戸籍が語る古代の家族  今津勝紀  2019.12.10.


2019.12.10.  戸籍が語る古代の家族

著者 今津勝紀 1963年東京都生まれ。86年岡山大文学部史学科卒。京大大学院文学研究科国史学専攻研究認定退学。岡山大教授(日本古代史)をへて、現在、岡山大大学院社会文化科学研究科教授

発行日             2019.10.1. 第1刷発行
発行所             吉川弘文館 (歴史文化ライブラリー488)

裏表紙

国民の身分台帳たる戸籍。
古代にも戸籍に人々が登録され、租税負担の基本となっていた。
どの範囲の親族が記されたのか、人口総数や平均寿命、歳の差婚が多かった理由等々、古代の人々の暮らしを明らかにする
  

l  今に伝わる古代の戸籍――プロローグ
戸籍法第6条:戸籍は、市町村の区域内に本籍を定める1の夫婦及びこれと氏を同じくする子ごとに、これを編製する。ただし、日本人でないもの(「外国人」)と婚姻をした者又は配偶者がない者について新たに戸籍を編製する時は、その者及びこれと氏を同じくする子ごとに、これを編製する
近代国家が国民を登録・把握する制度として、日本は戸籍による登録制度を維持
近代的な戸籍制度の出発点 ⇒ 1871年戸籍法の施行に基づき、翌年戸籍が作成された
戸籍が国民の根本的な身分台帳として機能 ⇒ 82年の干支に因んで壬申(じんしん=みずのえさる)戸籍と呼ぶ
法務局に保管される壬申戸籍の副本は、学術資料・歴史的資料となり得るもので、行政文書には該当しないとされ、非開示扱い
人を登録する制度 ⇒ 現行の戸籍は近代に創出されたものだが、遡ると江戸時代の宗旨人別帳、途中断絶するが、奈良・平安にも存在
古代の戸籍の多くは正倉院文書として伝わる ⇒ 元来東大寺の付属施設で、1875年宮内省管理に移行。保存された公文書が保管年限を過ぎると払い下げられ、反故された面が二次的に利用されるが、その中に戸籍もあり、律令制の実態を示す貴重な史料となっている
平安時代の戸籍は正倉院以外にも延喜2(902)の阿波国、延喜8年周防国、寛弘元年(1004)讃岐国などの断簡が伝わる
古代の戸籍は、律令国家の支配下で天皇に政治的に従属する人々を登録する制度で、登録された人々には口分田が班給され、調庸(ちょうよう)などの租税負担が課せられた
戸を単位としたまとまりが示され、そこから読み取れる古代の人と人との結びつきがどのようなものであったか、古代戸籍の世界を紹介する

【古代の戸籍】
Ø  戸の源流と戸籍の成立
「戸」という漢字は片開きの扉の意、両開きが「門」 ⇒ 戸籍は扉を共有するまとまりを意味する
日本古代の戸籍制度の源流は中国
中国では紀元前秦漢帝国成立以来、戸を単位に戸を構成する人、即ち戸口(ここう)総数の把握が行われたが、こうした戸を単位に戸口を登録したものが戸籍 ⇒ 歴代王朝の正史への戸口統計の掲出が慣例化。目的は人々の徴発・動員
日本では魏志倭人伝に、3世紀の卑弥呼の邪馬台国が7万余戸とあるが、何を数えたのかは不明であり、埋葬された人骨の分析を行う考古学研究からも、男性を軸にしたまとまりは明確ではなく、むしろキョウダイや男系・女系のいずれの血縁も重要な双系制的な社会であったと推定
『日本書紀』に河内国飛鳥戸(あすかべ)郡との記載が見えるが、飛鳥戸は律令制が施行される8世紀に漢字2文字で地名を表記するようになると、安宿(あすかべ)と表記され、飛鳥戸をウジとする氏族は、平安時代に作成された古代氏族の基本台帳である『新撰姓氏録』に百済からの渡来系の氏族として見える。氏族名に戸を含むものは他にも南禅寺所蔵の経典に記載がある
『日本書紀』540年には、秦人(はたひと)・漢人(あやひと)らを国郡に安置し、戸籍を編んだこと、秦人の戸数が7053戸とある ⇒ 記事の信憑性は不明だが、氏族名に戸の表記が含まれるものは渡来系の氏族であり、彼らを河内の一定地域に集住させる際に戸の呼称が用い始められたのではないかと考えられている ⇒ 中国古代の戸が朝鮮半島経由日本へと伝わってきたものであることを示す
戸を記録するのが籍だが、籍により人々の把握が行われるようになったのは、屯倉(ミヤケ)の開発に伴うもの。屯倉とは大王など中央の権威の支配にかかる屋の在り処、田地の経営拠点の意。8世紀施行の大宝令では屯田へと繋がり、天皇の食事に供される米を供給
屯倉は6世紀ごろ列島各地に設置されたが、注目は『日本書紀』555583年にかけてみられる白猪屯倉(しらいのみやけ)で、ヤマト王権が直接的に吉備(岡山~広島東部)5郡に設置し田部(たべ)を置いて耕作させている
『日本書紀』670(庚午:かのえうま)に、庚午年籍(こうごねんじゃく)と呼ばれる戸籍が作られ、後世まで氏姓(うじかばね)の基準とされた根本台帳となる ⇒ 702年律令政府が戸籍を作成する際も庚午年籍を対照とした
持統3(689)には、諸国司らに戸籍の作成を命じる(庚寅年籍:こういんねんじゃく) ⇒ 良賤身分の明確化。公民の百姓(ひゃくせい)を良民といい、宮司や有力者に隷属する者を賤民とする良賤制
律令制下では人々を帳簿に登録して支配が実現する ⇒ 毎年計帳が作成され、6年に1度戸籍を作成されたが、これらを総称して籍帳ともいう
奈良時代の地方行政制度は、国―郡―里()からなり、里は50戸で構成。戸籍と計帳は里()単位で作成
現存する戸籍で最も古いのは、大宝2(702)の御野(みの:現在の岐阜県)国加毛(かも)郡半布(はにゅう)里戸籍など

Ø  多様な古代戸籍
大宝2年籍が多く残っているのは、30年後にまとめて払い下げられ、二次利用されたので残ったもの
御野国戸籍には1119人が記載される ⇒ 男女奴婢それぞれ年齢により区分
5戸ごとのグループで逃走を監視、田を耕作し、租と調を納める連帯責任を負う
1戸の規模は20人前後で、広い範囲の血縁でつながるいくつかの世帯を含むのが一般的
身体の障碍など個人の身体的特徴も記述 ⇒ 課役負担を減免
11兵士の原則が存在したと推測
古代では全国でおおよそ4000ほどの里が存在
血縁集団の氏(うじ)と、その集団の政治的性格を示す姓(かばね)で、天皇から賜与されるもの。王権に奉仕する集団の最も基本的な属性となり公民身分の中核をなす。氏姓を持たない者が賤民

【戸口と貧富】
Ø  古代の人口
1872年に壬申戸籍記載の人口数は33,110,796人。無籍者など補正した人口が34,806,540
1920年の第1回国勢調査では55,963,000人、40年には73,144,000
享保6(1721)1回人口調査では推計3,128万人
聖徳太子が摂政当時の人口は4,969,890(新井白石『折たく柴の記』)

Ø  戸の等級
3等区分と9等区分があり、前者は桑や漆の栽培を義務付ける基準とされたり、他の耕作や牛の飼育についての基準とされたりした。後者は資産による区分で、資産に応じて人の徴発(雇役こえき)や食料を供出(義倉ぎそう)させた

【戸籍からみた婚姻】
Ø  戸籍にみえる妻と夫
古代の戸()とはどのような意味を持ったのか、を巡っては長く激しい論争がある
この問題の淵源は、19世紀のヨーロッパを中心に生まれた社会進化論にまで遡る
人類の歴史では母系制が先行し父系制へと転換すると考え、日本古代の家族が父系制への歴史的展開のどの段階に位置するか論じられることとなったが、その際分析の焦点になったのが戸籍・計帳に見える戸である
戸の姿は諸国の戸籍で多様だが、戸主である男性を軸にしたまとまりを示すものの、徴兵や納税、給与支給などの基準とするため戸の編成が人為的に操作された(=編戸)との理解が広がり、戸の記述から直接的に古代家族像を導くことは困難とされた
古代の夫婦は別姓であることは、古代社会の基本原理で、どの戸籍にも共通に見える
古代では氏と姓により属する集団が表現され、そこに固有名詞がついて個人が表現されるが、ウジ名が明確になるのは6世紀以降
婚姻によって同姓となるのは、社会が家を単位として組織されるようになる中世以降に生じる現象

Ø  再婚する男と女
齢とともに男女の婚姻年齢差が生じるのは、再婚により生まれたもの

【古代の恋愛と婚姻】
Ø  ツマドヒとヨバヒ
ツマドヒとは、「妻問い」で、男が女を訪れて求婚することとされているが、音(オン)から「ツマ」を見ると男女関係なく用いられており、「継続的に行き来がある、あるいは一対の男女として安定した関係にある(あった)と目されるものを指す言葉」とされ、「トフ」は質問の意味の他に「話す」「ものを言う」の意もあり、「ツマドヒ」の本質的意味はツマとの睦言であり、ツマとの情交を表現する言葉ということになって、妻問婚なる概念は意味をなさない
ヨバヒも、求婚することとか言い寄ることとか、恋人のもとへ忍んでいくことと説明されるが、本義はあくまでも呼ぶことであり、男女間についていえば、声をもって相手を誘うことで、ヨバヒによる求愛に対応するのが「名告(なの)り」で、受諾の意味

Ø  通いと住まい
婚姻は通うことから始まる ⇒ 万葉集でもほとんどの場合男性が女性のもとに通う
誇大人の居住空間 ⇒ 竪穴式の住居で片寄せ合って生活しているという従来のイメージは誇張された表現との理解が広まり、主屋と幾分かの作業小屋などの施設、垣などにより区画された空間に古代の人々は居住していたと考えられる

【流動性の高い古代社会】
Ø  古代女性のライフサイクル
8歳になった女児を童女(メノワラワ→女のワラワ?)と呼び、1人前の労働力と見做された
律令制下の宮廷の下級の女官に女孺(じょじゅ:メノワラワ)というのがあり、皇后の後宮で日常の世話係として働く。女孺には采女や氏女(うじめ)などとして朝廷に出仕した女性も含まれる
おおよそ13歳以降、婚姻が可能になった童女はヲトメとなり恋の季節を迎える
ヲトメから婚姻を通じてヲミナとなり、10代後半から子供を生み始める
律令制下では、地域社会の上層階層では妻が夫方に居住しているのが一般化
古代社会では夫と死別したあと再婚する女性が多かったが、富裕層の場合再婚しない寡婦もいて節婦(せっぷ)と呼ばれ、儒教イデオロギーに基づき政治的契機に表彰されたという
古代が多妻制の社会であることは間違いないが、妻と妾に厳格な別があったとは言えない
良民の成人男性の場合、60歳を超えると租税負担が半分となり、66歳からは免除。男女とも80歳を超えると高年とされ、男性には介護者が充てられた
半布里戸籍では、65歳以上の男性と50歳以上の女性が全体の7%、高年はその1割弱

Ø  生命をつなぐ
日本の中世後期は慢性的な飢餓状態にあり、春から夏の端境期に飢饉が繰り返し発生
旧暦5()に死亡数が突出した年が記録されている
飢餓状態が疫病の蔓延にも繋がる
凶年には貧窮による人身売買が行われ、売られた人は奴婢として主人に隷属。朝廷が制限したり、子を売った場合は賤民として良に従うという処罰もあった

l  女性ばかりの平安時代の戸籍――エピローグ
庚午年籍などが作成された7世紀は、列島社会が強烈な北東アジアの軍事的緊張に晒された時期であり、それに対応するために全国的な軍事と徴税の体制が整備され、8世紀にはそうした律令システムがそれなりに機能していたが、新羅との全面戦争が回避され、8世紀を通じて唐・新羅との軍事的緊張がなし崩し的に緩和されたことに伴い、日本の律令制も弛緩
自然環境では、8世紀は総体として安定的で乾燥気味だったが、9世紀後半に至って不安定化し湿潤化し、不稼働の田が増えて口分田を班給して人々の再生産を支えるシステムも崩壊していく。大地震も頻発、火山の噴火もあって、飢饉に疫病が集中している
最初の戸籍から200年経った延喜2(902)の阿波国板野郡田上郷の戸籍では1戸に男6人、女25人と男女比の差が激しい。65歳以上の女性が9人もいる一方、若年層が見られないのも不自然。女性にも口分田が班給されていたための不正受給の可能性もある
租税の課されない男女の人数も戸籍増のためにおこなわれたところから、不実記載もあったと見られ、10世紀初頭の戸籍の姿は非課税の水増しによる不実記載が累積したものに他ならなかった ⇒ 中央政府に納める調庸の貢納量を減らすために操作された
古代社会の流動性は高く、籍帳で人身を把握するのは困難であり、浮浪・逃亡という現象が構造的に発生していたため、時代が下がるほどに戸籍・計帳により人を把握する制度は低下 ⇒ 10世紀に入り中央政府は班田の実施を放棄し、戸籍・計帳に基づく人身別の課税から、課税対象を土地へと転換。10世紀後半には帳簿による管理システムは解体。国司は、中央政府より委任された国内の軍事指揮権・裁判権とともに大きな権限を手に入れるが、それと引き換えに中央政府は都市平安京の王朝政府へと縮小



(書評)『戸籍が語る古代の家族』 今津勝紀〈著〉
2019.12.7. 朝日
メモする 別居か同居か、「伝統」の再考を
 古代日本の律令国家は中国を手本に、戸籍によって国民を管理した。もちろん古代の戸籍が全て現存しているわけではなく、正倉院文書などに断片的に残っているにすぎない。だが、それでも古代の人口や律令国家の支配体制を解明する上で不可欠の史料として、研究が積み重ねられてきた。
 ただ古代の戸籍は人為的に操作されており、必ずしも社会の実態を反映していないことも以前から指摘されてきた。その限界を踏まえつつ、統計学的手法を用いて断片的で偏りのある戸籍のデータを十二分に活用している点に本書の大きな特色が認められる。論点は多岐にわたるが、古代家族史・女性史の通説を、戸籍の統計分析によって相対化していく箇所が特に興味深かった。
 現在の女性史研究の原点は、戦前に婦人解放運動で活躍した高群逸枝の研究にある。高群は、古代日本の婚姻は夫が妻のもとに通う妻問婚(つまどいこん)であり、基本的に母系(女系)制の社会であったと主張した。現在の古代史研究では、父方・母方双方の親類が大きな意味を持つ双系制社会と把握されているが、古代における婚姻関係の流動性・男女の対等性を強調し、家父長制の存在を否定する点では高群説の影響を受けている。
 しかし著者は、古代の再婚率の高さは必ずしも女性の性愛の自由を意味しないと説く。古代戸籍を精査していくと、再婚事例には、妻に先立たれた中年の富裕男性が貧しく若い女性と結婚したと推定できるものが目立つという。軍事優先の律令国家では、次第に父系的原理が浸透していったのだ。さらに著者は、考古学や国語学の成果も採り入れ、奈良時代にも夫婦同居は見られると述べ、生涯別居の妻問婚というイメージに再考を促している。
 好むと好まざるとにかかわらず、女系天皇論など、現代の問題にしばしば「伝統」は持ち出されてしまう。まずは古代の実像を知ることが重要だろう。
 評・呉座勇一(国際日本文化研究センター助教・日本中世史)
     *
 『戸籍が語る古代の家族』 今津勝紀〈著〉 吉川弘文館 1870円
     *
 いまづ・かつのり 63年生まれ。岡山大教授(日本古代史)。著書に『日本古代の税制と社会』。


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