戦争を指導した七人の男たち  Marc Ferro  2016.4.20.

2016.4.20.  戦争を指導した七人の男たち 191845年 並行する歴史
Ils Etaient Sept Hommes en Guerre 1918-45

著者 Marc Ferro 1924年パリ生まれ。母方がユダヤ系。ドイツ占領地域を避け非占領地域のグルノーブル大学で学ぶ。第二次大戦中は対独レジスタンスに参加。アルジェリアで8年間教鞭の後、パリに戻って国立理工科学校、国立社会科学高等研究院で教える。70年より歴史研究誌『アナル』の共同責任編集者。テレビの歴史紹介番組「並行する歴史」を12年に亘り制作、司会。近現代ロシア史研究者として出発、博士論文はロシア革命を扱ったものだが、著作の対象は両次大戦史、植民地の歴史、映画と歴史の関係など多岐にわたる。現代フランスを代表する歴史家の1人であり、学者仲間の歴史家にとどまらず、一般向けの啓蒙活動においても活発な活動を続ける

訳者 小野潮 1955年宮城県生まれ。東北大大学院博士課程満期退学。中央大文学部教授。19世紀フランス文学専攻

発行日           2015.12.25. 初版第1刷発行
発行所           新評論

この大戦におけるそれぞれの危機、ジレンマ、決定等の分析で本書が採用してきた方針
――立役者のそれぞれを呼び出すというやり方――は、これまでの俗説が繰り返してきた多くの判断を修正してくれる

はじめに
たった1つの視線、たった1つのアプローチでは、事件の意味を明らかになどできない
この著作で問いかけようとするのは、第2次大戦の主要な立役者数人の行動と、彼らが過ごした日々であり、そうすることによって彼らが戦争を導いたやり方、また彼らが戦争を分析し、生きた仕方を考究しようとする
彼らのそれぞれの戦争観、戦争遂行の仕方の比較によって、また彼らがそのようにした理由の比較によって、争いの所与がどのようなものがったか、またその結末がどのようなものだったかがよりよく理解できるし、この男たちがどのように同時代人たちを魅惑したのか、あるいは同時代人たちに嫌悪を催させたのかがよりよく理解できる
特に必要だと思われたのは、第2次大戦の立役者がそれぞれ果たした役割を、彼らが行ったこのうえなく非人道的な行為も含めて位置づけ直す作業

第1章        戦争への序曲(191839)
ヴェルサイユ条約とウィーン条約、それぞれがもたらした結果を比較して、キッシンジャーは、ウィーン条約は数十年の平和をヨーロッパにもたらしたが、ヴェルサイユは締結直後から間近に迫る戦争の危機が世の中を覆っていた、と指摘  その差は、ウィーンの場合は、ナポレオンに勝利した諸国が正統王朝主義という原理の下に行動し、敗戦国であるフランスをいたわり、フランスにも同主義の名において1792年の国境をほぼそのまま認め、フランスの王座を正統の相続人に返してやったのに対し、ヴェルサイユの場合は、民族自決権の名の下に戦った戦勝国が敗戦国を痛めつけたばかりでなく、革命運動の伝播と民族主義的諸要求を前に、対応を誤った
1918年の休戦は、英独仏で一様に歓喜で受け止められたが、4年間自らの土地を侵犯されたこともなかったドイツ人だけは戦争に負けたとは知らないまま、いきなりヴェルサイユで厳しい条件を突き付けられたことから、国内の不満が一気に爆発しストライキと暴力が至る所で発生し無秩序状態になる
ヒトラーは、ロシア反革命義勇軍(白軍)関係者と緊密に連携、彼らから激しい反ユダヤ主義を吹き込まれた
ヒトラーは、1922年には自らをムッソリーニの弟子だといい、ムッソリーニの掲げるファシズムの理想に連帯していたが、ムッソリーニのほうはヒトラーを34年にヴェネツィアに公式に迎えたときも、「道化師、狂人、精神疾患」として見下していた
ムッソリーニのエチオピア侵略に対する英仏の制裁措置に対し、ヒトラーが支持したのが転機となって、37年ドイツを訪問したムッソリーニはその強大さに魅了され、ファシズムの友として認める
チャーチルは1933年には、ヒトラーを平和と文明を脅かす危険分子と断定して警鐘を鳴らすが、誰も耳を傾けなかった。政界において彼は「終わった人has been」、戦争に固執する時代遅れの態度を代表する人であり、平和主義的な言説が大勢を占める当時にあって、軍備縮小に反対する発言と繰り返し発する警告は無視された
序曲への再考  ヒトラーは常に戦争をすると脅しながら過度な要求をしたが、イギリスが「スターリンよりヒトラーのほうがまし」としていた
ヒトラーが戦争を必要とし何としても戦争を欲していたこと、これこそが国籍を問わず、政治指導者たちが受け入れることも想像することも出来なかった  各国の指導者たちは第1次大戦の教訓として、平和の保証こそ自らの職務だという信念から、平和の侵犯者に対して考えられないほどの譲歩を行う結果になった

第2章        本当の敵は誰なのか(193941)
両大戦の大きな違い  第1次の場合は各国とも愛国的な挙国一致が支配的だったが、第2時においては共産主義、ナチズム、ファシズムが及ぼす魅力が民主主義諸国の大部分において国論を分裂させた
ド・ゴール大佐は、ミュンヘン会談の後、「フランス人として、兵士として、我が国が戦いもせずに降伏したことで恥辱に押し潰されている」と言っていた。愛国主義者であり、時には王政主義者でもあったド・ゴールは、主要な敵に打ち勝つならば右翼でも左翼でも連携
チャーチルの場合は、かつての「宥和政策」の主唱者が抱いていた楽観的展望とは異なり、攻撃に次ぐ攻撃を柱とする戦争の仕方を考えていた  ロンドン空爆の最中にベルリンに対して大規模な空爆を行ったり、41年にはノルウェーへの上陸作戦を成功させたりしたのも、攻撃こそ自国民に元気を与えると確信
ヒトラーがチャーチルを毛嫌いしたのは、チャーチルがいる限り帝国への接近は不可能だということを見通してたからで、チャーチルだけを非難するために、「真の敵はイギリスだ」と繰り返す。フランスの敗北は自明であり、イギリスを跪かせるためにはイギリスの平和主義者たちとの交渉は無意味であり戦争の継続こそ唯一の選択肢だった
40年の米大統領選で、ヒトラーの予想に反してローズヴェルト再選を知ると、ヒトラーはアメリカの資源がイギリスに対して果たす役割と同じ役割を。ドイツに対してはソ連の資源が果たさなければならないと考え、モスクワが示すかもしれない気まぐれな政策の影響を被るよりも、直接手に入れる方が得策と考え、バルバロッサ作戦を準備
そんな中で、415月総統代理ヘスが独断でスコットランドにパラシュートで脱出した事件が勃発、英独ロ33様に考えあぐむ  ヒトラーは怒り狂ってヘスを精神病扱いとし、スターリンはヒトラーこそヘスをイギリスに遣わしたと判断、チャーチルは翌月になってスターリンへの全面的支援を表明しスターリンを驚かせる
スターリンは、イギリスの政策の唯一の目的がドイツによるソ連攻撃だと思い込んでおり、独ソ不可侵条約によって1年以上の時間を稼ぎ出したものの、ドイツ以上の武力を身に着けることはできなかったため、戦闘開始に対応するまでには1か月以上かかった
イギリスこそ、ソヴィエト体制にとっての主要な敵。3940年のフィンランド戦争の時も英仏はフィンランドを支持し、ソ連は屈辱を味わう
国際関係史において広く流通している見方は、第2次大戦の「真の」始まりを1931年の「満州事変」とする。昭和天皇がこの大戦に果たした役割を見直すべき  1921年皇太子時代に訪英、ジョージ5世が全くの中立を装いながらかなりの政治権力を行使している姿を見て来たが、天皇の「神聖な」権威を権力の行使に役立てたいと企んだ有力者たちにとって都合のよいものとなった。松岡と近衛の説明によって、日本経済の生き残りと発展のために満州を管理下に置くことが必要と確信した天皇は、軍部の勃興にこれまで以上に反対することは不用心(?)だと判断
真珠湾に先立つ1年間、蒋介石こそ戦争を指導していたリーダーたちの中で最も明晰な人物だった。彼と近衛だけが、ドイツがロシアで勝利するとは考えていなかったし、日本の好戦主義を過小評価せず戦争が継続すると確信。ただ、日本の打倒はアメリカに任せ、アメリカから得ていた支援物資は毛沢東との戦闘のために温存しようと考えたが、中国人たちは占領者に対して祖国が攻撃に出ることを期待していたために、蒋介石の作戦は裏目に出て、アメリカとの関係も悪化させたばかりか、中国共産党、スターリンとの3者関係にも重大な亀裂が走る
ローズベルトにとって本当の敵は、真珠湾以前も以後もヒトラー。武装を欠いたハワイの基地への日本軍の攻撃はアメリカの宣戦布告を正当化した――襲われたのがハワイでなかったらおそらく議会は宣戦布告を可決しなかった
4日後にヒトラーがアメリカに対して宣戦布告。モスクワの戦いが敗北に終わることをすでに知っていたこの時点で、主導権を握っているのは自分なのだと主張したかったのだ。アメリカに宣戦布告されれば、ドイツ人の士気が挫かれる。アメリカ議会が対日に次ぐ2度目の宣戦布告を可決するかどうかはわからない段階でヒトラーが仕掛けてきたため、ローズヴェルトは受けて立つ側に立つことができた
ローズヴェルトの回顧録によれば、真珠湾に先立つ時期に関してはその3/4がヒトラーによって引き起こされた危機とそれを避ける方法について書かれていたが、ローズヴェルトが民主主義諸国を守るという自らの確信に従って行動するには、孤立主義に染まる強力な議会を前に大いに企みを廻らさねばならなかった
それぞれにとって主要な敵は誰だったのか  スターリンを除いては、主要敵が非常にしばしば明確には固定されていなかった
不透明にした背景には、西欧人にとって文化的に理解不能な国、日本の存在があった  諸制度のすべてを覆っていた秘密尊重があり、日本政府がどのように機能しているかについてなど知りようもなかった
日独両国の指導者の誤りの中で特に大きいのは、自分たちは優等人種に属しているという確信と敵に対する侮蔑

第3章        戦争か、殲滅か(193945)
アウシュヴィッツ、広島に代表される殲滅戦の側面は、第2次大戦の特徴の1

第4章        同盟と不釣り合いな関係(194045)
指導者間の個人的な関係、直接的な接触が、戦争の展開を左右する決定の過程にどの程度影響を与えていたか。戦争の展開を左右する決定には、彼らの私生活、彼らと親族との関係も一つの要素であり、特にムッソリーニとヒトラーの関係において当てはまる
戦争準備のできないままに戦闘に突入したムッソリーニの軍隊は、4041年の時期失敗ばかりしていたにもかかわらず、42年春にヒトラーと出会ったとき、ヒトラーはムッソリーニの失敗に言及しなかった
ムッソリーニに献辞の入った写真をくれるよう頼んだ1922年以来、ヒトラーは好んで自分の思想の師と言っていたこの人物に一定の賞賛の念を抱いてきたが、ムッソリーニのほうは33年のヒトラーの勝利を喜びながらも、彼に対してはより慎重な視線を注いできたヒトラーの度重なる成功とその力強さはムッソリーニに強い印象を与え続け、たちまちのうちにヒトラーはムッソリーニに対し優位に立ち、39年以降両者の関係が逆転するにつれ、ヒトラーはますますこの不運の同伴者に深い愛情を感じるようになる
往々にして、互いに対する互いの立場、記憶を決定するのは最初の出会い  大戦期間中、ローズヴェルトとチャーチルは116回会っているが、最初の出会いは真珠湾の4か月前、ニューファンドランド沖の英国艦船上で、その時言われたこと、言われなかったことが以後4年間の米英関係を照らし出す
大西洋憲章が署名されたが、ローズヴェルトは戦後の自由貿易の確保、最恵国待遇の廃止の釘を刺すことを忘れていなかった
チャーチルは、アメリカを参戦させるためにあらゆる手を使おうとしていた
チャーチルのド・ゴール観  魅力的だが苛立たしい人物。中東をめぐる英仏の衝突以降、2人は断絶状態に
ローズヴェルトのド・ゴール観  あの男は危険だ

第5章        勝負の結末
4211月 英米連合軍の北アフリカ上陸が、戦争の転換点とみなす意見が多いが、ドイツ占領下の住民にとってはこの時期、自分たちの運命がどんどん苛酷になり、弾圧がどんどん残酷になっていた
ド・ゴールは、4112月にアメリカが対日宣戦布告した時点で、戦争の終結を見通していた
ゲッペルスも、4112月の対ソ敗北によって、よく年初には敗戦の予感を日記に記している
ゲーリングは、ニュルンベルク裁判において、ドイツの敗戦がはっきりしたのは40年秋イギリスの戦いに勝利できなかった時点だと言明
第二次大戦の立役者たちの言葉と行動によって、彼らが「勝負の終わり」をどのようなものとして捉え、その時どのような精神状態であったのかを問うことができる
ヒトラー  勝利か黙示録か
ローズヴェルト  僅か18日の間に3人の戦争立役者が死んだ。ローズヴェルトが412日に病死、ムッソリーニが28日に処刑、ヒトラーが30日に自殺
新大統領のことは、チャーチルを始め誰一人として知らない
ムッソリーニの後任バドリオは439月に連合軍と休戦交渉を行う  連合軍がローマ近くに上陸し、ドイツの復讐からイタリアを守ってくれると期待したが、上陸作戦はナポリのずっと南でなされ、イタリアはドイツ軍のローマ攻勢を防御できないまま各地で降伏。解放されたムッソリーニはドイツでヒトラーの歓迎を受ける
チャーチルの失脚  ドイツの降伏後連立内閣の解散を約束していたが、労働党は選挙での決着を要求。チャーチルがダンケルクの精神、正義、進歩を讃えたのに対し、労働党はパン、仕事、住宅と応じ、7月の選挙で大勝
フランスでは、ドイツが降伏文書に署名した58日以降、終戦は祝われたが解放時の熱狂とは比べ物にならぬほど低調だった  45年春までに絶滅収容所の言語に絶する行為が明らかになったため。期待された人が帰還しないことが明らかになったり、帰還しても生きながら死んでいるような姿だったり、悲劇的な時代の陰鬱な思い出をいつまでも残すことになるだろう
フランスを包み込んだ内戦の暗部の何事かが終戦後も依然として存在続けていた
ド・ゴールにとっては、国内レジスタンスと共産主義の危険の同一視という問題がのしかかり、461月には左翼の攻勢の前に一時的ではあるが政界から引退
原子爆弾の開発競争  ドイツは原爆の開発に疑問が生じ、ロケット爆弾の開発が優先された。ドイツはドレンの科学的・技術的創造性を低く見積もっていたのに対し、ソ連はドイツの研究所を過大評価し、米英仏の研究者を過小評価していた。ドイツが原爆の研究を放棄したのを知って、ソ連もその研究を抑制した。スターリンは、自分たちと競合しうるのはドイツ人の才能だけだと考えていた。そのため、ポツダムでトルーマンが新型爆弾の開発に成功したことに言及した際も、スターリンの反応は鈍かった
昭和天皇に行動を決意させたのは、310日の東京大空襲で、ソ連による「仲介」を望んで、近衛をスターリンの下へ送ろうとするが、スターリンは、西側連合国が第二戦線を開くのにあれほど長いこと待たせたことの仕返しをするべく、時間稼ぎのために近衛に会おうとしない
その直後に広島に悲劇が起こり自ら発言しなければならないと側近から説得された天皇は、御前会議を招集し、終戦を宣言するが、終戦の詔勅では文章術の奇跡によって、降伏という言葉を使わずにそれを告げることに成功している
日本政府によるポツダム宣言受諾の「通牒」は、「天皇の地位の保証のみ」を条件としていた

結語 どのような痕跡が残っているのか
720日のテロの時と、計画的になされた自殺の時におけるヒトラーの反応は、彼が自分の人生と自分の国の歴史との間に取り結んでいた関係のいくつかの点を考え直させる
軍の一部のヒトラーに対する反感は一貫したもので、勝利が続いているのに軍が蔑ろにされていることへの恨みに由来。原爆開発に取り組む科学者たちについても、いつの日か総統が実際に使用するだろうという恐れが、彼らの仕事の進捗を抑えさせた。それでもやはり軍は体制に協力。テロ事件への民衆の憤りは大きく、それほどに総統への愛情は強いものだったが、軍と体制との共謀関係には互いの不信感が付きまとい、総統はこの不信感を裏切りとみなしていた。最後には軍はヒトラーとともに崩壊
日本の軍国主義も同じ運命をたどる  昭和天皇は、アメリカによる本土爆撃、原爆投下の時期に軍国主義と袂を分かつことに成功、玉座を保ち得た
イタリアでも、敗北が国家指導者と軍人との離反を強化し、加速させた
ソ連では、軍が2度にわたって打ちのめされる  最初は革命や内戦によって、次いでスターリンの粛清によって。党政治委員の役割の軽減とともに、党と軍の関係はどんどん改善
英米では、軍人は政府の命令に従い、政府が他国との間で抱える諍い、ジレンマ、選択を共有
この研究を通じて我々を最も驚かせたのは、それぞれの立役者がそれぞれの敵について全く思い違いをしていたこと  最も驚くべきは、おそらくドイツ側、特にヒトラーがソ連で何が起きつつあるのかを全く把握していなかったこと。その理由は、主に彼の人種差別主義的考え方、スラブ人に対する彼の蔑視にあった
アメリカは、ソ連についてだけでなく、日本の政界についても通じていなかった。日本の指導者たちの政策の危険性をほとんど認識せず、天皇についても実権のない皇帝であると思い込んでいた
アウシュヴィッツから広島に至る、絶滅を求める妄想へと駆り立てたこの戦争において、その主要な登場人物たちが演じてきた個人的役割について、かつてなされた歴史的認識の進展によっても、その役割をいささか相対化し過ぎていたように思われる

訳者あとがき
本書は、「並行する歴史」制作の副産物
本書の主眼は、ヒトラー、チャーチル、スターリン、ローズヴェルト、ムッソリーニ、昭和天皇、ド・ゴールという7人の戦争指導者が、先の大戦のそれぞれの瞬間をどのように捉え、また自分の同盟者及び敵対者たちの思惑をどのように読み取りあるいは読み間違えて、個々の決断を下してきたか、それを明らかにしようとするところにある
戦争を指導した者たちのそれぞれの観点が付き合わされると、大戦経過の各段階が非常に立体的なものとして姿を現してくる。本書の最大の魅力はこの手法にある
ミュンヘン会談に呼ばれもせず、そこでの同意についても何ら相談も受けなかったスターリンが、英仏がドイツと妥協することによってドイツの戦力をソ連に向けさせようとしているのではないかという不信感を抱く過程が浮き彫りにされると同時に、ドイツが独ソ不可侵条約によって、東部でのソ連との衝突を恐れずに西部戦線に兵力を集中させソ連を物資の供給源にして大きな利益を確保しようとしていたことが明瞭にされる
もう1つの大きな魅力は、それぞれの指導者、それぞれの国が置かれた立場を地球サイズのスケールで描き出している点にある
本書を一層興味深くしているのが、戦争指導者たちのその時々の考えを明らかにするために用いられた資料  ゲッペルスの日記、ヒトラーの通訳の手記、モロトフのインタビュー記事、ソ連スパイの手記、ローズヴェルトの息子の手記等、これまであまり用いられてこなかった
著者は、映像記録を歴史研究のための重要な素材の一つと捉え、自身が司会したテレビ番組「並行する歴史」の制作においても、大戦中に各国で撮られた膨大なフィルムを視聴しているが、そこから得た知見を活用し、大戦の各時期の状況の中でそれぞれの国の民衆がどのように反応したかを記述することで、指導者たちの「行動の背景」についても生き生きと描き出している
戦後70年、大戦の記憶が風化していく中で、情報伝達速度が速まり、物事を地球サイズで眺める必要がますます高まっている現代だからこそ、大戦の記憶は様々な角度から掘り起こされねばならない。著者が示したような巨視的かつ複眼的な視座でこの大戦の意味を理解することの重要性がとりわけ強調されねばならないだろう







戦争を指導した七人の男たち マルク・フェロー著 個別の思惑を交差させる大戦史
2016.3.27. 日本経済新聞

 叙事詩的な映画のような歴史書である。著者は、民衆史に注目して歴史学に革新をもたらしたアナール学派の重鎮であり、歴史教養番組を長年プロデュースしてきた歴史家だ。この特質が活(い)かされて、第1次世界大戦後から第2次世界大戦終結までの各国の指導者たちの思惑がマルチスレッドに展開され、歴史が立体的に浮き上がるような仕掛けがちりばめられる。

http://www.nikkei.com/content/pic/20160327/96959999889DEBEAEBE3E1EAE6E2E0E4E2E1E0E2E3E49F8BE5E2E2E2-DSKKZO9891389026032016MY7000-PN1-1.jpg
 特徴は3つある。ひとつは、なぜ戦争の回避や同盟が選択されたのか、反対に開戦や攻撃の決断がいかに下されたのか、ヒトラーやローズべルトなど、7名の戦争指導者の認識や心理を突き合わせて究明しようとしている点だ。著者の専門がロシア史ということもあって、主役級のスターリンの言動には厚みがある。一方で、昭和天皇や蒋介石、ドゴールなど、世界大戦の中で軽視されがちだったアクターにも目配りがされ、脇役たちによって全体が引き立つ。
 彼らが相互に投げかける視線を交差させて、個別の判断が全体戦争につながっていったこと、独伊枢軸はもちろん連合国内も決して一枚岩ではなかったことなどが論証されていく。例えば、戦後処理が議題にのぼったテヘラン、ヤルタ、ポツダムの各会談で浮かび上がった課題を、参加者の回想録からつき合わせて浮かび上がらせるのも、著者ならではの手法だろう。
 次なる特徴は共産主義、ファシズム、反ユダヤ主義など、国家を横断するイデオロギーが指導者の行動と計算を複雑にさせていったことが強調されていることだ。特定の世界観は戦争遂行のための合理的計算を狂わせていったばかりか、指導者の疑心暗鬼を招来させ、戦争での残虐さを増幅させていった。ナチズムとスターリニズムという2つの全体主義は、それぞれユダヤ人と反スターリンという、内部に敵を見出(みいだ)した点で共通していた。他方では、反共イデオロギーゆえに、1943年から本格化する戦後処理での対立は解消されず、戦後の分断へとつながっていった。
 最後に、イタリアのニュース映画がなぜ戦線映像を報じなかったかなど、映像史家ならではのエピソードが随所に盛り込まれ、当時の雰囲気の再現に役立っている。映像がプロパガンダとして利用されることが一般的になった時代、それを読み解くのも歴史家の使命であろう。
 指導者それぞれが、あともう少しだけ賢明であれば、先の大戦はあれほど悲惨なものとはならなかったかもしれない――一縷(いちる)の望みを抱かせてくれる歴史書でもある。
(小野潮訳、新評論・5500円)
著者は24年パリ生まれ。仏歴史研究誌「アナル」共同責任編集者。著書に『新しい世界史』など。
《評》北海道大学教授
吉田 徹


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