終わりなき探求  Pearl S. Buck  2019.12.4.


2019.12.4. 終わりなき探求
The Eternal Wonder  2013

著者 Pearl S. Buck 中国の人々を同胞とし、その文化を紹介、中華人民共和国がいずれ世界の大国となると予見した先駆けの人。生後三か月で宣教師だった両親と中国に渡り42歳まで過ごす。コーネル大学より英語学で修士号を取得。1917年に農業経済学者と結婚、南京の北西の寒村に暮らした経験をもとに1931年に『大地』を著す。1932年にピューリッツア賞、1938年にノーベル文学賞を受賞。1934年、日中戦争の暗雲が垂れ込めると米国に永住帰国。以後、執筆活動に専念し、平和への発言、人種的差別待遇撤廃、社会的な貧困撲滅のための論陣を張った。1941年にアメリカ人、アジア人の相互理解を目的とする東西協会、1949年に国際的養子縁組斡旋機関ウェルカム・ハウス、1964年に養子を生国に留めて保護育成することを目的とするパール・バック財団を設立。1973年、米国バーモント州で80歳の生涯を閉じる

訳者 戸田章子 1963年東京に生まれる。上智大学外国語学部英語学科出身。米国Merck & Co., Inc. の日本法人MSD株式会社に同時通訳者として勤務した後、現在公益財団法人原田積善会に勤務。訳書 ローレンス・ヴァン・デル・ポスト『ある国にて――南アフリカ物語』(みすず書房、2015年)

発行日             2019.10.1. 初版第1刷発行
発行所             国書刊行会

カバー裏
『大地』の著者の失われた作品、40年の時を経て……
主人公の天才児、ランドルフ(ラン)・コルファックスの成長物語。ランは人生の真実と意味を追い求めて、ニューヨーク、イギリス、パリに旅する。DMZ(非武装地帯)の警備に就いた韓国では、人生を一変する出来事に遭遇――ついに愛に辿りつく。
ランは才気煥発なステファニー・コンに恋をする。彼女は中国人の父親とパリで暮らし、アメリカ人の母は彼女が6歳の時に家を出たまま音信不通であった。ふたりの若者は、真のアイデンティティーを模索する。ランは貪欲な知的好奇心に悩まされ、世の中で経験することを頭の中に組み込もうと懸命になる。ステファニーは混血の生まれゆえに疎外感を抱き、自身の2つの文化のせめぎ合いを解消しようともがく。しばらくぶりに再会を果たした2人を待ち受けていたものは、ランの英知をもってしても想像を絶する結末であった。
『終わりなき探求』は、パール・バックが生涯大切にしていたテーマの数々が織りなされ、読者を魅了する。最晩年の著者が情熱を傾けた、著者自身に最も近い作品として、パール・バックを長年愛読してきた何百万もの読者の心に響くだろう

序文     エドガー・ウォルシュ(養子)
この小説は、母が1973年バーモント州ダンビーで80歳で亡くなる前の数年間に執筆
母の晩年は混沌としていた。財産を狙う人々が、母を家族や仕事上の関係者から引き離した。母は経済的に破綻同然で、7人の養子は母の所有物に一切触れることが出来ず、本書の手書き及びタイプ打ち原稿は何者かに持ち去られて40年間行方が分からなくなっていた
母没後、兄弟姉妹が残された母の著作物や遺産の回収に取り組み、数年がかりでやり遂げ、私が遺著管理者になる。だが家族が管理するようになる以前に、彼女の個人文書、書簡類、自筆原稿及び所有物などの多くが姿を消していた。遺作の存在について、家族はまったく知らされていなかった。そのほかに持ち去られていたものは、母の死後に家族が回収した。07年『大地』が執筆された当時の原稿が見つかったが、1960年代半ばに元秘書が盗んで秘匿していた
12年にテキサス在住の女性がフォートワースの貸倉庫に預けられていた荷物を買い取ったことを聞き知った。その時点まで倉庫の使用料の支払いはなく、法律上、倉庫会社は中身を競売にかけて処分することができたのである。買主が中身を確認したところ、ほかのものに混じってパール・バックの小説の手書き原稿とおぼしきものが見つかった。300枚を超える原稿には、タイプ打ち原稿が添えられていた。女性は原稿を売る意向を示し、交渉の末にわれわれ家族が買い取った。本書の原稿がいつ誰によってバーモント州のダンビーから持ち出され、どのようにテキサス州フォートワースの貸倉庫にたどりついたのかは未だ不明である
母は、1892年ウェストバージニア州ヒルスボローにて、長老派の宣教師の父と妻キャロラインの子として生まれる。父は80年初めに中国に赴任、10年おきに一時帰国を許され、最初の帰国の時にパールが誕生。半年後に中国に戻るが、1014年大学生活で、2526年コーネル大で文学修士号取得のために米国帰国。永住目的で米国に帰ったのは34
中国の土地と人と文化を熟知。17年農業技術宣教師の夫と結婚し、夫の任地である中国の田舎に赴き、中国の農民の生活、家族、そして文化への洞察を深めるが、その時得た知識は『大地』のなかに見て取れる。一家は21年南京に移り、夫婦ともに南京大で講義
パールは子供の頃から作家志望を自認、少女時代に書いた文章が数回、英字新聞の上海マーキュリー紙に掲載。ランドルフ・メイコン女子大在学中に小説や戯曲を書いて賞を獲得しており、ファイ・ベータ・カッパ(卒業生名士会)1員にも選ばれている
20年代末に初の小説『東の風、西の風』を著し、ニューヨークの著作権代理人に原稿を送ったが、中国が題材のためどこからも出版を断られ、30年にジョン・デイ出版社の社長リチャード・ウォルシュが引き受け出版
ウォルシュは彼女に書き続けることを勧め、翌年第2作『大地』が一躍ベストセラーとなって彼女は有名になり、彼女は35年夫と離婚して、同じく離婚直後のウォルシュと同年再婚。以後63年に亡くなるまで、ウォルシュは作家バックの全作品の編集と出版を手掛ける
養父母は、ペンシルベニア州バックスに居を構えるが、パールには重度の障害を持つ実子キャロルと養女のジャニスがおり、ウォルシュには成人した子供が3人いた
新たな結婚を機に養子養女を迎え、36年には2人の男の赤ちゃん、14か月後には男の幼児()と女の子を養女とした。50年代には思春期の女の子2人を加え、35年以降は、バーモントの最後の3年を除き500エーカー近くある農場で暮らす
38年ノーベル賞受賞。対象となったのは一連の作品で、小説が7作、伝記が2作、エッセイや記事が含まれる。多くの批評家は46歳の彼女が受賞するには若すぎると感じ、彼女の作品は「文学的」ではなく、受賞作としてはあまりに「大衆的」と指摘
にも拘らず、賞はバックに取って、優れた作家であることを認められたことの証であり、自分はただ座って好きな小説を書けばよいと確信。生涯小説42、ノンフィクション28、短編242、児童文学37、映画・テレビの脚本18、舞台・ミュージカルの脚本数本、記事・エッセイの類580本、そして書簡類数千通に上る
母が受賞した時、私は1歳半で、両親が抱いたはずの高揚感は全く覚えていない
30年代末~40年代の農場の暮らしは、平穏な家族だけの守られた生活で、戦争は遠い国の出来事
爆撃や戦地を遠く離れて、バックは中国の国民と軍隊への軍事並びに人道支援の擁護を断固として訴え、祖国の国民が旧日本軍と死闘を繰り広げる最中、しばしばペンを取って、日本の国民は罪深い国家の上層部によって戦争の災禍に追い込まれたことを理解しなければならないと記事にしている。21世紀の今、中国政府と国民は第2次大戦中のバックの救済活動に対して、その功績を称えている。一方で、日本を舞台にした彼女の著作は良識ある日本国民の人間性と文化を伝えている
子供の頃、家は本であふれ、実に興味深い男女が訪ねてきた。作家の林語堂、水彩画家の程及たちが訪れ、近隣住民にはオスカー・ハマースタイン、ジェームズ・ミッチェナーがおり、ペンシルベニア州ニューホープの芸術家村の人々がいた
50年代末までほとんど旅行することはなく、午前中の4時間を執筆に充て、午後はファンレターへの返信と、事務処理に費消。いつでも子どもたちのために時間を取り、最大限の力を発揮させてくれた。怠惰を忌み嫌い、大多数の中国人の暮らしに蔓延する貧困を知って、ただ懸命に働くことでしか、豊かな暮らしは得られないという考えが身についていた
13年本書の手書き原稿とタイプ打ち原稿が手元に届き、突き合わせながら物語を目で追う。タイプ原稿には明らかな改変が加えられたため、出版社と共同で内容の不備を整え、一方作品に手を加えるのは最小限にとどめた。私の知り得る母の文章と父の編集に対して忠実でいることを指針とした
原稿を読みながら、母の沢山の著書や物語の中でしばしば使われていた手法に気付く。母は、興味深い経験をしたり、特別な場所に行ったり、魅力的な人に会ったりすると、そういった出来事は場所や人間を、物語のどこかに投入する。本書でも、母親が主人公の息子のためにジンジャーブレッドを焼く描写があるが、母の手作りのジンジャーブレッドはおいしくて有名で、子供たちの大好物だったし、主人公が船上で出逢った美しい未亡人にロンドン郊外の邸宅に誘われるが、私と母が招かれたことのあるロンドン郊外の城が登場している
本書を出版することは、その欠点にも拘らず、重要だと考える。出版社の努力の結果として出版にこぎつけ、感謝している。バックが存命中に、現状では不完全な本書を手に入れていたなら、どのように修正したであろうかは知るすべもない。彼女は完璧主義者であるが、作品は完璧とは程遠い。作品の完成形がどうあるべきか、彼女は何も示してくれていない。それでも過去と現在の読者にとって、この作品は彼女のことをよく知り、彼女の気持ちや信念を理解するための貴重な機会となるだろう
母の家に25年暮らし、結婚して独立した後も定期的に連絡を取っていたので、息子の目で見て、作家としての人生の他に母には幅広い関心事があることに気付いていた
女性の権利、人種的少数派の公民権、障碍者の権利、混血児と混血成人の権利、そして宗教的寛容を徹頭徹尾擁護してきた。世界中の恵まれない人々のために闘った。この小説を読むと、バックが翻訳した『水滸伝』の英文の題名を借りるなら、”All Men are Brothers”こそ、著者の信条であったろうことが読み取れるだろう
作中の若い天才少年は母の自伝的な肖像ともとれるし、彼と関わり、教え導く様々な登場人物たちは、母だったら言いそうなことを語っている。著者の死後、今なお世界中で読み継がれ、何か国語にも翻訳され続けている。バックの愛読者であれば多くの作品で親しんできた母の語り口を本書の中に発見するだろう

主人公が母胎から生まれ落ちるところから物語は始まる
乳児の頃から学習意欲に目覚め、そのためにはまず体を動かす必要があると気づいて動き始め、音をたてることが必要と感じて声を出す
動き始めると周囲のものを片端から引きずり出して眺める
初めての誕生日、ローソクを吹き消すことの面白さから何度も火を点けろとせがみ、空腹から時間の感覚が芽生え、日々新しい言葉を学んでいった
2回目の誕生日を迎えるころにはもう数を数えられた。一度覚えたことは決して忘れず、3歳では1日中一人で読む練習をした
4歳でもまだ教会に行くと託児所に入れられたが、全ての絵本を読みパズルを解いてしまい、他の赤ん坊たちといるのが苦痛、次の日曜には大人と一緒に礼拝に参加
分からないことは両親に聞くが、いい加減な答えをすると両親が答えに詰まった
小学校に入ると百科事典を与えられ、知識は無限に広がる
すぐに既存の学校では満足できず、父親が始めた英才教育の特別学級に通う
12歳で大学受験に臨み、難なく合格するが、父親は間もなく他界
父親の最後の言葉は、「すべての知識の始まりである驚異を失うな」だった
大学で出逢った若い教師が、「イマジネーションを駆使して悩みを解決していけば、自由に創造するようになり、創造すればするほど自由になる」というのを聞いて、すっかり魅了され、覚醒される ⇒ 15歳の時、心酔する教師から頬にキスをされ、嫌悪と興奮を味わう
教師もランの中にクリエイターとしての才能を発見し、肉体関係を迫る
生理的な嫌悪感と同時に恐怖を感じ、拒絶するとともに、家に戻って起こったことを母に話し、大学にも戻らず家を出て一人ニューヨークに向かう
ニューヨークでブルックリンに一人暮らす祖父と同居。探求欲が創造の第1歩だと教えられる
船で、祖父もかつて7年滞在して勉強になったという中国に向かう途上、美人の中年未亡人に会い、ロンドン郊外の彼女の城に滞在するよう誘われ、童貞を奪われて彼女の肉体に溺れ、数か月一緒に過ごすが、次第に肉体関係だけの虚しさを感じて別れ、パリへ
中国人の東洋美術収集家・美術商とアメリカ人女性との間にできた若い女性ステファニーと巡り合い、将来作家になることを予言され、父親からは自分の養子になって跡を継いでほしいと言われるが、人種的なアイデンティティに悩む彼女に結婚の気がないことを知って辞去
母親の元に戻ろうとニューヨークに立ち寄ったところで祖父の臨終に会い、母とともに見送って故郷に帰ると兵役の通知が来ていて、韓国の軍事境界線に駐留する米軍部隊へ派遣
軍需物資の密売と韓国女をもてあそぶ仲間のことを、韓国人成功者の口から語らせるスタイルでフィクションに書いて母親に送るが、そのまま出版されてしまい、大反響を巻き起こす。すぐに本国に戻され除隊
一夜にしてベストセラー作家になり、映画化の話が進む
ステファニーとニューヨークで再開し、結婚を決意するが、彼女は混血の居場所が世の中にないことを知って、結婚によって混血の子が生まれることを回避するため結婚を拒否。中国人の父親はそれを聞かされて心臓発作で急逝。彼女も追うようにして自殺。ランは美術商の遺産を相続し、混血児支援のための財団を設立


訳者あとがき
『大地』でピュリッツァー賞を、その後の作品でノーベル賞を受賞するも、その後顧みられなくなっていたが、2004年全米で13百万の視聴者を有するおプラ・ウィンフリーのブック・クラブに『大地』が推挙され、ベストセラーリストに返り咲く。2010年には伝記が相次いで出版され、西洋の文学においてアジアの声で語った最初の作家として称賛された
近年中国人研究者の間で再評価の動きが進む
社会の動乱を背景として、個人の苦難を描くバックの物語の系譜は、文化大革命や、種々の政治運動の下に設定された『ワイルド・スワン』『レッド・アゼレア』、ノーベル賞作家の高行健著『霊山』に代表される中国小説に受け継がれている
72年バーモントの病院で本書を執筆。作品の不完全さはやむを得ないと思われ、作者がもう少し長く生きていたら、全体のバランスを見直して手を入れていただろう。作品の冒頭部分は繰り返しが多く、訳者の判断で修正を行った
本書は、ひとりの才能ある子の誕生からからが志を立てるまでの遍歴の物語
現状に混乱しつつも、ランは母親に促されるままに未来に目を向けようとし、また来し方を振り返る。いまだ人生の春を生きる主人公の心情に、終わりの近い著者の心境を重ねるように、エピローグでは人生の終章の後に真理があるという著者の確信が明かされている
ウォルシュは、本書がある意味でバックの隠された自伝であるとしている。バックはどの作品にも自身の分身が登場すると言っているが、特に自伝的要素が顕著なものに『この心の誇り』『他の神々』『正午の鐘』が挙げられるが、本書には、これらの作品に共通する告白小説的な趣はない。むしろ、作家の身辺の動静が彼女にペンを取らせたと考える方が自然。最晩年の著者は公私共に気の休まることがなかった
72年ニクソン訪中を、バックは中国に帰還する最後の機会ととらえ、ジャーナリストとして同行すべく手を尽くしたが、中国政府は入国を拒否、69年には文革の惨禍を正確に描いていたこともあって、バックが長年にわたり新中国の人民と党指導部を歪曲して伝え、誹謗中傷したため許可できないと通達。その1か月後肺がんと診断され入院
この頃バックのヒューマニタリアンとしての事業も危機に揺らぐ。64年自身の財団を立ち上げ、米国におけるアジア人とアメリカ人の戦争孤児、混血児救済の草分けとなる。私財を投じて死ぬ前にやらねばならぬ事業にやっと着手したと言っていたが、69年内部スキャンダルによって崩壊寸前に。会長が横領容疑でマスコミの追及を受け辞任、ペンシルベニア州の社会福祉局から業務停止命令を受け、バックも30年以上暮らしたペンシルベニア州を去り、世間の非難をよそに会長擁護の立場を貫き、彼とともに終焉の地バーモント州ダンビーに退く
73年バックの逝去に際しニクソン大統領が弔文を寄せ、翌日のニューヨーク・タイムズ紙は1面の訃報、文学の評価、社説の3つの記事を掲載
死の1年後、バーモント州ラットランド郡の陪審はバックの遺言を無効と判断。遺言書作成当時、バックが会長の不当な影響及び詐欺行為により遺言書にサインさせられたとした。バックの養子らは事実上、相続権を破棄されていた。この裁判は6年間続き、79年遺族側が遺産を取り戻す
80歳でこの世を去るまで、アメリカ社会においてバックの公的地位は揺るぎないものだったが、自分の選択の結果とはいえ、私生活は穏やかな晩年というには程遠く、自分の病気を知っていたバックが物語る終わりなき探求とは、作者の中に最終的に残った価値だろう



発行所紹介
ノーベル賞作家パール・バック未発表の遺作。
作品は著者が1973年に80歳で亡くなる直前に書かれ、長らく行方不明になっていた。40年後、その原稿は、終焉の地バーモント州から遠く離れたテキサス州の貸倉庫で発見された。
主人公の天才児、ランドルフ・コルファックスの成長物語。ランドルフは人生の真実と意味を追い求めて、ニューヨーク、イギリス、パリに旅する。DMZ(非武装地帯)の警備に就いた韓国では、人生を一変する出来事に遭遇――ついに愛に辿りつく……
「私にとってこの物語は、もういちど母の書斎で炉辺に憩いながら、彼女の考えや意見を聞いているようなところがあった。作中の若い天才少年は母の自伝的な肖像ともとれるし、彼と関わり、教え導くさまざまな登場人物たちは、母だったら言いそうなことを語っている。――パール・バックの愛読者であれば多くの作品で親しんできた母の語り口を本書のなかに発見するだろう。そして、私同様、読者にも本書を読んで思わず目を見張るような思いを味わっていただけたらと思う。今後、新たな原稿が発掘されない限り、本書が母の遺作である」 エドガー・ウォルシュ(序文より)   


東洋経済 書評
パール・バックの遺作が語る彼女の人生の意味
死後40年で発見された「終わりなき探求」
中国がいずれ世界の大国となることを早くから予見していたパール・バック(写真:AP/アフロ)
パール・S・バック(18921973年)。生涯に実に80冊以上の本を書き、ノーベル賞、ピューリッツァー賞を受賞したアメリカの作家だ。生後3カ月で宣教師だった両親とともに中国に渡り、42歳まで過ごす。中国の人々を同胞とし、その文化を紹介、中国がいずれ世界の大国となると予見した。
その遺作『終わりなき探求』2012年、死後40年たって発見された。彼女が最後に残したかったメッセージとは何か。遺作の読みどころやパール・バックという作家について、今年10月に発売された日本語版を翻訳した戸田章子氏が解説する。
40年の時を経て遺族の元に戻った原稿
あの『大地』(The Good Earth, 1931)で知られるパール・バックの遺作である。作品は1973年に80歳で亡くなる直前に書かれ、その後原稿が紛失。終焉の地バーモント州から遠く離れたテキサス州の貸倉庫で発見され、遺族の元に戻った。当時、ニューヨーク・タイムズ紙上で大々的に報じられている。
『終わりなき探求』の序文で、失われた原稿のたどった経緯をバックの養子であるエドガー・ウォルシュが述べている。
201212月に、テキサス在住の女性がフォートワースの貸倉庫に預けられていた荷物を買い取ったことを聞き知った。その時点まで倉庫の使用料の支払いはなく、法律上、倉庫会社は中身を競売にかけて処分することができたのである。
買主が中身を確認したところ、ほかのものに混じってパール・バックの小説の手書き原稿とおぼしきものが見つかった。300枚を超える原稿には、タイプ打ち原稿が添えられていた。女性は原稿を売る意向を示し、交渉の末にわれわれ家族が買い取った。
本書の原稿がいつ誰によってバーモント州のダンビーから持ち出され、どのようにテキサス州フォートワースの貸倉庫にたどりついたのかは未だ不明である」
今日パール・バックがおそらくその名をとどめている最大の仕事は、恵まれない子供のための仕事だろう。彼女は1949年に、私財を投じて国際的養子縁組斡旋機関のウェルカム・ハウスを設立している。
当時71歳のバックは、30代の元ダンス教師テオドール・ハリスに財団の経営を任せている。彼はバックの最後の10年間、最も身近にいた人物であるが、財団内部の金銭トラブルや男児に対する性的虐待のスキャンダルをフィラデルフィア誌にスクープされ、タイム誌には「崩壊しつつある財団」と書かれる事態に陥らせている。
それでも、ハリスのビジネス手腕を買っていたバックは、報道内容をすべて否定し、1969年に住み慣れたフィラデルフィアを離れてバーモント州に彼を連れて移り住み、そこが終の棲家となった。「序文」でウォルシュの言う「財産を狙う人びと」はハリスであろうし、遺作の紛失劇からも作家の晩年の特殊な人間関係が浮かび上がってくる。
自分の人生を材料として小説を書く
作家としての出発点であった『大地』を書いた当時を振り返ってパール・バックはこう言っている。「あの頃、自分に書けるものなどなく、唯一中国のことしか知らなかった。それで『大地』を書いたら大当たりしたのです」。彼女の小説は、「自分がよく知っている身辺なことを書く」ことだった。
遺作となった『終わりなき探求』で、ある編集者が主人公の作家に語る。「(作家は)暮らしのなかにあるものだけを書き、日常のありふれた光景や音、におい、感情など、さまざまな人生の状況が物語に織り込まれています。作品は生きて呼吸しています。この人は書かずにはおれないのです」。もちろんこれは、バック自身の書き方に相違ない。
自分の人生を材料として小説を書く、と語る著者であるが、その人生は多彩の一言に尽きる。帝政末期の中国で前半生を送り、米国に帰国後の後半生は、国内の貧困や人種差別に対する抗議運動が盛んであった時代に、作家、社会事業家として、黒人、女性、少数派民族、混血孤児の権利擁護に桁外れのスケールで取り組んだ。彼女は、勤勉と合理的精神、自助努力を肯定し、その時々の試練を乗り越えてきた。
本書の序文に、養子のE.ウォルシュ氏がこう書いている。
「母は怠惰を忌み嫌った。19世紀末から20世紀初頭にかけて中国で暮らし、大多数の中国人の暮らしに蔓延する貧困を知った母には、ただ懸命に働くことでしか、豊かな暮らしは得られないという考えが身に付いていた」
その根底には、母キャロラインから受け継いだアメリカの開拓者精神が流れており、また父アブサロムが生涯を捧げた宣教を、バックは非宗教的に実践したともいわれている。
以下に、作家と社会事業家の側面から、彼女のほかに類をみない多事多端な人生をたどってみよう。
バックの幼少期、1890年代の中国では、列強による侵略に対する民衆の怒りが爆発して暴動が頻繁におこり、1900年の義和団の乱でそれは最高潮に達した。各地で多くの宣教師やキリスト教に改宗した中国人たちが殺害され、当時8歳のバックは母キャロラインと忠実な乳母の機転によって危機を逃れている。
1908年に西大后が没し、国内の動揺は1911年の辛亥革命による中華民国成立へと導かれていった。その後、国民党と共産党による内戦状態となり、1927年に南京事件が勃発し、この時もバック一家はかろうじて襲撃を免れた。
1917年に農業経済学者のロッシング・バックと結婚、1920年に長女キャロルがフェニルケトン尿症という遺伝的な病気を持って生まれ、生涯、脳に障害が残る。キャロルが10歳になるまで、バックは自宅で育てたが、ついにアメリカのニュージャージーにある施設に預ける決断をする。
皮肉なことに、娘の療養費を稼ぐことが、彼女が本を書く動機となり、『大地』がベストセラーになってその目的は果たされる。1950年、58歳のときに、婦人誌『レディーズ・ホーム・ジャーナル』に知的障害の娘の物語を書き、同様の立場の母親たちの共感を呼んだ。
アメリカに永住帰国後、公民権運動を着々と進める
1934年に42歳のバックはアメリカに永住帰国し、公民権運動に早々に着手した。一方、日本の1930年代はどんな時代であったかというと、1932年の満州国成立、1936年の2.26事件、1937年の日中戦争勃発に向かって日本が中国大陸への進出を深め、国家社会主義的な勢力が強くなりつつあった。
1935年、当時の黒人の批評家の数名は、『大地』を、人種偏見に反対する提言の込められた作品と解釈している。
2次世界大戦のさなかの1942年、パール・バックは軍隊による人種差別や、軍事産業における黒人差別に対する抗議運動を行っていたが、1942年のマディソン・スクエア・ガーデンのNAACP(アメリカ有色人種地位向上委員会)の集会で、当時の会長ウォルター・ホワイトは5万人の聴衆に向かい、「黒人の現状を理解している人間はふたりしかいない。両方とも女性で、ひとりはエレノア・ルーズベルト大統領夫人、もうひとりはパール・バックである」として、バックを公民権運動の指導者として評価している。
1949年には、米国公民権運動について、エスランダ・ロウブスンと共著で『黙ってはいられない』を出版した。
米国に永住帰国した2年後、バックは女性の権利の擁護に乗り出した。1930年代および1940年代は、男女同権修正案運動を、全米婦人党(NWP)とともに推進している。1941年にジェンダーの問題に関するエッセイ集『男とは女とは』を出版し、ニューヨーク・タイムズ紙は、「ヴァージニア・ウルフの本と同様にフェミニズムに関して重要な作品」と評した。
2次世界大戦中は、パール・バックの名声と影響力の絶頂期だったといえるだろう。
2次世界大戦時の日本の侵攻に対し、バックは親中派として米中共同戦線を支持した。彼女は、1880年代以来60年続いた悪名高い中国人排斥法の撤廃を訴える市民委員会を設立した。戦時体制の熱狂が味方して、1943年に移民排斥法は撤廃された。その一方で、「反日系人政策」に抗議する書簡をルーズベルト大統領夫人宛に送り、ルーズベルト大統領を説得してくれるよう要請した。
戦後、彼女は、ノーベル賞作家という公的地位を利用して、人間として当たり前の良識と男女同権の訴えに世間の目を向けさせた。
他者の窮状に直面して、バックはまず手紙を書き、それから講演をし、エッセイを書き、最後に機関を設立して支援に乗り出すのだ。必要な多額の資金の確保は、寄付のみならず彼女の著書の好調な売れ行きに支えられていた。
彼女の本は米国での書籍の売り上げに大きな影響力をもつマンスリー・ブック・クラブの推薦図書に15回選ばれているが、これをしのぐのはジェームズ・ミッチェナーとスティーブン・キングぐらいである。数千万部単位で本が売れ、70カ国語以上の言語に翻訳されているバックのキャリアは驚異的だといえる。
「私の仕事は本を書くことです」
だがバックは、自分は非政治的であると言っており、また晩年にはこうも発言している。
「わたしはヒューマニテリアンではありません。ただ、書くためには人生の本流に関わらなければならないということです。そしてどんな形の混乱も我慢ができないのです。
しかし、それは作家の秩序感覚であって、それが私に困窮児救済のような大儀を行わせるようにするので、何ら人道的な感情からではありません。私は作家であって、私の仕事は本を書くことです」(ニューヨーク・タイムズ、197337日号)
19733月、バックの逝去に際し、ニューヨーク・タイムズ紙は1面の訃報、文学の評価、社説とともにニクソン大統領の弔文を掲載した。80歳でこの世を去るまで、アメリカ社会においてバックの公的地位は揺るぎないものであった。
小説の最後、若くしてベストセラー作家となった主人公が、ある喪失を経験して人生を見つめなおそうとする。彼は言う。いたずらに知識を吸収するのでなく、11ページを、隅々まで味わって読むように生きていきたい、と。文名と社会的地位を手に入れたパール・バックをして、知識でははかり知れないものが最後に残ったということだろう。それが何かを探求してやまない心を、彼女は最後まで持ち続けていたのである。


東京新聞 書評 2019.12.1.
創造とは?追究した遺作
[評]千石英世(アメリカ文学者)
 人間みな兄弟、これはだれもがどこかで耳にしたことのある名言だが、英語ではAll Men are Brothersとなり、実は中国の伝奇小説『水滸伝(すいこでん)』の英訳タイトルでもある。今も人気の豪傑小説をこの題で英訳したのはパール・バックだった。英語への初訳だ。世界的大ベストセラー『大地』の米国人女性作家である。
 中国へ派遣された米国人宣教師の娘で、中国語が母語。1938年、『大地』などでノーベル文学賞を受賞。だが文化大革命の時、中国では禁書となった。影響力が恐れられたのだ。なるほど今読んでも面白い。清朝末期の貧しい農民の向上心を肯定的に描き、魯迅の描いたダメ男「阿Q」の真逆をたどる。
 このパール・バックの遺作は長く所在不明だった。それが発見された。本作である。白人米国人の青年ランドルフは天才的知性の人。6歳の幼き日より科学と芸術に目覚め、自身も創造者たらんとして世界遍歴に旅立つ。弱冠16歳。すでに大学も中退し、そのままニューヨーク、ロンドン、パリへ。そして兵隊として朝鮮戦争後の38度線へ。ときに18歳。除隊後サンフランシスコへ。38度線の見聞を小説化して文壇デヴュー、一躍メディアと社交界の花形となる。ときに20歳。
 このように遍歴は実在の地を巡り、歴史的背景もリアルな世界史であるが、物語そのものはファンタジー小説のカラーに彩られている。英国の古城で、またフランスのシャトーで、切ないラブロマンスがあり、軍隊内では司令官夫人との危険な接触がある。といって読み物ふうというのではなく、ラブロマンスには生々しい肉感があり、社交界におけるやりとりにはメディア社会への痛烈な皮肉がある。
 そしてそんななか、創造とは何かを真剣に問うている。作中、物書きには二種類あるという一節。技巧や描写をこらして、それを使いこなす上手な書き手。一方、上手とはいえないが、書かずにはおれない書き手、つまり書く動機が自分自身にある書き手。本作はそんな後者の書き手の遺作たる風格がある。 


Wikipedia
パール・サイデンストリッカー・バック(Pearl Sydenstricker Buck, 1892626 - 197336)はアメリカの女性小説家南長老ミッション宣教師の両親と中国(中華民国)に渡り、そこで育つ。処女作『東の風・西の風』に続き、1931年に代表作『大地』を発表して1932年にピュリッツァー賞を受賞。『大地』は『息子たち』『分裂せる家』とともに三部作を成す。1938年にーベル文学賞を受賞した。
経歴[編集]
1892年、パール・コンフォート・サイデンストリッカー(Pearl Comfort Sydenstricker)としてウェスト・バージニア州ヒルスボロで生まれ、生後3ヶ月で宣教師である父アブサローム・サイデンストリッカー、母キャロライン・サルティングとともに中国江蘇省鎮江に渡った。英語と中国語の両言語を話すバイリンガルとして育った。中国名:賽珍珠(サィ・チンシュ)。バックの7人の兄弟姉妹のうち、4人は幼少時に疫病で亡くなった。バックは「生まれと祖先に関しては私は米国人だが、同情と感覚において私は中国人だ」と語っている。
幼いころは自分を中国人だと信じて育ったバックだが、1911年、大学教育を受けるためにアメリカに帰国してランドルフ・メイコン女子大学に入学した。1914年の卒業後、母の病気の知らせを受けて宣教師として中国に戻る。1917年、南京大学で教鞭を執っていた農業経済学者兼宣教師のジョン・ロッシング・バックと結婚し一時南京大学、南東大学で英文学を講義する。1926、一時帰国してコーネル大学修士号を取得した。1927年に南京事件に遭遇し、日本の雲仙に一時難を避けた。この後中国に戻った彼女は本格的な執筆活動を開始する。
1930年、最初の小説である『東の風、西の風(East Wind, West Wind )』を発表。1931年、二作目『大地The Good Earth)』が大ベストセラーとなり、1932年のピューリッツァー賞をとる。しかし同年、ニューヨークの講演が原因で老派伝道委員から非難され、宣教師の地位を辞した。1934年、中国を離れ、半生を過ごしたその地に二度と戻ることはなかった。1935年、ジョン・ロッシング・バックと離婚。すぐに出版エージェントであったリチャード・ウォルシュと再婚する。1938、『大地』の業績によってノーベル文学賞を受賞する。これは、スウェーデン探検家学者スヴェン・ヘディンの推薦によるものである。
最初の夫との間に知的障害を持つ一人娘キャロルがいるほか、その後は子どもの産めない身体になったために、6人の孤児を養子として自らの手で育てた。リチャードとともに国際的な人種を問わない養子仲介機関であるウェルカム・ハウス(Welcome House)も設立している。また、リチャードの死後、自分の娘達の若きダンス教師であったセオドア・ハリスと再婚し、彼とともに米国人とアジア人との混血の寄る辺のない子供達を教育するためにパールバック財団を設立した。1970年、セオドアとも離婚して、晩年はヴァーモント州で隠遁生活を送った。
多くの小説やノンフィクションの他に、児童書や絵本も執筆した。谷本清の広島における平和活動への支援もおこなった。
その他[編集]
1960(昭和35年)524日、自作のテレビ映画「津波」撮影のため来日、同月末、夫の死の報せで一時帰国、再来日し、12月まで滞在した[1]
日本語訳[編集]
『水滸伝』“ALL MEN ARE BROTHERS”
水滸伝 対訳 小宮山凡禅, 西村隆三郎重訳.ヘラルド雑誌社, 1939
小説[編集]
東の風・西の風 East Wind:West Wind (1930) 深沢正策.第一書房 1938
大地 The Good Earth (1931)
息子たち Sons (1932)
裂せる家 A House Divided (1935)
大地の家 The House of Earth (1935) 「大地」「息子たち」「分裂せる家」を収録
『若き革命家』The Young Revolutionist (1932)
『若き支那の子』宮崎玉江.新潮社, 1938 「若き革命家」
『母』 The Mother (1933) 深沢正策訳 第一書房、1936 
ザ・マザー 青山静子.菁柿堂,1986.11.
『第一夫人』 First Wife and Other Stories (1933) 本間立也.改造社 1938
新らしきもの古きもの 松本正雄,片岡鉄兵 六芸社 1938深澤正策訳 河北書房、1942
王龍 松本正雄訳.興亜書房 1939
『この心の誇り』 This Proud Heart (1938) 鶴見和子 実業之日本社、1940
この心の矜り 鶴見和子訳.ダヴィッド社,1954.
ありのまゝの貴女 新居格 ノーベル賞文学叢書 今日の問題社、1940
『愛國者』The Patriot (1939) 内山敏 改造社,1939
『日中にかける橋』河内博.原書房,1972.
山の英雄 葦田坦.改造社 1940
『支那の空』 China Sky (1941) 中里廉.青磁社 1941
『ドラゴン・シード 大地とともに生きた家族の物語』 Dragon Seed (1942)
龍子 新居格訳.労働文化社,1950. 川戸トキ子訳.原書房,1995.10.
『結婚の横顔』 Portrait of a Marriage (1945) 竹村健一.ダヴィッド社,1956.
『牡丹の恋』 Peony (1948) 河村皎訳.嫩草書房,1951.
『つなみ』 The Big Wave (1948) 黒井健訳.径書房, 2005
『郷土』 Kinfolk (1949) 石川欣一.毎日新聞社 1949
『愛の苦悩と放浪』 The Long Love (1949) 小林智賀平.新潮社,1955.
『神の人々』 God's Men (1951) 石垣綾子.毎日新聞社,1952
『隠れた花』 The Hidden Flower (1952) 小林政子訳.国書刊行会, 2014
 大久保忠利.中央公論社,1953.
『北京からの便り』 Letter from Peking (1957) 高橋正雄.三笠書房,1958.
『神の火を制御せよ 原爆をつくった人びと』 Command the Morning (1959) 丸田浩監修 小林政子訳.径書房,2007.7.
『生きている葦』 The Living Reed (1963)
『生きる葦』水口志計夫 学習研究社, 1965.
『愛になにを求めるか』 The Goddess Abides (1972) 岡本浜江 角川文庫、1974
『わが心のクリスマス』 Once Upon a Christmas (1972) 磯村愛子.女子パウロ会,1999.10.
『愛に生きた女たち』 Secret of the Heart (1976) 岡本浜江訳 角川文庫、1978.10.
『終わりなき探求』 The Eternal Wonder2013年に発見された遺作 戸田章子訳 国書刊行会 (2019)
ノンフィクション[編集]
『戦う天使』Fighting angel (1936) 戦へる使徒 深沢正策訳.第一書房, 1936
霊と肉 1-2 深沢正策訳.河出書房, 1941
天使 内山敏訳.改造社, 1941
天使・新しい道 高野フミ, 石井貞修訳.英宝社,1957.
教へ,天使,処女懐胎(阪田勝三) 南雲堂、1960
母の肖像The Exile:Portrait of an American Mother (1936) 深沢正策訳.第一書房 1938


コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.