示――ソ連及び刷新されたロシア連邦の主体であること、バシキール民族の自決権を主張し、10月には、現行領土での国家主権を宣言、「バシキール・ソヴェト社会主義共和国/バシコルトスタン」と改称、土地・資源は共和国の多民族的人民の所有とした

 

第3節        北カフカ―ス(北コーカサス)

1990年後半には「主権の波」が波及したが、この地域の特殊性として、複数の民族で1つの自治共和国・自治州を構成しているところが多く、現行の行政区分とは別に独自の「共和国」を作ろうとする動きが出てきて、一部地域では民族紛争に発展

公式政権に対抗する民族運動のうち、北カフカ―ス全域に関わるものとして重要なのは、カフカ―ス山岳諸民族連合――14民族が集まったが、実態は寄り合い所帯に留まる

ロシア革命後に一旦消滅したと思われていたコサック(カザーク)がペレストロイカの中で再生し、北カフカ―スの情勢を複雑化させる――「ロシアの守り手」を自任、ソヴェト政権初期のコサック絶滅政策への反省から、コサック再生運動が活性化し、ロシア共和国政権と共産党がそれぞれにコサックに働きかけ、コサックの政治的分岐が進行

北カフカ―スではムスリムが多数派で、オセチア人はキリスト教徒が多く、相対的に親ロシア的になる傾向がある

北オセチアはロシアの自治共和国の中では最も早く907月には主権宣言を採択、ロシアのレファレンダムをボイコット。グルジアと鋭く対立

チェチェン=イングーシ自治共和国でも、908月から主権宣言の動きが加速

1990年秋以降、イングーシ=北オセチアが領土問題で緊張。イングーシ人によるイングーシ共和国創設を宣言、エリツィンも正当性を認めたが、約束は不履行

4月、オセチア人とイングーシ人の衝突事件――ロシアの被抑圧民族復権法が採択され、追放以前の領土回復やかつての民族的=国家的構成体の復活を約束したことから紛争を煽る結果に。解決の目途がつかないうちに8月政変を迎える

 

第12章     バルト3

バルト3国は中東欧諸国と地理的にも文化的にも近く、社会主義化が外発的だった点も共通していることから、東欧激動の影響がこの地でとりわけ強烈だったのは当然

 

第1節        独立宣言へ――1989年末~90年前半

1989末~90年初、バルト3国は東欧諸国に倣って相次いで共和国憲法から「共産党の指導的役割」条項を削除し、複数政党制導入に踏み切り、既に共産党以外の政党が誕生

共産党も目標として国家の独立を掲げ、ソ連共産党からの独立へと向かう

先行したのはリトアニアで、1989年のうちに進行。ゴルバチョフはペレストロイカがソ連全体として推進されることの重要性を力説して分離主義に警告を発したが、共和国共産党は自主路線を進む独立派と連邦党残留派に分裂

ソ連共産党ではリトアニアに対する非難と同時にゴルバチョフの弱腰への批判が強まるが、ゴルバチョフは民主主義と意見の多様性が何より重要として、広く議論と団結を訴える

エストニアでも同様に共和国共産党とソ連共産党の関係が大きな問題となり、真の民主・主権国家実現が叫ばれるが、民主運動「自由エストニア」はあくまで漸進的な独立達成を目指す

ラトヴィアの場合は、あくまでソ連党の中での自主的な政治団体とした点が特徴で、リトアニアとは逆に、残留派が党大会を制し、それに不満な独立派が飛び出した

90年春には、3国とも新しい議会と政府が発足し、共和国政権として正式に独立を宣言

 

第2節        中央との交渉及び共和国内対立――独立宣言~1990年夏

4月には、3国首相が会談、平等・互恵の原則に基づく経済統合、バルト市場創出、バルト協力会議の創設などを合意、ゴルバチョフに3国独立のための交渉を要求

ゴルバチョフは独立宣言を無効とする大統領令を発出、経済封鎖に踏み切る

コールとミッテランが調停に乗り出す

ロシアのエリツィンも2国間条約を目指して3国に接近、3国側もゴルバチョフに圧力をかけるために交渉に応じる

 

第3節        大詰め――1990年秋~918

バルト3国とソ連中央の本格的交渉のための準備が始まるが、問題は複雑化する一方

問題の1つは3国に駐留するソ連軍の地位や共和国内のソ連共産党組織の扱い

91年に入って、徴兵忌避者捜索のためのソ連軍がバルト各地に派遣され軋轢を増したうえに、物価引き上げが大衆的な反発を招き反政府運動へと発展

リトアニアに対し大統領統治導入を求める圧力の高まりを受けてゴルバチョフはリトアニア議会に対し警告を発したが、却って反発を招き緊張が高まる中、1月にヴィリニュスで政権転覆を狙う勢力の動きが先鋭化しソ連内務省特殊部隊が一部建物を占拠したことで一気に大衆を巻き込んだ流血事件になるが、ゴルバチョフが反政府勢力を非難することで政権転覆の目論見は挫折

ラトヴィアでは、親ソ連の社会救済委員会が物価引き上げに抗議する大衆運動を展開し政権打倒を目指し、ソ連内務省特殊部隊が侵入して第2の流血事件(リガ事件)へと発展

流血事件を経て、3国は独立の立場をより強固なものとするための事実上の国民投票へと向かい、投票結果をもとに3国はソ連中央との再交渉に臨む

3月のソ連レファレンダムの結果もあり、ソ連中央が初めて相互の対等性及び主権の尊重を確認したが、対話の試みを揺さぶろうとするソ連KGB・内務省の動きが不安を呼び、依然として多くの不確定要因を残していた

 

第13章     サカルトヴェロ(グルジア/ジョージア)

第1節        グルジア全体の情勢

元々体制批判運動がバルト諸国と並んで強く、1989年のトビリシ事件が拍車

グルジア共産党は、自らの生き延びをかけて、在野の諸団体と対話を進め、自由で主権的で民主的、経済的に自立した共和国という共通の目標を掲げる

ソ連の大統領制導入に反対し、1921年のソヴェト・ロシア軍導入を軍事干渉であり事実上の併合で無効だと認定し、独立グルジア国家復興の交渉を始めるとした

3月には民族解放運動の緊急会合が開かれ、独立回復を共通の目標として、ソヴェト占領軍の撤退要求を行うが、130以上の政党やブロックなどが存在し大同団結することなく激しく相互対立を続けたため、野党同士の対決はその後のグルジア政治のアキレス腱となる

共和国最高会議も憲法を改正し複数政党制を導入するが、共産党も在野勢力もそれぞれの内部分裂を抱え、政治情勢は混沌

世論に押されるように、共産党指導下にあった共和国政権内で独立論が高まり、ソ連中央との同盟条約案を巡る協議には他の共和国と共に参加

共和国内では、独立の主導権を巡る争いが、特に新選挙法を巡って熾烈化、一部暴力化したが、何とか秋には選挙に漕ぎ着け、自由グルジアが圧倒的多数を得、グルジア共和国として完全な国家的独立回復へ向かって動き出す

新政権は、改めて1921年の占領の無効を宣言、独立グルジアの憲法は法的に存続していたとして、ソ連憲法の法的効力を改めて否認。共産党は解体に向かう

913月のソ連レファレンダムをボイコットする一方、独立を問うレファレンダムを実施して圧倒的な支持を得、改めて独立を宣言し、大統領制を導入するが、独裁におる専制政治の気配を帯びる

 

第2節        グルジア内の自治地域

グルジア独立運動が濃厚な民族主義的傾向を帯びたため、共和国内の少数派の不安を誘うが、新政権は民族運動に強い反発を示す

8月の南オセチアでの主権宣言は、あくまでグルジアの一部であることを変えようとするものではなかったが、次第にグルジアからの独立を模索し始め、グルジアが同盟条約に参加しない場合にはソ連への直接参加を求めると主張

グルジアは南オセチアの離反の動きに対し、非常事態法を適用して力による抑圧をおこなったため、これ以降激しい衝突と流血が続き、グルジアによるジェノサイドから内戦へと発展

南オセチアがソ連中央に支援を求めたのに対し、ゴルバチョフは両者の停戦を指示したが、グルジアは内政干渉として拒否

南オセチアからロシア領内の北オセチアへの難民流出が増大したことを口実にロシア共和国が介入

4月にグルジアを襲った大地震で南オセチアはほとんど生存を保障できないような状態に立ち至る

アブハジアにおける民族運動の展開は南オセチアよりも早くから始まっていたが、住民中のグルジア人比率が高かったことから、妥協を求める動きが強まる

1918年グルジアが独立を宣言した年は、アブハジア人にとっては抑圧の象徴であり、906月にグルジアがソ連法を共和国の利害に合致しないと決議したのに対し、アブハジア人は民族の自決とグルジアとの対等の同盟を結ぶ権利の回復を主張、トビリシ(グルジアの首都)との間で緊張関係を高める

 

第14章     アゼルバイジャンとハイアスタン(アルメニア)

第1節        ナゴルノ=カラバフ紛争及び両共和国間紛争

アゼルバイジャンとアルメニアの国境にあるナゴルノ=カラバフのアルメニアへの合流要求は、ソ連中央からもアゼルバイジャンからも承認が得られないまま、89年には一方的な合同の既成事実化を画策してアルメニアが一体化した90年度予算を審議し始めたため、アゼルバイジャンは内政干渉だとして激怒。アゼルバイジャンではアルメニア人に対するポグロムが広がる

欧米に広く拡散するアルメニア人ディアスポラによってアルメニア寄りの情報が流されがちだったことも紛争の膠着化の一因

8月のアルメニア独立宣言は、ナゴルノ=カラバフとの再合同に関する共同決定に立脚するとしており、一体化した独立が想定されていたが、具体性には欠けていた

ソ連中央が調停に乗り出すが不発。アルメニアとアゼルバイジャンの間で、ナゴルノ=カラバフの自治を保障する方向で議論が進む中、アゼルバイジャンの武力行使が始まったため、ナゴルノ=カラバフはソ連中央に泣付く

 

第2節        ハイアスタン(アルメニア)情勢

アルメニア民族運動は、ソ連の中では比較的早い時期に始まったが、ナゴルノ=カラバフの帰属変更に限定されたもので、矛先をソ連中央に向けることはなかった。トルコとアゼルバイジャンという敵対的な国に挟まれ簡単にソ連脱退を唱えるわけにはいかなかったが、他の共和国の動きに刺激され、ソ連中央への期待が裏切られたことへの幻滅もあって、徐々に自主性を求める運動が急進化していく

905月の選挙では共産党の独裁から多数政党制に移行、民族運動の指導者テル=ペトロシャンによる政権が誕生するが、中央との友好関係を維持しつつ独立の達成を目指す

穏健派に対抗する非合法武装集団の活動が活発化して、中央からは武装解除の大統領令まで発出され、一旦は収まるが、その後もアルメニア政治の攪乱要因として残る

8月の独立宣言は、漸進的な「確立過程の開始」とされ、国有企業や国家施設の共和国への帰属、ソ連徴兵法の廃止、主権確立後の同盟条約への参加可能性を示唆

911月のヴィリニュス事件では、中央による暴力を糾弾し、リトアニア人民への共感を表明するが、連邦評議会には出席し、ソ連中央との関係維持には配慮

アゼルバイジャンとの武力抗争が高まり、ソ連中央の仲介に依拠

 

第3節        アゼルバイジャン情勢

89年末、アゼルバイジャンの南西部の飛び地のイランとの国境ジャララバードで紛争勃発

アルメニア人やソ連中央から不当な差別を受けていたと訴える人民戦線が立ち上がり、アゼルバイジャン各地で大掛かりなアルメニア人へのポグロムへと発展

1月にはソ連最高幹部会がバクーに非常事態を宣言、バクーに入ったソ連軍がアゼルバイジャン人民戦線に対し大規模な暴力を振るう大事件へと拡大

事件後大衆運動は一旦沈静化、新たに発足した指導部も共産党の傘下にはあるが、政策的には民族主義色が濃厚

最大の関心事は対アルメニア紛争――アルメニアの非合法武装組織による攻撃に対し、ソ連中央と結託してアルメニアを攻撃する一方で、国内の民族主義の圧力に配慮して共和国の独自性を強化主張する二面性を持っていた

民族主義の要素を取り込んだ共和国共産党の政権維持という対応は中央アジアの諸共和国と似たところがあるが、8月政変への対応では中央アジアの元共産党幹部による長期政権樹立のようにはならず、大きな政治変動を経験する

 

第3部         

第15章     モルドヴァ(モルダヴィア)

第1節        緊張の漸次的増大――1990年前半

902月の共和国最高会議選挙は複数政党制による自由度の高まりを反映して激戦

指導者は共産党から出て、ソ連の中での真の主権を目指し、多様なグループが円卓会議で結集されたが、当初「ペレストロイカを支持する民主運動」から生まれた人民戦線が徐々に急進化、モルドヴァ(ベッサラビア)民族主義からルーマニア主義に傾斜

ウクライナ国境に隣接する沿ドネストルでの自治運動も先鋭化、独自の共和国設立に動く

独立国家形成に動く共和国中央と、ルーマニアとの統一に傾斜する人民戦線急進派、さらにはモルドヴァ内での自治形成を主張するソ連寄りの三つ巴の対抗構図で展開

また南部ガガウス人地区でも、共和国中央が「領域的自治の権利はなく文化的自治のみが認められる」としたため、住民の態度が硬化、自治確立に向けた動きが活発化

 

第2節        緊張のさらなる激化――1990年秋~91年前半

90年秋には流血事件に発展――沿ドネストル、ガガウスでの共和国設立の動きが活発化し、共和国として独立する動きと激しく対立、11月には銃撃戦が勃発

ゴルバチョフが調停に入り、モルドヴァの連邦からの独立も、沿ドネストル、ガガウスの共和国からの離脱も不法とされ、両者相打ちとなったが、一触即発の状況は続く

 

第16章     ウクライナとベラルーシ(白ロシア)

第1節        ウクライナ

東欧激動が在野運動の活性化を促し、903月のウクライナ最高会議の選挙を機に状況が変化、一部には徐々に独立論が拡散。共産党も大衆の代表として印象付けるためソ連内での主権確立を打ち出す

野党圧勝の選挙結果を受け、共産党は複数政党制を受け入れ、ペレストロイカの立場に立つ他の政治勢力と建設的協力を打ち出すが、ソ連脱退論とは明確に対抗

「西部中の西部」ともいうべきガリツィア3州では独立論が特に強く、レーニンやマルクス像の撤去や、ソ連への併合に反対したゲリラたちの名誉回復が行われ、キエフにも波及

新しく発足した議会での最大の論点は、刷新されたソ連に残るか否か

7月の主権宣言は、ウクライナ民族の自決権の実現の基礎の上に立つ主権的民族国家だとする一方、共和国に住むあらゆる民族の市民がウクライナ国民を構成し、ウクライナ国民が国家権力の唯一の源泉だとして、その日を「独立宣言の日」と決定

ソ連法との関係は明示されず、共産党の役職から離れた党員が指導者となる

90年秋には同盟条約参加の賛否を巡って、反対派が過激化し、独立の機運が高まる

共産党内部でも「主権派」と「帝国派」の政治的対立が鮮明となる

3月のレファレンダムは、刷新されたソ連を支持すると同時に、ウクライナ自身の完全独立も支持、公然とゴルバチョフ辞任を要求

クリミヤは特異な歴史的背景を持つ――1989年ウクライナ言語法の成立により、クリミヤの多数派であるロシア語系住民がキエフ政権への抵抗を開始。そこへ第2次大戦で追放されたクリミヤ=タタール人の帰還問題が重なり、1954年ウクライナへの移管の無効を訴え、ロシアへの復帰、さらにはもっと遡って元々の自治共和国への復帰の運動が起こる

911月、「ソ連の主体かつ同盟条約参加者としての自治共和国再建」への賛否を問うレファレンダムが実施され、賛成派が圧倒的多数となり、キエフ政権はクリミヤをウクライナ内における自治共和国として復活させる法律を成立

クリミヤでは、ウクライナの結論に関わらず同盟条約調印を目指すとの大まかな合意が形成される

 

第2節        ベラルーシ(白ロシア)

903月の共和国最高会議選挙前夜には当局の態度への批判の動きが現れ、人民戦線も独自の動きを開始、非公式団体の集会が開かれる

選挙結果は、まだ党の締め付けの強さを反映するものだったが、相対的少数派にもせよ議会内に政権批判勢力が形成されたことはその後の共和国政治に一定の影響を及ぼす

7月には主権宣言――白ロシア民族の自決権に基づく主権国家であると同時に、あらゆる民族の白ロシア市民が白ロシア人民を構成し、主権の源泉をなすとしたが、ソ連の維持自体を前提とし、同盟条約早期締結論であって、全面独立論ではない

全般的傾向としては、あまり積極的な自己主張を強めたわけではなく、人民戦線などの在野運動も相対的に弱体という傾向が続く

913月、ソ連全体の価格改革の動きに対する広汎な反対ストライキが大衆運動として盛り上がりゼネストに発展した点は注目に値する

 

第17章     中央アジア

第1節        概観

1990年の共和国選挙から主権宣言採択、大統領制導入へと至る公式の制度に沿った政治過程の進行と同時に、民族間衝突・暴動の第2波という側面を見る必要がある

1989年の第1波に続いて、90年にも各地で暴動が発生

ペレストロイカ期の中央アジア政治の大まかな特徴づけとしては、指導部の保守性及び在野政治運動の弱さが挙げられるが、ペレストロイカに伴う政治的流動化はこの地域の政治指導部にとっても無縁ではなく、中央追随によらない自前の権威確立の必要に迫られて「主権」「自立」を掲げ、時として中央批判の姿勢を採ったりして、一定の体制内的自立性を示すようになった

中央アジアの相対的な経済的後進性から、この地域を全連邦的再分配に依存せざるを得ない位置におかれ、最末期に至るまで独立論が前面に現れることはなかった

ソ連からの離脱に反対が54%と、賛成の24%を大きく上回る

モスクワに対する自己主張を強めるようになったきっかけは90年の共和国最高会議選挙とそれを受けた共和国政権成立で、各指導部による秘かな民族主義化傾向及び対中央自己主張が一段と強まる

「主権化」及び秘かな民族主義化を象徴するのは、宗教及びそれと関連した伝統的習俗に関わる政策――1986年のイスラーム政策が見直され、イスラーム関連の伝統的習俗が復活

ペレストロイカの進展に伴い在野運動も微弱ながら芽を吹き始める

同盟/連邦維持については、一貫して維持論だったが、その内容については中央追随だけではなく、3月のソ連邦維持のレファレンダムにボイコットを呼びかけた指導者もいた

ソ連全体の再編の試みと並行して、中央アジア5共和国共同歩調の動きも現れる

902月、タジキスタンのドゥシャンベ事件は、非公式団体による共産党指導部排除を目指す大衆集会が過激化し、指導部が迷走したこともあって、その後の本格的内戦の導火線となる。イスラーム原理主義が動いた可能性が指摘される

906月、キルギスタンのオーシ市でのキルギス人とウズベク人の衝突事件発生、非常事態導入――住宅建設用の土地配分を巡る争いが、民族間のポグロム(襲撃)に発展。過激民族主義団体を規制する形で収めたが、その後の共和国の政治情勢に大きな影響を及ぼす

 

第2節        カザフスタンとキルギスタン(クルグズスタン)

両者とも遊牧の伝統を持ち、定住民族のウズベク、タジクとは伝統を異にする

イスラーム浸透の歴史が南部に比べ相対的に遅く浅く、在住ロシア人の比率が高く、彼らを敵対させる政策を取りにくいなど、両者に共通。中央アジアの中では相対的にロシア経由のヨーロッパ化の影響が濃い地域であり、相対的に「改革派」色が濃い

l カザフスタンでは904月、ナザルバーエフが大統領になり、徐々に共和国の自立性を主張し始める――ソ連政府にセミパラチンスクでの核実験の停止、住民への損害賠償を要求する一方、カザフ語を国家語とし、イスラームに対しても寛容な政策に転換

1986年のアルマアタ事件はペレストロイカ後初の民族暴動として注目されたが、その見直しが進む

913月のレファレンダムでは、指導部は基本的にソ連維持賛成だが、中央の意向にそのまま追随はしないという両義性があった。同盟案作成に参加し、主権国家同盟を提案

ロシア人比率が37.8%と、カザフ人比率と拮抗。言語法への反発や、一部地域のロシアへの帰属などを巡る民族間運動を誘発

l キルギスタンの1つの特徴は、民族構成の複雑さ――キルギス人52.4%、ロシア人21.5%、ウズベク人12.9%で、キルギス語を国家語とする言語法が民族間紛争を強めた

共産党への反発から大統領制導入には民族派からの強い抵抗があったものの10月には大統領制が発足

3月のレファレンダムでは圧倒的な賛成でソ連維持となるが、中央への無条件追随ではなかった

 

第3節        ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン

この3共和国は政治指導部の保守性を特徴とするというのが当時のモスクワの知識人の一般的見方だったが、モスクワ「民主派」の期待する「改革」とは異なる意味だがある種の変化は始まっており、それは旧支配エリートの主導権のもと「上から」起きがちだった

l ウズベキスタン――権威主義的民族主義への傾斜

大規模汚職事件などでがたついた共産党指導部は、89年にカリーモフが第1書記、905月に大統領となって以降安定。治安と秩序を重視する権威主義的統治手法と民族主義的要素の部分的吸収及び経済面での限定的新政策の組み合わせに特徴

2月の民主的な選挙で選出された共和国最高会議は、大統領設置の憲法改正を採択、経済的・社会=精神的自主性形成の基本コンセプトを採択

ソ連共産党の地域組織ではないとする観点に立つ独自の共和国党規約及び行動綱領を採択

同盟条約委賛成するが、すべての構成主体の同数及び同権の原則を強く主張

 

l トルクメニスタン――ペレストロイカ後期のニヤゾフ政権

中央アジアの中で最も貧困かつ保守的な共和国がトルクメニスタンとタジキスタン

共産党の統治スタイルはペレストロイカ時代になっても一向に変化せず、グラースノスチはトルクメニスタン語の出版物には及ばず。非公式団体も当局によって禁圧され、種々の不満は政治的表明のチャンネルを持たず、犯罪、麻薬、異民族敵視、暴動などの形をとって表出

908月にはようやく主権宣言草案が公表されたが、ソ連の一部に留まることを前提としたもの。民族運動にしても、基幹民族比が72%と中央アジアで最高だったため、深刻な問題に発展することはなかった

同盟条約案への態度は、基本的には賛成だが、個々の点では独自要求を提示

 

l タジキスタン――内戦への背景

902月のドゥシャンベ事件後あからさまとなった共和国指導部の内紛は、表面的には収拾されたが、その後も潜在的にはいくつかの不安定要素を抱えていた――住民の民族構成の複雑さと関係した民族間関係の錯綜の問題で、1つはタジク人とウズベク人の対抗感情であり、もう1つは東南部のパミール山地の諸民族間の問題

ペレストロイカの進展とともに問題が顕在化し、内戦の要因となる

ロシア語系住民の流出も、技術専門家や熟練労働者が多かったことから、経済への打撃となり問題化。タジク語を国家語とする言語法や、イスラーム国家化が影響

民主党が合法的野党として認められたのとは対照的に、イスラーム復興党は認められず

同盟条約締結自体には賛成だが、個々の点では一定の注文を付けた

 

第18章     8月政変

第1節        クーデタから政変へ

19918月クーデタとその失敗は、それまでの政治の流れを一旦断ち切り、新しい政治情勢への転換点となる。クーデタの首謀者たちの主観的狙いは、国家を解体から救うことだったが、現実にはむしろ遠心化を一段と加速、国家解体へと進む

8月、ゴルバチョフが休暇に入った翌日、クリュチコフKGB議長、パヴロフ首相ら首謀者たちは同盟条約調印の阻止を合意。ゴルバチョフに大統領権限の譲渡と非常事態宣言への署名を迫る

ゴルバチョフに拒否されると彼を軟禁し、ヤナーエフ副大統領を大統領代行として非常事態導入を宣言。公式声明では、単純な復古ではなく、飽くまで目標は同盟条約調印阻止であり、イデオロギー色は薄く、国家秩序維持を第一義とした

首謀者たちはいずれも古参の共産党員であり多くは過去に高位の党役職の経歴を持っていたが、クーデタ決行の固い決意を持っていたわけではなく、非常事態の導入の狙いが旧体制復古ではなく、改革継続の条件づくりとしての秩序回復と説明され、事後的にゴルバチョフの承認が得られれば、合法的なものとなるという思惑で行動に踏み切ったもので、ゴルバチョフの反応が予想以上に強硬だったために中途半端に終わる

非常事態は不徹底で、エリツィンのロシア政府は拘束されず、すぐにクーデタに対決する呼びかけを発し、言論統制も地下放送まで規制できず、ゴルバチョフが病気というのは嘘だと判明。軍もロシア権力との対決を躊躇って命令の実行を遅らせクーデタ実現を阻む

クーデタへの抵抗の中心となったのはロシア政府・議会を中心とする「民主派」と経済界

新興ブルジョアジーも反クーデタ勢力を支持、未成熟ながら「ブルジョア革命」の側面が現れている

ロシア最高会議ビルの防衛体制はそれほど強固なものではなかったが、ビル襲撃作戦の責任者の空挺部隊は任務を拒否して、軍と共にモスクワ都心部から撤退

首謀者らはクリミヤのゴルバチョフに会って釈明をしようとしたが拒否され、モスクワに戻ったゴルバチョフによって決起から3日後には逮捕された

クーデタ反対の運動は、当初はクーデタ以前への原状回復を目標としたが、独自の革命に転化――ソ連政権に対するロシア政権の勝利という意味でのロシア革命と、ソ連共産党の終焉という意味での反共産党革命という二重の意味があった

エリツィンが英雄となって、ゴルバチョフとの関係が一気に逆転。クーデタによってソ連の国家機関が麻痺したことに鑑み、ロシア領土内の全てのソ連執行機関をロシア大統領に従属させ、独自軍形成に向けた第1歩を踏み出す。モスクワに戻ったゴルバチョフのソ連閣僚人事にもエリツィンが介入

ロシアのソ連財産奪取という一方的な行動が他の共和国を刺激、それぞれに財産奪取を競い、国家解体への動きは一気に弾みがつく

大衆レベルでもロシア・ナショナリズムが噴出、ロシアの三色旗を正式の国旗制定までの公式的民族旗と定められ、ほかにも帝政ロシアのシンボルの大量噴出が見られた

ロシアのソ連に対する勝利が、ソヴェト体制の否定と同時に、古い(帝政)ロシアへの回帰を意味するという感覚が広がり、ロシア人大衆を結束させる一方、非ロシア民族からは警戒と反発の対象となってロシアと他共和国の関係を複雑化させる。ロシア側も各共和国の自決権を認めながらも同盟関係が清算されるなら国境問題を提起する権利を留保すると宣言。この宣言は、ロシアと長い国境を接するウクライナ及びカザフスタンへの領土要求を含意し、両共和国の激しい反発を招き、エリツィンの政治家としての資質へ疑問が投げかけられた。互いに現在の国境を尊重するとして収まったが、潜在的な火種としては残る

クーデタは実質的に共産党幹部が率いたもので、「民主派」の在野勢力の共産党に対する勝利は、ソ連共産党を短時日のうちに瓦解させた

ゴルバチョフはエリツィンとの会見で、キリスト教道徳を始め種々の哲学を吸収した社会主義の理念は捨てないとし、ロシア政権がクーデタと断固対決したことを称賛する一方で、反共ヒステリーや共産党員への魔女狩りを批判したが、共産党弁護論として一蹴され孤立

エリツィンは、事件の捜査終了までロシア共産党の活動停止を命じ、すべての共産党財産をロシア共和国のものとしたが、この直後から共産党の非合法化要求も現れだす

ゴルバチョフはこの流れに押されるように、書記長の権限を解除し、中央委員会に自己解散を勧告、地方組織も自らの運命を決するよう声明を出す。党中央委員会の書記たちは連名でゴルバチョフに党中央委員会総会の開催を要請したが、実現には至らず。各共和国では一斉に活動停止や財産国有化を決定

ゴルバチョフは、9共和国首脳と会談し、「91」協議の再開に乗り出し、各共和国の自己決定の原則を確認。急進派はソ連解体論への傾斜を強め、ロシア政権内で同盟維持懐疑論が高まる予兆となる

当面は、各共和国代表で構成される暫定的なソ連政府が形成され、エリツィンが病気療養で休暇を取ったこともあって、ロシアの突出が押さえられたものの、ロシア共和国がソ連中央を乗っ取ったような形は変わらない。単一の同盟、軍、共通経済空間を前提に、共和国間で調整が始まる

 

第2節        8月政変と各共和国

各共和国のクーデタに対する動きはまちまち――バルト3国だけは明確にクーデタと対決

どの共和国でも、クーデタ失敗後に指導部の責任を追及する野党の運動が高まって政治的流動化が生じる中、独立の機運が一気に高まり、一斉に独立宣言が出されたが、その内容やイニシァチヴを取った政治勢力などは国によって異なる

l クーデタとの対決――バルト3国、モルドヴァ、キルギスタン

バルト3国は、クーデタ権力が非常事態を導入し軍事介入することに強い懸念を示し、明確に対決する態度をとる――非暴力不服従運動を呼びかけたリトアニアとラトヴィアに対し、エストニアはクーデタに抵抗するロシア指導部への連帯を表明。エストニアとラトヴィアは独立回復への過渡期と自己規定していたが、即時独立に踏み切る

モルドヴァではソ連のコンフェデレーション化を要求していたが、8月政変を機に分離離脱論が一挙に高まると同時に、ルーマニアへの統合論も出て、ロシア語系住民などの反発から共和国内紛争を一層激化。クーデタと同時に、ソ連軍が非常事態を導入して統治権を握ろうとしたが、共和国政府は激しく抵抗、エリツィンとの連帯を表明。モルドヴァがソ連からの独立を宣言する一方、沿ドネストルやガガウス人地域はモルドヴァからの独立を宣言し、共和国内の地域間対立が一層高まる

キルギスタンは、当時の中央アジアで共産党第一書記が大統領を兼ねていない唯一の共和国で、クーデタに明確に対立。クーデタが峠を越した後、支持声明を出した共産党指導部への責任追及の動きが一挙に高まり、解散に追い込まれる。独立宣言と同時に、コンフェデレーションの基礎の上での同盟条約調印を目指すことを確認

l 南コーカサス(ザカフカ―ス)――の3共和国

サカルトヴェロ(グルジア/ジョージア)――政権の当初の対応を巡って解釈が激しい論争の的となり、後の内戦への背景となる。クーデタ指導部の指示に従って、グルジア独自の武装組織(ソ連中央から見れば非合法)の再編を支持したことがクーデタへの支持と見做され、ガムサフルディアのそれまでのカリスマ的威信が俄に揺らぎだし、野党勢力も動き出して騒然となったが、一旦は収まったものの本格的内戦へとつながる

アブハジア及び南オセチア――クーデタを支持したが、頓挫後は共産党のクーデタ支持を糾弾し、党活動の停止・財産の国有化を決定

アルメニア――指導部は平静を呼びかけ、賛否の態度表明は避けた。ロシアへの連帯を表明、中央の存在をなくした対等な諸国家による同盟/連邦再編を模索し始める

アゼルバイジャン――イランにいたムタリボフ大統領がクーデタ指導部を支持する発言を行い、現地のマスメディによって世界に伝えられたため、本人は後に否定したが在野勢力からの追及を受け、共産党をスケープゴートにして生き延びを図り、独立を宣言

ナゴルノ=カラバフ及びナヒチェヴァン――アゼルバイジャンの独立宣言が対抗的行動を刺激、原稿ソ連法尾では共和国がソ連から離脱するときにはその中の特定民族集中地域は自らの国家的地位を自主的に決定する権利があることに立脚して、ナゴルノ=カラバフ及びその周辺地区の共和国樹立を宣言、ソ連への残留を決定。アルメニアはアゼルバイジャンがナゴルノ=カラバフ共和国を認めるなら領有権を出張しないと表明したが、アゼルバイジャンは独立宣言を違憲・無効とした

l ウクライナ及びベラルーシ

ウクライナ――クラフチューク最高会議議長は、ソ連軍の非常事態宣言導入申し入れを退け、国民に平静を呼びかけるにとどまったが、賛否を明言しない曖昧性がクーデタ派に協力していたのではとの疑惑を生んで立場を苦しくする。独立宣言採択で巻き返しを図り、新たに導入されて大統領制でヘゲモニーを握る。独立宣言は、ロシアの民主革命の波及を避けるための保守的独立と見做され、全面解体の可能性を一挙に浮上させ、ロシア政権に大きな衝撃となり、後にロシア=ウクライナ対立として表面化

クリミヤ――指導部は平静を呼びかけるだけだったため、クーデタ支持との解釈の余地を残し、他方ロシア語系住民の在野勢力はロシア政府支持を表明。ウクライナの独立宣言は、クリミヤの自治共和国としての権限確定を急がせ、「ウクライナの中」での主権宣言を採択

ウクライナとロシアの領土紛争の争点はクリミヤの帰属にあり、この後も論争は続く

ベラルーシ――指導部は平静を呼びかけたが、事実上クーデタ支持だったことがクーデタ失敗後すぐに判明し、指導部批判が一挙に高まり、政治情勢が急速に流動化。指導部を更迭し、独立を宣言、共産党の活動停止・非政党化、連邦管理の財産の接収を決議

l 中央アジア

クーデタへの批判的な態度を相対的にはやめに示したのはカザフスタンで、他の3共和国はクーデタ派への共感があったように見える

カザフスタン――ナザルバーエフの声明は、人民に平静を呼びかけるものだったが、非常事態導入を否定、主権宣言や権力機関を有効とする内容はクーデタを拒否したと示唆

ソ連共産党への批判の声を上げたのも比較的早く、党中央から届いたクーデタ支持声明案への署名を拒否。クーデタ挫折後は共産党の後継党としてカザフスタン社会党の創立を決定。ロシアと立場を同じくしたが、ロシア指導部の国境改定発言にはウクライナ同様強く反発、エリツィンに抗議の手紙を送る

ウズベキスタン――カリーモフ政権はペレストロイカが行き詰まったとの認識に立ちモスクワ・クーデタ派の線に沿った対応をとっていたことから、クーデタに近いと見做されたが、挫折後は急速に態度を変更、旧体制との絶縁を強調して生き延びを図る。ソ連共産党指導部を糾弾、共和国党のソ連邦党からの離脱を示唆し、国家的独立も打ち出す

トルクメニスタン――指導部は態度表明を回避、非常事態宣言は共和国内では効力を有しないと宣言するに留まり、クーデタ後も国家機関と党機関が一体となって共和国主権の主張を強める

タジキスタン――指導部の態度は3日後に公表され及び腰のものだったが、失敗後の対応も国家機関と党機関が合同で対応に当たっており旧態依然。国家的独立を宣言するが、同時に主権国家同盟条約及び経済協定締結への賛成も表明

中央アジア諸国はそれぞれ独立宣言を採択したが、何れも同盟条約参加と両立するものとされ、全面的離脱を想定するものではなかった。モスクワ「民主派」は、各国の統治エリートが国内での共産党支配を続けようとしたと見做したが、各国とも国家機構の「非政党化」を始め、共産主義的スローガンを下ろしていて、共産党支配の継続というよりは、むしろ現地エリートの寡頭制支配という色彩を帯び、上からの資本主義手化を目指す「開発独裁」的民族主義政権という性格を帯びるようになっていく

l ロシア内部の共和国

元々ロシア内部の共和国は、ロシア政権との対抗上、ソ連中央と提携する傾向があり、ロシアの「民主派」政権からは「保守的」と見做されがちだったが、クーデタ時には日和見が多く、クーデタ失敗後にロシア政権の立場が強まると、ロシア内10共和国の指導者は次々にロシア政権支持を表明、ロシア連邦が単一不可分の国家として維持されることに賛成する、同盟条約にはロシア共和国が単一のロシア連邦として調印するべきとの声明を発表

自治地域の自己主張の試みは影を潜める

タタルスタン――指導部はクーデタに理解を示し、タタルスタンではソ連の法とタタルスタン共和国の法が有効でロシアの法は無効だと述べ、ロシア政権と対抗してソ連政権と同盟関係に立つ姿勢を示したため、失敗後は窮地に立たされるが、タタール民族運動主流派の支持を得て生き延びに成功

バシコルトスタン――クーデタ派の論理に同情的な一方、具合的な状況説明をしないロシア指導部への不信感を示したが、失敗後は非常事態宣言導入を回避したことが評価される

北オセチア――事実上のクーデタ支持だったが、クーデタ失敗後は直ちにロシア中央政権支持へと切り替え。政権批判の高まりに直結しなかったのは、南オセチアからの難民流入やイングーシからの領土要求など対外問題に悩まされていたから

チェチェン=イングーシ――独自の態度表明は回避したため、野党の追及を受け指導部の退陣を迫られ、最後は暴力的に追放、モスクワの調停によって暫定的な秩序回復に合意

 

第19章     過渡期 1991911

第1節        同盟/連邦再編の最後の試み

8月政変後のソ連政治の基本構図は、弱体化したソ連中央権力と、地位を急上昇させたロシア共和国、独立派共和国とその他の共和国といったみすくみの関係で展開

独立派共和国とその他の共和国が、ソ連とロシアの間で微妙な駆け引きを展開し、各共和国内の自治共和国や自治州などは最早ソ連中央の庇護を当てにできず、立場を強めた各共和国のもとで追い詰められながらそれぞれの進路を探る

クーデター直後、ゴルバチョフと各共和国首脳は、同盟条約の早期調印の方針を確認するが、中央アジア諸国を中心にフェデレーション論からコンフェデレーション論に傾き始める。欧米諸国も当面は成り行きを静観

クーデタで一躍主役に躍り出たロシアの「民主派」は、クーデタ終結を機に再び内部分岐を始める――同盟を維持し全体の改革をロシア主導で進める路線と、各共和国の独立宣言を抱え込むのを「重荷」と見做して、ロシア一国だけで改革を進めるべきとする路線の対立

ロシアの利害優先の観点から他共和国との調整を待たずにロシアだけで経済改革に乗り出そうとする態度は、他の共和国からの反発を招き、連邦における遠心力を一層強める

経済実績の急落で、政治同盟以上に経済統合の必要性が喫緊の課題として浮上、10月には10共和国の間で経済共同体条約締結

同盟条約交渉は、ゴルバチョフとエリツィンの間の交渉を中軸として進む。ゴルバチョフはコンフェデレーション化に抵抗し、緩やかながらも「国家性」を保持しようとしたが、一国路線に傾斜しだしたエリツィンに譲歩せざるを得なくなる

11月の国家評議会では、統一軍と外務省以外の大半の省庁は廃止され、財務省の中央機構を含めロシア機関に吸収されることが決まる。コンフェデレーション化が採択され同盟憲法は断念、各共和国の独立化の動きは止めようがなく同盟条約調印は不透明に

 

第2節        ロシア以外の共和国の動向

同盟条約への消極度の高い順に取り上げる

l モルドヴァ及びサカルトヴェロ(グルジア/ジョージア)

明確な独立論に立ち、同盟/連邦再編交渉にほとんど参加しなかったが、両国とも内戦的状況を抱え、他の共和国やモスクワの動向に目を向ける余裕がなかったというのが実情

l ハイアスタン(アルメニア)及びアゼルバイジャン

10+1」には参加したが、その後同盟交渉への参加はあまり積極的ではない

独立論が強く、両国とも内部の政治闘争が激化、指導部の同盟再編への態度を制約

同盟維持論のアゼルバイジャンも、ナゴルノ=カラバフ問題への不満からモスクワの会合には時折欠席

l ウクライナ及びベラルーシ

ウクライナでは独立宣言後の具体化の動きが急速に進み、大統領選挙を間近に控え、独立論の立場を明確にし、ソ連の中央機関の再生は問題外であり、コンフェデレーション的共同体しか問題になりえないと明言。ウクライナ軍創設も指示。経済共同体条約への参加も賛否が分かれたが遅れて調印。独立具体化の過程で問題になったのが共和国内のロシア語系住民の問題と、ウクライナに配備された核兵器の扱いの問題。ソ連の核兵器の15%に相当、ウクライナは非核国家化の方向を再確認し核兵器不使用について監督権を主張

ロシアとの2国間協議も続いたが、ロシアの帝国的思考の復活に警戒感を隠せず

ソ連の中のウクライナの中の自治共和国を想定していたクリミヤにとって、ウクライナの独立はクリミヤの意思を無視したもので、独立の動きが加速

11月のウクライナ・レファレンダムは、圧倒的多数で独立が可決され、大統領選挙もクラフチュークが圧勝。クリミヤでも、他地域に比して参加率・賛成票とも低かったが承認

ベラルーシは、政変後に国名を白ロシア・ソヴェト社会主義共和国から共和国ベラルーシに変更、国旗と国章も制定、主権国家確立の動きが始まる。元来ロシアとの関係が緊密だったが、ロシア政権の独裁的傾向にあって関係は微妙なものとなりつつある

l 中央アジア

それぞれ独自の主張を強めるなか、改革派がカズフスタン、キルギスタン、保守派がウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンと分けられるが、5共和国で団結の志向もあり、その後も統合の動きは続く

l ロシア内部の共和国

旧自治共和国のは、それまで後ろ盾となっていたソ連中央の壊滅的弱体化にあって、立場を弱め、同盟/ソ連邦再編を巡る交渉では旧自治共和国の扱いや位置づけが複雑な論争を招いていたが、政変後は完全に無視され、現実政治に影響を及ぼすことは出来なかった

ロシアの連邦制再編問題に関しロシア政権内に大きな亀裂があり、ソ連解体のイニシャチヴを取ったロシアが、自らの連邦制に関して同種のディレンマに苦しめられることを予示

ロシアの民族内で最も緊迫したのがチェチェンで、民族組織が独自の武装部隊を維持し、革命は新たな段階に入る――9月には「チェチェン共和国」としてソ連からもロシアからも独立を宣言したため、モスクワとの対立が一気に激化。ドゥダーエフが大統領に選出されるに及んでロシアも内務部隊を派遣したが、ゴルバチョフが支援を拒否したため衝突は回避されたものの、後の2次にわたるチェチェン戦争へと至る背景が形成された

 

第20章     ソ連国家の最期

第1節        スラヴ3国によるソ連解体決定

ウクライナ・レファレンダムの結果を受け、クラフチュークは同盟条約に調印しないと断言、ソ連全体に大きな衝撃となる

ゴルバチョフは、独立と同盟は両立するとし、主権国家として同盟拒否の権利を認めつつ、それは破滅への道だととしたが、エリツィンは独立する以上同盟は成り立たず、スラヴ3+カザフスタンによる4国同盟構想に戻ると宣言

ソ連の対外債権・債務の法的継承性に関する条約が15の連邦構成共和国とソ連中央によって12月調印され、15の共和国全てがソ連の法的継承者との考えに立って、それらとソ連が条約によって債権・債務の継承を確定するという形式をとる。夫々の取り分は、ロシア61.34%、ウクライナ16.37%、ベラルーシ4.13%、カザフスタン3.86%、ウズベキスタン3.27%、アゼルバイジャン1.64%、グルジア1.62%、リトアニア1.41%、モルドヴァ1.29%、ラトヴィア1.14%、キルギスタン0.95%、アルメニア0.86%、タジキスタン0.82%、トルクメニスタン0.7%、エストニア0.62(ママ)――実際に効力を持ったかは疑わしいが、12月時点でソ連国家の法的終焉が予期されていた事実は興味深い

12月にミンスクでロシア、ウクライナ、ベラルーシによる会合が開かれ、独立国家共同体創設協定締結、ソ連の解体が正式に結論付けられたが、それに代わるものの規定はない

ゴルバチョフはエリツィンから協定締結を知らされ激怒したが、政治目的での軍出動はあり得ないとして実力行使を問題外としたため、「戦わずして敗北」を物語るものとなる

ウクライナ最高会議は直ちに協定を批准したが、何らかの形の統合維持を目指したロシアに対抗して、完全解体と志向しており、多くの留保条件を付ける

ベラルーシ最高会議は、なるべく旧ソ連空間の統合を確保しようという方向性を示しながら、詳細の継続交渉を前提に批准に同意

ロシアではより複雑な問題を抱え批准に時間を要した――偉大な単一不可分のロシアの復活を目指す「愛国派」は、同盟自体は維持されるべきだと主張、ソ連の枠内で法治国家を創出するというロシア共和国の憲法にも違反すると指摘して抵抗したが、最後は大差で承認

ゴルバチョフも、他の共和国が共同体に合流するなら、「民主主義と立憲的統治の原理に忠誠を誓った人間として」、その選択を尊重しないわけにいかないとし、それが現実のものとなる

ロシア指導部はソ連国家解体の一方的既成事実化を進め、ロシアからソ連最高会議に派遣されていた代議員を召還し、ソ連最高会議の財産の保管および清算を決定、ソ連対外関係省もロシア外務省に移行させ、国立銀行廃止の具体的措置を指示

 

第2節        スラヴ3国以外の各共和国の反応

スラヴ3国の独走に対し、他の共和国、中でも中央アジア諸国の反応が注目されたが、大半は合流。旧自治共和国、自治州などは完全に蚊帳の外

l 中央アジア

ナザルバーエフは真っ先にエリツィンから3国密約を聞かされ、協定への署名を迫られたが、ソ連諸機関の清算などの合憲性を疑い署名を留保、主権国家同盟条約よりの態度を見せたが、同時にプラグマティストなので、エリツィンの勝利が確実になれば、3国共同体に合流する可能性を示唆。ソ連解体後は3国共同体統合強化論の代表者となった

同盟維持重視の観点から独立宣言を採択しなかったが、この時期に至って大統領に就任、諸共和国の中では最も遅く独立を宣言、国名も「共和国カザフスタン」と改称。あくまで共和国は平等で共同体を創立するとの条件で合流する考えを提示

他の中央アジア共和国もスラヴ3国からソ連国家消滅という結論を突き付けられ、なぜスラヴ3国だけが集まったのかに戸惑いながらも、刷新された同盟維持の立場を主張して、最終的には共同体に合流

中央アジアの共和国にアゼルバイジャンも入れたムスリム系共和国の会議が召集され、ミンスク合意は法的基礎の上で進めるべきであり、すべての参加共和国が平等であるべきとの声明を出し、スラヴ3国との間で首脳会議を開くことになり、ゴルバチョフを呼ばないと決めたことがゴルバチョフ退陣へのダメ押しとなった

 

l 南コーカサス(ザカフカ―ス)及びモルドヴァ

この時期大なり小なり内部抗争に引き裂かれて、統一的意思形成の難しい状況にあった

結果的にはグルジア以外の諸国はみな共同体に合流することになる傍ら、各諸国内部の少数派地域は完全に無視・排除された

グルジアは完全に内戦前夜的状況。南オセチアでのジェノサイドが完全な内戦に発展、ロシアとの関係も険悪化するなか、共同体への参加どころか、諸外国からの独立承認も得られず、国連への加盟も遅れる。内戦収拾後の92年に漸く国連に加盟を果たす

 

l 内部少数派地域

連邦構成共和国より格下の旧自治共和国・自治州や、行政単位とされていなかった少数派集住地域(モルドヴァのガガウス人地域など)は、概して同盟/連邦維持論を取り、刷新された同盟の中での地位向上や同盟条約への直接参加などを要求していたが、政変後の同盟条約交渉では完全に無視され、同盟再編交渉の主体と認めなかったロシア政権の方針が貫徹された

クリミヤでは、ロシアへの移行かウクライナ残留かが主たる争点となり、ロシアとウクライナの領土紛争の対象となる

 

第3節        ソ連解体の最終決定とゴルバチョフの退陣

l アシハバード(アシガバード)からアルマアタ(アルマトゥ)

中央アジア諸国がアシハバード会議で条件付きながらも独立国家共同体への合流を決め、ほぼ同時期にアルメニア、アゼルバイジャン、モルドヴァも同様の決定をしたことは、流れをほぼ決定づける

外部で大きな影響力を持ったのはアメリカで、ベーカー国務長官が各地を訪問して、共和国首脳と会談

ロシアによるソ連最高会議の財産の接収が進む中、スラヴ3国の通告を、諸共和国がアルマアタに集まって改めて確認する――同盟完全解体論のウクライナから、緩やかながらも恒常的同盟関係を想定するロシアやカザフスタンまで大きな隔たりがあったが、11の共和国首脳が集まり、全共和国を創立者とした共同体CISCommonwealth of Independent Statesが誕生し、ソ連はその存在を終えた。ソ連の国連議席はロシアが引き継ぎ、調整機関として元首会議と首相会議を設置

ロシアは国名を「ロシア・ソヴェト社会主義共和国」から「ロシア連邦」に改称

欧州12か国も、各共和国の国家承認へと動く

 

l 終幕

アルマアタ会議を受け、ソ連最高会議は既成事実となった国家解体に最小限の合法的体裁を付与するための最後の会期を開催。定足数不足だったが、9212日をもってソ連人民代議員の職務解任を決議

CIS創設に伴い国家・国際法主体としてのソ連の存在を終えることを確認、裁判所、検察長を清算し、国立銀行の総裁を解任。合法的体裁をとりながらソ連国家を清算

1223日、ゴルバチョフとエリツィンの間で公文書や核のボタンの引き渡しが行われ、25日にゴルバチョフの辞任演説――「社会は自由を獲得し、冷戦と軍拡競争は終わりを告げた。ここ数年に獲得された民主的達成を維持することが何よりも重要だ。懸念を抱きつつ職を去るが、人々の賢明さと精神力を信じる」

1つの時代に幕が下ろされ、それはまた、新たな矛盾と混乱に満ちた新しい時代の幕開けでもあった

 

 

あとがき

ソ連解体から約30年、ポスト・冷戦期からさらに新しい時代に突入した感がある

「新しい冷戦」といわれるのは、かつての冷戦とどこまで、どの程度似ているのかという問いが有意味なものとして意識されていることを物語る

一時期進むかに見られた民主化の波が後退して、「権威主義の波」が来たとの議論も盛んだが、これはペレストロイカ及び冷戦終焉の時期に流行した「民主化」論を反転させたかのごとき様相を呈している。かつて進んだ「民主化」が何らかの理由で後退に転じたのか、それともむしろかつての「民主化」論自体に陥穽ないし錯誤が孕まれていたのではないかなど、様々な観点があるが、現在の状況を考える上で、当時に関するイメージが一定の影を落としていることは確か

一般に「近い過去」は単純に消え去るものではなく、その記憶や残像が大なり小なり今日の人々の意識に焼き付いているものであり、「現代」の1つの構成要素をなすといえる

日本学術振興会の研究成果公開促進費の交付を受けている

 

 

 

 

ソ連とは何だったのか あの「崩壊」から30年、大著で迫る全体像

大内悟史2022129 1600 朝日

 

 戦後、東西冷戦の一方の極となったソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の消滅から、昨年末で30年がたった。塩川伸明・東京大学名誉教授(ロシア政治史、比較政治)は大著『国家の解体』(東京大学出版会)を昨年出版して、全15共和国の現地新聞や政治家の証言などを駆使し、いわゆる「ソ連崩壊」の全体像を描いた。解体過程で浮かび上がったソ連の実体と、歴史的教訓について聞いた。

 1985年にソ連共産党書記長となったミハイル・ゴルバチョフは、87年ごろからペレストロイカ(改革)を次第に本格化させた。ソ連の影響下にあった東欧諸国に対して内政不干渉の方針が打ち出され、89年にはこれらの国々が次々と社会主義体制から転換し、議会制や市場経済の導入などが進んだ。冷戦終結に至る節目の一つとされる米ソ首脳によるマルタ会談、東西ドイツ統一といった世界史的な激変が続くさなか、9112月にソ連という国家は消滅した。

 ソ連末期において、塩川さんは「異なる性格の二つの事柄が起きた」と指摘する。「一つは社会主義体制の行き詰まりを指導部自身が感じ取り、市場経済やリベラル・デモクラシーへと向かおうとする動き。もう一つは、ソ連という国家が解体してバラバラの独立国家が生まれる事態。この二つの出来事はきびすを接して起きたために同一視されやすいが、実はズレがある」というのだ。

 社会主義からの体制転換はゴルバチョフ時代の後期(8991年)に徐々に進んだが、国家解体は91年末に一気に起きた。旧ユーゴスラビアなど一部の国を除けば、多くの旧社会主義国では政治・経済体制が変わっても国家は解体しなかった。ソ連でも、社会主義体制から離脱して新たな分権型連邦国家に生まれ変わる試みが91年半ばまで続いたが、それを一挙に断ち切ったのが年末のソ連解体だった。

 その過程に焦点を当てた『国家の解体』は3巻本で税込み4万円超。約2500ページの大著で描いたのは、ユーラシア大陸北辺を覆う巨大国家の持つ独自の構造と、その解体過程で起きた様々な動きの相互作用だ。ソ連は共産党中央を頂点とした連邦国家であり、現在のロシアやウクライナベラルーシ、バルト三国、中央アジアや南コーカサス(ザカフカース)諸国などの15共和国と、多数の自治共和国・州などの多層的構造で成り立っていた。背景には、1917年のロシア革命から22年のソ連建国に至る過程で掲げられた民族自決と反帝国主義の理念があった。

 「もともとソ連の共産党支配は外からのイメージほどの一枚岩ではなく、ゴルバチョフが改革を始めると内部の多様性が顕在化した。建前として認めていた共和国の主権の現実化を求める動きが強まり、連邦制に対する遠心力が働いた」

 中央が地方への統制をゆるめると、各共和国の共産党指導者たちは改革の進展と世論の高まりに押され、民族主義寄りの立場をとる傾向を見せた。ゴルバチョフの「ソ連政権」に対し、国内で最も大きなロシア共和国を権力基盤とするボリス・エリツィン(後のロシア大統領)の「ロシア政権」が対抗するという特異な構図も生まれた。

 「すべての共和国が一様に独立を目指していたわけではない。早くから独立論が強かったのはバルト三国で、現地の党指導部も大衆運動に歩み寄って独立論をとった。一方で、必ずしも独立を目指していなかったウクライナや中央アジアなどの共和国は、選挙改革や民族運動の高揚などをきっかけに、ソ連中央に対する自主性を強めた。さらにソ連・ロシア両政権の対立から漁夫の利を得ようとする形で、タタルスタンやチェチェンといったロシア内の民族地域の自治拡大要求も高まった

 旧東側諸国の政治体制転換は、70年代の南欧や中南米諸国から2010年代の「アラブの春」にかけて起きた民主化の大きな「波」の一部との見方がある。だが、塩川さんは慎重だ。

 「ペレストロイカのおかげで8990年に大衆的な民主化運動が高まったのは事実で、その意義を忘れるべきではない。しかし、大衆は次第に政治に飽きて日常生活に帰っていった。その後に起きたソ連解体は世論と無縁の権力闘争の産物だった。ほかの国々の民主化運動でも同様だが、ある時期における大衆運動の高揚とその後の幻滅や後退という両方のプロセスを視野に入れる必要がある」

 ソ連解体は、ゴルバチョフとエリツィンの権力闘争の結果でもあった。この2人は同い年で、経歴も似ており、早くからライバル関係にあった。

 「87年にいったん失脚したエリツィンはまもなく政界に復帰し、916月にはロシア大統領となり、ソ連大統領たるゴルバチョフに挑戦した。2人の政策はそれほど大きく隔たっていたわけではないが、エリツィンはロシアを基盤としてゴルバチョフのソ連を揺さぶろうとした」

 理想主義的なゴルバチョフと直情径行型のエリツィンという一般に流布した人物像があるが、塩川さんによると、「幅広い資料を読むと違った側面も見えてくる」という。

 「ゴルバチョフも政治的打算を考慮していたし、エリツィンも時として柔軟な姿勢を見せることがあった。そのため2人の間では、表面上対立していた時期にも水面下での交渉と妥協が繰り返されていた。保守派がゴルバチョフを拘束したクーデター(八月政変)をエリツィンらが鎮圧した事件を経て、力関係はエリツィン優位になったが、その後もしばらくは両者の間で複雑な交渉が続いた。そうした関係が最終的に崩れたのは91年末のことで、その帰結がソ連解体だった」

 現代のロシア政治を深く理解するためにも、ソ連消滅過程の検証は不可欠だ。

 「今ではエリツィン時代(9199年)のことが忘れられ、あたかもプーチン時代(99年~)になって突然民主化の後退が始まったかのように思われがちだが、実際には、エリツィン時代に民主化の後退は始まっていた。当時それを見過ごしたことのツケが回ってきているのではないか」

 ソ連末期には、各共和国が次々と主権宣言や独立宣言を発しただけでなく、民族紛争の火が燃え上がった地域も多かった。南コーカサスではナゴルノ・カラバフをめぐるアゼルバイジャンとアルメニアの紛争や、ジョージア(グルジア)におけるアブハジアや南オセチアの紛争など、今なお不安定な情勢が続く。

 「ペレストロイカ期のソ連で起きた紛争の多くは、最初のうちは平和的なもので、たまに暴力的衝突が起きても局所的・突発的だった。衝突を沈静化するための努力も払われていた。ところが、衝突が次第にエスカレートしてある一線を越えると、沈静化が非常に難しくなった。なるべく小さな初期段階で歯止めをかけることが必要だ。これは重要な教訓だ」

 ソ連消滅後の東側諸国でも、旧ユーゴスラビアなどの民族紛争や混乱が長く続いた。最近もロシア系住民を多く抱えるウクライナとロシアの関係が緊迫し、カザフスタン国内でも混乱が起きた。

 「民族自決や民主化といったスローガンには人々を引きつける魅力があるが、それをどのように実現するかの解釈は一様ではなく、当初の期待とは異なった方向に事態が動いていくことも珍しくない。これは旧ソ連地域に限らず、世界各地で見られることだ」

 89年に中国で起きた天安門事件のような強権とは好対照なゴルバチョフの改革路線は、当時の西側諸国からも高く評価された。だが改革は国家解体に帰結し、ロシアの国際的な威信低下を招いたのも確かだ。米ソ首脳が冷戦終結を確認したとされてきた同年末のマルタ会談も、冷戦終結に言及したゴルバチョフに対し、ブッシュ米大統領側には違う思惑があったことが指摘されている。

 「かつてソ連を『悪の帝国』と呼んだレーガン米大統領は88年に訪ソしたとき、その発言を取り消した。8889年ごろには米ソが接近して相互の信頼と努力で冷戦を終わらせ、新しい平和的秩序をともに打ち立てるのだというイメージが振りまかれた。しかし、その後の米政権は『ともに冷戦を終わらせる』のではなく『一方的にソ連を打ち負かす』態度に転じた。このことがソ連解体後のロシアで『裏切られた』という心理と孤立感が広がるもととなり、後の新しい東西対立への種もまかれた」

 ソ連消滅から30年がたつ一方、今年12月にはソ連建国100年を迎える。

 「旧体制の悪をあばくのは容易でも、それを真に乗り越えるのははるかに難しい。それがソ連解体の教訓ではないか」(大内悟史)

佐藤優 作家・元外務省主任分析官

202201301407 投稿

【視点】 私は19878月から953月までモスクワの日本大使館に勤務していました。ソ連末期の知識人たちには、ポストモダン的な価値相対主義が浸透していました。ソ連体制に異議を申し立てるロシアの知識人は18世紀的な啓蒙の思想を用い、エストニア、ラトビア、リトアニア、モルドバ、ジョージアなど民族共和国の知識人はナショナリズムに依拠しました。ただし、いずれの知識人も啓蒙の思想やナショナリズムを心の底から信じていたわけではりません。ソ連では知識人が1つの階級として機能していました。塩川伸明氏がソ連崩壊のイデオロギーについてどのような分析をしているのか、『国家の崩壊』を精読してよく考えてみたいと思います。

 

 

 

『文藝春秋』20225月号 巻頭言

ソ連解体に迫った「枕本」 塩川伸明

30年前にソ連という国がなくなったが、「どのようにして?」の疑問は解明されていない

ペレストロイカは、当初限定された体制内改革を目指していたが、次第にエスカレート

だが、体制転換が自動的に国家の解体をもたらしたわけではない

国家解体は1991年末に一気呵成に進んだもので、ソ連型体制の放棄か否かではなく、それをどのレヴェルで進めるかの選択

重要なのは、クーデター失敗後に政治の主導権を握ったロシア共和国指導部内で新たな路線闘争が発生。旧ソ連空間全体の結合を維持しつつ改革を主導するのか、中央アジアなどの諸国を「負担」と見做して切り捨て、ロシア1国資本主義の道を進むかの選択で、最終的に後者となった

もう1つ重要なのは、大衆運動との関係で、当初こそ「市民社会」の覚醒という現象が生じ、ペレストロイカが当初の想定以上に急進化したが、長時間持続することなく、大衆運動の後退局面でソ連解体が生じ、大衆不在の権力闘争でその後の体制が決定されたこと

現下の緊迫した情勢を上記のような経緯から直接説明することはできないが、当時に根源を持つことは確か。ソ連時代末期の複雑な歴史の襞に立ち入って理解することには重要な意義がある


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