逝きし世の面影  渡辺京二  2014.12.13.

2014.12.13. 逝きし世の面影 日本近代素描 I

著者  渡辺京二  Wikipedia参照

発行日           1998.9.20. 初版第1刷発行          98.11.20. 第2刷発行
発行所           葦書房


文庫本 平凡社(平凡社ライブラリー) 2005.9.9. 初版第1冊、10.6. 初版第21
「私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存を出来うる限り気持のよいものにしようとする合意とそれに基づく工夫によって成り立っていたという事実だ」(本文より)
近代に物された、異邦人によるあまたの文献を渉猟し、それからの日本が失ってきたものの意味を根底から問うた大冊(文庫本帯)



第1章        ある文明の幻影
近代日本は、古い日本の制度や文物のいわば蛮勇をふるった清算の上に建設されたが、その清算が1つのユニークな文明の滅亡を意味したことは十分自覚されているとは言えないどころか、全て同じ日本文化という持続する実態の変容の過程に過ぎないと錯覚しているのではないか
1回限りの有機的な個性としての文明であり、18世紀初頭に確立し、19世紀を通じて存続した日本の古い日本の生活様式が滅んだ
日本近代が、1つの文明の扼殺と葬送の上にしか始まらなかったドラマだということを銘記すべき ⇒ 扼殺と葬送が必然であり、進歩でさえあった
このことを教えてくれるのは、異邦人観察者の著述 ⇒ ある文化に特有なコードがその文化に属する人間によっては意識されにくく、記録されにくいのは、文化人類学の定石
棄てた過去より残している過去の方が大きく、国民の性格は依然としてそのままであり、本質的には少しも変化を示していない ⇒ 知的訓練を従順に受け入れる習性、国家と君主に対する忠誠心や付和雷同を常とする集団行動癖、外国を模範として真似する国民性の根深い傾向などにその痕跡が見られ、一つの国民的特性なるものがどんなに変わりにくく長い持続力を持つものかに呆然とする
チェンバレン ⇒ 英人ジャパノロジスト。18731911年在日。『日本事物誌』
クロウ ⇒ 英国の商人。1881年木曽御嶽登山
ウェストン ⇒ 宣教師。1888年来日
ハリス ⇒ アメリカ人総領事。1856年下田に初の領事館創立
ヒュースケン ⇒ ハリスの通訳
カッテンディーケ ⇒ 長崎海軍伝習所教育隊長。1859年帰国
リュードルフ ⇒ プロシア商船の積荷上乗人。1855年下田来航
レガメ ⇒ フランス人画家。18992度目の来日
アーノルド ⇒ 英国の詩人。1889年来日
オリエンタリズムという用語法を今日的な意味で確立したのはエドワード・サイードで、彼のオリエントはアラブとイスラムに限定されてはいたものの、西洋の中心性に基づいて、東洋の後進性を説いた高度に政治的な制度をさす
日本の論客は総じて、欧米人の日本讃美をオリエンタリズム的幻影として否定する一方で、彼らの日本批判については無批判に受容する傾向にあり、サイードのように好意的なものであれ悪意的なものであれ、西欧的アイデンティティに立脚するオリエント観を一切拒否するラディカリズムとは本質的に無縁
近代の一画期の終りを迎え、欧米人たちのオリエンタリズム的言説が、その誤解や歪みを通してさえ、何ものかの存在を証言している事実は消えようがないものと、再評価できる
欧米人による19世紀日本観察を現実から遊離したステレオタイプとして批判した好例は、1987年の横山俊夫の労作 ⇒ サイードのオリエンタリズム批判と酷似

第2章        陽気な人々
19世紀中葉、初めて来た欧米人が最初に抱いたのは、国民が満足して幸福だという印象
初代駐日英総領事オールコックは、封建的日本の忌憚ない批判者で、日本があたかも楽園であるかのようなイメージが普及することに反発

第3章        簡素とゆたかさ
人々に幸福と満足の感情が表れていたとしたら、その根拠はどこに求められるか ⇒ 民衆の生活の豊かさ⇒衣食住の豊かさについての証言には驚くばかり
欧米人の目に移った日本の農村の姿は、「肥沃な土壌とよい気候と勤勉な国民」であり、「自分たち自身の風習に従って、どこから見ても十分に幸福な生活を営んでいる」
衣食住において満ち足りている日本の民衆というイメージは、生活の簡素さという点を抜きには語れない ⇒ ハリスが将軍に会ったときにも、その質素でシンプルな様相に驚く
中国と対比して日本が救いであるかに感じられた理由の1つには、中国南部海岸の気候条件がある ⇒ 中国はヨーロッパ人から見れば奥底の知れない混沌・虚無であって、そのバロック的な猥雑さに彼らの感性が堪え切れなかった

第4章        親和と礼節
日本の古き文明に嫌悪と反発を感じた欧米人も多々いた
家屋があけっぴろげということは、生活が近隣に対して隠さず開放されていることであり、従って近隣には強い親和と連帯が生じる
人々の心もまた開放されていた ⇒ 見知らぬ外国人でも歓迎
安全で平和な社会、争いの少ない和やかな社会
礼譲と優雅に満ちた気品ある民
モース: 「挙動の礼儀正しさ、他人の感情についての思い遣り」は、日本人の生まれながらの善徳。貧しい漁師や行商人の動作まで礼譲と行儀の良さばかり

p.154 「横山俊彦」は「俊夫」の誤植

第5章        雑多と充溢
それぞれの店が特定の商品に著しく特化している ⇒ 羽織の紐だけとか硯箱だけ売って生計が成り立つのは、店の規模は小さいが、一定の商品取引量の養える人口がそれだけ大きいということを意味し、生態学的には非常に微細かつ多様な棲み分けが成立していた
庶民は住宅地域という生態学的な単純相に住んだのではなく、彼らの暮らしは雑多な小店舗が混じり合う複雑な相の中で営まれた。人間の営みは多種多様な職分に分割され、その職分の個性は手仕事と商品という目に見える形で街頭に展示され、いわば人間の全社会的活道は1つの回り燈籠となって、街行く者の眼に映る。街は多彩、雑多、充溢そのもの
一見無造作に見える日本の家屋が、細部では様々な工夫と装飾に富んでいる
様々な美しいもの珍奇なもののコレクター ⇒ 繊細優美を極める彫刻の一品や、室内工芸の極致を思わせる家財道具などが置かれている。1つの文明の姿であり、よき趣味という点で生活を楽しきものとする装置を、ふんだんに備えた文明と見えた

第6章        労働と身体
日本人の労働における勤勉と忍耐は何よりも農業に現れており、その見事な成果は一様に外国人たちの感嘆の的になっていた反面、「考えもつかないほど不精者」であり、「一般に生活とか労働をたいへん呑気に考え」ていたのも事実 ⇒ 近代の賃労働とは一線を画し、労働が労働者自身の主体的な生命活動という側面を保ち続け、貨幣化され商品化された苦役になっていない
身体がある社会の特質とそれによって構造化された精神の表現であるとすれば、欧米人の眼に当時の別当や人力車夫、船頭や召使の身体が、美しく生き生きとしたものに映ったという事実は、彼らがまさしく古き日本の社会の中で、ある意味で自由で自主的な特質を持った労働に従事していたことの現れ。ただし、このような記述がみられるのは、幕末から明治初期の記録に限られる ⇒ 江戸時代の労働大衆は自由な身体の持ち主で、その背景には身分社会の存在がある

第7章        自由と身分
幕藩体制下で全体の組織を支えている大原則は、個人の自由の完全な廃止にあるとしながら、個人が共同体のために犠牲になる国で、各人が全く幸福で満足しているように見えることは驚くべき事実と映る
幕府が住民の権利を尊重して譲歩する現場を目撃 ⇒ 掘割の埋め立て計画に対し、住民が艀の溜まり場を失うという理由から、奉行といえど日本の掟を守り、その権利を尊重しなければならぬという町民の意向をしたためた書面がある
病院建設のための農地収用に農地を耕作していた農民が頑強に抵抗した例や、町民間の乱闘が幕吏から放置されたり、幕吏が両者の仲裁役を買って出たりする例が目撃されている
幕藩権力は、年貢の徴収や一揆の禁令等国政レベルでは集権的な権力として強権を振るったが、民衆の日常生活の領域には可能な限り立ち入ることを避けた ⇒ 民衆の共同団体に自治の領域が存在したことの裏返しであり、その自治は一種の慣習法的権利として、幕藩権力といえど妄りに侵害が許されない性質を保有していた
共同体の利害・面目の係る問題において、相手方と集団的に対決する権利は、農村においても認められた ⇒ 山論・水論
江戸の南北奉行所がごく限られた定員の与力・同心しか擁さず、しかも人口百万の大都市の治安が良好に保たれていたことを可能にしたのは、警察・裁判の機能が大幅に民間に移譲されていたから
欧米人たちは、江戸期の日本に、思いもかけぬ平等な社会と自立的な人々を見出す ⇒ 「専制」という先入観こそ彼らが東洋に対して押し付けたオリエンタリズムに他ならず、江戸期の政治体制ほどこの概念に遠いものはない。武装した支配者と非武装の被支配者に区分されながら、その実支配の形態は極めて緩和で、被支配者の生活領域が彼らの自由に委ねられ、富める者と貧しき者との社会的懸隔が小さく、身分的差異は画然としていても、それが階級的な差別としての不満の源泉となることのないような、親和感に貫かれた文明だった

第8章        裸体と性
西洋人を仰天させ、ひいては日本人の道徳的資質さえ疑わせるに至った習俗が、公然たる裸体と混浴
羞恥心=社会制度
徳川期の日本人は、肉体という人間の自然に何等の罪を見出していなかった
徳川期の文化は、女のからだの魅力を抑圧することはせず、むしろそれを開放したため、性的表象としては却って威力を失った ⇒ 混浴と人前での裸体という習俗は、当時の日本人の淫猥さを示す徴しではなく、徳川期の社会が如何に開放的であり親和的であったかという徴しとみるべき

第9章        女の位相
未婚の娘たちの独特な魅力を発見する
長岡藩元家老の娘杉本鉞子(えつこ) ⇒ 青山学院卒後、在米の日本男性と結婚、長くアメリカで生活を送る。幼い頃女なるが故の忍従を説かれるのに強い反抗心を抱く
日本の女は決して忍従ばかりではなく、いちじるしい活発さを見せる ⇒ 外国人に対し物怖じしない
江戸庶民に、男言葉と女言葉の区別がほとんどないのは、女が対等なものとして認められていた。飲酒喫煙も自由

第10章     子どもの楽園
日本が子どもを叱ったり罰したりしないのは、少なくとも16世紀以来のこと
親の最大の関心は子どもの教育

第11章     風景とコスモス
欧米人に日本を楽園と感じさせた要件の1つが、恵まれた自然の美しさ
江戸十里四方での狩猟が禁じられたことから、江戸は鳥類の天国
王子は、来日した異邦人が必ず1度は訪ねる名所、有名な稲荷があり、江戸っ子の春秋の行楽地。美しい茶屋でも有名
明治に入ってからの改造で、江戸の自然や庭園の魅力の大方が失われた
江戸の桜見物の元祖は上野寛永寺 ⇒ 天文年間(1730年代)には飛鳥山に移り、寛政期(18世紀末)には日暮里が栄え、天保期(1830年代)には向島が全盛
飛鳥山のほかに、品川御殿山、隅田川堤、小金井堤なども吉宗が吹上御所から桜を移植して桜の名所とした
染井から巣鴨は、花卉・植木栽培の世界最大のセンターだった ⇒ 徳川期、大名や旗本の屋敷や寺社に庭園が設けられたことが、徳川期の花卉栽培文化が当時世界をリードするまでに大きくなった淵源であり、花卉への愛好がやがて市井の庶民にまで拡大
日本的な自然美は、地形的な景観としても1つの文明の産物であり、自然が四季の景物として意識の中に馴染んだという意味でも、文明が構築したコスモスだった
徳川後期の日本人は、そのコスモスの中で生の充溢を味わい、自然に対して意識を開き、万物との照応を自覚することによって生まれた生の充溢は、社会の次元においても人々の間に強い親和と共感の感情を育てた。その親和と共感は、単に人間同士の間に留まらず、生きとし生けるものに対して拡張された

第12章     生類とコスモス
昆虫や危険な爬虫類の天国
江戸は野犬の目につく街
動物は分別のない畜生だったが、同時に自分たち人間をそれほど崇高で立派なものとは思っていなかった。人間は鳥や獣と同じく生きとし生けるものの仲間であり、普遍的なヒューマニズムを知らなかった ⇒ 人間は神より霊魂を与えられた存在であり、だからこそ11人にかけがえのない価値があり、したがって一人の悲惨も見過ごされてはならぬというキリスト教的博愛を知らなかった

第13章     信仰と祭
宗教心の薄い民族に見えた
徳川期から教養ある日本人は、宗教を軽蔑
僧侶の社会的地位は高かったが、人々からは軽蔑されていた
徳川期に儒学的合理主義が武士階級に浸透し、彼らの倫理の世俗化を完成させたが、彼らは単に、形骸化した既成宗教を軽蔑しただけで、彼らの思考が合理主義一点張りで、神仏も含めた神秘な世界への感受力まで欠いていたとは考えられない

第14章     心の垣根
江戸末期日本に来た欧米人は、日本の風景に「安寧と平和」を感じ、輝くばかりの幸福感が満ち満ちていることに酔い痴れた ⇒ 平和と安息、親和の世界で、狂者さえ参入を許されるほど、人々を隔てる心の垣根は低かった
人々は陽気で、人懐こく、わだかまりが無かった
己の存在に確かな個を感じるのは、心の垣根が高くなるということであり、個であることによって、感情と思考と表現を、人間の能力に許される限度まで深め拡大して飛躍させ得るということだが、そういう個の世界が可能ならしめる精神的展開がこの国には欠けていた
鉞子が夫と死別後2人の娘を連れて日本に帰ったが、やがて長女花野の変化に心打たれてアメリカに戻るのも、花野が上流階級故に伝統的な婦徳が要求され、少女の魂に育ちかけた個の世界が環境の変化によって窒息させられたのを見たからだった
確乎たる個の自覚を抱くことがそれほどいいことであったか
人類史の必然はあり、古きよき文明はかくしてその命数を終えねばならなかった



あとがき
日本近代について長い物語を書きたいという途方もない願いがいつどうして自分の心に宿るようになったのか思い出せないが、1つのきっかけが、真宗寺で日本近代史という題目で月2回話をするようになったこと。8085年に110回続く
『暗河』という雑誌に『昭和の逆説』と題して連載を始め、自らの昭和である1945年までの時代の構造を解析しなければという思いが熟していた
82年から熊本短期大学で非常勤講師として、「日本文化論・西洋文化論」の講座を担当、幕末・明治初期の外国人による日本観察記の幾つかを初めて通読する機会を得たが、彼らの描き出す古き日本の形姿は実に新鮮で、日本にとって近代が何であったか、否応なしに沈思を迫られる思いがした。昭和の意味を問うならば、開国の意味を問わねばならず、開国以前のこの国の文明のあり方を尋ねなければならない。ペリーを証人第1号として極東裁判の法廷へ喚問せよという石原莞爾の言葉が、新たな意味を帯びて胸に甦ったのはこの時
本書の第1稿は、『週刊エコノミスト』に95年から翌年にかけて連載

平凡ライブラリー版 あとがき
版元が重版しなくなって幻の本になったことから、ライブラリーに加えられるのはありがたい
本書だけは例外的に売れた
北京・大連で育ち、18歳で熊本の結核療養所で4.5年過ごした経験から、一つの異文化としての古き日本に、異邦人同様魅了された。その古き日本とは、18世紀中葉に完成した江戸期の文明

ペーパーバック版の性質上、サブタイトルは外した。サブタイトルは、著者自身の誇大妄想に由来する大失敗だった


Wikipedia
渡辺 京二193081 - )は、熊本市在住の思想史家歴史家評論家京都府出身。碩台小学校、大連一中、第五高等学校を経て、法政大学社会学部卒業。書評紙日本読書新聞編集者、河合塾福岡校講師(本書執筆当時)を経て、河合文化教育研究所主任研究員。2010年、熊本大学大学院社会文化科学研究科客員教授に就任。
経歴[編集]
·         活動写真の弁士であった父に従い、少年期の7年間を中国大連で過ごす。1947年(昭和24年)、大連から日本へ引揚げ、熊本市の縁者のもとに身を寄せる。
·         1948年(昭和23年)に日本共産党に入党するが、翌1949年(昭和24年)結核を発症、結核療養所に入所し、1953年(昭和28年)までの約四年半をそこで過ごした。
·         1956年(昭和31年)、ハンガリー事件により共産主義運動に絶望、離党する。
·         1998年、近世から近代前夜にかけてを主題とし、幕末維新に来日した外国人たちの滞在記を題材として、江戸時代明治維新により滅亡した一個のユニークな文明として甦らせた『逝きし世の面影』[1]を公表した。
·         2010年には、北方における日本・ロシア・アイヌの交渉史をテーマとした『黒船前夜』を公表した。
受賞[編集]
·                     北一輝』 朝日新聞社 1978年/朝日選書 1985年/ちくま学芸文庫 2007-毎日出版文化賞受賞
·                     『逝きし世の面影』 葦書房(福岡) 1998年/平凡社ライブラリー 2005-和辻哲郎文化賞受賞
·                     『黒船前夜~ロシア・アイヌ・日本の三国志』 洋泉社 2010-大佛次郎賞受賞
人物[編集]
·         初期の代表作『小さきものの死』『神風連とその時代』『日本コミューン主義の系譜』等において、いわゆる熊本神風連の乱や天皇制ファシズム二・二六事件等、日本近代における大衆運動や諸暴動を分析、その原因を、急激な近代化・西洋化により日本の基層民が抱くに至った西欧型市民社会に対する違和と、伝統的共同体の解体により失われた共同性への幻視的な希求に求めた。
·         思想的主著と言うべき『なぜいま人類史か』は、イヴァン・イリイチコンラート・ローレンツらを手がかりに、現代社会を世界=コスモスとの親和感を喪失した奇形的文明と規定した、極めて反時代的な思索の書である。
·         人間を原子論的個人に解体する近代文明に対し根底的な問題意識を持つが、一方でその出現を一箇の人類史的必然として受け止めるとともに、近代が人類にもたらした恩恵の大きさを基本的に肯定し、左翼イデオロギーからする倫理的かつ性急な近代批判には同調しない姿勢を貫いている。
·         石牟礼道子とは、渡辺が編集者時代からの長年に渡る同志友人である。
雑誌への寄稿[編集]
·         総合情報誌『選択』誌上で、『追想 バテレンの世紀』を長期連載中である。
·         熊本県に本拠を置く人間学研究会が発行する同人誌『道標』にもエッセイ、評論等を寄稿することがある。
評価[編集]
·         優れた評伝作家でもあり、『北一輝』『評伝宮崎滔天』は、両者を近代文明と格闘した特異な思想家として位置付け、斯界の高い評価を得ている。
·         渡辺京二の『逝きし世の面影』について西部邁(評論家)は2013年に次のように述べた。「渡辺京二さんが『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)という本で面白いことをやっていまして、幕末から明治にかけて日本を訪れたヨーロッパ人たちの手紙、論文、エッセイその他を膨大に渉猟して、当時の西洋人が見た日本の姿――いまや失われてしまった、逝きし世の面影――を浮かび上がらせているのです。/この本を読むと、多くのヨーロッパ人たちが、この美しき真珠のような国が壊されようとしていると書き残しています。」
著書[編集]
脚注[編集]
1.  ^ 小谷野敦は、同書の徳川時代の性に関する箇所を厳しく批判しているが(『なぜ悪人を殺してはいけないのか』新曜社)、渡辺は同書の新版あとがきで、「案の定こういった反論を予測していた」と述べ、直接小谷野の名を挙げて反論はしなかったが、ダークサイド(暗黒面)のない社会などなく、それでも江戸文明が持つのびやかさは今日でも注目に値すると記した。(新版が平凡社ライブラリーのことなら、刊行は20059月、小谷野論文の初出は『比較文学研究』200511月なので、小谷野論文を読んで書かれたものではない)なお同書新版は、数年間で十数版を重刷した。




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