マッハの恐怖  柳田邦男  2019.10.12.


2019.10.12. マッハの恐怖

著者 柳田邦男
Wikipedia 193669現:鹿沼市生まれ。ノンフィクション作家評論家。航空機事故、医療事故、災害、戦争などのドキュメントや評論を数多く執筆。妻は絵本作家の伊勢英子。娘にカメラマンの石井麻木。栃木県立鹿沼高等学校を経て、60東大経卒。同年NHK入局。広島放送局へ配属。63年東京・社会部に配属。66年に遊軍記者として全日空羽田沖墜落事故カナダ太平洋航空機墜落事故BOAC機空中分解事故を取材。71年にこれらの事故を追ったルポルタージュ『マッハの恐怖』を発表し、第3大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
74NHKを退職、現在までノンフィクション作家として活躍。以前は航空評論家として航空機事故の際NHKの解説委員として出演することも多かった。主に事故、災害など「クライシス・マネジメント」に関する著書を執筆するが、『零戦燃ゆ』などの戦史ノンフィクションも手がける。
1985812日本航空123便墜落事故発生時、多摩の自宅に居た柳田は、当時NC9ニュースセンター9)のキャスターだった木村太郎からの出演要請を受け、タクシーで1時間かけてNHKに赴き、報道特別番組に航空評論家として出演した(なおこの特別番組は柳田のノンフィクション『マリコ』のドラマ番組を中断して放送された)。局に向かうタクシーの中で、テレビの1-3チャンネルが受信できる携帯ラジオを使ってNHKテレビのニュースを聴きながら事故の全貌を分析したという(『事実の考え方』)。
95年、精神を病んだ次男が自殺する体験を綴った『犠牲(サクリファイス) わが息子・脳死の11日』を発表し、文藝春秋読者賞、第43菊池寛賞を受賞する。それ以降、精神論・終末医療などの著作が増え始め、その中で若者や若者文化(ネット・ゲーム・携帯電話)への強い批判を表明し始める。99年「脳治療革命の朝」で、12年「原発事故 私の最終報告書」でも文藝春秋読者賞受賞。
99年に出た伊勢英子との共著『はじまりの記憶』の巻頭の対談では、次男の自殺以後、伊勢を挿画家として紹介され知り合ったとある。
057月、日本航空「安全アドバイザリーグループ」の座長に就任。05年環境省「水俣病問題に係る懇談会委員」(-06)08年毎日新聞社「開かれた新聞」委員会委員。08子どもの徳育に関する懇談会委員
高野山大学の学外組織として05年に発起された「21世紀高野山医療フォーラム」では理事長を務め、開会の挨拶や公演などを行っている。[2]
その他には、18現在司馬遼太郎賞吉川英治文化賞の選考委員を務めている。
また、115月、政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会のメンバーの一人に選ばれた。[3]

「開かれた新聞」委員会[編集]

毎日新聞社が社外の言論関係者から意見を聞く「開かれた新聞」委員会の委員を務めている。20087月には毎日デイリーニューズWaiWai問題について、委員としての見解を寄せている[4]
この中で柳田は、読者に真摯に対応しなかった毎日新聞を批判したが、一方で「失敗に対する攻撃が、ネット・アジテーションによる暴動にも似た様相を呈しているのは、匿名ネット社会の暗部がただごとではなくなっていると恐怖を感じる」と批判の矛先を毎日新聞だけでなくこの不祥事を広く世間に知らしめたインターネットにも向けた。このコメントに関しては賛否が分かれ、元毎日新聞記者の佐々木俊尚等は批判している[5]

ネット・ゲーム・若年層に対する否定[編集]

近年ではネット、ゲーム、若年層に対する否定的な見解を述べているが、それらは主に下記の通りである。
·        ネットやコンピューター・ゲームが「ゲーム脳」を作り、子供をだめにしている
·        ゲームにふけっていると仮想現実の世界と現実の世界の区別がつかなくなる
·        若者たちはいまや総ケータイ依存症になっているから、自分たちを変だとは思わない
柳田の弁によればその根本は「ネット社会がこの国から奪いつつある『大切なもの』を守ろう」という思いから来ている(『人の痛みを感じる国家』)。
しかしながら、これらの考えの科学的根拠について、柳田は 「一人一人の人生に関わる人格形成の問題を、生身の子どもを実験台にして明らかにするなどと言うのは、もってのほかだ。 科学的な証明が必要だという批判は形式論としては正しくても、現実の問題としてはむちゃくちゃな話だ。 それは単なる科学主義に過ぎない。」 と、『壊れる日本人』内で述べている。

受賞[編集]

·        1972 マッハの恐怖』で第3大宅壮一ノンフィクション賞[6]
·        1979 『ガン回廊の朝』で第1講談社ノンフィクション賞
·        1984 報道記者としての業績を顕彰し、ボーン・上田記念国際記者賞
·        1986 38日本放送協会放送文化賞受賞
·        1995 『犠牲(サクリファイス) わが息子の脳死11日』などノンフィクション確立・貢献で菊池寛賞、文藝春秋読者賞
·        1997 『脳治療革命の朝』で第59文藝春秋読者賞
·        2013年 「原発事故 私の最終報告書」で第74回文藝春秋読者賞

発行日             1971.3.             1983.8. 改訂版
発行所             フジ出版社

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今回は、文藝春秋の『同時代ノンフィクション選集 第9巻 技術社会の影』(柳田邦男責任編集、1992.11.1. 第1)で読む


解説 破局からの再生の道  柳田邦男
体験に根差すテーマ意識は「なぜ書くか」という問いに対する解答そのもの。私の場合は、少年時代に空襲に遭遇、戦後父と兄を相次いで結核で失い、家が経済的に困窮するという一連の体験が、現代人の直面する戦争、病気、事故といった不条理な生と死の現実を見つめ、記録していこうというテーマ意識の源泉になっている
NHKの社会部遊軍記者として、重視された大きな事故や災害の報道の取材のうち、影響を受けたのは66年の連続航空事故、64年新潟地震~68年十勝沖地震、70年の公害事件の3つで、これらの体験が問題意識へと膨らむ過程で重要な本との出会いがあった
l  66年連続航空事故
1か月余りの間に起こった3件の国内線ジェット機の事故で、新聞各紙はベテラン記者が毎日のように墜落原因を推測する記事を載せたが、大半は物的な証拠があっての推論ではなく時間がたつと修正を要するものばかりで、どうすればいいか暗中模索の日々に航空局の検査官から薦められたのがアメリカの航空専門ジャーナリスト、サーリングの『The Probable Cause・・・・The Truth About Air Travel Today
そこでは、世界初のジェット機として52年登場したイギリスのコメット機が設計者の知識不足による与圧胴体が確保すべき設計強度の不足から就航2年後に空中分解の大惨事を起こした例を取り上げ、航空界の過ちの中には、パイロットが操縦桿に触れるずっと前の設計図の上ですでに芽生えていたものがいくつかあると紹介
日本のジャーナリストや作家は、科学や技術の問題に深く立ち入るのを避けてきたが、高度な技術が一般の人々の日常生活と生命に密接に関わり合いを持つようになった現代において、避けて通れない真正面から取り組んで現代人の生と死の物語の中にしっかり書き込むべきと考えた
l  大都市崩壊の危機 64年新潟地震から68年十勝沖地震
航空事故の追跡取材と並行して、災害取材班の一員として松代群発地震の取材も行う
66年には発生頻度が多くなり、善光寺地震のような大地震を予感させたが、2年前にも新潟で大きな被害が出ている
問われたのは地震学。地震の原因をどう説明し、大地震の可能性の有無をどう判断するか
松代地震は、日本の地震学を大きく前進させる役割を果たしたとはいえ、確固たる根拠を持った予知には到達できず。25年後の雲仙・普賢岳の噴火に至っても本質的に変わらず
3年松代地震が続いてほぼ終息したころ襲ったのが68年の十勝沖地震で、電電公社のマイクロ回線の切断が混乱に拍車をかけた
首都東京で起こったとしたら、という懸念から、関東大震災の教訓を得るために読んで刺激を受けたのがリーダーズ・ダイジェスト記者の『正午2分前 外人記者の見た関東大震災』
地震災害にしても、台風災害にしても、重要なポイントは都市災害の形態をとることで、事故や公害と同様に高度技術社会に特有の構造
その後、防災キャンペインのための啓蒙書として『地震に備える』「台風に備える」を書いて、過去の災害の教訓を整理し、予想される大地震の被害を想定ドキュメントとして提示し、防災への関心を高めようとした
l  「地球管理計画」の発想 70年の公害事件
NHKの大型番組《'70年代われらの世界》で、これからの日本がどういう道を選択すべきかを追って問題提起したとき取り上げたのが公害問題。産業化社会が抱える普遍性のある問題として位置づける必要があり、地球規模で公害と環境破壊の問題に取り組むべき時期にあることを訴える
そのときにインパクトを受けた本が、反公害の象徴的存在だった2氏、宇井純の『公害の政治学――水俣病を追って』(68)とレイチェル・カーソン女史の公害問題の古典とされる『沈黙の春(旧題:生と死の妙薬 自然均衡の破壊者化学薬品”)(64)
公害に対する日米の違いは、政治と行政の対応で、アメリカでは早々に政府と議会が調査に乗り出し農薬対策を打ち出したのに対し、日本では政治も行政も経済成長優先の政策に沿って企業を擁護し対策を先送りした。その最悪の事件が水俣病

70年代以降になると、急激な経済成長と日本列島の工業都市化の歪が全面的に表面化したのを反映して、それにまつわる問題を告発するドキュメント作品が急増、テーマも多様化
多くのジャーナリストやノンフィクション作家が、高度な技術の知識を必要とする問題に真正面から取り組むようになり、同時に人間を見据える目を忘れない
事故という問題が、ノンフィクション分野のテーマとして、次々に書かれ、11件の「なぜ」に対し詳細な解答が求められる時代になった
事故、災害、公害・環境破壊は、それぞれ重なり合う性格を持つ ⇒ 究極は原発事故
チェルノブイリの原発事故では、旧ソ連ですらドキュメンタリーが描かれるようになった
日本における災害や公害・環境問題に関するドキュメントや評論の傾向も70年代以降大きく変わる。災害については最早自然災害ではなく都市災害であるという視点で描かれる
現代は、未来の破局を予想し、その現在への逆照射によって、何をなすべきかを考える時代で、地震対策はまさにそうだが、公害・環境破壊への対策もまた同じ
92年のブラジルでの世界環境サミットを目指して種々出版された中でぜひ読んで欲しいのは、アメリカの自然環境問題の作家シューマトアの『地球は燃えている』とアメリカの科学ジャーナリスト、レヴキンの『熱帯雨林の死』で、アマゾン流域の熱帯雨林を守る運動の先頭に立っていて暗殺されたゴム採取人シコを主人公に、地球環境破壊への警鐘を鳴らした重厚なドキュメント。熱帯雨林保護の運動家は次々に消されている。森を焼くことによって大規模な牧場を作り大きな収益を挙げようとする人間(暗殺者となる牧畜業者に代表されるブラジルのマジョリティ)と森に依存して生きている少数民族インディオやゴム採取人との熾烈な生存競争があるが、基本構造において水俣病の相似形
公害先進国として様々な体験をしてきた日本は、地球環境に対する倫理、いわゆる環境倫理の裏付けを持った経済活動のスタイルを今こそ確立して、その指導国になるべき時期に来ている。それこそが日本及び日本人が21世紀を目指して変身すべきターゲットだ


『マッハの恐怖』
1部 
66.2.4.札幌雪まつりから帰京する客を乗せた全日空60便ボーイング727型機JA830218:50東京アプローチ(進入管制)と交信を開始。IFR(計器飛行)の許可を求めて千葉市東部まで来た後、VFR(有視界飛行)での着陸許可を求めてくる。どちらを選ぶかは機長の判断
同時刻に日航のコンベア880型機が木更津上空からIFRで着陸進入に入りつつあったため、管制官は全日空機が東京湾沿いに近回りをして先に着陸するものとみて、日航機をそのあと同じ滑走路におろすつもりでいたが、日航機の赤い航行灯が光るのが見えても全日空機が来ないので、全日空機にコンベア機が視認できるか問い合わせたところすぐに「視認できない」旨の返事が来た。管制官は、全日空機が東京湾岸沿いではなく千葉から直接羽田の滑走路に入る最短距離を取ったものとみて、日航機に進路を変えさせ隣の滑走路への着陸を指示し、19:00:51全日空機には着陸灯を点灯せよと指示を出したが何の応答もなかった。日航機が着陸してもなお全日空機は姿を見せないどころか、交信すら求めてこない
滑走路は不気味な静けさを保つ。レーダー室でも全日空機の機影は見えないという
19:30捜索救難調整本部立ち上げ。19:34臨時ニュースがNHKラジオで、19:40にはNHK総合テレビで流される
乗客126乗員7133人全員絶望となれば、1機の航空機事故としては世界最大の惨事に
23::35千葉海上保安部の巡視船が最初の犠牲者と機体の一部を発見
2:00ごろまでに22体収容
墜落地点は羽田沖東方約14㎞付近と推定。何人かが火柱を目撃していた
遭難から2日後、海底に沈む機体の主要部を初めて発見してフィルムに収め放映するとともに、全日空の専門家に見てもらう ⇒ 垂直尾翼の付け根のすぐ前の胴体部分に大きな割れ目がある
事故翌日政府は、事故原因究明のため、民間専門家と航空局幹部による「全日空機羽田沖事故技術調査団」を設け、日大の木村秀政教授が団長に指名
東京海上保安部と警視庁は、合同捜査本部を置き、刑事責任追及を開始。東京地検も刑事部長を主任検事として捜査体制を作る
ボーイング72710年の開発期間を経て63年初飛行した新型ジェット機で、翌年5月には全日空が札幌線にチャーター機として就航。3発リアエンジン形式で機体の中心線近くに集められているために低速時でも安定性が優れ、エンジンが1つ停止しても左右のアンバランスが少なく操縦性・安定性も高い、短い滑走路で離着でき、航行速度も速い
658月シカゴのオヘア空港に向かっていたユナイテッドの同型機がミシガン湖上空で行方不明となり、墜落が確認されるが原因不明なまま、3か月後シンシナティ空港でアメリカンの同型機が、さらに3日後にはソルトレークでユナイテッドの同型機が、いずれも着陸寸前に墜落炎上しており、全日空機で連続4機目
航空機事故の原因調査は、多くの場合生存者がいないこともあって、多くの困難を伴う。最初の試練はイギリスのコメット機の墜落事故で、米ソより早く52年に民間航空路に就航された世界最初のジェット旅客機だったが、2年後に乗客29名乗員6名を乗せたままエルバ島付近に墜落。原因不明のまま2か月後に飛行を再開したところ、1か月もたたないうちに地中海上で惨事が発生、乗客14名乗員7名が死亡
判明した原因は、1万メートルの高度を飛ぶために、機内を呼吸可能な空気に圧搾する。これを与圧というが、与圧によって機体の受ける力(=張力)は、プロペラ機に比べ2倍になり、しかも時速900㎞というスピードのため空気との摩擦によって生じる猛烈な熱の重荷を負わされた。これらの設計者にとって予想外の過重な負担は、機体の最も弱い部分に逃げ道を探し、歪みが集中したのが最前部操縦席の窓枠だった。そこのひび割れが飛行を重ねるうちに突然裂け目となり、与圧された機体が爆発的に分解したというのが原因
9日目にエンジンの引き揚げ ⇒ 尾部の水中調査で脱落が確認されていた第3エンジンではなく第2エンジンで、接水の衝撃か何かの理由で外に飛び出したもの
航空局の事故調査の第1人者の楢林は、現場のたたき上げの調査官で、第3エンジンが離脱してなくなっていることに注目、引き揚げを待った
木村団長は航空工学の権威、27年東大航空卒、38年長距離飛行で世界記録を打ち立てた「航研機」の車輪の設計を担当、戦後は初の国産旅客機S11の技術委員長、ボーイング727の国内線導入には積極的な推薦役を果たし、羽田沖事故後も727型機の一般的性能に関しては極めて優れた飛行機と言い切っている
14日目に発見された第3エンジンは第2エンジンより北に70m離れた地点。楢林は取付ボルトが金属疲労で切れたような貝殻状の縞模様が見えたがどんどん変色していった。すぐに機体構造の専門家で団員だった山名東大教授に見せたが、破断面の外見だけから判断するのは無理となる
羽田で団員を集めて行った機体部品の点検で楢林はボルトの折れ具合や尾部胴体側に残された打痕の意味について精力的に説明、前方上側のボルトは接水による衝撃で切断されたとは考えにくいとの見解を述べたが、多くの団員は半信半疑
この日の情景は、その後様々な曲折を経ることとなった事故調査の行方を、象徴的に暗示するもの ⇒ 事故と事故調査にまつわる様々な黒白のはじめ
記者会見での木村団長の説明は、「今日は見ただけ。ボルトとか何かが壊れているなどといったら、727型機を使っている日航だって困る」と、利用者不在の発言に終始
329日の合同追悼法要では、まだ6人の遺体が上がらず
残骸の中に原因を見出そうとする楢林氏らのやり方とは別に、降下時の操縦技術に焦点を合わせて事故を理解しようとする考え方があり、それが日がたつにつれ支配的になる気配だった ⇒ 早く昇って早く降りることで巡航速度で飛ぶ区間を長くして経済効率を高めるというのが727型機の特性であり、従来の旅客機と比べると「急降下」に近い降り方
727型機の連続事故のうち少なくとも2件までが降下時のパイロットのミスであることが明らかになっており、アメリカ民間航空委員会によって日本側調査団にも早い段階で前以って伝えられていた ⇒ 両機ともフライトレコーダーを搭載していたので原因究明は容易。シンシナティでは有視界飛行で着陸進入をしていた際雷雲に気を取られ、高度計を見たときは既に空港の滑走路より低いところを飛んでいて激突したものであり、ソルトレークでは急激な効果に副操縦士が気付いてエンジンの推力を上げようとしたが機長がまだ早いと言って静止したためそのあと気付いて推力を上げようとした時には手遅れだった。その時点でミシガンの事故についての原因は不明
215日のUPI電は、「アメリカ連邦航空局FAAには、全日空機の事故ではソルトレークやシンシナティよりも降下率が高かったとの報告が届いている。全日空機はこの高い降下率を抑制し推力を増す措置をとるのが遅すぎたと示唆されている」との内容を伝え、FAA727型機を使用している各国の航空会社17社を集めて、727型機の構造や性能には問題はなく、操縦士の注意として高度の確認を念入りに行うことと、低空での急降下はしないことなどを勧告
調査団の中から急に「実験飛行」のアイディアが出され、同型機を使っていろいろな降下率で飛んでみたところ、降下率に無理のないことが判明、団長も国会で「人間的な要素」に焦点を当てて調べてみる必要があると発言したところから、一気に操縦ミス説が強まった
414132人目の遺体が上がった後、最後の1人の遺族がこれ以上迷惑かけたくないとして運輸大臣に捜索打ち切りを申し出、510日にすべての捜索が打ち切られる
調査団では、夕暮れの降下時に資格が暗闇になれるまで正確な高度の認識が出来なくなったり高度計の目盛りも読み取りにくくなるという問題を実験で検証しようという動きがあり、原因としてはかなり「黒」っぽいと判断された
89日最後の遺体が横須賀市に漂着

23部は割愛

4
67年夏、BOACやカナダ機の調査は終わったが全日空機の調査は進まず原因究明を諦めかけていた矢先、最終列の乗客の遺族のインタビュー記事がカトリックの女子修道会の修養誌に載っているのを読む。いつもはポケットにしのばせておくロザリオを遺体は首にかけていたというのを不審に思った全日空の同僚パイロットの言葉から、ロザリオを首に掛けなければならない事情があったことと、首にかけるだけの時間的余裕があったことが推測される。他の遺体でも偶々乗り合わせた全日空社員が救命胴衣を手に掴んだ姿で揚収されたり、夫婦で抱き合った遺体、それも1人はベルト痕がありもう1人はなかったことなども合わせると、謎は深まる
楢林氏は、正常な状態から外れているものをいくつも発見して、我々も確認していたが、調査団の公式会議で詳しく検討されたことはなく、色褪せていったこともあったから余計ロザリオの謎に固執
     右側第3エンジンだけの針が低い出力を指していたり、エンジン火災の時に燃料供給を止めるエンジン消火レバーに引っ張った形跡があるなどの異常
     客室後方の乗降用ドアや緊急脱出口のハンドルがになっていた
     客室中央部右側のギャレイのドアに緊急脱出用シュートを取り付けたような形跡あり
     機長側のスライド窓の操作ハンドルがになっており、窓は外れていた
     座席の安全ベルトのうち27%は取り付け部に荷重が加わった痕跡がない。27%が安全ベルトをしていなかったとみられる
     救命胴衣は98個揚収されたが、うち33個はつまみが引かれ膨張状態
681月現物調査小委員会の調査終了を機に調査団の会合が開かれ、終了後に木村団長から記者団に対し、調査結果の報告と、現物調査と試験の終了により、最終報告書の作成にかかるとの説明。事故原因に関わる初めての公式発表だった
     運航関係 ⇒ 現場までの降下は性能の範囲内であり、無理はなかった
     証言関係 ⇒ 目撃証言から火塊又は煙の発生については確実と認められるが、時間や場所については不確かな資料しか得られなかった
     気象関係 ⇒ 明らかに事故の原因となるような気象条件は発見されなかった
     構造関係 ⇒ 特に事故の原因となるものは発見されず。エンジン取り付けボルトン破損は接水時の衝撃に依るもので事故原因とは無関係
     系統及び装備品関係 ⇒ 特に事故の原因となるものは発見されず。楢林の指摘は大半が接水時の衝撃によるものと推測され事故原因とは無関係
     エンジン関係 ⇒ 内部故障に基づくエンジンの不具合はない。消火操作ハンドルの謎についても接水後に動いたと推測され事故原因とは無関係
     現物調査所見 ⇒ エンジン以外がわずかしか揚収されていないが、異常はない
直前にミシガン湖の調査結果が公となったが、原因不明のまま調査が打ち切られながらも、パイロット・ミスに因る事故の可能性を示唆しているもので、羽田の参考にはならない
木村報告が遺体の問題に触れていないことに疑問を感じ、67年末に団員だった監察医務院長によってまとめられた検死報告書を読むと、10名の溺死者のうち5体は外表に全く致命傷がなく、報告書でも「事故機が海中に侵入する以前に生存していたのは確実」と指摘。さらに受傷部位は様々で衝撃の瞬間乗客の姿勢がばらばらだったことを示唆。愁眉はの問題で、火傷類似の変化を認め得る遺体が22あるが極めて軽度で一過性の影響とある
684月第1次草案が航空局航務課によってまとめられたが、現物小委の報告とはまるで正反対の見解が書かれ、調査団の会議が以後大揺れに揺れる羽目になる
楢林氏は、木村団長に疎まれ降ろされた
1次草案で重要なポイントは以下の通り
     火災 ⇒ 目撃者の証言から接水時に火を発したが、機内において一過性の火災が発生したものと推定
     生存状況 ⇒ 事故機の水没により全員が死亡
     3エンジン取付ボルトについては、楢林氏が明らかにした内容で、3つのボルトが順次破断していったと推定。接水前かどうかについては明らかに出来ず
     3エンジンのスタート・レバーがカット・オフの位置の方に外れていたのは、(何らかの原因によって)操作された可能性が強い
     救命胴衣のうち33個が膨張操作状態になっていたのは、人為的な可能性が大
     27%が安全ベルトをしていないのは、一旦装着後に外したとも考えられる
     機長側のスライド窓のなどの謎の痕跡は、すべて人為的操作の可能性が強い
     異常事態が発生した可能性を示唆するこれらの事例は、カトリック信者の旅客が首にロザリオを掛けていることについての遺族の証言とも一致するが、異常事態の発生について具体的に明らかにすることはできなかった
     パイロットの高度誤認の可能性についても、ミシガン事故機と違って警報マークも記されていることから誤読の可能性は極めて低く、その他のパイロットミスについても可能性を否定
     事故原因そのものについては、接水に至った経過は不明としか記し得ず
3次草案は、ミシガン事故をなぞるように、主要項目についての調査結果を箇条書きで列記し、いずれも異常なしと認定していって、結論は「すべてはわからない」とする方向で、すっかり無害無益の内容になったが、飛行コースについて新事実が記載された
ロザリオの事は、木村団長の「科学的でない」の一言で抹消
目撃証言の見直しから、降下前の高度が管制官の指示通り10,000ftではなく、IFRに切り替えたとの報告時点ではすでに4,000ftまで降下していたことが判明
丸善石油千葉製油所で原油積み下ろし用のブイの補修作業に当たっていた目撃者は、元航空自衛隊でジェット戦闘機の整備員、60年小牧飛行場での衝突事故の目撃者でもあり、その証言内容は的確、ほとんど水平状態で飛行、爆音は全く聞こえず、接水と思しき時と同時に火が上がり、瞬時に消えた
調査団の飛行実験は、状況未確認のまったくの茶番劇
BOACの富士山の事故は、3,776mの弧峰に秒速30mの強風が吹きつけたために風下にできた猛烈な突発性の乱気流と、時速600㎞を超えるジェット機の速度が結びついた瞬間的な空中破壊が原因とされたが、残された機内で撮影されたフィルムから推理
675月の岩手の小型機の事故では、有視界飛行で高度の低い雲の中に入るような飛行をしたためとされたが、なぜ低い雲の中に入るような飛び方をしたのかこそが事故の真因なのでそこまで踏み込んでいない
木村秀政は、自らの著書で、「事故調査がとかくうやむやで終わったのは、事故の大部分が人為的過失に基づいており、それを追求すると、個人の名誉を傷つけたり、責任者を出したりする結果になるから。墜落原因としてよくエンジン故障が挙げられるが、墜落のきっかけはそうでも操縦者の措置が良ければ回避できたか、小さくて済んだはず。上手に処理すれば無事着陸できた場合まで、エンジンの故障で片づけてしまっては、操縦者の責任は避けられるが、教訓が生かされない」といっており、光学の分野で指導的立場にある人が、エンジンに故障があってもパイロットさえしっかりしていれば事故にはならないといった思想を基本にしていることに驚かされる。工学本来の思想はそうではないはず。過ちを犯しやすい人間の能力をいかにカバーするかという「人間工学」や「fail safe(二重の安全)が近年重視されるようになった
大事故を食い止めた以下の3例はパイロットの神技の賜物か
     63年末の日航エンジン落下事故 ⇒ DC8の乗員の訓練飛行中の最後に突然右旋回を始め4,500ft急降下、4つのエンジンのうち2つが吹き飛び、電気系統がストップしたが、機長の機転で瞬時に8項目を手際よくやってのけたのが幸いして水平飛行に戻り、エアブレーキの作動しない状態で、車輪のブレーキだけで無事着陸
     65年末の日航エンジン爆発事故 ⇒ シスコを離陸直後のDC8の第1エンジンが爆発出火、すぐに燃料供給を遮断し鎮火、オークランド空港に緊急着陸、急ブレーキで車輪8個のうち3個がパンクするが滑走路を540m残して止まり、消火器を使用しながら非常脱出用シュートで全員無事に脱出。出火から僅か9分の乗務員全員の神技
     66年夏のオランダ航空機長急死事件 ⇒ 羽田に着陸態勢に入ったDC8の機長が地上45mで呼吸困難に陥り、副操縦士が進入ミスの場合の緊急操作を行い着陸やり直しに成功。上空で緊急措置をしたが、着陸後に医師が乗り込んだときにはすでに死亡
過去の事故事例では人間のミスがほぼ2/3を占め、ここでいうパイロット・ミスとは
ヒューマン・ファクターと同義語と解せるが、問題は個々の事故の実態
     64年アメリカ・ボナンザ航空のフレンドシップ機が着陸寸前山塊に激突 ⇒ 事故の直前に配布された空港までの距離と高度の関係を記したチャートが見ずらかったばかりか、直前9分間に7回も進路変更の管制官からの指示があり、突然直前配賦のチャートによる侵入に変更するよう指示されたこともあって見誤ったというもの
     65年末ニューヨーク市郊外で起きた大型旅客機同士の衝突事故 ⇒ TWAのボーイング707型機と急上昇してきたイースタンのコンステレーション機が接触。TWAは高度11,000ft、雲の上で自動操縦。急速に接近する機影を見て手動に切り替え、急旋回したが間に合わず左主翼の1/4が吹っ飛んだものの、無事緊急着陸に成功。イースタンは高度10,000ftで雲に出たり入ったり。雲間から出た瞬間ジェット機が迫ってくるのを目撃して急上昇したが間に合わず衝突、キリモミ状に急降下したが雲の下に出ると奇跡的に旋回が停まり水平効果の状態に戻り、運よく前方に見えた上り斜面の原野を見つけ不時着、慌てて飛び出した乗客などを除き奇跡的に大半が助かる。イースタンの乗員が1,000ftも高いところを飛ぶTWA機を見て同じ高度と勘違いした上に、地平線上の月が大きく見えるように見かけ上の水平線の役割を果たした雲頂の連なりすれすれに見えたTWA機の機影の大きさに急速接近の危機感を強める作用(これも錯覚)が働いた。両機長の神技と同時に錯覚が混在した事例
     67年初のカリフォルニアのエドワード空軍基地で起きた最新鋭のF111戦爆機が着陸に失敗墜落 ⇒ 可変後退翼を採用、超音速飛行時には翼を後退させて三角翼にするが、離着陸時には翼を前に開く。パイロットが着陸のため減速した際可変翼を前に開く動作が一瞬遅れたためのミス。どこまでが設計思想を含む機械系の責任で、どこまでが人間系の責任かという線引きが困難
     68年末のパンアメリカン航空ボーイング707型貨物機による離陸直後の墜落事故。氷結防止のために主翼のフラップを引っ込めて滑走路に向かったが、その後フラップを出さないまま離陸滑走を始めたが、ボイス・レコーダーにはフラップを点検する掛け声はなく、さらには全ての離陸のための状態が整わないで推力レバーを押すと警報機が鳴るシステムになっているが、ボイス・レコーダーに警報音は残されていない。ボーイング社では「厳寒下に於いては警報システムが働かないことがあるので要注意」としており、エンジンの推力は気温の影響を強く受け、気温が低いほど早く推力が出るので、厳寒下では推力レバーを途中まで動かしただけで離陸に必要なフル回転の推力が得られる一方、警告システムは推力レバーを完全に動かして初めて作動するように設計されていた。727型機にも同じ欠陥があることが分かり、日本でもこの事故を教訓に警報システムの改修が行われた
技術的発達は、究極において全体の主人である人間への適応という微妙な問題を提起
乗員と機材は連帯責任を負っている
機材とその使用方法とが人間によく適合しているかどうかを常に研究しなければならない

日航社内誌『おおぞら』の6811月号にあった社長表彰の中に、727型機の異常発生に際し事故原因を究明し事故を未然に防いだとあるのを見て調べてみると、着陸時のエア・ブレーキの役割を果たすグランド・スポイラーの警告灯が点灯したため確認すると、飛行中なのに立っていたのですぐにレバーを引いて引っ込め事なきを得たが、着陸後点検すると、飛行中のブレーキ役を果たすフライト・スポイラーとグランド・スポイラーは同一のレバーで操作するが、グランド・スポイラーは着陸時に機体の重みで主脚の車軸が受け軸にめり込んで初めて作動するようになっているのに、ベアリングがグラス・ファイバーでできていたため、長時間使っているとベアリングの滑りが悪化して飛行中でもグランド・スポイラーが一緒に立ってしまうことが判明。ベアリング材の設計ミスによるもので、すぐに全機を改修し金属に設計変更された
羽田沖事故でも同じ現象が起こっていないか確認、フライト・スポイラーについては上げの状態であった可能性が高いことはわかっていたが、グランド・スポイラーが立っていたかどうかの検証は時間の経過が長くさびや傷みから確認できなかった
事故の4周忌に東京地検特捜が操縦士と機関士の不起訴処分決定。事故調査団の結論が出ておらず2人の過失と認められる確証が得られないこと、本人死亡と公訴時効完成によるものというのが理由だが、白紙の無罪としたことは、特捜が公表されない様々な事実を相当詳しく掴んでいたに違いない
直前の恒例化した命日前の記者会見で木村団長が遠回しの表現で対立者を非難する形で、初めて調査団内部に意見の対立があることが公にされた ⇒ 納得いくまでやらないと気の済まない人がいるため調査が遅れたとし、細かく調べようとしたものの1つはエンジン取付ボルトの問題で、もう1つがグランド・スポイラーの問題
暗に名指しされたのは構造の専門家山名教授で、戦時中海軍航空技術廠で設計主任をして戦闘機の空中分解事故などの原因究明にも参加していたこともあって、現物の残骸を徹底的に調査、模型による実験を繰り返し、上記2点を含め、第3エンジンがばらばらになって吹っ飛んだことを推測したが、5回忌を前にまとめられた最終報告書案にはほとんど触れられず、最後の会議でも審議打ち切りの形で圧倒的賛成により最終案が採択された
事故調査の基本理念が違うことを理由に山名教授が団員を辞任
これで取材も終了という間際にもう一度資料を見直した際、ベテランの航空機関士から、727型機の事故が最近でも続いていることに加え、第3エンジンが事故の半年前に取り付けたばかりだったにも関わらず異常が多く、元々第1エンジンとして取り付けられていたが故障が多いので一旦オーバーホールして第3エンジンとして付け替えられていたがそれでも異常はやまず評判が悪かったこと、にも拘らず調査団のエンジンの調べ方は何の前提もなく分解してみた範囲内で「異常なし」といっているだけで一連の前科に関わったとみられる部分を事故との関連で調べるというやり方をしていないとの指摘を聞かされる
68年央にボーイングからの㊙電報に基づき、日航・全日空ともエンジン・ボルトの総点検を実施していた ⇒ 3日前にイースタンの同型機が離陸直前に第3エンジンの後方取付ボルトが金属疲労で折れるという事故を受けての対応
法医学の実務家の話でも、乗務員の解剖記録に脾臓が通常の半分以下の50gしかないという記述があり、突然の恐怖による収縮が考えられ、その恐怖とは何かが解明されていないし、火傷の問題についても遺体の検証が不十分のため今となっては何もわからないとの指摘があった
70年夏事故技術調査団は『最終報告書』を確定、アメリカの国家交通安全委員会NTSBに送って同意を求めたが、同意が来ないまま運輸大臣に提出
結論は、「有視界飛行方式としては異常な低高度で東京湾上空に進入し、「現在ロングベース」と通報した後、接水するに至った事由は不明」という変わりばえしないもの
「異常な」低空という表現は初めて登場したが、なぜ「異常」と判断したかについては何の検討もしていないし、山名教授の実験やグランド・スポイラー誤作動切に一言も触れずに、その反論のみを延々と掲載しているのは、調査団の内部事情を知らずに報告書を初めて読む人にとっては恐らく何のことだかさっぱりわからない不思議な報告書
権威ある公文書からは、山名教授や楢林氏らの調査結果の最も重要な部分は抹殺され、機体の残骸もいずれスクラップとして処分されるであろう

あとがき
本書は、1966年春に相次いで起こった全日空ボーイング727羽田沖事故(133人死亡)、カナダ太平洋航空ダグラスDC8羽田空港炎上事故(64人死亡)BOACボーイング707富士山麓遭難事故(124人死亡)3つの連続ジェット機事故の謎を追った5年間の取材記録
事故は、多くの場合極めて特異な条件下において個々の症例として発生するもので、特異なるがゆえに看過しがちな現代の科学技術の危険な陥穽をさらけ出す。最近の公害告発でも同様のことが暴露されてきたが、ジェット機事故は大量即死という形態をとるためにより鮮烈。にも拘らず、現代の科学技術批判という高次元で論じられることは少なく、単なる事件の処理で集結してしまう。その辺りの問題に焦点を当てようとしたのが本書
ノンフィクション文学の外郭の、ある新しい領域の試みである。ノンフィクションが極限状況における人間の摘出を直接的なテーマとしているのに対し、私は、金属や論理、数学などの無機質なものと現代の人間との関わりについて挑んでみた
羽田沖事故の原因調査が足掛け5年もかかり、様々な曲折を経ようなどとは事故当時は想像だにしなかった
事件の現場に立つ記者というものは、大袈裟に表現するなら、記録されるべき「歴史」の同席者であり目撃者であり証言者だ。しかし、現実の場において事件の本質に触れる証言者になり得るためには、絶えず困難が伴う。何故なら「歴史」はいつも長い時間の経過による追認という形で成立するものだからである。そして、この困難に対する私の挑戦がどの程度成功したかは、読者の評価と時の流れに待ちたい
歴史的事件の同席者による正鵠を得た証言の普遍性という点で、今なお価値を持つのは約40年前の「白鳩号事故」の原因調査に関する寺田寅彦の当時の論考。32年大阪から福岡に向けて試験飛行中だった日航輸送の旅客機「白鳩号」(ドルニエ式ワール型飛行機)が九州上空で悪天候に遭い八幡市の山中に迷い込んで空中分解を起こし墜落したもの。乗客はなかったが乗員5人全員が死亡、当時としては大事故。航空局の手では原因解明が出来ず、専門家による調査委員会が設けられ、航空研究所教授が中心となって所員だった寺田寅彦も参加。寺田が『中央公論』(357)に掲載した随筆『災難雑考』で、教授が残骸を11つ丹念に検査して原因究明を進め、2年近くたって遂に補助翼を操縦するワイヤーの張力を加減するためにつけてある銅線の強度が弱かったためと結論付けたことを描いた後、「飛行機事故の原因はまだ数々あるので、全ての自己の徹底的調査をして真相を明らかにし、後難をなくすることが新しい飛行機の数を増すと同様極めて必要な事。しかし一般世間ではどうかすると誤った責任観念からいろいろの災難事故の真因が抹殺され、表面上の責任者は出ない代わりに、同じ原因による事故の犠牲者が後を絶たないことが珍しくない。これでは犠牲者は浮かばれない」と結んでいる
古典的プロペラ時代のこの指摘が、現代においてなお生々しい説得力を持っているということは、なにを意味するのか
事故調査団が解散した70年にこの長い取材の記録の筆をおいた。その後事故を巡る議論は、国会、論壇や当局への公開質問状など様々な角度から再燃している


改訂版へのあとがき
木村秀政調査団の非科学的な調査の進め方が露呈。調査団の解散後国会審議が行われたが、そこで参考人として出席した木村団長の数々の発言は、発想の非科学性を自ら暴露
事故後も、新幹線事故や原発事故などについても取材してきたが、全ての事故に共通してみられるのは、人間と機械の接点における過酷なまでのせめぎ合いであり、そのドキュメントを書くことは、機械をもっと人間に調和させること、つまり人間復権の叫びを記録することに他ならない
今後も事故論を書き続けるが、それは政治、経済、社会などあらゆる分野における現代の記録"に挑戦し、私なりに現代の世界像を描き出したいという願望と計画の一翼をなす




飛行機事故の原因追った名作 事実を復元する大切さ学ぶ 松木 武彦
2019/10/5付 日本経済新聞
千葉へ単身赴任中の私は、自宅との往復に岡山羽田便のフライトをよく利用する。房総半島上空で左旋回し、東京湾の海面を見下ろしながら滑走路に向かって高度を下げるたびに脳裏に浮かぶのは、ここで53年前に起こった飛行機事故だ。
196624日の夜、北海道の千歳飛行場を飛び立った全日空のボーイング727型機が、羽田を目前にして海面に墜落。乗員・乗客133人全員が亡くなった。
私が5歳の時のこの大事故を思い起こすのは、自分の記憶によってではない。この事故を中心に、この年続発した飛行機事故の経緯と原因解明の過程をつぶさにたどったノンフィクションの名作、柳田邦男著『マッハの恐怖』(フジ出版社、のちに新潮文庫)が、ほぼすべての情報源である。71年の刊行からしばらくのち、小学6年生だった私が生まれて初めて一気に読み通した大人の本だ。
現場の海面や海底から引き揚げられた機体の破片、遺体、目撃談などの材料をもとに事故原因を解明する調査委員会が組織される。航空工学や機体設計などのそうそうたる学識経験者からなるこの委員会は、しかし、機長の操縦ミスという結論に向けて諸材料を解釈しようとする。死して口なき機長にすべての責を負わせることで、ボーイング社や運航関係者などを巻き込んだ波風を立てないための、「まず結論ありき」の委員会ではないのか。
その疑念を洗い出し、どこにも忖度のないやり方で材料を組み立て直して大事故の真相と背景に迫るNHK記者の筆は、10代を迎えたばかりの私の心を揺さぶった。この本を直接のきっかけとして研究の道を志したわけではないが、飛行機事故の調査と考古学の発掘とは、痕跡と断片を組み合わせて過ぎ去った事実を復元するという点で、確かによく似ている。もしかしたら無意識に、私を発掘の世界に導いたのかもしれない。
この本から学んだもう一つは、先入観も持たず、忖度もせず、常識にも流されず、痕跡と断片から正しい事実を提示することの困難さと大切さだ。与えられた立場と寄せられた期待ゆえ、あの事故調査委員会のように客観性よりも社会性を重んじた結論を出してはいないか?
考古学者として、古墳時代は中世(通説では古代以前)だとか、大王(のちの天皇)の墓が必ずしも巨大前方後円墳ではないとか、忖度なしの「非常識」な学説を私が連発するのは、『マッハの恐怖』の教えによるところが大きいのである。(考古学者)

  

Wikipedia
全日空羽田沖墜落事故は、196624東京湾東京国際空港(羽田空港沖)で起きた全日空ボーイング727-100型機の墜落事故である。合計133人全員が死亡し、単独機としては当時世界最悪の事故となった。
l  事故の経緯[編集]
目視飛行への変更[編集]
事故機の全日本空輸60便ボーイング727-100型機(JA83021965年製造)は、196624の午後555分に千歳飛行場を出発し、目的地である羽田空港へ向かった[1]
60便は東京湾上空まで問題なく飛行を続けたが、東京湾に差し掛かる際、急に計器飛行(IFR)による通常の着陸ルートをキャンセルし、有視界飛行(VFR)により東京湾上空でショートカットする形での着陸ルートを選択した。
このルート変更の理由は不明であるが、当時は現在のように計器飛行方式(IFR)が義務付けられておらず、飛行中に機長の判断でIFRで提出したフライトプランをキャンセルし、目視による有視界飛行方式(VFR)に切り替える判断が容認されていた[2]。そのため、航空路を無視したり、最大巡航速度(マッハ0.88)で巡航するなどして、東京 - 大阪27分、東京 - 札幌46分といった"スピード記録"を競う全日空のパイロットもいたという[3]
なお、60便の近くには日本航空沖縄那覇空港からの国際線[4]として運行中のコンベア880機が飛行しており、60便を目撃していた。
l  消息を絶つ[編集]
羽田空港に向けて着陸進入中の午後70020秒の「現在ロングベース」との通信を最後に、突如通信を絶った。午後701分から空港管制室が「着陸灯を点けよ。聞こえるか、着陸灯を点けよ」など繰り返し連絡を取ろうとしたものの、後続機の日本航空のコンベア880や、カナダ太平洋航空ダグラス DC-8が平行滑走路に次々と降り立っているにもかかわらず着陸灯も見当たらず、また返答もなかった。そのうちコンベア880の乗員から東京湾で爆発の閃光を目撃したとの通報もあった[1][5]
その後も空港管制室は呼びかけを繰り返した他、近隣に位置する海上自衛隊下総航空基地陸上自衛隊木更津基地などにダイバートしていないかを同時に確認したものの、該当機は確認できなかった。30分以上の間呼びかけを続けたものの応答がなくなったため、捜索救難調整本部が羽田空港内の航空保安事務所内に設営された。その後全日空機が行方不明になったことがテレビラジオで報じられた。
午後8時過ぎには、全日空のフォッカー F27が羽田空港沖に捜索に向かった他、海上保安庁の船舶や近くを航行中の船舶、航空自衛隊の航空機なども捜索に加わった。
当時の天候は快晴で着陸不可能な状況ではなく、午後9時には、搭載されていた燃料も尽きたはずで、別の空港へダイバートした様子もなかったことから事故発生と判断され、捜索救難態勢が発令された。
l  墜落確認[編集]
60便の事故とともに新東京国際空港反対派が千葉県庁に乱入した事件を報じる、196627日付の毎日新聞夕刊。相次ぐ羽田での事故を受け、新空港の議論が活発化した。(成田空港問題
後続機の日本航空のコンベア880の操縦士や、東京湾上を航行していた船舶の乗務員、対岸の丸善石油に勤務していた社員[6]などが、墜落時に起きたと思われる炎を東京湾上に目撃していたことから、羽田沖の海上を中心に捜索が行われた。
午後1155分に捜索機が木更津北方7海里付近において全日空の標示のある翼の一部を発見し、機体の内張りの一部及び乗客の衣類を収容し、午前05分に捜索船が羽田灯標東南東6.4海里で最初の遺体2体を収容した[1]。具体的な墜落時刻は不明なものの、午後70020秒に最後の交信があってから応答がなくなるまでの数十秒の間と思われるが、写真では航空機関士席の計器板の時計が190512秒を指して止まっているのが確認される[1][7]
寒風吹きすさぶ荒れ模様の海上から懸命の海洋サルベージが行われ、潜水士らによって遺体や機体の残骸が回収された[8]。乗客1名を除く乗客乗員132名の遺体は414日までに発見された。510日に遺体の捜索は打ち切られたが、最後の乗客1名の遺体は89日に横須賀夏島の岸壁に漂着しているところを発見された[9]
単独機として史上最悪の事故[編集]
導入されてまだ間もない最新鋭機であったことや、日本における初の大型ジェット旅客機の事故で、ほぼ満席の乗客(多くはさっぽろ雪まつり観光客)と乗員の合計133人全員が死亡し、単独機として当時世界最悪の事故(この事故が発生するまでは196263パリオルリー空港で発生し、130人が死亡したエールフランス007便離陸失敗事故が単独機として世界最悪の航空事故であった)となったこともあり、世界中から注目を集めた。
乗客にはスタンダード靴の懸賞当選者(約5,000人の応募者の中24人が当選)や関連会社の社員が含まれており、また団体客や接待旅行に参加していた出版業界の関係者(旭屋書店創業者の早嶋喜一柴田書店創業者の柴田良太月刊自家用車初代編集長の清田幸雄美術出版社社長の大下正男らを含む)など多数が巻き込まれたため、大きく報道された。また、被害が甚大であったことから24日から同年510日にかけて、海上自衛隊自衛艦隊横須賀地方隊災害派遣された。
l  原因[編集]
l  調査[編集]
政府は25日に、事故原因究明のため、ボーイング727型機の国内線への導入にあたって積極的な推薦役を果たしてきた木村秀政日本大学教授を団長とする、民間専門家と航空局幹部による「全日空機羽田沖事故技術調査団」[10]FAAやボーイングなどの技術者を主体とした、製造国であるアメリカ側の事故技術調査団との協力体制を取った)を設置することを決定した。事故後に多くの機体の残骸(機体の90%近く)が引き上げられ、事故原因についての綿密な調査が行われたものの、コックピットボイスレコーダーフライトデータレコーダーともに搭載していなかったこともあり、委員会は高度計の確認ミスや急激な高度低下などの操縦ミスを強く示唆(後の調査で東京湾上の時点では、水平もしくは緩やかな降下での飛行が判明したが、東京湾上に差しかかる時点で既に通常より低い高度で飛行していたとの目撃報告もあった)しつつも、最終的には原因不明とされた。収容された乗客の遺体の検視結果は衝撃による強打での頸骨骨折、脳・臓器損傷によるものと溺死によるものが多数を占めた。
l  各説[編集]
その中で「目的地への到着を急ぐあまり急激に高度を下げたものの、導入間もない機種の操縦で、予想しなかったほど高度が下がったことにより水面に激突した」、もしくは「高度計を見間違えた」という操縦ミス説や、残骸や遺体の髪の毛に火が走った跡があったため、第3エンジンの不調説[11](この第3エンジンはもともと第1エンジンとして取り付けられていたもので、事故以前からたびたび異常振動などのトラブルを起こしたため、前年に購入したばかりの機体であるにも関わらずオーバーホールを行った後に第3エンジンとして取り付けられ、オーバーホール後もトラブルを起こしていた)や、「誤ってグランド・スポイラーを立てた」、または「機体の不具合、もしくは設計ミスのためにグランド・スポイラーが立ったため、機首を引き起こし、主翼から剥離した乱流でエンジンの異常燃焼が起き高度を失い墜落したのではないか」[12]という説などがあげられた。
また、アメリカ側調査団の協力により、この事故に先立ってアメリカで前年1965に起きていた同型機による3件の着陸時の事故調査結果も参考にされたものの、製造元のボーイング社の技術員を中心としたアメリカ側調査団は「機体の不具合や設計ミスがあったとは確認されず、いずれも操縦ミスが事故原因と推測される」とされた。
その後の調査では、「操縦ミスによる高度低下」、「第3エンジンの離脱による高度低下」、「スポイラーの誤作動による高度低下」が主に取りざたされた。このような中で、事故調査をめぐり事故技術調査団が紛糾した。事故技術調査団の山名正夫明治大学教授が、事故後早い段階から、操縦ミス説を主張する団長・木村秀政日本大学教授らと対立し、辞任した。
木村団長ら調査団の多数は、「夜間の目視飛行の中で予想以上に高度を下げすぎた」という操縦ミスを事故原因とした方向での草案を作成した。この根拠として、60便は計器飛行による通常の着陸ルートをキャンセルし、目視飛行を行い通常の着陸ルートを東京湾上空でショートカットすることや、この事故に先立ってアメリカで起きていた同型機による着陸時の事故調査結果においても、ボーイング727型機の降下角度がプロペラ機のみならず、他のジェット機に比べても急であることに対する操縦員の不慣れによる操縦ミスが墜落原因とされたこと、さらに同型機は全日空が導入してまだ1年程度しかたっていない新鋭機であるだけでなく、同型機は全日空にとって初のジェット機であったため慣熟が行き届いていなかったことも指摘された。
しかし、航空局航務課は、木村団長の指示に反しパイロットミスの可能性を否定し、残骸にさまざまな不審な点があり機体に原因があるという方向で『第一次草案』をまとめ、1968426日の会議に提出した[13]。航務課調査官・楢林一夫が第3エンジンの機体側取り付け部に切れたボルトによる打痕が残っていたこと、第3エンジンが機体から離脱していたことから、取りつけボルトの疲労破壊説を報告していた。楢林一夫は調査団、航空局上層部と対立したため2年後に退官する[14]。『第一次草案』で指摘された、第3エンジンの計器だけが他のエンジンと違う値を示していること、第3エンジンの消火レバーを引いた痕跡があること、操縦室のスライド窓操作レバーが開になっており窓が離脱していること[15]、後部のドアの1つのレバーが開になっていること(しかし、なぜ飛行中に操縦室のスライド窓操作レバーやドアレバーが開になっているかは説明されていない)、着陸前であるにもかかわらずシートベルトを外している乗客が多数おり、乗客によって姿勢が異なることや(当時はシートベルトの安全性が認識されておらず、締めないままの乗客が多かった)、後続の日航機と丸善石油従業員が一瞬の火炎を確認しており、遺体の一部に軽度のやけどの跡があること等の不審な点については、「原因は不明であり、はっきりしていない。ドアレバーなどは揚収時に操作された可能性もある」などと修正された。
そうした中、同年721日に日本航空の727-100型機(JA8318)で、本来は接地後にしか作動しないグランド・スポイラーが飛行中に作動するトラブルが発生し、その原因が機体の欠陥にあることが判明した。これを受け、事故機でもグランド・スポイラーが作動した可能性の調査が行われ、山名教授は模型による接水実験と残骸の分布状況から接水時の姿勢を推測し、迎え角が大きくなると主翼翼根部で失速が起き、エンジンへの空気の流れが乱れ異常燃焼を起こすことを風洞実験によって確かめ、「機体の不具合、もしくは設計ミスのためにグランド・スポイラーが立ったため、機首を引き起こし、主翼から剥離した乱流でエンジンの異常燃焼が起き高度を失い墜落したのではないか」というレポートを様々な実験データと共に調査団に報告した。
しかし、この時点では第3エンジンの取りつけボルトの疲労破壊説は無視されている。最終報告書案ではそれらを取り上げずに終わった。最終報告書がまとめられるまでの間に提出された5件の草案の提出日は、次の通りである。
1次案 1968426
2次案 196866
3次案 1968718
山名リポート 1969109
4次案 19701
5次案 1970819
最終報告書 1970929
ただ、ボーイング727において同様の操縦ミスが墜落の原因となったことは他にも多く起きていたものの、「第3エンジンの脱落が原因の墜落[16]」や、「グランド・スポイラーが異常作動し、エンジンが異常燃焼を起こし墜落した」という事故は、ボーイング727において皆無であるだけでなく、2019年の今に至るまで皆無である。
いずれにしてもこうした対立や、決定的な原因を見つけられずに、事故調査報告書の決定までは約4年を要し、その間ずっと事故機の残骸は羽田空港の格納庫の一角に並べられたままになっていた。
l  事故後[編集]
この事故をきっかけに、日本国内で運航される全ての旅客機に、ブラックボックスの装備が義務づけられた。また、この事故以降はフライトプランに沿って計器飛行方式で飛行するのが原則になったという[17]
また1年に2度の全員死亡事故を起こした全日空は経営困難に陥り、フラッグキャリア日本航空から、社長以下大量の人員と株主第2位に至るまでの金銭的な支援を受けて[18]1970年代に至るまで経営再建を受けることになった。
l  備考[編集]
1966年の5連続事故の最初の事故である(他の4つはカナダ太平洋航空機墜落事故BOAC機墜落事故日本航空羽田空港墜落事故全日空松山沖墜落事故である)。
前述のアメリカ国内で発生した3件の同型機事故であるが、そのうち2件(118日に発生したアメリカン航空383便墜落事故英語版)・1111日に発生したユナイテッド航空227便墜落事故英語版))はパイロットの不適切な操縦が事故を招いたと推定されている。しかし816日に発生したユナイテッド航空389便事故は全日空機と同様にアプローチ中に空港手前のミシガン湖に墜落したが、最終的に原因不明とされた。
全日空遭難機の遺体捜索では、翌月(196635)に海上保安庁ヘリコプターが墜落して二次遭難事故が発生し、乗員3名が死亡した。なお、同機は南極においてタロとジロを発見した機体の一つであり、3名のうちの1人はその時のパイロットだった。
佐渡ヶ嶽部屋の幕内力士だった長谷川勝敏四股名・長谷川、後の年寄・秀ノ山)は、この60便で札幌から東京へ帰る予定だったが、札幌市内でたまたま旧友と久々に会い、搭乗を取りやめたため奇跡的に難を逃れた[19]
この時期、吉永小百合主演の日活映画『大空に乾杯』が全日空の全面協力のもと制作されていたが事故による公開中止等の影響は無く、事故発生から3週間が経過した1966225日に公開されている。
この事故での出来事が切っ掛けとなり、作詞家川内康範の体験に基づいて作詞・制作されたのが城卓矢の『骨まで愛して』である[20]
l  事故を扱った番組[編集]
『ドキュメンタリー「謎の一瞬」』(19661119 NHK イタリア賞受賞)
l  脚注[編集]
     a b c d “衆議院会議録情報 051回国会 予算委員会 6”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館. 201921日閲覧。
     ^ 神田好武「神田機長の飛行日誌」イカロス出版、2010年、187
     ^ 神田、前掲書、188
     ^ 当時の沖縄はアメリカ合衆国占領統治下であったため、出入国管理の必要な国外扱いだった
     ^ デビッド・ゲロー著、清水保俊訳「航空事故 増改訂版」 イカロス出版 1997年、66
     ^ マッハの恐怖 新潮文庫 p339,340。ちなみに目撃者は元自衛であり、1960全日空小牧空港衝突事故で偶然にも救助に当たっていた。
     ^ 毎日フォトバンク - タイトル 「全日空機東京湾墜落事故。7512秒を指す計器盤の時計」 IDP19990610dd1dd1phj078000
     ^ “海よ ないでくれ”. 朝日新聞: p. 15. (196628)
     ^ 朝日新聞東京本社1966810日朝刊、社会面。記事によれば遺体の頭部は失われていたが、着衣から本人と確認されたという。
     ^ 『マッハの恐怖』p55
     ^ 山名正夫「最後の30羽田沖全日空機墜落事故の調査と研究」
     ^ 柳田邦男著『マッハの恐怖』p313,314
     ^ 『マッハの恐怖』p.243-248
     ^ 藤田日出男『あの航空機事故はこうして起きたか』(新潮社)
     ^ 藤田日出男『あの航空機事故はこうして起きた』(新潮社)
     ^ エンジン脱落による墜落事故は起きていないが、第3エンジンの脱落事故に関しては1990年に発生している(ノースウエスト航空5便エンジン脱落事故
     ^ マッハの恐怖 新潮文庫 214
     ^ 「田中角栄研究全記録」P186 講談社文庫 立花隆著
     ^ 関脇以下名力士列伝相撲評論家之頁

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