ジェインズヴィルの悲劇  ジェインズヴィルの悲劇  2019.8.3.


2019.8.3.  ジェインズヴィルの悲劇 ゼネラルモーターズ倒産と企業城下町の崩壊
Janesville ~ An American Story          2017

著者 Amy Goldstein 『ワシントン・ポスト』で30年間記者を務めたジャーナリスト。社会政策にフォーカスを当てた取材を多く行う。ハーヴァード大、ニューマン財団のフェローとしてラドクリフ大学院でジャーナリズムを学ぶ。特に関心を寄せているのは公共政策を左右する政治の動向と、それが普通の人々に対して及ぼす影響。メディケアやメディケイド、社会保障、福祉、住宅問題、社会的セイフティネットなどを得意分野とする。ブッシュ政権時代は『ワシントン・ポスト』紙のホワイトハウス・レポーターとして国内政策を担当。ワシントンDC在住。02911の新聞報道でピュリッツァー賞受賞。09年移民の医療問題で同賞のファイナリスト。現在は『ワシントン・ポスト』紙のメイン・リポーターとして、医療負担適正化法とその見直しを図る共和党の策動を追っている。本書は初の著作。フィナンシャル・タイムズ&マッキンゼーの2017年度ビジネス・ブック・オブ・ザ・イヤーに選ばれる。『ヒルビリー・エレジー』の著者J.D. ヴァンスも本書に書評を寄せ、著者を「才能あるストーリー・テラー」、本書を「ビューティフルなストーリー」と絶賛

訳者 松田和也 翻訳家

発行日           2019.6.10. 第1版第1刷発行
発行所           創元社

プロローグ
最後のSUVタホが組み立てラインの終点に到着。華氏15度の記録的な寒さの中、組み立てプラントは閉鎖。「ジェインズヴィル組み立てライン最後の自動車」と書かれた横断幕の余白は労働者の署名で埋め尽くされ郡歴史協会に寄贈されることになっている
ジェインズヴィルはインターステート90のマディソンの手前。人口63千の郡庁所在地
GMがシボレーを作り始めたのが1923
1836年に創建されたジェインズヴィルは、入植者ヘンリー・ジェインズに因んで名づけられた豊かな農場に囲まれた小さな工場町。1850年代からは鉄道のハブとしても栄えた
町の歴史上抜きんでた人物が2人、いずれも地元の産業界の大物 ⇒ 1人は電信技術指導者のジョージ・パーカーで、万年筆の特許を取ってパーカー・ペン社を起こす。世界の指導者たちの条約の署名に使われ、そのお陰で地名が地図にも記されることになった。もう1人はジョゼフ・クレイグで、第1次大戦終結の頃GMの誘致に成功、GMにジェインズヴィルの能力を知らしめた。最初はトラクターの製造で、最盛期には7,000人の労働者を抱えるまでになり、町の名を維持することに成功。大恐慌の際1年だけ撤退したが、すぐに再開。合衆国の労働史上画期的な出来事だった座り込みストライキの際もジェインズヴィルでは平和が保たれた。1970年代の自動車産業の危機の際もジェインズヴィルだけは組み立てラインが止まることはなかった
08/09年ここで消滅した雇用は9,000
現在閉鎖されたプラントの入場口にはロゴが残る(表紙参照) ⇒ 3つの歯車からなり、右はGMのシンボル、左にはUAWの紋章。真ん中の歯車にはウィスコンシン州の形の白い領域があり、その底部のジェインズヴィルに当たる位置にキャンディピンクのハート型があって、その上には黒文字でJanesville People Working Togetherとある
上辺を取り繕って苦悩の浸透を隠そうとするのは、良い仕事を失った中産階級の人々が中流から転げ落ちそうになった時にとる行動の1
ダウンタウンからモールが撤退し始めたのは1970年代のこと
最近の「都心の野外芸術キャンペーン」で、ダウンタウンの建物の壁面に大きなパステル壁画が溢れている
現在街には480万平方フィートの産業の殿堂の死骸が鎮座したままだが、人々は街と自分たちの再開発に乗り出している ⇒ 人々は互いにリスクを背負い、街を愛する心が彼らをこの街に留めている
最後のSUVは郡の慈善団体ユナイテッド・ウェイに寄贈されラッフル販売されることになり、120ドルのチケットが飛ぶように売れ、不況のどん底にもかかわらず20万ドル余りを集めて同団体の年間キャンペーンの目標額を上回る。ウィニング・チケットは37年にわたってこの工場で勤め上げた退職者に渡ったが、彼のガレージを出ることは滅多にない

第1部        2008
GMが年次総会でジェインズヴィルの生産停止を公表する前日、地元出身の共和党下院議員ポール・ライアンにGMCEOワゴナーが電話でその旨報告
当日シフトごとに労働者が集められ、2年後の生産終了を告げられる
GMの入社はコネが中心。従業員はそれぞれ1枚の紹介状を与えられており、その中で抽選で入社が決まる

第2部        2009
イリノイとの州境の町ベロイトは、南北戦争直前に中鉄所として開業しその後国内最大の製紙機械メーカーが存在したが、その後倒産し、20世紀初頭「黒人大異動」の一環として南部からアフリカ系アメリカ人を引き寄せ、ジェインズヴィルはライバルであったベロイトを見下していたが、今や同じ状況に
ジェインズヴィルのM&I(マーシャル&イルズリー)銀行の支店長のメアリ・ウィルマーは地域の経済再生のリーダーを頼まれ、同じ境遇のベロイトと一緒にした経済再生を企図し、同じ郡内に住むABCサプライを成功させてアメリカで最も裕福な自立独立の女性として『フォーブス』にも載ったダイアン・ヘンドリックスに支援を要請
プロジェクト名は「ロック郡5.0」で、ファンド・レイジングの目標額は100万ドル
GMに部品を供給するリア・コーポレーションが4月に工場閉鎖
GMは社運をかけて次世代サブコンパクト・カーの生産拠点を模索中。合衆国財務省も194億ドルの融資を決定したにもかかわらず、破産を申請(負債総額16兆円)
合衆国の自動車メーカーが新製品を生産する場所を決める際には、当該の州とコミュニティが減税やその他の経済的な贈物という形で莫大な持参金を用意することを期待する
今回もロック郡がGMへの献げ物を4倍に増額したあとウィスコンシン州も経済インセンティヴ・パッケージを送付、総額213百万ドルと州史上最大のパッケージ
競争相手はテネシーとミシガンで、最終的に入札合戦におけるあらゆる記録をぶっちぎりで破った10億ドル以上もの出資をオファーしたミシガン州デトロイト近郊のオリオン・プラントに決定 ⇒ 労働者の4割は時給14ドルだが、一部の下請けは10ドル
失業者の再雇用のための技術訓練学校がブラックホーク技術大学。2年で直接役に立つスキルの教育に特化。この年の学生は54%増となり、88のクラス・セクションが追加新設された
ロック郡5.05か年計画は、地元企業の定着と拡大の促進、新たなビジネスの誘致、中小企業とスタート・アップに対する特別支援、商業用地の確保、雇用促進のための魅力ある労働力の育成の5本を柱とし、既に個人の募金が40万ドルに達した
同時に、コミュニティの一部の者がまともに生活を続けていくのも困難な時を迎えているという救難信号がいくつも出ている ⇒ 破産申請が倍増、「売家」の看板が立ち並び、差し押さえも5割増し
ホリデイ・フード・ドライヴは、1980年代初頭に始まった、クリスマスにGM従業員から食料の寄付を募って生活困窮家庭に配る慈善事業だが、提供する方も失業者であり、新たな貧者を迎えて断念せざるを得なくなる

第3部        2010
パーカー・ペン社も最後の日を迎える ⇒ 1970年代、男はGM、女はパーカーが目標
パーカー創業者の人生の軌跡は、完璧なアメリカン・ドリーム。ジェインズヴィルの電信学校を卒業、鉄道会社に就職するが、田舎の駅での仕事に失望して、講師で学校に戻り、生徒が電信符号を書きとるのに必要だった万年筆の販売代理店を片手間でやっている間にペンの修理と改造の技術を身につけ、1888年にパーカー・ペンを創業。インク漏れを解消する特許を取得、5年後にもう1つの特許を取ったのが世界的な名声の獲得に繋がる
当時の厚生資本主義の典型で、労働者たちに父親的慈愛を注ぎ、家族と同様の待遇を拡大、88カ国にもなる世界市場を開拓、20世紀の決定的瞬間に何度も登場、ドイツ降伏文書は2本のパーカー51万年筆で署名、64年のニューヨーク万博では初期の電気式コンピュータを駆使して国際的な文通相手発見のプログラムを後援。66年には創業者の孫がCEOになり、86年投資家グループに売却、93年はジレットの傘下に入り、6年後オフィス・サプライの会社に転売され、単に他所で作られたペンにロゴを印刷するだけの会社になる
他州のGMプラントの増員に応募して働くために移動した人は、「GMジプシー」と呼ばれる
いつかどこかでGMの仕事を得られるかもしれない可能性を放棄して僅か4,000ドルの解雇手当をもらう選択をした人もいる
ジェインズヴィルは、常にレイバーデイには大騒ぎしてきた。長い間コミュニティが誇りにしてきた熟練労働と礼儀正しい労使関係を祝う3日に及ぶ祝祭で、UAWのみならず、街のいくつかの組合と企業も後援。今年は”Jobs Now!”一色
ジェインズヴィルは、逆境に対して市民が建設的に対処する伝統のある街。ホームレスの子どもがいるのを見てホームレス教育アクション・チームの結成を考え出したのが「プロジェクト16:49」 ⇒ ホームレスの子どもたちにとって永遠のように感じられる、授業日が終わってからまた始まるまでの16時間49分をどう過ごさせるかを考える

第4部        2011
年初に地元の新聞に士気を鼓舞するメアリの寄稿が掲載される ⇒ 当初の「為せば成る」の精神とは正反対に、「俺たちゃもうダメだ」とのネガティヴさが渦巻いのを一掃するため、「私たちのコミュニティを誇らねばならない。誰もが楽天主義のアンバサダーになろう」と呼びかけ、ロック郡は素晴らしい場所であり経済は上向いているという信念を持つことの必要性を訴えた
メアリは、ヘンドリックスの招待でライトが設計したマディソンの「夢の公民館」で開催された、新任の第45代州知事スコット・ケヴィン・ウォーカーの就任宣誓兼舞踏会に参加、知事の最優先公約である25万件の民間雇用創出に期待したが、初日から反対派の激しい非難に直面する ⇒ 舞踏会のチケット代は、前任が事前運動に寄付したのに対して、新任知事は自らの選挙資金を賄い、州の共和党を支援するために使われるという
プラント閉鎖から2年もたつのにもかかわらずロック郡の失業率が11.2%と高止まりした中でのメアリのスローガンは、地元の人の心を逆なで
ウィスコンシン州は、20世紀初頭進歩主義運動の中核となる。1900年知事に就任したラ=フォレットは産業化していく社会の中で、市民を援助する改革を推進し、「ファイティング・ボブ」の異名で知られる労働者の権利においても指導的役割を果たし、1911年全国初の労務災害補償法を制定。32年の大恐慌でプラントが閉鎖された年には、失業手当のシステムを確立した最初の州となった。連邦保障法ができる3年も前。州職員の集団が組合を結成したのもマディソンで、32年のこと。59年には公務員に団体交渉権を保証する最初の州となる
出し抜けに登場したウォーカーの財政修復法は、選挙期間中一度も言及しなかった州政府を切り刻んで作り直すことを望み、公共部門の組合の団体交渉権をズタズタにすることを目論んだもので、たちまち民衆の反発を買って大規模なデモに繋がる
議会の共和党員は下院での60時間のノンストップ議論を打ち切って知事の法案を強行採決。議事堂内のデモ隊の退去を通告
上院の財政に関する法案は定足数が20名、共和党員は19名のため、14名の民主党員は全員州外に避難して、開会そのものを阻止したが、共和党は財政に関する部分を削除して定足数を過半数にしたうえで採決を行い、公務員組合を潰す部分を可決、下院も承認
ジェインズヴィルの多くの人々は常にマディソンをいかれたアクティヴィズムの地とみなして、抗議運動や白熱した政治的イベントが、逆境を前にしても善良で落ち着き払っているジェインズヴィルの誇らしい伝統を脅かすことはなかったが、事ここに至ってジェインズヴィルのトレードマークである礼儀正しさが溶融されつつあり、まずは教育組合が新知事のリコール選挙を扇動する組合運動に参加
公務員労働者が恵まれ過ぎているというのが知事の考えの根底にあり、彼らに対する鬱憤が高まっているのを巧みに利用しようとしたもの
ブラックホークで優秀な成績をとっても、求人はさらに上のレベルを要求するものばかり
レイバーフェストのパレードは例年通り始まるが、雰囲気は異様で、新知事就任当初の反組合、予算削減に対する大規模なデモの流れをくんでいる
GM破綻後初の労使交渉で、待機中の組み立てプラントの未来が議題となり、テネシー州スプリングヒルの再開の話が漏れ始めるがジェインズヴィルはそのまま待機中に

第5部        2012
メアリがロック郡5.0でジェインズヴィル復活の要と見做す900万ドルの新事業SHINEが市議会にかけられる ⇒ 誘致のための経済的インセンティヴは、84エーカーの土地(時価150万ドル)の無償提供、移転費用400万ドルの民間融資の保証等で、市の予算が42百万であり、それも州政府援助が1割削減されており、いかに支援額が大きいかわかる
SHINEメディカル・テクノロジーズは医療用アイソトープを作り出す新たな方法を開発したマディソンのスタートアップ企業
ライバル企業がベロイトで生産プラント建設を計画中で、ヘントリックスがメイン投資家
リスクの大きさから誘致に対する賛否は二分したが、何とか議会は可決
中西部と南部全域のGMのプラントに散ったジェインズヴィルからのジプシーたち535人は連絡を取り合い、Facebookグループを通じて故郷の出来事は逐一把握
6月には知事のリコール選挙、成立すれば合衆国史上3番目の知事となるところだったが、接戦の予想を覆し、リコールを生き延びた史上初の合衆国知事となる
得票率では53%対46%だが、郡の数では6012で、ロック郡はリコールに賛成しており、メアリとヘンドリックスは現知事の選挙運動を応援しているが、地元民のなかには現知事の下でジェインズヴィルが前進することに懐疑的な者も多い
知事の公約だった25万の雇用創出に対し、最初の1.5年で実現したのは3万に過ぎない
ポール・ライアンは、ロムニーの副大統領候補に選ばれ、ジェインズヴィルっ子の快挙を誇りに思う市民は熱狂、傷ついた政治的感情を和らげ、プラントの閉鎖以来広がり続け、2か月前のリコール選挙で最大に達した亀裂を狭めた
ウィスコンシン人は自らのことをチーズヘッドと呼ぶ(酪農が盛んでチーズの生産で知られる)
指名から30時間後、正副大統領候補が揃ってポールの帰郷決起集会に到着
今年のレイバーフェストは、沿道の「空き店舗」が増え、歩道に並ぶ椅子の間隔も広がったが、お祭り的な雰囲気が翳る訳ではない ⇒ 以前のような豪華な知恵を絞ったフロートもなく国内トップクラスの鼓笛隊を呼べるほどの寄付が集まったわけではなかったが、それでも152梯団が参加
ブラックホークの刑事司法を優秀な成績で卒業、刑務官になった女性は、夫との離婚を考え始めるとともに、囚人と付き合い始め、すぐに捜査の対象となる。州法では刑務官が囚人と性的関係を持つことは非合法。刑務所を停職になり服毒自殺。ジョブセンターは、サクセスストーリーの主人公として大いに宣伝した中心人物の自殺に衝撃を受ける
08年プラント閉鎖の意向通知の5週前に第2シフトの終了を計画していると告げた日、27年勤務の60歳の労働者が自殺。以来ロック郡の自殺者は倍増。「いのちの電話Crisis Hotline」の着信は増え続けている
メアリのM&I銀行は州内最大の銀行。不況の煽りから3年連続赤字でBMOハリスに買収されるが、メアリは新銀行で同じポストを確保
12年の大統領選でウィスコンシンは9つのスウィング・ステイトの1
選挙では、ジェインズヴィルの有権者は地元っ子の共和党員ではなく、オバマを選んでいた ⇒ ロック郡では10人中6人が大統領の2期目に投票。ポールは8期目を勝ち取ったが、票差は縮まっていた

第6部        2013
ジェインズヴィルは2つに分裂 ⇒ 1つはメアリが渦中にいる町で、彼女は新銀行の中で昇格し、金持ちたちに対するサービスの向上を目指すチームのヘッドであり、地元のビジネス・コミュニティの頂点にいて非営利団体のためのボランティア活動に精を出し、ロック郡5.0の地域志向の努力を続けている。郡内の産業用地の空き率は13%から7%に減少
もう1つは食料援助を受けている家庭。月160ドル。ロック郡内の対象は41千軒でプラント閉鎖前に比べ倍増
プロジェクト16:49は遅々たる歩みだが、資金集めは進捗。かつてはホームレスがいると考えるだけでショックを受けていたコミュニティで、プロジェクトは受け入れられている
IRSから非課税の非営利団体として認められ
フォワード・ジェインズヴィルというジョブセンターは2000件近い新規の雇用を創出したが、プラント閉鎖告知の時に比べて4500件も少なく、連邦の助成と市のカネで作られたイノヴェーション・センターがスタートアップ企業養成のためにオフィスと工場用地を提供しているが、センター内のレンタル用地に興味を示す企業はほとんどいないのが現実
2つのジェインズヴィルは今なお、自らを、そして自らのコミュニティを取り戻そうとして苦闘しているが、経済が回復したかと尋ねれば10人中6人はまだだと答える
メアリとその仲間の楽天家たちと、それ以外の街の住民の間のギャップは大きく、10人中6人はロック郡はかつてのような安定した労働市場には戻らないと考え、それ以外の人はほとんど戻るとしても長い時間がかかると考えている。既に戻ったと考えている人は50人に1人にすぎない
被害を免れた者と今も苦しんでいる者という2つのジェインズヴィル。いずれも強い熱意をもって古き良き「為せば成る」精神にしがみついているのは変わらないのに
ポールによれば、「ジェインズヴィルは極めて多くの献身的な人々のいるコミュニティで、ヘルスネットやECHOを大層気にかけているコミュニティ」だが、その窮乏はあまりに大きく、ジェインズヴィルが今も誇りとしている慈善には限りがあるということまでは言及されない

エピローグ
1510GMはプラントの恒久閉鎖を発表
分裂を深めていた2つのジェインズヴィルは、プラントの処分について明らかな分断線を描く。経済開発リーダーたちは跡地の売却再利用を働き掛けていたため決定に喝采を送ったが、元従業員の多くはいつの日かプラントが再開することを願ってきた
強大な不況の最悪の部分に苦しめられた小さな町とはいえ、その運命は一様ではない
広範にわたる政府など外部の力が、かつて豊かだった中産階級を支えきれないまま、ジェインズヴィルはかなりの程度まで自分自身のリソースに頼る以外になくなった。幸運なことに、これらのリソースのなかには、経済的に傷ついた他の幾多のコミュニティよりも多くの寛大さや創意工夫が含まれており、辛辣さは少なかった
ジェインズヴィルで起こったことに対するこのような理解は、16年の大統領選挙の後の社会通念とは一致していない ⇒ トランプの勝利により、現在の社会通念によれば、非正統的な共和党員こそが、白人労働者階級や落ちた中産階級など、自分たちの苦痛や憤懣を理解してくれない政府に対する悲嘆を溜め込んできた人々にとってのなけなしの希望のシンボルとなったのだという
今日のジェインズヴィルにはこの選挙を象徴するような二極化が起きている。予想に反してウィスコンシン州は32年ぶりに共和党を支持したが、ジェインズヴィルの民主党的アイデンティティは保たれている。というのはロック郡の52%はヒラリーを支持、4年前より10ポイント少ないとはいえ、それは民主党に投票する人が減ったからで、共和党支持者が増えたわけではない
最新の統計では、ロック郡の失業率は今世紀最低の4%以下にまで落ちた。プラント閉鎖以前と同じだけの人が就労しているが、実質賃金は下落したまま
SHINEも規制のハードルはクリアしたが、製造開始予定は15年から19年末へ延期
ダラー・ゼネラル社の新たな配送センター誘致に、新記録の1150万ドルの経済インセンティヴを用意。時給は低いが550人の雇用創出が期待されている
UAW支部は往時の面影もなく、組合員数百名で細々と活動を継続
レイバーフェストも14年には3日から2日に短縮、15年は突然キャンセル。16年再開
プラント自体は、打ち捨てられた産業の大聖堂として今も残り、市はGMにコミュニティのために25百万ドルの「レガシー・ファンド」(2次大戦中にパーカー・ペンが行った博愛的行動がモデル)を要求したが、回答はなく、土地の売却手続きが進められている
ジェインズヴィルの形成を助けた政治家たちの軌跡も分かれた ⇒ ポール・ライアンは歳入委員長から恒久閉鎖の翌日第54代下院議長に就任、191月辞任
ウォーカー知事は191月退任。25万雇用尾創出の公約は未達
メアリ・ウィルマーは、今もBMOハリス銀行に勤め、ロック郡5.0のボランティア活動に従事
ヘンドリックスはABCサプライの会長で、共和党への大口献金者。トランプの立候補に190万ドル、州のスーパーPAC(特別政治活動委員会)800万ドルを寄付、選挙終盤クリントンに対するネガティヴな広告を出稿、その功績でトランプの就任委員会に席を得た




(書評)『ジェインズヴィルの悲劇 ゼネラルモーターズ倒産と企業城下町の崩壊』
2019760500分 朝日
 工場閉鎖が地域を切り裂いた
 10年前の金融危機は、米国に大不況をもたらした。その頂点の一つが、自動車最大手ゼネラルモーターズ(GM)の経営破綻だった。
 工場が閉鎖されたウィスコンシン州ジェインズヴィルで何が起きたのか。本書は職を失った三つの家族の苦闘を軸に、閉鎖後5年間の企業城下町の変容を追っている。
 1920年にできた工場がもたらす雇用は、高い賃金と健康保険や年金を通じて中産階級の余裕ある暮らしを支えていた。それが突然奪われるなかで、人々も地域社会も苦境に立ち向かおうとする。新しい職を得ようと地元の技術大学で再教育を受ける労働者たち。そのプログラムの充実に奔走する関係者。企業誘致を図る地元のビジネス界。
 高校生もアルバイトで家計を支える。社会に根付いた寄付や助け合いの仕組みも動く。州や連邦政府からの補助金も活用される。
 だが、教育を受けてもGMほど給料のいい職は見つからない。地域経済や労働組合の体力低下で助け合いの原資も減る。政府は予算を絞り込む。5年を経て現れたのは「二つのジェインズヴィル」――被害を免れた者と今も苦しんでいる者――への分裂だった。
 必死にあがく人々への敬意と愛情をみなぎらせつつも、著者は厳しい現実を冷徹に描きだす。瞬く間に社会の厚みが削り取られ、希望が縮んでいく。程度はともあれ同様の課題を持つ国の読者として、読みすすめると悲痛な気分にもなる。
 一方で、こうした事実や渦中の人々の思いが克明に記録され、著作として広く読まれる点が、米国社会の底力に見える。本書には、独自に行った社会調査の結果も付されており、全体像の裏付けになっている。
 ピュリツァー賞受賞歴のある著者の力量はもちろん、調査や分析を支えた人々、そして何より厳しい境遇のなかで取材に応じた当事者たち。悲劇を乗り越える芽は、そこにこそあるのかもしれない。
 評・石川尚文(本社論説委員)
    *
 『ジェインズヴィルの悲劇 ゼネラルモーターズ倒産と企業城下町の崩壊』 エイミー・ゴールドスタイン〈著〉 松田和也訳 創元社 2592円
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 Amy Goldstein 米紙ワシントン・ポストに30年間勤めたジャーナリスト。2002年、ピュリツァー賞受賞。



Wikipedia
ゼネラルモーターズ(英語: General Motors Company)は、アメリカ合衆国自動車メーカーである。本社はミシガン州デトロイト。略称は「GM」。
20世紀初頭にミシガン州で創業。1930年代から第二次大戦後にかけてアメリカ最大の市場シェアを握り、特に1950年代から60年代には世界最大の自動車メーカーとして繁栄した。70年代以降は輸入車との競争に苦しみ低迷、200961連邦倒産法第11の適用を申請し倒産、国有化された。2013129アメリカ合衆国財務省が保有するGMの株式全ての売却が完了し、国有化が解消された。
l  歴史[編集]
かつてのゼネラルモーターズ本社。1923に竣工した当時は世界で二番目に巨大なオフィスビルだった。1996に本社移転した後はキャディラック・プレイスと改称されミシガン州などの庁舎が入っている。アメリカ合衆国国定歴史建造物指定
創成期~第二次世界大戦まで[編集]
1908916に、ウィリアム・C・デュラントミシガン州フリントで組織した持株会社がゼネラルモーターズである。ビュイック・モーター1903創業)の経営を1904に任されたデュラントは、社長としてビュイックを全米有数の自動車メーカーに育て上げた。デュラントはゼネラルモーターズ創設後、1908年末にオールズモビルを買収し、翌年にはキャディラックエルモア、オークランド(後のポンティアック)などを買収してGMの一部とした。その後もGMはミシガン州周辺のトラックメーカーを次々買収するが、買収費用がかさんだことにより100万ドルの負債を抱えるはめになった。1910、デュラントはGMの支配権を失い、バンカーズ・トラストが会社の支配権を握った。
デュラントはその後シボレーの創立(1911)に関わり、GMの株を買い戻して1916には社長に返り咲き、シボレーを翌年GMの一部とした。彼の復活の背後には、1914に最初の投資を行って以降、1950年代までGMに関与し続けたデュポン社の社長ピエール・デュポンがいた。
1920にピエール・デュポンはデュラントを追い出してGMの実権を奪い、社長として擁立したアルフレッド・スローンの経営によって現在に繋がる経営基盤が確立され、政争に揺れたフォードを抜いて世界最大のメーカーとなった。商品方針は「どんな予算でも、どんな目的でも」。このために複数のブランドを所有し、北米では最下段にシボレー1990からサターンがシボレーとは別にベーシックブランドとして登場した。また、ジオというブランドが最下層として存在した時期があった)を、最上段にキャディラックを位置付け、シンプルでベーシックなフォード・モデルTしか作らなかったフォード車に対して、スタイリッシュで、パワフルで高級感のある商品を揃えるという巧妙なマーケティング戦略や、1919に設立されたGMACの金融サービスによるオートローンクレジットで消費者を惹きつけ業界シェアナンバー1を維持し、フォードを突き放した。なおフォードは当初顧客にローンを組ませるという販売方法を拒み、1920年代の後半にようやく似たようなクレジットサービスを提供したが、「フォード・クレジット」というGMACのような信販会社が設立されたのはずっと後の1959年であった。
1920年代から1930年代にかけてGMバス製造会社イエローコーチを買収し、グレイハウンド社の創設を手助けした。またGM1936に石油会社スタンダード・オイル・カリフォルニア(のちのシェブロン)やタイヤ会社ファイアストンと共同で「ナショナル・シティ・ラインズ」を創設し、1950年までに全米各地の路面電車会社や電鉄会社を買収し、これをバス運送に置き換えていったが、これは後に自動車関連各社による鉄道縮小の陰謀として非難を浴びた(陰謀論の詳細と正確性についてはアメリカ路面電車スキャンダルパシフィック電鉄を参照)。
初期のフォードは1つの車種(フォード・モデルT)だけを世界中で大量生産したが、一方でGMは初期から各々の地域毎に多種多様な車種を供給し、そのために南北アメリカ、ヨーロッパアジアオーストラリアなど世界中に生産拠点を設けた。1925年(大正14年)のアジアを視野に入れたフォード社日本進出に続き、1927(昭和2年)から1941(昭和16年)まで、大阪(現在の大阪市大正区鶴町1丁目、大阪市営渡船船町渡船場付近)に日本法人日本ゼネラル・モータースを設立。シボレー車のアジア向けノックダウン生産および、販売サービスをおこなった。昭和初期の日本国内は、GMのシボレー車とフォード車の独擅場だった。
同じく1925にはイギリスのボクスホールを買収、19293月にはドイツのオペル80%買収、3年後の1931には100%とし、さらにオーストラリアのホールデンも傘下に収める。オペル買収でドイツでの自動車製造を利益の大きな重要事業とみていたが、ナチス台頭後オペルは一旦GMの支配を離れた。子会社ボクスホールなどを通じて戦車など軍用車両を製造し、第二次世界大戦下で連合軍を支えたが、一方でオペルはナチスの欧州侵攻を支えた。GM首脳グレアム・K・ハワードやジェームズ・D・ムーニーらはナチスに個人的に深くかかわり、ムーニーは戦争前にヒトラーから受勲するなどしている。194811GMは再びオペルを支配下に置く。
GM航空機製造にも関心を示し、1930フォッカーの子会社アトランティック・エアクラフト・コーポレーション・オブ・アメリカを買収しゼネラル・アビエーション部門とし、1933にはノースアメリカンを買収してノースアメリカンを存続企業としたが、1948に株を公開し、F4Fワイルドキャット戦闘機のライセンス生産後は航空機には携わっていない。
第二次世界大戦中にはM3サブマシンガンFP-45などの銃器を製造していた。
l  第二次世界大戦後~1990年代[編集]
戦後、1950年代にはGMはアメリカ最大の会社となり、1953には社長チャールズ・E・ウィルソンアイゼンハワー政権の国防長官となった。195512月末には、GMはアメリカで最初に年10億ドル以上を稼ぐ企業となった。
1970年代以降、オイルショックによって小型車の需要が高まると、それまでアメリカ国内で開発して来た小型車(コーヴェア、ヴェガ等)オペルいすゞ等の開発協力を得たモデル(『Tカー』、『Jカー』等)に代替するなどの販売戦略の転換が進められたが、品質と生産性の悪化が顕著となり、1981から1990まで会長職にあったロジャー・スミスの下、さまざまな取り組みが進められた。1984にはトヨタ自動車との合弁会社『NUMMI』を設立し、QCに関するノウハウの吸収に努めたほか、アメリカ国内の工場のリストラ労働条件の引き下げといった生産性を向上する取り組みにも着手した。日本車やドイツ車のコンセプトを模倣したサターンや高度にロボット化された工場の失敗などはあったものの、1990年代初頭には一定の成果を見せるようになった。また、1990年代を通じたアメリカの好景気は、フルサイズSUVピックアップトラックなどの需要を生み出し、アメリカ国内のシェア低下には歯止めが掛からなかったものの、高い利益率は好業績を維持することに貢献した。
l  2000年頃~2008[編集]
2000頃からは環境保護問題の高まりなどの外部環境の変化を受け、消費者の嗜好は再び燃費の良いサブコンパクトカーハイブリッドカーにシフトしたが、GMは時代の流れに逆行し高い利益率のフルサイズSUV・ピックアップトラックに集中し続け、むしろ小型車部門のジオは整理・縮小させる方向にあった。
また2001アメリカ同時多発テロ事件直後に販売量が落ち込んだ際には、生産量を落とさない方針を採ったため次第に在庫が増加。在庫を捌くために販売店へのインセンティブの上乗せや値引き販売を激化させる悪循環に陥り、2005までに企業収益は一気に悪化した。過去の従業員の退職年金医療費負担なども財務を圧迫し続け、格付け会社からは社債を「投資不適格」にランク付けされるに至り株価は低迷、株式投資会社の介入を招く事態にもなった。部品調達で密接な関係を持つデルファイ・コーポレーションが経営危機を迎えた際にも、直接救済する体力は無かった。
2005以降は、提携先の株式の処分も進められている。10には、資本提携していた富士重工業(当時)株をトヨタ自動車へ売却、2006にはいすゞ自動車株を売却し資本提携を解消、20063には、スズキ株の大半を売却し、20081118付で資本提携を完全に解消した。こうした株式の処分は別利益となり経営体質の改善に直結するが、一方でGMの伝統である、地域毎に多種多様な車種を生産し融通し合うという特徴(サブコンパクトカーの開発・生産はスズキやいすゞが担った)を薄めることであり、今後の商品開発力低下を危惧する見方もある。
20067には、カーク・カーコリアン率いる投資会社トラシンダから、ルノー=日産アライアンスとの提携を推奨され協議に入ることが大々的に報じられたが、GM首脳部には提携の意志はなく、同年10月中に破談し交渉は終了している。
2007の自動車販売台数は、トヨタ自動車グループと僅差で世界一(937万台)であったが[3]ガソリン価格の高騰、サブプライムローン問題に端を発する世界金融危機の影響で、北米での売上が大きく落ち込んだ。その結果、2007年度決算で3兆円という途方もない額の赤字を生むこととなった。また、2008上半期には約77年間も守り続けた販売台数世界一の座もトヨタに明け渡した[4]
GMは巨額の年金・退職者医療の債務を抱え、債務超過に陥り、株主配当も停止され、金融市場から債券発行による資金調達も困難な状態にあった。GMの純損失額は20051056700万ドル、2006197800万ドル、20073873200万ドルであった。
2008年第1四半期から第3四半期までの財務データは、売上高1186億ドル、営業損失139億ドル、純損失213億ドルであり、第3四半期終了時点で、負債総額は1703億ドル、CDS残高2000億ドル、債務超過額599億ドル、手元資金162億ドル(3ヶ月のうちに50億ドル減少)であった。2008年第3期の売上高は前年同期比13%減の3794100万ドルであった。
200810月のGMの新車販売台数が前年同月比45%減になる状況の中[5]1031に米国財務省はGMクライスラーの合併に必要なリストラ費用100億ドルを、2008年に成立した緊急経済安定化法から支出することを拒否し[6]GMはクライスラーとの合併協議を中断した。格付会社S&Pは、GMの格付けを「B-」から「CCC+」に格下げし、見通しもネガティブとした[7]
20081111には株価が2.75ドルと1943以来65年ぶりの安値になった。11月のGMの新車販売は2ヶ月連続の4割減、-41.2%だった。 GMは、フォードとクライスラーと共に、アメリカ連邦政府に金融支援を含んだ自動車業界救済法案の採決を求めたが、金融支援をうけるのに必要な経営再建策に具体性がないことなどを理由として、議会は11月に採決を行わなかった。
そこで、GM3社は、121に経営再建策を議会に送付し、上院下院公聴会が開かれた。下院は自動車業界救済法案を1210にまとめ本会議で可決したが、選挙前の勢力分布で伯仲していた上院では、修正案を採決にもっていくための投票で必要な60票がとれず、1211に廃案となった。
議会での自動車業界救済法案の不成立を受けて、ついにブッシュ大統領が介入し、1219に、緊急経済安定化法の成立で運用が始まった不良資産救済プログラム(TARP)7000億ドル分のうち、議会承認済みの3500億ドルの中で未使用であった150億ドルを活用して、GM134億ドル、クライスラーに40億ドルの合わせて174億ドルのつなぎ融資を実施することを決定した。実際に、GMには2008123140億ドル、200912154億ドル、21740億ドルの3段階に分けた合計134億ドル、クライスラーには20091240億ドルの、総額で174億ドルのつなぎ融資が実施された。
l  経営破綻と国有化[編集]
オバマ政権発足後も危機は継続し、2009220には、子会社のサーブ・オートモービルスウェーデン政府からの公的支援を拒否されたこともあって事実上の経営破綻に追い込まれた。
20094月には、アメリカ政府は新たにGM50億ドル、クライスラー5億ドルの合わせて55億ドルのつなぎ融資を実施することを決定し、実際に4月末にクライスラーへの5億ドルの融資が実施された。
しかし会社側と債権者の債務削減交渉526深夜にまとまらず、翌27日に交渉の打ち切りが発表された。結果、米政府が支援を継続する条件を満たせなくなる見通しが強まり、この影響により29日のニューヨーク株式市場ではGM株価が急落し0.75ドルで取引を終え、1933以来76年ぶりに1ドルを割り込む形となった[8]
200961日、GM連邦倒産法第11(日本の民事再生手続きに相当する制度)の適用を申請した。負債総額は1,728億ドル(約164100億円)。この額は製造業としては史上最大である[9]。同時にアメリカ政府が60%、カナダ政府が12%の株式を保有する、事実上の国有企業として再建を目指す事になった。
ニューヨーク証券取引所は、GMの連邦倒産法第11章の申請を受け、200962日の取引開始前から同社株を売買停止・上場廃止とした。ティッカーを「GM」から「GMGMQ」に変更した[10]。これを受けてダウ・ジョーンズは、同社が算出・公表する「ダウ工業株30種平均」構成銘柄からGMを除外した[11]。同年63日には生産設備を含む「ハマーブランド」の買収について中国騰中重工と合意していたものの、中国政府からの承認が得られずブランドは廃止となった[12]
l  新生GM[編集]
2009710、アメリカ政府が61%、残りを全米自動車労働組合United Auto WorkersUAW)やカナダ政府などが保有する新会社が設立され、旧GMは社名を「モーターズ・リキデーション・カンパニー」に改称すると共に、新会社に優良資産等を売却する手続を完了。「新生GM」が正式に発足した。これを受けモーターズ・リキデーション(ティッカー:GMGMQ)の株価は37%急騰し、40日ぶりに1ドルを超えて終えた。なおモーターズ・リキデーションは715日にティッカーを「GMGMQ」から「MTLQQ」に変更している(2011331、「MTLQU」に再変更)。
20101118日、新生GMは旧GM破綻前のティッカー「GM」を引き継ぎ、ニューヨーク証券取引所に上場を果たした。
2013129日にアメリカ財務省は、これまで保有してきたGMの全ての株の売却を完了してGMの国有化を解消した。公的資金として投入した500億ドルのうち、390億ドルは株式の売却で回収し、残りはGMの資産の売却で回収した[13]
20141月、大手自動車メーカーでは初めての女性のメアリー・バーラCEOに就任 [14]
20142月、GMは大規模なリコールを発表[15]。その後、このリコールに関してリコール隠しの疑惑が表面化した。バーラCEOは同年41日に下院エネルギー・商業委員会の公聴会に出席し、破綻以前の2001年の段階で不具合を把握したことを認めて陳謝した[16]
これは、エンジンが停止してハンドルが動かなくなったり、エアバッグが作動しなくなったりして死亡事故にもつながった欠陥が存在すると知りながら、10年以上も放置していたという悪質なもので、2014516日、運輸省は、制裁金3500ドルを科した[17]
この欠陥が原因で13人が死亡しているとゼネラルモーターズは発表している。しかし、ロイターの調査などによると、少なくとも74人が死亡した疑いがあるとされる。ただ、ロイターの調査は、交通事故分析報告システムで、疑わしい事故を調べるという方法のため、正確なものとはならないという指摘されている[18]。ゼネラルモーターズは、この欠陥について経営陣は把握してなかったとして、組織的隠蔽については否定している[19]2014616日時点で、既に2014年内のリコールだけで30回以上、リコールした台数は2000万台を超えた[20]
2015917日、リコール問題についてゼネラルモーターズは、9億ドルの罰金を支払うことで司法当局と和解した[21]
2017年に、ドイツのオペルとイギリスのボクスホールPSA・プジョーシトロエンに売却し、欧州市場から撤退した。
l  無視された警告[編集]
GM北米乗用車・トラック部門担当副社長(旗艦ブランドのシボレー事業部長から昇進。日本風に言えば専務)に48歳でなったジョン・デロリアン(彼が作ったデロリアン・DMC-12は、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」にも登場している)は財務部門との内部抗争に破れ退社し、「晴れた日にはGMが見える」(原題:ON A CLEAR DAY YOU CAN SEE GENERAL MOTORS:1979)というインタビュー記録(本人不承認)が出版された。その中で特に強調されているのは外部や内部からの忠告・提言をたとえどんなものであっても拒絶する姿である。
強く印象に残る内容は経営学者ピーター・ドラッカーGMを研究した好意的な著書「会社という概念」(1946年)で書かれた「戦後期には組織・事業・目標を見直す必要がある」という穏健な記述に対して起こったGM内部の憤激である。「GMは世界一なのだから、批判はもってのほか」という理屈である。また最上層部(「十四階」)には自動車産業運営の知識と経験と能力がないとも書いている。
ジャーナリストデビッド・ハルバースタムは『覇者の驕り自動車・男たちの産業史』(原著、1986)で、GMをはじめとするビッグスリーが驕り高ぶり、その結果として日本車の攻勢に徐々に破れるも改革を拒む姿勢を描いている。
消費者運動家・ラルフ・ネーダーが『どんなスピードでも自動車は危険だ』(Unsafe at Any Speed)というシボレー・コルヴェアの欠陥を告発した本を出版したときGMから探偵の尾行を付けられ、GMは議会で謝罪する事態になった。あとで分かったのは、この活動は最上層部の承認なしに自動的に行われたということである。GMは批判を色々な手段で抑圧する会社と見られた(ネーダーは極めて禁欲的な人間であり、全く弱みを見つけることはできなかった)。
現在のGMは「それらは昔のGMであり、今のGMとは異なる」という立場をとっている。しかし、2014年に発覚した大規模なリコール隠しにより、税金によって救済されてもゼネラルモーターズの隠蔽体質は変わっていないと批判されている[22]
l  研究開発[編集]
GM研究開発は各部門でも行われるなど様々であったが、1949年からミシガン州デトロイト近郊のウォーレン https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/55/WMA_button2b.png/17px-WMA_button2b.png北緯423048 西経83216座標https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/55/WMA_button2b.png/17px-WMA_button2b.png北緯423048 西経83216)にエーロ・サーリネン設計の「GMテクニカルセンター」(General Motors Technical Center)の建設を始めて、1955年にアイゼンハウアー大統領も臨席のもとに開所した。[23]
この「テックセンター」は710エーカー(287ヘクタール)の広大な土地にビル38棟があり、21,000人が働いている。各棟には研究開発(冶金、事務所&展示)、デザインセンター、ザ・レイク(湖)、技術センター、中央カフェテリア生産技術(A&B)部門などがある。GM研究開発はここを中心に、他のGM研究施設6か所、科学関係施設6か所、世界の大学、政府関連機関、サプライヤーパートナーなどとの連携で進めている。
l  主なプラットフォームと使用車[編集]
これまで1970年代からの「Tカー」「Jカー」の様なグローバル・プロジェクトがあったものの、基本的には北米・欧州の2オーストラリアを含めると3)極体制でそれぞれの市場に向けた車種の開発・生産・販売を行い棲み分けを図ってきた。近年ではここに韓国が加わり、全世界・全ブランドにおけるプラットフォームレベルでの融合が加速している。 更に、これまでは北米・欧州由来のGM車を生産していたに過ぎなかった第三世界における拠点(ブラジル中国など)や、車両開発能力がありながら国内(あるいはオセアニア地域)限定の展開に留まっていたオーストラリア(ホールデン)の主導で開発されたプラットフォームやモデルがグローバル市場向けに輸出されるなど、これまでになかった新しい展開も見られる。
l  モータースポーツ[編集]
主にツーリングカースポーツカーレースを中心に活動している。
アメリカ国内最高峰のNASCARカップ戦では旧くからオールズモビルビュイックキャデラックポンティアックシボレーなど多くのGM車が勝利・タイトルを獲得しており、中でもシボレーデイトナ500カップ戦フォードを大きく引き離して歴代最多チャンピオンブランドとして君臨している。2018年現在はヘンドリック・モータースポーツチップ・ガナッシ・レーシングといった強豪チームがシボレーで参戦している。なおシボレーエンジンはヘンドリック・モータースポーツとECR(リチャード・チルドレス・レーシングのエンジン部門)が開発を担当している。
プロトタイプレーシングカーでは、1965年にセブリング12時間1969年にデイトナ24時間をシボレーエンジン搭載車が制したのが最も古い記録である。その後は欧州勢の躍進により鳴りを潜めたが、グループC終焉以後に復活。アメリカン・ル・マン・シリーズにキャデラック・ノーススターLMPで参戦した他、2012年からグランダム・シリーズにコルベットを模したデイトナプロトタイプ(コルベットDP)で参戦、USCCユナイテッド・スポーツカー選手権)も含めて2016年まで選手権を6連覇した。2017年にDPi規定が導入されると、ブランドをシボレーからキャデラックへとスイッチ。シャシーは規則によりダラーラとの共同開発で、エンジンはDPi4メーカー中唯一大排気量自然吸気エンジンを搭載する[24]。このマシンはコルベットDP時代と全く変わらぬ圧倒的な速さでデイトナ24時間セブリング12時間・選手権全て制覇した。2018年現在はアクション・エクスプレス、ウェイン・テイラー・レーシングがキャデラックDPiを運用する。また2017年まで存在していたオレカ・FLM09のワンメイクであるLMPCクラスに、シボレーV8自然吸気エンジンを供給していた。
GTカーでは1999年にコルベット・レーシングを組織して、シボレー・コルベットでル・マン・デイトナ・セブリングに毎年参戦し続けている。コルベット・レーシングはフェラーリポルシェ相手に全く譲らず、これまでに8度ル・マンでクラス優勝を飾った。またPWC(ピレリ・ワールド・チャレンジ)にはシボレー・カマロの他、キャデラックポンティアックのマシンで参戦している。
詳細は「プラット・アンド・ミラー」を参照
世界各地のツーリングカーレースにも参戦しており、英BTCCにはシボレー・ボクスホールオペル(後2社は2017年にPSAに売却)、ストックカー・ブラジルアルゼンチンのスーパーTC2000はシボレー、豪州スーパーカーシリーズ(旧V8スーパーカーホールデンブランドがそれぞれ活躍し、数多のタイトルを獲得している。また世界選手権のWTCCにも2005年にシボレーブランドを欧州に復活させた際に参戦を開始、ヴァン・ミュラーロバート・ハフにより、20102012年にドライバー・マニュファクチャラー三連覇を達成した。2013年以降はマニュファクチャラーとしての参戦からは撤退したが、プライベーターのRMLシボレー・クルーズを開発・供給することで存続し続け、2013年はワークス勢を差し置いてミュラーがドライバーズタイトルを獲得している。
F1に参戦したことが無いが、北米オープンホイールの最高峰インディカー(チャンピオンシップカー)にはたびたび登場している。19861993年にはインディ5006連勝を飾り、同期間のCARTでも1993年を除いて5連覇を達成している。その後シボレーからオールズモビル(オーロラ)へとブランドをスイッチし、こちらでも1997年から2002年の間インディ5005連覇している。その後2005年に撤退したが、V8自然吸気からV6ターボとなる2012年に復帰。ライバルのホンダをパワーで圧倒しており、2017年現在、復帰以降の選手権では2013年を除き全てチャンピオンエンジンとなっている。
ラリーではグループ4及びグループB時代にオペルWRCに参戦し、1982年にヴァルター・ロールがドライバーズタイトル、1993年のFIA 2リッターカップを獲得しているが、それ以外はほとんど記録は無く、地域ラリーでもGM車を見ることは少ない。他方ラリーレイドやオフロードレースではGMピックアップトラックが見られる。
l  日本での販売と日本法人[編集]
1915大正4年)創業の梁瀬自動車(現ヤナセ)が輸入代理店としてGMのビュイック、キャディラックの販売を開始。当時の呼び方は、ビュイックは『ビウイク号』、キャディラックは『カデラツク号』だった。のちシボレー号も販売開始。
1925(大正14年)、フォードが日本に進出し、神奈川県横浜市に組立工場を開業した。GM1927大阪市大正区鶴町(現在の鶴町1丁目、大阪市営渡船船町渡船場付近)に日本法人の「日本ゼネラル・モータース」を設立し、組立工場でのシボレー車の完全ノックダウン生産と販売を行う。フォード同様、日本だけでなく中国などアジア全体を視野に入れての進出だった。日本における影響は大きく、全国に渡る自動車販売サービス(販売・整備)網を構築し、以後の自動車販売業界はここから発展したものである。昭和初期の日本国内は、GMのシボレー車とフォード車の独擅場だった。
1936(昭和11年)の自動車製造事業法施行により国産メーカーのみに大量生産が許され、発展の余地がなくなり、1941(昭和16年、太平洋戦争開戦の年)に日本から撤退。第二次世界大戦後、再びヤナセが日本市場の販売代理店を長期間つとめる一方、車種によっては西武自動車販売日英自動車東邦モーターズ三井物産オートモーティブもGM車販売に参入していた。
近年の日本法人は日本ゼネラルモーターズGMJ)とゼネラルモーターズ・アジア・パシフィック・ジャパン(GMAPJ)の2社体制であったが、2011(平成23年)に両社は合併し、「ゼネラルモーターズ・ジャパン」となった。


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