暴君  牧久  2019.10.22.


2019.10.22.  暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史 

著者 牧久 1941年大分県生まれ。ジャーナリスト。64年日本経済新聞社入社。東京本社編集局社会部に所属。サイゴン・シンガポール特派員。89年東京社会部長。その後副社長を経てテレビ大阪会長。著書に『「安南王国」の夢――ベトナム独立を支援した日本人』『不屈の春雷――十河信二とその時代』『昭和解体――国鉄分割・民営化30年目の真実』

発行日             2019.4.28. 初版第1刷発行
発行所             小学館

「葛西、君と闘う。堂々と闘う。そして必ず勝つ。そのことを宣言しておく。権力は肥大化したら傲慢になる。傲慢になったら権力は悪いことしかしない。そのことをはっきりさせておきます」(1991年松崎の講演から)

序章 「天使と悪魔」――ふたつの顔を持つ男
2010年松崎死去に際し、朝日は松崎の生涯を簡潔に記す ⇒ JR東日本労組の初代委員長。旧国鉄の動労でストライキなどを指揮。埼玉県出身。1955年旧国鉄入社。61年旧動労青年部を結成して初代部長、若い機関士や運転士を中心にストを辞さない過激な闘争方針で国鉄当局と激しく対立。その後組合活動を理由に解雇されたが動労に残り、75年の「スト権スト」など数々のストを指揮。スト権ストでは全国で列車を数日にわたって止めるなどし、動労は「鬼の動労」などと呼ばれた。動労の委員長として国鉄分割・民営化には反対したが、その後方針を転換。87年の民営化後にはJR東労組の初代委員長として経営側とも密接な関係を保ち、上部団体の全日本鉄道労働組合総連合会(JR総連)にも強い影響力を持つ。95JR東労組会長、01年顧問、02JR総連特別顧問。07年にはJR総連の内部組織の資金3,000万円を横領したとして書類送検されたが嫌疑不十分で不起訴。10年衆院予算委員会で自民党の平沢から「(松崎は左翼過激派)革マル派の最高幹部の1人として認識しているか」と問われ、岡崎トミ子国家公安委員長が「革マル派創設時の幹部の1人である」と答弁
鬼の動労の象徴的存在だったのが、鉄労と手を組み、大転換の先頭に立ったコペ転による変心で国労は瓦解し、国鉄分割・民営化は軌道に乗り、松崎は「国鉄改革」の最大の功績者の1人となった。JRの組合を率いて「影の社長」として権勢をふるい、華麗な人脈を作り上げるが、労組の名士"とは別の顔を持ち、非公然部隊を組織し、陰惨な内ゲバで数々の殺人・傷害事件を起こしてきた新左翼組織「革マル派」の幹部でもあった
JR発足から10年余りが経過したころ、日本の治安当局は革マル派のアジト摘発によって、JR総連・東労組に「革マル派が浸透している」との確証を掴み、松崎がハワイ島に2つの豪華別荘を購入している事実から、警視庁公安部が松崎の自宅などを家宅捜索し、業務上横領が浮かび上がるも、配下の固い結束の壁に阻まれ不起訴処分に
彼の天性の弁舌は人を惹きつけ、アジテーターとしての才能を遺憾なく発揮、プライドが高く職人意識の強い機関士たちの組合として発足した穏健な「同志会」に、青年部を結成して初代部長となり過激な「政研派」を立ち上げ、闘う動労に変身させる
動労の若手指導者として、大量処分を覚悟の上で激しい闘争を展開、ストの先頭に立つ
85年動労の委員長就任。中曽根内閣と手を組んだ国鉄若手の改革派による分割民営化の矛先が組合運動に向けられていると読んだ松崎は、手のひらを返したように国鉄当局に擦り寄り、反対派の国労の切り崩しに協力し、民営化に伴う7万人の合理化から動労の組織と組合員を守る
89年国鉄解体によって戦後労働運動の中核だった「国労」は分裂し、国労が中心になって支えてきた総評も力を失い、新たなナショナルセンターとして「連合」が発足。労働運動も一転して政府主導の新しい時代を迎える
水面下では、JR各社の労使関係と労組間の対立・抗争は、以前にも劣らぬ暗闘を繰り広げ、その主役であり悪役を演じたのがJR総連とJR東労組を牛耳った松崎
極左組織「革マル派」の指導者としての顔は、国鉄入社直後に共産党に入党するも、官僚体質に反発して離党、反スターリン・反帝国主義を掲げる「革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」議長の黒田寛一(19272006)に心酔、副議長となり、動労内に結成した反主流派組織「政研派」を基盤に委員長まで上り詰める
国鉄分割民営化賛成に舵を切ったころから松崎は表向き「革マル派から離脱」と述べたが、治安当局は一時的な戦術で、革マル派離脱は偽装と見ていた
JR発足とともに、JR内で最大労組となった東労組の初代委員長となり、全国組織のJR総連も自由に操り、JR東経営陣を籠絡し経営権にも深く介入、瞬く間に陰の実力者となる
黒田の革命戦略の組織論の基本は、弱小の時代は敵組織に「潜り込み」、組織内部の意識の違いを「乗り越え」て変革し、敵組織を内部から「食い破る」
これに加えて松崎の戦術・戦略論の基本は、「統一と団結の否定」と「積極攻撃型組織防衛論」で、内部の敵対勢力は先手を打って積極的に排除し闘う組織を防衛するというもの
両者を合わせた理論的信念もあって、絶大な力を基に、柔和でにこやかに振る舞う表の顔と、一転して鬼の形相に変化する裏の顔の違いが鮮明となり、敵と判断した者たちに対しては容赦なく排除した
独裁化する松崎に対する反発は、JR総連加盟各社の間でも時間とともに高まり、各社の経営陣の姿勢も絡まって、裏切りと暗闘、変節と憎悪が渦巻き、JR総連は分裂してJR連合が発足。今でも箱根を境に西側のJR東海、西日本、九州、四国の組合は新たに再編・結成されたJR連合傘下に、松崎の革マル派勢力がなお残るJR総連の勢力下にはJR東と北海道、貨物労組だけ
松崎の出発点はスターリン批判にあったが、晩年には若き日の高邁な理想と人間的魅力は失せ、組織を私物化し、同志でも批判を許さず、遠慮会釈なく排除する悪魔の如き小スターリンと化したため、彼の独善的性格と独裁的運営に反発する腹心たちは相次いで彼のもとを去る
死去の2年前から間質性肺炎を発症。煙草の煙を嫌悪し、朝一番の尿を飲む「尿療法」の励行者だったが、側近をJR総連初の参院比例代表として国会に送り込んだ直後に死去
死の床で詠んだ俳句が、「D型もD民同へ涸谷(かれだに)に」 ⇒ D型とは彼が生涯かけて創り出した「闘う動労型労働運動」であり、「労働運動の民主化」を標榜する民同(民主化同盟・旧国労の主流派)型の労働運動に舞い戻り、D型の水源は今や枯れ果てて「涸谷」と化してしまったというのだろう
松崎の死の1か月前、60年安保反対闘争を牽引した中核派の政治局員北小路便が敗血症で死去、享年74。ブント(共産主義者同盟)の活動家で、60年全学連書記長に就任、樺美智子が死亡した「6.15国会議事堂突入」を指揮し逮捕。安保闘争の総括を巡って、ブントが分裂したあと、63年「中核派(革共同中核派)」を結成。この時「革マル派(革共同革マル派)」を結成したのが黒田と松崎で、「理論の黒田、実践の松崎」と呼ばれた
革マル派と中核派はその後長年にわたって激しい抗争を繰り広げ、内ゲバによる死傷者が続出。戦後の過激な左翼運動は、よど号ハイジャックの赤軍派や、あさま山荘銃撃戦の連合赤軍が自滅の道を辿るが、2人の死は内ゲバ"を繰り返しながら平成まで生き延びた新左翼運動の1つの終焉を意味した

第1章          隠れ動労――JR誕生前夜
黒磯駅事件 ⇒ 黒磯駅は御召列車の最寄り駅と同時に、上野までの直流と青森までの交流の切り替え駅だが、国鉄当局が70年代初めから行った「生産性向上運動(マル生)」が反組合教育の啓蒙活動となって国労・動労の組合員排除運動にエスカレートしたため不当労働行為として指弾され総裁が謝罪する全面敗北となり、77年当時職場は労使が逆転して荒れに荒れた。特に黒磯駅は国労青年部を中心にサボタージュや管理者苛めの本丸となったため、東京北管理局が「対策班」を結成して現地に送り込む
暴力行為のかどで国労の承認を得て2人を懲戒解雇にしたところ、動労本部の松崎から不当解雇とのクレーム。後に判明するが、2人は松崎が送り込んだ隠れ動労だった
オイルショックやロッキード事件で経済も政治も迷走する中、81年に中曽根行管庁長官が第2臨調を立ち上げ、第4部会が国鉄分割・民営化の世論対策を担う(部会長は加藤寛)
これに呼応して国鉄内部でも若手改革派が動き出す ⇒ 経営計画室筆頭主幹の井出正敏(後にJR西社長)、職員局調査役の松田昌士(JR東社長)、経営計画室主幹の葛西敬之(JR東海社長)3人でいずれも40代で、国鉄再建のためにまず労使問題の核心である乱れた現場規律の是正から手を付け、現場のヤミ休暇、ヤミ手当、たるみ事故やたるみ工事の実態をリークして、自民党交通部会内に「国鉄再建小委員会」を作らせ委員長の三塚に実態を報告して改革の支援を要請
松崎は、国鉄再建論議の中で、労働者と労働組合に攻撃の矛先が向けられていることを糾弾し、マルクス・レーニン主義の原点に立ち返って確固たる指針を打ち出すべきと説く
82年の第2臨調の基本答申で、国鉄の分割・民営化が打ち出される
82年首相に就任した中曽根の標的は国鉄の分割・民営化に向けられ、政府内に「国鉄再建対策推進本部」を立ち上げ自ら本部長に就任 ⇒ その狙いは、55年体制からの訣別であり、戦後政治の一方の主役・社会党の支持母体総評を支えてきた国労・動労の組合組織を、国鉄分割・民営化によって一挙に崩壊させ、社会党・総評の弱体化を図るというもの
当時動労の定期大会で松崎は、「悪天候の中、山に登るのは愚か者」と発言、85年執行委員長に選出され、全国大会では「総評・社会党と一体となって分割・民営化に反対する」と決議しておきながら、委員長就任の挨拶では、「国鉄が愛されない限り、そこに存在する労働組合も支持を得ることは不可能であり、自らを律しながら国民的合意が得られるような道筋を11つ積み重ねていきたい」と発言、鬼の動労の大転換が始まっていた
国鉄改革の成否は、余剰人員の雇用対策にかかる ⇒ 在籍315千人に対し適正所要人員は183千で、公的機関で3万吸収しても最後7万近い余剰人員が出るのは確実とあって、国労は猛反発、動労は当局の提案した余剰人員対策3本柱に積極的に協力
86年国鉄最後の年は波乱の幕開け ⇒ 杉浦総裁は改革派3人の提案に従い各組合の幹部を招いて「労使共同宣言」を提案、ストや順法闘争はやめて合理化に労使一致して取り組むという内容で、組合に対する踏み絵となったため、国労は一蹴、鉄労と動労、全施労(施設組合が国労を脱退して組織)は調印。松崎も鉄労一任を宣言
国労の孤立に将来の不安を覚えた組合員が集団で脱退して真国鉄労働組合(真国労)を立ち上げ、その結成大会を国労が妨害したが動労と鉄労が守るが、真相は松崎が国労に革マル派を潜り込ませ、国労内の不満分子を糾合して飛び出したもの
86年衆院の死んだふり解散は、「国鉄分割・民営化、是か非か」を問う衆参同時選挙となり、自民党は中曽根の目論見通り54議席増の304議席と史上最高議席、参院でも11議席上乗せの73議席と大勝。874月の国鉄解体が決定的となる
直後の鉄労の大会では、松崎が過去を詫び、鉄労と共に進むことを誓う「コペルニクス転換」と呼ばれる演説を行う
国労による真国労幹部襲撃の内ゲバで死者が出た挙句、主流派が当局との妥協案に傾くも支持が得られずに組織そのものが崩壊
松崎の変心を、国鉄幹部も全面的に信用していたわけではないが、変心がなければ、分割・民営化は前に進まない
新会社発足直前に4組合が合流して全日本鉄道労働組合総連合会を結成するが、発足後の1企業1組合を主張する動労と、複数の組合を認める複線型の再編統一構想の鉄労とでは同床異夢であり、すぐに主導権争いが本格化

第2章          松崎明またの名を革マル派副議長・倉川篤
松崎は埼玉県の高坂の精米業者の6人兄弟の末っ子。父は地元の商工会長を務める名士だったが、生活は決して楽ではなかった。高校では生徒会長として、関東高校弁論大会で優勝。共産党の下部組織民青に参加、活動を開始。5420倍の競争を勝ち抜いて国鉄に合格するも、出社を1年延ばされ臨時雇用員として採用、職場での諍いから転勤が続き、組合活動にはけ口を求める
55年共産党入党。翌年正規職員になり機関車労働組合(機労: 国労から独立した組合、後に動労と改称)に加入。翌年機関士試験に合格、機関助士となる
57年の国鉄新潟闘争が松崎の運命を大きく変える ⇒ 57年の春闘で総評は「最低賃金制獲得」を目標に掲げ、抜き打ちストを実施、ストを違法として多数の解雇者を出したことから現場で反対運動が過熱、特に新潟では闘争が長期化し、組合側の敗北で終わったが、本部から切り捨てられた形の現場を見て松崎は国労の始動に疑問を持ち新組合結成へと動く
松崎を心酔させた黒田は、1927年秩父の生まれ、医者の家に育ち、3多摩から初の東京高校尋常科に合格するが、結核で留年し視力も失い、ヘーゲルとマルクス研究に没頭、通称クロカンと呼ばれた革マル派最高指導者に上り詰める
黒田の片腕となって、革共同全国委員会を作り上げ、書記長に就任したのが本田延嘉で、川越高から早大文に入り、『早稲田大学新聞』の編集長だったが、63年委員会の分裂で生まれた中核派の指導者となり、委員会を飛び出して作った新組織革マル派の総帥となった黒田と全面的に対立
中核派は、社学同、社青同解放派、機改派と4派連合を組み、悉く革マル派と対立。最初の暴力衝突が63年の紀尾井町清水谷公園、次いで早稲田大構内。70年には個人テロに発展し、75年本多殺害でピークに
63年前後は、国鉄では蒸気機関車に代わって電化、ディーゼル化が進み、それに伴い基地統合問題が発生、松崎は支部委員長として反対運動の先頭に立つ。スト決行に対し機動隊が出動、松崎は逮捕され、国鉄から解雇処分を受け、動労の専従役員となる
67年動労にとって激動のはじまり ⇒ 新幹線開通による赤字対策として「5万人の合理化計画」を打ち出し、機関助士を廃止しようとしたのに対し、動労は「安全運転の確保」を理由に反対、国労とともに禁じられたストに代わる戦術として編み出した順法闘争に入り、時限ストに突入して闘争は泥沼状態に
69年争議で荒廃した現場の管理権を取り戻そうと、磯崎新総裁の下「生産性向上運動(マル生)」に乗り出すが、国労・動労とも反対

第3章          「労使ニアリー・イコール論」――巨大企業を屈服させた最強の労働組合
旧国鉄がJRに移行する直前、松崎の初の伝記本が新派にヨって出版され、その出版記念パーティーで、「もうストライキはしない。それが国鉄改革だ」と言い切り、変わり身の早さに鉄労組合長の志摩好達も驚いた
松崎は直前に動労の委員長のままJR東労組の委員長に就任、国鉄の分割・民営化への過程では「御用組合」と避難し続けた鉄労に膝を屈して擦り寄り当局の提案をすべて丸飲みにしてきたが、労働運動の主導権を手中に収めると、従来の労使協調とは違う「労使対等を前提とした労使協力」という路線を打ち出し、会社の経営方針に介入し、設備投資などの予算編成や人事にも口を出すようになる
同時にJR東日本の住田社長と松田昌士常務を褒めちぎり、蜜月関係を若手幹部に印象付ける転機となった
その間にも中核派と革マル派による内ゲバは続き、鉄道総連(後のJR総連、志摩が初代委員長)内部でも動労の革マル疑惑が持ち上がり、革マルとの関係について確答を避けた松崎動労に対する反発が志摩たちの脱退劇に繋がる
志摩は、旧国労主流派の鉄産総連との「ゆるやか協議会」を結成し、鉄道総連から脱退を表明するが、鉄労の仲間の造反に遭い、鉄労は分裂し、志摩はその責任を取って労働運動からも手を引いたが、裏には発足したばかりのJRでの労組の分裂騒ぎに自民党運輸族が横槍を入れ、その動きを察知した松田が志摩支援をストップしたことがある
松田の述懐によれば、松崎とは同年で初めて会った時からお互いに親近感を覚え、JR東日本の発展のため労使協調を確約してくれたので全面的に信用したといい、以後松崎に裏切られたことは一度もないというが、松田がその真相を一切口にしなかったこともあって、旧国鉄時代「動労の松崎」を強く批判したことを知る関係者にとって「信じられない松田の変節」と映り、実際に家族にまで陰湿な悪戯の被害が及んだという
志摩脱退後の鉄道総連を仕切ったのは、実質上部団体の役を果たしたJR東労組の松崎
動労の解散と同時に発足したのが任意団体の「さつき会」で、旧動労組合員で組織し、旧動労の資産を管理する互助団体。旧動労の福祉事業を受け継ぎ総資産は40億超
JR発足から1年余り、JR東労組の組織率は75%に達し、委員長として自信を持った松崎は、組合と会社共催の大集会で「労使関係はニアリー・イコール、1企業1組合」強調し、目の前に座る住田社長に労使協議制を提唱し、経営的事項以外に生産的事項や人事も協議の対象に含めることを承知させる
住田はこの労使対等の関係を絶賛する一方で、内ゲバによる犠牲者は止まらず
88年鉄道共済年金救済法案実現のため、組合員から臨時徴収して政界工作に3億円ばらまこうとする動きが旧動労勢力を中心に鉄道労連内部であることを産経がスクープ、その情報漏洩を巡って内部の犯人探しが起こり、89JR総連への改称を機に、指導部は旧動労一色になるとともに、国鉄で解雇処分を受けた首なし役員を組合で再雇用した

第4章          大分裂
民営化時点で再就職先が見つからない職員は7,000人、3年の斡旋期限切れを前に最終残ったのが1,047人。大半が旧国労関係で広域配転を拒否した北海道や九州地区職員が多い
その再雇用を巡って、JR西と東海は無制限の受け入れに協力したが、東はこれまでの改革で大きな犠牲を払って転退職した組合員の事を考え協力を拒否した東労組に同調してJR東は受け入れを拒否、JR総連とJR東は松崎が断固反対して孤立もやむなしと各単組に呼び掛けスト権確立を提起するとともに、スト指令権を総連に移譲することを提案し、旧動労の本心が発足3年目にして早くも丸見えとなった
各単組は総連派と松崎派に分裂、東と北海道、貨物が総連に留まり、東海、西、四国、九州は旧動労系が少数組合となって総連を脱退し、新たに「新全国産別結成準備会」を開き、既に連合に加盟していた旧国労系の鉄産総連と一緒になってJR連合を組織し連合に加盟分裂前は135千人だったJR総連の組合員数は僅かな期間に8万まで激減、95年にはJR連合の組織人員が81千を超え逆転、松崎たち革マルグル-プによる全国制覇の野望を挫折させた
松崎に抵抗してJR東日本を追われて労使関係の専門家となった元国鉄職員の証言によれば、住田・松田の松崎との蜜月により、若手改革派だった東日本の精鋭が革マル排除に動けば動くほど次々に排除。その典型は人事課長の左遷。全社総務部長会議に松崎労組委員長を呼ぶことにした松田に反対したため、松田はその案を引っ込めたが松崎がそれを聞いて激怒し、異動に圧力をかけたという。人事担当常務の大塚(のちの社長)や人事部長の清野(大塚の後任社長)も、飴をしゃぶらせて長い時間かけて牙を抜くと公言。実際松崎の影響力排除にはその後長い年月が必要となった。その後も松崎の言動によって、経営側の人間関係はバラバラにされ、社長以下が会社側の主体性と一貫性の志をもって労使関係を構築していこうという管理者一体の原則を貫くことが出来なくなっていく
松田は、組合の幹部会でも、JR東日本の諸施策実施に当たっては組合の意見を聞き了解を得ながら進めると公言し、東日本の労使関係は時代を先取りしたと自画自賛

第5章          盗撮スキャンダルと平成最大の言論弾圧事件
91年松崎の葛西叩きが始まる。革マル派の暴力装置である「非公然行動隊」が盗聴や盗撮を繰り返し、週刊誌にリークしてスキャンダルを作り上げるのみならず、JR西労組にいた旧動労派は組合を飛び出して別組織を作り、ストライキへと進む
紙爆弾による執拗な攻撃は続き、93年には葛西が暴漢に襲われ、列車妨害事件に発展。明らかに革マル派武装集団の手口ではあったが、追及に対し松崎は表面変節を装い、JR東日本は松田が社長に昇格、JR東労組の松崎体制は一層強固なものとなる  
94年松崎は禅譲を表明するが、芝居がかった大会演出で総意に押されるという形で留任、翌95年に辞任したが新設で異例の会長ポストに就く
95年暮、JR東労組内の旧鉄労の勢力が新組合結成、松崎の陰湿な切り崩し工作の繰り返しが始まると同時に、会社も妨害を決定し、人事異動で切り崩死にかかる。多くの警察OBJRには配属されており、トプは監査役にまで就任しているが、
94年には、JR東労組内のスキャンダルの特集を組んだ週刊文春に労組が反発し、キヨスクでの販売拒否に出て3か月もキヨスクに文春が並ばないという異常事態が続く ⇒ 東京地裁は文春側の主張を認め、販売拒否を違法としたが、現場は販売サボタージュで実質判決を無視。一方JR労使は名誉棄損の損害賠償で提訴
「文春の売り上げを優先する企業防衛か、言論の自由か」という一大論争の発展、江藤淳がキヨスクの名付け親の田中健吾が社長の文春の週刊誌を販売しないのは恩知らずと非難したが、文春側に写真を取り違える痛恨のミスがあったことが災いし、販売減の痛手にも耐えられずに全面降伏。JR東の労使関係の異常さに触れることはマスコミ界でタブー視されることとなった ⇒ 69年池田大作を批判した藤原弘達の著書『創価学会を斬る』の出版を巡り、田中角栄などを動員した言論出版妨害事件を彷彿とさせる
文春は、記事内容の一部訂正を認めたが、納得しない著者は『JRの妖怪』を発刊、それがJR東のリーダー研修で回し読みされたことに激怒して松崎はリーダー研修の中止を要求、会社側が受け入れたために、以後すべての運輸職場で無法がまかり通ることに
2000年のフジFNNニュースでは、JR東日本研修センターで行われた一般社員研修の規律荒廃ぶりを特集、管理者が注意しにくい職場実態の延長だと指摘

第6章          革マル派捜査「空白の十年間」の謎
K-K連合とは、昭和から平成への移行期に、中核派が革マル派を批判する際よく使った言葉で、中核派の敵である警察と革マル派が裏で繋がって、連携して中核派潰しを狙っているという意味
日本警察の戦略的ミスの1つが革マル派対策で、80年代の中曽根行革によって労働運動が再編され後退過程に入ったと見做して革マル派への警戒を解除、代わって70年代以降革マル派との内ゲバを繰り返してきた中核派や革労協など対立セクトの壊滅に乗り出す
三里塚闘争や千葉動労の多発ゲリラ事件に続いてJR発足後も次々と怪事件が発生、想像を絶する労使や労労、JR会社同士の暗闘が繰り広げられるが、治安当局もJR内部の確執を中止することはなく、さらに拍車をかけたのが95年のサリン事件と警察庁長官狙撃事件で、警察当局は大混乱に陥り、「革マル派捜査の10年間の空白」が決定的となる
狙撃事件では革マル派アジトの家宅捜索が行われ、革マルは中央とJR革マルの実態が明らかになる証拠が多数押収されたにもかかわらず、その後の追跡はなく闇に埋もれる
98年になって革マル派の豊玉アジトの強制捜査で警察無線が盗聴されていたことが判明し、革マル派の広範囲の非合法活動に確信を持った警視庁警備局が全国でも強い勢力と見られた10の都道府県を重点捜査対象地域に指定して徹底捜査を指示、次々と摘発
そのため全学連中心の革マル派中央とJR革マルが対立を始め、2000年末には旧JR東労組OBの拉致を巡って革マル派の犯行として警察に告発したJR総連に対し、革マル派中央が戦闘宣言を発出するが、JR革マル疑惑は事実として治安当局にも認識され国会でも取り上げられるようになって来た

第7章          反乱――猛獣王国崩壊の序曲
労組内にも松崎体制への反発や批判が広がり始め、それを抑える体制派による排除の動きも活発化。その典型が02年の「東京問題」 ⇒ 組合がJR東日本の人事に介入したことが明らかになった象徴的事件。反松崎で動いた過去を持つ旧鉄労出身者の昇進人事を事前に知らされていなかった松崎が激怒、会社側が蜜月の労使関係を破壊するものとして、松田の後任の大塚社長を糾弾し、順法闘争を仕掛ける。松崎自ら「ニアリー・イコール論」を幻想と切り捨てたが、会社側の方針が変わりつつあることを実感していたのではないか
松崎はJR東労組の顧問を退任するが、4つの地方本部に新たな顧問職を設け、実質支配を続ける。05年反松崎派の役員8人が辞任したことで松崎の反対派追い落としの行動はエスカレートし、JR東労組に絶対的忠誠を誓わせ、「絶対的権威者」となる
辞任の翌日浦和電車区内で革マル派7人が逮捕され、組合は冤罪事件として被告を支援、会社側は是々非々と発言し組合員の反発を招くが、有罪の判決に会社側は解雇で臨む
辞任に関しては、松崎の腹心中の腹心で03年完全引退した元JR総連委員長の福原福太郎が回顧録を出版して、経緯に疑問を呈するとともに松崎に対する絶対的忠誠を誓った労組の決定を批判したために、松崎一派による執拗な攻撃を受ける
辞任した役員は「猛獣王国」と名付けたホームページで松崎批判を展開、福原もペンネームでフィクションと断りながらも小説を自費出版し、「魚は頭から腐る」と指弾、松崎の組合資金の流用疑惑も指摘。それを契機に06年警視庁公安部による業務上横領の本格的な捜査が始まる

第8章          警視庁、「松崎捜査」へ
02年発生のJR総連役員による暴行事件に関連し、大掛かりな家宅捜査で業務上横領容疑が浮上、05年には松崎の自宅など84時間もの徹底した捜索をうける
捜索直後に文春が業務上横領容疑の具体的内容を、自社記者による記事でスクープ、11年前の雪辱を果たす ⇒ コナやヒロに豪華別荘を、品川にもマンションを所有するというもので、労組は名誉棄損で提訴するが、文春の勝訴に終わる
文春は1年前に取材して確証を得ていたが、なぜか公安部の動きが止まったために掲載のタイミングを失していたところ、05年の福知山線脱線事故で井手元社長を標的にした事故責任追及キャンペーンが始まったのを見て公安部が動きを開始、ようやく強制捜査に踏み切ったところから捜索終了を待って記事にしたもの
文春は、さらに「JR革マル派問題」の本質に迫ろうとするが、11年前の後遺症は大きく記者は断念したところ、週刊現代(講談社)への移籍が実現し、『テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実』と題する24回にわたる連載が始まる
JR労組からは中吊り広告掲載拒否が伝えられ、松崎や労組は集中的に訴訟を乱発したが、一部を除き敗訴
07年警視庁は松崎を書類送検するも被害者の協力が得られず嫌疑不十分で不起訴処分に
06年には辞任した8人組を中心に「JR東労組をよくする会」が立ち上がり、すぐにJR労組を結成、現代の連載に合わせるように「東労組執行部の行動の支柱は革マル思想」だと世間に公表、東労組本部相手に情報公開請求訴訟を起こし、革マル派43人のリストも公表
「トラジャ(インドネシア山中に住む原住民族の名)」は、旧国鉄時代に解雇され、JR発足時にも単組には属さず「職業革命家」として革マル派中央に属し、単組の指導や学習を行う者
「マングローブ」は、JR総連や各単組にいる同盟員で、全体のメンバーを把握し、カンパを革マル派中央に集金・上納する
06年黒田寛一が心筋梗塞で急逝。享年7896年革マル派議長を突如辞任。92年の自らの完全失明と天皇沖縄訪問反対運動を巡る沖縄革マル派、JR革マル派との3つ巴の権力闘争に敗れた挙句の引退で、共産主義運動は労働組合運動の展開の延長線上にあるわけではないと松崎の動きを牽制したが、以後松崎の専横が始まる

第9章          D型もD民同へ涸谷に」――漂泊する鬼の魂
08年松崎は間質性肺炎の診断。尿療法を継続、側近にも広がる
鳩山発言(沖縄基地の県外移設)と小沢の政治資金問題で厳しい状況に追い込まれた民主党政権下の政治的混迷を、JR総連・東労組の劣勢挽回、松崎体制立て直しのチャンスと捉え、10年の参院選で自分の意のままに動かせるJR総連出身者を民主党比例公認候補として送り込むことを決断、自分の委員長時代の秘書だった田城を氏名、JR連合の反対を押し切って小沢から後任を勝ち取り、同郷の山岡賢次の応援を得て宇都宮に選挙事務所を開設するが、すぐに自民党が同県選出の佐藤勉元国家公安委員長を中心にJR東の革マル問題として取り上げ、国会での論戦を復活させ、鳩山内閣もJR東労組に革マル派が浸透していることを認めざるを得なくなり、立候補が藪蛇となる
民主党大敗の中、田城は民主比例の16人中14番目で当選したが、月刊『新潮45』の記事を機に自民党などの「過激派・革マル派の追求」に拍車がかかる ⇒ 新幹事長に就任した枝野が96年の衆院選挙でJR労組大宮支部委員長と覚書を取り交わし、選挙協力の見返りとして、「(活動方針を)理解し、連帯して活動する」ことを約束していたことが暴露され、国会での議論がテレビを通じて全国に流れる
松崎の動静はすっかり姿を消し、宇都宮の自治医大病院に転院したころから病状は急激に悪化。死期の近いことを自覚した松崎が詠んだ句が、「D型もD民同へ涸谷に」で、「闘う動労型労働運動」の水源が枯渇して、涸れ谷になろうとしているという無念の思いを込めたのだろう
1012月死去、享年74。年明けの機関誌の巻頭言の筆者は「編集部一同」となっており、その後の集団指導体制を暗示するが、「あなたの鬼の魂は私たちの魂に溶け込み、いつまでも燃え続ける」としたが、革マル派中央は沈黙したまま。敵対していた革労協も、JR東日本労政の転換を察した絶望死と断定
JR東日本は組合に対し「是々非々」を宣言した冨田新社長は、直後に動き出し、新人事・賃金制度を組合に提案、労使関係の正常化へと舵を切る
国会でのJR革マル派浸透問題の追及も再燃、新官房長官の枝野を吊し上げたが、記憶にない、知らないで通す
松崎チルドレンが推測する松崎の遺訓:
     会社に「労政変更」だけは絶対にさせてはならない
     国鉄改革時の「松崎・動労のコペ転」を範とせよ(革マル派組織の維持・拡大こそ第一義)
     今は暗黒時代。嵐の時に登山するものは馬鹿者(国労崩壊がよい例)
     革命の志を捨てず、ひたすら耐え忍んで、時節の到来を待て
     たとえ「御用組合」と批判されようと、党中央への資金源として機能すれば、今はそれが正義である
     思想教育を怠るな。現場長の「かんり組合」に広く深く根を下ろせ
     革命へのさえ堅持すれば、暗黒・嵐の時代に会社に従うのは恥ではない
     上記の事柄を銘記し、「最大多数組合の座」を死守せよ

第10章       34500人の大脱走
18年に入ってJR東労組からの脱退が激増。47千から3.5か月で14千に落ち込む
発端は春闘での賃上げを巡るスト権確立 ⇒ 会社側はスト決行による世論の批判を覚悟の上で「労使共同宣言」の失効を通告したため、組合もスト突入の力はなかった
自民党による1強他弱政権下、会社側にとっては長年懸案だったJR総連・東労組内の革マル派一掃に向け大きなチャンスが到来するが、東日本大震災で3年頓挫したのち、14年初首都圏の電車区再編を組合に申し入れ、組合内部では「スト提起」が反対派の圧力で採決に持ち込めず、会社側のペースで一方的に進められ2年弱で労使交渉合意
後手に回った組合と会社側にしこりが残り、組合は通年のスト権確立を決議、さらに17年の賃上げでも「格差ベア反対」を唱え、18年の春闘でも同様の主張をするとともにJR発足後初の「争議行為の予告」。会社側は官邸にも報告し強硬な態度を貫く。この頃組合員の大量脱退が始まり、会社側による団体権の侵害だと強く非難する組合に対し、会社側のみならず組合員までが反発
団交開始直後に、組合側が勝手に、会社側と合意したとしてその内容を公表、闘争解除指令を出したため、会社側は「争議行為の予告」を含む組合側の勝手な行為に対し労使共同宣言の失効を宣告し、会社側方針に従ったベアを通告し組合が屈服
組合は、12地方本部のうち3本部が不当労働行為として労働委員会に救済を申し出たが、残りはその動きを批判し、組合はそれぞれの主張に沿って4つに分裂
組合の定期大会では、3本部の責任を厳しく追及、新執行部が会社に恭順の意を表す
警察当局では、3本部を中心に1000人近い革マル派の中核部隊が残っているとみており、彼らによるものと思われる不審な列車妨害事故が頻発
脱退した組合員がほかの組合に加入する動きはほとんど見られず、組合加入率は25%を斬り、特に若手社員は組合離れが顕著。代わりに各職場に生まれたのが「社友会」という親睦組織で、三六協定も職場ごとの社友会との間で締結
松崎が発言の場として心血を注いだ国際労働総研の雑誌『われらのインター』も廃刊へ
JR北海道は今でも革マル派が支配すると言われる組合と労使共同宣言を結び、宥和路線を進んでいる。総連傘下の北鉄労の組織率が9割以上。松崎の腹心が委員長となって同じ労使関係を北海道で忠実に再現。11年の石勝線トンネル内火災事故を始め事故が続き事業改善命令が出され、三六協定違反も発覚し是正勧告を受け、混乱の中で社長が自殺。その後も事故は頻発、国交省の特別保安監査が続く中、14年初には2代目社長が自殺
松崎の亡霊が北海道を彷徨い続ける中、JR北海道の異常事態の真相に迫る調査報道は皆無

あとがき
松崎とJR革マル問題は、JR発足から30年余りにわたってマスコミ界ではタブー視
週刊文春はキヨスク販売拒否事件で屈し、週刊現代も50件もの訴訟の嵐に見舞われ、平成時代最大の言論弾圧事件となって、長い間マスコミ界のトラウマとなった
記者時代タブー視してきた過去への拘りもあり、17年に『昭和解体――国鉄分割・民営化30年目の真実』を発刊した時点でも、いずれ平成時代のJRの真実を書こうと決めていた
長年タブー視されていたことを言い訳に、JR革マル問題からあえて目を背けてきた苦い思いと強い反省が、本書を執筆する強い動機
国鉄改革3人組のうち、井手と葛西は松崎の革マル派の本性を見抜いていち早く訣別したが、松田は癒着が批判されるほど松崎と濃密な関係を築き、発足直後の労使関係の安定に寄与したことは否定できないものの、松崎の影響から脱するのに30年以上もの時間を必要とした
松崎のコペ転は明らかに偽装であり、マルキストとして革命家の信念を生涯貫き通した
昭和から平成にかけての組合指導者として1級の人物であったことは間違いないが、歯向かう者たちに見せた裏の顔と批判者を罵倒する鬼の声は別人で、後半生は組織を私物化し批判を許さない暴君となった
平成という時代は、戦後昭和からの脱却を目指したにもかかわらず、結局はその清算も総括も実質的には成し得ず、戦後昭和の影を30年にわたって引き摺り続けた時代で、それが象徴的に現れたのがJRの裏面史であり、「天使と悪魔」2つの顔を持った松崎は、戦後昭和の影の中を彷徨い続けた妖怪だった
日産ゴーン事件で思い出したのが昭和40年代の同社で日産の天皇””影の社長と呼ばれるほどの絶対的権力を握った組合指導者塩路一郎。総評内で全国最強の労組だった全日本自動車産業労働組合日産分会に対抗して結成された第2組合の日産自動車労組の組合長となり、自動車総連会長を長く務め、会社側と手を握って蜜月関係を築き、会社の人事や管理権を実質的に手中に収め絶対的な権力をふるい専横を極めた。御用組合の塩路と過激な労働運動を展開した新左翼の松崎では、思想も行動も異なるが、労働組合運動で組織を私物化した2人の人物の人生模様には共通点がある。民主的であるはずの組合や会社を舞台に「権力は腐敗する」という問題が繰り返された

                           


(売れてる本)『暴君 新左翼・松崎明に支配されたJR秘史』 牧久〈著〉
2019830500分 朝日
写真・図版
 労組を牛耳った男の不気味さ
 先日、久々にレンタルビデオ店に入って目を見張ったのは、いわゆるヤクザものの圧倒的な多さである。反社会勢力に対する視線がこれだけ厳しくなっているのに、相変わらず「暴力と抗争」に惹かれる日本人が大勢いるのだ。
 本書の帯には、〈巨大企業を恣にした「暴力と抗争」〉とある。この本が広く読まれている理由の一端が、垣間見えた気がした。
 もっとも主人公は暴力団の組長ではなく、日本最大の公共交通機関・JR東日本の労働組合に君臨し、「JRの妖怪」と恐れられた松崎明という人物である。私は本書を通じて、現代の日本につい最近までバリバリの革命家がおり、大企業の実権を握って、将来の共産主義革命に備えていた事実を詳細に知った。
 もはや昔話だが、JRの前身の国鉄には、国労”“動労”“鉄労の三大組合があった。動労の松崎は、昭和末の国鉄民営化が不可避とみるや、「コペルニクス転換」を遂げる。それまで敵対してきた鉄労に頭を下げ、最大労組の国労を切り崩しにかかるのである。
 そこには深謀遠慮があった。JR設立後、国労に取って代わって労組を牛耳り、経営にも参画しようというのだ。作戦は図に当たり、JR東日本の「影の社長」と呼ばれるまでになるが、彼の実践を支えていたのが、徹頭徹尾、新左翼組織革マル派の革命理論であったことを知ると、不気味さを禁じえない。
 こうした不気味さは、松崎の背後で、総計86人もの死者を出した内ゲバが激化し、腹心が次々に殺傷されていく場面で、いや増す。半面、彼は親分肌で、会った人を魅了する人間味も兼ね備えていた。尿療法を信奉する健康オタクでもあったが、組織衰退の失意の中、2010年に74歳で病死する。このずしりと腹にくる「暴力と抗争」の一大クロニクルを読み終えて、私がふと思いを馳せるのは、ミサイルをまたしきりに飛ばすようになった、あの三代目の首領(ドン)の姿なのである。
 野村進(ノンフィクションライター)
    *
 小学・2160円=5刷1万7千部。4月刊行。著者はジャーナリスト。中高年の男性によく読まれている。「これが平成の時代に起きた出来事かと驚く人が多い」と担当者。

Wikipedia
松崎 明(まつざき あきら、193623 - 2010129)は、日本労働運動家革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)創設時の副議長。鉄道労連(後にJR総連)副委員長、東鉄労(後のJR東労組)委員長を務め、JR東労組会長、顧問を務め、事実上JR東労組のトップだった。
人物[編集]
埼玉県出身。埼玉県立川越工業高等学校卒。愛称は松っつあん。
革命的労働者協会活動家の松崎重利は実父が同様に国鉄職員で姓が同じため縁戚関係にあると誤解されることがあるが、縁戚関係及び政治活動面では無関係である。
国鉄動力車労働組合元委員長を務め、JR総連JR東労組顧問を務めていた。
思想・活動[編集]
黒田寛一から厚い信頼を受けており、革マル派結成時の副議長(組織名:倉川篤、愛称:クラさん)であったことは松崎本人も認めている(松崎明『松崎明秘録』(同時代社))。1970年代から次第に革マル派から離れ、JR総連幹部になった頃には関係は切れていたと松崎は主張している。
動労ではカリスマ的な指導力で、闘争を高揚させて国鉄労働運動、ひいては総評労働運動をリードしてきた。その頂点が1972年のル生反対闘争であり、国鉄総裁が国会で陳謝して勝利解決した。その闘いから「鬼の動労」と呼ばれるようになる。
その後は、動労内の反主流派を積極的に排除する動きをみせるようになった。「共産党系活動家」として排除された者達(背景に共産党が「『スト万能論』批判」を行ったことがある)が1974年に全動労を結成、「中核派活動家」として排除された者達(背景に成田闘争への立場の違いがある)が1979年に動労千葉を結成して、動労は分裂した。これらの動きにより中核派との抗争が激化し、松崎個人に対して宣戦布告とも言える「カクマル松崎せん滅」のスローガンを突きつけられることになる。また、右翼団体からも言動・思想で対立軸になっている為批判をされているが、一水会鈴木邦男とは反権力・反公安で親交があった。
1975年のスト権ストの敗北以降、春闘でのストライキはあったものの、1980年代の国鉄分割民営化においては激しく闘うことはなく、組合員の雇用を守るため、民営化に協力している。その際、過去の闘争を否定し、国鉄幹部や自民党議員との会談において「私は犯罪者でした」と語るなど「転向」した(いわゆるコペ転)。JR以降の思想と行動は東日本会社との蜜月関係である「労使協調」を除けば、反戦運動を闘争方針に掲げたり、月刊誌「自然と人間」では過去の動労の闘争を再評価するなど、「動労に先祖返りした」と言われる所以である。1986年自民党機関誌、自由新報の「生まれかわる国鉄 関係者に聞く」(1986429日)にインタビュー記事が掲載される。
20071130日、警視庁公安部は、松崎をJR総連の内部組織「国際交流推進委員会」の基金口座から3000万円を引き出し横領した業務上横領容疑で書類送検した。直後に松崎はハワイ高級住宅街にある別荘を3千数百万円で購入。この購入資金は同協会職員の個人口座を通じてハワイの不動産会社に送金されており、公安部は横領した金が充てられた疑いがあるとみた。松崎は「妻名義の土地を売却して得た資金なども口座に入っており、私的流用はしていない」と容疑を否定。JR総連も「横領された事実はない」とした。20071228日、東京地検は嫌疑不十分で不起訴処分とした。
2010年、かつての宿敵・中野洋(元動労千葉委員長)の逝去にあたり、『われらのインター』31号(2010.4.15)に追悼文を発表し、「革共同が分裂し、私は革マル派、彼は中核派のメンバーとなった。党派の対立の中で袂を分かつことになった。……共に闘い抜きたかったが、路線の違いは致し方ない。しっかりと目を見開いたままの戦闘態勢を堅持した中野洋さん、心から称え、冥福を祈ります」と記した。かつての宿敵の死を追悼したこの寄稿が、皮肉にも松崎にとっての遺作となった。
松崎明の逝去に対して、革マル派は機関紙『解放』ほかの自己刊行物で完全に沈黙した。201133日、都内のホテルでJR総連・JR東労組主催の『松崎 明さんを偲ぶ会』が開かれ、約2000人が出席し、佐藤優らがあいさつした。
主な経歴[編集]
1954国鉄入社試験に合格したが自宅待機。日本民主青年同盟(民青)に加入。
1955、臨時雇用員として松戸電車区に配属。日本共産党に入党。
1956、国鉄職員となり、尾久機関区に配属。機関車労働組合(後の国鉄動力車労働組合、動労)加入。
1957黒田寛一と出会う。
1959、共産党を離党。
1961、動労青年部を結成、初代青年部長に就任。
1963、動労尾久支部長に就任。革命的共産主義者同盟が分裂し、黒田寛一率いる革マル派につき副議長に就任。動労青年部長引退。尾久・田端統合反対闘争で逮捕され、国鉄を解雇される。
1969、東京地方本部書記長に就任。
1973、東京地方本部委員長に就任。
1985、動労中央本部委員長に就任。
1987、鉄道労連(後のJR総連)副委員長、東鉄労(後のJR東労組)委員長に就任。
1995JR東労組会長に就任。
2001JR東労組会長を退任、顧問となる。
2003、すべての組合役職を退職。
2007、業務上横領容疑で家宅捜索を受ける。
20071130日 業務上横領容疑で警視庁が書類送検 一部のマスコミはJR東日本労組元会長などの匿名表記で報道した。
20071228 不起訴処分となる。
2008129日 不当捜査による精神的苦痛・社会的信用失墜を理由に、東京都や国に損害賠償を求める訴えを起こす。
2010129日、特発性間質性肺炎で死去(享年74)。







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