ピアノの巨匠たちとともに  Franz Mohr  2014.9.11.

2014.9.11. ピアノの巨匠たちとともに あるピアノ調律師の回想
My Life with the Great Pianists               1992

著者 Franz Mohr with Edith Schaeffer(構成) 略歴については後記Wikipedia参照

訳者 中村菊子 1954年慶大経卒。63年ジュリアード音楽院ディプロマ課程修了、65年同修士課程修了。州立フロリダ・アトランティック大学教授、全米音楽指導者協会ボードウィン・コンクール、ニューヨーク州委員長、ニューヨーク州ライ市のジャパン・インスティチュート、ディレクター歴任。現在、ピアノ指導者育成のために幅広く活躍中

発行日           1994.10.10. 第1刷発行              94.11.20. 第2刷発行
発行所           音楽之友社

14-08 絶対音感神話』で言及

第1部        ピアニストたち
第1章        ホロヴィッツ
ホロヴィッツは、何にでも癇癪を起し、誰もそれを止められない
5365年の間、コンサート・ステージから遠ざかったあとの復活コンサートでは、チケットが売り出される2日前から行列ができた。それを見たホロヴィッツは数台のワゴン車を57丁目沿いに繰り出して、人々にタダでコーヒーとドーナツを手配
続くシカゴでのコンサートでは、ホロヴィッツ夫人のワンダがチケットを2枚手に入れ、一緒に客席で聴こうと誘われて応じたが、コンサートを楽屋以外で聴いたのはこの時が最初で最後 ⇒ 最初のハイドンを弾いて楽屋に戻ったホロヴィッツが出てこない。しばらくすると係員が著者を探しにきた。楽屋ではホロヴィッツが怒り狂っていて、椅子が1/6インチ高かったのでたくさん音を外したという。仕方なく著者が1/4インチ椅子を下げてコンサートは再開された。それ以降著者はホロヴィッツのコンサートで客席に座ったことがない
演奏中に弦が切れたことが2回ある ⇒ 1度は曲の途中で切れ、大きなピストルを撃ったような音がするのですぐわかるが、切れた弦が他の弦を邪魔するために弾き続けられず、その弦だけを取り除いて、残った2本の弦のまま弾き続けた
2度目は1986年、ホロヴィッツがベルリンで大成功を収めた後、2週間後のハンブルクまでの間にエクストラのコンサートが急遽仕組まれた際、事前に調律の時間が取れずに舞台の上で最後の仕上げをしていたら、低音部を1音ずつ下げなればならなくなった。たまたまその日はホロヴィッツがベルリン・フィルに特別に休日の手配をしてオーケストラのメンバーが全員舞台の上で聴けるように椅子が用意され、彼らがそこに座りかけた頃、最後のEフラットを触った瞬間に大音響とともに弦が切れた。いつも弦一式を用意して持ち歩いているが、新しい弦は途中で音程が狂う恐れがあったため、ホールに別なスタインウェイがあるのを思い出して、そこの弦を借りて取り付け、何とか時間に間に合わせた。もちろんホロヴィッツには絶対に耳に入れないようベルリン・フィルのメンバーとホールのマネージャーに頼んだ
ホロヴィッツのピアノには、何の仕掛けもない。著者が一緒に仕事をした25年間に使用した5台のうちCD314-503は、1940年代初期に造られ、スタインウェイ社がホロヴィッツの結婚祝いに贈ったもので、特に愛して長く自宅に置き、どこのコンサートへでも運んでいた。12年前に新アクションを入れ、弦も新しくしたが、他はオリジナルのまま。彼は軽いタッチで楽に鍵盤が下がり、指にほとんど抵抗がない、敏捷に反応するアクションを好み、彼の好み通り機能するよう鍵盤の重さを軽くしてバランスさせている
ルービンシュタインは、指にもっと抵抗があるアクションを好む
スタインウェイでは1つのピアノを400人の職人が120種類の工程を9か月かかって仕上げる。1日の生産台数は12台ほどで、800台を機械で生産するヤマハとは違う
ピアノの音に関しては、我々は個々の楽器を、どこまできらびやかに響かせることができるかを判断する必要があり、ピアノの技術師はその楽器の限界を理解しなければならない
ホロヴィッツは、ある日突然音楽の嗜好を変えて、有頂天になって初めてモーツァルトを弾き出した。そして言うには、「ベートーヴェンは偉大な作曲家だが、32のソナタ全てがコンサートで弾かれる優れた作品とは思えない。それに比べてモーツァルトは彼の書いた全部の音の全部が全部、みな正しいところにある」
若いピアニストの多くが指揮に行くのはなぜかと問われて、「指揮棒には音を外すという心配がないから」と答えたという。ホロヴィッツが褒めたたえる友人の1人であるマリー・ペライアが指揮をしたコンサートを聴きに行ったホロヴィッツは、休憩時間に著者を捉まえて、ペライアに「指揮だけに集中した方がいいと言ってくれ」という。慌てて、「それは直接伝えた方がいい」と断ると、ホロヴィッツは後で直接ペライアに言ったらしく、後日ペライアが著者に、「ホロヴィッツの意見は正しい。僕はピアノだけに集中した方がいいようだ」と言っていた
初めてホロヴィッツと仕事をした時に使っていたのはCD186で、たくさんのレコード録音に使われたもの。復帰後のカーネギー・ホールで使われたのもこのピアノ
彼自身の所有していたCD314-503は、彼の生涯最後の4年間の全てのコンサートに使用、もちろんモスクワにも行き、現在はスタインウェイ社に戻っている
その他ホロヴィッツの愛用したのがCD223で、コネティカット州ミルフォードの別荘で数年間使用。少しレコーディングもしている
CD751911年製。すべてオリジナルのママだったが、正真正銘のシュピラートだった。ドイツ語でSpielartは、弾き具合のこと。最初出会った時、ホロヴィッツが好むシュピラートと音の響きを持っていると感じたが、ホロヴィッツは忽ち恋に陥った。83年初来日の際も携行
CD443は、ニューヨークの自宅で、最後の4年間愛用し、最後の録音にも使う
ホロヴィッツは、ベートーヴェンについてはソナタを1曲弾いただけで、ベートーヴェンひきとしては特に有名ではなかった
ホロヴィッツの天才性の真髄は、鍵盤を自由にコントロールする支配力にあり、鍵盤の上でフレーズを造りながら、想像を絶するような色彩を見せる。彼のように、極端に小さいピアニッシモから雷のようなフォルテッシモまで、幅広いディナミークを備えているピアニストは他に誰も知らない。よく弾いたリストの《コンソレーション》は見事な演奏
若い頃、彼は1シーズンに70回以上のコンサートを弾いていたが、その間一度も同じ曲を繰り返さずに、280曲もの異なった作品を弾いた
練習嫌いで、短時間しかせず、コンサート当日は絶対にピアノを触らない
リハーサルは大好きで、必ず土曜日にリハーサルをして、コンサートは日曜日と決まっていた
ピアノの寿命は、ほぼ半永久的 ⇒ 量産されたものは真新しい時が一番コンディションが良く、その後品質は低下するが、スタインウェイは違う。86年訪日の際、宿泊していたキャピトル東急に105年前の9ftのスタインウェイがあって、是非ホロヴィッツに弾いて欲しいと言うので見ると、日本の技術師たちが驚くほど素晴らしい状態に復元しており、ホロヴィッツに薦めると、「なんと素晴らしいピアノだ。これだったら私のピアノを持ってくる必要がなかった」とまで言った
83年の日本公演は大失敗、その頃ホロヴィッツはひどい健康状態で、医者に薬漬けにされ指をコントロールできなかった。帰国後3か月給養、一切の薬を止めたら元のホロヴィッツに戻った ⇒ 86年ロシアでのコンサートは大成功。チケットを入手できないモスクワ音楽院の生徒たちを全員リハーサルに招待して本番のコンサートを弾いた
最後のレコーディングは、自宅で89.11.1.に行われうまく行った
ホロヴィッツは、肉といえば魚と鳥しか食べない
一人娘を36歳の時に死なせて以来、夫婦には子供がいない
トスカニーニの娘、ワンダについてはたくさんのことが書かれ、ホロヴィッツを愛しても理解してもいない人というが、それは全く違う。ワンダはホロヴィッツにとって最高の批評家であり、コンサートについて来られないと自分一人ではピアノの位置すら決められなかった

第2章        ルービンシュタイン
ホロヴィッツに比べると、一緒に仕事したのは少ない
演奏旅行に特定のピアノを持ち歩かず、行く先々の街で使えるピアノを使い、調律師もその街の人を使った。大きな都市でのコンサートにのみ、ニューヨークのスタインウェイから運び私が同行
ホロヴィッツとはかなり違うタイプのピアノを選んだ ⇒ 豊かな深みのある重厚な音を好み、毎年新しいピアノ(新品とは限らない)を選ぶ
2人の違いは、15年前ワシントンで1週間違いで開かれた2人のコンサートの出来事で明らか
ホロヴィッツの場合 ⇒ たまたま著者は前からの約束で長男をワシントンに連れて行き、リハーサルの時にも最後列で聴かせようとしたところ、ホロヴィッツが飼っていたプードルがいきなり息子に向かって吠えだした。プードルは、ワンダに轢かれてビッコだった。ホロヴィッツが聞き咎めたが、著者の長男とわかると、黙ってピアノの正面に向き直った
ルービンシュタインの場合 ⇒ 著者は次男とも約束していたので連れて行って、同じ様にリハーサルに連れて行くと、ルービンシュタインは次男を膝に乗せて、ピアノを弾かせてくれたばかりか、大変に褒めてくれた
著者が始めてルービンシュタインに会ったのは、6364年シーズンのこと。ホロコーストでたくさんの親戚をなくしたルービンシュタインが、ドイツ人の著者をどう受け入れてくれるか気懸りだったが、とても優しく慇懃だった。ところが、いざ演奏開始の段になってルービンシュタインが、調律のあと鍵盤を拭いたかどうか尋ねるので、もちろんいつでもそうすると答えると、ルービンシュタインは調律師が誰であろうと鍵盤を拭く必要はないと言い、だんだん不機嫌になって遂には演奏できないと言い出した。演奏曲目はベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番で、オーケストラもみな揃い聴衆も待っている。その時誰かがヘアー・スプレーをかければいいと言い出し、著者が舞台に出ていってスプレーをかけ、10分ほどで乾いたところで演奏が始まり、コンサートは無事行われた。ルービンシュタインはスプレーがかかった鍵盤をとても気に入って、それから著者はどこへ行くにもルービンシュタインと同行するときには必ずスプレーを携行した
予てから、地球上で絶対に演奏しない場所が2つあると公言。1つはヒマラヤ山中で、ピアノを運ぶには高すぎるから。もう1つはドイツで、自分にとって低すぎるから
再びドイツ語を話すことはないとも言っていたが、次第に打ち解けるに従い、楽屋ではドイツ語でよく話した
著者は、もともと敬虔なキリスト教徒で、ユダヤ人も心の底から愛しており、60年にドイツを発ってアメリカに移住したのもドイツにおける反ユダヤ主義が理解できなかったから
ルービンシュタインは、自らをアグノスティック(神の存在を認めることができない人)と言い、イエスは今まで生きたユダヤ人の中で最も偉大だったが、神の子だなどとんでもないと考えている
晩年ルービンシュタインは、著者にドイツで演奏すべきかと問いかけたが、遂に再演せずに終わる。生涯最後の一連のコンサートの1つをアムステルダムで開き、その聴衆の半分はドイツ人だった
最後のコンサートの1つで、ルービンシュタインが調律済みのピアノのどこかがおかしいとクレーム、時間をかけてチェックし直したがどこもおかしいところはなく、本番でそれを弾いたルービンシュタインは、2曲目に行く前に楽屋に戻ってきて著者に、ピアノは完全で自分が間違っていた、と告白。これが彼の人柄で、ちょっとでも早く著者を安心させてくれた
8687歳の誕生日に、コンサートを組織した人が、ピアノを台にした巨大なバースデー・ケーキを用意、コンサートを弾き終えて爆発的な拍手を浴びた袖に下がったルービンシュタインを舞台に連れ戻し、後部のカーテンを開くと、途方もないピアノ・ケーキが出てきた。ケーキはステージのど真ん中でカットされ、客席の全員に箱に入れて贈られた ⇒ いかに人々に愛されていたかを物語る
真冬のボストンでのコンサートでは、ピアノの到着が遅れ、リハーサルの直前になって漸く間に合ったがトラックの中で完全に冷え切ったままだった。ピアノを弾くことはおろか調律も出来ない状態だが、運ばれる前にきちんと調律したものであれば、凍った後でも新しい環境に来たとき音程は戻っているもので、徐々に戻す時間が必要。2人並んで鍵盤にお尻を乗せて温め、無事音程を取り戻し、コンサートは大成功だった

第3章        ギレリス
一緒に仕事をした一番偉大なロシア人。アメリカ・デビューは55
英語は殆ど話さないが、ドイツ語が共通語となってよく話し、一緒に著者の車で出かけた
常にロシア大使館の回し者が通訳と称してついてきた
夫人がアメリカを好きになれず、いつもロシアへの帰国を心待ちにしていた
ギレリス夫妻へのクリスマス・プレゼントに、監視の目を盗んでロシア語の聖書を贈る。ロシアでは絶対手に入らない聖書に、彼らはすっかり夢中になり、翌年の訪米では一緒に教会へ行った
その後、さらに追加で8冊の聖書を贈ったが、アフガン戦争開始に伴い、ソ連との文化交流が取りやめとなって、ギレリスは戻ってこなかった。85年他界。86年のホロヴィッツの公演には未亡人が来てくれた
2部屋に娘と孫と同居しているギレリスにとって、調律師が一軒家に住んでいることが信じられなかった

第4章        ヴァン・クライバーン
専任ではなかったが、調律した彼のコンサートは得難い体験となった
何年もの間、特に仲間たちから(嫉妬まじりに)批判され続けていたが、スーパースターという称賛に値するピアニストで、89年ダラスでのコンサートの調律を頼まれた時、偶然直前にホロヴィッツと出会ったが、彼は奇妙な発言をした。「調律をしに行くと聞いたが、あの若者は誰よりも2倍は大きな音を出すぞ!」と言ったが、ホロヴィッツがこのように仲間のピアニストを誉めるのは非常に稀なことで、著者は特別な称賛と受け止めた
ヴァン・クライバーンの演奏は、いつどこでも桁違いに大きなイヴェントになるが、特にロシア人はモスクワで熱狂した
幾つかの特別企画のコンサートで特筆すべきは、87年のゴルバチョフとレーガンのサミット・ミーティングの折の演奏。9年間公の演奏から遠ざかっていたが、最後に《モスクワの夜(はふけて?)》をロシア語で弾き語りしてロシア人たちを喜ばせた
著者は、ゴルバチョフが演説するところを写真に収めたが、それは最後に「神よ我々を救い給え」と言った時で、共産主義

国の首脳がそのような言葉を述べたことに感動した
ホワイトハウスでの体験ではもう1つ、75年に昭和天皇・皇后が訪米された際の大統領晩餐会の後のコンサートでも調律をしたが、初見の暗譜で日本国国家を演奏しようとしたヴァンから、つかえたらすぐに譜面を差し出してくれと頼まれ、楽譜を小脇に抱えて汗をかきながらヴァンが弾くのを聞いた

第5章        ソ連のホロヴィッツ同行記
864月のこと、モスクワとレニングラードへ行った
ホロヴィッツは1925年にロシアを去った時すでに有名で、知名度を知るソ連政府は彼のロシア訪問を冷たく扱ったが、数千もの人がコンサートを聴けなかった
アメリカ大使館での晩餐会の席上、突然ワンダが立ち上がって、「ロシア皇帝のもとではみな何も持っていなかった。それが今やもっとひどい状態です!」と叫んだ。ホロヴィッツも後で、「ワンダを称讃する。あの発言をしたことが大変嬉しい」と言った
レニングラードへは汽車で行ったが、昼間のチケットは買えず、大使館を通してやっと手に入れた
コンサ-トの翌日、チェルノブイリの原子炉の事故があったが、我々が知らされたのはフィンランド行きの飛行機の中だった
帰りの検閲で、ビデオカメラを持ち出すのは不可能と言われていたが、たまたまホロヴィッツのファンという検査官に当たり、著者が彼の調律師だと分かると感激して、そのまま通してくれた

第2部        ピアノ
第6章        ピアノ・ザ・スタインウェイ
1848年のドイツ革命の後の逼塞した状況から抜け出すために、シュタインヴェーク一家は、25年のピアノ製造の経験を捨てて50年にアメリカに移住
優秀なピアニストで調律師だった長男のテオドルだけはドイツに留まる
53年ニューヨークにスタインウェイ・アンド・サンズ設立、60年にはミッドタウンに2つの工場を持つまでになったが、65年に息子2人が相次いで亡くなり、ドイツで成功していたテオドルが参加、それを契機に一気に事業を拡大、コンサート・グランドがステージを駆逐していった
サウンドボード(響板) ⇒ アラスカ松、アメリカ東海岸かヨーロッパのスプルースを使用。9㎜で、リム(内廻し)と外枠(側板)に向かって6
リブ(響棒) ⇒ 樹脂質の大松を使用
コマ ⇒ 堅固な縦の薄板状の楓、それぞれの高さに黒鉛が塗り付けられている
リム(内廻し)と外枠 ⇒ 両者を重ねた状態でプレスで曲げられている。ケースを構成するすべての部品は、糊付けされ楓の釘で固定
支柱は5本 ⇒ 固いスプルースで出来ていて、楓の釘でリムに固定
アクションは、湿度の含有量を最低に抑えた楓の木材がぴったり嵌め込まれた金属製の管で出来たフレームに取り付けられている
ハンマーは、100%ヴァージン・ウール(無加工)のフェルトを使用。全部の鍵盤(両端に予備がついた90)1つの横長のフェルトの固まりに造られ、形が永久に整ってから、かまぼこのように11つハンマーに切り落とされ、ヴォイシング(整音)される

第7章        ピアノと調律
調律とは、ある音の高さに弦が正しく振動するように、弦を引き伸ばすこと
通常、コンサート・グランドのピッチ(基準音程)は、中央Aの弦が1秒間に440回振動することになっている
19世紀の終わりに、A=440ヘルツ(1秒間の振動数)とするフランス案に決まったが、今や世界の合意にはなっていない ⇒ 440446の間で各自で決めてる
ゼルキンのピアノCD169は、シカゴ・シンフォニーの時は442で、クリーヴランドの時は440に戻した
調律の手順 ⇒ 最初に音叉でコンサートA(49番キー/”4A")を基準点として合せ、次に4A3Aの間のテンパーメント(“平均律への割り振り)を合わせ、このオクターヴを設定することが先に調律を進める基盤
コンサート・チューニングは、ピアノの酷使に耐えられるよう、コンサートが終わった後も音程が狂わないように調律される
ストロボという電気装置を使った調律が特にアメリカで多くなってきているが、機械が正確なピッチを示すことと、機械が示すものを人間が如何に解釈し、変換して調律に用いるかは全く別問題 ⇒ 目で見て調律するのではなく、指先の感触とうなりを確かめる鋭い聴力が一緒になって出来る繊細な感覚を発達させて初めて堅実な調律が可能
コンサートの調律に必要な時間は最低45
ミケランジェリの場合、20年前に初めて訪米した際、CD15という真新しいピアノが気に入って練習を始めたら止まらず、特に新しいピアノは弦が安定するまで何回かの調律が必要だが、とうとう最後の10分だけしか調律の時間が無く、著者は調律を放棄、ミケランジェリはそのままコンサートで弾いたため、翌日のニューヨークの新聞は、カーネギー・ホールのコンサートで弾いた「マエストロのスタインウェイは音が狂っていた!」と報じた
ピアノは、それぞれの楽器によって全く反応が異なる
ホロヴィッツの晩年愛用していたピアノは、どこに運んでも狂わなかった
時間を経て充分熟したピアノは温度差に対してより耐久力が出来る

第8章        パーフェクト・ピッチ
レラティヴ・ピッチ ⇒ 音を聴いて音名で答えられる音感
パーフェクト・ピッチ ⇒ 何の計測手段もなしにサイクルまで聴き分けられる音感
通常の聴力では438440を聴き分けることは出来ない
出来ると豪語したのがユージン・オーマンディ
ギレリスのフィラデルフィアでの演奏会で、オーケストラを上回る音を出すためにギレリスが444のピッチを要求、調律し直していると、普段からオーケストラのピッチの低さに不満だったオーマンディが、444と分かるはずはなかったが、ピッチが高いのを聴き取って了解。ところが後から来たオーケストラにAの音を鳴らしたところ、オーボエ奏者が高いピッチにクレームをつけ演奏を拒否、絶対に吹かないと繰り返し拒絶する間、ギレリスとオーマンディは無言で立っていたが、最後に折れたのはオーマンディでピッチを下げた
数年後にリンカーン・センターでオーマンディのフィラデルフィアと仕事をした際には、ピアニストはアンドレ・ワッツで、リハーサルの前に調律の時間が無く、438のままオーマンディも納得して演奏された。夜のコンサートでは440に戻したにもかかわらず、コンチェルト演奏の直前ピアノがステージに運ばれるときにオーマンディがAを叩いて、今朝より低いとクレーム、著者は自分の調律に自信があったので、マエストロの耳がおかしいと言い返した。オーマンディはカットしたままコンサートを始め、終わった後、二度と著者は使わないと叫んでいた。著者も、その時の態度を反省したものの気まずいままになっていた。数か月後ホロヴィッツとオーマンディが共演した際に再会したが、オーマンディがとても気を遣ってくれ、以前の対決は忘れ去られていた
ホロヴィッツもパーフェクト・ピッチを持っていると公言、いつも440にしていたが、よく低いとか高いとか言った。音叉を買って渡したが使うことは決してなかった
87年にコンセルトヘボウと共演の際、ホテルの部屋に用意されたドイツ製のスタインウェイが気に入ったホロヴィッツは、取り巻きの皆に向かって、米国製とドイツ製の違いが分かったと言い、それはドイツ製が435に調律されているからと言った。スタインウェイのディレクターが、それは逆だというと、ホロヴィッツは激怒。いつになくリハーサルに時間をかけた後、著者がホロヴィッツにどのピッチにするか聞いたところ、”439と半にしてくれと言ってきた。これほどのパーフェクト・ピッチはない
誰もパーフェクト・ピッチを持つことは出来ないと言うのが持論で、異論と争う積りはない。音叉こそピッチを決定するのに必要な物差しである

E・シェイファー
多くの音楽家が照合点の必要性を理解していない
ピアノの中央のA440であることを決めるには、計る照合点が必要で、それが音叉であって、耳を頼りに主観的に計ることは出来ない
キリスト教で言えば、聖書が物差しであり音叉に当たる

第9章        ピアノの調整とヴォイシング
ピアノの調整とは、5000以上の部品からなるアクションの全ての部分を正しく連帯調整すること。部品の多くは木材とフェルトで出来ているので、温度や湿度の変化を受けやすい
アーティストは誰でも、私のピアノはオーケストラを貫いて聴いてもらえるだろうかと恐れ、より大きな音の出るピアノを望む。ホロヴィッツももっと大きな音、煌びやかな音が必要だと言い続けていた。その上、ホロヴィッツだからこそできたのだが、ピアノをオーケストラの真ん中に置いた
響かせるといっても限界があって、それ以上やると音響が受け入れられずに音が汚くなる ⇒ 言われるままに大きくした録音はとても聴いていられない
きらびやかに整音され過ぎると、響きすぎて耳障りなガラスのような音になり、全ての音がモノトーンになって、演奏は色彩を失う ⇒ 日本に行った時、どこのホールにもスタインウェイ(ハンブルク製)があるのに印象付けられたが、ホロヴィッツのように幅広い表現をするピアニストはいなかった
ホロヴィッツが無理に整音させた煌びやか過ぎる音色から遠ざかり、新しいハンマーをつけたピアノを好むようになったが、それが晩年愛用したピアノで、最後のレコーディングや『ホロヴィッツ・アット・ホーム』をぜひ聴いて欲しい

第3部        技術師フランツ・モア
第10章        遠き日々
1944.11.故郷の町が空爆で焼き尽くされ、d両親とともに九死に一生を得る
戦後は、アメリカ軍のためにダンス・ミュージックを演奏したりして生活の足しにしたが、4849年デトモルトのノース・ウェスト・ドイツ音楽院に復学

第11章        生まれ変わったフランツ
空爆の被害から神の存在を否定していたが、イギリス人から聖書を渡されて考えを改める

第12章        エリザベス
ダンス・バンドでギターを弾いている時に会場で出会ったのがエリザベスで、一目惚れ
キリスト教信仰を強制しようとして、別れるところまで行ったが、エリザベスが突如信仰に目覚め、結婚に辿り着く

第13章        アメリカへ
音楽を勉強し演奏したが、左手首に痛みを伴う炎症があって音楽家の道を断念
23歳の時、ドイツの有名な古いピアノ製造会社イバッハの技術実習者に応募、調律と整音を学ぶ。5年後、コンサート・エージェントのコンサート技術師となり、コンサート・グランドの調律を専門に扱う
62年 バプティスト教会の斡旋で、ニューヨークのスタインウェイから仕事のオファーをもらって渡米を決断

第4部        仕事中の技術師フランツ・モア                 E・シェイファー
第14章        ある午後のステージでの調律
ホロヴィッツの結婚祝いのピアノを、グティエレスが弾くために、調律し直し、ピアノはまた新しい歴史を刻む

第15章        ヤヤ・リン(Jahja Ling林望傑:指揮者)CD15
91年 クリーヴランド・オーケストラのニューシーズン開幕コンサートでのこと
ヤヤ・リンは、ジャカルタ生まれの天才ピアニスト、18歳でロックフェラー財団の奨学金を得てジュリアード音楽院に留学、現在フロリダ・オーケストラを指揮
67年にジョージ・セルが買って、オークションに出そうとしていたスタインウェイCD15を、たまたまクリーヴランドに戻ってきたリンが買う。その4か月後の11月、ゼルキンがリンの指揮するクリーヴランド・オーケストラと共演する際、調律に来ていた著者にリンがCD15を買ったことを告げる。CD15に愛着をもって来歴を知っていた著者は、修復を買って出る。セルがクリーヴランドに持ってくる前にはミケランジェリがカーネギー・ホールのコンサートで最後の瞬間まで練習をしていたピアノ

第16章        素晴らしいコンサート作り――小さなことを大切に
90.10. ロングアイランド大学主催の”10年間の芸術を祝ってと題する特別コンサートで、ヴァン・クライバーンとヤンソンス指揮のレニングラード・フィルが共演
ヴァンは以前フィラデルフィアのコンサートで、フォートワースから自分のピアノを運ばせたが、スタインウェイ社もコンサート部にあったCD79を提供、徹夜で弾き比べていたが、最後にCD79を選択し、コンサートの後はそれを買い取って自宅へ持ち帰った
そのいわくつきのピアノを今夜も弾く ⇒ 441だったピッチをオーケストラの440に変えようとしたときに弦が切れ、新しい弦に入れ替えたため、新しい弦が馴染むまで何度も調律し直さなければならない
コンサート中もずっと1本の弦の具合を見ながら調律をし続ける ⇒ 小さな仕事に忠実に、そして細部に至るまで完全に仕事を成し遂げたことから得る満足感に代わるものはない





Wikipedia
フランツ・モアFranz Mohr1927917)はドイツのラインラント郡の中心の町デューレン出身のアメリカのピアノ調律師(pianotuner)。現在、世界で最も高い評価を受けているピアノ調律師である。
概要[編集]

ケルン音楽大学でバイオリンを学び、その後、間もなくピアノ調律師に転向。
ケルンでピアノ製造を1950年から学び、1956年にデュッセルドルフのスタインウエイ取扱業者のためのコンサートチューナーになる。 そして6年後に、彼は家族と共にニューヨークへ移る。 当時のニューヨーク・スタインウェイ社のマスター・テクニシャンで熟練のピアノ技術者ウィリアム・ハフナー(本書ではホップファー)の助手として1962年にニューヨーク・スタインウエイ社に入社。1968年にマスター・テクニシャンを50年務めたウィリアム・ハフナーの跡を継ぐ。
モアは半世紀の間、スタインウェイ・アンド・サンズ社のマスター・テクニシャンとして、ウラディミール・ホロヴィッツアルトゥール・ルービンシュタイングレン・グールドルドルフ・ゼルキンアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリと多くの伝説的ピアニストの専属調律師として活躍。 1992年にニューヨーク・スタインウエイ社のマスター・テクニシャンを引退。 妻(エリザベス)、娘のエレン、そして2人の息子がいて、その一人はスタインウェイ・アンド・サンズ社のカスタマーマネージャーとして働くことによって、家風を続けている。
度々、来日している。




コメント

このブログの人気の投稿

大戦秘史 リーツェンの桜 肥沼信次  舘澤貢次  2012.10.13.

昭(あき)―田中角栄と生きた女  佐藤あつ子  2012.7.14.

ヴェルサイユの女たち 愛と欲望の歴史  Alain Baraton  2013.9.26.