民族浄化のヨーロッパ史  Norman M. Naimark  2014.12.26.

2014.12.26.  民族浄化のヨーロッパ史 憎しみの連鎖の20世紀
Fires of Hatred  Ethnic Cleansing in Twentieth-Century Europe  2001

著者 Norman M. Naimark 1944年ニューヨーク市生まれ。1972年スタンフォード大で博士号取得。ボストン大とハーヴァード大ロシア研究センターの特別研究員を経て、現在スタンフォード大歴史学部東欧史教授兼フーヴァー研究所上級研究員。専門はロシア・ソ連と東欧の近現代史。代表的著作は、第2次大戦後のドイツにおけるソ連占領地区の歴史の考察

訳者    山本明代 01年千葉大大学院社会文化科学研究科博士後期課程修了(学術博士)。名古屋市立大大学院人間文化研究科講師、准教授を経て、現在教授

解説者 百瀬亮司 75年松本市生まれ。07年東大大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。現在跡見学園女子大兼任講師、名古屋市立大大学院人間文化研究科研究員

発行日           2014.6.30. 初版1刷印刷             7.14. 初版1刷発行
発行所           刀水書房 (名古屋市立大学 人間文化研究叢書 4)
名古屋市立大学人文社会学部は、「人間・社会・文化のあり方を学際的な視点から問い質し、豊かで人間らしい生き方を可能にする社会の実現への貢献を目標として96年設立

日本語版への序文
「民族浄化」  英語圏の「浄化」には非難の意味合いは含まれないが、ロシア語やドイツ語では、明らかに集団的暴力の形態として理解される。本書では後者に近い概念とする
民族浄化とジェノサイドを区別  民族浄化の歴史的諸事例がジェノサイドを導き得るし、暴力的な集団的追放の過程がジェノサイドへの強い引き金となっている

序章 民族浄化/20世紀/ヨーロッパ/諸事例
戦争と民族浄化、住民同士の殺し合いが、ヨーロッパ南東部にあったユーゴという国家を破壊し尽くした。ユーゴにおける内戦は、ヨーロッパが第2次大戦後経験した戦争の中でも最悪のもので、数百万人もの人々が住む場所を追われ、かつてセルビア人、クロアチア人、ボスニア人やコソボのアルバニア人が比較的平和に暮らしていたこの地域は、憎しみの感情に覆われ、社会は荒廃し、非道い貧困が蔓延。微妙なバランスの中で複数の国民が共生するという、ユーゴで生み出された独自の社会のあり方は跡形もなく消滅
ユーゴで起こったことは、20世紀前半に起きた下劣なジェノサイドの歴史が繰り返されただけなのか、それとも新しい要素が付け加わっていたのか。いくつかの事例を比較検討しながら解答を探す
民族浄化という言葉が一般化したのは、1992年のボスニア戦争の第1段階で、セルビア人がボスニアのムスリムを居住地域から追放する行為を指して用いられたが、もともとは1980年代初期、コソヴォ自治州でアルバニア人によって被害を受けたセルビア人の身に起こっていることを説明するために、隣接するセルビアに住むセルビア人が考案した言葉
ユーゴ内戦を通じて、国際法上の犯罪を意味する用語となる
ジェノサイドとほぼ同義で使われる  ジェノサイドという言葉の意味は、第二次大戦中のナチ党の迫害に基づき、48年の国連総会で「ジェノサイドの犯罪防止と処罰に関する国連条約」第2条で定義されたが、あるエスニック集団や宗教集団、国民集団の全員かその一部を意図的に絶滅させること
民族浄化は、特定の領域からある特定の人々を追放することで、その手段は合法的あるいは半ば合法的に行われるが、強制的な国外追放が必ず暴力を伴い、その暴力行為が人命を奪いがちという事実から、ジェノサイドとの違いが不明確に
近世以前と以後の民族浄化の違いは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、欧米諸国の至る所で発展した近代的な人種主義に基づくナショナリズムがますます広まったことによるもので、他者を国民本体に混合することは国民の本来の力を損なうことになると考えた

第1章        アナトリアのアルメニア人とギリシャ人
20世紀初頭のオスマン帝国の崩壊によって、南東欧とアナトリアではジェノサイドと民族浄化が100年に亘って続く  今日でもボスニアとコソヴォに残っている
オスマン帝国内の主要な宗派が良心の自由と各宗教共同体内での相対的な自治を認めていたため、帝国内のマイノリティは比較的快適な生活を営んでいた
ヨーロッパ列強の勢力伸長とともに、アルメニア人とギリシャ人が中心だったキリスト教共同体は、ヨーロッパ列強の力を背景に、帝国政府に対し改革を求めて圧力をかけ、急進化したため、オスマンからは領内の実害と見做され、189496年政府主導によるアルメニア人を対象とした大規模な虐殺ポグロムに発展、以後第1次大戦まで周期的に繰り返す
青年トルコ人運動  帝国内の改革勢力として、当初はアルメニ人も支持したが、トルコ人ナショナリストとの結びつきが強くなるにつれ、伝統的なイスラーム教徒エリートによる支配の正当化とトルコ・ナショナリズムが主要イデオロギーとなり、アルメニ人を排斥
アルメニア人に対するジェノサイドの直接的な原因は、191213年のバルカン戦争でバルカン半島のムスリムがオスマン帝国へと追放されたことを青年トルコ人運動が同地における最大のキリスト教集団であるギリシャ人とアルメニア人による仕打ちだと見做したことによる
トルコ政府は、まずエーゲ海沿岸地域とトラキアからギリシャ人を強制的に国外追放し、次いでアルメニア人に対し、徹底した武装解除を通じて国外退去を強制
ナチ党によるホロコーストと異なるのは、コンスタンチノープルとスミルナのアルメニア人共同体はほとんど無傷で残ったし、改宗した者は除外されたり、アルメニア人による反撃が成功した例もあった
1918年アルメニアに短命の独立国家が成立したことがトルコによる迫害を加速した面もあって、一部地域で赤軍が勝利してソ連に編入されたことで辛うじて絶滅から救われる
アルメニア人の正確な犠牲者の数はいまだ不明。国外追放が140万、死者が80万と推定
民族浄化により、アルメニア人がアナトリアという故地に持っていた地理的、文化的繋がりが永久に断ち切られたことの意味は大きい  トルコ人はアルメニア人のジェノサイドを否定するだけでなく、アルメニア人やアルメニア王国がアナトリアやオスマン帝国の過去に果たした重要な役割を消し去り、オスマン帝国とアルメニア人の歴史の一体性を踏みにじるという二重の記憶のごまかしを行っている
ギリシャの場合は、ヨーロッパ列強の支持を得ていた独立国家が存在した点で、アルメニア人の場合とは様相を異にする
1918年 新興国家のアルメニアの部隊がアナトリア東部に一時的に侵入した際、呼応するようにギリシャ軍もイギリス軍の支援のもとスミルナを占拠、周辺地域のトルコ人を虐殺し大ギリシャ創設を目論んだため、勢いを増しつつあったトルコ・ナショナリストの運動に火をつけた  1922年トルコ軍がスミルナを奪回、報復が始まる。23年のローザンヌ条約でアナトリアに居住するギリシャ人120150万人と、エーゲ海沿岸のマケドニアに居住する35万のトルコ人の強制的な住民交換がまとまるが、移住させられた人々は祖国とはいえ不慣れな土地で悲惨な生活を強いられる

第2章        ユダヤ人に対するナチ党の攻撃
1939.8.22. ヒトラーはオーバーザルツブルクでの演説で、ポーランド国民の壊滅という流血を伴う任務をドイツ軍将校に受け入れさせようと激励するためアルメニア人の虐殺に言及、「今では誰もアルメニア人の絶滅など話題にしない」と言い放った
ナチ党によるユダヤ人攻撃は、ドイツの極端なナショナリズム、人種主義、反ユダヤ主義を混合したイデオロギーに加え、反ユダヤ主義の立法化を率先し大量虐殺を後押しした近代国家と政府のもとで起こった。さらに、トルコ人にとっての第1次大戦と同様に、ジェノサイドを公式に正当化し、覆い隠した第2次大戦もその状況を作り出すのに一役買っていた
優生学の誕生  19世紀末、人種主義者は、犯罪行為が頭蓋骨の寸法に対応しており、社会階層の違いが骨格の構造に一致していることを発見、それを生物学の進歩として、人類の人種的特徴が鑑定され、それを選択的な繁殖を通して改良しようとしたのが優生学
国家の成員である国民に秩序と均一性を押し付ける近代国家の要求に合致しており、保守的な政治思想の中に存在してはいたが、実際の結果を生んだのはナチ党だった
ナチ党の当初の目的は、ユダヤ人を領土から永久に追放した15世紀のスペインのユダヤ人迫害と似ていたが、異なっていたのは、ナチ党によるヨーロッパでの支配的地位の確立に際し、迫害されたユダヤ人が追放された先で反ナチ党の扇動を行わないよう、彼等の行く先についても関心を持った  当初はイギリスが管理するパレスチナであれば、イギリスがユダヤ人に独立の国家を建設することを許すはずはないとみて、ナチ党政府はイギリス・パレスチナ銀行、ドイツ・シオニスト連盟との間でハーヴァラ(移転)協定を締結、移住促進の仕組みを作ったが、自主的に仕組みに乗るユダヤ人はほとんどおらず、却ってアラブ諸国の反発を引き起こす
1935年 ニュルンベルク諸法制定  ユダヤ人の法律上の地位を剥奪
1938年 クリスタル・ナハト  ユダヤ人の強制的国外退去に抗議してパリのドイツ人外交官が暗殺されたのを契機にドイツ各地で発生したナチ党の扇動した組織的な暴力行為
1941年以降、ジェノサイドの特徴を有するようになる  恒常的な殺害を制度化し合法化
2次大戦がジェノサイドを弁解する役割を果たす  戦争が口実として使われた
アルメニアの場合も、ナチ党の場合も、犠牲者の苦痛に対して周囲が全く無関心であったことは、説明するのが最も難しい2つの事例の類似点
両者とも、民族浄化とジェノサイドの重要な対象として女性を中心に据えていた  女性を国民の文化的、生物学的容器とみて、積極的な排除の対象とされた
両者で非常に異なるのは、ナチ党が強烈な人種イデオロギ-と狂気に満ちた擬似科学(優生学)を基盤としていたこと
アルメニアの場合は、一部地域からの除去だったものが結果的に多くの人が虐殺されたためにジェノサイドと見做されるようになったが、ナチ党の場合は重大性という点でまったくレベルが異なり、人種的狂気が前代未聞の大量虐殺に変異した民族浄化だった

第3章        ソ連によるチェチェン人=イングーシ人とクリミア・タタール人の追放
ソ連は建国当初より、ユーラシア大陸に居住する非ロシア系住民を結集するために彼等に自治権を認めてきたが、革命により自治権は剥奪、代わりに民族を基盤にコルホーズやソフォーズが組織された  クリミア地域には、ユダヤ人、ドイツ人、アルメニア人、タタール人、ブルガリア人のコルホーズとソフォーズが出来た
多様な人口を同質集団ごとに分けて均質化  僻地に都市やダムを造って多くの若者を移住させた。効率的に推進する役を担ったのが秘密警察制度
1937年 初めてソ連のレトリックの中で、「偉大なロシア人」の国民がすべての国民の上位に置かれるようになる
以後3年に亘り、大規模な民族グループが強制的な追放を被る  フィンランド系住民がカレリアの国境地帯から追放、朝鮮人と中国人は太平洋地域からカザフスタンへ、ポーランド人とドイツ人も西部国境地帯から中央アジアへと移動
国境地帯に国民的マイノリティが存在することは敵の侵入に対し無防備であるとされ、多数の人々を効率的に移送するための技術を発展させた  追放された最大規模の単一集団はドイツ人で在ロシア総勢150万人のうち120万人が東部へと移動
1941年 スターリンはドイツ人との戦いのプロパガンダに歴史上の祖国防衛者たちを引合いにだし、ロシア人の心を高揚させ、最終的にソ連のプロパガンダはロシア人やスラブ人の生来の優越性が戦争の勝利の要因であるとあからさまに表現するようになった  全てがロシア人ではなかったが、気付く者はおらず、新聞もロシア人ナショナリストのレトリックであふれた
戦時中、ヒトラーとナチ党幹部は、スターリンが無慈悲にも政敵を排除し、軍事的勝利のために無数の命や価値あるものを犠牲にしたことに対する称讃を繰り返していたが、スターリンも1934年のヒトラーが行った粛清を称讃して、「いかに政敵を扱うべきかを知っている」と持ち上げたことがある
戦時中と戦後に、スターリンはソ連外構において、強力な新パン・スラヴ主義を強調、ロシア人をスラヴ民族の中で最も重要な存在と位置づけ、他のスラヴ系民族であるチェコ人やスロヴァキア人、ブルガリア人、セルビア人などは、ロシア人の目的を鼓舞し、その政治を支持することになっていた
チェチェン人とイングーシ人は北部カフカース(コーカサス?)6000年前から住むそれぞれ異なった民族で、革命前は山岳民として知られ、氏族集団として活動していた
19世紀後半のロシア人によるカフカース侵攻により、コサックが入植し、山地に退却させられた両民族は、革命後には自治権を求めて内戦へと発展、30年代を通じてソ連の「文明化」の猛攻撃に抵抗
2次大戦中も、ソ連による「反革命の山賊」掃討の動きは続き、同地域に侵攻したナチ党に山岳民が協力したことを口実に、ソ連政府は両民族の強制移住へ踏み切る  徹底して推し進めたのがスターリンとベリヤで、44年に全員例外なく生地からの立ち退き、カザフスタンやキルギスタンへの移住を命じられた。山岳民の除去ではなく、両民族の滅亡が目的だった
1957年 ソ連政府は最終的に両民族が故郷に帰還することを認めたが、新たに指定された入植地に行くことを拒否、自宅に戻って居住者との間に激しい奪い合いを展開
同年末、チェチェン=イングーシ自治共和国が再建されたが、旧資産の奪回はならず、73年にはソ連との間で深刻な軍事的対立に発展

クリミア・タタール人は、中世から初期近代の間にユーラシア大陸の広大な領域を支配していた偉大なモンゴル帝国のハーンたちに由来する人々。モンゴル帝国の遺産を引き継ぐ国の1つであるクリミア・ハン国は1415世紀が絶頂。オスマンと同盟を組んで黒海北岸へ進出しようとするロシア帝国の野望に対抗、自らの独立を維持しようとしたが、1783年にはエカチェリーナ2世によってロシアの支配下に屈する
タタール人は、同じムスリムでもチェチェン=イングーシ人とは異なり、貴族はロシア人と混婚してロシアの身分制度の一部となり、農民も農奴制の一部となっていたし、海岸諸都市は間もなく帝国ロシアのエリートのための行楽と保養の地になり、ロシア人やウクライナ農民が入植してきた後も、軋轢やポグロムを経験しながらも全体として比較的安定した多民族的な文化を維持
クリミア戦争(185356年の露土戦争)中、タタール人旅団は帝国ロシア軍の側で戦ったにも拘らず、トルコ人への共感を理由に、ロシアから非難され、ロシアはクリミア半島を死守、タタール人の半島からの「自発的移住」を奨励、タタール人は沿岸部を移動し、黒海周辺の著しい開化と繁栄の担い手となる
192141年 レーニンとスターリンはクリミア自治共和国を設立、天然の要港セヴァストポリと、海岸リゾート地域を確保
1944年 ソ連は、第2次大戦中クリミア半島を占領したドイツへの協力を理由に、タタール人のウズベキスタンやタジキスタンへの追放を正当化
戦後、クリミア共和国は廃止され、ロシア連邦共和国内のクリミア人自治州に置き換えられ、さらに54年フルシチョウフによってウクライナに「贈り物」として与えられた
67年の判決によってタタール人はナチ党協力者という嫌疑を晴らすことが出来たが、当局は彼等がクリミア半島に戻る許可を与えなかった  ペレストロイカ後に多くのタタール人がクリミアに帰還して住居と土地の返還を求めており、その戦いは今日も続く。94年には地元政府が帰還したタタール人に対して、公式に「クリミア人」という名称を復活

チェチェンもタタールも、ソ連政府はジェノサイド攻撃によって殺戮を意図したわけではなく、同じ国民である限り「人材」としては救出されるべきものと考えられた点が、ナチ党の場合と異なる
1999年 チェチェン紛争勃発  民族浄化やジェノサイドへと発展する危険性を孕む
クリミアでも、地元に帰還しようとするタタール人に対し、地元住民の攻撃が頻発、タタール人の正当な権利を有する故郷再建の努力がいまなお続く

第4章        ポーランドとチェコスロヴァキアからのドイツ人の追放
ポーランドとチェコの亡命政府は、第2次大戦勃発の当初から、勝った場合にそれぞれの国からドイツ人を追放するための話し合いを開始、終戦直後から追放に向かって具体的に動き出す  スターリンも、赤軍の支援こそ拒否したが、追放には「肯定的」に考えていたし、米英にしても占領したドイツ経済に大規模な被追放民の到来がもたらす影響を懸念しつつも、原則として反対する理由はなかった
チャーチルも、住民の混住ほど際限なく問題を引き起こすものはないとして、完全に一掃されるべきと下院で演説
チェコ・ズデーデン地方からのドイツ人の浄化  当局から国家反逆罪で告発され追放が正当化された
ポーランド西部からのドイツ人追放は、オーデル川両岸に多数のドイツ人が居住していただけに困難で、戦時中逃亡していたドイツ人が自らの居住地域に戻ってくると同時にポーランド人の激しい憎悪の対象となる。同時にソ連に割譲された東部地域から多数のポーランド人が住居と農場を求めて西部に到着、ドイツ人を追放する圧力がさらに高まる
ただ、回復した領土、特に新たに獲得した数世紀にわたってドイツ領だった広大な帯状の領土を経済的に利用できるようにするためにはドイツ人住民の協力も必要とされたため、ドイツ人追放の原則を主張し続ける一方で、誰がポーランド人かを決定する際に寛大な国民の定義が適用された  ポーランド化と脱ドイツ化が同時に進められ、ドイツ系住民の排除と中部・東部ポーランドからのポーランド人の移住を促進したが、ウクライナやベラルーシから移住した210万のポーランド人は、自らをワルシャワやクラクフのポーランド人とは異なると見做し、ドイツ化されていたシレジア地方のポーランド系住民は、ポーランド語の僅かな単語しか知らなかったが、ドイツ語の使用を一切禁止された

チェコもポーランドも、社会を民族的に同質化し、管理するためにドイツ人を追放
ポーランドでは、ウクライナ人も民族浄化の犠牲となり、一部生存していたユダヤ人も共産主義に基づくポーランドの新たな政治文化に同化しなかったため68年に追放
スロヴァキアでは、ハンガリー駐留のソ連軍当局が止めるまでチェコ政府によるハンガリー人の追放が続く
2次大戦終戦と同時に起こった国家建設の段階で、ナショナリズムが優勢な動機となり、第1次大戦後の合意だったマイノリティの権利という原則は踏みにじられた
チェチェンやタタール人の場合と異なるのは、人々が憎悪を抱くドイツ人を攻撃する立場に立つことで政治指導者たちが政治家としての成功を手にした
1990年代初頭、ポーランドとドイツは、それぞれが相手国民に負わせた苦渋の運命について謝罪し、両国民の間の関係は著しく改善された
チェコとドイツの間では、1997年和解宣言調印に漕ぎ着けるが、多くの問題が未解決のまま残されている

第5章        ユーゴスラヴィア継承諸国の戦争
1990年代に旧ユーゴを継承したセルビア、クロアチア、スロヴェニア、マケドニア、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ建国、その後モンテネグロとコソヴォが加わる
旧ユーゴにおける民族浄化は、国民国家建設の結果として必然的に起こったのではなく、具体的な政治目標を掲げた政治のエリートが選択した方針だった
20世紀の2つのユーゴは、多民族の構成によって起こった難題の対処を誤る
1のユーゴであるセルビア人=クロアチア人=スロヴェニア人王国は、1918年第1次大戦終戦時に建国。オスマンとハプスブルクの崩壊によってバルカン半島西部の国境線が引き直され、完全に新しい南スラヴ人の統一国家が誕生。29年の政変でユーゴスラヴィアと改称したが、多数派のセルビア人とクロアチア人が協調に失敗したために国家の統合は次第に弱体化。39年のスポラズム(協定)で両者の妥協が図られたが、直後に第2次大戦勃発によりイタリア人ファシストと第三帝国の急襲を受けてユーゴは分裂
戦後チトーとパルチザンが、脱集権化された連邦構造と高度に集権化された政治制度をもとに第2のユーゴを創設し、統一された
80年代末、ユーゴの共産主義体制が消滅し、敵対する国民諸勢力が解放され、第2次大戦時の敵対関係が再現されたが、どの勢力にしても比較的最近に創られた国民
6世紀続いたパックス・オトマニカは、バルカンの人々に、オスマン支配下でも自らの宗教共同体であるミレットの中で成長し、発展することが認められたが、19世紀この地域の多くの民族が国家建設を開始
1980年代 ナショナリストの熱狂
1991年 スロヴェニアとクロアチアが相次いで独立宣言、ヨーロッパ共同体、とりわけドイツの支持を得るが、クロアチアの独立にはセルビアが反発、ユーゴ人民軍の支援を得てクライナ共和国を設立、クロアチア人地域を「浄化」した
1992年 ユーゴとセルビアは、次の標的をボスニアに定め、ユーゴから独立を画策するボスニア=ヘルツェゴヴィナに対し、同国内のセルビア人によるボスニア・セルビア人共和国を設立、民族浄化の作戦を伴ってボスニア人に襲いかかる  200万を超えるボスニア人が自らの故郷から逃亡し、その大多数がムスリムだった
最も甚大な被害が出たのは、1995年スレプレニツァでの集団虐殺  国連軍が警備する国連指定の「安全地帯」だったが、平和維持軍は傍観するだけで、後にハーグの旧ユーゴ国際戦犯法廷によってジェノサイドに当たると裁定された
クロアチア人もムスリムやセルビア人に対する民族浄化に従事、ボスニアの分割も意図
199899年 セルビア人がコソヴォのアルバニア人を対象に民族浄化  NATO軍によって阻止、セルビアも敗北を認める
旧ユーゴ地域のあらゆるところで政治的排他主義が政治綱領の中に強く表れ、自らの領域と見做すところから「他者」の追放を決定している
ユーゴの継承国家は、最終的にEUNATOへの加入を求めている。各々が独自の方法で国を再建し、近代化し、同時代の国際社会に合流しようとしている。これらの諸国家がそれを民主主義的に行うことができるか否かは、建設的な指導部がいるかどうか、西欧諸国の政治的意思如何にかかっている
ボスニアとコソヴォの例は、20世紀の民族浄化に対処する国際社会の無力を再び曝け出したばかりか、NATO軍によるコソヴォ空爆が事実上セルビア人の民族浄化作戦を加速させ、コソヴォのアルバニア人100万が根こそぎにされた

終章 暴力/戦争/全体主義/記念碑と記憶/財産/ジェンダー/未来
ヨーロッパにおける大規模な暴力の特徴は、20世紀の間に劇的に変化  2つの大戦に代わり、内戦、国民解放戦争、民族浄化が前面に現れてきた
長期的には、あらゆる国家が潜在する民族浄化の危険から免れているわけではなく、そのためにも国際社会は次に起こるときに備えるべき
民族浄化の特徴と、いかに機能しているのかを検証する
1.   暴力  武装した犯罪者 vs 非武装の弱者の構図が一般的で、暴力は悪質、人類の生命にかなりの損害を与える
2.   戦争  戦時中か、戦争から平和に至る混沌とした移行期に起こることが多い。戦争が支配者たちに民族浄化の口実を与える
3.   全体主義  追放される集団は誰1人として留まることを許されないのは全体主義の特性と酷似
4.   記念碑と記憶  強制的に追放するのみならず、その民族の存在の記憶を根絶することを伴う
5.   財産  徹底した暴力と残虐さを用いた攻撃のみならず、財産に対する犯罪にもかかわる。追放の動機はイデオロギー的なものだが、経済的な思考が広く認められ、犠牲者には富裕層が多い
6.   ジェンダー  浄化は強度の女性嫌悪の本質を有し、男性による女性に対する攻撃を伴う。ナショナリズムのイデオロギーは必然的に女性を国民の次世代の運搬人と見做す
7.   未来  政治エリートは権力を獲得し潜在的な対抗者に対してその権力を維持するための方法として、統合のためのナショナリズムのイデオロギーを利用し続ける
民族浄化の多くのケースで国際社会は無力だったが、その背景には他国の内政事情には干渉しないとするウェストファリア条約に基づく主権の理念に対して国際社会の中に強い支持があることが挙げられる

解説 I 紛争の「記憶」という呪縛――「民族浄化」後の旧ユーゴスラヴィア諸国 百瀬亮司
紛争と民族浄化の後、それらがどのようにして「記憶」され、社会的に共有されようとしているのか
旧ユーゴ紛争として数えられるのは以下の5
1991年 スロヴェニア紛争  戦闘は10日間で、民族浄化は起こらなかった
199195年 クロアチア紛争
199295年 ボスニア=ヘルツェゴヴィナ紛争
199899年 コソヴォ紛争
2001年 マケドニア紛争  民族浄化もその範囲も狭い
3つの紛争の共通点は、いずれの地域でもセルビア人がマイノリティであり、彼等を保護する目的でセルビア共和国が直接・間接に紛争に関与し、武力紛争を深刻化、全面化し、残虐行為が発生
コソヴォに対するNATO軍による空爆は、ユーゴ治安部隊による迫害に苦しむアルバニア系住民を非人道的状況から救出することを目的とした「人道的介入」とされるが、国連の要請を経ないNATO域外への攻撃の妥当性については議論の余地がある
1999年 セルビアが国連決議を受け入れコソヴォから撤退、コソヴォは国連の暫定統治下に置かれ、国際社会監視下の曖昧なアルバニア国家として一応の安定を取り戻す
2004年 セルビア人とアルバニア人の少年同士の諍いから、アルバニア人の不満が爆発、デモが暴徒化、国連事務総長が調停に動くが独立を主張するコソヴォ側と、それを認めようとしないセルビア側の溝は埋まらず、コソヴォ側はアメリカやEU主要国の支持を得て独立を宣言、国際司法裁判所も独立宣言の合法性を認め、承認する国も国際的な広がりを見せ、コソヴォは1国家としての体裁を整えつつある
セルビア人問題は未解決のまま残る
2013年 EUの仲介により、コソヴォ、セルビア両政府による合意成立  北部コソヴォ域内のセルビア人の自治を保障すると同時に、コソヴォ政府による社会統合を容認
1995年 ボスニアに関するデイトン合意  単一のボスニアという国家の下に、セルビア人中心のスルプスカ共和国と、ボシュニャク人、クロアチア人中心の10州からなるボスニア=ヘルツェゴヴィナ連邦の2つの政体が存在
コソヴォ合意に伴い、スルプスカ共和国もボスニアから分離独立する権利があることを匂わせているが、スルプスカとコソヴォ北部、セルビア共和国の3者間ではセルビア人共同体的連携が形成されている
ボスニアでは3民族がそれぞれに独立的性格を強めており、1つのボスニアを形成するのは難しい状況だが、障碍となっているのは直近のボスニア紛争を巡る「記憶」の問題
2013年 クロアチアが宿願のEU加盟を果たす  少数民族が約10%という「民族的に純粋な」国家建設に成功したことが欧州入りをスムーズにした面が無きにしも非ずだが、その裏には95年に実行された「雷作戦」「嵐作戦」と題した軍事作戦によるセルビア系住民に対する「民族浄化」を挙げざるを得ない  2235万人のセルビア人を国外追放
バルカンの人々が民族に基づく暴力の「記憶」から自由になるには、具体的な目的を持った場における人々の往来を通して、多民族間の信頼関係を構築し、世代を超えて再び新しい多民族・多文化状況を内在的に培っていくことが求められる

解説 II 民族浄化・ジェノサイド研究の現状と課題                      山本明代
本書の最大の特徴は、民族浄化を再定義した上で、民族浄化の諸事例を比較検討し、時代と地域を超えた類似性と個別性を描き出した点
本書の分析視角は、民族浄化そのものだけでなく、地域紛争、マイノリティ問題、ジェンダー、強制移住、被追放民などの今日的課題の問題解決に対しても、大きな示唆を与える
本書の特徴
1.   民族浄化の概念をジェノサイドと区別
「民族浄化」とは、具体的な領域からある集団人間破壊を追放し、その痕跡を一掃することであり、その目的は、ある領域から異質な民族集団、宗教集団などの社会集団を追放・排除することによって、その地域の支配を掌握すること
「ジェノサイド」とは、あるエスニック集団や宗教集団、民族集団の全員かその一部を意図的に絶滅させることであり、集団虐殺に酷似しており、ホロコーストはジェノサイドの代表的事例。国連のジェノサイド条約によってより適用範囲が広がる
2.   20世紀の民族浄化の諸事例を再考し、この問題が古来の民族間の敵意に基づくものではなく、極めて近代的な要因によって起こった現象であることを強調
   近代的な人種主義のナショナリズム  ダーウィンの進化論に影響をうけた社会進化論が適者生存の論理を作り、骨相学などの擬似科学が人種の優越をあたかも普遍的なものとして示した
   近代国家の形成過程において、1つの言語・文化・歴史を有する国民を創出する一方、マイノリティの同化や排除・追放が行われた
   科学技術の発展がメディアの発達、強制的な大量輸送、高度な性能を持つ武器の製造を可能にした
   政治エリートがより重要な役割を果たすようになり、国家、政党の政治機構、警察、軍隊、準軍事組織がそれを後援するようになる  セルビアのミロシェヴィチこそ政治エリートの典型
3.   20世紀のヨーロッパにおける民族浄化の諸事例には相互の関連性があったことを指摘
191090年代の5つの事例を通じて、時代を超えて共通する特徴とともに、科学技術や国家機構の発展によって、より巧みに組織化されていく近代的な民族浄化の変貌する形態をも理解できると同時に、相互の関連性が見て取れる  支配者や追放者が民族浄化の組織化と正当化のために、前の事件を参照し、その方法を継承していた
5つの事例とも、ヨーロッパ列強が影響を与えていた点で、ヨーロッパ全体が関わった犯罪と言える
民族浄化と福島原発事故による避難民の問題は異なる背景と問題を孕んでいるが、国策や支配的な集団によって周辺化され、強いられた強制移住そのものの被害とその後の被害、生地にまつわる記憶と歴史の喪失、社会における忘却との闘いという点で、ヨーロッパにおける強制移住の難民と、原発事故による避難民は類似の問題を抱えていると言える
民族浄化は、過去のヨーロッパや世界の遠い場所で起こっている特定のマイノリティの問題ではなく、我々の身近な所でも、誰のもとでも起こりうる問題。社会と政治情勢が変われば、誰しも周辺化され他者化され、社会から排除されうる。我々の問題として認識することが、民族浄化や支配的な集団による強制移住の被害を防ぐ助けになるだろう


民族浄化のヨーロッパ史——憎しみの連鎖の20世紀 []ノーマン・M・ナイマーク
[評者]保阪正康(ノンフィクション作家)  [掲載朝日 ]朝日 20141005   [ジャンル]歴史 
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理性崩壊後の教訓を自らに課す

 「民族浄化」という語は、19925月のボスニア戦争の初期から使われ、そしてユーゴ内戦とともに国際法上の犯罪と同一化された。「常に暴力」を伴い、「人類の生命にかなりの損害を与え」「戦争と密接に関連している」というのである。
 20世紀の人類史が抱え込んだ、そのケースをユダヤ人、チェチェン人、ユーゴスラビアの各民族などの例を引いて詳述する。加害側としてソ連、ポーランド、チェコ、セルビア人、クロアチア人などが挙げられる。第一次大戦下の青年トルコ人運動によるアルメニア人虐殺、ヒトラーとナチスはそれを称賛し、ユダヤ人攻撃につなげる。「ジェノサイドを公式に正当化し、覆い隠した第二次世界大戦もその状況を作り」だしたとの見方に納得させられる。
 ひとたび理性や意識が崩壊したあとの具体例には言葉がない。暴力は必ず復讐(ふくしゅう)の連鎖を生んだ20世紀、私たちは本書が伝える教訓を自らに課す覚悟が必要ではないか。
    
 山本明代訳、刀水書房・4860円


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