ナパ—奇跡のぶどう畑  Doug Shafer  2014.12.21.

2014.12.21.  ナパ奇跡のぶどう畑 
第二の人生で世界最高のワイナリーを作り上げた〈シェーファー〉の軌跡
A Vineyard in Napa  2012

著者
Doug Shafer カリフォルニア州ナパヴァレーにあるワイナリー〈シェーファー・ヴィンヤーズ〉の現社長
Andy Demsky ナパヴァレーを拠点とするライター。〈シェーファー・ヴィンヤーズ〉の広報コンサルタント

訳者 野澤玲子 翻訳家。一般財団法人日本ソムリエ協会認定ワインエキスパート。東京女子大英米文学科卒。本書翻訳一か月後の14.7.逝去

発行日           2014.9.15. 初版発行
発行所           阪急コミュニケーションズ

序文
中西部出身の成功した会社員の抱いた夢が、あまりにも華麗に、堅実に、かつ完全に実現されたという事実が本書を希少な読み物にしている

1.    ジョン・シェーファー
1924年 シカゴ北郊外に生まれたジョンは、コーネル大学で工学を専攻した後、43年召集され、戦闘機のパイロットに。アリゾナ地方新聞社のオーナーの娘と結婚。母方の親族が創業した教育書専門の出版社の営業マンとして20年勤務
1970年代初め、アメリカ銀行の『カリフォルニア州におけるワイン産業の展望』と題したレポートを読んで、ワインの将来性に魅せられ、カリフォルニアに飛ぶ ⇒ 地中海沿岸では丘の斜面にある段々畑でブドウが栽培されているのを知って、同じ様な土地を探し、紹介されたのが、ナパヴァレーの中心から南東にはずれたスタッグスリープと呼ばれる土地で、3年間地元のワイナリーのオーナーたちが誰も手を出さなかった2000フィートもの巨大な岩の断崖の上の209エーカーの土地で、ぶどうが最後に植えられたのは1922

2.    19731
一家6人でナパに移住
“Back to the Land(自然に帰ろう)” というムーヴメントに乗ったとも言える
同じ様にナパに移住してきた中に、チェラムズバーグ・ヴィンヤーズ、ダイアモンド・クリーク・ヴィンヤーズ、パインリッジ・ワイナリー、モンテレーナ・ワイナリー、スタッグスリープ・ワインセラーズ、トレフェセン・ファミリー、ダックホーン・ファミリーなどがいた

3.    荒野に現れたワインカントリー
ナパで最初にワインが作られたのは184142年 ⇒ ヨントヴィルの名付け親となったスカンジナビア人で米英戦争の退役軍人だったヨントがノースカロライナからきてワインを作る。当時はまだメキシコ領、1846年にカリフォルニア共和国として独立、間もなく合衆国に編入
1880年代、英国の小説家スティーヴンソンがナパのワインを称讃した頃から、当地のワインブームに火が付き、金銀で大儲けしたサンフランシスコの新しい富裕層が上流階級のステータスを求めてワインメーカーに殺到、ワイナリーが一気に175軒に膨れ上がった
1890年代初め、フィロキセラの脅威がナパを襲い、新しい作物に転向していった
1898年以降、ブドウ樹の移植には成功したが、19年の禁酒法でワイン産業も逼塞

4.    揺れる振り子
禁酒法下でも、個人消費のために年間200ガロンまではワインを生産できたので、ナパのぶどう農家は、個人の醸造者にぶどうを売って結構よい暮らしをしていた
2次大戦後、アメリカの景気拡大とともに、アメリカ人のワインへの興味が一気に上昇、ナパのワインは新しい時代の最先端をゆく存在に ⇒ 新しくできたロバート・モンダヴィ、サターホーム、ルイス・M・マルティニ等が脚光を浴びる

5.    到着――1973
スタッグスリープの廃墟となった古い家に落ち着く

6.    ぶどう品種
古い既存のぶどう樹をすべて植え替え、特定の場所で特定のブドウ品種から作られる上質なワインを目指す
ジンファンデルとシュナン・ブラン、カベルネ・ソーヴィニョンを選択

7.    カベルネ・ソーヴィニヨン
74年オイルショックに伴う景気後退の煽りで、ぶどうの価格がほぼ1/2に急落
ナパの大半のヴィンヤードは、ナパ川に沿った平地に造られていたが、自分たちの土地は傾斜地で、水もなく、風化した母岩層を覆っている表土は僅か1822インチほどの厚さの多孔質の火山性土壌と岩だけ
漸く傾斜地に水源を掘り当て、その頃安価で登場したPCV管を使ってオーバーヘッド・スプリンクラーを張り巡らせ、灌漑と同時に、冬には薄い氷の膜を張ることによって、ぶどうの果実が華氏31.5(-0.3)の臨界温度を下回らずに済み霜害を防ぐことが出来た
実際には、丘陵地のぶどう樹には霜が発生せず、大規模な灌漑も不要で、ドリップ式の灌漑で十分だった

8.    ブドウ畑の運命
74年、著者はUCDavisに入学、ぶどう栽培学を専攻する傍ら、初めてワイナリーで働く

9.    アルフォンソ
初めて作業長として雇ったのがメキシコ人のアルフォンソで、著者の父親と2人三脚で畑の改良に取り組む
2度目の接ぎ木で、今では普通のやり方になっているカベルネを使い、何とか定着に成功、丘陵でのぶどう栽培のスタート地点につくことが出来た

10. 1976
76年、ナパ住民の最大の関心事は暑さと水不足 ⇒ 前年の冬過去3番目にひどい乾燥状態を記録、5月には華氏100度を超えて、森林局が例年より1か月早く「防火シーズン」入りを宣言。75年に続く旱魃
76.5.24. パリのインターコンチネンタルで、フランスとナパを比較するワイン・テイスティング実施(07-08 パリスの審判』参照) ⇒ 赤白ともナパに最高点
赤は、スタッグスリープ・ワインセラーズの〈カベルネ・ソーヴィニヨン〉
白は、シャトー・モンテレーナの〈シャルドネ〉
突然世間からの注目を浴びるようになって、新しいワインとワイナリーの話題で持ちきりとなり、トレフェセン・ファミリーとレイモンド・ファミリーが最初のワインをリリース、新設ワイナリーが続々登場
コカコーラは、スターリング・ヴィンヤーズを8百万ドルで買収、69年のヒューブラインによるイングルヌックの買収、72年のピルスベリーによるスーヴェランの買収に次ぐ大規模なものとなった
著者の父親も、自分のぶどうを使って地下室でワインを作る夢を実現させる ⇒ 〈シェーファー1977カベルネ〉誕生

11. 丘陵のカベルネ・ソーヴィニヨン
78年は水不足の不安解消、気温が上がってぶどうの糖度が基準値の22.5度を超え、収穫したときは25.5度まで上昇。マーカム・ヴィンヤーズで17トンの収穫したカベルネを破砕して発酵させ、ラウンドヒルで40個の樽に詰めたが、冬の凍りつくような寒さがマロラクティック発酵(赤ワインの醸造で行われる2次発酵)を妨げ、じっと待つより他に手が無かった

12. ファミリーワイナリー
79年、卒業を前にロバート・モンダヴィ・ワイナリーでツアーガイドを経験
モンダヴィこそ、ナパの象徴的存在。アメリカのワイン産業を繁栄させたモンダヴィの最大の貢献は、ワインを食品として、食事に欠かせない飲み物という考え方を普及させたこと。禁欲的なピューリタニズムから来る飲酒を快楽と捉える考え方を打破。ワイナリ-に初めてシェフを雇い、印象的なワインと料理の組み合わせを披露し、ワインの支持層をさらに広げる
7781年、ナパのワイナリーは51軒から110軒に倍増 ⇒ ファー・ニエンテ、ホワイトホール・レーン、マム・ナパヴァレー、フローラ・スプリングス、オーパス・ワンなどが新設
79年も人手が集まらずに収穫が遅れたものの、ラザフォードヒル・ワイナリー(前身はスーヴェラン)で破砕・発酵・瓶詰までしてもらったカベルネ・ソーヴィニヨンは、その年の優良ワインに選ばれ、ロサンゼルス・カウンティ・フェアで金メダル受賞
80年、独自のワイナリー完成。第1号の破砕はその年のシャルドネ
80年は最高のブドウを収穫

13. ワインを売る
ぶどう栽培、醸造に次いで、マーケティングについても独自でやることを決め、81年春に78年のカベルネ・ソーヴィニヨンを初めて市場にリリースするため、ロサンゼルスを皮切りに営業に歩く ⇒ 11ドルという強気の価格設定(モンダヴィのリザーヴが25ドル)にも拘らず好評を博す
当時のカベルネ・ソーヴィニヨンは、メルロを混ぜるのが標準的醸造法で、リリース直後でもすぐ飲めるように仕上げられていたため、試飲会参加の専門家がメルロの比率をしつこく聞き出そうとしたが、親父のカベルネは正真正銘100% ⇒ これこそがこの地区のぶどうの特徴だと確信した親父は、4年後近隣のぶどう栽培家たちのグループの会長となり、スタッグスリープ・ディストリクトがアペレーション(アメリカ政府認定ブドウ栽培地区)として指定されるよう政府に申請する
著者は、一旦教職に就くが、1年で嫌気してナパに戻り、レイクスプリングという新設のワイナリーで、ワイン作りを一から学び直す

14. リビィ()
ウェルスファーゴで金融アナリストをしていた姉が親父の仕事を手伝う
ロンドンの権威あるマスター・オブ・ワイン協会のディレクターがシルヴァラード・リゾートに来たとき、ウェイターだったリヴィの男友達の兄弟が79年シェーファーのカベルネ・ソーヴィニヨンを薦めてくれたのがきっかけで、ロンドンのサヴォイホテルやワインショップに販路が広がる

15. ニューヨーク
次のマーケティングの目標がニューヨークだったが、当時はまだフランス産に凝り固まった旧世界で、殺到する加州のワイナリーのなかでの差別化は困難

16. チェーンソー
80年まで、ナパヴァレーではメルロのワインを生産していたワイナリーは数えるほどしかなかった ⇒ ルイス・マルティニが73年ぐらいにラベルに「メルロ」と記した最初のワインをリリース。スターリング・ワイナリーがそれに続く
もともとメルロは、ボルドーで何世紀も前から混醸用のぶどうとして栽培されてきた品種で、加州でも広く栽培されていたが同様に混醸用と見做され、カベルネ・ソーヴィニヨンの味わいをまろやかにし、よりおいしく飲めるようにブレンドに使われていた
世間から注目された最初のメルロは、ダックホーンの初リリースとなった78年のもので、メルロを主体に15%のカベルネ・ソーヴィニヨンをブレンドし、100%フレンチオークの新樽で熟成
当時の消費者の好みは圧倒的に白ワインで、白2に対し赤1の割合だったにもかかわらず、ボルドーのポムロール地区の銘柄であるメルロ主体のシャトー・ペトリュスのことも念頭に、思い切ってジンファンデルのぶどう樹をチェーンソーで伐採してメルロに切り替え

17. ナパヴァレー・ヴィントナーズ
ナパヴァレー・ヴィントナーズは、1944年に結成された地元のワイン生産者協会で、協力してナパヴァレーのプロモーションに当たることを目的とした
79年、ナパヴァレー・ワイン・オークション開催 ⇒ 504ロットもの出品があり、モンダヴィの「スペシャル・セレクション・カベルネ」1980年のバレル「小樽」に9200ドルがつく等次々に高値で落札される中、シェーファーの78年カベルネもケース600ドルがつく。最高値がロット番号339「ナパメドック」というモンダヴィとフィリップ・ド・ロートシルト男爵による新しいJVの仮の名で、後のオーパス・ワンとなったカベルネ・ソーヴィニヨンの79年の1ケースで、24,000ドルというカリフォルニアのワインとしては過去最高値でニューヨークのワイン商が落札
当日の総収益は32万ドルとなって、地元の2つの病院に寄附されたが、お手本とした本場フランスのオスピス・ド・ボーヌの同年の収益金110万ドルに比べればまだまだ

18. 放火事件
オークションの直後、華氏100度を超す猛暑が続く中で放火魔が出現。危うく家もワイナリーも消失しかけたところで、家の周囲に迎え火を燃やしてなんとか難を逃れる
23,000エーカーが焼失したが、ぶどう畑は残り、火災のあとはぶどう畑を「Fire Break防火畑」とするようになった

19. トラブル
82年の収穫後、80年のカベルネ・ソーヴィニヨンがひどい失敗に終わり、ワインメーカーがアル中になったので解雇、親父からワインメーカーとして戻るよう懇請され、未熟を知りつつ折れる

20. 19831
ワイナリーに入ってみると、作業をさぼっていたために汚れがひどく、タンクの中まで初めて見るブレタノマイセスという酵母が繁殖、除去するために大変な時間と労力を要した挙げ句、81年のカベルネ・ソーヴィニヨンは殆ど売り物にならなくなっていた ⇒ シェーファーのラベルをはがし、プライベートラベルの安ワインとして地元などで売り捌く

21. 1982年の《カベルネ・ソーヴィニヨン》
1つのロットだけでワインを醸造することは、美味しいワインが出来る可能性がある手法として注目されていたが、新しい畑に植えたカベルネ・ソーヴィニヨンが良質な香りをしていたところから、それを使ってリザーヴ(上級)ワインを造ることにし、同年の他のカベルネ・ソーヴィニヨンより1年長く熟成させる

22. 別のラベル
83年はぶどうが豊作で、ワインの消費量をかなり上回り、激しい過当競争が始まる ⇒ 売れる価格に落とすこととセカンドラベルのワインを造ることで乗り切る

23. イライアス
84年初め、地元出身でメキシコ系、UCDavis新卒のイライアスをアシスタントに雇う。発行科学の分野で学位を取得した初めてのラテン系アメリカ人、しかも優秀な成績
パリスの審判以来、旧世界(ヨーロッパなどの古いワイン生産地)の注目がナパに集まり始め、71年のネスレによるベリンジャーの買収以降、ヨーロッパの生産者たちのナパ進出が相次ぐ

24. ナパヴァレー・ワイン・テクニカルグループ
1940年代、ボーリュー・ヴィンヤーズの敏腕ワインメーカーだったアンドレ・チェリチェフが、ワイン醸造技術の底上げを期して同業者に呼びかけて作った仲間内のワイン造りの勉強会 ⇒ 参加者にとって、最新のデータや手法、意見を入手する貴重な情報源

25. フードワインの時代
一時フランスに倣って、ボリューム感が少なく、優しい味わいの、より軽い「フードワイン」が流行、カリフォルニアの温暖な気候から生まれる力強い果実味たっぷりのフルボディのワインが敬遠される ⇒ 85年には、かつてアメリカの上質赤ワインのブドウ品種として不動の王者だったカベルネ・ソーヴィニヨンのアイデンティティの危機とまで言われた
シェーファーの82年ものは、全米各地では絶賛されていたが、パーカーは酷評 ⇒ ほどなく異例の訂正記事が載り、世間の評価に一喜一憂してはいけないことを学ぶ

26. ヒルサイドセレクト
リザーヴの意味 ⇒ 決まった定義はなく、勝手に使われるようになったが、シェーファーの場合は、自らのブドウ畑の最高水準のぶどうから作ったワインに使用
他社のリザーヴとの差別化を図るために考えて商標登録したのがヒルサイドセレクトで、83年から使用

27. よいこと、悪いこと、とても悪いこと
8611月、85年のメルロと84年のカベルネ・ソーヴィニヨンを抜栓すると、腐った卵のような強烈な匂いがする ⇒ 硫化水素が発生。すべてのボトルのワインをタンクに戻して濾過して出荷。コンサルタントのトニー・ソーターが助けてくれた

28. アポストロフィの戦い
スタッグスリープStags Leap地区にぶどう栽培家やワイン醸造家が移住してきたのは1970年、ロスでレストランと土地開発事業で成功したカール・ドマーニが古いシャトー風の建物と土地を購入、モンダヴィの手ほどきでワインビジネスに没入、スタッグスリープStags’ Leap・ワイナリーを始める
同年、シカゴで政治理論の学位を取得して教えていたウォレン・ウィニアルスキがワインに魅せられて64年にナパに移住、スーヴェランでワイン作りの基本を学び、68年のネイサン・フェイのカベルネ・ソーヴィニヨンに心を奪われネイサンの土地の隣をぶどう畑にして、スタッグスリープ・ヴィンヤードと名付け、この畑のぶどうがスタッグスリープStag’s Leap・ワインセラーズの最初のワインとなる
76年のパリスの審判で勝ったのはウィニアルスキ
72年 カールがスタッグスリープの名称の独占使用を狙ってウォレンを告訴したが、地域全体の総称だとして敗訴
74年 今度はウォレンが、スタッグスリープ・ヴィンヤーズとスタッグスリープ・ヴィンヤーズ・アンド・ワインセラーズという名称の独占的使用権を得る為にカールを告訴、「アポストロフィの戦い」と呼ばれて以後9年も続く ⇒ 82年の判決は、前回と同じで両者痛み分けとなったが、その後は行動を共にすることが多かった
シェーファーのボトルに、「スタッグスリープ地区で栽培されたぶどう使用」と書いていることにウィニアルスキがクレームをつけたので、訴訟沙汰を嫌ったシェーファーはボトルから削除する一方、別な手を考えた

29. AVA(認定ブドウ栽培地域)
アメリカでは長い間、ワインといえば事実上白赤の2種類しかなかったが、6070年代にかけて消費者の意識が変わり始め、特定のブドウ品種の名前でワインの特徴を見分けるようになる ⇒ 特定の地域のワインには独特の個性があることが認められるようになり、ナパヴァレーのワインの品質が一躍トップに躍り出た
ヨーロッパでは、「テロワール」と呼ばれる概念に基づき、特定の地域で作られるワインには独自の個性があることが認められ、スペインでは1926年にリオハが特定原産地として認定され、フランスでも1935年にワインの原産地を規定して管理するINAO原産地呼称委員会が設立され、翌年コート・デュ・ローヌが最初のAOC原産地統制名称(アペレーション)として認定
1978年 米国財務省管轄下のBATFアルコール・タバコ・火器取締局が、AVA-American Viticultural Area米政府認定ブドウ栽培地域を制定する ⇒ ブドウの品種やワインの質は考慮されない
81年 BATFが、ナパヴァレーAVAを認可 ⇒ 東のヴォカ山脈を越えた地域も含む

30. ディストリクト
最初の認可があまりに広い地域だったので、サブアペレーションが検討され、最初の口火を切ったのがロス・カーネロス。1800年代後半からブドウを栽培しているサンパブロ湾の沿岸に広がる地域。ボーリュー・ヴィンヤードがAVAの認定申請を出し、受理されたために除外されていたソノマ郡のぶどう栽培家が反論 ⇒ カーネロスは2/3までソノマ郡内にあったにもかかわらず、AVA認定を取得
シェーファーが中心となって声をかけ、85年スタッグスリープのAVA申請へ
スタッグスリープで作られるワインの特徴として、「ベルベットのような舌触りで、しっかりした酸に支えられ、とてもバランスの良い豊潤な味わい」とされ、「卓越したぶどう栽培地区」であり、「州内のワイン産地の中で最適なミクロクリマ(微気候)」に恵まれているという定評
いざ申請すると、周辺で除外された同業者から追加指定の申請が出され、北隣のヨントヴィル地域の一部までが含まれて、地域の特徴が無くなる恐れが生じる

31. 公聴会
89年に最終的にAVAとして認定されたのは、北側がヨントヴィル・クロスロードまで、西はナパ川までの2700エーカーで、うち1300エーカーがぶどう畑

32. シャルドネ
シェーファーでも80年代半ばまでにシャルドネの生産量を増やし、80年のシャルドネはホワイトハウスでも使われる最初のワインとなったほど
現在は殆どのシャルドネがナパヴァレー最南端のカーネロス地域(海水の影響で涼しい気候)で栽培されているが、当時はナパヴァレー中で栽培されていて、シェーファーもあちこちから買い付けていたが、88年カーネロスに自らの土地を買うが手つかずのまま放置したのが幸い ⇒ 89年は雨にたたられて安物用のぶどうしかできなかった

33. フィロキセラ
90年春 カーネロスのぶどう畑の一部でフィロキセラが蔓延
太古の時代からアメリカ・カナダの東海岸に生育していたぶどうは、米大陸生まれのフィロキセラと膨大な年月をかけて共生可能な環境が築かれていたが、ヨーロッパ系のブドウの品種は耐性が全くなかったため、1860年頃に米国産のぶどう樹についてフランスに上陸したフィロキセラが、フランス全域のぶどう畑を壊滅させる ⇒ フランスの取った対策は、耐性のある北米系のぶどう樹の根を台木にして、自分たちの品種を接ぎ木する方法
85年に北端のセントヘレナの小さなぶどう畑でフィロキセラが発生、86年冬の史上最悪の大洪水でナパヴァレー中心部の平野が水で洗い流された際に残ったフィロキセラが運ばれてきたこと、さらにはぶどう畑の管理会社が農機具をあちこちのぶどう畑の作業に使い回ししていたことも被害が拡大する原因となったが、突然変異した新種のフィロキセラであることが判明。最初こそ被害は、ぶどう畑全3万エーカーの1%に過ぎなかったが、全域に拡大 ⇒ 土壌の中のあらゆる生命体を除去する膨大な作業で、撤退する業者も頻発
大惨事がナパヴァレーにもたらしたのは、ぶどう畑の潰滅よりも変革 ⇒ 適正な台木のぶどう品種を適正な場所で栽培することが徹底され、さらにぶどう樹の植える間隔を狭くして密植にすることにより、ぶどう樹に土壌中の水分や養分の吸収を競い合わせた結果ぶどうの実が小さくなり、濃い味わいの凝縮された果実になった
従来は醸造が重視されたが、これ以降ぶどう畑をより熱心に検討し始める

34. サステイナブル(持続可能な)農法
有機農法の開発 ⇒ 化学肥料で雑草を除去していたのとは正反対に、ぶどう収穫後の畝の間に作物を植えた結果、鬱蒼と生えた植物に昆虫が集まり、ぶどう樹の害虫が駆除される効果をもたらした。さらには、植物が土壌中の水分や養分を奪った結果、ぶどう樹の成長が阻止され、葉と果実のバランスがよくなり、植物が枯れて腐敗すれば窒素や他の栄養素になって土壌が豊かになる

35. アイデンティティの危機
80年代初めには、ナパヴァレーがディズニーに続く加州の人気観光地になる ⇒ メドウッドやオーベルジュ・デュ・ソレイユといった高級リゾートが新設、ハリウッドも注目
ワイントレインの登場、バブル景気のなかで賛否両論相次ぐ
90年 ワイナリー定義条例 ⇒ 純粋にワインを生産する場所としてイベント会場などは除外、新設ワイナリーは事前予約の訪問客だけを受け入れること、1週間に受け入れる訪問客数を明確にすること、生産するワインにはナパヴァレー産のぶどうを75%以上使うことなどを義務付け 
新法の下で最初に認定を受けたのがシェーファー・ヴィンヤーズで、実績の4倍の8万ケース

36. 奈落の底からの好転
90年代の景気低迷でナパヴァレーも大打撃 ⇒ アメリカ全土の消費量がピークの487百万ガロンから1億ガロンにまで落ち込む
フランス人がアメリカ人より遙かに高脂肪の食事をしていながら、心臓病にかかる割合がずっと低いのは、20倍以上もの赤ワインを飲んでいるからだというレポートが、アメリカ国内でのワインの売り上げを急回復させる ⇒ 04年初めて赤が白を上回る

37. サンジョなんたら
88年 独自のブレンドの新しいワインの開発を目指し、イタリアの醸造家が挑戦していた伝統的なキャンティワインのブドウ品種であるサンジョベーゼをカベルネやメルロ、シラーといった品種と混醸し「スーパータスカン(トスカーナ)」と呼ばれる豊潤で味わい深いワインを造っていたのを真似て、サンジョベーゼを植え、91年初の収穫でカベルネを40%混ぜたミディアムボディのワインを造りまずますの成功をおさめる
いつまでもワイン作りに情熱を注ぐ父親に対し、リタイア生活を期待していた母親は失望し、92年家を出て2年後に離婚

38. アイデンティティの危機(今度は個人的なこと)
88年、89年はぶどうの生育が困難
90年は、猛暑に見舞われたがよい年
91年は、冷涼な気候がいつまでも続き理想的な年 ⇒ 94年まで熟成させたカベルネ・ソーヴィニヨンは、著者とイライアスの努力の結晶、初めて78年のカベルネを超えるワインとなり、業界でも絶賛
94年の成功で、世代交代を実現 ⇒ 著者が社長に、イライアスがワインメーカーを引き継ぐ

39. 走りつづけの90年代
90年代は、ナパヴァレーにとってもシェーファーにとっても激動の時代
96年まで、ナパヴァレーは連続してグレートヴィンテージ(偉大な収穫年)に恵まれる
96年 著者離婚

40. シラー
新しい品種としてシラーを始める ⇒ 96年でもほとんど栽培されていなかった。フランスのローヌ地方で「エルミタージュ」という最高級ワインが作られ、1800年代初めにオーストラリアに苗木が運ばれて一躍同国の代表的銘柄になった
最初の収穫は99年 ⇒ ワインメーカーのイライアスに因んで、彼の容赦のない品質追求の姿勢を讃えるにはぴったりの「リレントレス」という商標を登録、011月の彼の誕生日にリリース

41. カルトワイン
90年代半ばから終わりにかけてはITバブルの最中
95年にはケイマス・ヴィンヤーズが、91年のスペシャルセレクションに1100ドル超の価格をつけて注目を浴びるが、98年以降は次々と高級ワインが登場
スクリーミング・イーグルが95年にリリースした、ファーストヴィンテージである92年のカベルネ・ソーヴィニヨンがロバート・パーカーから絶賛され99ポイントという高得点がつくが、175ケースしか造らなかったために、IT長者たちを中心に争奪戦が起きる
001月 パーカーが97年のストリーミング・イーグルに100ポイントをつけたのを契機に、ワインブームは狂気の沙汰とも言える状況に突入、破竹の勢いで価格が高騰 ⇒ 4月の『ワインスペクテイター』誌で「カルトCultワイン」と命名され、そこにはアローホ、ブライアント・ファミリー、コルギン、ダラ・ヴァレ、グレース・ファミリー、ハーラン・エステート、マーカッサン、スクリーミング・イーグルと並んでシェーファーのヒルサイドセレクトも含まれていた。大半が少量生産(ヒルサイドセレクトは2200ケース)
当時のフランスの特級銘柄のリリース時の価格は、ブルゴーニュの96年ロマネ=コンティこそ1022ドルだが、ボルドーでは96年ロートシルトが196ドル、96年マルゴーが282ドルであり、ナパヴァレーがいかに浮かれていたかを示す
父親は成功した事業の利益で生産量を増やそうと提案したが、現状の2万から最大3万までが自分の目の届く範囲だとして著者は増産に反対、代わりに、業界の過熱から、農家からのぶどうの購入が難しくなってきたこともあって、独自のぶどう畑の拡張に乗り出す。同時に、オーク樽での熟成期間を長くすることで、より成分が抽出され、凝縮感あふれるワインとする形で、質の向上を図る
99年 ナパヴァレーのワイン・オークションの総収益は5.5百万ドルを超え、本家フランスを完全に抜き去る ⇒ 翌年は、スクリーミング・イーグルの6リットルボトルが50万ドル、ハーラン・エステートの6本の垂直(収穫年が異なる)ボトルが75万ドルで落札
シェーファーの10年計画策定 ⇒ バブルに浮かれず、現実的なワインビジネスと、ヒルサイドセレクトによる現実離れした新しいワインビジネスに峻別し、2010年までの会社のあるべき姿をまとめる

42. エルニーニョ
97年も理想的な年
98年は天候が厳しかったが、それを乗り越える術を学ぶ ⇒ エルニーニョの影響で8月を除いて大量の雨が降り、ぶどうの開花から影響を受け、さらに7,8月の突然の猛暑にぶどうが枯れたが、それまで学んだノウハウで乗り越え、祝福すべきヴィンテージとなる

43. 新世紀
99年の天候は、ずば抜けてよかった
00年は多雨
01,02年は理想的な年
03年の収穫で、サンジョベーゼから撤退、カベルネに戻る ⇒ 04年の収穫から、ヒルサイドセレクトの格下のワインという位置づけだったそれまでの「普通のカベルネ」のイメージを一新、名前も「ワン・ポイント・ファイブ」として、自社栽培のぶどうを使ったスタッグスリープ・ディストリクトのカベルネ・ソーヴィニヨンを作る仕事に完全復帰
「ワン・ポイント・ファイブ」に含めた意味は、著者と父親の1.5世代で築き上げてきたワイナリーの成果ということ

44. ソーラー発電
04年 ソーラー発電導入、100%ソーラー発電にした最初のワイナリーとなる

45. ホスピタリティ
ワイナリー訪問者のもてなしの工夫 ⇒ 人数を絞った予約制の試飲スタイルを考案

46. テレビの現実
ブランド力を強め、新しい世代に浸透させるためのマーケティング戦略の一環として、テレビや映画を通じたプロダクトプレイスメントを試みるが見事失敗
ケーブルテレビのある料理番組に商品を提供したところ、たまたま番組が大当たりしてシェーファーのボトルも注目を集める

47. インターネット
インターネットのワイン業界に対する貢献は、第1に検索によって目当てのワンが簡単に見つかるようになったこと、第2にワイン好きの人たちが自分の感動したワインについてお互いに意見を交換できるようになったこと

48. ポイント
06年に、パーカーが100ポイントをつけた02年ヒルサイドセレクトをリリースした際、ワイナリーに長蛇の列が出来たのには驚く ⇒ 01年ヒルサイドクレストに99ポイントが付いた時を遙かに上回る人数で、改めて1ポイントの持つ重みに感動

49. 経済危機
0708年の最大かつ最悪の経済危機では、売り上げが激減、あちこちで倒産や売却が頻発したが、シェーファーは90年代終わりに好景気に浮かれて増産をしなかったことが幸いして、何とか乗り切る

おわりに――スタッグスリープの現在と未来




ナパ奇跡のぶどう畑 [著]ダグ・シェーファー、アンディ・デムスキィ
父と息子、成功と煩悶の記録
 カリフォルニアのナパヴァレー。有名なワイン生産地だ。本書はナパヴァレーがまるで無名だった1970年代初頭、50歳を前に脱サラして土地を買い、ブドウを植え、ワインを作り始めた父と、後を継ぎ世界最高のワイナリーに高めていった息子との二人三脚の記録。
 勤勉さと慎み深さや家族愛を美徳とした、企業人が好みそうなファミリービジネス成功譚(たん)でありつつ、無の状態からワインという廉価にも高額にもなりうる商品をどう作って売るかの煩悶(はんもん)、著者のワイナリーだけでなくナパヴァレー全体がブランド化してゆく様子が、分かりやすくかつ興味深く描かれる。
 土地の風土に合ったぶどうの美味(うま)みを生かして醸造する。それだけのことがいかに大変か。蛇足であるが評者はワインの膨大な蘊蓄(うんちく)が苦手で何も覚えずにきたが、本書を読み終え、何故膨大になるのかを理解し、ブドウ品種の名前も覚えた。退屈しないワイン入門書としてもおすすめ。
    
 野澤玲子訳、阪急コミュニケーションズ・2160円


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