渋カジが、わたしを作った  増田海治郎  2017.12.11.

2017.12.11. 渋カジが、わたしを作った
団塊ジュニア & 渋谷発 ストリート・ファッションの歴史と変遷

著者 増田海治郎 ファッションジャーナリスト。1972年埼玉県出身。神奈川大学卒業後、出版社、繊維業界紙などを経て、2013年にフリーランスのファッションジャーナリストとして独立。「GQ JAPAN」「Men’s Precious」「LAST」「SWAG HOMMES」「毎日新聞」「Fashionsnap.com」などに定期的に寄稿している。年2回の海外メンズコレクション、東京コレクションの取材を欠かさず行っており、年間のファッションショーの取材本数は約250本。メンズとウィメンズの両方に精通しており、モード、クラシコ・イタリア、ストリート、アメカジ、古着までをカバーする守備範囲の広さは業界でも随一。仕事でもプライベートでも洋服に囲まれた毎日を送っている

発行日           2017.3.7. 第1刷発行
発行所           講談社

はじめに
2次大戦後の日本の若者ファッションの歴史はアメリカへの憧れの積み重ね。戦後まもなくかつての敵国という複雑な感情を隅っこに置き去りにして、多くの若者は続々と入ってくるアメリカの文化、ファッションを夢中になって追い掛けてきた
1950年代の太陽族、60年代のみゆき族、60年代後半から70年代前半のヒッピー、70年代後半に『ポパイ』が仕掛けた西海岸ブーム、80年代中頃から90年代前半にかけて流行した渋カジ、90年代のヴィンテージ・ブーム、そして08年頃からリバイバルした東海岸トラッド、12年にリニューアルした『ポパイ』が仕掛けたシティボーイ
ブリティッシュ、フレンチ、モード、国内デザイナーなどに主役を奪われた時期もあったが、時代を10年毎に区切れば、アメリカンカジュアル=アメカジをベースにしたファッションが廃れることはなかった
戦後のアメカジの歴史の中で最大規模の流行だったのが「渋カジ」
85年頃に渋谷のセンター街で自然発生的に生まれたこのストリート・ファッションは、その頃から渋谷に爆発的に増えたインポートショップ(セレクトショップ)と『ポパイ』や『ホットドッグ・プレス』などの雑誌の後押しを受けて、東京から全国に拡散
6777年生まれが担い手だったが、その中心にいたのは7174年生まれの団塊ジュニア世代で、その多くが男女共通の流行として、まるで"学外の制服のように楽しんだ
渋カジという言葉が生まれたのは88年頃で、一般的に渋カジとは雑誌を通して全国に広まった8889年頃のスタイルを指し、8587年のアメカジが洗練された結果であり、90年に顕在化するキレカジや「ハードアメリカン」は渋カジが二分化して生まれたもので、最後の"といえる「デルカジ」もその延長線上のもの ⇒ 一見バラバラな8592年春のアメリカが背景にあるファッションは、断絶したものではなく、同じ担い手が新しいものを貪欲に取り入れていった進化の歴史なのだ
本書は、その約7年間を「渋カジ」として定義し、その変遷を記録。日本のファッション史の貴重な資料であり、団塊ジュニア世代の青春の回顧録でもある

第1章        渋カジ誕生前夜
85DCブランド(デザイナーズ・ブランド+キャラクターズ・ブランド)全盛 ⇒ 70年に三宅一生、菊池武夫、山本寛斎、山本耀司、川久保玲らがデザイン事務所を開いたのを契機に既製服に反発して少量生産の個性的な服を作り始めたのが爆発的に人気を高める
75年には東京のファッションデザイナーが集結して「TD6」を設立、パリ・コレに倣って東京コレクションを定期的に開催
70年代中頃から82年頃のマストレンドは、雑誌『ポパイ』が提案したアメリカ西海岸への憧れをベースにしたスタイルや、80年頃から復活したプレッピー(アイビーリーグに入るための予備校のスタイル)、アイビー(みゆき族)、ハマトラに代表されるアケリカ東海岸的なスタイルで、アメリカの底抜けに明るい文化に憧れ、雑誌を通じて届く現地の流行をいち早く取り入れるのがアイデンティティだった
DCがメジャーとなったきっかけは、『アンアン』や『ノンノ』といった女性ファッション誌が積極的に取り上げたことと、「ラフォーレ原宿」や「渋谷パルコ」などの先鋭的なファッションビルがDCに着目したこと
川久保玲や山本耀司がパリで発表し世界のモード界を震撼させた黒の衝撃を纏ったからす族の登場が82年頃、それを担ったのはハウスマヌカンとその予備軍
83年にはデザイナーズ・ブランドが主流になり、82年創刊の『オリーブ』がパリの女子学生の日常着をお手本にした「リセエンヌ・ファッション」を提案、その流れでブレイクしたのが金子功の「ピンク・ハウス」や85年スタートのニュース・ステーションのキャスター久米宏も肩が落ちんばかりのビッグシルエットのDCスーツを着て流行の民主化に一役買う。「チェッカーズ」は女子のチェックを男子に普及させ、「とんねるず」もケーファクトリーを着てパステルカラーや原色のポップな服を10代の男子に浸透させた
全国の丸井が、赤いカードの分割払いをつけてDCブランドを取り上げたのも大きい
同時に、海外ブランドの導入も『ポパイ』などの雑誌が宣伝し、「ビームス」や「シップス」といった小さなインポートショップ、セレクトショップを通じて流行が広がる

第2章        渋カジの誕生から終焉まで
Ø  アメカジ期 (198587)
黎明期のアメカジの象徴的なアイテムは、チーム内でお揃いで作ったスタジャン ⇒ 大学のサークルから高校生に広まる
もう1つの主役がドイツの「アディダス」で、83年にデビューしたアメリカのヒップホップ・グループ「Run-DMC」のヒット曲によってアディダスのスーパースター()とファッションを取り入れた着こなしが流行
アメカジは86年になると都内の有名私立中高生の間に広まり、87年には都立の中高生に拡散、雑誌が取り上げるまでは東京にだけとどまっていた
婦人画報社の『MCシスター』が、アメカジに包まれた有名私立高生を都市型高感度少年として取り上げたのを契機に女子にも拡散 ⇒ アメカジの震源地と断言しているのが広尾のトリチュウの5階の食堂と渋谷のザ・プライム
東京に限定された流行で、ヨーロッパの流行やDCも混ざった不完全なスタイル

Ø  渋カジ期    (198889)
88年春ごろからアメカジにさまざまなバリエーションが登場 ⇒ 渋谷のセレクトショップの存在が大きく関係、アメリカ製の洋服を扱う店が爆発的に増加
渋谷界隈を徘徊するアメリカン・カジュアルの集団=渋谷カジュアル=渋カジ
渋谷センター街に屯する若者たちから生まれた日本初のストリート・ファッション
アメリカ製のアイテムを自由に着こなすのが特徴で、ベースになるのは作業着であるワークウェアと、スポーツ系・カレッジ系のウェアを思い思いの着こなしで楽しむ
最初はティーン向けファッション誌が中心で広がりはなかったが、88年秋ごろにようやく大手の雑誌にも注目され始め、『ポパイ』が渋カジ特集を組んだのは894
トップスでは「コロンビア」(オレゴン)のフィッシング・ベスト、前ジッパーのスウェット・パーカー、夏場のメインはポロシャツとTシャツでメーカーはフレッドペリー、ボトムスはリーバイスの501、靴はインディアンモカシンとワークブーツが人気を二分、バッグはハンティング・ワールドとルイ・ヴィトンが人気を二分
全国に拡散しなかったのは、雑誌で載っても実物が首都圏の店にしかなかったし、DCブランドの流行がまだ力を持っていたため
89年秋の渋カジは、サンタフェ、サファリ、ネイティブ・アメリカンが加わり、よりエスニックで土臭い雰囲気が強くなる
ニューバランスのランニングシューズがステイタスに ⇒ M1300が史上最高傑作
古着も初めて若者のメインカルチャーに昇格
冬のメインはアウトドア系 ⇒ ダウンジャケットとダブルのライダースジャケット
初心者と玄人を見分ける目安になったのがベースボールキャップの被り方 ⇒ わざと使い古したように傷つけ、つばを曲線的に折り曲げ、目が隠れるくらいに深く被る

Ø  キレカジ、ハードアメカジ期 (199091)
90年春突如顕在化したのがキレイ目カジュアルで、アメリカ東海岸ヤッピーの象徴
ラルフローレンを中心に据え、団塊ジュニア世代の高校生が現代的に解釈したトラッドで、それまでのルーズな渋カジとは正反対 ⇒ 都内有名私立大の附属高校生たちが中心で、アイコン的存在となった紺ブレに合うアイテムを探求した結果、1つのスタイルを形成
そのあと登場したのが個人の嗜好や家庭環境を反映させる形で暴走族とアメカジをミックスしたようなバリバリアメカジで、従来の渋カジがよりハードな方向へ進化したハードアメカジと呼ばれた

Ø  渋カジの多様化=終焉期 (199192)
91年春になると様々なスタイルがストリートに目立ち始める ⇒ サーファー、スケーター(スケボー)、モッズ(モダン派)、ダンサー、バイカー(バイク乗り)などのライフスタイルが背景にあるスタイルが台頭し、一括りに出来なくなってくる
87年頃復活の兆しが見えたスケボーが91年春ごろから注目され始め、アメリカからブランドが入って、大き目のシルエットが主流となる
ダンサーは、たけしの元気が出るテレビの人気コーナー「ダンス甲子園」の影響で広がる
モッズは、イギリスの若い労働者階級が生み出したユースカルチャーで、50年代後半~60年代中頃に流行。91年春ごろにキレカジの紺ブレからジャケット・スタイルを模索
サーファー文化は60年代前半に産声を上げ、70年代後半に一大ブーム。この頃街中に戻ってきた
91年秋に登場したのが「デルカジ」で、モデルの普段着モノトーンを基調にしたタイトな服、タイを着用。日大豊山高校のカリスマ高校生たちが生み出した

第3章        渋カジとチームの関係
アメカジを生んだのはチームとその構成員で、仲間内の流行が口コミ→雑誌の順で伝わり、全国的な流行になっていく
バブルで裕福な大学生が優雅に遊ぶ姿が憧れの的となり、高校生の間でもグループ/チーム作りが始まる ⇒ 明大中野高校のチーム「ファンキーズ」が元祖。ファッションは一点豪華主義だったが、警察沙汰になって消滅
最初にアメカジを始めたのは67年生まれ ⇒ 徐々にゲーセンやファーストフード店の集中していた渋谷に自分たちの居場所を作り始め、チームごとの縄張りを決めた
88年初頭、いくつかのチームが恐喝沙汰を起こし、事件化
89年春以降、渋カジとチームの存在が俄かにクローズアップされるが、同時にチーム間の暴力的ないざこざが日常的に起こり、加速度的に凶悪化。警察がチーマー駆除作戦を展開した結果活動は下火に
最初に始めた連中にとっては高校生活を充実させるための"不良ごっこだったが、全盛期のチームは"平成型暴走族と言っても過言ではなく、ギャル男(90年代後半に渋谷を中心に現れたストリート・ファッション)B(ヒップホップ系のファッションを嗜好する若者の総称)、亜羅亜羅系(オラオラ系、ヤンキー、ヤクザ、ヒップホップを融合させたような黒とゴールドを基調とした男らしいファッションが特徴)の原点に位置する、平成型不良の最初の形だった
有名私立高校生→大学受験なし→勉強せずに遊べる

第4章        それぞれの渋カジ物語
宮澤敬子 ⇒ 学校の壁を越えてコミュニティを作っていたのが衝撃的で魅せられ、渋谷に通う。渋カジの溜まり場だったレストラン「トップドッグ」で働くのが女の子の憧れ
丸山剛彦 ⇒ 66年新潟生まれ。独自ブランド「サンカ」のデザイナー。85年ビームス入社、渋カジ全盛期に渋谷次長、原宿店長からチーフ・バイヤーで退任、07年独自ブランドを立ち上げ、Made in Japanに拘ったモノ作りをする
森田洋司 ⇒ 63年東京生まれ。渋谷明治通り沿いのインポートショップ「レッドウッド」の5代目店長、現在は広尾のインディアン・ジュエリー専門店「ロングブランチ」のオーナー
田中律子 ⇒ 71年東京生まれ。85年女優デビュー。88年歌手デビュー。当時珍しく本音で話す着飾らないアイドルで、高校生のファッションリーダーであり渋カジのミューズ
高山隆 ⇒ 54年生まれ。自身のブランド「ストップライト」立ち上げ。ハードアメカジ生みの親
八木沢博幸 ⇒ 56年東京生まれ。インポートショップのミドリヤ入社。10年独自に「原宿キャシディ」オープン。現役バイヤー
渡辺真史 ⇒ 71年東京生まれ。モデルから04年独自の店「ベドウィン」スタート。世界中から集めたカルチャーを発信し続ける
川原拓也 ⇒ 63年生まれ。86年独自店舗オープン。バイヤーを続ける。サーファーファッション
山下裕文 ⇒ 68年生まれ。原宿の「プロペラ」を経て、様々な企業のコンサルティングを務めた後、10年ヘミングウェイのライフスタイルをモデルとするファッションブランド「モヒート」スタート
野永哲也 ⇒ 46年生まれ。アメリカ留学後渋谷にアメカジに拘った店をオープン、渋カジを牽引
中曽根信一 ⇒ 57年生まれ。バイヤーから独自のインポートショップ「ラブラドールリトリーバー」をオープン

第5章        渋カジ・ショップ・マップ

第6章        団塊ジュニアは七転び八起き世代である
渋カジが消滅してから四半世紀が経つ
09年にNHKと三菱総研が『"35を救え』という番組と本を出し、73年生まれの生活実態を調査し、団塊ジュニア世代がこれまでの世代に比べて想像以上の困難に直面していることを伝え、その原因を①経済不況、②雇用のセイフティネットの崩壊、③人材ニーズのミスマッチと結論付けているが、それから7年たっても状況は何も変わっていないばかりか、ますます厳しさを増している
我々世代は、目の前に突然現れる壁をよじ登ったり落ちたりしながら40数年を生きてきた七転び八起き世代で、ノックアウトされても、少し休んでから立ち直る知恵と経験を、「失われた20年」の間に身につけてきた。たくさんの苦労をした分、他人の気持ちがわかる大人になった。自分と自分たちの世代のことだけではなく、下の世代のこと、将来の日本のことを考えて動ける人は、上の世代より確実に多いと断言できる
歪みを矯正するのは、歪みの犠牲になってきた私たちに課された使命 ⇒ 様々な生き方を次の世代に提示することによって、次の世代が安心できる社会を作ること





半歩遅れの読書術和田竜 「好き」貫く数奇者の生き方 渋カジも今や史料に
2017/11/25付 日本経済新聞
 司馬遼太郎はそのエッセイの中で「好き」の音に込められている「数奇」の心意気について記している。数奇者のことだ。好んだもののためには人生を狂わしても構わないという心の持ち主である。
https://www.nikkei.com/content/pic/20171125/96959999889DE0E1EAE4E0E6E4E2E0E6E3E3E0E2E3E59F8BE4E2E2E2-DSKKZO2305247002112017MY6003-PN1-1.jpg
 数奇者を想(おも)うとき、僕は二人の男をなぜか思い起こしてしまう。
 一人は映画史・時代劇研究家の春日太一さん。四十歳という若さにもかかわらず、『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』等の著書で示される信じられないほどの昔の映画の知識量。随分前に対談した際、ご両親から「あれって何だっけ」と訊(き)かれたことが、春日さんの生まれる前の出来事だったという話をうかがい、さもありなんと納得してしまった。
 もう一人は増田海治郎という男。といっても春日さんと違い、ほとんど知る人はいないだろう。増田さんは、僕が以前勤めていた繊維業界の新聞社の同僚だ。退職後ほどなく「GQ JAPAN」などのファッション誌に寄稿を始め、ファッションジャーナリストとして独立したが、在職当時からファッションへの関心は異常で、取材の仕方はほとんど趣味の極みで、展示会に行っては買い求めまでしていた。僕はそんな様子を見聞きする度、数奇者とはこういうものか、と唖然(あぜん)としたものだ。
 そんな増田さんが今年の三月に上梓(じょうし)したのが『渋カジが、わたしを作った。』(講談社)である。
 1985年頃とされる渋カジの誕生からその変化、終焉(しゅうえん)までを解説した本書を一読して思ったのは、これは史料だ、ということだ。耳慣れないブランド名にアイテム名、その道ならではの著名人たちの名(田中律子さんのインタビューは除く)。これは、僕が小説を書くのに使う史料である、と思っていたら、「日本のファッション史の貴重な資料であり(後略)」と、当人が本文中に書いていた。大胆である。
 意外だったのは、渋カジの震源地の一つが都立中央図書館5階の食堂だったということだ。都内の有名私立高校生から始まった健全なイメージの渋カジは、やがてその裾野が広がるにつれ、野生化していく。その様はどこか武士の起こりのようなことを思わせられたといっては大げさか。
 ちなみに僕は一応渋カジの世代である。しかし本書で、あるアイテムが「流行(はや)った」とされる年のなぜか3~4年後に、僕が猛烈にそれを欲しくなっていたことに気付かせられ、それが一つや二つではなく、まことに情けない思いをした。
(作家)

日本語俗語辞書
渋カジ
Shibukaji
渋カジとは、1980年代後期~1990年代の若者のファッションスタイル。
【年代】 1990   【種類】 美容・ファッション用語略語
 
『渋カジ』の解説
渋カジとは「渋谷カジュアル」の略で、1980年代後半~90年代の若者のファッションスタイルのことである(『渋いカジュアル』の略という説もあるが、ファッション的に渋いというイメージは薄く、俗説と考えられる)。渋谷の高校生から発信された渋カジはそれまでのDCブランドブームに相反し、ポロシャツ、ローファー、ジーンズといったシンプルなものであった。1990年に入り、そういった着こなしで歩く渋谷の男子高校生をメディアが渋カジという言葉とともに取り上げ全国的に普及。渋カジの特徴であった『紺ブレ(紺のブレザーの略)』という言葉も同時に普及した。

東洋経済
あの「渋カジ」が再び注目を集めているワケ
団塊ジュニアだったら誰でも知っている
増田 海治郎 : ファッションジャーナリスト
20170321

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(本のカバーの表と裏の挿絵)

19851992年春の渋カジの変遷を記したイラスト。左から1987年頃のアメカジ、1989年頃の渋カジ、1990年頃のキレカジ、1991年頃のハードアメカジ(イラスト:綿谷寛)
「紺ブレ」「リーバイス501」「吉田栄作ヘア」……1980年中盤から1990年代前半、日本は空前の「渋カジ」ブームに沸いていた。当時の高校生や大学生は小遣いやバイト代を貯めては、せっせとファッションにおカネを投じていたのだ。この戦後最大のアメカジブームを支えていたのは、現在40代になった団塊ジュニア世代である。
あれから30年。今でも消費の牽引役である、彼らが夢中になった渋カジとはいったいどんなものだったのか。自身も団塊ジュニア世代である、ファッションジャーナリストの増田海治郎氏は著書『渋カジが、わたしを作った。』で、団塊ジュニアと渋カジの歴史的変遷を追った。パリコレクションなどを取材し、最新ファッション事情に精通している同氏が、なぜ今「渋カジ」に注目したのだろうか。
「アメカジ」にリバイバルの兆候
戦後の日本の若者ファッションの歴史は、すなわちアメリカへのあこがれの積み重ねでした。日本のデザイナーやヨーロッパ勢が優勢だった時期もありましたが、時代を10年ごとに区切れば、アメリカンカジュアル=アメカジが廃れることは決してありませんでした。そんな日本のアメカジの歴史のなかで最も規模が大きかったのが「渋カジ」(渋谷カジュアルの略語)でした。
「なぜ今、渋カジなのか?」といえば、それは19801990年代の文化が世界的にリバイバルしてきているタイミングだからです。ファッションの世界では、この時代のアメリカンカジュアル=アメカジが確実に復活してきています。日本にその時代感を当てはめると、必然的に渋カジにたどり着く、というわけです。
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ピッティでもアメカジが増えている。写真はイタリアのアメカジのカリスマ、アレッサンドロ・スクアルツィさん(写真:島村幸志)
イタリア・フィレンツェで開催される紳士服見本市「ピッティ・イマージネ・ウオモ」を例に挙げましょう。日本でも高い知名度を誇るこの紳士服の祭典は、世界中から3万人以上のファッション業界人が来場し、会場の入り口でカメラマンが撮影するのが風物詩となっています。ここ数年、そんな業界人の服装に明らかな変化が見られるようになりました。以前は全身をイタリアのクラシコ系でまとめた人が多かったのですが、最近はアメリカのワークウェアやアウトドアウェアをコーディネートの中に取り入れる人が増えてきているのです。
ストリートファッションの世界でも、アメカジが見直されてきています。この1月に取材で行ったロンドンやパリでは、アメリカのフライトジャケット(B-3MA-1)を着たストリート系の若者を多く見掛けました。また、ニューヨーク発のストリートブランド「シュプリーム」は今春、渋カジで流行したレザーウェアブランド「バンソン」との協業モデルを発売しました。レザージャケットが178000円と高額でしたが、ウェブショップでは発売直後に完売。ヤフオクやモバオクをのぞくと、10万円ほど高いプレ値で売られているのです。ピッティを訪れていた、北欧のヴィンテージショップで働くカップル。ミリタリーを上手にドレスアップしている(写真:島村幸志)
モード(ファッションショー)の世界でも、往年のアメカジをモードに昇華させるケースが増えてきています。2017年秋冬からラフ・シモンズがデザインを手掛けるカルバンクラインは、渋カジの後期に流行したウエスタンブーツを取り入れていましたし、ルイ・ヴィトンはB-3をクロコダイルのレザーで提案しました。ウィメンズで人気のあるクロエも、ワーク系のオンブレーチェックのコートを、ドレスに合わせる意外性のあるスタイルを発表しています。
1980年代のアメリカは、経済的には停滞していた一方で、文化的にはまばゆいばかりに輝きを放っていました。この大国から発信される音楽、ファッション、映画は、日本だけではなく世界中の若者を熱狂させたのです。ミラノでは1980年代前半から中盤にかけて「パニナリ」というアメカジのムーブメントがありましたし、パリでも1980年代にアメリカの「ショット」のライダースジャケットが大ブームになりました。
「流行は繰り返す」のは世界共通の現象で、なぜ19801990年代のテイストがここ数年でリバイバルしているかといえば、それはその時代に青春を過ごした世代が、作り手や発信する立場になってきていることに尽きます。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、高校生、大学生の頃に夢中になったファッションは、いくつになってもその人の軸になることが多いのです。渋カジが団塊ジュニア世代の価値観、とくにモノを選ぶ基準の根本を形成したように……
都内有名私立高校の子息が火付け役
渋カジがブームになる少し前の1980年代中頃、若者の大勢は“DCブランドに熱狂していました。日本のデザイナーが初めて流行のイニシアチブを握った画期的な流行だったわけですが、そのカウンターカルチャーとして生まれたのが渋カジでした。1985年頃の渋谷のストリートで自然発作的に生まれたアメカジの集団(チーム)は、都内の有名私立高校の富裕層の子息で構成されていました。彼らはすぐに東京の高校生のヒエラルキーの頂点に立ち、あこがれの存在になったのです。
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とにかく頭の先から爪の先までアメリカにこだわるのが渋カジの流儀。アメカジが世界的に見直されている今、当時のアイテムがまた新鮮に映る(写真:筆者提供)
そのうわさが口コミで都内の高校生に徐々に伝わり、フォロワーが増え、1988年頃から彼らのファッションは渋カジ(渋谷カジュアルの略)と呼ばれるようになります。そして1989年に、当時の2大若者情報誌『ホットドッグ・プレス』と『ポパイ』が大々的に取り上げたことにより、その波は全国に広がります。ここで、渋カジは東京の一極集中型の流行から、世代全体を巻き込んだ全国的な流行に発展するのです。
1990年には、紺のブレザー(紺ブレ)を主体とした米東海岸トラッドのキレカジと、バイカー寄りのハードアメカジに二分化します。そして19911992年春のデルカジ(モデルカジュアルの略)を最後に、さまざまなスタイルに枝分かれするようなかたちで終焉するのです。
この一見バラバラな19851992年春までのアメカジがベースにあるファッションは、断絶したものではなく、同じ担い手が新しい物を貪欲に取り入れていった進化の歴史でした。
渋カジを経験したのは、19671977年生まれの約10年の世代で、その中心は19711974年生まれの団塊ジュニア世代でした。ファッション史的にも珍しい男女共通の流行でしたから、世代全体を巻き込んだというのは決して大げさな表現ではありません。東京と地方の違いは大きくありましたが、東京を中心とした大都市圏のファッションに興味のある高校生は、みんな渋カジでした。この時期の渋谷は、団塊ジュニアの巨大なアフタースクールみたいで、街がキラキラ輝いていました。
不遇の世代がつくった唯一にして最大の文化
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「渋カジが、わたしを作った。」(書影をクリックするとアマゾンのサイトへジャンプします)
渋カジはメディアが提案したものではなく、ストリートに集まる高校生たちが発信した、という点で画期的でした。当時、実売80万部を誇った『ホットドッグ・プレス』と同40万部の『ポパイ』は、19851988年はDCを中心とした姿勢を崩さず、渋カジを取り上げることがありませんでした。でも、その流行があまりにも大きくなり、無視できない状況になったから、ようやく1989年に重い腰を上げたのです。今では何かと揶揄されることの多い団塊ジュニアですが、この時代は高校生にもかかわらず大きな流行をつくるだけのパワーがあったのです。
私が今、渋カジに再び注目した理由は3つあります。ひとつは、渋カジという日本初のストリートファッションは、ファッション史において非常に貴重だということ。私は渋カジの中心にいたわけではありませんが、同時代を生きてきた1人として、この画期的なムーブメントを記録しておきたいと考えました。
もう1つは、ファッションに対する興味が薄いと言われる若い世代を刺激できないか、と考えたこと。東京では、2000年代に入ってから大きなファッションのユースカルチャーが生まれていません。しかし、30年前の高校生が渋カジをつくったように、若くても時代を牽引するような文化をつくることは可能です。「渋カジ」に刺激を受けた彼らが、渋カジや裏原とは違う、今の時代を反映した新しい若者文化を誕生させられるかもしれません。
最後は、日本における団塊ジュニアの存在感の大きさです。言うまでもなく、団塊ジュニアほど社会の歪みの犠牲になってきた世代はありません。子供の頃からつねに競争にさらされ、受験戦争、就職氷河期を経験し、失われた25年の中を暗中模索しながら生きてきた世代です。人口における比重も、消費における存在感も大きな世代ですが、一方で未婚率の高さや、正社員率の低さなども指摘されており、将来的に「大きな荷物」になる可能性も取りざたされています。すなわち、この世代の動向は、今後の日本を大きく左右することになるのです。
私は、団塊ジュニアは不遇の世代ではなく、七転び八起き世代だと思います。渋カジブームをつくり出したこの世代が、何度転んでもはい上がる力を発揮すれば、日本にももっと明るい未来が見えてくるかもしれません。
増田 海治郎(ますだ かいじろう) Kaijiro Masuda
ファッションジャーナリスト
1972年埼玉県出身。神奈川大学卒業後、出版社、繊維業界紙などを経て、2013年にフリーランスのファッションジャーナリストとして独立。「GQ JAPAN」「Men’s Precious」「LAST」「SWAG HOMMES」「毎日新聞」「Fashionsnap.com」などに定期的に寄稿している。年2回の海外メンズコレクション、東京コレクションの取材を欠かさず行っており、年間のファッションショーの取材本数は約250本。メンズとウィメンズの両方に精通しており、モード、クラシコ・イタリア、ストリート、アメカジ、古着までをカバーする守備範囲の広さは業界でも随一。仕事でもプライベートでも洋服に囲まれた毎日を送っている



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