新聞記者~疋田桂一郎とその仕事  柴田鉄治/外岡秀俊  2022.1.13.

 

2022.1.13. 新聞記者~疋田桂一郎とその仕事 

 

著者 

柴田鉄治

外岡秀俊

 

発行日           2007.11.25. 第1刷発行

発行所           朝日新聞社

 

 

22-01 発信力の育て方』の中で、「仮説が裏切られたら、それがニュース」の一例として言及

 

疋田桂一郎 1924年東京生まれ。新聞記者。194851年時事新報社、5187年朝日新聞社に在籍。2002年死去

 

²  序に代えて 外岡秀俊(朝日新聞前ゼネラルエディター)

新聞の業界用語で「飯場」とは、長期の企画記事に取り組む際に、練達の記者をキャップとしてして編成される取材班のことで、通例キャップの名を冠して呼ばれる

疋田記者は、「疋田飯場」を率いて内外における戦後の大きなテーマに取り組み、戦後朝日新聞の脊梁山脈となる長期連載を連発――膨大な細部の事実を精緻に組み立て、壮大な全体像に迫る手法は、当時画期的な試み

疋田記者こそが戦後の朝日新聞の文体を作ったとまでいわれ、疋田飯場に出入りした多くの記者が戦後の朝日新聞製作にある一定した品質と気風を与えてきたと評価される

疋田の現役最後の飯場が198487年日曜版の「世界名画の旅」で、外岡も取材班の一員

   楷書の人

ジャーナリストは「職業としての野次馬」で、なるのはやさしいが続けるのは日に日に困難になる――ジャーナリストの落とし穴は半可通になることで、自分の目で見、耳で聞くまでは決して予断を持ってはいけないのに、熟練になってもまず現場に行って事実を確かめるという初心を貫くのは想像以上に難しい

初心の記者に疋田が教え込んだ取材の基本:

(1)  事前準備の徹底

(2)  事前に仮説を立てる――仮説がひっくり返されるのが発見であり、驚きになる一方、仮説がなければ取材は散漫になり、焦点が定まらない

(3)  メモはノートの片面に取り、余白を多く残し、あとの構成を考えるために使う

(4)  取材メモとは別に日記をつけると、当時の感動や印象の再現の手掛かりとなる

(5)  長い記事には骨格が必要――表現は多彩でなければいけないが、そのためにはテーマや論理がしっかり通っていなくてはならない

(6)  記事を書く場合、読者にとって未知のことは2割でいい。8割のことが既知であれば読者は楽々と道行を楽しみ、自分の記憶を確かめながら文章を味わえるし、2割の驚きがあれば満足感が得られる。逆だと読者はせっかくの発見も味わうことなく読むのをやめる

新米の記者に対しても先輩同輩と同じ口調を崩さない楷書の人

原稿に対する指摘の多くは事実関係の確認で、文章については句読点の位置に関わる疑問が大半。情報に人格というものがあるとするなら、その出処身体には自他ともに対して苛烈なほど厳しく、その受け止め方や表現の幅に対しては驚くほど寛容

   反権威の人

外見からは想像できない感情のマグマを抱えた人

原稿に向かう大半の日々は背中に鬼気が迫る

権威に刃向かう感情の烈しさは、終戦の年に召集され、九十九里浜守備隊として軍隊生活を送った体験に基づくだろう。寸鉄人を刺す天声人語の数々にその反骨が結晶

反権威主義は後年、マスコミやジャーナリズムそのものにも向けられ、そこから警察取材の定法に根本から疑問符を突き付けた「ある事件記者の間違い」や、少数派に反論の場を提供した「私の言い分」などの企画が生まれた。いまにいたる「マスコミの病」や人々の「マスコミ不信」に最初に気付き、警鐘を鳴らし、反転を試みた貴重な記録

   記者という生き方

骨の髄まで記者という生き方を貫いた人。新聞記事だけに専念して、著作を発表しない

本書に掲載した文章の隅々に、いまなお色褪せない「新聞記者としての生き方」が脈打っており、「記者という生き方」を目指す人々に大きな励ましと高い目標を示してくれる

とりわけ、「ある事件記事の間違い」や「記者研修講義録」などは、ジャーナリズムの原点を振り返るにあたって、いまなお古びない貴重な指標に満ちている

疋田記者は生前、「一職人」を自任。本書は、新聞記者という生き方を貫いた一職人の紙碑

 

第1章        1950年代~60年代――個人として、チームとして

l  空から見た遭難現場――洞爺丸台風

1954927日夕刊 「浜辺に散乱の死体、船底見せる洞爺丸」(函館七重浜にて)

27日午前3時半台風の暴風雨圏がまだ北海道全域を覆っていたころ本社機で羽田を飛び立ち、遭難現場の函館に向かい、滑走路のある浜辺の様子を詳述

 

l  つのる越冬断念の不安――南極観測

(宗谷から) 見通しが一つ一つ打ち破られ昭和基地放棄の心配が日増しに多い

1958216日夕刊 「努力実らぬ歯がゆさ 隊長に泣付く若い科学者」

1次越冬隊の収容と並行して第2次越冬隊のための荷物輸送を始めるが、アメリカの砕氷艦に頼っても基地に近づけず苦闘が続く

 

l  黒い津波の跡を歩いて――伊勢湾台風

よそにいては被災地の実感がつかめない。流木で多勢死んだというが、現場で見ると直径1.5m以上、重さ何トンもの巨木が高潮に乗って貯木場から飛び出し、停電で真っ暗な住宅密集地を襲ったものだし、名古屋市内の1/3は今でも水につかっているが、今度の水は港の石炭、重油、古い運河の汚水も混在したドブドロなど真っ黒なドブ水で、あまり広範囲過ぎて今なお市役所が被害者の数を把握できていない

1959109日朝刊 「高級住宅地は安泰 名古屋 都市計画の甘さ」

被災後1週間して名古屋駅に降りると、町も市民もケロッとしているが、15分も走ると整然とした大都会が整然と水没しているのが見え、黒い水が腐った死体でツンと鼻をつく

名古屋市の南部全体が水没していると思っていたが、人の住まない大工場はカラッと乾いて水の上にあるが人の住むところが沈んでいる。ふだんは気が付かない世の中の矛盾や、非情さが、いま名古屋市内では漫画のように強調されてむき出しになっている

 

l  何を語るか? 東大生らの遭難

1週間前、各地で異例の吹雪に遭難者が相次ぐ。そのうち、訓練と統制が最も行き届いているはずの東大スキー山岳部の場合を現地で調べた。遭難したのは北穂高滝谷で、一行11人中死亡6人、重傷1

19591026日朝刊 「英雄扱い、お門違い」

山の遭難というと人々は途端に寛容になり、干渉過多に陥り、まるで英雄のように死者を扱いたがるが、「今度みたいにお粗末な遭難はない」と滝谷の登攀仲間がわらう。みぞれ降る3000mの山で夏の下着を着ていたという。何が彼らの行動を狂わせたか

「美化される行動

山男は押しなべて野心家。それを裏返すと、嫉妬深い見栄っ張り

山男は、「下界におりると神経に応えることが多い」とよくこぼすのを聞くが、今度は下界からはい上がっていった私にも山は神経にこたえた。死体をまるで荷物のように乱暴に扱い、時には切り刻んで小さくまとめたりしながら、下界に近づくと事態を美化し始める。山のエチケットを持ち出して、ここから上はおれたちの世界だ、みたいな思い上がりを感じないわけにいかない

同じスポーツでも山の遭難だけは寛容に、そっとしておかれるのはなぜか。山の遭難にも誰かが調べて審判を下し、その結果次第では責任を取らせてはどうかと思う

 

l  不幸な流血――三井三池争議

(大牟田発) 争議は28日とうとう血を流した。2つの組合が石や鉄で殴り合い、病院に担ぎ込まれる重傷者に罵りの声を浴びせる。不幸な対立の一部始終を見た

1960328日夕刊 「重傷者をもののしる」

1組合と第2組合1000人近くが互いに凶器をもって三川鉱で激突、白兵戦を展開、多くの負傷者が運び出されたが、そのタンカに向かってののしりやあざけりの声が飛ぶ

 

l  三池を追い詰めたもの――三井三池争議

東京で開かれた炭労大会を聞くと、「徹底した討論で組織の欠陥を克服しよう」とのスローガンが掲げられているが、現場で指名解雇を突き付けられている労働者はどんな気持ちでこのスローガンを受け取っているのか。現地の絶望的な暗さを私は思った

1960413日朝刊 「素朴 ヤマの一本気」

組合の指示に従って活動した末端労働者が指名解雇通知を受ける。会社側からは「生産阻害者」と言われ、組合は「組織の欠陥」を告白している

ここまで三池を追い詰めたものは何なのか

現場の組合員は素朴な筋肉労働者であり、活動家のお陰で職場も暮しも明るくなってきたので彼等の首切りには賛成できないが、ここまで追いつめられる前に十分なすべきことをしてきたのか疑問が残る

 

l  大レース400決勝を前に――ローマ・オリンピック

1960831日夕刊 「山中選手と10分間」 (ローマ疋田特派員31日発)

水上きっての好カードが400m自由形が今晩ある。山中とオーストラリアのローズ、コンラッズとの対決を前に山中にインタビュー。山中に初めて会って気付いたのは、手先がきゃしゃなこと。図太いように見えて、恐ろしく神経の細かい男だというコーチの話を思い出した。神経の細かさで、過去4年間節制し精進を重ねた結果、100から1500まで全種目にわたって過去最高を記録。オリンピックの直前になって、山中に100mを泳がせたらどうかという話が出たが、ライバル2人に勝ちたいばかりに山中は断ったという

 

l  新・人国記――静岡県①

1962106日夕刊 「富士と湛山」

窓辺に富士を眺めることのできる家には幸せが訪れる、と静岡の人はいう

石橋湛山の選挙区は静岡2区。1956年春自民党総裁と選ばれ、静岡県初の総理大臣になるが、全国遊説の無理がこたえて、わずか2カ月で辞任

「悲劇の宰相」と呼ばれるが、湛山自身は少しも思わず、差し迫った政治状況の方こそ悲劇という言葉がふさわしく、派閥争いにもまれている政治家たちには、いったい何が政治の悲劇であるかが見えないからますます悲劇なのだというのが湛山の思い

戦前から一貫して資本主義のゆるぎない信奉者であり、一旦歩き出したら後へは退かぬ人

党から2回除名を食ったが、湛山はただ「いまの日本の政治の姿は長い目で見て、どうも自然ではない」といっているに過ぎず、てらいも功名心もない

郷里は、同じ富士でもずっと厳しく見える山梨県南巨摩で、反骨はむしろ山梨県人のもの

気候温暖なこの国の土は、昔から大人物が育ちにくいといわれてきたが、静岡県選出の現議員の大臣経験者の顔触れを見て、やや重味に欠ける感じがするのは風土のせいか

政治家ではないが、各界への影響力では水野成夫の存在が大きい

 

l  新・人国記――青森県①

19621128日夕刊 「ネブタ」

みちのくの方言は、一つは冬の厳しさに由来しているのか、短い言葉で通じる

コギン刺しも、大変な根仕事で別名バカ刺し。痛々しいほどの美しさに北国の人のふさいだ心がにじんで見える

雪の半年をこらえにこらえて、ある日一気に爆発するのが夏のネブタ祭。都会育ちの弱い神経には強烈すぎるかもしれない。集まった観光客をギクッとさせる不気味さが、この一首殺伐とした土俗的な祭にはある

棟方志功の画室を荻窪にたずねた時の感じが、ちょうどネブタ祭りやその楽屋裏をでものぞく思いだった

アジア的混沌という言葉がある。棟方が欧米画壇を仰天させたのは、むろん昨今の日本ブームとかムードとか、そんなのではなくて、もっと濃密なナゾだろう。酷薄な北方の風土から噴き上げた、もっと悪魔的な何かだろう

生まれながらの天才ではなく、こらえにこらえた長い冬があったし、無名時代も今も孤独

手拭いで目隠しをして手探りで版木を切る練習をしている棟方を家人が垣間見た。左目を失明、右目も怪しくなったのだという

 

l  長寿の国 アブハージア

196511日朝刊 「120歳の男に子宝」

コーカサスの山並みの麓の国アブハージアはソ連邦の中の自治共和国

19世紀初め、フランスの1旅行者によって初めて文明社会に伝えられた長寿の国

空気は軽く甘い。太陽にぬくもりがある。12月中旬の自然、風光は、静岡付近の晩秋にそっくり

長寿医学の研究者は37歳だが、「父親が10年前147歳で死んだので、私は父が120歳の時の子だ」という

「こんにちは! 116歳翁」

チェホフより10歳上の長寿者と面談。一番古い記憶は5つか6つの時の露土戦争。一番うれしかったのは第2次大戦の終戦、もうこれで戦争はない

長寿者はみな一様に姿勢がいい

「ケツバ氏の堂々たる家で」

コルホーズの元委員長宅に宿泊。中ぐらいの収入だというが、「遠い昔からこの老人たちの労働のお陰で私たちは豊かだ。まるで資本家のように満ち足りている」と話し、現在、決して楽ではないソ連農業の中で、ここコーカサスは特異な風土であるらしい

日本的な男尊女卑ではないそうだが、夜の宴席で婦人たちが座らない、専ら給仕役だった

「長寿の妙薬 チャチャ

薄茶色の液体で、小さなグラス一杯で10年は長生きできるという。アルコール分90度。唐辛子を加えた地酒で、一度手にした杯は底までほさないとテーブルに戻してはいけない

「からっぽの大型トランク」

現地での長寿の研究成果を写し取ってきた中から長生きするための教訓を要約してみる;

    特定の人種や民族だけが長寿を保てるという考えには科学的根拠はない。平均寿命は全ソ連とほとんど差がなく、遺伝や貧富の差も無関係

    長寿に必要な絶対的条件は、澄んだ、きれいな空気

    長寿者の食物は乳製品が大部分。牛乳・チーズ・ヨーグルトで、バターは食べない。ぶどう酒は12杯まで、タバコは老年になるとやめる人が多い

    多種類の適度の労働。農業が最もふさわしく、100を超えても継続

    心配事を乗り切り、忘れることもできる朗らかな性格、強い神経

    長寿者を囲む家族や隣人たちの、温かな心とユーモア

 

l  革命までの730歩――世界名作の旅・ロシア

1965314日朝刊・日曜版 「罪と罰 フョードル・ドストエフスキー」

流行作家になった直後、革命団体に関係して流刑、手にした唯一の本が聖書で、人間の救いの道は神であると説き、社会主義や革命を信じなかった。その後、すべての作品の主題は、異常な事件を通じての革命的反逆者とキリスト教の愛の具現者との、陰鬱で苦悩に満ちた戦いに終始したが、作家としてはついに救いのない生涯だった

『罪と罰』は、作者の正確な描写から逆算して、すべての固有名詞が特定されているのに、実際の歩測して見ると、不遜な「殺人の哲学」に基づく殺人現場にはどうしても730歩では辿り着かない。最短距離を選び歩幅を広げて漸く730に近づく

 

l  韓国 こころと土と(1)

196614日夕刊 「日本が見える 複雑な民衆の心 反日の歌・生き残る日本語」

晴れた日に釜山の竜頭山公園に立つと対馬が見える。釜山は一番近い外国の港

公園にはいくつもの記念碑がある。秀吉の朝鮮征伐から国を守った水軍の名将・李舜臣の像、朝鮮動乱の時の忠魂碑、4.19学生革命の犠牲者慰霊塔、剥き出しの高射砲の砲座など

柳寛順は1919.3.1.の民族独立運動の先頭に立って獄死した女学生は愛唱歌になっている

まちでは日本語がいくつも韓国語になっていて、日本語で話ができるが、21年間、独立と反日と、動乱や革命を経て、いま生き残っている日本語が、ひとつひとつ、何か、哀しい

北への警戒は、半島南端の町でも恐ろしく厳しい。港の税関で『日本と朝鮮』という本を没収された。韓国で朝鮮といえば、今は北を意味する。夜12時以後は外出禁止

 

l  南ベトナム 心と土と(1)

1966610日朝刊 「戦乱とチグハグ あでやかなアオザイ姿」

サイゴン空港におりると、戦闘機などが見え戦場だと思う

タラップの下には、アオザイ姿が立ち、不釣り合いさ加減はどういうことか

アオザイは、外国人向けの飾り着だと思ったら、ごく普通の町着

日本のモンペやゲートルを巻いた硬直した戦争と、アオザイ姿の日常が続くベトナムの戦争とはどうも様子が違う

500年前、明の支配を受けた時に中国から伝わったといわれ、本家は清の時代にチーパオ(旗袍)に変わったが、ベトナムでは民族服として生残り、フランスの欧化政策を経て古い伝統を守り続け、女たちは戦争でもこれだけは譲らに

アオザイ姿はのどかで、どこか投げやりなふうでもあった。見ていて思ったのは、ベトナム戦争というのは、案外平和な戦かもしれないな、ということ

 

l  パリ―東京――世界の都・第1

1969216日朝刊 「朝 サントノーレ通り」

延長4㎞、中央市場から始まって、東半分が1区を貫く古いサントノーレ通り、西半分が8区の新しいサントノーレ通り(城外サントノーレ)

通りに電柱がなく、街灯は家並みの2階の壁から突き出している。次第に町が明るくなるのは、終夜点灯される飾窓の灯が増えるから

パリの一番豪華なおしゃれ専門店街として知られる

午前6時、市の清掃作業車が通り、郵便配達が通る。7時エリゼ宮に灯がつき、道路清掃人が働く。8時カルダンの店の2階に灯がつく。中央市場ほどの活気からは程遠いが、おしゃれ通りもまた早起きで働き者の町だった

 

l  ニューヨーク―東京――世界の都・第2

1969316日朝刊 「白い馬の騎士」

共和党でありながら進歩的思想を持つリンゼー市長を、ひとはよく「共和党のケネディ」と呼ぶ。連邦下院議員から、43歳で民主党の堅塁を破って市長に当選

当時の記事によれば、リンゼーは市を危機から救う「白馬の騎士」だったが、当の市民の間での評判は別で、犯罪や生活保護受給者の急増への不満の矛先がリンゼーに向く

納税者の権利意識の強さや、市民の政治意識の全米的な保守化傾向もあり、さらには人種間の複雑な偏見・差別・敵意まで含まれる

市民の人種的多様さ、階層性ほど市政を難しくしているものはない

東京の110番に相当する911番の呼び出し回数は18200/日で東京の26倍。イライラしているのだ。去年、ベトナム政策で世論が分裂して以来、市民が文句を言い始めた

「およそ天候以外の全てに責任を負わねばならない」のがニューヨーク市長職だといわれる

リンゼー自身も、「白馬の騎士」の事例は嫌いじゃなかったが、すぐにワシントンで会った世界のどんな怪物よりも、ニューヨークはもっと大きな怪物だったと悟る

 

l  ニューヨーク―東京 OL1日――世界の都・第3

1969416日朝刊 「サリーと朝」

26歳のOL。昨秋アトランタから来て東92丁目のアパートに住み、地下鉄で通勤。86丁目レキシントンの駅まで、信号に関係なく歩いて7,8

 

l  自衛隊(1)

1967213日朝刊 「きのうもきょうも 監視し待機して 世界の戦略体制の一環」

前年11月の10日間の自衛隊関係の主な行事、出来事の日誌を見た第一の感想は、「ずいぶん活発に動いているもんだ」

その前後4カ月にわたって自衛隊を見て歩くと、24時間体制で動くレーダー基地や陸自の沿岸監視隊がいて、東京・府中の米第5空軍司令部の中にある航空自衛隊の総隊作戦指揮所では日米が入り乱れて24時間待機の勤務に就き、日本全国や沖縄・韓国の監視網から集めた情報をハワイに送って米太平洋空軍司令部の状況表示板に表示される仕組みになっていて、全世界的な戦略体制の中で動いていた

1950年警察予備隊として発足以来、自衛隊の主だった活動は専ら災害派遣だったが、2年後保安隊となり武装を強化、さらに2年後自衛隊法で「わが国の防衛を主たる任務」とする軍隊的性格を持たされたが、いまだに日本の防衛いかにあるべきかは未解決の課題

比較的よく知られた災害派遣よりも、法律がいう「主たる任務」のほうに着目して、私たちはこの自衛隊報告をまとめた

 

l  続・自衛隊――兵器と産業・F104Jの記録(1)

196777日朝刊 「米軍規格 名ばかり、国産化もヤード・ポンド」

自衛隊の主力戦闘機F104Jを国産化する時、三菱重工はヤード・ポンド法の計測器を使用

国産化といいながら、ロッキード社の図面通り、丸写しに製造し組み立てるのが建前

国産化は、F86F300機について2度目。最初三菱は図面をメートル法に換算して使ったが、精度の上がった今回はヤード・ポンド法で一貫することとして工具類を買いそろえた

IBMカードを使用、多少の不自由を忍んで英語図面で通し、乗り手もまた英語で離陸し、ヤード・ポンド法で照準して英語名の弾を撃つ

日本はメートル法の国。防衛庁や三菱が罰せられないのは計量法の特例扱い

F104JのエンジンJ79IHIが国産化、GE社の図面のメートル法換算に6か月費やす

IHIによる初の純国産ジェットエンジンJ3は、通産省の後押しもあってすべて日本語とメートル法で通したが、自衛隊が採用した際はインチ系と英語に直された

自衛隊は米軍規格の部隊。米軍と共通の規格を国産兵器にも適用しているのは、1つには日米共同防衛体制の必要から

F104Jの最初の200機は、日米共同生産。自衛隊と兵器製造会社との間もまた緊密

日米共同防衛体制は、米軍規格による兵器生産を通じて、日本の産業界に根を下ろす

 

l  自衛隊員(1) ある中隊

1967122日朝刊 「射撃も格闘もプロ ビンタ厳禁 明るい隊舎」

1週間中隊に潜り込む。隊舎は傷だらけだが、武器は真新しく、大半が国産火器

自衛隊は戦時編制。即応態勢であり、平戦時の区別がなく、非常事態になれは即座に現員・現装備で戦闘できる

営内班長の心得があって、旧軍兵舎の硬直した、暗い、ずるい目の色はない

戦後っ子をどう納得させて規律厳正な隊風を確立するか、何を精神的支柱として精強な戦闘部隊に育成するか、営内班長の労苦がここにある

自衛隊の一生懸命さは1週間の見聞でもわかった。一般の日常感覚からいえば何かもう、ただごととは思われない。こうして自衛隊は何に備え、何を目指しているのか。また、何を目指していると隊員は考えるのか。隊員及び隊員の意識・考え方を中心としてこの記録をまとめた

 

l  NHK(1) 番組制作工場

196851日朝刊 「ドラマも流れ作業で 巨匠の入る余地はない」

ニュースやスポーツ中継以外は、事前にスタジオで録画するが、その仕事は工場の流れ作業に似ている。制作者が一番気にしているのは時間。NHKは深夜業はしない

1965年、放送センター第1期工事完成を境に、情報産業は手工業から機械工業の時代にはいったとNHKはいう。国内放送5波が68年度1年間に送り出す全番組数は95千を超え、合理的な流れ作業方式で統一された工場生産に名人・巨匠の入り込む余地はない

この6月の第2期工事完成と同時に、高度な電子計算機組織を現場末端まで持ち込み、「番組技術システム」を確立する

ドラマ量産時代への疑問を制作者仲間が語る。「テレビとは何か」、飽きずに年々同じ議論を繰り返す

 

l  NASA 米航空宇宙局(1)

1969616日夕刊 「10号から11号へ 8年越し8兆余円 目もくらむ月への道」

ケネディ宇宙センターでアポロ10号の打ち上げに立ち会う

2日後に11号が発射台に立つ

回収までの総経費が11260億円で、霞が関ビル8棟分に相当する財貨を宇宙空間にまき散らす。アポロ計画参加人員17.5万人、8年越しの総経費が8.6兆円。アメリカの頭脳と科学技術と長い開発努力と、そして巨額の宇宙投資、目もくらむばかりの総計のてっぺんに、いまアポロ11号が立っている

去年6号の事故でケネディが宣言した「60年代月着陸」の目標達成さえ危ぶまれていた苦境をNASAはどう切り抜けてきたのか

もっと遡ると、宇宙開発競争でソ連に立ち遅れたことからNASAの組織や巨額の投資が始まった。以来、今日までの無数の技術突破の歴史の中に、NASA物語の一番重要な何章かがあるはず

 

²  北アルプス遭難記事の衝撃――本田勝一

195910月、社会面の大半を潰して報じられた山岳遭難のルポに刮目させられた

新聞全体の建て頁が少なかった時代、長編ルポを掲載するページはなく、社会面の他の記事を犠牲にしてまで大半を潰して出す例など滅多になかっただけに余程のことで、その署名記事の筆者が疋田桂一郎

着眼のしかたや切込みの角度、基本的な「ものの見方」が実に鋭い

山の遭難といった分野にとどまらず、新聞報道のあり方一般に通ずるものとして秀逸だけでなく、よく奨励されていた客観的表現とは逆に、実に主観的記事でもあった

大きな教訓となったのは、疋田が山の素人だったこと。山の素人が、山の遭難報道で革命的な転換をやって見せた

疋田から最も影響されたのは、記事そのもの。疋田原稿の特徴は、現場を見た上で独自の観点から鮮烈に本質を喝破するところにある。短篇ルポにしても、鋭い批判精神の横溢した、真の意味での主観的(偽善的客観主義とは逆の)記事だった

東大生遭難の記事はそのお手本

 

第2章        1970年代――「天声人語」筆者として

l  1970

Ø  67日 「米の味」

有名な米どころで食べた米のうまさに驚いた。今の米の制度で、味は悪いが収量の多い米が買われ都会に出回っていて、味の良いのは農家の自家保有米になる。食管制度が味覚の管理制度だった。さらに、試験場で昔のままの肥料で農薬は使わない米を作っているが、食べてみると最上の米より格段にうまい。舌がバカになってしまったのは都会人だけでなく、米どころの農民も気付いていないのではないか。米の国の味のふるさとが荒れていくのを見るのは悲しい

Ø  69日 「一等兵の死」

米国の永住権を失うまいとして徴兵に応じた日本人の若者がベトナムで戦死

一方で、米国南部の町の若者は、精神異常を演じて兵役を免除されたが、タカ派の多い南部の町に住めなくなって町を出ていったばかりか、一旦「異常者」と認定された以上、社会復帰は出来ないかもしれない。中途で道を誤った若者たちにとって、国家とはいったい何なのか。インドシナの戦場で争われている国々の利害が、果たして若者に課せられた犠牲に見合うものなのか、もう一度考えてみたい

Ø  77日 「ベトナム帰り」

岩国基地の営倉で暴動が起こったといい、沖縄での米軍の軍紀の乱れもひどい

米兵にとっても米国民にとってもベトナム戦争は特別な戦争。これまでなら戦場から帰還するとみんな英雄。米国近代史はほぼ成功の記録の連続だったが今回は違う。ベトナム帰りの若者を、いまのイライラした米国社会にどう適応させるのか、隠された大問題

25年前、敗残の初年兵は焼け野原に帰った。心をいやす何もなかったけれど、シラミだらけの兵隊着を庭で焼いた。何もかも終わった、という奇妙な安らぎがあった

Ø  87日 「庶民の記録」

310日の東京大空襲はただ1回の空襲で死者83千、負傷者13万、被災者104万に達した。原爆に匹敵する被災だが当時の記録は原爆資料の1/100もない。最近本紙にその体験記を綴った囲みが連載されているが、地獄図の中にも何かを美化して後世に語り継ぎたいという使命感が読み取れる。国の戦争指導史や旧軍の戦記なら山とあるが、空襲で死んだり生き延びたりした庶民の記録は少ない。これが戦争というものなのだと今さら思う

Ø  815日 「戦争体験」

戦争体験を語るおとなの顔を、戦後育ちの若者が、年々、意地悪な目で見返し始めている

単なる郷愁、追憶、思い出話として楽しそうに語られる戦争体験への反発がある

戦争体験を語るおとなが、いまは、戦争責任を問われる。若者は「苦しい戦争体験の1歩前の体験も知りたい。なぜ戦争に反対しなかったの」とただす

開き直った若者に向かって曽野綾子は戦後おとなが何をしてきたかを語る。「いいことも悪いこともしてきた。無人島から始めたんですからね。若者にそうやすやすとわかられてたまるかよ」

815日は何の日か。世代間の開き直りっこを含め、この日は全国民にとって、年々何かの日であり続けるだろう

Ø  94日 「もの音」

北関東の森の中で週末を過ごすと、星の数と同時に様々な音に驚く。都会では久しく聞かない遠い音が聞こえる。都会には音に奥行きがない。騒音で耳に栓をした状態でいる

耳を澄ますと遠いもの音を聞く。ちょっと不安そうな、意味を探すような表情、しぐさまで人々は忘れかけている

Ø  102日 「コオロギ」

コオロギだけが戦後の都会に残った。なくと普通いうが、本当は鳴らすので、弦楽器が庭や路地に並んでいる。人の話を中断するジェット機の下でも鳴き続けている

コオロギの平均終鳴日は、各地とも山の冠雪日とほぼ一致、初霜より早い。冬の前に山の雪を見てなきやむ

Ø  1013日 「過保護」

親子連れを見ていると、世間の親は何でまた、ああ腰をかがめて子供のあとに従うのだろうと思う。電車では、中学生が座って母親が立っている。「席を代わったら」とつい口を出したら、母親が、「この子は野球の練習で疲れているから」という

中学校の運動会から騎馬戦や棒倒しが消えていくのも、危険だからという

人前でべたべた子供にかまうのは慎んだものだった。無教養で恥ずかしいことだった

気味悪そうに教師が「へんですよ」というのを聞いたことがある

Ø  1124日 「修業」

大工やコックなどの職種が若者の間で見直されているという

初対面で相手の職業を聞くのに、日本では「どちらにお勤め?」と聞くが、欧米では職種を聞くのが普通。職業観の違いだろうという

ボールペンの使い過ぎで腕や肩が痛むOLが増えているという投書に対し、謄写版技術者が、「皆じっとこらえて腕を磨いている。専門家としての意欲で痛みを克服する。仲間で腕や肩をダメにした話はまだない」と反論。誇りがにじむような、さわやかな投書だった

Ø  1126日 「三島由紀夫」

自衛隊に切り込んだと聞いた時は、「またか」と思って大笑いしたが、自殺と聞いて、しゅん、としてしまった

「ぼくは地道にコツコツと銀行家のように仕事の貯金をする」という一方、突拍子もない言動は「わざと意識的にやる遊び」だという。楯の会を「芝居だ」ともいった

わからないのは、彼の「遊び」がいつ本気に変わったのか。もし本気なら、なんとまあ非論理的で、はた迷惑で、野蛮な死にざまだろう

あまり深くは政治的な意味を考えたくない。むしろ戦後文壇史の1事件か、痛ましい異常者の1事件だと解釈したい

Ø  1221日 「コザ騒動」

沖縄の人たちは、じつにもの静かな話し方をするが、ただもの静かでやさしいだけではなかった。コザ騒動は、市長が「25年間の怨念をはらしているようだった」と語っているように、騒動の激しさが想像できる

コザは極東最大の米空軍基地の町。まるで準戦場で、むき出しの占領軍意識がまかり通る

多くの住民は、「いつかはこうなると思っていた」と平静に騒ぎを見ていた。反米の火種は沖縄全土に満ちているという感想だろう。事件の11つがどんなに我慢のならないことだったか。もの静かな県民がどんなに長いこと忍んできたか。それを、この事件で改めて考える

 

l  1971

Ø  115日 「出かせぎ」

この頃の出かせぎは食うための悲劇型から、金もうけ型に変わったそうだが、それでも留守宅の暮らしは調子が狂う。出かせぎの蒸発は①女②ばくち③酒という。5年も連絡が途絶え、蒸発同然で墓まで作ったところに年賀状が来てびっくりしたという話も聞く

高層ビルやホテルや地下鉄、今日の大都会の建設工事といえば、すべて、この人たち出かせぎ労働者と留守宅の血と汗と涙なしには成り立たない

Ø  29日 「女の一票」

スイスで連邦政治への婦人の参政権が認められた。米国でも去年、男女同権のための憲法改正がやっと下院を通った。日本の婦人参政権は、マッカーサーの贈り物と当時いわれた

石川達三が、「婦人に参政権を与えたのは間違いだった」と大胆な意見を書いている。「流行に弄ばれる現代の女は愚かしい。女が浮薄だから選挙運動という催眠術を用いるのに都合よく、その時から民主政治は低級になった。スイスではまだ女には選挙権はなく、賢明」

「浮薄」なのは女だけかどうか。男の問題でもあるだろうが、いまの若い婦人解放運動家はこれに何と答える

Ø  331日 「実験室」

「人間はどこまで残虐になりうるか」を調べる実験で、先生役に1000人募集、生徒が間違えるたびに電気ショックの電圧を致死寸前の450ボルトまで上げていく。2/3までは最後まで実験を続け、実験後正常に戻るまで精神科医の治療を要したという

実験をした博士は、ここまで大勢の人が残虐になれることに衝撃を受けたが、平時でも人はこうなれる、まして異民族相手の戦場でぎりぎりの恐怖や敵意を持たされた時、人間はどうなるか。こんど有罪が決まったソンミ虐殺事件がそれだ

人類が平和愛好者だというのは噓。本性は残虐な生き物ではないかと思うことがある

Ø  53日 「憲法記念日」

昭和22年の憲法発布記念日には、農林省が36歳の全児童にキャンディーを配給。ひもじい時代で、「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文をしらじらしい思いで読んだのを覚えている

記念式典で国会議員代表の咢堂は、「この国の前途は厳しい」と警鐘を鳴らす。満6年目から政府は記念行事をやめた。憲法で持てないはずの「戦力」を育て始めてきまり悪かったのか。まるで不義の子のように、その後この憲法は誕生日を公式に祝ってもらえない

ひもじい時代だから、きれいごとがいえた…かのようなのが残念。経済大国になった今日こそ平和憲法を盛大に祝いたい。「戦争放棄」「戦力不保持」を繰り返し世界に宣言したい

Ø  624日 「暴露」

米国防総省の「ベトナム戦秘密報告」を読むと、国家がどんなに嘘つきであるかが、よくわかる。戦争の内幕の醜悪さ、非情さを伝えて余すところがない

意外だったのは、この報告書が当の戦争責任者マクナマラ国防長官の命令で作成されたことで、将来過ちを繰り返さないための徹底的な分析を命じたと伝えられる。しかもまだ戦争が終わらないうちに暴露され、国内外に騒動を巻き起こした

一時的に国家の威信は傷ついたかもしれないが、暴露が米国の本当の威信を回復するきっかけになるという『ニューヨーク・タイムズ』紙以下の信念の固さは見事。嘘を許さない米国人の良心の声を聞くようで、まだまだ大丈夫な国だな、という思いもある

Ø  627日 「カッコウ」

信州佐久の森で郭公の声を聞く。人恋しそうな呼び声だが、郭公にはモズなどの巣に卵を産み育てさせるというずるい習性もあって、早く生まれたヒナも親譲りで他の卵を巣から落とし、仮親の世話を一身に受けて育つという

郭公の名は鳴き声に由来。他の国でも似た様な名前がついているのは、それだけ郭公の発音が明快だからだろう

Ø  85日 「観光道路」

大石環境庁長官が尾瀬視察で、「自動車道路を作って、自然をめちゃくちゃにして、こんなことが観光開発といえるのか」と批判、全国の道路、林道計画も洗い直すといって喝采を浴びたが、閣議では他の大臣の批判を浴びてドン・キホーテの評まで出るしまつ

大石は東北大医学部助教授から転向したインテリで、人柄は温厚だが力は弱いと政界でいわれ、彼の行く手は厳しいが、環境庁という役所は千駄ヶ谷の温泉マークの真中にあり、環境問題で闘志を燃やすにはまことに環境絶佳、大いにがんばってもらわなくては

Ø  86日 「被爆者の夏」

10年来の知己が被爆者であることを初めて知って、毎年夏になるとおかしくなるというのを聞いた。「まだまだ被爆者は沈黙している」ともいう。「本当に被爆体験が風化してくれたら、いくらか夏も涼しくなって楽なんだが」といって笑った

Ø  89日 「身長と平和」

戦後っ子の成長の早さは驚くべきものがある。14歳で戦前の大人と同じ背になる

食べ物がよくなったからだといい、刺激の大都会ほど大きな子が多いといい、平和が日本人を大型化したという解釈もある

本紙日曜版の今週の「生活カレンダー」はまるで終戦日誌を読むよう。8日のソ連参戦から14日の聖断下ると続く。当時背の低い日本人は防空ずきん、もんぺ姿で逃げ回っていた。いま、同じ町を背の高い日本人が海辺のような姿で行く。平和はいいな、と思う

Ø  914日 「フルシチョフの死」

プラウダは死後2日たってから、わずか60語で伝えた。なんという冷淡さかと驚く

失脚して7年、戦後世界に残した業績は大きいが、国内では意外に不人気

権力の座を退いた政治家によくある運命の残酷さかもしれない。第2次大戦戦勝後の選挙でチャーチルが負けた時、ドゴールは「英雄に対して国民は恩知らず」といい、ドゴールが大統領を退いた時、英国紙は「やはり国民は恩知らずだった」と書く

今日の政治の世界は、魅力ある政治家が失敗する時代。人間1人の指導力でかじを取るには世界は広すぎるにしても、去年から今年にかけて、スカルノ、ナセル、ドゴール、フルシチョフといった個性豊かな名優の死が相次ぎ、舞台が寂しくなった

Ø  1031日 「もみじ」

もみじの色の、年による変化、美しさの当たりはずれは、春の花より激しいように思う

秋に日照が多く、夜の冷え込みが強い年ほど、もみじは一般に美しいという。木の種類によっても違い、尾根のもみじと谷のもみじとで、また違う。もみじはハラハラ降り、ドングリはからからと落ち、時雨のように屋根を叩く音のすごさで夜中に目を覚ます

戦前の中学生の英語では秋はオータムだったが、今はフォールと習う。葉が落ちる季節だからフォールという。どんぐり時雨に打たれながら、そのフォールという英語の感じを味わっていた

Ø  1129日 「落ち葉の色」

珍しく1週間も続いた小春日和に、東京では珍しく手付かずの自然のまま森や水が保存されている公園に行く。落ち葉の色の変化の多さに驚き、落ち葉の色素が分解し、化学変化を重ねて様々な虫が食べた食物連鎖で栄養たっぷりの土壌となる

Ø  1221日 「白夜」

白夜は夏の現象。高緯度の北極圏では常昼といって24時間全く太陽が沈まない期間があり、逆に冬は常夜といって全く太陽が顔を見せない期間がある

今年いちばんのヒット曲という《知床旅情》でも、知床、クナシリに白夜はない

 

l  1972

Ø  114日 「社会奉仕賞」

佐久総合病院の規模とあまりの立派さに驚かない人はいない。その院長で農村医学の開拓者・若月俊一さんに社会奉仕賞が贈られた

農村には困窮、多忙など特殊な病因があり、しびれ、腰痛、農薬中毒など全体を農夫症と呼んだ。いまでこそ国際学会まであるが、昭和20年春東大外科から佐久の山奥の診療所に来た時、農民の健康を顧みる医学はなかった

「社会奉仕」という言葉自体、今の世に得難いもののように思う。しかも1人の医者の長年の努力が大勢の理解者・支持者を集めて実り、これを手本にした農村の病院が全国あちこちで建ち始めたと聞くのは心強い

Ø  212日 「札幌五輪」

70m級の勝利だけでも奇跡的なのに、90m級もと欲張って期待し落胆したのはむごい話

勝負の迫力に加えて、レース前後にテレビが大写しする選手たちの緊張や苦悶の表情がいい。スポーツ好きならだれでも知っている楽しさ、充実感があるが、オリンピックでは、ここへ国籍、国旗、国家が出てきて、変に主人顔をしだす。それはそれで、また別の壮烈なドラマだとしても、スポーツという遊びからは遠い。一転して今度は敗者をむち打つことにならなければいいが

Ø  222日 「ニクソン訪中」

北京からの歴史的なテレビ中継は、カラーの調子が少し変だった

中国からのテレビ生放送は初めてで、中国の風物や町や民衆を初めて見る楽しさと、同時に、世界政治を左右する米中要人たちが、ともにテレビを意識しながら外交戦略の火花を散らす生ぐささも見えるようで、面白かった

Ø  225日 「凶悪犯」

どんなに非人道的で反社会的で常識を踏みにじる凶悪犯でも、それを直ちに狂人とか狂気、気ちがい、精神病と呼ぶのはやめようではないか

深く考えずにいい捨てる形容詞の一種だとしても、憤りをいい表す最後の言葉が狂人であるように見えるのが気になる

注意してほしいのは、1つは現実の精神病患者の気持ちで、凶悪犯人を軽率に狂人呼ばわりすることがどんなに患者を傷つけてきたか。実際の精神病者の犯罪率は常人の数分の一であり、加害者より現実世界の被害者であり、弱い立場にある

見境なしの狂人扱いは、一つ間違えると政治に利用される心配もある

理解に余る凶悪犯を狂人と決めてしまえば何か気持ちがすんだように思う傾向は危ない

Ø  227日 「テレビ・ショー」

軽井沢の人質籠城事件からニクソン訪中の中継まで茶の間のテレビが忙しい1週間だった

テレビは何もかもショー化し見世物化して強烈な印象を与えると同時に、写される方も意識している。米中会談の成否は分からないが、各国民衆が北京からの中継を見つめた事実を抜きにしては評価できないはず

2つの事件に共通するのは、1つは会談と山荘の中身が全然わからないこと、もう1つは日本の政治が両事件に全く無力、無反応で、適応力を持たなかったこと

一体日本の政治は何をしているんだと、人々は思ったろう

Ø  311日 「赤軍の残党」

群馬山中での連合赤軍の残党の多くは仲間に殺されていたという、なんとも恐ろしい事件

日航機の乗っ取り以来、この一派のやることは一々衝撃的だが、今度の仲間殺しにはまた異質な恐ろしさがある。陰惨さは例がなく、背景は世間の理解と想像を遠く超える

異常であればあるほど、なるべく詳しい資料の発表を求めて、事件が意味するものは何かを考えたい

Ø  45日 「外交秘密」

外交交渉をまとめるのに秘密保持が必要なことは常識

どの国でも、重要な外交交渉ほど国民感情は排外的に傾きやすいので、交渉内容が途中で漏れ、反対の国民感情が燃え上がったりすると、理性的な交渉の妨げになる

だからといって何もかも秘密で、ということにはならないし、嘘をついてはならない

沖縄返還交渉の秘密電報が国会で暴露され、政府の政治責任を問われたのが、ここだった

秘密電報の複写をもらした外務省職員と受け取った新聞記者が逮捕されたが、話の本筋とは区別して考えたい

Ø  46日 「続・外交秘密」

毎日の西山記者が極秘文書を公開しなければ、返還交渉のカラクリは永久に秘密とされたのではないかと思う。交渉の実態をありありと証明してくれた

ところがいま起こっているのは、国民を騙した政府の政治責任は、形ばかりの首相の所信表明で済まされ、西山記者が刑事責任を問われている

あの秘密を永久に秘密にしておくことが国民の利益にかなったのかを考えると、刑罰権の行使振りはいかにも片手落ちで、釣り合いを欠くように見えるがどうか

この事件がきっかけで、政府に都合の悪い事実が新聞にすっぱ抜かれると、いちいち警察の捜査が始まるのではないか。新聞にとっても、社会にとってもいやな事態になった

Ø  415日 「新聞批判」

国会で嘘をついた佐藤内閣の責任が最も重いのに、首相が国会で謝っただけ、外相や外務省高官の処分も軽いのに、文書を漏らした元外務省事務官が懲戒免職

政府に都合の良い機密なら高官がよく洩らす。都合が悪い機密だったから首になったが、今度の機密漏れは多くの国民にとってプラスだったので、同情をかった

新聞が取材源を守れなかったこと、そそのかした記者の方が早く釈放されたことなど、新聞への国民の理解と信頼が揺らいでいるのを感じないわけにはいかない。事務官への同情が、反面で痛烈な新聞批判になっていることの意味を、新聞人として十分かみしめたい

Ø  618日 「佐藤引退」

引退挨拶のテレビ会見で、首相は「新聞は偏向しているから大嫌いだ」と怒鳴った。本心からテレビが好きで新聞は嫌いなのだと見える。権力者が新聞よりテレビを好むのは、テレビは力で統制できるから。フランスは国営だし、日本でも免許制

首相は「テレビは真実を伝えるから」ともいったが、何が偏向かを決めるのは視聴者・読者

その「真実」についても、7年余の長期政権で佐藤はどんな真実を語ったのか。嘘の答弁をしたのが沖縄交渉であり、繊維交渉でも常々真実を語って入れは疑惑も密約説も出なかったろう。確かに往生際の「真実」を生のまま伝えてはいた

Ø  815日 「戦死した兄」

戦死した兄を悼む文集「妹たちのかがり火」を読み、内容が想像できても読むのが辛かった

親や子や、自分の身辺の実感から、「戦争はイヤです」と決意する。それだけの強さがある

短い略歴に戦死地が載っている。それぞれの戦場で、同じように相手側もまた多勢の兄さんが戦死し、妹たちが悲嘆にくれている姿が想像できる

8月の空と緑の濃さを見上げ、草いきれのする道を歩くと、生々しく戦争の日々が蘇る。815日が、またやってきた

Ø  912日 「高い米」

カリフォルニア米の値段は日本の米の1/3で、味もそうは違わない。安い米を輸入したらいい、農業なんかやめたらどうかという極論まで聞く

農業斬り捨て論となるとやはり乱暴だと思う。しかもなお、「なぜこんな高い米を買わされるのか」という疑問が消費者にはある

Ø  914日 「静かな空間」

ニューヨークで賞金まで出して騒音苦情申し出を呼び掛けている。東京よりよほど静かな町なのに、市民の協力を呼び掛ける大胆な着想が素晴らしい。音に対する敏感さ、市民生活への心配りのこの細やかさはどうだ

日本の都会でただちに全面禁止を検討してもらいたい騒音は、街頭スピーカー、電車の車内放送、食べ物屋のテレビなど。東京にないものは、「静かな空間」という指摘は事実

戦前の調査で、市民が苦痛を感じる騒音の1つに「通行人の足音」があった。これが本当で,今の都会人の耳は騒音に慣らされ、一時的に変になっている。日本人が静かさの値打ちを知らないわけはない

Ø  107日 「子殺し」

国際心理学会議での報告に気になる資料がある。「日本の母親はよく赤ちゃんを殺す」という。女性の殺人だけは東京がニューヨークより多く、多くが母親による嬰児殺し。堕胎天国といわれることと関係があるのか。堕胎も殺人件数に入れれば、すさまじい赤ちゃん殺し国になる。今の若い母親は過保護か放任か、両極端で中間がないと聞くが、極端の先の先に子殺しがあるわけか。親と子の結びつきが前と変わってきたことを認めないわけにはいかない。一般化せず、もっと注意深く子殺しの由来を追及していいと思う

Ø  1031日 「車文明」

東名高速で3歳の子が置き去りにされた。普通の捨子なら安全な場所がいくらでもほかにあるのに、平気で生み捨てにし、簡単に殺すのとはまた別の恐ろしさがある

「車を運転すると人が変わる」「車文明は人間の品性を堕落させた」ともいう。普段はやらないことをやる。この親も吸い殻と一緒にポイと子供を投げ捨てたわけか

富士の麓の冷え込みは厳しく、ひき殺されなくても、救助が遅れたら凍死していたかもしれない

 

l  1973

Ø  16日 「英国式」

サリドマイド剤を作る有名なウィスキー会社ディスティラーズが、救済補償の出し方に誠意がないと袋叩きにあっているという。外国、とりわけ英国の話となると良いことずくめのようだが、そうではない一例だろう

日本と違うのは、世論の大企業に対する抗議の爆発的な激しさ

この事件でいちばん日本と違うところは「サリドマイド児とその家族を孤立させてはならない」という町の民衆の気持ち。身体障碍者への思い遣りが、ごく当たり前の通念になっている社会だからこそ、弱い者いじめをする冷血で非人間的なウィスキー会社を許さない

くやしいけれど、今度の英国の話に私たちが学ぶところは多い

Ø  125日 「ベトナム和平」

米軍による史上前例のない殺傷と破壊はこれで終わるが、明るい響きはまだない

声を上げて喜ぶには、この戦争があまりにも長く、悲惨であり過ぎたからだし、南ベトナムの政治対立は未解決で残ったままで、本当の平和回復はまだ先だ

 

長い、きたない戦争の間、日本は終始、補給庫として一方に加担した。平和を望みながら、実際にはどれだけ平和への努力をしたろう。苦い罪悪感もある

Ø  131日 「みそ・しょうゆ」

原料の輸入大豆が世界的な天候不順で急騰、豆腐やしょうゆが値上がり。日本は大豆の95%以上を米中からの輸入に頼る。大豆ほど多種多様な食品の原料となる農作物は珍しい

「畑の肉」といわれ、タンパク質と脂肪に富み、加工品群はたんぱくの消化吸収率が90

10年前に自由化され大部分の農家は大豆生産をやめた。値段だけでなく、豆腐やしょうゆの味が落ちたともいわれる。伝統食品の原料自給率がこんなに低くていいのか疑う

Ø  25日 「人類と花」

イラクのネアンデルタール人の遺跡で、墓の周りにキクやスミレの花粉がこぼれているのを発見。遺跡と同年代のもので、近くの山でとった花を意識的に置いたものと判明

ネアンデルタール人が今の人類の祖先かどうか、長い論争が続いているが、今回の発見が肯定的推測の1つの新しい証拠になった

立春の日曜日、花の季節がやってくる

Ø  319日 「地下道の散歩」

日比谷交差点から大手町までの1.5㎞の長い地下道を歩く。殺風景だが騒音がない静かさはいい。たっぷり20分は考えながら歩くことができる

欧州の都会では人は大体400mは歩きそれ以上になると乗る。東京では300mが限度で、それ以上歩くのは苦痛との結果が出ている。それだけ日本人の足が弱くなったとは考えにくく、それほど日本の都会が歩くのに苦痛の多い町になったからに違いない

半ば慣れ、半ばあきらめている気づかないが、どんなに車が横暴か、どんなに町が荒れすさんでいるか。ときどき静かな地下道をぶらぶら歩いてみると、それが実によくわかる

 

²  都心の地下道をよく歩いた人だった――辰濃和男(ジャーナリスト、疋田の次の次に天声人語を担当)

197077日の天声人語で、「敗残の初年兵」として自らのことを書いている

疋田天人には、「戦争体験」「ベトナム戦争」「沖縄の基地」「平和憲法」を主題にしたものが多い。「何もかも終わったという奇妙な安らぎ」を感じた時、その安らぎを得られずに死んだ同胞の惨苦や絶望が疋田の胸に激しく渦巻いたことだろう。だからこそ「戦争」を書き続けたのだ、ベトナム和平でも、対岸の火事と見る日本人に対して厳しい自省を迫っている

戦争や基地のことを書く時も、生身の人間の思いを出発点にした

よく米や味噌の味を語る人でもあって、そのことをよく書いた。「米の味」(70.6.7.)はその代表作。驚く、そのことを友人に話し驚きを共有、そして驚きの真因を探るのが手法で、自分の舌や耳や目の驚きの感度を信じ続けた人

コオロギの、音の違いを聞き分ける感受性を持った人。音環境の描写には、鋭くて繊細で、うっとりするほど柔らかみのある文章がいくつもある

地下道がいい、というのは自虐を交えた風刺でもある。軍隊にせよ権力にせよ車にせよ、横暴なものに対しては、静かな声で異議を唱え続けた人だった

 

第3章        1970年代後半~80年代――新聞のあり方を問う

l  ある事件記事の間違い ~『えんぴつ』153号 1976925

警察発表は疑いながら聞くもので疑わない方が記者の怠慢といえる

(はじめに)

1本の事件記事がおかした間違いについての調査報告――1年前、昭和505月本紙掲載の記事を、1審判決後の公判記録に照らして間違いを追及する形をとる

協力してくれた記者の全員が、「自分が取材しても似たような記事になった」という

問題は、取材記者共通のもので、ここに述べるような危険な取材を、慣習として機械的に無意識的に疑わず繰り返していることを怖いと思う

(事件)

三井銀行の企画室次長(31年東大卒)が、心身障碍の幼女を自宅で餓死させた容疑で逮捕。本人は銀行を辞め、保釈となって自宅から公判に通っていたが、逮捕から9カ月後、懲役3年執行猶予5年の判決を受けたその帰り道、小田原の無人踏切で電車に飛び込み自殺

最初の記事は逮捕時で昭和505月。事件の概要と経過、本人の自白を伝える

2本目が判決報道で翌年1月。裁判長は将来を不憫に思った被告の心情を汲み、反省の色が著しいとして執行猶予の判決

3本目が自殺報道で、2本目と同日の夕刊。飛び込み自殺の経緯に加え、奥さんの証言を掲載。「娘は前月末から昏睡状態で、殺人などありえない。刑事にいじめられて殺人犯に仕立てられた。裁判長に分かってもらえなかったら生きていて意味がないと夫がいっていた」

奥さんの談話を読んで、事件を調べてみたいと思った

(公判記録)

記録からもう1つの事実が浮かび上がる――最初の記事の事件内容と、公判記録が示す内容との間にいくつかの食い違いがあり、その原因も公判記録から明らかになる

新聞報道では、ベッドに閉じ込め水も食べ物も与えない鬼の父親像が語られるが、公判記録によれば、最重度の先天性精神薄弱児で「植物人間」に近い状態であり、いつも寝ているベッドで拒食症の子を見守る別の父親像が浮かび、判決では記事をウソと判断

医者に見せなかったり、障碍児を置いて出勤したりと、父親の行動には不審な点も多いが、障碍児を持つ親が「この子は死んだほうが幸せ」とか「一緒に死にたい」と思うのはごく普通で、そのために処置を間違ったのを「殺意」というのは酷でもある

記事では事件の冷酷さを描くのに熱心で、障碍児問題らしいことはほとんど語っていない

父親が保釈になって初めて事件の報道を読んだ時の衝撃がどれほどのものだったかも奥さんの証言があり、生きる力をなくしたようだといっている

自殺後、取材記者に対して、奥さんは「マスコミまでが自分の言葉でもないものを自分の言葉のように書いており、これほどひどいものかと言ってがっくり来た」と訴えたが、自殺記事に載った奥さんの談話では、マスコミへの抗議は無視されている

(供述調書)

警視庁広報課の発表連絡票が深夜に記者クラブに事件を告げ、東京社会部の記者が成城署に取材に向かい、異例の夜明かしの単独取材で事件の詳細を聴取したが、裏付け取材をしなかったのは後味が悪かった。犯人が涙ながらに自供している以上、警察が積極的に嘘をつくとも考えられず、変死を通報してきた医者とは連絡がつかないままだった

警察での取材の内容は記録にないが、父親の供述調書を読むと、記事の内容とはかなりの齟齬があるにもかかわらず、記事では供述内容が誇張され、冷酷非情な父親像が印象づけられる結果になった

(調書のウソ)

供述調書の信憑性が法廷で争われ、どうしてウソの調書が作られたのか父親の公判調書がある

自分の気持ちと言葉に書きとられていくこととの間にすごく距離があるような気がしたので、訴えると、「同じことだ」と言われればそうかなとも思った

殺人だと書いてあったのでびっくりした

調書はどんどん書かれていて、91くらいしか話していないが、十分気持ちを汲み取って書いてくれているものだと思っていた

(法廷供述)

父親は警察で6回、検察で5回も繰り返し事件の経過を後述し調書に取られているが、警察の都合の良いように話が捻じ曲げられ、捏造され、実際の供述と調書の違いはいくつもあったようだが、父親の抗議は無視されたり、説得されてしまった

調書と法廷供述ではまるで別人のように違う――調書は聞き書きに対し、法廷供述は速記録なのでより客観的に本人の言葉遣いが現れる

警察がある予断をもって調べた形跡があるのに対し、元々父親は逮捕されるとは思ってもおらず、あとで殺人と書いてある逮捕状を見せられてびっくりする

(問題点)

事件の実際と、書かれた記事との食い違いは、4つの段階を経て拡大したと考えられる

    父親が警察官に対しどこまで正確に自分のしたことを語りえたか――娘の死に動揺して受け答えが支離滅裂で矛盾だらけだったことは想像に難くない。警察に呼ばれることも、殺人容疑の逮捕状にも驚愕し、強く殺意を否定して余計警察官の反感を買った

    警察官の取り調べや供述書の作り方――予断をもって供述を誘導し辻褄を合わせているが、何度も調書を取るにつれ、荒っぽい調書の歪みや間違いが是正されていくこともあって、調書は書き直しが聞くが、記事はまず書き直すことはない

    警察での新聞発表のやり方が問題――犯人逮捕の直後で十分な情報がない中の新聞発表となれば、辻褄を合わせるために細工されることはあり得る。警察による情報操作で、故意というよりは無意識的な慣習であり、この頃の警察は話を作る傾向がある

    記者の取材と記事を書く時の問題――記者もつじつまの合う記事を書かなければ通らないので、警察官を誘導することもあり、さらには記事の扱いが大きくなるのを狙う。こと事件報道に関する限り、警察からの取材だけで書いた一方的な記事がまかり通る。通念になっていて、記事もデスクも疑わない。まるで被疑者には口がないかのようで、このような事件報道が、人を何人殺してきたか、と思う

(手がかり)

出来事の実際と記事との間に多少の距離とかズレができるのは避けがたいが、最小限に縮めるためにどんな方法があるのか

   警察の発表内容を一度は必ず疑ってみる――本件のような取り調べや調書の作り方、発表の方法が普通のやり方だと警戒してかかる。疑わないのは記者の怠慢

   現場へ行ったり関係者への裏付け取材が原則――警察発表は取材の出発点にすぎない

   記事の中での警察発表の扱い――警察発表は発表と明示し、その上で警察情報とは区別して記者の裏付け取材とか疑問点を示す

   足りない材料で無理に話の筋を通そうとしない――わからないところは「わからない」とはっきり書き、断定を急がない。話の筋とは矛盾した情報、筆者の気に入らない情報の中にしばしば宝石が落ちている

   もっと続報を書こう――第1報だけの書きっ放しは危険。不確実なところを「わからない」と書けば後追いの取材と続報が必要となる

   警察の広報と馴れ合いで話を面白くすることはやめる――本当の面白さは、予断を裏切るような事実の中にある

   事件報道と各新聞社間の競争――上記の原則を守れば記事は面白くなくなり、他社の「飛ばし」とハッタリ記事に負けるだろうが、他社の記事との比較、勝ち負けに常に力点が置かれてきたこれまでの記事の評価基準が、信頼性とか正確さでの記事の品質管理を甘くする結果に導いてきたのではないか

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朝日新聞社に記事審査部が創設1されたのは大正11年。日本初の試み

当事者からの手紙で審査の請求を受け、所管部で再調査をしても当該部で判断がつかない場合、記事審査部で調査し、訂正や取り消し、続報などの処置をとった後、月々の審査結果を紙面で発表

今日では訂正の欄がそれに代わり、実質的には同じことを続けているようにも思われるが、当時の記事審査はより読者に親切だった

当時は、新聞社が自らの誤謬の可能性を認め、自分から読者に呼び掛けて苦情受付の窓口を開いていた。それも毎月の審査報告の欄で、当初と同趣旨の呼びかけを繰り返している

新聞の記事の品質は時代と共によくなっただろうが、それと同時に読者の記事に対する正確度や信頼度の要求も高くなったにも拘らず、今日の記事審査なり記事評価のやり方は、前章で見た通り、記事の品質管理を甘くする結果に導いている

新聞に対する読者の信頼が急速に崩れていく時代に生きている、という実感が私にはある

それも、信頼が崩れていく速さは、とりわけ数年らい加速しているように見える

対応策としては、幅の広い組織的な調査や研究を始めるべきであり、読者からの苦情受け付け窓口再開を検討していい

 

l  1980年度日本記者クラブ賞 「わたしの言い分」受賞の言葉

この頃、新聞不信の声が気になってならない。指摘は様々だが、年々厳しくなっているように思われる

何に由来しているのか、どう対応すべきか、1つの帰結が紙面企画「わたしの言い分」

正確、公正を期すが、時に偏ることがある。それがつど当事者をイライラさせ、憤激させ、その積み重ねが新聞不信になって拡大。それらの声を掬い上げようというのが企画の趣旨

新聞社の編集局の中に、常時誰か1人は、日頃から意図して報道なり論評の大勢とは反対の視点を出していくように心掛ける。ものごとの底流を見誤らないよう、常時身構える

世間が新聞に求める情報の正確さ公正さの水準と、今日の新聞がこたえている情報の質との間に、多少のズレがあるのではないか

できるだけ広範囲にわたって、普段あまり新聞に出てこないような意見、少数意見を探し出して紹介していこう。くそ真面目な、硬い連載になったが、地味で目立たない記事でよいのだと考えている

 

l  取材ということ  『新聞研究 No.332 現代記者読本 ‘79(1979)

「わたしの言い分」での取材のやり方を順を追って書いてみる。どこまで一般化できるかはわからないが、何か1つでも参考になればと願う

   主題さがし、人選び

毎週1本の主題を探し、ふさわしいインタビュー相手を選ぶ。記事を分ける厄介な作業

   主題についての資料集め

主題を選び出す過程から、関連するあらゆる資料を読み、項目別に仕分け、組み立て、整理する

集める資料は、社内外を問わない。社内は情報の宝庫

疑問点、興味を持った点は、すぐに書き留める

初心を失わないことが取材にあたっての大切な心得。にわか当事者、にわか専門家になると初心を失いがち。問題や事件についての常識的な市井の実生活社が持っているはずの関心度と知識の範囲、という意味の初心を取材者が持ち続けること

   インタビュー交渉

事前に、できれば直接本人と打ち合わせし、質問事項を渡したり、用意しておいてほしい資料を依頼しておく。インタビュー時間は平均して1.5時間、1時間ではかなり苦しい

   質問内容を決める

平均50問前後。34の大項目に分け、さらに34の中項目に仕分ける、その作業を通じて頭の中でより正確に主題を考えておける

   インタビュー取材

本欄で求められるのは、その人が語る論理を書き言葉で再現することなので、録音テープは使わず、手書きで要領筆記のメモを取り、分りにくいところは読み上げて確認する

相手の論理を引き出すのが目的なので、記者が頭の中で考えた論理を押しつけてはいけないし、それを相手の発言にすることなど論外

   取材ノートの整理

事前に読んだ資料との相違点を明らかにしたうえで、記事にする時の問答の順序を考える

取材時は、相手が答えやすい順で考え、記事にまとめる時には理解しやすい順序を考える

1ページの大型インタビュー記事で300行ほどのかなり長い記事にまとめるが、それでも聞いたことの2/3は捨てなければならず、取捨選択ではいつも迷う

   記事の手ごたえ

掲載後の記事の反響の如何も取材勉強の1種。インタビュー相手の反応も重要

反響ということになると、取材に協力してもらった同僚記者よりも、それ以外の同僚の批判の方が、新聞人よりも市井の人、社外の友人の批判の方が、いつも確かな手ごたえがあると思われる

 

l  新聞文章の(まるかっこ)”ちょんちょんかっこ考 

『朝日ブックレット2 記事の内側1(1983)

記事をより正確に、短く、分りやすくする工夫を惜しんではならない

出来れば、文章に快いリズムを持たせたり、反対にリズムを壊すことで対象に迫っていく力を読者に感じさせる、といった書き方の工夫もある

4,5年前から記事の中に” (・・・・)=まるかっこがしばしば使われるのが気になっていた

かなり流行しているが、824月の朝刊では全ページに(まるかっこ)が使われていた

使用例の多くが、記事を正確で分かりやすくする装置としてはマイナス要素としてしか働いていない

使用例のうち、以前から普通に新聞文章の約束事として、記事を簡潔にするための補足説明的・注釈的な(まるかっこ)で、ほとんど気にならずに読めるが、それでもあまり多いと煩わしくなる――年齢や、発言の引用で発言者を(まるかっこ)に入れたり、「海上交通路(シーレーン)」、「予算達成に必要な伸び(18.5)を下回る」などの表現

近年目立つのは、かぎかっこで囲んだ談話の中で補足説明的に使われる(まるかっこ)で、発言者が前後の関係もあっていわなかった言葉を記者が補足しているケースでは、まるかっこに入れる必要はないし、記者の思い込みで違った言葉を入れているかもしれない

話し言葉を引用したために欠けているところを補足する例では、曖昧な表現であれば本人に確認して明確な内容にすべき

放送のさわりの部分をテープから起こして書き言葉で再現するのに、一言一言発言の内容を説明するために追加する(まるかっこ)は、必要不可欠かもしれないが、記事のわかりやすさからいえば疑問が残り、一息で読んで意味が伝わる記事にはなっていないと思われる

ちょんちょんかっこ多用は字面を汚くするし、へたをすると濁点と間違えられたりする。さらには冷やかし半分の比喩や断定に使われる一種の「かくれみの」効果を狙ったのもあるが、世間が記者側の一方的な意図をそのまま受け取って許してくれるとは限らない

丸谷才一は『文章読本』(77年刊)ちょんちょんかっこについて「殊に新聞・週刊誌にはこの種のカッコが多過ぎる。主として責任回避のために使われるようで、逆にいうとチョンチョンカッコのせいで言葉の選び方がいい加減になりがち」と指摘。さらに、「チョンチョンカッコの研究」では「廃止すれば済むんじゃなくて、大事なのはこれを必要としないような種類の文章を書くこと」と語る

 

l  取材の原点にかえれ――10年記者研修講義から 『1982年度10年記者研修記録』

(文章論)

新人研修で話したのは、我々の仕事の勝負は取材にあるということ。決して文章だけでは人の心を打つことはできない

新人にとってまず必要なこと;

   記事を作るために最小限必要なもの、形とか型、事実―ファクトが大事であるとか、分りやすく短く構成するといったこと

   筆の速さ――取材から出稿までの仕事の早さ、行動、観察、判断力の俊敏さなど

   正しい文章を書くことを心掛けるべき

どういう文章が正しいのか;

   日本語として文法的に正しい文章で、曖昧さを残さない。引用や翻訳に堪える文章

   新聞記者だけの、勝手で一方的な慣用を避ける――(まるかっこ)の使用はその一例

   無味無臭、真水のような文章。読む人が抵抗なく読めて、事柄それ自体が伝えられていると感じられ、信頼感をもって安心して読んでもらえる文章

自己修練の方法;

   自分の文章の先生を探す

   自分で新聞記事以外の文章を書くこと、その習慣をつけること

10年選手に考えていただきたいこと;

   新聞に対する読者世間の信頼が揺らいでいる時代に生きているということ。読者世間が我々に何を求めているか、要求の中身がどう変化しつつあるのか、それを知ろうとする努力が我々の側に足りない

新聞文章なり情報の質に関する品質管理を日常的に丹念にやる工夫が必要

   今の新聞文章のありように満足しているか、自問して欲しい。品質を変えるための担い手として、自由に、のびのびと冒険して欲しい

 

l  「ほめる」ということ――新聞労連大賞選考委員のコメント 新聞労連(200111)

ほめる/批評することの意味

書いた記事が人にどう読まれたか、意図したとおりに読む人に伝わったか、その成否を知りたい。何か手ごたえはないか、いつも切実に欲した

ほめることの難しさもある。ほめるのは容易なことではなく、相当な工夫と勇気がいる

記事を「ほめる」ことが、即ちそれによって自分の批評眼とか記事の読み力とかが相手の目の前で試される。「ほめる」ことは即ち自分の心をさらけ出すことだともいえる

 

²  疋田さんの歩幅――鎌田慧(ルポライター)

この企画で初めて疋田の「ある事件記事の間違い」を読んだ

その人となりのように、緻密にして沈着な文章だが、いつものように華やかさはなくいかにも重いのは、同じ社の後輩の文章を槍玉にあげなければならない躊躇いもあるが、決して一記者の錯誤を衝いているだけでなく、自分が依拠してきた新聞記事そのもののあり方への糾弾となっているから

この論攷(ろんこう)が、明快な文章であってなお重いの口調なのは、著者が「警察発表と新聞記事」という根源的な関係に切り込まざるを得なかったからだが、その先にある記述は、「調書は書き直しがきく。記事の方は、まず書き直すことはない。書きっ放しである」だ

「警察に捕まるのは悪人に決まっている。悪人については何を書いても構わない、とでもいうのだろうか。このような事件報道が、人を何人殺してきたか、と思う」との指摘は、ほかならぬ新聞記者自身の自己批判として時代に先駆け、今なお燦然と輝いている

私の新聞記事に対する批判は、なぜそれを書くのか、という主体が欠落していることにある。疋田は、「言葉を扱う職業人として記者の当然の責任」と書いている。職業意識は、名誉の意識でもあり、抵抗の矜持でもある。警察の尻馬に乗ってコト足れり、では書き手の主体がない。あとで補償金を支払ったにせよ、一旦打撃を受けた報道被害者の人権は回復されない。それが冤罪事件をいくつも手掛けてきた私の実感

製造者責任ばかりか、人権侵害が加わる。職業意識と品質管理の徹底、新たな記事の評価基準の設定、それは疋田の遺言でもある

疋田は、歩く人でもあった。ドストエフスキー/『罪と罰』で「歩幅」にこだわる人は珍しい

 

²  結びにかえて――柴田鉄治(ジャーナリスト、元朝日新聞記者)

疋田がなくなって5年経つ。彼の仕事を通じて、新聞とは何か、新聞記者とはそもそもどういうものなのかを、多くの人に知ってもらいたいと同時に、新聞の地盤低下がいわれる中で、新聞の持つ力を改めて見直し、豊かな可能性を秘めたメディアであることを知ってもらいたい

疋田の真にすごいところは、常に新聞のあり方を考え続け、新聞の将来を見据えて次々と新たな提案をし、自らそれを実践していったこと

長期連載『自衛隊』を始めた当時、新聞には「菊」「鶴」「星」の3つのタブーがあり、皇室、創価学会、自衛隊は禁句だったが、結果は賛否両サイドから絶賛の声が上がる。どちら側にも支持される報道のしかたがあるのだとよくわかり、緻密にデータを積み上げていく新しい報道方式として、その後社内に「自衛隊方式」として定着

天声人語は新聞記者最高の栄誉だが、ほぼ1000回で深代にスパッと交代。疋田らしいやめ方だった

新聞改革についての疋田の提言では、「ある事件記事の間違い」と「わたしの言い分」欄の創設が特筆すべきもの

前者は、犯罪報道と人権の問題がそれほど関心を読んでいなかった時代を思うと、改めて疋田の慧眼に舌を巻く

後者では、よく本人が「日本の社会は何かあると雪崩現象を起こし、一方向に流れやすい。新聞は、これに待ったをかけることが大事なのだ」と言っていた

 

 

 

 

 

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