闘う文豪とナチス・ドイツ  池内紀  2017.12.27.

2017.12.27. 闘う文豪とナチス・ドイツ トーマス・マンの亡命日記

著者 池内紀 1940年姫路市生まれ。ドイツ文学者。エッセイスト

発行日           2017.8.25. 発行     
発行所           中央公論新社(中公新書)

大作『ブッデンブローク家の人々』で若くして名声を獲得し、54歳でノーベル文学賞を受賞したドイツ人作家トーマス・マン。だが、ファシズム台頭で運命は暗転する。体制に批判的なマンをナチスは国外追放に。以降、アメリカを主な拠点に、講演やラジオ放送を通じてヒトラー打倒を訴え続け、その亡命生活は20年近くに及んだ。激動の時代を、マンはどう見つめ、記録したか。残された浩瀚(こうかん)な日記から浮かび上がる闘いの軌跡
  

はじめに
日記の始まりは1933.3.15. 「(前夜)、意外なほどぐっすり眠れた」で書き出す
ヒトラーが政権に就いた直後であり、ミュンヘン大学で講演し、ヒトラーによるリヒャルト・ヴァーグナー偶像化を痛烈に批判した翌日、オランダへの短期講演旅行に出たとこを狙って、ナチ党幹部がマンの帰国差し止めを通告、突然身一つで国外に放り出された
1か月以上のホテル生活が続いたところで日記が始まる
とりわけマンを悩ませ、苦しめていたのがミュンヘンに残してきた古い日記で、妻でさえ中身を知らない私的な記録。その後何とか取り戻し、12年後に自身の手で焼却された
1933.3.15.に始まる新しい日記は、古い日記をめぐる一件の上に成立したことは確かで、より強く意識して書かれたはず ⇒ 2度にわたり封印。最初は51年までの日記で、本人によれば文学的価値皆無で、死後20年は開封を禁じている。死後の公刊をはっきり意識しての処置。2度目は55年のマンの死後娘によって追加部分も含め75年以降開封として封印
解禁の時が来て封が切られ、77年『トーマス・マン全集』の出版社によって第1巻刊行、その8年後に最初の日本語訳が出る。日本語版全10巻の完成は39年後で総頁数1万超

I
Ø  クヌート・ハムスンの場合
ノルウェーの作家ハムスンは1920年ノーベル賞授与。若い頃からマンが愛読、大きな影響を受ける
ハムスンが33年政権を取ったヒトラーに対し強烈な連帯のメッセージを送ったときは、さして驚かず、気にも留めていなかった ⇒ 国民社会主義やフューラー(指導者)への信頼と服従による指導者原理に基づくナチス的原理は20世紀の福音のように思えたはず
平和主義の論客として知られナチスによって強制収容所に収容されたオシエツキーへのノーベル平和賞の提案に対しハムスンは反対意見を述べたが、マンはドイツの再生に反対する言動としてオシエツキーを批判。一方ハムスンは世界中のジャーナリズムからこぞって批判され、あっさりと前言を撤回するが、マンは以後も作家としてのハムスンへの愛着は変わらなかった
ハムスンに言及するのは、戦争犯罪を裁いたオスロの法廷でファシズムへの協力の罪で訴追された際の様子に触れたくだりだけ。ハムスンは、老齢のため罰金刑だけで釈放

Ø  レマルクのこと
亡命生活では「真のドイツ」を代表すると見做されて、スイスでもアメリカでも歓迎され、数多くの人との交流があり、日記に記されるべき催しも多かった
特に、同じドイツからの亡命者たちを注意深く眺めていた ⇒ 亡命者のことは亡命者にしかわからない
4年前に『西部戦線異状なし』でデビューしたレマルクに関する記述は1か月後の4月から始まる ⇒ 失意の亡命者マンを慰めるパーティで同席。レマルクは既に買っていたスイスの別荘で第2の生活をしていた
ゲッペルスが、マンに対し帰国するよう執拗に使者を送ってきたため、アメリカに亡命
レマルクも帰国を拒絶したため、ドイツ国籍が剥奪され、39年アメリカに亡命
39年のマンの日記では、アメリカでレマルクとその不倫相手だった女優のディートリヒと再会、「劣等感に付きまとわれている感じ」と記載
レマルクの小説はほぼすべて映画化され、優雅に亡命生活を送るが、マンは人からレマルクが「マンを憎んでいる」と聞かされ、何の接点もないレマルクがどうして自分を憎むのかと疑問を抱く ⇒ 富にのみ恵まれた作家の内面を手に取るように見通していた

Ø  リトマス試験紙
ヴァーグナーの心酔者だったマンにとって、自分たちの精神的先駆者として見境なく濫用するナチス党は許せなかったが、亡命直後に自分の『ワーグナー論』が批判され、それに知人友人がこぞって署名しているのを聞かされて激しいショックを受ける
3339年の記述にワーグナー関係の記述が多いのは、それがアイロニーに満ちた識別用試験紙の効用を帯びていたから
ブルーノ・ヴァルター派曲目への介入に異議を唱えてポストを失い、そのあとをリヒャルト・シュトラウスがいそいそとあと釜に就いた。トスカニーニは《マイスタージンガー》の指揮を拒否し、フルトヴェングラーは受け入れた
「垢にまみれてしまった神話。堕落したロマン主義と、けちな毒を含んだ小市民的怨念。芸術の領域での英雄はヴァーグナーというわけだ」(334) ⇒ その後も繰り返しワーグナーを取り上げ、その実態を暴くことによって、虚飾された当の相手の実態を突くことができると考えた
「バイロイトから《ローエングリン》の終曲を聴く。洗練された要素と灰色の要素とのおぞましい混淆」(37.7.) ⇒ 亡命先でラジオを聞き、会場の最上席を埋めた異様な褐色の制服集団を考えると、これ以上ないほど正確にバイロイトの実態を語っている

Ø  プリングスハイム家
妻の実家でミュンヘンのブルジョア、マジョリカ焼きのコレクションは世界的一級品で、邸宅がすぐに接収され、国外脱出を助言するも老夫婦は踏ん切りがつかないままに、旅券を没収され、コレクションを競売にかけ3/4を国家に供出すれば出国許可を与えるとされたが、スイスに出国後まもなく夫婦とも死去
マン夫人の双子の兄クラウスは、31年来日し、上野の音楽学校、武蔵野音大教授を務めた

Ø  二・二六事件
ドイツ国籍を剥奪されたマンはチェコ国籍を取得
二・二六事件のニュースに言及、「帝国主義的国民主義、社会主義による権力掌握」との記載あり、4日間の様子を追う ⇒ クラウスの訪日で、特別日本に関心があり、安否を気遣うこともさることながら、日記の筆致はナチスに対するものと同じであり、マンの時代に対する嗅覚の鋭さを表わす

Ø  2つの喜劇
36年末ドイツ国籍剥奪の結果として、ボン大学は自ら申し出て授与した名誉博士号を剥奪
36年の日記では、ルーマニアで、マンの剽窃が喧伝された ⇒ 事実の捏造はナチスの常套手段

II
Ø  大戦勃発の前後
396月大戦勃発直前、長編『ワイマールのロッテ』が大詰めを迎えた頃、初秋の重大な危機発生を予測しながらも『ロッテ』を決定的に書かい進めるためもあって、ヨーロッパ旅行に出発
突然飛び込んできた独ソ不可侵条約締結を「独露の大博打」と表現、ゲッペルスの思い付きではないかと分析
ドイツのポーランド併合のニュースにも、平常に戻って『ロッテ』を書き継ぎ、ストックホルムでの市長主催の朝食会では「事態の好転」を願って乾杯 ⇒ 同じく亡命生活にあったブレヒト夫妻と同席、その後も何度か邂逅したが、両者の交わりは冷やかなまま終わっている
93日の英仏の対独宣戦布告については、簡明に「運命がその歩みを始めた」と書きつけているのみ。避難民でごった返すアメリカ船を手配して帰米。「アメリカはもしかすると、私の余生の運命の故郷、危急の時の故郷になるかもしれない」との記載

Ø  ドイツ軍、パリ入場
404月独軍の西部侵攻開始のニュースに気が動転したのか日付を1日間違えている
ラジオのニュースに不快感を催し、「戦況はほとんど壊滅的状態」と、この時期の記述はとりわけ息苦しく、深い苦悩が記される
524日第2次大戦最大の謎であるヒトラーの2日間の停戦命令によって、ダンケルクに追い詰められたイギリス軍が脱出に成功、本土に集結して闘いを継続するという「奇跡」が起きた
61日になってダンケルクからの栄光ある撤退を知りやや愁眉を開いた後、当時無名に近かったカフカの長編『城』(作者の死後2年の26年出版)のアメリカ版の序文を頼まれ目を通す
期待されたアメリカの慎重すぎる対応に失望し、「私はこの国を信じていない。他の文明諸国と同じように土台が崩壊しかけている」としてペシミズムに貫かれている

Ø  転換の年
415月ヘスのイギリス行きという政治的センセーションを取り上げる。マンはかねてよりヘスの人間性に興味を持っていたようで、No.3の地位にいながら野心がなく、政権が生み出した暴力や腐敗にも手を染めていないヘスを「間違いなく悪くない人物、比較的純粋な人物」とのドイツ国民の評価を支持
6月の独軍のソ連侵攻で第1次大戦同様の二正面作戦という致命的ミスを犯したと言えないか、と予測 ⇒ ヘス事件を転換点として、ペシミズムの色濃い記述が目に見えて減っていく
ヘスは、和平のための行動が評価され終身刑となるが、ソ連の反対で恩赦の対象とならず、40年拘束の後、謎の縊死を遂げる

Ø  奇妙な状況
424月新しいノートに4か月ぶりで日記をつけ始める
真珠湾攻撃については、「黄色い連中がいかに巧みに準備をしていたか」と記載
戦争の先行きを、「向こう2,3年の内には、枢軸側は準備と実戦経験において、今は有利に立っているが、消耗し、やがて追いつかれ追い越される」と正確に予測
戦争は徐々に「奇妙な状況」に陥ってきた ⇒ モスクワ攻略の明らかな失敗による未曽有の損害のあと4月にはヒトラーに無制限の権能を認める演説が行われ、東部戦線のみが動いていて西部は静まり返っている。アメリカがヒトラーを防共に利用しようとしているのをヒトラーも読んだうえで東部戦線に集中。決定的な世界史的事件が次々と起きているのに、戦線の状況は変わらず、越年する

Ø  ホモ・ポリティックス
マンが親しく付き合っていた同じ亡命のドイツの著名作家ヴェルフェルが、マンの平和運動展開を侮辱するような言動をしたので激しく避難
Ø  マンは、リベラリズムの立場から論陣に加わっているが、ナチはホモ・ポリティックス
(政治的人間)の危険性をよく知っているので、すぐにブラックリストに入れた
ただ、マン自身は必ずしも主義主張を明確にせず、時代の中で絶えず微妙に発言を変えた

Ø  ツヴァイクの場合
422月ツヴァイク夫妻が亡命先のブラジルで自殺した驚き、ニューヨークの雑誌から求められて死を悼むメッセージを送っている ⇒ 「天与の才能に恵まれながら、時代の圧力に抵抗して生きるだけの逞しいものではなかったことは悲しい」としつつ、「甘やかされた弱い男のバカな死に方」と明言。それほど両大戦間の最も「成功した作家」の1人で恵まれていると思われていたツヴァイクの自殺は亡命者たちにショックを与えた
ツヴァイクは、祖父の代で縁が切れていたはずと思っていたのに、35年のニュルンベルク法でユダヤ人と見做され、さらに3年はなお祖国に留まって(自分はドイツ人であるとの)幻想を抱き続け、最後の最後に亡命、途方に暮れた末の自殺だったのではないか

Ø  立ち襟と革ジャン
413月プリンストンからパシフィック・パリセイズへ引っ越し、ブレヒトも33年に亡命の後41年サンタモニカに居を構えるほか、ヴェルフェルなど多くの亡命者たちがロス周辺に多く在住
マンとブレヒトは、敬意はあっても、自分とは相容れない人物と、双方が見ていた「冷やかな関係」というのが通説。両者の違いは服装に最も端的に現れる。非の打ち所のないマンに対しブレヒトは粗野
438月ドイツに強力な民主主義体制を打ち立てることに賛同する亡命者声明の件でマン、ブレヒト他が議論するがブレヒトの反対で議論がまとまらず、直後にFBIの職員の訪問を受ける
ブレヒトにとってマンは、鼻持ちならない保守タイプで、「立て襟」のあだ名で呼んでいたが、それを耳にしたマンの日記での黙殺の度合いが、傷ついた自尊心と、アウトロー的革ジャンへの嫌悪の深さを示している

III
Ø  封印の仕方
423月英空軍がリューベックを爆撃 ⇒ マン家の出身地であり、『ブッデンブローク』ほかの作品の舞台でもあり、BBCから故郷についてのメッセージを求められたが、報復合戦の悪夢を情緒を介在させずに淡々と書いている

Ø  「白バラ」をめぐって
マン商会の破産後逃げるようにして移ったミュンヘンが第2の故郷となったが、ヒトラーの政権奪取後はナチ党発足の都市として鉤十字と褐色の制服一色の都市となった
それだけに426月に始まった「白バラ」の抵抗運動の悲劇は、マンの心を痛めた
マンは知るべくもなかったが、ドイツ統一後公開されたゲシュタポの尋問調書によれば、尋問した事務官が何とか命だけは助かるよう3度も助け船を出したが、ゾフィーはいずれも断って、ただ1つ家主が熱心なナチ支持者で出産間近の娘がいるので、「気持ちを高ぶらせ」ないやり方で自分たちのことを伝えてほしい、と頼んだという

Ø  ゲッペルスの演説
432月ゲッペルスが「歴史に残る大演説」を行い、ヒトラー侵攻を修復し、崩壊しかかっていたナチス体制を補強、「総力戦」「国民総動員」を時代の言葉にした
33年新設の国民啓蒙宣伝省の初代大臣に任命されたゲッペルスは、終極の勝利などより自分の演説の力を信じ、その演説はなお2年余り続く総力戦への大きなバネとなったが、当日のマンの日記にでは「アジ演説」として無視

Ø  『ファウストゥス博士』の誕生
433月の日記に、「古い短編小説プラン『ドクター・ファウスト』を想起」とあり、晩年の大作『ファウストゥス博士』に繋がる予感に似た何かが、まるで悪魔のささやきのように誘いかけた ⇒ 1904年に覚書ノートに書きつけたもの

Ø  終わりの始まり
447月ヒトラー暗殺未遂事件 ⇒ マンがニュースを聞いて「終わりの始まり」と評
8月の日記を心の弾む情報で締めくくる ⇒ 「英軍関係者によると、ヨーロッパの戦争は35日で決着がつくかもしれないと。アイクは繰り返し今年中の戦争終結を予告」

Ø  噂の真相
マンがどうしても譲らなかった原則の一つが毎日書くこと ⇒ 先ず執筆中の小説の経過、次いで体調、家族のこと、その後が新聞であり、彼の日記がドキュメントとして並外れて優れているのはこの最後の部分
9月の日記には、ドイツの特殊潜航艇に関するニュースと、東京に拠点を移したヒトラーらによる南米のファシズム革命という2つの奇妙な記述がある

Ø  終わりと始まり
ベルリン陥落の頃、マンは長編『ファウストゥス博士』に苦心
52日は午前も午後も戦争情報局のための強制収容所に関する論説を書き進める ⇒ 国民の全てが共犯の罪を背負うことをまずアピール
ドイツの中で、ナチの跳梁を認めたことこそが第1級の犯罪行為であり、それを認めることから始めなければならないとして、ドイツへの新しい呼びかけを書き始める
ナチ体制の崩壊とともに、「共犯の罪」が語られることをマンは待ち、期待していた
高級ナチの自殺などの記録を克明に記載するが、ナチス思想を否定するどんな声も、90%を超える国民投票で歓呼して迎えた罪を認めるどんな言葉も聞かれないことに苛立つ

IV
Ø  ニュルンベルク裁判
4511月国際軍事裁判の開始に当たり、アメリカの新聞社から意見を求められ、「ドイツ国民には内側からの自浄が出来なかったからには、国際裁判という措置は、「罪と共同の罪を自らを消化する¥私たちの時代全体の試み」とみることができる所から、政治・軍事以外のナチズムに肩入れした知識階級、イデオロギーに奉仕した者たち、ナチス法廷を取り仕切った裁判官なども戦争犯罪人として罰せられてしかるべき」と、婉曲的な述べ方で応えている
マンの言明が火付け役となって、公開書簡の形でマンを非難する攻撃的な発言が飛び交うが、時を同じくして肺浸潤を発症、2か月近くも1行も記されていない

Ø  父と子
49年長男クラウス自殺 ⇒ マンにとって自殺は、「人を傷つけるもの、美しくなく、残酷で、配慮のない、責任のないもの」だったが、将来を嘱望された作家で、マンにとってのヨーロッパ通信員として活躍したが、終生偉大な父親が重荷となっていたこと
マン自身が文学化したホテルのボーイに寄せた熱い情熱を、マンは作品の中で永遠化して私生活には寄せ付けなかったが、息子は迂闊にも巻き込まれ、死を選んだ理由の1つに数えられる
日付けのないクラウスのメモに、「偉大な男は息子など持つべきではない」とある

Ø  再度の亡命
1930年代のアメリカで、相次いで写真雑誌が創刊され、写真が強力な情報メディアとして登場 ⇒ 『ライフ』は主として世界の強国としての合衆国をテーマとした
マンと『ライフ』の関わりは36年の創刊当初からあったが、雲行きが変化するのは、『ライフ』が醜いアメリカ人を取り上げ始めたころから ⇒ 『ライフ』が赤狩りの先兵役の姿勢を見せ始めた
50年マッカーシー旋風が荒れくるう模様に、マンは33年のドイツを思い重ね、彼らの跳梁を書き留めつつアメリカを離れなかった。そんな中で低俗メディアによるマンの共産主義に対する「共感と尊敬」を浮き立たせる記事が掲載
51年ローゼンバーグ夫妻死刑判決 ⇒ 原子力の詳細を同盟国ロシアに伝えた罪
52年娘と「将来計画」を話し合った記述があり、行く先も決めていたのだろうが、さしあたりスイスに落ち着くも、アメリカの大統領選挙の報道は当時始まったテレビで冷静に判断
マッカーシーは民主党ライバルを「赤シンパ」と攻撃して当選するが、選挙後に自らの「午餐会」の模様を放映し、がなり立てる醜悪な上院議員を見て急速に民衆の支持を失いマッカーシズムは沈下、54年に上院の譴責決議を受け事実上の政治生命を絶たれる

Ø  「正装」の人
20世紀にあって、マンほど多くの写真になった作家は珍しい ⇒ 10代のデビュー以来、絶えずニュースの種になり、そのたびに写真入りで報道された
書斎でも常に正装
マンは、ブームになる前のカフカを知っていたが、ブームはたいてい間もなくウソのように収束するもので、戦後、半神のように崇められていた反ナチズムの作家マンに対して、死後20年にもなる無名作家カフカは、輝く太陽の中の1点のシミのようなものだったが、数年のうちに黒点が太陽を覆うほどに大きくなっていく
マン自身も、およそ異質の小説を書いたカフカの作品を読むにつれ、もしこの作家が「現代」なら自分は同じ位置にいることはできず、既に終わった過去の作家に甘んじるしかないが、それは常に「正装」を崩さなかった誇り高い人にそのような屈辱は耐えられず、その頃からマンの日記には講演などでも成功や手放しの賞賛の模様が詳述されている。無邪気なまでの自画自賛ぶりだが、何を確かめようとしたのだろう

Ø  魔術師のたそがれ
マン家では子供たちが昔から父親を「魔術師」と呼んでいた ⇒ 「不思議な人」といった意味合いか。規則正しく制御された日常
運命的な老いの軌跡が、妥協せず、諦念とも遠い宙吊り状態のまま、張り詰めた思いをもって書き留めてある。老いを晒すことはこの身が堪えなくてはならない屈辱であり、最後まで精神の有効性を譲らず、末期の目に映る惨憺たる自分の記述にいささかもたじろがなかった
54年ミュンヘンのグラフ雑誌に、長女エーリカによる父親の紹介記事が出たが、その中で娘が父の青少年好きという密かな性癖を隠すことなく告げている ⇒ 死の直前、オランダで舞踏家の巡回公演を見て青年舞踏家に一目惚れし、楽屋を訪問して抱擁。舞踏家も「私が好きなのだと直感」したと後にマンの研究者宛に詳しく伝えている

Ø  最後の肖像
数多くの肖像画も残している ⇒ 「絵になる人」
晩年の肖像としてよく使われるのが木炭デッサンで、首から上のみ ⇒ スケッチの約束をした日(720)に重度の血行障碍で絶対安静となり、オランダでベッドに横たわったマンの顔を描く
日記が途絶えるのは55729日で、スケッチの後飛行機でチューリヒに移動、3週間後に死去

                                    

2017..9.10. 朝日
(著者に会いたい)『闘う文豪とナチス・ドイツ トーマス・マンの亡命日記』 池内紀さん
 強い精神力、ヨーロッパの底力 池内紀さん(76歳)
 「姿のいい人でしょう」と、池内紀さんは本の帯にあるトーマス・マンの写真を指さした。端正で知的、威厳のある紳士。「こんな人の本を、小さい本でも1冊書きたいなと思ったんです」
 20世紀を代表するドイツの作家マン(1875~1955)は、ナチスに批判的だったため帰国を差し止められ、亡命。主に米国を拠点に講演やラジオでナチス打倒を訴え続け、かつ小説を書いた。その間の日記を邦訳した全10巻、1万ページに及ぶ『トーマス・マン日記』(紀伊国屋書店)の刊行に際し、PR誌に連載した文章がこの本にまとまったのを喜ぶ。
 もともと、カフカを始めユダヤ系の作家に関心が深く、マンには縁がないと思っていた。ところが初心者のように勉強して日記に接するうち、人物への敬愛の念がわいてきたという。
 日記はほぼ毎日、目下の小説の進み具合から日常の出来事、新聞数紙などから得る情報、世界情勢の予測と続く。長大である。
 「ねらいは、マンの目から見たナチス・ドイツ。後世の我々は結果を知っていますが、マンと同じ地点で見ようとしました」。池内さんは、実はナチス時代のドイツについて書く、別の仕事もしていて、それが役立ったという。
 レマルクやツヴァイク、ブレヒトら亡命同胞の動静、日本の二・二六事件、ドイツ軍のパリ入城や国内での反ナチ運動……。いつ終わるともしれない亡命生活にあって情報を真に受けず、自ら分析、論評する。その強い精神力に池内さんは「欧州の底力」を見る。
 また日記の中には、カフカに魅了されるマンの姿もある。「まだ無名の頃のカフカをあれだけ熱心に読んだ現役の作家はいない」そうだ。「自分はもう古いのではないかと、予感めいたものがあったかもしれませんね」
 ドイツの降伏でナチスとの闘いは終わったが、長男クラウスの自殺、マッカーシズムの米国からの再亡命、迫り来る老い、と、日記は続く。写真も豊富なこの本を通じて、「偉大な文豪」の表情が少し、親しみを増すようである。
 (文・大上朝美 写真・工藤隆太郎)
 (中公新書・886円)


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パウル・トーマス・マン(Paul Thomas Mann187566 - 1955812)はドイツ小説家リューベックの富裕な商家に生まれる。当初は実科を学んだが処女小説『転落』が認められて文筆を志し、1901に自身の一族の歴史をモデルとした長編『ブッデンブローク家の人々』で名声を得る。その後市民生活と芸術との相克をテーマにした『トーニオ・クレーガー』『ヴェニスに死す』などの芸術家小説や教養小説の傑作『魔の山』を発表し、1929ノーベル文学賞を受賞した。
1933ナチスが政権を握ると亡命し、スイスやアメリカ合衆国で生活しながら、聖書の一節を膨大な長編小説に仕立てた『ヨセフとその兄弟』、ゲーテに範を求めた『ワイマルのロッテ』『ファウストゥス博士』などを発表。終戦後もドイツに戻ることなく国外で過ごしたが、『ドイツとドイツ人』などの一連のエッセイや講演でドイツの文化に対する自問を続けた。
ハインリヒ・マン、長男クラウス・マンも著名な作家である。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
トーマス・マンは1875、中世にはハンザ同盟に属していた北ドイツの商業都市リューベックに生まれた。マン家は18世紀末以来この地で商家を営む豪商の家系であり、祖父ヨハン・ジークムント・マンはオランダ名誉領事およびリューベック市民代表、父トーマス・ヨハン・ハインリヒ・マンは市参事会議員として市長に次ぐ地位にある要人であった。母ユーリア・マン(旧名ユーリア・ダ・シルヴァ=ブルーンス)はブラジルで貿易商を営んでいた娘であり、ポルトガル系ブラジル人を母に持つ異国的な風貌の女性である。ヨハン・トーマス・ハインリヒ・マンは彼女との間に三男二女をもうけ、作家ハインリヒ・マンが長男・第一子、トーマス・マンが次男・第二子に当たる。なお二人の妹ユーリア(1877 - 1927年)、カルラ(1881 - 1910年)は結婚後ともに自殺している。
マンの両親は読書家であり、マンは国内外の小説や童話を初めとする多くの書物に触れて育った。1882年に、当時の上流家庭の子息が通うドクター・ブセニウスの予備高等学校に入学。1889年にカタリーネウム高等学校(ギムナジウム)に入学、兄が大学入学資格の取れる科に進んだのに対しマンは実科コースに進んだ。しかしマンは優れた成績は残しておらず、予備高等学校時代には6年目に落第、高等学校でも2年落第を受けている。一方詩作は早くから始めており、高等学校時代に教室で学んだシラーの詩と『ドン・カルロス』、またリヒャルト・ワーグナーの楽曲に感銘を受けた。
1891、マンが16歳のとき父ヨハンが死去し、前年に設立100年を迎えていたヨハン・ジーグムント・マン商会が解体する。一家は屋敷を売り翌年ミュンヘンに移るが、マンのみ実科終了資格を取るために2年間リューベックに残った。1893年、同級生を集めて5月と7月に校内雑誌『春の嵐』を作り詩や散文数篇を寄せる。18943月、兵役を1年で終えることができる志願兵資格を得られるだけの学級を終えたため高等学校を中退、一家の待つミュンヘンに移った。
作家生活と家庭[編集]
18934月よりマンは南ドイツ火災保険会社の見習いとして働き始め、その傍ら小説作品の執筆を続けた。10月、処女作品となる短編小説『転落』がライプツィヒの文芸雑誌『社会』に掲載される。この作品によって抒情詩人リヒャルト・デーメルから賛辞の手紙を受け、マンは筆によって立つことを決意、保険会社を辞してミュンヘン工科大学の聴講をしながら作品の執筆を行った。この頃にショーペンハウアーニーチェの哲学に興味を持つ。1896より『幸福への意志』『幻滅』『小フリーデマン氏』『ルイスヒェン』など一連の短編作品を発表、1898に最初の短編集『小フリーデマン氏』が出版される。
1897年夏、マンは兄ハインリヒとともにローマに滞在し、兄弟で合作絵本などを作っているうち、一家の歴史を題材にした小説を共同で書くことを思い立った。この思いつきに兄は次第に興味を失っていったが、マンはその後多数の親戚を訪れて証言を取り、10月に執筆に取り掛かった。2年半の執筆期間を経て19015月、11部からなる長編『ブッデンブローク家の人々』が完成。翌年10月に出版されると広く読者を集め、第一次大戦前までにはデンマーク語、スウェーデン語、オランダ語、スウェーデン語、チェコ語に訳されるベストセラーとなった。『ブッデンブローク家の人々』はその後1929年にノーベル文学賞を与えられた際に受賞理由として挙げられている。1903代表作の一つ『トーニオ・クレーガー』発表。

1905ミュンヘン大学に務めるユダヤ系の数学教授の娘で当時学生だったカタリーナ・プリングスハイム(愛称カティア Katia またはカトヤ Katja)と結婚。その後彼女との間にエーリカ(de:Erika Mann)、クラウス(作家)、ゴーロde:Golo Mann、歴史家)、モーニカde:Monika Mann)、エリーザベトde:Elisabeth Mann、ピアニスト)、ミヒャエル de:Michael Mann、ヴァイオリニスト)の6子をもうけた。マンは朝9時から3時間を執筆時間に当て、マン家ではこの3時間を「魔術師の時間」と呼び静寂を保つように務めたという。
1910、ミュンヘンでグスタフ・マーラーの『交響曲第8』初演を聴き、マーラー自身と知り合う。翌年、マーラーが死去した直後にヴェニスを旅行。1912にマーラーの死に触発されて書かれた中編『ヴェニスに死す』を発表する。
第一次大戦前後[編集]
1912年、夫人カタリーナが肺病を患ったためスイスのダヴォスにあるサナトリウムで半年間の療養生活を送った。この年の夏見舞いに訪れたマンは、夫人から聞いた体験や挿話を元に小説を書くことを思い立つ。当初短編小説のつもりだったその作品はその後12年の間書き続けられたのち『魔の山』として発表されることになった。
1914第一次世界大戦が勃発。マンはこの大戦を文明に対する文化としてのドイツの戦いと位置づけてドイツを積極的に擁護したが、この立場はロマン・ロランや実の兄ハインリヒ・マンから批判を受け、一時兄弟で仲違いをすることになった(1922年に和解)。1915より2年の間『非政治的人間の省察』を執筆、協商国フランスの帝国主義的民主主義に対し、反民主主義的不平等人格主義のドイツを擁護して論じた。1918にドイツが敗戦すると、マンはドイツにおける市民社会の代弁者として各地で講演に招かれ、1923の著作『ドイツ共和国について』でヴァイマル共和政への支持をドイツの知識層に呼びかけた。1924魔の山』発表。1926年より『ヨセフとその兄弟』に着手。旧約聖書の一節をそれだけで図書館が建つと言われるほどの膨大な資料をもとに長大な小説に仕立て上げたもので、その後幾度も中断を経て1944年まで書き継がれた。1929ノーベル文学賞受賞。翌年に受賞第1作となる『マーリオと魔術師』を発表する。
1930年前後よりナチスが台頭すると、マンは国家社会主義の新聞に対して論陣を張り、1930にはベルリンで講演『理性に訴える』を行いナチズムの危険性を訴えた。またこの講演では労働者階級による抵抗を励ますと同時に社会主義共産主義への共感が増していることを表明している。1933130ヒトラーが政権を握ると、兄ハインリヒ・マンとともにドイツ・アカデミーを脱退。223日から夫婦でスイスに講演旅行中にベルリン国会炎上事件が起き、ミュンヘンにいた長男クラウスから助言を受けてそのままスイスに留まる決意をする。1936年、マンはドイツ国籍およびドイツにおける財産を奪われ、自宅に残してきた日記、書簡、資料やメモ類を永久に失った。
亡命生活と戦後[編集]
1933年秋、マンはスイスチューリッヒ近くのキュスナハトKüsnacht)に住居を定めた。1935のマン60歳の誕生日もスイスで盛大に行なわれ、出版社から贈られた祝詞集にはアルベルト・アインシュタインバーナード・ショークヌート・ハムスンなどからの手書きの言葉が寄せられた。同年ハーヴァード大学名誉博士を授与される。193611月、チェコ国籍を取得。1937スイスにおいて雑誌『尺度と価値(Maß und Wert)』を創刊、1940年の廃刊まで同誌で反ナチスの論陣を張る。1938、アメリカに移住しプリンストン大学客員教授に就任(のちに名誉教授)。大戦中のアメリカではドイツ、オーストリアからの亡命者を支援した。
1939、長編小説『ワイマルのロッテ』をストックホルムに亡命中のフィッシャー社より刊行。文豪としての名声を得たゲーテと、彼がかつて『若きヴェルテルの悩み』のロッテのモデルとしたシャルロッテ・ブッフとの再会を描いており、のちに作品の一節をニュルンベルク裁判でイギリスの裁判官がゲーテ自身の言葉として引用したことが問題となった。
19406月、フランス降伏後の「緊急救出委員会」に協力。10月よりBBC放送を通じて毎月定期的に、ドイツ国民にナチスへの不服従を訴え続けた。しかし国外で富裕な生活を送りながら反独活動をしたことは戦後ドイツでマンに対する賛否両論が起こる原因となった。
19411月、ルーズベルト大統領の賓客として、ホワイトハウスに滞在。4月にカリフォルニア州パシフィック・パリセーズに家を建て永住を決める。19446月、アメリカ市民権を取得。1947、長編『ファウストゥス博士』を発表。40年以上前の短編プランをもとに着手されたもので、自身の芸術と文学に対する集大成を行なった。1949フランクフルト・アム・マインよりゲーテ賞を受賞。
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キルヒベルクのマンの墓
19526月、パシフィック・パリセーズを離れ、ヨーロッパ各地を巡ったのち12月にチューリッヒ南隣のキルヒベルクKilchberg)に移り住む。この年レジオン・ドヌール将校十字章を受章。195322年ぶりに故郷リューベックを訪れる。1954、『詐欺師フェーリクス・クルルの告白 回想録の第1部』を出版。
19553月、リューベック名誉市民、およびベルリン・ドイツ芸術アカデミー名誉会員に選ばれる。5月にはフリードリッヒ・シラー大学名誉博士号を贈られ、ドイツ・シラー協会名誉会長となった。6月には80歳の誕生日を記念し東ドイツで全集が刊行。チューリヒで行なわれた祝賀会で全集が手渡され、フランスからの祝詞集にはヴァンサン・オリオール大統領、ロベール・シューマン外相、シュヴァイツァーピカソロジェ・マルタン・デュ・ガールモーリアックマルローカミュらが言葉を寄せた。この年の7月、オランダで病に倒れ、チューリッヒ州立病院へ送られる。812、心臓冠状動脈血栓症により同地にて死去。遺体はキルヒベルクに葬られた。埋葬式に数百人が集まり、ヘルマン・ヘッセが別れの言葉を述べた。
日本における受容[編集]
日本での初翻訳は1910年(明治43年)に『帝国文学』第169号に掲載された林久夫訳による短編『箪笥』(現在では普通『衣装戸棚』と訳される)であり、単行本では1927年(昭和2年)に日野捷郎(實吉捷郎)の訳による『トオマス・マン短編集』『トニオ・クレエゲル』が初である。以後多数の翻訳が出ているが、1940年に刊行開始した三笠書房の全集は、戦時中に敵性作家と見なされたため中絶を余儀なくされた。その後1971-1972年に新潮社から全12巻の全集が刊行されており、全作品と代表的な評論、および主要な書簡が収められている。
またマンの日記は、死後20年間開封するべからずとの本人遺言に従って1975年に初めて開封され、ドイツ本国では全10巻で刊行されている。日本語訳版は紀伊国屋書店で(1985年から)順次刊行されている、10巻目が2016年に刊行した。
マンから影響を受けている作家には三島由紀夫吉行淳之介北杜夫大江健三郎辻邦生らがいる。三島は『国文学 昭和455月臨時増刊号』で、三好行雄との対談においてマンからの影響を語っており、マンによって初めて西欧的な二元論にぶつかったと述べた。またドナルド・キーンによれば、三島は自身の代表作『金閣寺』の文体を「鴎外 プラス トーマス・マン」だと述べており、キーンは『暁の寺』にも『魔の山』からの文体的影響を指摘している(『悼友紀行』、中央公論社)。北は学生時代からマンの作品に親しんでおり、北杜夫というペンネーム自体が『トーニオ・クレーガー』から由来したものである。彼のデビュー作『幽霊』は『トーニオ・クレーガー』から代表作『楡家の人々』は『ブッデンブローク家の人々』から、それぞれ強い影響を受けている。辻も学生時代からマンの小説を愛読し、パリに留学した頃には『ブッデンブローク家の人々』を精読して文章ごとにカードを作って作品の構成や手法を徹底的に研究したという(『パリの手記』より)。また『ファウストゥス博士』も、仏語訳をもとに研究し、マン論を岩波書店で出している(参考文献を参照)。
著作一覧[編集]
長編小説[編集]
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『魔の山』
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d0/1913_Der_Tod_in_Venedig_Halbpergament.jpg/150px-1913_Der_Tod_in_Venedig_Halbpergament.jpg
『ヴェニスに死す』
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『非政治的人間の省察』
ブッデンブローク家の人々Buddenbrooks - Verfall einer Familie, 1901)
大公殿下Königliche Hoheit, 1909年)
魔の山Der Zauberberg, 1924年)
ヨセフとその兄弟Joseph und seine Brüder, 1933 - 1943年)
1 ヤコブ物語 Die Geschichten Jaakobs, 1933年)
2 若いヨセフ Der junge Joseph, 1934年)
3 エジプトのヨセフ Joseph in Ägypten, 1936年)
4 養う人ヨセフ Joseph der Ernährer, 1943年)
ワイマルのロッテLotte in Weimar, 1939年)
ファウストゥス博士Doktor Faustus, 1947年)
選ばれし人Der Erwählte, 1951年)
詐欺師フェーリクス・クルルの告白Bekenntnisse des Hochstaplers Felix Krull, 1922/1952年)
中・短編小説[編集]
転落(Gefallen, 1894年)
幸福への意志(Der Wille zum Glück, 1896年)
幻滅(Enttäuschung, 1896年)
死(Der Tod, 1897年)
小フリーデマン氏(Der kleine Herr Friedemann, 1898年)
道化者(Der Bajazzo, 1897年)
トービアス・ミンダーニッケル(Tobias Mindernickel, 1898年)
衣装戸棚(Der Kleiderschrank, 1899年)
報い(Gerächt, 1899年)
ルイスヒェン(Luischen, 1900年)
墓地への道(Der Weg zum Friedhof, 1900年)
神の剣(Gladius Dei, 1902年)
トーニオ・クレーガーTonio Kröger, 1903年)
トリスタン(Tristan, 1903年)
飢えた人々(Die Hungernden, 1903年)
神童(Das Wunderkind, 1903年)
ある幸福(Ein Glück, 1904年)
預言者の家で(Beim Propheten, 1904年)
悩みのひととき(Schwere Stunde, 1905年)
逸話(Anekdote, 1908年)
鉄道事故(Das Eisenbahnunglück, 1909年)
なぐりあい(Wie Jappe und Do Escobar sich prügelten, 1911年)
ヴェニスに死すDer Tod in Venedig, 1912年)
主人と犬(Herr und Hund, 1918年)
おさな児の歌(Gesang vom Kindchen, 1919年)
混乱と幼い悩み(Unordnung und frühes Leid, 1926年)
マリオと魔術師(Mario und der Zauberer, 1930年)
すげかえられた首(Die vertauschten Köpfe - Eine indische Legende, 1940年)
十戒(Das Gesetz, 1944年)
あざむかれた女(Die Betrogene, 1953年)
エッセイ・講演[編集]
フリードリヒ大王と大同盟(Friedrich und die große Koalition, 1915年)
非政治的人間の考察(Betrachtungen eines Unpolitischen, 1918年)
ドイツ共和国について(Von deutscher Republik, 1922年)
ゲーテとトルストイ(Goethe und Tolstoi, 1923年)
ドイツ共和国について(Von deutscher Republik, 1923年)
理性に訴える(Deutsche Ansprache. Ein Appell an die Vernunft., 1930年)
市民時代の代表者としてのゲーテ(Goethe als Repräsentant des bürgerlichen Zeitalters, 1932年)
作家としてのゲーテの生涯(Goethes Laufbahn als Schriftsteller, 1933年)
リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩(Leiden und Größe Richard Wagners, 1933年)
フロイトと未来(Freud und die Zukunft, 1936年)
来るべきデモクラシーの勝利について(Vom zukünftigen Sieg der Demokratie, 1938年)
ショーペンハウアー(Schopenhauer, 1938年)
この平和(Dieser Friede, 1938年)
自由の問題(Das Problem der Freiheit'7, 1939年)
ドイツとドイツ人(Deutschland und die Deutschen, 1947年)
我々の経験から見たニーチェ哲学(Nietzsches Philosophie im Lichte unserer Erfahrung, 1947年)
ゲーテとデモクラシー(Goethe und die Demokratie, 1949年)
シラー詩論(Versuch über Schiller, 1955年)
主な訳書[編集]
全集[編集]
新潮社版全集、初版1971 - 72年、第21975 - 77年。
1巻、ブデンブローク家の人々(森川俊夫訳)
2巻、大公殿下(山下肇訳)、ワイマルのロッテ(佐藤晃一訳)
3巻、魔の山(高橋義孝訳)
4-5巻、ヨゼフとその兄弟たち(高橋義孝訳)
6巻、ファウストゥス博士(円子修平訳)(理由は不明だが、訳が省略されている箇所がいくつもある)
7巻、選ばれし人(佐藤晃一訳)、詐欺師フェーリクス・クルルの告白(高橋義孝訳)
8巻、短篇(藤本淳雄ほか訳)、戯曲(森川俊夫訳)、詩(山下肇訳)
9-10巻、評論(佐藤晃一ほか訳)
11巻、評論3(森川俊夫ほか訳)
12巻、書簡 1894 - 1955年、(浜川祥枝訳)
別巻、トーマス・マン研究(円子修平ほか訳)
「トーマス・マン日記」[編集]
紀伊國屋書店出版(全10巻)。()内は、刊行年。
1918 - 1921年、(森川俊夫伊藤暢章・洲崎惠三・前田良三訳)、(2016 ISBN 4314011335
1933 - 1934年、(岩田行一浜川祥枝・森川俊夫訳)、(1985 ISBN 4314004568
1935 - 1936年、(森川俊夫訳)、(1988 ISBN 4314004983
1937 - 1939年、(森川俊夫訳)、(2000 ISBN 4314008555
1940 - 1943年、(森川俊夫・横塚祥隆訳)、(1995 ISBN 4314007176
1944 - 1946年、(森川俊夫・佐藤正樹田中暁訳)、(2002 ISBN 4314009098
1946 - 1948年、(森川俊夫・洲崎惠三訳)、(2003 ISBN 4314009527
1949 - 1950年、(森川俊夫・佐藤正樹訳)、(2004 ISBN 4314009713
1951 - 1952年、(森川俊夫訳)、(2008 ISBN 4314010487
1953 - 1955年、(森川俊夫・洲崎惠三訳)、(2014 ISBN 4314011114
単行本[編集]
非政治的人間の考察 3巻(前田敬作山口知三訳)、筑摩書房〈筑摩叢書〉(復刊1985
ワーグナーと現代 1908−1951小塚敏夫訳)、みすず書房(新装第2 2000 ISBN 4622049864
新装版 世界の文学セレクション36/vol.25中央公論社1994 ISBN 4124031653
ある詐欺師の告白(高橋義孝訳)、トニオ・クレーガー(福田宏年訳)、ヴェニスに死す(関楠生訳)
文庫版訳書[編集]
1980年代後半以降の刊行のみ記す。
詐欺師フェーリクス・クルルの告白 (岸美光訳) 光文社古典新訳文庫(上下) 2011
だまされた女、すげかえられた首 (岸美光訳) 光文社古典新訳文庫 2009 ISBN 433475175X
ヴェネツィアに死す (岸美光訳) 光文社古典新訳文庫(2007)、ISBN 4334751245
ベニスに死す (圓子修平) 集英社文庫(2011 ISBN 4087606287
トーニオ・クレーガー、マーリオと魔術師 平野卿子訳)、河出文庫2011 ISBN 4309463495
トニオ・クレーゲル、ヴェニスに死す (高橋義孝訳) 新潮文庫(改版2012 ISBN 4102022015
魔の山 (高橋義孝訳) 新潮文庫(上下)(改版2005 ISBN 4102022023 & ISBN 4102022031
トニオ・クレエゲル (実吉捷郎訳) 岩波文庫(改版2003 ISBN 4003243404
ヴェニスに死す (実吉捷郎訳) 岩波文庫(改版2000 ISBN 4003243412
ゲーテを語る 講演集 山崎章甫訳) 岩波文庫(1993 ISBN 4003294300
ゲーテとトルストイ (山崎章甫・高橋重臣訳) 岩波文庫(1992 ISBN 4003243498
リヒァルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大/リヒァルト・ヴァーグナーと『ニーベルングの指環』、講演集(青木順三訳) 岩波文庫(1991 ISBN 400324348X
ドイツとドイツ人 他五篇、講演集(青木順三訳) 岩波文庫(1990 ISBN 4003243471
魔の山 (関泰祐望月市恵訳) 岩波文庫(上下)(改版1988 ISBN 4003243366 & ISBN 4003243374
トオマス・マン短篇集 (実吉捷郎訳) 岩波文庫  ISBN 400324334X -以下は重版書目
ワイマルのロッテ (望月市恵訳) 岩波文庫(上下) ISBN 4003243420 & ISBN 4003243439
ブッデンブローク家の人びと (望月市恵訳) 岩波文庫(上中下)
ファウスト博士 (関泰祐訳) 岩波文庫(上中下)
マリオと魔術師 (竹山道雄訳) 角川文庫(復刊1989)、他一篇
詐欺師フェーリクス・クルルの告白・掟 (佐藤晃一訳) 新潮文庫(復刊1994) 
博物館[編集]
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/64/Nida_ThomasMann_cottage.jpg/180px-Nida_ThomasMann_cottage.jpg
ニダのトーマス・マン博物館
トーマス・マンの故郷リューベックのメング街に「ブッデンブロークハウスドイツ語版)」がある。かつてマン家がこの場所に住んでいた。建物自体は第二次世界大戦で破壊されたが、これを後に再建し、トーマス・マンと兄ハインリヒ・マンの記念館としたものである。1階にはマン兄弟関係書籍が展示販売されており、2階はハインリヒ・マンの、3階はトーマス・マンの展示場となっている。
リトアニアニダにあるトーマス・マン博物館では、マンの草稿などが展示されている。この博物館の建物は、かつてマンが過ごした別荘を利用したものである。
またチューリッヒ工科大学にトーマス・マン資料館があり、草稿・著書などの資料を収蔵している。


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