日本の天井 時代を変えた「第1号」の女たち  石井妙子  2019.7.28.


2019.7.28. 日本の天井 時代を変えた「第1号」の女たち

著者 石井妙子 1969年神奈川県生まれ。白百合大卒、同大学院修士課程修了。06年『おそめ 伝説の銀座のマダム』を刊行。綿密な取材に基づき、一世を風靡した銀座マダムの生涯を浮き彫りにして、新潮ドキュメント賞、講談社ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞の最終候補。16年『原節子の真実』で第15回新潮ドキュメント賞受賞。19年『小池百合子「虚飾の履歴書」』で第25回編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞受賞。他に『日本の血族』『満映とわたし』(岸富美子との共著)など

発行日           2019.6.21. 初版発行
発行所           角川書店

本書は、『「第1号」時代を変えた女たち』(『文藝春秋』153月号)を基に再取材を行い、書き下ろしたもの

「女」を追いかけ続ける著者が描く、闘いの時代史

まえがき ⇒ 後出

第1章     砕き続けたのは、働く女性への偏見――高島屋取締役・石原一子(いちこ)
1924年大連生まれ。旧制土倉。両親は高岡市出身。東女大卒後、一橋大初の女子学生に。卒後高島屋入社。79年女性初の役員。一部上場企業初の女性役員。常務となり、経済同友会初の女性会員。各省庁の諮問委員など歴任。ハーバードビジネススクールAMPコース終了。87年高島屋退社後は東邦生命取締役、一橋大講師、国立市景観を守る市民運動代表

l  偏見に屈せず「働き続ける」 ⇒ 実業界は、学界、官界よりも一層女性に厳しく門戸を閉ざしていた。
l  自由でエネルギーに満ちあふれた大連の空気 ⇒ 寺の跡取りを蹴った父親が満鉄に入社したため満州で生まれ、ハルビン(後に富士)高女へ
l  七三一部隊 ⇒ 女学校3年の時チフスが大流行、多勢が亡くなったが、戦後になってハルビン近郊にいた七三一部隊の仕業と知り絶対に許せない。男女で教育の差があるのに愕然
l  内地育ちと外地育ち ⇒ 東女大(当時はまだ専門学校の位置付け)入学のため帰国、寮生活へ。全てが外地と違うのに驚く。特に女性が窮屈に暮らしているように感じる。すぐに開戦となり1年で学業を終え、学徒勤労動員へ。疲労と栄養失調で倒れ、45年初頭親元に帰るが、3月には1人大学に戻る。帰路汽車に乗り合わせたのが後の兼松の社長・谷口三樹三郎
l  谷口三樹三郎の厚情 ⇒ 終戦後は寮長として後輩の面倒を見ながら両親の帰国を待ったが、心配して会いに来てくれたのが谷口
l  「知識は決して、その人から離れない」⇒ 翌年家族と無事再会、無一文になって実家で生活、高岡で中学の英語教師となり、縁談が進むが、東女大から新制大学教育開始の連絡があり、49年身一つで上京し東商大に合格、女性の受験生1人だけ。面接でも自立するために金儲けがしたいと明言
l  一橋の中は男女平等が実現されていた ⇒ 就職する段になって厳然たる男女差の存在に愕然。高島屋を紹介され先生の推薦をもらう
l  「数字が私の感性の正しさを証明してくれた」⇒ 同期の大卒女性は4名。靴売り場の販売員からスタート。3年目に花形の婦人服のセーター売り場の主任に抜擢。消費行動を正確に売り場に活かすよう心掛けるが、文句ばかり言ったのが祟って台所用品売り場に左遷。そこで数々のヒットを飛ばす
l  仕事か家庭。女性だけに選択を迫る社会 ⇒ 61年台所用品の仕入れ課長として米国の見本市に出張。同業者の女性との交流に活路を見出す。入社3年目にゼミの先輩で朝日新聞記者と結婚、仕事に理解があることが条件だったが申し分ない伴侶
l  「前例がないなら、自分で作ればいい」⇒ 3か月の産後休暇の後すぐに復帰、育児休暇を認めさせたが、2人目の時は本当に周囲が冷ややかだが、産後配属されたベビー用品売り場で自らの体験に基づく商品開発をして、若い女性に生活スタイルや「ライフ」そのものを提言
l  「部下の昇進は自分のこと以上に考えた」⇒ 70年ベビー商品を統括する部長。女性初の部長で同期12人のトップ。販売員に育児経験が必要だと考え、愛育病院に1か月に1度研修生を派遣し実習させた。夫の転勤の際も異動は考えず
l  キャリアウーマンの星へ ⇒ 79年「フランス展」の仕入れを任されパリに出張した時、取締役が決まり大騒ぎに。新設ポストの広報室長就任。アメリカのキャリアウーマンの指南書を翻訳、曰く「男のように考え、レディのように振る舞い、犬のごとく働け」
l  本当の組織人 ⇒ 80年ダイエーの中内が三和の応援を得て高島屋株の買い占め始めたが、中内の言葉に人間の驕りを感じ、社長に阻止を進言、旧知のレナウン社長と住友の支援を得て、提携推進派を押し切ったが、社内の亀裂を経験。創業家内の争いになったが、社内外からバッシングを受け落ち込む
l  高島屋を離れて見えてきたこと ⇒ 85年国連の女子差別撤廃条約を批准、86年男女雇用機会均等法施行とともに、女性の地位向上に貢献したとして、婦人関係功労者として総理大臣表彰を受ける。夫が胃がんで帰京、闘病生活に入り、61年逝去、享年61。同年同友会が森英恵、奥谷禮子と共に初の女性会員に迎えられるが、社長の態度が急変し社内での立ち位置が難しくなったのを察して、ハーバードの役員研修プログラムを受ける。社長の座を狙って動いているとの噂が立ち、居場所がなくなったのを感じて退社を決意。退社の花道として残したのが女性社員の再雇用制度
l  無謀な開発の反対運動に立つ ⇒ 上京した時から住む国立市で景観運動に関り結果を出す。7年にわたる裁判沙汰で、「良好な景観の恩恵を日常的に享受する利益」は法的保護に値するとの判決を勝ち取り、当初の高さ、大きさをだいぶ削減することに成功
l  エリートでなく、エリートぶった人が溢れている ⇒ 男性が企業文化の弊害に陥っている一方で、女性の力に希望を見出す。運動を通じて日本社会の抱える課題を知る。臆病で弱虫で感受性の乏しい人が多すぎる。社会に出て企業に就職し、序列と終身雇用に甘えて保身の術だけに長けてしまう日本型企業の弊害のせいでもある
l  「欲しいと思った幸せには全部、手を伸ばせばいい」⇒ 世間の価値観に合わせるのではなく、自分にとっての幸せを追求し続ける。仕事の醍醐味は自分で掴み取るもの。力のある女性がきちんと評価されピックアップされることで社会全体が伸びていくのが理想

第2章     破ったのは、女性への迷信――囲碁棋士・杉内壽子(かずこ)
1927年静岡県生まれ。旧姓本田。日本棋院所属。喜多文子名誉八段門下。女性初の八段。女流選手権4期、女流名人4期獲得。夫は囲碁棋士の杉内雅男九段。妹の本田幸子、橘光子も囲碁棋士(本多3姉妹)。日本棋院棋士会会長を長く務めた。14年通算600勝は女性棋士として最多勝。18年現在最高齢現役棋士として活躍

l  男女同権の世界 ⇒ 囲碁界は江戸時代末期には女性に門戸を開いていた。囲碁は6世紀に中国から朝鮮経由日本に伝わったとされ、平安時代は貴族の嗜みだったが、源氏物語にはヒロイン達も囲碁に興じる場面が描かれている。戦国武将も愛好者。江戸時代は家元4(本因坊、安井、井上、林)に禄を与えて保護。大名や公家の姫の輿入れには必ず碁盤や碁笳(ごけ:碁石の入れ物)が含まれ、大奥では盛んで女流棋士が派遣された。明治に家元制度が廃止され、代わって囲碁結社が作られ、現在の日本棋院と関西棋院の前身となる。基本的に男女平等であり、同条件の中で、女性として初めて日本棋院の高段者、更に八段になったのが杉内であり、日本棋院の棋士会会長も20数年間も務める。目黒区在住
l  父の壮大な実験 ⇒ 海軍の退役軍人の父から5歳ごろに手ほどきを受ける。父が病気静養中、囲碁教室を開き、女性が五段以上の高段者になれるか可能性を試そうとして娘3人を仕込む。弟は対象外
l  本因坊秀哉名人と打つ ⇒ 父たち主催の囲碁大会に江戸から続く家元の最後となった本因坊秀哉と伊藤友恵二段を招待したが、男の棋士が女流二段に全く歯が立たないのに驚く。碁を打つ少女ということで評判が立ち、37年のある大会で引退直後の本因坊秀哉に6子置いて対戦、褒められた。東京でもこの対局が評判となり大会に参加
l  女性棋士の第一人者、喜多文子 ⇒ 10歳の誕生日に木谷實7段の公開指導対局を受け、呉清源六段が大盤で解説するという名誉な機会を与えられ、5子で快勝。翌日女流棋士の第1人者喜多文子(ふみこ)が突然家を訪ねてきて弟子にしたいとの申し出。木谷が先を越されたと悔しがる。喜多は家元の1つ林家の分家の養女として囲碁を仕込まれ、男性棋士の勢力争いの間を取り持って、大倉喜七郎の支援を得て日本棋院立ち上げに尽力。「女流棋士の母」「囲碁界の母」と呼ばれる。すぐに通いの弟子(高齢のため内弟子は取れない)となり一家で東京に引っ越し。日本棋院の院生となって入段を目指す。女学校に進学したかったが、修業の妨げと断念
囲碁界で女流棋士とは便宜的に言うだけで男女対等だが、将棋界では実力の差がありすぎるため「女流棋士」として別枠を作っている。未だ「棋士」になった女性はいない
l  「父は突然、家中の鏡を外してしまった」⇒ 女の子がお洒落に関心を持つと稽古に身が入らないとして鏡を外し、服装はセーラー服1本。当時の院生には、棋風を「変幻」と評された山部俊郎や、後年囲碁界に君臨した藤沢保(秀行)らの天才少年が揃う
l  入段と出稽古 ⇒ 院生同士のリーグ戦を勝ち抜いて入段=プロ入りするが、41年秋2回目の挑戦で191敗で入段資格を勝ち取る。出稽古で家計を支える
l  戦争と病を乗り越える ⇒ 44年には大手合の2(四段以下)で全勝し二段に昇段。皇軍慰問で大陸にも出かける。千葉の市原に疎開し終戦を迎えるが、無理がたたって寝込む。46年大手合に復帰。16歳で入段した妹と二人東京で自活
l  三人だけの研究会 ⇒ 学者のように囲碁の探求に没頭する杉内雅男四段を師匠として幸子と二人指導を受ける
l  「本田壽子を五段にする会」⇒ 48年高輪に日本棋院再建。初の大手合2部で優勝し三段に、更に翌年四段。財界に評判が広まって鳩山一郎を会長に後援会が結成され、富士製鉄の紀尾井寮で月1度の碁会が開かれ、壽子と幸子が指導碁を打ち2万円を稼ぐ
l  昇段と結婚 ⇒ 53年漸く念願だった五段に昇格、棋界の歴史を塗り替えた。自由を手にして杉内とも結婚。同居の義姉が家の面倒を見てくれたので壽子は杉内と共に棋道に邁進。52年から始まった女流選手権では2年目から連覇するが、57年出産で初めて手合休場の決断。代わりに幸子と下の妹光子(てるこ)が活躍。62年父逝去(享年72)
l  一通の手紙 ⇒ 女流棋士の歴史は長いが、結婚・出産・子育てを経験しながら対局をするという前例は皆無、喜多も結婚したが子供がいなかった。対局から離れて10年経った時に大倉喜七郎から手紙で復帰を勧奨され決断
l  「次は、この人に教えてもらえるんだ」⇒ 68年復帰するがブランクは予想以上に大きく、対局が苦痛になったが、夫の「10年かけて取り戻せばいい。11局が勉強」との一言で前が開け、対局の通知に「次はこの人に教えてもらう」という気になった。木谷門下の20歳でタイトル戦に登場した天才石田芳夫六段との対戦で勝利したのが転機となって73年には七段に、83年には八段になり大手合に全勝の快挙も。囲碁普及を目的に、女性の棋士を増やそうと女性を優遇して入段枠を設ける
l  「女流棋士のではなく、棋士のトップに立とう」⇒ ある時期女性棋士を別枠にする案も出て、女流棋士が戦後に生まれた将棋界では74年に「女流棋士」として別枠にしたこともあったが、伝統は守られた。現実に男女差はあるが志の問題。戦後女性だけの棋戦が増えたのが女性棋士を低きに甘んじさせている
l  迷信を打破する戦い ⇒ 早くから女性に門戸を開いてきた歴史を持つことを誇りとして高みを目指して欲しい。男女で棋風の違いはない。女性は棋力が低いと言われるがそれは弱いから。男女で頭脳が違うから女は強くなれないという言説が迷信であること言える日が来るように女性には頑張ってほしい。17年夫逝去(享年97)で、現役最高齢の棋士に

第3章     変えたのは、個人では破れない制度――労働省婦人局長・赤松良子
1929年大阪市生まれ。津田塾大、東大法卒。53年労働省入省、婦人少年局配属。婦人労働課長、82年婦人少年局長。84年初代婦人局長、男女雇用機会均等法成立の立役者。86年駐ウルグアイ大使。03年女性初の旭日大綬章受章。細川内閣、羽田内閣で文部大臣。日本ユニセフ協会会長

l  「男女雇用機会均等法」制定時の思い出 ⇒ 85年制定時女子校の高校生だった筆者が、男子大学生の教生が、法律ができても同等にはなれないと発言して物議を醸した
l  小さな女王様 ⇒ 7歳上の姉がいつも世の中の不平等を批判していたのに影響を受ける。両親とも再婚、父は関西画壇の重鎮。歳とってからの末っ子として可愛がられ甘やかされて育つ
l  「この家の竈の灰まで俺のものなんだ」⇒ 異母兄から言われた言葉で憤りを感じる
l  戦争協力に熱心だった人ほど、転向した ⇒ 戦時中は軍国少女。命は助かったが、父のアトリエは空襲で作品は焼失。敗戦で大人の態度がころっと変わるのに驚く
l  雑魚寝と膨らまない蒸しパン ⇒ 英語が好きで津田塾に憧れ47年入学。雑魚寝の寮生活
l  東大法学部の女子学生はたった 4 人だった ⇒ 学制改革で旧帝大が女性にも開放され、先輩が入学の勉強を始めたのに刺激され、50年東大法学部入学。職業婦人を目指し、実益として法学部を選ぶ。男女対等を学歴で達成
l  「当時は労働省しか女性を入れてくれなかったんだもの」⇒ 次に目指したのが男女平等が期待できる国家公務員試験。53年労働省入省するが、当時女性を採用したのは労働省だけだったから。戦後設置された労働省、GHQの厳命で婦人少年局長は女性とされ、初代は社会運動家の山川菊枝は津田の先輩。赤松も7代目の局長
l  夫婦別姓 ⇒ 配属時の局長は2代目で後の津田学長の藤田たき、係長が森山眞弓。最初の仕事は山漁村における女性の地位の実態調査。秋に大学の同級生と結婚。仕事上は別姓、戸籍上は官界の方が別姓による不自由が多いとして学界に進んだ夫が妻の姓
l  「どうして、こんなに差別されるんだろう」⇒ 最初に男女差を感じたのは省内での異動。5年目の最初の異動先が埼玉の労基局で男性なら考えられない異動。戻ってきても職安局の市場調査課。62年山川の始めた婦人問題懇話会に参加して積極的に論文を発表(ペンネームが自らの名前をもじった青松優子で、文学の素養あり読ませる文章)
l  初めて「育児休業」という言葉が法律に書かれた ⇒ 64年婦人労働課に復帰して女性問題に特化して本領発揮。住友セメント事件で結婚を機に解雇された女性の解雇を不当として女性が勝訴したのを機に、職業を持つ女性への差別をなくす法律を作ることを自らの後半生の目標に据える。68年群馬労基局労災補償課長として前橋に単身赴任。69年婦人労働課長補佐として戻り70年課長になり、初めて勤労婦人福祉法を作ったが、これが男女雇用機会均等法への流れを作る。75年「国連婦人の10年」開始の直前山梨労基局長に女性初の地方労基局長として3年赴任
l  「男女雇用機会均等法」制定への闘い ⇒ 78年内閣官房、総理府婦人問題担当室長として戻り、翌年国連公使としてニューヨークへ、「女子差別撤廃条約」に備えての布陣であり、80年に条約調印。82年婦人少年局長就任。真っ先に取り組んだのが条約の批准の前提となる機会均等法(他にも法務省の戸籍法と文部省の教育カリキュラム)。労働相の大野明が率先して反対し大きな障壁となる
l  「女性に参政権など持たせるから歯止めがなくなって、いけませんなあ」⇒ 官財界に働きかけるが、日経連が反対、経団連会長の稲山も女性参政権に否定的したばかりか、よく働いてくれた秘書に後妻の口を世話したと自慢するのに力が抜けた。労組も反対。84年行政改革で新設の婦人局の初代局長就任
l  正念場 ⇒ 女性側からも罰則のない努力義務規定では生ぬるいとの批判を浴びながらも、とにかく成立させることが重要と考えたが、埼玉大助教授の長谷川三千子が文化の生態系を破壊するとし主婦と働く女性とを対立させる幼稚な論調で論壇デビュー。長谷川は後に夫婦別姓の民法改正に反対するなど保守派を自任する言論人の仲間入りを果たし、第二次安倍政権では作家の百田尚樹とともにNHKの経営委員に就任
l  歴史のターニングポイントを作る ⇒ 85年法案可決、歴史のターニングポイントとなる。条約の批准も終えたところでウルグアイ大使打診(女性として2人目)3年後に帰国。すれ違いの生活が原因で離婚。文京女子大教授就任。93年細川内閣の文部大臣に
l  「長い列」に加わった女性 ⇒ 性差別撤廃は法律で枠組みを作ったので、後は個人が努力して良くしていかなければならない。女性の連帯も必要。差別をされるという意味では男女差はあるが、能力的に男性にかなわないと思ったことはない

第4章     手にしたかったのは、経験そのもの――登山家・田部井淳子
1939年三春町生まれ。旧姓石橋。登山家。昭和女子大英米文学科卒。社会人の山学会に入会し登山活動開始。「女性だけの海外遠征を」を合言葉に69年女子登攀クラブ設立。75年日本女子登山隊副隊長として世界で初めてエベレスト登頂に成功。92年女性で世界初の7大陸最高峰登頂者に。女性登山愛好家の第1人者であり、男社会の山学界に風穴を開けた。著作や活動を通じて多くの人に登山の楽しみを伝えた。16年腹膜癌で逝去

l  「私は登山家ではありませんから」⇒ 登山家とは登山によって収入を得る人のことで自分は違い、スポンサーもなく自己資金で登山をしてきた。75年エベレストに女性として初登頂に成功したのは「女子登攀クラブ」で、アタックを果たしたのが田部井。日常の生活も愛おしみつつ、山に登る喜びも手放さないが、日本の社会は母親が家庭を離れて自分の世界を持つことに不寛容
l  「登山は競争じゃないんだ」⇒ 三春の印刷会社経営の家庭に末っ子として生まれ、山との出会いは小学4年、夏休みに山好きの担任に連れられて行った那須の茶臼岳。初めて見る火山に、「世の中自分の知らないことがいっぱいある。そこに行かなきゃわからないことがある」と感じる。病弱で運動音痴だが、競争でない登山は性に合った。級友が集団就職で上京するなか、一人地元の高校に進学
l  山が癒し、山が変えた ⇒ 教育は建前上男女平等だったが、地方ではまだ女子の進学率は低い中、姉たちが皆東京の女子大に通っていたことや東京への憧れもあって同じ道を進む。花嫁修業と言われるのが嫌で英文科を選択。訛りがコンプレックスになって体調を壊し一旦実家に戻るが、回復して皆と登った東京の御岳山が転機になって、週末の山行きを楽しみに勉学に励むようになる。山田流の琴も習い始め後に教授に。父と姉が急逝
l  山岳会に入る ⇒ 62年卒業、日本物理学会に雑誌編集員として就職。雪山や岩山に登るためにも、また切磋琢磨できる仲間を探して男性限定の多い山学会の中で女性も受け入れる白嶺会に入会、厳しい登山にのめり込んでいく。山に全力を注ぐため仲間内での恋愛はしないと誓ったが、2人で組む登山ではあらぬ噂もたち、想いを寄せられて退会
l  達成感が違うトップ ⇒ 技術に自身のある一匹狼の集まりとして知られる龍鳳登高会に入会。いい先輩と周囲の理解に恵まれどんどん難しいルートに挑戦。トップも任されるようになり、達成感を味わう。当時本格的な登山をする女性はいなかったこともあって、「女のくせに」というバカにしたような軽蔑したような言い方をされた上に珍しがられる。止められるに決まっているので家族にも言わなかった
l  結婚と悲劇 ⇒ 先輩から女同士で登ることを提案され、佐宗ルミエという3歳上の同性の同志を紹介される。女同士だと不要なストレスが回避できる。65年には女性として初めて難関の岩場として知られる谷川岳一ノ倉沢中央稜の登攀に成功。山屋の間で名を知られた田部井政伸と山行の帰路一緒になって話をするようになったが、高校の時に結核性カリエスになったのがきっかけで「岩場の鬼」となったという話に衝撃を受け、3年目の67年山を愛する者同士で結婚に踏み切る。普通の結婚を望んだ両親は激怒。一緒にヒマラヤに行こうと約束していた佐宗が別の仲間と組んで谷川に登り滑落して死去、享年31
l  クシャクシャに丸まった一万円札を放り出される ⇒ 女だけでヒマラヤに行こうという夢の実現に向け69年に「女子登攀クラブ」設立。70年にはアンナプルナIII(7555m)に女性で初の登頂に成功。71年エベレスト登頂の申請をすると75年の許可が下り、1350万の費用捻出にスポンサー探しに奔走するが相手にされず、ポケットマネーで1万円出してもらったが惨めな思いをするだけ。男性には好意的な企業も女性には冷たかったので、以降スポンサーには一切頼らないことを決意。最終的に讀賣と日テレがスポンサーにつき自己負担は1150万になり、文部省も名義だけ後援に
l  女子登攀クラブはエベレスト山頂を目指す ⇒ 7412月出発。見送りに来た娘に「行っちゃだめ」と言われ足がすくむが心を鬼にして前へ。女性なるが故にまた乏しい資金の中で装備を少なく軽くしたが、切り詰めた装備にこんなにも質素な装備でと驚愕の声も。15人の隊員で装備は15t600人のポーターで運ぶ。隊長は久野(ひさの)英子、田部井が副隊長兼登攀隊長。130日の遠征で隊員の大半は退職を余儀なくされる。日本物理学会は休暇扱い。第3キャンプから先は2人のアタッカと7人のシェルパのみ、うち6人が高山病となり、最後は田部井とシェルパ1人で頂上をアタック
l   1975 5 16 12 30 分 ⇒ 女性初の登頂を果たし、1時間弱留まって引き返すが、他の隊員は喜んではくれたものの、うっすらと嫉妬の感情が漂い、田部井だけが得をしたと憤る声を耳にして号泣
l  手のひら返しと干渉 ⇒ 75年は国連婦人年ということもあって、女性初の登頂に沸き英雄扱い、行く前は批判的だった人が手のひらを返したようになるが、最も嫌だったのは自分一人の名が取りざたされたこと。さらには家庭生活にまで干渉してくる人もいたが、夫だけはよき理解者でいてくれた
l  家庭も仕事も山も諦めない ⇒ 人生を謳歌しようとする女性の足を引っ張るのは男性だけではなく、満たせぬ思いを抱く女性からの否定的な言葉も多かった。息子も名前が特殊なだけに世間の非難の目に遭って不登校になったが、いつの間にか山の仲間になっていた。「何かをやるために何かを諦める必要はない」
l  「人間の一番の特徴は、二本の足で立って長時間歩けることだ」⇒ 登山は自分のお金でという姿勢を貫く。お金をもらって、お金のために登山したことはない。男女差について、決断力や判断力、咄嗟の判断に差はないが、男の場合自分が先頭じゃないと気が済まないとか、自分ができないとは言えないとか、自分なら大丈夫との過信が多い。1度も一緒に登った仲間から死亡事故を出していないのは誇り。若い人、特に若い女性に望むことは、「2本の足で長く歩けるのは人にしかできないこと。それを活かして自然のなかを歩くと五感が働くようになる。その経験をして、自分の世界を広げて欲しい」
l  最期まで、山を歩いていた ⇒ エベレスト登頂は、劣悪な条件を乗り越え、「女になど無理」という固定観念に打ち負かされずに夢を追いかけ、その結果手にした偉業。最期の床の中でも混濁する意識の中で山を歩く夢を見ていた、とは看取った長男の言葉。07年初期乳がん、12年腹膜へ転移。抗がん剤の副作用に悩みながらも登山を続け、14年には脳に転移。18年夫とのインドネシアのクリンチ山(3805m)が最後の海外登山。同年富士登山の元祖7合目(3010m)まで行って断念、ホスピスに入り3か月後に逝去

第5章     描いたのは、読み捨てられない〝文化〟――漫画家・池田理代子
1947年大阪府生まれ。漫画家。72年歴史漫画『ベルサイユのばら』を大ヒット。80年『オルフェウスの窓』で第9回日本漫画家協会賞優秀賞。歴史を乳材とした作品を数多く描く。95年東京音大卒後はソプラノ歌手としても活躍。13年からは『ベルサイユのばら エピソード編』『マンが古典文学 竹取物語』などを執筆。09年日本においてフランスの歴史や文化を広めた功績にたいし、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章が贈られた

l  「ベルばらブーム」の裏側 ⇒ 7080年代初の漫画は大人をも虜にする質の高さがあった。その中でも話題をさらったのが少女漫画雑誌『マーガレット』掲載の『ベルばら』で、漫画の歴史を変えた。少女漫画のイメージが変わり、池田自身にも世間の関心が寄せられたが、池田は学生で学費と生活費を得るために描き始めたもの。ヒットの一方で、反動も激しく、子どもが夢中になるものを大人は「悪」と捉え、批判を浴びせる。「夢は抱かなくては叶わない。挫折や失敗を恐れてしないことより、挑戦せずに後悔することを恐れる」、固定観念に縛られず、自分らしい生き方を貫いた
l  学園紛争の中で気づいた矛盾 ⇒ 最も大きな影響を受けたのは母で、教師の夢を断念させられた母から常に「仕事をもって自立しろ。男に食わせてもらえると思うな」と言われ続けた。白鷗高から教育大へ。父の反対を母が押し切ったが、学費は1年限りの条件付き。学問をしたかったが学園紛争の真っ最中。親の脛を齧りながら体制批判する学生運動に矛盾を感じ、1年途中で家を出て自活
l  稼ぐために漫画の世界に飛び込んだ ⇒ アルバイトに追われ、好きな絵を描いて売ることを思いつき、講談社から貸本専門の出版社を紹介され独学で漫画家をスタート、集英社から認められてプロデビューしたのは大学3年と遅かった
l  「必ず当ててみせます」⇒ 『マーガレット』という大手漫画雑誌上でのデビュー後3年で読者アンケートでトップを獲得、男ばかりの編集者の反対を押し切って温めていた『ベルばら』構想を「必ず当てる」と大見えを切って載せる。漫画に時間を取られ2年留年した上に退学して没頭。初回から大ヒットで、単行本も爆発的に売れ、アニメ化、宝塚の舞台へと広がる。ヒットと共にバッシングも始まる。漫画の地位の低さに反発して、文学に負けない残るものを描こうと頑張る
l  ベルサイユ宮殿を目にしたのは、連載を終えてからだった ⇒ 女性漫画家に対する偏見や差別は出版社内にもあった。稿料は男の半分。単行本の印税でやっと生活に目処がつき、疲れを癒すために仏独へ出かける。その後も骨太の歴史漫画を描いて漫画協会優秀賞も取り評価を定める。結婚離婚も経験
l  「一番怖れるのは、やらなかったことを後悔する人生」⇒ 40歳ごろから体調不良、更年期障碍が早い年齢で出て、自分を謙虚に捉え直す機会となり、一番したかったことを考え音大受験を選択。95年漫画家のキャリアを中断して第2の人生へ。東敦子に師事、卒業と同時にソプラノ歌手として活動、現在は若い声楽家の応援活動もする
l  日本社会の「本質はそう変わっていない」⇒ 池田の作品が支持されるのは、劇中の主人公の生き方が女性読者の心を強く惹きつけるからで、男社会で成功する女性の姿に喝采。議員の奥さんで仕事を持って自立しているのはゼロに近く、全て世話を妻にさせておきながら、心中低く見ている女性の票を取りに行く醜さが嫌だった
l  「自分で考えて納得できるものを常識だと思えばいい」⇒ 女性が社会に出ていく環境は改善されているはずだが、今の若い女性は専業主婦という以上に金持の奥さんになって楽をしたい願望が強い。結婚するのもいざというときは自分が亭主を食わせるくらいの覚悟がないといけない。世間の「常識」や「習慣」をまずは疑ってみることが大事。そういう判断をするには歴史を知らないといけない。漫画への差別、女性への差別を撥ね除けるためにも、「長く読まれるものを」と魂込めて描いた池田の漫画は時代と国境を超えて読み継がれるだろう

第6章     追い求めたのは、職業の本質――アナウンサー・山根基世
1948年山口県生まれ。早大文卒。71NHKにアナウンサーとして入局。報道、教養番組ほかで活躍。《ラジオ深夜便》など大型シリーズのナレーションを多数担当。05年女性初のアナウンス室長就任。同年紅白歌合戦の総合司会。07年退職後はフリー・アナウンサーとして司会やドラマ、ドキュメンタリー番組のナレーションを務める一方、子どもの言葉教育にも携わる。09年徳川無声市民賞受賞

l  言葉のプロとして、組織人として ⇒ 《映像の世紀》で戦争の惨禍を伝える映像とナレーションは、人の声が果たす役割の大きさを示して特に印象に残る。アナウンサーの伝統を受け継ぐのはNHKで、日本の話し言葉の規範を視聴者に示すことが責務の1
l  武家の血を引く母 ⇒ 生き方に深い影響を与えたのは母。毛利家に仕えた武家の血を引く気性の強い女性。基世の名も世の基になれとの思いから。実家で男女差別を恨んで過ごした母から期待も込めて厳しくしつけられた
l  「そんなすがり根性じゃダメだ」⇒ いつも母が怒るときに言われた言葉。防府高から1浪で早大へ。状況
l  初めての女性差別 ⇒ 家庭教師をして生活費を補いながら、演劇に没頭するが、長く働ける仕事は教師だったが、公共放送のNHKなら長く働けると思って受験。カメラテストで男性ばかりの面接官に定年まで働くと言ったら笑われ、初めて女性蔑視を味わう。100倍の競争を制してアナウンサーとして入局したが、カメラが怖くて暗記出きず、適性に悩む
l  女用のニュース ⇒ NHK自体が圧倒的な男社会、なかでもアナウンサーやカメラマンは技術職として、記者やディレクターからは少し見下されていた。その中で女性はさらに低く、読めるニュースも限定され、政治経済、社会情勢などは除外
l  女性は転勤の機会を奪われていた ⇒ 同期のアナウンサーは30人、女性は2人だけ。男性は入局と共に地方局に行くが、女性は大都市のみでそれもすぐに東京に戻され後は転勤がない。地方局では人手不足から何でもこなさねばならず、放送に必要なすべての知識を得ることができるのに、女性はその機会を奪われていた
l  押し付けられた女性の役割 ⇒ 男の価値観で「女の役割」を押し付けてくる。パワハラ・セクハラ紛いは日常茶飯事
l  「えっ、私、これで終わっちゃうの」⇒ アナウンサーとして社内評価は高く、入局10年目の80NHKが「ニュースを変える」との触れ込みで現在のニュースショーの先駆けとなった朝の大型情報番組《ニュースワイド》に森本、頼近、明石勇とともに抜擢されたが、しばらくすると「老い」が怖くなる。出演依頼が減り、「やってもらえる仕事がもうない」と言われてキャリアの終わりを察しショックを受ける。報道のデイリーの仕事を外され旅番組を担当。
l  プロポーズ ⇒ 仕事に限界を感じ始めた頃、仕事で知り合って付き合いを続けていた年長の医師に2度も断っておきながら3度目は自らプロポーズして結婚、初めて心の安らぎを得る。母親願望はもともと強くなかった
l  働く女性向けの番組で男社会の壁を知る ⇒ 40過ぎて、「働く女性を応援する」という視点で91年から2年放送された新番組《はんさむウーマン》のキャスターを引き受け、制作にも関わったが、チーフプロデューサーの感覚がまるで山根と正反対だったのみならず、意見を言ってもバカにされるだけ、他の人も権力のある側についていく状況に組織の壁を感じる。女性は組織人としての教育を受けていないことを思い知る
l  声と心はつながっている ⇒ 40代半ばでチーフアナウンサーとなりナレーションの仕事の比重が増す。NHKが総力を挙げて取り組む番組に次々と指名されたのは、声質はもとより、コメント力が評価されたから。コメントチェックにとことん付き合う。声が出ない日でも気づけば全力で原稿を読み上げていたことがある
l  アナウンス室長に就任 ⇒ 女性に対する就労差別も禁止され、女性の重用が始まったのを背景に、05年室長の辞令を受け、500人の管理・統括をする。アナウンス室の局内評価を高めることにも奔走。まずは自ら番組を企画、アナウンサーの特性を活かして著名人とインタビューする番組《100年インタビュー》として実現、海外勤務や人事の壁を取り払った他部署への担務変更も始める
l  改革断行 ⇒ 女性アナウンサーの異動にも着手。女性から恨まれもしたが、男女対等の仕事をしていくためには地方局勤務も必須という信念から断行。07年定年退職。関連会社には行かず、長年温めてきた夢だった子どもの言葉を育てる活動のために「ことばの杜」を立ち上げ、朗読を中心に活動、運営に不慣れで7年前に解散。個人での活動に切り替える。他局からもナレーションの依頼は多く、《半沢直樹》はヒット作
l  「一生、消えない灯を手にした」⇒ 15年「文字・活字文化推進機構」で「朗読指導者養成講座」開設、朗読を手掛かりに地域の繫がりを取り戻して、皆で子どもを育てるための「場」を作るとともに、その時の核になる人材を育てる活動でライフワークとなる。自分のやりたいことがはっきりわかってきたのは40代の半ば過ぎ、覚悟が出来上がって一生消えない灯を手にしたようなもの。継続してこそいつか辿り着ける目的地が見えてくる
l  仕事が本当に面白くなるのは 30 年目から ⇒ アナウンサーは人生経験が滲み出る仕事。メディア、とりわけテレビ局は未だに圧倒的な男性社会だが、それを改めていくには女性自身の意識を変える必要がある。職業の本質を見極める力をつけて欲しい。アナウンサーの技術は一生もの
政府の標榜する「女性活躍推進」について、「国家の成長戦略のために女性を使うという考え方には同意できない。女性11人が輝いたときに国も繁栄するということでなければ、考えるべきベクトルが逆」と意見

第7章     望んだのは優遇ではなく、同等の扱い――落語家・三遊亭歌る多
本名金井ひとみ。1962年東京都生まれ。落語家。国学院大経中退。三遊亭圓歌に弟子入り。前座名は歌代。87年二ツ目に昇進し、歌る多に改名。93年女性初の真打。10年より落語協会理事。弟子に三遊亭粋歌、三遊亭美るく

l  普通の女子高生から真打へ ⇒ 江戸時代に誕生した落語の世界も完全な男社会。元禄期から栄え始めて幕末には100を超える寄席があったという。圓朝の活躍で近代落語の時代が作られる。門戸は開放されていたが、女性が受け入れられたのは昭和の終わり、真打は平成になってから、その第1人者が歌る多。普通の高校生が夢を追い続けた結果。師匠たちも扱いに悩んだが、彼女を迎えることによって落語界も変化を遂げる
l  サングラスをかけて寄席に通う ⇒ 家庭環境に落語との接点はなく、ラジオが契機。みのもんたのファンだったが、その番組が終わって小朝に代わったときどんな奴か見に行ったときに談志と共演した《子別れ》を聞いてはまる。家庭も國學院高も厳しく、内緒で寄席に行く時はサングラス姿。内部進学で経済学部に入るが落語の弟子入りを目指し三味線漫談の女弟子を持つ圓歌の門を叩くと、親の許可を取れと言われる
l  完全に裏目に出た母の作戦 ⇒ 夏の間だけと思って母が許し一緒に圓歌のところに行って、本当は圓楽に行きたかったなどと言ったために圓歌が引き取る、ただし結婚は不可、大学も辞めろと言われ二つ返事で受け入れて内弟子に
l  「師匠に逆らったりする時は、どうしたらいいんですか」⇒ 夏休みが終わっても落語への執着は変わらず、そのまま「歌代」の芸名で前座に出る。2年で通い弟子になり自活。師匠は姉弟子同様三味線をさせたがったようだが、5分刈りに頭を丸めて三味線は勘弁してほしいという歌る多にびっくりして諦めてくれた
l  「私を女としてじゃなく、人として見て下さい」⇒ 歌る多の扱いを巡って落語協会が揺れる。二ツ目への昇進も通常より早めようとしたのをまた坊主になって断る
l  死んじゃおうかと思うくらい嫌だった「女真打」⇒ 二ツ目への昇進は通常34年のところ歌る多は5年半経験し、芸名も「歌る多」に変わる。二ツ目で5年半たったころ協会から「女真打」との理事会決定を告げられる。協会にも女が男と同じように「真打」になることへの抵抗があった結果の妥協案で、実力もないのに女だけで特別扱いというのは嫌だった
l  志ん朝師匠へ直訴する ⇒ 師匠は協会から言い聞かされて抵抗できなかったので、禁断を犯して提案者の志ん朝に直訴。「お前は好きだが、女が落語をやることが嫌だ」と言われ、「認めない」とは言われなかったことを心に留めて諦める
l  「断る権利も与えて欲しい」⇒ 93年後輩の菊千代とともに初の女真打に。落語芸術協会が女性を真打にしたため、落語協会も「女」を外したが、香盤順(落語界に入った順番)を崩すことになって波紋を広げる。「女真打」として先輩30人くらいを抜いて真打になったために先輩に嫌な思いをさせる結果に。断る権利もないと結局女性を潰しかねない。女性というだけで活躍の場が与えられ、女性の後進が続きやすいようにするという考えが日本の社会で広がりつつあるが、実力でその地位に値する人を選んで欲しいと批判的
l  本当の女性噺家が誕生する世代 ⇒ 落語協会の女性会員は現在20数名に増えた。東西合わせて50名以上。全体の7%。自分は結婚しないが、弟子には結婚しろという。弟子の次の世代になれば男女ということを意識しないで育つ女の噺家が誕生する世代になって男の弟子もとるようになるだろう
l  「芸が秀でていれば黙らせられるもの」⇒ 協会の理事にもなるが、名誉職としてではなく、肩書を持った下働きと言われ引き受けた。芸は数値化できないが、誰でも納得する芸の高みがあり、それを目指して精進する。皆を納得させられるだけの芸を身につければ、強くいられる

あとがき
安倍政権下、突然「女性活躍」という言葉を首相自身が連発するようになったが、これまで女性の社会進出を阻害してきたのは男性たち
「女性が働く社会」というが、要は女を俄かに労働力として取り入れ、少子化社会の調整弁にしようというのだろう。女は自分たちよりも愚かなもの、産むものであって、少子化になったのは女が我儘になったから、と苦々しく思っている男性は今も多い。ただ、その本音を公には口にしなくなっただけ。男性社会の価値観、仕組みやルールを変えずに女性を参入させても、「女性が輝く社会」とはなりえないと気づいて欲しい
歴史的に女性たちをどのような状態に置いてきたのかを振り返ったうえで、男性社会の問題点を掴んで、より建設的な意見を導き出していく努力を男女ともに果たすべき
男女に拘わらず、生き方の幅が理不尽に狭められるような性差による差別の横行を正し、それぞれが多くの選択肢の中から自分に見合った生き方を歩める世の中を理想としたい
当初予定したあと2名は、警察庁初の女性キャリアの田中俊恵と中根千枝 ⇒ 警察庁は女性キャリアを受け入れた最後の中央官庁で、89年の田中が最初だが、現役官僚ゆえに書籍での取材を辞退。中根は女性初の東大教授、体調不良で原稿のチェックをしてもらえず掲載を断念




あとがきのあと「日本の天井」 石井妙子氏 男社会の壁破った女性追う
2019/7/20付 日本経済新聞
「ほんの少し前まで、祖母の世代でも、今では想像できない男社会の壁があった。それに負けず、女性の生き方を根拠なく制限するような価値観を変えた人々の話を記録に残したかった」。能力や経験のある女性の社会進出を阻む強固な「ガラスの天井」がある日本で、女性初や第1号となる偉業を遂げた7人の軌跡を描いた。
高島屋で1部上場企業初の女性役員となった石原一子は、売り場での客とのやり取りで仕事の面白さに目覚めた。エベレストに女性で初めて登頂した田部井淳子は、運動が苦手な小学4年の時から山頂に立つ達成感に酔いしれた。
チャレンジしても女には無理だとバカにされ、足を引っ張られる。結婚すると家庭に入るべきだとの圧力にさらされ、子供がかわいそうと非難される。「知識では知っていたが、考えていた何倍もの苦労があったと改めて感じた。それを乗り越えられたのは、好きなこと、やるべきことを追求した結果だった。子供の頃からの歩みを聞いて、ふに落ちた」
もともと自身も囲碁の対局を取材する観戦記者で、女性の草分けのひとりだった。「周りはおじさんばかり。女だからこういう目にあうのかなと思ったこともある」と振り返る。女性に経済力がないばかりに理不尽な扱いを受け、虐げられるような差別がなくなることを願ってきた。
男女雇用機会均等法が1985年に制定され、少しずつ社会も変わってきた。しかし女性同士でも専業主婦や世代間の対立が生まれている。「自分と違う生き方を見せられると心が揺らぐのは当たり前。それだけ女性の生き方に選択肢ができたということで、対立を含めて歓迎すべき変化」と捉える。
今はまだ過渡期なので、逆差別を含めてさまざまな摩擦はある。「まだ画一的な男性にも選択肢がもたらされれば、さらに良くなるに違いない」(KADOKAWA1600円)
(いしい・たえこ)1969年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。白百合女子大卒、同大学院修士課程修了。著書に『原節子の真実』(新潮ドキュメント賞)など。


【試し読み】石井妙子『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』

2019.06.13 KADOKAWA readings
『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』石井 妙子定価 1728
(本体1600円+税)発売日:20190621
15回新潮ドキュメント賞受賞後、第一作!!
画像
 日本にはガラスの、いや鉄か鉛で出来ていた天井があった。出ること、伸びること、知ることを封じられた女性たちがいた。
 新潮ドキュメント賞を受賞した『原節子の真実』、『おそめ 伝説の銀座マダム』など「女」を追い続けるノンフィクション作家・石井妙子さんの最新作『日本の天井』が、621日(金)に発売となります。
 今回は、各界でガラス、いや鉛の天井を打ち破り、道をつくってきた「第一号」の人たち、そして彼女たちを後押しした無数の声なき女性を通して、女たちから見たこの国の姿を浮き彫りにします。大正から昭和、平成、令和へと移ろう中、私たちは何を克服し、何を克服しえていないのでしょうか?
 登場する「第一号」の女性は下記の方々です。
・女性初の一部上場企業役員となった、高島屋取締役の石原一子。
・囲碁界で女性初の高段者となった棋士、杉内壽子。
・男女雇用機会均等法を推し進めた、労働省初代婦人局長の赤松良子。
・登山家でエベレスト登頂を成し遂げた、田部井淳子。
・『ベルサイユのばら』で歴史漫画を女性で初めて成功させた、池田理代子。
・NHKアナウンサーで女性初のアナウンス室長になり、定年まで勤め上げた山根基世。
・女性初の真打となった、落語家の三遊亭歌る多。
 発売まであと少し! 待ちきれない皆様のために、『カドブン』では「まえがき」と「目次」を先行公開します。ぜひご覧ください!!
 まえがき
 私には追いかけ続けているものがある。
 それは、「女」である。女の歴史である。
 私が女に惹かれるのは、自分が女だからだろう。では、いつから自分を女だと意識するようになったのか、あるいは意識させられるようになったのか。
 小さな頃は「女の子」であることに、特別な不満はなかったように思う。
 だが、十代の半ばになる頃から、急に世界が狭くなったように感じた。「女は大学に行ってもしょうがない」「女は就職しても、お茶くみをするだけで、2 , 3 年したら会社を辞める」「女は家庭に入って子どもを育てるのだから家事を手伝うべきだ」といった言葉を日常で、向けられるようになったからだろう。
 まるで、小さな箱の中に閉じ込められたように思えた。結婚するまでしか生きられないと、自分の寿命を言い聞かされたようにも感じた。「私たちは男と違う。違う人生を歩まなければならない」という強迫観念のようなものにとらわれ、人類の中の女なのではなく、女という人類なのだろうかと考えてみたこともあった。
 こうした体験が、私を「女」に向かわせたのだった。女性作家の描く女性の評伝を好んで読むようになり、女性が何らかの形で関わった出来事に興味を覚え、その後、女性史を学びたいと思うようになる。
 当たり前のように差し出される、用意された女の生き方のレールを期待どおりに歩む気にはなれず、皆が既定のものとして受け入れている女の生き方に、一時はひたすら反発を感じたこともあった。
 自分が入れられてしまった箱、入れられてしまったように感じる、この箱とは何なのか。この箱を破って外に出ていったらどうなるのか、を知りたかった。それはまた、「自分はどう生きたらいいのか」という問いでもあり、そして、その答えは自分で見つけるしかないのだと、やがて私は悟るようになる。
「ガラスの天井」という言葉がある。英語では “GLASS CEILING”1980 年代から欧米で使われるようになった用語である。
 女性が組織や社会の中で立場や地位を求めようとしても、なかなか叶わない。十分な能力や経験があっても道を阻まれてしまうのは、それらを阻止しようとする見えない障壁があるからだ、という。目を凝らさなければ見えない、ガラスのように透明な天井。いくら青空が見えていようと、太陽が輝いていようと、月や星の光に照らされていようと、それらとの間には「ガラスの天井」があり、遮られているのだ、と。
 日本にも、もちろん「ガラスの天井」はあった。いや、それは透明なガラスなどではない。もっと、強固なものとして存在した。ガラスではなく鉄か鉛でできており、見上げても青空を見ることさえできない。それが少なくとも近年までの日本社会であったと思う。
 この国の近代史において、最も大きな出来事は明治維新と敗戦の 2 つであろう。
 長い封建時代を、女たちは身を低くし、忍従と犠牲を美徳とされながら生き抜いてきた。
 そこへ明治維新が起こり、日本は近代化へと大きく舵を切り、西洋の技術や思想を取り入れていった。身分制度を廃して、「国民」という概念を作り出しもした。しかし、その国民の中には男と女がいて、女は男の下位にあるものと、法律上、制度上、はっきりと位置づけられた。平等な権利は与えられず、明治以降も女の生涯は男の支配のもとに預けられるものと、されたのである。
 そうした日本社会に対して、高らかに異を唱えた女性たちの一群がいた。
 高い教養を身に付け、それを武器として、男たちに意見をして女権の拡張に貢献した女性もいれば、社会の矛盾を訴えて立ち向かい、刑場の露と消えた女性もいる。いずれにせよ、男社会に立ち向かい、因習に基づく男女不平等の固定観念を受け入れまいとした女性たちは、糾弾され、受難の道を歩む運命を背負わされた。
 明治維新は、男に与えたような自由や権利を女性にも与えるものではなかったのだ。
 では、敗戦はどうであろう。日本の女性たちへの福音となったのか。
 最大の変化はGHQの指導によって日本国憲法が制定され、男女平等がそこにはっきりと明記されたことだった。女性に初めて参政権が与えられ、女性も高等教育が受けられるようになり、家父長制度も一応は否定された。
 これは日本の女性にとって、極めて大きな出来事だった。この時代に青春を迎え、「目の前が急に明るく開かれたように感じた」と振り返る女性は多い。
 しかしながら、憲法上は男女平等となり、参政権や教育を受ける権利が保障されたところで、社会において、それらがすぐさま実現したわけではなかった。法律や制度が変わっても、人の心や価値観が早急に改まりはしないからだ。とりわけ、日本人自身が「変えよう」と考え、変えたものではなく、アメリカの主導により進められたことであれば、なおさらである。そのため女性たちは、敗戦後も矛盾を突き付けられたのだった。
 明治は遠くなり、その時代に闘った女性たちの記録は今、書物によって知るより他ない。
 一方、敗戦の前後から今日に至るまでを生き、長い坂道を休むことなく、踏みしめながら歩んだ方々の足取りは、今ならば直接、本人に話を聞くことが可能である。それが、本書執筆の大きな理由のひとつとなっている。
 彼女たちの足取りを通じて、戦後、日本の女性はどう変わっていったのか。何を克服し、何を克服しえていないのか、今日の課題も見出せるはずだと考えた。
 ここに取り上げた 7 名の女性は、道なき道を歩んだ方ばかりである。多くが重圧を受けながらも、「女性第一号」「女性初」と謳われる働きをなしている。
 しかしながら、全ての方に共通するのは「女性として初めて」となることを目的として生きたわけではない、という点だ。それぞれに追い求めるものがあり、絶え間ない努力と研鑽、あるいは人間関係や運にも恵まれ、「女性第一号」「女性初」と刻まれることになったのだと感ずる。
 それぞれの方が何を追い求めたかは、各章につけた見出しを見て頂ければと思う。第一章からお読み頂くと、大正、昭和、平成という時代の流れがわかりやすいかと思うが、どの章から目を通して下さってもかまわない。
 明治の世となってから 150 年が経過し、敗戦の日から 74 年が経った。
 戦前、女は小学校までしか男子と同じ教育は受けられず、それさえも、女子に教育は必要ないと、学校に行かせようとしない親もあった。財産を継ぐ権利は女には与えられず、職業にも就けず、結婚をしなくては生きていけないという状況を、法と社会が作り出していた。親の決めた相手と家のために結婚するのが当たり前で、良妻賢母として家に尽くし、夫に仕え、どんな理不尽も許容することを求められ、姦通罪は女だけに適用される。
 向学心は抑え込まれ、能力があってもそれを伸ばすことは許されず、教育を受ける機会も、自分にふさわしい場所も与えられはしなかった。出ること、伸びること、知ることを封じられた女性たちの姿がある。
 こうした流れの先に、敗戦があり、戦後があり、今があるのだ。それを忘れてはならないだろう。戦前と戦後は完全に切り離されているわけではなく、一本の筋としてつながっているのだから。
 道なき道を進んだ女性たちは崖から転落しそうになり、足元の石に躓き、傷だらけ、泥だらけになりながらも、果敢に歩んでいった。その細い山道は後に続く人がいなければ、すぐにまた、草木に覆われて藪に戻ってしまうことであろう。
 ここに登場して頂いたのは、いずれもその世界で確固とした立場を得た方々であるが、その周囲には無数の声なき女性たちがいたことも忘れてはならない。
 数代にわたって重なり、積もり積もった女性たちの嘆き、悲しみ、憤怒の声が、眼の前にいる、この能力ある一女性を後押ししたのではないかと、私はインタビュー時、ひしひしと感じることがあった。

 時代は今、まさに令和へと移った。
 女性が選挙に行けることも、大学に入れることも、当たり前ではなかった、という歴史的な事実を知らずにいる若い人も多い。
 人は皆、時代の申し子と言われるが、本書では、ひとりひとりの女性たちが生きた時代がどのようなものであったのか。 20 世紀から 21 世紀へ、大正から昭和、平成へ。時代の流れの中で女性の生は、どう転じていったのかを見つめて欲しい。
 決して大昔の話ではない。ここに書く歴史は手の届くところにある歴史、女たちの軌跡である。
 大河のような女の流れがあるのだ。その流れの中に、ここに取り上げた 7 名の方々も、そして、私も、この本を手に取ってくれたあなたもいる。女の系譜を受け継ぐ人へ、「何か」を少しでもここに伝えることができたなら幸いである。

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