広田弘毅  井上寿一  2022.1.17.

 

2022.1.17. 広田弘毅 常に平和主義者だった

 

著者 井上寿一 1956年生まれ。一橋大大学院法学研究科博士課程単位取得退学。法学博士(一橋大)。学習院大法教授

 

発行日           2021.10.10. 初版第1刷発行

発行所           ミネルヴァ書房 「日本評伝選」

 

序章 さまざまな広田弘毅像

1.    フィクションとノンフィクションの間

今も広く共有されている広田像を確立したのは、1974年の城山三郎の『落日燃ゆ』で、「福岡の石屋の長男として生まれ、家は貧しく、藺草(いぐさ)を売り歩き学用品を買う足しにした。字が上手く学業成績優秀、周囲の勧めで修猷館に進学。当時勃発した三国干渉で外交で負けたことが悔しくて外交官を目指す。一高、帝大法を経て外交官試験に首席で合格。外務省ではエリートコースから外れがちだったが、30年代の危機になると外相から首相と上り詰める。平和を求める努力は軍部の専横によって妨げられ、広田の意思とは異なって戦争が拡大、国家的破局を迎える。敗戦後、意外にも戦犯となるが、法廷では一言も自己弁護をすることなく運命を受け入れ、唯一の文官として極刑に」と、悲劇の人物像が浮かび上がる。3年で45万部のベストセラーで、毎日出版文化賞と吉川英治文学賞を受賞

新潮社では否定的な見方もあって当初7000部とされたが、力作を勘案して1万部に。題名も作者は広田の無私の人生に惹かれたとして『自ら計らわず』『風車、風の吹くまで』だったが、編集者の判断で変更された

ベストセラーになったのはテレビドラマ化が寄与――NET(現テレビ朝日)が松山善三の脚本、滝沢修・高峰秀子主演で2時間ドラマとし、「政治家は弁明せず、責任を取る」という倫理的テーマを見事に再現したとして絶賛

城山は、ベストセラーの相乗効果で既刊本も売れ、押しも押されもせぬ流行作家となる

刊行された当時、立花隆によって田中金権政治が暴露され、世間の批判を浴びていたという社会現象もある

執筆の動機は、「当初の構想は、自身と戦争指導者の人生を並行して描く戦争小説だったが、広田の人間的魅力に惹かれて、広田の生涯だけを書くことになった」と自ら語っている

戦後50年の吉村昭との対談では、広田を通して自分自身のことを書いたのではない」と否定してはいるが、吉村が「根底にある広田をどう見たか、そこに自身が投影されている」と指摘したように、城山は広田に仮託して自己を語り、『落日燃ゆ』を通して個人史を綴った

広田に対する城山の固有の「見方」とは。軍国少年だった城山は、海軍に志願するが、すごい階級社会やリンチに失望、戦後商大の寮でも言葉のリンチに遭い、これらの体験が終生つきまとい、それが「天皇制」への懐疑に繋がる

1959年の皇太子成婚パレードに一文を寄せ、「人間皇太子」が「別格扱いに騒がれ出した」ことが、戦前の天皇制と二重写しになったと憂慮

天皇制への懐疑が『落日燃ゆ』にも色濃く反映――1つは、首相を拝命した際天皇が特別な条件として「名門を崩してはならない」といわれたことに愕然・索漠としたと記し、もう1つは予算編成期に天皇から「大元帥としての立場からいう」との前置きで、軍予算の必要額を言われ、首相としての善処を求められたことにも応える言葉を失ったという

城山の天皇制への懐疑と軍部への不信が『落日燃ゆ』のラストシーンに結実、主題が集約的に表現される――「万歳三唱して刑場に入る東条らの声を聞いて、広田は教誨師に「いまマンザイをやっていたでしょう」という。自ら促されて、板垣と木村がやる中加わらず。意識して「マンザイ」といった。広田の最後の強烈な冗談だった」とあるが、史実とは異なる

花山教誨師によれば、広田も万歳三唱に参加しており、「マンザイ」とは絞首刑で踏板が開くときのかなりの響きを紛らわすために場違いな嬌声を流すのを広田が聞いて確かめたものであり、広田は最後まで平常心を失わずに運命を受け入れたと理解される

『落日燃ゆ』の広田を愕然とさせた天皇の2つの発言についても、「名門・・・・」については、当時貴族院改革の動きへの牽制の意味であり、「予算」についても、天皇は軍拡を求めたのではなく、軍事戦略と外交戦略の「完全協調」を求めたとされていて、史実と異なる

城山がいうように、『落日燃ゆ』は歴史小説(フィクション)であって広田の評伝ではなく、広田の実像を描いているとは限らない。根拠となる史実をどのように解釈するかは創作の範囲内。どちらの解釈が正しいかの問題ではない

 

2.    研究史の中の広田弘毅

研究史では広田外交は批判的な評価――1983年の臼井論文が通説で、「30年代外務省の主流派と称し得る広田・有田・重光などのグループは、独自の政治的判断と現象感覚を持ち、軍部の構想・運動と時に撞着し時に補足し合いながらも、満州事変から太平洋戦争にかけての日本の国策の基準形成に重要な役割を果たしてきた」というもの

外務省対軍部の2項対立より、外務省内における2つの外交路線に注目――「欧米派」と「アジア派(革新派)」の2路線で、前者は幣原、出淵勝次、佐分利貞男、佐藤尚武であり、後者は有田、重光、谷正之、白鳥敏夫。広田は有田や玄洋社との繋がりから後者に分類

前者は、国際協調外交を展開、職業外交官に限らず、軍人でも外相に就任すると日中戦終結や日米開戦回避に努めた宇垣一成(陸軍大将)、野村吉三郎(海軍大将)がいる一方、後者は職業外交官のみで、枢軸国に接近しながら戦争の拡大が進む

広田外相の外交方針に強い影響を及ぼしたのは重光の構想で、特に国際連盟脱退後は、日本は極東の安定に責任を持ち、敵対者に対しては完全防御を行うとした――具体的には、中国から欧米勢力を駆逐、海関(英国が中国の開港地に設置した税関)制度から解放して「日中友好の誘因とする」

陸軍に強いられたのではなく、自立的な対外構想と「微妙に相補足しあって」いた。独自の観点から陸軍の中国大陸への勢力拡大を容認したとされる

有田は、外相として広田首相を支え、中国からの英米勢力の全面的な退場を企図。さらに、南方に対する民族的経済的発展を図り、36年には日独防共協定締結へと至る

このような実証史学に基づく通俗的な理解が描く広田像はその後修正され、第3の広田像となる――軍部への抵抗姿勢が弱く、部下の掌握も出来ず、ポピュリズムに流されがちな、消極的、受動的な外政家としての広田像

最近10年の研究では、対中政策は広田の了解のもとで次官の重光が主導的役割を果たしたとされる一方で、広田外交期の日本外交を、積極的、能動的に描き出そうという試みもある――既存の広田像と広田外交期の日本外交との間には大きなギャップがある

 

3.    広田外交をめぐる3つの論点―論点整理

    外務省内における広田外交路線をどう評価するか――幣原路線と弘田の対立は間違いなく、英米協調路線では満州事変の不拡大を実現できず、広田外交は、吉田茂の「英米協調」による中国ナショナリズムの抑制か、重光の「日中提携」かの選択の岐路に立つ

    陸軍の政治介入――陸軍に対する広田の政治的自立性を前提とする見方。二・二六事件後に成立した広田内閣に期待されたのは「粛軍」だったが、陸軍の内閣人事への介入から軍部大臣の現役武官制が復活

    広田の日中戦争外交――主要な評価基準は、①南京事件(外相として知りながら閣議に持ち出さなかった義務懈怠)、②トラウトマン工作(積極的に動かず)、③「国民政府ヲ対手トセス」声明(和平交渉を放棄した強硬論を展開)

 

第1章        青雲の志はどこへ向かったのか

1. 立身出世

石材店の長男として生まれ、父は、郷土の国士の墓標を1人で寄付しており、極貧ということはなかった

広田の立身出世の原動力は学問であり、自助努力と地域社会の支援があった

 

2. 思想形成

玄洋社の柔道場に通って、社長平岡浩太郎の支援を得る――1881年に西南戦争の生き残りが結党、天皇を戴く「人民」の政治参加に基づく国家を求めた自由民権運動を展開。対外的には東アジア連帯で、韓国の閔氏反乱の際は征韓論の急先鋒となり、日清朝三国関係を国際権力政治の文脈に位置付けていた

1889年、条約改正交渉に不満を持っていた玄洋社社員による大隈重信外相暗殺未遂事件

三国干渉にも憤慨し、以後国権主義的色彩を強める

広田は、玄洋社の活動の影響下に育ち、若い頃から社員になっている

圧勝だったはずの日清戦後に遼東半島還付に至った原因を拙劣な講和外交に求めた広田は、国士タイプの外交官を目指し、士官学校から一高・帝大に進路を変更

 

3. 上京

1898年一高入学。学資は玄洋社の援助。玄洋社の人脈を辿って頭山満に面会。2年になるとその支援も得て6人で寮を出て共同生活に入る

1901年東京帝大法科大学政治学科に入学

頭山の紹介で、同郷の外交官の先輩山座円次郎に会い、翌年の日英同盟では諸外国の新聞・雑誌の論調をまとめて出版。さらに、山座は広田らの高い能力を買って1903年には満鮮事情視察を指示。日露戦中も山座の指示でロシア側捕虜からの情報収集に従事。外務省嘱託として手当ももらっていた

 

第2章        外交官としてのキャリア形成

1. 外交官としての出発点

1905年外交官試験は失敗、翌年は首席で吉田茂と共に合格

1905年、玄洋社の大隈事件の首謀者の娘と結婚

小村外交を支えた同郷の先輩山座を通して、日露講和の教訓から広田が学んだことは大きかったし、さらには日本の外交にとって、支那や東洋問題が重要であることを教わる

 

2. 清国からイギリスへ

1907年北京赴任――在任18カ月と短期ではあったが、後に広田をして中国通たらしめる基礎となる。研究対象を北支から中支や辺境まで拡大、経済問題にも注力

1908年の第二辰丸事件(日本の武器輸送船がマカオ沖で清国に拿捕された事件)を契機とする排日貨運動が広東を中心に激化。広田は現地調査を通じて初めて実地で中国ナショナリズムに直面

1909年イギリス赴任――駐在していた山座参事官の引きによる。英語の研鑽に注力

加藤高明大使のもと、通商航海条約改定に取り組み、1911年に改正に成功

 

3. 本省勤務

1913年本省通商局第一課長へ帰任。この頃から、新聞・雑誌などメディア関係者との繋がりを重視。華族に要職を独占されていたハデな政務局に対抗心を燃やす

1915年の対中21か条の要求には反対。日本の生存に不可欠の基本的な「要求事項」とは別に、日本人顧問の派遣や鉄道施設権の供与などの「希望事項」を入れたことに反発――中国のナショナリズムの高まりを肌で実感していたからこその視点

1915年ボース亡命事件。イギリスから追われていたボースに対し、日英同盟により国外退去を命じた政府に対し広田は反対、頭山満に入れ知恵してアメリカへの亡命を画策、中村屋の協力で追放を回避。被抑圧民族への共感は玄洋社のアジア主義的な理念を通して形成されたのではないか

駐華公使の山座も21か条の前から本国政府の中国政策には批判的で、広田を呼び寄せようとしたが急逝、国際的な非難をかわす可能性は閉ざされる。広田は1918年同郷の盟友平田をも失う

1919年駐米一等書記官。赴任途上の船中で東京朝日の記者に「支那本土に手をつけてはならないし、欧米の勢力範囲を侵すべきではない」との決意を表明。満蒙特殊権益を除いて万里の長城以南の中国本土に対する内政不干渉と中国ナショナリズムによる国家統一の容認を意図し、中国を1つの国民国家として扱うというのが広田の立場であり、国際政治の基本的な認識枠組は勢力均衡balance of power     

 

4. ワシントン

大使は幣原、先輩の一等書記官が佐分利貞夫

1次大戦後のパリ講和会議で、日本は「サイレント・パートナー」と揶揄され、自国に直接利害関係あること以外の諸問題に対して沈黙しがちだった外交力のなさを痛感した有田・重光ら少壮外交官が、在外公館や本省にも働きかけて外務省の革新運動に乗り出す

真っ先に手を上げたのが広田。本省トップも若手の要求を受け入れる

最初の成果が「情報部」の設置

 

5. 情報部から欧米局へ

1921年、新設の情報部第二課長で帰国、欧米を担当、新聞・通信社対応も仕事の1

1921年のワシントン会議では、アメリカに日英同盟廃棄を迫られ、代わりに幣原が日米英仏4か国条約を提唱

1923年欧米局長就任――革命後のソ連との国交樹立が課題。通商貿易関係を求めつつ、国際共産主義運動に備えるという難題に取り組み、政経峻別の立場を貫く国交樹立に成功

1927年駐オランダ公使――ハーグ賠償会議に参列。安達峰一郎駐仏大使のもと国際協調外交の要諦を学ぶ。国連総会にも全権代理として出席

 

6. モスクワ

1930年駐ソ大使――1925年に日ソ基本条約締結から31年までは両国関係が最も安定した時期。ソ連側は1926年以降日ソ不可侵条約を提議したが、広田は日ソ漁業交渉を優先

1931年満州事変勃発により、日ソ間の軍事的緊張が高まる中、広田は政府の不拡大方針に基づいてソ連と交渉。満州国承認の前提として不可侵条約を迫るソ連に対し広田は積極的

 

第3章        試される「和協」外交

1. 外相就任

1933年斎藤内閣の外相に就任。内田康哉の後任として、周囲からの受けもよかった

満州事変によって軍部が主導権を発揮、受動的で後手に回った外務省の対応に白鳥敏夫情報部長や少壮外交官が反発、有田次官辞任に発展した後で、内田外交の行き詰まりを打開するため広田を推す声が強かっただけでなく、陸海軍も対中ソ外交改善を期待して歓迎

後任次官は重光

中ソ隣邦外交への期待に対し、広田はアメリカを隣国に加え、さらに対英関係の重要性に注意を喚起

外相就任の条件として2点を斎藤首相にのませる――①日本の外交は、連盟脱退の詔書に則り、孤立外交ではなく「友邦」である米英との外交関係の修復を目指す、②外交政策は外相を主導者とし首相が極力支持する(軍部に奪われた主導権の奪回)

 

2. 広田外交の構図

最初に提起したのが国際連盟脱退通告後の対米外交修復の重要性

グルー駐日米国大使も広田を好感したが、同時にアジア主義の政治団体である大東亜協会の設立委員になっていることへの懸念をも示す

広田外交の基礎;

    質実剛健。人民の尊敬を得た「官民一致」

    対ソ外交は、経済的な観点からの緊張緩和を志向

    満州事変の画期性を強調――満州国の経済的自立が極東の緊張緩和をもたらすとして、経済的アプローチの重要性を強調。日満支3国の経済的連携の強化を企図

    対米英外交の要諦は、国民的諒解を求めることが肝要

 

3. 議会における論戦

対中国では、国民政府内での対日妥協路線の台頭に伴い、日中外交関係の修復に動く

対ソでは、前年末の米ソ国交樹立による相互接近を背景に、緊張緩和を志向。北満鉄道買収交渉を再開し合意に至る

対米では、満州事変に伴うアメリカの対日世論悪化を受け、外交修復を模索。世界経済会議では日米共同して通商貿易の自由に基づく世界恐慌からの脱却を唱導。併せてワシントン・ロンドンの両海軍軍縮条約からの離脱の動きを牽制

対英では、伝統的親交関係を強調しその重要性を際立たせる

議会での論戦では民政党の論客中野正剛が、「軍事平等権とアジアモンロー主義」を主張したのに対し、広田は軍縮条約や軍事平等権への言及を避ける一方、モンロー主義を明確に否定、中庸を尊ぶ対主要国外交を主張

 

4. 対中外交

満州国の成立によって困難となった政治的提携に代わって、経済提携を進める――中国=資源供給・日本=製品輸出という経済的相互依存関係を重視。外交関係への好影響も

駐華公使に指示した基本方針の「本音」は、対英米協調と日中「提携」の均衡の中に「東亜」の新秩序を確立することだったが、情報部長の天羽英二は支那側に造反の動きあれば排撃しなければならないと非公式に発言、日本の排他的な東アジア支配への意思の表れとして受け止められ波紋を拡げ国際的なセンセーションに発展

 

5. ダメージコントロール外交

広田は、すぐに米英の駐日大使に対し事情を説明

アメリカの求める中国の門戸開放原則を守ると強調し、日米関係修復の具体的提案を指示

イギリス側も、中国政府への警告として発せられたものと理解した

にも拘らず両大使は、天羽声明が日本の本音であり、広田らの穏健派が対外強硬論の世論に圧されようとしていたのを正確に読み取る

日本は、海軍のワシントン条約破棄の主張が通り、広田もその影響が対英米関係に及ぼすダメージを最小限に抑える外交に転換。4か国条約の更新延長を働きかけるがアメリカの反対にあって挫折

 

6. 広田外交の国内基盤

1934年の広田外交は十分な成果を上げられなかったが、それに反して国内支持基盤は強化――外交への全幅の信頼を勝ち得、世間の評価も広田の発展期の協和外交が指導性を獲得し、国内情勢は益々常態化し始めたとされる

実態は、情勢の急速な進展に惑わされ、外交を無視した陸軍の武官会議決定により、華北分離工作が進む。対抗して広田の外務省は、統制派の陸軍中央との連携によって現地陸軍の抑制を試みながら、他方で現地陸軍の蒋介石政権否認を牽制する意図から、改めて蒋介石の国民政府を中国の正統政府として認める措置を取ろうとする。国会でも「自分の在任中に戦争はない」と断言するとともに、中国要人の招聘を復活、中国からの提案を受け欧米列強に先駆けて公使館を大使館に昇格させる

ところが、天津の日本租界での殺人事件をきっかけに、天津の支那駐屯軍参謀長が、華北分離を一方的に蒋介石に通告

皇道派の相沢中佐による統制派永田軍務局長惨殺により、外務省は陸軍とのパイプを失いながら、なおも対中関係修復を期す広田外交に対し、「親日派」の要人汪兆銘狙撃事件発生

さらに、二・二六事件へと発展し、岡田内閣は退陣し、広田も外相を辞任

 

第4章        国家の革新に乗り出す

1. 首相就任

後継首班として、近衛が固辞したため、対ソ関係改善を期待して広田に大命降下

広田は、元老重臣一致の支援を条件に受諾するが、陸相に内定した寺内が、閣僚の顔ぶれを見て辞退。陸軍から組閣に横槍が入ったが、何とか説得し他の政党からの入閣も得て、非政党内閣ながら斎藤・岡田に続く「挙国一致」内閣として発足

内閣発足にあたり、寺内陸相が今回の事件を謝罪し「粛軍」の決意を表明

軍部大臣現役武官制の復活は、広田内閣が主要な目標として掲げた「粛軍」のための陸海軍省官制の改正の結果であり、二・二六で予備役に退いた者を大臣にしないための方策

 

2. 革新政策

挙国一致内閣にも拘らず、政党と軍部の対立は深刻。政党は粛軍を迫り、軍部は政党内閣制を否定する議院内閣制の改革を志向。微妙な均衡の中で広田内閣は「庶政一新」を国家目標に掲げ、当時の「あらゆる現代国家」に共通する統制の強化を目指す。天皇からの直接の注意にも拘らず、貴族院改革にも着手

社会政策では、退職金積立金及び退職手当法の成立、教育改革として義務教育の6年制から8年制への延長

統制政策としては、電力国家管理案

格差是正政策としては、税制改革で、売上税や財産税を導入

 

3. 広田内閣の外交

当初、対英米協調を基調とする対中外交の修復を期待して吉田茂を外相に起用としたが、陸軍の横槍で実現せず、広田が兼任し、すぐに有田中国大使を呼び戻して外相とする

外務省と陸軍中央の関係修復に努め、華北分離工作の修正を画策

同時に、対英協調路線も進め、在中国イギリス権益の尊重を打ち出す

対米協調外交の修復にも乗り出し、アメリカの対支通商上の利益を尊重。グルーも広田の首相就任を歓迎

新たに異質な外交路線が登場――大島浩駐独日本大使館付陸軍武官が主導する日独防共協定路線として外務省の知らないうちに交渉が始まる

日中国交調整の成否は華北分離工作次第だったが、その間にも各地でテロや抗日の事件が頻発

外務省は陸軍から日独防共協定の交渉を奪い返し、イデオロギーに限定した協定とすべく交渉し1936年には締結に至るが、大島はリッペントロップと秘密付属協定を結び、実質的な反ソ軍事同盟としたため、ドイツと対立する英仏ソは中国を支援するようになりかねず、さらに張学良が蒋介石を監禁した西安事件が勃発、中国が内戦停止・抗日で合意し、外交関係は行き詰まる

 

4. 広田内閣の内政

庶政一新と粛軍を進めるが、通底するのは世界共通の現象でもあった国家統制の強化

粛軍を通じて広田は寺内との信頼関係を修復

国家統制法案が「氾濫」するが、議会改革は政党が反対、軍部と政党の対立も加速、遂には議会での政党の発言が「腹切り問答」に発展、閣内不一致から総辞職へ

 

第5章        なぜ日中戦争の拡大を止められなかったのか

1.    ポスト広田内閣

1937年、宇垣陸軍大将に大命降下あるも、陸軍の協力を得られず宇垣は拝辞

代わって陸軍の意向を受けて組閣したのが林銑十郎陸軍大将だが、海相候補で海軍と対立、庶政一新の法案を一部通すも、政権運用は難航。軍部と官僚の内閣ゆえに政党の協力が得られず、総辞職に追い込まれ、後継内閣についても意向が通らず、近衛の出番となる

 

2.    再び外相へ

近衛は外相に永井柳太郎を予定していたが、元老から親独伊的傾向に懸念が出され、結局広田にお鉢が回る。林内閣の1937年に国策の総合調整機関として内閣調査室が昇格してできた企画庁総裁の人事を巡り閣内対立が起こったため、企画庁総裁も広田が兼務。政党内閣期に遅滞していた社会政策の実現の好機が到来

 

3.    日中戦争の勃発

組閣の1か月後に盧溝橋での日中軍事衝突勃発

外務省は、一時的な日中緊張緩和から楽観論で、支那駐屯軍救援のための派兵には同意したが派兵は留保し、事件不拡大・局地解決の方針を決定

参謀本部も、大義名分を見出しがたしとして動員に反対の立場

近衛も広田も、日中関係の修復は陸軍の統制力の問題として捉え、自ら表立って日中頂上会談に動くことには消極的

案の定、日を追って陸軍内で強硬論が勢いを増し、収まりかけていた現地の紛争がぶり返し、内地からの動員まで一気に進む

 

4.    和平工作の展開

動員に先立って密使派遣の和平工作も進められ、蒋介石側も和平工作の可能性を探っていたが、上海でも一触即発の状況に発展(第二次上海事変)

広田は米内海相と連携して対応したが、陸軍の抑制と不拡大方針は破綻、全面戦争へ

政党出身の閣僚は軍部以上に強硬論であり、それをメディアと国民大衆の「暴支膺懲(ようちょう)」論が後押し

広田は陸軍も容認するドイツの仲介による和平工作を試み、駐華ドイツ大使トラウトマンを通じ和平条件を提示、蒋介石の態度は頑なで、その間に首都南京が陥落

南京からは、南京入城の皇軍による中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報が入る

統帥権容喙との批判を懸念してか、広田は皇軍の綱紀粛正を閣議に持ち出さず、陸軍大臣に厳談し軍務局に厳重抗議するのみ

国内の戦勝ムードの中で、近衛内閣は戦争終結を目指す――トラウトマン工作の再開と共に、前月防共協定に加わったイタリアにも支援を要請するが、国民政府からは何の反応もなく、外務省も強硬論が日増しに強くなり、逆に陸軍は多田駿参謀次長が和平を希求

 

5.    暗礁に乗り上げる和平工作

一方で、蒋介石は第三国を含む多国間交渉による解決を目指し、国際連盟に提訴

連盟は諮問委員会に付託するが、日本はあくまで二国間解決を主張し参加せず。総会決議に従って開催された9か国条約会議にも日本は出席を拒否。国民の戦果に対する過度の期待に押されたのが原因。会議も国際的な枠組みの中で解決されるべきとの声明を発表しただけ。蒋介石も諦めてトラウトマン工作に乗ってきたが、直後に南京陥落で、水泡に帰す

 

6.    「対手トセス」声明とその帰結

1938年、近衛内閣はトラウトマン工作の打ち切りを決定、「爾後国民政府ヲ対手トセス」声明を発表――なぜ声明が必要だったのか、単なる国民政府の否認ではいけなかったのか

国民政府否認は陸軍の結論で、広田や米内は反対したが、「対手トセス」としたのは外務省の案、事実関係を表した俗語で、国民政府の否定でもなければ国際法上の国交断絶でもないというのがその論拠

その後もなお広田の外務省は和平を模索。英米、中でもイギリスを利用して国民政府へ働きかけようとするが、5月の内閣改造で広田は退任、日中戦争の長期化が続く

 

第6章        戦争の終結を求めて

1.    国内革新政策

広田は初代企画庁総裁として中途半端に終わった改革の実現を目指し、近衛内閣で実現

その1つが厚生省の設置――1936年広田内閣の「保健国策」が起源。国民健康保険制度や保健所の設置で、陸軍も「衛生省」の創設を要求、「壮丁体位」の向上は急務

近衛内閣によって保健社会省の設置が閣議決定され、1938年厚生省として発足

初代大臣は、日銀総裁の池田成彬に断られ、木戸幸一文相が兼務

もう1つが電力国営化――外資の扱いを巡り激論の末、辛うじて成立

3点目が貿易産業政策――政府による統制を合法化

 

2.    対英米外交

広田外相の後任は陸軍の宇垣一成

日中戦争をめぐる対英米協調外交を志向したが、逆の結果をもたらしたことが心残り

「対手トセス」声明後広田が強調したのは中国の門戸開放と、第三国の中国における権益の尊重。併せて国内向けには対英米外交の重要性を発信し続けるが、広田外交は中国をめぐる日英米の権益を認めることを前提とした帝国主義的な協調であり、1920年代の協調外交の系譜に属する

 

3.    外相退任

興亜院の設置――外相退任直前まで取り組んでいた問題で、退任後に実現(193812)

中国占領地の管理問題を外務省から切り離して一元的に扱う部署

軍部の政治関与と閣議の意思決定の機能不全の状況下ではあったが、広田は一貫して反対

広田の退任をきっかけに、広田外交批判を基調とする外務省革新派が、白鳥を次官として担ぎ出す

宇垣は、白鳥をイタリア大使に起用して革新派の要求をかわすが、興亜院設立を巡り、外務省案に対し陸軍が絶対反対の決定を行ったため辞任、対英米外交の調整も幻に終わる

 

4.    貴族院議員として

外相退任後も広田は外交への関心を持ち続けたが、勅撰の貴族院議員では何もできず

日中戦の収拾に行き詰まった近衛内閣は19391月退任、代わって平沼枢密院議長が組閣、その外交路線は広田路線から大きく逸脱

最初は防共協定強化問題――ドイツからの締結申し入れに対し、大島、白鳥両大使の策動によって陸軍の対独接近を抑えられず

次いで汪兆銘工作――蒋介石に代わる傀儡政権を作り和平工作を進め日中戦終結を目指す

3つ目が天津租界封鎖問題――北支派遣軍が軍事作戦の一環として天津租界を封鎖、日英対立が顕在化し、アメリカも通商航海条約破棄を通告してくる

その一方で、ドイツがソ連との不可侵条約締結。欧州情勢「複雑怪奇」の声明発出後総辞職

後継は広田に内定したが、西園寺も難色、陸軍にも排斥運動があったため流れる

1939年阿部信行陸軍大将に大命降下。外相は海軍大将の野村吉三郎――天皇は陸軍統制への強い決意を伝達するとともに陸相に畑俊六侍従武官長を実質的に指名

阿部内閣は議会の信任を得られず総辞職(19401)、後継は米内

 

5.    重臣として

米内内閣の補佐役=参議として内閣を支える

対枢軸接近に消極的な米内に陸軍が反発し、退任した畑の後任を出さなかったため、6か月で瓦解

広田も参議を辞するが、、首相経験者と枢密院議長、木戸内大臣によって構成される重臣会議に出席し、後継候補の選出に加わる

大勢は近衛だったが、広田だけは、近衛の陸軍統制力の不十分さを知悉、陸軍が政治に関与するのであれば、陸軍に責任を取らせるべしと主張。陸軍に人がいなかったため、広田も消極的に近衛を認める

近衛が陸軍と連携して米内を倒したのは、自ら新体制運動を準備、現状打破を期したため

近衛は外相に松岡を起用、外務省に人事旋風を巻き起こすとともに、三国同盟を実現

19417月の重臣会議では、総辞職した近衛の続投を確認――総辞職の原因は、外交を巡る近衛と松岡の対立で、松岡の三国同盟+日ソ中立条約におる4国協商を作りアメリカに対して優位な外交的立場に立つことだったが、独ソ開戦でその構想が潰えたことから、日米交渉を続ける方向に舵を切るため総辞職して松岡を辞職させる

近衛新体制は、軍の統御も含む強力な一国一党体制を目指して大政翼賛会を設立させるが、違憲懸念から骨抜きに

日米交渉の行き詰まりにより3か月で第3次近衛内閣は総辞職、漸く広田の主張が通って東条陸相に大命降下。外相にも広田の予てからの推薦通り東郷茂徳が就任するが、11月の大本営政府連絡会議が日米交渉不成立の場合の開戦を決意しようとしたため窮地に陥る

広田は、開戦直前まで、回避の可能性に望みを捨てなかったし、外交史研究は真珠湾直前まで開戦回避の可能性があったことを明らかにしている

東郷は、前駐独大使来栖三郎に特命全権大使として渡米し、野村駐米大使の交渉の支援を依頼――対日石油供給再開と引き換えに南部仏印から北部への移駐を認める内容の提案だったが、アメリカ側は中国からの全面撤退を求める「ハル・ノート」を提出

重臣会議は、臥薪嘗胆を求め、広田は、開戦しても戦争外交は可能と主張したが、東条内閣は重臣会議の意見の影響を受けることなく意思決定を行う

開戦後は、職業外交官出身の重臣としての広田の役割も限られる――1942年日泰同盟慶祝特派大使としてタイを訪問。開戦直後日泰同盟締結、タイは対英米宣戦布告

後継内閣をめぐる重臣会議には出席――東条は対ソ工作のため広田の協力を求めるが、19447月の会議で重臣の入閣が却下され、東条内閣は総辞職。代わって広田は皇族内閣を主張するが、こぞって反対。小磯・米内連立内閣となる

対ソ外交の重要性については広田も認めるが、広田の特使派遣については先方が歓迎しない場合は言っても無駄と拒否。代わりに現地で自由に動かせるべきと上奏

広田は、ソ連を国際権力政治時の中で国益を追求する国家と見て、日ソ中立条約の廃棄通告回避のためには、ポーツマス条約の廃棄など相当の犠牲を覚悟しなければならないと主張したが、近衛は対照的に、ソ連の社会主義イデオロギーの重要性を強調。天皇は広田の現実主義的な対ソ外交論を受け入れだが、その前提となるどこかで戦果を挙げることは難しかった

 

6.    最後の和平努力

小磯は4月に辞職。広田は、後継は和平交渉開始のためにも戦果を挙げることを第一に、陸海軍を統率し得る人と主張。鈴木貫太郎海軍大将に大命降下、広田の主張は通ったが、期待した戦果を挙げることは出来なかった

小磯総辞職の日、ソ連は日ソ中立条約の不延長を通告

陸軍も鈴木首相も、ソ連以外に米英に対して仲介し得る国はないとし、東郷はそれに対し批判的ながらも、他に選択肢がないとして対ソ交渉開始に同意

東郷は広田に交渉を依頼、広田も快諾するが、肝心の講和条件が詰め切れないまま

広田は駐日ソ連大使のマリクと接触を開始するが、講和条件はあくまで広田の私見

6月の御前会議で、鈴木内閣の戦争継続の意思を危ぶんだ天皇は、自ら最高戦争会議構成員による「懇談会」を開催して、戦争終結に向けて舵を切る

広田・マリク会談は4回、何も成果のないままソ連の木で鼻を括ったような回答で終了。駐ソ佐藤尚武大使は、1カ月もの貴重な時間を空費したことに不満をぶちまける

88日のソ連参戦で降伏以外の選択肢がなくなる

 

第7章        歴史の審判

1. 戦犯容疑者

原宿の私邸を5月の大空襲で焼け出され、終戦当日は家族と共に練馬の知人宅で迎える

911日戦犯容疑者39人逮捕。広田は緒方竹虎とともに翌日の第2次容疑者とされたが、日本側の抗弁で2人は除外された

米国戦略爆撃調査団が空爆の軍事的効果を多角的に調査したなかで近衛を訊問、鋭い突込みに、天皇を守ろうとする近衛の答弁はしどろもどろになり矛盾に満ちていた

近衛は、東久邇内閣の無任所大臣に副総理格で入閣、いずれ首相になって憲法改正を行う意思があり、929日との会談でマッカーサーから憲法改正をリードして欲しいと励まされ意を強くしたが、国内外のメディからの対近衛批判が激化、戦犯容疑者を覚悟するようになる。それに比べれば広田への風当たりはひどくはなかった

122日梨本宮はじめ59名の逮捕命令が出され、広田も含まれていた。アメリカの世論が広田を容疑者として復活させた。広田は115日出頭して巣鴨に収容

126日には近衛他9名に逮捕命令

逮捕は、被告選定の判断材料を得るための国際検察局による尋問が目的

訊問に臨む広田は、「過ちと判定される事柄については責任を取る」として、事実を率直に話す。訊問者の報告では、「侵略の推進者とか陸軍の膨張政策を支援する政府の動きをスタートさせた主要人物に分類する情報は得られなかった」としながら、「軍国主義者ではないが、政府を統制しようとする陸軍の圧力に屈し、1つの侵略を黙認し、その結果を受け入れては、次の侵略への弾みをつける役割を果たした」として、「最初の裁判に含めるのは妥当」と結論付ける

自死した近衛に代わって、文官責任者の代表としてターゲットにされた

中国が出した主要戦犯リストの最初の12人には広田は含まれず、翌年2月に20名追加の中に含まれていた

広田は「陸軍の追随者」として最終リストに残るが、実際の裁判はその通りには進まなかった。新聞も広田の起訴の不当性を訴えようとした

 

2. 巣鴨プリズン

広田と重光は巣鴨で再会

重光は、4月になってソ連からの5人の追加基礎に含まれ、「強力な反共主義者」だったことから最後の2人として被告に追加された

429日、獄中の28人に起訴状が手交され、裁判は53日から開始

 

3. 東京裁判の開廷

罪状認否で広田は「責任がある」と否認を渋ったが、弁護人に諭されて折れる

弁護団は弁護方針の「思想統一」を図ろうとするが、開廷前から外務省と陸海軍の対立が顕在化。陸海軍弁護士は自衛戦争論を展開したのに対し、広田ら外務省側は個人弁護の立場

組織利益を巡る利害対立も弁護団の対立を助長

729日にはニュルンベルク裁判で22名全員が極刑を要求されたと知らされ、巣鴨でも極刑を覚悟するが、10月にグルーの「平沼・広田・重光は戦争突入の陸海軍の極端論者の政策行動に反対していたと確信する」との宣誓供述書が作成され、明かりが見えるが、裁判では供述書を却下

弁護側の清瀬弁護士の冒頭陳述には、平沼、土肥原、重光とともに広田も加わらず。広田の戦争認識は、清瀬の自衛戦争論による戦争の正当化を受け入れられなかった

検察の追及に対し、弁護側は広田が「侵略者」ではなく「平和主義者」だったことの証明に腐心、外務省がほとんど役に立たないなか、アメリカのジョージ山岡弁護士が孤軍奮闘

 

4. 末期の言葉

19481112日アルファベット順に判決言い渡し、広田に絞首刑が言い渡されると法廷に異様な驚きが起きた。A級戦犯25名のうち7名が極刑

キーナンは広田の死刑を最も遺憾とした

訴因の数には無関係。各国の利害が量刑に影響した可能性もあり、広田の場合は中国が南京事件で土肥原、板垣、広田の極刑を主張。評決は広田以外が74に対し広田は65

死刑に反対したのは、ソ連、オーストラリア、インド、フランスで、広田の場合はオランダが加わる

占領下の新聞が判決を批判するはずもなく、紙面は判決の正当性を主張する記事ばかり

広田に対する減刑嘆願署名運動が福岡や東京で始まる――勝者の裁きに対する反発やナショナリズムの盛り上がりもあって、署名運動は盛り上がっていく。ローマ法王も減刑に動く。減刑の是非を検討する再審の可能性もあったがマッカーサーが原判決を維持し、刑執行を命じる。米国内で広田の最初の代理人だった弁護士が死刑執行停止の効力を持つ「人身保護令状」の発給を求めたが、連邦最高裁は却下

1223日刑執行。前日教誨師に対し、中国の国共内戦状況を懸念、日ソ和平交渉が意のままに進められなかった悔恨の気持ちを伝えている

遺骨の埋葬について、米軍当局は米軍兵士と同じ墓に埋葬されることを拒否。「超国家主義者の集結地」、戦後日本の反連合国ナショナリズムの拠点になる恐れがあったからだが、国民も侵略戦争だったことを否定せず占領を受け入れ、反連合国のナショナリズムが台頭することもなく、広田の処刑を最後に、東京裁判の記憶は忘却の彼方へと去る

 

終章 広田弘毅とその時代

遺骨の存在が明らかになったのは2021年になってから――米公文書館の史料によって横浜沖の太平洋上に散骨された

2006年、日経が元宮内庁長官冨田朝彦のメモの一部を公開、昭和天皇の靖国参拝中止の原因がA級戦犯合祀にあると判明。朝日は孫の広田弘太郎の「祖父が靖国に祀られているとは考えていない」との談話を載せたが、A級の遺族で明確に合祀に異議を唱えたのは広田家が初めてで、重い意味を持つ

広田がどう考えたかは、広田の生涯を内在的に理解した上で、各自が推理する以外にない

広田は日記や回顧録を残さず、一方重光は膨大な資料を残し、それに依拠して広田外交の再現を試みると、史料に引き摺られて重光外交を論じていることになりがち

広田の生涯は、近代日本の興亡の歴史と重なる。広田像が分裂しているとすれば、それは近代日本に対する歴史的な評価の分裂を示唆する。広田像の再構築は、近代日本像の再構築に繋がる、広田の生涯を通して近代日本像が立ち現れる

広田の立身出世の背景にあったのは、学校や地域の支援。玄洋社との密接な関係もこの文脈の中に位置付けるべき。広田にとって玄洋社は郷党(郷土意識から生じた同類意識に基づく一種の党派的結合)であり、大切にした

外交官試験合格の前後、郷土との結びつきを強める――玄洋社社員の娘と結婚、中学の同級生と共に合格、玄洋社の先輩山座の薫陶を受ける。ロンドン赴任の時は「福岡大使館」といわれるほど福岡出身者が多かった

ロンドンから本省に帰任するころから次のキャリアを目指すようになる。政治に興味を持ち、官僚気質がなく広く世間の人々とも交際。外務省外にも人的ネットワークを広げながら外交官としてのキャリアを積み上げる

外交官としてのキャリアを通して、大国間国際政治における列国協調路線を踏み固め、イデオロギーと国際権力政治を切り離して、列国協調文脈でソ連との不侵略条約の締結を目指す

1933年、外交官としてのキャリアの頂点に立ち、広田「和協」外交が試されることになる

広田「和協」外交は、英米を中心とするソ連も排除しない列国協調。他方で満州事変の前後数年間をモスクワで過ごした広田は、変動する中国情勢から遠い場所にいたため、複雑を極める具体的な中国政策の立案と実施は中国在勤が長い重光を次官に起用して任せる

序章の広田外交を巡る3つの論点の第1点目については、「英米協調」の広田と「日中提携」の重光の相互補完関係において展開されたのが広田「和協」外交であり、2つの対外路線の均衡保持を目指していたと答える

世界は「平和とデモクラシー」の時代を迎え、日本では幣原が外交をリードし、協調外交の成果を謳うが、戦後幣原は行き過ぎた平和とデモクラシーの風潮が軍部を追い込み、後の反発につながったと反省

広田が外相に就任した時に直面したのが、このような軍部の反発で、軍部の制御が重要な役割となり、陸軍内派閥対立を利用して制御しようとするが、相澤による永田惨殺を機に制御不能に陥る

二・二六でいったん広田の命脈は尽きかけたが、首相の座が転がり込み、陸相を自ら選定する現役武官制を復活させ挙国一致内閣を発足させ、国家による統制を目指して広範な改革を進める。対する外交は現状維持路線で、自ら対米協調外交の修復に乗り出す

論点の第2点目については、軍部の政治介入に譲歩しながらも抵抗したといえる一方、国家革新新政策を実行に移す際に、広田の内閣は国家社会主義を志向する陸軍の軍事官僚の支持を得ていた

3の論点については、まず南京事件の位置付け。首都陥落直後に事件を知らされ、戦勝気分に沸く世論と閣僚の強硬論により和平条件が加重されていく中にあって閣議で綱紀粛正を求めても受け入れられそうになく、陸相に綱紀粛正を要望したのに、広田の対応が東京裁判において極刑を引き出す直接の要因となったのは過酷(ママ)に過ぎた

2のトラウトマン工作については、蒋介石の真意が戦争終結ではなく「抗日」に転換したと認識して工作の打ち切りに舵を切ったのは外務省

3の「対手トセス」声明については、その後も広田は和平を模索。元々現状維持の広田は、独伊の和平仲介に消極的で、イギリスに最も強く期待していたが中途で外相退任

広田は退任後も日米交渉を諦めなかったが、重臣としてできることは限定的。対米開戦回避を主張する広田は、軍人内閣を推す。毒をもって毒を制すとの考えからだったが、東条は開戦に踏み切る。軍人内閣でも抑えられないとなれば、次は皇族内閣だが、それは他の重臣が反対して実現せず

それでも戦争終結の重責が広田に課せられる。駐ソ大使の経験のある広田に託されたのは、ソ連を仲介国とする連合国との和平交渉だったが、政府から具体的な指示はなく、広田の和平努力は水泡に帰す

戦犯容疑者となって訊問を受けた際も、言うべきことはきちんと言ったが、法廷では沈黙を貫く、広田は責任を引き受けた。広田の政治的誠実さは疑問の余地がないが、責任が法廷で問われた時、広田は極刑を甘んじて受け入れようとはしなかった。極刑は広田にとって量刑不当だった。広田の存在を全面的に否定する東京裁判の判断は、近代日本を全面的に否定する負の遺産を戦後日本に残すことになった

 

 

 

 

 

広田弘毅 井上寿一著

「悲劇の宰相」の外交と内政

20211127日 日本経済新聞

東京裁判で文官として唯一、処刑された広田弘毅の評伝である。

城山三郎の小説『落日燃ゆ』が広田のことを、平和を求めつつ軍部に妨げられ、処刑された悲劇の宰相として描き、読者の強い同情と共感をかちとった。

これに対して、歴史研究においては、広田が中国大陸への拡大を支持していたとか、国内の圧力で受け入れたといった解釈が有力である。

広田自身が残した資料が乏しいこともあり、判断は難しい。本書は、予断を排して平明な文章で広田の足跡を追っていく。そして終章において結論を明確に示す。

広田が国家主義的な団体、玄洋社の一員であったことはよく知られている。だが本書はそれを、広田の外交政策を規定したというよりは、福岡の郷里人脈の一環であると位置づける。

広田は外相として、ついで首相として、1930年代の日本外交を指導した。1度目の外相の時代、外務次官は重光葵だった。重光は満州事変で悪化した関係を改善すべく、日中提携に努める。だが欧米の関与を排除することで、日本に有利な2国間外交を中国に押し付ける危険性があった。これに対して、広田は英米の了解を取り付けることに努力した。広田と重光が補い合う営みとして、本書は広田外交をとらえる。

広田の内政も興味深い。広田内閣は「国策の氾濫」と評されるほど様々な改革に手をつけた。昭和天皇や元老・重臣が歓迎しないものも含まれていたが、社会政策や統制を求める世界的潮流に逆らわなかったようだ。退陣後は、再度の外相兼企画庁総裁として厚生省の設置を実現する。

日中戦争が勃発すると、広田外相は和平工作に努めるが、有望だったトラウトマン工作は打ち切ってしまう。蒋介石政権が妥結への意欲を失っていたのだと本書は指摘する。非常時だから非常の粘りを示す、というのは広田の本領ではなかったようだ。

総じて広田の人生は、バランス感覚に富む外交官が、極端な時代に遭遇した軌跡を描いたといえよう。処刑の瞬間の広田の振る舞いについては謎があるが、この軌跡の延長線上に、著者は一つの答えを示している。その中身は本書に譲りたい。

《評》東京大学教授 五百旗頭 薫

(ミネルヴァ書房・3850円)

いのうえ・としかず 56年生まれ。学習院大教授。専門は日本政治外交史。著書に『戦争調査会』『はじめての昭和史』など。

 

 

 

Wikipedia

広田 弘毅(旧字体:廣󠄁 弘毅、1878明治11年〉214 - 1948昭和23年〉1223)は、日本外交官政治家勲等勲一等。旧名は丈太郎(じょうたろう)。

外務大臣(第49505155代)、内閣総理大臣32)、貴族院議員などを歴任した。戦後に行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として有罪判決を受け処刑された。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1878明治11年)214日、福岡県那珂郡鍛冶町(のち福岡市中央区天神三丁目)の石材店を営む広田徳平(通称:広徳)の息子として生まれた。初名は丈太郎(じょうたろう)。徳平は箱崎農家の息子で、広田家に徒弟で入り真面目さと仕事熱心が買われ、子どもがいなかった広田家の養子になった。

今日でも福岡市の東公園内にある亀山上皇像の銘板には設置に功績があった石工として徳平の名が刻まれている。『広田弘毅伝』などによると、当時の広田家はひどく貧しかったというが、親族によるとそれほど貧しくはなかったという。また徳平は条約改正に反対し、大隈重信に爆弾を投げつけて重傷を負わせた来島恒喜のために立派な墓碑を寄贈した。来島は玄洋社の社員であり、広田家と玄洋社の間につながりがあったことを示している[1]

学生時代[編集]

福岡市立大名小学校、高等小学校卒業後、予科を経て福岡県立修猷館(のち福岡県立修猷館高等学校)に入学した。同窓生には同期で外交官となった平田知夫がいる。広田は幼少期から柔道書道を得意としており、玄洋社の所有する柔道場で稽古をしていた。後に柔道場が新築された時の落成式では総代を務めている。このころ玄洋社の社員となった[注釈 1]

当初は家計への負担をかけないために陸軍士官学校への進学を志望していたが、修猷館時代に起きた三国干渉に衝撃を受け、外交官を志した[2]。修猷館卒業直前、帰依している禅宗僧侶に相談に行き、「おまえが自分で自分に責任を持てると思うなら自分で名前を考えろ」と言われ「弘毅」と改名した。「弘毅」は『論語』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅(「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力)ならざるべからず)から採った。改名は正当な理由が無いと難しいが、僧籍に入る場合は改名事由となるため1年間寺に入ったということにしてもらった。

修猷館卒業後、平田とともに上京し第一高等学校東京帝国大学法学部政治学科に学んだ。学費は玄洋社の平岡浩太郎が提供している[3]。また頭山満の紹介で副島種臣山座円次郎内田良平杉山茂丸の知遇を得た[4]。内田の紹介で講道館に入り、また山座には特に気に入られた。山座は広田らに外交関連の小冊子の発行を依頼し、1903(明治36年)には朝鮮の視察を命じている。日露戦争時には捕虜収容所で通訳を行い、ロシア情報の収集に当たった。大学卒業後の1905(明治38年)に高等文官試験外交科を受けるが、英語が苦手で落第、ひとまず韓国統監府に籍を置いて試験に備えた。帝大同期の佐分利貞男は首尾よく合格している。赴任直前に玄洋社幹部・月成功太郎の次女で、広田らの下宿生活の手伝いをしていた静子と結婚した。静子との結婚前には元外相・加藤高明の紹介で三菱財閥の令嬢との縁談が持ち上がったが、これを断っている[5]。翌年の高等文官試験外交科では、合格者11人のうち、首席で合格して外務省に入省した。同期に吉田茂武者小路公共池邊龍一林久治郎らがいる。

外交官時代[編集]

1907(明治40年)、清国公使館付外交官補として北京に在勤、その後は三等書記官としてロンドンの在大使館に赴任。1913年(大正2年)6月、本省の通商局第一課長となり第一次世界大戦後、中国への「対華21ヶ条要求」の条文作製に参加するものの最後通牒の形で出すことには強く反対した。1919(大正8年)、ワシントンD.C.に赴任することとなり、その際サンフランシスコに着くと外務省の役人として初めて日本人移民村の視察を行い、移民たちから歓迎を受ける。

その後、新設された情報部の課長、次長を経て1923(大正12年)9月、2次山本内閣発足にともない欧米局長となる。次の加藤高明内閣では国際協調を重んじる「幣原外交」のもとで欧米局長として対ソ関係の改善に取り組み、1925(大正14年)の日ソ基本条約締結により国交回復にこぎつける。当時、広田は党派を超え広く外部と交際しており「外務省には幣原出淵、広田の3人の大臣がいる」と言われるほどであった。

1926(大正15年)11月、オランダ公使を拝命(任地ハーグ着任は1927(昭和2年)6月)。1930(昭和5年)10月、駐ソビエト連邦特命全権大使を拝命(任地モスクワ着任は12月)し、1932(昭和7年)にかけて務めた。着任後、満州事変が勃発。政府は軍を直ちに撤兵させる旨を各国政府に通告するよう駐在大使・公使に訓令を出したが広田は慎重な態度をとり、ソ連に通告を出さなかった。関東軍は撤兵することなく永久占領の形でチチハルに居座り、駐在大使・公使が各国政府の信頼を失う中、モスクワだけが例外となった。

協和外交[編集]

1933(昭和8年)914斎藤内閣外務大臣に就任。これは前任者の内田康哉の人選によるものである。このとき、各国の駐日大公使を招いて新任挨拶をした際、駐日米国大使ジョセフ・グルーの信頼を得る。斉藤内閣で5回にわたり開かれた五相会議では、対ソ強硬意見を唱える陸軍大臣・荒木貞夫と海軍大臣・大角岑生を相手によく渡り合い、陸軍の提出した「皇国国策基本要綱」を骨抜きにした。

1934(昭和9年)417、外務省情報部長・天羽英二が中国大陸(中華民国)に対する外国の干渉を退けるという趣旨の会見を行った(天羽声明)。この発言を欧米諸国は「東亜モンロー主義」であるとして激しく非難し、外務省内部からも反発された。天羽の発言は広田名義で駐華公使・有吉明に宛てた公電であったが、この公電の内容を指示したのは外務次官の重光葵であった。広田はグルーなどに第三国の利益を害するものではないと釈明を行ったが、天羽や重光が処分されることはなかった[6]

同年73日、斎藤内閣は総辞職したが、続いて岡田内閣でも外相に留任し、当時ソ連との間で懸案となっていた、東支鉄道買収交渉を妥結、条約化し、鉄道をめぐる紛争の種を取り除いた。また、ソ連との間で国境画定と紛争処理の2つの小委員会をもつ委員会を設けることを取り決め、のちに自身の内閣で国境紛争処理委員会として設置される。

1935(昭和10年)122日、帝国議会において広田は日本の外交姿勢を「協和外交」と規定し万邦協和を目指し、「私の在任中に戦争は断じてないと云うことを確信致して居ります」と発言した。この発言は蔣介石汪兆銘からも評価された。その後、中国に対する外交姿勢は高圧的なものから融和的なものに改められ、治外法権の撤廃なども議論されるようになった。さらに在華日本代表部を公使から大使に昇格させた。諸外国もこの動きに追随したため、中華民国政府は広田外交を徳とし大いに評価した。しかし、軍部は満州国の承認がない状態での対華融和に反対であり、特にこの動きは軍部への根回しがほとんど行われなかった。また軍部は衝突が起こるたびに独自に中国側と交渉し、梅津・何応欽協定土肥原・秦徳純協定を結ばせた。中華民国側は外務省に仲介を求めたが、「本件は主として停戦協定に関聯せる軍関係事項なるを以て、外交交渉として取り扱うに便ならず」として拒絶した[7]

中華民国政府内の親日派は日本との提携関係を具体化すべく、同年5月から広田と協議を始めた。中華民国側は「日中関係の平和的解決、対等の交際、排日の取締」の3条件を提示し、さらに満州国の承認取り消しを求めないという条件を伝えた。しかし広田はこれに納得せず、新たな「広田三原則」を提示した。

支那(中華民国)側をして排日言動の徹底的取締りを行いかつ欧米依存より脱却すると共に対日親善政策を採用し、諸政策を現実に実行し、さらに具体的問題につき帝国と提携せしむること。

支那側をして満州国に対し、窮極において正式承認を与えしむること必要なるも差当り満州国の独立を事実上黙認し、反満政策を罷めしむるのみならず少なくともその接満地域たる北支方面においては満州国と間に経済的および文化的の融通提携を行わしむること。

外蒙等より来る赤化勢力の脅威が日満支三国の脅威たるに鑑み、支那側をして外蒙接壌方面において右脅威排除のためわが方の希望する諸般の施設に協力せしむること。

この三原則は外務・陸・海の3大臣の了解事項となり、首相・岡田啓介、大蔵大臣・高橋是清もこれを了承した[8]。これは対中外交の大枠を決定することにより、実質的に軍部を牽制するものであった。しかし中華民国側には失望を以て受け止められた。「中国側の原則はまだしも相互主義的であったが、広田三原則は一見して明らかなとおり、日本側の一方的な要求に終始していた。」と日中歴史共同研究の日本側研究者は結論つけている[9]

また、軍の国防問題講演会や国体明徴講演会に対抗するため、吉田茂ら待命の大公使に国内各地で外交問題講演会を開かせた。

内閣総理大臣[編集]

二・二六事件が発生すると岡田内閣は総辞職した。当時の総理大臣は最後の元老であった西園寺公望天皇の下問を受けて推薦していた。このとき西園寺はまず近衛文麿を推し、初めに近衛に組閣命令が下ったが、近衛は病気を名目に辞退した。そのため枢密院議長・一木喜徳郎が広田を推した。西園寺もこれを了承し、近衛を介して吉田茂を説得役として派遣した。広田は拒み続けたがついには承諾した。

昭和天皇は広田が総理になることについて、西園寺に「広田は名門の出ではない。それで大丈夫か」と尋ねた。広田は名家出身でないのはもとより、親類・縁者にもこれといった人がなかったが、それによるいじめを心配してのことだった。しかし当時の日本は業績主義が徹底し、出自に関わらず軍学校を経て高級軍人や帝国大学を経て高等文官への道が開かれていた[注釈 2]

これを後で聞いた広田は「陛下は自分に対して信任がないのではないか」ととても気にしていた。1936(昭和11年)35、天皇から組閣大命が下る。この際、天皇から新総理への注意として、歴代総理に与えられた3ヵ条の注意があった。

第一に憲法の規定を遵守して政治を行なうこと。

第二に外交においては無理をして無用の摩擦を起こすことのないように。

第三に財界に急激な変動を与えることのないように。

の他に「第四に名門を崩すことのないように」という1ヵ条が特に付け加えられた。これは当時は貴族院改革が問題となっており、特に軍部や右翼により華族議員の削減による経費削減が議論となっていた事による[10]

組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平がでた。好ましからざる人物として指名されたのは吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直(法相)、下村海南中島知久平である。吉田は英米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務し(かわりに吉田は駐英大使に任命される)小原、下村らも辞退、川崎を商工相に据えることになり39、広田内閣が成立した。

就任後は二・二六事件当時の陸軍次官軍務局長、陸軍大学校長の退官・更迭、軍事参事官全員の辞職、陸軍大臣・寺内寿一ら若手3人を除く陸軍大将の現役引退、計3千人に及ぶ人事異動、事件首謀者の将校15人の処刑など大規模な粛軍を実行させた。しかし軍部大臣現役武官制を復活させ、軍備拡張予算を成立させるなど軍部の意見を広範に受け入れることとなる。

また粛軍と共に「庶政刷新」に取り組み、以下の広田内閣の七大国策・十四項目を決定した。

国防の充実

教育の刷新改善

中央・地方を通じる税制の整備

国民生活の安定

(イ)災害防除対策、(ロ)保護施設の拡大、(ハ)農漁村経済の更生振興及び中小商工業の振興

産業の統制

(イ)電力の統制強化、(ロ)液体燃料及び鉄鋼の自給、(ハ)繊維資源の確保、(ニ)貿易の助長及び統制、(ホ)航空及び海運事業の振興、(ヘ)邦人の海外発展援助

対満重要国策の確立、移民政策(二十カ年百万戸送出計画)及び投資の助長等

行政機構の整備改善

具体的には義務教育期間を6年から8年へ延長、地方財政調整交付金制度の設立、発送電事業の国営化、母子保護法などの法案化を決定した。11月には日独防共協定を締結した。これについて広田は頭山満の死後、頭山を「大徳」と呼び「英米の東洋圧迫が露骨化して来たころ、陰ながら先生が独大使との間に尽され斡旋された」とその内幕を書いている[11] また自ら天皇にも働きかけ、文化勲章を制定した。

一方で軍部の自由行動を押さえ、統帥の一元化をはかるために大本営を設置する案を持っていた。しかしこれは正式に提案されることはなかった[12]

1937(昭和12年)1月、議会で浜田国松と寺内寿一の間で「割腹問答」が起こった。激怒した寺内は広田に衆議院解散を要求、しかし政党出身の4閣僚がこれに反対し、海軍大臣・永野修身も解散には否定的であった。このため広田は閣内不統一を理由に内閣総辞職を行った[注釈 3] 広田の後任として組閣大命を受けたのは宇垣一成であったが、陸軍が反対し軍部大臣現役武官制によって陸軍大臣が得られずに組閣できずに終わる。かわって林銑十郎に組閣大命が下り、22林内閣が成立した。

近衛内閣外相[編集]

辞職後しばらくは鵠沼の別荘で恩給生活を送る。531日には貴族院の勅選議員となった[13]64日に近衛文麿を首相とする第一次近衛内閣が成立すると、近衛の要請で外務大臣となった。しかし組閣後間もない77盧溝橋事件が勃発し、中華民国との間で戦闘状態が発生した。当初、広田は不拡大方針を主張し、現地交渉による解決を目指した。南京駐在の参事官・日高信六郎を通して国民政府外交部長・王寵恵に対し次のように要求させた。

帝国政府ハ去七月十一日声明ノ方針通、飽迄事態不拡大ノ方針ヲ堅持スト雖モ其ノ後ニ於ケル国民政府ノ態度ニ鑑ミ左記ヲ要求ス

1. 有ラユル挑戦的言動ノ即時停止

2. 現地両国間ニ行ハレツツアル解決交渉ヲ妨害セサルコト

右ハ概ネ七月十九日ヲ期シ回答ヲ求ム [注釈 4]

しかし戦果に対して世論が沸き立つと、徐々に妥協的になり、陸軍の求める増派や休戦条件を了承するようになった[14] この時の内務大臣・馬場鍈一は、「広田外務大臣の如きはあまりに消極的で、こういう大事な時に進んでちっとも発言しない」とし、近衛も「外務省は広田さんの消極的な態度にはほとんどあきれ返って、下の者がまるでサボタージュというような状態だ」と語っている[15]。この時、広田の部下であった東亜局長・石射猪太郎と東亜一課長・上村伸一は辞表を提出したが、広田に慰留されている。不拡大を実現したい陸軍作戦部長・石原莞爾は何度も首脳外交を提案するが、外交のプロを自認する広田は動かず、外務省は石射を中心に、北支からの撤退を基本とする和平条件を作り陸海軍の了承を得るが、実現しなかった。

閣議で不拡大方針が放棄された後も、日華和平の動きは続いた。当初、広田が南京に派遣されるという案があったが、実行されなかった。最終的には元外相・有田八郎を中国に派遣して国民政府との交渉の糸口をつかもうとした[注釈 5]

また駐日ドイツ大使ヘルベルト・フォン・ディルクセン英語版[注釈 6]、駐華ドイツ大使オスカー・トラウトマンを介して事変の解決を働きかけたが、日本軍の占領地域が拡大すると「先に我方条件に付御話したるが、その後一ヶ月余りも経過し戦局多いに進捗し、今日に至りては日本国民の支那に対する考え方にも変化を生じ、日支関係の根本的建直しを求め居る」[16]として条件を付加し、交渉はまとまらなかった。交渉中止の決定を受け、「国民政府を対手とせず」という近衛声明が発せられた。

1938(昭和13年)122日、広田は帝国議会で「到底事変解決の見込ないことが明かとなったのであります」と述べ、「帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」するとした[17]。この後、南京に日本の支援で「中華民国維新政府」が設立されたが、蔣介石率いる重慶国民政府との交渉ルートは失われ、和平は絶望的になった。526日、路線転換を図った近衛は内閣改造を行い、広田は外相を辞任した。後任はかつて広田内閣後の首相候補となった宇垣一成であった。

外相時代にはそのほか、上海でのヒューゲッセン遭難事件、揚子江のパナイ号事件蕪湖レディバード号事件に善処し、英国大使・ロバート・クレイギーと米国大使・ジョセフ・グルーから高く評価された。また企画院による総理直属の対華中央機関である対支局設置構想に外交の一元主義を破壊するとして反対している。

第二次世界大戦中[編集]

外相辞任後は貴族院議員として過ごした。1939(昭和14年)の平沼内閣総辞職後には近衛が広田を首相候補としてあげた。一方で広田は近衛を推薦したが、西園寺は阿部信行を奏薦した[18]

阿部の後の米内内閣では請われて内閣参議となった。米内内閣が倒れると元首相として重臣会議に出席し、2次近衛内閣の成立に関わった。この時、広田は当初「この際やはり軍に諒解のある、軍に近い者がいい。従って軍人がいいけれども、適当な人がなければ、やはり近衛より他あるまい」[19]と消極的ながら賛成した。しかし近衛が松岡洋右を外相としようとすると、「松岡では危ない。東郷を起用するがよい」と反対した。しかし近衛は松岡を外相とし、日独伊三国条約(日独伊三国軍事同盟)を締結した。広田は三国条約が英米を敵にすることとして反対している[20]

第二次世界大戦開戦後の1940(昭和15年)10月の大政翼賛会発足後には後藤文夫、東郷茂徳、石黒忠篤松本烝治とともに貴族院院内会派無所属倶楽部を組織した。1941(昭和16年)の3次近衛内閣の成立には難色を示したものの、東條内閣成立には賛成している。この時対米交渉に悩んだ東郷外相が辞職して事態打開を図ろうとしたが、広田はこれを慰留している。

大東亜戦争太平洋戦争)開始時の広田の反応はさまざまなものが伝えられている。1941(昭和16年)1129日に開かれた重臣会議では、東条英機が「戦争に訴えざるを得ざる理由」を述べた。『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』では「阿部(信行)、林(銑十郎)、広田は首相の決意を諒とせるが如し」と、東条に同意したように描写している。一方で『木戸幸一日記』では会議で「危機に直面して直に戦争に突入するは如何なるものにや」「仮令(たとい)打ち合いたる後と雖も、常に細心の注意を以て機会を捉えて外交々渉にて解決の途をとるべきなりと思う」と発言したとされる。後に昭和天皇は広田の発言を「全く外交官出身の彼としては、思いもかけぬ意見を述べた」と評している[21]

1942(昭和17年)6月、日泰攻守同盟条約慶祝答礼のため、特派大使として矢田部保吉特命全権大使水野伊太郎特命全権公使朝海浩一郎書記官東光武三書記官らとともにタイ王国に派遣される[22]1943(昭和18年)中頃の広田を、広田と面会した学生が「軍部の横暴に憤られ、それに抗しきれぬ東条内閣の無策を非難され、戦争は絶対勝てぬから早く終息させねばならぬとおっしゃり、日夜その方策に奔走されているようでした」と回想している[23]

戦況が悪化しつつあった1944(昭和19年)に東條内閣が倒れると、小磯内閣によって最高戦争指導会議が設置された。94日に開かれた会議では、和平仲介のため広田を特使としてソ連に派遣する決定を下した。しかしソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフによって特使受け入れは拒絶されている。

1945(昭和20年)525日の東京大空襲原宿の自邸が罹災したため、藤沢市鵠沼別荘に避難する。

同年6月にはソ連を通じた和平交渉を探っていた東郷茂徳の意を受けて、箱根強羅ホテルに疎開していたソ連大使ヤコフ・マリクと非公式の接触を図る。広田は私的な来訪を装ってソ連の条件を探り出そうとしたが、ソ連は既に対日参戦の方針を固めていたことにくわえ、日本側の条件を明確にしなかったこともあり、東郷が期待した返答を得ることはできなかった。629日の3度目の面談(東京のソ連大使館で実施)がマリクとの最後の接触となり、714日に再度の会見をソ連大使館に電話で申し入れた広田をマリクは拒絶して交渉は終結した[24]810日の重臣会議では「無条件降伏も亦已むを得ない」と発言し[25]、日本の降伏を迎えた。

東京裁判[編集]

逮捕[編集]

1945820日、鵠沼の別荘から知人である安部十二造練馬の家に移る。進駐してきた連合国軍によりA級戦争犯罪人容疑者として逮捕され、122巣鴨プリズンに収監される。収監された広田に対し、GHQの組織した国際検察局が、極東国際軍事裁判の訴追対象とするかどうかを決定するための尋問を行った[注釈 7]

この中で国際検察局側は、組閣時に閣僚人事に軍の干渉を受けたことや、首相時代に軍部大臣現役武官制を復活した点を重視した。広田は後者については「この決定が現在の情勢を招いたとは思わない」と回答している。ただし、「軍の活動が緊迫したものになると外交政策はそれに引きずられてしまうことが多い。そうなると外務大臣などほとんど無力化されてしまう」と統帥権の独立を盾に政府に圧力をかける軍への対応に苦慮したことも率直に明かしている。支那事変当時、追加派兵の予算を認めた点を「陸軍の活動を承認したことにならないか」と問われたことには「事実はその通り」とも答えた。

こうした広田の回答から、国際検察局は広田を「広田氏は軍国主義者ではないものの、政府を支配しようとする陸軍の圧力に屈しており、侵略を容認し、その成果に順応することでさらなる侵略に弾みをつけた者達の典型である」として、「日本が膨張を遂げていく上での積極的な追随者」「共同謀議の一端を担った」と認め、訴追対象に加えた[26] なお、広田は尋問の最後で「自分の処罰を軽くするための弁明を行っているとは思わないでほしい。過ちだと判定される事柄については、私は責任を取る」と述べている。

訴追[編集]

この結果、「対アジア侵略の共同謀議」や「非人道的な行動を黙認した罪」等に問われて起訴された。最も大きな罪状とされたのは日中戦争を始めたことについてである。南京虐殺事件に関しては、外務省が陸軍に対して改善を申し入れていたが、連合国側は残虐行為が8週間継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで[注釈 8]、広田が事件を黙認したものと認定した。

広田は公判では沈黙を貫いた。弁護人の一人であるジョージ山岡が統帥権の独立の元では官僚は軍事に口を出せなかったことを弁明した際にも、広田はそれについて語ろうとしなかった。外国人の弁護士と日本人の弁護士がついて「このままあなたが黙っていると危ないですよ。あなたが無罪を主張し、本当の事を言えば重い刑になることはないんですから」としきりに勧め、同じA級戦犯の佐藤賢了も同様に広田に無罪を主張するよう促していた。にもかかわらず東京裁判で広田が沈黙を守り続けたのは、天皇や自分と関わった周囲の人間に累が及ぶことを一番心配していたからだとされる。広田は御前会議にも重臣会議にも出席しており、日中戦争が始まる時にも天皇を交えた話し合いがもたれていた。

広田の場合は、裁判において軍部や近衛に責任を負わせる証言をすれば、死刑を免れる事ができた、という分析も多く、広田とは対照的に軍部に責任を擦り付ける発言に終始した木戸幸一は、後に広田の裁判における姿勢について「立派ではあるけどもだ、つまらん事だと思うんだ」と評している[注釈 9]

死刑判決[編集]

広田は最終弁論を前に、弁護人を通じて「高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては喜んで全責任を負うつもりである」という言葉を伝えている。

広田は55の訴因で訴えられていたが、そのうち「侵略戦争の共同謀議」、「満州事変以降の侵略戦争」、「戦争法規遵守義務の無視」の三つの訴因で有罪と判定された。判決では総理大臣期の国策基準、日独防共協定、特に日中戦争期の外務大臣としての責任が言及された。日中戦争について、「広田はこれらの計画をすべて十分に知っており、そしてこれを支持した」「外交交渉で日本の要求が満たされるに至らないときは、武力を行使することに終始賛成していた」とした。また南京事件に関しては「かれがとることができた他のどのような措置もとらなかったということで、広田は自己の義務に怠慢であった」と指摘し、「彼の不作為は、犯罪的な過失に達するものであった」としている[27]

この有罪言い渡しの後、法廷はしばらく休廷に入った。この時弁護人の花井忠に「量刑というものは情状で軽くなるものでしょうか」と聞き、花井が「そうです」と答えると「困ったナァ、長くつながれるのが一番困る」と述べた。その後、再開した法廷で広田には死刑宣告が行われた[28]。この後、広田に「残念でなりません」と語りかけてきた元ドイツ大使大島浩に対しては、「に打たれた様なものだ」と飄々とした表情で返答したという[29]

なお、11人の裁判官中3人(インドオランダフランス)が無罪2人(オーストラリアソ連)が禁錮刑を主張している。オランダベルト・レーリンク判事は「広田が戦争に反対したこと、そして彼が平和の維持とその後の平和の回復に最善を尽くしたということは疑う余地が無い」と明確に無罪を主張している。

近衛文麿が自決していたために、文官の大物戦犯である広田は注目されていた。そんな中で文官で唯一の死刑判決に広く衝撃が走った。「太平洋戦争を止めようとしていた」という印象を国民の間にも強く持たれていた広田に対する死刑判決には、多くの疑問の声が上がった。占領軍の決定に対する反対運動などが皆無だった当時において、減刑するように全国から数十万という署名[注釈 10]が集められた程である[注釈 11] また、死刑を求刑していたはずの連合国の米国人検察官側からですら判決は意外だったとの声もあり、最終弁論で「彼らは誰一人として、人類の品位というものを尊重していない」と被告人達に罵詈雑言を浴びせた首席検事のジョセフ・キーナンですら「なんという馬鹿げた判決か。どんなに重い刑罰を考えても終身刑までではないか」とのコメントを残している。前記南京事件に関し、日本ではせいぜい保護責任者遺棄致死罪とされるような防止責任・監督責任といった間接的な責任であっても、英米法では英米ともに故殺の一種として殺人罪の一類型とされ、早くから英国から独立し独自に法体系を発展させてきた米国と異なり、この当時の英国及び英連邦自治領諸国では未だ殺人罪は酌量の余地無く死刑が必至とされる罪であった。死刑は6体5の1票差の多数決で決まったとされ、このことが票数に影響したと考えられる。

一方で、玄洋社に対してGHQの調査分析課長であったエドガートン・ハーバート・ノーマンが「日本の国家主義帝国主義のうちで最も気違いじみた一派」という見解を示していたことや、大陸で工作活動をした黒龍会を設立した内田良平と広田が友人であったこと、1944年(昭和19年)に没した頭山満の葬儀委員長を務めたこと(副委員長は緒方竹虎)妻・静子の父親が国粋主義者であったことなどから「広田=右翼」という先入観があったと見る説も、日本にはある。

なお、広田の妻・静子は東京裁判開廷前の1946年(昭和21年)518日に鵠沼の別邸で服毒自殺している。自殺の理由として、国粋団体の幹部を親に持つ自分の存在が夫の裁判に影響を与えると考えていたためとされている。死因は初め狭心症と発表されており、自殺であったことは1953年(昭和28年)の広田の追悼記念会で公にされた[30]

死刑執行[編集]

1948年(昭和23年)1223日の午前021分、巣鴨プリズン内で絞首刑を執行される。享年71。なお広田は文官であったが、昭和殉難者として靖国神社に合祀されている。

その後[編集]

2001平成13年)当時首相であった小泉純一郎が靖國神社に参拝したことをきっかけにA級戦犯分祀論が注目を集めた。その際、広田の孫の弘太郎(当時67歳)は2006年(平成18年)727日付をはじめとするマスメディアの取材に対し、「広田家が1978年(昭和53年)の合祀に同意した覚えはない」、「私が合祀を聞いた時にはびっくりした。そんなはずはないと、間違えて祀ったと」、「靖国神社は確信犯としてやったのでしょうね。勝手に祀られたというか、びっくりしたということに加えて言うとすれば、不快感まで言っていいのかわからないが決して喜んではいないし、できれば取り消して欲しい」、「家族としては英霊として祀られることを希望しません。特に靖国神社に。英霊だとみなして頂くことが、うれしいことではない。靖国神社というものはお国のために戦死した兵隊とか軍人とか、そういう方を祀るためにできた神社であって、軍人でもなければ戦死者でもない広田弘毅が靖国神社に祀られる資格さえない。私どもから希望したりお願いしたことはありません。神社の方から同意を求めるということもありませんでした」、「祖父は軍人でも戦没者でもなかったので靖国神社と広田家はそもそも縁がない。また、首相であったので何らかの責任はある」という見解を述べている。

2015には小説家城山三郎が小説「落日燃ゆ」の取材で訪れた際も、叔母たち(広田弘毅の娘たち)は立ち会わず、ふすま越しにやりとりを聞いていたことや、父母などに 「おじいさんは立派な人だった。おまえもああいう人を目指しなさい」、「顔が似てる」と言われていたと振り返り、「靖国神社で祭られる方は戦死した兵隊や軍人だが、祖父は軍人でも戦死者でもないので菩提寺で十分だと思っている」と述べ、靖国神社に日本国民として慰霊の気持ちでお参りしていることを明かしている。

そして「日本国民の代表である首相がお参りするのは当然で、隣国に何か言われるから参拝しないのは、とんでもない話だと思います」。「東京裁判がどういう経緯で判決に至ったか。審理されなかった証拠は山ほどあり、研究する意義はあります。時を経て記憶が薄れるのは仕方ない。でもせめて私の子供の世代ぐらいまでは東京裁判を含め現実の歴史がきちんと伝わってくれればよいのですが」と語った[31][注釈 12]

評価[編集]

広田が外相・首相を務めた期間は、日中が散発的な衝突を繰り返しつつ、やがて全面的な戦争に突入していく時期と重なっている。広田が強硬な大陸政策を取る軍部の方針に反対でありながら抵抗出来ず、東京裁判で文官でありながら唯一絞首刑となった点をとらえ、悲劇の外政家としての側面を描き出したのが、城山三郎の『落日燃ゆ』であり、今日におけるような、広田に対する同情的な見方が広まるのに一役買っている。

しかし絞首刑の是非はともかく、広田が外相・首相という責任ある立場にありながら、悪化していく状況にほとんど有効な手を打てないどころか消極的に追随していったのは事実であり、外交の専門家からの評価は概して厳しい。例えば、盧溝橋事件の際に外相の広田の煮え切らない態度に外務省の部下は失望している。第一次近衛内閣の外相時の対応について、当時の外務省東亜局長であった石射猪太郎は「この人が平和主義者であり、国際協調主義者であることに少しも疑いを持たなかったが、軍部と右翼に抵抗力の弱い人だというのが、私の見る広田さんであった」「広田外務大臣がこれ程御都合主義な、無定見な人物であるとは思わなかった」[32]と回想している。

政治学者の猪木正道も、トラウトマン和平工作時の広田の姿勢を厳しく批判して「駐日ドイツ大使に和平のあっせんを頼みながら、南京攻略後の閣議では真っ先に条件のつり上げを主張する[注釈 13][注釈 14]など、あきれるほど無責任、無定見である」とし、「一九三六年のはじめごろから、広田は決断力を失ったと思う」と評している。猪木の著作を読んだ昭和天皇は「猪木の書いたものは非常に正確である。特に近衛と広田についてはそうだ」と猪木の評価を肯定している[33]

『昭和天皇独白録』によると、昭和天皇は広田についてきわめて批判的な見解をもっていたことがわかる。天皇は広田を「玄洋社出身の人物」と明確に述べており、その思想に必要以上に警戒心をもっていたようである。広田が戦争の長期化や軍部ファシズム化にむしろ積極的な役割を果たしていたとさえ感じている節がある。『昭和天皇独白録』をめぐる座談会において、天皇のこの広田への見解が連合軍の広田の心証形成に影響を与え(独白録が記録されたのは1946年〔昭和21年〕3月から4月にかけてである)東京裁判での広田の判決につながったとする可能性を半藤一利秦郁彦が指摘しているが、伊藤隆児島襄はその可能性なしとして否定反論している。

広田が首相時代に締結した日独防共協定は、日本をドイツに接近させ、日米対立を決定的にさせた日独伊三国同盟の締結に繋がることになる。また、同じく首相時代に軍部大臣現役武官制を復活させたことにより、軍部の要求を受け入れない内閣が次々と倒れるなど、軍部による政治干渉を決定的なものとする事となった。その結果、内閣は軍部の対外強硬的な要求を受け入れざるを得なくなり、大東亜戦争に突入することになったという見方もある。

逸話[編集]

「石屋の倅から総理大臣へ」としばしば言われるように、立身出世した。現在の国会議事堂は広田が首相の当時の1936年(昭和11年)に「帝国議会議事堂」として完成しており、現在の議事堂に初めて登壇した首相でもある。

戦前唯一の福岡県出身の首相であり、2008年(平成20年)に麻生太郎が就任するまで唯一の福岡県出身首相であった。

福岡市中央区福岡市美術館前に広田の銅像が設置されている。この像は玄洋社最後の社長であり、戦後には福岡市長を務めた進藤一馬の呼びかけで建立された。

首相・外相としては批判されることの多い広田であるが、大使時代の外交官としての能力や評価は高く、東京裁判でのオランダ出身のベルト・レーリンク判事の広田無罪論に結びついた。レーリンクは1977年に発表した著書で、国際連合で後に広田弘毅の外交が世界のルールになったことに触れ、広田弘毅が有罪で死刑になったことは間違っていたと語っている[34]

能筆家であり、福岡市天神の水鏡天満宮鳥居の題額は小学校の時、日清戦争戦勝を祝して建立された石碑「水鏡神社」は、広田が17歳のときに揮毫したものである[注釈 15]

重光葵によると、広田は巣鴨プリズン収監中に受けた揮毫の依頼には何十篇でも「物來順応 弘毅書」と書き、まるで自身の経文であるかのようで筆跡も見事なものだったという[35]

前記のように名門出身でないことから色々と苦労した広田だが、首相時代に江戸時代の身分ではさらに下になる全国水平社出身の衆議院議員松本治一郎から「(被差別部落民に対する)差別観念の撤廃には華族制度の廃止が不可欠」と質問され、「華族制度は宮内省の管轄[注釈 16]なので答弁を差し控えたい」と答えたことがある。

巣鴨拘置所に自由に出入りし得た唯一の日本人である花山信勝の著『平和の発見-巣鴨の生と死の記録』によると花山が絞首刑前の感想を求めたところ「すべては無に帰して、言うべきことは言ってつとめ果たすという意味で自分は来たから、今更何も言うことは事実ない。自然に生きて自然に死ぬ」と言い、後に評論家・唐木順三はそれを引き「東條らと比べ虚飾がなく態度ができている」と評した。

処刑に際し、先に執行された東條らの万歳三唱について「いま、『マンザイ』をやっていたのでしょう」と日本人で唯一立ち会いが許された僧の花山に問いかけたとされる。これについては花山信勝が広田の出身地である福岡の発音では「バ」と「マ」が混同しやすいことから生じた聞き間違いではないかとも言われている[注釈 17]。なお、福岡出身の漫画家小林よしのりは自著『いわゆるA級戦犯』の中で「単なる駄洒落ではないか」との説を提唱している。また小林も引用している城山三郎の『落日燃ゆ』では「文官の自分が処刑されるのは漫才のようなもの」との皮肉を込めたと、終戦後にも関わらず万歳をした東條らへの皮肉とも受け取ることができる描写がされている。また、後から処刑執行された広田らの組も万歳をしたが、城山三郎は、広田は万歳に加わらなかったと書いている。しかし現場にいた花山信勝は、一同で万歳三唱したと書いており、作家の故城山三郎氏が小説「落日燃ゆ」で記述したことについて2019年の講演で「広田さんも一緒に天皇陛下万歳と大日本帝国万歳を三唱された。作者の誤解にすぎない」と明確に否定している[36]

次男が旧制高校2浪して落ち三男と一緒に早稲田予科を受けたが、三男が受かって次男が落ち自殺している(自殺後に、補欠合格の通知が届く)。

後輩外交官の杉原千畝は、長男に弘樹(読みはひろき)と命名するほど広田を尊敬していた。[37]

栄典[編集]

位階

1907(明治40年)21 - 従七位[38][39]

1909(明治42年)31 - 正七位[38]

1912(明治45年)311 - 従六位[38]

1916(大正5年)731 - 正六位[38]

1919(大正8年)210 - 従五位[38]

1922(大正11年)720 - 正五位[38]

1925(大正14年)1015 - 従四位[38]

1930(昭和5年)111 - 正四位[38]

1933(昭和8年)102 - 従三位[38][40]

1935(昭和10年)1014 - 正三位[38]

1937(昭和12年)223 - 従二位[41][42]

勲章等

1907(明治40年)914 - 勲六等瑞宝章[38]

1911(明治44年)824 - 勲五等瑞宝章[38][43]

1912(大正元年)81 - 韓国併合記念章[38]

1915(大正4年)1110 - 大礼記念章(大正)[38]

1916(大正5年)41 - 双光旭日章[38]

1918(大正7年)926 -   勲四等瑞宝章[38][44]

1920(大正9年)111 - 旭日小綬章[38]

1924(大正13年)531 - 勲三等瑞宝章[38]

1926(大正15年)210 - 勲二等瑞宝章[38][45]

1933(昭和8年)105 -   勲一等瑞宝章[38][46]

1934(昭和9年)429 -   旭日大綬章[38]

1938(昭和13年)11?銀杯一個[41]

外国勲章佩用允許

1907(明治40年)1023 - フランス共和国レジオンドヌール勲章シュヴァリエ[41]

1908(明治41年)61 - ロシア帝国:神聖アンナ第三等勲章[41]

1909(明治42年)629 - 大清帝国:三等第一双龍宝星[41]

1911(明治44年)105 - イギリス帝国:皇帝皇后両陛下戴冠記念章[41]

1935(昭和10年)921 - 満州帝国 満州帝国皇帝訪日記念章[41]

1938(昭和13年)425 - 満州帝国勲一位龍光大綬章[41]

参考文献[編集]

吉田裕『昭和天皇の終戦史』 岩波書店〈岩波新書〉、1992年。

服部龍二『広田弘毅「悲劇の宰相」の実像』 中央公論新社〈中公新書〉、2008年、ISBN 4121019512

松本健一『頭山満の「場所」 雲に立つ』 文藝春秋社、1996年。

伝記[編集]

岩崎栄『広田弘毅伝』 新潮社、1936年。

吉井魯斎『児童の鑑 広田弘毅さん』 尚文館、1936年。

澤田謙『広田弘毅伝』 歴代総理大臣伝記刊行会、1936年。

永松浅造『新日本の巨人を語る 人間・広田弘毅(他三編)』 森田書房、1936年。

北川晃二『黙してゆかむ 広田弘毅の生涯』 講談社、1975年。講談社文庫、1987年、ISBN 4061840959

『広田弘毅』 広田弘毅伝記刊行会編、1966年。復刻・葦書房、19925月、ISBN 4751204270

渡邊行男『秋霜の人 広田弘毅』 葦書房1998年、ISBN 475120730X

井上寿一『広田弘毅 常に平和主義者だった』 ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2021年、ISBN 4623092682

伝記小説[編集]

城山三郎落日燃ゆ 新潮社、1974年、ISBN 4103108045。新潮文庫、1986 改版2009年、ISBN 4101133182。新装版2002年、ISBN 4103108142

広田弘毅を演じた俳優[編集]

藤山竜一 - 激動の昭和史 軍閥 1970年、東宝

滝沢修 - 落日燃ゆ 1976年、NETテレビ(のちテレビ朝日

武内文平 - 山河燃ゆ』(大河ドラマ 1984年、NHK

田村高廣 - 『悲劇の宰相 広田弘毅』 1993年、フジテレビ

名川貞郎 - プライド・運命の瞬間 1998年、東映

江原真二郎 - NHKスペシャルA級戦犯は何を語ったのか〜東京裁判・尋問調書より〜」 2007年、NHK

寺田農 - 南京の真実 1部「七人の死刑囚」』 2008

北大路欣也 - 落日燃ゆ 2009年、テレビ朝日

佐野史郎 - 負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜 2012年、NHK

リリー・フランキー - 二つの祖国 2019 テレビ東京

脚注[編集]

注釈[編集]

1.    ^ 広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』などでは正式な社員とならなかったとしており、『落日燃ゆ』などでも踏襲されているが、服部龍二は玄洋社記念館の館報『玄洋』第2号の記述から広田が正式な社員になったとしている(服部、4-616p)。また東京裁判開廷前のキャルプーン・フェルプス大尉による尋問では「イギリスから帰ったとき青年教育のために入社するよう求められ、改めて社員になった」と供述している(服部、229-230p、『国際検察局尋問調書』第28巻よりの引用)。

2.    ^ 伊藤博文原敬を代表するように、明治以降は業績主義が徹底していたが、首相は士族や富農の出がほとんどである。

3.    ^ 総辞職直前の閣議前に、「閣議で陸海軍大臣が論争するようなことがあっては面白くない」と西園寺の秘書原田熊雄に語っている。(服部、145p、原田熊雄『西園寺公と政局』よりの引用)

4.    ^ 広田弘毅の訓電を受けた日高信六郎717日夜、王寵恵外交部長を訪ねて公文を手渡し「日支間の平和を維持するためには、何はともあれ711日の現地停戦協定を実行して事件の拡大を阻止することが最緊要である。また現地におげる日支両軍の兵力は、日本側が比較にならぬほど少ない(支那駐屯軍・5774名)ものであるから、事件の勃発以来、現地の事態が切迫したために日本側では居留民の保護を十分にするためだけ ではなく、駐屯軍の安全のためにも増援部隊を送る必要に迫られているのである。従ってまず、現地で停戦協定を実行して空気を緩和することが重要である。こういう時に当たって南京政府が北支に増兵することは事態拡大の危険性をもっとも多く含むものである。ゆえに現在、盛んに北上しつつある国民政府・中央軍を速やかに停止して欲しい」と述べた。これは英訳して「在南京の英米大使」にも送られた。

5.    ^ この時有田に対し「黙っていても、上海に来ている、南京側の者をはじめ、いろいろな人が、自然君に接近してくるだろう。そんなところから蔣介石との交渉の端緒をつかみたいと思っている」と語っている。服部、164p(有田八郎『馬鹿八と人はいう』より引用)

6.    ^ 広田とディルクセンは同時期に駐ソ大使を務めており、両者の間には交友があった。

7.    ^ 尋問調書が米国の国立公文書館に保存されている。以下、内容については2007813日放送のNHKスペシャルA級戦犯は何を語ったのか ~東京裁判・尋問調書より~」による。尋問調書は英文で180ページに及ぶ。

8.    ^ 当時駐華大使館の参事官であった日高信六郎は閣議に持ち出すことは「逆効果であったろう」として、広田が最も有効な手段をとったとしている。服部、184-185p(広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』よりの引用)

9.    ^ 木戸は裁判で終身刑になっている。ただし、木戸が弁明に努めた背景には、「天皇側近の木戸に対する判決は天皇への判決に等しい意味を持つ」と木戸らが見ていたこともある。

10. ^ 特に多かったのが郷里である福岡での72千、東京での3万人。

11. ^ 広田自身は息子を通して、嘆願書は絶対に出してはいけないという声明を出した。

12. ^ 東條英機の孫娘・東條由布子も「東條英機は不当な東京裁判の犠牲者であり、英霊として靖国神社に祀られるべき。分祀には絶対反対」と述べている。

13. ^ 広田は閣議で「犠牲を多く出したる今日、斯くの如き軽易なる条件を以ては之を容認し難き」と述べている。175-176p(『支那事変戦争指導史』よりの引用)。

14. ^ トラウトマン工作提示の際に、広田は戦争が継続される場合にはこの条件ははるかに加重されるであろうと強調した(「日独伊三国同盟の研究」8586ページ)。

15. ^ 長らく、「天満宮」の扁額が広田11歳の筆になるものと言い伝えられてきた。水鏡天満宮外の説明板には小学校1年生の時に「天満宮」の扁額を書いたと記されている。

16. ^ 当時の宮内省は内閣から独立していた。

17. ^ 言語学的には「B」と「M」は共に口唇音であり、「さびしい」が「さみしい」へと変化したように混同しやすいとされている。

 

 

 

2015.12.31. 産経新聞 『戦後70年』

東京裁判で処刑された唯一の文官、広田弘毅元首相の孫・弘太郎さん語る 「評価は歴史がする」

祖父の思い出を語る広田弘太郎さん

 

「評価は歴史がする。それが家訓」

 先の大戦から70年にあたる平成27年が暮れようとしている。東京裁判(極東国際軍事裁判)でA級戦犯として処刑された唯一の文官である広田弘毅元首相。その孫の弘太郎さん(77)が、祖父や家族の思い出を語った。

 「子供のころから父母や親戚に『おじいさんは立派な人だった。おまえもああいう人を目指しなさい』と教えられた。『顔が似てる』と言われています」

 弘太郎さんは、銀行員だった父、弘雄さんの仕事の関係で幼少期を中国で過ごした。一時帰国した際に祖父に数度会ったが、その時のことは覚えていない。

 唯一の思い出は昭和231129日、小学4年生の時のこと。同月12日に絞首刑を宣告された祖父と東京・巣鴨拘置所でガラス越しに面会した。事前に父に「おじいさんに会えるのは今日が最後だよ。なるべく覚えておくようにしなさい」と言われた。祖父は目を細めて「ちゃんと勉強して、しっかり暮らしなさい」と語ったという。

 「祖父は『これが遺言だ』などと格式張ったことではなく、家族と日常会話を交わしていました」

 東京裁判では、占領下ながら広田の助命を嘆願する署名活動が行われたが、「自ら計らわず」を信条とする広田は裁判で一切弁明しなかった。

 「祖父は東京裁判の欺瞞性は見抜いており、家族への手紙で『どういう結論がでるか予断を許さない』と伝えていました。極刑もあり得ると踏んでいたに違いないと聞いています」

 広田の妻で弘太郎さんの祖母、静子さんは裁判開始直後に「パパを楽にしてあげる方法が一つあるわ」と言って服毒自殺した。「祖母は後顧の憂いをなくすことが愛情だと思ったのでしょう」

 処刑後、遺族は広田についてほとんど口外しなかった。「特に身近にいた叔母(広田の娘)たちは一切語らなかった。自分の行動そのものが答えであり、それを家族が弁護や正当化すべきではない。評価は歴史がする。祖父にそう教えられ、それが家訓のようなものでした」

 小説家の城山三郎が小説「落日燃ゆ」の取材で訪れた際も、叔母たちは立ち会わず、ふすま越しにやりとりを聞いていたという。

 弘太郎さんは「A級戦犯の孫」ということで不都合を感じたことはない。祖父と同じ外交官の道も考えたが、大学卒業後は商社マンとなった。広田の靖国神社への合祀については否定的な考えを持っている。

 「靖国神社で祭られる方は戦死した兵隊や軍人です。祖父は軍人でも戦死者でもない。靖国に祭られる資格はなく、菩提寺で十分だと思っています」

 ただ、自らは靖国神社に日本国民として慰霊の気持ちでお参りする。

 「日本国民の代表である首相がお参りするのは当然で隣国に何か言われるから参拝しないのは、とんでもない話だと思います」

 「東京裁判がどういう経緯で判決に至ったか。審理されなかった証拠は山ほどあり、研究する意義はあります。時を経て記憶が薄れるのは仕方ない。でもせめて私の子供の世代ぐらいまでは東京裁判を含め現実の歴史がきちんと伝わってくれればよいのですが」(今仲信博)

 

 

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