ニュースクール 紀平英作 2017.10.19.
2017.10.19.
ニュースクール 20世紀アメリカのしなやかな反骨者たち
著者 紀平英作 1946年東京都生まれ。歴史家(近現代世界史)。京大名誉教授
発行日 2017.8.25. 第1刷発行
発行所 岩波書店
第1次大戦の愛国熱に揺れるアメリカで、学問の自由を求める知識人たちが立ち上げた「New
School for Social Research」 この小さな学校がやがて、ナチスに追われた学者を受け入れるなど、独自の役割を果たしてゆくことになる。デューイ、ビアード、ジョンソンからアーレントまで、学校に関わった人々の思想と行動を通して、20世紀アメリカのリベラリズムを描く
カバー絵
アメリカ人画家ベントンが描いた壁画《現代のアメリカ》(10枚)のうちの1枚〈都市の活動〉(1931年)。ニュースクールの新校舎建設の折に描かれ、長く同校3階の教室を飾っていた。現在はメトロポリタン美術館蔵
序章 反骨者たちのアメリカ――20世紀アメリカはいかなる大学生を生み出したか
世界のいたるところに莫大な人的消耗をもたらし、また経済的・物質的影響を与えた第1次大戦を起点として現代世界史は始まる
その1919年初頭、マンハッタン島のチェルシーに異形の学校「ニュースクール」が創設
「ジャーナリズム、地方行政、労働団体さらには社会科学研究組織に加わろうとする」市民的意欲のあるものであれば、年齢を問わず参加を呼びかけた社会人対象の学校
1931年グリニッチ・ヴィレッジに移り、ウィーン生まれの建築家アーバンの設計で新校舎建設 ⇒ 66 West 12th Streetに今も残る
既成の大学で著名となった有力学者を中心としたことが学院を特異な存在にした
各領域で専門化を図り、象牙の党たる威信を高めようとしていた既存の有力大学に対し、閉ざされたエリート的空間よりも、人文社会科学が持つ総合性と実践性を謳い、日常的に市民社会の担い手・知識人であることを目指していた
中心となったのは、コロンビア大教授で哲学者のジョン・デューイの市民的共同体への関心を共有し、政治的には20世紀初めから登場したプログレッシブ(革新主義潮流)あるいは社会民主主義的運動を支持してきたコロンビア大の3教授、チャールズ・ビアード、ジェームズ・ロビンソン、ウェズリ・ミッチェル。講師陣は誰もが既存の地位あるいは権力に屈することを潔しとしない、強烈な個性の反骨者で、特に行動的であったのが特徴
生徒の側でも学院で人生を再発見した人物も多く、その代表が俳優のマーロン・ブランドで、無頼の少年期を経て学院の演劇セミナーに参加して開眼、4年後に『欲望という名の電車』で鮮烈デビュー。ブランドを指導したステラ・アドラーはユダヤ人なるがゆえに陰険に晒され続け、常にリアルであれ、自らの感情に基づく演技をと唱えたそのリアリズムこそが20世紀半ば以降のアメリカ演劇の変革を促した
日系移民の国吉康雄(1889~1953)もシアトルから単身入国、艱難辛苦の末ニューヨーク画壇で独立の地歩を築き、1929年新設のニューヨーク近代美術館の開設記念展覧会で19人の最も精力的な現代アメリカ作家の1人として展示されたが、新しいアメリカ絵画の独創性を示すとして称賛される一方で、東洋的で「異端的な美の理念に身震いがする」と人種差別的感情を剥き出しにした批評が交錯したのは、彼の存在の複雑さを物語って余りある。彼は市民権が認められなかったにもかかわらず、36年以降太平洋戦争期を挟んで50年までの長きにわたり講師に迎えたニュースクールは、ニューヨークの奥行そのものだった
幅広い社会人教育と人文社会科学的研究を自由社会の基盤と見做し、試行錯誤があっても、あるがままの観察から得られる経験的知識こそが世界を繋ぐと思い描く
第1章
「極端」な戦争のただ中から――あくまで異形のままに
第1次大戦の半ば、国際秩序の主要権力が次々と倒壊する中、帝国の時代は終わりを告げ、世界のいたるところで巨大な社会転換を生み出す引き金が引かれようとしていた
アメリカは参戦前から経済危機に見舞われ、参戦後は反戦運動を含めて批判勢力が台頭、社会的混乱の中でニュースクールが生まれる
戦争を契機に合衆国国内で始まった、強固な新しい政治社会秩序を求める論理が突出、戦争によって刺激されたアメリカン・ナショナリズムの噴出過程と見做せるが、そのナショナリズムは1つに収斂せず、相互に激しくぶつかり合う形の複数の水脈を持った点が特殊
20世紀初頭の15年間にアメリカ社会は毎年90万人の移民を受け入れ、アングロサクソン中心の社会に全く異質の南東欧からの貧しい人々が流入 ⇒ 1910年には総人口9,197万人のうち35%強が新移民で、その多くが大都市に民族集団ごとの社会を展開、増え続ける労働力の供給源として組み込まれていった
大戦勃発によって突然国民国家的ナショナリズムが暴力的なまでの勢いで割り込み、新たな社会基盤を作ろうとしたため、伝統的家柄を誇る人々やアングロサクソン中産階級を中心とした勢力は合衆国社会における新たな権力を誇示、明確な秩序形成運動を展開。その中で早い時期に戦時熱に近いものを煽ったのが元大統領セオドア・ローズヴェルトで、「純粋アメリカニズム」は合衆国内のドイツ的なものを敵とみなし、ドイツ移民の強制収容さえ主張するまでに先鋭化
反ドイツに加えて、アイルランド系移民は反イギリス色を鮮明にし、ロシア系ユダヤ人はロシアに進出した帝政ドイツに共感、ポーランド系やボスニア系などの民族集団も母国の独立を支援する動きが活発化し、親イギリス系の巨大なナショナリズムと随所で衝突
アメリカ以外の母国への帰属心を残す移民を徹底した公教育で星条旗への忠誠を誓わせ
た純粋アメリカニズムの運動は、参戦とともに昂進
戦時の愛国運動が最大の暴力性を発揮したのは、反戦主義者あるいはラディカルな社会運動にターゲットを絞ったときで、裁判により大半の社会運動指導者を戦後まで獄に繋ぐ
参戦支持だったリベラル知識人が、時の経過とともにその異様な戦時状況に衝撃を受け、戦後に向けて新しい協力的国際組織を構築しようとする強い関心を示す ⇒ ウィルソンの「勝利なき平和」論とも共鳴し、国民国家間の平等で協力的な関係を世界規模で「組織」しようとする、新しい国際主義、そして「統治されるものの同意に基づく政府」論へと展開していくものだったが、戦後のパリ講和会議が作り上げた国際連盟は、彼らの期待には程遠かった
戦後を支配したのは凄まじいまでのナショナリズムであり、保守的な国家主義的勢力の横行だった
コロンビア大学では、参戦後に徴兵反対行動をとった教授2人を解雇したが、デューイやビアードは表現の自由の侵害だとして抗議の辞任、ロビンソン、ミッチェルも後を追い、ニュースクールの設立へとつながる
第2章
歩み出すしなやかな反骨者たち――開学後の苦闘・再編・挑戦
1919年2月ワシントンのコロンビア特別地区から設立認可を受けた新設の社会人教育学校として開校したが、開設地はニューヨークのチェルシー
設立時の講師や理事にロンドン大学の関係者が協力した事実は興味深い ⇒ イギリス労働党に流れ込むフェビアン社会主義あるいはそれを育てた大西洋リベラリズムを共有していたことを示すもので、彼らが共通に口にした目標は民主主義の再生
1920年米下院が圧倒的多数で1年間の全面的な移民禁止法を可決、翌21年には年間移民の総枠を規制する移民制限法を可決し、国別に割り当てをした ⇒ 年間15万人でアジア系移民は全面的に禁止
フォード車の躍進を中心としたフォーディズム ⇒ 部品の徹底した種別と均一化、完成工程に機械的な移動組立方式を開発した自動車産業の高い生産性にその核心があり、大衆までが自動車を持つアメリカ的生活様式と一体の社会思想をフォーディズムと総括
初代校長のロビンソンが労働争議の裁判で被告支援に名を連ねたことから、一部でボリシェヴィキとさえレッテルを貼られた苦難の船出 ⇒ 生徒が集まらず3年で座礁
『ニュー・リパブリック』誌の編集者でリベラル経済学者として知られたジョンソンが学長に就任して立て直し ⇒ 専任教員を大幅削減し、講師と入れ替え。ケインズ他イギリスなどからも際立った各分野の著名リベラルが教壇に招かれたが、その相当数がユダヤ系で、受講者にもニューヨークのユダヤ系住民、移民2世などが増加
25年頃から軌道に乗り始め、第2次大戦まで合衆国の有力高等教育機関の多くは学生から教員までユダヤ人割り当ての上限を決めるなどの差別を設けており、特に東欧系ユダヤ人移民にとっては高い壁となっていたこともあって、ニュースクールの人気が高まった
第3章
追う社会と追われる人々――亡命大学の設立
20年代を通じてニュースクールの知識人が積み上げた経験は、自由にせよ人権にせよ、それらを保障するのは制度としての立憲体制だけではなく、日常的に、また社会の動態の問題として保障されているのでなければ、アメリカ社会は民主主義を謳いながらも体内に異様な怪物を抱え込んでおり、その保守的排他性は深刻な社会的危機を引き起こす危険性を孕んでいるとし、行動者であることを自らに課していた ⇒ その典型がサッコ・ヴァンゼッティ裁判事件での対応。アナーキストと目された人物が赤狩りの余波で強盗殺人事件の加害者として死刑の判決を受けた冤罪事件の再審請求に積極的に関与、確たる反証がある以上、司法でも間違いはあり得るので再審の機会は確保されるべきと説いたが棄却
1933~41年ドイツから受け入れた移民は105千人(年間枠27千) ⇒ 思想的に左翼を嫌う国務省などの意向が選別に際して重要な判断材料となった
ニュースクールは、33年以降知識人難民の受け入れ機関として図抜けて精力的だった
ナチスがユダヤ人などの追放を始めたのが33年3月、ニュースクールはすぐに難民受け入れに動き5月には「亡命大学The University in Exile」の構想を発表、ニューヨーク州もGraduate School of Political
and Social Scienceとして認可、15名のドイツ人学者を招聘
第4章
リベラリズムの意義を問い続けて――ニューディールとともに
ニュースクールは、ニューディールの根底にあったリベラル政治論に与した
恐慌初期の共和党大統領フーヴァーは、雇用と労働のありようは企業に委ねるのが原則で、連邦政府による直接的な失業者救済の声を拒否し続けたが、危機的現実を前に持続が困難となり、民主党の新しいリベラル政治論が台頭、社会的公正の実現と富の緩やかな再分配が政治の長期目標だとした
ニュースクールは、続々と亡命者を受け入れる
第5章
さらなる民主主義を求めて――大戦から戦後に及ぶ転換
政治的・社会的リベラルとしてアメリカ社会で不当に差別されていた人々、あるいは抗う人に寄り添おうとした ⇒ 48年以降の反響の嵐だったマッカーシズムと黒人市民権運動の裏方としてニュースクールが動いていた
30年代後半から、ニュースクールは人種差別をアメリカ社会の深刻な問題とみるニューヨークにおける最も有力で先進的な言論・教育機関だった
いくつもの違憲判決が出ようと、南部はその種のナショナルかな上からの再編を拒否し続け、南部13州に網の目にように広がった黒人隔離差別そして選挙権の剥奪という制度は巨大な情念の重みを持つ地域の制度だった ⇒ ニュースクールが展開した言説は、キングが南部で続ける抗議の主体を支援し、力づける幅広い世論という質の活動へと転じた
第6章
20世紀アメリカ政治社会の光と翳――「西側世界」の形成に向けて
第2次大戦後のアメリカが進んだ道は世界国家への道程 ⇒ 国内的には、「豊かな社会」を経験して、日常的平穏を第1の関心事と見做し、刺々しい政治問題や社会的争点にはよそ事として無関心を装う、都市型と言われたそうした人間像の増加が顕著
第2次大戦後、アメリカ社会に拡がった反ソヴィエトの機運が、社会の隅々にまで同意を強要するマッカーシズムにまで広がるには、冷戦に直面したばかりの大衆社会の深層に、見知らぬ他者に対して不安を感じるような独特の不安定さが原因していた
1950年国内治安法成立に対しリベラル知識人が抗議、大学にも該当の教員を解雇するという形で浸透、個人名を記載するブラックリストが大学間に横行する中、ニュースクールを含むコロンビアを始めとする数校は思想の自由を死守する立場を維持
第7章
燦きの先に――20世紀を考え続けた2人の哲学者のまなざし
知的反骨者は、かつて盲目的な愛国主義としてのマッカーシズムに強く反発したように、その高い経済成長のあり方と、また豊かさをことさらに誇示する社会に対しても、一歩距離を置く立場でそのありようを凝視していた
反骨者は、プラグマティズムを信条として、より合理的な社会と人間のあり方を、なお経験的に考えようとしていた ⇒ 経済成長は事実としても、社会や世界全体の格差是正という意味でどれほどに多くの人々を潤しているのか。経済成長とは資本の支配をより強めるものではないのか
ニュースクールを場にそのような知のあり方を追求した知識人として、2人の哲学者、経済学者ハイルブローナーと政治学者ハンナ・アーレント
ハイルブローナーは、ガルブレイスと同時期、相互に影響し合う議論を構想 ⇒ 戦後のアメリカ経済成長主義を問題として取り上げ、それに批判的な独自の思想を展開
アーレントはナチ難民としてフランスから41年アメリカに流れ、51年から全体主義の脅威を説いて論壇の寵児となる ⇒ 19世紀後半からの帝国主義を通して芽生え、その後第1次大戦を機に運動化した一部の動きは、独特の世界観のもと国民国家の制度枠そのものを潰し、テロルと強制収容所を中心制度に持つことで、人間を社会から抹殺する運動であることを特徴としていた
2017.10.8. 朝日
(書評)『ニュースクール 二〇世紀アメリカのしなやかな反骨者たち』 紀平英作〈著〉
■欧州の知性とリベラルな磁場
第1次世界大戦終結直後の1919年、ニューヨーク市に一風変わった学校が産声を上げた。社会人のための、総合的で実践的な人文社会科学の研究教育を掲げたニュースクール(新学院)である。哲学者デューイら、コロンビア大学の看板教授たちが創設に尽力し、彼らのリベラルな精神が吹き込まれた。
新学院は当初こそ経営的に苦境に陥るが、大胆にカリキュラムと講師陣を入れ替え、軌道に乗った。30~35年には、社会科学分野における国際水準の業績とされる『社会科学事典』(全15巻)の刊行を成功させ、その学術的な地位を不動のものとした。この事典は米国のみならず欧州の研究者が多数、執筆参加し、31年には経済学者ケインズが訪問講演するなど、新学院は大西洋をまたぐ「知の架け橋」として機能した。
33年にドイツでナチスが独裁的権力を握ると、欧州から多くの亡命者を教授陣に迎え入れた。新学院が受け入れたのは、経済学者エーミール・レーデラー、同ヤコブ・マルシャック、財政学者ゲルハルト・コルム、政治哲学者レオ・シュトラウス、文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースなど錚々(そうそう)たる面々であった。こうして新学院は、欧州の知性をアメリカに移植し、亡命知識人を中心としたコスモポリタン的な知の拠点として発展した。
新学院の戦後は、2人の批判的知性によって代表される。一人は資本主義経済の負の側面を鋭く指摘した経済学者ロバート・ハイルブローナー、もう一人は全体主義をめぐって根源的な思索を展開した政治哲学者ハンナ・アーレントだ。
激動の20世紀を舞台に、欧州で迫害を受けた傑出した知性を世界都市ニューヨークに迎え入れ、新たな知を生み出す磁場が創出されたこと自体、一つの奇跡であった。こうした20世紀アメリカのリベラリズムの一断面を見事に切り取って見せた点に、本書の大いなる価値がある。
評・諸富徹(京都大学教授・経済学)
*
『ニュースクール 二〇世紀アメリカのしなやかな反骨者たち』 紀平英作〈著〉 岩波書店 2592円
*
きひら・えいさく 46年生まれ。京都大名誉教授(近現代世界史)。『歴史としての「アメリカの世紀」』など。
Wikipedia
ニュースクール大学 (The New School) は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区グリニッジ・ヴィレッジにある私立総合大学である。1919年創立で、 長きに渡り New School for Social Researchとして知られた。黒人史、女性史、映画史などを初めて取り入れるなど革新的な学校として知られた[1]。
概要[編集]
ニュースクール大学(The New School) は約100年前にCharles
Beard、ジョン・デューイ、James
Harvey Robinsonなどの著名なアメリカの知識人や教育者によってニューヨークで創立した。第一次世界大戦下に検閲や外国人排斥の動きが高まり[1]、当時の多くの大学の学問に対する後ろ向きな風潮に嫌気がさしていた彼らは、20世紀に直面する社会問題への意見を教授と生徒が正直かつ率直に交わす全く新しいアカデミックな場所を理想として思い描いていた。1919年、クリエイティブな学者と当時の諸問題を活発な質疑、討論、議論を通して理解したいと願う、知識欲旺盛な大人を結び付けるための学校を設立した。そして、設立者らはその新しい学校を“The
New School for Social Research”と名付けた。学士号を持たない社会人を受け入れ、第二次世界大戦時にはユダヤ系をはじめ亡命してきた多くの知識人を迎え入れ、1933年にロックフェラー財団の支援を受けて、学内に「亡命者の大学」(The
University iin Exile)が大学院部門として設立された[1]。
現在では、The New School for Social Research(現在は正式にはThe
New School)は、7つの部門(大学)からなる都市大学に成長した。The
New Schoolは幅広い年齢、社会的経験、モチベーション、目的、興味、才能を持つ学生によって魅力ある総合大学になった。
創立当初は設立者の興味分野である新しい社会科学、国際情勢、歴史、哲学などのコースを提供していた。教授陣や招聘学者には、Harold
Lansky、フランツ・ボアズ、ジョン・メイナード・ケインズなどがいた。その後まもなく、作文、パフォーミングアート、ファインアート、外国語、メディア研究、情報処理演劇などのクラスに続いて、演劇と文学分野のコースを追加した。
20世紀の最も先進的な頭脳によって、The
New Schoolに先進的なコースが生み出された。1948年、W・E・B・デュボイスが大学で初めてアメリカの黒人の歴史と文化の教鞭をとった。同じ頃、マーガレット・ミードが人類学コースをスタートし、またKarenHorneyとErich
Frommによって新しいアプローチの精神分析のコースもスタートした。1962年、Gerda
Lernerが初めての大学レベルでの女性史(Women’s History)のコースを提供した。
また、The New Schoolは20世紀を代表するような革新的なアーティストによる様々なクリエイティブアートのコースにより世界的にその名を知られるようになった。その教鞭をとったアーティストの中には、マーサ・グレアム、フランク・ロイド・ライト、Aaron
Copland, W.H. Audenなどがいた。The New
Schoolはアメリカで初めて映画史を教え、フォトグラフィーとジャズ分野での大学レベルのコースを提供した初めての大学の内の一つだった。
The New Schoolの長い歴史を見ると、それぞれの時代の求めるアイデア、仕事の機会、知的好奇心などの変化に柔軟に対応し変化してきた。1919年に現状維持の膠着した知識人やアーティストに挑戦する目的で設立されたこの大学は、約一世紀経った今でも更なる高度教育の向上を目指している。
The New Schoolの7つの部門(大学)は、それぞれの専門的分野において高度教育の新しい歴史を常に刻んでいる。
部門(傘下の大学)[編集]
主要7部門
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創立
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1937年
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パーソンズ美術大学
(Parsons The New School for Design)
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1896年
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1978年
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マネス音楽大学
(Mannes College The New School for Music)
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1916年
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1986年
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2005年
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2011年
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旧部門
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1919–2011年
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1964–2011年
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