運命の選択1940―41 世界を変えた10の決断  Sir Ian Kershaw  2015.2.8.

2015.2.8.  運命の選択1940―41 世界を変えた10の決断  上・下 
Fateful Choices Ten Decisions that Changed the World 1940-1941     2007

著者 Sir Ian Kershaw 1943年英国オールダム生まれ。現在シェフィールド大学教授。元々は中世史専攻。ドイツ現代史、ナチス・ドイツ研究の世界的権威。ドイツ連邦功労十字章、英国勲爵士への叙勲を始め、数多くの学術賞を受賞

訳者 河内隆弥 1935年上海生まれ。小樽商大卒。都銀海外支店長歴任

発行日           2014.10.20. 印刷             11.10. 発行
発行所           白水社

本書の主題
1.    2次大戦は、いまだに我々が実感できる様々な方面で20世紀を書き替えた
2.    史上最大の厄災となった戦争は、僅か4041年の19か月の間に主要大国の指導者たちによってとられた運命的な決断の数々によって大きくその形が造られた
2次大戦は、徐々に、この世紀の特質を表すものと認識され始めた。新しく、そして戦慄的な言葉、ジェノサイド(集団虐殺)を残し、続く数十年を継続的、基本的に特徴づけるものとなった。ホロコーストの遺産であるイスラエルの建国は、必然的に世界を巻き込む中東における終わりのない紛争を巻き起こしている
本書は、歴史的なイフを問うことではなく、特定の決定の背後にある選択肢を調べることによって、なぜ実際の決定が下されたかを正確に解明する一助とするのが目的
特に戦後世界を形作った決断の源を辿るものとして10例を挙げた

第1章        ロンドン、1940年春 ~ 英国、戦争を決断
1929年の世界的経済危機の襲来がすべてを一変させた ⇒ 工業世界の経済成長に急ブレーキをかけ、社会の窮乏と政治的混迷が追随
イギリスでは、政治危機と長期に続く経済不況に繋がったが、世界に与えた間接的な悪影響はより甚大
イギリス軍事力の脆弱性が表面化するとともに、35年末にはフランスとともに、アビシニア(エチオピア)を犠牲にして、侵略者ムッソリーニに迎合しようとしたことで、その外交力は破滅的に衰退
40.5. ヒトラーの電撃作戦を読み誤ったチェンバレンの不信任決議の結果、チャーチルが後継に指名 ⇒ 前任も国王も外相のハリファックスを推していたが拒否。より喧嘩好きで意思の強いチャーチルが就任したことは、英国のその後の戦争遂行状況に間違いなく甚大な影響を及ぼした
30年代を通じてチャーチルは政治の世界で冷や飯を食っていた。豊富な閣僚経験にも拘らず、代々のリーダーたちからは、信用できない、責任ある地位に就くには独善的な人間だと思われていた。政治的には左翼にいながら反動的とみなされて嫌われ、自身の党派のほとんどからもいわば一匹狼とみられていた。第1次大戦のガリポり作戦での失敗の責任は忘れられておらず、若いころ自由党に鞍替えしてまた舞い戻った二股膏薬振りも不信の種だったし、蔵相時代には経済危機にあって大蔵省の地位を低下させたし、36年の国王退位危機の時のチャーチルの仮借ない反対姿勢は「信用ならない」政治家であることを一般にも植えつけた。独立心が旺盛で、ドイツの危険が再現するとした警告は予言となり、執拗なナチズムへの敵意は保守党の中でも少数の強硬論者となり、屈辱極まりないミュンヘン協定に対する弾劾はチェンバレンの救いようのないヒトラーへの譲歩と際立つ対照を見せていたが、4月まではチェンバレンの支配力は堅実であり、チャーチルの権力基盤は脆弱
就任直後からチャーチルは、長い英国の歴史で最大の深刻な脅威に直面 ⇒ 和平か戦争継続か、英国政府が選択した中でも最重要の決断を迫った
就任時のチャーチルの立場は不安定、保守党からも喝采はなかった。大半の閣僚を留任させる一方、戦時内閣を5名に限定、3名が保守党、野党労働党からも2名入閣。チャーチルは陸軍大臣を兼任。党首のチェンバレンには国内問題を任せ、ハリファックスは外相に留任
もともとチャーチルは仏露との大連合を主張していたが、チェンバレンがボリシェヴィズムを嫌悪
5月最終週のイギリスによる講和せずとの決断は深い意味を持つこととなる ⇒ イギリスだけの問題に留まらず、ヒトラーをしてイギリスを軍事的に破るか、ソ連を敗北させて大陸におけるドイツの優位をイギリスに認めさせるかの二者択一の選択を迫ることとなる
ヒトラーは、フランス降伏後の7月、最終的ではあるが曖昧な「和平呼びかけ」演説をイギリス政府が直ちに拒絶したことで、イギリスの決断を知り、重大な決意を迫られた

第2章        ベルリン、1940年夏、秋 ~ ヒトラー、ソ連攻撃を決断
ドイツは、「生存圏」獲得、「ユダヤ的ボリシェヴィズム」打倒を狙ってヨーロッパとバルカンの支配者となるために、不倶戴天のイデオロギーの敵、ソ連攻撃に踏み切らざるを得なくなる
40.7. 第二次大戦でヒトラーのとった最も運命的な選択 ⇒ 415月にソ連攻撃を開始すれば5か月で全てが終わる
ヒトラーは、アメリカの参戦を42年とみていた

第3章        東京、1940年夏、秋 ~ 日本、「絶好の機会」を捉えることを決断
40.7. 近内閣発足 ⇒ ヨーロッパ動乱の衝撃によって、東南アジアの制覇を通じて自給自足経済を確立し、ヨーロッパの植民勢力を駆逐する好機が広がり、陸海軍とも機会を逃すな、との檄が飛ぶ。世界情勢を「重要な転換点」にあると見做し、「東亜新秩序」の建設を謳い、同時に戦争に備える「国防国家」に再編成される

第4章        ローマ、1940年夏、秋 ~ ムッソリーニ、分け前獲得を決断
40.6. ムッソリーニがイタリア参戦の決意を表明 ⇒ 元々ファシスト国家としてはイタリアの後塵を拝してきたドイツが、今や立場を逆転させ、ムッソリーニは二流の独裁者になってしまうことに我慢がならなかった。ドイツの虎の威を借りて、枢軸の枠内で独自の要求を実現してくことを狙っての参戦表明だったが、ほどなく思惑は挫折
40.10. イタリアのギリシャ侵攻 ⇒ ギリシャの力を甘く見たために、征服どころかかえってバルカン半島全体の混乱を招き、初の枢軸側の挫折となって、41年春までにはヒトラーが軍事介入せざるを得なくなる

第5章        ワシントンDC1940年夏-41年春 ~ ルーズヴェルト、手助けを決断
40.10. ルーズヴェルトは異例の3選を目指して立候補する際、ヨーロッパの戦争から距離を置くことを宣言。一方で、直前には陸海軍の長官に共和党のタカ派スティムソンとノックスを指名、国防問題についての自らの腕力を大幅に強化、米国自身の戦争準備、そして英国支援の双方に対して個人的及び公的は支持の態勢を取ることが出来た
40.5. チャーチルが、首相として最初の書簡をルーズヴェルトに送る ⇒ 後世、決定的に重要な文書だったと認められる。欧州大戦勃発以来、続く5年半の間に2000通の書簡とメモが取り交わされ。お互いの個人的な絆を深め、4041年の米英関係の強化に測り知れない価値をもたらし、究極的に完全な軍事同盟の成立に貢献。最初の公式文書でチャーチルが説いたのは、アメリカの非交戦国宣言と、軍隊派遣以外のあらゆる援助の必要性だった。すぐ必要なものとして4050隻の古い駆逐艦の拝借、最新型航空機数百機と対空砲と弾薬の供給を要請
その時点でのアメリカ国内の対英仏援助への賛成は35%に過ぎず、ルーズヴェルトは援助を確約しなかった
ドイツによるイギリス空爆の激化を受け、8月になって漸く大西洋上の海空軍基地租借と引き替えに軍事物資の援助を実行
ルーズヴェルトは、「炉辺談話」を活用して世論を味方に引き入れ、41.3.には武器貸与法案に署名 ⇒ 最も重要な政治決断の1つとなる

第6章        モスクワ、1941年春-夏 ~ スターリン、自分が一番よく知っているとして決断
独ソ不可侵条約は、ソ連の指導者たちにとって旨味のあるものだった ⇒ ポーランドの東半分がソ連のものとなり、ソ連の領土拡大に道を拓く端緒となったが、40.5.のドイツの勝利の速度やフランス崩壊の速さはソ連指導部を驚愕させた
スターリンは、フィンランド戦争での拙劣な戦争指導もあって、赤軍の戦闘能力に対し完全に信頼を失い、猛烈な軍備増強に走る
ソ連指導部は、ドイツとの戦争が不可避であることを知りつつ、自らの準備不足から、最短でも42年まで引き延ばさなければならなかった ⇒ スターリンも、ヒトラーが二正面作戦のリスクを冒すとは思わず、ドイツが西部戦線では簡単に勝てないと考え、41年夏の開戦を遅らせることが出来れば、翌年の春までヒトラーを防げると思っていた
41.5. スターリンが人民委員会議の議長=首相となり、史上初めて党の首席(書記長)が公式に国家の首相となって全てを掌握、その立場を利用してソ連・ドイツの関係の維持改善に自ら携わろうとアピール
6月になって、ドイツのソ連侵攻の兆候が明らかになった時でも、スターリンはドイツが西方の仕事が未完である限り、ヒトラーの初動段階でも対ソ政策の狙いは全面戦争ではなくドイツへの服従であり、それによってドイツ経済の苦境は救われ、さらなる圧力を西方へかけることが可能とすると信じ、何とか平和的手段で解決しようと考えたため、22日のドイツ軍による攻撃開始には言葉を失った
10月には首都の主防衛戦が破られ、ソ連国家そのものの命運が危殆に瀕し、政府機構のほとんどを400マイル南東のクイビシェフへ疎開、数十万のモスクワっ子たちの「大夜逃げ」が始まる
スターリンの決断の失敗は、個人に傾斜しすぎたシステムの欠陥から生じたもの。1個人の偏執狂的特質、根拠薄弱な判断力、浅薄な軍事戦略想定力、貧弱は先見予知能力がソヴィエト体制の決定的な構成要素となっている、恐怖と諂いの空気の中で、スターリンの決めることには何らの矯正手段もあり得なかった
スターリンの取った選択が大厄災を招いたことは間違いない。この大厄災からの驚異的な回復については別の物語

第7章        ワシントンDC1941年夏-秋 ~ ルーズヴェルト、宣戦布告なき開戦を決断
ドイツが二正面での戦端を開くことによってルーズヴェルト政権は戦略の練り直しを迫られる ⇒ ソ連はドイツの前に13か月しかもたないと見られ、さらに日本の動きも不穏
ソ連もアメリカの武器貸与法の対象国となったが、中立の立場を堅持しつつUボートからの攻撃に如何に対応すべきか、戦争に引きずり込まれるリスクがどんどん高くなる
タカ派の対独開戦論に対し、ルーズヴェルトは軍事顧問たちの懐疑的な意見にも拘らず対ソ武器援助までは決断したものの、なお逡巡の態度を崩さず
7月初め、アメリカの最初の軍事行動として海兵隊がアイスランドを守る英軍に代わるべく上陸を開始 ⇒ チャーチルは、第1級の政治的、戦略的重大性を示す、開戦以来最も重要な出来事の1つとして称えた。ルーズヴェルトも、すべての国の船舶をアイスランドまで武装護衛することを了承
9月、米駆逐艦が魚雷攻撃を受けたのを機に開戦論が高まるが、それでもなお中立法の修正案は、孤立主義者たちの反対に遭って僅差で議会を通らず
127日 真珠湾によって、ルーズヴェルトはついに戦争へと国民を一体化させ得る機会を手にした

第8章        東京、1941年秋 ~ 日本、日本、開戦を決断
ドイツのソ連侵攻は日本の支配層たちを不意打ち ⇒ 松岡外相の努力で2か月前に日ソ中立条約締結という外交の一大成果を獲得したばかりだったが、枢軸国及びソ連との連携によって西欧の行動を阻止しようという目論見が崩れ、外交的に孤立する一方、中国の泥沼から抜け出す道も見つけられなかった
戦争回避の努力の一方で、開戦を念頭に置いた場合、南進論しか残された道はなく、アメリカとの衝突は次第に不回避となっていった
41.8. ルーズヴェルトとチャーチルの首脳会談の席上、大西洋憲章が調印され、チャーチルは日本に対し強硬路線をとるようルーズヴェルトに要請
近からルーズヴェルトに首脳会談の申し入れがあった際は、まだ両者とも戦争回避に一縷の希望を抱いていたが、日本側が陸海軍の強硬派に押し切られ、天皇も従わざるを得なかった ⇒ アメリカ側の態度も世論を背景に強硬で、事前に日本の譲歩なしには会談は無意味とし、日本側も御前会議の結論を譲れないまま外交交渉は暗礁に
近は辞任し、東條は陸軍軍人でもあった東久邇宮を後任に推薦したが、木戸内大臣が先行き「皇族が主宰する内閣は、結局皇室を大衆の怨嗟の的にし兼ねない」とした意見を入れて天皇も拒絶、危機を招いた張本人の東條が日本政府を仕切ることになる
東條も、海軍の逡巡と曖昧な態度に、開戦の御前決議見直しを考え、外相に松岡ではなく東郷を起用
アメリカ側も、大西洋における対英援助を損なう懸念から、対日開戦遅延の動機が見え隠れしており、双方において戦争を食い止められる機会が全くないわけではなかった
真珠湾攻撃はアメリカをこれ以上ないと言えるほど1つにまとめた。日本の奇襲なかりせば、ルーズヴェルトが太平洋で宣戦布告の承認をとれるかどうかは疑問。8日午後大統領が宣戦布告に署名、英国と英連邦諸国政府も直ちに宣戦し、太平洋戦争が始まる
アメリカの強硬な態度もさることながら、日本が戦争へという狭い道に自らを追い込んだ主な理由は、ワシントンではなく、東京で見出せる ⇒ 戦争回避の声は聞こえてきたが、その時までどの段階でも平和を望んできた同じ人物が日本に戦争の奈落を覗きこませるに至ったもろもろの段取りを支持した。近がよい例で、悲惨な結果を免れない地点まで積極拡大策を後押ししていた者の1
日本の極東支配という目標は、単に経済的な至上命題に留まらず、国家の名誉、誇り、威光、そして列強の1国としての地位の反映だった

第9章        ベルリン、1941年秋 ~ ヒトラー、合衆国に宣戦布告を決断
41.12.11. 日米開戦を受け、3国同盟の規定に伴ってドイツが公式に対米宣戦布告
ヒトラーの部下たちは、対米開戦の準備もないままに、総統の決断に驚く
ドイツ指導部は、日本の攻撃について事前に察知していなかったが、ヒトラーはアメリカが太平洋に専念すると読んで、対米宣戦の好機として捉えた
東方の計画の破綻に加えてアメリカとの戦争が避けられなくなってきたときに、ヒトラーは自ら宣戦布告することで、この不可避性の先を行くことにした。先んずれば人を制すの典型例となるような大胆な行動だったが、自滅の入口への第1歩となった

第10章     ベルリン/東プロイセン、1941年夏-秋 ~ ヒトラー、ユダヤ人絶滅を決断
ヒトラーは、対米宣戦布告の翌日、党指導部を前に、「ユダヤ人が再度世界戦争をもたらすのであれば、自らの絶滅を招くだろう」と言った予言に従って、ユダヤ人の絶滅は必然の結果だと演説
その前提となったのは41年の2つの決断 ⇒ 夏にはソヴィエトのユダヤ人を殺せと言い、秋には殺害の対象をナチが占領するヨーロッパ全域に拡大した
犠牲者数は、5.296百万人とも言われるが、目標はその2倍に近い11百万人
類似の前例としては、1915年トルコ人によるアルメニア人11.5百万人の虐殺 ⇒ 敵愾心の長い前史があり、悲惨な暴行と虐殺に転移したが、思想上の問題が主で、イスラムに改宗することによって虐殺を免れた人もいた
41年に始まったナチのジェノサイドは、ナチ権力の前提を発展させたものとしての論理の帰結であり、妥協の余地を許さない生物学的反ユダヤ主義を支える、いわば知性を装った論理は国家戦略となっていた
本書の前9つの決断は、いずれも軍事戦略の影にある政治の合理性があったが、ユダヤ人殺害の決断は全く別物で、根源に反ユダヤ主義という悪魔の病理学がある限り理性を見出すことは出来ない。しかもこの決断も、異なる形ではあっても基本的に戦争決意に結びついている。ユダヤ人に対しても命を賭けて戦うという決断は、ナチが戦った広範な軍事闘争とは切り離し難い、ナチの思考方法の重要かつ固有の一部分だった
ヒトラーは、自殺前夜に口述した『政治的遺書』の中でユダヤ人の戦争責任に再度言及、「真の犯罪人」は、今回は「その罪を贖(あがな、本書では「購」にルビがふられている)わさせられた」
ジェノサイド思想の基盤にはユダヤ人悪魔論があるが、これはナチの想像の中心的な虚構
米英の「金権主義」の背後に潜む資本主義、ソ連の背後に潜むボリシェヴィズム、この支配者はいずれもユダヤ人で、ドイツの生存を究極的に脅かしていると想定
ユダヤ人憎悪は伝統的に、ロシア帝国と東欧で最も蔓延 ⇒ ポグロムが常態として地域に根付いていた
ハプスブルク帝国においても、反ユダヤ主義は猖獗を極めていた ⇒ ヒトラーもウィーン時代、汎ゲルマン運動の指導者シェーネラーと、ウィーン市長ルエーガーの賛美者
1933年春 最初の大規模な差別措置実施 ⇒ 公職からの追放、ユダヤ人商店に対する国民的ボイコット運動
35年 ニュルンベルク法施行 ⇒ ユダヤ人の市民権剥奪
38.11.9-10. 帝国の水晶の夜
40.12. 翌年春ソ連を攻撃するというヒトラーの決断は、人種問題の処理という目的も孕む ⇒ 既に手中にした地域のユダヤ人と、これから占領するソ連のユダヤ人を併せて処理する計画
ヒトラーの意思は、特定の機会に、正確かつ明白な言葉で表現されたことは一度もなかったが、41年秋にヒトラーが直接関与する2つの大きな段階があった ⇒ 1つは、当てもないのにドイツ国内ユダヤ人をいちどきに移送するという決定と、もう1つは12月の対米宣戦布告と長期の世界大戦の開始に伴う包括的「最終解決」に繋がる新たな衝動
ドイツ侵略の背後には、ヒトラーの人格に具現されたイデオロギー上の「使命」があり、その「使命」に内在する固有のものがユダヤ人の「除去」だった。こうしてナチのユダヤ人に対する戦争は、第二次大戦の中心に位置し、切り離すことのできないものとなった




運命の選択1940―41(上・下) イアン・カーショー著 世界大戦招く決断の理性と狂気 
日本経済新聞朝刊2015年1月25日付

 「歴史的な反実仮想(ヒストリカル・イフ)」とは、実際にはなかった出来事や決断を推測することで、なぜ特定の選択肢が取られたのかを説明する分析手法である。
(河内隆弥訳、白水社・各3800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(河内隆弥訳、白水社・各3800円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 1940年5月から4112月にかけて、ドイツ、日本、イギリス、ソ連、イタリア、そしてアメリカの相対峙する戦争指導者たちが、どのような決定を、なぜ下したのか。その過程をナチス研究の権威である著者は、この反実仮想を用いて説明する。それというのも、ドイツのソ連侵攻、イタリアのギリシア侵略、日本の真珠湾攻撃、アメリカの欧州戦線への参戦といった政策は全てこの時期に取られたからだ。結果、欧州の戦争とアジアの戦争は結びつき、戦いは真に世界戦争へと転じていった。
 例えば40年5月、挙国一致内閣を率いることになったチャーチルはなぜ、ドイツとの休戦ではなく、戦争継続を決めたのか。翌月にムッソリーニはドイツとどうして歩調を合わせることにしたのか。4110月に、東条英機は近衛文麿の対米戦争回避の案をどう押し切ったのか――特定の判断が別の判断を呼びこみ、それが戦線の拡大へとつながっていく。いわば歴史を舞台とする政策学が、著者の言葉を借りれば「机の背後からみえたもの」が、まるでドラマをみるように、舞台と主人公を換えて展開されていく。読者はその場に居合わせるが如く、歴史がどちらに転ぶのか、息を呑(の)んで頁(ページ)をめくっていくだろう。
 それでは、戦勝国と敗戦国を分けたものは何なのか。敷衍(ふえん)していえば、統治機構での多元性と指導者の聞く耳という制度と指導者のパースナリティに、その分かれ目があった。ファシズムや全体主義の組織は硬直的であるがゆえに、硬直的な判断を導き、それは撤回され得ないから、間違った判断は持続していくことになるのである。
 著者は繊細かつ鋭い手つきで、指導者が合理的であったからこそ戦争は拡大し、傷跡を深めていったことも説得的に描き出している。戦争遂行や戦線拡大の決断については、連合国側であれ、枢軸国側であれ、それぞれに合理的な判断材料を有していた。そして、この合理性の束が結果的にユダヤ人抹殺という狂気を産み、それこそが第2次世界大戦を忘れがたいものにした、と著者は終章で想起するのを忘れない。理性と狂気の弁証法こそが時代の特徴であるということを改めて思い出させてくれる書でもある。
(北海道大学准教授 吉田 徹)



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