川端康成 魔界の文学 富岡幸一郎 2014.9.6.
2014.9.6. 川端康成 魔界の文学
著者 富岡幸一郎 1957年生まれ。中大文学部フランソ文学科卒。在学中より評論活動を始め、79年『意識の暗室――埴谷雄高と三島由紀夫』で第22回群像新人文学賞評論部門優秀作を受賞。文芸批評家。関東学院大文学部教授。鎌倉文学館館長。「表現者」編集委員代表
発行日 2014.5.16. 第1刷発行
発行所 岩波書店(岩波現代全集)
著者からのメッセージ
日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成。その文学は、日本の古典の泉を汲み上げることで、現代文学の言葉の最前線に立ち続けた。変幻するその作品からは、「魔界」の蠢惑と戦慄が波のように打ち寄せてくる
序章 原子爆弾と『東雲篩雪図』
50.4. 川端がペンクラブ会長として広島・長崎を訪問、「20万人」の惨禍の現実が川端という1人の小説家の中で、夢幻的な幻想性を獲得して、全く別な形をとって表現の対象となっていった
帰途京都で、焼失したとされていた『東雲篩雪図』を手に入れ、眺めるうちに「玉堂の霊」が乗り移る
「魔界」という言葉は50.12.連載の始まった『舞姫』に断片的に初めて登場し、以後川端作品の中に何度も現れるが、宗教的次元に留まらず、全ての領域を突き抜けていくところにある作家が描こうとした世界
原爆の悲劇を何としても書きたいという強い思いが、『東雲篩雪図』の圧倒的な世界によって、創作への蘇生に繋がる
第1章
戦時下の『源氏物語』
戦時中燈火管制のもとで『湖月抄本源氏物語』に没入、深い美の戦慄をもたらす
華やかな光輝の中にある人物たちの宿命は、作家の天涯孤独な身に重なり合い、幼少年期からのおのが人生の時間を包み込む巨大な揺籃となる
第2章
『16歳の日記』から『伊豆の踊子』へ
処女作にはその作家の全てがあるというのは正しいが、それは作家が意図的に処女作と名付けて創りだした場合に言える
川端の処女作は『16歳の日記』(25年)、デビュー作は『招魂祭一景』(21年)
2歳半ばで1人祖父母に引き取られ、祖母も死んで祖父との2人の生活になるが、その祖父の最後の病床を観察し言葉で写しとった日記が『16歳の日記』
第3章
モダニズムの結界――『浅草紅団』
天涯孤独となった川端は、3年後故郷の大坂から一高の受験のため浅草に滞在、やがて作家として自らが描くことになる、旧いものと新しいものが混在し、上昇と下降という正反対のベクトルを内包したモダニズムの世界に魅了
江戸期に田原町、黒船町、駒形町といった各々の町の広がりだった地域が「浅草区」となって近代日本の1つの街としての地貌を現すのは明治10年代に入ってから。浅草公園と名付けられた7つの区切り(浅草寺の裏はいわゆる6区)によって、近世から続く文化的な祝祭空間は、新たなモダンの場所として殷賑をきわめていく。隣接するところには、仕置き場(処刑場)の小塚原があり、遊郭の吉原があり、山谷堀を挟んで「穢多、非人の領分」があり、その地勢図は、近代(モダン)のもたらす一種アナーキーな自由と、近代化によって再編された禁忌(タブー)を内にからみあわせながら、不思議な極彩色の時空間を織りなしていた
17歳の少年川端は、やがて作家として自らが描くことになる、旧いものと新しいものが混在し、上昇と下降という正反対のベクトルを内包したモダニズムの世界に魅了される
日本最初のレビュー劇場カジノ・フォーリーを取材する中から異色作『浅草紅団』が生まれ、29年から朝日夕刊に連載、大きな反響を呼び、閉鎖になりかけていた劇場が一躍ブームになるきっかけを作った
古賀春江(1895~1933)との出会いは31年。文体の奇術師たる作家と、大正末から昭和初頭に活躍した前衛画家にして詩人との出会いは、モダニズムに沸く時代の新鋭の必然
突然神経の発作を起こして狂死した古賀に衝撃を受けて書いたのが『末期の眼』であり、その中で自らの葬送の歌とも思えるくだりがある
第4章
迷宮としての『雪国』
『雪国』は2つの不思議な旅の中から生まれた奇蹟の結晶のような作品 ⇒ 1つは空間の旅であり、34年開通した清水トンネルを通る。もう1つが時間の流れ。作品は35~37年にかけて各雑誌に断続的に発表され、単行本となるが、今日完成版として読まれるのは48年の作であり、戦争と敗戦を挟んだその間の時間の流れの巨大な瀑布がこの作品を完成へと導いたことであろう
戦後初の長編『舞姫』は、バレリーナをめぐる家庭劇だが、戦後の日本の「家」の崩壊と歪んだ人間感情を抉るように描いたこの作品には、「魔界」という言葉が川端作品において初めて登場する。『雪国』の完成版を上梓して、休む間もなくこの「魔界」の世界へと対峙、戦後という時空間に立って、描き出すべき秘密へと向かう
第5章
永劫回帰する虚無――『山の音』
49年から『山の音』『千羽鶴』『舞姫』と相次いで連載開始、独自の戦後文学を開始、時代の世相の奥に踏み込むようにして、自らが「魔界」と呼ぶ、人間と世界の底に現れ出てくる実相を次第に浮かび上がらせていく
自然主義リアリズムとは正反対のもの ⇒ 近代日本文学の最高峰とも言われる『夜明け前』に対し発表直後に根本的な批判を加えている
第6章
「魔界」を映し出す言葉――『千羽鶴』
戦後憑かれたように古美術への関心を示し、蒐集を始める ⇒ 玉堂のものが最大
『千羽鶴』にも、それを偲ばせる茶道具の描写があるが、小説における茶器や茶室は高貴さや美しさとは異なる、人間の汚辱や情欲の絡みついた物の怪として繰り返し出てくる
第7章
稲妻と蛍――『みづうみ』の彷徨
54年に『新潮』に連載された『みづうみ』は、川端の長編小説としては異例といっていい集中の時間のなかで書き上げられたが、この頃からの睡眠薬の多量の使用がやがて作家の健康を深刻な状態へと追い込む
幻想的色調を全編に帯びた作品で、作品の至る所に怪しい幻視や幻聴が、一見物語の筋とは無関係に揺らめいているが、作品世界の中心部から整然とある秩序をもって泉のように間歇的に湧き出てくるのである
「みづうみ」は、現実界のどこにも存在しない。あらゆる現実を包摂する無限の宇宙空間のように、静謐の中で生成を止めない。それが川端の「魔界」
第8章
女身の探求――『眠れる森の美女』と『片腕』
55年代、ペンクラブ会長としての成功と共に作家としての頂点に達する
58年の胆石の手術もあって、59年は初めて新作小説を発表しない年となったが、空白の1年を超えて再び壮絶な美の世界を創造したのが『眠れる美女』で、既に男でなくなった老人たちが、睡眠薬か何かで眠らされた若い娘と一晩を共にすることができる会員制の秘密クラブの話
『みづうみ』の主人公は出口のない「魔界」へと解き放たれ、彷徨の果てに今度は決して逃げ去ることはない若い美しい女と奇怪な添い寝をする
『眠れる美女』のもう1つの主題は、「悪」の問題 ⇒ 男が女に犯す極悪とはどういうものか
第9章
抱擁する「魔界」――『たんぽぽ』
68年日本人初のノーベル文学賞受賞から、わずか3年後に逗子マリーナでガス自殺
その3年間に小説の創作は数編の短編のみ
64年から受賞の直前まで『新潮』に連載された『たんぽぽ』が未完の絶筆に終わったのは惜しまれる ⇒ 「魔界」に入っていった作家が到達した最後の光景が、空中に浮いた巨大な伽藍のように空前のものとして描き出されたであろうと想像される
「魔界の文学」としての川端作品の精髄は、『山の音』「千羽鶴」『みづうみ』『眠れる美女』『たんぽぽ』だが、ノーベル文学賞の対象となった小説は、『雪国』『千羽鶴』『古都』のみ
終章 虚空に處(すま)はしめたまへ
受賞対象になった作品で最も注目されるのが、スウェーデン語訳もある『古都』であったことからも、川端が日本の伝統を抒情的に表現した作家と見做されたのは当然だが、作家の受賞演説「美しい日本の私――その序説――」は、西行、良寛などの詩歌に触れ、日本人の美と自然の感性とその表現について語りながら、西洋の芸術との決定的な相違を明らかにしたもので、東洋と西洋の精神的架橋を作ることを模索し続けた近代日本の百年の文学の破綻と挫折から、川端が到達した場所を呈示するものだった
禅宗という自力宗教をその人生と文学の根底においていたのは明らか
『川端康成 魔界の文学』 富岡幸一郎著
2014年07月14日 08時08分
生涯追い求めた世界
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芸術、特に文学が世に有用か否かを問うのはさして意味はない。
だが、文学が読者を思いもよらぬ世界へいざなうのは確かで、例えば川端康成の小説を思えば理解できるはずだ。
では川端は流麗な文体で小説の読者を、どのような世界にいざなうのか。著者は彼が目指したのは魔界だという。この指摘から川端の愛読者なら晩年の『眠れる美女』などを思い浮かべるだろう。著者はしかし、川端が生涯、追い求めた文学世界の核心に魔界があるとする。
本書は昭和二十五年、川端が広島視察から京都に寄り、浦上玉堂の〈東雲篩雪図〉を手に入れたところから始まる。彼は広島の惨状を見た体験と玉堂の不気味な画から戦争反対といった並みの感想ではなく、むごたらしい現実に直面しかえって生の実感を得、現実を超えた古典の世界と向き合い、小説世界を再考する。
ここから人智を超えた魔界という言葉が彼の小説に登場し、後のノーベル賞受賞講演『美しい日本の私』で語った「仏界入り易く、魔界入り難し」という一休禅師の言葉に結びつく。
ならば川端はいつから魔界に惹かれたのか。両親を失い、祖父に育てられた彼が祖父の老いと死を観察した日記、実質的なデビュー作『十六歳の日記』にすでに見てとれ、関東大震災後の浅草の風俗を描いた『浅草紅団』にも、瑞々しい青春譜『伊豆の踊子』にも、魔界は登場し、彼は単なるモダニストではなく、源氏物語や平家物語など日本の古典の髄液を汲み上げ、自分の文学の途を突き進んだのである。
そして戦後、完成させた『雪国』であれ、姿を変えながら魔界は登場し、『山の音』に結実し、さらに自死するまで彼は魔界に囚われていたと、各小説の細部を精読しつつ実証してゆく。
あたかも芸術家小説のように、魔界を求めた孤独な男の生涯をスリリングに描きながら、著者は情報化社会のなかで、今や平板化した文学表現を切り拓く一筋の途に光を当てたのだ。
◇とみおか・こういちろう=1957年生まれ。文芸批評家、鎌倉文学館館長。著書に『内村鑑三』など。
岩波書店 2200円
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大阪府大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)生れ。東京帝国大学文学部国文学科卒業。横光利一らと共に『文藝時代』を創刊し、新感覚派の代表的作家として活躍。『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』などで、死や流転のうちに「日本の美」を表現する。1968年(昭和43年)にノーベル文学賞を日本人で初めて受賞した。1972年(昭和47年)4月16日夜、満72歳で自殺(なお、遺書はなかった)[1]。
経歴[編集]
1899年(明治32年)6月14日、大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)に生れた。父は栄吉(済生学舎卒の医師、明治2年(1869年)1月13日生)、母はゲン(元治元年(1864年)7月27日生)。姉芳子(1895年(明治28年)8月17日生)。
幼くして近親者を亡くす。1901年(明治34年)に父が死去し、母の実家がある大阪府西成郡豊里村(現在の大阪市東淀川区)に移ったが、翌年に母も死亡し、祖父の三八郎(天保12年(1841年)4月10日生)、祖母のカネ(天保10年(1839年)10月10日生)と一緒に三島郡豊川村(現在の茨木市)に移った。1906年(明治39年)、豊川尋常高等小学校(現在の茨木市立豊川小学校)に入学。笹川良一とは小学の同級生で、祖父同士が囲碁仲間であった。しかし、9月に祖母が死に、1909年(明治43年)には別居していた姉も死亡した。1912年(明治45年)大阪府立茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)に首席で入学。2年後に祖父が死去したため、豊里村の黒田家が引き取ったが、中学校の寄宿舎に入り、そこで生活を始めた。下級生には大宅壮一が在学していた。近所の本屋『虎谷』へは、少ないお金をはたいて本を買いに行っていた。
作家を志したのは中学2年のときで、1916年(大正5年)から『京阪新報』に小作品、『文章世界』に短歌を投稿するようになった。1917年(大正6年)に卒業すると上京し、浅草蔵前の従兄の家に居候し、明治大学予備校に通い始め、第一高等学校の一部乙、英文科に入った。後年『伊豆の踊子』で書かれる旅芸人とのやりとりは、翌年の秋に伊豆へ旅行したときのものである。その後10年間、伊豆湯ヶ島湯本館へ通うようになった。
1920年(大正9年)に卒業し、東京帝国大学文学部英文学科に入学。同期に北村喜八、本多顕彰、鈴木彦次郎、石濱金作がいた。同年、今東光、鈴木彦次郎、石濱、酒井真人と共に同人誌『新思潮』(第6次)の発刊を企画。また、英文学科から国文学科へ移った。1921年(大正10年)、『新思潮』を創刊、同年そこに発表した「招魂祭一景」が菊池寛らに評価され、1923年(大正12年)に創刊された『文藝春秋』の同人となった。国文科に転じたこともあり、大学に1年長く在籍したが、1924年卒業した(卒論は「日本小説史小論」)。同年、横光利一、片岡鉄兵、中河与一、佐佐木茂索、今東光ら14人とともに同人雑誌『文藝時代』を創刊。同誌には「伊豆の踊子」などを発表した。1926年(大正15年)処女短篇集『感情装飾』を刊行。1927年(昭和2年)、前年結婚(入籍は1931年(昭和6年)12月2日)した夫人とともに豊多摩郡杉並町馬橋(高円寺)に移転。同人雑誌『手帖』を創刊し、のちに『近代生活』『文学』『文学界』の同人となった。
『雪国』『禽獣』などの作品を発表し、1937年『雪国』で文芸懇話会賞を受賞。1944年(昭和19年)『故園』『夕日』などにより菊池寛賞を受賞。このころ三島由紀夫が持参した「煙草」を評価する。文壇デビューさせたその師的存在である。1945年(昭和20年)4月、海軍報道班員(少佐待遇)[2]で鹿屋へ趣き、神風特別攻撃隊神雷部隊を取材する。同行した山岡荘八は作家観が変わるほどの衝撃を受け、川端は「生命の樹」を執筆している[3]。その後『千羽鶴』『山の音』などを断続発表しながら、1948年(昭和23年)に日本ペンクラブ第4代会長に就任。1957年(昭和32年)に東京で開催された国際ペンクラブ大会では、主催国の会長として活躍し、その努力で翌年に菊池寛賞を受賞した。1958年(昭和33年)に国際ペンクラブ副会長に就任。また1962年(昭和37年)、世界平和アピール七人委員会に参加。1963年(昭和38年)には、新たに造られた日本近代文学館の監事となった。1964年(昭和39年)、オスロで開かれた国際ペンクラブ大会に出席。断続的に「たんぽぽ」の連載を『新潮』に始めた。1965年(昭和40年)に日本ペンクラブ会長を辞任したが、翌年に肝臓炎のために東大病院に入院した。
1968年(昭和43年)10月に、「日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による彼の叙述の卓越さに対して:"for his narrative
mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese
mind."」ノーベル文学賞受賞が決定した。2010年代に公表された選考資料によると、1961年に最初に候補者となってから7年かかっての受賞だった[4]。12月のストックホルムでの授賞式には、燕尾服ではなく、文化勲章を掛け紋付羽織袴で臨んだ。記念講演「美しい日本の私―その序説」[5]を行った。翌1969年から1974年にかけ、新潮社から『川端康成全集』(全19巻)が刊行[6]された。台北のアジア作家会議、1970年にソウルの国際ペンクラブ大会[7]に出席、日本近代文学館の名誉館長にも就任した。ノーベル賞受賞後発表した作品は、短編が数作品あるだけで、ノーベル賞授与が重圧になったといわれる。
1972年(昭和47年)4月16日夜、神奈川県逗子市のマンション「逗子マリーナ」の自室・仕事部屋で死亡している(ガス自殺とみられている[1])のが発見された。享年72。戒名は、文鏡院殿孤山康成大居士、大道院秀誉文華康成居士。
年譜[編集]
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1926年(大正15年) - 『伊豆の踊子』を発表。青森県八戸市の松林慶蔵の三女・秀子(1907年生まれ)と結婚。秀子は文藝春秋『オール読物』の編集長・菅忠雄の家で手伝いとして働いており、菅宅に長期滞在にきた川端と出会う。
受賞[編集]
栄典[編集]
その文学とエピソード[編集]
数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺した近現代日本文学の頂点に立つ作家のひとりである。しばしば過去より今日に至るまで日本でもっとも美しい文章を書いた作家として紹介されることがある。その主だった作品は研究対象となることが多く、また本人も専門雑誌等に寄稿した創作に関する随筆等ではやや饒舌に記述することがあったため多少の脚色はあるものの、モデルやロケーション、登場事物等の中には純然たる創作(架空のできごと)によるものではなく具体的に判明しているものも多い。
府立茨木中学に首席で入学し、近隣からは神童とさわがれたとされている。ただし、随筆等に書かれているように、入学後まもなく川端の興味関心は早くも芸術や大人の世界に向き始めており学校での勉学については二の次となった。現存する中学の卒業成績表によると、作文の成績が53点で全生徒88名中の86番目の成績であった[9]が、これは課題の作文の提出を怠ったためである。
洛中に現存する唯一の蔵元佐々木酒造の日本酒に「この酒の風味こそ京都の味」と、作品名『古都』を揮毫した。晩年川端は、宿泊先で桑原武夫(京大名誉教授)と面会した際に「古都という酒を知っているか」と尋ね、知らないと答えた相手に飲ませようと、寒い夜にもかかわらず自身徒歩で30分かけ買いに行ったと、桑原は回想している。[10]
川端が大戦中、神雷部隊に報道班員として赴任していたころ、隊に所属していた杉山幸照少尉曰く、燃料補給で降りた鈴鹿で飛行機酔いして顔面蒼白になっていたが、士官食堂でカレーライスを奢ったところ、しょぼしょぼとしながらも綺麗にたいらげ、「特攻の非人間性」について語ったという(杉山は元特攻隊昭和隊所属で、転属命令が出て川端と一緒に谷田部の海軍基地に行くところであった)。杉山は、自身の著作[11] での川端に関する回想で、最後まで川端が特攻について語ることがなかったのが残念であったと記している。川端は赴任前に大本営報道部の高戸大尉から「特攻をよく見ておくように。ただし、書きたくなければ書かないでよい。いつの日かこの戦争の実体を書いて欲しい」と通告されており、高戸は後に「繊細な神経ゆえに(特攻に関して)筆をとれなかったのではないか」と推測している[12]。
1971年(昭和46年)の都知事選挙に立候補した秦野章の応援のため宣伝車に乗るなどの選挙戦に参加した川端は、瑚ホテルで按摩を取っている時に、突然と起き上がって扉を開けて、「やあ、日蓮様ようこそ」と挨拶したり、風呂場で音がすると言いながら、再び飛び出していって、「おう、三島君。君も応援に来てくれたか」と言い出したために、按摩は鳥肌が立ち、早々と逃げ帰ったという[13]。その話を聞いた今東光も、都知事選最後の日に一緒に宣伝車に乗った際に川端が、「日蓮上人が僕の身体を心配してくれているんだよ」とにこにこ笑いながら言ったと語っている[13]。
死因について[編集]
自殺説
川端は敗戦後に、「日本古来の悲しみの中に帰つてゆくばかりである」[15]という決意のもとに作家活動を続け、『美しい日本の私―その序説』では、自身にも脈々と受け継がれている古の日本人の心性を語っており、そういった日本人の心性であった「もののあはれ」の世界が、歴史の必然によって近代的世界にとって代わるのならば、自身もその滅びてゆく世界に殉じるしかないと考えていた[14]。
自殺をする年に発表された一文『夢 幻の如くなり』には、「友みなのいのちはすでにほろびたり、われの生くるは火中の蓮華」の歌もあるが、最後には、「私も出陣の覚悟を新にしなければならぬ」と結ばれており、また、この年の最後の講演も、「私もまだ、新人でいたい」という言葉で締めくくられていた[1]。
川端は葬儀委員長でもあった。川端は、「三島君の死から私は横光君が思ひ出されてならない。二人の天才作家の悲劇や思想が似てゐるとするのではない。横光君が私と同年の無二の師友であり、三島君が私とは年少の無二の師友だつたからである。私はこの二人の後にまた生きた師友にめぐりあへるであらうか」[16]と述べていた。
これらについて、自殺説に批判的な立場からは[誰?]、2については日時が離れていること、3については動機としてはあまりにも弱く、4についてはあくまで文芸評論家の解釈にすぎず具体的証明はないこと、5については主観的記述であり事実検証はされていないことが指摘される[要出典]。
事故死説
3.
川端が日本ペンクラブ会長時に信頼を寄せた副会長だった芹沢光治良は、追悼記「川端康成の死」で、自殺ではなかったとする説を述べている。また、前後して川端と対面した複数の関係者の証言では、自殺死をにおわせるような徴候はまったくなかったとするものだけが残っている[要出典]。自身同年秋に開催された国際ペンクラブ大会の準備でも責任者として多忙であった。
作品一覧[編集]
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『花のワルツ』(1936年、改造社)
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『女性開眼』(1937年、創元社)
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『美しい旅』(1942年、実業之日本社)
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『朝雲』(1945年、新潮社)
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『温泉宿』(1946年、実業之日本社)
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『日も月も』(1953年、中央公論社)
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『川のある下町の話』(1954年、新潮社)
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『伊豆の旅』(1954年、中央公論社)
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『東京の人』(1955年、新潮社)
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『富士の初雪』(1958年、新潮社)
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『落花流水』(1966年、新潮社)
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『竹の声桃の花』(1973年、新潮社)
作詞[編集]
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生きてゐるのに
浦上玉堂(うらかみ ぎょくどう、延享2年(1745年) - 文政3年9月4日(1820年10月10日))は、江戸時代の文人画家。名は孝弼(たかすけ)。字は君輔(きんすけ)、通称は兵右衛門。35歳の時、「玉堂清韻」の銘のある中国伝来の七弦琴を得て「玉堂琴士」と号した。父は宗純。
経歴[編集]
国宝 凍雲篩雪図
1745年(延享2年)、岡山藩の支藩鴨方藩(現在の岡山県浅口市)の藩邸に生まれる。玉堂は播磨・備前の戦国大名であった浦上氏の末裔で、系図上では浦上一族の浦上備後守の曾孫とされるが、実際はさらに代は離れているようである(「浦上家系図」では備後守は宗景の孫とされるが、実際は同時代の人物である)。
若年より、学問、詩文、七絃琴などに親しむ。35歳のとき、中国・明の顧元昭作と伝わる「玉堂清韻」の銘のある名琴を入手したことから「玉堂」を名乗るようになる。鴨方藩の大目付などを勤める程の上級藩士であったが、琴詩書画にふける生活を送っていたことから、周囲の評判は芳しくなかったらしい。50歳のとき、武士を捨て、2人の子供(春琴と秋琴)を連れて脱藩(妻はその2年ほど前に亡くなっていた)。以後は絵画と七絃琴を友に諸国を放浪、晩年は京都に落ち着いて、文人画家として風流三昧の生活を送る。特に60歳以降に佳作が多い。代表作の「凍雲篩雪(とううんしせつ)図」は川端康成の愛蔵品として知られる。
代表作[編集]
国宝
重要文化財
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酔雲醒月図 (愛知県美術館蔵) 紙本墨画淡彩 文政元年(1818年)
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隷體章句 (愛知県美術館蔵) 五言絶句 文政元年(1818年)
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深山渡橋図 (愛知県美術館蔵) 紙本墨画淡彩 文政元年(1818年)
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山紅於染(さんこうおせん)図 (愛知県美術館蔵)
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籠煙惹滋図(出光美術館蔵) 紙本墨画
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一晴一雨図 (個人蔵) 紙本墨画淡彩
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山雨染衣図 (個人蔵)
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鼓琴余事帖 (個人蔵)
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