悩ましい翻訳語  垂水雄二  2017.9.29.

2017.9.29. 悩ましい翻訳語――科学用語の由来と誤訳

著者 垂水雄二 1942年大阪生まれ。翻訳家。京大大学院理学研究科博士課程修了。専攻は生物学。出版社勤務を経て、99年よりフリー・ジャーナリスト。

発行日           2009.11.25. 初版第1刷発行
発行所           八坂書房

はじめに
いい翻訳家の条件は語学力で、言語と日本語の両方にいえるが、専門書の翻訳、特に自然科学書の翻訳の場合には、書かれている内容についての理解が必須の条件
訳語の選択は異文化コミュニケーションの根幹にかかわる
西洋語から日本語への翻訳における訳語の問題について本格的に論じた最初の日本人は杉田玄白 ⇒ 『解体新書』の凡例において翻訳・義訳・直訳の3つを区別
   翻訳 ⇒ 言語に対応する日本語が既にある場合。外国と日本で様態が著しく異なる場合には本当に対応しているのかどうかの確認が必要
:聖書の日本語訳にはナツメヤシを「しゅろ(棕櫚)」、オリーブを「かんらん(橄欖)」、バッタを「イナゴ()」のように日本にある似たものの名を当てているが実際のものはまるで姿形が異なる。漢字の「麒麟」とキリンは、全く違う動物
落とし穴は、単純な形容詞と動植物名の組み合わせで、sea lionはアシカ
1つの単語に複数の意味があるときは状況に応じて適切な訳を選ばなければならない(glasses→眼鏡、望遠鏡、双眼鏡)
   義訳 ⇒ 意味の上で適切な日本語を作って当てる。意訳。特定の学問分野で、仲間内でしか通じないような奇妙な訳語が定着してしまっているのは頭が痛い
:アリストテレスの著作が編纂された際、physics(自然についての著作)の巻の後ろに収録された表題のない著作群を、「physicsの後に来る著作群」という意味でmeta-physicsと呼んだのが起源で、たまたまその内容が自然法則の後ろ、即ち根拠や基礎を探るものであったところからこの呼び名が定着したとされる。哲学ではmetaphysicsを形而上学と訳し、physicsはそのもとになるものという意味で形而下学と訳すが、自然学分野では、physicsは物理学(古くは自然学)のこと
   直訳 ⇒ 適当な造語が難しい場合に原語の音を当てる。音訳。言語と日本語が厳密に11で対応することはまずないので、翻訳すると多少の意味のずれが生じる。それが嫌ならカタカナにする。幕末から明治にかけて先人たちは苦心惨憺して適切な訳語を作り出した努力を思えば、もう少し工夫してもいい
人名表記にしても、現地音主義を原則としても、帰化した人の扱いをどうするべきかなど、悩ましい問題がある
不適切な訳語の例に多々遭遇した経験を踏まえ、主として生物学の視点から翻訳語にまつわる問題点をまとめた ⇒ 1つの訳語決定の背景にどれだけ面倒な問題があるかを知って欲しい
誤訳

1章       イヌも歩けば誤訳にあたる
動植物の英名で、普通の名詞に形容詞がついたものは要注意 ⇒ その生物を形容しているのではなく、特定の種を指していることが多い
:great white shark → ホオジロザメ
動植物の多くは特定の地域のみ生息するので、外国産のものを日本語に訳すときには要注意 ⇒ 方便として日本に産する類似の動植物を当てることがよくあるが、まるで異なる場合もある
アフリカ野生犬African wild dog ⇒ 正しくは「リカオン」というイヌ科の動物で、ギリシア神話に由来する名
Big catとは、ライオン、トラ、ヒョウ、ジャガー、ユキヒョウ、ウンピョウ、チーターの大型ネコ類7種をさす
ギニア豚Guinea pig ⇒ モルモットのこと。和名テンジクネズミ。もう一つguineaの付く動物でguinea fowl(雌はhen)は、原産地が西アフリカのギニアのホロホロチョウのこと
ミバエfruit fly ⇒ 植物の実に寄生するミバエ科のハエの総称だが、遺伝学の実験材料になっているfruit flyはショウジョウバエ科のハエのことで、3000種以上のハエが含まれている中で実験に使われるのはキイロショウジョウバエだけ
イナゴlocust ⇒ 聖書でイナゴと訳されているのは誤訳で、アフリカトノサマバッタかサバクトビバッタのこと、大集団で田畑を襲うので壊滅的な被害となる
英語のlocustにはセミの意味もあって、周期ゼミと呼ばれ17年及び13年の周期で大発生する。『イソップ物語』の翻訳の際、「アリとキリギリス」の寓話の原典は「セミとアリたち」で、ラテン語からの翻訳の際ヨーロッパにはセミがいないのでコオロギやキリギリスに置き換えられたため、日本語訳もキリギリスになってしまったもの
イルカdolphin ⇒ 英米文学では魚のシイラ(ハワイではマヒマヒ)を指すことが多く、海釣りをする人にとってはdolphinと言えばシイラのこと。『老人と海』のシイラ釣りの場面で黄金色に光る様の描写に突然イルカが登場、末広恭雄博士の指摘で訂正された
ロビンrobin ⇒ 標準和名はヨーロッパコマドリ。『マザーグースの唄』で「誰がコック・ロビンを殺したか」で有名となり、北原白秋は「誰が殺した駒鳥の雄を」と翻訳。コックは鳥の雄を指し、ロビンは日本のコマドリとは別種だが同じ属の近縁種だから訳は適切
英国人にとってロビンは強く郷愁を誘う鳥なので世界の各地に移り住んだ際似たような胸の赤い鳥をロビンと呼んでいるので、英国以外に出てくるロビンの訳には要注意
American robinはコマツグミ、black-backed robin はインドヒタキ
黒鶫(ツグミ)blackbird ⇒ 標準和名はクロウタドリ(黒歌鳥)で、日本にはクロツグミという別種がいる
熊蜂(クマンバチ)bumble-bee ⇒ 『マザーグースの唄』では正しくはマルハナバチ。クマ()バチはcarpenter bee。リムスキー・コルサコフの楽曲《クマンバチの飛行》も本当は《マルハナバチの飛行》。スズメバチはhornet
nightingale ⇒ 標準和名はサヨナキドリ(小夜鳴き鳥)。日本の古い翻訳文学では美しい鳴き声を伝えるために鶯と訳しているがそれも1つの考え方。日本には生息しないのでそのままカタカナのほうが便利
ピグミーチンパンジーと呼ばれた類人猿が現地名をとってボノボと改称
ウサギhare ⇒ ウサギにはhare(ノウサギ属:単独性、警戒心が強い)rabbit(アナウサギ属:社会性、人間に馴れ易い)2種あり、日本の野生ウサギはノウサギ属。英米文学に登場するのはほとんどがアナウサギ
ノウサギなのに間違ってrabbitの名がついたのがjackrabbitジャックウサギで、アメリカの大草原に住むノウサギで時速60kmを超える速さ
アフリカのカモシカ ⇒ 正しくはアンテロープまたはレイヨウ。カモシカにアフリカ産はいない。ニホンカモシカを「羚羊」と書いたところからくる混乱
禿鷹という鳥は存在しない ⇒ 標準和名はハゲワシ。Vultureを禿鷹と訳すが、この標準和名はシロエリハゲワシ。ヨーロッパ、アフリカ、アジアではハゲワシ類、南北アメリカではコンドル類と区別され、前者はタカ科、後者はコンドル科という別のグループ

2章       草木もなびく誤りへの道
形容詞+名詞の組み合わせが特定の種名を表す場合に注意 ⇒ box treeはツゲ属の木の総称、red woodはセコイア。セコイアデンドロンはgiant sequoiaと呼ばれるが時にbig treeともいうので要注意。Humble plantはオジギソウ
植物名の語訳で重大なのは、風土による違いで、和訳名が見当違いなものを指している場合が少なくない
樫の木oak tree ⇒ カシワかコナラが妥当。Oakはブナ科コナラ属の200種ほどの総称でカシも含むが、ヨーロッパ文学に登場するoakはほぼ落葉性のイングリッシュオークで、カシとは似て非なるもの。カシは同じコナラ属でも常緑性
ヨーロッパでオークは高級材とされ、日本でそれにあたる地位を占めるのがカシ材で、ナラ科は薪炭材だったためにカシと翻訳しても違和感がなかった
北海道のミズナラJapanese oakがヨーロッパで高く評価され、1960年代までは日本の木材輸出の20%を占めていた
ヒマラヤスギ/セイヨウスギcedar ⇒ 工藤夕貴主演の映画の舞台はワシントン州オリンピック半島界隈で、ヒマラヤスギは生息せず、そこでのcedarwestern red cedarアメリカネズコ(米杉という異名もある)なので映画のタイトルの『ヒマラヤ杉に降る雪』は誤りで、『杉林に降る雪』くらいに留めておけばよかった
総称としてのcedarは葉が鱗状のヒノキ科の針葉樹を指し、日本産のものではクロベ属、ビャクシン属のものが近い。聖書のシーダーはほとんどの場合レバノンスギ
棕櫚palm ⇒ 植物の地域差に無頓着だったゆえの誤訳。漢語『聖書』から最初の日本語訳を作ったときに生じた誤り。Palmはヤシ科の総称で、古代パレスチナ地方の代表的は樹木がナツメヤシだったので、これが正解。棕櫚(シュロ)は東アジアの特産
谷間の百合lily of the valley ⇒ ユリ科の植物だがドイツスズランのこと。『聖書』の英訳経由の日本語訳では「野のゆり」となっているが、どの植物を指しているのかは不明
バルザックの同名の小説では正真正銘のユリだが、実際のユリではなく伯爵夫人
アメリカハナミズキflowering dogwood ⇒ 日本にない外来種の和名には、日本在来種の頭にその土地の名前を付けるのが一般的でもっとも有名な植物がこれだが、日本産はないことからハナミズキが正しい和名。ヴァージニアの州花でミズキ科ヤマボウシ属
つる植物vine ⇒ vineはつる植物のこと、転じて植物のつる一般を指す。語源はラテン語のvinea(ブドウ畑)

3章       人と自然を取り巻く闇
博物学natural history ⇒ 自然に存在する事物についての学問で、広義には自然科学全般を指すが、狭義には動植物や鉱物・岩石・地質などを扱ういわゆる博物学を指す
20世紀に入って近代的な自然科学分野の成立とともに、伝統的な博物学は生物学、地質学などに分化し解体
woods ⇒ 大きいものから順にforest, woods, groveWoodtreeと違って材木の意味合いが強く、建築材はもとより薪、酒樽、木管楽器、木版などにも使われる
野生生物wildlife ⇒ 人手を借りずに、野外で生活している生物
公害pollution ⇒ 政治的な誤訳。Pollutionは単なる汚染で、公害は英国における法律用語の翻訳である公的生活妨害public nuisanceの短縮語。本来日本語で「公」がつけばお上の行うことというニュアンスが強く、本来私企業が責めを負うべき環境汚染の責任の所在を曖昧にしているため激しい批判があった。現在では公衆が受ける被害という意味での「公害」が定着
農薬pesticide ⇒ pest(害虫)cide(殺すもの)するので殺虫剤のことだが、日本の農薬取締法では成長促進剤まで含み、農薬のマイナスイメージを薄めるための誤魔化しでは
踏み車treadmill ⇒ 元々は足踏み式の水車で農具の一種だが、単調で退屈な仕事という意味もある。現代の英文で使われるのはルームランナー
放射性の首輪をつけたradio-colored ⇒ 動物の行動パターンを追跡するための電波発信機を装着した首輪のことで、「電波発信機を装着した首輪をつけた」とでも訳すか
Binocular ⇒ 同じ単語が極大と極微の両方に使われた例で、bin2つの意。双眼鏡と双眼顕微鏡の訳を文脈によって使い分ける必要がある

4章       こんな訳語に誰がした
用字制限から、難しい漢字表現が使えずに、無理な言い換えが生じたり、広い意味を持つ言葉に狭い学界でのみ通用する限られた訳語が当てられる場合、さらには差別的表現回避が行き過ぎて動植物の和名に混乱が生じる場合などがある
齲歯(うし)dental caries ⇒ 歯のカリエスで虫歯のこと。医者がもったいぶって使う術語(ジャーゴン)としか思えない。病気が悪くなることexacerbationを増悪(ぞうあく)、良くなることremissionを寛解(かんかい)、身体にメスを入れることinvasionを侵襲(しんしゅう)など多数。Fiberも医学用語として「線維」が定着しているために使わざるを得ないが、本来は「繊維」とすべきもの(“繊細な問題)
発火fire ⇒ 脳科学者がニューロン(神経細胞)の発火というが、一斉射撃を命じる時の号令と同じ「発射」の意で、誰かがfireに惑わされたのが定着した
加齢aging ⇒ 齢をとることによって生じる様々な劣化現象を指すので、「老化」の方がふさわしいが、生物学では「老化」をsenescenceという。「加齢」は近年一般化したジャーゴンの一種かも
免疫immunity ⇒ 元々の意味は一度病気に罹ったら二度目は同じ病気に罹りにくいという性質のことで、病気を免れるというのとは異なる。さらに遡ると14世紀ごろの法律用語で、納税等の義務の免除を意味
ネコ目Carnivora ⇒ かつて食肉目(もく)と呼ばれた動物の分類名で、イヌ科、クマ科等々。1988年文部省の方針で低学年の生徒のために難解な漢字を使わないようにしたため、目以下の名称を全て仮名書きにし、代表的な種名をもって科名や目名にしたところから、食肉類は「ネコ」で包括された
齧歯目も30科あるがネズミ目で統一するのも無理がある
様々な種のうちで共通の特徴を持つものを属としてまとめ、共通の特徴を持つ属をまとめて科に、共通の特徴を持つ科をまとめて目とし、共通の特徴を持つ目をまとめて綱とする構造
目の学名は、そこに含まれる科の生物に共通の特徴を表すものになっている ⇒ 哺乳類で言えば、食肉目はCarnivora、有袋目はMarsupialia、齧歯目はRodentiaなどで、それぞれのラテン語の意味は従来の漢字表記の意味とほぼ一致していたが、今回の方針で国際的な学名との対応がつかなくなり大問題
一般人には綱、目、科、属の区別がつかないのでみな類で表現することが多く、イヌはネコ目のイヌ科なので「ネコ類のうちのイヌ類」という表現になってしまう
ヌタウナギhagfish ⇒ 元々目名と科名に使われていたメクラウナギが、07年に日本魚類学界が差別的表現回避のため改称。元々あった属名のヌタウナギは混乱回避のためホソヌタウナギと改称。盲に相当する英語はblindだが、差別の本質は社会的な環境になり、言葉自体は無関係で、使用禁止などという話は聞いたことがない
同様の差別的表現32種の改称が提案されている ⇒ イザリウオからカエルアンコウ
間違いが定着した和名 ⇒ バンドウイルカは正しくはハンドウ(半道)イルカ、ホンソメワケベラはホソソメワケベラ(細いが誤植でホンになった)、ゴキブリは御器囓り(ごきかぶり)の脱字(江戸時代より前は「あぶらむし」)

5章       進化論をめぐる思い違い
進化論は過去に起こった出来事を対象にしていて、実験によって確かめられないため、素人による異論が絶えない ⇒ 誤訳が多い
自然選択natural selection ⇒ 元々は「自然淘汰」だが、1981年の常用漢字告示により変更したが、selectionとは良いものを選び取り劣ったものを除くこと
天変地異説catastrophism ⇒ 化石生物の変遷に見られる断絶ないし不連続を説明するための理論で、種の大量絶滅を伴う激変が少なくとも5回は発生している
恐竜dinosaurus ⇒ ラテン語読みではディノサウルス、英語読みではダイナソールス。化石爬虫類の再調査からメガロサウルスなどが他の爬虫類と根本的に異なる特徴を持つことを発見して特別な爬虫類として命名したもの。原語には恐ろしいという意味があるところから英語ではterrible lizardと訳され、それが日本語訳「恐竜」の起源となったが、その後命名者の意図が「恐ろしいほど大きな」として使われたことが分かり、英訳はfearfully great, a lizardと訂正されたが、日本ではもはや取り返しがつかない
藍藻blue-green algae ⇒ 藻類とは全く系統の異なる生物なのでシアノバクテリアないし藍色細菌と呼ぶのが正しい
類人猿ape ⇒ サルの英語はapemonkeyがあり、厳密な区別はないが、一般に尾のないサルをapeと呼び、さらにapeを類人猿だけに限定。日本には類人猿がいないので全て猿。ヨーロッパにはサルも類人猿もいない
優生学eugenics ⇒ 元々の優生学は、人種の生まれつきの質の向上発展に影響するすべての要因を扱う学問だったが、具体的な政治課題として取り上げられるようになり、1909年のカリフォルニア州の断種法はナチスにモデルを提供し、ドイツでは民族衛生学と呼ばれる
利己的な遺伝子selfish gene ⇒ 利他的altruisticな行動を説明するための理論で、個体が利己的に振舞うことによって進化が起こると考えられていたのに対し、利己的に振舞うのは個体ではなく遺伝子であることを強調したもの  

6章       心理学用語の憂鬱
直訳が多く日本語として座りが悪いものがあるのは、学者のジャーゴン
統制群control group ⇒ 実験群experimental groupとの対比で使われる対照群のことだが、日本心理学会の学術用語集では統制群となっている
汎化generalization ⇒ 一般化のこと。識別discriminationのことも弁別という
性同一性障害gender identity disorder ⇒ 身体的な性別と自分が意識する性別の不一致を問題にしているので、「性()認識障害」とか「性意識障害」のほうが適切
認知症dementia ⇒ 語源は心がここにない正気を失った状態をいうので、かつての「痴呆」こそ適切。変えるなら「認知障害」だが、05年に法律ができて定着

7章       生物学用語の正しい使い方
特定分野の特殊な使われ方にとらわれて、語の本来の意味を見失ったが故の語訳
警戒色warning color 正しくは「警告色」。生物の擬態の一種で、わざと捕食者に目立つような派手な色彩のことで、通常は毒があるという警告
草食動物herbivore ⇒ 肉食動物との対で使われるが、必ずしも草を食べるとは限らず、枯れた植物体や藻類、植物プランクトンを食べる動物も含まれ、厳密には植物食者。植物のどこをどう食べるかによって呼び名が変わる。ウマやウシはgrazerで、ヤギやキリンのように木の葉の茎を齧るのはbrowser
動物群fauna ⇒ 生物学でいう「動物相」の古生物学での訳語。特定の時代の特定の地域に生息するすべての動物の種類を指す。植物の場合はfloraで全ての生物はbiota
変身metamorphosis ⇒ 形を変える意だが、生物学では、生物が卵から成体になるまでの個体発生の過程で体のつくりを大きく変える現象を指し、変態と訳す
抗生物質antibiotics ⇒ 生物=微生物biosに反抗するantiの意だが、微生物なら何でも効果があるかのようなイメージを持たせたのは誤解のもと。細菌にしか効果がないので、抗菌物質antibacterialとすべき

8章       悩ましきカタカナ語
適切な日本語がない場合のみに限定されるべきで、安易なカタカナ語の使用は戒めるべき
何語のカタカナ表示とするかで混乱がある
キューティクルcuticle ⇒ 生物医学用語では「クチクラ」(ドイツ語)と言い、生物体の外側を包む堅い膜状の構造のこと。英語読みがキューティクル
ビタミンvitamin ⇒ ビタミンの存在を初めて発見したのは1911年鈴木梅太郎で、脚気の原因がオリザニン(ビタミンB1)の欠乏であることを証明、同年そうした不可欠微量栄養素をvitamineと名付けたので、本来ならヴィタミンだが、1954年の国語審議会の答申によってvbの区別がなくなった
ウィルスvirus ⇒ 細菌ではない微小病原体が発見され1930年代にその総称として使われるようになった。元々はラテン語で「毒」の意。生命の基本的性質である自己複製能力と代謝能力を持たないので完全な生物とは言えない。最初はドイツ語読みでヴィールス、次いでラテン語読みでウィルス、前者が用字制限によってビールスと改定され定着したが、65年頃日本ウィルス学会がマスコミにウィルスで統一するよう働きかけて定着
ホモhomo ⇒ 生物学では1つは分類学用語としてヒト()を表し、もう1つは遺伝学においてヘテロ(異型)と対で使われるホモ(同型)接合体の略語
マニュアルmanual ⇒ ラテン語のmanus()が語源で、手動、手作業の意。精神的、理論的なものへの対語だったが、現代ではマニュアルの反対語は機械的な動作のこと。「マニュアル人間」なる和製カタカナ語に使われたマニュアルは手引書のことで英語ではhandyに相当。手作業に関わるmanualには手話の意もあり、manual alphabetは手話のアルファベットのこと
ロイヤル・ソサエティThe Royal Society ⇒ 王立協会と訳すが、厳密には国王の許可を得て設立されたというだけのこと、協会というのも学会に近いもの

あとがきに代えて――和名考など
外国語からの翻訳は異文化の壁があり、常に困難が伴う
近世以前の外国知識の移入はもっぱら中国からなので漢字で伝えられたが、元々大和言葉による呼び名と競合 ⇒ 万葉集でも植物が160種、動物が115種詠われている。佐久良(万葉仮名)や雀公鳥(漢字)/保登等藝須(万葉仮名)などあるが、何を指しているのかは別に考察が必要で本草学上の課題で、シーボルトが1823年から6年間日本に滞在して『日本植物誌』や『日本動物誌』を著し、西洋科学の先端的知識を与えることに大きく影響を残す
学名の存在理由 ⇒ 動植物が科学の対象として、その生態や生理、あるいは系統を論じようとすれば再現性が求められるので、同じ種を扱っていることが保証されなければならないところから、世界で共通するラテン語の名前を付けるリンネ方式の学名が不可欠
使い慣れた言葉が分かり易いが、方言の問題があり、同じ言葉でも異種を指す場合と、同じものが違った名前を持つ場合とがあり混乱するため、標準和名が学名との11で決められた ⇒ 日本産の動植物では最も多くの人が使っている名前でいいが、外国産の場合には新たに和名をつけなければならず、形態的・生態的特徴をつけたり発見者に因んだ名前を形容詞として付けるが、時代とともに変わる場合もある(オオショウジョウ、クロショウジョウがそれぞれゴリラ、チンパンジーになった)
和名は元々漢字で表されたが、戦前の論文は漢字カタカナ交じり文なので地の文と区別するために、生物名はひらがなで書くのが普通だった ⇒  戦後の国語改革によって漢字ひらがな交じりの文章が推奨されたため、動植物名はカタカナ表記が通例となる
英名から和名への翻訳が問題 ⇒ 英名の学名に対してどの和名に対応するのか正確な知識が必要。誤訳の定着に漢訳の『聖書』など中国語訳が介在しているケースがあり、英語→中国語→日本語の2段階で誤訳が起こる。同じ漢字を使っていながら日中で意味する内容が異なる場合もあり、例えば「柏」は中国ではマツ科以外の針葉樹の総称
誤訳に見る日中関係 ⇒ 同じ漢字を使うことによる誤解の可能性が常に存在する




連載:天声人語 翻訳語の世界  2017919
 日本遺伝学会が先ごろ、「優性」「劣性」という言葉遣いをやめると発表した。遺伝子の特徴が現れやすいかどうかを示す訳語だったが、優劣の語感が問題とされた。劣性遺伝病などと診断されれば、不安になる人がいるのではないかと代わりとなる新しい言葉は「顕性」と「潜性」である。少々とっつきにくいが、こちらの方が正確という。わかりやすさ、正しさ、そして受け止める人への気遣い。翻訳とは、かくも繊細なものかだからこそ意味が加えられる余地があるのだろう。例えば「農薬」はごまかしのある訳語だと、翻訳家の垂水(たるみ)雄二さんが著書『悩ましい翻訳語』で述べている。「殺虫剤」とすべきところを農業の薬とすれば、悪い印象が薄まってしまう「環境汚染」でなく「公害」と訳すのも問題があるとする。公が害をなすと思われ、私企業の罪があいまいになるとの批判が、かつてあったという。今はむしろ被害の広がりを意味し、企業の責任の重さを示すように思えるから、言葉はまさに生き物であるふだん使う言葉の多くは、先人たちの試行錯誤の上にある。ソサエティーは「人間交際」「仲間連中」などと訳された末に「社会」に落ち着いた。家族とも村落とも違うつながりがある。そんな考え方が定着していった最近はどうも翻訳の努力が足りないようだ。コミットメントやガバナンスなど、そのまま持ち込まれる例が目につく。意味をあいまいにし、ごまかすために使われるのでなければいいが。











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