日本人も悩む日本語  加瀬重広  2014.12.8.

2014.12.8. 日本人も悩む日本語  ことばの誤用はなぜ生まれるのか?

著者 加瀬重広 1964年青森県生まれ。東大文学部言語学科卒、同大学院博士課程修了。文学博士。富山大人文学部助教授などを経て、現在北大大学院文学研究科言語文学専攻教授。『日本語修飾構造の語用論的研究』で第22回新村出賞

発行日           2014.10.30. 第1刷発行
発行所         朝日新聞出版(朝日新書)

「許せない日本語」は次から次へと現れる。
本当の正しさはどこにあるのか?
万物が流転するように、言葉も変化し続ける。
間違った表現も多くの人が使えば、
「正しいことば」になるのだろうか?
本書では、歴史やことばの成立過程をもとに
誤用にまつわる謎をすっきり解説。
複雑な日本語の世界は、
不合理で時に人間的、そしてかくも奥深かった!

まえがき
筆者は言語学を研究する研究者=言語学者であり、本書は名文を書くための指南書ではない
「正しい」日本語を取り上げるテレビ番組も多いが、そもそも正解はだれが決めているのか。特定の専門家がそれぞれの考えに従って、「正しい」と「決めている」だけであって、ことばは地域ごとに異なり、1つの言語に限定してみてもそれ自体が時間とともに変化していくので、正解があったとしても正解自体が変転していくことは十分あり得る
ことばの解釈や用法について正誤を単純に判断できるケースは非常に少ない
一足飛びに「正解」「不正解」と飛びつくやり方では見落とされがちなところに、ことばの面白さがあると考えた

第1章        あなたはこの日本語、気になりますか?
ことばも変転し続ける、変化しなくなるのはそのことばを使う人がいなくなった時。ことばの変化とは、その言語が生きている証拠
「憮然とした表情」は、「呆然として表情を失ったさま」から「不機嫌」へと意味が変わる
「精悍」は、「鋭く()、強い()」という気性や性格に関する意味だったものが、怜悧で強い意思を持つ人の表情や顔つきへと意味が拡張
ら抜きは間違い? ⇒ 五段動詞以外の動詞の未然形に助動詞「られる」をつける時、「ら」を脱落させる現象を言うが、「られる」が持つ古典文法で言う4つの機能、可能・尊敬・受け身・自発の全てを表すため、可能を表現する際にのみ「ら抜き」として使うところから、言語学的には本来の文法にあった無理を何とか弥縫しようという方策として、文法体系が改善されたと評価し、合理性があると考える
ただ、運用面では違う評価があり、規範の点からいうと、公的な文書や丁寧な手紙を書く時には使わない方がいい
言語学では、格式高い言い方を「文体レベルが高い」と言って、謙譲語や尊敬語を使いこなしているものを指し、砕けて柄の悪い言い方を「文体レベルが低い」という
もともと東京の言葉にはら抜きはなく、古くから四国ではら抜きで区別をしていた方言があり、近世末には東海地方でもら抜きが用いられ、次第に全国に広がったとみられる
l  「ご逝去されました」は、謙譲語としての「ご」と尊敬語の「されました」が混同
l  「他人事」は「ひとごと」、「他人様」も「ひとさま」 ⇒ 元々あった言葉に漢字を充てた
l  「初孫」は「ういまご」 ⇒ 江戸時代には、その人にとって生涯で初めてのことを指して「うい」と言い、「初陣」「初産」のように使い、一定周期を区切った中で初めてのものを指すときは「初物」「初鰹」と使い分けたが、必然的な言語変化の結果、現代では「はつ」に置き換えられてしまった
「身を粉()にして働く」も、「こな」という訓に引きずられた結果間違いが多い
l  「無間地獄」は「むけんじごく」 ⇒ 「間」を「ゲン」と読むのは「中間」くらいで、後は「カン」か「ケン」
l  「雰囲気」は「ふんいき」 ⇒ 「ン」の後に母音が来ると、「ン」は鼻母音と言って、3つの母音を続けて発音するため、ぞんざいに発音すると「フーンキ」のように鼻母音の位置が後ろにずらす言い方が定着し、長音のところに「イ」と明確に発音すると「フインキ」となる ⇒ この種の現象鵜を言語学では音位転換と言い、古くは、「新しい」意味の「あらたし」と、「惜しい・もったいない」の意味の「あたらし」が合流して、「惜しい」の意味を「新しい」の意味が駆逐して現代の「あたらしい」になった例もある
l  「着替える」は「きかえる」 ⇒ 「着る」と「替える」の複合動詞なので連濁は生じないという規則があるにもかかわらず、「きがえる」や、「はだざむい」のように連濁しても違和感を持たない人の割合が増えている。「きがえ」のように複合名詞では連濁することも影響
漢字があるから、読みに変化が起こらないということはなく、発音や読みが変われば、それに合わせて漢字表記が変わることも、長期的には起こり得る
言語学者は、社会の中で実際にどう使われ、どう認識されているかの方に関心がある
素朴さや可視性、単純さ、直観的理解の容易さがあればあるほど、古くて歴史的だと思い込みがちだが、それはえてして根拠が無く、間違っていることも多い ⇒ 鉛筆もシャープペンシルも世に出てきたのはほぼ同じ頃だが、鉛筆の方が古くからあるように思いがち
l  生きざま ⇒ 「死にざま」の類推で出来た表現。日本語では、清音に対して濁音が良くない意味で対立する表現のペアがあり、「さま」が中立的であるのに対して「ざま」は、「無様な、好ましくないありさま」を指すとされているので、「死にざま」と言えば壮絶な死の様子を指し、穏やかに昇天するのは「死にざま」とは言わないが、「生きざま」の場合は肯定的に使われるケースがあり違和感を覚える
間違いでないのに、なぜか不愉快になる日本語 ⇒ 天気予報で「(晴天の続くことが)期待される」は「予想される」だろうし、「(災害で死者数も増えることが)予想される」は「恐れがある」がより適切
l  「こだわり」 ⇒ 江戸時代から使われ始め、当初は人間の性としての仕方のない心の動きではあるものの、するべきではないことという緩やかな良識がこの言葉の背景には存在していたので、「拘泥する」ことを否定的にみた使い方が一般的、何事も「拘る」べきではないという道徳観があったが、近年では肯定的な使われ方が増えている
l  「やばい」 ⇒ 言語学的には「意味の拡張」で肯定的にも使われる。ただ、この言葉で注意すべきは、もともとは隠語で文体レベルが非常に低かったということで、この言葉を使うことがその人の品格のなさを明示するような力があった
ことばには、特定の属性を持つ人たちが多用すると、そのことばからある種の社会的属性(職業、年齢、性別等)が強く連想されるものがある ⇒ 国語学では「位相」と言い、、社会言語学では「使用域:レジスター」という。ジャーゴンもその一種
l  「しかと」 ⇒ 警察隠語。花札の「紅葉に鹿」は、鹿が紅葉から目をそむけ、10月の札であることをかけて「鹿に十(とう)」が詰まって「しかと」となり、取り調べにそっぽを向く重要参考人の態度を「しかと」と呼んだ。現代では「無視する」の意で使われる
l  「ため/ため年」 ⇒ 元々は博打のジャーゴンで、さいころの目が同じになることを意味したことから、「同い年」の意。当初印象の良くない言葉や誤用と思った表現でも、接触を繰り返すうちに抵抗が減ってくることの例。まだ文体上マイナス言葉に変わりないが、「ため口」のような複合語になると同義語がないこともあって抵抗が少ない
丁寧語の使用が広まったのは中世からで、近世に一気に発達し、明治以降は丁寧語が敬語の中心を占めるが、日本語の敬語の中心は長らく尊敬語と謙譲語
l  「げっぷ」 ⇒ 擬音語(オノマトペ)から一般語になったこともあり、文体レベルではあまり高くない。医学書などでも「おくび」が正式な用語と見做される傾向が強いが、日常的となると、「げっぷ」が使われても抵抗感が少ない

第2章        ことばの間違いを巡る誤解
「正しい」と「望ましい」とは違う ⇒ 「看護師」と「看護婦」
言語学では、「規範より記述が優先」という原則がある ⇒ 正誤等の価値判断をする前に事実を詳細に観察せよという教え
ことばの秩序を保つためにも規範を尊重するのが得策だが、日常的に使う言葉には、変化させようとする様々な力が常に作用している
送りがなは、論理よりも「感覚」で決まる ⇒ 大原則は、「語幹(変化しない部分)」を漢字で、活用部分の語尾をひらがなで書く
l  「漏洩」 ⇒ 正規の音読みは「ろうせつ」で、「漏泄」とも書き、3文字とも「もれる」の意だが、「漏泄」が「排泄」を連想するせいか「漏洩」の表記が一般化するとともに、「曳」の音と混同され定着。これは「永」にサンズイをつけたものが同じ音なら「曳」にサンズイをつけたものも同じ「エイ」と発音するはずだとなり、「ロウエイ」となったが、規則の過剰な一般化(=過般化)の例。ただ、漢字表記だけなら読みの誤りを大目に見ればよかったが、「漏えい」という表記となると、本来なら誤っている読みをさらに定着させるようなもので感心しない
l  「捏造」 ⇒ 「捏」は漢音では「デツ」、呉音では「ネチ」だが、他に同じ音の漢字が無く違和感があるところから、なんとなく一般的な音読みという感じがする「ネツ」に置き換えられたまま「ネツゾウ」に定着。「熱」も同様に「ネチ」という呉音から「ネツ」という慣用の音へと変わった
l  平易な漢字への置き換え ⇒ 「擅横」→「専横」、「気焔」→「気炎」、「刺戟」→「刺激」など、意味が近い漢字に置き換えられた例。漢字習得の負担を軽減するための効率主義の一環だが、漢字本来の意味を厳密に理解するということを犠牲にしてのこと
新字体による置き換えも同じ理屈だが使用頻度が低いものは放置 ⇒ 「壽(サムライのフエは一インチ)」→「寿」、「戀(糸しい糸しいと言う心)」→「恋」だが、「範疇」には不適用。「盡」→「尽」だが、「我儘」は放置、「齒」→「歯」だが、「齟齬」「齷齪(あくせく)」はそのまま、「品川區」を新字体にするなら「メ川区」のはずだがそうはならない
l  「独壇場」も本来は「独擅場」だが、読み間違えたものが定着し、漢字までが置き換えられた例だが、「壇」も「舞台」や「演壇」の意味で使われるので、意味的にも成立する
l  「汚名挽回」 ⇒ 言葉が混じり合って生まれた誤用。「名誉挽回」と「汚名返上」や、「当を得る」と「的を射る」がコンタミして「的を得る」。「ことばを濁す」と「口ごもる」で「口を濁す」、「心血を注ぐ」と「情熱を傾ける」で「心血を傾ける」、「論陣を張る」と「論戦を繰り広げる」で「論戦を張る」、「足下をすくわれる」と「足を取られる」で「足をすくわれる、「一挙一動」と「一挙手一投足」で「一挙一投足」、「侃々諤々」と「喧々囂々」で「喧々諤々」、「否応なく」と「いやが上にも」で「いやがおうにも」。いずれもことばの知識が不完全なことが要因
ことばをどう捉えるかということには、その時々の社会状況や時代の気分が強く反映していることが多い ⇒ 敗戦後、戦争に負けるのは文明が劣っているからとして、日本語のような非論理的な言葉で情緒的な表現ばかりしているから文明の程度が低いという考えが広く流布した。志賀直哉のフランス語国語論
1つの言語全体の論理性や情緒性を測る尺度など存在しない
日本語のように主語を省略する言語を、言語学ではPROdrop言語と呼び、他にもラテン語、イタリア語、スペイン語などがある

第3章        ことばは世界知識でつくられる
ことばの変化は社会に連動する
l  「下駄箱」「筆箱はなぜ連動しない ⇒ 複合語にしたり、慣用句に取り込んだりしている場合には、残存が起こりやすい
l  「やぶさかでない」 ⇒ 慣用句としては本来強い肯定で使用するが、弱い肯定にも使われる
l  「したつづみ」を「したづつみ」と発音 ⇒ 馴染のない形が、より馴染のある「~包み」に引きずられ、その類音効果で「~づつみ」となる
l  「青田買い」→「青田刈り」 ⇒ 「田圃」と来てより馴染のある「刈り」に変化
l  「流れに掉さす」 ⇒ 流れに乗って進む状況で、敢えて棹を差して勢いよく進むようにすることだが、「掉さす」ということ自体が我々の「世界知識(=一人ひとりを取り囲む世界での知見)」の中にないため、想像力を働かせるしかなく、誤解も生みやすい
l  「おっとり刀」 ⇒ 本来は「押し取る」だが、そういう動作はなくなっているので、音の似た「おっとり」と取り違えるのもやむを得ないか
l  「おちゃっぴい」 ⇒ 「お茶挽き」が転じたもので、遊郭では夕刻になると「張り店(はりみせ)」という場所に遊女が並べられて客を待ったが、客がつかなければいつまでも店晒しとなる、客が来なくて暇なので「お茶を挽いている」状態になるところから「おちゃっぴい」と言われたが、いまでは「小賢しいませた口をきく女の子」のこと
l  「油を売る」 ⇒ 江戸時代、髪油などは行商が売り歩いたが、粘度が高いところから容器に移し替えるのに時間がかかり、その間を繋ぐために世間話で客の相手をしたことが、一見すると仕事を怠けているように見えたことから、「一見怠けているように見えるがきちんと仕事をしている」の意味になるはずだが、逆の意味に使われている
語源はわからないことが多い ⇒ あくまで一つの説であることが多い

第4章        日本語文法の虚像と実像
l  「いただく」 ⇒ 謙譲語とされるが、「お茶の季節には毎日新茶をいただく」と自分で勝手に飲んでいる場合は、謙譲語から逸脱した使い方もするので一概には言えない
l  「全然」を肯定分の強調で用いるケースもある ⇒ 漱石や永井荷風でも使う。「否定の想定を打ち消す配慮」と言って、誰かが否定しているのを打ち消して相手に配慮する場合に使われる
絶対的な文法は存在しない ⇒ 日本語に限ったことではない
学校で教える「国文法」は、昭和10年ごろに、話し言葉をもとに書き言葉として使用されてきたものを学校教育のために体系化したもの
l  目上に対して「ご苦労様」が失礼な理由も、他者の気持ちに踏み込む度合いが「お疲れ様」よりも強いところから、越権行為と捉えられる故であって、丁寧に言えば失礼に当たらない表現も可能という程度のこと

第5章        ことばの正誤の判断は自分の頭で下す
慣用句や慣用表現は、使用実績が伴わないと、その正しさも揺らぐ ⇒ 「愛嬌を振りまく」も、「愛嬌」より「愛想」のほうがよく使われるため、「愛想を振りまく」にまで拡大
l  「白羽の矢が当たる」 ⇒ 本来は「白羽の矢が立つ」
l  「とてもおいしい」 ⇒ 「とても」は「とてもかくても」の省略形。否定と呼応させで「どうしてもできない」「とてもかなわない」のように使われたもので、大正時代には肯定文で「非常に」の意味で使うことは不適切と言われた
l  「怒り心頭に達する」 ⇒ 「発する」が正しいが、既に「達する」を正しいと思う人がはるかに多くなった状況では、正用扱いしても問題にならないと言える
l  「手をこまねく」 ⇒ 「こまぬく(拱く)」という動詞で、両手が一緒になっている状態にあてたもので、単に「腕を組む、腕組みをする」意だったが、いつの間にか否定的な意が加わった
l  「役不足」 ⇒ 相手にとって「不足」ということだったのが、自分の話になって遜った意味に誤用される
l  「やおら(立ち上がる)」 ⇒ 「おもむろに・そろそろと」の意だが、「不意に・いきなり」と取り違えられている
l  「ぞっとしない(出来栄え)」 ⇒ 「感心しない・いいと思わない」の意だが、身の毛がよだつ感覚と混同される
l  「鳥肌が立つ」 ⇒ 本来良い意味では使われなかった
l  「枯れ木も山の賑わい」 ⇒ 「枯れ木」が「つまらない人間」の比喩であることが抜け落ちて、「数が多ければ多いほど賑やかでいい」と誤解している人が多い
l  「世間ずれ」 ⇒ 「世間の中で擦れ」てきた意で、「世間とずれている」「非常識」の意ではないが、どちらも否定的で悪い評価なので、誤解に気付かない
l  「檄を飛ばす」 ⇒ 「檄」とは古代中国で役所が緊急の知らせを記して民衆に周知するために出した木札のことで、日本では広く呼びかける緊急の知らせを指して使うようになり、「檄文」と言えばアジテーションに相当したが、いまでは「叱咤激励する」程度の意味で使われる
l  「元旦」 ⇒ 「旦」は「あさひ」とも読み、「元日の朝」であり、「元日」とは同一ではない
l  「溜飲が下がる」「溜飲を下ろす」 ⇒ 「恨みを晴らす」と混同して「溜飲を晴らす」と誤用されると、もともとが身体感覚の比喩であることが失われていく
l  「押しも押されもせぬ(しない)」 ⇒ 「押しも押されぬ」との誤用が広がる
l  「生そば」 ⇒ 伝統的には混じり物のない純粋な「そば」を「きそば」という。「生()」は熱処理しないことを指していう場合もある(生醤油、生糸)が、純粋で素材のみを活かして余計なものが混じっていないことを意味する(木一本、生酒)。ただ最近では「生酒」を「なまさけ」と読ませている場合もあるので揺れている
l  「名代」 ⇒ 代理の意味の「みょうだい」と、「評判が高い」という意味で屋号や店名の前につけて箔をつけるために使う「なだい」がある
l  (雨が)降らなそう」は「降らなさそう」の誤用、「(誤解の可能性も)なさそうだから」は「なそうだから」の誤用 ⇒ 否定の助動詞「ない」がある時は「さ」を入れ(「降らない」と「悲しい」の違い)、形容詞の「ない」「よい」の場合も必ず「さ」を入れるが、動詞の「ない」には「さ」がつかない
l  「とんでもない」を「とんでもありません」と誤用 ⇒ 「もったいない」では起こらない誤用で、本来切れ目のないところに切れ目を想定して理解される異分析で、「とんでも+ないです」→「とんでも+ありません」となっている。ハンバーガーのHamにチーズを置き換えてチーズバーガーというのと同じ現象
ことばは、一見すると好ましくない変化をしているように見えても、合理性のない変化は淘汰され、必要のないことばは徐々に消え去る。ことば全体の動きは概ねゆっくりではあるが、全体として落着くべき方向に向かうものとみてよい
変化の途上では、不合理な変化(=誤り)とみるか、合理的な変化(=新しい用法)と見るかは、それぞれの判断に委ねられるべきもので、単純に白黒決めるのは難しく、それぞれの見識で見極めれば十分


あとがき
本書の基本的考え方 ⇒ 言語学の立場では、安易に「正しい」か「間違っている」かを決めたりせず、まず事実を詳細に観察することから始めるので、正誤を簡単に判断することは出来ない
ことばが使用され続けている限り、社会状況やそのことばを使う人間の知識や考え方に影響を受けて変わるものであり、日本語は自律的に調整していく力を持っている
学問は、批判的な態度が出発点であり、学問における「批判的」とは、「検証することなく信じ込んだりせず、不適切な点があれば明らかにして、より真理に近づけるように提案を行うことに努める」ことに尽きる



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