失われた芸術作品の記憶  Noah Charney  2019.7.30.


2019.7.30. 失われた芸術作品の記憶
Museum of Lost Art           2018

著者 Noah Charney 1972年コネティカット州生まれ。コルビイ・カレッジで美術史と英米文学を専攻。夏季休暇中に競売会社クリスティーズで働いている。コートルード美術研究所で17世紀ローマ美術を、ケンブリッジ大学で16世紀のフィレンツェ美術、図像学、美術犯罪史を、スロヴェニアのリュブリャーナ大学で建築史、犯罪史を学んでいる。その後、ローマを拠点にした美術犯罪調査機構を設立している

訳者 服部理佳 早大法卒。法律事務所勤務

発行日           2019.6.27. 第1
発行所           原書房

軽井沢図書館で見つけた興味深そうな本

表紙裏
失われた芸術作品の数は現存する作品よりはるかに多い。盗難に遭い未発見のフェルメール、火災で焼失したダ・ヴィンチ、制作後すぐに破棄されたミケランジェロなど、あまりに脆い人類の宝の運命を綴ったノンフィクション。
絵画、彫刻、陶器、建築物、写真。太古から人の心をとらえて離さない芸術作品は、価値のあるものとして大切にされながらも、つねに消失の可能性にさらされてきた。絵画の飾られた建物が火災に遭う、動かせない壁画や彫刻のある教会が川の氾濫で水没する、戦争の戦利品として略奪され、身代金目的の盗難に遭い、為政者の思想に合わないと破壊されることもあった。
あらゆる手段と理由で失われた芸術作品は、現存している作品よりはるかに多い。人類が命を賭けて保護しようとするも、守りきれなかった数多くの芸術作品の運命をたどる。

はしがき
l  失われた芸術作品の美術館
人類の宝ともいえる芸術作品がいかに脆く儚いものか痛感させられる
失われた芸術作品は多く、行方の分からないものも多い
ダ・ヴィンチでも彼の作品として言及されている絵画は15点だが、消息が分かっているのは1/3に過ぎず、少なくとも8点は失われている
失われた作品は、当時はいずれも現存するものに負けないほど有名な作品ばかりで、美術史に埋めがたい穴を開けている
本書の狙いは、現在見ることのできる作品をより高く評価するという偏見を正して、現存する作品を改めて評価し直し、失われた作品の記憶を取り戻して保存すること
今日美術史で取り上げられるのは議論され尽くした200点程度の現存する作品ばかりだが、ここに取り上げたかつて存在するも失われた芸術作品は、今は違ってもその当時は現存する作品に負けず劣らず重要で、高く評価されていた
l  焼失した傑作
現存するより文化的、歴史的に、また影響力という点でも重要なものの最たる例はブリュッセル市庁舎の黄金の議場に描かれ、焼失したロヒール・ファン・デル・ウェイデンの作品
15世紀半ばの北方ルネサンス期フランドルの、もっとも偉大で影響力のある画家の1
2次大戦中に破壊されたため記録が残っていないが、正義をテーマにした4連画で、1450年にはすべてが完成、当時としては珍しく自分のサインが入っているが、1695年フランスとの戦争ですべてが焼失、在りし日の姿はこの絵を敬愛したアルブレヒト・デューラーなどの中に残されるのみ。ヤン・ファン・エイクの《ヘントの祭壇画》と並びフランドル絵画の至宝の1つ。前者は火事や窃盗、偶像破壊や略奪行為、悪徳聖職者の魔の手や国土分割といった危機をかいくぐり生き残っているのに対し、後者はファルツ戦争の戦火によって町ごと焼き尽くされた
偉大な芸術家の作品としてよく知られているものが最も素晴らしく、最も影響力のある作品だとは限らない。歴史のいたずらで、偶々生き残ったにすぎない場合も多い
l  失われ、発見された芸術作品
2011年失われたとされていたダ・ヴィンチの絵画2点が展示された ⇒ 真作とされた15点のうちの2点で、《糸車の聖母》は03年スコットランドの代で盗まれ、07年取り戻され、《サルバトール・ムンディ》は英国王チャールズI世のコレクションから行方不明となり2005年に発見されたが、当時の所有者は微々たる額で購入しており、ダ・ヴィンチの作品だとは思ってもいなかった
羊皮紙に描かれた《美しき姫君》は19世紀のドイツの絵画だと誤認されていたが、ダ・ヴィンチの失われた作品の1つだと言われる一方、違うという研究者もいて議論は混迷
2010年発見のミケランジョロの作と思われるキリスト磔刑像がイタリア政府によって購入されたり、カラヴァッジオの《キリストの捕縛》は1987年ダブリンの修道院に誇りを被っていたところを発見され、失われた名画であることが確認され、現在はアイルランド国立美術館に収められ、観光の目玉になっている
l  芸術への愛のために
どの作品も目的があって制作され、人の手を渡って、大勢の人に愛でられ、賞賛の目を注がれてきた
本書は失われた芸術作品を蘇らせ、その裏にある語るべき物語を紹介する。不当に見過ごされ、忘れられてきた彼らの物語を思い起こすことは、大事なこと

第1章        窃盗
1876年ロンドンのアグニュー画廊がゲインズバラの《デヴォンシャー公爵夫人、ジョージアナの肖像》(1787)を当時の最高額で落札。モデルのジョージアナ・スペンサーは浮いた噂の絶えないファッションアイコンで絶大な人気を誇っていたが、真贋については諸説あり議論は紛糾。アメリカの銀行家ジューニアス・モルガンが息子のピアポントへの贈り物として購入を決めたもので、一族のルーツにモデルと血族関係にあることを知り、貴族の一員として振る舞う確かな拠り所になると考えたが、代金決済まで画廊に飾ってある間に盗難に遭い、手にすることはなかった
その絵が自分を捨てて他の男に走った最愛の恋人に似ていたと思ったアダム・ワースが盗んで手元に置いていた
l  戦争の質(しち)としての芸術作品
金銀宝石とは対照的に、芸術作品が原材料の価値とは別の、根源的な価値を持つという事実は重要で、芸術作品に価値がある限り、盗みとは縁が切れない
初期の有名な美術品窃盗は、BC212年に共和制ローマの軍隊がシチリア島のシラキュース市(現シラクーザ)で行った略奪行為で、ギリシャの古い由緒正しいものとして価値が高まり、博学なローマ人は手当たり次第にギリシャの美術品を集めた。キケロやマルクス・アグリッパは最も有名な初期のコレクター
戦利品として、あるいは転売目的のために、美術品が略奪されることのない戦争は難しい
十字軍は聖地エルサレムから様々な美術品や宗教的遺物を持ち帰る
ナポレオン戦争では、初めて本格的な美術品略奪部隊が編成され、休戦条項に基づいて没収した美術品を梱包し、パリに送っていた
2次大戦では数百万点の文化財が移動、全国指導者ローゼンベルク特捜隊ERRもナチ侵攻の過程で美術品を略奪、7000点がヒトラーの故郷リンツの総統美術館の呼び物となる予定だった
現代でもテロ集団が盗掘や略奪によって手に入れた古代遺物を活動資金の足しにしている

l  コソ泥から組織犯罪へ
1960年代まで、戦争以外の窃盗は個人によって行われ、防犯対策も警備員による見張りくらいしかなかったが、20世紀半ばに警報システムが登場すると、一般公開されている最中に警備の隙を狙って襲撃する様になる
1960年頃からオークションの落札額が天文学的になるに伴い、強奪のテクニックに長けた犯罪組織が美術品に目をつける。合衆国司法省も美術犯罪を麻薬、武器売買に次ぐ収益が高い犯罪取引として位置付け
61年には南仏のコートダジュール一帯でコルシカ島のマフィアによってピカソやセザンヌが相次いで盗まれ、76年には平時における史上最大の美術品盗難事件発生。アヴィニョンの教皇宮殿からピカソ118点が盗難
警報装置の改良で、窃盗犯たちは強奪犯に転向、会期中に力を使って持ち去るように
94年のオスロ美術館からムンクの《叫び》が奪われたのも、04年オスロのムンク美術館から《マドンナ》と《叫び》が盗まれたのも同じ手口

l  スウェーデン国立美術館 ストックホルム
2000年クリスマスの喧騒の中ストックホルム市内で爆発が発生、その間隙をついて国立美術館に機関銃を持った強盗犯が乱入、ルノワール2点とレンブラント1点を含む美術品を奪い逃亡 ⇒ ルノワールの《会話》は翌年警察の薬物強制捜査で発見、05年にはFBIがデンマーク警察の協力を得た囮捜査でレンブラントの《自画像》を取り戻し、ルノワールの《若いパリの女》もFBIの介入で奪還。盗まれた絵は転売され、取り戻すのにしばらく時間がかかった
盗まれた美術品が取り戻され、犯人が逮捕されるのは歴史上も滅多になく、全体の1.5

l  ラスバラハウス アイルランド 
1986年の盗難事件は、奪還されなかった盗品の辿った運命を象徴する ⇒ 4回も盗難に遭ったアイルランド郊外の大邸宅ラスバラハウスにカーヒル率いるギャング団が押し入りフェルメールなど18点を盗むが転売先が見つからないまま、絵を担保にして借り入れして取引用のドラッグを購入したが、金貸しが担保を売却しようとして買い手を装ったスコットランド・ヤードの秘密捜査官に接触したため逮捕、最終的に16点が回収されたが、フランチェスコ・グアルディの小品2(いずれもヴェネツィアの風景画)は山中に埋められたとされ、その在りかを知る者は既に死亡
盗難美術品が担保として利用され、犯罪組織間の物々交換の資源ともされ、ドラッグと武器、美術品が密接に関わり合っていることがよくわかるだけに事態は深刻

l  サン・ロレンツォ礼拝堂 シチリア島
モラルの低いコレクターへの転売目的で盗難に遭うこともあるが、盗難美術品のコレクターはほとんどいないため、窃盗犯が持て余し焦った窃盗犯が買い手を装った警察官との取引に応じる場合もある
レンブラントの《自画像》が取り戻されたケースはその典型だが、69年のシチリアのマフィア、コーサ・ノストラ系の窃盗グループがパレルモのサン・ロレンツォ礼拝堂の祭壇にあったカラヴァッジオの巨大な絵画《聖フランチェスコと聖ラウレンティウスのいるキリストの降誕》のカンヴァスを切り取った事件は、イタリア政府が世界初の盗難美術品捜査専門の警察部隊、美術遺産保護部隊TPCを創設、79年囮捜査に引っ掛かった有名な事件となったが、盗品は発見されず、破壊されたものとみられている。代わりに別の盗品を取り戻す。96年や09年にも有力情報が寄せられたが発見には至らず
TPCは現在300以上の常勤捜査員を抱える世界最大の、最も有能な美術犯罪捜査班で、400万点を超える盗難美術品に関する情報が保存されているが、ほとんどがまだ発見されていない
《キリストの降誕》は美術史上、そして美術犯罪史上極めて重要な作品 ⇒ 美術犯罪に特化した警察部隊が初めて創設され、美術品盗難事件の捜査方法が劇的に変わる
カラヴァッジオは恋敵のトマソーニを殺害、シチリアに滞在して教皇の恩赦を待っていたが、その頃に描かれた作品は僅か4点、内現存は3点のみ

l  イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館 ボストン
1990年のボストンでの盗難事件は未解決のなかでは最も有名。美術館閉館後警官を装った男2人が押し込み、レンブラントの《ガリラヤの海の嵐》、フェルメールの《合奏》、マネの《トルトニ亭にて》、紙に描かれたエドガー・ドガの絵画5点、ホーファルト・フリンクの《オベリスクのある風景》(1638)など13点。注目すべきは価値のあるティツィアーノやラファエロ、ボッティチェリなどには手を付けていないこと。不審な点ばかりの米国史上最大の美術品盗難事件で被害総額は5億ドルと、平時における最大の財産窃盗事件。94年館長宛の受け渡し金要求は僅か260万ドルだが、それも途中で交信が途絶える

l  アグニュー画廊ロンドン
犯罪界のナポレオンとの異名を持つ伝説の泥棒アダム・ワースは、史上最も成功した犯罪者として知られ、シャーロック・ホームズの宿敵モリアーティ教授のモデルになった人
一介のスリから犯罪をてこに成り上がって、ロンドンの富裕層の仲間入りを果たす
収集家のモルガン父子も、必ずしも清廉潔白なビジネスマンとして知られていたわけではなく、美術品を手に入れるために、怪しげな品と全く無縁だったわけでもない

l  泥棒の達人
アダム・ワースもボストンの激しい階級格差の中で育ち、南北戦争に参戦後、ニューヨークで人道的犯罪者。スリから銀行強盗にのし上がり、裕福になってロンドンに住むが、弟の保釈金を払わせるために画廊に押し入るが、保釈金が不要になったため絵を手許に置くことに決める。1893年ベルギーで収監され97年に保釈された時は財産を仲間に奪われ、残ったのはゲインズバラの絵1枚。事件から20年以上たって、唯一信用していた探偵のピンカートンにアグニュー画廊に返還するため仲介を頼み、無事変換された絵は父親の遺志を継いだJ.P.モルガンが15万ドルで購入。02年ワースは死去、ピンカートンはワースが関わった犯罪について本を出版、ワースの子供たちの後見人となり、父親が犯罪者であることは決して知らせず、成長すると自分の探偵社で雇って面倒を見ている

l  収集の達人
J.P.モルガンにとって当時話題となっていた絵画を購入することは、モルガン家の財力を世間に知らしめ、自分たちの社会的な地位を揺るぎないものにすることに他ならなかったが、遠縁とはいえモルガン家のルーツが本物の貴族であることを象徴
代々モルガン家に受け継がれたが、1994年に第11代デヴォンシャー公爵によって買い取られた
今日においても、出所が怪しい美術品の購入を避けるよう社会的な圧力が働くことはほとんどなく、購入自体犯罪とまでは認識されておらず、多くの場合過失として許されている
こうした傾向は、著名なコレクターのローレンスとバーバラ・フライシュマン夫妻が、ロスのゲティ美術館で展示される夫妻の古代遺物コレクションの図録に誇らしげに写真が掲載され、2人の住まいの写真にはポンペイ遺跡から略奪されたことがわかっている古代のフレスコ画が、隠される様子もなく写っているのを見ても明らか
美術品の売買はかなり不透明で、1つの国の法律では盗品売買に対する取り締まりを強化できない。美術品を手に入れたいという欲望がある限り、世界中の泥棒を勢いづかせる

第2章        戦争
1860年北京の円明園(夏の宮殿)は、アヘン戦争終結の交渉に臨んだ英仏軍の兵士の略奪の場となった。英仏軍を率いるのは第8代エルギン伯爵(オスマン帝国からパルテノン神殿の彫刻、エルギン・マーブルを買ったのは父親)
英軍司令官はアヘン戦争の間に略奪した何千点もの品をオークションにかけ、軍関係者に分配したが、円明園の略奪は常軌を逸していた
清王朝が降伏交渉に臨んだ英仏軍の使節団を殺害したため、報復として略奪後の円明園を徹底的に破壊、毛沢東の文革でも紅衛兵によって傷つけられたが、中国指導部は西洋人の仕業として国の結束を固めるための結集地として利用し、この屈辱を二度と繰り返さないために強力なリーダーシップが必要と強調

l  略奪行為
敗戦国での略奪が兵士の手当て代わりに公認 ⇒ ナポレオン戦争は芸術品の引き渡しが停戦条件とされた初めての戦争
1793年ルーヴル宮殿の一部が美術館として公開されると略奪が加速、ナポレオン軍に初の美術品略奪専門部隊が創設、欲しい作品のリストが作成され、占領軍は公式なルートや手段を使って美術品を略奪し、政治的な利益を得るための手土産や資金源にしたり戦利品として飾ったりと、様々な目的に利用

l  古代における略奪
古代ローマでも凱旋将軍は戦利品として美術品を誇示
古代ギリシャの誇りとされるペイディアス作の《オリンピアのゼウス像》(BC430年頃)はコンスタンチノープルに持ち去られラウソス宮殿に置かれていたが、475年の火災で焼失

l  ローマ劫掠 1527
神聖ローマ皇帝のハプスブルク家カール5世麾下の傭兵部隊は、ローマ進軍の際給金代わりに手当たり次第略奪。同時に教皇の天敵だった枢機卿コロンナの一軍も復讐に燃えて略奪行為に参加、1か月余り続いた略奪でローマは灰塵に帰した
1477年にゲルマヌスによって制作された初期の地球儀と天球儀も失われた

l  イラク国立博物館 バグダッド 2003
一介の兵士や市民が出来心で美術品を持ち去ることもあり、その典型が03年のイラク
ほとんどの美術品は計画的に略奪されるが、行き当たりばったりで持ち去るの迄管理できない

l  没収
2次大戦中には多くの美術品、主にユダヤ人の所有した美術品が逃亡資金のために売却されたり、さしたる根拠もなしに没収されたりした
クリムトがウィーン社会で賞賛の的となる前に描いた初期の幽玄な作品《トゥルーデ・シュタイナーの肖像》は、38年にモデルの母シュタイナー夫人がナチ支配下のウィーンから脱出する際、未納税金のかたに押収されたとされるが根拠は不詳。41年のオークションで売られて以後消息不明に
ヒトラーの「ネロ指令」によって価値ある美術品が破壊の対象となったが、オーストリアのアルトアウスゼーの岩塩坑は、坑夫がレジスタンスに協力して英雄的な活躍を演じたお陰で爆破が阻止された
略奪美術品を扱ったナチ党員ヒルデブラント・グルリットの息子はドイツの美術品収集家だったが、2012年脱税で家宅捜索が入った際1406点に及ぶ著名な美術品が発見され、14年本人死亡後はベルン美術館に遺贈。略奪された美術品の受け入れは大きな論争となったが、元の所有者が疑義を唱えない限り作品を受け入れることを決定し、一部は返還

l  2次的被害
美術品に大きな価値があることがはっきりしている場合は、持ち主が代わっても良好な保存状態で発見されることが期待できるが、二次的被害に苦しむ美術品も多く、一部屋丸ごと消えてしまう場合は、悲劇となった可能性が極めて高いものの、僅かな希望は残されている

l  琥珀の間
プロイセンのフリードリヒI世の妻ゾフィー・シャルロッテが作らせた琥珀の間は、死後解体され、スウェーデンに対抗するための同盟の手土産としてピョートル大帝に贈呈され、1755年にはサンクトペテルブルク近郊のエカテリーナ宮殿に設営され、ロシア帝国の権威の象徴としてロシアの誇る国宝となった
革命を生き延びたがセントラルヒーティングによって深刻な損傷を受けて脆くなり、第2次大戦でナチの標的になり、41年解体されてケーニヒスベルク城へと運ばれ一部が展示されたが、45年ナチ降伏時には城が廃墟と化し、琥珀は城もろとも破壊された可能性大
1997年に琥珀の間の一部が発見され、まだ埋もれている可能性はある
美術史上重要とは言えないが、強大で伝説的な権威の象徴であり、戦後修復されたエカテリーナ宮殿に復元され、03年プーチン大統領によって華々しく公開されたのも当然

l  クールベ《石割人夫》
当時世界最高の美術館の1つだったドレスデンのアルテ・マイスター絵画館も、452月の空襲で収蔵されていた154点が失われたが、クールベの最も重要な作品の1つ《石割人夫》(1849)は別に戦災を避けてドレスデン城に保管されていた
少年と老人が道端で石を割って運ぶという作業をしている社会主義リアリズムに分類される絵で、貧困が完璧に体現され、パリのサロンで見た裕福な観客は、作者のあからさまな政治的非難に衝撃を受ける。貧しくも静謐な美しさを漂わせるミレーの《落ち穂拾い》とは対照的に、貧困を理想化せずに苦痛に満ちたものとして描いている。『共産党宣言』の翌年に描かれているのも決して偶然ではない。不公平な階級分化という思想が広まっていたが、そうした現実を活写した最初の芸術作品
154点以外に何百点もの作品が赤軍兵士に略奪され、現在までに206点が返還されているが、450点が失われたまま。ロシア人のコレクションとして密かに保管されているかも

l  奇跡的な保存:記念墓所カンポサント ピサ
2次大戦中に500万点の文化遺産の持ち主が不当に替わっているという見解がある
美術品には明確な価値があるので、失われた財宝もいつか出てくる希望はある
保存しようという人々の懸命な努力によって息を吹き返した芸術作品もある
モンテ・カッシーノの中世の修道院爆撃は、第2次大戦中の連合軍の最も大きな過ちの1つ ⇒ 447月ピサの斜塔のあるドゥオモ広場が連合軍の空襲に遭い、ピサ大聖堂に隣接する記念墓所カンポサントの屋根を焼夷弾が突き破る。イタリアには少ないゴシック建築の傑作の1つで1464年完成。132442年にかけて壁に描かれたフレスコ画は質や知名度が高いだけでなく共同制作という性質を持つ点でも重要。爆撃直後に連合軍のモニュメンツ・メン(傷つけられた芸術作品の保護・修復をする特殊部隊)によって長年にわたり解けた鉛が取り除かれ、今も鑑賞することができる

l  円明園 中国
09年サン・ローランの財産がクリスティーズのオークションにかけられたが、最も注目されたのは円明園の水力時計から略奪された十二支の獣首像のうち兎と鼠のブロンズ像
匿名の個人収集家によって1490万ユーロで購入されたところまでは判明しているが、サン・ローランのコレクションに収まった経緯は不明
クリスティーズは、「文化遺産が母国に帰還することを支持する」とし、全ての美術品に対して「明確な法的権利」を有していると主張
最高額で入札したのは中国人だったが、支払いを拒否した上、無償で中国に返還するよう要求。最終的にクリスティーズのオーナーが13年に善意で購入し中国に贈呈
これまで十二支のうち7体が見つかり中国の博物館に返還されたが、5体は不明のまま

第3章        事故
1734年のクリスマスイヴにアルカサルが火災で焼け落ち瓦礫の山に ⇒ 9世紀に建設、その後優美な宮殿へと姿を変え、スペインのハプスブルク家の根城
焼失した作品は500点以上と言われ、ベラスケスの人生を切り開いたともいえる《モリスコの追放》(1627)や、ルーベンスの《フェリペ4世の騎馬像》(1645)がある

l  火災
広く知られて目録に記載された作品が、火災によって焼失した事例は比較的少ない
有名なのは、1694年と98年のロンドンの英国王室のロンドンの邸宅として使用されたホワイトホール宮殿の大火災。バンケティングハウス以外はすべて焼け落ち、ミケランジェロの《眠るエロス》(1496)などが焼失
2004年ロンドン郊外のモマートの倉庫で起こった火災では総額5000万ポンド相当の美術品が全滅

l  難破
水難の場合は保存することもできる
金属の美術品は他に転用され再利用されるケースが多いが、難破船と共に沈んだブロンズの彫像は、優れた状態で保存されることが多い ⇒ 現存する古代の大ブロンズ像のほとんどは、難破水没のお陰で保存されている。1926年にギリシャで引き揚げられたアルテミシオンの《ゼウス(またはポセイドン)

l  《クレオパトラの針》
ロンドンの河岸の堤防に設置された《クレオパトラの針》は、難破を越えて生き残った石造の記念碑で、ニューヨーク市セントラルパークのオベリスクとは対になっており、どちらも女性ファラオ、ハトシェプストの治世(BC147958)の作で、高さ21m、重さ224tの赤い花崗岩製

l  フラウ・マリア号
1771年フィンランド沖でオランダ商船フラウ・マリア号が沈没、エカチェリーナ2世のためのオークションで落札された美術品が海底に沈んだが、1999年に発見 ⇒ 塩分濃度が低く良好な状態で保存されているようだったが、所有権をめぐる係争は今も継続中。更に引き揚げや絵画回収に莫大な費用がかかることが判明し引き揚げプロジェクトは中断され、積み荷の状態は不明のまま

l  ベラスケス《ラス・メニーナス》
2016年アメリカの美術史家のウィリアム・ジョーダンが、個人コレクションからベラスケスの《フェリペ3世の肖像》をプラド美術館に寄贈 ⇒ フェリペの顔を描いた習作で、焼失した《モリスコの追放》の準備のための細部描写。1988年に落札した当時、作者は有名ではなくモデルも政治家だとされていたが、プラド美術館で鑑定した結果事実が判明
アルカサスの火災では、救出された作品の11つが小さな奇跡 ⇒ 《ラス・メニーナス(女官たち)(1656)は、フェリペ4世の娘マルガリータ王女と仕える2人の女官を描いたが、同時に自らも絵筆をとってモデルになっており、絵を描くという行為そのものも表している不思議な絵だが、燃え盛る火の中で端の部分は切り落とされ、塗り直しの必要な部分が何か所もあったという。死の4年前に描いたこの作品が代表作となり、死の直前に念願の騎士の身分を手に入れ、絵の中の自分の衣服に新しい肩書を表す紋章、サンティアゴ騎士団の赤い十字を描いた

第4章        偶像破壊と破壊行為
16世紀に活躍した最も有名で腕の立つ彫版師の1人で、ラファエロ公認の版画家としても有名なマルカントニオ・ライモンディ(1480頃~1534)は、ヨーロッパ有数の名版画家アルブレヒト・デューラ―が1506年起こした史上初の著作権裁判の被告で敗訴
彼は同時に、ジュリオ・ロマーノの性愛図を基に16の性交体位を露に描いた版画が教皇クレメンス7世の怒りに触れ投獄、版画は全て焼き払われたが、ロマーノは無罪

l  《ネプチューンの噴水》 フィレンツェ
偶像破壊(イコノクラスム:ギリシャ語のeikonに由来)は象徴するものを理由にターゲットが選択される場合で、破壊行為とは象徴的な重みをもたないものをターゲットにする
1565年バルトロメオ・アンマナーティ(151192)によって制作された《ネプチューンの噴水》は、フィレンツェのシニョリーア広場にあり、ジョヴァンナとフランチェスコ・デ・メディチの結婚式を記念して建造
地元の人による洗濯などの無頓着な使い方のために損傷を早めていることは否めず、ブロンズ像の1体が盗まれたり、よじ登って破損させたりといった被害に遭っている

l  破壊者ピエロ・キャナータ
1991年フィレンツェのアカデミア美術館でミケランジェロの《ダヴィデ像》(150104)をハンマーで傷つけたキャナータは、精神病と判定され病院に収容されたが、釈放後も繰り返し美術品を攻撃している

l  アヤソフィア
破壊行為の被害者として選ばれたターゲットは破壊者とは何の関係もないのに対し、偶像破壊は攻撃側も被害者側も厳しく限定 ⇒ 宗教や政治的イデオロギーに基づく偶像破壊も、良識の名の下に行われる偶像破壊も、ターゲットの示す特性が、攻撃者にとって受け入れがたいものだという信条を反映
偶像破壊という言葉は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国:3301453)下の偶像破壊行為から生まれた ⇒ 偶像崇拝の禁止は726年頃初めて制定され、フレスコ画や聖像等教会にあった像が破壊された
「聖なる叡智」の意味を持つアヤソフィアは皇帝ユスティニアヌス1(在位527565)の時代に建設された教会だが、オスマンの征服によりモスクに改装されたものの、貴重なモザイク装飾の多くは破壊されずに隠されただけだったために、時世が変わるまで安全に保護され、1931年には完全に修復され、トルコのアタチュルク大統領は博物館にすることを発表

l  サヴォナローラと虚栄の焼却
サヴォナローラ(145298)は美術史上最大の悪役の1人。カリスマ説教師として、メディチ家の追放を受けてフィレンツェをキリスト教世界の新たな中核「ニュー・エルサレム」と宣言したため、97年教皇から破門、98年絞首刑に
清教徒の宗教的な基準に合わない芸術を容赦なく破壊、巨大な焚火で燃やされ、ボッティチェリまでがサヴォナローラの巧みな説教に感銘を受け、自らの作品を焼き払おうとしたが、《春》や《ヴィーナスの誕生》はメディチ家にわたっていたため無事

l  退廃芸術展
サヴォナローラの虚栄の焼却は、1930年代にはナチによる本や芸術作品の焼却として再現。最大の焚書は33年。37年には押収した作品を目玉にした巡回展来会を実施、「ナチはこうした有害なものから子供を守る」というメッセージが貼り出され、大成功に終わり、その後オークションで戦費調達の足しにして残ったものは焼却。オットー・ディスクの《傷痍軍員》(1920)も償却と思われ、出展以降誰も見ていない

l  IS 偶像破壊の偽善
アヤソフィアのイスラム教徒は漆喰で隠しただけだったが、現代のイスラム原理主義者たちは、自分たちの教義に反する芸術作品や建造物を破壊しようとする
2015年エジプトのイスラム系教育機関のアル=アズハル大学の総長がファトワーというイスラム法の権威者による解釈を示す教令の形で、古代遺物の破壊を禁じた
テロ組織が古代遺物の価値を認めながら破壊する様子は、ナチの「退廃的な」芸術作品に関する筋の通らない偽善的な理屈を想起させる
01年タリバンによるバーミヤンでの6世紀の仏像の爆破に影響を受けた16年のアッシリアのニムルドの破壊行為は、BC1250年から6世紀にわたって繁栄した古代都市を壊滅、建物の入り口に守護神として置かれた巨大彫像が破壊されたが、それまで2度にわたって適切に発掘され、移動できる遺物のほとんどは博物館に移されていたため被害を免れたのは幸い

l  ライモンディ《イ・モーディ》
ポルノのブラックマーケットは16世紀から存在
ライモンディの性愛図に描かれた数々のポーズはローマのファルネーゼ宮(現在はフランス大使館)の大広間のフレスコ画《神々の愛》に取り入れられ、美術史に後々まで大きな影響を与える

第5章        天災
79年のヴェスヴィオ火山の噴火は広島の原爆の数万倍の熱エネルギーを放出、ガスや灰や岩を33㎞の高さまで噴き上げ溶岩や灰を毎秒150t吐き出し、分厚い灰と軽石層の下に数々の美術品を18世紀もの間埋め尽くした
l  《ロドス島の巨像》
天災のなかでは地震の被害が最も多い
古代の世界7不思議の1つに巨大なブロンズ像 ⇒ 高さ33mの太陽神へ―リオスの彫像で、ロドス島のマントラキ港の入口に立っていた
マケドニアを撃退した記念にBC280年鉄の骨組みにブロンズを貼って作られたが、BC226年の地震で倒壊 ⇒ 2008年ギリシャ政府が再建計画を発表したが未実行

l  アレクサンドリアの大灯台
古代の世界7不思議の中で完全な姿で現存するのはギザの大ピラミッドだけ、破壊されたことがはっきりしていないのはバビロンの空中庭園だけだが、実在自体が怪しい
プトレマイオス1世の命でBC286246にかけて建設されたのがアレクサンドリアの港の灯台(ファロス)で、30m四方の基礎の上に立つ高さ103118m石灰岩製だが、956年の地震で損壊し始め、1323年の地震で完全に倒壊
1994年水中考古学チームが組織的にアレクサンドリアの東港の海底遺跡を発掘し、オベリスク5本、スフィンクス32体、エジプト王朝の柱6本、ローマ・コリント式の柱頭と柱脚を引き揚げた。2015年にはエジプト考古最高評議会が大灯台の再建計画を発表

l  ハリカルナッソスのマウソレウム
BC355年死去したカリア国マウソロスの壮麗な墓。底辺3238m、高さ40mの長方形の建造物で、レリーフ彫刻で装飾
1215世紀の間の地震で廃墟となり、1404年土台のみとなったことが報告
失われた6つの不思議の中で最後まで残ったのがこの霊廟

l  ラクイラとアッシジ
2009年イタリアのラクイラを襲った地震は町を破壊、数々の重要な遺物が犠牲になり、6名の科学者と1名の政府関係者が過失致死罪の有罪判決を受けた
1997年のアッシジの地震ではジョット(1267頃~1337)ら巨匠の描いた世界的にも有名なサン・フランチェスコ大聖堂のフレスコ画も被害に遭い、保存修復の努力が施されるも、見る影もないほど劣化したとケチが付けられたが、生き残ったからこその文句に過ぎない
ジョットの作品は、2014年パドヴァのアレーナ礼拝堂に雷が落ちたときは、無傷だった

l  海と塩: ヴェネツィア フォンダコのフレスコ画
湿気の多いヴェネツィアではフレスコ画は勧められない、せいぜい残るのはモザイク画
フォンダコ(倉庫)・デイ・テデスキはドイツ系商人の商館で、運河に面したファサードに描かれたフレスコ画連作はベッリーニの工房の期待の新星だったジョルジョーネ(1478頃~1510)とティツィアーノ(1490頃~1576)の作だが、完成後ジョルジョーネは2年もたたずにペストで死去したのに対し、ティツィアーノは数十年にわたり大工房の主人として宮廷にまで影響を持つほどに成功 ⇒ フレスコ画は運河の湿度にやられて最早見ることはできないが、1966年残存部分が剥がされ研究者たちによって修復が試みられている

l  洪水:アルノ川の泥に消えた至宝
1966年にはアルノ川が氾濫、フィレンツェの誇るルネサンス芸術の多くが失われた
1333年から8度にわたって洪水に見舞われているがそのなかでも最大なもの
年間降水量の44%にあたる2.5mの雨が2日間にわたって降り続き、最大の被害を受けたのは1296年建築のサンタ・クローチェ聖堂で、3mの浸水で死者101
世界各地から駆け付けたボランティアは泥の天使として知られるが、数百万点の文化遺産が失われた ⇒ 代表的なのはパオロ・ウッチェロの《創造と堕落》(144346)やアンドレア・デイ・ボナイウートの《教会の伝道と勝利》などのフレスコ画やフィレンツェ・ルネサンス絵画の祖チマブーエの木製の巨大な《十字架》(1288年頃)

l  保存と修復
この災害を機にフィレンツェでは世界有数の美術保存修復施設となっている国立輝石修復研究所OPDが設立
フレスコ画は、壁や天井に塗った漆喰が乾かないうちに絵の具を乗せて描いた絵を指すが、修復の為に剥がす技術がこのとき開発され、現在でも有効な技術となっている

l  パンペイ ヴェスヴィオ火山の噴火
1709年噴火で埋まった町で井戸掘り人夫が古代の彫像2体を発掘したが重要性に気付かず、1738年新宮殿建設の際発掘されたブロンズ像を機に調査が開始され、数十メートル下から失われた都市ヘルクラネウムが出現、10年後にはポンペイが発掘され、その碑文から町の名前が明らかになった
1806年フランスの占領後に発掘が組織化され1860年までにポンペイの3/4が発掘されたが、ヘルクラネウムはまだ半分にも達せずいまだに発掘作業が続けられている
古代ローマを象徴する純白の大理石と象牙色の石灰華とは違い、古代ギリシャの都市のように色彩に溢れた色鮮やかな神殿が立ち並び、フレスコ画やモザイク装飾で彩られていた

第6章        一時的にしか存在しない作品
パフォーマンス・アートは一時的にしか存在しない芸術で、その記録はイベントの間に撮影された写真か、アーティスト自身やその場にいた人々による口伝えでしか残されない
l  貴族と教会のための一時的な作品
名立たる芸術家たちが、大きな祝祭行事の展示物や装飾物を制作するために貴重な時間とエネルギーを浪費しているが、終われば廃棄されてしまう
ブルゴーニュ公国のヤン・ファン・エイク(1390年頃~1441)やトスカーナ大公コジモ・デ・メディチに仕えたフィレンツェのジョルジオ・ヴァザーリ(151174)は宮廷画家として多くの舞台芸術を制作、後世に残ることのない仕事ばかり。現代でそれに近い仕事はオリンピックの開会式か

l  金襴の陣
一時的な作品の中で最高傑作の1つは、芸術作品というより建築物に近い
金襴の陣は、イングランドのヘンリー8(在位150947)とフランスのフランソワ1(在位151547)の間の馬上試合の形を取った富と権力の股袋(コッドピース)の大きさを競うコンテストで、たった数週間のために立派な城のある村が丸ごと1つ作られた

l  万人のための一時的な作品
一時的なアートでキャリアを築いたクリスト(1935)と妻ジャンヌ=クロード(193509)の作品は写真やプロジェクトのドローイングの中にしか残っていない
1985年パリのセーヌ川に架かるポン・ヌフが4万㎡の砂色の布で包まれ、2週間で300万の観客が訪れ布に覆われた橋の上を歩いた
2005年にはニューヨークのセントラルパークで《門》が展示され、風にそよぐサフラン色の布をかけた7503基の鉄骨の門が16日間だけ設置された

l  破壊されるために作られた作品
破壊が作品を完成させるために不可欠な行為として捉えられていることもある
1960年ジャン・ティンゲリー(192591)の制作した《ニューヨーク賛歌》は高さ8.2mに及ぶ巨大は機械でMoMAに展示されているが、似たような機械をもう1台《世界の終りのための試作 No.2(1962)と名付けてラスベガスの砂漠に展示。どちらも自動の自殺マシンで、破壊的なパフォーマンスは反体制運動が盛んだった当時に流行

l  一時的な作品の再演
2012年スロヴェニアのリャブリャナ近代美術館でのパフォーマンスは、芸術が「失われる」こと自体を作品のテーマとして、失われる作品が一時的に生み出され、ほんの一瞬で消えていく。記録には残されるが作品そのものは残っていない

第7章        所有者による破壊
ジョルジョ・ヴァザーリは素描を保存し、展示するに相応しい芸術作品として収集するようになった初期のコレクターで、ルネサンス時代の画家、建築家であり、自分と同じ芸術家たちの伝記を書いた作家でもある。世界初の美術史書『芸術家列伝』(1550)で取り上げた芸術家たちの素描を収集し、彼らの創作の過程を辿った《素描集》は、持ち運びできる個人美術館だった
16世紀のイタリアの芸術家たちは作品を制作する際の努力の跡を見せないよう細心の注意を払った ⇒ スプレッツァトゥーラの精神と言われ、何気なさ、計算された無造作、汗一つ書かずに容易くできたように見せかけることなどを意味するイタリア語
ミケランジェロ・ブオナローティ(14751564)も、完璧に仕上げるために大量の下絵を描いているが、努力の跡を消し去るために弟子に命じて定期的に素描や下絵を焼き払っていた
l  喜びと地位のための収集
特定の芸術家が制作した美術品を集めるというコレクションの形が始まったのはヴァザーリの時代であり、彼が先駆けだが、美術品の売買が始まって高値が付くようになったのは18世紀になってからで、その先駆けの地となったのはイングランド
イングランドで美術収集が始まったのは、プライベート・ギャラリーやオークションハウスの設立によるところが大きい ⇒ 1744年サザビーズ、1760年コルナギ、1766年クリスティーズ設立
1792年オルレアン公の美術品コレクション500点が処分され、美術品が貴族に憧れや幻想を抱く新興富裕層の人々の手に届くようになった
展覧会が行われる以前の1840年代は、コレクターが近代都市ではお決まりのキャラクターとなって風刺の対象になった

l  利益のための収集
美術収集も、分類し、整理したいという欲求を伴い、それによってコレクション自体の、ひいてはコレクターのアイデンティティとヒエラルヒーが生まれる
美術品と金銭の境目が曖昧になっていることも、美術犯罪を引き起こす要因の1
1850年に描かれた本では、セビリア人の半分は、柄の窃盗や偽造で生活している、ともあり、美術品市場の中心だったロンドンでは、美術犯罪は合法な取引に紛れて水面下で行われたという

l  美術館のための収集
1819世紀は、国立美術館が次々と創設された時代
1753年ロンドンの大英博物館、1781年ウィーンのベルヴェデーレ宮絵画館、1793年のパリのルーヴル、1808年アムステルダム国立美術館、1819年プラド美術館、1824年ロンドンのナショナル・ギャラリー、1830年ベルリンの旧博物館
ナショナル・ギャラリーは、ジョージ・ボーモント卿(17531827)から7500ポンドの出資を受けて創設、収蔵作品の基盤はリヴァプール卿が国に代わって購入した有名なジョン・ジュリアス・アンガースタインのコレクションで、個人所有より国による庇護に種が蒔かれることとなった
美術品が様々な価値を持つことを念頭に置くと、自ら作品を破壊する所有者が存在する事は奇妙に思えるが、ありふれているのは芸術家自身が、自分の作品を気に入らないこと、恥ずかしいこと、隠しておきたいことを明らかにしてしまうという理由で破壊する場合
l  パトロンによる破壊
長い肖像画の歴史を通じて、賢明な画家たちは、パトロンであるモデルの意向に沿って、好ましくない細部にはエアブラシをかけるなど、進んで誤魔化しを行ってきた
パトロンが画家を選ぶ以上、その絵に腹を立てることはまずないが、画家を選んだのが第3者の場合問題が起こる

l  サザーランド《ウィンストン・チャーチル》
イギリスで広く尊敬を集めるモダニズムの画家グレアム・サザーランド(190380)は、1954年に80歳の誕生日に長期政権の功労を讃えようとした国会議員から高額でチャーチルの前身の肖像画を依頼されたが、出来上がった絵を見て夫人は「気味が悪いほど似ている」と漏らし、本人も「実に…醜悪だ」と吐き捨てたが、波風を立てないようとにかく式典で、華々しく披露された。国会議事堂に常設展示されることになっていたが、まずは本人に贈呈され直後に破棄され、それがわかったのは1978年になってからで、夫人は他にも肖像画をいくつも破棄したようだ
肖像画は見た目の記録であると同時にプロパガンダであり、モデル自身が見栄えが悪いと考えている特徴を嫌がられるような描き方でそっくりまねるのは控えるべきだろう

l  リベラ《人間 宇宙を支配する者》《デトロイトの産業》
メキシコの画家ディエゴ・リベラ(18861957)1933年制作した壁画《十字路の人物》(のち描き直され《人間 宇宙を支配する者》と改題)はロックフェラー・センターの目玉だったが、ロックフェラー家によって破壊 ⇒ 下絵の段階では依頼主に承認されていたが、作者が勝手に変更したためで、レーニンとロックフェラーを両対極に配置し、レーニンの方が魅力的な人物として描かれていたため、レーニンの部分の削除を申し入れたがリベラが削除するくらいなら破壊しろと反発したため廃棄処分となる。保守派のジョン・D・ロックフェラー・ジュニアが共産党員のリベラと仕事をしたこと自体が間違いのもと
直前の32年リベラは、ドイツの美術評論家の依頼でデトロイトのフォード・モーターをモデルに27枚のパネルにしたフレスコ画を制作したが、大恐慌の不況の最中巨額の制作費をかけたこともあり、構図もマルクス主義の宣伝活動と受け止められ、依頼者のシカゴ美術館とフォード・モーターが、作品の素晴らしさや重要性、保存する価値を認めながら、芸術家を非難せずにはいられなかった史上初のケース

l  ゴッホ《医師ガシェの肖像》
1990年齋藤了英は《医師ガシェの肖像》(1890)8,250万ドルで、2日後に《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》の小さいほうを7,810万ドルで購入、自分が死んだら一緒に焼いて欲しいと宣言
齋藤は遺言で美術館への期憎悪を検討すると述べたが、96年死去後作品は表舞台に現れず、07年の報告書ではゴッホの絵をオーストリアのコレクターに売却したとなっているが、現在行方は分かっていない
ゴッホの絵は、モデルに贈呈するため描いたもう1枚がオルセーに展示されているが、ゴッホは通常白いカンヴァスに直接絵を描くが、下描きが描かれていることがわかり、真作かどうかは疑問とされている
ルノワールの方も、借り入れの担保で銀行が処分し、スイスの個人コレクションに収蔵されていると考えられているが、90年以来目撃されていない。大きい方はオルセーに展示

l  芸術家による破壊
自分の作品を破壊するのはほぼ現代にしか見られない現象
18世紀以前は画材や彫刻の材料は非常に高価だったので、作品を破壊するのは愚行以外の何物でもなかった
唯一の例外は、ボッティチェリが信仰心に突き動かされて自分の作品をサヴォナローラの虚栄の焼却の犠牲として差し出したケース

l  カジミール・マレーヴィチ
2015年マレーヴィチ(18781935)の代表作《黒の正方形》(1915年とあるが遡って記載することが多く、正確には不詳)には2枚も下絵が隠され、それぞれが画家が提唱した運動の象徴的作品だった

l  パブロ・ピカソとクロード・モネ
X線や赤外線、紫外線で分析することによって、表層部の絵具の下に埋もれていた絵が浮かび上がる
ピカソの青の時代の作品《老いたギター弾き》(190304)の下には、キリストの降誕を描いた別の絵が描かれていたことが判明。芸術の名のもとに自分の作品の一部を犠牲にしている様子が映画《ミステリアス ピカソ――天才の秘密》(1956)になり、カンヌ国際映画祭特別審査員賞を獲得、84年にはフランス政府が国宝に指定されたが、映画制作者も芸術家本人も作品が映画のなかだけに存在するというアイディアを気に入り、ピカソがカメラの前で制作した絵画は全て撮影終了後破棄
1958MoMAの火災では、大災害になる前に消し止められたものの、モネの《睡蓮》2枚を含む6点が焼失したが、モネ自身の手で失われた作品はもっと多い ⇒ 1908年モネ(18401926)はデュラン=リュエル画廊の展覧会の直前に自分の作品に満足できず、カンヴァス15枚を破り捨てている

l  ゲルハルト・リヒターとジョン・バルデッサリ
リヒター(1932)もモネ同様完璧主義者。コンテンポラリー・アーティストの中で作品が最も高価な1人だが、気に入らない絵を60点焼却(今日の見積もりでは655百万ドル)
コンセプチュアル・アーティストとして知られるバルデッサリ(1931)は作品が売れない時期自分を変えるため死体安置所で《火葬プロジェクト》(1970)というイベントを行い、5366年に制作した絵画を焼却

l  ロバート・ラウシェンバーグとウィレム・デ・クーニング
ラウシェンバーグ(192508)195253年にヨーロッパと北アフリカを旅しながら変わったゴミを集め、後に《コンバイン 結合》と名付けるコラージュを制作し名を成したが、作品は売却後売れ残りをアルノ川に投棄したため、現存するものは38点しかない
ラウシェンバーグは1953年抽象表現主義者のクーニング(190497)の絵画を購入し、その絵を消すというパフォーマンスを行い、残った白紙に《消されたデ・クーニングの絵画》というタイトルを付けた。サンフランシスコ現代美術館に収蔵されているが、保存修復師がデジタル技術で消された絵の痕跡を浮かび上がらせている
ラウシェンバーグのこの行為はある作家に「品の良い偶像破壊」と称されたが、象徴的な意味がある ⇒ コレクターは合法的に購入した美術品を破壊する権利があるが、芸術家が別の芸術家の作品を破壊すると、新しい芸術が生まれる。事前にラウシェンバーグが芸術活動の一環として消去したい旨を伝え、作者が破壊行為に賛同。作者も興味を持ち作品を1点提供、それも簡単には消せないようインクやクレヨンも使って描いた作品を提供したところ、ラウシェンバーグは1か月作品をこすり続けて絵を消した

l  ヘザー・ベニング
カナダのベニンぐ(1980)は、新たな作品を生み出すために、作品を破壊
廃屋となった農家を利用、絵本に出てくるような部屋を備えた原寸大の《ドールハウス》を07年に制作したが、基礎が68年に作られ13年には倒壊を免れないまでに損傷したため火を放ち、《ドールハウスの死》という新たな作品を生み出した

l  ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル
アングル(17801867)が再婚した時、工房にあった死んだ前妻の裸の肖像画にいい顔をせず。肖像画の行方は不明だが、52年に工房で撮られた写真が残っている

l  ミケランジェロ
ミケランジェロの望みは自分の素描をすべて破棄することだったが、実際には600点ほど残っているのは、盗難や置忘れといった本人が防ぐことのできなかった事故によって破棄を免れたからで、多くは友人のヴァザーリが保管
ヴァザーリが素描をつぶさに調べ、仲間である他の芸術家たちが完成した絵画や彫刻にしたように、素描を読んだ”(解釈し、研究した)ことは画期的な事で、今日偉大な芸術家の素描を完成した絵画や彫刻と同じように収集することができるのはヴァザーリのお陰
1998年には「個人が所有するミケランジェロの最後の素描の1枚」と言われる《キリストとサマリアの女》がサザビーズで740万ドルで売却、2000年には《キリストの復活のための習作》がクリスティーズで1,300万ドルで売却
素描は、思考を表現したり、アイディアを試したり、芸術様式を発展させたりするのに利用され、芸術家の制作過程についての貴重な情報を提供。ヴァザーリはよく知っていた

第8章        覆い隠され、見出されたもの
アッシリアのキリスト教徒たちの巡礼地となった首都ニネヴェの教会と遺丘はモスクとして再建されたが、2014ISの破壊者によってモスクの脇に立つナビ・ユヌスの霊廟が爆破されると同時に、アッシリアの遺物も盗掘してブラックマーケットで売り払われている
遺跡の発掘により見出される遺物も、特に油絵は再利用されやすいため、単に画材を再利用するという理由で、作品が上書きされるケールが多い
l  マザッチオ《聖三位一体》
建造物の改築により壁画が失われる場合もある ⇒ ヴァザーリがフィレンツェのヴェッキオ宮殿にある広間を改築したケースが有名。レオナルドが既に一部完成させていた《アンギアーリの戦い》の上に新しいフレスコ画を描くよう依頼されたが、手前にもう1枚壁を作って壁画を描き、レオナルドの作品を保存したという説には裏付けがある。ヴァザーリは以前にもサンタ・マリア・ノヴェッラ教会で同じ手を使っていた
1568年コジモ1世が教会の改装を命じ、マザッチオの傑作《聖三位一体》ほか多くの貴重なフレスコ画の上にヴァザーリが《ロザリオの聖母》を描くことを望んだため、自らも称讃してやまない《聖三位一体》を残すために建築の知識をフルに生かしてフレスコ画の前にもう一枚壁を作ることによってフレスコ画を保存。1860年教会が改築された際上半分が壁の後ろから発見され、更に1世紀後下半分も発見され、全体の復元に成功。15世紀のイタリア絵画に多大な影響を与え、長らく失われていたと思われていたマザッチオの最も重要な絵画の1つが墓から掘り出された
《聖三位一体》は、着想と創意によって、美術史概論において研究された重要な作品の1つ。父と子と聖霊を一体であると同時に、それぞれ別の独立した存在として描くのは極めて難しい。神とキリストと聖霊は概念上は連続体だが、3つの異なる姿で描かなければならないからだ。マザッチオはそれぞれの姿を重ね合わせることで解決。十字架に架けられたキリストの真後ろに父なる神の姿を描き、2人の間に慣例通り鳩として表現された聖霊を父なる神の首元に描く。1428年完成し、フィレンツェの芸術家たちに多大な影響を与えた。視覚的、数学的革命とも言うべき一点透視画法をフィレンツェ・ルネサンス絵画の主流となる前にいち早く披露。直角に交わる線が強調され、見る者の視点がキリストの膝の辺りにある消失点に引き寄せられるようになっている。これは1420年代の終わりにおいて極めて斬新な技法

l  ラファエロ《ビッビエーナ枢機卿のストゥフェッタ》
漆喰に覆われて葬り去られた芸術作品は膨大な数に及ぶ ⇒ 宗教改革の時代、カルヴァン主義者たちは信仰の対象を人の姿で表すことに反対、カトリックの偶像崇拝的な装飾を破壊、顔のない彫像や漆喰で覆い隠されたフレスコ画を見ればわかる
ラファエロは、ビッビエーナ枢機卿(14701520)のヴァチカン宮殿の隣の「ビッビエーナ枢機卿のストゥフェッタ」と呼ばれた小さな浴室の壁にエロティックな場面を描くよう依頼される。教皇レオ10世の時代は見逃されていたが、信心深い教皇に代わって壁の絵も変わっていく。現在この浴室は公開されていない。漆喰で塗り潰された浴室が発見されたのは1869年。台所に改築されていたが、70年に浴室を含むヴァチカン宮殿の一部が教皇公邸になり今日に至っている

l  ネロの黄金宮殿
ラファエロが《ビッビエーナ枢機卿のストゥフェッタ》に取り入れた様式と主題は、近年になって発見された古代ローマの壁画を参考にしたもので、そのなかには埋もれていた皇帝ネロ(在位5468)の黄金宮殿の部屋を彩った壁画もあった
宮殿は、ネロの死後10年の間にめぼしい品は運び出され、流用され、フレスコ画も見捨てられた

l  サン・シルヴェストロ礼拝堂
ローマで最も有名で、最も保存状態の良い中世のフレスコ画の1つが聖シルヴェストロ礼拝堂の壁画(1250年頃)だが、更に興味深いの2002年まで6世紀にわたって青い漆喰で覆われた2階の部屋
1階のフレスコ画は、キリスト教に改宗し領地を教会に寄進した「コンスタンティヌスの寄進」の場面で政治的なメッセージを伝えるが、2階は同時期の制作とされるが、教会らしからぬ図像、世俗的な題材や異教的な題材もあって意表を突かれる

l  スロモヴィッチのコレクション
隠されていたために生き残った作品が墓から掘り起こされる物語は無数にある
1949年スロヴェニアの小さな教会の改装工事の際、数世紀にわたって壁を覆っていた漆喰が剥がれ落ち、ヨハネス・デ・カストゥオの壁画《死の舞踏》(1490年頃)が出現
ユーゴスラヴィア系ユダヤ人のエーリヒ・スロモヴィッチはパリの画商ヴォラールの後援を受け、600点の絵画を所蔵。1940年パリを脱出後ナチに逮捕、大量虐殺の犠牲となったが、パリの銀行の金庫に預けられていた190点は81年にオークションにかけられるも、所有権についてヴォラールの相続人と揉め、2010年ヴォラール側の所有権が認められ、オークションでは30百万ドルで落札。残りは生前ベオグラードに送られ親族が保管していたが、48年共産党政府によって強制的に回収され、ベオグラード国立美術館に保管

l  埋められた細部の発掘
現存する作品の隠されていた細部が発見されることもある
アーニョロ・ブロンツィアーノ(150372)の《愛の寓意》(1545年頃)は、セクシーすぎるとして美術館が刺激的な部分を修正させており、1980年漸く絵が元の姿を取り戻し、絵を正しく解釈することができるようになった
ハンス・ホルバイン(1497頃~1543)の有名な《大使たち》は、1891年ナショナル・ギャラリーの保存修復師による初の洗浄作業の結果、2人に隠された政治的メッセージがあまりに露骨だったために塗り潰されたものとされた
ケンブリッジ大学のフィッツウィリアム美術館に展示されているヘンドリク・ファン・アントニッセン(16051656)の《スヘフェニンゲンの砂丘の景色》(1641年頃)18世紀ごろ塗り潰された結果単なる風景画だったが、2014年洗浄したところ死んだ鯨が浜に打ち上げられた当時頻繁に報告されていた史実を記録したものと判明
ジャン・フランソワ・ミレー(181475)の失われた作品《バビロンのユダヤ人捕囚》(1848)X線によって発見 ⇒ ボストン美術館に所蔵されたミレーの作品《羊飼いの少女》(1870)を定期検査の一環でX線にかけたところ下から出てきた。ミレーは酷評された《バビロン》をしまい込んで再利用したものと推測
フランシスコ・ゴヤ(17461828)がナポレオンの兄でシチリア島の王でもあったジョゼフ・ナポレオンを描いた肖像画も、X線によってオランダのアムステルダム国立美術館に展示されていた《ドン・ラモン・サトゥーの肖像》(1823)の下から発見。ゴヤの場合は、政情不安定なスペインで、ボナパルト家の公式の肖像画家だったことを知られないよう意図的に隠したもののようで、作品が失われることで芸術家の命が救われた

l  ナビ・ユヌスの霊廟
2017年のISによるニネヴェ遺跡とナビ・ユヌス霊廟の破壊で、多くの遺物が略奪されたが、それでも手つかずで残っていた遺物もあり、思いもよらない発見に繋がっている

第9章        失われたのか、初めから存在していなかったのか
古代の作家が関わった作品や記述には、不正確なものや捏造されたものがある
バビロンの空中庭園も、バビロンではなくニネヴェの可能性が高い
トロイアという場所やトロイア戦争についても、ホメロスの詩によって伝えられてきたが、裏付けとなる証拠がないため、啓蒙思想家たちはギリシャ神話のような伝説だと主張
l  失われた都市
都市は自然災害(ポンペイ)、火災(ローマ)、偶像破壊(ニムルド、パルミラ)、戦争(カルタゴ、ドレスデン)等によって失われるが、再建される場合も、そのまま失われてしまう場合もある
完全に消滅しない場合もあるが、メキシコやエジプトの奥地では、地元の人々の記憶にすら残らないこともある ⇒ 1990年代から考古学者の探査によりユカタン半島北部の森林地帯で失われたマヤの都市80か所以上を発見、エジプトでも衛星写真やソフトウェアを使ってピラミッド数基と数千に及ぶ墓と集落を発見

l  エル・ドラードとアトランティス
黄金の都市エル・ドラードは、スペインの征服者たちが目にして周りに語った話が大きくなって伝説となったと思われるが、その話が1520年頃パリメ湖の畔にあると言われていた黄金都市マノアの探索に結び付き、16世紀後半から19世紀に入るまで行われた
失われた都市アトランティスも、プラトンの対話篇『ティマイオス』(年代不詳)の中で、国民国家の驕りを表す寓話として初めて登場したが、人々は探し続けた。アテナイによって海底に沈められ滅亡。プラトンの著作のほとんどが寓話であることを考えると、アトランティスの実在は考えづらいが、1617世紀の知識人の創造力を掻き立て、19世紀の小説でさらに加速、1870年ジュール・ヴェルヌの小説『海底2万マイル』で人々は実在を信じ込まされた
2015年ギリシャ文化省は、アテネ南部キラダ湾沖で、初期青銅器時代(BC3000)12エーカーに及ぶ都市を発見したと発表したところから、プラトンの寓話は彼の時代よりもずっと前に失われた、こうした実在の都市から着想を得ていたのかもしれない

l  失われた建造物 クノッソスの迷宮
神話的な歴史に登場する建物や建造物が、口伝から成長して伝説となり、繰り返し語られることによって事実になることもあり得るが、裏付けがなければまた神話に戻る
ギリシャ神話で登場するクレタ島のミノス王の妻が牝牛と交わって生まれた半人半牛のミノタウロスが閉じ込められたという洞窟の候補の1つがクノッソスの迷宮
クノッソスの青銅器時代の宮殿は19世紀の終わりに発見され、1900年に英考古学者エヴァンズによって体系的な発掘が開始され、複雑に入り組んで迷宮そのものだったため、こここそ伝説の迷宮だと考え、多くの観光客を呼んだ
2009年クレタ島南部ゴルティナ付近の古代の石切場で発掘された全長4㎞のトンネルも伝説発祥の地と信じられており、1219世紀に多くの観光客が訪れたが、クノッソスが発見されると観光客はクノッソスに集まるようになり、どちらが本物か、あるいは初めから存在していなかったか、謎のまま

l  バビロンの空中庭園
現在のイラクでは、文書史料は存在していないため伝説と考えられている
紀元前1世紀ごろの作家が記述しているが、どこまで実在を確認したのかは不明
バビロンの北160㎞ニネヴェの庭園と混同されているとの説も

l  アーサー王のキャメロット城
神話的な歴史に登場するブリトン人の王アーサーの王国も伝説の1
『ブリトン人の歴史』(828年頃)はアーサー王に関する最古の文書、アーサーが1人で960人の敵を討ったと記載されるが事実とは思えない
イギリス人の誇りを語るうえで不可欠な物語であり、キャメロット城のモデルもいくつも候補があるが、何一つ実在を証明する有益な情報はない

l  宗教的な遺物
失われた遺物にも同じことがいえる ⇒ 1113世紀の十字軍の影響で遺物の取引が活発化したが、真偽の怪しいものがいくつもあるが、偽物ということが判明してもなお巡礼者の途絶えることがない遺物もあり、信仰や自分の信念を裏付ける確かな証拠が欲しいという気持ちは、事実よりも強い
聖書の記述の多くは曖昧で、明らかに誇張されたり、あまりに詩的過ぎて詳細を知るには不向きだったりする場合がある
キリストが最後の晩餐で使い、十字架に架けられた際にその血を受けるのに使われたとされる聖杯は、中世の騎士道物語の創作で、1190年ンフランスの詩人クレティアン・ド・トロワの叙事詩『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』の中で初めて言及された。聖書では触れられてさえいない

l  非宗教的な遺物
偉人の非宗教的遺物も、時の経過とともに、忘却の彼方へと消えていくことがある
ダ・ヴィンチの失われた作品《メドゥーサの盾》は独自に考えた怪物の絵だったが、多くの芸術家に影響を与え、その作品を主題にして作品を作る芸術家が相次ぎ、なかでも有名なのはカラヴァッジオの2つの盾

l  日本の三種の神器
日本の三種(みくさ)の宝物(たから)に関しても実在については議論があり、信じるかどうかは人それぞれ ⇒ 喪失と発見にまつわる話はいろいろと伝わるが真実は定かではない

l  トロイア
多くの人が、既に知られている遺跡の中にトロイアがあると考えており、1822年にはチャールズ・マクラーレンが最も可能性の高い候補として、ガリポリ半島の向かいにある、トルコ本土のヒッサリクの丘に目星をつけ、イギリスのアマチュア考古学者が1864年発掘開始、後にトロイアの発見者として世に知られたシュリーマンもヒッサリクの丘こそトロイアだと確信して1871年発掘開始し、73年にはホメロスの記述にあった門を発見したと発表
トロイアの発見は偉業ではあったが、失われた都市はいくつもあって、どれがホメロスの叙事詩に登場するトロイアなのか、はたまた実在したのかどうかすらわからず、シュリーマンの発見も他の都市の破壊の上に実現したものだと非難さえされた ⇒ 1998年ユネスコの世界遺産に登録されいまなお発掘が続く
シュリーマンによって発掘され海外に持ち出されたトロイアの財宝とされるものは、ナチによって隠匿され、赤軍に略奪され、再び失われた。ロシアはナチによってもたらされた莫大な物的人的損害を、略奪した美術品で補償することを検討しており、1998年には第2次大戦中のドイツでの略奪行為を合法化する法案が可決された

おわりに
l  失われたとは、まだ見つかっていないということ
ユタ州のグレートソルト湖岸にある彫刻家スミッソン(193873)の《スパイラル・ジェティ》は、土と水、雪のように散った塩の結晶、6650tの玄武岩などで構成されたシダの巻き髭の様に見える全長約460m、幅4.6mで、失われることを前提に作られた作品
1999年ディア芸術財団に寄付された年には、湖の水位が上がり水没、数年後に水位が下がると30年ぶりに姿を現した。定期的に手を入れれば保存も可能かもしれないが、作者は自然の流れに委ねるべきとした

l  失われた方がいい作品もある?
フランツ・カフカ(18831924)は、自分の死後未発表の作品は全て焼き捨てて欲しいと遺言を残したが、遺作管理者は遺言を無視して、傑作とされる『審判』『城』『失踪者(アメリカ)』など人類に素晴らしい財産を残す。生前から遺言を実行するつもりはないと伝えていたとして自分の決断を正当化。管理していない作品もたくさんあり、1933年にはゲシュタポがカフカの恋人から20冊ほどのノートを押収、破棄されたものと思われるが、他にもどこかから出てくる可能性はまだ残されている
カフカの場合は、危うく失われるところだった作品の出版が彼を文学界の頂点へと押し上げたが、『アラバマ物語』のハーパー・リーの場合は、それ以前に描いて埋もれていた小説がその後発表されベストセラーにはなったものの評論家にもファンにも酷評され名声に傷をつけた。彼女の遺産を守るためには失われたままでいた方がよかったのかもしれない

l  失われた芸術作品は複製できるか
「ニュー・レンブラント・プロジェクト」はデルフト工科大学、マウリッツハイス美術館、マイクロソフトなどの協力で、レンブラントの画風をデジタルで再現し、新たな絵画を制作するプロジェクト。2016年レンブラントの全作品の中から採取した168,263の断片を基に、ディープ・ラーニング・アルゴリズムと顔認識技術を駆使して描かれ、148百万以上の画素数で構成、美術評論家や美術史家を唸らせた
架空の作品を生み出す技術は、失われた作品にも応用可能
ISによって破壊された12点の遺物を3Dプリントで復元・展示されているが、複製は本物の代わりにはなれない。そこには魂がこもっていないから

l  見落とされてきたもの
本書で見落とされたものや、辿った運命が未だにわからないものも無数にある
リチャード・セラ(1938)の《傾いた弧》(1981)は、「美術を建築に」政策の一環として依頼され、マンハッタンのジェイコブ・K・ジャビッツ連邦ビル前広場に設置されたが、全長37m、高さ3.7mのコルテン鋼の板金は壁となって広場の通行を邪魔したために裁判に発展、作者は設置場所こそが重要だと主張、キース・ヘリングなどアーティストたちが他のアーティストの作品を守るために闘った画期的な事件となった。5人の陪審による評決は41で撤去となり89年に解体・撤去された。作者が保管しているが今後公開のつもりはないという
日本の五郎入道正宗(12641643)の名刀にまつわる言い伝えも謎めいた失われた芸術作品の物語の1つ ⇒ 史上屈指の名刀と言われる《本庄正宗》の号は、上杉謙信の家臣、本庄繁長(15401614)に由来。戦利品として獲得した本庄が豊臣秀次に売ったとされ、その後何人もの手を経て徳川将軍家の所有となる。判明している最後の所有者は徳川家正(18841963)1939年国宝に指定。戦後家正は正宗を含む15振りを警察に提出したが、連合軍を名乗る将校らしき人が持ち去って以降どれも見つかっていない

l  見つかる日を信じて
作品が失われた要因によっては、再度目にできるとの楽観が許される場合もある
盗難の場合に多く、損傷や破壊よりはまだ救いがある
2017年ニューメキシコのエステートセール(遺品や引っ越しの際の財産の一括処分)で購入した絵が、1985年にアリゾナ大学美術館から盗まれたウィレム・デ・クーニング(190497)の《黄土色の女》と判明し元の美術館に戻されたが、1億ドル以上の価値ある絵が片田舎に埋もれていた
芸術を守り、保全しないではいられない多くの人たちが命を賭して芸術作品を守り、取り戻してきた。偶像破壊の中で芸術を守って闘った兵士たち、燃え盛る中を飛び込んで絵を救出した人々、第2次大戦中のモニュメンツ・メンの様に命を持たない美術品を救うために全力を尽くしたり、芸術が人間の生活の中で果たしてきた役割を思えば、決して不自然な話ではない

l  パフォーマンスとして失われる芸術作品
芸術作品と同様、芸術家自身も失われている
ジョルジョーネが32歳で、ラファエロが37歳で夭折していなかったら、どれだけの傑作を描いていただろう。ベラスケスが社会的地位を保つために芸術を趣味に格下げするような宮廷の仕事に精を出していなかったら、どれだけの時間を有意義に使えただろう
オランダのコンセプチュアル・アーティストのバス・ヤン・アデル(194275)751人グッピー13と呼ばれる4mのヨットに乗ってケープコッドを出発、大西洋を渡ってイギリスを目指す予定だったが、この航海は《奇跡的なるものを求めて》というパフォーマンス・アートとして行われた。パフォーマンスの中心となる要素は2.5か月に及ぶ航海だったが、3週間後に無線が途絶え、10か月後にアイルランド沖でヨットが無人で発見、アデルは溺死と推定されているが、彼の目的は自殺か究極の"失われた芸術作品を創り出そうとしたのか不明

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はじめに(仏文学者/作家・鹿島茂)
このたび、出版不況に関して考えるところありまして、インターネット書評無料閲覧サイト「オール・レビューズ」を立ち上げることになりました。
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20177月好日 鹿島茂
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20194月にパリのノートルダム大聖堂で起こった火災事件は、記憶に新しいのではないでしょうか。価値あるものとして大切にされてきた美術作品でも、火事、戦争、水害、盗難などで、あっという間になくなってしまうのです。あまりに脆い人類の宝の運命をつづったノンフィクション、『失われた芸術作品の記憶』の著者はしがきの一部を特別公開します。
芸術作品は永遠ではない
失われた芸術作品を集めた美術館があったら、そこには、膨大な数の傑作が収められることになるだろう。世界中の美術館が所蔵するすべての作品を合わせても、その数には遠く及ばないはずだ。
ローマの財宝やアレクサンドリア図書館、宗教改革で破壊された宗教芸術、イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館の盗難事件で盗まれた傑作の数々、イラク国立博物館や、膨大な数に及ぶ古代遺跡から略奪された美術品、過激派組織ISによって破壊された古代の建造物や彫像、ナチによって奪われた数々の財宝、現代になって盗まれたり、隠されたり、破壊されたりして失われた、おびただしい数の美術品。これらに思いを馳せると、人類の宝ともいえる芸術作品がいかに脆く儚いものか、痛感させられる。
人類が生み出した素晴らしい美術品の多くは盗難や破壊行為、偶像破壊、災難、故意や不注意による破壊等によって失われている。窃盗団の手に渡ったものは、未だに行方がわからないものも多い。
ドラマチックな捜査の果てに取り戻されたものも、わずかにあるが。どんなものが、どういう理由で失われたのか調べることは、今後どうすれば最良の形で芸術作品を保存することができるのかを考えていくことに役立つ。
また、数千年にわたる人類の創造の歴史を奇跡的に生き残ってきた数少ない作品が、いかに脆い存在であるかを知り、今ここにある芸術作品を大切にしていく上でも、重要である。ただし、生き残ってきたからといって、必ずしもそれが、発表された当時、重要で影響力のある芸術品だったとは限らない。逆に、不運にも人の手や自然の力によって失われたり、破壊されたりしたからといって、美術史上価値のない作品というわけではない。
作品が現存することは奇跡
近代以前(1750年頃に起こった産業革命以前)の芸術家についていえば、現存し、その在りかがわかっている作品はほんの一部にすぎない。
例えばレオナルド・ダ・ヴィンチの場合、現代以降に書かれた文献で、彼の作品として言及されている絵画はおよそ15点だが、消息がわかっているものは3分の1程度にすぎず、少なくとも8点は失われている。
カラヴァッジオの場合は、本人の作品であることを証明する何らかの記録が存在する絵画は約40点あり(レオナルド・ダ・ヴィンチの場合と同様、その数は研究者によって異なる)、8点から115点程度(はっきりとした数はわかっていない)失われている。
その他にも、アテネの彫刻家ペイディアス、ヴェネツィアの画家ジョルジョーネ、ドイツの画家、版画家デューラーといった巨匠たちの作品が破壊されたり、盗まれたり、単に紛失されたりして、数多く失われていることは、研究者の間では周知の事実である。
こうした失われた作品は、当時はいずれも現存するものに負けないほど有名な作品ばかりで、美術史に埋めがたい穴を開けている。レオナルド・ダ・ヴィンチの偉大な彫刻、《スフォルツァ騎馬像》が現存していれば、《モナ・リザ》と並ぶ傑作として扱われていただろう。ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの《正義の図》も、当時は、代表作といわれる《十字架降下》(現在はスペインのプラド美術館で展示されている)よりも有名だった。
焼失したピカソの《ドラ・マールの肖像》も《マリー・テレーズの肖像》の隣に展示されていただろうし、《ラオコーン群像》のブロンズ製のオリジナルも、ローマで発見された大理石の複製(現在、ヴァチカン美術館の特等席に展示されている)よりもずっと高く評価されていたはずだ。
このように、失われた作品は、在りし日が現存するものよりも評価され、世に知られていたものばかりだったということは多々ある。しかしわたしたちの芸術観は偏見に歪められ、現在見ることのできる作品をどうしても評価しがちだ。
芸術作品はときに1枚の紙のように儚く、降りかかる数々の危険を乗り越えて生き残ることは奇跡とも言えるが、本書のねらいは、この偏見を正して、現存する作品を改めて評価し直し、失われた作品の記憶を取り戻して保存することである。
本書で取り上げる作品は、単に世間の目を引きそうだからとか、巨匠と呼ばれる芸術家の失われた(あるいはほとんど失われた)作品だからとか、一癖も二癖もある登場人物や、どんでん返しが楽しめる面白い裏話があるからといった理由で選んだわけではない。ここで取り上げる作品が、今までにない美術史をわたしたちに見せてくれるからだ。
今日、美術史で主に取り上げられるのは、すでにさんざん説明され、議論され尽くした200点程度の現存する作品ばかりである。だが先に記したように、かつて存在するも失われた芸術作品の数々は、いまは違っても、その当時は現存する作品に負けず劣らず重要で、高く評価されていた。
以下の章では、いかに多くの素晴らしい作品が失われたかについて述べるにとどまらず、ためになり、美術史に対する理解も深まるような、作品の背景にある物語にも触れていきたい。
忘れられてきた芸術作品について語ろう
失われた芸術作品を列挙する行為は、戦いの後に記念碑に刻まれた死者の名を読み上げるようなものかもしれない。実際のところ、かなり似ている。死者の名前は、その人間の人生の代用語として働き、もういないからというだけの理由で、簡単に忘れさられるべきではないその人の生涯の物語を想起させてくれる。絵画や彫刻、建築物といった芸術作品にも同じことがいえるだろう。
どの作品も、目的があって制作され、数えきれないほどの人の手を渡って、大勢の人々に愛でられ、賞賛の目を注がれてきた。ときには嫌われ、罵られることさえあっただろう。ときには穏やかな、ときには絶大な影響力を持つこともあった(ミケランジェロの《ダヴィデ像》のような公共の彫刻がいい例だ)。ときに熱狂をかき立てることもあっただろう。
4章で取り上げる偶像破壊の首謀者サヴォナローラは、15世紀のフィレンツェ芸術を目の敵にして、1497年の〝虚栄の焼却〟で燃やしてしまった。そして、ときには愛情をかき立てた。アダム・ワースが、トマス・ゲインズバラの《デヴォンシャー公爵夫人、ジョージアナの肖像》(1787年)を盗んで手元に置いていたのは、その絵が自分を捨てて他の男に走った、最愛の恋人に似ていたからだといわれている。
本書では、他の本がすでにこの世を去った人々の歴史について語るように、失われた芸術作品を蘇らせて、一部については軽く触れ、いくつかの作品については背景の物語を深く掘り下げて紹介していきたい。もう存在しない者たちにも語るべき物語があるからだ。そして、不当に見過ごされ、忘れられてきた彼らの物語を思い起こすことは、大事なことだからだ。

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