介入のとき コフィ・アナン回顧録  Kofi Annan  2019.10.4.


2019.10.4.  介入のとき コフィ・アナン回顧録
Interventions ~ A Life in War and Peace  2012

著者 
Kofi Annan 1938年ガーナ生まれ。9706年第7代国連事務総長。初めて国連職員から選出され、さらにサハラ以南アフリカ出身の初の事務総長。01年国連とともにノーベル平和賞受賞
Nader Mousavizadehネイダー・ムザヴィザドゥ 199703年国連事務総長室勤務。現在はオクスフォード・アナリティカ社のCEO

訳者 白戸純 早大政経学部政治学科卒。オランダライデン大国際公法修士課程修了。98年より、国連高等弁務官事務所で保護・法務担当として、トルコ、旧ユーゴ、ロシア、スーダン、シリア等に勤務

発行日             2016.11.25. 第1刷発行
発行所             岩波書店

「同時代におけるもっとも偉大なグローバルリーダー」(アマルティア・セン)と評価される第7代国連事務総長コフィ・アナンの自伝。国際政治を揺るがす出来事に直面し、いかに事態に介入したのかを臨場感溢れるタッチで描く。ガーナでの子供時代から始まる上巻は、冷戦後に勃発したソマリア、ルワンダ、ボスニア、コソボ、東チモール、ケニアなどの紛争への困難な介入を辿る
下巻はミレニアム開発目標の創設から、9.11テロ事件、アフガン戦争、そして米国と真っ向から対立したイラク戦争に至るまでの激動の軌跡。大国や独裁者と粘り強く渡り合い、人々のための国連を目指した姿が浮かび上がる。マイケル・イグナティエフによる解説付き



まえがき
グローバル・コミュニティとは何を意味するのか。統合と分裂を同時に経験する世界共通の運命に対し我々はどのような責任があるのか。どのようにその責任を果たすことができるのか。成長と開発、平等と機会、人権と安全保障、それぞれをうまく釣り合わせるにはどうすればいいか。国連は、国家やイデオロギーの枠を超えたグローバリゼーションやテクノロジーの力によって世界が転換するなかにおいて、今も意義ある存在なのか
私は、HIV/エイズとの闘い、女子教育、アフリカの開発からインド洋の津波への対応など多様な問題に向けて変化を起こす行動を試みた。人権擁護と法の支配を推進し、主権は権利と責任両方についての問題だと主張した。行動を起こす国連、21世紀の課題に応えていく国連、国家の利益を擁護するよりもさらに大きな目的に導かれる国連を作ろうとした
介入の軌跡を辿ることで、私が国際社会を取り巻く主要な挑戦に対して、どのように対峙したかを評価する指針を示そうとした
人道的介入は、道徳的かつ戦略的に避けられない手段であるが、イラクのように、狭い目的のために国際的な正統性も結果についての見通しもないまま行われる軍事的行動は、対象となっている邪悪と同じくらい破壊的になり得る、という確信を持っている
世界の潮流となりつつある「保護する責任」とは、基本的人権を保護するための普遍的原則の中に萌芽を見つけたもので、平和の名目で戦争を始めるためのライセンスではない
国連を、より一層統一された世界、全ての国やコミュニティ、信仰、そして組織が地球市民としての責任を奉ずる場所へと変えるために、新しい構成員たちと接触

序章 ピースキーパー、ピースメーカー
イラクでの大量破壊兵器の確たる証拠を集めようと必死の米国だが、当時世界の大半にとって、世界平和への脅威の源はサダムではなく、怒りと復讐心に燃えた米国だった
長い間国連は国家とその代表の特権であると考えられて来たが、私は国連を、国連が仕える対象である人々の近くに持ってこようとした。我々の活動の中心に11人の人間を置こうとした。国連は人間の安全保障のための介入を行う機関でなければならない

第1章          独立――アフリカでの子供時代
父親は、ヨーロッパのある貿易会社ユニリーバの子会社のガーナ人重役で、フリーメーソン会員。英国国教会の敬虔な信者。世襲の族長。5人の子どもにアフリカの名前を付けることで、子供たちに誇り高い独立したアフリカの将来をかけた
1957年にはガーナも自由な共和国としてアフリカで最初に独立を達成した国家となる
ガーナでは、蚊による黄熱病とマラリアが白人を追い出していたので、非植民地化のプロセスは、白人対黒人ではなく、国内の急進派と慎重派という異なるグループ内の闘争という形で起こる
2次大戦で英国軍に参加して戦った復員兵が、ともに戦った英軍兵士がアフリカで多大の恩賞を授かったのに対しアフリカ人が差別されているのを目の当たりにして不満を爆発させたところから独立闘争が始まる
アシャンティ国王を囲むエリート層を中心として円滑に独立を一歩一歩進めていこうとする慎重派に対し、一旦はその先頭に立っていたンクルマが率いる急進派が急速に支持を伸ばし独立闘争をリード
元々アシャンティは、長年高いレベルの自治を維持し、ヨーロッパ人の商人や兵士との頻繁な交流がなかったため、他のガーナの部族と比べアフリカ人に対するヨーロッパ人の人種差別的な扱いへの偏見や推測を内面化していなかった。1902年王国が降伏して植民地に併合されるまで、沿岸の部族よりまるまる1世代長く英国軍と戦った
対話と交渉による政治的説得と、それを通じてより大きな大義に貢献するという伝統は、ガーナ社会の特徴であり、それによって平和的共存が保たれてきた
学生時代から独立闘争に関係、ガーナ学生国民連合に加盟して、その代表者として西アフリカ全土から来た会議で議論を戦わしたが、その時の縁でミネソタのマカレスター大学に留学。WHOに就職した直後、父の手がまわってユニリバーから勧誘を受けるが、ナイジェリアで働く現地採用という身分に反発して拒否
アフリカの将来に貢献したという思いが強く、WHO3年過ごした後、65年に同じ国連機関でアフリカの地域統合と経済協力を進めるための組織であるアフリカ経済委員会ECAに異動。当時は63年に設立されたアフリカ統一機構OAUの加盟国が急増、独立国や独立運動の指導者や闘士がアジスアベバに来て、大陸全土が解放されるべく尽力していた
アフリカの発展の障碍はエネルギーとインフラで、40年も前に明確に認識されていたにもかかわらず、ガバナンスの誤りに払った代償はあまりにも大きい
74MITのスローン奨学生として修士号を取得して、ガーナ観光振興会社の責任者となるが、軍事クーデターによる支配下にあって汚職と官僚主義的不効率がはびこってしまったガーナでは先行きの見通しが立たず、国連機関に戻ることを決断

第2章          守るべき誓約――ソマリア、ルワンダ、ボスニア、そして内戦が多発する世界での平和維持の試み
1993年国連平和維持局PKO担当局長としてソマリア視察へ ⇒ 第2次国連ソマリア活動が内戦に引きずり込まれて国連による平和維持活動の威信を失いかけていた
国連平和維持活動は73年の第4次中東戦争後に設立され、エジプトとイスラエルの間の休戦ライン「砂漠に引かれた線」についての両陣営の信頼醸成が目的で、多国籍軍として雑多な問題を抱え難かしい仕事ではあったが、基本的には参加者にとって安全で平和なミッションだった
93年のソマリアは、暴力的かつ不安定な状況で平和維持部隊が活躍する環境ではなく、全土に広がる戦闘に直接巻き込まれた
92年以降派遣が急増、94年初には合計8万人の平和維持部隊要員が世界17カ国に配置、しかも内戦状態にある国々が対象
国連にとって困難に直面した最初の挑戦が93年のソマリアでの平和維持活動の崩壊、続いて維持部隊の眼前でジェノサイドを許した94年のルワンダ、第3が国連の「安全地域」だったはずのボスニアのスレブレニツァでの8000人のムスリム人男性と少年の虐殺
これらの惨事は、平和維持の手段の決定的な誤用に端を発しているが、そもそもの根源は平和維持の創設時に遡る ⇒ 第2代事務総長のハマーショルドは、冷戦下にあって脱植民地を中心とした新たな地域紛争が超大国の対立に影響して世界規模の紛争にエスカレートする危険を回避するため、常任理事国以外で構成された国際部隊を派遣して旧交戦者間に信頼を醸成し、停戦を恒久化しようとして平和維持の原則を成文化
88年ソ連の崩壊とともに、安保理は機能を回復したこともあって、それまで全部で12しかなかった平和維持活動がその後の4年で一気に10の活動を展開することになり、92年以降は湾岸戦争の砂漠の嵐作戦の結果もあって活動が爆発的に拡大
90年のイラクのクウェート侵攻に対応するため、安保理が全会一致で全面的な武力行使の権限を委託する決議を採択、91年のクウェート解放に至る作戦には34カ国95万人が参加し、創設目的にかなう責務を果たした
その直後ガリ事務総長は『平和への課題』の中で、安保理には世界各地の内戦に対応する義務があると強調、平和維持活動の環境が決定的に転換。その頃PKO局に次長に異動
国連が独自の、国連本部によって統制される部隊を持つというアイディアは加盟国には受け入れられなかったため、平和維持活動は3本の軸を持つ体制で活動 ⇒ 安保理は現場での活動を承認する権限を持ち、国連事務局は活動の毎日のメネジメントを監督、部隊の派遣国は派遣部隊の最終的な指揮権を保持
内戦は、国対国の戦争以上に流動的で不安定、複雑な性格と交戦団体の数も遥かに多く、非正規軍の関与によって交戦者が不明確であり、統一した指示系統を持たない平和維持軍にとって対処は難しい
l ソマリアでは91年大統領が権力の座を追われ、部族間の紛争が激化、軍閥とギャングの集団によるミニ紛争が各所で頻発。国連は人道援助機関を通じて援助物資を供給していたが、人口の半数以上が深刻な栄養不良に瀕し、うち1/3は死のリスクにあると推定。92年デ=クエヤル事務総長の呼び掛けで停戦合意が実現、国連ソマリア活動が創設され、少人数の非武装の停戦監視団と人道物資運搬を援護する部隊が派遣された
92年武装集団により赤十字職員が殺害され一気に状況が悪化、支援物資の略奪が蔓延、日々増加する餓死者に緊急対応として安保理は武力行使機能付与を決議。ブッシュが率先して部隊を派遣、食糧提供路の確保により人命救助に一部成功したが、戦闘は収まらず、米軍撤退後は現地勢力の武装解除も進まず、逆に米国は軍閥トップの拘束を狙って特殊部隊を派遣したが壊滅的被害を受け、クリントンはソマリアからの撤退を発表、平和維持システムの機能障碍的性質を露呈、ハイチでも現地犯罪集団からの攻撃にあって活動が頓挫
l ルワンダではフランスが関与、ソマリアなどとバーターで米露の支持を取り付け、完全な平和協定が締結されていると見做して、小規模の軽武装部隊の派遣に留まったため、全国的に組織的かつ集中的に広がる暴力行為に歯止めがきかず、25万人という史上最大規模の難民が隣国タンザニアに流出、100日間で80万人の虐殺を傍観するだけだった
l ボスニアでは92年状況が悪化。ユーゴの解体とクロアチアでの短い内戦の後、ボスニアのムスリム系とクロアチア系住民による独立がEC加盟諸国の大半によって承認された後、戦闘が全面戦争に発展。セルビア系民兵による虐殺と略奪・破壊に対し、国連の対応が強く求められたが、安保理は戦闘参加を否定し続け、軽装備だけの平和維持要員では如何ともし難い。さらには安保理内部でも部隊派遣中の英仏と派兵せずに空爆を主張する米とが対立。安保理が動かないことを見透かしたかのように、ボスニア・セルビア軍のムラジッチは国連によって「安全地帯」と指定されたスレブレニツァを攻略し、ボスニア・ムスリムの何千という若い男性と少年を連行・処刑。未だに正確な人数は未確定。最終は欧州諸国で構成された緊急対応部隊によって制圧。漸く安保理も腹を固めて戦争を選択、セルビア系の力を削ぐことで和平交渉が始まり、オハイオ州でのデイトン合意が成立し、矛盾や対立を抱えながらも以後20年の平和が続いている
l 1998年国連平和維持活動改革に着手。まずは近年の失敗を認めること。ボスニアとルワンダでの失敗を教訓とし、平和維持活動を冷戦期の国家間紛争に限定して構想された比較的単純な手段から、冷戦後の代表的な紛争形態である複雑な内戦を解決するための、価値ある手段へと改めた
あくまで戦争の趨勢を決めるのは平和維持活動ではなく、戦争当事者の関与と現場での力の均衡に影響を与える国際社会の関与であり、国際社会が現場で何が起こっているか十分理解しながらも事態を黙認し邪悪と共謀するのを放置せずに、決然として介入するべきである。内戦状態での邪悪は、紛争指導者の意思によって生じるが、そのような邪悪を国際社会は、必要とあれば武力をもって取り締まり、立ち向かい、くい止めなくてはならない。にも拘らず私が事務総長の任にあった間、国際社会はそのような目的での武力行使は国連憲章上許されないという声が多かったため、事務総長としての最大の課題は、重大な人権侵害に際しての介入の正統性と必要性についての理解を新たに広めることだった

第3章          国家主権と人権――コソボ、東チモール、ダルフール、そして保護する責任
l 99年東チモールでは独立のための国連主体の住民投票の後、インドネシア軍の民兵による暴力が吹き荒れ、ジェノサイドの危険に晒された
投票結果は独立支持が80%を超えたが、投票前に投票結果の受け入れを表明していた大統領は動かず。暴力の蔓延を止めるための介入部隊派遣についてオーストラリアにリーダーシップを取って欲しいと依頼し了解を取ったが、アメリカを始め他の諸国はインドネシアとの関係悪化を懸念して尻込み
ポルトガルの旧植民地だったが、1976年流血の惨事を伴った邪悪な作戦によってインドネシアに併合され、弾圧と搾取が続く。国連はインドネシアの主権を承認せず、ポルトガルは東チモールの自決を国際社会に訴え続けた
インドネシア軍をバックに持つ東チモールの民兵が一般市民を攻撃することを明白にしていたので、民兵を厳しい監視下に置くことを大統領に要求したが、軍の影響下にある大統領は要求を無視
選挙は平穏に行われたが、結果を知って民兵が蛮行と殺戮を始め、東チモールの大部分が廃墟と化す。国連が勝ち取った住民投票が結果としてインドネシア軍の殺戮に利用された
国際社会の圧力をかけ、ようやくインドネシア政府も国連の介入に同意、多国籍軍の派遣と国連東チモール暫定行政機構が創設され、02年独立を達成
l 98年コソボ危機に直面。少数民族の自治の要求に対し、深刻な人権侵害によって罰せられる事態が発生。バルカンにおける新たな略奪者ミロシェヴィッチによる事態発生として国連・欧米諸国・米国にとって特別な存在。ミロシェヴィッチは1389年セルビアがオスマントルコに敗れて以来500年にわたって支配されてきたセルビア人の怨念を使って民族対立を煽りたて、ボスニアと同様に少数民族のアルバニア系住民を迫害、蛮行を繰り返す
安保理の議題として挙げたが、早期行動を要求する欧州・米国に対しロシアが武力行使に抵抗
97年に事務総長に就任していた私は、国連がそれまで国家の権利を主張してきたのと同様に、個人の権利も主張しなくてはならないとし、重大な人権侵害や人道に反する罪に対応する能力を持っていることを示すべきと主張
1国内における重篤な人権侵害が、隣国による軍事介入を惹起したケースの代表例は3
1971年インドの介入が東パキスタンの内戦を終わらせ、バングラデッシュを独立に導く
1978年ベトナムがカンボジアに介入し、クメール・ルージュのジェノサイド支配を終わらせた
1979年タンザニアがウガンダのアミン政権の残虐な独裁政権打倒のための介入を実施
3件はいずれも、介入した諸国が自国への難民流入を国際法上介入を正統化する理由として挙げた。世界がそれを支持した理由は、介入を受けた政権の性質で、これらの政権下での虐殺や弾圧に対して強制力を伴う介入が間違っていなかったことは、歴史が証明している。人々が危機に瀕した時、私たちは声を上げる義務がある。他の誰かにその責任を押し付けることはできない
国連によるユーゴ軍のコソボからの撤退勧告決議を無視したミロシェヴィッチに対し、NATOは軍事行動を決断。安保理の承認なしに軍事行動を開始することは国連憲章で禁じられているが、同時に明白だったのはミロシェヴィッチが国際社会に軍事行動以外の選択肢を与えなかったことで、国連が単なる平和主義を主張する組織ではないことを明白に認識する姿勢を取る。これこそルワンダやボスニアでの経験から学んだこと
米国国務長官のオルブライトは、安保理の承認なしに軍事力を行使することが国連憲章違反という点に強硬に反対
NATOによる空爆で、残虐行為がエスカレートされたが、旧ユーゴ戦犯法廷がミロシェヴィッチを人道に対する罪で起訴したのを契機に、国際社会からの要求を受け入れてセルビアでの攻撃を中止、一気に解決に向かった
l 国連による介入が成功したか否かは、戦争や制裁の結果ではなく、人命救助に利することがあったかによって判断されるべき ⇒ 紛争が発展しそうな明確な対立に対応して、外交努力を継続的かつ献身的に行うことが重要(=予防介入の哲学)
ナイジェリアとカメルーン双方が領有権を主張しているバカシ半島は、両国間に長年にわたって紛争が起こりうる危機を孕んでいたが、外交努力と国連が仲介した対話の結果、両国間の平和と安定が維持されてきた好例
軍事力が行使される可能性があることは国家が人権侵害を行うことへの抑止力として働く
世界のあらゆる国の人々は、国連の人道的介入についての姿勢、つまり国連が国家権力に屈せず、人命を救い、人権を擁護することに貢献しているか否かによって、国連が信頼に足るかを判断する
2011年主権と介入について、加盟国は個人的及び集団的尊厳の原則を採択。「保護する責任」論は、人道的介入についての議論をさらに進めるための刷新的な考え
l 03年ダルフール紛争は、保護する責任というドクトリンが広がり始めた矢先に文民の保護が実践の場で崩壊しかけた史上最大規模かつ非常に長期化した失敗例となる
03年無名の反乱集団が空港を襲撃を契機に、法の支配やスーダン政府による保護が不在の中、それまでも国内の各所で見られた治安の悪化が一気に噴出。これに対し政府は現地の民兵や武装組織・部族を使って戦わせようとし、その中心となったのがアラブ系部族の武装牧畜民で、非アラブ系住民の虐殺に出る。危機的状況への警告は国連にも届くが、安保理は他の地域でのより大規模の紛争に手が一杯で、局地的な紛争には無関心。スーダン政府に影響力のある国家元首などに働きかけたが、当の大統領は国内は平穏だと主張するばかり
加えて20年以上も続いていた南北スーダンの内戦に解決の端緒が見えてきたところであり、ダルフールの問題解決が急務
04年米下院がダルフール紛争をジェノサイドと宣言する決議を行ったが、ジェノサイドを構成するか否かは微妙であり、案の定安保理の議論は、ダルフール紛争の定義に重心が移ってしまい、何らの具体的行動を起こすに至らず ⇒ 国際部隊を派遣するまで4年の議論を経た挙句、住民を大規模な人権侵害から保護するという根本的な挑戦に応えることにはならなかった
保護する責任は、世界の人々の命と権利を担保するために非常に広範囲の活動、介入の異なる段階を含むもので、緊急軍事介入が必要な場合もあるが、それだけでは不十分。最終的には、長期間にわたる文民保護が可能になるためには、人々が生きる環境に存在する平和的構造が、邪悪を行う破壊的な行動に対してどれだけ安定と強健さを保つことができるかにかかっている。「保護する責任」の正しい定義は、人命と人権を守るための、主に国内での継続的な体制を確保することであり、世界人権宣言に依拠し、事態改善のために介入する能力のあるグローバル・パワーにも責任を課す

第4章          人々のための国連――グローバルガバナンス改革と法の支配の回復
国連は何のために存在するのか ⇒ 誰と戦うのか
憲章の冒頭に「われら人民」と謳い、人々の名において設立されながら、国家の自己保全に焦点を当てる方向に流れていた
01年国連と私がノーベル平和賞受賞 ⇒ 国連を再生させ、世界政治における地位を取り戻そうという試みを評価する重大な出来事。ノーベル委員会が評価したのは、世界平和と安全保障の前進において国連が中心的な役割を果たしたことの信頼性、国連の人権とHIV/エイズ対策の分野での新たな取り組み、国家主権を権利であると同時に責任でもあると再定義しようとする我々の努力、主権は国家がその違反行為を隠すための盾として使われることはできないとの主張などなど
96年独裁的で秘密主義のガリ事務総長とバルカンで強硬姿勢を取ろうとした米国の対立が深刻となり、それまで2期務めていた事務総長の2期目の芽がなくなった際、米国の支持を受けて。国連キャリアスタッフとしては初めて事務総長に就任
年間予算約100億ドルと44千のスタッフを監督しつつ、安保理を先導し、世界各地での国連のあらゆる活動について総体的なリーダーシップを発揮しつつ、国連を構成する専門機関と国連に連携する組織とが適切に協調して活動しているかを確認する大仕事
国連のパワー構造における最大の本質的問題は、安保理の構成 ⇒ 21世紀にその正統性を維持するには、意義ある行動をとるだけでなく、国際社会をバランスよく代表していなくてはならないと考えるが、再構成の提案は総論賛成各論反対に遭い、対立を煽るだけに終わる
9.11以降世界が瀕する危機に対して加盟国が異なる見方をすることが先鋭化するとともに、加盟国は選択的かつ散発的に主要問題に関与
03年後半から改革の計画に着手
すべての国が法の支配を熱望するべき政治の理想として認めていながら、それが何を意味するかについての理解が国によって多様 ⇒ 法の支配は法の適用に公正さを要求するもので、国際社会で国家間に法の支配を適用するのは複雑故に、02年ジェノサイド、人道に対する罪、戦争犯罪について個人を訴追するために国際刑事裁判所ICCが設立されたのは国際社会における法の支配の大きな勝利であり、根拠となったローマ規定は国連加盟国の2/3以上が批准(11年現在)

第5章          アフリカの運命――戦争と平和

l 1998年のナイジェリアはアバチャ将軍支配下の軍事政権が5年続き、すべての政党を非合法化して秘密警察の下残虐行為が横溢していたが、アバチャの死去で民主化の機会が訪れ、私に支援を要請してきた。民主派勢力との橋渡しをして、翌年大統領選挙が行われ、改革派のアバサンジョが勝利、新たな民主的システムは今も健在
l アフリカの民主主義の変容には、武力や1人の独裁者の支配ではなく、法の支配を構築する良質なガバナンスが必要であることは、ジンバブエ(旧南ローデシア)のムガベ政権がそれを実証している。1965年少数派の白人の政府が英国に対し一方的に独立を宣言したが、70年ムガベ率いる武装勢力が蜂起、80年に勝利して全権大統領に就任、未だにその地位にある。革命の英雄という成果によって尊敬を集め、ナミビアや南ア、モザンビークなどの解放運動の指導者を直接支援していたこともあって、残酷な圧制を黙認。特にムガベの非道が権力掌握後20年経って初めて露見。1国の運命を1人の人間の価値観に委ねることの危険性を示す好例となった
個人支配をアフリカの問題解決策として支持する根拠は、支配者の力量にあるのではなく、人々が自らの地位や生命を保持するために、独裁者に追従するところにあるが、時の経過とともに個人支配は政治文化となり、独裁こそアフリカが課題を処理するのに最高のシステムであるという迎合が、アフリカ内外で長年受け入れられてきた
しかし、アフリカの問題は常に制度の欠如に由来。制度的な資源の欠如。リーダーシップとは制度を整えることで、多様な政府機関と独立した市民社会を構築するという困難で永続的な仕事は、アフリカ問題の解決に不可欠
1885年のベルリン会議において、植民地勢力はアフリカの王国、国やコミュニティを分断し、恣意的に統合し、全く無意味にアフリカを分割した。さらに、植民地システムは現地における分裂を融和するのではなく、その分裂を利用するような法制度を導入して、植民地政府の力を有利にするように作られていた。植民地主義が残した構造は、独立後のアフリカが辿った政治を条件づけた。アフリカの統治システムは外部から押し付けられた構造が生んだ複雑性から発している
60年代に独立したアフリカ諸国が継承したのが、恣意的な国境線と分裂を促進する様な制度と法体系であり、その結果植民地政策によって引かれた国境線の中で真の国民国家を作ろうという試みは、アフリカの指導者に、分裂を覆い隠すために、個人崇拝を押し出す機会を与えた
独立闘争の背景には様々な利権が絡んでいたため、独立後の政治に禍根を残す。非植民地化というゴールの下に統一されていた革命運動は、1党支配にその地位を譲り、社会内部の分裂から目を背け、個人支配を正当化(ママ、ほとんどが「正統化」の訳を使っている)した
民主主義は西洋の概念であってアフリカ起源ではなく、アフリカの伝統に深く根差した概念は多元主義や集団的意思決定であり、伝統的な論争解決の方法は徹底的な話し合いによるコンセンサスの実現で、集合的な相互依存や社会の成員皆が等しくあることを謳う哲学こそがアフリカの人道主義の核のはず
近年アフリカにおけるガバナンスは大きく前進。ガーナは3度の自由選挙を実施、いずれも平和裏に権力移譲が行われており、ミレニアム開発目標の貧困と飢餓部門で目標を達成した唯一の国となったことは偶然ではないが、完全な民主主義体制は8カ国のみ(09年現在)。アフリカの歴史は、リーダーシップこそがアフリカに苦境をもたらす究極的な原因であり、アフリカにおけるリーダーシップとガバナンスを破壊してきたのは軍事政権だったことを示している
アフリカを破壊したすべての責任を植民地主義に負わせるのは、アフリカ人にとって無責任でさえあり、アフリカ開発の失敗も、必ずしも経済的障碍が問題の中心ではない。問題の核心はアフリカのリーダーシップと制度にある。1957年同時に独立したガーナとマレーシアのその後を見比べると1人当たり国民所得に13倍の格差ができたが、軍事クーデタに健全な政治制度の発展プロセスを阻害された国と、強固な政治体制の基礎となる議会政治の枠組みを構築しその下で成功裏に包括的な経済成長が可能となった国との違いは明白
もっと厳しく言えば、アフリカにおける失敗と悲劇は、アフリカ人とアフリカの指導者の失敗に、他の要因と同じく起因する
2002年正式に発足したアフリカ連合AUでは、軍事クーデタや憲法に依らない政権交代で権力を奪取した政府は加盟国になることはできないという原則が制度化された ⇒ トーゴ、モーリタニア、コモロ、マダガスカル、ニジェール、マリ、ギニアで発生したクーデタの結果、これらの国々のAU加盟は即刻停止、外交的孤立やその他の制裁が導入
1960年の独立以来10件のクーデタと未遂に苦しめられたモーリタニアですら、軍事支配の抑止に効果を現しつつあるのは朗報
l 2008年ケニアのキバキ政権下で起こった部族間抗争がエスカレート。それまでアフリカの成功国の1つという評価に対し、現実は植民地時代の白人の私利私欲追求を真似た腐敗行為が横行。選挙結果を歪曲し、反対勢力を暴力で制圧しようとした。虐殺はルワンダやボスニアと同じで、国民の大多数が絶対的な貧困状態にあり、42の部族集団からなる国は分裂し内戦の瀬戸際だった ⇒ AUの下に元国家元首一行がケニアに入り、「アフリカ賢人パネル」という仲介プロセスが発足、現地の2大勢力の指導者を対峙させ、最終的に連立政権樹立に合意。合意までに時間がかかり、その間も流血は続いたが、信頼が回復され、最悪の事態を回避することができた。全ての関係者の積極的かつ持続的な関与が成功に導いた。仲介努力の結果生まれた革新的なアイディアが2つ。いずれも08年に発足した1つは「選挙後の暴力行為についての真相究明委員会」であり、もう1つが「真相究明、正義と和解委員会」。いずれもICCと情報を共有し、ケニアの特別国家法定が裁ききれなかった3人の大臣を含む6人の高官を暴力に責任があるとしてICCが公開
l ケニアが大きなターニングポイントの象徴となる。それはアフリカ全土のためのビジョンに基づいてアフリカ内部で始まり大陸全土に及ぶという変化であり、良いガバナンスのための制度を通じた平和と安定ある将来、人権の尊重、責任所在の明らかなリーダーシップ、そして何より法の支配がこのビジョンの中心
アフリカは今変化の途上にある。近年の強い経済成長とともに、機会のある場所であると正しく認識され、投資家を呼び込み、アフリカの人々の大望を実現させている
一層の努力が必要なのが農業分野であり、アフリカ経済を停滞させてきた二大要因であるインフラとエネルギー資源の配分にも焦点を当てなければならないし、さらには経済成長と特に若者の雇用はセットとして考えるべき
ただ、2010年ケニアでの新憲法公布の祝賀に、直前にICCに起訴されていたスーダンのアル=バシール大統領が政府の招待で参加しているのを見て、アフリカが今日抱える危険を示唆していると感じるとともに、未だ多くの課題が山積したままで、後退することさえ常にあり得るのだと思った

第6章          人間の安全保障の再定義――貧困撲滅とミレニアム開発目標
97年エイズの厄災が戦争を遥かに凌駕する死者を生み出し、特に若い女性に広がり、
緊急の対策が必要
60年代と70年代に、国連が最初の「開発20か年計画」を立ち上げたが、先進諸国の関心と政治努力が集中したのは、貧困ではなく暴力の問題であり、軍事、政治、開発は異なる事案として扱われ、特に開発は後回しにされ続けた
国連の開発目標を一新するための新しいリーダーシップが必要で、民間セクターと公共セクターの双方を巻き込むよう働きかけ。民間セクターでは各種のNGOと接触
国際ビジネス界の支援も重要
国連内部の協力関係の構築も急務 ⇒ 32の基金、機関、プログラム、局、事務所によって分断・拡散されていたものをまとめるために国連開発グループを設置し、国連開発計画代表主導の下に途上国の経済支援を一本化
国連がミレニアムを記念して独自のイベントを実施したのが2000年の総会前に開催した147カ国が参加の特別サミットで、世界の貧困撲滅を目的に、計量可能で時間軸のあるターゲットを設けようと呼びかける ⇒ ミレニアム宣言に基づき、8項のミレニアム開発目標MDGsが打ち立てられた。飢餓と貧困の撲滅、普遍初等教育の達成、ジェーンダー平等と女性の地位向上、乳幼児死亡率の削減、妊産婦の健康改善、エイズなどの疾病の蔓延防止、環境の持続可能性の確保、開発のためのグローバル・パートナーシップの推進
02MDGsの資金調達のためのモンテレイコンセンサスができ、最貧国を救うために先進国がGDP0.7(当時は0.2%がやっと)を公式の開発援助とするための具体的な努力を行うと宣言したが、直前の9.11の結果世界の関心がイラクに向いてしまい、国際社会は分断に向かう
国際開発は長期的なテロとの戦いの重要な一部 ⇒ 開発の失敗と貧困は、結果としてテロを誘発するような不満を生み、開発なしには国は効果的な治安部隊を維持する能力を保つことができないにも拘らず、テロの亡霊に脅かされた世界では理解されないどころか、MDGsそのものへの言及すら拒否するようになった
05年スコットランドでのG8ではアフリカへの援助を2倍にするとの誓約が行われたが、実現に至っていない
最大の問題であるエイズについては、99年の安保理で議長国のアメリカが優先課題に取り上げ、01年にはケアプログラムの資金調達のためのグローバルファンドが設立され、ビル・ゲイツなどの動きを誘発、ブッシュも米大統領緊急プラン創設で応える。製薬会社も有効な抗レトロウィルス薬の価格引き下げ(途上国向けには1/100の価格で出荷)で対応。10年には初めてサハラ以南のアフリカで新しい感染者数が減少
目標は援助に終止符を打つことだが、被援助国がドナーに変わる転換点は貿易。途上国の経済的野望を妨げる国際通商規定を除外できないのは先進国のエゴであり失敗。特に先進国で農業を保護している補助金は、途上国の市場参入にとって有害
MDGsの中で目覚ましい進歩を遂げた領域は、12ドル以下で生活する人の数を半減するというターゲット。中国を中心とするアジア経済の急成長により達成目前まで来ている
だが、大半の目標はMDGsの終了年である2015年が近づいても達成不可能
新たなMDGsは、新しい脅威である国際麻薬取引、気候変動、世界経済危機などを勘案した上で、次のステップに向かうべき ⇒ これまでのMDGsから得た究極の教訓は、我々すべてに責任があるということ

第7章          世界の断層線――中東における平和構想
国連総会と人権委員会はイスラエルを非難する決議を無数に採択してきたが、イスラエルは国連が公平な立場を取っていないと信じ、米国が拒否権を行使して安保理が世界で最も重要な紛争の1つに関わることを阻害
両者の歩み寄りに寄与するために、イスラエルやユダヤ人に対し、国連総会決議181号こそがイスラエル国家の国際的な出征証明であることを機会あるごとに思い出させた。ベングリオンが誇らしげに読み上げたイスラエル独立宣言では国連の名が少なくとも7回挙がっている
レバノンは世界一複雑な社会。7590年の内戦が政治的宗派主義の廃絶と民兵の解散を意図したターイフ協定によって終結した後も、82年以来アラファトとPLOをベイルートから追放したイスラエルによる南レバノン占領は続き、それに対しシーア派の中心的なグループだったヒズボラがイランの強い支持を得て抵抗、レバノンを自国の歴史的領土と見做すシリアはレバノンの安全保障の事実上の擁護者としてレバノン政治に深く浸透、国境のゴラン高原占領に象徴されるイスラエル・シリア紛争がレバノンを舞台にしても演じられ、イスラエルがレバノンから撤退する最適な時期はシリアとの間の和平実現が大前提
2000年のクリントンとシリアのアサドの会談は、アメリカがイスラエル寄りの提案をしたため決裂
最終的に国連がイスラエルとレバノンの間に入って、2つの国連平和維持ミッションを派遣しイスラエル軍の撤退を迫る ⇒ 人為的に引いたブルーラインを国境線として両国が尊重するという言質を取り付け00年イスラエルの占領地からの撤退が完了
パレスチナ問題の早急な前進を望むイスラエルは、クリントンに働きかけて紛争のデリケートな問題を初めて話し合うためキャンプ・デーヴィッドでのアラファトとの会談を仲介させるが、アラファトは準備未了でPLOが和平に消極的との神話が形成される
米国のみが参加する和平構想の限界を露呈、年末には第2次インティファーダが勃発し、暴力が両国と和平プロセスを飲み込んでパレスチナ人の生活は破壊され、僅かに存在した両国間の信頼は死に絶えた
オルブライトが仲介に入ったが事態は動かず、私がイスラエルに直接乗り込み、国連を中心としてイスラエルとPLOにアメリカとエジプトを加えた和平会議が持たれ、クリントンが精力的に動いたが両者とも譲らず徒労に。クリントン以降米国にはパレスチナに早急に平和をもたらすことに強い関心を持つ大統領は登場していない
後任のブッシュは、暴力がそれまでの7年間に確固として構築してきたものを破壊するのを黙って見ていただけ ⇒ 私の提案をパウエルが飲んで、国連、EU、米露による「カルテット」で中東和平への国際戦略の案出・実行を訴える
2004年のアラファトの死後、穏健派のアッバースが議長となったが、06年にはハマスが議会の多数派を占め、パレスチナ自治政府の主要ドナーだった米国はハマスをテロリスト集団と見做していたため援助を断ち切ろうとするのを何とか抑えようと働きかける
レバノンのスンニ派の政治指導者でありベイルートの復興を実現させた元首相のハリリが暗殺 ⇒ レバノンへの関与を維持しようとしたシリアのアサドと対立、安保理がレバノンの主権と完全な政治的独立を決議した直後シリアとヒズボラ勢力による反シリア勢力へのテロが爆発、05年ハリリが爆死。国連レバノン特別法廷がヒズボラ構成員による犯罪と認定したが、レバノン政府の多数派をヒズボラが占めている現在、処分の履行は困難
暗殺が引き起こした国際的な怒りの反応とシーダー革命の中で行われた大規模デモに加えて米仏連合からの圧力もあって、シリアも軍事駐留が出来ないことを悟り、私の要請に応える形で05年シリアは完全撤退を表明。国連の技術的支援の下自由選挙を実施
すがのブッシュも私の尽力を称賛して電話してきたが、激しい反国連姿勢で知られるジョン・ボルトンを国連大使に任命したのは米国が放った最上級の皮肉の連発の1つであり、私と国連への支持をひとかけらも感じさせない決定だった
ヒズボラがレバノン政府の一部である限り、イスラエルとの紛争はぶり返し、レバノンの荒廃は進む
パレスチナとイスラエルの間では、二国家解決案だけが両者のニーズに対応できるものであり、手遅れになる前にこの悲劇的で辛い紛争を克服する手助けをする必要がある
未解決の紛争に加え、アラブ世界は何十年もの間、その不確かな政治体制によって遅れを取ってきた。指導者たちは政治システムの失敗を隠匿するために、イスラエルの役割、イランの影響、米国のパワーなどを絡めて責任を転嫁してきた
02年にはアラブ世界自らが中心となってアラブ地域についての国連人間開発報告書を作成、集中的に自己反省を行って、地域に起源を持つ3つの格差――自由、ジェンダー、知識に関する格差――が停滞の原因になっていると結論付けた
11年初頭アラブ世界で始まった市民の抗議運動は、何十年間の誤った支配を破壊する好機であり、若者を目覚めさせた。自由で安定した中東への道のりはまだまだ紆余曲折があるが、将来については楽観的。ただ明らかなことは、この変化を司る主要なアクターは、アラブとイスラム世界の内部から出てこなくてはいけないということ
今後も国連の関与は余儀なくされるだろう ⇒ リビアへの介入に安保理が果たした役割、リビアとイエメンでの国連の外交努力、シリアにおけるアサドの残酷な圧制を告発した国連人権担当の発言、チュニジアやエジプトなどの国の政権移行への継続的な援助など実績は多い
あまりに長い間、中東での政治問題では、アラブ・イスラエル紛争やイスラエルと西側の悪行のみが語られてきたが、アラブの目覚めは、人々が自らの社会の将来について議論する機会となり、アラブの街頭を再び政治化した

第8章          9.11の戦争―テロ、アフガニスタン、イラク、そして危機に瀕する国連
038月バグダッドの国連本部で大規模爆発
アルカイダは、数年前に東チモールを独立させアジア最大のイスラム教国のインドネシアを分断した責任で私をターゲットに加えていた
米国主導のイラク侵攻がもたらした破壊的なダメージに巻き込まれ、世界の安全保障の守り手としての国連の立場は著しく損傷された ⇒ 共産主義体制の終了後真剣に追求された多国間主義の前途は萎れ、中東和平プロセスは10年以上後退、テロや政情不安を助長しない安定したアフガニスタンを構築しようという不可欠な優先課題は軽々しく放棄された
国連創設メンバーで長年にわたり国際秩序の要であった米国の世界での地位は、戦争の結果引き起こされ、次第に明らかになった虐待、悲劇、混沌の元凶を作ったとして、汚れたものとなった
91年の湾岸戦争から6年の間にイラクは、国連に付きまとう烙印へと変貌。フセインは残虐で独裁的に政権を運営、国際社会からの要求に応えるそぶりも見せなかった。国連は、クウェートの占領状態からの原状回復にとどまり、ブッシュ()もそれを支持したが、
97年事務総長就任の頃にはイラクによる一般市民への化学兵器使用が公然となり、西側民間人を盾として使おうと動き始める。クウェート解放後、国連はイラクに史上最も過酷な武装解除と制裁を課す一連の決議を採択、全ての大量破壊兵器の廃棄を期して、大規模な経済制裁と武器査察を実施したが、制裁はイラクの人々の生活に深刻な影響を与える
サダム政権の強情さと耐久的な生存本能を国際社会は過小評価したのみならず、制裁がイラク経済を損ない、反対派を弱体化させ、限られた富がますます体制派に集中し、権力基盤は強化され、イラク政府の最も熱烈な敵である安保理の西側メンバーが冷酷な「恐怖の共和国」の存在を結果的に支援してしまった
9798年にかけて一連の査察はイラク政府との間の衝突をエスカレート。石油資源は国連によって管理されていたが、途上国においては、国連が、安保理決議を大国による苛めの隠れ蓑にして小国をいたぶっていると解釈された。国連が、安保理決議を履行させるために一国の政府に苛烈な処置をとることができるなら、なぜイスラエルに対して取られなかったのかと各国から繰り返し質問された。米国の論拠はサダムが安保理決議を履行しないということだが、イスラエルも67年に占領した地域についての国連決議を履行していない。この一貫性のなさが多くの国をたきつけた
大統領関連施設への査察を拒否しようとするイラクに対し、安保理の強硬姿勢を背景にしながらもイラクとの妥協点を模索して私はバグダッドに向かい、サダムに直接会って無条件査察を引き出すことに成功 ⇒ すべての外交努力が実らない時、事務総長に介入する意思さえあれば、残された道があることを証明した
イラクとの合意にもかかわらず、査察チームに不信感を持ったイラク側は査察を拒否、98年末には西側は空爆を再開。以後4年にわたって査察はされず、イラク政府との対話も途絶え、イラク国民を苦しめる制裁は継続し、サダムに、悲惨な状況は自らの悪政が原因ではなく、西側の咎であるという究極のプロパガンダを叫ぶ道具に使われた
9.11で安保理が決議したのは、米国の固有の自衛権の確認と、新しい対テロ機関の創設
3か月後ノーベル賞受賞では、「21世紀が炎の門とともに始まった」と述べる
タリバンが倒れた後のアフガニスタンの統治について、国連が国内諸派を参集させる正統性と信頼を持つという合意が形成され、国連が力を尽くしてアフガン内戦の和平仲裁をしようとすることは有効であることが証明
イラクが大量破壊兵器を保有するという恐怖を維持するのは、生かしておけない敵であるイランとイスラエルを牽制するためで、実際は大量の兵器を破壊してきたにもかかわらず、ブッシュは9.11の後サダムを標的に据え、「悪の枢軸」と表現、戦争は既に始まったも同然
03年米国と同盟国のイラク侵攻は、国連と国際社会が10年余りにわたって続けてきたイラク非武装化実行への努力に幕を下ろした。集中的で、危険を孕み、結果的に無駄となった長年の外交努力は安保理の承認なしに行われた主権国家への大々的な侵略に取って代わられた。侵攻によってイラク政権が速やかに崩壊し、当初は安堵さえ感じられたが、すぐに略奪と無法化が襲いかかり、イラク人の間に将来への不確かさと不安を広めた
国連とイラクに侵攻した同盟との間の溝を埋めるべく常任理事国の大使を集めたが、特にロシアと中国が国際社会全体の利益のために再び協働する基盤を見つけようという熱意を持っていたのには驚かされたし、国連への長期にわたるダメージや地政学的分裂が進むことを望む国は皆無だった
国連では、戦争と専制の犠牲者が必要とする支援をイラクの人々のより良い将来のために提供するべく貢献の方法に焦点を当て、我々の抱く裏切りや非承認という感情を超えたところで、助けを必要としているイラク人に応える義務を履行すべきと考えた
占領勢力とは一線を画す役割を効果的に果たすために、連合軍のセキュリティエリアである「グリーンゾーン」の外に拠点を置いて支援活動を始める
インタビューでは、明確にイラク侵攻を国連憲章違反と断定したこともあって、米国政府との関係は悪化。04年ファルージャへの米軍の差し迫った攻撃の情報に対し、ブッシュに懸念を示す書簡を送ったところ、米国に対する内政干渉と攻撃され、さらに96年創設で数十億ドル規模に膨れ上がった石油食料交換プログラムも政権への巨額のキックバックが絡む腐敗したシステムとして糾弾された挙句、息子が貿易取引に関与した2000社のうちの1社に関与していたことが発覚、個人攻撃が一気にエスカレートしたが、各国首脳からもサポートがあり、ブッシュも最後は、「右派は国連を破壊したいと思っているが、私は違う」と言って収まった
イラクを独裁体制から無政府状態に置き換えた1国主義的な戦争は、国際社会全体への教訓を含んでいる。武力行使における合法性と正統性の必要性、紛争後の環境に対して綿密に準備された計画の決定的な重要性、再構築の基礎として治安が必須であることなどだ
安保理自体が、サダムが義務を履行していないか、その場合どのような深刻な結果を負うかについては、安保理が判断すると述べているにも拘らず、米英が安保理承認に必要な9票を得ることができないと認識した際、安保理の権威を侮辱する道を選んだ。自らの意見と合わないときに、その権威を無視するというのが彼らのやり方だった
イラク戦争は憲章に則ったものでも、正統なものでもない。対テロ戦争と呼ばれるようになった行動は、国際的に広い支持を得て9.11攻撃への対応として始められたが、米国が世界規模で展開した独自のやり方により世界の対テロ戦争についてのコンセンサスは崩れ始めた。特にイスラム世界の人々にとって、アブ・グレイブで行われたような虐待や犯罪以上に非道いものはなかった。さらに、多くの国が人権と安全保障のトレードオフの原則を採用し始めたのは、人権と法の支配に対する極めて有害な後退。グアンタナモを法手続きへの侮辱の好例と見做す国も多い
9.11に続く戦争は、国連目的そのものについての戦争でもあった。国連とそれが体現する多国間主義の原則を標榜する派と、国連の決議を違法で不当な結果を導く便利な手段と見做す派との間の衝突があった。安保理決議上の義務に反抗する凶暴な国家と、安保理メンバーの多数派が熟考の末決定したことを無視し、憲章が正当化できない戦争を開始しようという超大国米国の決定である
最終的には、国連のイラク政策を巡り、仲裁不可能な深い対立があった。サダムは完全かつ検証可能な決議受諾を行うつもりはなく、米英はサダムが同意したとしても彼の孤立を解消するつもりはなかった。国連は両者の間で割かれ、9.11が勃発し、イデオロギーに凝り固まったブッシュはサダムを権力の座から引きずり下ろす決意をした
国連は平和主義の組織ではない。しかし、戦争と平和の問題で、もし国連が憲章の原則を主張しなかったら、それは違法であるばかりか、国連が世界において持っている正統性も失うだろう

終章 リアリストの夢
2011年初頭変化の嵐がアラブ世界を襲う。アラブ覚醒の結果、地域の若者が1つになって1歩を踏み出す。彼らは尊厳を渇望し、より良い暮らしを求めて機会と自由を要求
これらの長くは堰き止めておけない種類の力に対し、最も強く抵抗したのがシリアで、多くの市民が犠牲となり内戦に移行する中、私は後任の潘総長の依頼を受け平和的解決を追求するための危険特使として介入。多数の地域勢力や国際勢力が交差し、宗教対立や宗派対立が入り混じるなか、過激主義がはびこる地域に置かれた国家が分解する恐れもあり、また世界最大級の化学兵器を貯蔵しており、誰もがほとんど不可能と言った目標に立ち向かい、一旦は対立する両勢力の了解を取り付けるところまで行くが、すぐに暴力が再開されている。継続的な国際社会からの圧力が必要
農業開発は、革新的な科学と投資が適切に適用されれば、多くの人々の暮らしを変えることができる分野の1つ ⇒ 現在私は、アフリカ緑の革命同盟AGRAを通じて、アフリカでの食糧生産を変革し、真の食糧と栄養の安全保障を確保しようという草の根運動に関与しているが、MDGsの主要目的に取り組むことを目指し、飢饉と貧困の50%削減を掲げる
MDGsが世界的に許容される社会的経済的発展への取り組みの指針を成功裏に作ったと言えるなら、保護する責任R2Pは、世界の主権についての考え方を変えたと言える。国家が市民の権利を侵害しても不処罰であることは許されず、国家指導者が市民をどのように扱おうとその地位を揺るがされないなどということはない、という考え方で、このような国家と市民のパワーバランスを変えようという試みの進歩は遅く移ろい易いが、指導者や政府が人権の尊重抜きには国際社会に参加することができないという意識を持つことを求め続けなければいけない
MDGsR2Pはそれぞれ、国家の特権を超えた目的のためにグローバルガバナンス構造を革新することと、個々人がその潜在力を発揮するために舵を取れるよう力を与えることを目指している
国連はこれからも極めて重要で、人々を一堂に集める役割を果たし、進歩への機関として存在することができるだろう
国家のみならず人々のための組織となった国連、そして市民に自らの行動についての説明責任を果たす政府間のフォーラムとなった国連は、21世紀にふさわし存在となるだろう

解説 
コフィ・アナンの告白             マイケル・イグナティエフ
アナンは永続的ともいえる道徳的な意向をたたえた人物。その権威は経験からきている。自ら世界の闇の部分への特使となった
独立間近のガーナで、アナン家は独立を支持しながらも、ンクルマの革命的民族主義からは距離を置くという慎重な中道を保ったが、その経験から、アナンは自らの立場を明確にすることなく、全ての派と巧みに交渉することができるという慎重さと手腕を併せ持った人物となった。国連にとって完璧な逸材
1997年米国の支持で事務総長に就任したのち、国連にはまだ希望があるということを努めて語ろうとした
アナンの業績は、ミレニアム計画、グローバル・ファンド、ICC、「保護する責任」ドクトリンなど称賛に値するが、自らの知名度が持つ力を、世界の目を国連に向けさせるために使った功績は大きい
国連が政府間のみの機関であることから脱し、企業やNGO、さらには絶えず増殖していくグローバル市民社会とのパートナーシップを築かなければならないことを機敏に察していたばかりか、自らの権威が依拠するのは加盟国である一方で、自らの道徳的な威光が依拠するのは「われら人民」である幾多の失望を経験させられても国連に信頼を抱き続ける何百万もの普通の人々であることを理解していた
道徳的威信が国連に与えるパワーを見逃してはならない。国連こそ希望の使者であり、そこにこそ事務総長のパワーの源があることをアナンは理解していた
マンデラやデズモンド・ツツ、アウンサンスー・チー、ヴァーツラフ・ハヴェルなどは暴君に立ち向かうことで威光を得たが、アナンは暴君と対話することで威光を得た。イラクではサダムを説き伏せ、全世界から英雄視され、自信過剰になった面は否めない
シリア特使として、不可能な問題を敢えて背負い込んだのは、引退した世界的な政治家が、自らの道徳的威信が無に帰すことへの恐怖心からともいえる
アナンの名は、在任中の2つのジェノサイドであるルワンダとスレブレニツァと並列して歴史に記憶されるだろう ⇒ 彼に対する評価には、国連にとって最も不運だったこの2つの事例への関与が常に付きまとう
94年ルワンダの国連平和維持軍司令官からの軍事行動への進言に対し、PKO局長だったアナンは安保理に諮ることなくジェノサイドを未然に防ぐ機会を逸した
ボスニアでも、兵力増強の必要性を感じながら常任理事国による文民保護程度の部隊の駐留を無力に傍観するだけで、多くの市民を犠牲にしている
これらの経験の後アナンは、大統領や首相といった人々よりも率直になることで、自らの道徳的威信を回復させた。誤りを率直に認め、「ブルーヘルメットの存在が、生死を分けるような状況にあるすべての人々にとって、制約のあるマンデーと、不適切な手段、財源の乏しい活動というものは、無意味であればまだいいが、最悪の場合、裏切りとなる」とまで告白している
アナンのキャリアにとって決定的なパラドックスは、道徳的な公約を実行できなかった結果、国連の権威が失墜していった90年代に、逆にアナンの威信が高まり、傷つかなかったこと。アナンに対する米国の政治的な評価も上がる。95年米国がボスニアでの虐殺に対処する決定をした際、セルビア系勢力への空爆実現のため国連をまとめ、セルビアをデイトン交渉のテーブルにつかせた功績により、アナンはガリの明確な後継候補になる
アナンは、米国が再び国連に賭けることがなければ国連の成功はないことを賢明にも理解し、事務総長就任後も自らの名声を使い、米国議会を軟化させ、反国連を掲げる共和党タカ派を懐柔し、凍結されていた米国の国連への拠出を再開させた
オルブライトはアナンを事務総長の座につけることに尽力したが、就任後は情け容赦なくアナンを攻撃した。「彼女は、事務総長が米国以外の加盟国に対しても責任があることを決して理解できなかった」とアナンは冷たく評している
本書に記述された最も劇的な場面は、パウエル国務長官がイラク攻撃の必要性について発表を行った後での外相の昼食会の描写。納得しないフランスのド・ヴィルパンとロシアのイワノフと対峙。自分が個人的に戦争を嫌悪していることを納得させたのち、「戦争がいつも悪い結果のみをもたらすという前提を受け入れることはできない」と強調したのに対し、ドイツのフィッシャーが「ドイツが最良の例だ」と賛意を表した。この場面こそ、国連が何のために存在するかを要約している
大局に於いて正しい行動をとった者に威信は生じる。イラクへのアナンの対処は正しかった。ただ、一方的な武力行動については、すでにNATOのコソボでの行動を認めることで前例を作っていた。安保理はイラク侵攻を認めず、アナンも米国の侵攻を「違法」と結論
イラク侵攻の翌年持ち上がった石油食料交換プログラムについてのスキャンダルを自らの政治人脈に頼って乗り越えると、最後の2年は自らの名声の保持に尽力。国連システムの改革に情熱的に取り組んだが、米国が政権の国連への不満表明の窓口として手に負えないボルトンを大使として派遣したためもあって改革は進まず、挫折感とともに任期を終える
退任後も、ケニアでの選挙後の政治的和解を仲介したり、シリアの特使としても平和への探求に動いたのは、アナンが自ら目撃し、体験し、責任を負ってきたことを思えば、良心ある1人の人間の贖罪の念からきているのではないか
本書は、いまだに頑迷なまでに国家利益によって支配される世界において、いかに道徳的威信が脆いものであるかを物語るもの
アナンほど、「われら人民」の声に近づき、そのために高い代償を払った者はいない。世界は未だにアナンのような人材を必要としているが、その役割を担おうとする人物には、この回顧録から教訓を引き出して欲しい



介入のとき(上・下) コフィ・アナン、ネイダー・ムザヴィザドゥ著 理想と無力感 手に汗握る回顧録
2017/2/12 2:30 日本経済新聞
 「風の向きを変えることはできないから、舵(かじ)を取れ」という格言が終章に引用されている。うまく舵取りができれば、どの方角にでも進めるのだ。ポスト冷戦時代、国連事務総長コフィ・アナンは国際社会の見事な船頭役を務めた。読み応えがある回顧録である。
http://www.nikkei.com/content/pic/20170212/96959999889DE3E0EAE2EAE4EAE2E3E3E2E0E0E2E3E59F8BE7E2E2E2-DSKKZO1280869011022017MY5000-PN1-1.jpg
 上巻は、手に汗握る迫力がある。ソマリア、ルワンダ、旧ユーゴ、東ティモール、ダルフール、ケニア。暴力に引き裂かれた国々で、アナンは国家を私物化する悪党と交渉し、主要国の政府を説得する。複雑なゲームのなかで何が本質的に重要かを瞬間的に見抜くアナンの能力に、圧倒される。
 PKO局長時代、各地の大量虐殺を阻止できなかったことが悔やまれたのだろう。事務総長に就任したアナンは「保護する責任」などの新しい原理を導入して、国連改革に邁進していく。一連の努力は正当に評価され、2001年、「アナンと国際連合」はノーベル平和賞を受賞した。
 しかし、下巻に入ると、アナンの失望と無力感が伝わってくる。中東の泥沼の紛争に身動きがとれない。9.11事件を経て、復讐に燃えたブッシュ政権がイラク侵攻に乗り出すと、米英と国連の対立は決定的になった。安保理の合意を重視したアナンは米国政府から遠ざけられ、さらに爆弾テロで頼りにしていた同志を失う。国連も米国も、大きく傷ついた。いま振り返れば、アナンの方が正しかったのは明らかだろう。
 カナダの政治学者イグナティエフは、本書の解説でアナンの業績をややシニカルに再評価している。だが、アナンが世界各地で深い尊敬を集めた事実は変わらない。それは彼が、虐げられた者の側に決然と立つ道義性を貫いていたからである。指導者の資質として、こうした人格力がますます重要になっているのではないか。
 アナンは西アフリカのガーナでの自分の生い立ちにも触れている。粘り強い対話と交渉でコンセンサスをつくりだし、より大きな大義に貢献するという政治手法は、アフリカ政治の最良の伝統だった。マンデラやオバマもそうだが、近年の世界はアフリカ系の指導者の力量に救われている。
 必要なときには断固として介入せよ。武力の脅しをかけてでも悪党から妥協を引き出し、無辜の民を救え。ただし、大国の独断では道を誤る。強制力は、国際社会の共通の意思に基づくものでなければならない。これがアナンの中心的なメッセージだった。
 アナンの理想主義が国連に引き継がれていくことを願う。
原題=INTERVENTIONS
(白戸純訳、岩波書店・各2700円)
アナン氏は9706年に国連事務総長。01年に国連とともにノーベル平和賞。ムザヴィザドゥ氏は9703年に国連事務総長室に勤務した。
《評》同志社大学教授 峯 陽一



コフィ・アナン氏死去、80歳 黒人初の国連事務総長
20180820日 BBC News Japan
アフリカ出身の黒人として初めて国連事務総長を務めたコフィ・アナン氏が18日、死去した。80歳だった。アナン氏は史上唯一の黒人事務総長経験者でもあった。
コフィ・アナン財団によると、アナン氏は「短い闘病を経て18日、安らかに息を引き取った」という。
アナン氏は1997年から2006年まで国連事務総長を2期務め、人権問題への取り組みでノーベル平和賞を受賞した。また事務総長退任後は国連とアラブ連盟のシリア問題合同特使となり、同地域における紛争解決手段の模索を先導した。
同氏の母国ガーナは、国全体の1週間の服喪を宣言した。
「アナン氏は、苦難や不足のあるところにはどこにでも救いの手を伸ばし、深い思いやりと共感を持って多くの人々と触れ合った」
アナン氏はスイスのベルン市内にある病院で息を引き取った。同氏は近年、ジュネーブ近郊で生活していた。
また同氏は2001年、国連の活性化に貢献したとしてノーベル平和賞を受賞している。同時期の2000年代初頭にはイラク戦争の開戦やHIV・エイズの流行があった。
アナン氏は、自分の最も偉大な功績にミレニアム開発目標の採択を挙げている。ミレニアム開発目標により、貧困や幼児死亡率などの問題に対する国際的な達成目標が史上初めて掲げられた。
同氏はしかし、批判と無縁だったわけではなかった。批判者は、1990年代に起こったルワンダ虐殺を国連が止められなかったことはアナン氏の責任とした。アナン氏はこの時期、国連平和維持活動(PKO)担当事務次長を務めていた。
さらに、米国が主導したイラク侵攻の後には、同氏と同氏の息子が「石油食料交換プログラムにおける不正疑惑」に関与したとして批判され、辞任要求も上がった。ただアナン氏は後に潔白が認められた
80歳の誕生日を期に4月に行われたBBCハードトークとのインタビューで、アナン氏は国連の欠点を認め、国連が「改善できるし、完璧ではないが、存在しなかったら作らなければならない組織だ」と述べた。
「私は断固とした楽観主義者だ。楽観主義者として生まれ、これからも楽観主義者であり続ける」と同氏は付け加えた。
いち早く哀悼の意を表明したアントニオ・グテーレス現国連事務総長は、アナン氏が「良い方向へ導く力」だったと述べた。
グテーレス事務総長は声明で、「多くの点で、コフィ・アナンは国連そのものだった。アナン氏は組織内で上り詰めると、比類なき尊厳と決断力で、国連を新たな千年紀に導いた」と述べた。
ザイード・ラード・アル・フセイン国連人権高等弁務官はツイッターを更新。「コフィ・アナンの死を受け、悲しみに打ちひしがれている。コフィは人間の礼節と品位を絵に描いたような存在だった。コフィのようでない指導者であふれている今の世界では、ますます痛い喪失だ。コフィは何千人もの人の友人で、何百万人を率いるリーダーだった」と死を悼んだ。
テリーザ・メイ英首相やイェンス・ストルテンベルク北大西洋条約機構(NATO)事務総長など、世界の指導者や外交官からも追悼の声が相次いだ。
ストルテンベルク事務総長は、「コフィ・アナン死去の報を聞き悲しんでいる。彼の温かさは決して、弱さと誤解されるべきではない。アナンは、1人の人間が同時に偉大な人権主義者と強い指導者であり得ると示した。国連と世界は、巨人を失った」とツイートした。
メイ首相は、「コフィ・アナンの死を聞き悲しんでいる。国連の偉大な指導者であり改革者で、自分が生まれたときよりも世界をより良くすることに、多大な貢献をした。私の思いと弔意を、アナン氏の家族に伝えたい」と投稿した。
アフリカ系米国人初の米大統領となったバラク・オバマ前米大統領は、「コフィは壁を打ち破ってからもずっと、より良い世界の追求を決して止めなかった」と述べた。
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、アナン氏の記憶が「ロシア人の心にずっと生き続ける」だろうと語った。
インドのナレンドラ・モディ首相は「世界は偉大なアフリカ系外交官で人道主義者を失っただけでなく、世界平和と国際安全保障における良心の番人をも失った」と話した。
ガーナのナナ・アクフォ=アッド大統領はアナン氏を「我々の同国人で最も偉大な人物の1人」と呼び、国全体の1週間の服喪を発表した。アクフォ=アッド大統領はツイッターに「アナン氏の栄誉を称え、2018820日月曜日から1週間、国内と世界に展開するガーナの在外公館で、ガーナ国旗の半旗を掲げるよう指示した。完全な平穏の中にお眠りください、コフィ。それはあなたが勝ち取ったものだ。神の祝福を」などと連続で投稿した。
国連を退職後も外交官としてのキャリアを続けたアナン氏は2007年、世界の持続的な開発、安全保障、平和の促進を狙い、自身の財団を設立した。
1年後の2008年、大統領選の結果を受けて発生したケニア暴動で、終結に向けた連立合意の交渉支援を成功させると、アナン氏の名声は高まった。
当時、連立合意に署名した野党指導者のライラ・オディンガ氏はフェイスブックに投稿した追悼文で、アナン氏を「国に踏み入って、崩壊から救った男」と呼んだ
2013年には、南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領が創始した平和人権団体「ジ・エルダーズ」の議長となった。
アナン氏は先月、南アフリカのヨハネスブルクで開かれた故ネルソン・マンデラ氏の生誕100周年記念行事に出席していたアナン氏は先月、南アフリカのヨハネスブルクで開かれた故ネルソン・マンデラ氏の生誕100周年記念行事に出席していた
それに先立つ2012年には、列強国が責任を果たしていないとして、国連とアラブ連盟のシリア合同特使をわずか6カ月の任期後に退いた。アナン氏は後に、「ダマスカスに向かう途中で勢力を失った」と述べたという。
直近の職務は、ミャンマーのロヒンギャ危機を調査する政府設置の特別諮問委員会委員長だった。
アナン氏の妻ナーネ氏と3人の子供が、「死ぬ直前の数日間、アナン氏の側にいた」とコフィ・アナン財団は述べた。

<追悼>イモージェン・フォルクス BBC国連担当記者(ジュネーブ)
コフィ・アナンは、戦争や環境破壊、あるいはただ過酷な貧困に苦しむ人々の窮状に対し、繰り返し関心を集めた手法で記憶されるだろう。
政治的キャリアよりも市民への義務を上位に置く必要があると、どんなに力を持った世界の指導者に対してでも静かに、しかし毅然と言い聞かせるのが、アナン氏の手法だった。



Wikipedia
コフィー・アッタ・アナン(: Kofi Atta Annan193848 - 2018818)は、第7代国際連合事務総長(19971月から200612月)。ガーナ共和国アシャンティ州クマシ出身。称号は聖マイケル・聖ジョージ勲章GCMG)。英語フランス語クル語アカン語、他のアフリカ諸言語を話す。国連事務総長在任中の2001年にノーベル平和賞を受賞した。
経歴[編集]
アナンはイギリス領ゴールド・コースト、クマシにて双子として生まれた。ガーナにおいて双子は大切にされている。アナンの双子の姉であるエフアは、1991年に亡くなっている。共通のミドルネームである「アッタ」は、ファンテ語およびアカン語で「双子」を意味する。アナンの祖父と叔父は部族の長であり、国のエリートの一員である[3]
1958年、クワメ・エンクルマ科学技術大学経済学専攻)を卒業後に渡米、1961年、米マカレスター大学(ミネソタ州セントポール経済学部を卒業する。1961年から1962年まで国際・開発研究大学院 留学(経済学専攻)。1971-72、米マサチューセッツ工科大学スローン・スクールMBA取得)、科学修士 (M.S.) 取得。
1962年、世界保健機関(WHO)の行政・予算担当官として国連入り。国連アフリカ経済委員会、イスマイリアの国連緊急軍(UNEF)、国連難民高等弁務官事務所UNHCR)に勤務する。一旦ガーナに帰国し、1974年から3年間、ガーナ観光振興会社常務取締役を務めた。
1980年にUNHCR人事部長となり、1984年に国連本部の財務部予算部長、1987年に人事管理担当事務次長補兼国連システム安全保障調整官、1990年に財務官兼計画立案・予算・財政担当事務次長補を歴任する。1990年にはイラククウェー侵攻を受け、事務総長から特別の任務として、900人を超える国連職員の帰還と、イラクで人質となった西側諸国の人々の釈放を促進するよう要請された。その後、人道援助物資購入のための原油販売に関しイラク側と交渉する初の国連代表団の指揮を取った。
1992年、PKO担当国連事務次長補、1993年から1996年までPKO担当国連事務次長を務める。199511月から19963月にかけては、旧ユーゴスラビア担当国連事務総長特別代表として、ボスニア・ヘルツェゴビナにおける国際連合保護軍UNPROFOR)から北大西洋条約機構NATO)主導の和平履行部隊IFOR)への部隊引継ぎを監督した。
199711日、国連職員から選出された最初の事務総長として就任した。
2001年には国際連合とともにノーベル平和賞を受賞した。
2004年、アナンは国連の事務総長としては初めて来日し、当時の天皇明仁と会談し、日本で初の議会演説(外部リンク参照)を行って、日本の対イラク支援政策や自衛隊イラク派遣を高く評価するとともに、北朝鮮による日本人拉致問題にも言及した。また国連憲章の敵国条項についても「時代遅れ」との認識で一致した。
200612月に国連事務総長を引退した。アナンはその際スピーチで近年の国連を無視するアメリカの覇権主義的行動を批判し、アメリカが国連を重視した多国間主義に回帰することを望む声明を発表した。
20095月よりコロンビア大学国際公共政策大学院のグローバル・フェローおよびコミッティー・オン・グローバル・ソート[4]のフェローに就任した。
640億ドルにのぼるイラクの石油食料交換プログラムに関する国連の大規模な不正疑惑により、政治生命が危機にさらされた。これに関しては、アナンの長男であるコジョ・アナン英語版)がこの人道援助にかかわったスイス企業から退社後も不透明な給与を受けていたことが発覚している。 20122月には、国連とアラブ連盟から反体制派への弾圧が続くシリアへの合同特使に任命された[5]
2018818日にスイス・ベルンで死去。80歳没[1]
顕彰[編集]
2001 - ノーベル平和賞
20021014浙江大学名誉博士
2006518東京大学名誉博士
2007年 春旭日大綬章 524ウプサラ大学名誉学員
家族[編集]
現在の妻はスウェーデン出身の弁護士で芸術家のナーネ・アナン英語版)(ヴァレンベリ家)。ナーネはスウェーデンで第二次世界大戦中ユダヤ人を救ったラウル・ワレンバーグの大姪にあたる。先妻との間に2人の子供がいる。又従兄弟にガーナ代表のサッカー選手アンソニー・アナンがいる。
脚注[編集]
a b c コフィ・アナン氏が死去、元国連事務総長 80歳朝日新聞. (2018818199) 2018818日閲覧。
^ Lefevere, Patricia (19981211). “Annan:`Peace is never a perfect achievement' - United Nations Secretary General Kofi Annan”. National Catholic Reporter. オリジナル2012713日時点によるアーカイブ。 2008226日閲覧。
^ Kofi Annan - The Man To Save The World? Saga Magazine, November 2002
^ : Committee on Global Thought




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