消えたベラスケス  Laura Cumming  2019.9.18.


2019.9.18.  消えたベラスケス
The Vanishing Man   2016

著者 Laura Cumming 1961年生まれ。英国BBCワールドサービスの美術プロデューサー、『ニュー・ステイツマン』誌の美術担当などを経て、99年から『オブザーバー』紙の美術批評を担当。父親は画家のジェイムズ・カミング。本書でジェイムズ・テイト・ブラック賞(伝記部門)を受賞

訳者 五十嵐加奈子 翻訳家。東京外大卒

発行日           2018.1.25. 第1刷発行
発行所           柏書房

第1章        ある発見
1656年に描かれたとする説が有力な《ラス・メニーナス(侍女たち)》は、ベラスケス急逝の4年前、場面は既に消失したマドリッドの王宮アルカサルの1
新たな絵画を生み出す ⇒ 生の舞台としての絵、こちら側の世界にまで広がり、11人に役柄を与え、見る者全員を取り込んだパフォーマンスとしての絵であり、この絵を見た人々すべてが絵の一部であり、皆仲間として迎え入れられる
絵の中の人々を生き生きと甦らせ、同時に彼らの目にも観る者を、過去の鑑賞者も含めて生き生きと映し出す。誰もが見る側となり、見られる側となる。ひとえにベラスケスの筆力のなせる業であり、描かれた虚構に過ぎないのだが、その錯覚が弱まることはない
画家は、人の目だけではなくもっと奥深い部分に何かを伝えたいという思いで絵を描く野に、絵が人の心に与える影響については、これまであまりにも見過ごされてきた
絵に対する人々の反応を探るため、絵との出会いを記した回想録や日記、手紙など、生活に密着した文献の中にそれを見出そうとし、思いがけず出会ったのが、自らを田舎商人と称する1人の幸運な男と、彼が愛した長らく行方知れずだった1枚の絵《失われたベラスケス》にまつわる数奇な物語
17世紀英国バークシャー州の書店主だったスネアが著した『1623年マドリッドにてベラスケスが描いたチャールズ皇太子、後のチャールズ1世の肖像画の概要』という本を発見、スペイン王女に求婚するためマドリッドを訪れた英国皇太子が、求婚には失敗したがベラスケスに実物以上に立派に肖像画を描いてもらい体面を取り戻して上機嫌になったとされるが、この本は1847年ロンドンでこの絵1枚のための展覧会が開かれた際のカタログと判明。それ以前に失われたとされた絵をどうやって発見したのか、発見した後の謎がどんどん深まった。1851年に熾烈な法廷闘争の原因となった
当時ベラスケスの絵はほとんど出回っておらず、知名度も低い。40年以上のキャリアを通じて120点余りと少なく、天賦の才を小出しにしたと言われる。作品の大半はスペイン国王と宮廷のために描かれその場に保存されていたもので、ベラスケスの死後も長らく宮廷に留まっていた。1819年プラド美術館が初めて一般公開されベラスケスの作品も40点以上展示されたが、目にしたのはごく僅かの裕福な旅行者くらい。絵にタイトルが付される以前の時代で、描かれている人物の特定も困難
19世紀に入ると、スペイン国内に閉じ込められていたベラスケスの作品の一部がヨーロッパ全域に出回り始めるが、180814年のイギリス軍の助けを借りてナポレオンからの独立を目指すスペイン独立戦争の煽りで、軍用行李の中からひょっこり名画が現れたりして、ベラスケス熱に拍車がかかっていく
数少ないベラスケスの絵が増えることはないだろうと思われてきたが、世界の各地で1枚また1枚と思いもよらない場所から発見される
1845年スネアが、行方知れずとなって誰にも省みられず忘れ去られようとしていた絵を救い、田舎暮らしからロンドンの高級街へ、さらにニューヨークへと移り住み、その挙句に逃亡生活に落ち孤独な死へと人生を狂わせた
この本は、巨匠の中の巨匠ベラスケス――生み出した作品に劣らず捉えどころのない人生を送った男を称える書である。と同時に、彼の絵を愛したヴィクトリア朝時代の名もなき男の肖像でもある。スネアという人物を可能な限り闇から掘り起こした。なぜなら、彼が《ラス・メニーナス》に描かれた人物の1人、窓際に立つ男の使用人のように思えるからだ。この名画に描かれた人々の中でただ1人、素性が全く分からず、何ひとつ語られることのない人物。おぼろげに描かれた、今にも闇に消えてしまいそうなその男に、彼は似ているからだ

第2章        ある肖像画
1845年オックスフォード近郊の地元紙にある寄宿学校の閉鎖にあたってのオークション開催の広告が掲載され、アマチュアの絵画愛好家だったスネアは以前からヴァン・ダイク作と推定されていたチャールズ1世の半身像に興味を示す。独学で絵を学んでいたスネアは単に見たいという衝動にかられただけだったが、よく見るとモデルは王にしては若すぎて、皇太子時代であれば即位後にやってきたダイクの作品で絵あるはずはなく、ダイクと同等の才能を持つベラスケスの名が浮かぶ
イングランド人にとって、スペインはまだ南太平洋と同じくらい遠い世界だったが、ベラスケスの絵だけは「人の内面を描き出し、場の空気までもありありと描写できる画家は他にいない」とまで言われるほど希少価値とともに称賛の言葉が添えられた
競売では5ポンドからスタートして8ポンドで落札、馬1頭分とそう変わらなかったし、注目を浴びなかったことで真贋に疑問が出たが、自身の画廊に保管

第3章        画家ベラスケス
生誕400年を機にスペイン政府は亡骸を見つけるべくマドリッド市内の2つの教会で発掘調査を行ったが、未だに不明のまま
公証人の子として1599年セビーリャで洗礼を受けたのは判明しているが、誕生日は不詳。生家は現存するが門戸は閉ざされたまま
11歳で宗教画家で学者のパチェーコの工房に出入りし頭角を現し、6年後には画家としての資格を得、18歳でパチェーコの娘と結婚
1622年パトロン探しにマドリッドに出て、2度目の旅で国王フェリペ4世に見込まれ直ぐに依頼を受け、23年には王の肖像画家となる
2度のローマへの旅以外は宮廷の外にも滅多に出ず、最終的に王宮配室長に上り詰める
《ラス・メニーナス》に描かれた自らの服装から権威の象徴をすべて身に纏っているのが分かる ⇒ ベルトにはアルカサルのマスターキー(最高級の栄誉の証)をぶら下げ、上着には後に入団が認められるサンティアゴ騎士団の赤い十字架が描かれている
職業人生については、生前に伝記が出版されたこと
もあってかなりの部分が分かっていて、ベラスケス研究の出発点であり、スネアも1845年にそれを見つけ出している
かなり早い時点でベラスケスの絵がイングランドにも到達 ⇒ 1813年のオークションに出品されたが、別の作者の名とされていた
1623年マドリッドに旅発つ際に携えていったのは《セビーリャの水売り》だが、すぐにパチェーコの仲間に買い取られ、相次いで描いた肖像画が王宮の目に留まって王の肖像画の依頼が舞い込み、数年後ルーベンスが宮廷を訪れるまで、王自身がベラスケス以外に肖像画を描かせないと定める。国王主催の絵画コンテストで優勝し宮廷取次官に就任
20代前半で2人の娘を設けたが夭折したことは判明しているが、同時代のカラヴァッジョやレンブラント、ルーベンス、プッサンなど海外でも名を馳せていたのに対し、ベラスケスはいつまでも謎のままで、描いた絵の時期を特定するのも難しい
確たる事実という点では、スネアの時代と比べてほとんど増えていない

第4章        ミンスター・ストリート
スネアが保管していた肖像画は、いわゆるカントリーハウス・コンディションといって、洗浄も修復もされていない状態。唾をつけてカンヴァスをこすったことはあったが、絵の表面の脆さを考えとんでもないことをしたと後悔。柔らかい綿モスリンに水を含ませて吹いてみると、チャールズ1世の顔が現れほっとする
1846年チャールズ1世の肖像画だけのための展示室を作って公開するが、一般にはダイクの作品だと考えられていた

第5章        黒衣の男
ロンドンのアプスリー・ハウスの当主ウェリントン公爵がスペイン王座を奪取したナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトをマドリッドから追放し、1813年バスク地方の町ビトリアでの戦いで壊滅させナポレオンによるスペイン支配に終止符を打った際、ボナパルトの軍用行李の中から発見された絵の中に黒衣の男の肖像画があった
ロンドンに送った後、略奪を嫌うウェリントンはスペイン王室に引き取りを申し出るが回答のないまま、ワーテルローの戦いに勝利した後、再度スペインに引き取りを要請したところ、名誉ある方法にて正当に入手されたものを奪い返したくないとの意向が伝えられ、他の81点とともにアプスリー・ハウスのウォータールー・ギャラリーに落ち着く
ただ、絵のタイトルもわからなければモデルも誰か不明のままだったが、今ではモデルはディエゴ・ベラスケスの終生の同僚でホセ・ニエト・ベラスケスという王妃付きの王宮配室官だと判明している

第6章        ロンドンでの評判
スネアは絵をメアリ・ラッセル・ミットフォードに見せる。レディングのミットフォードはバースにとってのジェーン・オースティンも言うべき存在で、小説家・劇作家として国中に人気があり、絵に詳しいだけでなくチャールズ1世の専門家で、この絵を見たとき既存の肖像画のどれとも似ていないというスネアの意見に賛同、さらに長い間行方が知れない失われたチャールズ像であることを微塵も疑わず、スネアに公開を勧めた結果、1847年スネアはロンドンの流行の最先端であるオールド・ボンド・ストリートに1室を借りて絵を展示することとなり、ロンドン中が湧きたつ
スネアを最も喜ばせた来場者は、内戦で亡命中のスペインの王位請求者モンテモリン伯
伯爵は先の国王フェルナンド7世の弟で自らカルロス6世を名乗る。マドリッドの王宮でベラスケスの肖像画に囲まれて育つが、フェルナンドの娘イザベルが3歳で女王の座に就くと残りの人生を当てもなくヨーロッパを彷徨いながら送ることとなった
伯爵とその侍従が揃ってベラスケスの絵に間違いないことを断言したが、真贋を巡ってはマスコミで激しい論争が繰り広げられた
1847年スネアの家主が土地所有者に借金があり、そのかたに絵を持ち去られてしまい、泣く泣く家主の借金を代わりに返して絵を取り戻し故郷に戻る

第7章        等身大の姿
バルタサール・カルロス王子が4,5歳の時に遊び相手として宮廷に雇われた小人のレスカーノをモデルに描いた慈愛に満ちた絵は、1819年プラド美術館で初公開された際、モデルの存在そのものに対し全く異なる解釈が巻き起こった ⇒ 元々は並外れた才能を持つがゆえに宮廷に雇われた存在で、道化として一括りにされていたが、ベラスケスは役割の違いをはっきり描き分けている。誰もが唯一無二の存在だというのがあらゆる人間に対するベラスケスの考え方で、個性こそが重要なのであり、宮廷に仕える仲間たちの中でとりわけ小人たちの中にそれを見出していたのかもしれない
セバスティアン・デ・モーラという小人もモデルとなっているが、長年にわたって王家に仕え、バルタサール・カルロス王子の教育係にもなるほど王家から信頼され、バルタサールが16歳で天然痘で夭折した際は一番上等な銀の短剣を彼に遺したという

第8章        攻撃
スネアは肖像画がイギリスにやってきた経緯を調べる。1623年皇太子の一行が持ち帰ったのは間違いないが、王室のコレクションに加えられた形跡はなく、数年後には皇太子が暗殺され、未亡人は資産を売って収入を得ていたようだし、コレクションの大半は大陸に持ち出されて売却された
スネアは必死に真正性を主張するが、高名な美術史家であるサー・ウィリアム・スターリング=マクスウェルはその論点を悉く否定しモデルがチャールズ皇太子であることもベラスケスの絵であることもすべて否定

第9章        人生の舞台
1865年エドゥアール・マネがコレラの流行する最中1日半の辛い列車の旅でマドリッドに来たのはベラスケスの絵を見るため。それだけのリスクを冒しても見る価値のある"画家の中の画家の作品であり、すべての絵画を越える(ママ)となる作品は、宮廷の喜劇役者パブロ・デ・バリャドリードの肖像画。黒づくめの衣装で両足を広げて仁王立ちになった全身像で、背後には何もないまま漠とした空間に役者の姿が浮かび上がる。マネが友人に書き送ったのは、「これまでに描かれた絵の中で最も驚くべき作品だ。背景は消滅している。人物を包み込んでいるのは空気だ」
モデルの喜劇役者は163248年までスペイン宮廷で働き、絵が描かれたのは40年代後半と推定。宮廷の娯楽係だが、どんな役を演じていたのかは不詳
マネはボードレールへの手紙に、「ベラスケスはこれまでにない偉大な画家だ」と書き送り、パリに戻って描いた絵がルビエールというフランスの俳優をモデルにした《悲劇俳優》
ベラスケスにはほかにも俳優を描いた絵がいくつかあるが、特定の場所が示されるケースはごく稀、空間さえ定まらないことが多かった(《ラス・メニーナス》は例外)

第10章     押収された盗品
1849年スネアは1枚の肖像画のためのブリテン島ツアーの最初の地として選んだエディンバラで、いきなり州裁判所の執行官が会場に来て、第2代ファイフ伯爵の遺産管財人から盗まれたものだとして即刻押収。裁判では訴えが退けられたが、犯罪という汚点がついたために客足は伸びず、ツアーは中断され、故郷の画廊も倒産し、人々の尊敬も築き上げた名声もすべて失う

第11章     裁判
1851年スネアはエディンバラの民事控訴院で管財人を損害賠償で訴えたが、思いがけない展開となり、偏見と侮辱、民族主義、階級偏重によって引き裂かれ、経験とそこから導かれる判断との間に著しい矛盾がある、イングランドの商人とスコットランドの上流階級とのバトルへと変貌。モデルが誰か、誰が所有していたのか、さらにはベラスケスの作品なのかというより大きな論点へとすり替えられていく
最後の証人はスネア側の勅撰弁護人のイングリスで、後に最高法院長となりスコットランドの法曹界の頂点に立つ人物で、管財人側の矛盾を突いた証言に陪審は納得し、管財人に1000ポンドの賠償を命ずる判決が出る

第12章     宮廷からの脱出
ベラスケスの絵は主に閉ざされた扉の奥で描かれているが、生涯2度だけ宮廷を離れており、行く先はいずれもローマで、彼の芸術を大きく変える契機となっている
1628年ルーベンスが51歳の時スペインの宮廷を訪問、王宮にある絵画を精力的に模写するとともに、フェリペ4世のために30枚もの絵を描いたと言われるが、そのルーベンスからベラスケスは早い時期にローマへ行き、芸術の都をその目で見てくるようにとアドバイスを受け、すぐにイタリアへと旅立つ ⇒ この時の船旅で出会ったスピノラというジェノヴァの名家出身の将軍が、後にオランダからブレダの町を開放した勝利の場面を描いた《ブレダの開城》で勝利した側の大将として、多勢の軍人に囲まれ慈愛溢れる表情で描かれているが、そこには将軍の人格が見事に現れている
ヴェネツィア、フェラーラ経由でローマに入り、ローマでは王子のような待遇を受け、システィーナ礼拝堂の鍵まで渡されたという
1年以上滞在し、夏には猛暑を避けて高台のメディチ家別荘に案内され、珍しく庭園風景を描いているが、この作品は絵画に小さな革命を起こす ⇒ 単に並外れた手法で描かれたというだけでなく、描かれた理由も、物語性も、焦点もなさそうな点が新しい。何となく眺めていて目に入った断片的な光景、その一瞬を捉えたこの絵は極めて斬新で、古代ローマの風景画などとは大きく異なっていた。印象派が生まれる2世紀も前の事
ベラスケスの作品に常に付きまとう重大な疑問点の1つが、どの作品がどのようにして生まれたのか、ゆっくり手間をかけて描かれたのか手早く描かれたのか、偶然の結果なのか意図的に生み出されたものなのか、全てが謎に包まれている
ローマには同時代のフランスの画家クロード・ロランやニコラ・プッサンもいて、お互いに交流もあったが、ベラスケスの風景画は彼らの作品とは全く異なっていた
《ヴィラ・メディチの庭園の景観》は、プラド美術館で最も小さく最も優れた作品の1
16489年の2年にわたる2度目のローマ行きは、財政難に落ちいりながらもコレクションの充実を期して絵や彫刻の調達を図ったフェリペ4世の命によるもの。芸術作品を堪能することに徹し、ベネツィア、ボローニャ、パルマ、ナポリなどに足を延ばす。彼が残した「ラファエロは過大評価され、ティツィアーノは彼を遥かに凌ぐ天才」との評は有名
多くの芸術家たちと親交を持ち、常に変わらぬ誠意をもって接していたのは確かで、イタリア人画家たちと親しく付き合った最初のスペイン画家であり、イタリアでも偉大な肖像画家と呼ばれるほど、教皇など何枚もの肖像画を描いている。自分の無情な権力者の姿がまざまざと描き出された肖像画を見て、教皇はただ一言、「似すぎだ!」と感嘆の声を上げたという。外見のみならず人間性までが忠実に描き出されたベラスケスの特徴を如実に表すエピソード。インノケンティウスという名は天真爛漫という意味だが、実際の性格は違い明敏で策略家であり、教皇自身が持つ力強さは描かれた瞳を見ればわかる
滞在中に男児を設けたことも判明。生まれたのはローマを去ってからで、生母も知り合った女流画家との説もあるものの子供のその後とともに不詳だが、乳母への支払いの記録が見つかっている
滞在中に描いた肖像画の中で、ベラスケスに仕えていたムーア人の奴隷ファン・デ・パレーハをモデルとした作品がある。1650年ローマでの国際芸術祭に展示され万人から喝采を受けた。他の作品はすべてに見えるが、この1枚だけは本物に見えると絶賛

第13章     ブロードウェイのベラスケス
1960年ブロードウェイ659番地の公共施設「ストイフェサント・インスティテュート」で《チャールズ1世の肖像画》がニューヨークの市民に公開。スネアがいつ渡米したのかは不詳だが、破産して資産をすべて失ったとあれば、その前に出国していた可能性が大で、単身渡航し、以後妻子とは会っていない
当時アメリカではまだベラスケスの名はあまり知られておらず、最も有名なスペインの画家は同じセビーリャ出身のムリーリョだったが、銅板印刷機の普及でベラスケスの版画が生み出されると人気も徐々に高まる

第14章     消える画家
1889年ベラスケスの肖像画がメトロポリタン美術館に寄贈。40年前に絶賛されていたもので、ランズダウン侯爵の手からアメリカの鉄道王ヘンリー・マーカンドに渡っていたものだが、弟子だった娘婿の自画像と判明
1926年株の仲買でメリルリンチに匹敵するほど成功したジュールズ・バーチがベラスケスの自画像をコレクションに加えたときは125万ドルを支払い、5番街の自宅で無料で一般公開した後、1949年メトロポリタンに大半を寄贈したが、やがて他の誰かの作とされ隅に葬られた

第15章     消失
スネアはレディングの名士
1883年アメリカの市民権を申請するが、そこで彼の足跡は途絶える
1885年メトロポリタンでスネアの末息子からの提供だとして、肖像画が展示された
1888年スネアが取引していたスクリブナーズ社からブリタニカ百科事典の第9版が出版され、ベラスケスの項ではチャールズ皇太子の肖像画についても触れられ、「正確な所在は不明だが、まだアメリカ国内に存在していると言われている」とある
1903年『ニューヨーク・タイムズ』紙が追跡を開始。スネアは実在していたこと、失われたベラスケスは南北戦争終結時には確かにスネアが所有し、81年にも彼の手元にあったが、その後の行方は不明と記されている

第16章     魔法の絵筆
ベラスケスの人生最後の10年間に描かれた絵がどこにあるのか。もともと寡作で年5,6作品位だったが、ローマから帰国後はさらに減って、年1,2作となり、そのうちに全く描かなくなった
その原因は覇気を失ったフェリペ4世の存在とハプスブルク家統治の末期的症状。12年も続いたフランスとの戦争で疲弊し、国庫の金も底をついた上に、ポルトガル、カタルーニャも反旗を翻す中、ベラスケスは王室配室長としての業務に追われ
19世紀の大半を通じて薄暗いヨークシャーの邸宅に飾られていた《鏡のヴィーナス》(ロークビー・ヴィーナス)は唯一現存するベラスケスのヌード画。背中を見せて横たわるヌードが自分の前に立てられた鏡を見ている構図だが、鏡には理想像とは程遠いぼやけた顔が描かれ、その目は同時に私たちの事も見つめている
《ラス・メニーナス》では絵筆を手に、影の中からしばし姿を現したベラスケスは、この世界のすべてを操っているのは自分だと宣言。国王や王妃を登場させることも消し去ることも思いのままであり、彼ら2人に焦点を当てることも出来れば、ぼやけさせることも出来るのだと。なぜなら、人の視線は絶えず動き続け、はっきりと見えるのはその瞬間に焦点が当たった部分だけで、場面全体を同時に捉えることはできないと知っていたから。だからこの絵には壁や床のような写実的描写から、大胆なタッチでぼかして描かれた右側の小人の慌ただしい動きや、微かな空気の震えまで、様々な表現が使われている。その技法は絶妙で、見ている私たちの実際の目の動きを導きながら、11人を絵の世界に取り込んでいく
魔法の杖ならぬ絵筆1本で世界を創り出し消し去るベラスケスの自画像には、魔術師的な意味合いもあると思われる
最晩年の1660年、ベラスケスがサンティアゴ騎士団の赤い十字架を身につけたのは、仏西国境の川に浮かぶサンティアゴ島で、マリア・テレサとルイ14世が婚約した時に結ばれる休戦協定を演出するためで、ベラスケスはフェリペの旅の段取りを仕切る。もともとベラスケスの描いたブロンドの王女の肖像画を見てルイが興味を持ったのがきっかけで、4日間の婚約儀式では、ベラスケスがテントの中にエレガントな舞台を作り上げたという
帰国後疲労から発熱しほどなく急逝。享年61

第17章     幻の絵
長年にわたり膨大な数の肖像画が失われてきた。モデルが自分たちにとって意味をなさなくなった場合もさることながら、描かれた人物と同様に絵もまた、人為的な何かによって忽然と姿を消すことがある
ベラスケスのある作品も18世紀スペインからイタリアへ向けて船で運ばれる途中、海上で消えた
1888年レディング美術館にてベラスケスの《チャールズ1世の肖像画》が公開。スネア夫人が提供したものだが、家族はほとんど若くして跡継ぎもなく逝去、最後に亡くなった末子エドワードの遺言執行人が1898年ベラスケスを売りに出したが買い手がつかず保管庫に戻されたが、保管庫のあったレディングのシモンズ銀行は1908年にバークレー銀行(ママ)に買収された後、引き継がれたものがどうなったのかは不明のまま、2008年にはキング・ストリートに面した歴史ある扉が遂に閉じられたが、ベラスケスの絵に関する記録は何も残っていない

第18章     無数のチャールズ
ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーの図書館では、著名な英国人を描いた肖像画をすべて写真記録として保管されているが、その中で最も数多く保管されているのが国王チャールズ1
スペイン特有の顎髭、先を尖らせた優雅な黒い髭がベラスケスの絵の特徴
個性に乏しい顔をチャールズらしくしたのが皇太子時代に生やしたスペイン風の顎髭であり、後に宮廷にやってきたフランドルの画家ヴァン・ダイクだった。ダイクがそれまでの多種多様だったチャールズ像を1つの確固たる像に統合。ダイクこそイングランドの絵画に表情を生み出した画家であり、無数のチャールズ像を描いている一方、ベラスケス作と言えるものはなさそう

第19章     失われた絵、発見された絵
美術史家たちは、失われたベラスケスの絵について、永久に失われ、絶対に出てこないと断言するが、現時点で発見されていないだけで、忘却の彼方から戻ってきた別のベラスケスの作品同様、いつの日か帰ってくるかもしれない

第20章     救出
1734年アルカサルは焼失
救出された宝飾品の1つで、歴代の王妃が身につけた「ラ・ペレグリーナ」と呼ばれた特大の真珠をあしらったネックレスは、後にエリザベス・テイラーの所有物となる
1,000点を超える王宮の絵画コレクションの半分は救出できず、2点架けられていたベラスケスのうち、《スペインからのモリスコの追放》は焼失したが、《ラス・メニーナス》は救出
ここが終着点だ、これを超えるものはない。プラド美術館でこの絵を見たマネはそう言った。ベラスケスは油絵の具という比較的新しい画材を使い、それでできることをすべてし尽くした。彼によって油絵は行き着くところまで行ったのだ
ベラスケスの画風は、「神業的」「魔術的」、とりわけ「神秘的」と評されてきた
ベラスケスの絵から何かを学ぶとしたら、人間が持つ奥行きと複雑性だろう。モデルとなったあらゆる人物にその人なりの存在感と比類なき尊厳を与える。彼が描く人物はすべて実在する肖像であり、人間の尊厳に力点を置く
《ラス・メニーナス》はベラスケスが王を描いた最後の絵。単なる美しい肖像を並べた絵ではなく、生き生きと描かれた人物の中に何かが解き放たれている。切なくなるほど悲しい絵

【解説】 姿を見せないベラスケス    貫井一美(大妻女子大)
ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス
父親の名はシルバ、母方がベラスケスで、母方を名乗っているのは、コンベルソ(改宗ユダヤ人)という画家の出自と関係
初期には《卵を料理する老婆と少年》(スコットランド・ナショナルギャラリー)のようにボデゴン(厨房風景画)と呼ばれる作品が代表的で、様々な周囲の静物が徹底したリアリズムによって暗闇に浮かび上がり、見る者の触覚にまで訴えかけるかのよう
国王と画家の関係は、主従関係を超えて芸術を愛する者としての強い絆であったといわれる。ただ、当時の絵画は主として依頼主の意向を反映して制作されたが、ベラスケスの作品の主題など誰が決めたのかは不詳で、作品の制作意図や背景を知ることは非常に困難
王宮の美術品管理や装飾アドバイザー的な仕事も担い、貴族にも列せられるが、役職が高くなれば絵画制作に割く時間も短くなり、作品数は減少。傑作《ラス・メニーナス(国王フェリペ4世一家の肖像)》や《ラス・イランデーラス(アラクネの寓話)》はそのような状況下で描かれた
作品以外にベラスケスを知ることのできるものはその亡骸も含め皆無に近い。イタリア旅行での感動も含め、感情や考えを窺えるようなものは何一つ残されていない。それ故に作品自体に強烈に惹きつけられる
本書では、ベラスケスの生涯や作品について語られるほか、フェリペ4世やチャールズ1世、ダイクなども登場し、17世紀ヨーロッパ絵画のメセナと芸術家を知る上でも興味深い側面が垣間見られる
肖像画がその人物を取り巻く多様な環境を伝える役目があったその時代には、絵画は非常に多くの事を物語るもので、そこには私たちが見失ってしまった多くの意味が込められている。だからこそスネアのように絵画に魅せられて人生が変わってしまう男が存在し得る
ベラスケスの自画像と伝えられていた作品は、以前かなりの数存在していたが、現在確実に自画像と認められるものは、代表作《ラス・メニーナス》に描かれた姿だけ。ベラスケスが残した唯一の痕跡は、「絵画の神学」とまで評された画家の最高傑作の中にだけ存在

訳者あとがき
著者は著名な美術評論家。画家だった父を病で亡くし、傷心を癒やすために旅立ったプラド美術館で《ラス・メニーナス》に出会い、絵には人の心を慰める力があることを知る
その後、偶然にもスネアの存在を知って、彼の謎めいた半生を掘り起こしていく
ベラスケスが描くものは「本物」と言われるほど、人物は写実的に描かれ、他の追随を許さない


消えたベラスケスローラ・カミング著
芸術が魂に与える力を熱く
日本経済新聞 朝刊 2018310
著者曰(いわ)く、本書は巨匠の中の巨匠ベラスケスを称(たた)える書である。
その言葉どおり熱い本だ。芸術作品というものは各時代の賛美者たちが熱く語り続けることで、次代へ繋がれてゆく。ベラスケスはスペイン宮廷の奥に隠されていた時代にはゴヤが、公共美術館に展示されてからはマネが、その超絶技巧と魅力を喧伝してやまなかった。今またこうして美術評論家のカミングが、17世紀の寡黙な宮廷画家に迫り、すこぶるつきに面白いノンフィクションに仕上げた。
2つの流れが交差する。1つはヴィクトリア朝時代の書店主スネアの数奇な人生。安価でベラスケスの絵を手に入れた彼が真贋論争に巻き込まれ、ついには店も家族も失い、絵と駆け落ちするかのようにアメリカへ渡って貧困のうちに死ぬ。絵はその後忽然と消える。カミングはスネアの足跡を辿り、絵が本物かどうか、今どこにあるか、調査にのめり込む。
もう1つの流れは、ベラスケスの人生とスペイン・ハプスブルク家の黄昏だ。もちろんそれは彼の作品に色濃く反映されている。そもそもベラスケスが描き残したからこそ、無能王と呼ばれたフェリペ4世、血族結婚くり返しの果てに生まれたひ弱な王子や王女、宮廷に仕える小人症の慰み者たち、権力を振るう重臣らが、350年前、喜怒哀楽をもって確かに生きて呼吸していたことを我々は深く納得するのである。
カミングはベラスケスの天才性に感嘆し続ける。近くで見るとただの色の染みでしかないものが、遠目には見間違いようのないドレスの金糸になり、鬚(ひげ)になり、水滴になるのはなぜか。何より、人物の本質をどうやって抉(えぐ)りだせたのか。それは日記も手紙も残さず、全く自己を語らなかった画家その人と同じく大きなミステリだ。
これに関して本書唯一の物足りなさは、ベラスケスがコンべルソ(改宗ユダヤ人)の家系だった可能性や、傑作『キリスト磔刑図』に触れていないことだろう。
とはいえ、破産しても貧窮しても絵を手放さなかったスネア、執念で追い続けるカミングを通し、芸術作品が人の魂に、ひいては人生に与える力の凄さには圧倒されずにおれない。
美術愛好家、必読。
原題=THE VANISHING MAN
(五十嵐加奈子訳、柏書房・2500円)
著者は61年生まれ。英国の美術評論家。
《評》ドイツ文学者 中野 京子


Wikipedia
ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 159966(洗礼日)166086)はバロック期のスペイン画家エドゥアール・マネが「画家の中の画家」と呼んだベラスケスは、スペイン絵画の黄金時代であった17世紀を代表する巨匠である[1]
l  生涯[編集]
修業時代[編集]
没落した貴族の家系とされてきたが、近年の研究では父方がコンベルソ(改宗ユダヤ人)の家系である可能性が高いとされている(父方の祖父ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバはポルトガルからセビリアに移住しているが、当時多くのコンベルソがポルトガルから移動し、シルバなどの名を名乗っていた)[2] [3] 。スペイン南部の都市セビリアに生まれ、11歳頃に当地の有力な画家であるフランシスコ・パチェーコに弟子入りした。6年後の1617年、18歳のときに独立し、翌1618年には師匠であるパチェーコの娘であるフアナと結婚する。17世紀のスペイン画壇では、厨房画(ボデゴン)と呼ばれる室内情景や静物を描いた絵画が多く制作されたが、宮廷画家になる前のベラスケスもこの厨房画のジャンルに属する作品を描いていた。『卵を料理する老婆と少年』(1618)などがその代表作である。1622年には首都マドリードへと旅行した。
宮廷画家[編集]
1623、マドリードに2回目の旅行に行く。このとき、スペインの首席大臣であったオリバーレス伯爵ガスパール・デ・グスマンの紹介を受け、国王フェリペ4の肖像画を描いた。国王に気に入られてフェリペ4世付きの宮廷画家となり、以後30数年、国王や王女をはじめ、宮廷の人々の肖像画、王宮や離宮を飾るための絵画を描いた。
美術愛好家であったフェリペ4世は、ベラスケスを厚遇し、画家のアトリエにもしばしば出入りしていたという。当時、画家という職業には「職人」としての地位しか認められなかったが、フェリペ4世は晩年のベラスケスに宮廷装飾の責任者を命じ、貴族、王の側近としての地位を与えていた。
ベラスケスの作品では、画面に近づいて見ると、素早い筆の運びで荒々しく描かれたタッチにしか見えないものが、少し離れたところから眺めると、写実的な衣服のひだに見える。このような、近代の印象派にも通じる油彩画の卓越した技法が、マネらの近代の画家がベラスケスを高く評価したゆえんである。
1628には、スペイン領ネーデルラント総督のイサベル・クララ・エウヘニアから外交官として派遣されてきたピーテル・パウル・ルーベンスと出会い、親交を結んだ。この年から翌年にかけて、「バッカスの勝利」を描いている。
1629、美術品収集や絵画の修業などのためにイタリアへの旅行が許される。イタリアへ向かう船の中でオランダ独立戦争の英雄であったアンブロジオ・スピノラと同乗することとなり、親交を結んだ。イタリアではヴェネツィアやフェラーラ、ローマに滞在し、1631年にスペインへと戻った。
帰国後、1634年から1635年にかけて、新しく建設されたブエン・レティーロ離宮の「諸王国の間」に飾る絵の制作を依頼され、すでに故人となっていたスピノラ将軍をしのんで「ブレダの開城」を制作。他にも1637年には「バリェーカスの少年」、1644年には「エル・プリーモ」や「セバスティアン・デ・モーラ」など多くの作品を制作し、役人としても順調に昇進していった。
1648年には2回目のイタリア旅行に出発し、1651年まで同地に滞在した。各地で王の代理として美術品の収集を行うかたわら、「ヴィラ・メディチの庭園」、「鏡のヴィーナス」や「教皇インノケンティウス10世」などの傑作を制作している。
1651年に帰国すると、1652には王宮の鍵をすべて預かる王宮配室長という重職につくようになり、役人としても多忙となる。一方で、1656には「ラス・メニーナス」を制作し、1657年には「織女たち」、1659年には絶筆となる「マルガリータ王女」など、この時期においても実力は衰えず、大作を完成させていった。1660にはフェリペの娘であるマリー・テレーズ・ドートリッシュとフランス国王ルイ14との婚儀の準備をとりしきるが、帰国後病に倒れ、166086にマドリードで61歳で死亡した。[4]
ベラスケスは寡作であり、2度のイタリア旅行や公務での国内出張を除いてはほとんど王宮内ですごした上、画家としてのほとんどの期間を宮廷画家として過ごしたためにその作品のほとんどが門外不出とされ[5]21世紀の現在でもおよそ120点の作品のうち3分の1がマドリードにあるプラド美術館の所蔵となっている[6]
l  代表作[編集]
『ブレダの開城』[編集]
ブレダの開城 1634-1635 プラド美術館
ブレダの開城』は、王の離宮の「諸王国の間」という大ホールを飾るために描かれた戦勝画。1625ネーデルラント南部の要塞ブレダにおけるスペイン軍の戦勝を記念して制作されたもので、敗れたブレダ守備隊の指揮官ユスティヌス・ファン・ナッサウ(オラニエ公ウィレム1の庶子)が、勝者であるスペイン側の総司令官アンブロジオ・スピノラに城門の鍵を渡そうとする場面が描かれている。
この種の戦勝画では敗軍の将は地面に膝をつき、勝者はそれを馬上から見下ろすという構図が普通であったが、この『ブレダの開城』では、敗軍の将スティヌスと勝者スピノラは同じ地面に対等の位置で立っている。温和な表情のスピノラは、まるで長年の友人に対するように敗者ユスティヌスの肩に手を置いている(ちなみに両者は1601年にニューポールトで対戦したこともある)。スピノラの傍らに大きく描かれた馬は、彼が敗者に敬意を表するためにわざわざ馬から下りたことを示している。このような、勝者側の寛大さを二重三重に強調した表現は、敗者に名誉ある撤退を許したスペインの騎士道精神の勝利を表したものといわれている。

『教皇インノケンティウス10世』[編集]
《教皇インノケンティウス10世》1650年、 ローマ、ドーリア・パンフィーリ画廊蔵
1649、ベラスケスは2度目のイタリア旅行に出かけ、ローマに2年ほど滞在している。この間に描かれた教皇インノケンティウス10の肖像は、カトリックの最高位にある聖職者の肖像というよりは、神経質で狡猾そうな一人の老人の肖像のように見える。国王、教皇から道化師まで、どのようなモデルをも冷徹に見つめ、人物の内面まで表現する筆力はベラスケスの特長である。
椅子に座るモデルの膝から上の部分が、画面の中心に大きく描かれている。モデルの背後は緞帳により完全に閉ざされている。これにより画面のほとんどはこの緞帳か教皇が身に着けた服飾、すなわちなんらかの繊維製品により占められている。それ以外の部分には椅子の木製あるいは金属の部分と、衣装から覗くモデルの顔と手が描かれている。人物像の周囲の余白はほとんどない。特にラファエロが描いた教皇レオ10世の肖像に見られたような、侍者など他の人物の姿や小道具は描かれていない。わずかに持物として左手の紙片が確認できる。この構図により鑑賞者の視線は、画面の大部分を占める布地の色彩と質感、あるいは頭部の再現的描写の観察へといざなわれる。
色彩に関してはまず、緞帳、帽子、上着、椅子のカバーに見られる赤が支配的である。その次に広い面積を占めるのが白で、シャツと下衣に認められる。赤と白が画面のほとんどを占める中で、顔と手の肌色、椅子の金属部分の金がアクセントとなっている。
後にフランシス・ベーコンがこの肖像画をモチーフにした一連の作品を制作したことでも知られている。


『鏡のヴィーナス』[編集]
鏡の前のヴィーナス(1648-51)ナショナルギャラリー 1650年頃 ロンドン、ナショナルギャラリー
詳細は「鏡のヴィーナス」を参照
上記『教皇インノケンティウス10世』と同じ頃に描かれたもので、カトリックの伝統の強い当時のスペインでは珍しい裸婦像である。1914年、暴漢によって背中から尻に渡る7箇所がナイフで傷つけられた。現在もかすかに修復の痕が見える。

『ラス・メニーナス』(女官たち)[編集]
ラス・メニーナス(女官たち) 1656 プラド美術館
詳細は「ラス・メニーナス」を参照
フェリペ4の王女マルガリータを中心に侍女、当時の宮廷に仕えていた矮人(わいじん)などが描かれ、画面向かって左には巨大なキャンバスの前でまさに制作中のベラスケス自身の姿が誇らしげに描かれている。中心の王女マルガリータを含め、画中の人物は鑑賞者の方へ視線を向けており、何かに気付いて一瞬、動作を止めたようなポーズで描かれている。その「何か」は画面奥の壁に描き表された鏡に暗示されている。この小さな鏡にぼんやりと映るのは国王フェリペ4世夫妻の姿であり、この絵の鑑賞者の位置に立って画中の人物たちを眺めているのは実は国王その人である。この絵は、国王の夏の執務所の私室に掛けられていたという。画中のベラスケスの黒い衣服の胸には赤い十字の紋章が描かれている。これは、サンティアゴ騎士団の紋章で、ベラスケスが国王の特段のはからいで同騎士団への加入を果たし、貴族に列した1659年(死の前年)に描き加えられたものである。

近年の発見[編集]
2010年には『紳士の肖像』が新しく発見された。この作品は2011年にロンドンでオークションにかけられた。[7]
l  参照[編集]
(1) ^ 「新潮 世界美術事典」pp1323-1324 新潮社 昭和60220日発行
(2) ^ 大高保二郎『ベラスケス』(岩波新書、2018年)p237Otaka, Yasujiro (20009). “An Aspiration Sealed”. Special Issue: Art History and the Jew. Studies in Western Art. 2007128日閲覧。
(3) ^ SAMUEL, EDGAR (17 June 1996). “The Jewish ancestry of Velasquez”. Jewish Historical Studies 35: 27–32. doi:10.2307/29779978.   Ingram, Kevin (1999)."Diego Velázquez's Secret History", Boletín del Museo del Prado, XVII (35): 69–85.  Newitt, Malyn (2009). Portugal in European and World History. London: Reaktion Books. p. 98. 9781861895196
(4) ^ 「スペイン文化事典」pp122-123 川成洋・坂東省次編 丸善 平成23131日発行
(5) ^ 『新訂増補 スペイン・ポルトガルを知る事典』pp312-314 平凡社 20011024日新訂増補第1
(6) ^ 大高『ベラスケス』(2018年)p126
(7) ^ http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2844558/8176258 1年前に発見されたベラスケスの絵画、3.7億円で落札 英国




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