機関銃の社会史  John Ellis  2017.10.12.

2017.10.12. 機関銃の社会史
The Social History of the Machine Gun     1975

著者 John Ellis

訳者 越智道雄 1936年愛媛県生まれ。広島大大学院博士課程修了。現在明治大商学部教授。

発行日           1993.4.10. 初版第1刷発行
発行所           平凡社

1986年版への序文
By スミソニアン研究所 国立アメリカ歴史博物館 軍隊史部門 
エドワード・クリントン・エゼル
1976年に出版されたとき、大きな反響を巻き起こし、学術的な出版物や一般向けの雑誌や新聞で広く書評に取り上げられ、議論された
軍事技術の社会史に取り組んだのはエリスが初めてではないが、彼は非常な才気をもってこの問題に取り組んでおり、読者は殺人の機械化、産業化について熟考を迫られる
エリスの主張は単純明快。互換性部品によって大量に生産される機械の時代の産物である旋条銃身を持つ機関銃は、1860年代に導入されて以来、第1次大戦の前夜までに大きな進歩を遂げた。19世紀後半、機関銃はもっぱらアフリカ、アジア、その他の土地で少数のヨーロッパ人兵士が原住民の大群を打ち負かすための道具として使われたが、第1次大戦までには自動的に作動し、人間が持ち運びのできる銃へと技術的な発展を遂げ、突進してくる敵に対して固定陣地から高速で発射できたし、別の地点に移動して再び速やかに銃撃に入ることも出来た。最初の自動機関銃の発明者であるマクシムは、それを「殺人機械」と呼んだが、ヨーロッパのほとんどの国の軍首脳部は、自国の統治権の強化に役立てるために機関銃を初めて採用した時、自らの若者を殺すために利用する可能性、つまり「失われた世代」を生み出すという可能性に気づかなかった
エリスは、「銃は、他のあらゆるものと同様に、社会的な歴史を持っている」ことを確立しようとする。彼によれば、機関銃が兵器として用いられるようになった理由のうちで、それがより優れた技術製品であるからというのはごく一部でしかない。軍の士官階級の目標、発明家たちの没道徳的な問題解決への関心、アフリカやその他の土地への領土拡張の嵐、そういったことすべてが機関銃の開発、採用、買い入れ、製造などの決定に影響を与えた
機関銃は、アメリカ人ガトリングによって発明されたが、彼の願いは、自分の武器が強いる莫大な損傷に人々が気付いた時に、戦争は中止されるだろうというものだった。

第1章        新たな殺戮法
軍事技術の歴史においては、特定の社会集団に共通の願望や偏見が、性能という直接的な問題に劣らず重要であることを本書で示したい ⇒ 銃もまた社会的な歴史を持っている
ヨーロッパ士官階級の時代錯誤な理想、19世紀資本主義のメシア的性質、アフリカそのたへの帝国主義者の侵略、それを支えた人種差別的な考え方が、ありのままの性能の評価より、機関銃の歴史にとっては重要だった
軍事史においても、より広い社会的背景に照らしてこそ初めて理解できる
個々の銃の火力を向上させるための初期の努力は、発射速度よりも一回の発射量を増やすことに限られ、最初の速度を上げる試みは1339年のオルガン銃
1626年 スコットランドのドラマンドが、50本の銃身を円筒状に束ねて連射できる銃を作り上げた
1663年にはイギリスのパーマーが弾を発射した時の反動と銃身を通って流出するガスの圧力を利用して、装填・発射・再装填する可能性について王立協会に論文を提出
1718年 イギリスのジェームズ・パクルが、1本の銃身と回転式の薬室からなる連射銃を発明したが、回転式ということ以外は使い物にならず
19世紀になって信頼制の高い自動火器を作る技術的困難が克服されると、人々が真っ先に着目した利点は、労使の争いに利用できるのではないかという可能性で、軍からは長いこと相手にされなかったが、州兵や企業の自警団員に支給されると、彼らは不平を唱える労働者を黙らせるには驚くほど経済的な手段になることに気づく
1862年ガトリングがクランクで操作する機関銃を発明、1分間に200発の連射が可能に
1884年にはマクシムが一旦引き金を引けば、全自動で連射し続ける高性能の機関銃を発表
1892年アメリカのブラウニングは、銃身のガス圧で作動する全自動式銃を開発
機関銃が19世紀に急速な進展を見せた製造技術・金融財政システムにおける根本的な変革である産業革命の産物だったことから、巨大な技術躍進を支持する人間にとって、機械はすべての問題に対する答えであり、人を殺すのさえ機械化し、より効率化できる事柄だったが、軍のほとんどはその考えについていけなかったために欧米における軍部はその事実を認めようとしなかった ⇒ 仕官クラスの大部分は産業革命から取り残された地主階級の出身であり、軍こそ産業革命以前の特色を残す最後の砦で、伝統的な軍隊の発想をほとんど変えることがなかった
1914年になってすら、職業軍人の多くが小銃と銃剣を究極の武器と見做していた
栄光に満ちた突撃と個人的な武勇のチャンスを機械などに明け渡すわけにはいかなかった
一方で、帝国主義者たちにとっては、機関銃のお陰で次々に植民地を拡大させていったが、その事実すらも本国のイギリス人にとっては僅かな数の英雄の手柄を称えることに夢中で、機関銃によってもたらされた勝利だとは喧伝されなかった
1次大戦の防衛戦で機関銃が圧倒的な威力を発揮するに至って、両陣営とも前に進めなくなって塹壕戦が4年も続いた
機関銃という大量殺戮の機械が戦場での決定的な武器となり、あらゆる世代のヨーロッパの若者の大殺戮を招き、全世界の歴史に影響を及ぼす傷痕を残す。機関銃に関するこの「社会史」において取り扱うのはその辺の問題で、単に技術開発の記述ではなく、機関銃の歴史が当時の社会について何を教えてくれるか、その社会の性質が、機関銃をめぐる話に付きまとう貪欲、偽善、冷酷、頑なな偏狭さを説明するためにどれほど役立つかという研究

第2章        産業化された戦争
南北戦争において、実践で役立つ機関銃が初めて現れ、それ以後急速に発達
19世紀初頭のアメリカ国内の深刻な人手不足が機械の発達と集中生産設備の導入を促す
機械の大半はイギリスで発明され、職人階級が存在しないアメリカに来て活用が進む
武器の製造と工作機械の結びつきが確立され、最初から大量生産体制が整っていた
その時期にタイムリーに勃発したのが南北戦争で、初めて新しい技術の威力が発揮された
11人の兵士は消耗品に過ぎず、1人でも多く敵を殺傷することができる資材面の能力こそが重視、「過剰殺戮」という概念が初めて戦争に導入され、産業化された戦争の恐ろしさの一端を知ることができた
最初に機関銃の特許をとったのは1862年のガトリングで、カム方式を取り入れ工作機械技術の進歩を十二分に活用、12インチの車輪を付けた全長36インチの台車に載せた
64年ガトリングはリンカーンに直接手紙を書いて売り込んだが役人も軍人もあまり興味を示さなかったため、フランス砲兵隊経由ナポレオン3世に売り込む ⇒ フランスは興味を示し、見本を送れと言ってきたのに対し、見本は送れないが100丁の注文なら応じると返事したためフランスは興味を失う。その直後アメリカ政府があらゆる武器や軍需品の輸出を禁止したため、機関銃がアメリカ国外に出ることはなかった
1866年初めてアメリカ軍に採用され、その翌年にはイギリスが採用、日本も何丁か購入、翌年にはロシアが、2年後にはトルコ、73年にはスペインまで輸出され、遂にガトリングの会社は成功する
ただ、アメリカでもイギリスでも相当数の特許が認められているが、そのうち実際に試験されたり実現したものは僅かしかない
初期の機関銃はクランク式のため、連射をするためには人が銃の後ろでハンドルを回し続けなければいけない
1884年マクシムは完全自動式の機関銃を開発 ⇒ 発射の際の反動の力を利用
イギリスにも売り込まれたが、第1次大戦開戦当日まで、機関銃の性能には感心しても、そのが戦場でどの程度まで使えるかというところまで評価できなかった
一旦大戦が始まると、本格的に産業化された戦争の恐ろしい論理は、どんな機関銃メーカーが抱いていた野望をも遥かに超える需要を生み出した
アメリカ国内に於ける機関銃は、19世紀後半~20世紀前半の間、産業資本主義の防衛のために積極的に活用 ⇒ 激しい労使紛争における標準的な武器で、1863年のニューヨーク・タイムズへの抗議運動への対応策として用意されたのが嚆矢。1890年代には機関銃の装備が標準化。コロラドの鉱山労働者の労使紛争で効果を発揮

第3章        士官と紳士
南北戦争は、技術の進歩が実戦の成り行きを左右した最初の戦争で、急速に南北両陣営の生産能力を消耗させていったのは、勝者か敗者か他に道のない、とことんまで行きつく壮絶な戦いだったからだが、あれだけ総力戦的な特徴を備えていたのは、アメリカの常備軍が小規模で、軍人にも戦争というものの固定観念がなかったから ⇒ ヨーロッパでは、技術進歩が必ずしも戦争に役立てられていなかったこともあるが、由緒正しい家柄の貴族仕官が多く戦術理論も歴史の古いものだった
古くさい考え方と新兵器との矛盾の中で最も奇妙なのは、軍部が騎兵隊に固執したことで、馬の速さによって生み出される効果、突撃の魅力、冷たい刃の恐怖といったものは小銃などの比ではないとまで言われていた
いち早く取り入れたのがロシアで、日露戦争までにはクランク式からマクシムへと入れ替え砲兵隊の中に機関銃隊を設けた

第4章        植民地の拡大
アフリカでは、自動火器の威力はあきらかで、略奪者や夢想的冒険家、一般人や軍人など、僅か一握りの白人がアフリカ原住民の抵抗を軽くあしらい、全大陸を支配下に収める
帝国主義進出を支える全体的な精神は人種的偏見に基づいていたのは間違いない事実で、優れた軍事技術は劣った人種を支配するために神が白人に授けてくれたのだと考えた
1869年イギリス陸軍はガトリング銃の購入を決定、実際の戦闘で使ったのは74年から
イギリスの帝国主義進出の中で機関銃を最も有効に使ったのはセシル・ローズ

第5章        悪夢――191416
1次大戦は、産業大国の参加により、総力戦でありそれだけに消耗戦だった
機関銃の威力が際立ち、各陣営とも空前の大掛かりな規模で生産に入る
開戦直後から機関銃隊が組織され、戦争のやり方が変わってくる ⇒ 一番進んでいたのはドイツ軍
機関銃に対する認識不足は2通りの形で現れる ⇒ 戦争の全過程を通じて多くの指導的な将軍たちは自分の隊に機関銃が必要だと認めなかっただけでなく、敵軍が機関銃を持っているからと言って自軍の戦略を見直す必要も認めなかった
攻撃よりも守備に威力を発揮したので、地上戦は開戦とほぼ同時に塹壕戦となって膠着 ⇒ 最初に塹壕を掘ったのは19149月のドイツ軍
司令官たちの考えは、戦闘は小細工や策略を弄して勝つものではなく、勝利は最高の道徳心を見せる司令官とともにあるというもの
参戦した詩人たちの詩に一貫して込められているのは、恐怖と混乱で、混沌の瀬戸際に生きていると感じ、機関銃の威力の前では、人間などただの部品に過ぎないという新しい考え方がよく現れている

第6章        時代の象徴
1918年以降、兵器として機関銃の名が響き渡ることはなくなったが、特殊なタイプの機関銃が、一見平和そうな都市の街頭で再び脚光を浴びる運命にあった ⇒ 1918年夏、トンプソン・サブ・マシンガン(短機関銃)の最初の試作品が登場
アメリカのトムスン大佐は、この銃を塹壕戦で敵の塹壕を掃射するための接近戦用に開発したが、終戦とともに軍の需要は減り投資を回収できなかったため、警察に売り込む ⇒ 最初は鳥打小散弾を詰めた銃で、労働争議での威嚇用に使われた
トミー・ガン ⇒ 禁酒法時代のギャングたちが頻繁に使用、トンプソン銃の名を世界に轟かせた。本格的にギャングたちの闘争に使われたのは1925
ギャング以外にもフロリダ周辺で禁酒法の時代酒の密輸で荒稼ぎをしていた小型船がたくさんいたがそれを襲う海賊の標準装備にもトミー・ガンが使われた
その他にも銀行強盗などの暴力犯罪にも使われたほか、無法者の離れ業はトミー・ガンの使用で一層評判を高めた
ギャングの銃撃戦で有名なのは、〈おふくろ〉パーカーのフロリダ湖畔の一件と、〈ベイビー・フェイス〉ネルスンが映画もどきの派手な立ち回りで死んだ一件
ギャング映画が暴力を容認し、賛美すらしたが、それは当時の多くのアメリカ人のシニカルな精神状態や、理想よりも暴力的な力への信頼を反映 ⇒ 1935年頃からギャング映画の人気は下り坂となったが、67年の『俺たちに明日はない』の大当たりで復活
法と秩序の手に握られた機関銃は、逆らうものすべてを虫けらのように抹殺する火力を持つ冷酷な全能の権力機構の象徴という、新たな意味を帯びる
ほかにもヒット映画2本に登場、現代社会に個人が立ち向かってもどれほど無力か、ということを表すために使われた ⇒ 『イフ』『ワイルド・パンチ』
機関銃は様々な形で、時代を象徴するものとなってきた ⇒ 作動した時のむき出しの暴力性と無差別で致命的な効果は、ますます複雑になり、個人の価値を失わせていく世界の中で自己主張しようとする現代人の必死の試みを表わす有効な象徴たらしめている
機関銃は、新しい殺人技術の前では個人など何の価値もないという考えの誕生を促したが、以降技術革新からは遠く取り残され、今度は逆に機関銃が人格化され、日増しに自分の無力を思い知らわれる世界で、何とか成功しようと絶望的な試みをする者の手段になっていた。少なくとも空想の世界では、技術は自らに反逆した

第7章        新しい戦争の流儀
1次大戦以降の機関銃の歴史は、民間人及び軍部の全般的な態度を左右する焦点としては、次第に有効性を持たなくなってきている ⇒ 機関銃の威力が分かってそれなりの戦術が編み出される一方、さらに強力な戦車の開発により新しいタイプの地上戦が考案
軍事理論と実践の発達が、具体的な社会・経済条件と、人々のその受け止め方の両面で、社会一般の性質と如何に密接に結びついているかを明らかにもする
軍事史も、他のあらゆるものと同様、社会的な現象であり、兵器のようなものですらその社会的な歴史を持っている ⇒ 軍事技術の領域ではより濃く反映される
発明が生まれるためには、経済や社会の大きな変革からの刺激が必要で、機関銃に対する初期の反応を決定したのは、そういった変化の不在であり人々が必要性を感じなかった
社会構造の変化に応じて戦争のやり方にも多大な影響 ⇒ 産業技術の発達が新たな生産能力を生み、戦争のやり方にも変化をもたらした


(天声人語)ラスベガスの連射音
20171040500
 1922年、米国でこんな広告がお目見えした。「広い土地や牧場、農園を守るのに理想的な武器です。全自動なら1分間に1500発、半自動なら50発撃つことができます。トンプソン銃は、簡単、安全、頑丈で信頼できます」。個人向けに売り出された機関銃だ南北戦争で使われ、第1次大戦で広がった機関銃は戦争を大きく変えた。エリス著『機関銃の社会史』には開発に携わった人物の言葉がある。「あの速射性があれば兵士100人分の仕事を1人でまかなえるだろう」そんな危険な武器が野放しになっているのが、どうしても信じられない。米国ラスベガスの野外コンサート会場が狙われた乱射事件である。にぎやかな音楽に続く、あの連射音。もし自分がその場にいたらと考える銃を規制すべしとの議論は米国で何度も起きては、つぶれてきた。学校で銃乱射があっても、幼児が家にあった銃を誤射して死亡しても。銃撃を防ぐため、もっと銃が必要だとの声すら出る「ジユウ」と「ジュウ」。銃規制に反対する人には、二つは分かちがたく結びついているようだ。自由な市民には、いつでも専制政治に立ち向かう権利があり、そのため銃がいる。かつては意味のあった議論でも今は日々の安全を損ねているだけだコンサートで演奏していた一人が「私は間違っていた」とSNSに書いた。これまでの考えを改め、銃規制が必要だと訴えた。そんな声が今度こそ広がってほしい。自由な社会を銃から守るために。

米ネバダ州ラスベガスで1日午後10時(日本時間2日午後2時)ごろ、ホテル周辺のコンサート会場を狙った銃乱射事件があり、現地警察によると、少なくとも58人が死亡、500人以上がけがをした。容疑者は1人とみられ、自殺したという。米メディアは「米史上最多の犠牲者を出した銃乱射事件」と伝えている。
 野外の音楽祭に詰めかけた2万人以上の観客に、自動小銃による無数の銃弾が襲いかかった。1日夜、米西部ネバダ州ラスベガス。人々は恐怖に泣き叫び、逃げ惑った。秋の夜のイベントは凄惨な現場に一転し、少なくとも58人が死亡する、米国史上最悪の銃乱射事件となった。
 泣き叫んで走り出そうとする人に、「いま行ってはダメだ」という声が響く。背後では銃乱射の音が鳴りやまない。現地の報道は悲惨な状況を再現している。
 ペットボトルや缶などが散乱した広場には、黒地のショートパンツの女性が横向きに倒れ、両脚には血が流れた痕。この女性に向き合うように黒いパンツ姿の女性も倒れている。
 ツイッターなどに投稿された動画によると、銃撃が始まったのは、事件が起きたカントリーミュージックの音楽祭会場で男性歌手が歌っている最中だった。斜め向かいの金色に光る巨大なカジノホテルから、自動小銃で連射された弾丸が襲いかかってきた。
 警察によると、容疑者はホテルの32階から乱射。「ダダダダダダダ」とマシンガンで何百発も連射しているような乾いた音が鳴り続けた。数十秒の動画の間に、発砲は少なくとも10秒前後が、2度続いた。
 当初、聴衆は銃声が聞こえても、何が起きたのかわからない様子だったが、演奏が止まり、異変に気づいた人々は悲鳴を上げたり、「頭を下げろ」と叫んだりしながら、その場にしゃがみこんでいた。
 コンサート会場にいたという男性は米CNNの取材に対し、「花火のような銃声が聞こえ、ステージから歌手が逃げたときに、何か悪いことが起きていると感じた。みんな泣いたり叫んだりしながら、必死に逃げようとしていた」と話した。遮るものがない上空から狙撃されたことで、犠牲者が増えたとみられる。
 実行犯と認定されたのはラスベガス近郊に住むスティーブン・パドック容疑者(64)。滞在していた「マンダレイ・ベイ」の32階から地上に向けて銃を撃っていたとみられている。警察が部屋のドアを爆破して突入する前に、自らを撃って自殺したという。ホテルの部屋からは10以上のライフルが見つかったという。単独犯でテロ組織との関係は見つかっていないとしている。
 CBSインタビューに答えた容疑者の兄弟は「宗教や政治的な関わりは全くなかった」と話した。一方、過激派組織「イスラム国」IS)系のアマク通信は2日、「ISの戦士が実行した」と配信。現場で自殺した実行犯の男は「数カ月前に改宗したイスラム教徒」と主張している。
 事件現場となったホテルから約1キロ北にあるホテル「ニューヨーク・ニューヨーク」にあるレストランの女性従業員(53)が、事件直後の様子を朝日新聞の電話取材に答えた。女性によると、女性は事件発生時にホテルの外にいて、「パパパパパ」という乾いた銃声を聞いたという。その直後に、逃げる人々がホテルに避難してきた。ホテルは地下にある従業員用の広間を開放し、宿泊客やカジノ客、外から避難した客100人以上を集めていたという。ほとんどの人が震えており、泣いている人も多かったという。
 レストランは24時間営業だが、事件直後に閉店。当局の許可があるまで再開できず、めどは立っていないという。女性は「容疑者が死亡したと聞いて、ホッとしている。でもこんなこと初めてで、とても恐ろしい」と話した。
 事件の犠牲者数は少なくとも58人となり、昨年のフロリダ州のナイトクラブで死者49人を出した乱射事件を超え、米近代史上最悪となった。
 トランプ大統領2日、声明を発表し、「愛する人を失った何百人の人が悲しみに暮れている。彼らの痛みと喪失感は計り知れない。この悲しみと恐怖の時に、米国民は一つになろう」と呼びかけた。また、哀悼の意を示すため、半旗を掲げるよう求めた。4日にラスベガスを訪れ、捜査当局や犠牲者の家族と面会することを明らかにした。
 パドック容疑者が滞在していたホテルは、巨大なカジノホテルが立ち並ぶ目抜き通り「ストリップ」の南端に位置している。水族館も併設し、親子連れにも人気のホテルだ。ストリップ沿いはネオンの光が夜中まで道を照らし、カジノや、ショーを終えた観光客がそぞろ歩き、夜遅くになっても人波が絶えない。米大都市の中では珍しく、夜道を歩いてもあまり危険を感じない場所だった。(ワシントン=宮地ゆう、香取啓介)
米国での主な銃乱射事件
19994月 コロラド州コロンバイン高校で生徒2人が教師や生徒ら13人を射殺
20074月 バージニア州のバージニア工科大学で韓国人学生が32人を射殺
111月 アリゾナ州トゥーソンであったギフォーズ民主党下院議員(当時)の集会で男が乱射し、6人死亡。ギフォーズ氏は頭を撃たれ一時重体に
127月 コロラド州オーロラの映画館で男が乱射し、12人死亡、58人負傷
  12月 コネティカット州のサンディーフック小学校で20歳の男が校舎に乱入し、児童を含む26人を射殺
139月 首都ワシントンの海軍施設で男が乱射し12人が死亡
1512月 カリフォルニア州サンバーナディノで、イスラム過激派の夫婦が住民14人を射殺
166月 フロリダ州オーランドのナイトクラブで男が銃撃。49人が死亡
176月 バージニア州アレクサンドリアの野球場で男が乱射。練習中の下院議員ら4人が負傷
  10月 ネバダ州ラスベガスで男が銃を乱射し、少なくとも58人死亡、500人以上がけが


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