死因を辿る  五島雄一郎  2022.2.24.

 

2022.2.24. 死因を辿る 大作曲家たちの精神病理のカルテ

 

著者 五島雄一郎 1922年東京都生まれ。45年慶應大医学部卒。72年同大内科学教授。79年末退官。東海大医学部内科学教授。80年同大付属病院長、92年名誉院長、93年名誉教授。専門は循環器病、成人病と臨床栄養学。動脈硬化の権威。84年日本医師会最高優秀賞受賞。

 

発行日           1995.12.15. 第1刷発行

発行所           講談社 (α文庫)

 

本作品は、1985年刊『音楽夜話』を改題し、加筆して再構成したもの

 

名作を作った天才たちは皆、心の病と闘っていた!!

美食に溺れたバッハ、飲み過ぎのベートーヴェン・・・・。傷ついた精神と肉体こそが美しいメロディを生んだ。病跡学の視点から大作曲家40人の知られざる素顔に迫る!

 

文庫版まえがき

芸術家がどんな病気にかかり、どんな死因で死亡したか

音楽家の伝記を読んでいると面白いことに気が付いた

伝記から年代と作品を調べ、病気と作品の関係を見ると、音楽家ばかりでなく、多くの芸術家の創作が梅毒や躁鬱病などの病気と大変深い関係があることが明らかになる

197879年、NHKFM放送で毎月1回『音楽夜話』として音楽家の病気と作品の関係、死因などについて史実の上に私なりの勝手な解釈と推測を加えて話をした

それがエーザイの月刊紙『クリニシアン』に、30人の作曲家の病歴と死因について掲載し、さらに1985年、『音楽夜話――天才のパトグラフィ』として刊行

今回さらに10人を書き加えて改題

 

 

第1章        人生と死をめぐるミステリー

l  8つの死因――モーツァルト(17561791)

父親に連れられて6歳からヨーロッパ各地へ演奏旅行に連れていかれ、生涯35年のうち14年も家庭を離れて旅行していたため、結果的に発育が合悪く、短命の理由の1

妻のコンスタンツェは、軽薄な浮気娘で、結婚10年の間に6児をもうけたが、何れも病弱で、4人は生後半年以内で死亡

モーツァルトは身長150㎝にも足りない小男、後年は肥満。落ち着きがなく神経質で、短気、良く動き回り、顔は天然痘の後のあばた面、近視で鼻は丸く、性格的には変人

1762年結節性紅斑、63年上気道炎、64年重篤な扁桃腺炎、65年腸チフス、66年関節リウマチ、67年天然痘、78年鼻アレルギー、84年リウマチ熱、90年歯痛と頭痛、不眠、91年毒殺の妄想、腰痛、倦怠感

外耳の外側の渦巻が欠除、子供にも遺伝、モーツァルト・イヤーと呼ばれ1000人に1人の奇形

晩年フリー・メースンに加入、社会の習俗にとらわれない自然人だったこととも関連?

二重性格だったことは、作品にも現れ、「牧童」であると同時に「闘士」であり、「阿諛(あゆ)者」と同時に「向こう見ず」、「柔らかい旋律に往々鋭い辛辣な音が入り込み、流動の優美さと狂暴の嵐が交錯する」と言われたり、心理学者からも「モーツァルトの情熱的な性質の重要な特色は、思いがけない時に、しかも曲の性質上全くふさわしくない時に、きわめて深い情熱的な盛り上がりが現れることで、これこそ悪魔的なもので、その性質上あてにしていない時に突発的に現れる」とも言われている

二重性格は女性遍歴にも現れている――いつも女性を理想化し、憧れる一方、自分の感覚的官能の要求を満たしてくれる肉感的な女性には弱い傾向がみられた

スカトロジー(糞便談)障碍――書いた手紙の10%以上にスカトロジーの表現がある。18世紀には一般に使われていたもの

1979年ロンドンで、モーツァルトの毒殺をテーマにした《アマデウス》が公開され大ヒットとなり、世界各地で興行されて、一気にモーツァルトの死因について話題が持ち上がる

医学的根拠のあるものは少ない――《アマデウス》で有名になったサリエリの嫉妬による毒殺説は、本人が死の床で告白したとの話もあるが、真実は不詳。病死説にも種々の病名が挙げられ、ペストや水銀中毒、慢性腎臓病による尿毒症などあるが、今日的な判断からすると、リウマチ熱から心臓弁膜症(大動脈弁口狭窄)が起こり、度重なる瀉血によって貧血を来し、心不全を惹起して死亡という解釈が最も妥当なもの

 

l  変わった性癖――ブルックナー(182496)

リンツ郊外の生まれ。11人兄弟のうち、多くは幼くして死亡、3人の妹と痴愚の弟だけが成人

オルガン奏者として名声が高まるにつれ、時折ひどい不安に襲われるようになる

1865年、激しい頭痛が始まり、68年には鬱病から強迫神経症のため冷水浴療法を受ける

自信欠乏症(心理学的には自己不確実性と呼ばれる)は、作品の訂正に最もよく現れ、他人に何か言われると自作をずたずたにしたため、後世「原典版」が復元されるまで、長く「ノヴァーク版」や「シャルク版」などの異稿によって演奏される

ワーグナーを聴いて感動し、生涯ワーグナー信仰は変わらず、交響曲第3番も彼に捧げたが、ウィーンでの初演は不評。当時ウィーンはワーグナー派とブラームス派に分かれ、ブルックナーはウィーンでは受け入れられなかった

1883年、第7番のライプツィヒ初演を境に国外から評価が高まり出す

生涯独身。妹と一緒に住み、晩年若い娘に求婚をしては失敗を繰り返す

晩年は、浮腫で足が腫れ、胸水がたまって呼吸困難に陥り肋膜炎の診断、肺炎で死去

 

l  死因はロシアの極秘事項――チャイコフスキー(184093)

コレラで死亡

1876年富豪の未亡人が後援者となり、巨額の支援をしてくれる

37歳まで独身。同性愛だと噂されるが、1877年音楽院の女性徒と結婚。「一生友達でいよう」といったため怒られて9週間で破局

結婚前からひどい鬱状態になり、作曲活動も完全に低下

ヘビースモーカーでアルコールも浴びるほど飲む

神経質でヒステリック、頭痛、原因不明の胃腸障碍や神経衰弱症状があり、精神安定作用のある臭素を飲んでいた

パトグラフィ(病跡学)で問題となるのは躁鬱病と同性愛。26歳から死ぬ前まで12回の鬱病期を経過

彼の音楽には、力強く華やかで、かつ情熱に溢れた一面と、憂鬱で感傷的な一面があるが、これは彼の精神面の両極を表している

《悲愴》の最大のエピソードは、自身の指揮で初演の9日後に彼がコレラで急死した話

コレラの蔓延しているサンクトペテルブルクで生水を飲んだという

一方、自殺説は根強く、チャイコフスキー記念館の職員が、生誕100年事業の準備中に見た資料で、死の床に大勢の人がいたこと、コレラの処理をしていないことを確認し俄に信憑性が高まる。法律学校の同級生だった貴族の甥を好きになり、同級生がチャイコフスキーを訴えたが、生存していた同級生が集まって表沙汰にしないようチャイコフスキーに自殺を迫り、毒を届けたということが判明したが、すべては関係した同級生たちの間で秘密にされ、関連書類も破棄されたため、裏付けとなる資料は現存しないため真相は闇の中

コレラの下痢症状と似たような症状を起こす毒物は砒素なので、砒素中毒だろう

 

第2章        病が生んだ傑作

l  心と体は万病の巣――ベートーヴェン(17701827)

ボン生まれのベートーヴェンは、モーツァルトに師事するために87年ウィーンを訪れるが、母の死にあって帰国、92年ウィーンに戻った時にはモーツァルトが死去

チフスから肝硬変で死去とされるが、チフスに罹患した証拠はなく、12年のライフマスクには痘瘡の瘢痕(あばた)があるが、いつ痘瘡に罹患したかも不明

聴力障碍と並んで生涯悩まされ続けたのが慢性下痢で、聴力障碍も腸から来ていると書いているが、腸チフスでもない限り耳と腸は無関係

慢性下痢は、神経性下痢か過敏性大腸炎のような心身症ではないか

1802年『ハイリゲンシュタットの遺書』を書き、自殺企図があることを示したのは、明らかに鬱病の状態にあり、恋愛が悲劇に終わったのと、聴力の悪化のためと考えられる

1821年黄疸に罹り、死の3年前に《第九》を完成したが、翌年には鼻出血と吐血を起こす――肝硬変の合併症である食道の静脈瘤破裂と考えられ、肝硬変がかなり進み、間もなく肝臓部の疼痛が起こり、足に浮腫が現れ水もたまる。苦痛を和らげるためワインを相当飲んだと言われ、聴力障碍の原因の1つにもなっている

死因は肝硬変で、アルコールがその進展に大きく関係している

強く突き出した前額、深く窪んだ鼻根部、鞍鼻(あんび)といわれるあぐら鼻などは先天性梅毒の特有の初見であり、頭蓋骨が変形しているのもそのためであり、水銀軟膏の塗擦療法をしていたのもそれを裏付ける

各地の温泉の水を飲む水治療法も受けているが、下痢と梅毒両方のため

聴力障碍の原因も、一般には聴神経炎や聴神経萎縮が挙げられるが、梅毒とも関連し、創作力がとみに低下し、1812年には人との交際に差し支えるまでに悪化

ウィーン滞在35年間に79回引越し、同市内だけでも26カ所に住んだとされるが、真の原因は聴覚を消失したことによる特有な偏見と彼の性格が大きく影響――音楽にも執着性と徹底性が見られるように、精神的な一種の視座の狭窄があり、耳が不自由なため被害妄想的な悩みや猜疑心の原因となり、創造の心理にも決定的な影響を与えた

 

l  躁鬱病で高まった作曲能力――シューベルト(17971828)

14人兄弟のうち5人が生育。母親は181255歳で腸チフスで死去

生涯独身、ボヘミアン的生活を送り、その仲間のために作曲

23歳ごろ性病に罹患、重篤な症状で入院、梅毒疹ため頭髪を刈り込む

梅毒からは回復したが、毎年のように鬱病は繰り返し、躁状態の時には著しく作曲能力の亢進を来す。1826年頃から激しい頭痛が始まる

1828年、めまいや動悸が起こるようになり、発熱し、錯覚や幻覚に襲われる譫妄状態と意識障碍とが現れ死去

死因は、腸チフスとか神経熱(当時は脳症状を伴う熱性疾患の総称)などといわれるが、周囲に発病者がいないことから腸チフスは疑わしい

 

l  死の引き金は性病――ドニゼッティ(17971848)

ベルガモの生まれ。1830年ミラノ初演の《アンナ・ボレーナ》で一躍有名に

1837年、最愛の妻に先立たれ精神的ショックに陥り、体調を壊す。その頃梅毒に罹患したと思われ、しばしば偏頭痛発作を起こし、ノイローゼ症状を呈するようになって鬱状態に陥り、作曲活動も低下

1845年、脳卒中の発作は、脳梅毒による麻痺性発作と思われる

その後徐々に精神機能の乱調を来し、精神病院に収容、故郷に戻り精神錯乱の状態で死亡

脳梅毒による麻痺性発作を起こす数年前、作曲能力が著しく亢進し、1年に5つのオペラを作曲した年もある

オペラ・セリア(悲歌劇)、オペラ・ブッファ(喜歌劇)ともにすぐれた作品がある

 

l  五感が麻痺した晩年――シューマン(181056)

父親は53歳で執拗な神経疾患で死亡、母親も65歳で死亡したが、晩年鬱病に罹患。姉も精神分裂症で19歳で自殺。シューマン自身も自殺を企て助けられた

18歳で初めて正式に音楽教育を受けるが、この頃からしばしば幻聴を経験、憂鬱病に憑りつかれる

1831年、コレラ恐怖症に罹り、死の恐怖や狂気の恐怖、高所恐怖症などに悩まされ、一方では陽気で、社交的で、活動的になることも多く、躁鬱病に罹っていたことが考えられる

音楽批評を書き始めたが、ペンネームに使ったフロレスタンではときに戦闘的な感情を迸らせ、反対にオイゼピウスの名では瞑想的な文章を書いたこともある。彼の音楽作品でも、この両者が目まぐるしく変わることが理解できる

1840年、ピアノの師と裁判の末、その娘との結婚を勝ち取り、「歌曲の年」といわれるくらい精力的に創作、256曲の半分以上がこの年の作。代表作が《2人の擲(てき)弾兵》

184243年、何度もめまいの発作や神経衰弱症状に見舞われ、妄想から不安神経症の中、ピアノ協奏曲を作曲

1846年には聴力障碍が現れ、常に騒音が渦巻いていたが、一旦回復、52年にはめまいや幻聴が再発、53年には精神病院に入院、クララとの間も不和になり、54年投身自殺未遂

死因は、梅毒による進行性麻痺との解剖所見があるが、7人の子供は正常分娩で流産したのは1人だけだし、進行性麻痺の特徴である瞳孔の左右不正円も肖像画には見られない

精神分裂症説や、脳卒中や高血圧症などの説もある

シューマンの音楽は青年時代のものが最高で、それ以後は二流。1850年以降の作品は、感情の鈍化が酷くなり、これに伴って晩年の作品は讃美歌的な荘重性が特徴。人相まで変わったとも言われ、46歳の若さを考えると、梅毒性脳疾患に基づく精神障碍が妥当だろう

 

l  《わが祖国》に託した聾の苦しみ――スメタナ(182484)

旧チェコスロバキアに生まれ、48年にはリストの支援を得てプラハに音楽教室を開設

下宿屋の娘との結婚生活はあまりうまくいかず、4人の子供も2人は夭折し1人は伝染病で死去、妻も1859年に結核で死去。翌年再婚

オーストリアからの解放を求めてボヘミアでは革命が起こり、スメタナの民族意識を駆り立てて作曲したが、チェコでは評価されず

1866年、チェコ語で書いた最初のオペラ《売られた花嫁》で成功を収める

1874年、化膿性潰瘍、扁桃腺炎、梅毒性皮膚炎の発疹に加えて、幻聴が始まり、左右とも耳が聞こえなくなったが、霊感が沸き起こり新たな創造的活力が《モルダウ》や《わが生涯より》を生み出す

激しい咽喉頭痛から会話にも支障をきたし、歩行障碍から平衡障碍のロンベルク兆候まで出来、死の前年には一旦回復したが、麻痺性発作から精神錯乱状態となり死去

剖検の結果は、名誉のために伏せられたが、1963年の調査の結果、最も典型的な未治療の全身梅毒に罹患、脊髄癆からの歩行障碍、精神錯乱状態により死亡したことが確認された

創作活動は死亡前の10年艦に最盛期を迎えていたことははっきりしているが、旺盛な創作活動は梅毒による影響が考えられる

 

l  発狂前の霊感の高まり――ヴォルフ(18601903)

シューベルトとともに歌曲の巨匠といわれ、ロマン主義歌曲の新しい境地を開く

興奮しやすく神経質で、敵が多い

17歳で梅毒に罹患、後年脳神経を侵し、進行性麻痺を来すが、同時に躁鬱病に悩まされる

1875年頃から書き始めた歌曲は242曲あるが、円熟の境地に達したのは13年後

1897年、脳梅毒による麻痺性発作が起き、種々の妄想を抱き、精神病院に入院し、そのまま最後は肺炎で死去

モーパッサンも10年前に同じ症状で死去しており、当時多くの芸術家が若い時に梅毒に罹患し、彼等の優れた作品が脳梅毒発症前の僅かな期間に創られていることが病気の発症と密接な関係にあることが推定され、興味深い

 

第3章        音符による過労死

l  愛よりも恋よりも聖譚曲(オラトリオ)――ヘンデル(16851759)

ヨーロッパを股にかけて活躍し、ロンドンに居を構えて帰化

1737年、脳卒中の発作から右半身が麻痺。過労と高血圧が原因だったようだが、温泉治療が功を奏し活動を再開するが、それまでのイタリア風オペラが衰退、代わって旧約聖書を題材にしたオラトリオを書き出し、以降20曲余りを世に出す

1750年頃から、老人性鬱病が始まり、白内障の宣告を受けた衝撃と苦悩の中でも作曲とオルガンの演奏を続ける

1759年、《メサイア》の演奏後ぐったりして遺書を追加した後、脳卒中の再発で死去

個人生活に関する情報が少なく詳細は不明。大男で太っており大食漢、短気で鈍重、不機嫌、立ち居振る舞いも乱暴で横柄だが、意地悪や悪意とは無縁

生涯独身、女性との付き合いは内密で、愛は長続きしなかったという

 

l  死を予期した演奏旅行――ウェーバー(17861826)

結核で早世したが、死ぬまで創作能力は低下しなかった

10人兄弟の9番目。先天性股関節脱臼のため4歳まで歩行できず、生涯歩行困難

1811年、《アブハッサン》の発表で初めて成功、各地で指揮者や楽長になり、16年には結婚するが、その頃から肺結核に罹患、以後10年は病気との闘い

闘病中の1819年に書かれたのが《魔弾の射手》で、初めてドイツ語で、ドイツの伝説や自然の題材を用い、民族的な旋律を多く取り入れたことで大成功を収める

ウェーバーの音楽における功績は、ドイツ国民的オペラの作曲に加えてピアノ音楽にも多くの名曲を残していること。《舞踏への勧誘》は、後に流行した小品形式の先鞭となり、その上ワルツを曲の中に巧みに取り入れて成功

当時ドイツ各地に素人合唱団が出来て、合唱によってドイツ精神を高めようとする傾向が生まれ、ウェーバーもこの運動に共鳴して愛国的な合唱曲を作曲

コヴェントガーデン劇場からの依頼を受けて作曲したのが《オベロン》で、1826年体調不良を押してロンドンでの初演に臨み12回の公演を自ら振り、大成功で何度も序曲が繰り返されたが、練習中に喀血して下痢が続き、下肢には浮腫、全身の痙攣と衰弱が進む

公演を完遂した後ホテルで息絶えた。剖検では、潰瘍化した喉頭結核と、2つの空洞を伴った肺結核が認められ、腹部は開けなかったので腸結核は確認さ

 

l  過敏な心と鉄人の肉体――ワグナー(181383)

心筋梗塞で死亡するが、精力的にオペラを作曲した超人的、かつ最も魔人的ともいえるドイツの代表的音楽家。他の音楽家のように結核だの、梅毒のような慢性疾患もなく、鋼鉄のように強靭な体の持ち主

ワーグナーの音楽観や芸術観は常に一貫しており、そのテーマは愛と死の神秘、献身と贖罪の神秘であり、一貫して人間的実存の持っている原始的な姿を追求。晩年ほどその傾向が強い。反面、いろいろな物質に対し過敏症を持っていて、色彩、色・臭いなど好き嫌いが激しく、デリケートな面を合わせ持っていた

作曲に際し、異常ともいえる精神的緊張を必要としたと言われ、そのために、神経性腸疾患や顔の丹毒(化膿性のできもの)がよく悪化

1878年、《パリジファル》作曲の途中第1回目の狭心症発作。その後も発作に悩まされ、呼吸困難を併発、83年論文執筆中に心臓発作の再発で死去

ワーグナーのパトロンだったバイエルン国王ルートヴィヒ2世は、パラノイア(偏執狂)で幽閉されワーグナーの死後3年半たった86年謎の死を遂げるが、王が精神病であったことを信じないドイツ人が多い

 

l  肺結核と作曲の日々――グリーグ(18431907)

ノルウェーの国民楽派の第一人者はベルゲンで生まれ、死んでいる

ノルウェー出身のヴァイオリニストのオーレ・ブルに才能を見出され、ライプチヒ音楽院に留学

1860年、結核性肋膜炎に罹患し回復するが、後年左肺を侵し、呼吸器障碍の原因となる

1867年、声楽家の女性と結婚したのが、声楽作品の作曲家として大成する素因

リストにピアノ協奏曲を弾いてもらい、そのアドバイスに従って改定したのが今日演奏される《ピアノ協奏曲》だが、リストに認められて一気に名声が上昇、作曲活動に専念

1888年、イプセンの要請で《ペールギュント》の付随音楽を作曲して成功した辺りから健康状態が悪化するなか、なお民族色豊かな作品を創る

慢性胃炎やリウマチに加え、1901年実兄の急逝が精神的なショックを与え、体調が悪化

1905年のノルウェーの独立に際しては、体調不良を押して演奏、喘息様発作から呼吸困難と幻覚に襲われ、不眠症が悪化。それでも仕事を続け呼吸不全で死去

北欧の厳しい気候が若い時に罹患した結核性肋膜炎に拍車をかけたのは容易に想像できる

 

l  爆発寸前の心臓――プロコフィエフ(18911953)

ウクライナ南部の農場に、開拓者の子として生まれるが、姉2人は夭折

1918年には帝劇でピアノ独奏会を開催

1919年、猩紅熱とジフテリアとのどの腫れ物のために危篤状態に

1945年、心臓部の痛みから転倒、脳震盪で意識不明となり、その後頭痛が頻発

医者に日常活動を制約されながら、わずかに許された時間で死の直前まで作曲を続ける

1953年、スターリンと同じ日に、脳出血発作で死去するが、数日間報道されず

 

第4章        食べ過ぎ、飲み過ぎ、成人病

l  糖尿病の子だくさん――バッハ(16851750)

8人兄弟の末っ子。8人の平均寿命は30

性的衝動が強く、美食家

最初の12年間の結婚生活で7人、再婚で13人の子供を設ける

1748年頃から白内障、手術は失敗に終わりほぼ失明状態に。49年には脳卒中の発作

頑固で怒りっぽく、適応性に欠けており、過剰な自意識を持ち、どこまでも自己の主張を貫き通す不屈の精神を持っていて、付き合いにくい人間であり、高血圧のタイプ

最後は脳卒中の発作で死亡

 

l  出世に伴う不摂生――ブラームス(183397)

家計を助けるために10歳の頃から盛り場で演奏し、健康を害してやめたが、心に傷を残し、生涯良家の子女とは打ち解けることが出来ず、性生活の対象は売春婦に限られた

シューマン夫妻の演奏に惹かれるが、シューマンもブラームスの才能を認め、互いの行き来が始まる。シューマンの死後、クララとブラームスは親密な交際を続け、クララの死後ブラームスは精神的に鬱状態となり作曲能力も低下したとされる

妥協を嫌い、人間的にも我が強く、高圧的で、言葉にはトゲを含み、異常に神経過敏で、皮肉屋で、無愛想で粗雑なものの言い方をし、短気だったため、多くの友人を失う

身なりは構わず、倹約家で、生涯通じてつつましく暮らし、簡素な生活をしていた

歳と共に肥満、暴飲暴食がたたることを恐れたが、大きな病気もせず作曲に専念し、晩年になるほど作曲能力が亢進、89年が自身の作品の演奏活動に精を出した最後の年となる

1891年、遺言を書くが、その後の変更時に署名をしなかったために、後に訴訟問題を惹起

1896年ころから、容貌が著しく変化。黄疸が進行、胆管が閉塞して肝臓肥大に(癌化)

本人の要望で真相は本人には告げられず、97年には脳卒中の発作を起こし、吐血から昏睡状態となり、消化管からの出血がひどくなって死去。死因は肝臓癌

ハンブルクの貧民窟出身だったことが災いして地元ハンブルク・フィルの指揮者になれず、故郷を捨てる決心となったが、生涯この恨みを忘れず、30年後の93年に迎えに来たが拒絶。葬儀の日ハンブルク港の船舶は全て弔旗を掲げたが、彼の墓はそこにはない

 

l  チェーンスモーカーの末期――プッチーニ(18581924)

ヴェリズモ・オペラ(リアリズムを目指す現代演出)の代表といわれ、独特の作風

1884年発表のオペラ《ヴィり》で最初の成功を収め、96年の《ラ・ボエーム》で大金を獲得

絶えずタバコを吸っていたのが、後年死因となった咽頭癌の大きな原因

1921年、《トゥーランドット》の作曲中、不安神経症から心の平衡が乱れ、今まで書いたすべてを呪い、楽譜を永久に捨ててしまうことを本気で考えたりもした

1922年、好物の鵞鳥のローストを食べている最中にせき込み、小骨が喉に刺さったのが原因で半年後に咽頭の悪性の病気のきっかけとなる

1924年、喉の痛みと激しい咳の発作の中、完成間近の《トゥーランドット》をトスカニーニに弾いて聴かせ、完成できなかった場合には「ここまでで作曲家が死んだ」と観客に言ってもらうよう依頼

検査の結果喉頭蓋の下に悪性の腫瘍が発見され、ブラッセルで患部にラジウムを直接注入する手術を受け、一旦は回復の兆しを見せたが容体が急変して死去

ミラノでの葬儀は、トスカニーニが葬送行進曲を指揮し、ムッソリーニが追悼の辞を読む

《トゥーランドット》を書きながら死に、26年のミラノ・スカラ座での初演は追悼演奏会となり、あらゆる芸術家が喪服で参加。約束に従ってトスカニーニが「マエストロのオペラはここで終わります」と宣言して指揮棒を置き、オペラの歴史の中でも忘れ難い瞬間となる

《トゥーランドット》の最終部分は、弟子によって完成され、2回目の公演でトスカニーニによって演奏された

 

l  「食べるのに2時間かかるステーキを」――レーガー(18731916)

現代の成人病と相通ずる点が多い

母親が脳卒中の発作を繰り返し、痴呆が進行して精神病院で死亡したが、妹にも精神異常が認められた

学生の頃から葉巻を吸い、軍隊では酒に溺れたが、1898年故郷に戻ると狂気的な創作意欲が起こり、3年間に40曲書く

典型的な肥満者、ホルモン失調症、10リットルの水とカカオを飲み風呂桶一杯のコーヒーを飲んだというから異常、食欲も同様

自信過剰、粗野な性格と粗雑な人間性のため多くの敵を作った

極端な躁鬱病で、鬱病による睡眠障碍がさらにアルコールへの傾斜を強める

1913年、入院して食事療法と運動療法を積極的に行い、作曲も始め、翌年には自身最高傑作と自讃する《モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ》を書く

極度の緊張から禁酒を破り、食後の激しい腹痛発作から心筋梗塞を起こし死亡

短命の原因は、食べ過ぎによる肥満であったことは間違いない

 

l  健全な精神に宿った動脈硬化――ドヴォルザーク(18411904)

1873年発表の民族主義の色彩の濃い合唱曲《讃歌》で成功を収め、75年には交響曲を書いてオーストリア国家賞を受賞、ピアノ連弾用の《スラブ舞曲》が大ヒット

人付き合いの悪かったブラームスと友人関係ができる

精神的にも健全で、郷土と郷土愛を表現する音楽を作曲し、舞踏形式がヨーロッパに浸透

高血圧が芸術家に影響を及ぼした典型例で、創作能力が最高潮に達した時、症状が現れ始め、徐々に作曲活動が後退。脳卒中の発作で死亡

3年間のアメリカ滞在中、《新世界交響曲」のカーネギーホールでの初演は大成功だったが、場所恐怖症から心は絶えず孤独だったようだ

尿毒症とかなり進行した動脈硬化症に罹患、心臓の合併症も起こり、狭心症の発作も

 

l  キャビアを好んだ美食家――ドビュッシー(18621918)

19世紀の音楽は、同時代に起こった社会の一般思想、ことに文学によって盡く影響され、内容が豊富になり成長したといえる。特に写実主義や印象主義の影響が顕著

1894年の《牧神の午後への前奏曲》によって、20世紀音楽の進路を決定した革命家

病的なまでに神経質、自分の知らない人と一緒にいると気分が落ち着かず、公衆の前に出ることを嫌い、演奏会も忌避

脳水腫に罹ったキリストと呼ばれるほど醜く、分裂気味。貧しい家に生まれ、辛苦して成長したのもあって、長じても人当たりの良い社交家ではなかった

1884年、カンタータ《蕩児(とうじ)》でローマ大賞を得てローマに留学

1892年上演のメーテルリンクの戯曲《ペレアスとメリサンド》を見て有頂天となり、10年かかってオペラを作曲、大成功を収める

1903年から一連の円熟したピアノ作品を書き出し、ショパン以来最も重要な新しいスタイルのピアノ作曲法が開発された。音響や間の取り方、革命的なペダルの使用法が特徴的

1915年、直腸癌の手術を受けるが、癌のような消耗性疾患の場合には、体力の消耗と共に精神力と想像力も消耗されて低下してくる者が多いが、ドビュッシーの場合は死ぬ直前までそのような事実は認められず、その背景は興味ある

 

l  心不全を招いたユダヤ人迫害――シェーンベルク(18741951)

絵を描き、オペラの脚本家として舞台脚本を書く、音楽の領域では無調主義の新しい道を開拓したのみならず、絵画では背面からの自画像の画法は彼が開拓

協和音と不協和音に同じ意味を持たせ、独特の12音階の音列(他の11音が使われる前に繰り返してはならない)を用いた音楽は難解で、同時代の音楽家から批判され、ラヴェルも「音楽ではなく、まるで工場にいるみたい」と酷評

1913年、ウィーンで《グレの歌》を初演、初めて評判となる

1923年、12音階による作曲法が完成するが、その頃飲酒と喫煙が進み、その習慣を克服するために麻薬を始め、ますます体調が悪化

1933年、ユダヤ人排斥にあってベルリンからパリ経由アメリカに亡命。1940年以降糖尿病、喘息、失神、眩暈発作、視力障碍が起こり、46年心筋梗塞

死因は心不全であり、器質的な疾患を見出すことは出来なかった

ユダヤ教の両親に対し、彼はまずカトリック、次に18歳以後はプロテスタントに帰属、生涯の後半になって元のユダヤ教に帰依。生涯3回も宗旨を変えているのは、ひどい迫害に晒され、神経性鬱病や不安観念に襲われたり、他方では強い刺激状態及び動揺状態に悩んでいたことと関係がある

 

第5章        五線紙が毀した心

l  枯渇しない恋への憧れ――ベルリオーズ(180369)

女性との愛の遍歴とそれに絡む異常とも取れる行動の連続は、他の作曲家にはあまり見られない

後半生を暗いものとした腸神経痛は、父親が長年悩んでいた胃疾患とそれを和らげるために阿片を常用していたのと共通するものがある

1516歳ごろから作曲を始めるが、憂鬱な思いと孤独感が発作的に襲うのもその頃からで、鬱病と考えられるが、作曲活動にも一生つきまとう

初恋は12歳。1827年《ハムレット》の公演で見たオフェリア役の女優が忘れられず、片思いに焦がれて焦燥。青年時代は孤独と寂寥に満ち、時折ヒステリーが爆発

1830年、《幻想交響曲》で一躍有名になるが、オフェリア役の女優に捧げられたもの一旦は思いを断ち切ったが、33年に零落したその女優と結婚、創作にも意欲を出す

1856年ころから持病の腸神経痛に激しく悩まされ、60年には彼の作曲活動を励ましていた妹の死で鬱病が再発、63年以降は持病の悪化で作曲活動も休止

1867年、船乗りの1人息子が熱病で客死した知らせが彼を肉体的にも精神的にも絶望のどん底へ突き落す

186712月には、最後の演奏旅行となったロシアの王宮で盛大な誕生祝をして、チャイコフスキーやムソルグスキーなどと知り合いになったが、冬の厳しい気候が彼の不健康な肉体を致命的に蝕み、パリに戻って療養するが、苦痛を和らげるために常用していた阿片中毒から全身衰弱を来して死去したものと考えられる

 

l  もう故郷へは帰れない――メンデルスゾーン(180947)

ブルジョア的天才といわれるように、ユダヤ系銀行家の名家に生まれ育つ

1833年からしばしば頭痛を訴え、パリでコレラに罹患

多くの精神的、肉体的訴えがあり、神経過敏症、短気、厭世観、頭痛、仕事を放りだしたい気分、閉じこもりの傾向などが記録されている

1847年、ライプツィヒでの最後の演奏会を指揮した後、旅に出て眩暈の発作に襲われ、健康だった姉の突然の脳卒中死の報に鬱から不眠に陥り、妄想など神経卒中の発作に襲われ、悲鳴を上げ続けて死去

死因として考えられるのは、若年性高血圧のほか、脳動脈瘤の破裂によるくも膜下出血だが、典型的な嘔吐の症状もないことなどから、生涯の最後の数カ月は謎に包まれたまま

彼の音楽は幸福の音楽。ベートーヴェンとは正反対に、あるがままの生活と性格を音楽に一致させた。彼には苦労がなく、快活で、各国の王侯貴族にもてはやされて満足し、成功続きの幸福な生涯を送った。彼の作った音楽は、煩悶のない優雅さと暗さのない元気のよさが満ち溢れてい。上品で貴族的で教養のあるものを愛し、それらのことが作品に反映

 

l  辛すぎた結核との闘い――ショパン(181049)

結核で早逝。虚弱体質を治すために10代から養生生活を送る。妹も14歳で肺結核により死亡。当時は腺病質な子として扱われたが、妹から結核が感染したと考えられる

1835年、パリで初めて喀血。翌年リストからジョルジュ・サンドを紹介され、38年夏をマジョルカ島で療養を兼ねて一緒に過ごすが、その時すでに神経衰弱症状を示す

47年までのサンドとの10年間の同棲生活の間は、ショパンの創作力の最も発揮された時期。サンドと喧嘩別れした後のショパンは鬱状態となり、健康の悪化とともに創作欲は急速に衰える。破綻の翌年発表されたのが別れの憂鬱を表したOp643曲のワルツ

経済的スポンサーを失って鬱状態となり、創作の気力を失い、喀血しながら金のために演奏会を開く

腸結核から日に数度の下痢が始まり昏睡に陥って死去

「不健康な音楽」といわれるのは、ショパンの作品が不治の病である肺結核の療養の苦しみの中から生まれたものであることに起因

音楽史上の孤児と言われるのも、ロマン主義華やかな時代に生まれたとはいえ、その傾向は同時代のリストやベルリオーズにも、またブラームスやワグナーにも全く共通したところがない。あくまで独立独歩、影響を受けなかっただけでなく、後世にも彼の影響は何一つ残ることがなかったと言えるのは、孤独な精神の持ち主だったからだろう

ピアノ演奏家としての名声を得たが、大きな演奏会は好まず、生涯で30回に過ぎない

 

l  遺体のそばに空の酒瓶――ムソルグスキー(183981)

父親は帝政ロシアの貴族だが、祖母は農民の娘で、彼には両方の血が混じり、一生独身

出世の早道と軍人を志願したが2年で作曲に転向

1860年、《スケルツォ変ロ長調》で認められる

ひたむきな純粋さと率直さが特徴、気の弱い優しい一面を持ちながら、反抗精神も旺盛

帝政末期ロシアの現実への深い観察を通じて、民衆へ心からの同情を覚え、腐れ果てた上流社会と支配権力への限りない反感と怒りが、彼の芸術観と後半の活動を貫くことになる

1874年、《ボリス・ゴドノフ》の初演は熱狂的に迎えられたが、上流階級はこぞって敵対

この頃からスラブ民族的立場を主張した作曲家「5人組」(バラキレフ、キュイ、ボロディン、リムスキー=コルサコフ、ムソルグスキー)の足並みが乱れ始め、飲酒に耽り始め、最後は廃人同様となって死去。未完成の作品は死後リムスキー=コルサコフによって完成された

青年時代に一時神経症に罹患、それが原因で飲酒が始まり、20代初めにはアルコール中毒になって、生活苦から極度の貧困に陥り、晩年は肉体は消耗しきっていた

 

l  フロイトの診断は強迫神経症――マーラー(18601911)

ボヘミア生まれのユダヤ系チェコ人で、一家には暗い陰りが多い。両親とも分裂気質で、15人の子供のうち8人が早逝、盲目、精神病、ピストル自殺、脳腫瘍で死亡と不幸に呪われた一家。周囲にも精神病と深い関わりを持つ者が多い

指揮者として順調に出世、1897年から10年間ウィーン宮廷歌劇場の首席指揮者

道徳的・音楽的な正しさを確信し、厳しく、圧制的で、短気、人付き合いが悪く、不遜な人間。妻も、「いつも神様と話をしていた」と語る

作風が完成するのは、1901年の《亡き子を偲ぶ歌》、《交響曲5番》以降

1910年、脅迫症状が出来してフロイトの診断を受け回復したが、父親が母親を過酷に扱った幼児体験の反復とされた

1888年、《交響曲1番》を作曲、曲の中に子宮願望、希死念慮、エディプスコンプレックス、未分化な攻撃性など混在していることから、分裂気質のマーラーにとってこの年齢が分裂症発病の危険の最も強い時期とされる

1910年、ニューヨーク・フィルを冬だけで48回も指揮したが、オーケストラとの間に摩擦が起こり、健康状態も良くなく、翌年初扁桃腺で高熱を発し、連鎖球菌性敗血症から亜急性細菌性心内膜炎を併発、ヨーロッパに戻って血清治療を受けるが死去

 

l  音楽と猫を友として――ラヴェル(18751937)

14歳でパリ音楽院に入るが神童ではなく、16年も在籍。音楽を愛人とし生涯独身

特徴ある性格のために異端児扱いを受け、様々な障碍に遭遇

1904年、3年続けてローマ大賞の選外となった後年齢制限に引っかかって応募拒否にあい、前年人気の歌曲集《シェエラザード》を発表していたことから事件に発展

ドビュッシーの亜流だとの非難もあったが、ドビュッシーは印象主義者で、ラヴェルは新古典主義者と、両者は本質的に異なる

スペイン国境近くの村生まれ、母親がスペイン人だったことが、スペイン情緒を裏付ける

1907年、ラヴェルの歌曲をジャーヌ・バトリが歌ったのが、ドビュッシー派から模倣だと非難され、両派の論争に発展したのが第2のラヴェル事件

1920年、レジョン・ドヌール勲章受章を拒否したのはローマ大賞の恨みからで、ベルギーからは勲章をもらいオックスフォードからは名誉博士号を受けている

ジャズが作曲家たちに影響を及ぼし始めても自らの作風を堅持したが、28年アメリカを旅行し《ボレロ》を作曲、耳を聾するばかりの熱狂的な拍手喝采にあい、大流行が始まる

1931年作曲の《左手のためのピアノ協奏曲》はウィトゲンシュタインのために作ったもので、晩年の作品だが名作の1

1932年、自動車事故で頭部打撲、翌年から手足の自由がきかなくなり、記憶を喪失、作曲も演奏も出来なくなり、脳の手術後も回復せず

1984年、死亡の6年前から早発性痴呆(アルツハイマー)に罹っていた断片的兆候があったという新説が流れる

性格的にはかなり激しく、偏執狂的な面があったことは否めない――ローマ大賞の恨みのほかにも、ドビュッシーやディアギレフと仲違いして二度と会わなかったり、トスカニーニとも《ボレロ》の指揮について意見が合わず会わなくなったという

作品の数は多くはないが、初めから個性的なスタイルを創り上げ、晩年まで驚くほど変化が少ない。エスプリのきいたフランス音楽、エキゾチックなフランス音楽として楽しまれている

 

l  沈黙に包まれた家――ファリア/ファリャ(18761946)

スペインを代表する作曲家

スペインの民族的歌曲サルスエラの作曲を試みたが好評を得られず、フランスに行ってスペイン音楽に魅了されていたパリの印象派の間で認められ、ヨーロッパでの地位を築く

病弱で躁鬱が激しく、生涯独身

ジプシーに関心を持ったのが《恋は魔術師》で、その中の《火祭の踊り》は、禁欲的な彼の生活とは対照的に官能的な音楽で、上演禁止の遺言を残したが守られていない

1919年、ロシア・バレエ団の監督ディアギレフと協力、《三角帽子》をバレエ化して大成功したが、その後もスペイン民族芸能や大衆文化の中から歌を集め、伝統の再発見に努力

共和制の成立から内戦が始まり、1939年アルゼンチンの招待を受け、そのまま留まる

1911年ごろ肺結核に罹患、一生闘病生活が続く

 

l  厚い壁で守った「自我」――バルトーク(18811945)

ハンガリーの辺境に生まれ、幼くして父を亡くし、民族音楽に興味と関心を持つリヒャルト・シュトラウスの交響詩《ツアラトゥストラはかく語りき》を聴いて興奮し、その後影響を強く受けた

個性的で、男性的な強さを持ち、狂暴で不協和音が多いためメロディーに欠けるという非難を浴びたが、楽壇に大きな影響を与えたことは事実

1943年ごろから発熱が続き、白血病が判明、直接の死因となる

分裂気質を持つが、先天的な素質と後天的な影響が大きい

1940年、アメリカに亡命したが、ピアノ演奏家としても成功せず、作品もアメリカ人に理解されないまま、経済的に不遇。無愛想で変わり者という評価も影響。死後にようやく音楽的価値が認められるようになった

 

l  「私の喘息は神経症である」――ベルク(18851935)

作品は20曲余りに過ぎないが、最近その評価が高まっている

蒼白く神経過敏、15歳ごろ神経性喘息の最初の発作が起き、身体中の膿瘍形成と共に彼を悩ませ、春には枯草熱から目に数個のものもらいが出来たという

受験に失敗、失恋、自殺企図もあって、鬱状態

1911年の結婚後も肉体的な障碍は消失することなく、喘息はさらに悪化

ドイツの政変で、ベルクの12音技法が堕落した芸術とされ苦境に陥り、経済的にも困窮

心臓発作から貧血を起こし、心臓衰弱により死去。剖検では肺と腎臓に化膿巣を伴った敗血症があり、歯槽膿漏が原因ではないかと考えられている

 

l  社会主義を生き抜いた二重人格者――ショスタコーヴィチ(190675)

民族音楽の先達とは違って、ソビエト体制内で活躍、作品は政治の影響を大きく受ける

1925年、音楽院最上級生で《交響曲1番》を書き重要な作曲家としての地位を獲得

革命とともに芸術はソビエトの宣伝材料となり、社会主義リアリズムが生まれた

新しい試みの冒険的な音楽は全て禁止され、抽象主義の気配がわずかでもあると禁止

1936年、《ムツッェンスクのマクベス夫人》の上演でスターリンが堕落した音楽に激怒、公式の非難を浴びたが、翌年《交響曲5番》を発表して復権に成功したが、以後迎合的で無難な音楽しか書かなくなる

これだけの変わり身の速さは、彼の二重人格構造を表し、体制迎合の日和見主義者でもある。瘦せ型で生真面目、神経質で吃り、相手と視線を合わさず、強迫神経症的症状

戦後もソビエト当局は著名音楽家を名指しで非難、それぞれに謝罪したというが、1949年ショスタコーヴィチもスターリンの政策を称えたオラトリオ《森の歌》で名誉を回復

1953年のスターリンの死で、それまで批判された音楽家は免罪とされたが、その後も音楽に対する凍結は続き、芸術の自由は弾圧された

1971年、《交響曲15番》を作曲、作曲能力は低下していなかったが、至る所にワグナーやロッシーニ、自作の引用が見られる。これ以降創作活動は衰え、75年心筋梗塞にて死亡

 

第6章        禍福あざなえる長寿人生

l  生涯の汚点は悪妻だけ――ハイドン(17321809)

1755年、貴族の楽団に入って作曲を始め、59年エステルハージ侯爵の副楽長となって以降彼の音楽の発展が始まり、以降29年に及び同楽団に仕える

全てに慎重なハイドンが唯一慎重さを欠いたのが結婚相手の選択で、モーツァルトの妻と共に音楽史上に名の残る悪妻。灰色の家庭生活で子供にも恵まれず孤独だったが、それがかえって多くの芸術作品をもたらした

1790年、エステルハージ家の当主が代わると楽団は解散、ロンドンの興行師のもとで作曲するなど、活発な創作意欲を示す

1780年代初めにモーツァルトと出会い、その性格の違いに関わらず互いに強く惹かれた

1801年に《四季》を完成させた後、めっきり元気がなくなり、03年の弦楽四重奏曲の最初の2楽章だけ書いたのを最後に筆をおき、演奏活動もその頃が最後となる

1809年、ナポレオン軍のウィーン侵入の砲声を聞きながら老衰で死去

健康状態や精神状態に関する記載はほとんどなく、余生も規則正しい日課で過ごしたというが、1803年ごろの手紙には神経衰弱を訴えており、脳動脈硬化による鬱病と思われる

 

l  食べたいだけ食べた76年――ロッシーニ(17921868)

24歳で《セビリアの理髪師》を書くなど37歳で39曲目のオペラ《ウィリアム・テル》を書いた後の39年間は、二度とオペラの作曲をせず謎に包まれた生活を送っている

気力が衰えて自分で自分を強制しないと音楽が書けないと書いているところから鬱病に罹っていたと考えられる。怠け者の音楽家と呼ばれたように、「浮世の楽しみのために早々に引退した」と論評されている

故郷ボローニャの産物を好んだと言い、調理法に大いに興味を持ち、ロッシーニ風と名のつく料理が数十種もある

40歳のとき深刻な腰痛疾患・坐骨神経痛に襲われ、43歳で健康を害し、47歳で神経衰弱が亢じ、50歳ごろから慢性尿道炎が悪化。61歳で精神錯乱状態に陥り、一時回復して、73歳で晩年の最大の傑作《小荘厳ミサ曲》を完成させる

76歳のお祝いの後、直腸瘻(ろう)の手術のあと敗血症状が現れ死亡

晩年のパリ時代に書いた作品は186曲に上り、「老いの過ち」という題名で総括されているが、食べ物に対する異常な関心を反映して、食べ物に関する曲が多い

 

l  愛するコニャックが命取り――リスト(181186)

オーストリア国境近くの故郷アイゼンシュタットで歌い継がれた民謡や語り継がれた伝説の数々がリストに大きな影響を与え、後年多くのハンガリー民族音楽を作曲

父親はエステルハージ家の会計係で音楽・美術に造詣が深い

チェルニーやサリエリに師事、ベートーヴェンの前で演奏し、才能を認められる

衝動的で物事に熱中しやすい性格。若くして成功するが、早くから躁鬱病

1834年、伯爵夫人のサロンに出入りして夫人と不倫して駆け落ち、厳しい非難を浴びながら新家庭を築き、コジマなど3人の子供を設けるが、44年には破綻

世界的なピアニストとしての栄誉と財産を築き、贅沢三昧の日々を送ると同時に、恵まれない音楽家や埋もれていた先達の作品を世に送り出す。ショパンの作品を演奏会のプログラムに必ず載せ、ヨーロッパ各地に広めた

多くの作曲家がリストに曲を献呈、リストも交響曲などをピアノ曲に編曲して返しているが、その陰にポーランド出身のヴィットゲンシュタイン公爵夫人がいた

公爵夫人との結婚の許可を教会から得られず、晩年は僧院で暮らし、ヴァチカンを離れることなく、高位聖職者たちと宗教論を交わして過ごし、精神的安定を得た

1880年ごろから健康が損なわれ始め、心臓か腎臓疾患からの水腫が出たので好きな酒をやめさせようとしたが出来なかったが、作曲能力は落ちない

風邪からの肺うっ血により高熱を発し、コニャックを禁じられて気力が萎え死去

生涯を通じて恋愛事件の連続で、これがむしろ活動に活力を与えていた

 

l  作曲が支えた孤独の悲しみ――ヴェルディ(18131901)

10歳で教会のオルガン奏者となるが、オルガンの師の娘と幸せな結婚をし、1839年にはオペラ《おベルト》で空前の大成功を収めながら、2人の幼子と妻を相次いで亡くし、鬱状態になって自殺まで決意

1842年、悲しみを押して書いた《ナブッコ》で決定的な成功を収め、主役の歌手ストレッポーニと再婚

フランス革命に刺激されイタリアでも祖国解放運動が起こり、61年の独立の際は国会議員となってオペラ振興に貢献

生涯26曲のオペラを書き、自ら最高傑作という《アイーダ》(‘71年初演)の後はペースダウンするが、《オテロ》(‘87年初演)では全く新しいヴェルディが現れた

生涯様々な病気がつきまとい、子供の頃から慢性扁桃腺炎があり、頭痛や神経性胃炎、リウマチに悩まされる。死ぬまでワインと喫煙を続け、84年眩暈、972度目の妻にも先立たれ孤独となって健康状態も悪化したが創作能力は落ちなかった

晩年はしばしば一過性脳虚血発作を起こし、左脳内包部の大出血のため右半身麻痺もあって、何回目かの発作で死去。《ナブッコ》のコーラスで葬送

 

l  長寿の秘訣は恋とヴァイオリン――J・シュトラウス(182599)

父親は売れっ子の音楽家で息子を実業家にしようとしたが、愛人が出来て家を出たため、息子は音楽の道に進み、父親の楽団に対抗して人気を博し、その後急逝した父親の楽団も引き受けて、生涯479曲のワルツを作曲

1867年、《美しき青きドナウ》は新し合唱ワルツとして初演されたが失敗した後、パリ万博で演奏されてヨーロッパ中に流行

1870年、母と弟のヨーゼフが相次いで死去すると鬱病になって作曲する気力を失う

1899年肺炎に罹患、それが死因となる。鬱病以外は比較的健康だったが喫煙が災い?

 

l  全聾を克服する精神力――フォーレ(18451924)

音楽とは無縁の家に生まれ、音楽学校でサン=サーンスに習い、卒業後は教会のオルガニストに。普仏戦後辺りから作曲を始める

フォーレの音楽は洗練された感覚と微妙な均整、控えめな表現により詩的な幻想や内心の抒情をもたらすもので、これは彼の穏和な性格が反映している。宗教的な音楽学校での精神的規律を通して訓育され、教会内部と常に密接な関係にあるオルガニストという仕事によって運命づけられていたといえる

サン=サーンスからも、芸術家として絶対必要な野心が欠けていると指摘されている

28歳で失恋から鬱状態となり、回復して結婚したのは10年後

1903年ごろから聴覚障害が現れ始めるが、05年パリ音楽院の院長となり、作曲能力は落ちていない。75歳で聴覚がほとんど失われ院長も辞任したが、作曲は死の年まで続く

死因は未公表だが、直前まで作曲をしていたので動脈硬化か心臓障碍だろう

 

l  心臓発作で閉じた精力的な生涯――R・シュトラウス(18641949)

父は高名なホルン奏者で、父親から音楽の手ほどきを受け、早くから作曲に親しむ

1933年、ウィーンからベルリンに移り、ナチスの国家政策に迎合、音楽局総裁に就任したが、ユダヤ人ツヴァイクの台本による歌劇《無口な女》を作曲して睨まれ総裁を追われるが、多くの機会に無報酬で指揮して自らとその一族の延命を図る

若い頃から病気がちで神経質、頑固だが、逞しい精神力と新鮮な想像力を持つ

1891年肺炎に罹患、危篤に陥るが回復。94年には肋膜炎から重い気管支炎を併発

1949年、ガルミッシュの自宅で誕生日を祝った後心臓発作、以降回復せず

 

l  鬱に苦しんだ20年――シベリウス(18651957)

フィン民族の民族伝承叙事詩カレワラに激しく傾倒、創作期の一連の交響詩にその影響が現れている。国からの年金を得て、作曲活動に専念

1900年、パリ万博で演奏の《フィンランディア》は彼の名を一躍ヨーロッパ中に広める

1907年、喉頭ポリープ切除したが、死に対する思いに深く沈潜するに至り、その後の作曲でも精神の深層が響きとなって浮かび上がる

深刻な鬱病に悩まされていて、それが原因で6585歳の間全く筆を執っていない

北欧の気候が芸術家の精神に影響を与えているのは、ムンクやストリンドベリでも見られ、長く冷たく暗い冬は、創造の苦しみと孤独な闘いですり減らされた神経を傷めつける。そうした環境を克服したところに北欧独特の芸術が生まれてきたと想像される

1957年、脳出血発作で死去

フィンランド人の母を持つ渡辺暁雄にとって、シベリウスの音楽は母国の音楽

 

l  病が巣食う肺――ストラヴィンスキー(18821971)

マリインスキー劇場のバス歌手の父を持ち、リムスキー=コルサコフに作曲法や管弦楽法を学ぶ。ディアギレフに巡り合って彼の注文で《火の鳥》(1910)を書き、一躍有名に

1次大戦と革命で祖国を離れ、39年渡米後再び新鮮な創作力を取り戻す。当初は賛否両論だったが、1951年本格的なオペラ《道楽者のなりゆき》がヴェネツィアで初演されると、圧倒的な成功を収める

若い頃から肺結核に罹患しながら、89歳直前まで長生き

ロシア・バレエために作曲した3部作は、一定のリズムを執拗に反復することで、聴衆の興奮を呼び起こす。超大型オーケストラの曲から、第1次大戦後は一転して小グループのための音楽、鋭い精密な作曲法に移行しているが、音楽のスタイルが急変したのは強迫神経症によるもので、一定の儀式を持つ作曲に対して攻撃、衝動を示し、大戦後強迫神経症から脱却したのちに異なるスタイルが現れたと推測

 

 

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